雷蔵寺の修行僧 如来像、その右に観音菩薩、左に大勢至菩薩像、これら三尊の両脇には右側に文殊菩薩、左手に 普賢菩薩が祀られており、ここがまぎれもなき仏教空間を成している。 ところで住職の師は一九九八年現在五四歳、一二歳で出家し、顕教、密教、道教、キリスト教 かこ、つじざい の奥義に通じ、華光自在仏の境位を成就したとされる〃活仏〃で、信者から〃活仏〃と呼ばれる。 大雄宝殿の須弥壇上に地蔵や薬師に守護される形で自らの像を据え、弟子や信者に礼拝させる というのは、彼自身の〃活仏〃の自覚に立つからであろうか。その分堂は世界各地に四〇〇あり、 帰依した弟子は四〇〇万人と称する。詳細は今後の調査に待つはかないが、注目したいのは彼の さんざんきゅうこう 宗教的性格である。その著書によると、彼は第一の師父として三山九侯先生を奉じ、この無形 の霊師と〃通霊〃が自山に可能であるという。〃通霊〃とは文字どおり霊体と直接交流ができるとい うことで、各地のシャーマニックな宗教者はすべて通霊者であるとも言える。 彼はシャーマンの守護霊に相当する三山九侯の力を用いて、諸仏諸神と交流し、その力により 人々の災厄や苦を解決しようとしているのであり、すぐれてシャーマニックな人物である。彼は 二五歳のときに天上界を遊歴したと記しているが、これは脱魂型シャーマンの行動に通じている ( 活仏著『仏王新境界』一九九七 ) 。この宗教者の言動は仏教とシャーマニズムの習合というよりは、仏 教という名の現代シャーマニズムの展開として捉えることができるのかもしれない 師は現在アメリカ・カリフォルニア州のエドモンドにある真仏密苑に住して活躍していると いう。彼の仏教は先の類型の 3 に含まれると考えられよう。 ブッダの教えはインドから東アジアまで旅する間に異なる地域・民族・文化と接触・交流するこ とにより、内容、外形ともに〃変容〃を余儀なくされた。台湾における三つの事件は、この変容 の台湾的パリエーションを示していると言えるのではあるまいか ( 写真【 P 」 98 坂井信彦、 p. 199 、 203 筆者 ) 第六章台湾・新しき仏国土 202
在家信者は、より深い信仰を 求めて菩薩戒に参加する。 地獄に落ちた死者の 霊を救うという授幽 冥戒。 ブッダ像を背に、三 人の和尚か立ち会い、 戒律か授けられる。 授幽冥戒の一場面。頭上に経典を おしいただく。
まらや ふだらか 不刺耶山の東には、布陀洛迦山がある。山道は危険にして巌谷がけわしい。山項には池があ めぐ り、鏡のように澄み、大河が流れ出している。その河は山を繞ること二〇回にして南海に入 っている。池の側には石の天宮がある。観自在菩薩が往来し留まるところである。観音菩薩 かえり を見ようと願う者があって、身命を顧みす、水をわたり山を登って険路を行くが、よくそこ に達する者は少ないという。 つまり、補陀洛迦山の山項には池があり、その池から大河が流れ出て南海に入るとあるので、 その山は海の中の島にあるのではなく、南海に面した山であり、観音菩薩を見ようとして河を渡 り山を登っても容易に近づくことができない険峻の地であると言っている。 このように補陀洛迦山は観音の住処とされ、そのインドの南海のポータラカがチベット ( ボタラ 宮 ) や中国にも伝わり、観音菩薩の浄土が形成されたのである。 中国の普陀山には長い歴史がある。西漢の成帝のとき ( 紀元前三二 5 七 ) 、普陀山は洞窟が多く水 ばいふ′、 質もよく気候も温暖で、漢方薬の薬草が豊富であったので、薬方に通じた梅福がこの島にやって ばいしん 来て洞窟に住み、丹薬を作ったという。この頃人々はこの山を「梅岑」と呼んだ。これは「世外の 仙境 , の意味で、道教の神仙境を表す。 唐代になって仏教が盛んになると内外の仏教徒がこの島にやって来るようになり、唐の大中年 えカく ふこ、つきょ 間 ( 八四七、八六〇 ) 、インド僧が来山し、大中一二年 ( 八五八 ) 、日本僧の慧萼が来島して不肯去観音 院を建てたため、中国の普陀山は観音霊場となった。 ごだいさん 普陀山で初めて観音を祀った寺が不肯去観音院である。これは慧萼が五台山で得た観音像を奉 がえん じて日本に帰る途中、この海まで来ると、その観音像がどうしても日本に行くことを肯じなかっ たので、船が進ます、慧萼はその観音像を奉じて岸に上がり、祀ったのが不肯去観音院であっ た。普陀山は日本僧によって開かれた霊場なのである。その後、宋代になると普陀山には次々と 第五章現世利益と観音信仰 170
海岸の岩場にある不肯去観音 院。慧萼かもたらした観音像 かここに安置され、現在の普 陀山の礎となったという。 普陀山向かいの小島、洛伽山。 = 一横たわ 0 たプダの全身とされ る。また、ここから観音菩薩か普 陀山へ跳んできたともいわれる。 祈りとともに日か沈んでいく。
学問の神、文昌帝の廟。空 : 、間のすみすみまで装飾で埋 宀めつくされている。 韋駄尊者の像。韋駄天はもともとバラモ ン教の神だったか、仏教に取り入れられ 仏法の守護神となった。 三国志の英雄、関羽を祀る行天宮。 龍山寺後殿。天上聖母といわれる 媽祖か祀られる。
ガンダーラの菩薩像 観音菩薩のいる風景 音」は、それゆえ「観自在」と漢訳される。また中央アジアから発見された『法華経』によれ ば「アヴァローキタスヴァラ」となっており、これによればスヴァラ ( 音・音声・声 ) が接尾語と なって「観世音」となる。「観音」は、その省略である。 「観音」が初めて経典上デビューするのは、『法華経』においてであり、そこでは「ブッダ」 の言葉として、由来が次のように説かれている もしも量り知れないおびただしい数の生命あるものが、さまざまの苦脳を受けたとき この観世音菩薩の名を聞いて、一心にその名を躊躇せずに呼ぶならば、観世音菩薩は すぐさまその声を聞いて、一人残らすその苦悩から抜け出させるであろう。 ( 中略 ) 妙にして、この世を見通す、清浄な、大海の潮のごとき、どの世界よりも勝れた音を もつ、これが観世音菩薩である。 ( 『法華経』「観世音菩薩普門品第二十五」 ) 世界の苦しみの声「音」をあまねく「観届け、自山「自在ーに能力を発揮してそれらを救い 出す、というのがこの菩薩にえられたキャラクターであった。 「菩薩」とは何か。これは「観世音」、「観自在」が原語の意訳であるのに対し、サンスクリ ぼだいさった ット語「ボーディサットヴァ」の音訳である「菩提薩多、が省略されたものである。 「菩薩」とは当初、悟りを開き目覚めた人「ブッダ」になる以前のゴータマ・シッダールタを 指す言葉であった。ガンダーラなどで出土される菩薩像の多くが、さまざまな装飾品をつ けきらびやかなのも、王子時代のゴータマ・シッダールタの姿を彷彿とさせる。やがて、 「菩薩。はブッダその人を指す言葉から、語りを求めて修行する者すべてを指す言葉に、意 味が広がった。ここまでは現実の世界に生きる仏教者を指す言葉であった。しかし、仏教 147
高モ、 : 一↓■ : 第調 1 は 0W0 、 1 ーま物、代 " 、 丿北莫サ 当卩周高ツ 窟タ 第太 ハ生 側 104 交脚弥勒菩薩像 ( 塑像 ) 莫高窟第ニ七五窟南壁 高さ三・三四メートル北涼
巨大な楼にくらす老婆 観音菩薩のいる風景 うすることで私には守ろうとしたものがあったんです。それがこの観音様ですよ。家系図 一族全 は私や私の家族にとっては重要なものでしたが、この観音様は家族のみではない、 体の宝だったからです。私は、数人とともに観音像を隠しました」 それは、この円楼の歴史の中で、ただ一度だけ観音像が中央から姿を消したときだっ た。祖先や親を大切にし、祖先から続く血のつながりの中に自分のアイデンティティーを 確認してきた人々にとって、自らの家系図を焼くということは、身を切られるような痛み であったはすである。そうまでして一族全体の守り神は隠された。その場所は第一楼の四 階屋根裏。梯子をかけて覗き込む。薄暗い。ここまでは厳しい監視の目も届かなかった。 しかし、もし誰かがそれを密告したら、存忠さんも危なかったのではないですか 「まあ、そうでしよう。でも大丈夫でした , と、彼は笑って答えた。そして「もし誰かが観 音はどこだ、と尋間されたとします。そいつはこう答える。『誰か隣が持っているだろう』。 隣が尋間される。そいつも答える。『誰か隣が持っているさ』。そうしてぐるぐる回ってゆく 当時、この円楼には六〇〇人が住んでいました。観音様を捜し出すことは不可能です」と。 円楼の人々は、隣にえた福徳や助けは、順々にめぐりめぐってやがて自分のところに 、ー、ー「帰ってくるという。それは必ずしも自分が生きている間でなくてもよい。息子や孫など りやく 脈々と続い てゆく時間の中でやがて戻ってくると信じている。彼らにとっての「利益」と は、日本でイメージされるような独善的でエゴイスティックなものとはかけ離れている。 壮大な時間の中で循環しているのである。それは、ここを出ていった華僑の仲間をも含む . い .. 」 . . 大きな円である。円楼は、その空間的な輪廻を象徴しているかのようにそびえている。 15 5
南海観音菩薩像 仏教がアジア全体に広がってゆくにつれ、それぞれの土地でそれぞれの観音菩薩の楽上 ふだらく 「ポータラカ . が作られるようになった。日本においては紀州熊野那智山が「補陀洛」渡海へ の入口とみなされ、韓国にも洛山と呼ばれる聖地がある。チベットのラサにはボタラ宮殿 があり、ダライ・ラマは観音菩薩の化身ともいわれる。そして、故国中国を離れアジア全 域に広がった多くの華僑・華人の信仰を集めるのが、中国の普陀山なのである。 観音信仰は「東アジア」全域に広がっている。日本全国にある三十三所 ( あるいは三十四所 ) 巡礼の霊場はいすれも観音菩薩を祀る寺であるし、京都でお会いしたベトナム人留学僧・ 釈覚勇さんの話では、ベトナムでも山奥に安置された観音像を人々が一斉にまわる巡礼が 盛んだという。一九八七年に発表された調査資料 ( 『台湾廟神大全しによれば、台湾の寺廟に 祀られる仏像は、釈迦牟尼仏五一六座をはるかに超えて、観音菩薩五九五座がトップであ る。観音菩薩に対する信仰は、漢字仏教圏「東アジア」において圧倒的な優位を占めてお ブッダその人への信仰をも凌駕しているように思える。 観音菩薩は、死者供養という独特の仏教儀礼とともに、「東アジア」仏教圏を描き出す上 で重要な導線になるのではないかと思われた。 ースター・観音菩薩 観音菩薩とは誰なのか この疑間を解くためには、はるかな時を隔てたインドまで遡らねばならない 「観音」は、インド・サンスクリット語の語源では「アヴァローキテーシュヴァラ」と呼ばれ る。アヴァローキタ ( 観る ) とイーシュヴァラ ( 自山に能力を発揮する日自在 ) の合成語である。「観 第五章現世利益と観音信仰 146
霊巌山寺にある白衣観音のレリ 観音菩薩のいる風景 朝六時。江存忠さんはます、まっさきに観音祠堂の門を開ける。門は観音像から見て左 右正面それぞれにあり、円楼に住むあらゆる人々に開かれている。旧暦の一日と一五日に 当たる日になると、開門を待ちかねていたように円楼の住民たちが観音祠堂に集まってく る。私たちが滞在している期間、「端午の節句 . の日があった。見ると手に手に観音への捧 げものをさげている。ちまきや野菜、鶏などが次々と観音像の前に並べられ、人々は線香 を捧げ三拝投地して祈る。目立つのは、老年の女たちと子供たちの姿だ。若い男たちは 皆、遠くは海外にまで出稼ぎに出ている。子供たちは、自分たちの朝飯茶碗をかかえて立食 いしながら、観音の前で老婆たちの祈りを見ている。目が見えなくなったおばあさんのかた わらにスッと寄って、その覚東ない手から線香をとって火をつけてあげている子供もいる。 「私はおばあちゃんから拝み方を教わったんだ。見ていて覚えたんだよ」 そう言って笑う少女に聞けば、そのおばあちゃんも実の祖母ではない。それは彼女にと って、重要なことでもない。円楼の老婆は、皆、彼女の祖母のようなものなのだろう。 「私の息子たちは、皆ここを出て海外で働いている。息子たちにも観音様のご利益が及ぶ ように祈っています」。老婆たちは、円楼一族の安全と繁栄を観音に祈っている。 いったん供えられた食物は、再び自分の部屋に持ち帰るため、めいめいの籠にしまわれ る。時には、そこで遊んでいる子供たちに分けられる。観音の前に出された食物は、それ こだけで霊力が具わり、健康長寿に効があるのだという。 、 , 皮まこの円楼で五人兄弟 江存忠さんは、そんな皆の参拝の様子をじっと見守ってした。彳 ( の次男として生まれたが、ただひとりだけここに残っている。父は、一九四八年に子供だ 155