色即是空 - みる会図書館


検索対象: 救いの思想大乗仏教
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1. 救いの思想大乗仏教

サンスクリット語の『般若心経 ( 東京国立博物館 ) は多くの衆生を救えるという自負に根ざしていた。彼らによれば、これまでの伝統的仏教 は少しの人しか救えない小さな乗り物「小乗」であった。 その誕生とともに大乗仏教を成立せしめた「空」 。「空」とは何か。仏教に接する誰も がこの疑間を持つが、誰もが完全には答えられない。大乗仏教の根幹にして究極のトピッ クである。筆者などの手に負える相手ではないが、ここでは前述した「ブッダの無常の教 えを保ちながらも、仏教が他者を救済できるという理論上の根拠」という一面に限って綴 っていきたい。 ニつの「ゼロ」 「空」はサンスクリット語の「シューニヤ」の訳語である。これはゼロという意味である 「空」は、確かに「ゼロ「無ーという意味を持っている。全般若経典中、最もポピュラーな 般若心経に「色即是空」という有名な一節がある。「形成されたものは実体がないーと直訳さ れる。もう少し言葉を足せば、こういうことであろうか。「この世に形あるもので絶対不 変の実体を持つものはひとつもない。みな、うつろい消えてい 「色即是空」の「空」は、万物が「うつろい消えていく」先の真っ暗な穴のような印象である。 すべては無に帰するというときの「無ー、すべての生きものはいすれ死ぬというときの 「死 , 、これが「色即是空」の「空」である。虚無の深淵、すべてをのみこむプラックホールと しての「ゼロ」。この「空」は寂しく、恐ろしい しかし一方で「空」は、すべてを生みだし、人に希望をえる意味を持つ。「般若心経 [ の 「色即是空」の後に続く「空即是色ー。「実体のない所から、あらゆるものが形成されるー。こ 第ニ章「色即是空」と「空即是色」 4

2. 救いの思想大乗仏教

期ー ' ・・・べ「信仰心に訴える本質的な何かが、あの説話にひそんでいたのか 今われわれは「空」の思想と関連づけて梵天勧請の説話を解読することができる。ブッダ が悟りを得るが、それを語るのをためらって、独りで涅槃に赴こうとする。ここまでは 「色即是空」のべクトルに沿って物語は進んでいる。「すべて形あるものは、うつろい消え 去る」という悟りを得たブッダは、自らもそのべクトルに従って涅槃・「空、の世界に入ろう とした。しかし、ここに梵天・帝釈天が現れブッダをこの世に呼び戻そうとする。一度、 二度、三度目の懇請を受けて、ついにブッダはこの世に戻って法を説くことを決意する。 ここから「空即是色」のべクトルが働きだす。 ここで気がつくのは「色即是空」のべクトルが「空即是色」のべクトルに変換するにあたっ て、ブッダの意志が働いていることである。この説話においては「色即是空」のべクトルⅡ 死へのべクトルは、そのまま自然に「空即是色、へのべクトルへと転換することはなかっ た。むしろ両者の間には断絶があり、どちらのべクトルの力もゼロという地点が存在し た。まさに「空」・「無縁」の一点であろう。そのゼロ地点でブッダという人間が自分の意志 によって選択を行っているのである。あのときブッダは「色即是空」のべクトルに身をまか せて涅槃に去ってもよかった。 にもかかわらす、そこでブッダは「空即是色」のべクトルを つかんでこの世に戻ることを選択した。「梵天勧請」の説話は実は、巨大な奔流のように見 える無常の理法の中で、人間の意志が決定的な役割を果たしうることを語ったエピソード なのである。経典はブッダがこの選択を行ったとき、ブッダの心に「慈悲が生じたーと記し ている。一切のしがらみが存在しない無縁の一点における「慈悲」。一切の理山・原因がな 第ニ章「色即是空」と「空即是色」 梵天勧請像 ( ベルリン国立イン ド博物館 )

3. 救いの思想大乗仏教

漢語の『般若心経』 ( 京都・泉涌寺 1 を増第え它中も色ん大け織ん賊 - 古資立奴裔繕ん取みらえ 彪外をも明んもも厖 育第石一加ダ拳新 フッタは救いとる れも言葉を足そう。「常に移り変わり、一定の形をとらない所から、この世の万物が生ま れ出てくる第「空即是色 . の「空」は、万物を生みだす母胎のような印象である。プラック ホールの向こう側には、すべての物質を吐き出すホワイトホールがあると、宇宙を論じた 本で読んだことがあるが、この「空」は、生命の起源、豊饒の源泉としての「空」である。 「色即是空」の「空」と「空即是色」の「空」。現世に対して否定的、消極的な「空」と、現世に 肯定的で積極的な「空」。この相反する二つの性格をいながらにして体現するのが「空」の本 義であろう。「ゼロ」という言葉を使えば、両義性を持つ「ゼロ」なのである。 こうした両義性は、われわれの日常生活の中に認められなくもない。卑近な例で恐縮だ か、生ゴミを上の中に埋めて、堆肥を作ることがある。ゴミとは廃棄物である。この世で の役割を終えて土中に消え去る。海中に泳いでいた魚は人間に食べ残された骨となり、山 でたわわに実っていたみかんは皮ばかりとなって地面に開いた穴に呑み込まれる。生ある もののなれの果て「色即是空」。しかし、地中で半年、一年がたっと生ゴミは、腐敗熟成し て堆肥に変わっている。畑に梳き込み、果樹の株もとに置けば、それは新たな生命を育む 培上となる。最前まで死骸であったものが生命の母に変わる。「空即是色」。 般若経典に詳細な注釈を施し、「空」の思想を大成したといわれるナーガルジュナ ( 龍樹 / 一五〇年頃 5 二五〇年頃 ) は、「空」はブッダが生涯にわたって説いた「無常」の発展形であると いう。「諸行無常」、万物はすべて移り変わる。ひとっとして同じ形にあるものはない。 の考えを突きつめると「空」に至るという。 確かに「色即是空」と「空即是色ーをつなぎ合わせると、無限に移り変わってとどまるとこ

4. 救いの思想大乗仏教

うな山の高さ、ちょうど同じような緑の大平原が見える 「空」は二つの意味を持つ「ゼ尸であった。すべてのものが行きつく死を表す「ゼローと、 そこからすべてのものが生まれる母胎としての「ゼロー。相反する二つの性格をいながらに して持つ、それが「空」の本義であった : ・ 相反する二つの意味を一身に体現するものを、われわれはもうひとっ知っているーーース トウーパである。 ブッダの遺骨を納める墓として死を表象する意味と、将来の実りをもたらす種子、胚で ある舎利を内蔵する母胎としての意味をいながらにしてもっ存在、それがストウーパであ った。 般若経を書き「空 . の思想をうちだした者は、ストウーパの近くにいた感じがする。スト ゥーパの両義性と「空」の両義性とは質が同じものである。前者になれ親しんでいた人間 が、「空 [ を発想するのは他のどんな立場の者よりも容易であったように思える。 もともとストウーパは俗人が管理するものであって、僧侶は近づかなかったという。し かし、あの危機の時代、両者は歩みよったのではないだろうか。「色即是空」を旨として、 論理の言葉をあやつる僧侶の頭脳と、「空即是色」、豊饒を願い、ブッダの救済を渇望する 民衆の思いとが重なったとき、インドの大地に「空」の思想が立ちあがったと思えてならな 第ニ章「色即是空」と「空即是色」

5. 救いの思想大乗仏教

ろを知らない「諸行無常」の様相が現れてくる。「色即是空、空即是色ー、色は空となり、空 はまた色となる。色は空となり、空はまた色となる : 「空」の思想は、ブッダの説いた「無常」の教えを言い換えたにすぎない これが大乗仏教 側の立場である。彼らから見れば、伝統的な部派仏教は、ブッダの「無常」の教えを片側だ け、つまり「色即是空」の部分に偏って理解するきらいがあった。この世にあるものがいす れ死ぬ、消え去る。この方向の「無常」を、伝統的な仏教は繰り返し説くが、その逆を説か ない。「空」という言葉を使えば、「空即是色」の「空」を無視していたように見えた。 大乗を名乗って「空」の思想を打ち出した仏教者たちは、要するに「空即是色」、この世か ら消え去ったものが、またこの世に再び現れることも、ブッダが説いた「無常」の相のひと つであろうと主張したのである。 戦乱の北インドに戻ろう。この時代の仏教徒は「ブッダの無常の教えを保ちながらも仏 教が他者を救済できるという理論上の根拠」を求められていた。恐らく一〇〇年から二〇 〇年にも及ぶ思想的営為の後、彼らが得た答えが「空」の思想であった。「空」とは生から死 へ向かうべクトルが、死が極まって反転し、死から生へ向かうべクトルに変わる、その転 回点のことである。この転回点を発見することによって彼らはこの世から消え去ったもの が、またこの世に現れるということも「無常」の相の一部として肯定できるようになった。 「死」という言葉を使って言い換えれば、死もまた永続するものではない、と考えるように なったのである。伝統的な仏教者は無常の苦界であるこの世を脱して「涅槃」に至ればそれ 第ニ章「色即楚空」と「空即呈色」

6. 救いの思想大乗仏教

そこで、冒頭に引いた『般若心経』の「色即是空」という一句に話を戻そう。この経典は数ある 『般若経』のうちで最も小さいが、空観の基本を説く経典と言われる。「色即是空」はその中でもよ く知られた一句で、「存在するものには実体がない , というように、 「空」は「実体がない ( 無実体 ) 」 と訳されることが多い。「空」の意味を十分に表し切った訳語とはとうてい思えないが、私自身も 今のところこれ以外の訳語は思い当たらない。先に「空」を「何かがないこと . と理解するのはある 意味で正しいと書いたが、その「何かが、ここでは重要な意味をもってくるのである。 ここで「実体」というのは、存在する個々のもの、あるいは人間にもともと具わっていて変わるこ とのない本質、あるいは、そのものの不変の本性、というほどの意味である。ヨーロッパの哲学や形 而上学で説かれる「実体 , 観念を持ち込むと、かえって分かりにくくなってしまうかも知れない それでは、なぜ、存在するものには「実体 , がないのか。それは、人間であれ物であれ、存在す るものは因と縁によって成り立つ、縁起の存在だからである。この意味で、「空」とは、存在する ものはすべて縁起の存在であるということである。しかし、煩悩具足の私たちは、存在するもの は縁起しており、空であるという理を体得できす、無常なものを常であると執着して苦しんでい る。そこで、『般若心経』の最初の一文「観自在菩薩は深遠な智慧の完成の行いを実践していたと さいやく き、存在するものの五つの構成要素はすべて実体のないものと見抜き、一切の苦悩や災厄を取り 除いた , ということが意味をもってくるのである。つまり、存在するものは空であると観ること は、とりもなおさす、それに対する執着がなくなることであり、そこに苦悩の消滅が起こるとい うのである。ここに、「空観」と「救い、との関係が明確に示されていることが理解されるであろ 『維摩経』の空観 ゆいまきっ 『維摩経』は在家の居士である維摩詰 ( ヴィマラキールティ ) を主人公にした経典である。この経典は 第一章仏像誕生の謎

7. 救いの思想大乗仏教

第一章色即是空」と即是色 【取材記 f フッダは救いとるー↑仏像誕生と空 ~ ラオトルボ〕 騎馬民族クシャーン 一ブッダを知 仏像の起源」仏教美術の変おして治昭 第一を無常の仏・ハー、、キン 記〕ブッダの素顔ーーバーミャン探訪記 I フォトルボ〕 ーミャンの石窟寺院 シルクロードの仏教美術宮治昭・中川原育子 目次 100

8. 救いの思想大乗仏教

「空」とは何か 「空観」と「救い」の 菅沼晃 田一「空」とは何か , ー 「空」のイメージ はんにやしんぎよう しきそくぜく、フ 「色即是空」という言葉がある。仏教に少しでも関心をもつ者なら誰でも知っている『般若心経』 の中の一句である。しかし、それでは、これがどのような意味を表すかということになると、答 えはそれはど容易ではないであろう。経典の言うことは何となく分かるような気はするが、それで は自分の言葉で説明せよと言われると、困ってしまうという人が多いのではないか、と思われる 私たちが日常的に使っている言葉の中にも、「空」がつく熟語は少なくない。たとえば、空虚、 空白、空漠などはニュアンスは違うが「何もない」という意味を表しているし、空室、空地、空 から 車、空腹などと言うときは、「空いていること気「空であること , を表している。また、空言、空 説、空費などは「真実性がない , とか、「実体がない」という意味と同時に、それを非難する意味で 用いられることが多い このような日常語の語感から、私たちは「空」という仏教語についても、「何かがない」というイ メージをもっことが多い。このようなイメージは、ある意味では正しいのであるが、大乗仏教が 理想とする「空の世界」「空の生き方」とは大きな隔りがあることも事実である。 から 「空」という言葉の原語「シューニヤ , は、もともと「空虚なこと、空であること」を意味し、「何々 がないこと、欠けていることを表す一言葉であった。また、この言葉はインドの数学においては、 「 o , を表していた。 このように、「空」という一言葉自体は「空無、の意味で古くから使われていたのであるが、これを 一つの世界観、人生観を表す言葉として最初に用いたのはブッダその人であった。 ゼロ

9. 救いの思想大乗仏教

われたこと、つまりこの時点ではブッダの姿を見ることは、本来「いけないことだーという 意識が前提として働いていたということである。 五〇〇年前に涅槃に入ったブッダをこの世に呼び戻す。それを望む心と、それをためら う心のせめぎ合いが、この説話にはよく表れている。 マトウラー博物館にはこの説話を受けるかのような一体の仏像が現存する。左右に脇侍 マトウラーの仏坐像。台座には 「菩薩」と刻まれている ( マトウを引き連れたブッダの姿は、まさに「仏の敵であっても歓喜する」ほどのできばえである。 ラー博物館 ) しかし、座神を組んだ台座には、「ブッダ」の代わりに「ボーディサットヴァー ( 菩薩 ) と銘が 刻まれている。この像の制作者は、まさにブッダの姿を刻みながらも、あえてこれは菩薩 の像であると注釈しているのである。ブッダを実体化しない、ブッダをこの世のものとし て表現しないというタブーは、強固だったと言わねばならない 菩薩の像からなし崩し的に仏像が生まれたわけではなかった。仏像を誕生させるには、 どうしても抜本的に教義を変更する必要があったようである。「この世に ( 自分も含めて ) 絶対 のものはない」と言ったブッダの教えと、「絶対の救済者としてのブッダ . を求める民衆の 気持ち。結局はこの両者の矛盾を解かぬかぎり、仏教が救済宗教として生まれかわること はなかった。インドの仏教者は、この絶対矛盾とも思える間題の解決に立ち向かってい た。一〇〇年、二〇〇年という長い準備期間を経て、この矛盾を解く鍵となる概念が浮上 してくる。サンスクリット語で「シューニヤ」、漢語で「空」と訳された概念である。 「空」の出現 「空」とは、それまでの伝統的経典とは全く関連を持たない新しい経典群、般若経典によ 第ニ章「色即是空」と「空即是色」

10. 救いの思想大乗仏教

に近づくために「他者を救う」という性格が強調されてくるのが、紀元前後から紀元一世紀 なのである。 民衆の救済願望を受けて仏教は、「利他者 , Ⅱ菩薩の概念を編み出したのであった。それ は「悟りを求める者」であって、「悟った人 , Ⅱブッダではない。ブッダを目指す途上者であ って、あくまでも相対的な存在であるから、仏教のタブーである絶対者を立てたことには ならない。しかし利他の行為を、橋りに至る方法としてはっきり位置づけたのは、ひたす ら脱俗を説いてきた伝統的立場から言えば、大きな転換であった。 クシャーン帝国がインド支配の一大拠点を置いたマトウラー。ここにあるマトウラー博 物館に、仏像誕生以前に作られたと目される菩薩の像が、何体も収蔵されている。菩薩は ブッダではない。利他の行為を積んで悟りに至ろうとする偉大な人格ではあるが、われわ れと同じ人間である。造像をためらう理山はないのである。 マトウラー菩薩像の中でひときわ目を引くのは、高さ二メートルをゆうに超す巨大な立 像である。丸顔、広い肩幅、厚い胸板、どっしりと大地を踏みしめた足、筋骨隆々のその 姿は、仁王様のようである。災いが降りかかってきたとき、まず物理的に頼りになりそう な菩薩の像を、マトウラーの人たちは作った。 しかし民衆の救済願望は、菩薩の出現で究極的に解決できるものではなかった。菩薩は 絶対者ではないからである。同じ救済をしてくれるなら、クリシュナ神のように「私が絶 対だ。と言ってくれるはうがよい。仏教で絶対者を期待するとすれば、やはりプッダであ ろうか、それは、 いまだ厳しくタフーとされていた。 第一一章「色即是空」と「空即是色」