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検索対象: 救いの思想大乗仏教
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1. 救いの思想大乗仏教

千手観音像 観音菩薩のいる風景 自らの身分をおとしめてまでしてこの世に現れる救済者、という最強の意味になる。 ースターとして生み出されたのである。 まさに観音菩薩は究極の、現世救済のスー 観音菩薩の変身 さらに重要なのは、観音菩薩が、数ある「菩薩」たちの中でも唯一、その姿形を自山に変 身できる性格がえられていることである。『法華経』によれば、観音菩薩は、救いを求め る人に最も適した姿をとって現れるとされる。仏の姿はもちろんのこと、ヒンドウー教ゅ かりの神々、長者や役人、僧や尼僧、在家の男女信者、婦人や子供などなど、その姿は三 十三にも及ぶ。この自在な変身は、相手によって臨機応変に説法を変えたとされるゴータ マ・ブッダのセラピー・対機説法の伝統を受け継いでいるようにも思える 定型を持たない観音菩薩は、それゆえ歴史の中でも増殖し続ける。私たちは今でも多く の、時には名もない寺でさまざまな姿をした観音菩薩に出会うことができる。千本の手を 持っとされる千手観音、十一面観音、憤怒の表情を浮かべる馬頭観音。すべての人々に救い をえるためには二本の手だけでは足りない。あまねく世界を見渡すためにはひとつの顔 では足りないド き分けのない者どもには厳しい怒りの表情を向けて叱りつけ救い出すこ ともあるだろう。人々の想像力の数だけ、救いの数だけ、観音菩薩は彫られ、刻まれた。 インドから中国へ、観音菩薩の旅は続いた。本来、性別などない存在ではあるが、イン ドにおいて男性名詞として登場した観音菩薩は、中国大陸に至って劇的な変身を遂げてゆ 私たちが中国の村々で出会った観音像は、ほとんどすべて女性の姿をとっていた。こ れは長い歴史の中で中国の人々が、あるいは自分の母親や身近な女性の中に、より多く観 149

2. 救いの思想大乗仏教

台湾てはさまざまな神が身近に存在している。この地ては、観音菩と 関羽、媽祖が同じ場所に並んでいても何の問題もないのだ。約一一六〇年 の歴史をもっ台北最古の寺、龍山寺て端的にその混淆した姿をみること ができる。この寺を中心に、台湾の人々の信仰の様子をみる。 龍山寺と台湾の信仰風景 円通宝殿の主、観音 仏祖。 192 十ハ羅漢像。地蔵菩薩を中心に、僧衣をまとった諸仏と 中国風の衣装をつけた神か混在して祀られている。

3. 救いの思想大乗仏教

皆が守った観音像が再び円楼の中心に戻されたのは、一九八二年二月一九日だった。 それは、中国における、観音菩薩の誕生日とされる日のことだった。 山寺の「菩薩」たち 一九九八年六月二四日。その日は旧暦の一日に当たる日で、朝早くから観音祠堂に線香 の煙がもうもうとたちこめていた。存忠さんにとっても、特別な日だった。円楼に別の世 帯を持っ次男の嫁が孫を生んで一か月経ち、物忌みがあけて初めて観音詣をする日だった のである。次男もまた遠い港町に出稼ぎに出ている。嫁はひとりで、この円楼の中で子を 生んだ。生まれた子を見に帰ってきた父親は、翌日、また再び円楼を出ていったという。 円楼の人々は、この円楼の中で生まれ、老い、死んでゆく。タイに行ったきりで音信も なかった存忠さんの父親は、観音が中央に戻された翌年、三五年ぶりにひょっこり円楼に 帰って来ると、一年後に円楼の中で亡くなったという。たとえ何年ここを離れようと、帰 れなくとも、彼らはここを忘れることがない。観音像はそのすべてを見届けてきた。 観音は、子授けの利益もあるとされる。今、中国では、最初に生まれた子が男児だった らひとりのみ、女児であればふたりまで、という厳しい産児制限が布かれている。次男の 長子は女だった。二人目は男を、と観音に祈ってきた存忠さんだったが、今回も女児。それ でも赤子を抱いて出生の報告をする存忠さんの顔は、皺にはころんだ好好爺の表情だっ た。これも観音様の考えあってのおばしめしだという。傍らにいた次男の嫁がこう語る。 「観音様は女性ですよね。だから女の気持ちをよく分かってくださいます。この子も女の 子なのですから、きっと観音様は男の子よりも大切に守ってくれることでしよう」 第五章現世利益と観音信仰 156

4. 救いの思想大乗仏教

漁船に置かれた「媽祖」と観音像 台北の慈誠宮にある媽祖像 1 レせい ~ 、・つ 音菩薩の持っ慈悲の心の具現者を見いだしてきたことを物語っているようにも思える 観音菩薩の自在な変身能力はまた、旅の到着点においても、それぞれの地元の神々への 信仰を持つ人々に、仏教を浸透させる上で威力を発揮している。独自の守り神であった多 くの神々や土俗神も、実は観音菩薩の一変化なのではないかという見方が生まれ、観音菩 薩はそれらの神々と対立も争いもせす、融通無礙に混交してゆくのである。 そのいくつかの現場を、私たちは取材中見ている。 台湾で偶然出くわした道教の神々の廟移転の儀式「安座大典」においては、三〇以上もあ る神々の中に交じって観音菩薩がいた。彼らは観音菩薩を「白衣大士」と呼び、純粋に道教 の神のひとりであると言う。私の次のような間いは、無意味だった。 そりや変ですね。菩薩とは仏教の言葉だし、観音は仏教の菩薩ではないんですか 「そりゃあ、あんたたち仏教徒の言い方で、私たちにとっては違うんだ。観音菩薩はもと もと道教の神様さ。私たちの苦しみを取り去り、救ってくれるありがたい神様だよ」 ここまで混交していても、観音菩薩本来の役割は全くそのまま伝えられている 観音菩薩の女性化については、この「東アジア」海域が古くから海上の安全や子孫繁栄、 商売繁盛の願いを担ってきた女神信仰の篤い海域であったことも、ひとつの原因となって いるのではないかと思う。中国沿海部や台湾には、「媽祖と呼ばれる女神がおり、庶民の 現世利益と漁民たちの海上安全の守護神として、現在も根強い信仰を保っているが、その ) 女神ですら、元代の記録によれば、「普陀大士ズすなわち普陀山の観音菩薩を指す ) の生まれ変わ りとされている。私たちは、訪ねた福建省東山県の漁村で、出漁する漁師たちの船に、 第五章現世利益と観音信仰 150

5. 救いの思想大乗仏教

多くの人々の観音への思い か、一〇〇〇年という歴史 をもっ観音の聖地に南海大 観音という新しい仏を誕生 させた。 普済禅寺へ至る古道 ( 妙庄厳 路 ) 。道は、如来仏の祠に詣 で普陀山入島の感謝を捧げる 人々でこったかえす。 第五章現世利益と観音信仰 164 チベットから訪れた僧。手にもっ観音像 に、普済禅寺の観音菩薩の仏力を得るため にやってきたという。 紫竹林禅院の円通宝殿。扉に観音 を讃える説話か彫られている。

6. 救いの思想大乗仏教

紀元一世紀頃、 カンダーラとマトウラーてほほ同時期に仏像が誕生する。そ の背景には当時インドに侵攻したクシャーン族による戦乱の中、ブッタの姿 を渇望した民衆の思いがあった。ガンターラてはその地理的背景からギリシ ア・ローマの影響がみられ、西方的な顏立ちのものが多い。 一方、マトウラ ーては赤色砂岩に、力強くインドらしい表情を持つものがつくられた。 ■マトウラー 仏像誕生 「仏坐像」カトラー出 土一、ニ世紀頃 ( マトウラー博物館 蔵 ) 「菩薩像」一ーニ世紀頃 ( マトウラー博 物館蔵 ) 手のアップ 「仏坐像」

7. 救いの思想大乗仏教

ルフ 仏像の 誕生 仏像の誕生 紀元前五、四世紀のブッダの死後五 00 年、仏像か作られることはなかった。歴史の大きなうねりの中、「救い」をキーワー ドに仏教の教義は展開し、ついに紀元一世紀頃、ガンダーラとマトウラーで仏像か作られるようになる。大乗仏教のはしま りも同し頃であった。 カニシュカ舎利容器シャージー キー・テリー出土 ( ペシャワール 博物館蔵 ) 容器にクシャーン帝国のカニシュ カ王の姿かあり、その王の上にプ ツダ像 ( 梵天勧請 ) かある。武力で インドを制圧したクシャーンの王 か、仏教に帰依したことを読み取 ることかできる。梵天勧請は最初 期の仏像によく見られたモチーフ でもあった。

8. 救いの思想大乗仏教

さ臨 ん時 と住 照職 , 。和と ごり守 - ' 一第ちし参日毎 やて拝に月 ん寺には陰 を訪ふ暦 守れもの な人釈 いは迦 。ゴ牟当 タ仏 シか を大 知半 らの 土楼の村福建省永定県随一の仏 教寺院。三六〇年の歴史をも つ。先代住職の死後、在家信者 てある江財鳳さんと山門の前に 捨てられていた照和ちゃんの一一 人かここて暮らしている。 勝因寺 第五章現世利益と観音信仰 168 観音菩薩像。中国の改革開 放により在外華僑からの寄 進か増加した。この観音も その一つ。

9. 救いの思想大乗仏教

宮治昭一名扇入 ( 、 廝子一名一チ ヨーロッパとアジアを結ぶ絹の道・シル クロードは、仏教を東アジアへ伝える大 きな役割を果たした。それそれの遺跡に 残された仏教美術を手掛かりに、仏教伝 来の足跡と「救い」の思想をたどる。 シルクロードの仏教美術 西域南道にあるミーラン遺跡 仏説法図 ( 壁画 ) ミーラン第三寺址 三ー四世紀ニューテリー国立博物 館蔵五七・一 x 一〇〇・四センチ 有翼天使像 ( 壁画 ) ミーラン 第三寺址三ー四世紀ニ、一 ューテリー国立博物館蔵 四一・ハ x 六六センチ 100

10. 救いの思想大乗仏教

ここで学ぶ黄三姉妹。中央の次女のみ出家して いるため頭を丸めている。 第ニ次世界大礬後、 半僧半俗化した台 湾仏教の復興を目 指してつくられた 04 一 ' 。台湾仏学院かその 1 0 台北から車 ( 一時間ほどの桃園県中市にある、台 湾も有数の規模をもっ仏教学院。出家者と出家を 目指す在家信者が寝食をともにして修行し、仏学を 学ぶ。 圓光仏学院 第六章台湾・新しき仏国土 196 授業風景。 東南アジアからもたらされ たブッダ像。 晩課。生徒数は約三三〇人。九割 は女性で海外華僑の子女も多い。