翌年 - みる会図書館


検索対象: 故事と名言でつづる中国史
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1. 故事と名言でつづる中国史

298 しん をついだのが英宗の長子の神宗 ( 在位一〇六七ー八五 ) で、弱冠二十歳の青年天子である。 かんき おうようしゅう 当時、朝廷には韓琦や欧陽修がいたが、かれらはただ政争に疲れて革新の気概にかけ、国政はみだ りようせいか れていた。対外的には遼や西夏と結ばれた屈辱的条約が、まだ効力をもっている。こういう局面をな おう んとか打開するには、若手の政治家を起用して、政治の改革を行う以外にないと決意した神宗は、王 こうねい あんせき ナンキン 安石 ( 一〇二一ー八六 ) の存在を知った。当時、江寧府 ( 南京 ) の長官をしていた王安石は、中央によび戻 かんりん きねい されて翰林学士に任ぜられ、翌年の一〇六八年 ( 熙寧元年 ) から、政治の改革にのり出した。 ただ、新政策を実施するにあたり、党派争いに巻き込まれるのを恐れた王安石は、まず天子に直属 せいらさんししようれいし する制置三司条例司という役所を設置し、ここで新政策を審議するという方法をとって、均輸法をか しえき せいびよう わきりに、青苗法・市易法・募役法・保甲法など、いわゆる新法を相次いで打ち出した。 さいしよう 王安石は宰相として六年、かれの意図する政治改革をほぼなしとげたが、これには大商人や地主た ぶんげんはく りよこうちよしばこう ちの反対も強く、また新法に反対して野に下っていた文彦博、呂公著、司馬光ら元老たちの猛攻撃に もあったので、神宗の懇望をふりきって一〇七四年 ( 熙寧七年 ) 隠退した。翌年にもう一度、中央にか げんゅう えり咲くが、まもなくふたたび野に下り、一〇八六年 ( 哲宗の元祐元年 ) 、六十八歳で死んだ。 王安石はこのように歴史上大きな足跡を残したが、一方また、一代を代表する文学者としても、い と・つ : っ わゆる「唐宋八大家」の一人として、よく知られている。 りんせん こうせい 彼は撫州臨川県 ( 江西省臨川県 ) の出身で、「少年時代から学問を好み、一度読んだものは終生忘れ そうし なかった」 ( 『宋史』王安石伝 ) という秀才で、その文才は、「文章を草するときの筆の運びときたら飛ぶ ような早さで、これでいったい考えながら書いているのかと疑わしくなるようなありさまだったが、 ぶ えき ほこう てつ きんゅ

2. 故事と名言でつづる中国史

という意である。重耳は、自身の利のために周朝圏の諸国を売るような不徳義を拒んだのだった。 しんぼく 折よく、秦の繆公 ( 穆公。在位、前六六〇ー前六二一 ) が楚 ( 迎えの使者をよこした。繆公は、申生の 実姉の良人で、義兄に当る。人質にしていた恵公の太子圉が、前年、晋へ逃げ帰ったのを怒り、これ ちゅうげん を機に、重耳の後押しをして中原へ進出しよう、ともくろんだのだ。重耳は秦へ赴いた。 かい 同年、恵公が死んで太子圉が立った。これを懐公 ( 在位、前六三七ー前六三六 ) という。 翌年 ( 前六三六 ) 、重耳は秦軍に送られて晋へ入り、即位すると、懐公と懐公を擁する徒党を一掃し ぶん た。これを文公 ( 在位、前六三六ー前六二八 ) という。 文公は、翌年、周室の内乱を鎮めて″尊王〃の意図を天下に示し、さらに諸侯間の紛争を裁いて着 そう じよう在くえい かなん 着覇者たるべき信頼を得、ついに前六三二年四月、斉・宋・秦の軍を併せて楚と城濮 ( 衛の地。河南 省陳留県。一説に、山東省県南 ) で会戦した。この会戦は、斉の桓公時代には、中原東方の諸侯と楚 との対立だったのが、中原全域の諸侯と楚との対立に展開した。まことに画期的な戦だった。そのさ そうじよう 中に、文公は、楚の成王との約束を違えず、衝けば勝てる好機に三舎退いたのである。これが″宋襄 の仁〃と笑われず、かえって文公の評判を高めたのは、要するに勝ったからだった。 晋の文公は、周室から覇者として認められた。中原の全諸侯を統率する、斉の桓公よりひとまわり スケ 1 ルの大きい覇者が出現したのである。以後、春秋時代は、晋君を覇者とする中原諸侯群と楚と の南北対立時代となる。 ″三舎を避く〃という語は、この故事から出たものであるが、今日では意味を転じ、〃憚って避ける〃 とか″一目置くみという意味につかわれている。 たが はばか

3. 故事と名言でつづる中国史

じゅん だいと・ヘキン 一三六八ー九八 ) は同年八月、元の順帝を大都 ( 北京 ) から追い出し、「胡虜に百年の運なしーという元 末民間でささやかれたことばを実現、漢民族による全国の統一を完成した。明は太祖以来、一世一元 こうぶ としたので、太祖以降の明の各皇帝はその年号で呼ばれる ( 太祖は洪武帝 ) 場合が多い。 まったくの貧農から皇帝の地位に昇り、南から北へ統一の駒を進めた太祖洪武帝は地主の立場を擁 さいしよう 護する一方、専制支配確立に専念し、建国の功臣たちを相次いで粛清、また行政組織のうえでは宰相 りくぶ を廃止してみずから六部 ( 各省に相当 ) を直接統轄するなど、権力を一身に集中した。 こうして洪武帝は絶大な権力を握ったものの、皇太子に先立たれ、幼い皇太孫の前途を心配しつつ、 一三九八年に七十一歳の生涯を終えた。 けんぶん 十六歳で帝位を嗣いだ皇太孫は、年号により建文帝 ( 在位一三九八ー一四〇一 I) といわれるが、すでに 有能な人材は洪武帝に除かれており、補佐する者には書生的人物が多かった。 彼らは洪武帝が皇位強化のために北辺の戍りとして配置した諸王 ( 洪武帝の子、建文帝には叔父にあた る ) の除去を進言、諸王は次々に除かれた。 えんしゅてい 諸王中最大の勢力を持っ燕王朱棣は建文元年 ( 一三九九 ) 七月、〃君側の難を靖める〃をスロ 1 ガン せいなん に挙兵した。この叔父・甥の戦を″靖難の変〃というが、双方一進一退をくりかえした後、しだいに 代 時 優勢となった燕王が建文四年六月に都を陥し、勝利を得た。 の えいらく せいそ 皇燕王は七月に即位し、翌年永楽と改元した。成祖永楽帝 ( 在位一四〇二ー二四 ) である。帝位を奪っ 独た負い目を逃れ、またモンゴルの侵入を阻止するためか、永楽帝は即位の翌年、都を燕王時代の治所 くへい の北平に移した。これが北京で、それまでの都応天府は南京と呼ばれるようになった。 おい かん おと まも こりよ

4. 故事と名言でつづる中国史

たれ 兵を用いるにいたるは、それ孰か好む所ならん げん 一二七四年八月、元軍は約二万の兵をもって日本を攻撃した。いわゆる″文永の役〃である。 ド ) よ・つよ・つ なんそう 元軍はこの前年、五年がかりで襄陽省 ) を降し、南宋攻略の要衝を手に入れた。しかし、お そらく猫の手も借りたいであろうこの時期に、フビ一フィ ( 在位一二六〇ー九四 ) はあえて二万の軍をさい て日本を攻撃したのである。その確かな理由はわかっていない。おそらくフビライは、日本の水軍を きようげ・き 利用して南宋を挟撃したかったにちがいない。元の兵は陸上戦には自信があるが、水上戦は得意とし こうなん ていない。そのため、江南に拠る南宋政権を海上側から襲撃する強力な軍を欲したのであろう。フビ ライは汗に即位した翌年にはやくも日本へ使者を送っていた。南宋平定の戦略をもっていたからであ ろう。 ところが数度にわたる日本への使者が、時の鎌倉幕府から黙殺された。フビ一フィとしては、いささ か日本を懲らしめる必要を感じたのかもしれない。ついに兵をおこした。しかし十月二十日の暴風に 時よって、元軍は自滅してしまった。これが " 文永の役。である。 皇その後、日本へ二度使者を送るが、使者は二度とも殺されてしまう。しかしフビライはすぐには出 撃できなかった。ちょうど南宋と最後の決戦に突入していたからである。 一二七九年、南宋を滅ぼしたフビライは、二年後の一二八一年、十四万の大軍をもって日本を攻め かまくら ぶんえい

5. 故事と名言でつづる中国史

180 天知る、地知る、子知る、我知る とう・ たいこう 和帝が一一十七歳で死んだ ( 一〇五年 ) あと、殤帝が生後百余日でたてられ、和帝の鄧皇后が太后とな ごかん って政治をみたが、帝は翌年早くも世を去った。続いて和帝の甥が十三歳で即位した。後漢六代目の あん がいせきわざわい 安帝 ( 在位一〇六ー一二五 ) である。国政の大権は摂政鄧太后の一門に握られた。ふたたび外戚の禍 が始まったのである。 えいしょ 安帝の時代は、即位早々の永初元年 ( 一〇七 ) に羌族の反乱があって西域都護が廃止され、その後も きようど せんび 鮮卑、匈奴等の侵入がくり返されるなど国際関係多事の時であった。一方、国内も連年のひでり続き とうしつ で、財政も窮乏してきた。この間、鄧氏一門は、太后の兄で安帝擁立に功のあった鄧 ( ? ー一二一 ) が永初二年に大将軍になるなど威を振っていた。 ろうちゅうぐく しようけっ ちょう 鄧氏に反対する者は容赦なく左遷された。郎中の虞謝もその一人で、賊の猖獗に手を焼いていた朝 かなんろくゆう 歌県 ( 河南省鹿邑県西 ) の知事にされた。人々が気の毒がると、彼は、 やす ばんこんさくせつあ 志易きを求めず、事難きを避けざるは臣の職なり。槃根錯節に遇わずんば、何を以てか利器を別 たんや。 しよう きよう おい もっ わか

6. 故事と名言でつづる中国史

きちゅうこうきゅうしゆっ 夏四月己丑、孔丘卒す。 の一句で終っている。「左氏伝」は、このあとさらに「伝」 ( 解説 ) の部分のみがつづき、哀公の二 しの 十七年箭四六八 ) で終る。この経文は孔子学派の人びとが孔子を偲んで書き加えたのではないかとい われる。 これより先、孔子は前述のように七十歳のとき一子鯉に先立たれ、その翌年、すなわち獲麟の年に がんえん がんかい は最愛の弟子顔回にも先立たれた。顔回はまた顔淵ともいわれ、享年四十二歳だった。この顔回の死 しる ろんごせんしん に際しての孔子の悲しみようを『論語』先進篇では、次のように記している。 顔淵死す。子曰く、噫、天、予を喪ぼせり。天、予を喪ぼせり。 顔淵死す。子、之を哭して慟す。従者曰く、「子、慟せり。」日く、「慟すること有りしか。夫の あら 人の為に慟するに非ずして、誰が為にせんや」 しかばね 顔淵が陋巷で貧窮のすえに死んだとき、弔問に行った孔子は、最愛の弟子の屍の前で、胸せまり、 思わず声を挙げて泣いてしまった。「お前に先立たれて、わしにはもう生きてる甲斐もなくなった。 時わしはもうお終いだ」と。外に出ると、従ってきた弟子のひとりが、「先生はいま声を挙げて泣かれ 乱ましたね」と。すると孔子はいった。「そうか、わしは声を挙げ泣いてしまったか。それもよかろう。 裂彼のために泣かずして、いったい誰のために泣けというのかね」 獲麟の年、もはや己れの理想を託する世ではないとして筆を折った孔子は、弟子というより知己と いわ

7. 故事と名言でつづる中国史

ああ われほろ 意、天、予を喪ぼせり あい 魯の哀公の十一年 ( 前四八四 ) 、孔 ( 前五五一ー前四七九 ) は足掛け十四年にわたった諸国行脚の旅 をきりあげて祖国にもどった。時に六十九歳であった。 はくぎよ 翌年、一子鯉 ( 伯魚 ) が死んだ。享年五十歳。 それから二年した哀公の十四年 ( 前四八一 ) 、隣国斉では、かねて当主の姜氏を凌ぐ勢いをしめして たいこううきようりよしよう いた田氏が、簡公を弑した。太公望姜呂尚以来の大国斉はここにいったん滅び、家臣であった異姓 げこくじよう せいしゅう 礼の支配する世界ーーとは正反対の下剋上の世の の田氏の斉国となった。孔子が理想とした西周 中になったのである。 きりん この年の春、魯の国で麒麟が捕獲された。麒麟は聖天子の世や天下泰平の世に天帝から祝賀の使者 としてつかわされる神獣とされる。その神獣がこの天下大乱の世に出現したのである。これぞ神が末 しゅんじゅう へんさん 世の到来を予言したものと見た孔子は、編纂中の魯朝廷の編年史『春秋』をこの「獲麟」の記事のと こくりようでん くようでん かくひっ ころで擱筆したという。『春秋』三伝 ( 「『春秋』の筆法」参照 ) のうち、「公羊伝」、「穀梁伝 , の二伝はこ しゅんしゅうけい の「春秋経」 ( 春秋の本文 ) の、 りんう 春、西に狩して麟を獲。 の一句で終っている。「左氏伝」 ( 「左伝」 ) は、このあと哀公十六年箭四七九 ) まで経文がつづき、 さしでん きよう

8. 故事と名言でつづる中国史

和平使節が東魏に派遣されることになったが、これを聞いた侯景は不安になった。東魏にそむいて梁 をたよってきたのに、その梁が東魏と和平を結べば、自分の立場はどうなるか。 侯景はひそかに準備をととのえた。そしてついに五四八年八月、首都の建康をさして進撃を開始し た。この年の十月から、翌年の三月までのほぼ半年間、壮絶な首都攻防戦が展開されたあげく、結局 は建康は陥落し、八十六歳の武帝は幽閉されたまま死に、皇太子の蕭綱が帝位をついだが、この新帝 の簡文帝も、二年あまりののち侯景に殺された。 こうりよ、つ しようえき この時、江陵にいた簡文帝の弟の蕭繹はただちに侯景討伐軍をおこし、五五二年に侯景をうちとっ げん て江陵で帝位についた。これが元帝である。この戦いには広東方面から北上してきた陳覇先が貢献し ている。 五五四年、梁の混乱の虚をついて侵入した西魏に元帝が殺害されたため、翌五五五年、陳覇先は元 しようはうち 帝の子の蕭方智をたて ( これが敬帝である ) 、建康の軍権を手中におさめ、その権力を背景として五五 ちん 七年、みずからが帝位について、陳王朝をたてた。 ずい 陳王朝は、五八九年に隋によって滅ぼされるまで、一応は五代三十年あまりの命脈を保つが、もは こうなん やその威令のおよぶ範囲は、ごく限られたものであり、江南には無数の軍閥が乱立するという状況で 代 のあった。 立 対 南 嘗於金陵安楽寺画四竜、不点目瞬、謂点之則驤騰而去。 ( 『琅邪代酔編』巻十八、張僧緜 ) かんぶん けい せいぎ しようこ、つ けんこう ちんはせん ( 巨勢進 )

9. 故事と名言でつづる中国史

47 分裂動乱の時代 襄公はそれでも懲りず、翌年、鄭が楚に屈服すると、それを責めて鄭を伐った。そして、救いに出 おうすい て来た楚軍と、泓水 ( 河南省柘城県北 ) をはさんで向かいあった。 もくい 襄公をみくびっていた楚軍は、無謀な敵前渡河をはじめた。庶兄の宰相目夷が、 「敵は大軍、味方は小勢、渡りきらぬうちに迎撃しましよう といったが、襄公は聴かず、楚軍が渡河し終えて、まだ陣容が整わぬ隙をみ、目夷がまた攻撃を勧 めたけれども、襄公はこれをも退けた。そして、楚軍の戦闘体勢がすっかりできあがるのを待って出 えんさ 撃し、惨敗したうえ、痛手を被った。みなの怨嗟にこたえて、襄公はいった。 「君子たるもの、なんでひとの弱みにつけこめよう ! 」 襄公は、このときの傷がもとで、翌年死んだ。 ″宋襄の仁〃という語は、この故事から出て、無用のなさけ、という意味に用いられている。 しりやく さでんき 宋襄之仁。 ( 『左伝』僖公二十二年。『十八史略』巻一 ) 三舎を避く 晋は、初めは周の王の弟叔虞が封じられた小国に過ぎなか 0 たが、曲沃 ( 山西省聞喜県東 ) にいた しやじよう すき ( 常石茂 )

10. 故事と名言でつづる中国史

267 律令支配の時代 けんちゅう ようえん 徳宗が即位の翌年、建中元年 ( 七八〇 ) に宰相楊炎の 意見を入れ、均田・租庸調制を廃止して、両税法を断 行したのがそれで、その主要内容は、 はか 曰国家の経費は、〃先ず其の数を度りて人に賦し、出 もっ ずるを量って、以て入るを制す《ーーまず予算を 立てて、それから必要な額を民に賦課する。 第住民台帳は主戸と客戸の区別をせず、現在居住を もとに、資産の多寡をもって戸等を決める。 一曾耕地の面積、生産力に応じて夏秋一一回に金銭で納 税する。 行商人には所在の州県で、三十分の一の商税を課 というものであった。 これは、私有財産制を前提に、貨幣経済の進展を背 景にした新税制で、夏 ( 六月 ) 、秋 ( 十一月 ) を期限とし たので両税法といわれる。これにより、丁額 ( 成年男子 数 ) を基準として税収額が固定するーーー入るを量って , ら 0 囈に。 , 、第出ずるを制すーー傾向にあ 0 た租庸調制に代 0 て、財