境内に集まる童乢の神輿 雷蔵寺大雄宝殿 土着思想と台湾仏教 ひょ、フい 招ぎ下して自らに憑依させ、観音の化身として予言・託宣・治病などを行うことである。童乢や厄 姨が観音自身として作製した護符は霊験ことのほかあらたかなものとして珍重される。ここで は、観音像は魂を具えているとされる点でアニミズムを代表し、童乢などに憑依することでシャ ーマニズムの役割を担っていると言えよう。 ところでこうした民間の観音像は、年に一度か二度、その地域の観音センターと目される寺廟 に、童乱や信者たちの手で神輿に乗せられて運ばれ、センターの大観音に挨拶するということが ある。崗山超峯寺の観音はこの地域の中核になっており、春三月の観音聖誕祭には地域の童乱 ( シャーマン ) 廟の像が神輿に乗って何十となく寺の境内に参集する。 一つ一つの像は観音堂内に半ば神がかったような信者群によって運ばれ、大観音像と対面し、 こ、フろ さらに大香爐の線香の煙を御体に浴びたのち、ドラやドラムや爆竹の音の中を各自の廟に戻る。 かくすることにより各観音像の〃カ〃は更新すると信じられている。ここには、先の分類の②の性 格が浮かび上っていると言えないだろうかそこには仏教と上着宗教とが際どいバランスにおい て共存している姿が見てとれるからである。 らいぞ、つじ ・雷蔵寺 南投県草屯虎山の山中に位置する雷蔵寺は、師が主宰する中国真仏宗密教総会によって運営 される寺である。この寺は民国八二年 ( 一九九三 ) 七月七日に落慶式を終えたばかりで新しい。壮大 ようちきんば れん なっくりの大雄宝殿一階正面の須弥壇上には、最奥中心に巨大な無極瑤池金母大天尊像、右に蓮 ぎぎ げど、つじ 華童子像、左に観世音菩薩像が巍巍として佇立し、一段下に小型の五方仏像、その下中央に本寺 住持の師像、右手に地蔵、不動明王、左手に薬師仏と準提仏母像が、さらにその下部に立っ こうざいしん 四大天王像に護られて在る。殿内ホールの右端には城隍神、左端には紅財神の大型像があり、 この空間が仏道混交を示していることがわかる。宝殿の一一階正面中央には、やはり巨大な阿弥陀 そうとんこんざん 201 じよ、フこ、つしん
ハルチャヤン出土のクシャーン 王像 ( タシュケント・八ムサ学術 研究所蔵 ) このスルハンダリア州のハルチャヤンという場所で、ソピエトの学者がクシャーンの宮 殿跡と見られる遺構を発掘、クシャーンの貴族、あるいは王と見られる何人かの人物の塑 像を発見している。現在それらは、ウズベキスタンの首都タシュケントのハムザ学術研究 所に保管されている。見る者に強い印象を莎える像である。特に目をひいたのは二体の男 生像であった。 ひとつは馬上の戦士像である。はちまきのようなものを巻いた壮年の男の顔と馬の頭 部、そして男の腕の部分が残っている。力強い写実的な作風だ。もうひとつは王と目され る男の立像。これはほば全身が残っている。がっしりした骨格の体にのった小さめの頭、 顔の表情は騎馬の戦士像より内面への興味をかきたてる。恐らくそこには温かみや優しさ という要素はない。酷薄。ニヒル。あごをひき、やや目を伏せ、ロを固く結んだ様子は、 変なたとえだが居合い抜きの刀を抜く直前の武芸者のようである。スタティックな構図の 像だが、全身が殺気を孕んでいるように見える。遊牧騎馬民は農耕民のことを、土にしが みついて生きている虫のような連中、と見下す傾向があったという。そういう騎馬民の傲 きょ′」、つ 、倨傲というものがリアルに発散している像であった。 話をインド人の側に戻そう。異民族がやって来るまでインドの農民は一種牧歌的な日々 を送っていた。種をまき、それが実れば刈りとる。また種をまき、実りを得て刈りとる。 自然のサイクルに忠実に生きていけば間題はなかった。その偉大な自然のサイクルを司っ ているのがブッダであった。「法輪を転する者ーである。人々はブッダの墓ストウーバを生 への讃歌で飾り、豊穣を祈願した。しかし、永遠に続くと思われたそのサイクルは突然断 第一章仏像誕生の謎 8
ブッダは救いとる で事足れりとしたが、「空。の思想家たちは、その涅槃から再びこの世に戻ってくること が、同じ「無常」の教えから導けると考えたのである 「空」の発見とともに、仏教徒が得たものは、あの世に逝ったものがこの世に戻ってくる 回路であった。その回路を通って、ブッダがこの世に帰還してもよいはすである。この場 合、ブッダは絶対者ではない。無始より続く「無常」の回路を旅する者の一人にすぎない 絶対者は「無常」の回路そのもの、あるいは回路の中心にあって回り続けるモーターのよう な「空」である。 「慈悲」の誕生 ガンダーラ・スワート渓谷、プトカラ寺院、ここで最初の仏像「梵天勧請」像が誕生した。 はじめ世に出て説法することをためらっていたブッダに、梵天・帝釈天が懇願して涅槃 の入口よりこの世に回帰させたという「梵天勧請」の説話は、最初の仏像のモチーフとし て、できすぎている感じがするほどである。しかもスワートの人たちは、この「梵天勧請」 像を何世紀にもわたって驚くほど大量に制作している。プトカラ—遺跡のメインストウー ハのまわりには、磨耗して表情は読みとれないとはいえ、なお何体かの梵天勧請像を見つ けることができる。筆者はこれが不思議であった。あの説話はつまるところ出現のきっか けを述べた話にすぎない。救世主としてのブッダを望んでいたのであれば、何世紀もにわ たって梵天勧請像ばかりを作り続けなくてもよいではないかと思う。梵天と帝釈天はカッ トして、ブッダ単独の像に速やかに移行するのが自然であろう。しかし、スワートの人た 単なる出現のきっかけではなく、人々の ちは梵天勧請のモチーフにこだわり続けた 7 6 0 0
に近づくために「他者を救う」という性格が強調されてくるのが、紀元前後から紀元一世紀 なのである。 民衆の救済願望を受けて仏教は、「利他者 , Ⅱ菩薩の概念を編み出したのであった。それ は「悟りを求める者」であって、「悟った人 , Ⅱブッダではない。ブッダを目指す途上者であ って、あくまでも相対的な存在であるから、仏教のタブーである絶対者を立てたことには ならない。しかし利他の行為を、橋りに至る方法としてはっきり位置づけたのは、ひたす ら脱俗を説いてきた伝統的立場から言えば、大きな転換であった。 クシャーン帝国がインド支配の一大拠点を置いたマトウラー。ここにあるマトウラー博 物館に、仏像誕生以前に作られたと目される菩薩の像が、何体も収蔵されている。菩薩は ブッダではない。利他の行為を積んで悟りに至ろうとする偉大な人格ではあるが、われわ れと同じ人間である。造像をためらう理山はないのである。 マトウラー菩薩像の中でひときわ目を引くのは、高さ二メートルをゆうに超す巨大な立 像である。丸顔、広い肩幅、厚い胸板、どっしりと大地を踏みしめた足、筋骨隆々のその 姿は、仁王様のようである。災いが降りかかってきたとき、まず物理的に頼りになりそう な菩薩の像を、マトウラーの人たちは作った。 しかし民衆の救済願望は、菩薩の出現で究極的に解決できるものではなかった。菩薩は 絶対者ではないからである。同じ救済をしてくれるなら、クリシュナ神のように「私が絶 対だ。と言ってくれるはうがよい。仏教で絶対者を期待するとすれば、やはりプッダであ ろうか、それは、 いまだ厳しくタフーとされていた。 第一一章「色即是空」と「空即是色」
仏像の起源 隊の公式な見解は将来に待たなければならない。しかし、一九七四年、ファッチェーナは、出上 した多くの石彫を様式的に三グループに分け、それらにおよその年代をえる試論を発表した。 それによれば、ギリシア・ローマ的な写実性に富んだ、典型的なガンダーラ彫刻は第二グループ に分類され、それより古い第一グループの彫刻はインドの上着的な様相が色濃い。すなわち、人 物像は手足の表現は固く、姿勢は角ばっていて、肉体の量感は概略的で粗野である。頭部は大き 、眼は見開いて瞳を刻んでいる。衣文は細かな平行線で刻み、線描的な感覚が強い。 ファッチェーナは、この第一グループの彫刻が小ストウーバとの浮彫彫刻と様式的に類 似することを指摘し、最も初期のものとみなしている。つまり小ストウーハとは、層位的 に大ストウーパの第三回目の改築時のものと同一であることが認められることから、第一グルー プの彫刻群が紀元前一世紀末もしくは一世紀初めに位置づけられると述べている。 第一グループに分類された彫刻には、マーシャルによって発掘されたシルカップ遺跡のサカ・ バルティア期の彫刻と比較されるものが少なからすある。マーシャルはサカ・バルティア期には ブッダ像は見られないが、太子時代の釈迦像、つまり菩薩像は見られることを指摘していた。と 彡」こは、菩薩像のみならす、釈迦の象徴的 ころが、スワートのプトカラ—の第一グループの周亥 ( 表現、さらにはブッダ像も見られるのである。ガンダーラ美術の最初期の様相を知る上で、プト カラ—の発掘結果は重要な意義を持つものといえよう。もっとも、ファッチェーナの考察は試論的 なものであるし、第一グループの彫刻群すべてが同時期に年代づけられるかどうかは疑間である。 いすれにしても、イタリア隊のスワートの発掘成果は、ガンダーラ美術研究にとって今後ます 。とりわけ仏像の起源を考える場合、考古学的発掘調査は ます重要性をおびることは間違いない 大きな意味をもつ。ロフイゼン・ド・レーウは仏像のマトウラー起源説を積極的に提唱したことで 知られるが、彼女は晩年の一九八一年に、スワートの発掘成果を依り所にして、「仏像の起源に
観音像に鏡を向ける人々 観音菩薩のいる風景 像」建立は、最も改革開放が進む中国沿海部で行われた最大のイベントであった。 立錐の余地もないはど式典会場を埋めつくした人々は、手に手に鏡を持ち、争うように それを高くかざして金箔に輝く観音像に向けていた。聞けば、そうすることで観音菩薩の 霊力を吸収し、ご利益にあずかることかできるのだという 「私たちは台湾から来た一番大きな在家仏教団体のツアーです。二五〇人いますが、合わ せて二六〇〇万台湾ドル ( 一億円強 ) の寄進をこの観音像建立のためにしてきました」 観音菩薩はどういう存在ですか。なぜ、それほどたくさんの寄進を行うのですか 「観音菩薩は慈悲の仏様、現世利益の菩薩です。健康や財運、家内安全をもたらし、私た ちをいつも見守り救ってくださいます。観音菩薩がいることで、私たちは安心します」 誇らしげに語る男性信者。さまざまな参加者のインタビューを聞いていくうち、私は、 不思議な思いにとらわれはじめていた。ここでは、仏教の祖ともいうべきゴータマ・ブッ ダの存在感が希薄なのである。仏教発祥の地・インドから遠く離れた「東アジアーの島で、 仏教は観音菩薩への熱狂的な信仰に姿を変えていた。 観音信仰の広がり 巨大な観音像は、突如、この島に出現したわけではない。普陀山は古くから中国四大聖 地・観音菩薩の聖地としての歴史を持つ。 けごん にゆうほっかいぼん 普陀山の「普陀」とは、経典『華厳経』「入法界品 . に観音菩薩の住処として記される「補 だらかせん 陀洛迦山」に由来していると考えられる。四方を海で囲まれたインド南海上の小島が観音 ふだらか 菩薩の住む楽上とされ、「ポータラカ」と呼ばれた。その音写が「補陀洛迦」である
このような造形を示すブッダの浮彫彫刻が一〇点近く知られ、最初期の仏像の一群ではないか とみられる。仏像の起源にはまだまだ謎が多いが、ガンダーラ美術においてもブッダの象徴的表 現がみられること、釈迦の太子時代の姿、つまり菩薩像は一足早くに造形されたとみられるこ と、最初期のブッダ像は成道直後の場面、特に「梵天勧請」によって転法輪を決意した場面が目立 っことなどが指摘できる。 仏像の誕生と救い主としてのブッタ 「梵天勧請」の場面に最初期のブッダ像が表されたとするならば、それは何故であろうか。この 場面は、どのような意味をもっているのであろうか。釈尊は菩提樹の下で悟りを開き、ブッダ ( 覚者 ) となったが、梵天の要請によって法を説くことを決意したという。すなわち、 「そのとき世尊は、梵天の懇請を知り、生きとし生ける者への哀れみによって、悟った人の 眼をもって世の中を観察された」 ( 前田恵学訳『マハーヴァッガ』一・五・一〇 ) 「梵天勧請」はブッダとなった釈尊が、苦しむ人々への慈悲の眼差し、つまり〈救い〉を決意し たエピソードといえるのである ( 参照 " 前田恵学著『釈尊』山喜房仏書林 ) 。 「梵天勧請」は、自己完結的な〈悟り〉ではなく、〈救い〉主としてのブッダの誕生を意味したと いえよう。その場面に最初の仏像が表されたとすれば、単に〈悟り〉を開いた者、あるいは涅槃 に入った者としてではなく、苦しむ人々に〈救い〉をもたらす者として、人々の熱い眼差しがそ こに注がれたことであろう。実は、そのことこそが、ブッダを象徴表現ではなく、人間像として 「梵天勧請」の場面の中に表した理由ではなかろうか。人間像としてのブッダによって、初めて 人々の熱い想いを託すことができるからである。仏像の誕生は、人々に平和と豊かさを保証して くれる理想的な王者である転輪聖王のイメージをもとに、精神的な救い主としてのブッダのイメ ( 写真【筆者 ) ージが強く求められた結果といえよう。 第ニ章「色即是空」と「空即是色」 -6 8
シルクロードの仏教美術 仏坐像 ( 露坐大仏 ) の光 当背には小さな坐像か彫一一一 仏坐像 ( 露坐大仏 ) 雲岡第ニ〇窟 北魏前期 甘粛省永靖県の炳霊寺石窟には、河西回廊のる、衣を通して肉体のホリューム感を強調するれた。 東端に位置し、黄河に臨む風光明媚な地にあ表現や波紋状に衣文を表す表現などは、グプタ第一六窟から第一一〇窟にいたる「曇曜五窟」が 朝マトウラーの影響をうかがわせる。このよう最初に造られる。第一一〇窟は高さ一三・六メー 高さ四〇メートルの崖壁にある第一六九窟かな表現は、雲岡第一九窟の仏立像や四四〇年代トルの坐仏で、前壁が落ちてしまっているのて らは、西秦建弘元年 ( 四ニ〇年 ) の造像銘が発見の北魏金銅仏の様式とも関係する。炳霊寺をは露坐大仏とも称される。「曇曜五窟」の五体の仏 された。その仏像は、西域美術の影響を受けたじめ、涼州の仏教造像は、北魏前期の雲岡の造像群は、太祖以下歴代の五帝を供養するために 造られたとみられ、北魏の国家仏教的性格を如 武威を中心とする涼州の仏教造像活動の中で、営に大きな影響を与えた。 雲岡石窟は北魏の文成帝の和平元年 ( 四六〇実に物語るものであろう。 年代の明確な基準作として特に重視される。 第一六九窟北壁第七号、塑像仏立像にみられ年 ) に、沙門曇曜の奏上によって造像が開始さ 107
観音菩薩のいる風景 「南海観音菩薩像」開眼 一九九七年一〇月三〇日。中国・上海から南東におよそ一五〇キロの海上、浙江省舟山 ふだ 列島に連なる島・普陀山は、異様な熱気に包まれていた。幅わすか三・五キロしかないこの 小さな島に、中国大陸はもとより、台湾、香港、フィリピン、タイ、マレーシアなどから およそ三〇〇〇人の仏教信者が押し寄せたためである。 その日は、二年がかりで建立が進められた一体の仏像が開眼する日だった。 「南海観音菩薩像ー。総重量七〇トン、高さ三三メートルに達する巨大な観音像である。 巨額の建立費を支えたのは、この日集まった在外仏教信者、ことにアジア一帯に広がる中 国系外国人・華人や華僑からの寄進であった。自分たちの寄進による観音像を一目見、そ のご利益にあすかろうとする上陸希望者は、三万人に達した。そのあまりの数の多さに驚 いた当局は、急遽、島への渡航制限を出すほどだったという。 現在、中国では、巨大な露天仏像の建立がラッシュとなっている。戦後の中華人民共和 国の成立、文化大革命を経て新しい改革開放の時代を迎えた中国では、再び信仰の自山が 認められ、仏教も大きく息を吹き返しつつあると同時に、海外、とりわけ在外華僑を中心 とした経済交流も活発化している。巨大仏像の建立は、宗教・経済にわたって、中国に確 実に改革開放が進んでいることの現れでもあろう。その中でも、普陀山の「南海観音菩薩 第五章現世利益と観音信仰 144
ぞう 聖徳大学教授 / 東京 石田尚豊 国立博物館名誉館員 監修者のことば 古いガンダーラ仏は厚い衣をまとい、顔も西洋人風である。それに対して マトウラー仏は薄い衣を着し、相貌は純インド風である。これらの像の制作 は、クシャーン帝国の時代で、西北インドのガンダーラは西洋風の影響が強 く、インド中央部のマトウラーは純インド圏にあり、両像はよく当時の歴史 けつかふざ 的背景を反映している。これら仏像出現時の像には、すでに立像と結跏跌坐 像があるが、ブッダは本来菩提樹下で坐して悟ったのであって、立って悟っ たのでないことは重要である。この結跏跌坐は、インダス文明にまで遡ると いわれる純インドのヨーガの坐勢で、現代の神宗の坐神にまで伝えられてい る。これは力学的に最も動きにくく疲れないため、永続可能な理想的な不動 むふん の姿勢である。これによって心の動揺は静まり、とらわれの心が消えて無分 別になるや、現実を客観的に把え得るとともに、その背後の原理まで見通せ るところに、り・の原占 ~ がある ブッダの教えは、生き身のブッダと弟子との関係にあったが、没後は教え ふんべっち が集成されて経となると、知識による分析的な分別智が進み、ブッダの無分 べっ