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検索対象: 故事と名言でつづる中国史
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1. 故事と名言でつづる中国史

こらせい を攻略し、慌てた朝廷が全国に義軍の結成を呼びかけると、贖州 ( 江西省贖県 ) の知事をしていた文天 りんあん 祥は、私財を投げうって義軍をおこし、臨安の防衛に赴いた。 臨安に人った文天祥は、さっそく元軍迎撃の献策をする。しかし自重派の重臣に封殺された。その うち、朝廷内の宰相級の人物がつぎつぎと逃走し、皮肉にも元軍との講和の使者に徹底抗戦派の文天 祥が選ばれることになった。 文天祥は臨安から三十里 ( 約十六キロ ) 離れた元軍の本陣に赴いたが、抗戦派の彼のこと、降伏の使 者の役割をすっかり忘れ、元軍に撤退を要求した。元軍の司令官バヤンは文天祥を相手にせず、その まま拘留してしまった。 じようと うらもうこ 数日後、元軍は臨安に入城し、皇帝以下数千名を捕えて上都 ( 内蒙古自治区県東南 ) 〈送 0 た。 ふく ふくけん 当然、文天祥もこのなかにはいっていたが、途中でひそかに脱出、福州 ( 福建省 ) へ逃れた。福州には を、よう えき 臨安陥落直前に脱出した恭帝の兄の益王と弟の広王が亡命政権をつくっていたのである。 以後、文天祥は各地の兵を集めて元軍に抵抗をこころみるが、一二七八年十二月、広東の五坡嶺で 元軍に捕えられてしまった。 がいざん しんかい だいとベキン 翌年、大都 ( 北京 ) へ護送されたが、途中、広王が崖山 ( 島名、広東省新海県南方の海中にある ) で元軍 代 時 に敗れて亡命政権が潰えたことを知らされた。しかし元に仕えるようにうながされても首をたてにふ の 皇ることはなく、文天祥は大都の牢獄にとじ込められた。この時、彼は有名な「正気の歌」をつくる。 天地正気あり雑然として流形に賦す ろうごく こ、 ) こう カントンごはれい

2. 故事と名言でつづる中国史

せた。 じゅようたいじ こうして両軍は淮水と測水の合流点の寿陽に対峙した。 あんき らくかん 十一月、東晋軍は秦軍を安徽省の洛澗で破り、秦軍は一万五千人の死者を出した。 なが 苻堅は寿陽城にのぼって東晋の陣営を眺め、思わず顔色をかえた。東晋の陣が少数とはいえあまり はちこう にも整然としていたからである。恐怖心にかられた彼の目には寿陽の北にある八公山の草木までが晋 の兵に見えたという。 苻堅は少し退却し、晋軍が汜水をなかばわたったとき、急に取って返してこれを討っ作戦をとった が、これが苻堅にとって裏目に出た。そもそもいちど後退し出した陣営を整えなおすことは、きわめ てむずかしい。晋軍に追いまくられた秦軍は総崩れとなり、一挙に潰滅した。 しんしょ 『晋書』謝玄伝には、そのありさまが次のように書かれている。 あ と - っせを、 はしつい 堅の衆は奔り潰え、自ら相い踏藉し、水に投じて死する者、勝げて数うべからず。測水はこれが よるのが ために流れず。余りの衆は甲を棄てて宵に遁れ、風声鶴唳を聞くも、みな以為えらく、王師已に うえこごえもっ 至れりと。草行露宿し、重ぬるに飢凍を以てして、死せる者は十に七、八なりき。 代 時 の 対苻堅もこの戦いで流れ矢にあたり、やっと逃げ帰った。これを「水の戦い」というが、以来この 淮水の線が、南北両朝の境界となったのである。 「風声鶴唳」とは、風の音と鶴の鳴き声のことであるが、びくびくして何でもないことに驚くことを、 かぶと かいめつ おうしすで

3. 故事と名言でつづる中国史

ろう 隴を得て蜀を望む おうも - っ おう 漢帝国は西暦紀元八年、第十二代皇帝孺子嬰 ( 在位六ー八 ) のとき、外戚王氏一門の王莽 ( 前四五ー後 ひょうぼう しゅう 二 lll) に滅ぼされた。新たに新 ( 九ー二一一 l) を建てた王莽は、周代の制度を復活することを標榜して土 地改革 ( 井田制 ) を実施、また幣制改革を行ったりしたが、官僚の特権をいたずらに拡大したのみで、 はんらん 人民はいっそう窮乏化し、各地で農民叛乱が続発した。 りやくだっ これらのなかでもよく知られているのが、掠奪暴行を繰り返す官軍に対し、農民革命軍であること かこうへいりんしようりよう こほくけつき さんとうせきび まゆ を明らかにするため眉に朱をぬった山東の赤眉軍、湖北で蹶起した新市・下江・平林・舂陵軍など、 れんけい にうき 蜂起した地名を冠した叛乱軍である。後者の四軍は連繋して戦い、二三年には、それまで新市・平林 りゅうげん 軍の首領にかつがれていた漢皇室の一門劉玄を擁立して皇帝とした。これが更始帝である。 りゅうしゅう こうそ この叛乱軍のなかで更始帝劉玄を凌ぐ声望を得ていたのが、漢高祖九世の孫劉秀箭六ー後五七 ) しよきよう こんようケなんよう びもくしゅうれい 時 で、眉目秀麗、『書経』に通じた温厚な青年だった。劉秀は更始帝即位元年の五月、昆陽 ( 河南省葉県 ) の ちょうあん 王の合戦で、新の官軍四十余万を一挙に破り、王莽に潰滅的打撃をあたえた。九月、叛乱軍は長安にな 統だれこみ、王莽の首を取った。更始帝は新しい王朝を開いたものの、彼を擁立した叛乱軍の将領たち かれんちゅうきゅう には新国家建設の才なく、てんでに苛斂誅求に走って人心を失い、更始三年 ( 二五 ) 九月、山東の赤眉 かん 怨歌行。 ( 『文選』巻二十七 ) しよく しん しの じゅしえい かいめつ しんし ( 巨勢進 )

4. 故事と名言でつづる中国史

もうしん かなんもう こうが 周とその連合軍のいきおいは激しく、ただちに盟津 ( 孟津とも書く。河南省孟県西南、黄河の渡し場 ) を わたり、殷の都にほど近い牧野に軍をすすめた。武王のもとに期せずして会した諸侯は八百。五十万 たいじ 人をこす大軍である。殷の紂王も、七十万の軍をくり出して対峙した。 兵力ではさすがに殷は周を凌いでいたが、ふだんから王の暴政をにくんでいた殷の軍は、さつばり いはい 意気があがらず、中には矛をさかさまにして周軍に味方するありさまで、文王の位牌をいだいた武王 ろくだい は、たちまち紂王の本陣にせまった。殷軍総くずれのなかを紂王は、もはやこれまでと鹿台の宮殿に 火をかけて自殺した。 かくして牧野の戦いは終り、武王は殷の都の朝歌に入城した。その翌日、新たな天命を受けるため、 武王は天壇に立った。 いまや武王は、名実ともに天子になったのである。 ぶこう 戦後処理を終えた武王は、紂王の子の武庚をたてて殷の遺民をおさめさせることとしたのち、軍を まとめて西方の周の根拠地に帰った。そして新都を鎬京省安西 ) に定め、一族のおもだった者、 功のあった重臣たちを諸侯に封じ、周王朝は新たな一歩をふみ出したのである。 ところで、この武王の戦いにも反対する者がいた。 はくい しゆくせい それは伯夷・叔斉という兄弟である。 出陣しようとする武王の馬のくつわをおさえた二人は、「父の喪中に、その位牌を戦車にのせて戦 争をするのは孝行といえようか。殷の家来すじの周が殷王を殺すのは正しかろうか」と叫んだ。左右 の者が二人を斬ろうとしたが、太公望が「君を諫めるのは義の人だ」と、助けてその場を去らせた。 しの ちょうか いさ ぶん

5. 故事と名言でつづる中国史

たれ 兵を用いるにいたるは、それ孰か好む所ならん げん 一二七四年八月、元軍は約二万の兵をもって日本を攻撃した。いわゆる″文永の役〃である。 ド ) よ・つよ・つ なんそう 元軍はこの前年、五年がかりで襄陽省 ) を降し、南宋攻略の要衝を手に入れた。しかし、お そらく猫の手も借りたいであろうこの時期に、フビ一フィ ( 在位一二六〇ー九四 ) はあえて二万の軍をさい て日本を攻撃したのである。その確かな理由はわかっていない。おそらくフビライは、日本の水軍を きようげ・き 利用して南宋を挟撃したかったにちがいない。元の兵は陸上戦には自信があるが、水上戦は得意とし こうなん ていない。そのため、江南に拠る南宋政権を海上側から襲撃する強力な軍を欲したのであろう。フビ ライは汗に即位した翌年にはやくも日本へ使者を送っていた。南宋平定の戦略をもっていたからであ ろう。 ところが数度にわたる日本への使者が、時の鎌倉幕府から黙殺された。フビ一フィとしては、いささ か日本を懲らしめる必要を感じたのかもしれない。ついに兵をおこした。しかし十月二十日の暴風に 時よって、元軍は自滅してしまった。これが " 文永の役。である。 皇その後、日本へ二度使者を送るが、使者は二度とも殺されてしまう。しかしフビライはすぐには出 撃できなかった。ちょうど南宋と最後の決戦に突入していたからである。 一二七九年、南宋を滅ぼしたフビライは、二年後の一二八一年、十四万の大軍をもって日本を攻め かまくら ぶんえい

6. 故事と名言でつづる中国史

47 分裂動乱の時代 襄公はそれでも懲りず、翌年、鄭が楚に屈服すると、それを責めて鄭を伐った。そして、救いに出 おうすい て来た楚軍と、泓水 ( 河南省柘城県北 ) をはさんで向かいあった。 もくい 襄公をみくびっていた楚軍は、無謀な敵前渡河をはじめた。庶兄の宰相目夷が、 「敵は大軍、味方は小勢、渡りきらぬうちに迎撃しましよう といったが、襄公は聴かず、楚軍が渡河し終えて、まだ陣容が整わぬ隙をみ、目夷がまた攻撃を勧 めたけれども、襄公はこれをも退けた。そして、楚軍の戦闘体勢がすっかりできあがるのを待って出 えんさ 撃し、惨敗したうえ、痛手を被った。みなの怨嗟にこたえて、襄公はいった。 「君子たるもの、なんでひとの弱みにつけこめよう ! 」 襄公は、このときの傷がもとで、翌年死んだ。 ″宋襄の仁〃という語は、この故事から出て、無用のなさけ、という意味に用いられている。 しりやく さでんき 宋襄之仁。 ( 『左伝』僖公二十二年。『十八史略』巻一 ) 三舎を避く 晋は、初めは周の王の弟叔虞が封じられた小国に過ぎなか 0 たが、曲沃 ( 山西省聞喜県東 ) にいた しやじよう すき ( 常石茂 )

7. 故事と名言でつづる中国史

じようけいこう 上卿の高・国両氏は、小白を迎えるべく菖へ使者を送った。これを知った管仲は、魯を後ろ楯とし そくく ゅう へいど て公子糾を擁立しようとし、菖から斉へもどる小白を、手兵若干を率いて即墨 ( 斉の邑。山東省平度県 東南 ) 付近で要撃した。管仲の放った矢は命中し、小白は馬上から転落して動かなくなった。 そう だが、魯の荘公 ( 在位、前六九四ー前六六一 I) の軍勢にまもられて公子糾と召忽・管仲が斉の首都臨滔 ( 山東省 ) の城門に到着すると、城門が固く閉じられていて、入城を阻まれた。すでに公子小白が帰国 して即位していたのだ。これが桓公である。管仲の矢は帯の留め金にあたり、桓公は九死に一生を得 たのだった。 かんじ 魯軍は乾時 ( 斉の邑。山東省博興県南 ) で斉軍と戦って敗れ、斉軍は魯軍の退路を断って、公子糾の ちゅうさっ 誅殺と、召忽・管仲の身柄の引き渡しとを要求した。公子糾は自害し、召忽も縄目の恥をうけるのを おと だれ いさぎよしとせずに自決した。が、すんでのことに命を殞すところだったから、桓公が、誰よりも憎 ししびしお み、なぶり殺しにしたうえ、肉醤にしても飽きたらなくおもっていた当の管仲は、のこのこと進んで 縛につき、臨に護送された。すると、そこには意想外なことが待っていた。桓公が郊外まで親しく 出迎えて、管仲を宰相に任じたのである。 これより先、鮑叔が桓公に説いていった。 こうけい 「わが君が斉一国の君主で満足されるのであれば、手前と高僕でこと足ります。しかし、天下に号令 したいと思し召しておいでなら、夷吾 ( 管仲の名 ) を措いて他に人物はおりません」 桓公は、自身の怒りを呑んで、この進言にしたがったのだった。宰相に充てられていた鮑叔は、み 管仲がいうには、 ずから平大臣に甘んじたのである。 はくこう なわめ だて りんし

8. 故事と名言でつづる中国史

じようこく たいしゅじようぐん うらもうこ むていが Ⅷして勇名を馳せ、さらに上谷郡の太守、上郡 ( 内蒙古から陝西省北部を流れる黄河の支流無定河の流域 ) の 太守を歴任したが、この上郡に匈奴が大挙して侵入してきた。李広が百騎の部下を従えて軍を進め、 数千騎の匍奴の大部に遭遇したことがあった。このとき、恐れて逃げ帰ろうとする部下に李広は、 「本隊から遠く離れた、このような状態で逃げだせば、たちまち全滅する。いまここに留まっていれ ば、匍奴はきっと大軍のおとりだと思い、我々に攻めかかってはこないだろう」 といってわざと敵に近づき、部下たちに馬から下りて鞍を解かせたのち、数騎の精鋭とともに匈奴 の陣をおそって先頭に立っ敵将を射殺、無事に本隊に帰還したのであった。 武帝 ( 在位、前一四一ー前八七 ) の時代になってからも数々の軍功を立て、その間に七つの郡の太守 を歴任した。 とっぺん 李広は、賞賜を得ればすぐに部下に分け与え、士卒とともに飲食し、家には余財がなく、また訥弁 無ロで、ひとといっしょにいるときは、いつも地面に線を引いて陣形をえがき、戦いの工夫をしてい げんしゅう えいせいひょうき かくきょへい 武帝の元狩四年 ( 前一一九 ) 、武帝は大将軍衛青と驃騎将軍霍去病に匈奴の討伐を命じた。李広は自 分も出陣したいと願い出た。はじめ武帝は彼が老齢なので許可しなかったが、しばらくしてようやく これを許し、前将軍とした。 らよういき 東軍に配置された李広は右将軍趙食其と軍を合わせて東の道を進んだが、途中で道によったりし ちょうり て、大将軍衛青の主力軍と合流すべき期日に遅れてしまった。衛青は長吏 ( 秘書官 ) を彼のもとにやり、 道にまよったありさまを質問させた。それを屈辱と感じた李広は自分の陣営にもどると、刀をひきぬ せんせい こうが

9. 故事と名言でつづる中国史

と書きしるして縊れ死んだ。 自分の身はどうなっても、民百姓に患いが及ばぬことを願ったこのことばは、崇禎帝の皇帝として の愛民の志を表したものだったが、帝の死とともに明帝国は瞬時のうちに倒れたのである。 ふせ ・こさんけい さんかいかん小く 山海関 ( 河北省北東部、長城の東端 ) にあって清軍を禦いでいた明将呉三桂は守るべき主を失い、その あだ イを討っと称して清に降り、清軍を先導して北京に向かった。 大義名分を得て南進し、難なく李自成を追い出した清は、新たな中国の支配者となり、崇禎帝に荘 れつ おくりな 烈帝と諡した。 もちろん、これでただちに清の天下統一が達成されたわけではない。南京では福王らが自立した。 なんみん これを南明 ( 一六四五ー六一 I) という。 しかし、この南明政権も″漢をもって漢を制する〃策をとって攻撃する清軍に追われ、最後にビル えいめい こんめいうんなん マに逃れた永明王も、一六六一年現地で捕われ、翌年昆明 ( 雲南省 ) で殺された。 ていせいこうたいわんよ 一方、鄭成功は台湾に拠って復明運動をつづけたが、その子孫も一六八三年に敗れ、明再興の動き も消えた。 任賊分裂、無傷百姓一人。 ( 『史』荘烈帝紀 ) ナンキン ふく ( 小岩井弘光 ) そう

10. 故事と名言でつづる中国史

272 定策国老、門生天子 かんみん かんがん 宦官のわざわいは、漢と明にいちじるしいが、唐もそれに劣らなかった。 こう・りきし げん 国初は宦官も働きの場はなかったが、高力士が玄宗の信任を得たころから、政治的権力をにぎり、 ていげんしんぎよちょうおん 「安史の乱」のころには程元振や魚朝恩があらわれた。 とばん しんさく せん かなんせん 魚朝恩は陝州の神策軍 ( 河南省陝県を中心とする地方 ) を監督する地位にあり、七六三年、吐蕃 ( チベッ だい ちょうあん ト ) 軍が長安に侵人して、代宗が陝州に逃れた際には、これを擁して帰京する功を立て、以後、神策 このえ 軍が近衛兵として都に滞在したことから、軍事上さらには政治上にも発言権を得るにいたった。 初め、宦官は軍隊を監督するだけであったが、代宗の次の徳宗 ( 在位七七九ー八〇五 ) 時代には指揮 李の争〃というが、文宗をして、 「河北の賊 ( 河朔三鎮 ) を去るのはやすいが、朝廷の朋党を去るのはむずかしい」 と、なげかせたという。 かんがん 官僚がこのように相対立する間に、宦官は勢力を得る機会を得て、唐は袞退に向かうのである。 ろうせんらようこうしゅう 僧敲月下門。 ( 『賈浪仙長江集』巻四、「題李凝幽居」 ) あんし かはく かさく ( 小岩井弘光 )