カニシュカ王を描いた金貨 ( 大 英博物館 ) ブッダは救いとる いのにわき起こった意志であるブッダの「慈悲」を、大乗仏教では「一点無縁の慈悲」として 尊崇する。スワートの人たちが数世紀にわたって梵天勧請像を彫り続けたのは、この「無 縁の慈悲」に対する熱烈な信仰の故ではないだろうか 信仰は恐らく無常や「空」といった非人間的真実に対しては起こらなかった。それは、ゼ ロ地点でこの世に戻って民衆を救うことを選択した、ブッダの意志に呼応するものとして まき起こったのである。 バックス・クシャーナ 北方異民族の侵入によってまき起こったインドの混乱は、クシャーン族の武力によって 紀元一世紀末頃には収拾に向かった。続く二世紀、有名なカニシュカ王が出現する。王は 西のローマ、東の漢というューラシアの二大帝国の中間に位置する地の利を生かし、海陸 のシルクロードを通じた中継貿易で莫大な富をインドにもたらした。「パックス・クシャー ナ、 ( クシャーンの平和 ) の到来である クシャーン帝国の二つの中心地、ガンダーラとマトウラーで仏像の制作が一気に花開い 。「空」の回路によっ た。大乗の経典も陸続と出現する。「法華経 . 「華厳経」「阿弥陀経」 : てこの世に呼び戻されたブッダは、これらの経典の中で次第に超人化・絶対神化してくる。 仏教寺院は俗人の信徒が寄進する黄金や宝石で飾られ、キラキラと輝く。そうした光景は 「無常」なものへの執着を断ち、できるだけ無所有を旨としたブッダの教えにはなじまない ものに見える。しかし、こうした大乗仏教の姿がブッダの教えと矛盾することはない。す べての大乗経典は、根本で般若経の「空」の思想を認めるからである。経典の中でブッダが
ウズベキスタン共和国スル八ンダリア州。 ここはクシャーン族発祥の地といわれてい る。現在、クシャーン帝国との、直接的なつながりを示すものは少ないが、そこには、 クシャーンの時代から綿々と引き継がれてきた草原の暮らしがあった。 この地で今も好んで行われるウロークと呼はれる 競技 ( ゲーム ) 。三〇人ほどの男たちか馬にまたか り、羊の肉を争奪する。ボロ ( 馬に乗った選手か スティックでボールを打ち合いゴールをねらう競 技 ) の原形となったともいわれている。男たちは 荒々しくもこなれた動きで馬をあやつる。そこに はまさに「騎馬民族」の血が感じられる。
フッダは突きはなす けて中インドのマトウラーに置いていたという。初期の仏像の制作にクシャーンという 「他者。が大きく介在しているのは間違いないように見える。 騎馬民族クシャーンの相貌 ウズベキスタン共和国スルハンダリア州、クシャーン族の故地であるという。ソビエト 時代、南を流れる大河、アム川の水をひいて綿花栽培を始めたが、もともとは砂漠同然の 荒れ地である。 河原で上地の人たちが「ウローク」と呼ぶ競技が始まった。アフガニスタンやパキスタン で「ブズカシ . と呼ばれる競技である、羊の肉を馬上から奪い合う荒つばいゲームだ。三〇 人ほどの男たちが馬に鞭をふるって縦横に走る。羊肉をめぐってたくさんの競技者が集中 「ブズカシ」に興しるウズベキス タンの人々 し、おしくらまんじゅうのような状態になる。馬のいななきと、叱咤する男たちの声が交 、こ、けたてら 錯する。撮影のためにわれわれは馬の脚から数十センチという所まで近づしオ 」′れた砂が頬にあたる。通訳をしてくれたキムさんは韓国系の好青年だが、奇声をあげて馬 を叩き合う男たちを間近にして思わす「いやあ、野蛮人だ」と声が出た。見方によるのかも しれないが、馬上の男たちの顔は輝いて見える。「高貴な野蛮人」という西洋の言葉を思い だした。 、北インドから今の中国・新疆ウイグ 紀元一世紀 5 三世紀にわたっておよそ二〇〇年リ ル自治区に至る広大な地域に帝国を建てたクシャーン族は、その帝国の崩壊とともに四散 し歴史の波の中に消えている。眼前の馬上の男たちにクシャーンの血が流れているわけで ( ないか、この地に生きる騎馬民の猛々しさは時間を越えて伝わってきたように思えた。
ある中インドまでインド西半分を短期間で制圧してしまう。最盛期の王カニシュカの時代 には、クシャーン軍はかってブッダが生き、死んだガンジス中流域まで進出し、ほば北イ ンド全上がこの異民族の支配を受けることになったのである。 具体的なデータはないが、この征服が大規模な殺戮、流血をともなったことは間違いな 仏教側にも前述の『マハ ーラタ』と同様の戦乱の濁世を描いた経典がある。『転輪 聖王獅子吼教』という古い教典は「人々が互いに鹿を逐うように殺し合う」この時期を「刀兵 の中間劫 . と表現している。戦禍によって家族を殺され、畑地を荒らされ、家屋を失う者 が大量に発生したことだろう。 しかし、一方でこの乱世が契機になって生まれたように見えるものがある。他でもない 仏像である。 世界史の年表を開いてみよう。最初の仏像が誕生したのは紀元前後から紀元一世紀、ガ ンダーラとマトウラーで大々的に作られるのは二、三世紀である。このとおりであれば仏 像はインドの古代史上、類例がないほどの大規模な異民族の侵入のさなかに誕生し、その 後インドを制圧した異民族王朝クシャーン帝国の時代に一気に華開いたことになる。単な る時間の符合だけではない。クシャーンと仏像を結ぶ地理的な手がかりも存在する。仏像 制作の中心となったガンダーラとマトウラーは、それぞれ西北インドと中インドにおける クシャーンの拠点、都であったのだ。遊牧民であったクシャーン族は季節によって首都を 変えていた。それは、夏期には暑気をさけてヒンドウークシュの北麓にあったが、春と秋 には気候の良いガンダーラのプルシャプラ ( 今のペシャワール ) に移動し、冬の都は寒気をさ 第一章仏像誕生の謎
ウズベキスタン南部のハルチャヤンから出土したクシャー ンの人物や馬の像。 やが ( 仏教に帰依した。帝国を治めやすくするたカササン朝ベルシャによって滅ほされ、現在、彼 めの単なる知恵か、それとも悪逆非道の行いに対らの姿を伝えるものはほとんど残ってない。しか クシャーン族とはどのような人々だったのか。馬する悔怡の今 ) か。王は第四回の仏典結集や数々のし、仏教はシルクロードから中国へ伝わり、今な を駆り、草原を渡り山を越えて容赦のない武力て寄進を行ったという。どのような仏教徒だったのお多くの人々の心をとらえ続けている。 他国を征服し勢力をのばし、四代目の王カ二シュ だろうか。ところが、クシャーン帝国の栄華はそ 力に至って大帝国を築き上けた。カニシュカ王はう長くは続かなかった。三世紀には西からの新勢 クシャーンの物語 第ニ章「色即呈空」と「空即是空」
第 7 町では結婚式か行われていた。美しい伝統的な衣装に身を包んだ両家 の家族、親戚、仲間たち。彼らは必すしもクシャーンの子孫というわ けでもないかもしれないか、クシャーン帝国か盛衰したこの地でこう して結はれ、やかて子を生み育てていく。時は流れ時代は移り変わっ ても、こうした人の営みは変わることはないだろう。 式の一場面。花嫁 はべールで顔を覆 っている。
三ッ当 ペシャワールは今 も交通の要衝地ありとあらゆるも のが集まる市場 クシャーン帝国は東西の交易により隆盛をきわめた国だった。その首都だったペシャワール ( プ ルシャプラ ) には多くの隊商や旅人が訪れ、東西の物品が集まった。交易国家クシャーンの特徴 が凝縮されたいたこの街には、今も活気ある市場 ( 八サール ) が立ち並び、多くの人々が集う。 第ニ章「色即呈空」と「空即是空」 ペシャワールの市場 刺繍された帽子を 売る少年。 きらびやかな貴金 属店。
ルフ 仏像の 誕生 仏像の誕生 紀元前五、四世紀のブッダの死後五 00 年、仏像か作られることはなかった。歴史の大きなうねりの中、「救い」をキーワー ドに仏教の教義は展開し、ついに紀元一世紀頃、ガンダーラとマトウラーで仏像か作られるようになる。大乗仏教のはしま りも同し頃であった。 カニシュカ舎利容器シャージー キー・テリー出土 ( ペシャワール 博物館蔵 ) 容器にクシャーン帝国のカニシュ カ王の姿かあり、その王の上にプ ツダ像 ( 梵天勧請 ) かある。武力で インドを制圧したクシャーンの王 か、仏教に帰依したことを読み取 ることかできる。梵天勧請は最初 期の仏像によく見られたモチーフ でもあった。
騎馬民族クシャーン 中央アジアの騎馬民族クシャーンは、紀元一世紀半はにインドに侵攻し、各地に版図を広げていった。やかて東の 騎馬民族 漢、西のローマ帝国を交易で結ぶ一大帝国となるか、その最盛期の王かカニシュカだった。彼は破壊の限りをつくし クノヤーンた後、仏教に帰依した。彼の時代に仏像か生まれ、仏教は中央アジア、シルクロードへと伝わ 0 ていくことになる。 カニシュカ金貨カニシュカ王はその権勢をほこるために、ローマ帝国から もたらされた金貨を鋳つぶして、自らの姿を刻ませた。その裏面には、いろ いろな神々か入れられたか、やかてそこにブッダか登場した ( 金貨左にギリ シア語で「ホッド」と刻まれている / 写真上【大英博物館蔵 ) 。
新馬民族クシャーン カニシ = カ王立像マト ウラー出土ニ世紀中期 ( マトウラー博物館蔵 )