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検索対象: 救いの思想大乗仏教
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1. 救いの思想大乗仏教

まらや ふだらか 不刺耶山の東には、布陀洛迦山がある。山道は危険にして巌谷がけわしい。山項には池があ めぐ り、鏡のように澄み、大河が流れ出している。その河は山を繞ること二〇回にして南海に入 っている。池の側には石の天宮がある。観自在菩薩が往来し留まるところである。観音菩薩 かえり を見ようと願う者があって、身命を顧みす、水をわたり山を登って険路を行くが、よくそこ に達する者は少ないという。 つまり、補陀洛迦山の山項には池があり、その池から大河が流れ出て南海に入るとあるので、 その山は海の中の島にあるのではなく、南海に面した山であり、観音菩薩を見ようとして河を渡 り山を登っても容易に近づくことができない険峻の地であると言っている。 このように補陀洛迦山は観音の住処とされ、そのインドの南海のポータラカがチベット ( ボタラ 宮 ) や中国にも伝わり、観音菩薩の浄土が形成されたのである。 中国の普陀山には長い歴史がある。西漢の成帝のとき ( 紀元前三二 5 七 ) 、普陀山は洞窟が多く水 ばいふ′、 質もよく気候も温暖で、漢方薬の薬草が豊富であったので、薬方に通じた梅福がこの島にやって ばいしん 来て洞窟に住み、丹薬を作ったという。この頃人々はこの山を「梅岑」と呼んだ。これは「世外の 仙境 , の意味で、道教の神仙境を表す。 唐代になって仏教が盛んになると内外の仏教徒がこの島にやって来るようになり、唐の大中年 えカく ふこ、つきょ 間 ( 八四七、八六〇 ) 、インド僧が来山し、大中一二年 ( 八五八 ) 、日本僧の慧萼が来島して不肯去観音 院を建てたため、中国の普陀山は観音霊場となった。 ごだいさん 普陀山で初めて観音を祀った寺が不肯去観音院である。これは慧萼が五台山で得た観音像を奉 がえん じて日本に帰る途中、この海まで来ると、その観音像がどうしても日本に行くことを肯じなかっ たので、船が進ます、慧萼はその観音像を奉じて岸に上がり、祀ったのが不肯去観音院であっ た。普陀山は日本僧によって開かれた霊場なのである。その後、宋代になると普陀山には次々と 第五章現世利益と観音信仰 170

2. 救いの思想大乗仏教

「仏像誕生と流転 ~ ガンダーラ・バーミャン ~ 」制作スタッフ 国際仏教学大学院大学チンギス・八一ン運営委員会 資料提供・ラホール博物館大英博物館ベルリン国立インド美術館 監修・宮治昭 取材協力・インド大使館パキスタン大使館ウズベキスタン外務省 泉涌寺東武美術館 朗読・仲代達矢 語り・道傳愛子 音楽・中村幸代 テーマ音楽編曲・篠崎正嗣 コーティネーター・ジャティンダー・タネジャ 撮影・服部康夫 音声・鈴木彰浩深田晃 映像技術・永松博志 CG 制作・深谷崇史伊達吉克 音響効果・小野さおり神山勉 映像テサイン・小川有紀 編集・吉田秋ー 構成・宮田章 制作統括・桜井均船越雄一 共同制作・ NHK 工ンタープライズ 21 寺谷頼之 ジャナサン・リー テレプール / 八イエルン放送協会 取材協力・中国福建電影制片敝廠泉州打城戯劇団浄心明濬釈伝定 「蛎・楽土 ~ 変容する仏たち ~ 」胙スタッフ 230 釈悟仁 許生伝陳素彩冫余玉盞蔡秀華高橋伸ー釈覚勇呂曉慧高橋秀明 ナーラダ・ラフガマ佛陀寺 監修・鎌田茂雄 資料提供・東京国立博物館葛井寺 朗読・仲代達矢 語り・道傳愛子 音楽・中村幸代 テーマ音楽編曲・篠崎正嗣 コーティネーター・劉豆劉振瓔 撮影・郷田雅男 音声・緒形慎一郎深田晃 映像技術・李建輝 CG 制作・深谷祟史 音響効果・小野さおり神山勉 映像テザイン・小川有紀 編集・鈴木良子村信浩 構成・鎌倉英也 制作統括・桜井均船越雄一 共同制作・ NHK 工ンタープライズ 21 千本釈迦堂大報恩寺 出光美術館 会寺 テレプール / バイエルン放送協会

3. 救いの思想大乗仏教

超峯寺 う。檀家が少ないので経営は大変だが、「真の仏法から離れたくないーと述べる N 師には、大変 なスポンサーがいる と′、 このスポンサーは先代住職 ( 尼僧 ) の篤信者で、寺の運営に経済的支援を続けてきたが、台湾経 済の発展に伴い、船舶関係の会社も急成長し、今では高雄に大工場を有し、従業員一〇〇〇名余 を抱える大企業になった。この社長 ( 現会長 ) は当代の N 師にも深く帰依し、財的支援を階しまな いという。「経済的にはいくらでも援力するから、僧は本物の修行をしてくれーと社長は言う。こ の寺が前記三型の田に属するとすることは、無理ではあるまい ちょうほうじ ・超峯寺 こうさんちん 高雄県崗山鎮の超峯寺は崗山の中腹に展開する壮大な寺である。正面には観音仏祖を奉安する 観音堂があり、多くの人々の参詣がたえない。その背後の階段上に大雄宝殿があり、釈迦仏・阿 弥陀仏・薬師仏の三尊が祀られている。左手には広大な齋堂があり一般の人々にも精進料理が供 される。この寺は男僧の住職と二〇余名の修行僧によって運営される大刹であるが、他面〃庶民 ( マス ) 〃の寺としての顔をもつ。観音堂に祀られる観音は〃観音妙智カ能救世間苦〃 ( 『観音経しの存 在として台湾民衆の現世利益的信仰の対象となっていることはよく知られている。人々は観音の 〃カ〃にあやかろうとしてここに雲集するのだ。 マスにとって観音は特別な側面をもっている。どこの地域にいってもそうであるが、漢族社会 タンキー アンイー の民俗 ( 土着 ) 宗教を代表する宗教者は、〃童乱〃とか〃厄姨なと称される民間の宗教者である。彼ら は小規模な廟をもち、その祭壇には一〇体から二〇体の道教系の諸神像が安置されている。その 中に必すといってよいはど祀られているのが観音である。この場合、観音は他の道教諸神と同じ ャ〃の一柱として崇められることが多く、仏教の菩薩として意識されることは、はなは だ少ない。童乱や厄姨の役割は、トランス状態になり、その間に観音なら観音の魂Ⅱ力を像から 第六章台湾・新しき仏国土 シェン

4. 救いの思想大乗仏教

普陀山・慧済禅寺西方三聖 ( 右か ら、大勢至菩薩、阿弥陀如来、 観音 ) わかる この台北の竜山寺は仏教の大寺院であり、主尊に観音菩薩を祀っている。しかし奥殿には道教 ろそしんかんてい の呂祖神や関帝などが祀られている。もうもうたる香煙の中で大勢の庶民が熱心に祈っているこ の寺は、仏教の寺というよりも、庶民の願いを叶えてくれる神さまがいる廟に近い。同じく台湾 ろくこ、フ ちゅうせいニャンニャン の鹿港の竜山寺も観音仏祖が主尊だが、街の神さまの境主公や註生娘娘が祀られている。 しんこう 台湾各地にある竜山寺の本家は、福建省晋江県安海鎭の竜山寺であり、ここも観音菩薩が祀ら アモイ れている。廈門の南普陀寺の大悲殿には千手観音が祀られ、信者の香煙が絶えない。南普陀寺と は普陀山の南にある観音霊場の寺なので、このように呼ばれているのである 中国人、特に台湾の人々が仏教の尊像の中で最も信仰しているのは観音である。観音は種々の 祈願を叶え、ご利益が多いと信じられているからである。 観音を祀る仏寺には祭壇に実にさまざまな供物が並べられ、線香の煙が絶えない。これをみても 釈迦や阿弥陀仏よりも観音を拝んでご利益を授かることを祈願し、信仰していることがわかる。 一般に神仏にすがってご利益を授かろうと祈願するのは男性より女性の方が多いが、若い男女 が一心に祈願している姿も見かける。 廟や寺にはいろいろの観音が祀られている。民衆のさまざまな願いに応じるため、多くの観音 像が生まれた。『法華経』普門品では、観音は種々に姿を変えて衆生を救済する三十三応現身を説 き、浄土教典では観音は大勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍として西方三聖を形成する。密教 では聖観音をはじめ、その大悲大慈のはたらきを多面多臂によって強調し、千手観音・十一面観 けんさく いりん じゅんてい へんげ 音・不空羂索観音・如意輸観音・准胝観音・馬頭観音などの変化観音が考えられ、また中国では水 月観音、白衣観音、楊柳観音などが創り出され、民衆の祈願の対象となった。観音菩薩こそ東ア ( 写真】赤津靖子 ) ジアの民衆に信仰されている最も親しみ易い菩薩だといえよう。 第五章現世利益と観音信仰 174

5. 救いの思想大乗仏教

承啓楼第一、一「三楼 平面図〔円楼承啓楼〕第一楼断面図 第一楼 288 間・ 36 世帯 233 人 第 2 楼 72 間・ 10 世帯 61 人 24 間・ 8 世帯 52 人 4 階 寝室 1.4m さ 3 階 2 階 食貯蔵庫厚 居間兼食堂 つん えんろう 「円楼」と呼ばれる彼ら独特の集合住宅であった。いすれも三階建て以上のビルの高さを 持ち、黄褐色の上で頑丈に外璧が固められている。アメリカの軍事衛星がこの建物群を発 見したとき、中国の軍事施設と見まがい警戒したという話も、あながち誇張ではない。 しようけいろう 私たちは、その中でも規模が最大といわれる円楼「承啓楼。を訪ねた。その構造は、上 図に示したとおりである。四重の輪が同心円状に重なり、 一番外側の第一楼は四階建てで ある。一階が台所、居間兼食堂、二階は長期の籠城にも耐えられるように造られた米や芋 など食糧の貯蔵部屋、三、四階が寝室と、部屋は生活の機能によって分けられている。第 一楼が最も高く一二メートルで、円の内部を外界から守るような外璧となっている。第一 楼から中心にある第四楼まで、合わせて四〇〇の部屋があり、三四六人・五四世帯が暮ら している。そのすべてが、一七〇九年にこの円楼の建設に着手したひとりの祖先の末裔と その家族であり、「江 . という姓を持つ。三〇〇年の長きにわたって、血のつながりを絶や さすに共同生活してきた一族。円楼は、その結束の強さを今でも雄弁に物語っている。 直径七三メートルの巨大な円の中央にある第四楼は最高の場所とされ、住む者が誰もい ない祠堂である。そこに祀られていたのが、観音菩薩であった。 円楼ができたときから、先祖代々伝えられてきたといわれるその観音像は、白い衣をま とった中国独特の観音の姿をとっている。「白衣観音」である。観音祠堂は、現在、円楼の 管理責任者数名の共同管理となっているが、中でもこの堂に最も近い第三楼に部屋を持っ ′江存忠さん ( 五六歳 ) が実質的な「観音祠堂守り , である。私たちは、江存忠さんの一家に二 週間あまりお邪魔して、この円楼の観音信仰の毎日を取材させてもらうことにした。 第五章現世利益と観音信仰

6. 救いの思想大乗仏教

らゆうざん せいか まったという。これは『史記』「趙世家」に、趙の粛公が大陵所に遊び、門を出ようとしたとき、 家臣が、し 、まは農繁期ゆえ「一日不作、百日不食 ( 一日作さざれば百日食らかす ) 」と諫めたという故事を 踏まえた表現である。君主が城から外に出れば、人民 ( 農民 ) も動員され、一日農作業ができなけ れば、後々一〇〇日間の食糧に影響するという意味である。粛公はすぐに思いとどまったが、農 作業と統治とを関連させた広い観点からの話である。百丈の方は労働と食事とを自己一身に集中 させた話であり、平易な話の中に自然のはたらきと自己のはたらきとの深い関連を示している。 こうした思想の淵源を辿ると、天地の自然と一体となる生き方を示した荘子に行き着くが、そ の生き方は東晋から南朝の貴族による道家思想の受容をとおして中国知識人の生き方の一つの典 型になり、仏教にも影響をえ、インド仏教とは違った中国仏教を生み出したのである。 一方、民間では因果の思想は地獄の思想と融合して発展した。元来、中国には死者の世界とし め・い力し ての冥界の思想があったが、仏教はそこに八大地獄などの考え方を導入し、人はその死後、冥界 ろくどう りんね の役所に行き、そこで閻魔大王 ( 閻羅王 ) によって裁かれ、天から地獄までの六道を輪廻するのだ と説いたのである。これは民衆仏教であり、唐代には確立していたと思われるが、輪廻の思想は また道教にも影響をえた。地獄と輪廻の思想は民衆のあいだに広く、深く浸透したのである。 どうかん 地獄の思想が広まると、身内に死者が出た場合、遺族が仏教や道教の寺 ( 仏寺・道観 ) で死者を天 ししやくよう ちょ、つど に送るための儀式をするようになった。そのような死者供養の儀式を超度と言い、そのときには しせん 冥界用の紙のお金 ( 紙銭 ) を燃やして亡者に届ける。燃やさないと冥界には届かないのである。亡 者はそのお金を冥界の役人に差し出し、地獄に落とさないようにしてもらうのであり、文字どお さた かねしだい り「地獄の沙汰も金次第、である。なかでも「孝の思想」と結びついて、親の超度は最高の孝行とな った。民衆レベルでは儒教と仏教と道教が混然と融合したわけであり、人々は現在でも仏寺と道 ( 写真【松本栄一 ) 観の区別なく同じ気持ちで超度の儀式をしてもらっているのである。 第四章中国にみる仏教の変容 えんらおう

7. 救いの思想大乗仏教

0 4 そんしやく ゅどうろん これらの点で仏教は攻撃を受けた、そのため、東晋の孫綽は『喩道論』を書いて仏教を弁護し た。孫綽は、親が治水事業の失敗によって殺されても、その霊魂を祭るより治水事業を引き継い きれき で大洪水を治めた禹とか、弟の季歴に位を継がすため外国に逃げ、髪はざんばら、身体には入れ 4 ~ い瓣 2 ′、 こ自分の父 墨をした太伯とかは、いすれも不孝者と非難されたわけではないこと、ブッダは最後 ( 親をも帰依させたが、これこそ最高の親孝行であることなどを理山に、仏教と孝行は矛盾しない と主張した。孫綽はまた『論語』に注釈をつけ、孔子とブッダは同じような聖人であるとして儒教 と仏教を調和させたり、「遊天台山賦」を作って道家思想と仏教思想を融合させたりした。 さらに仏教者たちは、さまざまな手段を講じて仏教と中国社会を融合させようとした。身内の ろざん 一人が出家すると、その家族や宗族にい、 しことがあるという説もその一つである。東晋末に廬山 えおん しやもんふけいおうじやろん みちりくしん およ の慧遠が書いた『沙門不敬王者論』には、一人が出家すれば「道は六親にあまねく、沢は天下に流 ぶーとある。六親とは家族、親族であり、功徳は親族に行き渡るが、恩沢となると世界中におよ 、 * 、よ、つ ぶっせつぶもおんじゅうきよう ぶというのである。また、唐代には『仏説父母恩重経』という疑経 ( 偽経 ) まで作られてブッダも 孝行を説いたとされたが、その考え方自体は東晋のときにすでにあったわけである 教団と政権との関係については、慧遠の『沙門不敬王者論』が王法と仏法とを畯別し、僧尼は国 法に統括されないとした。これは仏教を支持する貴族たちの力が王権に比べて比較的強い南方ゅ えに可能であったことで、北方では、ほば一貫して王権の下での護国仏教の色彩が強い 「不老不死」を理想とする道教との対立 仏教が中国社会にえた大きな影響の一つに道教の形成がある。すでに後漢のときに道教の前 ′」とぺいどう 身とも一言える太平道と五斗米道 ( 天師道 ) が組織されたが、それらの基本は治病にあった。また、 錬金術によって金丹を作り、それを呑んで仙人になるという金丹道もあった。こうした下地の上 に仏教の教理と組織を摂取して道教が成立したのである。北朝の北魏では五世紀半ばに天師道系 第四章中国にみる仏教の変容 0

8. 救いの思想大乗仏教

ゅぎよう て、全国遊行の間に念仏を求めたのが一遍である。底辺の民衆にどうしたら念仏が布教される か。その念仏は、信の一念によって弥陀と一体となりうるという、本覚思想の影響を受けたもの ふさん であるが、熊野に参籠して神託を受け、念仏札 ( 賦算 ) を配り歩いたが効なく、たまたま念仏中に おどり 踊り出すのを見て捉えた踊念仏は、踊りという人間の本能に適合し、飛躍的に流行した。 以上の他力の浄上教以外に、人間の内心に直接迫るものとして道元の神がある。 てんどうざんによじよう 道元も叡山より下って入宋し、特に天童山の如浄に中国の曹洞宗の神を受け、帰朝して都を えいへいじ しゅうしよういちによ 転々としたのち、越前に移り永平寺を開いた。道元神の本質は「修証一如」、即ち修行 ( 坐神 ) そ しかん のものが即ち証 ( 悟 ) であるとする ( 一如 ) 。これは師の如浄の「只管打坐」 ( ひたすらに坐神のみ ) を継承し えんぎ たものであり、縁によって起る縁起の瞬間々々を坐禅によって初志 ( 誓願 ) を貫徹するところに橋 りがあり、現実即悟りの本覚思想に類似するものがあるが、たえす坐神の実践という厳しい行を 通じてのみ悟りうるところに、本質的な相違がある。 法然、親鸞、一遍、道元に共通するところは、国家仏教の枠を越えて、最も純粋に仏教の本質 を輝かしたところに、前代と根本的に異なる鎌倉仏教の特色がある。しかしこれら新しい浄上教 や神宗以外にも、旧教の側から新時代に即応する再検討がなされた。 みようえ とがのお こうざんじ 明恵は東大寺の華厳を学び、紀伊を巡り、後鳥羽院より栂尾を賜り、高山寺を中心に道俗を教 りつうげん 化したが、法然の専修念仏を批難しながらも、李通玄の実践的な華厳解釈に共鳴して、実践の立 かいじようえ さんがく 場を明らかにするところに、時代の新しさがある。戒、定、慧は三学と称し、仏教修行の三大要 じようけい 素であるが、戒 ( 戒律 ) の意識がこの時代特に薄れたため、興福寺の貞慶は、浄上念仏の戒律無視 えいそん にんしよう を批判し、叡尊は西大寺において弟子忍性とともに、戒律復興運動を起こし、貧者や癩者など に対する積極的な慈善救済活動を行った。 日蓮も叡山に留学ののち、故郷の安房に帰り、鎌倉に布教した。当時天災地変が続出し、社会 第七章大乗仏教の日本的展開 にちれん 214 いっぺん ふだ

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円珍が入唐し、空海以上の経典を請来したことにより、台密の教理は充実し、さらに安然によっ て大成された。それに対して東密は、空海の教理の完結度の高かったせいか、新たな進展がみら れなかった。 九世紀後半から一〇世紀にかけて、天皇の外祖父である藤原氏の摂関体制が形成されるにした がって、摂関家に保護を求めて尨大な荘園が寄進され、公領は減少し、脱落した中小貴族は疲弊 した。律令制による国家仏教は変質しはじめ、貴族仏教が栄え、以後鎌倉時代から江戸末期に至 るまで、仏教は武家政権によって統制され、準国家仏教として在続する。 律令的秩序の解体は、上流貴族の絶え間ない政権抗争を起こし、血縁につながる勝者は、権力 確保のために、私的信仰から密教の加持祈疇に頼り、現世利益を求めるようになる。他方権力か ら疎外された貴族は、逆境の中で現世の無常を感じ、来世の救済を求めるようになり、浄上教が 発達する。 げ′」しゃ てんだいざす りよ、つげ。ん しゅほ、つ 叡山においては、摂関家を外護者として天台座主になった叡山中興の良源は、学ド 引、修法の もろすけ じんぜん 実力者であった。しかし摂関家への極度の接近は、良源没後に藤原師輔の子の尋神が天台座主と なり、ここに最澄以来の学力中心の伝統は崩壊し、こののち叡山は、貴族の門閥によって占めら げんしん お、つじよ、つよ、フしゅ、フ れるようになる。しかし良源門下の逸材である源信は『往生要集』に着手し ( 九八四年 ) 、世俗化し よかわ た叡山から横川に隠棲し、著作に専念する。また横川には二五名の僧が集まり、毎月一五日夕に ざんまいえ かんがくえ 阿弥陀聖衆来迎図 ( 中幅 ) 国宝 念仏三昧を修するとともに、臨終には相助けて極楽往生を図る二十五三昧会が始まるが、観学会 絵画有志ハ幡講十ハ箇院本 よししげのやすたね 図か叡山横川に伝来し、阿弥陀の慶滋保胤や源信もかかわるようになり、のちには僧俗男女貴肢のない同行的結社として発展 五尊も常行堂本尊に一致するた した。『往生要集』巻頭の凄惨きわまりない八地獄の描写は、人々に地獄の恐ろしさの衝撃をえ め、正面来迎の構図には、仏を観 る叡山観想行の体験か潜在する。 たが、この書の本質は、極楽浄土に生まれるための浄上念仏にあり、念仏も阿弥陀の名を唱える 第七章大乗仏教の日本的展開 準国家絵 / 最絵 210

10. 救いの思想大乗仏教

そ、つ′」、っせ、 大化改新を経て天武朝に至るや、寺院整備や、僧正、僧都、律師からなる律令制の僧綱制が出 こんこうみようきよう たいほ、つり・よ、つ 業、、つにり・よ、フ 現し、『金光明経』などによる国家規模の法会も行われ、大宝令にも僧尼令があったことが認め られ、国家仏教の体裁が整いつつあったことがうかがわれる 奈良遷都に伴い、飛鳥の諸寺を平城京に集中するとともに、地方に乱立した諸寺を併合し、寺 大仏蓮弁の如来坐像 ( 拓本 ) 東 院財産を僧綱によって管理する態勢を整えた。これは中国の国家仏教の中央集権化の動向になら 大寺蔵大仏は焼失したか、高 さ三メートル、ニハ弁の大蓮弁 ったものである。養老令も施行されたが、その僧尼令の多くは刑罰に関するもので、本来は出家 とくど りつ じゅ は残り、各弁の線刻如来像に、 集団自体が、自らの生活規定である律によって自主的に決めるべきであるが、官による得度、受 天平の張りのある顔貌と、のび やかな曲線かうかかわれる。 戒を許された僧は、定員制の官僚僧であるため、最終的には国家の法律によって処断されるとこ 求龍堂『東大寺大仏蓮弁 ( 拓本 ) 』 ろに、国家仏教の僧の特色がある。 より このように国家仏教は律令によって統制され、権力の集 中化が行われるため、中国においても、仏寺、仏像の巨大 、つんこ、つらくよ、フ 化が要求された。北魏の雲崗や洛陽の諸寺をはじめとし、 りゅうもんほうせんじどう るしゃなぶつ 唐代になるや、高宗による龍門奉先寺洞の石造盧舎那仏 そくてんぶこう はくしばざか や、則天武后の洛陽白司馬坂の銅造盧遮那仏などの巨大な こくぶんかん 仏像が造立されるとともに、仏教の国分寺、道教の国分観 いっそくた け′」んきよう の建立は、一即多の宇宙観からなる華厳経の思想によっ て理解されなければならない。しかもこの流れはわが国に 伝来し、国分寺を統括する東大寺総国分寺の大仏殿に、華 、」厳教主としての、銅造の盧遮那大仏が造立された。また遣 慮唐使の派遣によ「て、大量の漢訳経典の請来や外来僧の 招聘に力が注がれたが、派遣ごとに請来した仏典は克明に 第七章大乗仏教の日本的展開 206