せつき 代にあたるが、磨製石器が伴う後期旧石器時代石器のための替え刃として用いられ、北海道に 2 - るる も文化的には新石器時代に含めるべきだとし涌別技法が生まれる。旧石器時代の終末期ごろ 6 おリ せきふ = 医、れ て て、時代的にみて新しいとする考え方である。局部磨製石斧とよばれる大形の石斧が出現す ムで取 中 し の 弥生時代には金属の利用が始まり金属器時代と る。全体を打製でつくりあげ、刃部周辺だけを ル \l 、・一士冗 もよばれ、石製利器から金属製利器への交代期磨き、木材の伐採加工用具と考えられている。 お位が てのさ にあたり、狭義の意味での石器の生命はここで後期旧石器時代はビュルムⅢ、Ⅳ氷期、間氷期 】圧る しズき 巨す 離ン大終わることになる。 の時代にあたり、絶滅したナウマンゾウやオオ レの 〔旧石器時代〕石器を歴史的に概観してみよ ッノシカの生息した時代であり、大形動物の狩 だ野像 レるズ 目ルン一 " 、↑ う。旧石器時代の石器を考える基本として次の猟にこれらの石器類が使われた。 物よンカ 像置見方がある。物理的な石の割れの現象で、石材〔縄文時代〕引き続く縄文時代も狩猟、採集が ーし 間ん」 の縁に力を加えて割ったとき、かけらをとって生活の基盤である。粗末な弓矢が主役となり、 せきぞく レ」 ン 色る , 差残った部分の石材 ( 石核とよぶ ) と、欠き取っ形、大きさのさまざまな石鏃が押圧剥離法によ ズ はくへん ン 眼立ま たかけら ( 剥片とよぶ ) の二つが生ずることでる加工で大量につくられた。石鏃に比べて石槍 レとで るに レ」 ある。世界の石器づくりには、鋭い縁をもたせの量は少ないが、これも狩猟用具である。石匙 ズ ズ視す間 るように加工した石核を石器 ( 石核石器 ) にすは皮剥ぎともよばれ、動物の皮を剥いだり肉を ン ン 鏡 ン条タ 2 うの レ レ 眼 る場合と、剥片の鋭さ、とがりぐあいを利用し切ったりする小刀として用いられた。また石錘 よズ 野野肖 視詹〕るン 視色メ加工する石器 ( 剥片石器 ) の二つの系統があもあり、川や海浜で漁労が活発に行われる。磨 れなレン の , ク る。そして石核石器には世界史的にみて、東ア製石斧は時期、地域によって変化がみられる ぞと眼デ れつき 像れ - ~ 対・ フリカからアジアにかけて分布する礫器の文化 ( 関東地方の早期に小形の礫の端部を磨いた局 すりきり ムすマ ズ イ ー刀 最 U かズ に圏と、アフリカからヨーロッパにわたる地域の部磨製石芹、北日本の前期に擦切石斧、関東・ ン あくふ 像 レ よ位握斧 ( ハンド・アックス ) の文化圏がある。礫中部地方の中期に乳棒状石斧、後期に定角式石 おの 虚る 最 点なの器は自然礫の一端を打ち欠いて刃にした道具で斧 ) 。打製石斧は斧と違って土掘り具と考えら 図 たてあな 焦とこ あり、日本の古い段階の石器は礫器の伝統に属れ、住居のための竪穴掘りに、根茎類の掘り起 こしに活躍した。植物の実・根などを割った せつき石でつくられた道具を意味すする。 セッキ Pietro Angelo secchi ( 天 石器 いしざらすり いわじゅく 七 0 イタリアの天文学者。一 八三三年イエズる学術用語である。いまでは使うところを見る 後期旧石器時代に属する岩宿遺跡で発見さ り、擦りつぶしたりする道具として石皿や磨 いしたたきいしくばみいしせつかん ス会に入会、同会学校で神学、物理学、数学をことができない、し。 、わま歴史的な産物ーーー遺物れたハンド・アックス様の石器は、機能からみ石、敲石、凹石、石冠 ( 一部の ) がある。実 - 一うだ だえん て敲打器、また形状からみて楕円形石器とよば用的な利器以外に彼らの精神生活面を表す石製 修業後、同校講師。四八年イエズス会弾圧によの一つとしての石製道具類をさす。石器を狭い 品類がつくられる。中期には巨大な石棒、後・ り亡命し、イギリスを経てアメリカに渡り、ジ意味で石製利器に限る扱い方と、やや範囲を広れている。一端をとがるように加工した石器も せんとう 古くからあるが、その形状から尖頭器、ポイン晩期には儀礼的な宝器である小形石棒、石剣、 ヨージタウン大学の物理学教授となる。追放令げて石製品を含めて扱うことがある せいりゅうとう どっこいし ぎよふつ トとよび、突き刺す、切る道具をいう。片面加石刀、独鈷石、石冠、御物石器、青竜刀石器、 の解除とともに四九年ローマ大学教授兼同天文〔製作方法と時代区分〕人類の三〇〇万年を超 じゅじゅっ また呪術的、護符的な岩版や装飾品などがっ 台長に就任し、天体物理学で開祖的業績をあげえる長い歴史のなかで石器の役目は時代ととも工と両面加工のものがあり、全体を葉形につく せきそう ゅうぜっ くられた。 た。五一年太陽放射の研究で皆既日食を写真観 に移り変わり、石器づくりの方法もいろいろと った石槍や、基部を舌状につくりだした有舌尖 え なげやり 測し、紅炎・コロナの形状をとらえた。さらに考案されてきた。石材を変形する処置には、打頭器は、長い柄をつけて投槍に用いたものであ〔弥生時代〕弥生時代の石器は、生活が農耕を だせい おうあっ 太陽の分光研究に進み、その技法を四〇〇〇個ち割るⅡ打製 ( 押し剥ぐ技術はこのなかに含める。加工には押し剥ぐ技術 ( 押圧剥離法 ) も使根幹とするものであったことから、鍬、鋤とい たた - 一うせい ませい った木製農耕具づくりに、金属製の工具を助け の恒星に及ばし、スペクトル型を波長分布や暗る ) 、敲き減らすⅡ敲製、磨くⅡ磨製という一一一われる。加工の状況が石器の両面に及ぶことか 線配置に基づき四種に大別した。この方法によっの技術しかない。石器をおもに利器として活ら両面加工石器とよばれる一群の石器があるて使用されたとみられる。後期には鉄器が普及 し、それとともに石器類は姿を消すことになっ り恒星の表面温度や元素含有量や電離度を識別用した時代を石器時代とよび、旧石器時代と新が、刃の付け方から各種の削り道具であったと ふとがたはまぐ - りな」 みられる。後期旧石器時代は剥片石器を中心と た。太形蛤刃石斧が、木器用の素材や住居用 する手段が開かれた。そのほかガス星雲の分類石器時代に分ける。その区分の条件の一つに、 〈島村福太郎〉打製技術から磨製技術に変わることがあげられし、石刃とよばれる剥片を一つの石材から効率材など大形の材の加工に、扁平片刃石斧、柱状 も行った。 よく生産する方法ー石刃技法ーを編み出し、こ片刃石斧がチョウナ ( 手芹 ) として削る作業に 石基せつき groundmass 火成岩で鉱物る。石器の歴史の大きな流れからみて確かだ の大きな結晶とその周りの小さな結晶またはガが、日本の場合時代区分と技術の変化の対応関の種の最高の技術を完成する。石刃は縦長な剥それぞれ用いられた。小形石のみ、石小刀、不 係に議論があり、意見は二つに分かれる。地質片であるが、それに対して横長な剥片を組織的定形石器も大いに利用された。弓矢を構えて ラス質の部分がはっきり区別できる場合、大き せとうち しかいのしし どうたく につくりだす瀬戸内技法も編み出される。石鹿、猪を猟する姿が銅鐸絵に描かれているよ な結品以外の部分を石基という。石基はマグマ学の成果を根拠に後期旧石器時代に対比される が地表に噴出するかまたは地表近くに貫入して地層 ( 更新世にあたる段丘地形や火山灰層 ) で刃、剥片類を加工してつくる石器類にナイフ形うに、打製、磨製の石鏃もかなりつくられた おもり さっきそうぎ 短時間のうちに冷えて固まったものである。マ発見される石器類に伴う磨製石器に対し、技術石器、切出し形石器、彫器、削器、掻器、台形し、漁網の錘もあり、狩猟、漁労もまったくな くなったわけではない。秋の稲の収穫時には鎌 グマが地下でゆっくり冷えて固まってできた火の変化と時代区分は対応しないとする扱い方石器がある。この石刃技術の発展した形とし いしばうちょう 〈千葉とき子〉と、日本の新石器時代は縄文時代および弥生時て、幅数ミリの細石刃づくりがおこる。組合せとして石包丁が使われる。特殊なものに、金 成岩には石基がない 中間像 ( 実像 ) 対眼レンズ 対物レンズ による像 対眼レンズ 0 やよい せきじん ゅうべっ へんべい くわすき せきすい
ひんし 」る経済の総体であり、諸国民経済間の単なる相易をますます縮小させ、脱出をいっそう困難に ばれ、日本でもよく知られている『赤旗の歌』侵入によって瀕死のローマ帝国をみながら『神 、互依存関係ではない。 の国』一三巻を書いた。この書の後半で彼は、 した。このような状況のなかで、世界経済にお The Red Flag など労働歌を多用し、西部の 各国の国民経済を相互に結合する要因は、商ける指導的地位は、これまでのイギリスから、 日雇い、出稼ぎ労働者を中心に激しいストライ人祖アダムとイプの楽園追放から、キリストの しよくギ、い 品、貨幣、資本、技術、労働力の国際的移動でしだいにアメリカへと移行する。 キ闘争やサポタージュ闘争を指導して、一二年降誕、贖罪によって人類の救いが完成するま せ あって、生産力の発展に伴って、必然的に国際 第二次大戦後、これまでの植民地体制は崩壊 には組織人員も一〇万に増えた。しかし組織づでの長い歴史を説いている。それは人類史とし 的経済関係を促進してきた。もちろん、国際的し、世界経済の構造も変化した。すなわち、世 くりを重視せず、また第一次世界大戦中の反戦て一貫した世界史の内面的意味である。人類の 経済関係は、歴史的には国際分業として発展し界経済は、資本主義と社会主義の両体制に大き闘争を理由に政府の弾圧を受け、そのうえ積極一体観、歴史の救済史的意味、全歴史の終局目 てきたのである。すなわち、各国民経済には、 く分裂し、両体制の対立・共存の時代に入っ分子の多くが共産党に移ったこともあって、戦的についての観念はキリスト教信仰に基づくも 気候・資源・風土などの自然的条件ならびに先た。資本主義世界体制のなかではアメリカが支後は急激に力を失い、三〇年以後は組織は名ばのである。歴史は神の摂理のもとに人間が自由 進国と発展途上国、帝国主義国と植民地・従属 配的地位を確立した。社会主義世界体制におい かりのものとなった。しかし不熟練労働者や黒意志でつくり、最終ゴールを目ざして時間的な 国といった社会的・経済的・政治的諸条件の相てはソ連が支配力を発揮し、新たに東ヨーロッ 人労働者の組織化に手をつけ、産業別組合主義発展を遂げるものという観念は、ヨーロッパの 違があり、それによって生まれる各国民経済間 、中国などの社会主義諸国も誕生して、「計を持ち込むなど、アメリカ労働組合運動の発展伝統的な歴史観になった。近代になるとその観 に大きな足跡を残した。 〈中林賢二郎〉 の生産力の格差によって国際分業、さらには国画経済」に基づく国際分業関係をもつようにな 念はさまざまに世俗化し変容する。世界史は人 際的な商品交換関係が生まれてきたのである。 せかいし地上のあらゆる民族、国類が先天的にもっている「完全可能性」を実現 った。さらに、かっての植民地・従属国の大部世界史 〔世界経済の発展〕世界経済の発展は、資本主分が独立を達成して第三世界を構成し、先進国家、社会、文化を取り込んだ人類全体の歴史。する過程だというカントの歴史哲学などはその 義の歴史的発展と不可分の関係にある。すなわと依存ないしは対抗関係をもつようになった。 しかし実際にそういう歴史が書かれたことはな 一例である。 ち、資本主義の発展に伴って商品生産と商品流 今日の世界経済は、先進国間の経済摩擦、先 。普通、各国史を集めた万国史や西洋史、東 一四世紀にイスラムの歴史家イプン・ハルド 通は国境を越えて拡大し、商品交換を主とする進国と発展途上国との経済格差 ( 南北問題 ) 、洋史という地域史を広げた広域史を世界史とい ゥーンは北アフリカの広大なイスラム文化圏の 国際的な経済関係が形成され、そしてさらに資産油発展途上国と非産油発展途上国との経済格うが、それは便法で、真の意味は、「 世界」に歴史『イバルの書』を書いた。それは世界史と 本主義が帝国主義の段階に入ると、商品の輸出差、資本主義諸国と社会主義諸国との経済競 ついての一定の観念が多国多地域を包括して統 いわれるが、その序説「ムカッディマ」で彼 と並んで資本の輸出が重要な意義をもつように争、社会主義諸国間の経済格差など、数多くの 一的に書いた歴史のことである。その観念によ は、王朝の系譜や年代記を書くのではなく、砂 なるのである。 問題を抱えている。これらの難問を、どのよう って記述は一様ではない。事実上はローマ支配 漠の諸部族が一様にたどる「遊牧、定住、王 ます、他国に先駆けて一九世紀初めに産業革にして克服し、世界経済を発展させていくか史であったり、ヨーロッパ文化成立史であった朝、滅亡」という歴史のパターンを示した。こ 命を達成したイギリスが、工業製品の輸出国と が、これからの課題である。↓国民経済↓国りした。しかし現実は、世界についての主体的れは一種の循環史観で、その方法は一つのパタ して、世界経済のなかで指導的地位を占めるよ際分業↓国際資本移動↓国際通貨問題↓東観念が客体の世界と一致する方向に進んでい ーンのもとに多文明の形態を比較する文明史観 うになった。ついで一九世紀中期には、フラン西貿易↓貿易↓南北問題 〈清水嘉治〉る。真の世界史はこれから書かれるだろう。 の先駆けといえる。 また世界史は、実際に書かれなくても、歴史 ス、ドイツ、アメリカなどでも産業革命が起こ回楊井克巳・石崎昭彦編「現代世界経済論』 一五、六世紀イタリア・ルネサンス期に人文 り、世界的規模で産業資本主義が確立した。そ ( 一九七三・東京大学出版会 ) ▽本下悦二著『現家が個々の事実を書くとき、それを配置し意味主義者は、あの栄光のローマが滅んだあと暗黒 れとともに、これら諸国による原料および海外 代資本主義の世界体制』 ( 一久一・岩波書店 ) づける全体観として歴史家の意識のなかにある時代に入って、いま「新生」の時代を迎えてい 市場獲得をめぐる競争が激化した。とくに一八 ▽游仲勲他著『南北問題をみる眼』 ( 有斐閣だけのこともある。なんの世界史観ももたぬ歴るという歴史意識をもっていた。そのため全歴 七〇年代から第一次世界大戦期 ( 一九一四 ~ 一 0 に 新書 ) ▽清水嘉治著『世界経済の新構図』史家はいない。いすれにせよ世界史は総合的な史を「生、死、再生」いう図式でとらえ、それ かけての資本主義Ⅱ帝国主義諸国による原料獲 ( 一九会・新評論 ) 歴史観にかかわるので、歴史学の対象以前に歴が「古代、中世、近代」という時代区分を生ん せかいれんばう せかいこっか 0 世界連邦 史哲学の対象である。 だ。一七世紀にドイツの歴史家ケラリウスがこ 得競争はすさまじいものがあった。その結果、世界国家 せかいさんぎよ 〔世界史の諸観念〕西洋では紀元前二世紀に最の三分法によって『世界史』を書いて以来、こ 資本主義Ⅱ帝国主義国家はほとんどすべての末世界産業別労働者組合 うべつろうどうしやくみあい lndustrial Workers 後のギリシア人ポリビオスが最初に『世界史』れが世界史叙述のヨーロッパ的スタイルになっ 開発地域に進出し、これらの地域を資本主義の of the World 略称一九〇五年にダ四〇巻 ( 初めの五巻のみ残存 ) を書いた。彼は 経済法則に巻き込み、資本主義的搾取の対象と た。しかしこの歴史観は、歴史の自然的推移を ニエル・デ・レオン、ウィリアム・ヘイウッド歴史を修辞的興味からではなく政治・国事の記 し、植民地・従属国化を進めた。 認めない非連続説で、中間の中世を否定して、 第一次大戦後、資本主義世界経済から、ソビ らにより組織されたアメリカ合衆国最初の産業述として書き、それを広い視野でみた。それは古代と近代が直結するという独特の見方で、ル エト・ロシアが社会主義国家建設を目ざして分別労働組合連合体。アメリカ労働総同盟現実には、ローマの強大な勢力が地中海世界国ネサンス・啓蒙史観のもとになったが、いまで =) の保守的指導に飽き足らない西部鉱山労働家にのし上がってゆく過程にほかならなかっ 離した。もちろん、世界経済の大勢は、依然と は中世研究によって破られている。 して資本主義体制を中心としたものであった。者連盟、統一金属労組など七団体五万人が、全た。その見地はギリシア人のポリス中心主義を 一八世紀の啓蒙思想家は伝統を断ち切って理 しかし、しだいに資本主義の衰退を示す徴候が労働者の産業別組織化、資本主義制度廃止を目超えてはいるが、ローマ覇権史以上のものでは性万能を唱え、地理的発見によってヨーロッパ 現れ始めるようになり、一九二九年にはつい 的とする革命的労働組合運動の確立を目ざしてない。またポリビオスは歴史を諸国家の興亡と外の世界を知った。ポルテールは、キリスト教 に、資本主義世界経済を根底から揺り動かした 結集したが、翌〇六年には西部鉱山労働者連盟みて、それは「王政、貴族政、民主政」の三政的ヨーロッパの遠心的拡大を説くボシュエ司教 が脱退、〇八年にはデ・レオン派が分裂して、体の変動の繰り返しであるという循環論ももっ 大恐慌が勃発した。資本主義諸国は、この大恐 の『世界史論』に反対して、アジアの諸民族・ 慌からの脱出を目ざして経済的国家主義および組織の指導権はアナルコ・サンジカリストが掌ていた。 諸宗教も同等に扱い「諸国民の習俗と精神のエ プロック主義を採用したが、それが逆に世界貿握した。組合員はウォ。フリーズ wobblies とよ 五世紀にアウグステイヌスは、ゲルマン人の ッセイ』を書いた。これは最初の文化史的世界 ばつばっ
た。初代会長山高しげり。結成の背景には議会 ( 全民労協 ) に加盟している。〈大野喜実〉占資本や政府に対して、自作農をも結集した闘 個別の領主の所領内に大名の支配を及ばすこと まんごくどおし 争を展開した。、 たが、この会派でも共産党系と のできる超越的な領有権を確立したことであ C ( 連合国最高司令部 ) 民生局の指導があり、 千石通せんごくどおし 0 万石通 ちぎよう 非共産党系との対立が激しくなっていった。全 る。その具体的な内容として、所領を知行とし労働組合婦人部を中心とする運動に対し、地域全国都市同盟ぜんこくとしどうめい Nation ・ たか al Urban League 全国黒人都市生活条件同農全会派本部は共産党系が握っていたが、相次 て認定する権限を大名が独占し、その土地の高ぐるみの婦人の組織化を企図して結成された。 ぐ検挙によって三三年ごろには壊滅状態とな を把握するために検地を行い、高に見合った軍会の主旨は、婦人の地位向上、青少年の健全育盟 National League on Urban Condition among Negroes の通称で、略称一九り、地方組織も相次いで総本部に復帰したの 役を知行人に課し、知行人間の争いを裁く法廷成、家庭生活・社会生活刷新、地域社会の福祉 とルールを確立し、決定の強制と抵抗の排除を増進、世界平和の確立、などの実現のために連一一年にニューヨーク黒人産業条件改善委員会で、三六年には全農の再統一がなった。しか し、三七年末の人民戦線事件で中心的活動家が と全国黒人女性保護連盟とを中核として結成さ 行うための武力として直臣団をつくりあげ、以絡協力を図ることにある。化粧品「ちふれ」に 上の諸規定を公にした分国法を定める、といっ代表される消費者の手による商品づくり運動、れた都市の黒人の生活向上を目ざした組織。黒大量に検挙されたため、自己解体の声明を出 し、三八年一月には大日本農民組合と日本農民 カラーテレビ買控え・値下げ運動、誇大広告反人と白人とで構成され、コロンビア大学の・ た事項をあげることができる。 あんど ・ < ・セリグマンが初代の会長となった。多連盟とに分解してその生命を終えた。 知行地は本領を安堵した場合と新恩地を宛対運動、核兵器完全禁止・被爆者援護運動、 第二次世界大戦後の一九四七年 ( 昭和二一 l) の大都市に支部が置かれ、新しく都市に住む 行った場合とで規制の程度が異なるが、前者方領土返還運動、売春対策など、多岐にわたるく ようになった黒人を職につかせたり、環境に適七月、日本農民組合の第二回大会で除名された も軍役を勤めなければ没収できる給地に変え、運動に取り組んで今日に至る。子供と母親のた り等一ぞう めの教材映画製作も手がける。全国の婦人組織応できるよう援助し、よりよい住宅、教育施平野カ三らが結成した農民組合。社会党右派の 検地による高把握の進展と相まって均質化し、 設、公共運動場、保健所の開設などを要求し農民組織としての性格をもち、五八年三月の全 知行替えを推し進め、家臣の土地との結び付き中最大の規模で、四七都道府県四市 ( 札幌、 日本農民組合連合会 ( 全日農 ) の結成にあたっ た。・・ワシントンの路線に沿い、もつば をなくしていくのである。しかし、家臣には大崎、横浜、神戸 ) の五一団体、約六〇〇万人が ふだい とギ ) ま ら政治活動を避け、黒人大衆の経済的福祉問題て全農もこれに参加したが、六〇年一月に社会 名との主従関係の由来によって、譜代、外様、加盟 ( 一九会 ) 。↓婦人運動↓婦人会〈布施晶子〉 くこしゅう 風衆など多様な身分があり、国衆のなかには回全国地域婦人団体連絡協議会編・刊「全地婦だけを取り上げるという運動方針をとった。そ党から民主社会党が独立すると、旧全農系の の活動は今日まで継続されている。〈竹中興慈〉人々は同年八月に全日農を脱退して全国農民同 連三〇年史』 ( 一九会 ) 前述のような大名の規制の及ばない独立的な所 〈似田貝香門〉 盟を結成した。↓農民組合 領を維持する者が多い。彼らの軍役は盟約的な全国電気通信労働組合ぜんこくでんきっ , っ全国農業協同組合中央会ぜんこくのうぎ せんごくしくん はんぶく よ , つきよ、つど , つくみあいちゅ , つおうかし しんろうどうくみあい略称全電通。組合員数約二 農業協同組戦国四君せんごくのしくん 0 戦国四君 関係に依存しているために、不安定で叛服常な せんごくしちゅう ぜんていしん 戦国七雄せんごくのしちゅう 0 戦国七雄 く、戦国動乱を長引かせる一因となった。した七万六七〇〇人 ( 一九八五 ) 。全逓信従業員組合を合の全国的な総合指導機関。↓農業協同組合 仙石原せんごくはら「せんごくばら」とも がって戦国大名の施策の実行面は割り引いて考母体に、一九五〇年 ( 昭和二五 ) 一〇月八日、 全国農業協同組合連合会ぜんこくのうぎ あしがらしも ようきようどうくみあいれんごうかい 農業協同組合 いう。神奈川県足柄下郡箱根町の北部にある草 えなければならないが、彼らは領国の主要部分逓信省が郵政省と電気通信省に分割されるに伴 ・ーれがい 原。金時山 ( 三三 ) を中心とする箱根火山の 、全国電気通信従業員組合として結成され、の全国段階の連合組織。↓農業協同組合 においては、治水灌漑、鉱山開発、市や交通規 ぜんこくのうみんくみあい全古期外輪山と中央火口止小塚山 ( 会三 ) 、台ケ 制などの施策でかなりの成果をあげて、かって五二年七月、日本電信電話公社移行直前、現在全国農民組合 さんろく 岳 ( 一 0 五四 ) の山麓との間に広がる火口原で、 ない生産力の掌握に成功し、それが大規模な築の全電通に改称、八五年四月、公社から日本電農と略称する。 よりとも ①日本農民組合 ( 日農 ) は、一九二七年 ( 昭和標高六五〇 ~ 七〇〇。源頼朝がこの雄大な原 城や鉄砲隊の編成などの軍備増強を可能にした信電話株式会社に移行したことにより、民間労 (l) 二月の第二次分裂によって、日農と全日本野を眺めて「ここを開墾すれば千石の米がとれ のである。そして検地と知行替えに加えて、家組として再発足した。六二年に国際電信電話労 臣の大名城下への集住が強まり、兵農分離の条働組合 ( 国際電電労組 ) 、全国通信建設労働組農民組合 ( 全日農。一九二七年三月結成 ) に分るであろう」といったというのが地名のおこり かれたが、翌二八年五月に両者がふたたび合同といわれる。山の箱根としては珍しくススキの 件が生まれてきたことも否定できない。それゆ合 ( 全国通建 ) 、全国電気通信共済会労働組合 して全国農民組合を結成した。この合同は「左草原が続き、芦ノ湖から流れ出る早川沿いの一 え戦国大名を近世的な権力の先駆けとみる見方 ( 電済労 ) 、全国電話印刷労働組合 ( 全電印 ) と もあるが、他方、検地によっても直接生産者を電気通信情報産業労働組合連合 ( 電通労連 ) を翼合同」とよばれ、「政党支持自由の原則」の部には湿原が残っている。湿原にはムラサキハ ナショウブをはじめ、チゴザサ、カキラン、ミ もとで結成されたものである。 把握するに至らないところから、中世権力の最結成、日本労働組合総評議会 ( 総評 ) に加盟し その後一九三〇年には昭和恐慌が起こり、農ズチドリ、カセンソウ、モウセンゴケ、ミズゴ 後の段階であるとする見解も有力である。↓戦ている。五七年に公社との間に「合理化の進展 〈村田修三〉 に伴う労働条件等に関する基本的了解事項」を民生活は悪化し、農民運動は激しくなっていっケなどの湿草が茂り「仙石原湿原植物群落」の 国時代 回藤木久志著『戦国社会史論』 ( 一九七四・東京大締結して事前協議制を確立した。公共企業体等た。ところが、全農内部にはふたたび厳しい対名で国の天然記念物に指定されている。また、 労働組合協議会 ( 公労協 ) の「合理化」反対闘立が引き起こされた。三一年八月に旧日農系のオオジシギ、ホオアカ、ヨシなどの野鳥類も多 学出版会 ) ▽永原慶二著『日本の歴史 戦国の動乱』 ( 一九七五・小学館 ) ▽永原慶二他争では先駆的役割を果たした。組合員教育で左派は、独自の行動綱領、運動方針、指導部をく、きれいなミドリシジミもみられる。 へいたん 仙石原の緩い傾斜地や平坦地は、現在ゴルフ もつ「全農改革労農政党支持強制反対全国会 ・吉川弘文館 ) ▽有光も、六九年には組合学校「団結の家」を建設し 編『戦国時代』 ( 一九天 ている。七〇年代後半に入って、全電通は賃金議」を結成するための全国代表者会議を開催し場に開かれ、スケート場、キャンプ場が設けら 友学編『戦国権力と地域社会』 ( 一九会・吉川 もとじろう 弘文館 ) ▽永原慶二監修『戦国大名論集』闘争と物価闘争を重視する運動を進め、公労協た。これに対し、全農の総本部は杉山元治郎をれ、台ヶ岳、小塚山の斜面とあわせて団体や企 への結集というよりは、情報通信問題をめぐっ中心として旧全日農系がイニシアテイプをとっ業の寮や保養所、別荘が多く、箱根では休養施 六・吉川弘文館 ) 全一八巻 ( 一九〈三 ~ 八 て関連民間労組との提携を強め、国際自由労連ており、地方下部組織を握っていた左派と対立設の最多地区となっている。また、ここは箱根 全国地域婦人団体連絡協議会ぜんこく うす ちいきふじんだんたいれんらくきようぎかい略称全地加盟を指向し、国際郵便電信電した。ここに全農は、総本部派と全国会議派を過ぎる最古の東海道の碓氷路にあたり、江戸 おとめ ごてんば ん婦連。通称地婦連。地域婦人団体の連絡協議機話労連加盟。また、民間労組とし ( 全農全会派 ) とにふたたび分裂した。全農全時代には乙女峠越によって御殿場に通じる裏街 せ関として一九五二年 ( 昭和二七 ) に結成されて公労協を離れたのち、全日本民間労働組合協会派は、小作人組合的農民運動から前進し、独道の要地で、北の知倉 ( 矢倉沢往還 ) 、根府 おこな あて きんとき あし
せいでん 連続面に発生する波 ( ケルビンーヘルム ホルツ波 Kelvin-HeImholt wave の略 ) によ るとされている。この研究は、レーダーにより 探知が可能になってから大きく進歩した。図 << はその例でー波は数分で不安定になってい 例 る。イギリスのプローニング K. A. Brown- ing は、微弱なー波エコーが航空機からの 強い反射で乱されないようにするために、 例 波動を探知するドップラー・レーダー Dop- 導 て の 誘 pler radar と、気象観測機を誘導するレーダ 布 電 分 ーのビームをずらせて同時測定する技術を開発 静 4 充 した。その例が図で、上段には、波線の高さ レ を飛行したときの温度、中段には境界面の波動 を 静電誘導せいでんゅうどう静電感応ともい と す う。導体を電荷または帯電した物体に近づけるの状況、下段には鉛直流が示され、波動の状況 度 と、導体の電荷に近い側には電荷と反対符号のがよくわかり、乱気流は波動の近くで発生して 日皿 よ る 電荷が現れ、導体の電荷から遠い側には電荷と いる。ー波は波長が短いときに不安定にな の 近 同符号の電荷が現れる現象をいう。別の言い方り、しかもこのような波長はジェット機への影 付 をすれば、導体を電界の中に置いたとき、導体響が大きい。強い晴天乱気流は不安定化した波 定 動 上の電荷が移動して導体全体がふたたび等電位の近くにおこることはほば確実である。 安 と 不 となる現象である。図は、点電荷のそばに導体〔予報と探知〕一九七七年のヨーロッパでの調 の 動 球を置いたときの静電誘導の結果生する電界を査では、面積が一〇〇平方キ。メートル、高さが 波 波時 示す。静電誘導は、同種の電荷は反発し、異種三〇〇の体積内を通過した航空機が強い晴天 の電荷は引き合うという性質からおこる。この乱気流に遭遇したのは、領域全体の平均では乱 0 1 ー 天 十 意味で、静電誘導は誘電体におこる分極現象と一・七 % 、晴天乱気流の予報されている領域で 図 温度 ( ℃ ) 晴脳 高度 ( ) 鉛直流 ( ) 同じ性質のものである。しかし、導体の場合、 は二・七 % であった。この値は統計的には有意 電荷は導体上を自由に動くことができるので、 匪はあるが、このままでは実用になりにく、 などを含めて多くの要素を記録しており、晴天中、江南と匹敵する力をもち、三国時代には りゅうびしよかっこうめい 図の 3 のように、初め二つの導体を接触させてもっとも望まれているのは、航空機に搭載でき 乱気流の状況とそのときの気象条件との解明が 劉備が諸葛孔明とともにここに蜀漢を建て魏、 とう ていりつ よ・つしゅう 静電誘導をおこさせておき、その状態で二つのる探知器の開発で、いままで種々のものが試み容易になった。また、晴天乱気流は地形の影響呉と鼎立し、唐代には揚州に次いで天下第二 導体を切り離すと、⑩のように各導体は反対符られてきたが、いまだ実用化されていない。現のないところでも発生するが、山越え気流の効の都会と称された。唐の安史の乱に際しても、 号の電荷を帯電するようになる。〈山口重雄〉在、探知することのできるのは高出力、高感度果が重なると強い状況が生じることがある。↓ 玄宗は成都に逃れ南京と称した。詩人杜前が四 〈中山章〉年余りを過ごし名作を残したのはこのときであ 静電容量せいでんようりよう 0 キャパシタで、波長の長い基地レーダーであるが、これは航空気象 しせん ンス 商業航空機には搭載できないものである。 成都せいと / チョントウー中国、四川省のる。そののちも安定した状態で繁栄を続け、四 晴天乱気流により、アメリカの爆撃機ポーイ省都。一九八三年には隣接する温江地区を併合 川のみならず西南中国全体の中心であった。明 晴天乱気流せいてんらんきりゅう雲のない ときに高高度の上空でみられる乱気流。キャッ ングーの尾翼が引き裂かれたり、操縦不能 し、市域に一二の県を含む。人口八五四万 ( う代には皇族である蜀王のために皇城が築かれた ト ()< 、 clear air turbulence の略 ) とも になって二〇〇〇以上も落ちたこともある。 ち市区二五四万、一九〈四 ) 。人口や工業生産量でが、この地区は今日でも市街の中心になってい じゅうけい いう。航空機のプロペラ機時代には飛行高度が このような例は珍しいことであるが、ときに は省東部の重慶のほうが大きいが、良好な自る。民国時代の一九三〇年成都市となり、その 低かったので、積乱雲による乱気流に悩まされは、機内の乗客が突然の乱気流でけがをするこ 然条件のうえに古い歴史と文化をもち、省の中後周囲の郊区を編入して今日に至る。 びんこう た。当時は雲のない高空を飛べば乱気流はない とがある。晴天乱気流は、風と気温の不連続の 心となっている。四川盆地の西端、岷江のつく 解放後、市街地は省都にふさわしく再開発が と考えられていたが、ジェット機が就航してみ大きいジェット前線や圏界面におこりやすく る扇状地の扇端に位置し、豊かな水量と温暖な 進められ、広大な街路やビルが建設され面目を ると、雲のない高空でも乱気流に遭遇したの飛行中にこれらの領域を知ることは有効であ気候 ( 年平均気温一六・七度 0 、年降水量九九一新している。郊区では工業開発が進み、軽工 で、これを晴天乱気流とよんだ。山岳波や地表る。晴天乱気流の寿命は数分間で、その広がり しに恵まれ、早くから農業開発が進み、す業中心から重工業へ重点が移りつつある。また しよく せんしん 層付近の気流の乱れによる乱気流は晴天時でも は約一〇キ。メートル、厚さは数百のことが多でに先秦時代より蜀国が形成され四川盆地開発西南地方の交通中心として鉄道や航空の路線が 晴天乱気流とはいわす、対流圏上部から成層圏 。このことから、晴天乱気流の現象がラジオの拠点となっていた。秦はこれを滅ばし、その集中しているが、成都空港は一九八四年より国 ちゅうげん 下部に発生するものをいうのが普通である。 ゾンデ観測にとらえられることはまれで、いま資力をもとに中原へ進出したといわれる。四際空港となり、その機能をいっそう高めた。 〔成因〕晴天乱気流はジェット気流付近におこ までは特別な研究による方法しかなかったが、 川盆地の独特の政治地理的性格と、米を中心と 市内には、三国時代にまつわる武侯祠などの しよくきん りやすい。弱い晴天乱気流は気流が乱れていれ最近の大型ジェット機は、一秒またはそれ以下する農業に加え、岡錦とよばれた絹織物など遺跡のほか、五代前王の王建の墓、杜甫草堂 かんけん ばおこるが、強いものは、大気の密度と風の不の時間間隔で気温、風、航空機の受けた加速度の豊富な手工業生産により、この地は中原、関などの観光地がある。また、西郊灌県にある都 十 十十 十 十 十 十 十 十 ← 0 時問 1 2 : 43 1 2 : 53 1 2 : 58 時問 1 9 : 1 2 こく弱 弱 / 並並並 0 △ レーダーからの水平距離 (km) 396
は大西洋、東は北海に臨み、南はトウウィード 一年ロス海から上陸、同年一一月 辟を図った反乱の史実を背景にした歴史小説 7 と 川とチェビオット丘陵を境界としてイングラン 四人の隊員とともに南極点目ざし で、世の好評を得た。これに自信を得た作者 っ は、以後死ぬまでに合計二七編の長編小説を書 一上橋館て出発した。言語に絶する辛苦のドと隣接する。地形的にはハイランド、グラン 高 ) 以 ( 物すえ、一二年一月一八日ついに南ビアン山脈、中央低地、サザン・アップランズ き、それらは第一作の題をとって「ウェーバリ もれ当博 す 英極点に到達したが、すでに約四週に分かれる。氷食地形が発達し、氷河湖が多 最 づ = ロ群」の総称でよばれている。全部が歴史 の ぬか 、西岸にはフィヨルド海岸が多くみられる。 間前ノルウェー人アムンゼンが到 ト説といってよく、多くはスコットランドに材 ン える 日 守 北部にシェトランド諸島、オークニー諸島、ヘ 達した跡が残されていた。先陣争 耐す を求めているが、代表作とされる『ラマムアの 右でも阯ン プリディーズ諸島がある。 いに敗れ、失意の一行は、帰途悪 ア ロ 花嫁』 ( 天一九。オペラ『ルチア』の原作 ) 、『 ま気 気候は、暖かい北大西洋海流の影響を受ける 年 - 天候と食糧不足に悩まされ、三月 イバンホー』 ( 天一九 ) 、『ケニルワースの城』 ( 天 最念る 引は残 末全員凍死した。同年末、捜索隊ため西岸海洋性気候となる。北西部のフォー れ 二 ) は純然たるイングランドの歴史に材をとっ て わ れ ト・ウィリアムの月平均気温は最低の一月が四 により彼らの遺体やスコットの日 た。この最後の作ではエリザベス一世と女王を れ わ 〈松村赳〉度 0 、最高の六月が一五度 0 である。内陸部の コわ , 綴記が発見された。 取り巻く人々が活躍する。ほかに中世の十字軍 ス遠よが ・ガラード著、加納一山地は偏西風にさらされ、主要な低気圧の経路 に材をとった『護符』 ( 天一一五 ) も異色作である。 , 一を 0 一う神境回チリー 中「そ心 となっているため、年間を通じて低温多湿であ 郎訳『世界最悪の旅』 ( 『世界ノ 詩、小説を通じて、古い時代の武勇と恋愛の物 探で期にす る : ヘン・ネビス山の年降水量は四五七〇、、リ ンフィクション全集 1 』所収・ 語を中心とし、史実にはかならずしも拘泥せ 極の最後と も達する。そのため土壌の溶脱、酸性化が著し 翠 . 南も , 最う 一九六 0 ・筑摩書房 ) ず、とくに小説では時代物的場面と世話物的場 医墳トえスコット Cyril Meir Scott く、作物の生育期間が限られるので、オート 面とを巧みに織り交ぜて、複雑な変化に富んだ さてッ迎 ( 一七九ー一九七 0) イギリスの作曲麦、大麦、ジャガイモなどの作物が卓越する。 筋を展開するのが彼の独特な作風であり、それ きコを , 」、 , 家一ビア = = ト、思想家。一一一歳また、西岸 0 グリーノ「クでは年降水量一五七 がまた彼の魅力でもあって、フランスなどでも っコ「つ 0 るのときからフランクフルトとリバ 三 = 、リであるが、東岸のエジンバラでは六九五リ 八三二年九月二一日没。↓ 広く愛読された。一 . 月衰いめ P LL 3 はな プールで音楽を学び、一九〇〇年と、東へ向かうほど降水量は減少し、日照時間 〈朱牟田夏雄〉 アイバンホー↓湖上の美人 は逆に多くなる傾向がある。 には『英雄組曲』『第一交響曲』 回朱牟田夏雄訳『世界文学全集 6 ケニルワー ひょく 幅八〇キロの地溝帯をなす中央低地は、肥沃な が初演される。作曲家としての名声は二五年の スの城』 ( 一九七 0 ・集英社 ) ▽大和資雄著『スげて紙面内容の向上に努め、左派自由党系の独 土壌と、ファイフ、ミッドロージアン、エアシ 自の論調を展開して、純地方紙でありながら全オペラ『錬金術師』によって頂点を極めるが、 コット』 ( 一九五五・研究社出版 ) ャー ( 各旧県 ) などの炭田、さらにクライド湾 それは長続きしなかった。著作には音楽関係の 国から注目される新聞にまで育て上げた。一 スコット Sir George Gilbert Scott ほか医学、オカルティズム、詩作、自伝などがのような天然の良港に恵まれ、早くから交通の ( 天二ー七 0 イギリスの建築家。バッキンガム九五 ~ 一九〇五年自由党下院議員として活動し 〈細川周平〉要衝として栄え、大都市が発達し、造船、機 含まれている。 シャーのゴーコット生まれ。ビクトリア朝の代たが、二九年には経営者の地位を子に譲って引 械、化学、製紙などの工業が集積してきた。セ 〈伊藤慎一〉 スコット Renata Scotto ( 一九三三ー 表的なゴシック・リバイバリストで、一八四四退した。 ントラル・クライドサイド・コナベーション イタリアのソプラノ歌手。サポーナ生まれ。一 年、ハンプルクのザンクト・ニコラス教会の設スコット Duncan Campbell Scott ( 天 ー一九四七 ) カナダの詩人。長く政府のインデ九五三年ミラノでデビュー、同年スカラ座と契 ( グラスゴーを中心とする連接都市域 ) は、面 計競技に一四世紀のドイツ・ゴシックのデザイ六一一 積ではスコットランドの約一 % を占めるにすぎ ィアン行政に携わった。初期イギリス系カナダ約し、五七年マリア・カラスの代役としてペッ ンによって当選し、国際的な名声を獲得した。 リーニの『夢遊病の女』のアミーナを歌い、高ないが、三五 % の人口をもつ。ハイランドはス ィリイ大聖堂やウエストミンスター寺院をはじを代表する詩人で、洗練された西欧的教養と コッチ・ウイスキーの特産で有名である。また めとする多数の大聖堂、教区寺院の修復も手が荒々しいカナダの原始との対立相克が、その作く評価された。以来、ドニゼッティ、ブッチー とうしょ 北西高地と島嶼部は人口希薄地帯で、人口流出 品に美しく結晶している。とくに詩集『新世界ニ、・ヘルディ、グノーなどのオペラの主役を世 けた。宗教建築以外の作例に、ロンドンのセン が続いている。放牧地は共有であるが、可耕地 ト・バンクラス駅およびホテル ( 天 ~ 釡設計 ) や叙情詩とバラッド』 ( 一九 0 五 ) のなかの「捨てら界の主要歌劇場で歌っている。コロラトウー ラ・ソプラノとして出発しながら、リリックやは分割されてクロフターとよばれる小作人や小 アルバート・メモリアル ( 天六三 ~ 七一 D などがあれた人」は、インディアンの棄老習俗に基づく ならやまぶし ちんうつ 農が自給的農業を営む。海岸地帯ではこのよう げられる。著書に『個人的、専門的回想録』沈鬱にして鮮烈な詩編で、わが国の「棆山節ドラマチックなソプラノの役を、よどみのない 、一う なクロフト制度に基づいた農業と、漁業によっ ベル・カント唱法と結び付けて歌い、レバート 〈谷田博幸〉考』とも呼応する。ほかに『労働と天使』 ( 天 ( 天七九 ) がある。 て生計がたてられてきた。ローモンド湖北西に リーも広い 九 0 など一〇冊に近い詩集や二つの短編小説集 スコット Charles Prestwich Scott 〈平野敬一〉 一九六七年 ( 昭和四一 l) が招いたイタある多雨地域 ( 年降水量二六七〇 = しではグレ などがある。 四六ー一九三一 l) イギリスの新聞人。サマーセット ン・シーラ開発計画に基づき、ファイン湾上流 リア歌劇団に参加して初来日、ドニゼッティの スコット Robert Falcon Scott ( 一会〈 シャーに生まれ、オックスフォード大学を卒 にあるクラッチャン発電所が一九五五年に完成 八二年海「ルチア』の主役で絶賛を博した。〈美山良夫〉 業。記者修業ののち、一八七二年、いとこの所イギリスの南極探検家。一、 有する『マンチェスター・ガーディアン』 ( 一軍に入り、一九〇一 ~ 〇四年、王立地理学会なスコットランド Scotland イギリスをし、アルミニウム製錬工業が立地するようにな った。最北端の町サーソーから西へ一二キ。のダ どの協賛によりディスカバリー号を指揮して南構成する連合王国の一つ。グレート・プリテン 八二一年創刊、五五年から日刊、一九五九年か ウンレーには原子力発電所がある。また、フォ 島の北部を占める。面積七万八七六二平方キ。 らガーディアンと改称 ) の編集長となり、一九極を探検、エドワード七世ランドを発見した。 ート・ウィリアム近郊のコー 〇五年その所有者となった。彼は「注釈は自由功により帰国後海軍大佐に任ぜられた。一〇年人口五一一万七一四六首都エジンバ ラと経済的中心グラスゴーが二大都市。北と西プ・製紙工場が誘致された。このように、伝統 だが、事実は神聖である」というモットーを掲テラ・ノバ号による第二次南極探検に赴き、一 へき
すみだが 橋橋橋橋れ 大橋 妻形橋前国大洲田代生大鬨さ 名住鬚橋 厩蔵両新清隅永相佃勝平 橋千 川の下流となった。荒川はその名のとおり毎年 三・五キ。。しかし、一般には鐘ケ淵の屈曲部よ はんらん り下流を隅田川とよぶことが多い。隅田川はのように氾濫する川であったので、岩淵 ( 北 区 ) から延長一一一キ。、平均幅五〇〇の人工河覧 「澄んだ川」の意といわれ、住田川、墨田川 そめだ すだ 角田川とも書いた。また、須田川染田川など 川を一九一一年 ( 明治四四 ) から三〇年 ( 昭和橋泉 ーくすいちょう - 一う 五 ) までかけて工事し完成させた。この水路は ともいわれ、墨水、澄江の別称もある。なお、 せんじゅ 荒川放水路とよばれ、荒川と公称されるにつ 千住付近では千住川、浅草付近では浅草川とい にれ、隅田川はその支流として取り扱われるよう 、それより下流が大川とよばれ、江戸市民 ~ くてい もっとも親しまれた。両岸は墨堤とよばれ、下になった。 いわっき おおかわばた 都 6 流は大川端とよばれた。隅田川の右岸は北、荒〔沿岸の景観〕北区岩淵は、かって岩槻街道 おなりみち しゆくえき たいとう 、台東、中央の各区、左岸は埼玉県川口市お ( 日光御成道 ) の宿駅として栄えた所。ここか む - 」う あだちすみだこうとう 変容した。台東区の浅草、対岸の墨田区の向千住大橋以南の一六の橋を十六橋とよび、親し ら下流は、水運の便と地価の安い土地であるこ よび足立、墨田、江東の各区となっている。な まれている。千住大橋はもっとも早く架けられ お隅田川を「江」と称し、川の以東を江東区、とから近代工業の地域として利用され、化学、島は、江戸情緒をよく残す所で、両区にまたが しらひげ まっちゃましようてん た橋で一五九四年 ( 文禄三 ) 開設、白鬚橋は律 また江東地域と称している。墨田区は隅田川か金属、油脂、食品などの工場が沿岸に立地してって隅田公園があり、前者は待乳山聖天と吉 ちよき さんや いる。荒川区尾久付近の隅田川は直線コース原へ通う猪牙舟の通った山谷堀、後者は墨堤の動的なアーチ形の橋、 X 形の桜橋は一九八五年 らつけられた区名。 もち、一と ちょうめい とね ′、りはーし 〔歴史〕近世の初め、利根川は栗橋 ( 埼玉県 ) で、ポート場としてよく利用された。ここから桜と隅田川七福神巡りと、長命寺の桜餅や言 ( 昭和六〇 ) 架橋の最新橋、言問橋は直線の美 あづま といだんご しようないふる ごんげんどう しさで知られ、吾妻橋はもとは大川橋とよば 問団子で知られる。また、向島百花園はとくに 付近から権現堂川、庄内古川、江戸川を通っ南に曲流した所が足立区千住で、日光 ( 奥州 ) くらまえ 秋の風情で親しまれている。台東区蔵前は幕府れ、「竹町の渡し」に架けられ、橋の下から橋 街道筋に千住大橋が架かっている。南岸が荒川 て流れていたと考えられているが、その分流と こまがた こめくら すもう ふる 古利根川を経、元荒川、綾瀬川を区南千住、北岸が足立区北千住橋戸町、その両の米蔵が建ち並んだ所、その対岸は相撲と花火巡りの水上バスが出る。駒形橋は、なで肩の優 して浅間川、 りよう′」く あわせてから古隅田川を通って隅田川へ流れて方にまたがって日光街道第一番目の宿として千の両国。これより下流は中央区と江東区で河しい曲線を描き、厩橋は三つのアーチを連ね、 つつみどおり 蔵前橋は両国橋とともに橋柱が上に出ていない いた。その点で、かって隅田川は利根川の下流住宿が設けられた。鐘ケ淵 ( 現墨田区堤通一一一港として倉庫群が目だっ。浜町 ( 現中央区新川 しんおおはし であったともいわれている。徳川家康入府後、丁目 ) に一八八九年 ( 明治一一一 I) 立地した紡績一丁目 ) の料亭街と深川の中心地を過ぎれば河スマートさを誇り、新大橋は中央に大鉄柱が立 きょす つくだ 工場は、地名をとって鐘ケ淵紡績 ( 現力ネボロ部で、佃島、石川島の二つの川中州と、外人ち直線的幾何学模様をみせる。清洲橋は曲線の 江戸を洪水から守るため、利根川の川筋は東へ つきじ 美しさで隅田川第一の美橋といわれ、隅田川大 付け替えさせられた。それに伴って、荒川は一兀ウ ) と名づけられた。その旧工場跡一帯は、江居留地であった築地がある。 えいたい じゅうろくきよう いるま 〔隅田川十六橋〕隅田川に架かる橋のうち、橋は高速道路と遊歩道が二階建てで、永代橋は 荒川から入間川へと付け替えされ、隅田川が荒東地域の再開発事業の一環として高層住宅街に ・・一驫ま宿 一ツを あやせ 隅田川永代橋付近上空より上流を俯瞰する。手前より永代橋 , 隅田川 大橋 ( 首都高速 9 号線と 2 階建て ) , 清洲橋 , 新大橋 , 首都高速 6 ・ 7 号線 , 両国橋 , 国鉄総武本線の鉄橋などが望見される 長さ (m) 現在の橋の完成年最初の架橋年 1594 ( 文禄 3 ) 1927 ( 昭和 2 ) 1914 ( 大正 3 ノ , 霈瀧 iiii 研緜、① 91 . 7 1931 ( 昭和 6 ) 168 . 8 1985 ( 昭和 60 ) 169 . 5 東武線 1928 ( 昭和 3 ) 236.8 1931 ( 昭和 6 ) 1774 ( 安永 3 ) 150 . 1 1927 ( 和 2 ) 146 . 3 1874 ( 明治 7 ) 1929 ( 昭和 4 ) 151 . 4 東電蔵前橋 総武本線 1927 ( 昭和 2 ) 173 . 4 1659 ( 万治 2 ) 1693 ( 元禄 6 ) 1932 ( 昭和 7 ) 164.5 1976 ( 昭和 51 ) 170.0 1928 ( 昭和 3 ) 186 . 2 首都高速 うまや 1979 ( 昭和 54 ) 1926 ( 大正 15 ) 1926 ( 大正 15 ) 1964 ( 昭和 39 ) 1940 ( 昭和 15 ) 1698 ( 元禄 11 ) 1903 ( 明治 36 ) 184.7 146 . 6 576.3 246 . 0 190
せしん 貨幣を鋳造した鋳銭場があったと伝 セスジムシ〔背条虫〕昆虫綱甲虫目セス囮二万五千分の一地形図「瀬田」 そうりゅうぎ えられる。↓加茂 ( 町 ) せせっしんご中国、南朝宋の劉義 5 ジムシ科 Rhysodidae に属する昆虫の総称。世説新語 十 2 ごかん ーーぶんか Ses ・世界各地の森林地帯に分布し、およそ二〇〇種勝 ( 四 0 三ー四四四 ) が著した逸話集。後漢末から東 セスクロ文化 しん klo ヨーロッパの新石器 ( 農耕 ) 文ほどが知られ、日本からは一〇種記録されてい 晋までの人物の言行や逸話を、徳行、一一一口語など 鎌 化の一つ。紀元前五千年紀ごろギリ る。小さく細形の堅い甲虫で、頭胸背面には深 三六のテーマに分類し、集録している。この書 色 シア北部を中心に広まった。大麦、 い縦溝があり、上ばねにも条溝か強い点刻列か は、初め単に「世説』とよばれていた。その後 造寺 じゅず 木福果樹、野菜を栽培し、ウシ、ヒッある。触角は短く数珠状。色は赤褐から黒褐『世説新書』と改題され、唐代からは現在の名 作 ジ、ヤギ、。フタなどを飼育した。石色、光沢がある。成虫も幼虫も朽ち木にすみ、称も使われるようになり、宋代以後定着した。 うす きね 慶良 運奈臼、石杵を使用し、女性の立像や座動作は鈍い。日本で多いのはトビイロセスジム人物の一一 = ロ行や逸話を事実として記録しようとし 像の土偶がつくられた。この文化の シ R をき s co 、ミ s とホソセスジムシ ) 、ミミミ 0 ・ ている点で、史書の性格も帯びているが、人物 像宝 彫国もっとも特徴的なものに、白い化粧きをミで、いすれも朽ち木の皮下にみの個性を表現するために、結果的にはかなり意 親 塗り ( スリップ ) の上に赤い彩文をられるが、他の種は少ない。 〈中根猛彦〉図的なフィクションが混じっており、明らかに 世 施した土器があげられる。文様は幾セスジュスリカ〔背条揺蚊〕 C ミきき , 史実に反する話も多い。しかし簡潔な短文形式 そうし き、 s s 三きミ s ミ昆虫綱双翅目糸角亜目カ群で示される個性の断面には、それぞれに貴族社 世親せしん四〇〇 ~ 四八〇年ごろ ( また何学的で、しばしば山形文が描かれる。器形 つきわん は三二〇 ~ 四〇〇年ごろ ) の中期仏教の大学は、皿、坏、坑などがある。住居にメガロン式ュスリカ科に属する昆虫。体長約五・五ミリ、翅会の風俗や価値観がうかがわれ、全体として魏 てんしん 、一うふん しん 者。原名はバスパンドウ Vasubandhu 。天親のプランをしたものがある。セスクロ文化は、長約四リ。体は帯緑色。ロ吻は短小。 触角は雄晋の時代相をやかに映し出している。また当 とも訳す。当時インドの北西部ガンダーラのペ ューゴスラビアのスタルチェポ文化の一分枝、では長羽毛状となる。胸部背面には褐色の小字時のロ語なども用いられているため、一一一一口語資料 はんもん 脚は細長としても重視されている。 シャワルの出身。部派仏教のうちで最大の学派先セスクロ文化から発展したものである。↓ス形の斑紋がある。はねは透明で細い。 せついっさいうぶ ふせつ タルチェポ文化↓新石器時代 〈鈴木忠司〉 く、とくに前脚では附節の各節が長い。腹部は であり保守派を代表した説一切有部と、同系か なおこの書の理解に欠かせないのは、南朝 きようりよ - っ りよう 細長く、各節中央には褐色の輪紋があり、この梁の劉孝標 ( 四六一一ー五一二 ) の注である。劉孝標 ら分派した経量部とに学び、それらを名著セスジアカムネグモ〔背条赤胸蜘蛛〕 あびだつまくしゃ 『阿毘達磨倶舎論』 ( 『倶舎論』と略称 ) に一小 U 、ミミ守 s 斗 s 節足動物門クモ形輪紋は後方の節のものほど前後に長くなる。幼の注は、語釈は少なく、他の文献によって、本 す。この書は、部派仏教の中心になる諸思想綱真正クモ目サラグモ科に属するクモ。体長一一一虫は赤色でアカボウフラともよばれ、有機物の文を補足したり、あるいは事実に反しているこ ( 仏教哲学や世界観など ) を実に手際よくまと リぐらいで、頭胸部は赤褐色、腹部は灰色で中多い水域に発生する。従来はヨーロッパ産と同とを例一小しつつ、『世説新語』の世界をより立 たてすじ めた仏教のもっとも基本的な綱要書であり、イ央に淡色の縦条がある。雄の眼域の後方に、前種と考えられ C. dorsalis の学名が用いられて体化している。本文に劣らぬ貴重な資料群であ 〈成瀬哲生〉 いたが、近年、日本産は別種として取り扱われる。 ンド、中国、日本で広く読まれて今日に至る。方に向かった三角形の突起がある。水田や草 むじゃく 中国古典文学大系 9 世説新 間、地表に小さいシート網を張るが、むしろ徘るようになった。本州、四国、九州に分布す回森三樹三郎訳『 のち兄のアサンガ Asafiga ( 無著 ) に誘われて る。 〈伊藤修四郎〉 大乗仏教に転向すると、マイトレーヤ Maitre- 語・顔氏家訓』 ( 一九六九・平凡社 ) ▽目加田誠 徊性的な行動をとり、イネの株間などにいてイ みろく ya ( 弥勒 ) からアサンガに受け継がれて確立 訳注『新釈漢文大系祐爲 世説新語』 ( 一九 ネの害虫であるウンカやヨコバイを盛んに捕食セスト・サン・ジョバンニ SestoSan ゆいしき 七五 ~ 天・明治書院 ) ▽竹田晃訳注『中国の した唯識思想を、世親は『唯識二十論』と『唯するので、天敵として重要視されている。一年 Giovanni イタリア北西部、ロンバルディア じゅ に何世代か繰り返す。日本全土に広く分布す 州ミラノ県の都市。人口九万五八三三 ( 一九ハ l) 。 古典幻 世説新語』 ( 一九会・学習研究社 ) 識三十頌』とに結集した。唯識は略言すれば、 ▽井波律子著『中国人の機智ーーー「世説新 純粋な精神作用に、対象を含むいっさいのありる。本種に似たニセアカムネグモ 0 ミ、ぎき斗 ミラノの北東九キ。、ラン。フロ川右岸に位置す 」を中、いとして』 ( 中公新書 ) ~ ミ、 ~ 、 s も、水田で生活し、害虫を捕食る。従来小さな農村であったが、二〇世紀初め 方を包括し、それまでの唯心論をさらに明確に おうみ ^ 八木沼健夫〉 組織的に示す。なお唯識はヨーガの実践に支えする。 にプレダや。ヒレツリなどの大企業の進出に伴膳所藩ぜぜはん近江国膳所 ( 滋賀県大津 ふたい ゆがぎよう 、工業都市として発展し、現在に至ってい 市 ) 周辺を領有した譜代藩。一六〇一年 ( 慶長 られるので、瑜伽行派ともよばれる。唯識の伝セスジッュムシ〔背条露虫〕 D ミミ かずあき ↓っーよ / 、ーし 〈堺憲一〉 六 ) 戸田一西が大津城に入り三万石を領有した 統はインド、チベットのほか、中国および日本を、をぎ昆虫綱直翅目キリギリス科に属するる。 ほっそう が、翌年膳所城に移り膳所藩をおこした。一六 で法相宗として発展し、とくに学問的精密を誇中形の昆虫。体色に緑色と褐色の二型があるセストルム 0 キチョウジ じよう一う たてすじ うじかねせつつあまがさき 一七年 ( 元和三 ) 一西の子氏鉄が摂津尼崎へ る。世親の著書には、さらに『大乗成業論』 が、両型とも背部に一本の縦条があり、雄の条セスプロン 0 セ。フロン みかわ ほん ぶっしょっ ひやく と、つかっ 転封となり、かわって三河西尾城主であった本 『大乗五蘊論』ほかがあり、『仏性論』「大乗百は橙褐色、雌の条は黄白色。後翅は前翅よりや膳所せぜ滋賀県南部、大津市の一地区。 だやすとし としつぐ ほうみようもん 法明門論』もその著とされる。そのほか、中や長い。雄の尾角は円筒状に伸び、端部はやや旧膳所町。地名は、古代に大津宮への食物を供多康俊が入った。一六二一年康俊の子俊次はふ おもののはま 期大乗の主軸となるもっとも重要な諸論書や、縦に幅を増し、かつ上方に軽く反り、その先端した陪膳浜に由来すると伝えられる。江戸時代たたび西尾へ転封となり、伊勢長嶋城主であっ すがめまさだよし は本多氏の膳所藩六万石の城下町で、関ヶ原のた菅沼定好が入った。ついで一六三四年 ( 寛永 主要な多くの経典に対し、優れた注釈書を多数はとがる。雄の生殖下板は基部を除いて細く、 しもうき一 たんばかめやま 戦いのあと徳川家康が築かせた水城の膳所城跡一一 ) 菅沼氏が丹波亀山へ転封となり、下総佐 著している。↓倶舎論↓唯識二十論↓唯識一一一上方に強く反り、その先端は深く切れ込んでい ただふさ は公園になっている。当時の城門が膳所神社表倉城主であった石川忠総が入った。さらに一六 十頌 〈三枝充悳〉る。産卵管は鎌状。八月から一一月まで草むら のりゆき ( 国の重要文化財 ) などに残り、町並みに城五一年 ( 慶安四 ) には忠総の子憲之が転封とな に普通にみられる。雄は夜間チチチチジーッチ 回三枝充悳著『ヴァスパンドウ』 ( 『人類の知的 な′」り 遺産』一九盒・講談社 ) ジーッチとあまり高くなく鳴く。本州 ( 関東地下町の名残をとどめるが、東海道本線膳所駅周り、伊勢亀山城主となっていた本多俊次が再度 そ、つらく くりたこうか 辺や湖岸の埋立地には新しい都市的施設が建設入封した。俊次は、近江国滋賀、栗太、甲賀、 銭司ぜず京都府南部、相楽郡加茂町の一方 ) 以南、東南アジアに広く分布し、オースト わどうかいちん かわち ラリアにもみられる。 〈山崎柄根〉 地区。木津川の右岸に位置し、和同開珎などの されている。↓大津 ( 市 ) ↓膳所藩〈高橋誠一〉浅井、伊香、高島の四郡、および河内国内で七 あし せながしま
原良吉著『仙台郷土史夜話』 ( 一九七一・宝文堂 ) 、額は七兆七九五七億円で、東北地方の都市では ー内川せんだいがわ熊本県球著る ま しおがま 、、こ抜群に高い実績を有する。これに対し、製造業囮二万五千分の一地形図「塩竈」「仙台東北部」磨郡の白髪岳 ( 一巴七 ) の南斜面威 おお原 に源を発し、宮崎県えびの市、大野堂 「仙台東南部」「仙台西北部」「仙台西南部」 出荷額 ( 一九全 ) は六四八三億円にとどまる。製 くち 口市などを経由し、鹿児島県川内学海 造業のおもなものは、食料品 ( 一七 % ) 、石油船台せんだい船体を建造し、進水させる み ための構造物。船の重量および進水時の大きな市久見崎で東シナ海へ注ぐ。延長 石炭製品 ( 三〇・三 % ) 、鉄鋼 ( 一四 % ) など 船と 一三七キ。、流域面積一六〇〇平方説 ( である。第三次産業人口が多い要因の一つに学力に耐えるようにコンクリートで強く固めてつ 図学 キ。で九州第二の大河川である。流 くり、その下の地盤にも十分な基礎工事を行 校、官公庁、事業所の集中があげられる。東北 主目 大学、宮城教育大学、東北学院大学など一一一の う。進水に便利なように、造船所内の海岸また域内には、上流から加久藤、大海 みやのじよう 大学・短大、博物館、美術館、図書館などが集は河岸に直角に配置し、水面に向かって緩い傾ロ、宮之城、川内と盆地や平野が まって学術文化都市の様相を呈し、また国や公斜をつけてある。この上へ、適当な大きさに分並ぶ。そのため川は著しく曲流し 共企業体の出先機関や、東京に本社を置く企業けて組み立てた船体各部のプロックを順次連びながら流下するので、各盆地はい はんらん が進出し、その多くが東北六県を管轄営業区域込んで、船体を建造してゆく。このほか、ドッずれも常襲的な洪水氾濫地域とな としている。 クの底を船台とした建造ドック式の船台もあっていた。一九〇六年 ( 明治三 〔交通〕国鉄在来線としては東北本線、仙山る。ドックへ注水すれば船が浮くので、困難な九 ) の大水害をはじめとして、そ せんせき の後もあちこちで災害を受けてい 線、仙石線が通じ、一九八二年 ( 昭和五七 ) ' 進水作業を省略でき、大型船の建造に適してい 〈森田知治〉 る。この災害を防止する目的で大 は東北新幹線が開業した。道路交通では国道四る。↓造船 ぜんたい セミの抜け殻のことで、漢 ロ盆地と宮之城盆地との間の狭 号、四五号、四八号、二八六号のほか、東北自 蝉退 しよう 動車道が通じ、仙台宮城インターチェンジがあ方では古くから解熱薬、止痒薬として用いられ窄部に六六年 ( 昭和四一 ) に鶴田 ダムが建設されたが、西日本最大 る。また八七年の開業を目ざして市営地下鉄南てきた。薬用にされる種類は多いが、中国では 形 といわれたこのダムをもってして 北線の工事が進んでいる。一九七一年に市北東主としてクマゼミ属 Cry. ミ。 0 ミを、ミのものが とま・一まい 部に開港した仙台港からは苫小牧、名古屋への用いられ、日本ではアプラゼミ G 、、 s ミ、斗 も、災害はなお完全には防止されの変室 遠距離フェリ ーが運航される。また岩沼、名取、 ~ 、 0 ト、 s ききの抜け殻も採集される。かぜ、じていない。かっては河川交通が行 イよ機 - 一うと - っ しん しんと・つ 両市にまたがる仙台空港からは大阪、札幌などんま疹のほか、小児の夜泣き、咽頭炎、喉頭われたが、現在は川内市街地から カ 大 への航空路線が開設されている。 炎、結膜炎、白内障などにも応用される。市場下流一二キ。までがわすかに使われ度る きんしん きんぜん 蛍わグ カ 〔観光・文化〕国指定史跡に遠見塚古墳、陸奥では「金進」「金蝉」「只進」などとも称されているにすぎない。流域は川内川 体勵わ 難波恒雄・御影雅幸〉流域県立自然公園に指定されてい 国分寺跡、陸奥国分尼寺跡、林子平の墓、留守る。 おうじん 船縦静サ る。 し volonté de tous 〈塚田公彦〉 氏の居館だった岩切城跡がある。応神天皇らを全体意志ぜんたいい なぎさん せんだいがわ鳥取県南東部の那岐山の新河道の掘削通水を完了。第二次世界大戦後 祀る大崎八幡神社は、大崎氏 ( 陸奥の戦国大 , ラルソーが一般意志 v 三 on ( 6 générale と区千代月 おキ一せん かろ ごんげん 名 ) 、伊達氏の尊崇が厚かった。権現造の本殿別して用いた用語。全体意志は私的利益を追求と沖ノ山に源を発し、北流して鳥取市賀露付近は重要港湾鳥取港の修築計画で、河口部河道の ギ , い一は・つ 直線化が進行し、一・五万トン岸壁の河口港計 などは国宝に指定されている。瑞鳳寺には伊達する特殊意志の総和にほかならず、この全体意で日本海に入る。延長五二キ。。支流佐台Ⅱ、、 きさいち ただむねつなむらびようしょ 〈岩永実〉 政宗・忠宗・綱村の廟所がある。このはか青 志が、公共の利益を追求する一般意志になるの東川、私都川、袋川などをあわせる。各河谷上画が着工されている。 ・一くと - っ あしづのみたきさんのうのたきみ だいねん 葉神社、大年寺、竜宝寺など伊達氏ゆかりの社 は、それが特殊意志の総和とは別のものになる流の谷頭侵食部には、芦津三滝、山王滝、三 船体強度せんたいきようど船体の強さ。静 たきけい あめだき ときである。このことは、各個人が自分の私的滝渓 ( 県の名勝地 ) 、雨滝などを形成、その上かに浮いている船体には、自重のほか、積んで 寺がある。東照宮の本殿、国分寺薬師堂は国指 にみんた 1 いる貨物や燃料の重さと海水の圧力または浮カ 定重要文化財。国指定天然記念物には、苦竹の利益を超えて高まり、公共の利益を考えて判断流には浅い谷と高原面が残り、ダム、水路式電 イチョウ、朝鮮ウメなどがある。年中行事としする、つまり社会体の成員として考えることを源地帯をなす。山脚が川に迫る峡流地は俗に峯が作用している。航走し揺れている船には水圧 たなばた 想定している。それを可能にするのが社会契約岐とよばれ、三遷急点と三段の段止の残片が中や波による力が変動しながら繰り返して作用す ては、東北三大祭の一つ八月上旬の七夕祭と、 正月一四日夜に大崎八幡神社境内で行われるどである。ルソーは社会契約を説明して次のよう流域に残る。下流では溺れ谷を埋積して鳥取平る。また、荒れた海を高速で走るときは船首付 - 一やま かぐら に述べている。「われわれ各人は、身体といっ野や鳥取砂をを形成し、西隅には潟湖の湖山池近に波が激しくぶつかって衝撃的な力が働く。 んと祭が著名である。大崎八幡神社の能神楽は さいの能力とを共同のものとして、一般意志のがある。平野の条里面より低い微地形面には、船体はこれら種々の力に耐えられるように設 選択無形民俗文化財。伝統を受け継ぐ特産工芸 やましろ 品には、埋れ木細工、玉虫塗、堤焼人形、堆最高の指揮のもとに置く。そしてわれわれは各蛇行した河道跡が残る。東岸は山白川用水、西計、建造しなければならない。 おおいで カ・ん力い はんらん たて ひら しゅ 朱、仙台たんす、仙台平などがある。食品では構成員を全体の不可分な部分として全体として岸は大井手用水により灌漑され、氾濫原は近代〔縦強度〕船の中央部へ貨物や燃料を集中して ささ 積むと、中央部では重力が浮カより大きくな 以前に水田化された。鳥取城下町や外港賀露 九重、仙台駄菓子、笹かまばこ、仙台みそが独受け取る」 ( 『社会契約論』一七六一 I) と。これに り、船体は中央部が下にへこんだ形に曲げられ 〈長谷川典夫〉反して全体意志は、特殊意志の総和にすぎな は、中流以北の水運で結ばれたが、豪雨時には 特な味で親しまれている。 ↓社会契約論 〈古賀英三郎〉河道が短く急なため、水害が多発し、低湿防御る。これは、板を敷いただけの橋の中央に重量 回『仙台市史』全一三巻 ( 一九五四・仙台市 ) ▽ 『仙台の歴史』 ( 一九五一一・仙台市 ) ▽『目で見る回ルソー著、桑原武夫・前川貞次郎訳『社会契帯に立地した鳥取市は城下町時代から被災を重がかかったときの曲がりに似ている。このよう な曲がり方をサギング sagging という。反対 約論』 ( 岩波文庫 ) ▽同著、河野健二訳『政ねた。治水事業は大正末期以降進み、一九三一 仙台の歴史』 ( 一九五九・仙台市 ) ▽『埋れた仙 に、船の前部と後部へ重量を集中して積むと、 年 ( 昭和六 ) には本流の、三四年には支流袋川 治経済論』 ( 岩波文庫 ) 台の歴史』 ( 一九大・仙台市教育委員会 ) ▽三 まっ ここのえ つつみやき と - っ ふくろ おば き上、つ はっ 機関室 ホギング 浮力が大 浮力が大 重力が大 外板の変形 重力が大 局部に加わる力による変形 バンチング 重力が大 スラミンク 横に加わる力による変形 ラッキンク 材水面 面 面 802
それは候補者の政見を選挙人に訴え、それへの説会、街頭演説に関しても各種の制限が課せら委員は四人、任期は四年である。各普通公共団る。各選挙区の選挙区割り、定数配分、投票方 よ 支持を広げる活動でもある。思想・言論の自れている。結局、選挙公報の発行、立会演説体の議会において選挙権を有する者のなかから式、当選者の決定方法などは、選挙民の意思の 7 議会への反映に大きな影響を及ばす。たとえ 由、政治的自由を基盤とする議会政治のもと会、政見放送、経歴放送などの公営以外の選挙同数の補充員とともに選任されるが、そのなか の二人が同一の政党その他の団体に属する者でば、小選挙区制や大選挙区完全連記投票制はそ で、選挙運動は本来自由でなければならないと運動は厳しく制限されている。第四に、買収・ きようおう の選挙区の多数派をして当選者を独占せしめる 同時に公正に行われなければならない私羽・ 響応などの金権・腐敗選挙を防止し、各候補あってはならない。都道府県選管は、衆議院、 党利のために権力、金力、暴力をもって、選挙者ができるだけ平等な経済的条件のもとで選挙参議院 ( 選挙区選出 ) 、都道府県議会の議員お方法であり、大選挙区単記投票制や大選挙区制 わいきよく 限連記制は少数派からも代表者が選出される可 民の意思が歪曲されないように、いすれの国ができるように、選挙運動の費用が規制されてよび知事の選挙事務をそれそれ管理するはか、 いる。支出金額については、各選挙ごとに告示各種委員選挙や直接請求における投票を管理能性を保障する方法である。選挙区制、定数、 においても選挙取締法が制定されている。わが される法定基準があり、この法定選挙費用を超し、またこれらの選挙・投票に関する争訟の決投票方法などの問題はいわゆるゲリマンダリン 国では、「選挙が選挙人の自由に表明せる意思 によって公明且っ適正に行われることを確保過した場合には、選挙犯罪となる ( 二四七条 ) 定・裁決などを行う。市町村選管は、市町村のグにみられたように党利党略になりがちである し、もって民主政治の健全な発達を期することのみならず、当選無効となる ( 二五一条の一 I)O 議会の議員および市町村長の選挙に関する事務が、イギリスの区割委員会のような議会とは別 の第三者的機関の設置による検討が注目され を目的」として、公職選挙法が制定されてい また出納責任者を選任させ ( 一八〇条 ) 、収を管理する ( 公職選挙法五条一項 ) 。 なお、従前の全国選挙管理委員会は一九五一一る。↓大選挙区制↓小選挙区制〈三橋良士明〉 る。同法は、選挙運動の期間、主体、方法など入・支出の届出や公開 ( 一九二条 ) を定めてい せんぎよく中国古代の伝説上の帝王。 に関して各種の制限を定めている。 るほか、特定の者からの寄付行為が禁止されて年 ( 昭和二七 ) に廃止され、現在、参議院比例顴項 いる ( 一九九条以下 ) 。 〈三橋良士明〉代表選出議員の選挙の事務は中央選挙管理会の司縣遷は、「史記』を五人の有徳の聖天子、つ 第一に、選挙運動は、立候補の届出 ( 参議院 〈池田政章〉 まり五帝の治世から書き起こしているが、その 比例代表選出議員の選挙にあっては、名簿の届選挙干渉せんきよかんしよう公権力による所管となっている。↓選挙 出 ) のあった日から、当該選挙の投票日の前日政治的反対派の選挙運動に対する直接的な妨害 前鋸筋ぜんきよきん胸郭の両外側面にある五帝の一人である顗は、黄帝の孫といわれて 三角状で薄い板状の筋をいう。前鋸筋は、その いる。なお、初めて高陽に国を建てたことから まででなければすることができないという時間 活動をいうが、広義には、選挙において国民の 底辺にあたる部分を前方に向けた形で第一 ~ 第高陽氏ともよばれた。顗は深謀遠慮に富み、 的制限がある ( 一二九条 ) 。これによって、立意思選択をあらかじめ一定の方向に誘導する間 ろっこっきよし 候補の届出前における事前運動と選挙当日の運接的干渉も含む。そもそも選挙において選挙民九肋骨に鋸歯状に付着している。筋はこの部位天人相互間の道を明らかにしたが、さらに神霊 ・一とわ の加護を受けて尊卑の理りを正し、五行の気を 動が禁止される。第二に、特定の者の選挙運動が主体的に意思形成する前提条件として、自由からおこり、後方に向かって胸郭と肩甲骨との 間を進み、肩甲骨の内側縁でその前面につく 治めて人民を教え導いたので、彼に帰服しない が禁止されている。すなわち、①投票管理者、 で公正な選挙連動が保障されていなければなら 子 / 。し このことは、選挙においては政権党も反前鋸筋は、全体として肩甲骨を前方に引く働き者は一人もいなかったと伝えられる。このよう 開票管理者などの選挙事務関係者 ( 一三五条 ) 、 な伝承は、ほかの五帝と同様理念化され、また ②選挙管理委員会の委員・職員、裁判官、検察対党も対等な関係で公正に競い合うべきことををもっている。また、この筋の下部三分の一ほ せんがいきよう 官、会計検査官、公安委員会の委員、警察官、意味する。ところが歴史的には各国において政どは、とくに筋が発達しており、肩甲骨を下方作為されたものと考えられるが、『山海経』そ に引き下げようとするため、肩甲骨は回転してのほかによれば、顗は一度死んだのちふたた 収税官吏および徴税の吏員等の特定の公務員権党が自党候補の当選を有利にするため官僚・ ちょう び蘇生する神であるとか、重という神に命令し ( 一三六条 ) 、③末成年者 ( 一三七条の一 l) 、④警察・軍隊などの政府権力を用いて反対党の選上腕の外転や屈曲を助けることとなる。なお、 まひ 選挙犯罪によって選挙権・被選挙権を有しない 挙運動に対してむき出しの妨害をすることがし前鋸筋が麻痺すると、同側の上腕を水平にあげて天を上に押し上げ、黎という神に命じて地面 〈嶋井和世〉を下げさせ、天と地を現在あるような遠く離れ ばしばあった。日本での大規模な選挙干渉としることができなくなる。 者 ( 一三七条の三 ) の選挙運動は禁止されてい る。さらに、一般職の国家公務員・地方公務員ては一八九二年 ( 明治二五 ) の第二回総選挙に 選挙区せんきよく constituency 選挙をたものにしたと伝えられる。このように古代の については、公務員法により政治的行為が禁止おける内務大臣品川弥二郎らによる民党派候補行うにあたって、全体の選挙人を選挙人団に分創世神話に登場してくる顗のほうが、むし しいかえると、議ろ、より原形のおもかげを伝えているものと考 に対する大干渉 ( 警察隊との衝突による死者一一ける標準となる区域をいう。 されているほか、公選法により地位利用による えられる。 〈伊藤清司〉 選挙運動・選挙運動類似行為が禁止されている五人、負傷者三八八人 ) 、一九一五年 ( 大正四 ) 員等の代表者を選出する基礎単位となる区域が おおうらかねたけ ( 一三六条の一 I)O 教育者も地位利用による選挙第一二回総選挙における内務大臣大浦兼武らに 選挙区である。全体の選挙人を地域別に分割し選挙権せんきよけん suffrage 一般には公 運動が禁止されている ( 一三七条 ) 。第三に よる選挙妨害、二八年 ( 昭和三 ) の第一六回総選た場合の区域を地域選挙区といい、職域別に分務員を選定できる権利。選挙権は主権者たる国 きさぶろう 選挙連動の方法に関してもさまざまな制限があ挙における内務大臣鈴木喜三郎による干渉など割した場合のそれを職域選挙区という。前者は民が行使する権利であるが、それとの関連でい 地域代表制における選挙区であり、後者は職能 えばこの権利の行使には当然に公務員を罷免す る。戸別訪問の禁止 ( 一三八条 ) は選挙運動取が有名。現代では直接的暴力的な介入は少なく なったが、政府補助金等による利益誘導、マス代表制における選挙区である。今日、わが国をる権利も含まれなければならない。普通選挙の 締法制の発達したイギリスにも例をみないわが コミを利用しての世論誘導など、広義の選挙干はじめ議会政治の諸国では地域代表制を原則と保障を規定した日本国憲法第一五条で「公務員 国独特のものであり、憲法第二一条の一一一一口論の自 〈三橋良士明〉 しているので、一般に公職の選挙制度においてを選定し、及びこれを罷免することは、国民固 由を侵害するとして裁判で争われたことがある渉が行われることはある。 せんきよかんりいいんかい は、選挙人団構成の基礎となる地域的区画を選有の権利である」と述べているのはそのためで が、最高裁は合憲と解した。署名運動、人気投選挙管理委員会 票の公表、飲食物の提供、気勢を張る行為、連選挙事務の管理執行を担当する行政委員会の一挙区という場合が多い。一選挙区における議員あろう。ここで公務員というのは中央・地方の つ。選管と略称される。都道府県、市町村 ( 特定数が一人である場合を小選挙区、一一人以上で諸官庁の公務員全体をさすものではなく、国民 呼行為は禁止され ( 一三八条の二 ~ 一四〇条の 別区を含む ) に置かれる。選挙の公正を確保すある場合を大選挙区という。なお、一選挙区のは国会議員、地方議会の議員、知事、市町村長 (l) 、文書図画による選挙運動については、は 議員定数が二人から五人であるものは俗に中選などを選定できるにとどまる。罷免に関しては、 がき・ビラ・ポスターなどの枚数等の厳しい制るために、明治憲法下の選挙の管理執行にあた っていた知事および市町村長のかわりに、現行挙区とよばれているが ( たとえば、わが国の現最高裁判所裁判官の国民審査 ( 憲法七九条 ) 、 限がある。一言論による選挙運動についても、立 行衆議院議員選挙 ) 、理論的には大選挙区であ地方議会の解散請求 ( 地方自治法一三条・七六 会演説会は公営のもの以外は許されず、個人演憲法下で特別に設けられた独立の機関であり、
ぜおらい 0 とも ローマ帝国ははば現在の O ( ヨーロッパ共同 6 「モレキュラーシープ ( 分子ふるい ) 」とよば世界せかい the world もっとも広義に れ、たとえば、ゼオライト ( アメリカのリンとれば、世界は天地・宇宙 universe. cosmos 体 ) の範囲を領土とし、ストラボン、プトレマ 皮れ デ社からリンデシープ 4 < として市販 ) は に及び、狭義には人間の社会、世間をさしてい イオスなどの地理書および地図が著され、支配 皮っ Na12CAl 】 Si 】 2048] ・ Na と 02 ・ 29H20 で、〇・四る。人間活動は、物理的存在である地球 the 領域の世界についての知識が充実した。 樹で ナ ノメートルの空孔をもち、 N2, 0 CH4, H20, globe, earth の地表面の上に営まれている。 中世のヨーロッパ世界は、キリスト教の強い 草編 NH3 などの分子を選択的に中に取り込む。ゼ世界は、その全域あるいは広い部分に関して、支配下にあって、地球観は禁圧され、かわって るを っ麻村オライトのカルシウム塩であるゼオライト 5 世界誌・世界史などがかかわる空間的存在であ航海・貿易に活躍したアラビア人、イタリア人 ー藁れ片 < は Ca4Na4 〔 A112Si12()481 で、〇・五ナノメートる。世界はまた、さまざまな主観・哲学に基づなどが正確な世界知識の担い手となった。 ジンギスカン 〔材 , 根 ハラフィン、 ルの空孔があり、 く世界観によって考察される。世界の「世」は チンギス・ハン ( 成吉思汗 ) の征服は東西の までの〃ー。 素か利 る県 〃ーオレフィン、〃ーアルコールを吸着するが、過去・現在・末来を、「界」は天地・東西南北 世界に橋を渡した。マルコ・ポーロは元の首都 袋れ馬 側鎖のある有機分子は吸着しない 。このほかテを意味し、世界が歴史的過程によって生まれた ( 上都 ) より南の成都など各地を訪れて、見学 しわ群 負使 トラメチルアンモニウム塩としたゼオライト Z 地球空間的存在であることを表している。 や聞き取りに基づいて『東方見聞録』を著し、 背がの こんよ << Na 、 {()H し 4N}3 「 A17Si17048 」・ 21H20 など 〔世界の発見と世界観の変化〕世界は坤輿 ( 大東アジアの知識を広めた。世界についての興味 うだい 紐を調節できるよう仕上げられている。袋の編もあり、いろいろな大きさの空孔のものがつく 地 ) 、宇内 ( 天の下 ) ともよばれ、その形態は と航海術の進歩に支えられて、海洋の探検と陸 わら み方は一様でなく、素材は藁のほかガマの茎、られ、現在では工業的な規模で広く用いられて人々が自分の住む周囲の自然から学んで構想し 地の発見が相次いで行われた。コロン。フスのア ヤマブドウやアケビのつる、またはカバ皮など きている。また不均一系触媒反応に用いられる たものである。初めは狭い地方に限定され、の メリカ大陸発見に至る一三世紀から一五世紀ま と変化に富む。袋に入れて運ぶものの容積に応金属あるいは金属錯体の担体としても用いられちには全地球に及び、正確さを加えてきた。 でには、放射状に方位線を描いたポルトラノ型 しゆみ 〈中原勝儼〉 じて利用でき、背負いながらも両手があくことる。↓沸石 古代インド人が想像した世界は、中央に須弥の海図やアフリカの形がより正確になったマル せん から、畑作業に出向くおりや山行きに際して広セオリカメ hinge ・ backed ( 0 「 ( 0 デ e 爬山がそびえ、その南に大洋があり、海には渺テルス作の世界図などが描かれた。一六世紀に ゅ なんせんぶしゅう く使われてきた。往きには、作業用の鎌や昼食虫綱カメ目リクガメ科セオリガメ属に含まれ提、南瞻部州とよぶ島が浮かんでいる。大陸と入ると、バスコ・ダ・ガマのアフリカ南端周 用の弁当などを入れ、帰りには、収穫した野菜るカメの総称。この属 Kinixys の仲間は、背 いってもよい島の中央には無熱悩池とよぶ湖水 航、マジェランの世界周航など多くの成果があ ちょうつがい の類を背負ってくるなど小回りがきいて重宝が甲の後半部が蝶番状に連結し、後肢を引っ込があり、その周りには大雪山などの山地がた り、南北アメリカを加えた世界図はいっそう充 られた。山菜採り、キノコ狩りなどに赴く場合めたあと背甲を曲げてすきまに蓋をする。ハコち、湖水からは四本の川が流れ出ている。これ実をみた。 ガメなど腹甲が蝶番状になったカメは多いが、 にも同様に用いられてきた。山野を駆け回り、 らはガンジス、インダス、アムダリヤ、タリム 一八世紀は科学的探検の時代であった。クッ ゃぶをこぎ分けて歩行するには、背負い袋は、背甲を折り曲げるのは本属のみである。北部を各川を示すものと考えられる。この概念的な世クの調査をはじめ、地形・地質、生物、民族な 背負い籠、背負い梯子にみられない便利さがあ除くアフリカに三種が知られ、ベルセオリガメ界像は、仏教とともに中国を経て日本にも紹介どにわたる知識の集積と解明が進んだ。精密な る。出猟に際して携行する背負い袋には、編み K. belliana が中部、南部、ニシアフリカセオされた。 地図・海図などの作成のために、主要国は測量 リガメ K. e ききとホームセオリガメ K. 、 袋の外側に網を一枚取り付けた特色あるものが 紀元前六世紀にピタゴラス学派が地球球体説部、水路部、地質調査所あるいは地理院を設け 考案されていて、袋の中には弁当などの食料品 ミききが中部・西部地方に分布する。甲長一一を証明する以前の古代ギリシア人が描いた世界て組織的な調査を始めた。 りんばん えんきゅう を、袋の外側と網を張った間には野ウサギなど〇 ~ 三〇。蓋のできない甲の前部は堅い鱗板は、円盤状の陸地が円穹の空を頂き、周囲は アジアの東縁にある島国日本が世界を知った の獲物を入れて、使い分けている例がある。実 に覆われた前肢で守る。サバンナや沼地にすオケアノスとよぶ海洋によって囲まれていた。 のは、はるかに新しいことであった。朝鮮半 〈松井孝爾〉 際には、両肩支持の使い方が広くみられるものみ、おもに雨期に活動する。 エーゲ海を中心に活躍した古代ギリシア人の世島、中国大陸、南洋諸島との交流は有史前から からてんじく の、頭部支持などの特例もあり、一様ではな 界は、アジア、ヨーロッパ、 リビア ( アフリ も行われていた。唐・天竺の文物に対する興味 〈天野武〉 カ ) の各一部から成り立っていた。のちには、 は深かった。しかし世界図を知ったのは、一七 その範囲がインド、地中海全域に拡大され、海世紀初めの北京に来朝していたマテオ・リッチ セオライト zeolite 沸石のことである りまと - っ - 」んよ が、ゼオライトというときは天然に産する沸石 陸の形が整えられた。その資料は、古代ギリシ ( 利瑪竇 ) の「坤輿万国全図』によってであっ 類だけではなく、人工的に合成したいわゆる人 ア人の貿易・植民活動やアレクサンドロス大王た。海外活動も一時期盛んであったが、鎖国に 造沸石をも含めていう場合が多い の東方遠征などによって得たものであった。 よって閉じられた。しかし一八世紀後半から一 沸石類は本来その特性からイオン交換体とし エラトステネスによる地球の円周の測定が行九世紀前半にかけて蘭学の隆盛をみ、オランダ くつきまさ ての用途が注目され、一九〇七年にドイツで初 われたのは、紀元前二〇〇年余のことであっ 語を通じて海外の知識がもたらされた。朽木昌 たいせいよちずせつ めて合成品もっくられ、合成ゼオライト ( 商品 ギリシア人は、北半球のユーラシア大陸に 綱の『泰西輿地図説』 ( 一大九 ) 、山村才助の「訂 たいしょ さいらん みつくり 名パームチット ) として市販され、主としてイ 対して南半球にもこれと対蹠する大陸があるも正増訳采覧異聞」 ( 天 0 三 ) 、箕作省吾の「坤輿図 げんたん オン交換体として用いられていた。しかしのち のと想定して、これをテラ・アウストラリス・ 識』 ( 天四五 ) 、杉田玄端の「地学正宗』 ( 一会 0 ) な にはむしろ骨格構造の空孔の大きさを種々変え インコグニタ Terra AustraIis lncognita ( 末どはその成果である。これら蘭学の普及によ ることにより、大きさに応じた分子を選択的に 知の南方の大陸 ) とよんだ。この想像の大陸、り、海外の知識は為政者・学者の間に広まるに 吸着する吸着剤として用いることの有用性が注 すなわちオーストラリア大陸がヨーロツ。ハ人に至った。幕末になって世界との交流が開かれ、 ただたか かげやす 目されるようになった。この種のゼオライトは 発見されたのは一七世紀の初めであった。古代 伊能忠敬、高橋景保、間宮林蔵などによる地図 ちゅう セオリガメホームセオリガメ ふた らんがく