地形図 - みる会図書館


検索対象: 日本大百科全書 13
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1. 日本大百科全書 13

ENCYCLOPEDIA NIPPONICA 201 日本大百科全書 OSHOGAKUKAN 1987 昭和 62 年 1 月 1 日初版第一刷発行 定価 7 , 800 円 13 編集著作 出版者 発行所 印刷所 相賀徹夫 小学館 郵便番号 101 電話編集・東京 03 ー 230 ー 5620 振替東京 8 ー 200 番 東京都千代田区ーツ橋 2 ー 3 販売・東京 03 ー 230 ー 5739 業務・東京 03 ー 230 ー 5333 ( 特抄百科用紙 ) 凵 1 : ム ( 特抄アート紙 ) 表 ( 特製クロス ) 馮リイ ( 凸版印刷株式会社 王子製紙株式会社 三菱製紙株式会社 夕、イニック株式会社 凸版印刷株式会社 若林製本株式会社 * 本書に掲載した日本関係地図は , 国土地理院発行の 2 万 5 千分の 1 地形図 , 5 万分の 1 地形図 , 20 万分の 1 地勢図 , 2 万 5 千分の 1 地利Ⅲ図を使用したものです。 本書の 232 ページに掲載した「駿河湾 / ビュー・マッフ。」は , 海 E 保安庁水路部発行の 20 万分の 1 海底地形図「駿河湾」 ( 第 6362 号 ) を使用し , コンピュータにより調製したものです。 水路図誌複製「海上保安庁承認第 610346 号」。 * 造本には十分注意しておりますが , 万一 , 落丁・乱丁などの不良 品がありましたら , おとりかえいたします。 * 本書の内容の一部または全部を , 無断で複写複製 ( コヒ。ー ) するこ とは , 法律で認められた場合を除き , 著作者および出版者の権利 の侵害となリますので , その場合はあらかしめ小社あて許諾を求 I S B N 4 ー 0 9 - 5 2 6 0 1 ろー 0 Printed in Japan めてください

2. 日本大百科全書 13

地に移転させてから発展するようになった。赤 トン航空宇宙博物館」 ( 一九大・講談社 ) 「イギリスの化学・鉱物学者スミソン James 囮二万五千分の一地形図「鳥島」 きら ふかく一 すみそめ京都市伏見区の深草墨染町穂義士討入りの吉良邸は両国に、水戸藩の下屋 smithson から、人類の知識の増進と普及を図墨染 ス、、、スネズ = 、 Smith's red ・ backed vole もとつわ かんつけのみわおだいじよう まにゆうげつし \ E 。斗 e きき嵶 sn ミ唖乳綱齧歯目キヌるためとして一〇万ポンドの寄付があった」との地〕上野岑雄が太政大臣藤原基経の死を悼敷は現在の隅田公園にあるなど、大名や豪商の ぼっかく 別邸の地で、向島の隅田川よりは文人墨客のよ ゲネズミ科の動物。本州西南部、四国、九州 報告、この申し出は数年の議論を経て、四六年んで詠んだ「深草の野辺の桜し心あらば今年ば しちふく おき く訪れた静かな郊外の地であった。隅田川七福 隠岐諸島に分布する。頭胴長八・五 ~ 一一・ に基本計画ができて実現した。計画では、研究かりは墨染に咲け」 ( 「古今集』巻一六 ) で知 じん られ、地名のおこりになった墨染桜が墨染寺の神巡りは文人が始めたもので、各寺社には句碑 、尾長三・三 ~ 五・六、体重二五 ~ 三〇の促進のために学問的成果に懸賞金を出す、調 グ一フ 0 ム 耕地周辺から森林まで広い範囲にすみ、古査研究に対して研究資金を出す、知識の普及の境内にある。京都と伏見を往来する商人や、伏が多く、向島百花園は現在も虫聞きの会、月見 やましな 生層などの岩石に富む場所や石灰質に富む土壌ために定期刊行物・専門書を発行する、施設の見から山科を経て東海道を往還する旅人などでの会が催されている。また隅田川の堤防は、隅 まくてい 田堤、葛西堤、堤とよばれ、江戸町民の桜 にぎわい、江戸中期には墨染寺の門前に芝居小 を好む。四国はこの条件に適しているといわなかには図書館・博物館・画廊などを含める、 ちょうめい れ、本種が大発生することがある。草食性で大などが考えられた。その初期には、天文・気屋や遊里ができて栄えたが、明治以後衰退し見、月見などの行楽地であった。長命寺門前 もち きゅうし ・一とといだん 1 」 ^ 織田武雄〉の桜餅、近くの言問団子は、その当時からの名 臼歯も無根歯である。カゲネズミに似るが、象・民族・考古・美術などに関する研究センタ 物である。明治になり、水陸交通の便と低廉で 乳頭は一対多く三対、春から秋に繁殖し、一産 ーとして多大な成果を収めた。今日、多岐にわ囮二万五千分の一地形図「京都東南部」 一 ~ 四子を産む。つつが虫病の保菌者にもなっ たる分野の博物館を中心に、放射線生物学研究住田 ( 町 ) すみた ( ちょう ) 岩手県南東部、気広い土地が得やすいことで工業地として発達す かわふち せたまい かわーう ている。和名は神戸に在住した英国人スミスが所、熱帯研究施設、科学情報交換部など多くの仙郡の町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 世田米町とることとなった。鐘紘 ( 隅田川の鐘ケ淵に立地 かおう ろっこう かみありす 六甲山で採集したことにちなむ。〈宮尾嶽雄〉分野の施設が設置されており、国際的にも注目上有住、下有住の二村が合併して成立。国道一し、その名を会社名とする ) 、花王、朝日麦酒、 たねやま ほう Smith Act 一九四〇されている。 〈雀部品〉〇七号と三四〇号が交差する。西は種山 ( 物見精工舎などの大工場とともに中小零細規模の繊 スミス法 年六月アメリカ合衆国で制定された外国人登録スミソニアン研究機構科学博物館群山 ) 、東は北上高地の残止五葉山があり、中央維、化学などの雑貨工業が発展し、部品、下請 ばつばっ けんきゅうきこうかがくはくぶつかんぐんアメリ け、関連などの工業が地域集団を形成し、江東 法。第二次世界大戦勃発後の険悪な国際情勢の 部を南流する気仙川に沿って耕地が開けるが、 下に、世論の保守化の風潮をも反映して、おも力、ワシントンにあるスミソニアン・インステ町域の大部分は山林原野で、園芸作物と畜産を工業地区の一部となっている。しかし工業用水 に国内の破壊工作活動の防止、取締りの強化をイチューションには、アメリカの国立博物館が軸とする住田型農林業に取り組んでいる。昔かのための地下水過剰くみ上げによって軟弱な地 目的とした治安立法として実現した。外国人の併設されている。そこには、自然史博物館、歴ら気仙大工とよばれる農民大工の出稼ぎが多盤が収縮して地盤沈下を引き起こし、高潮時や 入国および国外追放に関する規定はいっそう厳史技術博物館、航空宇宙博物館の三館がある。 く、その技術と町有人工造林の杉材を利用して豪雨時に浸水するなどの公害が生じた。その 後、防潮堤の完備、鐘紡、朝日麦酒など大工場 格となり、アメリカに滞在するすべての外国人 自然史博物館は、大英自然史博物館、ハリ国第三セクターによる住田住宅産業株式会社を創 に対して、強制的に指紋をとることが認めら立自然史博物館、ニューヨークのアメリカ自然 設、関東方面でその注文建築に応じている。観移転跡の高層アパートの建設、地下水くみ上げ しようにゆうどうろうかん れ、国内において武力や暴力による政府の転史博物館と並んで世界的にも注目されている博光地に種山高原、鍾乳洞の滝観洞がある。人の制限・禁止などの対策により、環境破壊が避 〈川本忠平〉 けられるようになった。明暦の大火による焼死 覆、破壊を唱導したり教示することは違法とさ物館であり、三館のうち歴史ももっとも古い ロ八七〇二。 者を弔う回隱の奉納相撲を機として大相撲が れ、さらにそうした破壊工作活動を意図したグここには五五〇〇万点を超える収集品がある。回根来功範著『住田風土記』 ( 一九七六・住田町 ) りよう′一く ループを組織したり、それに加わることも禁じそれらの収集品は世界各地から集められている 囮五万分の一地形図「遠野」「盛」「人首」「陸始まり、両国には相撲部屋が多い。近くの旧 られた。これは第二次大戦後、アメリカ共産党が、とりわけ北アメリカ関係の資料については 中大原」 安田庭園は、潮入り回遊庭園として知られる。 くらまえ たいとう の幹部の逮捕など、その活動を弾圧するために他の博物館の追従を許さない。 墨田 ( 区 ) すみだ東京都区部の北東部にあまた、台東区蔵前から国電総武線両国駅の北側 きんしちょう む・一うじま 〈新川健三郎〉 利用された。 に、国技館が移ってきた。総武線錦糸町駅周辺 歴史技術博物館は、一九六四年にオープンさる区。一九四七年 ( 昭和二一 D 北部の向島、 すみ ほんじよ れ、日常の生活を中心にしながら、部屋、室内南部の本所の二区が合併して墨田区となる。隅は江東地域の中心としての繁華街を形成してい 墨摺絵すみずりえ浮世絵版画の版様式名。 〈沢田清〉 る。人口二二万九九七八 墨一色で摺られた木版画で、単に墨摺ともい 装飾、家財道具、建物に関する展示を行ってい 田川の左岸にあり、隅田川との関係が深いこと う。技法上は墨一色の版本挿絵や絵本類と変わる。そのほか、輸送システムに関する展示や、 から隅田と同義の名を区名とした。区境の西は回『墨田区史』 ( 一九五九・墨田区 ) ▽『墨東外史す らないので、広義にはこれらも含めるが、狭義農業、動力機械、工業についても展示を行って隅田川 、北は荒川 ( 放水路 ) 、北東は中川で、 みだ』 ( 一九六七・墨田区 ) ▽『墨田区史』上下 ・一うとう には一枚絵にのみ用いる。一六七〇年 ( 寛文一 いる。航空宇宙博物館は、一九七六年に開館し隅田川のつくった三角州地帯にあり、南の江東 ( 一九七九、八一・墨田区 ) ひしかわもろのぶ 〇 ) ごろに菱川師宣らによって版本挿絵から独 た。気球、飛行機、宇宙飛行など、人類が願望区とともに「・ セロメートル地帯」とよばれる低二万五千分の一地形図「東京首部」 立、風俗画、武者絵がつくられたのが最初で、 すみだがわ東京都区部の東部を流れ してやまない空を飛ぶ技術に関して多くの展一小湿地にある。区域内には、江戸時代、水運の役隅田川 たて じつけん 墨摺絵の誕生は浮世絵版画の誕生でもあった。 が展開されている。なかでもアメリカが世界的割を果たした北十間川、 大横川、横十間川、竪る荒川の下流部の称。本来は荒川本流の最下流 ゅうこん すい′」う 素朴ではあるが、墨と紙の織り成す雄渾な構成に優位にある航空宇宙技術に関する業績につい 川などの水路が縦横に通り、水郷の景観を呈し部であるが、昭和初年完成の荒川放水路が本流 いわぶち 美が賞賛されている。まもなくこれに筆彩色すては焦点を鮮明にして展示している。この博物ている。国電総武線が南部を横断、東武鉄道伊となるに及び、その支流となった。北区の岩淵 せさき かめいど おしあげ ることも行われ、初期の浮世絵版画は墨摺絵と館は開館してから一年間で入場者が一〇〇〇万勢崎線・亀戸線、京成電鉄押上線が縦断し、都水門で本流 ( 放水路 ) と分かれ、曲流しながら かわふち 筆彩作品の二種に大別される。 〈浅野秀剛〉人を超えるという記録的な数字を残しており、営地下鉄浅草線が押上で京成電鉄に乗り入れて南東方へ流れ、鐘ケ淵で大きく湾曲して南西方 いる。さらに南端に都営地下鉄新宿線、千葉街へ方向を転じて東京湾に注ぐ。なお、荒川放水 カスミソニアン・インステイチューシ世界的に人気を博している。宇宙飛行士が館長 オョン Smithsonian lnstitution アメリカ、 を務めたこともある。 〈雀部晶〉 道がある。 路を荒川、本来の荒川下流部を隅田川と公称す めいれき ワシントン市に中心施設をもっ特殊学術機関。回『世界の博物館』 1 / 加藤秀俊編「アメリカ 明暦の大火 ( 一六五七 ) 以後、江戸幕府は防火のるようになったのは、一九六五年 ( 昭和四〇 ) 9 の河川法改正以来のことである。この全長二 一八三五年アメリカ大統領は議会に対して、 歴史技術博物館」、 2 / 佐貫亦男編「ワシンため江戸市街地の武家屋敷や寺社、町家をこの きたかみ とおの おおよこ ふしみ ~ かりひとかべ

3. 日本大百科全書 13

~ 二ⅱ Z ) に分け、 ⅱ翫 ) 、低木 ( 〇・三 ている。主幹をもっ樹木についての生育型の分 っニティとい 0 たような、成員の生活全体が、濃として、学校教育で培われた認識能力、表現能 厚な関連をもち、互いに知り尽くされているよ力をもとに生まれ、社会の民主化の連動と結びさらに多肉植物と着生植物 (Q) を加え類にはダンスロウ Dansereau ( 一九五 0 や沼田 2 わいしよう 付いて発展してきた。それゆえ、生活記録運動ている。さらに矮小な低木や草本植物は地表真 ( 一九六九 ) の研究がある。草本植物については うな社会的統一体をいう。比較的成員の少数な 。↓共同は、労働大衆の文化運動として評価されてい 社会において成立している場合が多い 植物 ( 〇 ~ 〇・三Ⅱ 5 ) 、半地中植物 ( 地表沼田ーギミンガム Gimingham の分類 ( ギミ せ 〈二宮哲雄〉る。生活記録運動から生まれた生活記録類は、面のすぐ下Ⅱ、地中植物 ( 地表面より離れンガムの方式を沼田が改訂したもの ) がある。 体↓コミュニティ た地中Ⅱ ) 、水湿生植物 ( 水中または水飽和 これは草本植物を直立型 ( ) 、ロゼット型 生活記録せいかっきろく庶民大衆が、生活歴史的な資料としても貴重なものが少なくな そうせい ↓生活綴方運動 のなかで経験したこと、それについて感じたこ 〈大槻和夫〉の地中皿 ) 、および一年生植物 ( 生育不適期を、何型 (=) 、叢生型 (—) 、分枝型 ) 、つる型 ( 1 ) 、とげ型 ( などに分類 と、考えたことを、事実に即して散文形式で書回中内敏夫著生活綴方成立史研究』 ( 一九七 0 種子で過ごすⅡ物 ) に分類している。なお、ラ ウンケルはこれらのいくつかのタイプをさらにするもので、草地の調査にしばしば用いられて 明治図書出版 ) きつづること、あるいは書きつづったものをい つづりかた いる。また、熱帯地方を中心とする維管束をも せいかっくうかん life space 元細分化し、それぞれ小群を設けている。 う。一九二〇年代に綴方によって初等教育の生活空 1 こうした休眠型を基本とした生活型の分類っ着生植物については、細川隆英によって一四 行き詰まりを打開しようとした小学校の教員来ドイツの地理学者ラツツェルのつくりだした の形式が発表されている ( 一九四三、四九 ) 。さらに ことばといわれるが、現在ではいろいろな分野は、その地域の気候を反映したものとみなすこ が、校区の青年を対象として指導したのが始ま とができる。一九〇八年ラウンケルは、地球上コケ類や地衣類についても研究が行われ、中西 りである。 で使われており、日常語としても、個人ないし こうした生活綴方系統の最初の実践は、一九集団の日常生活が営まれている環境の行動範囲の全植物から無作為に一〇〇〇種の高等植物を哲によって詳細な分類が試みられている ( 一九 さかりなめ 選出して生活型の比率を算出し、これを生活型 四 ())0 シュミットヒューセン Schmithüsen は、 一一一年 ( 大正一〇 ) の、高知県土佐郡十六村行をさす用語として、しばしば使われている。心 ささおかただよし がわ 基準表として示した。さらに、この基準表と特専門の植物地理学の立場から地球上の植物を三 ( 高知市行川 ) 青年会における小砂丘忠義の理学では、ドイツの心理学者レビンが、彼のト 実践である ( 文集『土を踏みてし。大正末期ポロジー心理学の主要な概念として導入した。定の地域の植物相から算出した生活型組成を比〇の生育型にまとめている ( 一九六 0 。繁殖型は レビンは、人の行動はその人の諸条件とその人較することにより、その地域の気候的特性を知植物の繁殖の仕方を生態的な観点から類型化し から、社会的矛盾の激化と生活の窮乏の進むな が置かれている環境の諸条件との交互作用によることのできる「植物気候の概念」を提案してたもので、種子散布の仕方に着目した散布器官 かで、生活綴方運動とともに盛んになったが、 いる。たとえば熱帯多雨林域では地上植物が全型 ( 以 ~ 以 ) と根や匍匐茎の伸長様式を類型化 って規定されるとみるが、人と環境の諸条件は 第二次世界大戦によって、学校での生活綴方と した地下器官型がある。 ともに衰えた。戦後数年を経て、生活綴方が復ばらばらに作用するのではなく、カ動的なシス種類相の半数以上を占めるため、地上植物気候 なお、生活型の概念は植物のみではなく、動 興するとともに生活記録も盛んになり、一九五テムとして作用する。この人の行動をそのとき ( 略して門気候 ) とよぶなどである。同様に、 〇年 ( 昭和二五 ) ころから、労働組合のなかのどきに規定するカ動的なシステム全体を、レビスイスアルプスの高山帯やスピッツベルゲンな物にも適用される。たとえば河川の底生昆虫の どの寒帯地方では厳しい寒さに耐えることので生活型分類を試みた津田松苗の研究 ( 一九当、 ンは生活空間とよび、行動の法則の所在をそこ 青年たちをはじめ、農村の青年、家庭の主婦の 〈奥田重俊〉 六 (l) はその一例である。 に求めたのである。なお、この意味での生活空 間に、生活記録運動が拡大していった。五五 きる地表植物の割合が高く、地表植物気候 ( 5 気候 ) となるし、砂漠では年降水量が少なく、 間は、その外殻で客観的な物理的・社会的環境 年、日本青年団協議会を中心にした生活記録研 生活圏せいかつけん特定の地域に居住する と接触し、それらによって規制されるわけで、乾期を過ごすために一年生草本植物が多く、一人たちの恒常的な生活行動の場所、その範囲を 究会が結成され、このころほば頂点に達した いう。すなわち、買物、レクリエーション、通 が、その後漸次下降線をたどっていった。 この点を考究する研究分野として、晩年のレビ年生植物気候 ( 物気候 ) となる。わが国の温帯 地方は半地中植物が多いため、半地中植物気候勤・通学、医療、政治、農産物出荷など生活上 ンは「心理学的生態学」を考えた。↓トボロジ この間、多くの生活記録集が編まれ、工場の 〈辻正三〉 ( 気候 ) になる。なお、地中植物の場合はあの行動する領域、範囲をいう。それは商品やサ ー心理学 娘たちの「母の歴史」とか、主婦たちによる ービスの供与を受ける消費者側からの立場であ まり明確な地域性はない。 せいかつけい生物の生活様式を生態 「エン。ヒッをにぎる主婦」などのはか、戦争体生活型 り、商品やサービスを供給する側からの商圏、 生活型組成の考え方は、地球規模でのマクロ 的な見地から類型化し、分類した単位で、生活 験、初占領体験記類など、貴重な刊行物がつく られた。その後、新聞の投稿欄への投稿者たち形とも書く。生活型の類型はフンポルトの植物な使い方と同時に、群落の構造や遷移といった都市圏などに対する意義をもつ。生活圏は総合 の適応形態の分類 ( 天 0 六 ) から始まり、ワーミ狭い地域の植生の動態を表す場合にも用いられ的な意味をもつが、単一の行動を取り上げて買 の生活をつづるグループも生まれ、生活記録の ング J. E. B. Warming による生態的な体系る。後者の例として、わが国では桜島 ( 一九六四、物圏、通勤・通学圏などとよばれたりする。行 流れは続いている。 生活記録は、①既成の先入観や外から与えら ( 一会四 ) 、ドユ・リエ Du Rietz による生活型研究者田川日出夫 ) 、北海道駒ヶ岳 ( 一九六六、吉動の範囲は、その頻度や機能の差によって、日 れた観念にとらわれないで、事実をあるがまま ( 一九三一 ) など先駆的に試みられているが、休眠岡邦一 l) といった火山噴火後の植生遷移と生活常、週末、月末、季末、年末の各圏に分かれ、 に書き表そうとすることによって、人々の思考芽の位置で分類したラウンケルの生活型 ( 一九型の変化に関する研究がある。さらに比較的ス階層的な構成をみる。生活圏を一定の限られた にサークル活動のな 0 七 ) がもっとも有名である。ラウンケルは、生ケールの小さい時間内での動きを示す場合の例地域に定めようとするのが定住圏の構想であ を立て直す役割を果たし、 ) かで人々の気持ちを自覚的に結び付ける機能を活型の体系を設定する際には、気候との関係でとして、人工草地 ( 一九五七、沼田真・依田恭一 l) 、り、それによって地域格差の解消や、過疎・過 とらえるのが本質的であり、かっ取扱いも容易竹林 ( 一九六一一、沼田真・青木一子 ) などの研究が密をなくそうとする。なお、低い段階のものは もち、③日本語による表現能力を高め、日本語 一次日常生活圏とよばれる。第二次世界大戦 の大衆化の役割をも担っている。また、④個人で類別しやすく、しかも統計的に比較できるとある。 生活型の概念は狭義にはラウンケルの休眠型時、ドイツが国土計画に生活圏構想を採用した 体験の客観化は、大衆運動の成長を促し、社会考え、植物の休眠芽の位置やその保護状態など 〈沢田清〉 を中心とするが、広義にはさらに生育型や繁殖ことは有名である。 に着目した。 の民主化を推し進める運動を支えてきた。 せいかっし生物個体が出生してから ラウンケルはまず樹本を地上植物 ( ) と 型なども含められる。生育型は植物の生育形態生活史 生活記録は、庶民生活およびその社会のなか を外形的特徴によって類型化したもので、植物死亡するまでの過程。生物は発育段階ごとに、 、訴えずにはいられない願いや要求、怒りやし、大高木 ( 休眠芽の位置が地上三〇以上Ⅱ の生活環境や群落構造などをより敏感に反映し環境的・形態的・生理的変化と密接に関連して 悲しみや喜びが存在するという社会状況を背景 >) 、中高木 ( 八 ~ 三〇Ⅱ ) 、小高木 ( 二 ~

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せきかそ 関ヶ原の戦い 1600 年 ( 慶長 5 ) 9 月 1 5 日 , 美濃関 ヶ原で行われた天下分け目の合戦。 当初 , 東西両軍の勢力はともに 8 万 前後で伯仲していたが , 西軍には東 軍に内応するものも多く実戦に参加 したものはわずか 3 万 5000 人にすぎ なかった は終本 右上方に「厭離穢土・欣求浄土」の旗 印を掲けた徳川家康の本陣があり , 一 卞の坂崎出羽守 , 酒井左衛門尉 , 石川伊豆守 , 永井右近太夫 , 山本帯 刀 , 丹羽勘助ら諸将の軍勢がこれを 取り巻く。下部には , 南宮山に布陣 する毛利宰相 , 吉川蔵人 , 安国寺ら「 西軍の面々が描かれている 00 ・ト 天満山に布陣する西車の石田治部少 輔 , 島津兵庫頭らと東軍の井伊兵部 少輔 , 織田有楽 , 小幡勘兵衛らの合 戦が描かれている。 いすれも「関ヶ原合戦図屏風』ニ曲 ニ双 ( 部分 ) 。この合戦図は , 田安徳 川家に伝来し , のちになって屏風に 仕立てられたものである。高各扇 104.5cm , 横各扇 63.05 東京徳 川黎明会 石家荘せきかそう / シーチャチ「一ワン中国、河 6 北省の省都。石家荘地区の中心地でもある。市 5 区人口一一三万 ( 一九会 ) 。華北平野の北西、太 さんろく 行山脈山麓にあり、古くから開発の進んだ地域 せきゅう かくろくせい で石邑とよばれていた。市域の西部に獲鹿、井 の二県を含む。この両県は秦以来の古い歴史 をもつが、石家荘は南北の幹線 ( 京広鉄道 ) か ら東西の幹線 ( 徳石・石太鉄道 ) が分岐する地 点にあって、とくに山西省や内モンゴル地方か らの物資の集散地として新しく成長した都市で きゅうもん せきもん ある。一九二五年に休門鎮と合併して石門市 が設けられ、四七年に石家荘市に改められた。 鉄道が建設される以前の交通の中心は、市の北 にある正定であった。市域の農業としては小 麦、トウモロコシと綿花の栽培が多いほか、最 近は大都市に近い位置を利用して野菜栽培が盛 んである。さらに石家荘以東は中国の代表的な 綿花栽培地帯であり、石家荘は紡績工業の中心 地となっている。また井陲では良質のコークス 炭を産出するほか、薬品、肥料などの化学工業 や機械工業も発達し、省内第一の総合的工業都 市となっている。 〈秋山元秀〉 関金 ( 町 ) せきがね ( ちょう ) 鳥取県中部、東 伯郡にある町。一九五三年 ( 昭和二八 ) 矢送、 なんごくやまもり 南谷、山守の三村が合併して成立。国道三一三 だいせんひるぜん 号が通じ、裏大山ー蒜山高山ラインの終点。中 つやま みま一か 心の関金宿は、峠を津山へ抜ける美作往 来に沿い、湯のわく宿場として栄え、湯の関と おおとり さんけ、 もいった。大鳥居地区はかっては大山参謐路の 登り口であった。江戸時代はたたらと木地の産 地、現在は農林業と温泉の町で山守ワサビを特 ぼさつはんか 産する。関金宿の地蔵院は木造地蔵菩薩半跏像 ( 国の重要文化財 ) や青銅製の擬宝珠などを収 はやし 蔵する。「さいとりさし ( 刺捕差 ) 」は囃子踊の 一種で県の無形民俗文化財。人口四九五五。 〔関金温泉〕大山や蒜山を望むひなびた環境に ようろう ある国民保養温泉。養老年間 ( 七一七 ~ 七一一四 ) の発 しろがねのゆ 見と伝えられ、古名は白金湯という。泉質は高 放射能泉。山陰本線倉吉駅からバスの便があ 〈岩、水実〉 五万分の一地形図「大山」「湯本」 関ヶ原 ( 町 ) せきがはら ( ちょう ) 岐阜県南西 端、不破郡にある町。一九二八年 ( 昭和三 ) 町 制施行。五四年 ~ 「、玉の二村、岩手村の一部 ふわのせき と合併。地名は不破関にちなむといわれる。壬 しん 申の乱や関ヶ原の合戦場として知られる。伊 ぶきすずか 吹、鈴鹿の両山地が南北から迫る地峡部に位置 しん やおくり じん

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すみやき わたし 一般化はむしろ明治期以後で、古い専業的炭焼 てにぎわった。「住ノ江渡」にかわって一九五 住之江公園すみのえこうえん大阪市住之江家康の知遇を得て一六〇三年 ( 慶長八 ) 以後一 すみよし きはおもに鉱山の精錬業や鍛冶に随伴した存在 五年 ( 昭和三〇 ) 住ノ江橋が完成し、有明海沿区、住吉川南岸沿いに設けられた府立公園。面〇年まで数回にわたり異国渡海の朱印状の交付 さん ・ンイン へグタ 0 一九三〇年 ( 昭和五 ) 開園しを受け、安南・東京地方に貿易船を派遣し、そであった。たとえば砂鉄精錬組織としての「山 岸の幹線交通路 ( 国道四四四号 ) となる。↓芦積一五・三ール はるゆきそあん 〈川崎茂〉たスポーツ用公園で、遊歩庭園のほか野球場、れ以後は子の玄之 ( 素庵 ) が貿易事業を継承し内」は、カンナ ( 鉄穴 ) 、炭山、たたら、鍛冶 刈 ( 町 ) ↓福富 ( 町 ) たんばやましろ うしづ テニスコート、児童遊技場やプールなどを備えた。土木事業では、〇五年に丹波・山城を結ぶの四部構成で、炭焼きが不可欠の存在であった 囮二万五千分の一地形図「牛津」 すみよし ことを示している。また古い漂泊性の強い金屋 住之江すみのえ大阪市南西部の住吉区と住る。西隣には競艇場がある。なお公園南に接し大堰川の疎通を計画、翌年これを完成したほ まっ うえまち 職人団にもかならす炭焼きの一団は随伴してい か、幕命により富士川、天竜川の疎通を行い 之江区にわたる低地一帯の地。上町台地の南西戦没軍人約八万五〇〇〇柱を祀る大阪護国神社 やまと がある。 京都では高瀬川を開通した。この結果、角倉家た。黄金の価値も知らずにいたという「炭焼き 〈位野木寿一〉 麓にあたり、古代、入り江をなして大和への門 はこれら河川の通船支配権を獲得し、また搬出長者伝説」にもこうした古い炭焼きの姿は反映 戸として知られていた。記紀などには「住吉」囮一万分の一地形図「住之江」 すみのえ を「須美乃叡」と訓じている。↓住吉 住吉神社すみのえじんじや一般には「すみ材木によって上方の有力材木商となるなど多大している。 びわ おたる 平安期の貴族生活には暖房用に木炭が用いら 現在の住之江区は、一九七四年 ( 昭和四九 ) よし」とよばれる。北海道小樽市住ノ江に鎮の経済的利益も得た。晩年、琵琶湖の疎水計画 せた そこつつのおのかみなかつつのおのかみうわっつのおのかみおきなが に住吉区から分区してできた区で、区の西部は座。底筒男神、中筒男神、表筒男神、息長をたて、勢多ー宇治間の舟行と琵琶湖水位の低れ、さらに中世以後、茶の湯の普及と都市生活 そうし たらしひめのみことまっ きづ 八六四年下による新田開発を図ったが実現には至らなかの発展に伴ってその需要もしだいに増していっ 帯姫命を祀る。当社の創祀は、一 江戸中期からの大和川と木津川の河口三角州 しげかた はこだてはちまんぐう 〈村井益男〉 たので、京坂周辺にはそのためいくつかの製炭 で、住宅・工業地区と南港理立地 ( 運輸地区 ) ( 元治一 ) 箱館八幡宮神主菊地重賢がオタルナったという。 たんばおうみ 地 ( 丹波、近江など ) が形成され、若干は製炭 イ、タカシマ両所の総鎮守として住吉大神の勧回林屋辰三郎著『角倉了以とその子』 ( 一九四四・ からなっている。 〈位野木寿一〉 じよう 。しかし久しく一般 専業の山民も生じたらしい 星野書店 ) 八六八年 ( 明治 請を図ったことに始まる。一 囮一万分の一地形図「住之江」 だいとう いつくしま すみのどう大阪府西部、大東市の中農民のおもな燃料はいろり中心の薪で、自給用 〔住ノ江牡蠣〕 Ariake 一 ) 御神体を迎え市内山上町三本木の厳島社住道 スミノエガキ ねや やまと の炭焼きも古くからあったらしいが、その手法 心地区の一つ。旧住道町。寝屋川と旧大和川の oyster/8Crassostrea ミ軟体動物 ( 弁天社 ) 内に鎮祭、八二年現在地に遷座、九 おんじ ありあけ 門二枚貝綱イタポガキ科の二枚貝。有明海から九年社殿を改築し、一九〇六年 ( 明治三九 ) 県分流の恩智川の合流点付近の自然堤防上にあはきわめて簡略なもので、「炭かまど」を構築 ネに列した。例祭は七月一五日。また、八月る。江戸中期の大和川付け替え後開発された。するまでには至らなかったらしい。モソロ、エ 華北にかけて、内湾潮間帯の塩分の低い場所に だいだいかぐ ダヤキ、バラズミヤキなど薪材を焼いて土をか ↓大東 ( 市 ) 九、一〇日両日には住吉講大祭が行われ太々神 気ン殻幅五垰一ぐ 多くすむ。殻長九一、殻高一六 〈高橋美由紀〉 らい、大きいものは殻高二四に達する。通常楽が奉納される。 スミヤキ〔炭焼〕硬骨魚綱スズキ目シマぶせるか、あるいは坑をうがって薪材を蒸し焼 へん・ヘい ( 一五五四ー一六一四 ) イサキ科のシマイサキの別名。関西地方およびきにするといった旧手法はいまも若干山村に残 扁平な卵円形で、右殻よりやや深い左殻で他物 角倉了以すみのくらりようい あづち に付着する。殻表には板状に発達した成長肋が安土桃山時代の貿易家、土木事業家。本姓は吉広島、大分、宮崎各県などの方言であるが、体つている。 おうみ ひわだぶ 近世に入ると、都市生活の一般化に伴い本炭 檜皮葺き状になり、紫褐色を帯びる。内面は白田氏、幼名与七、名は光好。吉田氏は近江佐々側の縦線が多く、黒っぱい模様から名づけられ た。↓シマイサキ 〈赤崎正人〉の需要が高まって、製炭業もしだいに広まり、 、了以は角倉家五代とされる。 色である。スミノエの名は、有明海東岸の地名木氏の流といし とくしゅん おうえい すみやき本炭を焼成すること、また「炭かまど」を築いての製炭手法が創案された。 に由来するもので、ヒラガキ、サラガキの別名角倉家は応永 ( 一三九四 ~ 一四 = 0 のころ現れた徳春炭焼き そうりん もある。食用として養殖され、広島県や宮城県を初代とし、徳春およびその子宗臨はともに医はその業者。炭焼きはおもに山間農民の冬期の都市周辺の山村には農民の兼業的炭焼きがしだ そうちゅう いに増加していったが、なお木炭の一般需要は で養殖されているものはマガキ C. を s であ術に長じた。了以の祖父宗忠は、一五四四年兼業として近年まで広く行われてきたが、その かめやごい るのに対し、有明海方面では本種が主体であ ( 天文一三 ) 亀屋五位 ・ 1 らくちゅうおびィ一、とう たの町 ^ 奥谷喬司〉女から洛中帯座座頭 る。図膨カキ れ本沢 己 か日塩 職ならびに公用代官職 入既れあ 社【山開で郡 を哀で を獲得し、またこのこ カ泉をの ど 路年魚 も噐路も ろ嵯峨大覚寺境内に土 送近南 そう 発のし 、運 , 県 倉 ( 高利貸 ) 業を始 、るは潟 開、兆次建 も の秀創 キよま新 め、嵯峨角倉は豪商と 路の臣て 近 通彡豊い しても著名になった。 そうけい あん 右 荷あ和 佼新が用 , る昭 宅 了以の父宗桂 ( 意庵 ) けんみん さくげんしゅうりよう 河了材 は上 は遣明使節策彦周良 , 襲 の のち 8 にゆうみん 左逆 内以際の に従って入明し、医 ・・ ~ しが の 国了の第 かる通楽 者としても高名であっ , 塗 ほす開聚 般のつ て墨 の図ー 一きあ た。しかし了以は医業 易指頼材 業炭っ を継がず、算数・地理 貿を高余 「 ~ が秀 外事 , の ~ 涙元を学び、当時勃して ( 〕焼るの 海工は殿寺 ン 1 炭あ物 木寺仏泉 きた海外通商および国 で景 、つ和 以土泉大瑞 一き期の 了 , 瑞寺 内の建設諸事業に進出 塗名 焼治村 9 挈ー倉は。広都 角画り方京 墨大した。すなわち、徳川 当ノ 0 しき め 0 かん おお アンナン かみがた 0 まき

6. 日本大百科全書 13

すへいん 気温と降水量 スペイン各地の気象 サンタンテル サンタンデル パルセロナ LO (Z) LO 0 L-n 0 LI¯) O ℃ 2 2 1 1 250 200 150 100 50 0 バルセロナ リラド 月 怩℃ E E 0 1 ー「ー′っ 0 日皿 Z 7 気量 2 均水盻 5 平降 年年 度 経 2 温水度高 1 気降緯標 16.4 ℃ 594.2mm 41 。 24 ' N / 02 。 10 ' E 95m 年降水量 ( mm ) ロ 1600 以上 ロ 1000 ~ 1600 ロ 600 ~ 1000 にこ」 400 —600 に : 」 400 未満 タホ ( 同テージョ ) 川などの河ティカ山脈と南側のペニ・べティカ山脈で、後分の一が住む。内陸性気候であり、森林はほと ん′れみれい Ⅱによって分断されてはいる者にはスペイン最高峰ムラセン山 ( 三四七 0 しなんどみられない。灌漑の施されていない場合に が、ポルトガルの海岸平野がみど三〇〇〇級の山をもっシェラ・ネバダ山脈は休耕地を伴う穀物栽培や牧羊を主とし、地域 によりコルクガシ、ブドウ、オリー。フなどが栽 られる。メセタを西流する諸河が含まれる。グアダルキビル川は、その中・下 Ⅱは、ステップ ( 短草草原 ) を流に開けたアンダルシア低地を豊かに灌漑して培される。かっては牧羊が北ヨーロッパとの羊 いる。図イベリア半島 毛交易により栄え、産業においても人口分布に 流れるので流量の季節変化が大 〔気候・植生〕スペインの気候は、地形の影響おいてもスペインの中心的位置を占めていた きく峡谷部が多いため、舟連に と、性質を異にする大西洋および地中海の二つが、産業革命に遅れ、大土地所有制の足かせか は適さないが多目的ダムが建設 の海洋に面することから地域差が大きい。大西ら後進地域となっている。人口密度の低さもこ されている。メセタの東側に は、南東流して地中海に注ぐ工洋およびビスケー湾岸では、ほば通年降水 ( 年の地方共通の特徴であり、最近は離農者などの 人口流出により過疎化、老齢化が進み、地域内 。フロ川の河谷があり、その北か降水量九七〇 ~ 一七〇〇 = しがあり、冬暖かく ら東にかけてバスク山地、ビレ夏凉しい西岸海洋性気候を示す。北西ヨーロッ の農村と都市とは際だった対照をみせている。 バに似てカシや。フナなどの湿潤温帯林に覆わ都市はまばらで、おもなものでは首都のマドリ ネー山脈、カタルーニヤ山塊が ある。ピレネー南東麓を含む工れ、通年牧草地がみられる。内陸の両カスティ ード、旧アラゴン王国首都のサラゴサ、大学や ーリヤおよびエプロ低地では、これとは対照的自動車工場のあるバリヤドリード、プルゴス、 プロ川流域はスペイン電力の約 に厳しい低温の冬と暑い乾燥した夏の大陸性気サラマンカ、バダホス、歴史的都市のセゴビ 一一分の一を生産する発電地帯で かーれ ) かい あり、用水路による灌漑施設の候を示す。ここではステップに似た植生しかみア、トレドがあげられる。 られす、はげ山と茶褐色の土壌の台地というス 〔東・南部〕地中海性気候を示す地域で、南で 水源としても重要である。 半島の南縁には・ヘティカ山系ペイン的光景をみせている。南部の地中海岸かあるほど乾燥が激しく乾期も長い。アンダルシ があり、大断層によって生じた らカタルーニヤにかけては、温暖・湿潤な冬とア東部のアルメリアからバレンシア南部のアリ グアダルキビル河谷を挟んで、乾燥した夏の地中海性気候である。この地域にカンテでは年降水量三四〇ミリ以下、乾燥月が九 メセタ南縁のシェラ・モレナ山は硬葉樹林 ( オリー。フ、コルクガシなど ) が支か月に及ぶ。。ヒレネーの東部分から地中海沿い のカタルーニヤ、ヾ ノレンシアは独自の言語と文 脈に対している。ペティカ山系配的で、灌漑耕地では豊かな陽光を受けてオリ 、・月月 7 は、セグラ河谷などの細長い凹 ープ、オレンジ、イネなどが栽培される。北ア化を誇り、カタルーニヤにはスペインからの独 地を挟む南北二列の山脈からな フリカのサハラに生ずる高気圧の影響を受け立運動があり、ムルシアを含めたこれら三地方 等 る。すなわち、北側のス。フ・べて、南部はとくに暑くて乾燥が激しく、それに はスペイン内戦時に共和派の拠点となった所で 耐えるシュロの植栽が特徴的で、水の得られるある。とくにカタルーニヤの都市バルセロナ LO O (C) 0 0 所ではナツメヤシ、バナナ、サトウキビがつく は、一三世紀にこの地方最大の商工業、文化、 E フ」っ」 1 ー 1 ・ ) 0 られている。 金融の中心地として栄え、一八世紀以来の紡績 業から種々の工業が発展した都市で、市民自治 也士心 1111 ロ の伝統をもったスペインの先進地域であった。 半島部は自然、文化の両面から、北部 ( ガ現在も人口ではスペイン第二の都市であるが、 リシア、アストウリアス、バスク ) 、中央部港湾規模と商工業活動では第一位の産業都市で ( 新・旧カスティーリヤ、エストレマドウーラ、 あり、工業発展と急速な人口集中により大都市 レオン、アラゴン、ナバラ ) 、東・南部 ( カタ圏が形成されている。その周辺にはタラゴナ、 ルーニヤ、 ハレンシア、ムルシア、アンダルシ ヘロナなどの地方中心都市も発達している。さ ア ) に大きく三分することができる。 らに南方にはスペイン第三の都市バレンシアが 〔北部〕スペイン北西部からフランス国境まである。 南端のアンダルシア地方は、イスラムの影響 高い山脈が連なり、西岸海洋性気候の地域であ る。牧畜業が盛んで自営小農民が多く、内陸部をもっとも色濃く残し、イスラム文化の遺産が から隔てられていること、イスラムの支配を受多く、グラナダ、コルドバ、セビーリヤをはじ けなかったことなどから北西ヨーロツ。ハの延長め観光都市が多いグアダルキビル川の低地お とみられる。 よび海岸平野はよく灌漑されて農業が発達し、 〔中央部〕。ヒレネー山脈から西、エプロ河谷をオリー。フ、ブドウなどが栽培される。大土地所 中心としたアラゴン地方からメセタの南を限る有者による大農場経営で、一方では土地をもた シェラ・モレナ山脈に至るまでの、国土の約半ない農業労働者が多く、不在地主、生産性の低 分を占める広大な地域で、ここに総人口の約三 い経営などが目だっている。工業化政策が進め アルメリア マドリー ・、 / アルメリア L-n O 【う ) 0 (¯) O LO O ℃ 2 2 1 1 ] 00 1 2 3 4 5 6 7 8 9 1011 12 1 2 3 4 5 6 7 8 9 1011 12 月 ←→温年平均気温 13.9 ℃ 17.9 ℃ 降水量年降水量 437.9mm 230.6mm 緯度 / 経度 40 。 25 ' N / 03 。 41 w 36 。 50 ・ N / 02 。 26 ' W 667m 7m 注 : 、 : 4 〃 0 Es 市 s 0 虎 Es 加ル广 , 1980 年による 138

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ぜっめつ 4 のようなところでは接平面は存在しない。ま面の状態を示すものと仮定される。わが国で は、切峰面を、山地の全体的な形態、地形面の た、接平面と元の曲面との共有点は一つとは限 』フ士る的 た騎す能 らない。たとえば、円柱面の接平面は母線を含分類、大きい断層の位置の推定、原地形面の曲 れで吻官た のら人接 〈栗田稔〉隆や曲降の推定、地盤運動や地形発達史の研究 つんでいる。 テせニがの買 高 ンさ , 人もを説法せつばう仏の教え ( 法 ) を説き伝えなどに利用している。切峰面を描くには、地形 かんけ タ婚ち恋うく 製 ること。説教、演説、法談、談義、勧化、唱図上に、一辺の長さが調査する山地の谷を埋め は結おのいゅ 石 どう しやか マ略に語とし 理 るのにふさわしい幅の網目をかけ、その網目の 一政恋物うん導などともいう。釈迦は聞き手の能力に応じ、 大 , まひ その場合に適した教え方で、理解できるように最高標高を一つすっとり、その高さに基づいて るロちしの 年 吻いオうて間 〈有井琢磨〉 説法した。これを対機説法という。しかし、同等高線を描く必要がある。 田接てハむし世 のれ弟読吻は 一のことばで説法しても、聞き手の理解する能薛暮橋せつばきよう / シ「一エムーチャオ ( 一九 0 四 てらのを接時 ) 中国の経済学者。江蘇省の人。一九三 吻しと夫語も当力の程度によって、理解する深さも違う。仏 , 物ち表 接館とー は、①真実のことばで、②能力素質に応じ、③〇年代に雑誌『中国農村』によって農村問題の 術現よがのた発 、、量′ン美表歌カト分 悟るための手段を設け、④悟りの道を示し、⑤研究、蒙にあたる。日中戦争時は華中抗日大 ダンの 5 スッ自め ロダ愛第ェロでた 大悲の心で説くものであるという。これを五種学で教え、四三 ~ 四七年山東大学教授。四九年 ロの篇チスりの 吻女獄ンンだ型説法という。説法は出家者の行う施しの行為一〇月政務院財政経済委員会委員兼秘書長、五 接リ男地ララく造 ( 法施 ) とする。また、定めたときにする教団二年八月国家統計局局長となり、統計機構の整 た。臣下は領主不在のとき、忠誠心を示すための行事でもあった。説法の儀式のあり方、聞き備に尽力した。五九年九月大躍進政策を批判し のと、密室的な性愛表現のものとの二つに大別 かんめき 手の心得などは経典や各派の宗典に詳述されてて国家統計局局長の地位を失い、ついで国家計 できる。後者の接吻は、人類の普遍的行為で、 領主邸の戸の扉や閂に接吻した。 さいえ 画委員会副主任、国家経済委員会副主任のポス 現代欧米社会では、家族間で朝起きたときや いる。中国では斎会に説法することを唱導とい いうまでもなく夫婦や恋人間で交わされるも う。また絵を見ながら説明する絵解きも隆盛でトを失ったが、六四年六月国家計画委員会副主 の。前者と違って舌や歯を併用する場合もあ夜寝るとき、親しい者たちが会ったり別れたり る。これを日本では昔「ロ吸い」とよび、二つするとき、頬や額に接吻する。男性は、婦人のあった。日本では唱導を専門化し、代々家業と任に復活した。文化大革命期には反動経済学者 として批判されたが、七五年九月復活。七九年 のロのある「呂」の字を隠語的に用い、性愛の手に儀礼として接吻する。こうした欧米人に比するものも出て、俗化していった。今日、宗祖 ふしだん 接吻べ、東洋人には、挨拶や儀礼の接吻の習慣がはの教えや寺の縁起などを節にあわせて語る節談三月には国家計画委員会顧問、同経済研究所所 秘戯としていた。「くちづけ」なる語が、 〈石上善応〉長、八〇年八月国務院経済研究中心の責任者と とんどない 〈深作光貞〉説教が注目されている。 の意に使われだしたのは明治になってからで、 なる。著書には『社会主義経済の理論問題』 せつばうめんある山地の山頂や尾根 それ以前はまったく性愛と無関係の「口癖」の セップンソウ〔節分草〕 s ミ b ミ e 、・切峰面 などに接する仮想的な曲面をいう。山地は、水 ( 一九七九 ) 、『中国社会主義経済問題研究』 ( 一九七九 ) 、 意味であった。 斗、 il ミミ斗 (Maxim. ) Satake et Oku- 前者の挨拶や儀礼的なものには、近東から古 yama キンボウゲ科の多年草。早春植物で、食・氷食・風食・雪食・地すべり・山崩れ・周『当面のわが国経済の若干の問題』 ( 一九〈 0 ) など がある。 〈矢吹晋〉 初夏には地上部が枯れる。球状の塊茎がある。 氷河作用などの外的営力によって侵食されてい 代ローマに伝わった手や足への接吻がある。こ れは尊敬と服従の表示で、一一世紀の教皇グレ茎は高さ約一〇。葉は三全裂し、長い柄がある。山地の原地形が形成されてから、これらの絶滅鳥ぜっめっちょうすでに地球上から姿 る。花は茎の先に一つずつ開き、径約二弩。萼侵食営力は絶えず山地を侵食し続けている。山を消した鳥種をいう。古いものは化石や半化石 ゴリウス七世のころ、王や司祭などには手に、 教皇だけには足に接吻する取決めができた。足片は白色で花弁状、花弁は小形で黄色、先が分頂や尾根を構成している地表面は面状侵食を受でしか知られていないが、化石などが知られて いないものも多数いたはすで、その数は約一五 への接吻は最大の表示であった。また接吻は仲岐して字状の蜜腺となる。温帯の林縁や草原けているので、それらの標高は厳密な意味では 。しかし各山頂や万種と推測されている。博物学が発展した一六 に生え、関東地方以西の本州に分布する。石灰原地形の標高を示していない 直りの儀礼ともなり、原始カトリック教会では 「平和の接吻」中世以来の「和解の接吻」など岩地によく生える。名は、ほかの植物に先駆け尾根に接する面は、近似値的に侵食前の原地形五〇年ごろ以降に姿を消した種は約一〇〇種あ ると考えられている。その九割は の名称も生まれた。ヨーロッパでは中世封建領て節分のころ開花することによる。セップンソ 島の鳥と淡水の鳥であり、絶滅し 主が、臣下の表彰にとくに唇の上に接吻を与えウ属は、ユーラシア大陸東部に本種を含めて七 た原因のほとんどは人間、とくに 種が分布する小さな属である。なお、ヨーロッ 近代文明をもった人間によるもの ハ原産のものはエランシス属 E ミミミ s として 〈門田裕一〉 で、乱獲、自然破壊、加害動物の 独立させる説もある。 の 移入などがあげられる。これは一 接平面せつへいめん中心が O の球面上の点 る え 八四〇年から一九四五年の間に四 で半径 O< に垂直な平面は、この球面と点 << み 〇種以上の鳥が姿を消したことか だけを共有している。この平面を球面の接平面 らも明らかである。一九四五年以 、 < を接点という。一般の曲面では、 花さ 面 後は絶滅した鳥はいないが、現在 その上の点 < を通って上に引いた任意の曲線 ウで 平 ソ色 絶滅寸前にまで減少している種は に < で接線を引くと、これらの接線がすべて同 ン黄 面 の プは 一五〇種に上ると思われる。↓絶 上の平面上にあるとき、その平面を点 < での曲 えんすい ッ弁 〈浦本昌紀〉 滅動物 ・ ~ ( セ花面の接平面という。したがって円錐面の頂点接球 みっせん ほっせ たいき 曲面の接平面 6 引

8. 日本大百科全書 13

かに加児・蟹等に通用。地名姓。おも発祥の日下部流、ほかがある。 戸・海一尸・門内等に通用。地名姓。小地域の内片山形山・方山・剛山・固山等に通用。可児 側という意で、近畿地方に多い。大和の族は藤地形地名から姓氏へ。約一三万。おもな族は①な族は①美濃国可児郡可児郷発祥、清和源氏土河合かわいかわあい。川井・川会・川居等に こうずけた・一 むら ありみち 通用。一一つの川の落ち合う所をさす。地名姓。 原姓が多いという。ほか紀伊、加賀、信濃など上野国多胡郡片山邑発祥の有道姓児玉党、②武岐氏流、②清和源氏斯波氏流、③伴姓上野氏流 などがある。 おもな族は①藤原北家上杉氏流、②藤原南家一一 にある。 蔵国新座郡片山村発祥の藤原北家葛山氏法、 わたらい かねこ金児・金古・金戸・兼子等に通階堂氏流、③度会氏流、ほか異流が多い りかきのもと。柿元・柿下に通用 ほか異流が多い 金子 柿本 そうの かわ 古名族。渡来族。丹波の名族で、 かっかち・すぐる・すぐり・まさ。カノ 用。地名姓。職業姓。約三〇万。踏鞴すなわち かっ 古姓。地名姓。日く姓。おもな族は大和国添勝 はたいみき 上郡柿本発祥の柿本臣の裔、ほか山城、若狭、 ネ姓。地名姓。①上代の勝氏または勝部の後鍛冶に関係があるという。本貫は武蔵国入間郡秦忌寸より出る。寛永諸家系図伝』し。 ・ : つい・れ もののペ 裔、②近江発祥の物部氏流、③清和源氏武田氏金子村 ( 多摩郡金子村ともいう ) 。桓武平氏村始皇帝一五代、広隆が後胤」とある。京都広隆 大隅などにもある。 め ~ ーし 山党。中世の戦記物などに出てくる金子十郎は寺が祖地。西日本に多い 一流、ほか田共一流が多一 - い かけひ。懸樋・樋・掛合・掛樋等に 筧 かとう 佳藤・嘉藤・賀藤・香藤等に通著名である。 通用。物象姓。地名姓。全国にわたるが、とく 川上河上・川可美・川神・加輪上等に 加藤 ぶんご かのう叶・嘉納・狩野・十七夜等に通通用。古姓。地名姓。諸国の同地名より興る。 に西日本に多い。伊勢の名族は藤原姓。豊後国用。地名姓。氏姓。約七〇万。加賀出身の藤原加納 みやっこ おびと 氏の意である。藤原利仁流が多い。のち伊勢に用。佳称姓。当て字姓。地名姓。荘園の加納田古くは川上造、川上首などと称した。おもな 国埼郡富来の氏は平姓、関ヶ原の戦いで西軍に いわみ からくる。おもな族は①三河国加茂郡加納村発族は①石見国那賀郡河上邑発祥の佐々木氏族、 くみして没落した。 本拠が移り、東海一帯にとくに広まった。ほか かごや、カ ~ 」子′ー / ・こ・もり - や・こ 7 もり・た におもな族は①藤原北家道長流、②桓武平氏金祥の松平姓、②駿河の名族は加茂姓という、③②薩摩国川辺郡川上郷発祥の島津氏流、ほか武 小森屋・加護谷等に通用。地名姓。職業子氏流、③清和源氏武田氏流、戦国武将加藤清岩代国耶麻郡加納庄発祥の桓武平氏三浦氏流、蔵、近江、越後などにも名族がある。 ー ) もつけ ほか美濃、武蔵、丹後などにもある。 河之口に通用。地名姓。川の出入 姓。①下野国芳賀郡籠谷邑発祥の族は藤原姓、正は①の流という。 かど 口に付けられた地名から姓氏へ。おもな族は① かまだ加満田・鎌多・蒲田・烟田・釜田 すみかわ・すみがわ・つのかわ・ 鎌田 ②商家で、職業をそのまま姓にしたもの、ほか角川カわ ひまつり ひた がある。 。門川・住川・墨川・格川 等に通用。地名姓。当て字姓。おもな族は①常武蔵国多摩郡川口郷発祥の日奉姓西党、②岩代 ち だいじよう かさい、かっき、し 。笠居・河西に通用。等に通用。地名姓。多く川名より地名、姓氏陸国鹿島郡烟田発祥の桓武平氏大掾氏流、②国大沼郡河口村発祥の山内氏流、ほか諸国の同 葛西 * うすき すどう かっしか ー」、当・つイ、かっー」 - か ひゅうが 地名姓。中世の名族。①下総国葛飾郡葛西庄発へ。全国に約五〇〇〇。日向国臼杵郡門川邑発守部姓首藤氏流、③葛飾郡鎌田邑発祥の武蔵の地名を負う。名流が多い。 誇川先・川前・川埼・川岬・川碕等 大族、ほか全国に多い 祥、桓武平氏豊島氏流、②奥州葛西氏は①の祥の族は藤原南家伊藤氏流。 キエ画ーしげ ルオし に通用。地形地名から姓氏へ。地名姓。著名 叶・叶井・家内・金居・鼎等に通神力みみわ・こう・じん。三輪・美輪に通 流、清重は源頼朝に従い、奥州征伐に功があ金井 いぎわ 用。関東方面の特姓。地名姓。①上野国新田郡用。族名姓。神名姓。古名族。①古代伊勢国の姓。東日本に多く、約八万。おもな族は①武蔵 り、胆沢の地を賜り、子孫が栄えた。 あたい たちばな くにのみやっこえい かぬち・かたし。鍛・鍛治・鍛金井邑発祥の族は清和源氏新田氏族、②相模国神国造の裔。②紀国造族の裔で、紀神直の国橘樹郡河崎庄発祥の桓武平氏秩父氏流、②伊 鍛冶 ー ) もっ 1 〕 わたらい 勢国度会郡河崎発祥の度会氏流、③下野国塩谷 次・鍜冶等に通用。職業姓。古代の鍛師からく高座郡金井邑発祥の族は桓武平氏三浦氏族、③後。③諏訪神家はか。 から やまと こうやま・かみのやま。上山に通郡川埼庄発祥の宇都宮氏流、ほか異流、大姓が る。倭鍛冶や韓鍛冶があるが、全国に広まり、都筑郡および多摩郡発祥の武蔵の大族、ほかが 神山 かぬちペ 用。地名姓。信仰姓。おもな族は①駿河国駿河多い 地名や族名を残す。とくに大和、河内の鍛冶一尸ある。 むら ー ) も・つけ 側島・革島等に通用。地名姓。東 かなさす。金指に通用。名代姓。郡神山邑発祥の藤原北家大森氏流、②下野国芳 などが著名である。 金刺 みなしろしきしま ひでさと きんめい 日本に多い。おもな族は①近江国高島郡川島村 柏原れかしわら・かしわばら。樫原・橿古名族。欽明天皇の御名代、磯城島金刺宮名を賀郡上山邑発祥の秀郷流藤原姓佐野氏族、ほか ひでイ一と あそん すくねえい 発祥の佐々木氏六角流、②秀郷流藤原姓河村氏 原・柏良等に通用。地名姓。著名姓。おもな族負う。おもな族は①金刺朝臣、金刺宿禰の裔な異流が多い。 く : のみやっこ とわり きみ みやっこ かめい亀位・亀居・加目井・瓶井等に通流、ほか桓武平氏秩父氏流、藤原利仁流など、 は①古代の柏原造、柏原連、柏原公など、②ど、②信濃造族金刺舎人より出、信濃全域亀井 おおのおみ に栄えた多臣族、③伊豆の名族金指氏は清和源用。佳称姓。地名姓。おもな族は①紀伊国熊野異流、大姓が多い 大和国高市郡橿原発祥の清和源氏宇野氏流、③ よりひら ーロ天かわ 川又・川跨に通用。地名姓。二川 発祥の穂積姓鈴木氏流、②出雲の佐々本氏流、 ーー′ー 4 ーまた 近江国伊香郡柏原郷発祥の清和源氏頼平流、ほ氏を称する。 たちばな が分かれて川又になっている地形からの地名。 か武蔵の丹党、赤松氏流、橘氏流などがある。金沢 * かねざわ。地名姓。金さびや丹な③三河伴氏流、はかがある。 あがたのみやっこえい かず一 おもな族は①伊勢の大族は川俣県造の裔、 どの出る沢から地名、姓氏へ。おもな族は①武亀山地名姓。山城、伊勢、上総そのほ 片岡方岡・片止・形岡・潟岡等に通用。 だいいレト : っ ひでさと むら か全国の同地名を負う。東日本に多く、約四②桓武平氏大掾氏流、③秀郷流藤原姓佐野氏 地名姓。地形地名から姓氏へ。古代には、片岡蔵国久良岐郡金沢邑発祥の桓武平氏北条氏法、 やすとき さわやす かっ・らギしも おおむらじ 北条泰時の弟実泰の子実時を祖とする、②陸奥万。おもな族は①亀山天皇裔の亀山源氏。②伊族、ほか異流が多い。 大連がある。おもな族は①大和国葛下郡片岡 むら あすけ % 川邑・川邨等に通用。諸国の地名 邑発祥の藤原姓、②清和源氏足助氏流、③同上国津軽郡金沢邑発祥の清和源氏武田氏流、ほか勢国鈴鹿郡亀山邑発祥の桓武平氏関氏流、はか がある。 を負う。おもな族は相模国足柄郡川村発祥の秀 羽後、岩代、武蔵、信濃などにも名族がある。 佐竹氏流など、ほかに異流が多い かねさわうじ かも , 刀 ~ ~ 戊、自 . 日 ・甲カ毛等に通用。地名郷流藤原姓波多野氏流、ほか陸中、越後、駿 賀茂 * 片桐 かたきり。片切・片霧等に通用。本項目は「金沢氏」で示してある。 かねまる。兼丸に通用。地名姓。姓。信仰姓。日本最古の古名族。もとは神、三河、備中などにもある。 地名姓。当て字姓。著名姓。おもな族は①信濃金丸 まりべ むら みつよし かんだかみた・こうだ・しんでん。完 国伊那郡片桐邑発祥の清和源氏満快流、この系職業姓。古代の鞠部からくるものと、神戸の輪族と同一と考えられ、古代は各地に「カモ」神田 ー ) もつけ かつもレ」 田・官田・加美田・嘉味田等に通用。地名姓。 に戦国武将片桐且元を出す、②ほかに美濃、近余戸とがある。おもな族は①下野国那須の豪神を祀り、栄えた。各地に地名としても存在し ひたち ていたが、なかでも大和国葛城の鴨や山城国愛職業姓。神領田、宮田をさす。おもな族は①伊 江、甲斐、三河などにもあるが、①の後が多族、②清和源氏武田氏族、ほか筑前、常陸など わたらい まつら にもある。 勢外宮旧社家の度会姓の氏、②嵯峨源氏松浦氏 宕郡賀茂は著名。連綿として古代より続く。 ま - ィ一かレ」 さたみち いわ 流、③桓武平氏将門流、④同上貞道流、ほか異 かるべかりべ。加留部・刈部・軽辺等に も引かねもち・かなじ・かもち。日く 軽部 方倉・片蔵等に通用。地名姓。お金持 片倉 きなしの いんぎよ・つ 流が多い もな族は①信濃国伊那郡片倉邑発祥の諏訪神家姓。地名姓。もともと金地で、金の出土に由来通用。名代姓。地名姓。允恭天皇の皇子本梨 かんべ こうべ・じんべ・かんど・かみ 神戸 流、②白石藩片倉氏は①の族という。ほか秀郷する地名から姓氏へ。伯耆の豪族は日野郡金持軽皇子の名を負う。諸国に多い。おもな族は① たじまやぶ 毛野発祥の軽部君の裔、②但馬国養父郡軽部庄と・じんこ。古大姓。地名姓。もと神社所有の 邑発祥。 せ姓流藤原姓佐野氏族が著名である。 かみ いわ おみえい かめち ひでさと あまるべ む - つつき さねとき ・ : っ , け かつらやま かなえ かんべ 初し 冫月し かつらを たたら く一かべ レ」しひ一 しん 463

9. 日本大百科全書 13

せだゆ 世代交代 / ミスクラケ ストロビラ 一うとくじ せいしよう えんぎしき た、東京急行電鉄世田谷線が小田急電鉄豪徳寺東岸の瀬田、西岸の石山は東海道の渡河点であ る。①ヒトエグサ型配偶体は大きく、これに通る清正公道は、『延喜式』にも記録されてい る豊後に通じる古道で、参勤交代の制度が確立駅で交差している。道路は、甲州街道 ( 国道一一り、戦略上の要衝としてたびたび歴史上に現れ 雌雄の配偶子ができて接合する。接合子 ( 相 ) はのちに減数分裂を行い、多数の遊走子をする江戸時代には、細川氏の参勤ルートでもあ〇号 ) 、首都高速道路、東名高速道路、世田谷ている。現在も東海道本線瀬田川鉄橋、国道一 ^ 山口守人〉通り、玉川通り ( 厚木街道・国道二四六号 ) 、号瀬田川大橋、東海道・山陽新幹線と名神高速 つくる。この遊走子から配偶体が成長する。無った。 からはし こまぎわ たての 駒沢通り、目黒通り、第三京浜道路、環七通道路の瀬田川橋、旧東海道の瀬田唐橋など重要 性世代は単細胞の接合子だけで代表される。緑囮二万五千分の一地形図「立野」 やまと な交通路が集中している。一九〇二年 ~ 〇八年 り、環八通りが通じている。 藻類のヒトエグサにみられる型。盟ムチモ型 瀬高 ( 町 ) せたか ( まち ) 福岡県南西部、山門 かみ 区の中心部の世田谷は中世には吉良氏の所領 ( 明治三五 ~ 四一 ) の瀬田川改修工事で、湖ロ 配偶体が胞子体よりも発達するもので、コケ植郡にある町。一九〇一年 ( 明治三四 ) 上瀬高、 物や褐藻類のムチモなどにみられる。③アミジ下瀬高の二町 ( ともに一八八九年町制施行 ) がで世田合城跡が残り、江戸時代には井伊氏の支から五・五キ。地点の川幅が一〇九に拡幅され おおば ほんごう グ型胞子体と配偶体が形態的」ま 0 たく同合併し = 改称。一九〇七年 ( 明治〇 ) 本郷、配下「一代官大場氏 0 代官屋敷が」まも当時 0 = 水位が一一一・ ~ ( 下げられた。一九〇年」」 なんごうあらいせき やぐらさわ おがわかわぞい みどり 、川沿の三村と緑村の一部、五六年 ( 昭和構えを伝えている。世田谷は矢倉沢往還 ( 大山南郷洗堰も完成した。現在の洗堰は六一年 じで、おのおのの核相と生殖器官のみが異な さんげんぢやや ひがしやま 街道 ) から三軒茶屋で分かれる津久井往還 ( 現 ( 昭和三六 ) 完成のダム形式のもので電動式の 三一 ) 東山村と合併。北東部には丘陵性山地 る。褐藻類のアミジグサ、緑藻類のアオノリ、 〈高橋誠一〉 が分布するが、大部分は矢部川中流左岸の沖積世田谷通り ) 筋の交通の要地として発達し、当水位調節が行われる。 アオサ、紅藻類のテングサなどに代表的な例が いちなごり みられる。④コンプ型胞子体がよく発達する低地で、南部にはクリーク網が発達している。時の市の名残の「ばろ市」は現在も一二月一囮二万五千分の一地形図「瀬田」 セタシジミ〔瀬田蜆〕翌 0 ぎ s ミミミ・ が、配偶体は発達せず小形で肉眼的に識別がむ南北に走る鹿児島本線が佐賀線を分岐、国道一一五、一六日と一月一五、一六日に開かれる。区 ずかしい。褐藻類のコン。フに代表される型で、〇九号・四四三号が通じる。河港および宿場町域の大部分は近郊の農村地帯であったが、関東軟体動物門二枚貝綱シジミ科の二枚貝。淡水性 として発達、主産業は農業で、米作を中心に野大震災ごろからしだいに住宅地化し、現在ではの種で、琵琶湖およびその下流の水系にすみ、 シダ植物の場合もこの型である。種子植物もコ かわら 最近は河口湖などに移入されて繁殖している。 ンプ型の極端な型と考えられ、配偶体は花粉管菜産地としても有名で、酒、瓦、漬物の生産も農耕地はわずかに点在するのみとなった。玉川 - 」さっ はいのう 地区はかって温室村として知られた所で、成殻長三〇 = 、リ、殻高三五、リ、殻幅一七 : リ。滋賀県 盛んである。国指定名勝の本坊庭園をもっ古刹 および胚嚢で代表されると考えられている。 じよう ぞやまこう 1 ) きよみず 〈井上浩〉清水寺や、同史跡女山神籠石、同天然記念物の城は一九二五年 ( 大正一四 ) 高級住宅地とし大津市瀬田は本種の産地として名高く、名の由 コケ植物↓シダ植物↓藻類 ふなごや ・ ( 奥谷喬司〉 せたうらげんや熊本県北東部、船小屋ゲンジボタル発生地と新舟小屋のクスノて開かれた所である。多摩川に臨む台地末端部来となっている。↓シジミ 瀬田裏原野 ひやま - 一う おおえ かみのげ 阿蘇外輪山の緩やかな西斜面に広がる原野。面キ林など名所・旧跡が多く、大江天満宮の「幸の玉川、上野毛一帯は、南面した水に臨む好適瀬棚 ( 町 ) せたな ( ちょう ) 北海道西部、檜山 おしま とどろき わか 積約四平方キ。。約六五 % にあたる約二・七平方若舞」は日本最古の舞楽として国の重要無形民な住宅環境で、五島美術館、等々カ渓谷などが支庁管内の町。渡島半島の中央部に位置し、日 本海に臨む。一九二一年 ( 大正一〇 ) 町制施 キ。が森林、約二三 % にあたる約一平方キ。がスス俗文化財に指定されている。人口二万七五一ある。 ろか・一う 行。町名はアイヌ語のセタルペシュペナイ ( 犬 武蔵野のおもかげを残す緑地として、芦花恒 〈石黒正紀〉 キ、ササの原野、約〇・五平方キロが牛馬の放牧九。 てんか とくとみろか しゅんえん が泳ぎ渡る川の意 ) の転訛。国鉄瀬棚線の終点 春園 ( 明治の文豪徳冨蘆花の邸跡 ) 、馬事公 地となっている。大津町に属するが、牧野など回『瀬高町誌』 ( 一九七四・瀬高町 ) のまち えん ちょ・つよう いりあい の管理は、大津町と長陽村との入会による瀬囮二万五千分の一地形図「八女」「野町」「犬苑、都立砧緑地公園、井伊家の提寺の豪徳であり、国道一三九号が海岸沿いを走る。北部 じようしん くほんぶつ ゃながわ は狩場山地で、海岸も段止が多い。かってはニ 寺、九品仏で知られる浄真寺、関東大震災後 塚」「柳川」 田牧野組合に依存している。この原野の北縁を 世田谷 ( 区 ) せたがや東京都に都心から寺院が移転してきた烏山の寺町があシンの千石場所で栄え、現在もイカ、マスなど しよういん の漁業が中心。乳牛飼育も行われる。近代の女 区部の南西端にある区。都区部でり、松陰神社も緑地である。都立駒沢オリン 世 おぎのぎんこ 世 ー一九一三 ) は夫の北海道伝 、八一平方キ。 ) ビック公園は近代的施設の公園となっている。医一号荻野吟子 ( 天五一 最大の面積 ( 五ノ 相 = ′をもつ。一九三二年 ( 昭和七 ) 荏また、都立大学理学部・工学部、駒沢大学、昭道に従 0 てこの地で医療に従事したが、その遺 単複 和女子大学、成城大学、東京農業大学、武蔵工品などを展示する町立郷土館がある。北部地域 県郡の世田谷・駒沢の二町と松 もった 沢・玉川の二村が合併して世田谷業大学、日本大学文理学部・商学部、日本体育は狩場茂津多道立自然公園である。人口三八 ちとせきめた ^ 瀬川秀良〉 区となり、三六年に千歳・砧の一一大学、国士舘大学など学園も多い。人口八一万二。 せた 〈沢田清〉囮五万分の一地形図「狩場山」「瀬棚」 一二九四。 村を編入。かって勢田 ( 多 ) 郷の せんすみた 回『世田谷区史』上下 ( 一九五一・世田谷区 ) ▽ 地であったことが地名の由来とい 世田米せたまい岩手県南東部、気仙郡住田 むさしの う。武蔵野台地を占めるが、南西 『新修世田谷区史』全五巻 ( 一九六一一 ~ 七六・世田町の中心地区。旧世田米町。平安末期の金山開 の 発に始まると伝えられる。太平洋側の陸前高 谷区 ) とおの おおふなと ′部の野川から西のほうは一段と低 、南の区境を流れる多摩川沿岸囮二万五千分の一地形図「東京西部」「東京西田、大船渡の両市と遠野市を結ぶ交通の要地。 きちじようじ みぞのくち ↓住田 ( 町 ) 南部」「吉祥寺」「溝ロ」 は沖積低地となっている。台地面 せんかわからすやま 0 ペンケイソウ せたがわ滋賀県の琵琶湖南端から流 セダム を仙川、烏山川が南東方向へ流瀬田川 。・一・・ - ゅ cedar 三一精油の一つ。 セダー油 れ、侵食谷を形成している。北東出して南下する川。古くは勢多川、世多川、勢 1 ロい」わ・つ 受 シダーウッド油 cedar WOOd 0 = ともい , つ。 から南西方向に京王帝都電鉄京王田川とも書いた。下流は宇治川、淀川となる。 泉、小田急電鉄、東京急行電鉄新流出口から大戸川との合流点までを一般に瀬田アメリカのバージニア州に多産するビヤクシン 川とよぶが、河川法では淀川である。全長一五科エンビッビヤクシン ( エンビッノキ ) の心材 玉川線の各線が通じ、北部に京王 やまと 古くから北陸と大和とを結ぶ水路として重を水蒸気蒸留すると収油率三・五 % で得られる 3 帝都電鉄井の頭線、南部に東京急 れみちゅう 無色または淡黄色の粘稠な液体である。主成 5 行電鉄大井町線などが横切る。ま要視され、東大寺造営用の木材も連搬された。 工フィラ ポリフ、 有性世代 体 成 無性世代 精子 ぶん 1 ) フフメフ ロ 一とう

10. 日本大百科全書 13

となる。曲線がⅡ f( 、 ) こⅱ g ( 、 ) の形で与えれば止まる。挫滅された組織が少ないので創ので、回に属するものは「従属接続詞」とよばれ甲殻類に限って第二触角となるが、昆虫類や唇い られているとき ( 空間曲線ならばこれに 2 Ⅱ 脚類 ( ムカデ類 ) 、倍脚類などでは退化し、ク 6 治りはよい。が小さい場合はオキシフルでふることがある。一方、 9 に属する接続詞のつく きようかく き、マーゾニンなどの消毒薬で消毒して市販のる単位 ( 「デモ私は出かけた」 ) は、他の統語 モ形類 ( クモ類 ) でははさみ状の鋏角となる。 ミこを加える ) 、 P 。 0 ここに対応するバラメ きやくしゅ 滅菌ガーゼなどで覆っておけばおよそ一週間で体と対等に自立するから「等位接続詞」とよば第四節の付属肢は、クモ形類は脚鬚、ほかは ータの値 % に対して、ミき、ミ ) 7 ぎ を成分にもつべクトル、すなわち (f 、 ( 、ン治癒する。大きい場合も縫合や滅菌テープで傷れることがある。一般に従属接続詞によって接すべて大あごに分化し、食物をかみ砕く役目を 口を接着させると、やはり一週間で癒合する。続されるのは「節」に限られるが、等位接続詞する。第五、第六節の付属肢は一般に摂餌の補 9 、 ( 、。 ) ) をこの点における接べクトルという。 はんこん 接線の方程式は、このとき、″をバラメータと瘢痕 ( きすあと ) は細い線状である。泥その他は文法機能の等しい任意の統語体を接続する助をする第一、第二小あごであるが、クモ形類 して で汚染された創や異物が入っている創は、生理 ( 「犬ソシテ猫」 ) 場合がある。 〈山田進〉では第一、第二歩脚となる。 頭部にある目は単眼と複眼で、共存すること 食塩水やオキシフルなどで十分に洗浄したの接続水域せっそくすいいき contiguous と表される。 〈竹之内脩〉ち、縫合し、抗生物質を投与するが、細菌感染 zone 沿岸国が領海に接続して、その国の通もある。単眼は正中線上に一個、あるいは正中 かんよう 雪線せ。せん snowline 氷河の涵養域とをおこした創は開放のまま治療することがあ関、財政、出入国管理または衛生に関する法令線の左右に対をなして存在し、主として明暗を ーしレ画、つ、 : っ 消耗域の境界 ( 均衡線 ) の長期間にわたる平る。感染創では破傷風感染の予防がとくに重要の違反を防止し処罰するために規制を行うこと感受する。節足動物固有の構造である複眼は一 〈荒木京一一郎〉 均的な位置をさす。氷河の涵養域では降雪量がである。 が認められる水域をいう。接続水域の範囲は、般によく発達するが、特殊な生態をもつもので は二次的に退化している。複眼は一対で、頭部 融雪量を上回り、消耗域では逆に融雪量が降雪接阻峡せっそきよう静岡県北部、大井川上領海が三海里とされたときに、領海の基線から はいばらほんかわねうめじ 量を上回る。したがって、氷河の上で降雪量と流の峡谷。静岡市井川から榛原郡本川根町梅地一二海里までとされてきたが、領海が一二海里側面に位置する。多数の個眼の集合からなり、 融雪量が等しい点を連ねた線が雪線であるとい あたりまでの曲流の激しい渓谷である。接岨、 までに拡大されたことに応じて、二四海里までモザイク像を結ぶが、物の動きにはとくに敏感 きゅうしゅん ってもよい。これに対して、氷河のない山地で瀬早とも書き、河床は急峻な山腹斜面を深く とされている。二〇〇海里水域など、沿岸国ので、高等な動物群では色覚もあり、方向や距離の せんにゆうだこう も、夏になると上昇していく積雪の下限線を雪 えぐり、穿入蛇行とよばれる地形をつくる。海に対する管轄権の拡大に伴って、その意味は 認識もできることが実験的に確認されている。 かんぞうおもり 〈中村洸〉 胴部付属肢の数および形態は動物群ごとに多 線とよぶことがある。氷河の分布は周りの地形大井川鉄道井川線の閑蔵、尾盛などの駅のある薄れつつある。 へいたん せっそくどうぶつ動物分類学上、様に変化する。それらは基本的には連動器官で や方位によって影響を受けるので、雪線の位置高位置平坦面はかっての河床にあたる。一帯は節足動物 ( 高さ ) は氷河によって異なる。このように実モミ、ツガ、カシの森林景観をもち、奥大井県一つの門 Arthropoda としてまとめられる動あるが、昆虫類ではつねに三対、クモ形類では 際の雪線は地形の影響を強く受けているので、 立自然公園の地域である。長島、梅地は長島ダ物群。ェビやカニなどの甲殻類、クモやダニな四対、倍脚類では各節二対ずつである。昆虫類 これを地形的雪線ということもある。一方、あムが建設される予定地である。接阻峡温泉もあどのクモ形類、膨大な種数の昆虫類などからなやクモ形類の腹部は無肢であるが、胚期には痕 〈北川光雄〉る大きな群で、脊椎動物と並んで地球上のあら跡がみられ、また昆虫類の生殖器、クモ形類の る地域全体にわたる地形的雪線の平均値を広域る。 紡錘器は付属肢の変形と考えられる。甲殻類の ゆる環境に広く分布して栄えている。全動物門 的雪線という。広域的雪線はその地域の気候を囮二万五千分の一地形図「井川」 せっそくし二つの統語体を意味的、のなかでもっとも種類が多く、全動物の四分の付属肢は二叉型で、付属肢の原型をとどめてい 示す手掛りになるので、これを気候的雪線とよ接続詞 ぶこともある。雪線の高さは一般に極地方から統語的に関係づける要素。「接続」の概念はき 三で八〇万種以上といわれている。生活力も繁るが、二叉型は歩行よりも遊泳に適した形態で ある。 赤道に向かって、また湿潤な地域から乾燥地域わめて広い範囲を示しうるので、文法によって殖力も強く、個体数も著しく多い 〔体制〕体は左右相称の体節からなり、各節に 体表を覆う外皮あるいは外骨格からは、棘、 に向かって上昇する。第四紀の氷期には、雪線接続詞の定義はかなり食い違いをみせる。 二つの互いに自立しうる統語体どうしの意味付属肢が一対すつつくのが原則である。多数の突起、剛毛、柔毛などが発達して身を守るが、 の高さがいまより一〇〇〇 ~ 一五〇〇も低下 していたことが知られており、現在では雪線を関係は、単なる並列では十分に示されないこと体節からなる点はミミズやゴカイなどを含む環昆虫類では体壁の伸長に由来する二対のはねが がある。たとえば「彼がきた。私は出かけた。」 形動物門と類縁が深いが、環形動物ではほば同あり、特異な運動器官となっている。 越える山岳のない日本でも、氷河が発達してい - ごっもん 〈小野有五〉 じ構造の体節が並んでいるのに対し ( 同規的体〔体内器官〕消化管はロに始まり、肛門に終わ は「彼がきた。ソレデ私は出かけた。」なのか、 切創せ 0 そう incised wound 小刀、包「彼がきた。デモ私は出かけた。」なのか決めに節制 ) 、節足動物では体の部位によって体節のるが、ロは上唇、大あご、下唇、小あご、ある がっきやく いは鋏角や顎脚など付属肢に由来するロ器に 丁、かみそり、刀などの刃物、ガラスの破片のくい。片仮名の部分は両者の意味関係を明示す構造や機能が異なる ( 異規的体節制 ) 。体は、 いきゅ・つさのう 囲まれている。口に続、 して胃臼、砂嚢、幽門胃 るが、両者は統語的には独立している。一方、頭、胸、腹の三部に分かれていることが多い ような鋭利な辺縁のある物体でできる創傷で、 きず が、頭胸部と腹部あるいは前腹部と後腹部などを経て中腸に続くが、胃臼には内壁に歯状体が 「彼がきたノデ私は出かけた。」「彼がきたガ私 俗に切り傷といわれる。この創は創縁が鋭利、 に分化する。体表にキチン質と、これに主としあり、機械的消化を助ける。中腸には盲嚢が付 平滑で、周囲組織の挫滅が少ないのが特徴であは出かけた。」は、全体が一つの単位をなす。 属しており、複雑に分枝して消化、吸収、栄養 り、手術のときのメスによる創が典型的であ以上の片仮名で示した要素が接続詞である ( 国て炭酸カルシウムを含んだ外骨格が発達してい かんすいぞう 文法では、後者の類を「接続助詞」とよぶことる。体の屈伸を自由にするために、各体節は軟分の貯蔵の役をするため、とくに肝膵臓とよば る。打撲傷、擦過傷とともに日常おこりやすい れる。中腸に続く後腸もしばしば拡張部や付属 がある ) 。 らかい節間膜でつながっている。体節数は八 ~ 損傷であり、小さい切創から内臟に達する大き 二つの統語体を < 、、接続詞をで示す一八〇の幅があるが、体節の癒合がしばしばお腺を備える。筋肉はよく発達し、ほとんどは瞬 な切創まであるが、一般には傷口の大きさのわ こり、極端な例として、二節ずつ癒合して見か発的な運動機能に適した横紋筋であるが、腸管 りに深さは浅いことが多い。しかし、血管が切と、両者は S 〔 << 〕〔と、 @ 〔〕 け上一節から二対の歩脚が出ている倍脚類 ( ヤと血管のみは持続性に優れた平滑筋層に囲まれ れるために出血は多く、大血管が切れると急速という型の違いを示す。回に属する接続詞は せんそく かならす他の統語体に付属して、一つの単位スデ類 ) があげられる。頭部は理論上六節からている。 な出血をきたし、大静脈では空気栓塞をおこ 呼吸器官は、水中生活種ではえら、陸上生活 し、生命に危険が及ぶ。毛細血管や小血管から ( 「彼がきたガ」 ) をつくるが、その単位だけでなる。第一節は付属肢を欠き、背面に目をも の出血は数分間清潔な布やガーゼなどで圧迫すは自立できないという性質をもつ。この意味つ。第二節の付属肢は触角、第三節の付属肢は種は気管またはその分化した書肺である。えら ぎめつ せきつい せん せき