カントルのバラドックスは「集合論について」 を公理で規定する無定義概念である。そして、 ックス、ノイマンによるゲームの理論、そしてという概念が重要な役割を果たすが、彼の立場 6 、、ゝその次にこれらの基本概念間の関連が仮定としの論文において提起されたもので、これは、 コンピュータの発明によっておこってきたコンでは数列 0 、 1 、 2 、 ・ : のみが無限へ接近す 8 て述べられていくが、これが公理ともいえるも「すべてのクレタ人はうそっきである」という ピュータ・サイエンスと数学との間に新しい学るための唯一可能な開かれた窓となっている。 のである。このようにして、たとえばピタゴラ クレタ人のことばが真であるか偽であるかとい 問をつくり始めている。これらの新しい科学は こうして、古典的算術は直観主義に見合うが、 す スの定理のような諸定理が、一つの総合としてう四 ~ 六世紀のパラドックス ( エピメニデスの現在では数理科学とよばれており、この数理科古典的解析学はすべてこの主義の批判の対象と この公理から論理的に導かれていくのである。 ハラドックス ) と同様の問題を含んでいる。 学を通して数学の現代社会に対する関係も大き なる : フローエルは、直観主義的な解析学と集 へんばう ところが、長い間、だれもが信じて疑わなか ラドックスの生じる原因は、集合という概念をく変貌しつつある。↓数↓集合論↓パラド 合論を築いた ( 一九天 ~ 一一四 ) が、あまりにも複雑 ックス ったユークリッドの平行線の公理を否定した非 無制限に拡大して用いた点に求められる。この で従来のものと異なりすぎていて、とても応用 ュークリッド幾何学の新たな展開は、数学者た矛盾克服について、主として数学基礎論の立場〔数学における論理性の点検〕以上、大ざっぱの効かない体系であった。 ちに公理の性格について反省する機会をもたら から、論理主義、直観主義および形式主義によ に数学における方法について述べてきたが、こ 形式主義は公理主義ともいう。直観主義の認 し、公理は理論の前提としての仮定であるとい る接近が試みられている。 こで公理的方法および発生的手法のいずれもがめる範囲を超えて、これまでにつくられてきた う意味に解されるようになった。これを公理の 第三に数学の方法としてあげられるのは、一到達した数学基礎論について簡単にみてみよ古典的数学のある部分をそのまま認めたうえ 性格として掲げ、それに基づいて理論を展開す般化と抽象化である。この傾向は現代数学におう。論理主義とは、数学を論理学の一分野であで、徹底的に形式化された数学の公理系の無矛 るのが数学であるとしたヒル・ヘルトは、この思 いて著し い。たとえば、一次元、二次元の図形るとみなす説で、主としてイギリスの哲学者バ 盾性を証明することによって問題を解決しよう 想によってユークリッド幾何学を再編成した。 である線分や円板で成り立っ連続写像の不動点 ートランド・ラッセルによって唱えられた。古とするヒルベルトのプログラムをいし この考 つまり、数学的対象 ( 点、線、数など ) はそれ定理がみいだされると、これを三次元、四次 くはライプニツツが、論理学こそ他のすべての えは前述のように数学基礎論の道へと続いてい 自体がア・プリオリな意味をもつのではなく、 一兀、 、そして一般に〃次元のある種の図形基礎となる万有科学であるとした ( 一六六六 ) のに る。↓数学基礎論↓形式主義↓直観主義 それらの意味づけは、それらの相互関係を規定 についても成り立っというプローエルの不動点始まる。論理学はデーデキントやフレーゲによ数学史 〈野口広〉 する命題 ( 公理 ) によってのみ与えられるとし定理をみいだそうとする。このとき、一次元、り論理の算法としてつくられ、ラッセルは「数回クーラント、ロビンズ著、森ロ繁一訳『数学 たのである。こうした彼の仕事によって数学基二次元の定理はこの一般的定理の特別な場合と学のすべては論理学へと還元される」と述べて とは何か』 ( 一九六六・岩波書店 ) ▽ソーヤー 礎論および数理論理学は、確固とした土台を与なる。これが一般化の考えである。この考えは いる。ラッセルはホワイトヘッドと協力して、 著、芹沢正三訳『現代数学への小道』 ( 一九 カくたに えられ、形式公理的手法が確立していったので場合によっては有限なれの場合を越えて、角谷記号を用いた『プリンキピア・マテマティカ』 六八・岩波書店 ) ▽同著、宮本敏雄・田中勇 ある。 の不動点定理のように無限次元の場合にも一般 ( 『数学原理』 ) を論理学の一部としてまとめて 訳『数学へのプレリュード』 ( 一九大・みすず 第二の方法は発生的手法である。幾何学が早化される。そして、普通、一般化は可能な限り いるが、この著書を評してワイルは、「数学は 書房 ) ▽村田全・茂木勇著『数学の思想』 くから公理的に扱われたのに対して、数につい 追求される。 もはや論理のうえにではなく、論理主義者たち ( 一九六六・日本放送出版協会 ) ▽『数学と文化』 ての理論は、物と物との対応を自明に語るもの 数は、たとえば加法について閉じた体系となのある種の楽園のうえに築かれている」と述べ ( 『遠山啓著作集数学論シリーズ 6 』一九含 として自然に生成され、それに関する定理も、 っているが、この数の演算についての性質を抽ている。 太郎次郎社 ) ▽・クライン著、中山茂訳 このすでに確かめられた数の性質や数と数との象化 ( 公理化 ) したものが群である。また、直 直観主義は、数学的真理や対象が、数学を考 『数学の文化史』上下 ( 一九七七・社会思想社・ 関係を整理して述べるという段階に長い間とど 線、平面、空間という図形は、次元ペクトル えていく意味や内容によって直接にとらえられ 現代教養文庫 ) まってきた。たとえば、自然数はわれわれが扱空間へと一般化されると同時に抽象化される。 るものであるという考えにたっ説で、この立場数学記号すうがくきごう数学の式を書き表 う数のなかでもっとも簡単なものであり、物の抽象化によって無数のそれそれの場合の異なるをとる数学者にクロネッカーやボアンカレがい すのに用いる記号。算数にあっては、古くは式 個数を数えたり、順序をつけたりするのに用い 結果がただ一つの定理によって一小しうるようにる。無理数を有理数の無限列によって定義し、 は書かれず、ことばで計算の手順を示した。こ なる。 られる。これに対して、一つの正方形の対角線 その無理数の概念に基づいて数学解析を行おう の場合、計算記号ははとんど必要なかった。数 の長さの表すような数があり、これは整数でも こうした一般化と抽象化は、とくに現代の抽と試みたワイアシュトラースに対して、クロネ 学記号が必要となったのは、文字を使って式を 分数でも表すことはできない。 このような無理象数学において顕著である。ブルパキとよばれッカーは整数の直観を重視した。そして、有限書き表し、その式を変形する場合である。この 数の存在は、ギリシアのビタゴラス学派の数学る数学者グループの手になる現代数学の基礎に的に構成されるもののみの存在を主張したの 点において、数学記号の歴史では、代数学の父 者を驚かせ、大きな衝撃を与えた。自然数や無関する百科全書的な膨大な著述は一般化と抽象で、直観主義の先駆者とみられている。数学をといわれるギリシアのディオファントスが重要 理数をすべて含む数である実数の公理的定義化の金字塔である。プルパキの構成員であるべ根本から直観主義的に再構成しようとしたのは な地位を占める。彼は加号は用いす、加えるべ や、それに基づく解析学の体系の構築はたいへイユ André Weil ( 一九 0 六ー ) は、「数学とはプローエル Luitzen Egbertus Jan Brouwer きものは単に並べて書いて表し、減号には飛の ー一九六六 ) である。彼はアリストテレス以 んに遅れ、ペアノの公理系によって、自然数の人間精神の名誉のためにあるものである」と述 ( 天、 ような記号を書いた。数字と文字とを掛けると 集合が確立され、その元を自然数と名づけるべている。 来の古典的論理の法則に批判を投げかけた。と きには文字のあとに数字を書いた。彼が用いた ようになったのは、やっと一九世紀に入ってか 二〇世紀の数学は、ガウスによる審美精神の 「かスでないかのどちらかである」と文字は一つだけだったから、文字と文字とを掛 らのことである。 復興の動きと相まって抽象化と一般化の運動が いう排中律の無制限の使用は不当であると主けることはなかった。したがって、乗法の記号 発生的手法に基づく理論化は、カントルによ展開され、その前半においては数学固有の活動張、これは、スか、スでないかのどちらか一方も除法の記号も存在しなかった。今日のように るバラドックス、「 t-o はすべての集合の集合でが広範囲にわたって活発に行われてきた。第一一が正しいことがわかったときにのみ正しいと主加・減・乗・除の記号がそろったのは一五世紀 きびゅう ある」などを生じ、二〇世紀に入って、数学と次世界大戦後は、戦時中の数学者の実際的経験張した。したがって、。フローエルは帰謬法によ から一七世紀にかけてである。そのだいたいは に刺激されて、ウィーナーによるサイバネティ は何かという論議が改めて熱心に交わされた。 る間接的証明を認めない。また、数学では無限次のようであるといわれている。一四八九年、
じんこう 〔図 A 〕日本および諸外国の人口ピラミッド ( % ) 960 年 以 1 ー「 / L_D 5 ) 【っ 4 ・′「 0 フ」っ」 1 ・ー -0 0 【 0 0 Ln O O Ln O ) O L.OO 以別 「 / 「 / ( 0 Lfi 【っ′ 4- イっ「 0 っっこ 1 ー 1 ー L'¯) 【コ O Ln O につ O 0 一り O O 【 0 0 に 3 0 ( 0 「 / 「 / -. 0 ( 0 L.n 一う】イっつ」っ」 1 ー 1 ー じ CO 「 / 「 / -. 0 ( 0 5 ) 一う ) -4- 4 ・ ( こっつ」 1 ー 1 ー 气】 C ニ 0 0 に 3 0 Ln 0 【っ O Ln O Ln O O 0 フーっ′ CD()O 0 につ・ 44- っ 0 っこっこ え、また多くの兵士を得るためにも多数の人口が必要であっ た。そのために出生増強策がとられた。有名なハムラビ法典 にも、人口の維持と増強を目的とした条文がみられる。ま おうせい た、子だくさんは男性の精力が旺盛な証拠と考えられ、大家 族をもっことは自尊心と威信を満足させるものであった。な お農業社会では子供は生産力として役だったことも、人口増 加が喜ばれた一つの理由であった。 次に、ギリシアの哲学者の人口理論は都市国家の人口につ いての理論であるが、そこでは人口過剰がおこることが心配 され、出生制限の必要が論じられた。プラトンは、理想国の 家族数は五〇四〇が限度であると述べている。彼は人口の量 を論じただけではなく、人口の質についても論じている。子 供を産むことが許されたのは選ばれた優秀な市民だけであ り、その子供は公共の施設で養育された。アリストテレスも 人口数は適度に制限されるべきだと考えたが、その理由の一 っとして、住民が多くなりすぎると支配者と市民の間の意志 の疎通が妨げられることをあげている。 ローマ人は都市同盟の盟主としてイタリアを統一し、さら に、タに領土を広めた。それゆえローマ人の人口理論は人口 増強論であり、彼らは、規模の大きい、しかも増加を続ける 人口が望ましいと考えた。ローマの支配者は概して結婚と出 産を奨励した。 中世を支配した人口理論は完全にキリスト教的なものであ り、『旧約聖書』の「産めよ、殖えよ、地に満てよ」という 考えと、殺児・中絶の罪悪視を支柱とするものであった。そ れが人口増加を結果するものであったことはいうまでもな このように、古代から中世に至るまで、ギリシアの適度 人口論を除いて、人口増強論が支配的であった。 この傾向は一六世紀にヨーロッパに国民国家が成立すると 一段と強められる。その理論は重商主義であったが、それは また、大規模な、増加する人口は国力の源泉であると考えて いた。重商主義は約二世紀にわたりヨーロツ。ハを支配した が、一八世紀末になると国家の利益よりも個人の福祉を重視 する思想が台頭してきた。マルサスが有名な『人口論』 ( 一七 九 0 を書くきっかけになったゴドウインおよびコンドルセの 思想もその一つである。ゴドウインは、人間社会の不幸はも つばら社会制度の欠陥に原因があると論じた。たとえば、国 民所得の配分を平等にすることができれば貧困は解消すると 考えた。 マルサスの『人口論』はこの考え方に対する反論として書 かれたもので、人々の生活を改善しようとする努力を妨げる 508
もう一つの尾は短いが太く、彗星の運動の後 回見ー / / -8 -0 -0 / 、 1 -0- 1 、ー 0 -4 ・ 00 -4 0 11 ワ「 1 11 ーー 1 、ワ】ー「 / ワ】 -8 一 -8 「 1 ワ ろへすこし取り残されるように先が曲がる。む 現数 4 ・ワ 4 ワ 3 ワ朝尸 0 「 / 《 0 CO 《 0 つ」ワ」ワ】戸 0 っ 0 4 ・ 4- ワ」ー 11 00 ( 0 一 4 ・戸 0 0 尸 0 一 4- 尸 0 -4- 00 C*•a ワ】《 0 -0 ワ」 00 《 0 らはない。明るさが強く、この尾の著しい彗星 ′ 0 11 出回 は大彗星となる。スペクトルをみると太陽光の 反射で、固体粒からなるとわかる。粒がきわめ 最出 て小さいため、太陽光の光圧を受けて押し流さ 引 ~ 見、ワ u-n 「 / ーっ 0 8 -8 - -0 0 11 、 1 ~ 4 ワ戸 0 「 / 【 0 00 -0 LO -8- 0 -4 ↓下〒工 -8 0 -4- / ^. 0 11 -4- 《 0 -4 ・戸 0 「 / 「ー「 / ′り′】 11 4 0 ワ】戸 0 -0- ワ】 0 《 0 ー《 0 4 0 0 (¯) 《 0 0 -8 / -4 ・つうー 1 ・・ -0 最出 れているのである。尾の曲がりの程度から光圧 がわかり、粒の大きさと、ときには種類が推定 点緯 日黄 できる。 近の まれに太陽の方向に短い尾を見ることがあ 点経 -0 ワ」 0 -0 -4 ・ 8 り 0 - -0 / 8 -8 0 00 《 0 0.0 4 ・《 0 ・ 4 -4 00 1 ・・ 8 ワ 8 11 ー - -0 ワ 1 人 -4 -8 一 4- -4- -0 -4- ・・ り、「反対尾」という。彗星の後ろからついて 11 -0 ーい兄 日黄 戸 0 11 0 1 よ′ 0 《 0 《 0 11 ・ 4 ー《 0 -0 00 -8 っー -8 - ト一《 0 -0 11 ワ・ 4 ・ -8 -8 《 0 0 1 人 4 ・《 0 -4 ・戸 0 っ 0 ′ 0 1 ワ】ワ a ワ】 11 1 人りん 、 1 ワ】ワ】 C-O ワ 3 ワ】ワ 1 ワ】ワ」 C-O っ 0 11 11 11 00 1 よっ 0 近の いく流星物質の集団が、彗星軌道と地球との位 / 戸 0 -0 11 C•O 、 1 ワ】 11 00 尸 0 ワ」 -0 、 1 1 人一 4 ワ -0 ワ」 LO 、 1 0 ワ朝 0 ^. 0 「 / 1 人 1 よ -4 1 ー - っ 0 -0 11 《 0 一 4 ・ 置の関係で見えるもので、彗星から流星物質の ワ」 1 よ C-O っ 11 1 よ CY¯J 1 人ワ 3 ワ】 1 よワ」ワ】 1 ーよ、ー人 11 っ 0 ワ 11 ワ」 ワ】ワ」、 1 ワ】 ワ】ワ】っ・】 一淌〕ロ【 0 っ 0 00 【 0 11 11 11 / 【 0 ーー 4 ・ -8 0 「 1 4- 、 , 0 -8 -0 -8 , 1 ・ 4 1 《、 1 ワ , 1 ワ 0 / っ】 11 0 ワ 0 00 -0 1 、 8- -8 生まれる現実の証明になる。 11 、ー亠 1 ー - 11 、月 -4 ・ワ 3 ワ 3 っ 0 (C) - -0 、 1 -4 ・ 00 4 ・ 4 ・尸 0 11 -4 ・ーーっ 0 っ 0 ワ】「 / っ 0 っ 0 -4 ・ L_O ワ戸 0 11 1 よワ」っ編 4 ・戸 0 -0 -0- ′ 0 1 人 11 -4 ・戸 0 占 ~ 一九六〇年中ごろから、コマ中心域から出て ( う -8 CZ -8 -8 -8- つう -8 -8 ( う ( -8 -8 一 -8 -8 -8 -8 -8 -8 -8 -8 -8 -8 -8 -8 -8 一医、 レ」 くる赤外線が観測されている。固体粒が太陽光 で温められ赤外線を出しているもので、粒の大 っ 0 -0- ワワ】っ 0 -4 4 戸 0 ′ 0 11 、 1 1 画《 0 ワ 00 っ 0 -4 ・ -4 ・戸 0 0 《 0 《 0 っーー 8 -8 8 -8 -8 0 ・】 0- 0 ・い一 土ロ一 ( きさと形・種類などを知る資料が得られる。赤 年 外光と尾の形との分析によると、固体粒の大き さは一〇以下、尾では一ほどの微粒が多 0 表 いんせき 年 。ケイ酸塩 ( 隕石と似る ) と鉄質の粒からな り少量の炭素質の粒を含むことも考えられる。 0 Q) 〔起源と終末〕彗星は回帰のたびに物質を放出 年 0 の 0 し数百回太陽に近づいたあとは消えてしまう。 0 過 bC 甬一 0 一ワ 0 しかし太陽系の誕生以来四六億年を経た今日 十し 11 bC ・ 1 1 ー Q) でも新彗星が現れる。エストニアのエーピク 0 肥近 ロ O bC ・ 1 0 0 0 、ハ、 5 0 ) やオランダ Ernst Julius 0 三 k ( 一ハ九三ー す のオールト Jan Hendrick Oort ( 一九 00 ー ク 現 レ コ 3 らは長周期彗星の軌道の大きさを検討して、太 一第 ポ第 サ 次 」レ 陽まで四万 ~ 一五万天文単位の遠距離に彗星の レ ン コ サン 性 ン ク池 大群があり、太陽を巡っているという考えに達 レ 特 フ メ デフ フ の 近 ン した。その考えによれば、その数は一〇〇〇億 ル一・イツ ロ耳 レレ ワ ビテ ケミワフトンラ 道 個ほどあり、それらはときどき太陽系に近づく コ ンイケ 2 ス 現 ャホ 、不ウ ンウ 第コ スン 2 恒星の作用で、一部分が太陽へ落ち込む軌道に の レ ジ 1 コ 2 コ スハ 2 コマ第 1 ン 星 変わり、やがて新彗星として出てくる。太陽と リ 2 ンス 第一第クスイ一 ム 一第ルスンン第ネ 彗 一第トクスソレモ一ル グワルムツミゼルタクルルトトテべウワトツルフピュ第ム 太陽系は星間ガスと星間塵とが凝集して生まれ ン リラ山ン ン山ンツランングラエ ペ トセスル一ル - トスワペプルコ 期名ケット 一ワイル。ヘル一 ュン田ュウロンイラツツ ンラ亠 ェイホオンユレュンツォャュエ金イレ リルクョイン一 たが、そのとき惑星まで成長できなかった徴惑 周星ン 彗エグデテ本シニプテウクタラウウコフボデダシテコウジチビ紫ラボベガア紫ハプギジフロテダ 星が、惑星の作用で太陽系の外縁へ拡散して彗 分 1 ーっ」 CY") 4 ・ LO (. 0 「 / ( 0 0 ・ ) 0 1 ーっ」 つ」っ 0 4 ・ (C) 0 「 / 8 0 ・ ) O 星雲をつくったのではないかという。そしても 彗番 なぞ しそうであるなら彗星は太陽系の誕生の謎を秘 めていることになる。彗星の母物質のなかに星 素、酸素などの原子がある。尾の発光分子はすより、アセトニトリル CH3CN 、シアン化水素発したことを示す。 彗星の尾は普通二筋に分かれる。一つは細く 間分子と似たものがあり、彗星の固体粒の化学 べてプラス・イオンになっている。 C2 と CN HCN 、水が検出された。これらは母分子の一 っと考えられる。 て、太陽と反対方向にまっすぐ伸び、内部に筋組成が星間塵と似ていることは、この考えの支 は一九世紀から観測された。 0 は緑・青域に 太陽まで〇・八天文単位にきた彗星はナトリ や細かな屈曲、明るさのむらを認める。分子イえとなる。 しスペクトル群をもち、目に映るコマの広がりを 短周期彗星はガス物質を放出してしまうと隕 ウム原子のスペクトルを示す。池谷ー関彗星はオンとマイナス電子とからなるプラズマが太陽 せ决める。そのため彗星は目で緑色に見える。 > CN は紫域に強い光を出していて写真に写るコ太陽に近づいたあと、鉄、ニッケル、クロム、風と惑星間磁場の流れにのって飛び去っている石の一種に似た天体になるらしい。彗星の固体 物質は流星の母物質であるほか、小さな粒は太 8 す・マの形を決める。一九七〇年代に電波望遠鏡に銅などの金属原子が現れた。これは固体粒が蒸ものである。 1 よ 0 ワ」ワ -4 「 / 0 1 人 - -0 8 0 1 亠ワ】 1 LO っ 0 00 、ー・ 0 4 ・ 11 ワ】・ 4 1 よ -4 -. 0 4 4 ・ーっ / つ」ーっ -4 ・ すじ じん
すうがく ウイドマント Widman 、過不足の記号として意味や内容によって直接にとらえられるもので育、大学を含めた学校における数学教育、青少せようという立場である。そして、中等教育で + 、一を用いる。一五一四年、フッケ G. v. あるという考えにたち、証明に用いる論理で年や成人を対象とした学校外の機関が行う社会は、本来的に社会指導者の養成を目ざしていた ので、そこではむしろ後者の立場が重視され、 Hoecke 、加える・引くの記号として + 、一をも、排中律 ( 命題については、真か偽かの二つ教育としての数学教育などを幅広く含む。ここ では主として、 の場合しかないとする法則 ) を普遍的に正しい ・中・高等学校等の学校教育ュークリッドの原論のある部分ははとんどその 用いる。一六三一年、オートレッド W. Ought- における数学教育について述べる。 red 、掛ける記号として x を用いる。一六五九法則としては認めない立場をとった。 ままの形で、一九世紀の末まで中等教育のもっ これらの三つの立場は、激しい論争を経なが 数学は、近代の学校教育のなかでは、つねに とも重要な教科書とされてきた。ここにみられ 年、ラーン J. H. Rahn 、割る記号として + とうや ら、互いに他に影響しあい、今日の数学基礎論重要な教科として尊重されてきた。その理由のる数学教育の理念は、、 しわゆる形式陶冶とよば を用いる。一五五七年、レコード R. Recor ・ de 、等号として = を用いる。もちろん、これへと発展した。まず、・カントルの集合論はおもなものをまとめてみると、次のとおりであれるものである。 る。 しかし、科学・技術の進歩とともに、、キ丿ノ らの数学記号は個人の発明ではなく、多くの人ツェルメロ ( 一九 00 、フレンケル A. A. Fraen ・ がいろいろの記号を用い、それらのうち一つが kel (一九 llll) によって公理化され、・ノイマ ①実用的な理由数学を学ぶことは、日常生活ア的数学観だけでなく、古代エジプト、バビロ ニアにもみられる、もっと素朴な数学観も、中 固定して今日に至ったのである。 ン ( 一九一一七 ) 、ベルナイズ P. Bernays ( 一九三六 ) や職業生活を営むうえで必要かっ有用である。 によって整備された。ゲーデルは、集合論発生数量を扱ったり、数学の方法を用いて問題を解等学校の数学教育の理念として必要なものと見 このように、初等数学の歴史は長いから、そ の記号の歴史も複雑である。これに対して、高以来の問題であった連続体仮説が他の公理と矛決したり、意志を決定したりするうえで役にた直されるようになった。つまり、日常生活、さ い程度の数学においては、その記号は、その数盾しないことを証明した ( 一九三 0 。さらに・ つ。科学の一一一一口語として、物理学などの科学へのらには自然科学の研究に有用な道具として、数 学を始めた学者、あるいはそれを発展させた学 ・コーエンは連続体仮説の否定も他の公理と応用や科学技術を習得し、推進するうえで役に学を教えようとする立場が強調されるようにな たつ。 った。いわゆる実質陶冶の理念にたった数学教 者が、それぞれの必要に応じて記号を定めたか矛盾しないことを示し ( 一九六三 ) 、連続体問題が 育である。 ら、その創始者もはっきりしており、その歴史集合論の公理系から独立であることが示され ②教養的な理由人類が生み出した重要な学問 領域としての数学の精神 ( 知的な美しさ ) を知 実際、二〇世紀初頭、イギリスのジョン・ペ も比較的簡単である。たとえば、現在の微積分オ言日 = 一口 こ。正月論では、自然数論の無矛盾性がゲンツ の記号、 / を考え出したのはライプニツツでエン G. Gentzen によって証明された ( 一九ることは、音楽や、絵画を鑑賞すると同じく、 リー John Perry ( 一会 0 ー一九一一 0 ) によっておこ 三六 ) 。また、自然数論を含む形式的体系は、そ教養を高め、知的喜びを知ることにつながる。 された数学教育改造連動の理念は、中等数学に あり、関数 f(x) の導関数 ( 0 、を、 0 ) ③訓練的な理由数学の学習を通して、広く論おける実質陶冶的理念の高揚であったというこ で表したのはラグランジュである。〈大矢真一〉の形式的体系のなかでは肯定も否定も証明でき とができる。ペリーの主張はドイツの・クラ ない ( 決定不能 ) 命題を含み、さらに「形式的理的な思考能力が養われる。たとえば、数学は 数学基礎論すうがくきそろん数学の基礎に 関する数学的理論のことである。一九世紀に導体系が無矛盾である」ことがその形式的体系の高度に抽象的な学問であり、理論を一つ一つ緻インやアメリカの・・ムーア Eliakin Has- みつ ー一九三一 D など、当時の代表 なかでは証明できない、という不完全性定理が密に築き上げていくやり方は、哲学や論理学な tings Moore ( 一会一一 入された集合論は、ただちに逆理を発生させた 的数学者にも支持されて世界的な教育改造運動 にもかかわらず、他方では数学における基本的ゲーデルによって示され ( 一九三一 ) 、解析学、公どの人文科学へも広く応用できる。 ④個性伸長上の理由好奇心、探究心を駆り立 にもなり、今日の数学教育も、この運動から基 で有用な概念であることが漸次認められるよう理的集合論の無矛盾性を証明論の立場から証明 になった。この逆理の解明と除去が動機となっすることの困難さが示された。この方向は、チて伸ばす。創造性を培う。数学的な潜在能力を本的な影響を受けているとみることができる。 〈島田茂〉 ャーチ A. Church やクリーネ S. C. Kleene 〔数学教育現代化運動の影響〕一九六〇年代に 引き出し、伸ばす。 て、数学の認識の本質、論理学と数学との関係 なって、数学教育にはいま一つの世界的な改造 などが論究され、数学の論理的構造、数学の証 による帰納的関数 ( 一九三六 ) 、チューリングによ 数学教育の歴史 運動がおこってきた。それは数学教育現代化運 明に使われる論理への反省が全般的に論じられるチューリング機械 ( 一九三六 ) によって、計算可 数学は発生的にみて、人間の生きていくうえ動とよばれるもので、その発端となった理由は るようになり、三つの立場が生じた。すなわ能という概念が確立するとともに、計算の理論 に欠くことのできないものとしてつくられてき 二つあるように思われる。一つは、科学・技 ち、・ < ・・ラッセルの論理主義、ヒルべ へと発展し、今日では情報科学と密接に結び付 くものとなった。 た。たとえば、紀元前の古代バビロニアの数学術、とりわけコンピュータの急速な進歩であ ルトの形式主義、・フラウアー Luitzen Egber ・ また、形式的体系は直観主義体系、多値論理的文献からも、衣食住の確保のための知識としる。一九五七年のソ連の人工衛星スプートニク tus Jan Brouwer ( 天 ー一九六六 ) の直観主義で は、この進歩の衝撃的な象徴であり、現代化運 ある。論理主義では、数学を論理学の一分科でや様相論理などを包括するようになった。まて、数学が漸次体系化されてきたものであるこ 動の発端をスプートニクの打上げに置く人さえ あると考え、記号論理の形で数学を再構成するた、形式的体系の記号に対する集合論的意味づとがわかる。 ところが、単に数量に関する知識の集積とい ある。少なくとも、アメリカに始まり世界的に けを通して、各種の理論が展開されている。こ ことを試みた。これは・ Z ・ホワイトヘッド うだけでなく、これを論理的に体系化したのは の方面の最初の成果はゲーデルによる完全性の も多くの追随者を得られた ( 学校数 と連名の大著『プリンキピア・マテマティカ』 p ミきミミ、ぎ三巻 ( 一九一 0 ~ 一三 ) に集定理 ( 一九三 0 ) であり、今日ではモデルの理論と古代ギリシア人で、ユークリッドの『ストイケ学研究グループ Sch001 Mathematics StudY 〈西村敏男〉 ィア』 ( 『幾何学原本』前三 00 こしは、その代表 Group) の学校数学の現代的な教科書著作活動 大成された。形式主義では、数学を記号論理のして大きく発展している。 は、その発端をスプートニクに置いているとみ 方法で形式化し、数学の証明そのものを、意味 数学教育すうがくきよういく人間は、なん的なものであり、後世まで数学書のみならず科 てよいであろう。 をもたない記号列の変換と考え、これを数学的らかの数学的な知識、能力なしには、現代の社学書の典型ともされた。↓ストイケイア 数学教育の理念も、ますこの二つの源流から 現代化運動を推進した第二の理由は、一九三 対象とし、その形式化された数学の公理系の無会のなかでは生きていけない。それが役にたっ 矛盾性を証明しようとした。形式化された数学ような形に成長して表に出てくるためには、外由来していると考えなければならない。すなわ〇年代における数学観そのものの変化にあった からの意図的な働きかけが必要である。数学教ち、一つは、日常生活に有用な道具として数学ともみられる。つまり、このころから数学はも を対象とする数学を、形式化された数学と区別 はや自然科学の召使いでなく、完全に独自の学 して、超数学あるいは証明論という。直観主義育は、広義には、この成長を助ける人為的なあを学ばせようという立場と、いま一つは、理論 らゆる営みをさすもので、家庭における数学教的な構成や論理的な思考法を数学を通して学ば 問分野として急速な発展を一小すようになったか では、数学的真理や対象が、数学を考えていく
らである。とくに一九三九年以来ニコラ・・フル考えられる。ところが、真に数学の名に値するは、欧米の学問を受け入れるという形での教養育についての研究や論議が活発に行われるよう になった。また小学校では、生活と結び付いた ハキ Nicolas Bourbaki という共通のペン・ネものは、客観的内容そのものでなく、それをつ的な理由と、論理力を養うという訓練的な理由 ームをもったフランスの一群の若い数学者たちくりだした人間の主観的精神活動であると考えが強く意識され、第一の理由から、算術、代数生きた算数教育が注目され始め、数学教育は全 の数学観は、もっとも明確に現代数学の自律性る立場もある。この立場からすれば、生徒に追 ( 方程式を中心とした ) 、幾何 ( ュークリッドの体として改革の方向に進みながら昭和期に移っ を主張するものであった。 体験として数学的考え方を学ばせることが数学『原本』に倣った形の平面・立体幾何 ) 、三角法ていった。↓算数教育 〔昭和初期〕大正期の終わりから第二次世界大 がそれぞれ独自の領域と方法をもっ体系的な学 それは、「数学は『構造』の研究である」と教育であるということになる。 問として教えられ、教育の方法としても、教師戦終了の時期までは、大正期に萌芽をみせてい いうことばによって要約できるだろうが、少な 実際、今日の中学校以上 ( 考えようによれば くとも、これまでの学校数学ではあまり聞き慣 小学五年以上 ) の数学内容の教育価値は、単なの解説と示範、それを模倣する練習、重要事項た改革の方向が、日本独自の形で結実をみた時 れなかったことばであり、それだけに学校数学る日常的有用性だけからは認められない。まの暗記などがおもなものであった。この傾向は期で、算数教育にあっては緑表紙といわれる国 定教科書となって実現した。 は現代数学から離れてしまっていたともいえた、科学・技術に実際に数学を用いる人も、数大正、昭和初期まで続く。 中等教育では、先に述べた数学教育改良運動 明治の中ほどからは、移入期の不統一な点 る。現代化運動は、このような現代的数学観を的にはきわめて少ないことからみても、前述の が、一九三三年 ( 昭和八 ) の教授要目改訂にい いくらかでも学校教育に反映させようというね客観的立場だけから、普通教育における数学のが、有力な数学者たちの指導によってしだいに 統一され、いちおう日本式の数学教育の形が決ちおう反映された。しかし、この改訂は不徹底 らいをもっていた。小学校から「集合」が登場必要性を主張することもできない。今日のよう な面もあり、また受験数学の勢いにも押されて するようになったのもそのためである。実際 に高校一年までは数学は全員必修になっているまってきた。↓算術 〔大正期〕欧米では、明治期の中ほどにあたる十分な成果をあげるには至らなかった。これを 「集合」は、現代数学の研究対象である「構造」事実を是認するためには、前述の主観的立場か を据え付ける場所であると考えられている。 ら、数学的考え方の広範な転移を期待しなくて時期から、算術、代数、幾何、三角法と分科を不満としていっそうの改善を求める動きが、数 しかしながら、今日では、現代化運動は失敗はならないであろう。一一一世紀の数学教育の焦おいてこれを独立に扱う行き方や、厳格な静的学教育再構成運動として四〇年ころより始ま だったと言う人もある。そして「集合」は小学点は「問題解決」にあるといわれるのも、それな論理によって理論を進めるやり方に反省がおり、これを受けて、四二年に中等学校の教授要 こってきた。また代数や幾何の内容が、科学の目の大幅な改訂が行われた。ここで初めて微積 校では、少なくとも学習指導要領での用語とし が数学的考え方をもっとも有機的に学習しうる 一 = ロ語としては現実からかなりかけ離れたものに分初歩を中等教育に取り入れるという内容的な ては消えてしまった。その理由は、現代数学の領域であるからである。 なっていることが批判されてきた。そして科学面とともに、教養的な面においても既成の体系 理念が、ときには教師自身をも含めて、一般に しかしながら、このような数学教育上の観点 は理解されにくいものであったからでもあろは、わが国のような受験体制の強い国では十分の言語としての実用的な面を重視し、関数概を授けるという考えから、生徒に体系を組み立 う。たとえば「構造」という概念自体、数学者に実践上へ反映されえない。真の問題解決と念、微積分を早期に導入するとともに、技巧的てさせるという方向に大転換した。これに伴 まっしよう し、作業や討議などの学習活動も大いに取り入 にはきわめて常識的なものであっても、一般に は、仮設の設定、推理の実行、証明、検証など末梢的な内容を削除、軽減すること、科目間 を含む一連の有機的な過程であり、早急に解答の関連を密にすること、実験、実習、作業などれられることになったが、戦争の激化ととも 理解しやすいように解説することはむずかしい 、主旨のような教育を実施することが不可能 だけを求めればよい受験問題の解法からみれ生徒が能動的に行う活動を取り入れることなど 概念である。 うえん なまま戦後を迎えた。 が主張されるようになった。 数学教育は、すでに古代エジプト、バビロ一一ば、 かなり迂遠な手順の学習だとみなされるこ 大正期になって、外国で始まったこの数学教〔昭和の戦後期〕占領下では、学校教育制度の ア、ギリシアにも存在し、もっとも古い学校教とが多いからである。また、問題解法の学習指 科でもあった。しかしながら、それに盛られた導は単なるドリル指導とは違って複雑で、教授育改良運動は、日本に漸次紹介されていった。大改革が行われ、義務教育は九か年に延長され 教育理念は、前述のように、数学観そのものと方法学的にも、研究されるべきところがまだ多また、この時期は、日本の中等教育・高等教育た。それとともに、生活中心、児童・生徒中心 のアメリカ的な教育の考え方が数学教育にも大 〈平林一栄〉 が拡大された時期で、進学熱も高まり、それに ともに、きわめて大きく変動しており、現在も く残されているといえよう。 伴って上級学校への入学試験も厳しくなり、試きな影響を及ばした。学習者の必要と感じてい その急速な変化のさなかにあるといってよいで 日本の数学教育 験を目的とした数学教育が大きな力をもつようる問題の解決を中心に展開する単元学習の方式 あろう。先般の現代化運動さえ、けっして失敗 力」・中学校の教育に対して大いに推奨され になった。出題する側では、型にはまらない問 ではなく、この大きい変動のなかの一過程とみ 日本に近代的な学校教育が始まったのは一八 るとともに、学習する内容のレベルを一年分ほ 七二年 ( 明治五 ) のことであるが、それ以降教題で高い能力をみようとし、受験する側では、 るべきであろう。 これに対処しようとして新しい型の問題を一つど低くすることにした。これに対して、教養的 〔課題〕また数学教育の内容も、一般に考えら育のあり方についての考え方の変遷に伴って、 な理由での体系性の尊重と、内容のレベルの復 れているほど単純ではない。たとえば、今日の強調される点にもいろいろな変化があった。以の型として覚えようとし、悪循環となって学習 活を求める意見が、占領の解除とともに強くな 負担を増す。 下これを時代別に概観してみよう。 中学校の水準でさえ、数・量・形などと単純に った。そこでは、内容の論理的系統に沿った学 こうして本来のねらいから外れた受験目的の 〔明治期〕この前半の時代は、欧米の数学教育 区分することはできない。ある人は数学教育の 、またある人はの翻訳移入期であった。この時代の人たちの努学習が進められていった。一方、心理学の発達習が中心となる。この意味で、この学習方式を 内容を「関係」であるといし は、数学の学習について無条件に訓練的な価値系統学習という。昭和三〇年代には小・中学校 「構造」であるともいう。いずれにしても、数カによって、これまでなかった訳語がつくら の数学教育は系統学習が一般的になった。 学をどうとらえるかによって、数学教育の内容れ、新しい文体が考案され、外国語を起源とすを前提とすることを否定するようになり、数学 一方、新しく発足した高等学校では、当初は る数学の記号系を日本語の文脈のなかに取り入教育に関係する人に反省の契機を与えた。これ のとらえ方も変わってくるといえよう。 しかしながら、数学教育の内容のとらえ方はれるくふうがなされるなどして、後の発展の基らの点から、教育界の人たちに自分たちの努力系統学習的な解析—、解析Ⅱ、幾何と、単元学 習的な一般数学の四科目を置き、数学の分野を / 学で数学教育を改善しようという機運が高まり、 カ客観的・主観的両面からなされるように思う。盤がつくられた。教育の考え方としては、ト 、フ客観的には数学は人類の累積した数学的命題で校では、実用的な理由を第一にし、これに訓練日本中等教育数学会 ( 現在の日本数学教育学会選択する選択科目制がとられたが、占領解除後 9 す・あり、それを学習させるのが数学教育であると的な理由が付加された形であった。中等学校での前身 ) が結成され、そこを中心として数学教には、数学—、数学Ⅱ、数学Ⅲ、応用数学とい
との差、さらには関東内部での違いを指摘することも可能でって数値で絶対年代を求める年代決定法が多く用いられるよ刃 も縄文文化じようもんぶんか ある。しかし、こうした地域性の反面、各地域を貫く共通の うになった。これらによれば縄文時代の開始は一万二〇〇〇 年前ごろといわれる。 特徴がみいだされる。とくに土器文様の斉一性は、縄文文化 よ 〔縄文文化とは〕土器と弓矢の出現 / 遺跡分布と人口 じ 縄文文化は、きわめて緩やかな発展をたどってきたが、し の共通性の表れである。また、年代的に前後する土器相互の 〔時期区分〕 間には、強いつながりをたどることができる。もちろん断続かしその軌跡は、単純な直線で描かれるようなものではな 〔生活の基礎〕食 ( 狩猟、漁労、植物性食料の採集 ) / くス・・げ・き い。たくさんの小さな段階を画しながら、変化に富んだ上昇 や空隙もみられはするが、それ以上に連続性を保っているの 住 ( 竪穴住居、集落 ) / 衣 である。この三つの性格は、縄文文化そのものの反映である線を表してきたのである。こうした小さな段階の累積が、縄 〔葬制と信仰〕埋葬 / 甕棺葬と洗骨 / 呪術・信仰 文時代の歴史を形づくっている。これらの段階のなかには、 と考えられる。↓土器 〔技術〕木工 / 漆の利用 / アスファルト 〔遺跡分布と人口〕縄文時代の遺跡の総数は、正確には把握一地域にのみ認められる小規模なものもあるし、また各地域 〔大陸文化の影響〕 されていない。概数はおそらく約一〇万か所といってよいでを貫いて共通に認められる顕著なものもある。これらは時期 縄文文化とは あろう。遺跡数の多いことは、単純にはいえないが、一つに区分の指標としてふさわしい意味をもっている。これに立脚 して、縄文文化を歴史的に概括すると、次のような段階区分 〔土器と弓矢の出現〕縄文土器の使われた時代を、普通、縄文は人口の多かったためである。日本の国土面積に比較して、 時代とよんでいる。また、その時代の文化を縄文文化と称し人口密度は高かったとみてよい。遺跡数は、東日本に圧倒的が可能である。 成立段階 ( 「草創期」・早期 ) 、発展段階 ( 前期・中期 ) 、 ている。この縄文文化が、それ以前の先土器 ( 旧石器 ) 時代に多いとされてきたが、西日本での調査が進行するなかで、 文化と画然と区別される点は、土器と弓矢の出現普及にあその差は縮まってきた。人口の問題について、「一五万から成熟段階 ( 中期末 ~ 晩期前半 ) 、終末段階 ( 晩期後半 ) 。 すがお また、縄文文化の諸現象の検討から、大きく前半期と後半 る。この二つの道具が、日本の土地で自生したものである二五万、西南に薄く、東北に多い」 ( 山内清男 ) 、「日本全体 せりぎわ でんば か、他地域からの伝播によるものであるかについては、まだで一二万人」 ( 芹沢長介 ) という見解があるが、よりきめの期に二分する意見もある。 細かい推算をした小山修三は「早期二万、中期二六万、晩期 明確な発一言を聞くまでには至っていない やり 生活の基礎 弓矢は、槍にかわって登場した狩猟具であるが、その構造七万六千」という数字を見積もっている。 〔食〕縄文文化は、狩猟、漁労、植物性食料の採集を中心と が単純であるとはいえ、物理的な原理を応用した器械であ 時期区分 する採集経済のうえに立脚する。人々は、自然の産物に食生 り、道具の歴史からみて、大きな意義をもっている。とりわ 考古学研究のうえでは、土器の文様や形などの面にみられ活をゆだねていたのである。しかし、原始的な農耕があった けそれが飛び道具であったことは、小形動物や鳥類に対する る特徴をもとに「型式」を設定し、各型式相互の新旧関係をとする考えや、イノシシの幼獣の飼食などが行われていたと 狩猟効果を高めることとなった。 いう見解が聞かれる。↓縄文農耕 一方、土器は物の化学変化を自覚的に利用することによっ年代順に秩序づけることによって、いわゆる「編年」が組み てつくりだされた。柔らかくて可塑性のある粘土塊に、一定立てられている。土器型式は、それが最初に発見・注意され〔狩猟〕狩猟の道具として広く一般的に使用されたのは弓矢 の時間火熱を加えることによって土器というまったく別の物た遺跡の名を冠してよぶのが習わしである。たとえば、縄文である。石鏃は矢の一部分であり、しかも不可欠の部分であ さがみはら 体が生まれるのである。初め土器はもつばら食物を煮炊きす時代中期の「勝坂式土器」は、神奈川県相模原市勝坂遺跡のる。縄文時代の各時期・各地域にわたって認められ、弓矢の る道具として使われた。従来、食物の調理には「生で食べ名にちなんでいる。縄文土器の場合には、各地域ごとに土器発達を裏書きしている。弓はもつばら木でつくられたが、植 る」「焼いて食べる」の二つの方法があったが、土器の出現型式の編年がつくられ、日本全土にわたる網の目のような秩物質の遺物は泥炭層遺跡や低湿地遺跡のような限られた場所 によって「煮て食べる」という新しい方法が加わった。この序ができあがりつつある。これは、縄文文化研究の土台をなでしか発見されない。遺存例は、いままでに三〇例ほど知ら している。この編年体系は、文字のなかった縄文時代の年代れている。大部分は丸木弓であり、イヌガャ製が多い。青森 ことは食料の種類と範囲を拡大し食生活の向上を促した。 これかわ 現在、さかのばりうる最古の土器として、長崎県佐世保市を測る基本的な尺度となるものである。その場合、型式は物県是川遺跡 ( 晩期 ) からは、漆塗りの入念に加工した大小の やじり とうりゅうもん せんぶくじ 泉福寺洞穴出土の「豆粒文土器」があげられている。縄文差しの小さな目盛りとでもいうことができる。また別に、型弓が出土している。石の鏃をつけた弓矢の威力は、どの程度 しじみづか のものであったろうか。かって静岡県浜松市蜆塚遺跡 ( 後 土器は、このあと約一万年もの長い年代にわたって、北海道式は、その土器をつくり、使った人間集団の輪郭を表してい 期 ) から、シカの骨の一部にまで石鏃が射込まれたままのも から沖縄にかけての日本全土で発達した。器形や文様の多様ると考えられる。 長い縄文時代は、縄文土器の研究に基づいて、普通、早のが発見されたことがある。これは、石鏃が皮と肉を貫いて なあり方は、世界の新石器時代の土器のなかでも、特異な存 骨にまで達する威力をもっていたことを示している。 期、前期、中期、後期、晩期の五つの時期に大別されてい 在とみなすことができる。 せきそう 縄文土器には、地域性、共通性、連続性の三つの性格が備る。また、早期を二分して、古いほうを草創期とよぶことも槍先である石槍の出土例は、北海道・東北地方ではやや目 わっている。つまり、それそれの地域の環境に対応するかのある。この時期区分は、物差しの目盛りの大きな区分けに例だつが関東地方ではまれで、しかも中期以前に限られる。西 日本では特殊なものを除けば皆無といってよい。またイヌが ように、地域ごとの差をもっている。大きくは、東日本と西えることができる。右のような編年と時期区分は相対年代と 日本との間の違いが認められるし、また、東北と関東のものよばれるが、近年では 0 ー一四年代法など理化学的方法によ猟犬として大きな役割を担ったことは疑いない。縄文時代の なま させば かっ、か
ばならないが、いったんそれが達成されたあと っとも進化したグループであり、その多くは中場合場合で異なっている。たとえば、新古典の数多い戯曲にしても、今日では上演されるこ には、従来の微視的理論が一般に想定していた これらの作家が忘却されるととも 生代白亜紀から新生代中新世の間に出現した。 ( 学 ) 派成長論という場合には、生産要素の代とがない に、この思潮も実質的な意義を失い、文学史に ように、経済活動を民間の自由にまかせておく 遊泳に適するように鱗が薄くなり、うきぶくろ替性 ( 生産係数の可変性 ) を承認する面がとく に注目されているし、 Q-«・ < ・サミュエルソン名をとどめるにすぎなくなっている。傍流ではのが経済的福祉の向上にとっては最善の道だ がよく発達し、内部骨格が硬骨化して堅くなっ し、現在の混合経済はそのような仕方で実際に た。イワシ、サケ、ウナギ、コイ、タラ、スズが一九七〇年代に入るまで唱えていた新古典派あるが、シュミットボンやビンディングのほう うまく機能することができる、と説く。理論と キ、サバ、カツオ、カサゴ、フグ、カレイなど総合というような場合には、経済的福祉の達成が、新古典主義の名称にふさわしい佳作を残し ^ 丸山匠〉 いうより多分に政策論的主張であって、その可 現存する一一万種余りが含まれ、水産資源として手段としての ( 完全雇用実現以後の ) 私企業体ている。 〈落合明〉 重要なものが多い 制と競争の有効性という点に焦点があてられて回山岸光宜著『現代の独逸戯曲・第二』 ( 一九能性についての楽観度などには差こそあれ、 いると思われる。 一一七・大村書店 ) 『雇用・利子および貨幣の一般理論』 ( 一九三六 ) の 新古曲 ( 当ナ派しんこてんがくは neo-classical しんこてんしゅぎおんがく school 元来は、経済学者 < ・マーシャルに 末尾近くで、簡単にながら、ケインズによって さらに、一九七〇年代以降、日本で盛んに論新古典主義音楽 じられる新古典 ( 学 ) 派批判というときの新古ワーグナー、マーラー、プルックナーに代表さすでに述べられていた考えである。この考え 始まるケンプリッジ学派をさす名称であった は、アメリカや日本などでかなりの期間、非常 が、現在では多様な意味で用いられている。 典学派が、具体的にどれだけの範囲の経済学者れる後期ロマン主義の主情性、主観性に反対 ケンプリッジ学派が新古典学派とよばれたの のどの部分の理論を念頭に置いているのかは、 し、バロック的な形式性を重んじた、覚めた客な影響力を振るったが、一九六〇年代末から七 は、基本的には、同学派が限界革命以後、古典かならずしも明確でない。しかし、その種の批観性、主知性に基づく音楽。プゾーニの『音芸〇年代にかけてスタグフレーションが全先進資 学派にかわってイギリスの正統的学派となった 判がなされるとき、おもに念頭に置かれている術の新しい美学提要』 ( 一九 0 七 ) で理論的にまず本主義国を覆うに及んで、急速に影響力を失っ からであり、また始祖マーシャルの経済学が、 のが、限界革命以降の微視的価格理論を中心と提唱され、第一次世界大戦後盛んになった。初 た。財政・金融政策によって達成された完全雇 限界主義に立脚し、価格の説明では需要面 ( 限する ( 日本でいわゆる ) 「近代経済学」が不可期の三大バレエ作品以降のストラビンスキーが用下での市場と、政府の介入なしに完全雇用が 界効用 ) に留意しつつも、生産費分析の重視や逆的な時間要素や不確実性を無視または軽視その代表者で、ベルゴレージの作品やその他の達成されている市場とでは、その機能様式が異 長期動態面への関心などの点で、古典学派の伝 なる、などの理論面での難点に加えて、上述の し、消費者主権を絶対視し、経済問題の歴史 バロック時代の作品を素材として用いた『プル 統を豊かに継承していたからである。しかし、的・社会学的側面を無視ないし軽視しているとチネッラ』 ( 一九一九 ~ 一一 0 ) 、詩人コクトーとの共同ような現実面の変化にも影響されてか、サミュ ケンプリッジ学派を新古典学派とよぶのは、 ~ 一一七 ) 、ロシア・ いう諸点であることだけは、まず間違いないと 作業『オイデイプス王』 ( 一九一一六 エルソンも『経済学』の第八版 ( 一九七 0 ) 以降、 「地代は生産費を構成しない」という・リカ いってよいたが、いろいろ批判の声は高いに ハレエ団のための『ムーサの神を率いるアポロ政策論的主張の実質内容まで全面的に撤回した ン』 ( 一九一一七 ~ 一一 0 、チャイコフスキーの主題によわけではないが、この名称は捨てることになっ ード以降の古典学派主流の一基本命題をマーシせよ、確固とした多分に体系的な理論を構成し ようせい こ。しかし、ミクロとマクロとの関係、市場の ャルがなかば受け入れたことに由来するというているという意味では、この広義の新古典学派る『妖精のロづけ』 ( 一九一一 0 などで、次々と古オ 説もあり、ケンプリッジ学派の別称としての新が、一九八〇年代中葉の現在でも、依然として典的な形式感をもった作品を発表した。同時代自由と政府の介入との関係などの問題それ自体 ( いまもなお解決されているわけではない。 古典学派という名称についても、その由来の説「近代経済学」の主流的地位を占めていることのヒンデミット、カセッラ、マリピエロ、プー ↓サミュエルソン↓経済学↓スタグフレーシ 明が一定しているわけではない。また新古典学も事実である。↓ケンプリッジ学派↓近代経済ランク、ミョー、オネゲル、プロコフィエフら 〈早坂忠〉 〈早坂忠〉 派の名称は、イギリスだけについても、ケンプ学 にも同じような傾向がみられる。新古典主義的ョン リッジ学派に限ることなく、・・ジェポン回菱山泉著『近代経済学の歴史』 ( 一九六五・有信時代は、ストラビンスキーにとっては第二次大・ < ・サムエルソン著、都留重人訳『経済 : っ・レ J ノ ズや、・・エッジワース、・・ウィッ 学』全二冊 ( 原書第六版・一九六六 / 原書第一一 堂高文社 ) ▽・フェルナー著、松代和郎戦後のオペラ『放蕩息子の帰還』 ( 一九哭 ~ 五 l) クスティードらの限界原理に立脚した人々を含 訳『近代経済分析』第三部 ( 一九六五・創文社 ) まで続くが、芸術的な活力を保持したのは両大 版・一九ハ一・岩波書店 ) ▽安井琢磨・青山秀 めて用いられることもあり、ときとすると、 ▽安井琢磨・熊谷尚夫・福岡正夫著「近代経戦間の約二〇年間であったといってよい。な 夫編『現代経済学』 ( 一九穴・日本経済新聞社 ) ▽貝塚啓明著『新古典派総合』 ( 嘉治元郎・ ・・ミルもこの学派に入れられたりするこ 済学の理論構造』 ( 一九七四・筑摩書房 ) ▽宇沢お、同時代の音楽美学者アドルノは、こうした ともあった。 村上泰亮編『現代経済学の展開』所収・一九 弘文著『近代経済学の再検討』 ( 岩波新書 ) 古典回帰を「幼児的な退行」として批判してい しんこてんしゅぎ Neoklassizis- る。 〈細川周平〉 七一・勁草書房 ) ▽荒憲治郎著「新古典派総 しかし、新古典学派の名称は徐々に拡大され新古典主義 mus 合』 ( 稲田献一・岡本哲治・早坂忠編『近代 て、ケン・フリッジ学派ないし限界原理にたつイ 一九〇〇年前後のドイツ文学思潮。新古典主義美術しんこてんしゅぎびじゅっ こて人しゅギ、 経済学再考』所収・一九七四・有斐閣 ) ギリスの経済学者だけでなく、限界革命以後の当時主流であった自然主義やホフマンスタール 0 古典主義 しんこてんはそうご , っ neo- 限界分析に立脚し微視的価格理論を中心に経済などの新ロマン主義を否定する立場からシラー シンコニウム S に ~ go き ) ミサトイモ科 新古典派総合 の多年生つる草。つるの切り口から白い汁液を classical synthesis 限界革命以降、ケイン 学を展開した欧米の経済学者全体をさすようにやヘッペルを規範として古典的な形式と高貴な一 倫理を要請した。とくに戯曲において、人間 ズ革命に至るまで近代経済学の中心をなしてい 出す。吊り鉢やヘゴ材につけて観賞する。よく なり、いまではこの意味で用いられていること がもっとも多く、その場合には、・ワルラの自由意志による決断と論理的構成の必要性をた微視的価格理論と、ケインズの巨視的国民所知られるのはポドフィラム種の園芸種で、通 得理論とをなんらかの形で総合しようとする試常、鳥足状に三裂する葉に乳白色の斑が全面に ス、あるいはその延長線上の『価値と資本』強調し、反自然主義的姿勢を明確にした。理論 ( 一九三九 ) 前半部分の・・ヒックスの理論が的著作としては、エルンストの『形式への道』みで、・・サミュエルソンが、近年まで非入るホワイトバタフライや、葉の中央部が細長 ( 一九 0 六 ) とルプリンスキーの『現代文学の終局』常な影響力をもっていた教科書『経済学』 ( 初 く乳白色になるアルポビレンスがある。葉が丸 新古典学派の典型とされる。だが、現在普通に くすこし肉厚なものにマクロフィラがある。鉢 ′」用いられているこのもつども広い意味での新古 ( 一〈 00 が代表的な作品。しかしながら理論が版一九哭 ) の第三版 ( 一九 ) ごろから、この名称 で強く主張し始めた考え。完全雇用達成のため植えとし、四、五号鉢にミズゴケか腐葉土を主 ん典学派の場合でも、それのもっさまざまな属性先行し、創作の面ではみるべき成果に乏しい ひょうばう にはケインズ流の財政・金融政策を用いなけれ体にした軽い土に植える。春から秋までは日陰 5 しのうちのいずれの側面にとくに着目するかは、新古典主義を標榜するエルンストやショルツ うろ・一
しい、あるいは恐ろしい幻覚を伴うことがあ行われてきたが、朝覚醒してから思い出させる妨げになり、これらを遮断すると眠くなることその化学構造式はいくつかのアミノ酸からなる る。一般に本人が睡眠麻痺から抜け出そうと努方法であったため、睡眠時期との関係は不明ではよく知られている。また、外来刺激ばかりでペプチドであろうといわれている。 〔睡眠の機能〕眠ったあとは疲労感がなくなる なく内部刺激、ことに筋肉からの求心性イン。ハ 力したり、他人に話しかけられたりすると突然あったし、夢の内容もいくつかの夢が混じり合 ことから、睡眠は疲労回復という意味でたいせ ルスが脳に達しなくなると眠くなる。体を横に 消失する。睡眠麻痺はレム睡眠の一種で、意識ってしまうなど、いろいろな問題があった。し して筋の緊張を緩めると眠りやすいことはだれつなものと考えられる。また、俗に「寝る子は かし、現在ではポリグラフ記録によって睡眠段 が覚醒状態にあるのに、筋肉が弛緩していて、 階との関係を正確に調べることができるようにでもが経験することである。その他の内部刺激育っ」といわれるように、睡眠は休養ばかりで 夢の体験が持続する状態と考えられている。 ⑨片頭痛頭痛のために目覚めてしまうものなり、夢の科学的研究が可能となった。レム睡としては内臓感覚も無視できない。乳児が目覚なく建設の面も備えている。たとえば、日中に とった食べ物を消化・吸収して、体に必要な血 で、レム睡眠期に出現しやすい。また、朝起き眠とノンレム睡眠のときに目覚めさせて夢をみめるのは主として空腹感、渇き、尿がたまると いった内臓感覚によっている。この考えを支持と肉に変えていく、子供の成長はもつばら夜中 たときに片頭痛の体験を思い出す。思春期前にていたかどうか調べたデータによると、レム睡 ひげ におこる、成人でも髭は夜中に伸びるなどであ はみられない。片頭痛はレム睡眠期にみられる眠期には七〇 ~ 八〇 % 、ノンレム睡眠期には〇する実験がある。・ヘルギーの生理学者プレメル ~ 五〇 % の率で夢をみていた。ノンレム睡眠期 F. Bremer は、ネコの脳を中脳のところで切る。頭の働きは使うことによって発達するもの 血圧の変動によると考えられる。 きゅうかく ⑩狭心症心臓の冠動脈に異常のある人はしばの値がばらついているのは、夢の定義が研究者断すると嗅覚と視覚以外の感覚性経路が遮断である、体は眠っていても脳が活動しているレ されて、大部分の求心性インパルスが脳に入らム睡眠が乳幼児期に多いという事実を考え合わ によって多少食い違っているためである。しか しば夜中に胸が一過性に締め付けられたり、痛 みを感じる発作がおこる。これが狭心症で、そし、夢の内容のうち、筋道の通ったものだけをなくなり、そのネコは睡眠状態になることをみせると、脳の発育にレム睡眠が重要な役割をし ていると考えられる。しかし、成人の場合のレ いだした。その後、アメリカの生理学者マグー の大部分はレム睡眠中に発生している。発作夢とし、漠然とした断片的な印象のようなもの は夢としないと決めると、ノンレム睡眠期におン H. w. Magoun は、中脳の中で感覚経路ム睡眠がどんな機能をもっているかはまだわか は、レム睡眠に入るとまもなく心拍数が速くな っていない だけを選択的に破壊しても動物は眠らないが、 ける夢は〇 % となる。 り、心電図に変化が認められる。そして数分後 睡眠の機能を明らかにするために、昔から断 レム睡眠期を脳波像からみると入眠時に相当感覚経路から側枝を受けている中脳の網様体と に自 5 苦しくなって覚醒するという経過をたど る。予防としては睡眠薬でレム睡眠を抑えるこするため、脳の活動はノンレム睡眠期と比べてよばれる部分だけを破壊すると眠りに陥ること眠実験が行われてきた。最初はノンレム睡眠、 ふかっ レム睡眠の両方とも含めて全睡眠を遮断してい をみいだし、この部分を上行性網様体賦活系と かなり高い水準にあると考えられる。したがっ とが考えられる。 ~ しトっ たが、最近では二つの睡眠の機能を知るために 名づけた。この賦活系は感覚入力によって賦活 胃痛十二指腸潰瘍があると、夜中にみぞおて、レム睡眠期にはある程度の精神機能が可能 どう ちのところが痛んだり、不快感がおこる。胃痛である。身体的にみると、レム睡眠期には、瞳され、その活動が高まると覚醒し、その活動が選択的に遮断することも試みられている。ヒト - 」う もレム睡眠期にみられる。正常な人では眠ると孔が極端に小さくなって光が入りにくい、耳も低下すると眠るというように、きわめて明快にで全断眠を行った場合、一般に知覚が鈍磨し、 反応速度や記憶力などが低下するほか、ときに 説明できるため広く受け入れられてきた。 胃液分泌が低下するのに対し、この病気がある耳小骨についている筋肉が緩むため音が入りに しみん は視覚性幻覚も生ずる。なお、人がどのくらい ③睡眠中枢説嗜眠性脳炎の患者の脳を剖検し 人は逆に夜中に胃液の分泌が高まることが原因くい、体の筋の緊張が消失するため手足からの 感覚刺激が少ない、といった傾向が認められてみると、いずれも中脳から視床下部にかけて眠らずに耐えられるかという実験では、アメリ である。 g 気管支喘息喘息の患者はしばしば夜中に発る。つまり、外界からの感覚刺激が脳に入らな冒されている。また、脳炎で不眠になった症例力のカリフォルニア州の一七歳の高校生が二六 い状態にあるといえる。こういう状態のときでは視床下部前部が冒されている。これらの所四時間眠らなかったという記録がある。日本で 作をおこす。成人の喘息では特定の睡眠段階と は二三歳の学生の一〇一時間八分三〇秒という の関係はみつかっていないが、小児の場合は夜に、脳の中である考えやイメージが浮かんで見に基づいてドイツの内科医エコノモ C. Eco- nomo は、視床下部に睡眠を調節する中枢が断眠記録がある。選択的断眠にはノンレム睡眠 中の後半に多発する。しかし、発作とレム睡眠も、それらは現実の修正を受けないからそのま のうち、第三と第四段階 ( 徐波睡眠 ) だけを遮 とはかならずしも一致していない。また、睡眠ま進行する。さらにレム睡眠期には脳の機能があると想定した。さらにスイスの生理学者へス 覚醒時よりもやや低下しているので、覚醒時の W. R. Hess によって、ネコの視床を電気刺断することが可能である。また、レム睡眠はノ 第三、第四段階には発作はおこらない。 ンレム睡眠のあとに出現するから、レム断眠も 0 いびき睡眠中に上気道が狭くなり、呼吸気ような論理的思考ができずに夢として展開され激すると眠りを誘発することができることが示 流に乱流がおこるのがいびきである。上気道のる。夢の内容が非合理的で非現実的なものであされ、睡眠は脳の中の睡眠中枢が興奮すること可能である。レム睡眠あるいは徐波睡眠を選択 によっておこるという考えが出された。この説的に遮断したあと、遮断しない睡眠と比較して 狭くなる原因として、鼻水その他の分泌物がたるのは、こうしたことによっている。↓夢 へんとうせん - : っ・刀し このことか も両者の間には差がみられない。 は、睡眠は受動的におこるとする刺激遮断説と まる、肥厚性鼻炎、軟ロ蓋の異常、扁桃腺肥〔睡眠学説〕睡眠を制御しているのは脳である と考えられているが、どのようにして睡眠がお対立するが、現在では上行性網様体賦活系の活ら、日中の精神活動に影響を及ばすのは、睡眠 大、舌根沈下、肥満などがあげられる。対策と こるかという脳の中の仕組みに関しては、、 動を積極的に抑えるような仕組みが脳の中にあの質ではなくて睡眠量であり、一日三時間の睡 しては耳鼻科的原因があれば治療を受けるとよ るとする考え方、つまり両方の説を折衷する説眠量が正常な遂行水準を維持するための下限で 。また、いびきには睡眠姿勢が関係するかっかの説がある。 あるといわれている。普通の人の睡眠時間は環 をとるのが一般的である。 ①条件反射説パ。フロフは条件反射の実験中、 ら、いびきをかく人は横向きに眠るとよい ④ヒプノトキシン説フランスの心理学者ピエ境によってかなり変動する。夏休みには一晩に ことに条件反射がおこらなくなるような実験状 〔睡眠と夢〕睡眠中には、身体機能ばかりでな ロン H. Piéron が、一 ~ 二週間眠らせないで一〇時間眠ったのに、学校の授業が始まると七 精神機能にもいろいろな変化がおこる。一況のとき、しばしばイヌが眠りに陥ることか 般に知覚や学習の能力は入眠後低下していくのら、条件反射を抑制する過程が脳の特定の部位おいたイヌの脳脊髄液を他の正常なイヌに注射時間しか眠らないという学生も多い。また、心 におこり、それが脳全体に広がると睡眠がおこすると眠りに陥ることをみいだして、覚醒中に理的には、一般に「うまくいっている時期」 んで、いわゆる睡眠学習 ( 睡眠中に聴覚的に大脳 たとえば楽しい仕事に熱中しているときは睡眠 み・を活動させ、学習や記憶をさせる方法 ) は不可ると考えた。しかし、この抑制過程が具体的に特殊な物質が蓄積してくると眠り、その物質が 分解されると覚醒すると考えた。彼はこの仮想要求が減り、したがって睡眠時間が短く、スト > 能と考えられる。夢は睡眠中の精神機能の一つどんな神経機構であるのかは不明である。 の物質をヒプノトキシンと名づけたが、最近、レスが強いとき、心配事があるとき、悩み事が 8 ②刺激遮断説音や光などの外来刺激が眠りの す・である。フロイト以降、夢の研究はいろいろに ぜんそく
であろう。それは糸を通じての力学的振動による直接的な情 るものになってきている。この情報に関する学問は、今日、 でんば 人文・社会科学分野を含めて多面的展開をみせているが、本報の伝播である。電話は、その力学的振動を電気信号に変換 したものである。無線電信は、空間における電磁波の伝播を 項目では、その成立の経過を踏まえたうえで、「通信機械・ 利用したものである。シャノンに始まる「情報理論」は、こ 〔情報科学とは何か〕情報科学の誕生 ( 情報理論・制御計算機械・自動制御機械などの、情報機械の科学」を中心と れらの場合にすべて適合する一般的な数学的形式をとってお して述べることとする。 と予測・電子計算機、情報処理・情報科学の今後 ) 〔情報理論〕情報理論とは / 通信系のモデル / 情報量 〔情報科学の誕生〕情報科学の誕生は、三人の優れた科学り、かっ、その具体的な展開となっている。情報の伝送が社 会経済的な意義を含むものであることは、その物理的意味が 条件付きエントロビーと相互情報量 / 情報源符号化者、ウィーナー、シャノン、ノイマンの業績に直接負う。一 問題とされる以前に明らかとなっていた。 TJ ・・モースに と通信路符号化 / 符号理論 / 多端子情報理論 ( 多一兀九四〇年代なかばから五〇年代にかけての三人の研究成果が 情報科学創始の土台となり、五〇年代なかばごろまでにそのよる有線電信の発明 ( 天三七 ) が、なによりも商業的意義を有 情報理論 ) するものであったことが、それを物語っている。モールス符 〔情報処理〕情報処理とは / 情報処理基礎理論 ( 情報理骨格がつくられたといってよい 号は、本質的には / ZO の二値論理的である。これが 一九四八年、ウィーナーは著書『サイバネティックス』に 論・離散系数学・アルゴリズム理論・オートマトン と一一一一口語理論・計算の理論・システム理論・人工知能おいて、「制御」と「通信」の問題が、それまでの既存の学約一世紀を経て、通信系の情報伝達の一般的数学理論という に関する基礎理論 ) / 計算機械 ( 情報機械・有限オー 問分野の枠に収まらないものであることを強調し、新しい学形で、シャノンの「情報理論」として現れるのである。 トマトン・チューリ ング機械とコンピュータ・アル 問サイバネティックスの形成を提唱、ウィーナーの考えは情〔制御と予測〕今日、ロポットやマジックハンドは生産の場 に広く登場してきているが、それが物をつかむ動きは、脳が ゴリズム・システム制御・オペレーティングシステ報科学の理念的先駆となった。 同年、シャノンは「情報理論」を発表した。そこには、通目的に対して一定の予測を行い、情報信号が神経を通じて伝 ム ) / 情報の処理 ( コミュニケーション・管理・処 えられ、筋肉の動きを制御する、腕の機能のシミュレーショ 信によって伝送される情報についての具体的な取扱いが数学 理・人工知能 ) ンである。ウィーナーが生体をサイバネティックス機械とみ 〔人文・社会科学的側面〕情報現象の理論展開 / 情報の的に明示され、通信系の情報理論が初めて体系的な、しかも たときの視点がまさしくそれであり、それが今日、ロポット それ自体、完成度の高い理論として世に出された。 類型と属性 / 社会情報学の構想 / 今後の研究動向 一方、一九四五年にノイマンはプログラム内蔵方式の計算として具体化されている。 情報科学とは何か 〔電子計算機、情報処理〕毎日、私たちが目にする天気予報 機を提案した。その基本線はそのまま今日にまで引き継が は、観測データに基づいて一定の計算のうえで出される。こ 第二次世界大戦後の科学・技術の発展を特徴づける最大のれ、情報科学を構成する物質的条件の主体となっているディ こでは観測システムの充実とあわせて、計算の速さが要求さ 要素を一つあげるとすれば、それは電子計算機の登場であろジタル計算機械の発展において決定的な位置を占めてきた。 う。固体物理学を基礎とするエレクトロニクスの急速な発展ノイマンは、さらに自動機械 ( オートマトン ) の一般的な研れる。電子計算機登場の直接の契機が、第二次世界大戦中の に支えられて、その技術は目覚ましい進歩を遂げ、今日に至究を進め、情報科学におけるこの分野の道を開いた。以上の高射砲の弾道計算にあったことはよく知られている。そこで シャノンによる通信と情報の理論、ウィーナーに始まる制御も計算の速さが要求された。さかのばって一九世紀末、ホレ っている。この計算機科学、エレクトロニクス、通信工学の リスがパンチカード式電気統計機を発明し、一八九〇年のア ・予測の理論、ノイマンに代表されるディジタル情報処理お ま進歩を土台として「情報」の科学・技術は発展し、ここに メリカの国勢調査での総人口をその年のうちに集計するのに よびオートマトン理論などが、それ以後、約三〇年間の情報 , フ「情報科学」とよばれる、それ自体固有の論理をもつ新しい 成功したことは、それまで、一回の国勢調査の集計に七年半 科学の全面的展開の基本路線を与え、今日に至っている。 よ学問体系が生まれた。 も要していたことからしても、歴史的象徴的なできごとであ 〔情報理論〕子供のころ糸電話で遊んだ経験をもつ人は多い じ現在、情報の技術は、社会全般に大きなイン。ハクトを与え 情報科当十 matics は、それ自体では意味をもたない、方向性のな〇年代なかばに確立したインフォメーション・ は、数どうし、文字どうしを掛け合わせればよ ればよい。とくに、累乗根については、 a>0, いスカラー量でもある。しかし、これを分析すセオリーを情報理論と直訳したのが、現在の情 このとき、同じ文字の積は、。 x 。Ⅱ b>0 のとき、 x ミ 6 Ⅱ x 6 が成り立つ。 報の語意の初めであり、それ以前は情報といえ 。 xax Ⅱのように、累乗の形に書く。多項ると、変化や兆候を示す、方向性のあるべクト 複素数についても乗法が定められる。 ちょうはう ば諜報と同義語であった。情報処理の中枢と 式の乗法では、分配法則メ ( B + C ) Ⅱ B + C ル量となる。これが情報である。情報の単位と なるコンピュータの発達と、情報伝達のための によって、単項式どうしの積の計算に帰着させしては、アメリカの応用数学者シャノンの通信 〈三輪辰郎〉理論で定義されたビット bit が著名である。電気通信網との結合が、社会的な情報の重要性 のように定める。文字式について乗法が定められばよい もともとは電気通信信号の変化の測度であったを増してきている。↓記号↓信号↓情報科 れる。数と文字との積は、 3X0 Ⅱ 0X3 Ⅱ 34 の主月じようほう information フォーマル 〈安田寿明〉 学↓情報処理 が、より広範な適用を可能とするインフォメー ( 定型的 ) なものの否定が原語の意味であり、 ように、数を先に書き、記号 x が省略される。 ション・セオリーが確立され、情報伝達と情報回高橋秀俊他著『東京大学公開講座情報』 文字と文字の積でも、同じように、 axb は変化を知らせる信号 ( シグナル ) や兆候などと ( 一九七一・東京大学出版会 ) として x は省かれる。単項式どうしの乗法でしてとらえられる概念。つまり、データや資料処理のための基礎を築いた。ちなみに、一九五 じようほ、つかがく informat10n sclence, infor- 1 17
すえひろ 東京帝国大学物理学科教授であった寺田寅彦と ~ ( 七・筑摩書房 ) ▽柳田泉著『末広鉄腸研究』余に及ぶ丘陵一帯に分布するわが国最古最大の すえき 須恵器生産址である。その名は『日本書紀』崇 9 ( 『政治小説研究中巻』所収・一九七四・春秋 協力して行ったもので、寺田の物理的手法、末 じん すなわ ちめのあがた 神天皇七年条に「・ ・ : 即ち、茅渟県陶邑に於 社 ) 広の振動工学的立場から地震の解明にあたると たねこ これたてまっ を ー一九一一 0 ) て大田田根子を得て之を貢る」とみえ、曰古事 末松謙嶝すえまつけんちょう ( 一会、 いう研究所構想が結実、一一五年の地震研究所設 毛 粗 記』には「河内美努村」とある。両者とも、中 立となり、彼は所長も兼任した。一九三一年明治・大正時代の政治家。名は正式には「のり とうきしよう せいひょうあんせい , る ( 昭和六 ) アメリカより招かれ日本の地震学、ずみ」と読む。号は青萍。安政二年八月二〇世「陶器荘」とよばれ、現在も西陶器、東陶器 おおじようや ぶぜん 傘裂 地震工学を紹介したが、帰国後急逝した。長男日、豊前国 ( 福岡県 ) の大庄屋の家に生まれの地名の残る堺市泉北丘陵に故地が求められて にちにち やすお いる。なお阪南窯址群、泉北窯址群とよぶ人も 〈半澤正男〉る。一八七一年 ( 明治四 ) 上京。東京日日新聞 の恭雄は魚類学者。 カ ひろぶみ 社に入社して文才を発揮。伊藤博文に認められ 状スエヒロタケ〔末広茸〕 sc ミ 2 をを 1- 一九六一年 ( 昭和三六 ) 以来、泉北ニュータ 形放きミきミミミ Fr. 担子菌類、サルノコシカて官途についた。七八年駐英公使館書記生見習 ウン建設に伴い、当該地の分布調査、発掘調査 として渡英し、翌年ケン。フリッジ大学に入学。 訓ケ目スエヒロタケ科のキノコ。傘は末広、すな ケ辺 が大阪府教育委員会によって実施された。これ タ周わち扇形で、幅一 ~ 三、多数重なり合って群文学・語学・法学を修め、滞英中『源氏物語』 ロ らによって、遺跡が谷によって東から、陶器 生する。表面は白ないし灰白色で粗毛を密生 ( 抄 ) を英訳刊行した。八六年帰国後、内務・ たかくらでら 工生 し、周辺部は放射状に浅く裂け、乾くと縮まっ文部両省に勤め、八九年には伊藤の長女と結山、高蔵寺、富蔵、栂、光明池、谷山池の六地 ス密 て下側に巻き込むところはネコの足に似る。肉婚。第一回衆議院議員選挙以来、三回連続当選区に区分された。これら各地区でおのおの独自 帰宅するが、主人はあきれ怒って冠者を追い出は薄く軟らかい革質。ひだは縁が縦に裂け、一一し、九六年からは貴族院に転じた。九二年以の遺跡分布が確認されているが、陶邑全体では 後、第二 ~ 四次の各伊藤内閣で法制局長官・逓五 ~ 一〇世紀の須恵器窯址約五〇〇基、古墳約 す。そこで冠者は、すつばから教えられた、主枚重ね状になるという独特の特徴をもつ。乾く しん はやしもの 一五〇基のほか、集落跡、火葬墓などが確認、 人の機嫌を直す囃子物 ( リズミカルな謡 ) をとひだの縁は両側にまくれ、湿ると閉じて一枚信大臣・内務大臣を歴任。日露戦争中には渡英 かすがやま のひだの形に戻る。胞子紋は白。世界的にきわして、日本の立場を英文の著作で説明した。一調査され、多くの成果をあげた。とくに時期の 「かさをさすなる春日山。 めて普通にみられ、日本でも至る所の枯れ木、九〇七年 ( 明治四〇 ) 子爵。演劇改良会の設連続する多量の須恵器が出土したことから、五 やようがりもそうよの」と謡っているうちに、 ~ 一〇世紀の型式編年 ( 時期編年 ) が確立し、 主人はしだいに浮かれだし、ついに冠者を呼び枯れ枝に発生する。従来の分類では、本種はマ立、イギリスの女流作家バーサ・・クレイの ひめゆり 小説『谷間の姫百合』やイギリス人アンデルの多大の影響を与えている。陶器山地区の一窯址 入れ、シャギリの笛にのってめでたく終曲すッタケ目キシメジ科に置かれていたが、スエヒ へんさん 『日本美術全書』の翻訳、『防長回天史』の編纂が五六年陶器山古代窯跡として大阪府指定史跡 ロタケ科が創設されたことにより、所属もサル る。主人が囃子物のリズムに浮き立っていくと 〈中村浩〉 〈今関六也〉 など、幅広い活動でも知られる。文学博士・法になっている。 ノコシカケ目に移された。 ころに、めでたい和やかな笑いが漂う。脇狂一言 学博士。大正九年一〇月五日死去。↓演劇改良回中村浩著『和泉陶邑窯の研究』 ( 一九〈一・柏書 の代表曲といえる。 末広亭すえひろてい東京の寄席は一 〈大日方純夫〉 房 ) 本曲に拠った邦楽には、通称「末広がり」で七年 ( 慶応三 ) から一九七〇年 ( 昭和四五 ) ま会 おしみず わかみどりすえひろがり 知られる長唄 ( 本各題「稚美鳥末広気三世で中央区人形町にあり、伝統的な寄席として知回金子厚男著末松謙澄と「防長回天史 , こ ( 一〈末森すえもり石川県咋郡押水町の米出、 いまはましんむ一う きねや じすけ 今演、今浜新、麦生の集落からなる地域。旧末 〈 0 ・青潮社 ) られていたが、客足激減のため廃館。②新宿区 桜田治助作詞、一〇世杵屋六左衛門作曲、一八 やま 五四年江戸・中村座初演 ) があり、ほかに、明新宿三丁目に現存するもので、当初堀江亭と称末松廃寺すえまつはいじ石川県石川郡野々森村。東方の末森山 ( 一 = 九 ) には中世から山 じろ せたん ときわずことぶきすえひろ 治前期につくられた常磐津「寿末広』と一し伊勢丹裏にあったのを浪曲師末広亭清風が買朮町末松にある奈良時代前期の寺院跡。一九六城があったが、一五八三年 ( 天正一一 ) 前田利 いえ ながとみ 一つ一なりま一 中節『末広』などがある。図し狂言〈小林責〉収、一九〇六年 ( 明治三九 ) に末広亭と改称、六、六七年 ( 昭和四一、四 (l) に野々市町教育家の臣奥村永福がこの城に拠り、佐々成政の大 一二年 ( 大正一〇 ) に現在地に移転した。数少委員会と文化庁によって国営発掘調査が行わ軍に抗して城を死守したことは末森の合戦とし 末広恭ニすえひろきようじ ( 一 0 七ー一九三一 l) こんどう しげやすてっちょう 〈矢ヶ崎孝雄〉 造船工学者。末広重恭 ( 鉄腸 ) の次男としてない東京の寄席として若い人たちにも親しまれれ、東に塔跡と西に金堂跡が検出された。塔跡て名高い ほうだっさん はしらま 東京に生まれる。一九〇〇年 ( 明治三三 ) 東京ている。桟敷席もあり、定員四〇〇。また第一一は一辺約一三で柱間は三・六を測る。金堂囮二万五千分の一地形図「宝達山」「加賀高松」 みつびし 帝国大学工科大学を卒業、長崎三菱造船所に入次世界大戦後、浅草に一時、浅草末広亭があっ跡は塔跡の西一一にあり、東西二〇、南北末吉 ( 町 ) すえよし ( ちょう ) 鹿児島県東部、 曽於郡にある町。一九二二年 ( 大正一一 ) 町制 〈向井爽也〉 一八を測るが柱間については明らかでない 社。のち東京帝国大学に転じ、助教授、教授と すみのえ 金堂跡に重複した掘立て柱建物跡も検出されて施行。町名は古名「須美乃叡」の転化という。 末広鉄腸すえひろて。ちょう ( 天四九ー九六 ) して応用力学、造船工学の講座を担当した。学 おおよど しげやす いるが、ほかにも平安後期の建物跡が検出され大淀川上流域の農村で、町の中心部低地は都 問的業績としては、船体の応力・振動・動揺に政治家、小説家。本名重恭。伊予国 ( 愛媛県 ) じよう のきまるがわら れんげ ついての独創的な論文が多い。また一九年 ( 大宇和島の生まれ。漸進的な自由民権論者で、官ている。軒丸瓦は単弁の六弁蓮華文で、文様城盆地の一部。この中心部を国鉄志布志線と 正八 ) 三菱造船所に研究所の設置を提案、自ら民調和、立憲政党政治の確立を説き、自由党、のある軒平瓦はみられない。なお、寺域から和国道一一六九号が南北に走り、北部を国道一〇号 所長になり、二五年イギリス造船協会から表彰改進党の大同団結を図った。一一一日論人として同銀銭も採集されている。調査後、環境整備事が、東部を国道一一一三号が通る。畜産王国鹿児 ちょうや されるなど、日本の造船工業の発展にも寄与を『朝野新聞』 ( 天七四 ~ 一九一一 ) 、『国会』 ( 一兊 0 ~ 九五 ) 業が行われ、塔・金堂跡の基壇が復原され史跡島県の中核産地で肉牛、豚を中心とし、この食 公園となっている。一九三九年 ( 昭和一四 ) 国肉処理を行う南九州畜産興業は町の重要な企業 」説こま、政治青年の理想と などで活躍した。ハ = = しし キ・いも : っ 〈田島康弘〉 〈松下正司〉である。人口二万一一七三。 学術行政面でのもっとも大きな功績は、関東恋愛を写実的に描き、政治的蒙を意図した史跡に指定 ( 六九年追加指定 ) 。 、こい 陶邑窯址群すえむらようしぐん大阪府堺市回高木秀吉編『末吉郷土史』 ( 一九五七・末吉町 ) 地震 ( 一九 = 三 ) のあと地震研究所設立の動きがあ『雪中梅』 ( 一会六 ) のほか、『二十三年未来記』 おびらの いずみ みなみかわち き、やま 〈浅井清〉を中心とし、東は南河内郡狭山町、西は和泉二万五千分の一地形図「尾平野」「都城」「末 ったとき、震災予防調査会の案とは別の立場か ( 一公六 ) などがある。 たからべ いわがわ 吉」「財部」「岩川」 らこの推進にあたったことである。これは当時、明治文学全集 6 明治政治小説集二』 ( 一九市を経て岸和田市に至る東西一五キ。、南北九キ。 よせ とらひこ とか こめだし みやこの