空海 - みる会図書館


検索対象: 救いの思想大乗仏教
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1. 救いの思想大乗仏教

8 0 2 久隔状最澄筆奈良国 久日著去儔 仄・す弋朝廴 立博物館蔵最澄か空海よ り授法の翌年、空海のもと たいはん にいた弟子の泰範に宛てた 書状で、筆蹟は清爽高雅な 久打 , 一乃土支 ( ) 竹・み丿々趣きかあ 2 最澄の風格を よく伝えている。 一け神 " 各オ周もを オト第第イ . 一乃も蚤廴み第 風信帖空海筆東寺蔵 ~ 命 , , 供 1 う要請したのに対して、空 海か婉曲に断った書状て、 空海真蹟の中でも、最も優 % イ、」イな欠咋気兵 れたものとされている。、、イ山」 . ほっけいちじよ、つ 得度受戒の代わりに、叡山の山林浄業の環境のもと、法華一乗の精神にもとづき、在家信者と だいじよ、つぼさつかい 共通する簡略な戒によって、実質的に菩薩行を実践するための大乗菩薩戒を樹立し、これによ って鎮護国家を意図したが、この戒は中国にはなく、最澄独自のものであった。最澄の思想は円 かんじよ、つ 東寺講堂像東寺 ( 教王護国寺 ) ( 天台 ) 、戒 ( 律 ) 、神 ( 神行 ) 、密 ( 密教 ) からなるが、密教は不充分なため空海の灌頂をうけたが、両者 ほっそうしゅうとくいち の講堂が配された中央の大日中 の交友は断たれたため、教理の総合的統一はなされなかった。晩年は法相宗の得一との一乗三 心の金剛界五仏、右の金剛界五 だいじようかいだん 菩薩、左の五大明王の三群像乗の論争や、叡山における大乗戒壇設立に精力を費やしたが、生前には果たされなかったもの は、空海独自の構想による立像 の、最澄の純粋孤高な法華一乗の精神の昂揚は、永く叡山を貫き、後世日本仏教を左右する幾多 配置の立体曼荼羅である。 カ′、り - よ ( 写真提供【便利堂 ) の学侶を輩出した。 第七章大乗仏教の日本的展開 、、ゆ・つか・、 ) よ、つ ふ・つしんじよう

2. 救いの思想大乗仏教

: 瀁をし - を 大乗仏教の日本的展開 ーしカ せいりゅうじ 空海は入唐して長安の青龍寺の恵果から密教を学び、曼荼羅や 仏具をはじめ、最新訳の密教経典を請来した。南都仏教とも融和し かんじようどうじよう しんごんいん て、東大寺に灌項道場 ( 真言院 ) を設け、平安京の東寺を賜うなど、 にゆ、つじよ、つ 鎮護国家の実を挙げるとともに、山林浄業による入定の地を求め こん」うぶじ て、高野山に金剛峯寺を建てた。青年の日に儒、仏、道を対置し、 ろうこしいき 仏教に決着を求めた『聾瞽指帰』や、晩年に、凡夫の獣心から漸次向 上し、小乗仏教から大乗仏教の諸宗を経て、究極に密教を配する ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん 『秘密曼荼羅十住心論』には、空海の総合力が結実している。これ は教理面のみならす、筆蹟の多様性や、南都、京都の諸寺にわたる 新、教線の拡張などにもみられ、現実世界の諸現象が、そのまま大日如 ほっしん 来の法身の展開にあるとする胎蔵界の思想に通うものがある。一 方、高野山金剛峯寺の講堂像や、東寺講堂像には、金剛界を中核と ~ ヘ一する彫刻像による立体曼荼羅がみられ、これは行動を意味する羯磨 曼荼羅であれば、空海が金剛界法による実践に重点を置いているこ とがうかがわれる。金剛界における橋入は、この身のままで語りを しまん ろくだい そくしんじようぶつ 、をを等開いて仏となる即身成仏であり、その理論大系は、六大、四曼、 さんみつかじ 三密加持からなる空海の『即身成仏義』に明らかである。空海実践の ′」しちにちみしほ 極地は、死の直前に、念願の宮中真言院における後七日の御修法が 勅許を得、現在に至るまで脈々として伝承されており、これはまた 最澄在世時に点燈された法灯が、今なお叡山の根本中堂にゆらめい ていることと好対照を示している。最澄亡きあとの叡山は、円仁、 209

3. 救いの思想大乗仏教

大乗仏教の日本的展開 調査され、決して重複せすに新本の充足に務めるという、熾烈な探究心がうかがわれる。その内 りつろん 容も経以外に律や論に及び、いわゆる南都六宗の諸学派が成立した。それらは大乗仏教の根幹 ゆいしき じようじっしゅう さんろんしゅう いっさいほ、つ′、、フ はんにやはらみつ はんにやきよ、つ をなす『般若経』の般若波羅蜜をめぐって、一切法空を説く三論宗と付属の成実宗、また唯識の りつしゅう くしやしゅう ほっそうしゅ、フ 立場から諸法の有り方を説く法相宗と付属の倶舎宗の四宗をはじめ、僧団の規律を説く律宗、 け′」んしゅ、つ それに華厳宗からなる六宗である。これらの理論仏教は、仏教史のうえで大衆とかけ離れた観 念的なものとして冷遇されがちであるが、これらによる論理性の培養があったればこそ、律宗の がんじんてんだいしゅうさいちょうえんにんえんちんあんねんげんしんしんごんしゅうくうかい 鑑真、天台宗の最澄、円仁、円珍、安然、源信、真言宗の空海をはじめ、ひいては鎌倉新仏教 の成立も可能になったのであり、日本仏教における大乗仏教研究の基礎をなすものとして、重視 されなければならない 奈良時代は唐よりの漢訳経典の摂取に急であったが、最澄、空海は、大乗仏教の理解のうえに 自らの教理を考え、現実に即して実践したのであって、大乗仏教の日本的展開の端緒をなすもの である。 国家の再生 大仏建立の背後には、華厳経の蓮華蔵世界実現への理念があったが、律令制が弛緩するにつれ て、道鏡をはじめとする僧侶は世俗化し、寺院に対する支出は著しく、国家仏教は衰退してゆ ぞうじし く。これに対して粛正を企てたのが、光仁、桓武両朝である。造寺司を停廃し、私寺新設や田宅 せにゆう 園地の施入を厳禁するなど、寺院の統制を厳しくするとともに、僧尼の非行を禁じ、得度受戒を 厳正化して僧侶の資質を向上し、鎮護国家を許すという、国家仏教の再生を意図した。それゆえ 腐敗した南都から平安京に移り、新たに山林の浄行者を求めようとする。この要請に答えたのが 最澄、空海であった。 ねんぶんどしゃ につと、つ 最澄は入唐して天台宗を伝え、帰朝して自宗枠の年分度者を獲得した。また従来の形式化した 一よ、つ 207

4. 救いの思想大乗仏教

道綽生まれる。 北周、武帝の廃仏。 〇聖徳太子生まれる。 〇この頃、蘇我氏によって仏教興隆。 隋の文帝即位。仏教振興を行う。 七世紀前半ソンツェン・ガンボ王〔チベット初代王〕のとき、チベット に仏教伝わる。 玄奘生まれる。 〇「十七条憲法」制定。 六〇四 〇盂蘭盆会が始まる。 六〇六 〇法隆寺創建。 六〇七頃 善導生まれる。 七六六 この頃、道綽・善導によって浄土教が確立。 七六七 〇慧灌来日し、三論宗を伝える。 七七四 玄奘のインド遊歴。 七六、 基生まれる。 この頃、基によって法相宗が確立。 七九四 善無畏生まれる。 八〇五 慧能生まれる。 八〇六 この頃、慧能・神秀によって禅の基礎が確立。 法蔵生まれる。 八四五 この頃、法蔵によって華厳教学が大成。 九五五 玄奘が「大唐西域記」を著す。 インドでは六世紀から密教化が進み、七世紀初期に『大日経」、九六〇 七世紀後半に『金剛頂経』が成立。 九八五 〇行基生まれる。 一〇五一一 義浄のインド遊歴。 五六一一 五七四 六四三 六四六 七世紀頃 資料 227 六九〇 七〇五 七四一 七五一一 七五四 金剛智生まれる。 唐の則天武后、各地に官寺大雲寺を建立。 不空生まれる。 この頃、不空によって『金剛頂経』、善無畏によって『大日経」 が訳され、中国密教が確立。 〇日本最初の火葬が行われる。 唐の玄宗、各地に開元寺を建立。 〇各地に国分寺・国分尼寺を建立。 〇東大寺大仏開眼供養。 〇鑑真来日し、律宗を確立する。 〇この頃南都六宗〔三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・ 華厳宗〕が成立。 〇道鏡が法王となる。 〇最澄生まれる。 〇空海生まれる。 以後、盂蘭盆会が年中行事となる。 〇最澄が比叡山に延暦寺を創建。 〇円仁生まれる。 〇最澄が天台宗を伝える。 〇空海が真言宗を伝える 〇空海が高野山に金剛寺を創建。 唐の武宗の廃仏。 後周の世宗の廃仏。 宋の太祖の仏教復興。 宋の太宗が成都で蜀版『大蔵経』を刊行。 〇源信が「往生要集』を著す。 〇この年末法に入る。以後末法思想の流行。

5. 救いの思想大乗仏教

観音菩薩のいる風景 「南海観音菩薩像」開眼 一九九七年一〇月三〇日。中国・上海から南東におよそ一五〇キロの海上、浙江省舟山 ふだ 列島に連なる島・普陀山は、異様な熱気に包まれていた。幅わすか三・五キロしかないこの 小さな島に、中国大陸はもとより、台湾、香港、フィリピン、タイ、マレーシアなどから およそ三〇〇〇人の仏教信者が押し寄せたためである。 その日は、二年がかりで建立が進められた一体の仏像が開眼する日だった。 「南海観音菩薩像ー。総重量七〇トン、高さ三三メートルに達する巨大な観音像である。 巨額の建立費を支えたのは、この日集まった在外仏教信者、ことにアジア一帯に広がる中 国系外国人・華人や華僑からの寄進であった。自分たちの寄進による観音像を一目見、そ のご利益にあすかろうとする上陸希望者は、三万人に達した。そのあまりの数の多さに驚 いた当局は、急遽、島への渡航制限を出すほどだったという。 現在、中国では、巨大な露天仏像の建立がラッシュとなっている。戦後の中華人民共和 国の成立、文化大革命を経て新しい改革開放の時代を迎えた中国では、再び信仰の自山が 認められ、仏教も大きく息を吹き返しつつあると同時に、海外、とりわけ在外華僑を中心 とした経済交流も活発化している。巨大仏像の建立は、宗教・経済にわたって、中国に確 実に改革開放が進んでいることの現れでもあろう。その中でも、普陀山の「南海観音菩薩 第五章現世利益と観音信仰 144

6. 救いの思想大乗仏教

円珍が入唐し、空海以上の経典を請来したことにより、台密の教理は充実し、さらに安然によっ て大成された。それに対して東密は、空海の教理の完結度の高かったせいか、新たな進展がみら れなかった。 九世紀後半から一〇世紀にかけて、天皇の外祖父である藤原氏の摂関体制が形成されるにした がって、摂関家に保護を求めて尨大な荘園が寄進され、公領は減少し、脱落した中小貴族は疲弊 した。律令制による国家仏教は変質しはじめ、貴族仏教が栄え、以後鎌倉時代から江戸末期に至 るまで、仏教は武家政権によって統制され、準国家仏教として在続する。 律令的秩序の解体は、上流貴族の絶え間ない政権抗争を起こし、血縁につながる勝者は、権力 確保のために、私的信仰から密教の加持祈疇に頼り、現世利益を求めるようになる。他方権力か ら疎外された貴族は、逆境の中で現世の無常を感じ、来世の救済を求めるようになり、浄上教が 発達する。 げ′」しゃ てんだいざす りよ、つげ。ん しゅほ、つ 叡山においては、摂関家を外護者として天台座主になった叡山中興の良源は、学ド 引、修法の もろすけ じんぜん 実力者であった。しかし摂関家への極度の接近は、良源没後に藤原師輔の子の尋神が天台座主と なり、ここに最澄以来の学力中心の伝統は崩壊し、こののち叡山は、貴族の門閥によって占めら げんしん お、つじよ、つよ、フしゅ、フ れるようになる。しかし良源門下の逸材である源信は『往生要集』に着手し ( 九八四年 ) 、世俗化し よかわ た叡山から横川に隠棲し、著作に専念する。また横川には二五名の僧が集まり、毎月一五日夕に ざんまいえ かんがくえ 阿弥陀聖衆来迎図 ( 中幅 ) 国宝 念仏三昧を修するとともに、臨終には相助けて極楽往生を図る二十五三昧会が始まるが、観学会 絵画有志ハ幡講十ハ箇院本 よししげのやすたね 図か叡山横川に伝来し、阿弥陀の慶滋保胤や源信もかかわるようになり、のちには僧俗男女貴肢のない同行的結社として発展 五尊も常行堂本尊に一致するた した。『往生要集』巻頭の凄惨きわまりない八地獄の描写は、人々に地獄の恐ろしさの衝撃をえ め、正面来迎の構図には、仏を観 る叡山観想行の体験か潜在する。 たが、この書の本質は、極楽浄土に生まれるための浄上念仏にあり、念仏も阿弥陀の名を唱える 第七章大乗仏教の日本的展開 準国家絵 / 最絵 210

7. 救いの思想大乗仏教

まらや ふだらか 不刺耶山の東には、布陀洛迦山がある。山道は危険にして巌谷がけわしい。山項には池があ めぐ り、鏡のように澄み、大河が流れ出している。その河は山を繞ること二〇回にして南海に入 っている。池の側には石の天宮がある。観自在菩薩が往来し留まるところである。観音菩薩 かえり を見ようと願う者があって、身命を顧みす、水をわたり山を登って険路を行くが、よくそこ に達する者は少ないという。 つまり、補陀洛迦山の山項には池があり、その池から大河が流れ出て南海に入るとあるので、 その山は海の中の島にあるのではなく、南海に面した山であり、観音菩薩を見ようとして河を渡 り山を登っても容易に近づくことができない険峻の地であると言っている。 このように補陀洛迦山は観音の住処とされ、そのインドの南海のポータラカがチベット ( ボタラ 宮 ) や中国にも伝わり、観音菩薩の浄土が形成されたのである。 中国の普陀山には長い歴史がある。西漢の成帝のとき ( 紀元前三二 5 七 ) 、普陀山は洞窟が多く水 ばいふ′、 質もよく気候も温暖で、漢方薬の薬草が豊富であったので、薬方に通じた梅福がこの島にやって ばいしん 来て洞窟に住み、丹薬を作ったという。この頃人々はこの山を「梅岑」と呼んだ。これは「世外の 仙境 , の意味で、道教の神仙境を表す。 唐代になって仏教が盛んになると内外の仏教徒がこの島にやって来るようになり、唐の大中年 えカく ふこ、つきょ 間 ( 八四七、八六〇 ) 、インド僧が来山し、大中一二年 ( 八五八 ) 、日本僧の慧萼が来島して不肯去観音 院を建てたため、中国の普陀山は観音霊場となった。 ごだいさん 普陀山で初めて観音を祀った寺が不肯去観音院である。これは慧萼が五台山で得た観音像を奉 がえん じて日本に帰る途中、この海まで来ると、その観音像がどうしても日本に行くことを肯じなかっ たので、船が進ます、慧萼はその観音像を奉じて岸に上がり、祀ったのが不肯去観音院であっ た。普陀山は日本僧によって開かれた霊場なのである。その後、宋代になると普陀山には次々と 第五章現世利益と観音信仰 170

8. 救いの思想大乗仏教

一観音の聖地 一普陀山 浙江省の舟山列島の最東、中国四大聖地の中で唯一海上にある 普陀山。唐代のハ五ハ年、日本人僧慧萼が開いたという観音菩 えいさいぜんじ 薩の聖地である。普済禅寺、法雨禅寺、慧済禅寺の三大寺、不 肯去観音院なと多くの寺院かあり、一年を通して多くの人々か 訪れる。この普陀山に一九九七年秋、高さ三三メートルの新し い観音菩薩像か完成した。「南海大観音」ともよはれるこの観音 像の建立は、数多く人々の寄進により実現した。 普陀山の岬に立っ南海大観 音の拝所周辺は香を献しる 人々で混みあう。両手に香 をいただき、観音を中心に 東西南北の四方を拝む。 ふさいぜんじ ほううぜんじ 寄進という形で人々の思い かこめられているためか、 普陀山の観音の中でも特に やさしい慈愛の表情をもつ。

9. 救いの思想大乗仏教

多くの人々の観音への思い か、一〇〇〇年という歴史 をもっ観音の聖地に南海大 観音という新しい仏を誕生 させた。 普済禅寺へ至る古道 ( 妙庄厳 路 ) 。道は、如来仏の祠に詣 で普陀山入島の感謝を捧げる 人々でこったかえす。 第五章現世利益と観音信仰 164 チベットから訪れた僧。手にもっ観音像 に、普済禅寺の観音菩薩の仏力を得るため にやってきたという。 紫竹林禅院の円通宝殿。扉に観音 を讃える説話か彫られている。

10. 救いの思想大乗仏教

一〇五三 一〇七一一 〇平等院鳳凰堂建立。 〇良忍〔融通念仏宗開祖〕生まれる。 〇中尊寺建立。 〇法然〔浄土宗開祖〕生まれる。 〇栄西〔臨済宗開祖〕生まれる。 〇親鸞〔浄土真宗開祖〕生まれる。 〇明恵〔華厳宗中興の祖〕生まれる。 〇栄西が臨済宗を伝える。 〇栄西が「興禅護国論』を著す。 〇法然が「選択本願念仏集』を著す。 一一世紀頃中国で禅が隆盛になる。 一ニ〇〇 〇道元〔曹洞宗開祖〕生まれる。 〇日蓮〔日蓮宗開祖〕生まれる。 〇道元が曹洞宗を伝える。 一一一三〇頃 〇親鸞が「教行信証」を撰す。 〇一遍〔時宗開祖〕生まれる。 〇蘭渓道隆が、宋より来日。 〇この頃、道元が『正法眼蔵』を著す。 一ニ五〇 モンゴルにチベット仏教伝わる。 〇日蓮が日蓮宗を立宗。 〇瑩山紹瑾〔曹洞宗中興の祖〕生まれる。 一一一七〇 元がチベット仏教を保護。 一一一七四 〇夢窓疎石生まれる。 一一一七五 〇一遍が時宗を開く。 〇室町幕府、十刹を定め、翌年五山の位次を決める。この頃 五山十刹がほほ定着。 出来事 資料 228 一三五七 一三九七 一四一五 一四八〇 一六世紀 一五〇六 一五七一 この頃、チベット仏教の完成。 〇金閣寺建立。 〇蓮如生まれる。 〇蓮如が山科に本願寺を再建。 中国で仏教と儒教の習合が進む。 〇各地で一向一揆が起こる。 〇織田信長による比叡山の焼き打ち。 〇本願寺が東西に分裂。 〇徳川家康が各宗本山に対して寺院法を布下。 〇江戸幕府は各宗本山に本末帳の提出を命じ、本山末寺制度 の実態把握につとめる。 一六四八 〇天海によって「天海版大蔵経」がつくられる。 一六五四 〇明僧の隠元が黄檗宗を伝える。 一七五八 〇良寛が生まれる。 一八五〇 太平天国の乱起こり、仏教破壊が進む。 〇明治維新により「神仏分離令」が出され、廃仏毀釈が行わ れる。 一九〇〇頃中国で仏教復興運動起こる。 一九五一 〇宗教法人法発布。 一九五三 中国仏教協会結成。 一九五九 第一四世ダライ・ラマ、インドに亡命。 一九六五 中国で文化大革命による仏教の弾圧が始まる。 出来事 〇印Ⅱ日本