栄子にとって広美は特別な存在になったのだ。第一の心によって過度に理想化された。 「信頼できる人に生まれて初めて出会いました」 訪問をねぎらい、「また来てほしい」と依存した。広美は、自分が役に立てることを喜んだ。 悲劇は間もなく起こった。広美が訪ねる予定の時刻、第二の心が飛び出したのだ。怒りは その手に包丁を持たせ、いつものようにドアを開けようとした広美に切りかかった。だが幸 いにもその日、かけてあったチェーンロックが二人の壁となり、大事に至ることから免れた。 そして後日、栄子と広美はそろって私をたずねてきた。 正確に言えば、支援を受ける立場にいた栄子のほうが、民生委員の広美を説得して私のと ころに連れてきたことになる。 栄子には、スプリットの感覚が体験的にわかっている。しかし広美にはわからない。栄子は、 第二の心が再び広美に刃を向けることを回避したかった。広美も、自信を失いかけていた。 ーに加わることになった。 こうして栄子は、私の主宰する「親子連鎖を断っ会」のメンバ そしてしばらく、定例の集会には欠かさず参加してきた。この場では、現在の親子関係 ( 子 ノ男断ち切れ ! 虐待の世代連鎖
五ること どもへの虐待 ) だけでなく、自分が子ども時代に受けた虐待の苦しみに向き合い が求められる。栄子はいつも涙で顔をぐしゃぐしやにさせながら、積極的に語った。誰に 遮られず、彼女の苦しみは分かち持たれた。 わかってもらえる喜びを重ね、栄子にとってこのグループの存在は重要度を増していった。 そして栄子に異変が起きた。再び、第二の心が飛び出したのだ。 ありのままの自分が受け止められることを欲した第一の心。それが強くなるほどに、勢い を増していった第二の心。 「私はけっして、受け人れられてはならない ! 」 激痛のた それは、集会に彼女を運ぶ足を止めさせた。足の裏の皮を剥ぐ日々が続く : ・ めに外出ができず、立っことすらおぼっかなくなった。 私は、栄子に厳しい指示を出した。「集会参加の禁止」である。その代わりに、手紙やフ アックス、メールといった、活字を用いたコミュニケーションだけを許した。 第一の心を覚醒させすぎず、同時に第二の心による反動を起こさない。そのための策だっ たが、栄子の思いは中途半端に満たされ、スプリットした両極端の狭間で小さく振れる経験
を余儀なくされたのだ。第一でも、第二の心にもよらない、中間の「意志」で生きなくては ならない 虐待の支援者に欠かせない態度は、安定していることである。第一の心を見せられても喜 温かくも冷静な眼差しを常に維持している びすぎず、第二の心に裏切られても落胆しない、 ことだ。相手とともに振れていると、支援者の心もスプリットしてしまう。 やがて栄子は一年近い「蛹」の時を経て、自らの努力で連鎖を断ち、この会の修了生第一 号となった。蛹は、外からは見えないが、殻の中で劇的な変貌を遂げようとしている重大な 瞬間だ。 栄子が大きな課題を成し遂げたのは、過去から現在に至る心のさまを人に伝えるために、 ふけ 言葉に置き換えるワークに耽ったからだと思う。衝動という魔物と闘うためには、強化され た理性こそが武器になる。言語化は理性の機能の象徴であり、癒しにつながる意味もここに ある。 だからこそ、語りのために安全な受け皿が必要になるのだ。 み 95 断ち切れ ! 虐待の世代連鎖
何度も足を運び、子どもに優しい母親の姿を見せる。第一の心が表れている状態だから。 ここで「もう大丈夫」と判断し、子どもを家庭に帰すとどうなるか : しばらくして第 二の心か襲いかカることになろ一つ 「あんたのせいでひどい目に遭ったじゃないー 一一一口うことをきかないあんたが悪い ! 」 怒りは以前にも増して膨れ上がる危険がある。現実に、このような経過で命を落とした子 どもは少なくないのだ。 程度の差こそあれ、虐待の心に普遍的なスプリット。これを視野に人れておかないと、支 援はうまくいかないはカりか、ときに仇ともなるだろう。スプリットの心は愛する人だけで なく、支援者にも向かうからだ。 栄子は、虐待の世代連鎖に苦しみながらも、女手一つで二人の女児を育ててきた。子ども が成長し、母親の力と拮抗する小学高学年になったとき、毎夜のように怒声と悲鳴が近隣に 響き渡った。こうして民生委員である広美が関わることになった。 栄子は誰のことも信用していなかった。広美が訪間しても居留守を使った。それでも熱心 に通い続けると、やがて広美は受け入れられ、家に上がり、話し込むまでに関係は深まる。 ム 92
子どもが宿題をやらないときにキレる父親たち。「宿題の現場」にさらされる母親には、 なお深刻だ。追いつめられた母親は、しばしば包丁を手に取る。 子どもの反発力が親の支配力に迫る小学高学年。宿題をやらせるために、母親はその非カ さを補強しようとする。だから包丁なのだ。不意を突かれた子どもにとって、その効果は抜 群だ。やがて包丁の乱用が子どもの慣れを招き、効果を弱めるだけでなく、しつべ返しの準 備を進めるのだが : 小学六年生の娘をもっ京子を紹介しよう。思い返せば一年前、彼女はすでに包み隠さず包 丁のことを話せるようになっていた。 「きのう、またやっちゃいました : 「やっちゃった」とは、宿題をしない子どもに包丁を突きつけて脅したこと。 「あ一ら、ら : : 」と、私はのんきに応じていた。こんな告白ができるまでに、彼女が心の刃 を収めたことがわかっていたからだ。そして今、京子はもう包丁を必要としてはいなかった。 なぜか ? 彼女が掴んだ「秘訣」は少しあとに回すことにして、京子とは違う道を歩んだ 秋子のことにも触れておきたい。 お 8
親が、包丁のことも話せるような、受け止める器の広い先生が現実にいる ! それを確認 できた私は、これからも学校という巨塔に埋もれる「人間先生」に間いかけ続けようと思った。 さて、娘からの包丁の反撃でようやく気づいた秋子は、しみじみと語るのだった。 「宿題なんてどうでもよかった」 そう、これが京子も手に人れていた「秘訣」だ
ガラス越しの、達郎と私のやりとり。 私「どうして自分がやったと自白したのですか ? 」 達郎「刑事さんに、『お前がやったんじゃないか』って強く言われて、どうしたら刑事さ んを怒らせなくてすむかを考えてたら、認めるしかないと思って : : : 」 面接と心理検査の結果、彼は自分の利害に関係なく、相手の期待に応じて同調してしまう という、特異な人格の持ち主であることがわかった。それが作られた原因は、生育過程にお ける親からの強い抑圧にあった。いつも相手を「怒らせないようにする」ことばかりを考え、 反論などしたことがないという。学校でも度々いじめられたが、いじめた子のほうがロがう いじめっ子に謝ることで終わって まいので、教師には信じてもらえなかった。結局いつも、 い」 A 」い一つ もう一つの疑間がある。なぜ彼は、車中で生活していたのかということだ。 私「逮捕されるまで二年間も、車の中で寝泊まりしていたのはなぜですか ? 」 達郎「家におれんのです。妻がうるさいもんで : : : 」
的に、愛そうとしたことが仇になる。母親も少女期に親から虐待されて育ち、補導された「過 去」を持っていた。 子どもへの愛情が強いほど、連鎖の縛りは強くなるのだー 五年前、私はおよそ二千五百人の親を対象に、ある調査を行った。その結果、子ども時代 に虐待された人のうち、母親の八一 % 、父親の六九 % が、自分の子どもにも虐待していると いう数字がはじき出されたのだ 全国の児童相談所が処理した虐待相談でも、六一 % が母親によるもので、群を抜いて多い ここに、母親のも これらの数字は、けっして「鬼母」ぶりを語ろうとするものではない っ子どもへの「愛情」と「責任性」がいかに重いものかを読み取らねばならない 事実、タカシの場合、彼が一歳の誕生日を迎える前に父親は行方をくらまし、母親が一人 で子育てと仕事の両方を抱え込んだ。 まだ「男女共同参画社会」のスローガンすらない、世の母親たちを忍従させた時代、文化 ( 今でも実態は変わらない ) 。 幼いタカシの記憶 : ・ あだ 27 断ち切れ ! 虐待の世代連鎖