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検索対象: 日本大百科全書 12
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1. 日本大百科全書 12

すう物の多少、大小、位置、順序などをることも知られているし、多くの進んだ一 = ロ語が 左右に立地する村落間でも悪水争論が激発し物 Ba(OH)2 ・ 8H20 あるいは酸化鉄水和物 Fe2 数 じっしんはう 03 ・ nH20 などもそうで、水分子の形で含まれ表すために考えられた仕組みで、その目的から十進法による数詞の組織をもっていることは、 た。道路や小堤の上下間でも対立が生じ、切流 な′」り し騒動に発展した。これらの場合にも仲裁がなている化合物をすべてこのようによぶ。また水生まれた自然数、整数、有理数、実数、複素数手の指を使って数えたことの名残であるともい され、悪水慣行が成立した。「我田引水」のみとの間に化学的な結合のない Kr ・ 5.76H20 ゃなどの総称。単に数というときは、前後の文脈われている。 このように、数詞は、互いに一対一に対応す によって自然数だけをさすこともあり、また、 ならず「我田排水」も現実に存在していたので C12•6H20 などのようなクラスレイト化合物も る一群の物の集まりに共通な一つの属性を示す 〈中原勝儼〉もっと広く有理数や実数や複素数まで考えてい あり、近代的な用排水施設が完備するまで、水水和物ということがある。 0 ジンミー ることもある。物に数を対応させることを、数語として用いられ始めた。すなわち、人が一〇 論は繰り返された。 〈大谷貞夫〉ズインミー はんちゅう える ( 最小の単位になるものがあって、それら人いるというのは、そこの人の集まりが両手の 回亀田隆之著『日本古代用水史の研究』 ( 一九 数すう多くの言語にみられる文法範疇の 七三・吉川弘文館 ) ▽宝月圭吾著『中世灌漑一つ。一つ、二つ、またはそれ以上の事物を表が集まっている場合 ) とか、測る ( 最小の単位指と一対一に対応できることであり、獲物とし がない場合 ) とかいうが、数という語は、数えての鳥が一〇羽あるというのも、同じような対 史の研究』 ( 一九五 0 ・目黒書店 ) ▽喜多村俊夫すための単語の形のうえの表現で、単数 sin- 一一一一口衄によっ たり、測ったりした結果得られるものをさすと応ができることであり、このことからまた、人 著『日本灌漑水利慣行の史的研究総論篇・ gular 、双数 dual 、複数 plural 、 しすう 一人に獲物一羽を対応させることが可能である 各論篇』 ( 一九五 0 、七三・岩波書店 ) ▽大谷貞夫ては参数 trial も、肆数 quatrial もある。屈きにも用いられる。↓はかる 〔数の起源〕数の基本は自然数であり、自然数ことも、実際の対応づけを試みる前にわかって 著『近世日本治水史の研究』 ( 一九会・雄山閣折語においては、たとえばロシア語の slovarj くる。 出版 ) ( 辞書、単数 ):slovari ( 複数 ) のように、語の概念は、物の集まりを数えることから始ま すいり 物の集まりの間の共通な属性を示す語につい 形変化 ( 語尾変化 ) として現れるが、これはる。数えるという操作は、「一、 推論すいろん 0 推理 : 」あるいはこれと同じような一定の順序にて、語と語との関係を直接に考えるようになる 性、格の区分と重なっているので、右にあげた 水和すいわ hydration 水溶液の中で、 溶質の分子またはイオンがその周りに、 しくつか主格ばかりでなく、 slovarja ( 辞書の、所有並んだことばの系列 ( 一般に数詞という ) があのは次の段階である。「五は三と二とを含めた り、これを順々に、集まりに含まれる一つ一つものだ」「四は二つにきれいに分けられる」な の水分子を引き付け、一つの分子集団をつくる格単数 ) 】 slovare 」 ( 複数 ) 、 slovarju ( 辞書に、 の物に取りこばしや重なりなく割り当てて、つどの認識は、属性を示す語すなわち数詞を直接 現象。溶媒和の一種で、分子またはイオンと水 間接目的格単数 ) 】 slovar 」 am ( 複数 ) 、 slovarj 分子との間の化学反応、または化学結合によっ ( 辞書を、直接目的格〈偶然、主格と同じ形〉まり一対一に対応させていって、最後に割り当対象とした思考である。いわば形容詞が名詞と て集まった場合には、とくに水化ということも単数 ) :slovari ( 複数 ) などのように、ほかのてたことばによって、その集まりの大きさを示なり、述語が主語となる過程で、一段と進んだ すべての格にわたるものである。日本語では、すことである。この数詞と一対一の対応は、数抽象の段階であり、数についての縁起を担ぐ宗 ある。↓溶媒和 概念ができあがっていく基盤になるものである教的な心情も、この段階に進んでいく一つの動 一般に水和の場合には結合する水分子の数が人物名詞には、「学生」ー「学生たち」、「子」ー 一定でないことが多い。陽イオンの水和は、イ「子ら」のように、一種の接尾辞をつけて複数が、物の集まりの多少、相等を知るだけであれ力にはなったであろうと指摘されている。 このようにして、個々の数を直接対象とした かならすしも数詞は必要としない。二つの にあたるものを表すが、これは厳密な意味では オンの電荷が大きく、イオン半径の小さいほど 思考が行われるようになって数概念が発生した 著しい。多くの金属塩類水溶液の中では、金属数といいがたい。なぜなら、「学生たち」はか集まりの個々のものを一対一に対応させていっ ならずしも「学生」の複数でなく、学生とそのて、いっしょに対応し尽くせば、その個数は等といえよう。そして数が明確に意識されるとと イオンが溶けているように表すことが多いが、 しく、一方が尺、きても他方が残っていれば、残もに、その機能として、物の集まりの多少を一小 仲間の工員さんたちを含めて「学生たち」とい 実際には裸のイオンが存在するわけではなく、 っているほうが多いことがわかる。 す用い方と、集まりのなかの特定の物の全体の うこともあるからである。「おじさんたち」と 水分子の水和したイオンとして存在する。たと このような一対一の対応による個数の処理なかでの位置を示す用い方との両方が一体とな いう場合には、むしろ複数の「おじさん」を表 えば Fe2 + は、水溶液中では CFe(H20)6J2 + の って発達していった。この前者の用い方をした は、数詞がつくられるよりも早く生まれたもの ようなアクアイオン、 Na + は Na(H20)n+ のすことはまれで、おじさんとその家族 ( つまり ような水和イオンとなり、これらがその周りの自分にとっては、おばやいとこたち ) を意味すと思われ、末開種族の観察記録などにもみられ場合を集合数、後者の用い方をした場合を順序 二、たくさ数という。↓自然数↓数詞 水分子との相互作用によって溶液中に分散したるのが普通である。この種の接尾辞のつく範囲る。すなわち、数詞としては「一、 〔計算、命数法・記数法〕人間の社会が、原始 ん」に相当する貧弱なことばしかもっていない 状態になっている。ほかの分子の場合でも同様は方言によって異なることもある。中国語の北 かならす水分子京方言では、複数接尾辞・ men ( 們 ) は日本語種族でも、たとえば、他種族との闘いに出かけ的な段階から発展して、複雑な組織をもち文明 で、水に溶解しているときは、 化すると、暦、租税、測量といった実用的なこ 西北方一一一一口る際、各戦士は一個ずつ小石をとり、これを留 〈中原勝儼〉のように人物名詞にしかっかないが、 の水和によって分散している。 守隊長に渡しておき、闘いから帰ったとき、集とを大規模に管理したり、指示したりするため すいわぶつ hydrate 水が他の化合では、机や石ころのような無生物を表す名詞に 水和物 に大きな数を扱うことが必要になり、またこれ めておいた小石の山から一個すっとっていく。 物に加わってできた化合物、すなわち水和化合もすべてつく。 を消滅しない形で記録しておく必要が出てく 数のカテゴリーは、名詞ばかりでなく、それこうして末帰還者がいないかどうかを知るとい 物をいう。水化物、含水化物、水加物などとも に対応する動詞にも及び、たとえばロシア語でう方法がとられている事例もある。このようなる。大きな数を表すには、数詞がすっと先のほ いう。もっとも普通にみられるものは塩類の水 うまで必要になるが、これに一つ一つ異なるこ 和物で、結晶炭酸ナトリウム Na2C03 ・ 10H20 はéitaju ( 読む、一人称単数 ) 】öitaem ( 一人一対一対応を行う際、対応させる一方の集まり とばを割り当てていたのでは、覚えるのもむず や塩化マグネシウム六水和物 MgC12 ・ 6H20 、称複数 ) 、öitae5j ( 読む、二人称単数 ) 【öitaete を一定の配列のもとに固定しておくと、対応が 完了した最後の個物をさすことばが、他方の集かしく、限りなく新語が必要になる。そこで、 硫酸銅亜五水和物 CuS04 ・ 5H~0 などがその例 ( 二人称複数 ) のように、動詞の語尾変化のう いくつかすつをひとまとめにして、そのまとま 〈橋本萬太郎〉 まりの多少を表すことになる。集まりとして手 である。これらでは、 Na2C03•10H20 におけえにも現れる。 る結晶水、 cuS04 ・ 5H20 における配位水、そ回泉井久之助著『印欧語における数の現象』の指をとり、指に対応させるときの指の順序をりの数と端下という形に分割した表し方が必要 になり、ひとまとまりにする数としては一〇と 、フのいずれであってもかまわない。そのはか、硫 ( 一九大・大修館書店 ) ▽『月刊言語第七巻第固定しておけば、指の名が数詞になっていく。 六号特集性と数』 ( 一九大・六・大修館書店 ) 事実、このような起源の数詞をもった一一一一口語があか一二とかが選ばれる。このようにして十進命 8 す・酸水和物 HSO 、・ H20 、水酸化バリウム八水和

2. 日本大百科全書 12

い。治療としては五 ~ 一〇 % サリチル酸ワセリ にはない多くの利点を有している。しかし、生 8 , フ不全、呼吸器感染などにより死亡する。 〈伊崎正勝〉 体の臓器と同じような完全な機能を有し、小型 5 これに対してべッカー Becker 型は、発病ンを塗布する。 例 る で、しかも長期の使用に耐え、生体内に内蔵し ん初期の症状はデシンヌ型に似ているが、こ進行性鼻壊疽しんこうせいびえそ進行性壊 号ラ あ れは良性であり、発病がやや遅くて進行は緩徐疽性鼻炎ともいう。ヨーロツ。ハでは壊疽性肉芽 うるような人工臟器をつくりあげることは技術 し しゅ の のの で、天命を全うすることが多い。そのほか、主腫、アメリカでは悪性正中肉芽腫ともよばれて 的にもけっして容易ではない びくう ドチ いる。壊疽性肉芽腫性病変が主として鼻腔から 置換外科の代表的なものとして、心臓移植と として顔面、肩、上腕の筋肉が冒される顔面・ がんか レ ノラ表関 / 一 人工心臟を取り上げ、その提供者および被移植 肩甲・上腕型、腰や肩の筋肉が冒される肢帯型おこり、これに隣接する骨を冒し、眼窩、ロ ク いんとう 各プをのな 1 は各ス新 もある。これらはデュシェンヌ型とは遺伝形式腔、咽頭にも病変が進行する。高熱を伴い、呼 る者 ( 患者 ) にかかわる利点、欠点の比較を別表 4 ン , 刀 ( に示しておく。 も異なり、男女いずれにもみられる。発病が遅吸器や泌尿器の障害を併発して死亡する予後不 なタ出 まぶた で 〔人工臓器の分類と研究開発のプロセス〕現 くて進行も緩徐である。まれではあるが、瞼が良な疾患の総称である。かっては一つの独立疾線一 2 在、人工臓器は脳、胃および内分泌器官を除い 下がり眼球の動きが悪くなる眼筋型、四肢末患と考えられていたが、そのなかにはよく似た スカ 簡 しよう 工 / ン入 レ」 たほとんどすべての分野において研究がなされ 梢 ( 手や足 ) の筋肉が冒される遠位型、母胎症状を呈するいくつかの異なった疾患、すなわ ている。医療においては、人間の存在の主体で 内ですでに発病している先天型もある。 ち悪性リンパ腫、ウェゲナー Wegener 肉芽腫、 ある脳を人工的につくり、置き換える必要性は 特徴のある症状から診断されるが、筋電図、悪性肉芽腫などが含まれていることが、現在で出力特性すなわちトランスミッタンス trans- mittance は伝達方向を矢印で示したプランチないし、内分泌器官はホルモン剤の投与によっ 血液の酵素測定 ( とくにクレアチン・フォスフはわかっている。 オキナーゼが高値となる ) 、筋肉の組織検査〔悪性リンバ腫〕四〇 ~ 六〇歳代の男性に多い の上に表示され、これがその要素のゲイン gain て代行することができる。次に現在開発されて しゅよう いる、おもな人工臟器をあげる。 ( 筋生検 ) などはの診断の助けになる。 悪性腫瘍で、全身の臟器やリンパ節に転移しゃ ( 利得 ) になる。信号線図は当面する物理的現 がん と : っ・刀し の治療には有効な薬剤がないので、生すいが、放射線療法や抗癌剤が比較的奏効しゃ象を因果律に従って記述して容易につくられ、 人工皮膚、人工頭蓋、人工硬膜、人工眼球、 系の構造を明確に示し、その動作を調べるにも人工視覚、人工耳、人工聴覚、人工鼻、人工 活指導、リハビリテーションによる残された筋すい疾患である。↓悪性リンバ腫 けん 〔ウェゲナー肉芽腫〕自己免疫疾患の一つで、便利である。↓プロック線図 〈岩村衞〉骨、人工関節、人工腱、人工筋肉、人工血管、 肉の機能の活用と維持がたいせつである。デュ じんこうそうき生体の臓器、ある人工心肺、人工肺、人工気管、人工食道、人工 シェンヌ型筋ジストロフィー症の患児発生を予鼻腔をはじめ、上気道あるいは肺の壊疽性肉芽人工臓器 じん いは組織の代行を目的として人工的につくられ弁、人工心臓、人工 ( 心臓 ) ペースメーカー 防するためには、患児を出産する可能性のある腫性の病変と全身の壊死性血管炎と糸球体腎炎 すいぞう 女子 ( 女子保因者 ) が男子を妊娠した場合、中絶 との三つの特徴的な症状をもっ疾患である。三た装置の総称。疾病や損傷によって機能を失人工肝臟、人工胆管、人工腸、人工膵臟、人工 する。この際、中絶するかどうかは当然のこと〇歳前後の女性に多い。進行性で眼窩を冒し、 い、絶望的になった臓器を他の生体の臓器、あ腎臓、人工尿管、人工胼胱、人工尿道、人工卵 レ」、つ・つい 眼球突出がおこり、ロ腔、咽頭、末期には頭蓋るいは人工の機械で置き換えることによって根管、人工子宮、人工血液、人工手、人工足。 ながら家族の判断が優先する。〈海老原進一郎〉 ー ) 、んつ社一いー -). しょ , つかノ、 骨内にも進展する。初期のものでは副腎皮質ホ本的な治療を行う方法を置換外科という。置換 完全なる人工臟器とは、生体の臟器の完全な 進行性指掌角皮症 外科のうち、生体の臟器を活用するのが臟器移る代行物のことをいう。すなわち、解剖学的に ルモンが比較的有効であるが、再発しやすい ひしよう手にみられる慢性炎症性の角化症で、 結婚後の女性に好発し、水仕事によって増悪抗癌剤や放射線照射が奏効することも少なくな植であり、人工の機械を用いるのが人工臓器でも生体の臓器と同じ位置にあり、同じくらいの ある。 いが、最終的には予後はよくない 大きさで、しかも目的の臓器の機能を完全に代 し、冬季に悪化しやすい。利き手に始まり両手 〔悪性肉芽腫〕前一一者と異なり、その本態自身 臟器移植がもし成功すれば、その供給された行しうるものである。しかし、これらの条件を に及ぶが、利き手に強く現れる。自覚症状は普 せん 通はない。原因については従来、内分泌腺とのもまだ明らかでなく、腫瘍であるのかないのか臓器は体内において生着し、機能もほば完全で完全に満足させることは不可能である。このた しっしん 関係が重視されたが、最近は主婦湿疹の一型でも明らかでない。その理由は壊死性病変があまある。しかも、患者の生活状態は生理的で、行め、人工臟器の研究は、臓器の機能の代行を主 たる目的として、その臟器の大きさや形状、あ りに強いため、病理組織学的検索がきわめて困動は自由となり、人工臓器に比して比較になら あるとの意見が多い。この主婦湿疹は、せつけ ないほど快適かっ有利である。しかし、臟器移るいは存在する位置にとらわれないで、臟器モ んや洗剤類を長期間にわたって使用するために難なことによる。全身性転移は少ないが、局所 生ずる湿疹性疾患で、一次性刺激性皮膚炎に属の壊死の進行が非常に速く、細菌感染をおこし植は臓器の入手、臓器の保存、あるいは提供者デルをつくることから始められた。研究開発の する。多くの場合、まず右手の親指、中指、人やすく、敗血症に似た間欠熱や高熱が出て全身の死の判定など、医学的および社会的に解決すプロセスは、次のようなものである。研究当初 〈河村正三〉 べき多くの問題を有している。そして、現実に は、ます対象とする臓器の機能の一部を短期的 差し指の末節指腹部が乾燥してわずかに赤みを衰弱になり、予後不良である。 じんぞう に代行するものから、さらに改善が加えられ、 しんごうせんず signal flow graph 人体の重要なる臟器の移植においては、腎臟移 帯び、しだいに硬くなってかさかさとなり、皮信号線図 溝が深まって皮膚の線が強くなり、細かい鱗屑信号が系の構成要素をどのように伝ってゆくか植が医療手段としてようやく受け入れられつっその機能を完全に長期的に代行するものがつく きれつ ( 皮のむくれ ) と浅い亀裂 ( 皮膚の割れ目 ) をを図式表現する記述様式の一つ。計測制御系をあるのみである。この傾向は、欧米とは社会通りあげられる。やがて、その人工臟器の機能が モデル化するためにメーソン S. J. Mason に 念が異なるわが国および東洋諸国においてとくテストされ、動物実験が行われ、臨床に応用さ 伴うようになる。これがだんだん拡大して全指 」み田、 0 れていく。そしてさらに、その人工臓器を小型 より提唱された。数学的、理論的に整備され、 腹、さらに手のひらにも及び、もう一方の手に これに対し、もし、理想的な人工臓器が開発化し、携帯化し、最終的には体内に内蔵しうる も同様の変化をおこすようになる。指紋は消失プロック線図より詳細に信号伝達状況を表示で ようなものに完成していくことになる。 し、しばしば深い亀裂を生じ、痛みをきたしてきて複雑な系の取扱いに適し、非常に見通しのされれば、こうした社会的問題は解決されるば かりでなく、大量生産も、長期保存も可能とな 〔人工臓器の新しい展開〕〔人工臓器の技術革 出血することもある。予防がたいせつで、水仕きく表現法として認められてきている。信号は ノード node ( 節 ) で、信号を伝達する要素は り、いつでも、どこでも、だれでも使用できる新〕①人工臟器の長期的利用一九五〇年代の 事の終わったあと、かならず手をよくふき、ハ こととなる。このように、人工臓器は臟器移植人工腎臓は、急性の腎不全の患者に対して数回 ンドクリームを塗布してマッサージするとよプランチ branch ( 枝 ) で表される。要素の入 りんせつ

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なち はふりペ よしかわ 、つめ、神は仏道修行を求めているのであり、そのため人は神の那智の三山が熊野信仰を生み出した。↓祝部↓神戸↓神神道研究も盛んになされ、吉田神道のほかに儒家神道、吉川 ぞうりゅう と願いをいれ、神の仏道修行のための神宮寺を造立すべきで宮寺↓本地垂迹↓怨霊↓御霊信仰↓幣帛↓二十二社神道が出現、伊勢神道が復興した一方で、垂加神道、復古神 ↓総社↓一宮↓真言神道↓山王神道↓熊野信仰 道が生じ、これが通俗平易な語で一般の教化にあたった。各 んあるとの考え方が出てきていたのであり、そのため神前読 〔中世〕前代、律令体制のもと神祇制度が整備され、神道、神社も幕府・諸藩によりその神領は寄進という形で安堵され し経のこともなされたのであった。しかし、そのあと神・仏 の関係観は変化し、一〇世紀には神と仏とは本来同一であ神社が尊重されたが、律令制の崩壊とともに、神祇制度も崩たが、上代・中世に比べるときわめて狭小となっており、や しようえん さいど ほんじ り、本地 ( 本身 ) はインドの仏であるが、衆生済度のため神れ、神社の経済的基盤も公的な神領・神戸より荘園的社領むをえず庶民に近づき、庶民もよくその崇敬社を信仰し、支 あと すいじゃく によらざるをえなくなってきていた。その神社社領が幕府の えたのである。↓吉川神道↓垂加神道↓復古神道 となって迹を日本に垂れるという本地垂迹説が仏教側から あんど かんむ 〔近代〕大政奉還、王政復古とともに、明治新政府はその政 唱えられるようになった。また一方、桓武天皇のころより中手により安堵されるとともに、庶民が自分を自覚し、それな まっ 国流の郊祀 ( 郊野に円壇丘を築いて天子が上帝を祀りその祖 りの信仰を取り戻したのが中世である。その初め、源頼朝は治理念を復古神道思想に置いて、祭政一致の精神で事にあた つるがおかはちまんぐう ずはこね を天に配祀すること ) のなされたこと、すなわち漢神信仰の 一一八〇年 ( 治承四 ) 挙兵以後、鶴岡八幡宮、伊豆・箱根ろうとした。一八六九年 ( 明治一 l) 神祇官を復興し、翌年一 ごんげんみしま 取り入れられたことがあり、さらに仏教的な罪・罰の観念、権現、三嶋大社を崇敬するとともに、伊勢の神宮にも特別の月天神地祇、八神および皇霊を神祇官に祭り、新しく任命し ′ ) りよう たた おんりよう たいきよう 祟りの信仰と結び付いての怨霊信仰、御霊信仰が流行して崇敬心をみせた。頼朝の崇敬は単に心意的なものだけでな た宣教使をして大教を宣布させることとし、その一〇月に いたこともみられる。これとは別に神祇行政についてみるく、その社領の確保安堵を図り、社殿修復また造営に心が は官社以下の制を定めることをした。一八七一年、神社は国 しきもく ちょう と、「新抄格勅符抄』に八〇六年 ( 大同一 ) の牒がみられるけ、祭儀が式目どおりに行われることを願い、その実践に努家の宗祀とし、社家制度を廃止したが、このころ一方に世界 じんふう が、そこに神封四八七〇戸がみられ、全国神社の経済的な基めたが、これが鎌倉幕府の神社対策の根本となり、一二三二 の大勢に順応していこうとする動きの活発となるとともに、 ごせいばい 盤を国家がかなり保障していたことが知られ、九二七年 ( 延年 ( 貞永一 ) 制定の御成敗式目でも、その第一条に「神社を神祇官は廃され、その職務は神祇省に、さらに翌年教部省に せん えんしき 長五 ) に撰せられた『延喜式』に神祇制度の完成した様相を修理し、祭祀を専らにすべきこと」と掲げられた。かくて、移され、神官・国学者をもつばら登用任命していた宣教使の そうりよ みることができる。四時祭、臨時祭の詳細な規定、伊勢大神この中世前半、鎌倉幕府の時代には諸社はおよそ安定し、庶制が廃されて教導職が置かれ、神官・僧侶ともに任用される しかん かも せんそ 宮、その斎宮寮、賀茂の斎院司、践祚大嘗祭についての規定民もよく崇敬した。そのようななかで、伊勢の神宮祠官は、 こととなったが、これも一 八二年に廃された。一八八九年 のりと はんべい から、祝詞、さらに祈年祭の頒幣にあすかる全国二八六一所神仏習合説ではなく、仏教は仏教として認めながら、それと大日本帝国憲法が制定されるとともに、神道は国家の宗祀と あまてらすおおみかみとようけ は別の立場で・、宇宙の根源、天照大神・豊受大神の出現と 三一三二座の神社が定められていたことが知られる。また八 して、一般宗教とは別の扱いとし、宗教ではなく道徳として 世紀より九世紀に神に位階を奉り、神社修理のため正税をあその性格、国家の成立、神宮の鎮座、さらに神宮祠官として扱った。かくて一般神社は内務省管下とされ、一九四〇年 わたらいゆきただつね てることもなされていた。このように、神祇制度が整備さ 守るべき道について説くことから始め、そこに度会行忠・常 ( 昭和一五 ) 内務省神社局にかわり、神祇院が設けられたが、 れ、全国の有力神社を国家が管理した時代であったが、それ昌・家行らが出てより、さらに神宮・神道についての教学を四五年 ( 昭和二〇 ) 太平洋戦争の敗戦とともに、国家機関と は一面その宗教的な発展をはばむことともなっていた。 深め、伊勢神道思想を大成するとともに、伊勢信仰を庶民に しての神祇院は廃止され、翌年二月、全国神社の包括団体と きたばたけちかふさ 一〇世紀後半、律令体制が緩むとともに、神祇制度も乱広めることもした。その思想はやがて南朝の北畠親房以下して神社本庁が、政府の手を離れて組織され、現在大半の神 に大きな影響を与えたが、南朝の衰退とともに衰えた。室町社がその包括下にある。↓祭政一致↓神祇官↓神祇省↓ れ、幣帛も滞り、都周辺のわずかの社にのみ奉幣されること あんど となった。それも、始めはその社が一定していなかったが、幕府も鎌倉幕府の神祇行政を踏襲し、その初め社領安堵に努教部省↓宣教使↓内務省 いわしみず 一〇八一年 ( 永保一 ) 以降、伊勢・石清水以下の一三社となめた。庶民はまた神仏習合的な信仰、さらに二重、三重の重 日本文化と神道 り、「二十二社」の制が定まり、室町中期まで続いた。また層信仰をもって寺社にあたった。また、この期に絵巻物を中 いちのみや 一二世紀になり、各国ごとに「一宮」が定められた。これは 心としての縁起神道が説かれた。しかし、室町幕府は鎌倉幕〔神道におけるカミ〕神道は日本人の生活の根底、日本人的 朝廷また国司が正式に定めたものではなく、一般でその国ご府ほどの威令をもたず、やがて戦国の争乱とともに、各神社思考の根底にあるものともいえる。日本文化の根底にあるも うら 社領も略奪され、疲弊する諸社が多かった。かかるなかでト とに由緒正しく、多くの信仰を集め、経済的基盤の確たる社 のともいえる。神道でいうカミに、自然崇拝、庶物崇拝、祖 べかねとも を定めていったものとみられる。また、国ごとに、その国内部兼倶により吉田神道が樹立された。兼倶は伊勢神道の影響先崇拝などに属すそれの多いことから劣等自然教との見方も そうしゃ そうげんゆいいっ かんじよう 諸社を一所に勧請した「総社」の成立したのもそのころでを受けながらも、それを元本宗源唯一の神道説と唱え、神祇あるが、そのカミは卓絶した神秘な能力をもっ存在、それは 行政の乱れに乗じて、しだいに全国の神社・神職をその支配 あり、その一宮、総社が一般の信仰を多く集めることとなっ 単なる存在でなく、信仰上の対象であり、それが信仰上の対 しんごん た。この時代末、神仏習合説は発展し、真一一 = ロ宗と結び付いて下に置いたのである。↓神領↓神仏習合↓伊勢神道↓伊象となるのは、そのカミのカ、タマの働きが自分自身にかか りようぶ たいぞう の真言神道で、金剛界・胎蔵界を神道にあて、いわゆる両部勢信仰↓吉田神道 わるからである。そのかかわりは、自分自身を本来の姿にさ とよとみ 神道が説かれ、一方、天台宗と結び付いての天台神道、また〔近世〕戦国の争乱のあと、織田信長・豊臣秀吉、ともに神せてくれることである。神道ではヒトも本来神聖なものとし さんのう の名山王神道も説かれ、さらには院政期に末法思想の流行と 社の復興にあたり、徳川家康もそれを継承した。この期は幕てとらえる。カミにより生命を授けられた存在、この世にな かんのん たいへい ともに、浄土信仰・観音信仰と結び付いた熊野本宮・新宮・ 府の文治政策、諸藩の学問奨励政策もあり、また泰平の世でんらかの使命を与えられて生まれさせられた存在とみる。そ へいはく ・れ′ ) うかい た まつばう えんぎ もつば かんべ かんべ ト - りとも 644

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しようと えんぎ 〔太子信仰〕六二二年 ( 推古天皇三〇 ) 二月二 延喜年間 ( 〈 0 一 ~ 九 = 三 ) の成立かとも憶測され硯 ほんちょうげつれい 二日に、聖徳太子は斑鳩宮で亡くなった ( 紀はている「本朝月令』、および一〇〇八年 ( 寛弘 かわ 年装成 前年二月五日没 ) 。四九歳であった。遺体は河五 ) ごろの成立とみられる『政事要略』に引用 額構 ⅱのを 内の磯長の墓地に葬られた。墓は大阪府南河内された「聖徳太子伝」や、九八四年 ( 永観二 ) は面体 えいふくじ さんば・つえ、、とば △ム入王 郡太子町の叡福寺境内に現存する。太子を思慕成立の『三宝絵詞』で参照された「平氏撰聖徳 子はで 障在跡 する人々により聖徳太子信仰が形づくられる太子伝」は、その内容からみて、いずれも伝暦 はんかし 旧現事館 と深いかかわりが認められる。伝暦の原形か、 が、半跏思惟像が亡き太子のイメージを表し にの物 しやか しった 色ら団博 た。釈迦の前身である悉達太子の像であった半それに先行する伝の可能性がある。これらの関 着さ約立 係をさらにつきつめて、九八四年以前に、一巻 地 , の国跏思准像は、聖徳太子像と重なった。そして八 綾装涯京 改生東世紀には、太子は「日本の釈迦」と仰がれるこ本の「平氏撰聖徳太子伝」 ( 太子四九歳入滅と けつりやく 筆にの 貞隻子宝ととなる。鎌倉時代およびそれ以前に成立したする ) があり、これを増補 ( 闕暦を補入して 致五太国 二巻 太子の伝記・絵伝は、現存のものだけでも二〇伝暦とする ) して九九二年 ( 正暦三 ) に、 秦風 屏分す 種を超える。それらは、時代を下るにしたがっ本の「聖徳太子伝暦」 ( 太子三七歳をもって上 曲部付 知ニのをて内容を豊富にし、伝記としての体裁を整える巻を終え、五〇歳入滅とする ) が成立し、さら 延れ扇文 に遅くとも平安時代末期までには、今日伝わる ( さ左銘が、統一的完結的なまとまりをもっ最初の伝記 でんりやく かねすけ 年す隻の である藤原兼輔の『聖徳太子伝暦』において、 ような体裁 ( 太子三六歳をもって上巻を終え は三形 こうとうむけい きずい ら第紙 かは色その太子像は荒唐無稽な異聞奇瑞で満たされてる ) に整えられたとする具体的な試案も出され 伝物図に 〈新川登亀男〉 〈田村圓澄〉ている。 絵建本面 。場回田村圓澄著『聖徳太子』 ( 中公新書 ) ▽同著回『聖徳太子全集第三巻太子伝 ( 上 ) 』 ( 一九 太管各 徳日保 四四・龍吟社 ) ▽林幹彌著『太子信仰の研究』 『日本仏教史第一巻』 ( 一九全・法蔵館 ) ( 一九含・吉川弘文館 ) ▽田中嗣人著『聖徳太 聖徳太子絵伝しようとくたいしえでん聖徳 子信仰の成立』 ( 一三・吉川弘文館 ) に通ずる新しい拠点を確保することにより、独年 ( 敏達天皇一 ) に蘇我馬子が大臣となって以太子一代の伝記を絵画化したもの。誕生から薨 きょ しようとくてい ( 一四九一 正徳帝 自の外交、内政を展開するためであったと考え来、とくに画期的な政策を断行したことがな去に至る生涯のさまざまの事跡を描き、あるい しきし ことばがき は詞書や色紙形などの文字で説明を加えたも 明朝第一一代の皇帝 ( 在位一五 0 五 ~ 一一 I) 。名は厚 、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が られる。 びようごう の。古くはすでに奈良後期に四天王寺の絵堂に 照、諡は毅皇帝。廟号は武宗。年号により正 五八九年 ( 崇峻天皇一 D に隋は中国大陸を統集中している事実から考えれば、推古朝の政治 一したが、太子は、六〇〇年、六〇七年、六〇は太子によって指導されたとみるべきである。太子絵伝の壁画があったことが文献からわかる徳帝とよばれる。弘治帝の長子。暗愚ではなか ( 『太子伝古今目録抄』 ) 。現存中最古の遺品は、 ったといわれるが、一四歳で即位後、政治をま 八年、六一四年の四回、隋に使者を送った。使それだけに太子と馬子との対立は不可避であっ 一〇六九年 ( 延久一 ) につくられた旧法隆寺絵ったく顧みず、常軌を逸した行いが多かった。 者の任務は、辞を卑くして中国の皇帝から政治た。↓冠位十二階↓十七条憲法 かんがん りゅうきん きえ 支配権の確認を求めた五世紀の倭の五王とは異〔太子の仏教〕太子の父用明天皇は、仏教帰依殿の障子絵 ( 現在一〇面の額に改装。国宝。東宦官を側近とし、悪名高い劉瑾をとくに信頼 はたのちしん して政治を任せ、自らは宮中に美人を囲って遊 なり、文物、文化の移植にあった。したがってを表明した最初の天皇であったが、その願望は京国立博物館保管 ) で、秦致真 ( 致貞 ) の作と 長期留学の学生、学問僧も同行したが、大陸文実現しなかった。用明天皇の仏教受容は、病気知られる。後世の補修が何度か加えられている興にふけり、ラマ教に凝って自ら「大慶法王」 げんぜりやく の平癒を期待したのであり、いわば現世利益をが、画面の構成や図様は当初の模様を伝え、平と号した。政治の実権は劉瑾が握り、正義派は 化の本格的な移植はこれらの留学生に負うとこ 仏教に求めたのであるが、太子の仏教受容に安時代の、作者・制作年の明らかな遺品として退けられた。圧政に耐えかねた人民は各地で蜂 ろが多かった。 は、現世利益を求める傾向も、鎮護国家を求め貴重である。鎌倉時代以降は、太子信仰の隆盛起し、皇族の乱も起こった。海外からはポルト 六〇三年に冠位十二階が制定された。家柄に じゅじゅっ よって身分が決まる氏姓制度にかわり、個人のる呪術的要素もなく、仏教を人間の個人の内とともに絵巻や掛幅などに数多くの絵伝がつくガル人の来航が始まり、明朝は内外ともに重大 られた。遺品としては上宮寺、堂本家などの絵な事態を迎えた。遊漁中、誤って湖に落ち、そ 力量、才能によって地位を決める冠位十二階制面的・精神的なものとの関連において理解しょ たちばな みん / 、りーん はんきゅう 〈鶴見尚弘〉 は、昇進も可能であり、後の官人の位階制の始うとするものであった。太子の仏教理解を示す巻、また四天王寺、橘寺、鶴林寺、斑鳩寺なれがもとで翌年没した。 しようとくてんのう ( 七天 て憲法ものに憲法十七条があり、太子のことばとしてどの諸本がとくに知られている。〈村重寧〉称徳天皇 まりとなった。冠位十二階の施行に続い せけんはこけな てんじゅこくしゅうちょう しようとくたいしでんりやく平第四八代とされる天皇 ( 在位七六四 ~ 七七 0 ) 。第四 十七条を制定した。冠位十二階が、天皇制の下伝えられる天寿国繍帳に載せられた「世間虚聖徳太子伝暦 ・ : つけん じよめい るもただはとけのみこれまことなり での官人貴族の序列化であるとすれば、憲法十仮、唯仏是真」と、舒明即位前紀に記さ安時代の聖徳太子伝。通称、伝暦。数多くの聖六代とされる孝謙天皇 ( 在位七四九 ~ 七夭 ) が再即 たかの もろもろのあしきことをばなせそもろもろのよきわざをおこなへ 七条は、官人貴族の服務規律であり、道徳規範れた「諸悪莫作、諸善奉行」とが徳太子伝承・伝記は、すべてここに集大成さ位して称徳という。女帝。高野天皇とも称せら ・一うみよう あべしようむ ある。また推古天皇のために経典を講義したとれ、ふたたびここから流布していった。九一七れる。名は阿倍。聖武天皇の皇女。母は光明 であった。 かねすけ さんぎよう ほけゆいましようまん きにできたという法華、維摩、勝鬘の『三経年 ( 延喜一七 ) に藤原兼輔の書いたものだとす皇后。 聖徳太子が目ざしたところは、天皇を中心と ゅうせつ ぎしょ 七三八年 ( 天平一〇 ) 正月立太子、七四九年 する中央集権国家体制の確立であった。推古朝義疏』があるが、この『三経義疏』についてる藤原猶雪説が、一時、定説化したきらいがあ ( 天平勝宝一 ) 七月聖武天皇に譲られて即位、 の政治について、聖徳太子と蘇我馬子との二頭は、太子の著作であるか否か、また太子の著作るが、今日では、強く疑問視されて、その成立 なかまろ せんじゃ 政治であるとか、あるいは馬子の主導によってであるとして、どの部分が太子の独自の解釈で年代・撰者とも、振り出しに戻って検討されて孝謙天皇となったが、政治の実権は藤原仲麻呂 しびちゅうだい を長官とする光明の紫微中台にあった。聖武 国政は推進されたとする見解があるが、五七一一あるかは、なお検討を必要とする。↓三経義疏 しなが おくりなき ーー五 lll) 中国、

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に置き、冬は一三度 0 以上を保つ。繁殖は挿木る意のマン man という動詞に、器を意味す〔歴史〕インドでは四世紀ころから除災招福の建て、空海の教学の復興に努めたが、金剛峯寺 2 ねごろさん ぞうぶ いわゆる雑部密教の経典が盛んに行われ、四 ~ 側と相いれず、紀州 ( 和歌山県 ) 根来山に退い 5 により、六、七月に葉を二枚以上っけてつるをるトラ ( 「 a が結成したと解されるので、思念 らいゅしようけん 六世紀のグプタ朝全期を通じて、仏教におけるた。一四〇年後、頼瑜、聖憲らが根来寺大伝 切り、ミズゴケで小鉢に植える。〈坂梨一郎〉の器を原義とする。また、思念する意のマン いんげい まんだら と、守護するまたは救済する意のトラー ( trä儀礼儀式、真言、印契、曼荼羅などが発達し、法院の教学を確立したので、のちに覚鑁系を新 こんごうちょうぎよう だいこちきよ、つ しシンコペーション n 。。を ( 一 on せつぶんおん 音楽用語。切分音または ( 「 a ことの合成とみて、思念する者を七世紀ころ『大印経』「金剛頂経』の両部の義派、伝統的な教学を古義派というに至った。 smcope ア Synkope 書 救済すると解される。マントラは古代インドの経典が相次いで成立し、組織的、体系的な密教覚鑁は高野山教学の中興の祖、新義派の祖師と と訳される。アクセントや拍節の正規のパター 仰がれる。鎌倉初期、高野山に覚海が出、門下 ンを変えることによって、リズムに不規則性聖典『アタルバ・べーダ』などでは種々の呪的が完成した。 ぜんむい どうはんほっしよう の道範、法性らは高野の八傑といわれた。ま この両部の密教は八世紀なかばころ、善無畏 ( 強拍部と弱拍部の位置の交替 ) を生じさせるな言詞をさし、その多くは呪術を伴うものであ ぎようゆう こんごうさんまいいん えい寺一い こんごうち っこ。 た、栄西の高弟の行勇は高野山に金剛三昧院 ( シュバーカラ・シンハ ) 、金剛智 ( バジラ・ポ 効果のことで、それには主として図に示したよ みよ、つ ほうねん ふくう ーディ ) 、不空 ( アモーガ・バジラ ) によってを建てて禅風を伝え、法然 ( 源空 ) の高弟明 密教はこの語を取り入れて、真言は諸仏菩薩 うな三つの方法がある。 しようみようねんぶつ へんれんげ などのことばとして用いられ、真実な語を意味唐へ伝えられ、密教の最盛期を迎えた。九世紀遍は蓮華三昧院を建てて称名念仏を広めた。 ちょうげん につとう するようになった。真言を説く諸尊の種別かの初め、空海が入唐して、長安 ( 現在の西安 ) また重源は新別所を開いて浄土念仏の拠点と せいりゅうじ しようもん こよらい こん〕」う した。このように高野山は諸宗を包容し、真一言 の青龍寺東塔院の恵果から大日・金剛頂両部 ら、①来説、②菩薩金剛説、③二乗 ( 声聞 じごてん えんがく 宗の教学を豊かなものにした。鎌倉時代には新 乗、縁覚乗 ) 説、④諸天説、⑤地居天説に分類の密教を授かり、帰国後に独自の立場から真言 さいたいじ そうじよう する。①②③は聖者の真一一 = ロ、④は諸天衆の真宗を開いた。密教の相承は二つある。一つは義派は関東方面に広まり、また奈良・西大寺の えいぞん さったりゅうみよう 叡尊は真言律宗の一派を開いた。彼は社会活動 一一一一口、⑤は地居天衆の真言という。また、④⑤を付法の八祖で、大日如来↓金剛薩埋↓竜猛↓ まとめて諸神の真言ともいう。真言の頭初には竜智↓金剛智↓不空↓恵果↓空海、他は伝持のを進め、多くの人々に救済の手を差し伸べたこ きえ おん とでも知られる。室町時代に長覚、宥快が高野 八祖で、竜猛↓竜智↓金剛智↓不空↓善無畏↓ 帰依を表すオーム om ( ) またはナマス na ・ らいまう いちきよう きっしよう mas ( 南無 ) を冠し、末尾には吉祥を意味す一行↓恵果↓空海と伝承された。空海は帰国山の教学を大成した。東寺では頼宝とその弟子 こうやさん ) 一うほ、つ けんぼう たかおさんじ そわか るスパ ーハ svä ( 蘇婆訶 ) の語を用いる場後、京都・高雄山寺に住し、その後、高野山をの杲宝、また賢宝が出て、大いに教学を盛んに 〈宮坂宥勝〉修行の道場として開創し、また根本道場としてした。しかし一五八五年 ( 天正一三 ) 三月、豊 合が多い。↓陀羅尼 きゅうよ 臣秀吉は根来寺を攻撃して壊滅させた。時の学 じんこんじき「ジンゴジキ」「カムイ嵯峨帝から東寺 ( 教王護国寺 ) を給預された。 神今食 やまと はせでら せんよ 頭の専誉は難を避けて大和 ( 奈良県 ) 長谷寺に マケ」「カムイマズリ」ともいう。中古の宮廷彼は真一一一一口宗の宣揚に努め、幅広く社会的、文化 ちしやく げんゅう つきなみ 行事の一つで、六月・一二月の一一日に月次祭的活動を多方面にわたって展開した。空海の十移り、同じく玄宥は京都 ( 後の東山七条智積 じちえ ・一ん一う いん しんぜん しんかでんあまてらすおおみかみまっ はんべい 院 ) に移って、それそれ新義真一一一口宗を再興し 班幣が行われた夜、神嘉殿に天照大神を祀り、大弟子のうち実慧は東寺の、真然は高野山金剛 ぶざん ちさん やくしんほんがく 新しく鑽った火で炊いだ飯を天皇自ら神前に供峯寺の発展に努めた。その後、益信 ( 本覚大た。これが新義真一一一一口宗の豊山派と同智山派の始 しようーう りげん まりで、専誉、玄宥はそれそれその派祖と仰が え、のちに天皇自身も共食する神事である。新師 ) と聖宝 ( 理源大師 ) によって密教の法流 もくじきおう 1 一 なめ は継承され、益信の弟子の宇多法皇は仁和寺をれる。秀吉は木食応其の説得で高野山攻撃を中 嘗祭儀とほば同内容であるが、旧穀を用いるこ やまと しんせんごしんく とと、神饌御親供の回数 ( 新嘗祭一〇度、神今開山した。聖宝は醍醐寺を開山し、また大和止し、かえって高野山の再興を援助したので、 せいがんじ こうぎんじ しゅげん きんぶせん とよのあかりのせちえ ( 奈良県 ) 金峯山に登って修行し、修験道の中木食は復興に努め、青巌寺と興山寺を建てた。 食五度 ) 、豊明節会のないこととが異なる。 かんげん しんとう 江戸初期には頼慶が高野山諸法度の制定に協力 神今食は、神道の稲米儀礼のなかにあって、新興の祖と仰がれる。聖宝の弟子観賢は醍醐帝に おうにん シンコペーションは古く中世の音楽にもみら嘗祭の古儀と考えられるものである。応仁の乱奏上し、空海に弘法大師の諡号を賜った。皇した。江戸時代全期を通じて高野山には山史の きえ れるが、その場合は対位法による音楽のなかで ( 一四六七 ~ 七七 ) 以後月次祭とともに廃絶したが、室・貴顕の帰依が多くなり、造寺・造像・写経編集でみるべきものが多く、多くの学匠を輩出 うんしょ - っ しゅはう 神今食は宮廷行事のなかでも物忌みが厳重であなどとともに修法も盛んに行われ、実修面 ( 事したが、とくに京都・智積院に運敞、長谷寺 各声部を際だたせるために、一声部ごとに用い りようたい ほ、つじゅ・つ そう ついたち に亮汰が出て並び称された。豊山派の法住・ 相。東密 ) の分派が始まった。益信の流れをく り、その月の朔日から潔斎生活に入った。一日 られた。それに対し一八世紀以降の音楽では、 ん ~ い / つ かんちょう かいじようてんめい ひろさわへんじようじ いみびのごぜんごはん 快道・戒定を天明の三哲という。このほか、 ノ日のみ京都・広沢に遍照寺を建てた寛朝の広沢、 の忌火御膳 ( 御飯とも ) から始まり、、 1 シンコペーションを全声部にわたって同時的に れいうんじ じようごんかわち まんだらじ みあがもの 聖宝の流れをくみ京都・小野に曼荼羅寺を建て江戸霊雲寺の浄厳、河内 ( 大阪府 ) 高貴寺の 用い、今日的な意味での効果が意図されるよう御贖物 ( 祓 ) の行事があり、一一日夜神嘉殿に おんこう じうんそんじゃ やたく ばん た仁海の小野流に分かれ、それらを野沢一一流と飲光 ( 慈雲尊者 ) のように梵学を研究し、戒律 になった。なおシンコペーションは、プルースおいて新嘗祭同様の神饌御供進が行われ、翌一 けいちゅう げさいのおかゆ いう。のちにそれぞれ六流に分かれたので、野復興に努めた人々もいる。契沖は真言僧で国 〈西牟田崇生〉 一一日朝解斎御粥で終了する。 やラグタイムやジャズなどの基礎ともなってい せんべん 〈黒坂俊昭〉 る。 真言宗しんごんしゅう日本仏教の一宗派で、沢十二流、その後さらに分派して鎌倉時代には学研究に先鞭をつけた。なお、鎌倉初期以来、 こうやひじり がらん だらこしゅう 高野聖が高野山の信仰を広め、堂塔伽藍の復興 シンゴラ Singo 「 a タイ南部の都市ソンク真一言密教、真言陀羅宗ともいう。開祖は空海東密三十六流を称した。↓東密 かんじん にゆうじよう ・ごっ事 : っ のため全国を勧進して歩いたことも特記すべき 高野山は大師入定の聖地、高野山浄土の信 ( 弘法大師 ) 。中国の唐代における密教を、平安 ラーの別称。↓ソンクラー ぶつばさっ であろう。↓高野山 吉 = 一一 = ロしんごん密教における仏菩薩などの初期に空海がわが国に伝えて一宗として開いた仰の山として栄えたが、一時衰微した。一〇一 じようよ 〔教理・実修〕『大日経』『金剛頂経』を根本所 本 ( 人々を救済しようとするもとの願い ) をもの。真言はマントラ mant 「 a の訳で、教主六年 ( 長和五 ) 定誉が復興し、このころ藤原道 ゅぎ そしつじきよう しらかわ よりみち だい : ちによらい みつじゅ 大印如来が説いた真実のことば。類語に陀羅長・頼通父子が登山し、また院政期には白河、依の経典とし、これに『蘇悉地経』『瑜祇経』 表す秘密語、密呪。サンスクリット語のマント ようりやくねんじゅ かくばんこう みようしゅしゆみつごん しゅしんしゅ 一フ mant 「 a の訳。呪、神呪などとも。比較的尼、明呪、呪、密言などがある。真言の教え鳥両上皇の登山、帰依を受けた。覚鑁 ( 興『要略念誦経』を加えて五部秘経という。常用 はんにやりしゅ しやくまかえん ぎよう だいでんばういん だらこ 教大師、一 0 九五ー一一四三 ) は高野山に大伝法院を経典は「般若理趣経』。また『釈摩訶衍論』『菩 短い呪を真一鼓長い呪を陀羅必という。思念すを中核とする意味で宗名としたもの。 シンコペーション / おもな方法 ( 1 ) 弱拍部にアクセント記号をつける方法 2 ) 強拍部を休止する方法 3 ) 弱拍部を延長する方法 初し とみ ゅうかい

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どうかん また、城攻めの手段として、①平攻め、②火 戦が一般化するにしたがい、武術に戦術が加わ田道灌が城攻めを行った。道灌は足軽戦法を用 城攻め ひょうろう 、雑兵を組織化、陣城をもって敵方城郭を攻攻め、③水攻め、④枯渇攻め、⑤兵糧攻め、 り、これが城の攻防戦に多くのくふうを生む転 しより かわはり かさぎやま 城を直接攻める戦法を城攻めといい、原始か機となった。史上名高い笠置山城、赤坂城、千めて、二一か城をすべて攻略したと伝えられ⑥金掘攻め、などがあった。①は仕寄攻めとも しゅんけん せんじようさん りようぜん いわれ、敵城の正面である大手方面から攻める ら近世に至るまで多くの事例をみいだすことが早城、船上山城、霊山城の合戦は、険な山る。自らの居城江戸城は、道灌がかりとよばれ たかやぐら あし かん ) 一う もので、楯・竹束などを並べ、高櫓を建て、 できる。古くは高地性集落や環濠集落とよばれ岳突端部を山城として南朝側が立てこもり、足る城取り ( 築城とそのプラン ) をもって築き、 がくつどう ざんごう やよい かが 我屈洞で近寄り、塹壕を掘り、埋め草で堀を理 強固な城郭とした。 利勢と戦ったものであった。 る弥生時代の城郭遺跡で、城攻め合戦の痕跡が いせそうずい やまと 一四九一年 ( 延徳三 ) 一〇月伊勢宗瑞 ( 北条め、子を使って攻め入る方法がとられた。城 室町時代になると、守護大名などにより、居 相次いでみつかっている。古代大和政権下で から こらやま そううん 館を伴う壮大な山城が築かれ、地域支配の拠点早雲 ) は伊豆の乱を起こして足利茶々丸を黽山側は裏手から兵を出し、これを搦め捕る方法 は、東北地方の反乱拠点に城が利用され、出羽 ふしゅう ぜん となった。関東の平野部では、舌状丘陵や台地城に不意打ちして伊豆一国を手中に収め、一四 ( 搦手 ) が用いられた。②は火矢をもって城下 俘囚の乱 ( ハ七 0 の秋田城、前九年の役 ( 一 0 五一 一が「 とりうみのきくりやがわのき ~ 六 (l) の鳥海柵・厨川柵、後三年の役 ( 一 0 ハ三上に城郭が営まれた。この時代の代表的な城攻九五年 ( 明応四 ) 相模の名族大森氏の居城小田や敵城を火攻めにし炎上させる戦法で、奇襲や えいきよう わら おやま かねさわのき めは、小山氏の乱 ( 一三〈 0 ) の小山城、永享の原城を夜襲、関東進出の基盤を築いた。この城強襲の際にしばしば用いられた。③は灌流攻め ) の金沢柵などが城攻めの舞台となった。 ゅうき 乱 ( 一四三 0 に引き続いた結城城合戦 ( 一四四 0 ~ 攻めは奇襲とよばれる戦法で、戦国時代の幕開ともいい、城の周囲に堤を築いて堰から河川を 中世に入り、鎌倉時代末から南北朝争乱期にか ろうじよう かきっ はりまきのやま きとなり、戦国大名の出現となった。戦国大名引き入れ、城を孤立化させ、兵糧や援軍の補給 けては、城に立てこもる籠城と、これを攻撃四 I) 、嘉吉の乱 ( 一四四 I) で播磨城山城に籠城し びっちゅう ぶやく あかまつみつすけ を遮断する方法で、秀吉の備中高松城、紀伊 は、被官となった在地武士や農民に軍役、夫役 た赤松満祐とこれを攻めた足利幕府軍との戦い する城攻めが合戦の主流となった。 むさしおし おうにん などがある。応仁の乱 ( 一四六七 ~ 七七 ) では、京都を課して軍団を組織し、種々の城攻め戦略が兵太田城、武蔵忍城攻めが有名。④は城の井戸や 武門武士間の抗争に代表される鎌倉時代の合 じんじろ 戦様式は、武術を競う武士階級間の野戦であっ市中に多くの臨戦築城である陣城が築かれ、陣法 ( 主として兵法七書 ) を基本に考案、実施さ溜井 ( 水の手 ) を破壊して城兵を干ばしにする みのわ ふたまた しんげん せいろういしびや しようえん 方法で、武田信玄による箕輪城、二俣城攻めが たが、やがて荘園公領制の矛盾から新たに発城争奪戦が中心となった。とくに井楼と石火矢れた。 やまじろ 城攻めは大別して、前述の奇襲と正攻法とが知られる。⑤は大軍をもって城を包囲、兵糧補 生した脱農民層が悪党組織をつくり、山城に立が陣城に盛んに設置されたことが当時の『碧山 も・、・うい じんぶれ やましなけらいき てこもるようになった。そのなかから足軽とよ 日録』『山科家礼記』に記されている。井楼とある。正攻法は宣戦布告にかわる陣触を大々的給を断ち、自滅を待っ方法で、長囲 ( 遠巻き ) やぐら ようへい に行ってから城攻めするもので、織田信長や豊ともいわれ、秀吉による三木城、鳥取城、小田 ばれた傭兵が出現し、一騎打ち勝負の武士戦法は組み上げ式の櫓で、一〇余丈 ( 三〇以上 ) とみ おだに に及ぶものもっくられた。石火矢とは、火薬で臣秀吉が攻略した小谷城、石山本願寺、朝倉氏原城や、島原の乱の原城などが知られる。⑥は にかわる集団戦・ゲリラ戦が広がった。こうし かりたろうぜき じゅんこうし の一乗谷城、鳥取城、小田原城の各戦で行われ坑夫を使い城外からトンネルを掘って城内に兵 て、山城構築↓刈田狼藉↓籠城↓遵行使との大石を発射させる大砲の原始的なものである。 するが ひたち かんれい 同じころ、関東では、関東管領家執事職をめた。このほか、城が小規模、弱小の場合や、多を入れる方法で、駿河深沢城、常陸小田城、 対決という経過がみられ、悪党行為と山城が表 か洋は・つ 田原征伐での水之尾ロの合戦などが史料に伝え ぐって大乱が起こった。長尾景春の乱とよばれ くの損害を覚悟で早急に陥落させたい場合など 裏一体の関係になった。南北朝争乱期には山城 いっとき られる。 〈西ヶ谷恭弘〉 る戦いは三〇回以上を数え、反乱軍が籠城、太には強襲 ( 一時攻め ) が行われた。 が南朝軍に利用され、足軽が組織されてゲリラ 4 すルの 鬣第さこ 誇記 を閤 隊太 鉄絵 3 紅 れ③ア ・をリ・も 的た ) 底し - 三ロ いへ、〔」【、駲れ 攻か .3 ・い 来焼 二ンハノ や . っ ~ 一、松真 吉城【 ~ のと 臣石 豊千 め拠 攻の 第い ( 攻築 ④堤 ( のょ健をユ小 こんせき 城攻め ①井楼 ( 高櫓 ) を用い た城攻め弱莠萇 , 秀次による和気城攻撃 の図 ②橋輻車による城攻め。 戦国時代末期には , うした攻城用戦車まで 考案された。図は黒田 家の後藤基次 ( 又兵衛 ) がつくったもの へきぎん ノ応い ためい たて せき 409

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できる。中世にはまれにしかみることができな位し、岡本宮に入 0 た。こうした経緯もあ 0 七条 ) 。都道府県における副知事に相当し、長愧・嫉・・毎・睡眠・掉挙・棔心・忿・覆の 2 〕ち第・′、 が議会の同意を得て選任する特別職の地方公務一〇種と、人々を迷いに結する九十八結を加 いが、作者の個我意識が目覚めるとともにルネて、政界はまとまらず独自の政策も目だたなか ろくじん まうしよう くだら ったが、この治政下、百済王子豐璋、唐使高員であり、定員一名 ( ただし増員も可 ) 。任期え一〇八とする説、六根と六境の関連から六塵 サンス以降からは一般化していく。ピサーノ、 は四年である。ただし、長は任期中でもこれを ( れ、煩悩 ) が生ずるとき、それそれに好・ 1 ンヨッ 、べツリーニらの工房銘が早い例であ、表仁の渡来や蝦夷征討などがあった。治政一一 悪・平 ( 非好非悪 ) の三種があって一八とな る。署名に付して制作年を示す年記 date は紀年 ( 六三九 ) から百済川畔に百済大宮、百済大寺解職することができ、また、住民の解職請求に ぜんじよう の造営を命じ、翌年、百済宮に移ったが、九重基づいて解職されることもある。助役は、国会り、おのおのに染・浄の二を乗じて三六、さら 元後一四、五世紀から現れている。デューラー におのおのに過去・現在・末来の三種があり、 議員、検察官・警察官・収税官吏、普通地方公 などのように署名のかわりとしてモノグラム 塔をもっ百済大寺は完成後ほどなく焼失した。 その翌年一〇月、天皇は百済宮で没した。陵墓共団体における公安委員会の委員、地方公共団これを乗じて一〇八となる説などがある。また monogram を用いることもある。これは通常、 〈門脇禎二〉体の議会の議員および常勤の職員との兼職を禁中国の暦法により一年を分けた一二か月、二十 は奈良県桜井市の押坂内陵。 作者のイニシャルを装飾的に組み合わせた複合 しよめんしんりしゅぎ訴訟審止され、また、関係私企業の役員等との兼職を四節気、七十二候を合した数であるともいわれ 文字である。モノグラムによってのみ認知され聿面審理主我 禁止されている。なお、市町村は、条例で、助る。鐘の打ち方については、一〇七回までは旧 ている作家もあり、たとえば「の版画家」理の方式に関して、当事者および裁判所の訴訟 〈福家俊朗〉年中に、残りの一回を新年につくようにするの 役を置かないこともできる。 などとよばれている。署名は、作品の完成を自行為、とくに弁論や証拠調べが書面によりなさ 〈石川カ山〉 が慣習である。 しょやけん結婚直前または初夜に、 認して作者自身の手で最後に記されるのであるれることを要するとする主義をいう。書面主義初夜権 から、作者の責任を公的に示すものである。そともいい口頭主義に対立する。書面主義は訴訟花婿に先だって、花婿以外の男性が花嫁と性関女優しょゅう女性の俳優。現在は演劇だ しんがん れゆえ、作品研究や真贋鑑定のうえで重要な手材料の提出・保存が確実であり、かっ反復審理係をもっ権利のことをいう。婚前の処女性を尊けでなく、映画、ラジオ、テレビの女性演技者 をも含めて幅広く使われている。演劇の起源 が可能という長所があるが、他面、訴訟書類がぶ思想には、夫婦関係の排他性という社会的・ 掛りとなっている。また、複数制作の版画では じゅ い理的要因があり、さらにその背景には、しばを、生活ないしは生産労働と結び付く神事、呪 サインの有無によって商品価値が大きく異なる膨大となり、その閲読に多くの時間と労力が費 じゅっ じゅじゅっ しば女性の生殖能力に対する呪術的信仰があ術と関係づけて考えるならば、洋の東西を問 のでとくに重視される。署名は美術作品を構成やされ、また弁論を集中しがたく、事件の真相 する、欠かせない一要素である。〈大井健地〉を明らかにするためには、口頭主義よりも不便る。古代インドでは、シバ神の表象である石わす、古代の巫女的役割を女優の原初的形態と ぞうげ みることができる。しかし、古代ギリシア劇の な面が多い。また合議制や公開主義にも適しな製、金属製、象牙製の男根 ( リンガム ) によっ しよめいうんどう特定の問題に対 署名運動 時代からルネサンス期にかけての西欧演劇や、 いという欠点もある。そのため民事訴訟法におて結婚前の女性の破瓜がなされ、また古代ロー して、本来その真の意思決定主体であるにもか 能狂言が成立する室町期の日本演劇において、 いては、口頭主義が原則であって、書面主義はマの花嫁は、同じ意味で、男根神像の膝の上に かわらず、その意思決定過程から疎外されてい とくに必要かつ重要な事項や補充的な場合に併座らなければならなかった。ヘロドトスの記述女優の存在は公認されず、主として男性俳優中 る一般大衆が、彼らの意見を反映する手段とし 、いに演劇は成立していた。そこには女性の社会 ハビロニアの女性は、結婚前にたた て署名を集め、それを当該意思決定主体に提出用されている。たとえば、起訴の方式 ( 民事訴によると、 一人の旅人 ( 異郷人 ) に身を任せなければなら的、宗教的地位の低さが関係していたと思われ する運動のこと。運動論的には、これは、運動訟法一三三条 ) 、訴えの変更 ( 同法二三二条二 なかった ( 旅人を神の仮の姿とする見方は、世る。 側の主張を大衆に伝え理解を広めるとともに、項 ) 、訴えの取下げ ( 同法一一三六条三項 ) など ルネサンスの洗礼をいち早く受けたイタリア 〈内田武吉〉界各地に多い ) 。しかし、多くの場合、初夜権 大量の署名を集めて当該の問題の意思決定に対である。 しよせき をもつのは、封建地主や聖職者であった。聖職の即興仮面喜劇コメディア・デラルテにおける しよもっ 0 書籍 して強力なプレッシャーをかけていくものであ聿日物 者は神の代理人として処女に接し、彼女に豊か女優の登場を先駆とし、フランスの古典主義演 る。ヨーロッパにおいては一八三〇年代のイギショーモン Chaumont フランス北東部、 劇をはじめ、女性役を女性演技者が演じてこそ な生殖能力を与えるものとされている。また、 オート・マルヌ県の県都。マルヌ川とスイズ川 リスのチャーティスト運動以来の伝統があり、 日本においては一八八〇年 ( 明治一三 ) におけの合流部にあり、鉄道と道路の要衝。人口二万破瓜による出血は、月経による出血より危険で真実であるとする合理的精神が広まるにつれ、 る国会期成同盟の十数万に及ぶ署名運動がこの九五五二 ( 一九公 D 。行政および商業の中心都市あるため、男性はこれを避け、神にとくに保護女優という職能が確立されていった。しかし、 エリザベス朝のイギリス演劇においては、女性 運動の実質的始まりであろう。多くの成果をあで、工業は機械製造などわずかしかない。一〇された聖職者のみがこの危険に耐えられるとい の役は少年が演じていた。そして近代初頭に ーニュ伯爵の城の周う説もある。これによると、花婿は身を守るこ げてきているが、東京都杉並区の主婦の運動か世紀に建てられたシャンパ は、フランスのサラ・ベルナール、イギリスの ら始まった原水爆禁止の署名運動が、一〇〇〇囲に町ができたが、城は発墟となっている。サとができ、花嫁は生殖能力を増強できるという シドンズ夫人、エレン・テリー、イタリアのエ ン・ジャン・バブティスト教会は一三世紀に建ので、初夜権の行使者に謝礼金を支払う場合も 万人を超す署名を集めて原水爆禁止世界大会に 結実していったのは、その典型である。ただてられ、一六世紀に改修された。一八一四年一一一あった。王侯、貴族、領主などの世俗的権力者レオノーラ・ドウーゼらの名女優が各国に登場 し、女優が職業としても社会的に確立して現在 による初夜権の行使については、以上のような し、運動に入りやすいものの、それ以上に展開月、イギリス、ロシア、オーストリア、プロイ に至っている。 センはナポレオンを破り、ここでショーモン条宗教儀礼とは別に、身分制度や権力構造との関 していかず、形骸化してしまう危険をもつ。 : 0 が′、 でんがく しらびようし 〈丸山孝一〉 日本では白拍子、女曲舞、女猿楽、女田楽 〈大嶽幸彦〉連で問題にしなければならない 〈矢澤修次郎〉約を調印した。 市民連動↓大衆運動 じよやのかね一二月三一日 ( 旧暦など庶民的雑芸のなかで、女芸人の存在はあっ 除夜の鐘 じよめいてんのう ( 五九一一一ー六巴 ) 第除夜しょや 0 大みそか 舒明天皇 おおみそか 三四代とされる天皇 ( 在位六 = 九 ~ 六四一 ) 。名は田助役じよやく市町村、特別区、市町村組三〇日 ) 大晦日の夜半から元日にかけて、寺院た。そして一六〇三年 ( 慶長八 ) 京都に進出 いずも かぶき 」れ′、に ばんしよう おさかのひことの しごうおきながたらしひひろめか ふる し、歌舞伎の祖とされる出雲の阿国の出現は、 で梵鐘を一〇八回っくこと。百八の鐘ともい 村。和風諡号は息長足日広額天皇。押坂彦人合、政令指定都市の区などにおいて、長の内部 そう あらて おおえ この女芸人の系譜の社会的突出とすることがで う。中国宋代から始まったとされる。一〇八の 一フ大兄皇子 ( 敏達天皇の皇子 ) の皇子。母は糠手的行政機関として置かれる。長の意思や判断の ぼんぶばんのう ゅ - 姫皇女。即位にあたっては朝廷が紛糾し、山決定および表示に関して、これを補佐するとと数については、凡夫の煩悩を一〇八種とし、そきる。しかし阿国的な遊女歌舞伎は一六二九年 おんながた しろのおおえ もに、長が欠けたときなどの場合その職務を代の消滅を祈念するといわれるが、数え方には諸 ( 寛永六 ) に禁止され、以後の歌舞伎には女方 9 よ背大兄皇子 ( 聖徳太子の子 ) を推す声も強か むぎん てんばく そがのえみし ったが、大臣蘇我毛人 ( 蝦夷 ) の支持を得て即理する最高の補助機関である ( 地方自治法一六説ある。心を纏縛して修行を妨げる無慚・無という独特な演技術が男優によってつくりださ びだっ えみし おお ひぎ む くせまい

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すいじよ しいかえれば、水もしくは氷と共 限度がある。 存することのできる水蒸気は、一定の水蒸気圧 まで達することができる。これを飽和水蒸気圧 、それ以上にはならない。一気圧のもと では一〇〇度 O で飽和水蒸気圧が一気圧とな る。したがって気化熱さえ得られれば、水はた だちに一気圧の水蒸気となるので、沸騰がおこ る。同じように〇・二気圧では約六〇度 O で沸 騰するし、四〇気圧では約二五〇度 O とならな ければ沸騰しない。↓水 水蒸気は無色透明であるが、いわゆる湯気は 白く見える。これは水蒸気が空気に触れて、一 部が細かい水滴となるためである。蒸気機関な どでは、このようなときを湿り蒸気、それ以外 を乾き蒸気といっている。 空気中に存在する水蒸気の量は湿度で表され O ( 00 0 0 C) 0 0 C) OO 「 / 「 / ( 0 1-n っこっ」 1 ー ることが多く、相対湿度が高くなって、その湿 l-ltutu ) 田収 ~ = 度での飽和水蒸気圧以上の水蒸気が存在する と、凝結して水滴を生ずる。ただし、きれいな 期火山に多い。水蒸気爆発をする火山は、活動 空気の場合には過飽和の状態になるだけで、水 休止期が概して長く、油断されがちで、激烈な ちり 又、 ,. -0 0- 0 -0 0 0 -0 ア E 員の多一 用 -8 -0 11 ワ】 0 -0 乗通がのる狩使。カ 滴を生じないこともある。空気中に塵や煙など 大爆発で惨害を生じやすい。一 八八八年 ( 明治 ばんだいさん プ 9 ス 密 一。田 . 丸交湖段れマにし タ の微粒子が多いときは、それが核となって霧や 二一 ) の福島県、磐梯山 ( 死者四六一人 ) の災 にや手らク一多ラ び 。も域通いやャもア -8 ・ 4 -4 ・ 11 -8 雨となりやすい よ 害が典型的な例である。一九七〇年 ( 昭和四 -8 -4 ・ CO 一 4- 11 -0- 11 -0- 名お地交用りジと カ 9 度 1 はいのて釣レこカ湖 水蒸気の水分子は、ほとんどが単分子状態で 五 ) の秋田駒ヶ岳のように、有史以後は水蒸気 機ン氤速各機悪域し , のるリ 0 0 -0 0 -0 -0 -0 -0- 上ラ長大客上の地とたどれメッ あると考えられるが、高温・低圧になると、一 爆発だけを反復してきた火山が、普通の噴火を みやけ 水ペ全最乗水便いつまなさアフ 部は水素と酸素とに解離する ( たとえば、〇 することもある。三宅島では一九八三年 ( 昭和 -0 11 0 -8 t—ヴー《 0 0 水 一気圧、三五〇〇度 0 で五三 % ) 。このため、 一」ワ】 11 っ 0 「 1 わ - ー 五八 ) 、噴出してきたマグマが海水と接し、マ 水上機すいじようき hydroplane, aqua- -0 11 ワ -4 ・ t——ワ】 -0- 一木・ -0- -0 -0- -0 ・ -0 、 1 11 っ 化学的にも活性となり、各種の物質と作用する。 グマ水蒸気爆発も発生した。↓火山〈諏訪彰〉 plane 海や河川、湖などの水面で離発着でき おう る飛行機。水上滑走や停留に適するよう、陸上たとえば一〇〇度 0 以上では硫黄と反応し、 水蒸気変成去すいじようきへんせいほう 機の車輪のかわりにフロート ( 浮き舟 ) が用いら 2H20 + 3S ーー↓ 2H2S + S02 steam reforming process 炭化水素と水蒸 水〔日皿 れる。現在は陸上の飛行場がかなり整備されてコークスとは五〇〇度 0 程度では、 気を触媒の存在下高温で反応させ、水素あるい C + 2H20 —> CO … + 2H2 おり、また、飛行機の離着水に適した水面はそ 圧下で通常の沸点以下の温度で蒸留ができる。 は合成ガス ( 一酸化炭素と水素の混合ガス ) 、 う多くないこと、陸上機のほうが空気抵抗が少となり一〇〇〇度 0 以上では、いわゆる水性ガこれを水蒸気蒸留という。蒸留装置の塔頂製品 またはメタン ( 高カロリーガスの製造を目的と なく操縦や整備などが容易なため、水上機は限ス が水に不溶な油類ならば、水と一一液相を形成すする場合 ) を合成する方法。以前は水蒸気改質 C + H20 ーー↓ CO + H2 るので水を簡単に分離できる。 られた用途にのみ用いられる。同じ水面で離発 法といったが、オクタン価の変更がない場合は 〈中原勝儼〉 着する飛行機で、胴体そのものを舟の形にしてを生ずる。 水蒸気蒸留は多くの場合、減圧蒸留より高価変成というようになったのでこのようによばれ じようきあっ につくため、減圧が不便または小規模な回分蒸る。原料はおもにメタン、液化石油ガス 水上滑走や停留ができるものに飛行艇 flying 水蒸気圧すいじようきあっ 0 蒸気圧 boat があるが、水上機とは別の機種として扱 水蒸気改質法すいじようきかいしつほう 0 留でよく用いられる。この場合は、蒸留缶の沸 O) 、ナフサなどの軽質炭化水素で、前処理と すいじよ、つきへんせいほう 〈落合一夫〉水蒸気変成法 うのが普通である。 騰液に直接水蒸気を吹き込んで行う回分蒸留でして脱硫を行っておく必要がある。触媒はおも 〈早川豊彦〉 にニッケルが用いられ、次のような反応で一酸 水刄すいじようき water vapor 気体状フ蒸気蒸留すいじようきじようりゅう steam ある。↓蒸留 distillation 沸点の高い物質に水蒸気を吹き 態の水をいう。水は臨界温度である三七四・二 化炭素あるいは二酸化炭素と水素が生成する。 水蒸気爆発すいじようきばくはっ地下のマ 度 O 以上では、どのような圧力でも、液体ある込んで、その沸点よりも低い温度で留出させるグマからの水蒸気や地下水が熱せられて生じた CmHn + き H20 ー・↓ミ CO + ミ十ー H2 いは固体として存在できず、つねに気体、すな蒸留法。普通の蒸留では分解してしまう物質水蒸気が、しだいに蓄積されて圧力を増し、つ わち水蒸気として存在する。それ以下の温度でや、沸点が高すぎる物質の蒸留は、減圧蒸留を いに周囲の岩石を爆破する現象で、噴火の一 CmHn 十 2mH20 ーー↓ mC02 十 2 ミ十ー H2 は、温度および圧力に従って、水蒸気、水、氷用いればよいが、高沸点成分の分圧を減少させ種。マグマを出す普通の噴火と異なり、既存の と共存することができるが、一定温度では一定るため水蒸気を吹き込んで蒸留すれば、高沸点 岩石土砂だけを噴出し、むしろ山体を破壊す いずれも吸熱反応であるため、反応系へ外部 体積の空間が含むことのできる水蒸気の量には成分と水の蒸気圧の和が全圧となるため、大気る。日本における諸噴火の約四割を占め、老衰から熱を供給しなければならない。 2 〔表 2 〕水蒸気の物理定数 温度飽和圧力密度定圧比熱 0.490 cal ・ deg ー 1 ・ g ー 1 ( 100 。 C ) 1 . 33 ( 定圧比熱と定積比熱の比 ) (atm) (g/l) Cp CV 熱伝導率 4.04X 10--5cal ・ cm ー 1 ・ s ー 1 ・ deg ー 1 0 .4672 0 . 2933 (OOC) 0 .4235 0 . 6918 5.18X10 ー 5cal ・ cm ー 1 ・ s ー 1 ・ deg ー 1 1 .000 0 . 598 ( 100 。 C ) 1 . 414 0.827 音波速度 471.5m / s ( 100 ℃ ) 1 .959 1 .123 2.550 屈折率 1 .000252 4 . 698 15 . 34 7 . 87 水蒸気蒸留 / 原理 水の沸点は 100 ℃ , べン ゼンの沸点は 80 ℃であ るが , それらの混合物 は 69 ℃で全圧が 760mm Hg に達するので沸騰し 始める。これが水蒸気 蒸留の原理である ペンゼン十水 犬 ( ンセン 水 100 温度 ( ℃ ) 784

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じんどうきょっ きんぎんでんかぎりのからたち 」割かは未整理であり、これらの整理がひととおり終わるまで ( 平脱 ) 、金銀鈿荘唐大刀 ( 末金鏤 ) などがそれである。 真、道鏡以下の有名無名の多くの人々の筆跡が残されてお引 ぞうがんときん には、まだ少なくとも十数年の年月が必要であるといわれて 金工品は、鋳造、鍛造、彫金や象眼、鍍金、ろくろなどあり、いずれも唐代書法の強い影響を受けている。また七〇一一 よ らゆる技術を駆使して成形加飾され、またその用途別範囲も年 ( 大宝一 l) 日本最古の戸籍や、中央官庁の間で授受された すず し〔宝物の種類〕先に正倉院宝物の点数は約九〇〇〇点と記し多岐にわたるものである。その材料は金、銀、銅、錫、鉄、公文書、写経生の日常生活のようすを如実に伝える文書など はくどうおうどう しんちゅう たが、これはあくまでも一つの数え方であって、別の数え方佐波理、白銅、黄銅 ( 真鍮 ) などと種類は多く、金銅や佐が多数ある。↓正倉院文書 をもってすれば何万点、何十万点にもなりかねない。たとえ波理製品はとくに多い。佐波理製の皿や盤類は一一一一六口を なお、美術工芸品とは性格を異にするが、献物帳 ( 種々薬 きんぎんかばんぎんくんろ ほうしよくきょつぎんこ ば、古文書は、東南院文書を含めると七八〇余巻になり、そ数える。また多数の宝飾鏡や銀壺、金銀花盤や銀薫炉など帳 ) とともに大仏に献納された薬物は六〇種に及び、古櫃一一 こには一万数千点の官公私文書を含んでおり、またガラス玉は優品として名高い 一合に納められていた。それらは必要に応じて一般の病人に さいゅう すえき 類は完全なものだけで約七万個に達し、染織品に至っては先 陶器は、須恵器一一点と彩釉陶器の五七点が伝えられ、地 も分かち与えるべきことがその願文に書かれてあり、事実、 しも言したとおりである。 上に伝世した世界最古のものとして貴重な存在である。そし平安の中期まで頻繁に出蔵され使用に供された。しかしいま さんさい 正倉院宝物は数量が多いだけに、その種類もすこぶる豊富て彩釉陶器は俗に「正倉院三彩」「奈良三彩」とよばれ、最なおそのうちの三九種が残されている。これらの薬物は中国 しようやく いまでも生薬 かっ多岐にわたっている。たとえば用途別に分類してみる近の調査の結果によってすべて国産品であることが確認されその他の地から舶来した貴重なものであり、 と、図書記録文書、服飾・調度、楽器・遊戯具、薬物、武ている。 として効力をもっているといわれる。↓正倉院薬物 る はくるりわん 器・武具、仏具など当代の仏教文化に結び付く生活全般にわ ガラスと玉石器については、ガラス器は白瑠璃碗のほか瑠〔宝物の意義〕以上にみてきたように、正倉院宝物の特質 しつばうきよう、つおがたしょっしやくじくたん たっている。そしてそれらを形づくっている素材や製作技法璃坏など容器類六点と七宝鏡、魚形、小尺、軸端、そのほ は、その由来や年代が明らかなこと、保存が良好であるこ にしても、木竹甲角品から漆工、金工、陶器、ガラスと玉石か万をもって数えるガラス玉があり、そのあるものはササンと、その種類が多岐多様であること、数量が多いこと、優品 器、染織、絵画、彫刻、書跡と、その範囲は美術工芸のすべ朝ベルシアのもの、またあるものは中国製であろうとされるが多いことなど考えられるが、さらに大きな特質としてその ての分野にわたっており、またこれらのなかには特異な技法が、一方、魚形、小尺、ガラス玉などはわが国で製作された広がりが世界的であることに注目しなければならない。まず もあり、現代の技術をもってしても及びえない高度な水準のと推定され、それを裏づける文書も伝わっている。また玉石宝物そのものがベルシア、中国、朝鮮などからもたらされた ぎよくしやくはちちょうせきおうてき ものも少なからすある。以下その主要なものを簡単にみてみ製品もきわめて多く、楽器の玉尺八や彫石横笛をはじめ、ものが少なからすあること。次に各種器物に用いられている ごうすさかずきじゅず よ , っ 合子や坏、誦数、軸端、装玉類に至っては無数というほか 材質のなかには、小アジア、ベルシア、中央アジア、イン まず、木竹甲角品のうち、木工技術については、指物、挽ない。 ド、東南アジア、中国など広範な地域に産するものが含まれ ものまげものくりもの しようそういんぎれ 物、曲物、刳物など現代のものに勝るとも劣らないまでに発染織品は、世に「正倉院裂」として知られ、奈良朝の染ている。意匠、文様においては、中国大陸をはじめインド、 ぜんばう 達しており、その工作についても複雑入念な細工が行われて織工芸の全貌が見渡せるものといえよう。同時にまた七、 ベルシア、東ローマなど外来的要素が色濃く、とくに西方要 いる。その素材も杉、檜など国内産のものだけでなく、外国世紀のアジア全域の染織工芸を知るうえでもかけがえのない 素が多く取り入れられている。それは中国で製作されたもの しゃ ちみつ にしきあやら したんこくたんびやくだん 産の紫檀、黒檀、白檀などの貴重な素材を駆使して緻密な ものである。織物として錦、綾、羅、紗の紋織物や、絹、 についてもいえることで、盛唐文化の一特色でもある。数千 らでん らでんしたんのごげんびわもくがし ろうけちきよう あしぎめ 木画や螺鈿の装飾を施している。螺鈿紫檀五絃琵琶、木画紫絶、布類の平織物がある。染色加工の種類には﨟纈・纐年来培ってきた自国文化の伝統のうえに、さらにインド、ペ たんのききよく けちこ、つけち すりもん 檀棊局などはその代表的作例である。竹工品には筆管や飾纈・纐纈とよばれる三纈があり、また刺しゅう、摺文、彩絵ルシア、ビザンティンなどの諸文明を積極的に摂取融合し、 はんちくもん しゆくじゅう り箱があり、この竹の表面には天然の斑竹文に模して斑文が などを施すものもある。ほかに組紐や羊毛を縮絨加工した 八世紀における華々しい世界的文化をつくりあげていたから げはんちく にほかならない。 つけられた仮斑竹があり、いまはその手法さえ伝わっていなフェルト類も多数伝えられている。↓正倉院裂 これを直接間接に受け入れていたのがわが ぞうげ さいかくげい ろっかく 。甲角品には鹿角、貝殻をはじめ、外来の象牙、犀角、鯨 彫刻、絵画については、彫刻は、寺院の供養会などに際し奈良朝であり、その文化である。 ギ一がく しゅげいこったいまい て演じられた伎楽の面一七一面がその代表としてあげられ 鬚、鯨骨、珪瑁 ( べっこう ) などがあり、とくに象牙を紅 正倉院宝物はその結品であるばかりでなく、その母胎とな ばちる はねば 紺に染め、撥彫りをして文様を表す撥鏤の手法は後代に絶えてる。木彫が一三五面と乾漆が三六面ある。絵画作品は、やは った盛唐文化ないしは全アジアの諸文明を凝集して今日に伝 とりげたちおんな ばさっ り『鳥毛立女屏風』に代表されようが、麻布に描かれた菩薩えるものであり、宝物の世界文化史上における重要な意義が 久しい特殊な技法といえよう。 びわげんかん ばちめん きゅうしつ 漆工品について、その糅漆 ( 下地から塗りの工程 ) の技像や山水図、琵琶や阮咸などの撥面に極彩色で描かれた細密ここに認められるのであって、正倉院が単にわが国だけのも にかわ 法は現代のそれとも変わらない。加飾の方法も、単に金銀泥画、金・銀泥や各種顔料を膠で溶き描かれた装飾画、顔料をのではなく、広く世界の宝庫とまで称される理由もここにあ みつだえ ゅ 〈木村法光〉 油で練って描いた密陀絵や、膠彩色の上に油のかけられた油る。 によって文様をつけるものから、金・銀の薄板を文様に切り しよく はくだっ 透かし、漆塗膜に塗り込め、研ぎ出しあるいは剥脱して文様色など多種多彩で、奈良時代の絵画水準の高さを物語って回土井弘著「原色日本の美術 4 正倉院』 ( 一九穴 小学館 ) へいだつひょうもん 表現をする平脱 ( 平文 ) の手法がある。この金銀板にはす ▽関根真隆著『名宝日本の美術 4 正倉院』 ( 一九全・ まき - え ぎっしゅう ばらしい毛彫りが施されている。また後世の蒔絵の源流とい 最後に書跡では、聖武天皇自筆の雑集、光明皇后自筆の 館 ) ▽正倉院事務所編『正倉院宝物』全五巻 ( 一九六 0 ~ きんぎんひょうもんきんめりのこへい がっきろん まっきんる ろうべんがん われる末金鏤の貴重な遺品もある。金銀平文琴、漆胡瓶楽毅論などの書巻類をはじめ、正倉院文書中には良弁、鑑 六四・朝日新聞社 ) 0 ひき かんしつ くみひも こひっ 小学

10. 日本大百科全書 12

③中国食器陶磁器が一般的だが、一部には銀ないように、すぐ乾いた布で拭いて水けをとっ かなり深いものがあり、主婦のことをしばしば 一方、日本の食器史のなか・の特徴の一つとし タンフンファンワンカイワン 「山の神」とよぶ。なぜなら、日本では杓子は器もある。碗には、湯碗、飯碗、蓋碗といったておく。また、ほうろう引きは落としたりぶつ 2 って、膳の発達があげられる。日本で膳の形式が 発展してゆく過程は、何人かの人が同じ食卓を主婦権の象徴と考えられてきたからである。た料理を入れる大形のものと、各人に取り分けるけたりしないようにするとともに、表面に傷が よ とえば、主婦のことを東北地方では「へらと ための深めの小皿、小鉢がある。皿類では、盤ついて汚くならないよう、硬いたわしなどで洗 囲んで共食器から料理を取り分けて食べる習慣 し しゅうとめ ュイ・ハン 姑から嫁へ主婦権を譲ることを子、足のついた盆子、丸ごとの魚を盛る魚盤、わないようにする。 が消失していく過程でもある。古くは、縄文晩り」といい、 チウフー これかわ 小皿があり、小物では箸、ちりれんげ、酒壺、 ④ガラス器グラス、ポール、鉢、皿などのほ 期の是川遺跡から、食事を盛り付ける器に足を長野や新潟では「しやくしわたし」、青森や岩 チウハイチャーチョン か、一部のカップ、スプーン類に利用される。 つけた高坏が出土しており、これは、平安時代手では「へらわたし」というのも、主婦と杓子酒杯、茶盥といったものがある。 ④その他子供用には特殊な形のものがいろい には食器をのせる台としての高坏となる。また とのつながりを示すものといえる。↓食事 グラス類には耐熱、耐衝撃性の材質も使われ、 ふづくえ 台としての高坏が出現する以前は、文机の大き食物 〈木内裕子〉ろあり、とくに乳幼児用の初期の食事学習に便鉢や酒用グラスにはクリスタルガラスが使われ 利なようにくふうされたものもある。また遠足る。曇りが気になるガラス器は、洗剤を使って さに相当する机が食卓として利用され、宴会時 食器の種類と材質 には、これらをいくつもつなげて食卓とした。 や旅行、登山などの携帯に便利な弁当箱、重柔らかいスポンジでそっと洗い、湯を通して水 しかし、中世以後は机はもつばら文机として使〔食器の種類〕芸術的にも材質的にも高価な食箱、バスケット、水筒などもあり、木や竹、プがきれたのち、乾いたタオルでこするように磨 とう 一フスチック、籐、紙、金属とさまざまなものが くと、きれいに光り、透明となる。 われ、食器をのせるものとしては、片木を四方器は、各家庭でたいせつに保存され、特別なと おしき きに使用されるようになったが、第二次世界大使用されている。 ⑤合成樹脂形が自由につくれるので、あらゆ に折り回して縁とした四角い盆である折敷や、 板製の盤が使われるようになった。これらはや戦後は合理性が優先し、使い捨てや次々と買い 〔材質と取扱い〕食器は材質によって、金属食る種類の食器に利用されている。各種の材質が 器、陶磁器、漆器、ガラス食器、合成樹脂 ( プ使用されるが、食器用はとくに配合添加物や色 がて足がつけられ、膳となった。膳はもつばら換えのきく安価な食器類が多くなってきてい 個人食器をのせるものであり、盤を大形にしてる。料理の形態によって、その国ごとの特徴あラスチック ) 食器、紙食器、木製、その他に分素顔料などの食品用規定に合格したものしか使 用できないため、合格マークのシールが貼って 足をつけた長台盤のようこ、、 ししくつもつなげてる形をもつが、普通は和食器、洋食器、中国食類することができる。 ①陶磁器もっとも広く食器に利用され、絵柄あるものを選ぶことがたいせつである。また熱 宴会用に用いられたものは珍しい。一方、庶民器に大きく分けられる。 わん に与く、高温になると変形するものもあるの の間では、盤や折敷とは違う系統から出た箱膳 は和食器椀、皿、鉢、小物類に分かれる。用などにくふうを凝らすとともに、目的にあった ふた めしわん が用いられた。これは箱の蓋をひっくり返して途により、椀は飯碗、汁椀、蒸し椀、煮物椀が 形態や美的形態などが折り込まれたものが多で、熱湯には注意する。傷がっきやすく、長期 い。また品質に大きな差があり、柔らかいもの 間使用すると汚れも自然に付着するが、これは 膳とするもので、中には個人の食器が納められあり、材質には木製、漆器、陶製がある。茶碗 は、本来茶用であったものが転化したもので、 は衝撃で欠けたり割れたりするので、注意が必こすってもとれないし、強くこするとかえって ていた。初め禅寺で用いられたが、近世に入り 汚くなるので、適当に廃棄したほうがよい 武家、庶民にまで普及した。 茶用は抹茶茶碗、湯飲み茶碗とよばれて区別さ要である。 か一 ぜん ②漆器椀、皿、籠、酒器、膳、盆、箸など、 さらに日本の食器のもう一つの特徴は、ハレれている。皿の多くは円形で、花形、四角、 〔食器の心理的効果〕食器は、器の中の食物を すみまるせんめん とケの食器が著しく分化していることである。 角、隅切り、隅丸、扇面などの変形があり、用かなり幅広く用いられている。土台としては木美しく見せて食欲をそそるとともに、手に持っ てしお そうりよ む、うづけ たときの手ざわりや重量感、ロをつけたときの 貴族や僧侶、武士によって形成された略式の供途によって刺身皿 ( 向付 ) 、焼き物皿、手塩がもっとも多く使われるが、竹や紙、合成樹脂 こづけ なども用いられる。漆は乾燥するのに非常に長飲みやすさなど、各種の働きがある。心理的要 宴料理である懐石料理、やや略式の袱紗料理、 皿、しようゆなどを入れる小皿 ( 小付 ) などが い時間を要するため、完全に乾くには製造後一素も大きく、たとえば薄いクリームがかった白 冠婚葬祭などの礼式、供宴用の正式な本膳料理ある。また深皿、浅皿、大皿、中皿、小皿の別 さわち もある。特殊なものでは、高知県の皿鉢料理を年以上もかかる。したがって、購入したらすぐ 色のほうが、純白のものよりも緑の野菜を引き の食器は、室町時代に成立し、江戸時代末期ま どんぶり でに一般庶民に普及した。本膳料理は、汁と菜盛る超大皿 ( 皿鉢 ) もある。鉢では丼鉢、煮に使用せず、一年くらいしまっておいてから用立たせるというように、中に盛った料理が引き がら いると、割れたりはげたりするのを防ぐことが立っ色や柄のものはおいしく感じる。材質その の数によって膳の数も異なるが、正式のもので物用鉢、菓子鉢、漬物などを取り分ける小鉢、 ちよく 本膳 ( 一の膳 ) から五の膳までの五つの膳の上っゅを入れるためのそば猪口があり、そのほかできる。中性洗剤を用いてぬるま湯で洗う。ぬものの色も、料理の見栄えに大きな影響を与え つくだに 小物としては、しようゆ差し、酒徳利、佃煮入らしたままにしておくと塗りがはげるので、洗る。手に持っ茶碗などでは、持ったときの手に に、漆製の汁椀、飯椀、陶磁製の皿などが並べ つば ったあとは手早く水きりし、乾いた柔らかい布感じる安定感や重量感もたいせつで、いくらか られる。江戸末期以降の庶民の家庭ではハレれ、箸置き、壺などがある。 ②洋食器和食器のように複雑ではなく、主体でよく拭いて、水けをとっておくことがたいせずっしりとしていて、手のひらに安定してのる とケの二つの食器セットを保有し、その余裕の は皿で、ほかにポール、グラス、カップ、ナイつである。 ものがよい。また、湯飲みのように直接口に触 ない家は本家から必要に応じて借りたりした すずしんちゅう フ、フォーク、スプーンなどがあり、いろいろ ③金属食器金、銀、銅、錫、真鍮、ステンれるものは、表面がざらっかず、温かみがあっ が、大正時代以後は、欧風料理の導入、生活の な大きさと形がある。皿には、前菜を盛り入れレススチールなどが使われるが、おもに鉢、て飲みやすいものを、グラスでは清涼感ととも 簡素化とともにハレの器は使われないようにな つ「 ) 0 る大皿、各人用の位置皿、パン皿、スープ皿、 皿、ポール、ナイフ、フォーク、スプーン、弁に、中の液体が光の屈折でおいしそうに見える 日本において食器と信仰とが結び付いている肉皿、フル ] ッ皿、デザート皿 ( ケーキ皿 ) な当箱、カップなどに利用される。鉄では鋳物、ものを選ぶことがたいせつである。〈河野友美〉 しやくし 例としては、「杓子」が考えられる。杓子は現どがあり、デザート皿が皿のなかではもっとも鉄板の打ち抜き、ほうろう引きが、またアルミ回『週刊朝日百科世界の食べもの一三六号 しゅうげん 用途が広いポールにはサラダボール、バンチニウムでは、紙アルミ、アルマイト、表面被膜 食器と食卓の文化』『同一一三号食器と食 在でも、山の神の祭りや農村の祝言の際に、 ポール、フィンガーポールが、カップ類にはス加工品などがある。ステンレスやアルミニウム 事様式』『同一九号食器・食卓・台所用品』 杓子舞を踊るために用いられる。また、杓子は じゅぶつ などは比較的手入れが簡単だが、金、銀、銅、 ( 一九全 ~ 盒・朝日新聞社 ) ▽家庭画報編『家 ープ用、飲み物用、ミルク用が、グラス類には 穀物をつかさどり福を招く呪物とも考えられ、 いつくしま 錫などの柔らかいものは、表面に傷がっかない 庭画報料理教室幻食器と台所』 ( 一九〈 0 ・世 広島の厳島神社の杓子、箱根の山杓子などは酒用のグラス類、タンプラー、ゴ。フレットなど がある。 ようにスポンジで洗い、水きりしたあとはさび 界文化社 ) 有名である。さらに、杓子と女性のかかわりは