ブッダの素顔 ハーミャン探訪記 興亡の歴史 一九九八年四月、われわれはアフガニスタン中央部にあるヒンドウークシュ山中の町バ ーミャンを訪れた。世界遺産ともなっている有名なバ ーミャン仏を取材するためである アフガニスタンは一九七九年のソビエト軍による侵入以来、もう二〇年近く戦火が絶え ンとヾ ない国である。ソビエト軍は去ったが、現在もイスラム原理主義勢力タリ ャン周辺に根拠する少数民族ハザラ人は、対立抗争を続けている。 アフガニスタンへはパキスタンから入るのが一般的である。しかし、タリ ーン支配地 域を通る陸路は危険で、空路でも直接バ ーミャンに至ることは、安全上不可能であった。 われわれは国連の下部機関である ( 国連アフガニスタン人道援助コーディネート事務 所 ) の飛行機に便乗し、 ハーミャンの西八〇キロの地点にあるヤコウランという町に降り た。そこでトラックをチャーターして、ヒンドウークシュの尾根づたいにバ ーミャンを目 指した。雪解けでできたぬかるみに何度も車輪がはまり込み、八〇キロの道のりを四〇時 間かけ・て、 ハーミャンにたどりついたのである バーミャンは東西に一〇 5 一五キロ、南北は広い所で二 5 三キロの小さな峡谷地帯であ る。川の水が豊富で支や果樹はよく育つが、農地が少なく、農業だけで成り立っ所ではな しかし、海抜四、五〇〇〇メートルという急畯な高峰が何十、何百と連なるヒンドウ 第三章無常の仏・バーミャン
しかしプッダの素顔、あらゆる飾り、方便、「慈悲」をもそぎおとした究極のブッダの顔 は何かといわれれば、それは「空」を表すものでなければならないと思う。その顔が、ここ にある。一〇〇〇年の時の流れの中に、目も鼻も口も洗い落としたバ ーミャン大仏の「空」 の顔こそ、ブッダの素顔であると思う。 「空」の素顔に「慈悲」を読みとるかどうかは、恐らく人間しだいなのだろう。 一九九八年九月、アフガニスタンの少数民族ハザラ人の拠点バ ーミャンは、イスラム原 理主義勢力タリ ーンの攻撃を受けて陥落した。これに前後してタリ ーンは、アフガニ スタン北部の敵対勢力の制圧にも成功、国土のおよそ九〇 % を手中に収めた。この原稿を 書いている九八年一〇月現在、アフガニスタンにおけるタリ ーンの優勢がくつがえる兆 しは見えない。 ーミャンの陥落直後からタリ ーンによる略奪・破壊と現地住民に対する暴行・虐殺が 伝えられている。主としてパシュトウーン人からなるタリ ーン将兵の、ハザラ人への憎 亜は架く、 ハザラ人であれば女性や子供といえども危害を加えられる可能性が高い。 ブッダの「慈悲」を信じ、ジャウィードくんが生きていることを願わすにはいられない 第三章無常の仏・バーミャン
ルポ バーミャンの 石窟寺院 バーミャンの石窟寺院 インドではやがて仏教は衰えていくが、その教えはシルクロードから中央アジアへとつなかっていった。ヒンド ゥークシュ山中にあるバーミャンはその入口であった。現在、この地域はアフガニスタン内戦の中にあり、その 遺跡の調査は中断している。 五五メートルの高さの 西大仏。
奥の岩山に西大仏が見える 底的に破壊されたであろう。アフガニスタンは「文明の十字路」と言われる。次から次へと 征服者が現れ、繁栄と滅亡が繰り返された。そのアフガニスタンの中でもバ ーミャンは、 興亡の歴史が、他のどの地域よりも分厚く堆積している土地である。 「空」のオプジェ 大仏が刻まれているのは、峡谷の北側の岩山である。はば一枚岩のように見える岩壁が 一東西に長く伸び、 ハーミャンの町のどこからでもよく見える。この岩壁に、二キロほどの 間隔をおいて、二体の大仏が刻まれている。五五メートルの高さを誇る西大仏と、三八メ ートルの東大仏である ( 普通、ジャーナリスティックに「バ ーミャン大仏」というと西大仏を取り上げること が多い。この章でも西大仏を指すことにする ) 一九八〇年代初頭バーミャンを占領したソビエト軍は、この山の平坦な項上部の一面に 地雷を埋設するとともに砲台をいくつも据えて要寒化した。ソビエト軍の撤退後は、ハザ ラ人の軍隊がそれを引き継ぎ、パシュトウーン人やタジク人など、アフガン内の他民族と の戦いに備えた。西大仏も東大仏も、頭の上には地雷が埋まっているわけである。 岩山の麓、大仏のまわりに人を遮るものは何もない。足元から巨像を見上げてみる。当 然だが玄奘の記した金色に輝くプッダの姿はもはやない。色や質感はまわりの岩壁と同じ で、その分フォルムが強調される。あまり人為の造型という感じはしない糸に 造型ではないのだが、この仏像を作った人間や、それを仰ぎ見た人間の思いや体温といっ たものがきれいに洗い流されていて、今見るわれわれに安易な意味付けを許さない。代わ りに物そのもの、形そのものの力が充満している。最も強烈なのはやはりそげおちた顔だ。 第三章無常の仏・バーミャン 0
フッダは突きはなす けて中インドのマトウラーに置いていたという。初期の仏像の制作にクシャーンという 「他者。が大きく介在しているのは間違いないように見える。 騎馬民族クシャーンの相貌 ウズベキスタン共和国スルハンダリア州、クシャーン族の故地であるという。ソビエト 時代、南を流れる大河、アム川の水をひいて綿花栽培を始めたが、もともとは砂漠同然の 荒れ地である。 河原で上地の人たちが「ウローク」と呼ぶ競技が始まった。アフガニスタンやパキスタン で「ブズカシ . と呼ばれる競技である、羊の肉を馬上から奪い合う荒つばいゲームだ。三〇 人ほどの男たちが馬に鞭をふるって縦横に走る。羊肉をめぐってたくさんの競技者が集中 「ブズカシ」に興しるウズベキス タンの人々 し、おしくらまんじゅうのような状態になる。馬のいななきと、叱咤する男たちの声が交 、こ、けたてら 錯する。撮影のためにわれわれは馬の脚から数十センチという所まで近づしオ 」′れた砂が頬にあたる。通訳をしてくれたキムさんは韓国系の好青年だが、奇声をあげて馬 を叩き合う男たちを間近にして思わす「いやあ、野蛮人だ」と声が出た。見方によるのかも しれないが、馬上の男たちの顔は輝いて見える。「高貴な野蛮人」という西洋の言葉を思い だした。 、北インドから今の中国・新疆ウイグ 紀元一世紀 5 三世紀にわたっておよそ二〇〇年リ ル自治区に至る広大な地域に帝国を建てたクシャーン族は、その帝国の崩壊とともに四散 し歴史の波の中に消えている。眼前の馬上の男たちにクシャーンの血が流れているわけで ( ないか、この地に生きる騎馬民の猛々しさは時間を越えて伝わってきたように思えた。
ブッダは突きはなす に記載され、一般にもよく知られている。しかし、この説では説明かっかないことかいく つもあることが現在分かっている。 ますひとつは、仏像が生まれたとされる一世紀頃には、ガンダーラにおいてギリシア人 が活発に活動した形跡がほとんどないことである。アレクサンダーのインド遠征は紀元前 三二五年。仏像が誕生したのを紀元五〇年とすると、その間に四〇〇年近い隔たりがあ る。アレクサンダーの率いたギリシア軍の一部は、確かにヒンドウークシュの北、現在の アフガニスタン北部に王国 ( グレコ日バクトリア王国 ) を作っているが、紀元前一四〇年頃には それも崩壊し、以後目立った活動はない。亡国のギリシア人がヒンドウークシュを越えて ガンダーラに移り住み、仏教に出会ったというのはロマンチックかもしれないが、何千体 何万体という仏像を何世紀にもわたって生みだしたガンダーラ仏教文化の担い手としては あまりに線が細い。 フーシェ説で説明がっかないもうひとつは、ガンダーラとはば同じ時期、マトウラーで イ像か誕生していることである。マトウラーの仏像はガンダーラ仏とは様式が違う。彫り ギリシア調の顔立ちを持っガンの深いギリシア神像風ではなく、伝統的なインド彫刻の流れをくんだ全く別種の作風であ ダーラの仏像 る。石質の違いもあるが、ガンダーラ仏は緑色や暗灰色といった寒色系の落ちついた仏像 か多い。見る人を深い瞑想にいざなうタイプのブッダである。対してマトウラーでは、赤 い砂岩に、肉付きがよく、力感のある、見ていると元気が出るようなブッダを刻んでいる。 このマトウラー仏の誕生にギリシア人が関したとは到底考えにくいのである。 ギリシア人ではないとしたら誰か ~ フーシェ以後、さまざまな学説が提出されたが決 を
関する新たな証拠」と題する注目すべき論文を発表した。これに刺激される形で、フランスのフ ュスマン、アメリカのカーターといった学者も仏像の起源についての新しい見解を次々に発表し ている。ここでは、それらを遂一紹介する余裕がないので、それらを踏まえて若干の私見を述べ てみよう。 インド系金貨から見えてくること 現在確認できる最古のブッダ像は、アフガニスタン北部のティリア・テべ古墳から出上した、 インド系金貨に表されたものであろう。その金貨には、法輪に手をかけて廻すゼウスもしくはヘ ラクレスのような姿の人物像が表され ( 尻尾があるように見えるが、左肩から掛けている獣皮が垂れ下がっている のだろう ) 、カローシュティー文字で「法輪を廻す者 ( dh m ak 「 ap 「 av ミ k 。 ) ーという銘が刻まれている 銘から見る限り、ブッダ像に相違なく、 一世紀初め頃にまで遡る、人体像で表された最古の仏像 といえる。この金貨の裏には獅子と三宝標が表され、「畏れを追い払う獅子 ( s 一 h 。一 g ミ bh きことい ティリア・テべ出土金貨 う銘があり、ブッダの象徴的表現をとっている。この金貨は類例のないユニークなものである 右は表で法輪を廻す者。左は裏 で畏れを追い払う獅子か描かれが、ブッダを百獣の王たる獅子に見たてたり、輪宝を転する世界支配者たる転輸聖王のイメージ ている。 とダブらせたりしている点が興味深い。ブッダは修行の末に菩提樹の下で深い瞑想に入り、橋り を得たといわれるが、ここでは法輪を廻す者として、精神的な世界支配者、王者的な性格が強く 現れているといえよう。 「梵天勧請」か語りかけていること 一世紀前半ないし中頃のガンダーラ仏として、スワートのプトカラ—出上品中の第一グルー プの浮彫彫刻、およびそれと様式的に類似する一群のガンダーラ浮彫が挙げられる。それらの中 には、釈尊の存在を、「三道宝階降下」のように仏足跡で、あるいは「梵天・帝釈天の円輸光の礼 拝のように円輪光で表す例もある。従来、ガンダーラ美術においては当初から仏像表現が行わ 第ニ章「色即是空」と「空即呈色」
みから、「救い」の思想 ( 大乗仏教 ) とともに仏像は生まれたという仮説は大いに刺激的である。仏 教美術、文献学、中央アジア民族史など、各分野の先進的研究の成果を踏まえている。シリ ズ中、「仏像誕生 , の企画が最も早くから、明確な姿を現していた。 二年あまりの取材、制作期間を経て、「ブッダ・大いなる旅路 . のプロジェクトは終了した。 多くの期待を集めての旅立ちであった。しかし、その期待はさまざまであった。仏教の歴史を 分かりやすく教えてはしいと言う人、ブッダの教えを映像を駆使して見せてはしいと言う人、 「癒し」をえる番組がよいと一一一口う人、アジアのむを描いてくれと言う人。期待の多様さにあり がたい戸惑いを感しつつ、取材は進んだ。しかし、その全てを満たすことはできなかった。番 組ですくい上げられなかった多くの期待の少しでも、本書が補い、満たしてくれることを希望 する。 本書と番組は、執筆をいただいた方以外にも、多くの方々の協力により、生まれた。ロンド ン大学教授・シムス・ウィリアム氏、同ジョー・クリプ氏、東海大学教授・定方晟氏、金沢大学教 授・杉本卓洲氏、在パキスタン日本大使館公使・小林弘裕氏、同一等書記官・滝崎成樹氏、前国 連アフガニスタン特別ミッション上級政務官・高橋博史氏、木本有子氏、アーセフィ・ファルク 氏、ムサッファル・ザヒード氏、国際仏教学大学院大学教授・鎌田茂雄氏、白鳳女子短期大学学 長・山折哲雄氏、佛教大学助教授・高橋伸一氏、ベトナム在住の高橋秀明氏、台湾大学教授・江 燦騰氏、永平寺別院長谷寺のナーラダ・ラブガマ氏、駒澤大学教授・田上太秀氏、同片山一良 氏、そのはか、三会寺、千本釈迦堂大報恩寺、愛宕念仏寺などの協力者の皆様に深く感謝申し 上げます。 ( Z エンタープライズ エグゼクテイププロデューサー船越雄一 ) あとがき 224