ガンダーラの菩薩像 観音菩薩のいる風景 音」は、それゆえ「観自在」と漢訳される。また中央アジアから発見された『法華経』によれ ば「アヴァローキタスヴァラ」となっており、これによればスヴァラ ( 音・音声・声 ) が接尾語と なって「観世音」となる。「観音」は、その省略である。 「観音」が初めて経典上デビューするのは、『法華経』においてであり、そこでは「ブッダ」 の言葉として、由来が次のように説かれている もしも量り知れないおびただしい数の生命あるものが、さまざまの苦脳を受けたとき この観世音菩薩の名を聞いて、一心にその名を躊躇せずに呼ぶならば、観世音菩薩は すぐさまその声を聞いて、一人残らすその苦悩から抜け出させるであろう。 ( 中略 ) 妙にして、この世を見通す、清浄な、大海の潮のごとき、どの世界よりも勝れた音を もつ、これが観世音菩薩である。 ( 『法華経』「観世音菩薩普門品第二十五」 ) 世界の苦しみの声「音」をあまねく「観届け、自山「自在ーに能力を発揮してそれらを救い 出す、というのがこの菩薩にえられたキャラクターであった。 「菩薩」とは何か。これは「観世音」、「観自在」が原語の意訳であるのに対し、サンスクリ ぼだいさった ット語「ボーディサットヴァ」の音訳である「菩提薩多、が省略されたものである。 「菩薩」とは当初、悟りを開き目覚めた人「ブッダ」になる以前のゴータマ・シッダールタを 指す言葉であった。ガンダーラなどで出土される菩薩像の多くが、さまざまな装飾品をつ けきらびやかなのも、王子時代のゴータマ・シッダールタの姿を彷彿とさせる。やがて、 「菩薩。はブッダその人を指す言葉から、語りを求めて修行する者すべてを指す言葉に、意 味が広がった。ここまでは現実の世界に生きる仏教者を指す言葉であった。しかし、仏教 147
菩提樹 ( この木の下で ブッダが悟りを開い た ) 法輪 ( ブッダの象徴 ) 仏足跡 ( 文字どおりプ ツダの足跡。足跡に対 する崇敬はインドに古 くからあった ) 仏像の誕生 ストウーバ ( 仏像誕生 以前の仏教の信仰の中 ブッダはさまざまな形に置 き換えられ表現された。こ れら石刻の技術の高さを見 て分かるように、決して彼 らに仏像を作る能力かなか ったわけではない。
ブッタが説いた「空」 ブッダはブッダガャーの菩提樹下で悟りを開いてから入滅するまでのあいだ、四五年にわたっ てさまざまな教えを説いたが、その中核をなすのは「無常」「苦」「無我」であると言われる。カピラ ヴァストウの王子として生まれたブッダは、人間存在にまつわる苦悩を除いて、安心の境地を得 ることを目的として出家した。この苦悩の原因を突き止め、どうしたら苦悩を除いて安心の境地 に達することができるのか。この間題は、ブッダ自身の出発点であるとともに、仏教の原点を示 すと言ってよいであろう。 無常とは人間や現象界のすべてのものが、絶えす変化して止まないということである。古い経 もろ 典の中では、この人間の身体がはかなく脆いものであることが繰り返し説かれ、世界そのものも 永遠ならざるものであることが主張されている。それでは、現象しているものはなぜ無常なの しょぞ、よ、つ だいはつわはんぎよう か。それは「諸のつくられたもの ( 諸行 ) は、うつろい易い性質をもっている」 ( 『大般涅槃経しという ブッダの最後の言葉にも示されるように、私たちを含めてすべてのものは「縁起、の存在だからで えん ある。「つくられたもの」とは、種々さまざまな因 ( 直接的原因 ) と縁 ( 間接的原因、条件 ) によってつくら れたものということである。つくられたものは、それを成り立たせている因や縁がなくなれば、 必す消滅する。生まれたものが必す死に終わるのは、このためである。 しようじやひつめつ このように「生者必滅」は、私たちが縁起している存在である以上避けることのできない理で あるが、これは私たちにとって「苦」以外のなにものでもない。「苦」の本質は自分の思うとおりに ならないということであり、死なねばならないという現実、および無常であるという実感は私た ちにとって「苦」である。 「無我、という言葉は、漢訳の経典では「非我 . とも訳されるように、「我がないこと、我をもたな いこと , とともに「我ではないこと」を意味している。それは紛れもない「我がある、我をもっ , と 第一章仏像誕生の謎 ことわり
永定県に住む客家の親子 観音菩薩のいる風景 の「媽祖ーと観音菩薩が並べて乗せられている光景にも出会った。漁師の話によれば、この 「媽祖」も観音菩薩も、願うところやご利益は全く同じであり、ありがたいものは何でも乗 せておくにこしたことはない、 と言う。このように観音菩薩は、その住処が海上の島であ ったり、海上安全に霊験があったり、海とも深いかかわりを持っている 文献資料や歩き回った土地土地で、さまざまな観音菩薩に出会うたび、私は、古くから この菩薩を祈り続け、身に携えて海域を流浪した人々のことを思わざるを得なかった。観 いさカ 音菩薩は、どこの上地へ行っても諍いを起こすことなく折り合いをつけてその地に自由に 根づき、かといってその霊験や本来のアイデンティティーを喪失することがない。そのた くましさは、故郷中国大陸を離れ、さまざまな上地を流転し続けた華僑・華人たちの姿に 重なって見えるように思えた。普陀山のあの熱狂的な観音信仰を支えてきたのが、華僑・ 華人であったことも偶然とは思えない。彼らには、常に観音菩薩が寄り添っていた。 華僑のふるさと・円楼の村 私たちは、観音菩薩とともに暮らす人々に出会うため、福建省永定県を訪ねることにし た。そこは数多くの華僑を生み出してきたふるさとのひとつである。 ここに住む人々は、古くは中国大陸中原の豊かな大地に暮らしていたが、戦乱に追われ 大陸を転々とし、ついにはここまで逃げのびてきた。どこに行ってもお客さん、という意 ハッカ 味で「客家」と呼ばれている。ここの地名「永定」は、末永く定住できますように、という願 いを込めてつけたと聞いた。彼らの流浪の歴史の過酷さがしのばれる。 山沿いの狭い谷間の村に入ると、 いたる所に巨大な筒の輪切りのような建物がある。 151
目連は鉢に飯を盛って母に食べさせようとしたが、母がロに入れようとすると炭とな って燃え、どうしても食べさせることができない。目連は悲嘆に暮れ、ブッダのもと に駆け戻った。 ブッダが言うには、母の罪は深く、目連一人のカではどう救いようもない。しかし七 月一五日の安居あけの日、徳の高い十方衆僧にさまざまな料理と果物、壺や器、香 油、燭台、臥具など、この世のすべての良きものを供え、信者が心を一つにして清浄 な戒めを行い、祈るならば、その功徳によって現在の父母が健康なものは一〇〇年の 寿命を得、七代の父母は天国に生まれ変わる。ブッダの弟子で親孝行なものは、心の 中でいつも父母のことを思い、毎年七月一五日には生んでくれた父母のことを思っ て、仏僧を厚く供養し、父母の恩に、 幸しる。すべての弟子はこの方法を行うべきである。 目連は、喜んでブッダの言葉に従い、餓鬼道に落ちた母を救い出したという。 この経典に登場する目連 ( マウドガリャーヤナ ) とは、神通力において随一の能力を持ってい たとされる「神通第一」の高弟である。物語は、その神通力をもって目連が母親の死後の世 界を見たことに始まっている。「餓鬼道」という具体的な死後の世界が前提とされているほ か、生きている者の供養・功徳によって死者を救済できるという積極的な教えが説かれる。 不思議なのは、この経典の作者が、母親の「餓鬼道」墜落の原因である罪を明らかにせす 沈黙していることである。これをめぐっては、後世さまざまな解釈が出されているが、子 を愛する母親ならば誰しもが持つ「子煩悩」の罪ゆえ、という説が最も有力である。他人を 押しのけても自分の子に美味しい食物をえようとし、出世させようとする母親の「業」と 第四章中国にみる仏教の変容 124
台湾てはさまざまな神が身近に存在している。この地ては、観音菩と 関羽、媽祖が同じ場所に並んでいても何の問題もないのだ。約一一六〇年 の歴史をもっ台北最古の寺、龍山寺て端的にその混淆した姿をみること ができる。この寺を中心に、台湾の人々の信仰の様子をみる。 龍山寺と台湾の信仰風景 円通宝殿の主、観音 仏祖。 192 十ハ羅漢像。地蔵菩薩を中心に、僧衣をまとった諸仏と 中国風の衣装をつけた神か混在して祀られている。
普陀山・慧済禅寺西方三聖 ( 右か ら、大勢至菩薩、阿弥陀如来、 観音 ) わかる この台北の竜山寺は仏教の大寺院であり、主尊に観音菩薩を祀っている。しかし奥殿には道教 ろそしんかんてい の呂祖神や関帝などが祀られている。もうもうたる香煙の中で大勢の庶民が熱心に祈っているこ の寺は、仏教の寺というよりも、庶民の願いを叶えてくれる神さまがいる廟に近い。同じく台湾 ろくこ、フ ちゅうせいニャンニャン の鹿港の竜山寺も観音仏祖が主尊だが、街の神さまの境主公や註生娘娘が祀られている。 しんこう 台湾各地にある竜山寺の本家は、福建省晋江県安海鎭の竜山寺であり、ここも観音菩薩が祀ら アモイ れている。廈門の南普陀寺の大悲殿には千手観音が祀られ、信者の香煙が絶えない。南普陀寺と は普陀山の南にある観音霊場の寺なので、このように呼ばれているのである 中国人、特に台湾の人々が仏教の尊像の中で最も信仰しているのは観音である。観音は種々の 祈願を叶え、ご利益が多いと信じられているからである。 観音を祀る仏寺には祭壇に実にさまざまな供物が並べられ、線香の煙が絶えない。これをみても 釈迦や阿弥陀仏よりも観音を拝んでご利益を授かることを祈願し、信仰していることがわかる。 一般に神仏にすがってご利益を授かろうと祈願するのは男性より女性の方が多いが、若い男女 が一心に祈願している姿も見かける。 廟や寺にはいろいろの観音が祀られている。民衆のさまざまな願いに応じるため、多くの観音 像が生まれた。『法華経』普門品では、観音は種々に姿を変えて衆生を救済する三十三応現身を説 き、浄土教典では観音は大勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍として西方三聖を形成する。密教 では聖観音をはじめ、その大悲大慈のはたらきを多面多臂によって強調し、千手観音・十一面観 けんさく いりん じゅんてい へんげ 音・不空羂索観音・如意輸観音・准胝観音・馬頭観音などの変化観音が考えられ、また中国では水 月観音、白衣観音、楊柳観音などが創り出され、民衆の祈願の対象となった。観音菩薩こそ東ア ( 写真】赤津靖子 ) ジアの民衆に信仰されている最も親しみ易い菩薩だといえよう。 第五章現世利益と観音信仰 174
司中国仏教新しい宗教の誕生 京 南 それは、およそ二〇〇〇年前のことだったという。 中 インドから旅立ち、東へ東へと向かった仏教は、かっ てない壮大な出会いを体験した。相手は中国である。 さまざまな神々とともに暮らし、伝統的儒教のモラル 金 すをこの世に生きる術としてきた人々は、この西からやっ 究 研て来た新しい思想を簡単に受け入れたわけではない。中 国が仏教を自らのものとしてゆく過程には、乗り越えな くつかの大きな壁があった。言葉の間 夸鸚 ~ ? 版ければならないい 典題がある。さらには、それまでの中国にはなかった概念 韲ミ冒詈。漢や存在を、どう解釈するかと」う間題も生まれる。中国 にはブッダ死後、数世紀間に編まれた膨大な経典がその 成立順序も内容もバラバラなまま一挙になだれ込んで来 た。経典間の矛盾も当然のことながらあった。 インドの仏教は、ブッダ自身が何も書き残していない ようにロ伝を主とする。対する中国は、歴史を重んじ、 記録を尊重する民族であった。「歴史の民」に出会うこと により、経典は徐々に整理され、それぞれの解釈によっ て歴史の時間軸に置かれ、体系化されていった。 プロローグ
墓地内にある土地公 のの、供養の最終目的は常に「この世ーの自分や家族への果報に結びついていた。 「あの世ーでの死者の不幸は、実は、「この世ーの自分たちの不幸なのだった。 許さんが、大陸の先祖以来、身体感覚として受け継いできた「あの世」観を形作ってきた ものは何なのだろうか 精進料理を食する仏教徒である、と私たちに向かって語る許さんは、風水師として村人 の相談に乗りもし、その家の祠堂に多くの民間道教の神々を祀りながら、中央には観音菩 薩の仏画を掲げる人物である。さまざまな信仰が至極当然といった顔をして許さんの中で 入り交じっている。その中から「仏教的、といわれるものを峻別して取り出すのは容易なこ とではない。なぜならば、許さんにとって現在ここにある生活すべてが、本人の言葉を借 りるならば「仏教的 . であるからである。 間題は、死者供養を勧める「盂蘭盆、の行事や、その背景にある強烈な死後の世界「あの 世」観が、インドに生まれた仏教によって形作られてここにあるのか、それとは異なる伝 統の中で築かれてきたものなのか、ということである。 果たして、ゴータマ・ブッダは「あの世をどのようにとらえていたのだろうか 彼は、死や、死後の世界についてどのように語ったのだろうか フッタの「あの世」 自分は死んだらどこにゆくのだろう 誰しもが一度はとらわれたことのある考えだと思う。 日本人の多くは、地獄・極楽という死後の世界を考えるだろう。そして気がっ 第四章中国にみる仏教の変容 120 く。間
東アジア仏教と「あの世」ーー生まれ変わる「ブッダ」の教え 巨大な胃袋・中国大陸 インドに生まれたブッダの教えは、険しい山脈と炎熱の砂漠、海原を乗り越えて中国大 陸まで迫って来た。仏教東漸最果ての島・日本まであとわすかの道のりである。 これからの章は、中国大陸を源とする仏教圏が取材の舞台となる。 東は朝鮮半島から、日本・台湾といった島々、そして南は中国大陸に隣接するベトナム までを含む地域ーーーその広い海域を「東アジア」と呼びたい。現在、複雑な国境線によって 分けられているこの地域は、古代から黄海、東シナ海、南シナ海、太平洋で連なってい た。波濤を越えてさまざまなものが漂着し、人々が流転を繰り返した一衣帯水の地域であ からてんじく る。その一隅にある日本において「唐・天竺」という言葉があるように、「東アジア、仏教の 起源は、はるか彼方のインドと並び、むしろそれ以前に中国に求められる。 「東アジア」の仏教が中国大陸を母体としていることの歴史的痕跡は、共通の経典一言語・漢 字にも見ることができるだろう。 インドから伝えられた数々の経典は、中国においてことごとく漢字に翻訳された。言葉 は、目に見えない概念にも、音や文字といった実体を莎えてゆく。したがって、西から来 た異国の言葉を翻訳するということは、思想自体を翻訳してゆく作業に等しい 中国の人々は、この翻訳作業に命がけで取り組んだ。原語の意味を中国の漢字で表現で 第四章中国にみる仏教の変容 112