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検索対象: 日本大百科全書 14
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1. 日本大百科全書 14

ぞうたん 操舵装置 〔図 A 〕人力操舵装置 ( 舟艇の例 ) チラー 〔図 C 〕動力操舵装置プロック図 船橋 〈内田武吉〉ぶし大または小児頭大に嚢胞性拡張したもの により、本人に対して効力を生ずる。①訴訟無て、郵便に付する送達 ( 一七二条 ) や外国にお条 ) 。 ける送達 ( 一七五条 ) がある。相手方の住所が 刑事訴訟では、召喚状の送達 ( 刑事訴訟法六 で、先天性あるいは特発性総胆管拡張症ともい 能力者に対する送達は、その法定代理人に対し てこれをなす ( 一六五条 ) 。⑦在監者に対する不明の場合の方法としては公示送達 ( 一七八 五条・一五三条 ) 、起訴状謄本の送達 ( 同法一一 う。頻度は先天性胆道閉鎖症に比して少ない 五五条・二七一条、刑事訴訟規則一六六条・一 が、わが国に多いといわれる。男児より女児の 送達は、監獄の長にこれをなし ( 一六八条 ) 、条 ) の制度がある。 その者の責任で本人に書類を交付させる。代理 送達は、別段の規定ある場合を除くのほか、 七六条 ) 、裁判書の謄本の送達 ( 同規則三四条 ) はうが多くみられる。 しゆりゅう おうだん 人に対する送達については、数人が共同して代職権をもってこれをなすものとし ( 一六〇条 ) 、 などがあるが、これらの書類の送達について 症状は、黄疸、腹痛、右上腹部腫瘤が三主 理権を行うべき場合においても、送達はその一受訴裁判所の書記官がその事務を取り扱うのでは、裁判所の規則に特別の定めのある場合、す徴とされるが、乳幼児では腹痛を訴えることは おうと 人に対してなせばよい ( 一六六条 ) との特則があるが、場合により送達地の地方裁判所の書記 なわち刑事訴訟規則第六一一条 ( 送達のための届少なく、食欲不振、嘔吐、下痢などの消化器症 ある。なお、交付送達の方法をとれない場合に 官に嘱託することもできる ( 一六一条 ) 。送達出 ) 、第六三条 ( 郵便に付する送達 ) 、第六三条状や灰白色便をみることが多い。この症状は自 は、出会送達 ( 一六九条二項・三項 ) 、補充送手続を実施する者としては、執行官ならびに郵の二 ( 就業場所における送達 ) 、第六四条 ( 検然に軽快し、また一定期間ののちに再発するこ 達 ( 一七一条一項 ) 、差置送達 ( 同条二項 ) な 便集配人があり ( 一六二条 ) 、裁判所書記官が察官に対する送達 ) 、第六五条 ( 交付送達 ) のとも特徴である。したがって反復する腹痛およ どがあり、これらの方法もとれない場合とし 自ら実施する場合もある ( 一六三条・一七九定める場合を除いては、民事訴訟に関する法令び黄疸をみたときは、この疾患を強く疑うべき の規定 ( 民事訴訟法一六〇条 ~ 一六二条・一六 である。腹部腫瘤も大小さまざまで、鶏卵大か 四条・一六五条・一六八条・一六九条・一七一ら腹腔全体を占める大きさになることもあり、 条・一七五条・一七七条など。ただし公示送達多くは軟らかく、圧痛がみられることがある。 に関する規定を除く ) が準用されている ( 刑事 診断は、超音波検査で、肝臓の下方に嚢胞が 認められると確定するが、十二指腸造影や胆管 訴訟法五四条 ) 。公示送達 ( 裁判所の掲示場に シンチグラフィーも有用である。治療として 掲示して行う送達 ) に関する規定が準用されな いのは、被告人の利益を害さないためである。 は、診断が確定したら開腹し、嚢胞摘出、胆 ふん一う 書類の発送は、裁判所書記官がこれを取り扱う 管ー空腸吻合を行う。診断がっかないまま放置 ( 刑事訴訟規則一一九八条 ) 。 ^ 内田一郎〉すると、肝障害が進行したり、感染症を合併す しようだへい 1 一ろう る危険が大きい。なお、術後の予後は良好であ そうだへいごろう 0 荘田平五郎 荘田平五郎 〈山口規容子〉 一 ) 室町後期の画る。 宀不湛そうたん ( 一四一三ーハ そうたんしてんのう江一尸中期に 家。俗姓は。宗湛は出家してのちの法名宗旦四天王 ようそうそう で、自牧と号した。大徳寺の養叟宗に参禅、活躍した千宗旦の高弟四人のこと。顔ぶれにつ しょっこくじえきししゅうしん そうへん さらに相国寺の益之集箴のもとへも参じた。 いては諸説あるが、一般には山田宗偏 ( 一六一一七ー しようしよう しようせん ようけん ー一七 0 六 ) 、藤村庸軒 ( 一六 一四六二年 ( 寛正三 ) 相国寺松泉軒に『瀟湘一七 00 、杉木普斎 ( 一六一天 あしかがよしまさ くすみそあん ー一七一一 0 をいう。 八景図』襖絵をかき、将軍足利義政の称賛を受一三ー九九 ) 、久須見疎安 ( 一六三六 みかわおがさわら ィ一 / につ いしやまでら け、以後、高倉御所、雲沢軒、石山寺などの襖宗旦の名代として三河小笠原家の茶頭となった 絵を制作。翌六三年には幕府の御用画師とな宗偏、仕官せす、伝書の形で弟子に利休・宗旦 の茶を伝えた普斎、茶博士といわれた庸軒、そ り、将軍の命があったときはいすこにも描くこ じよせい は」・つっ / 、 ちやわしげつしゅう と、その俸禄は周文と同額の月俸と定められの女婿で、代表的な茶書『茶話指月集』を著 た。宗湛は周文の後継者としてよくその任を全した疎安と、それそれの個性と生き方で千家の うしたが、遺作に乏しく、末完成のまま亡くな茶の普及に尽くした。↓杉木普斎↓藤村庸軒 そうけい ↓山田宗偏↓茶話指月集 〈村井康彦〉 ったため子の宗継が描き継いだとされる大徳寺 ろがん そうたんしゅう鎌倉時代の仏教説話 養徳院旧蔵の襖絵『芦雁図』 ( 京都国立博物館 ) 雑談集 むじゅう をその代表作にあげるにすぎない。〈橋原悟〉集。一〇巻。無住の著。一三〇五年 ( 嘉元三 ) しやせき 回松下隆章著『日本美術絵画全集 2 如拙 / 周成立。同じ著者の手になる『沙石集』と同様 ひゅ 文』 ( 一九〈一・集英社 ) に、説話を比喩・例証として、読者を正しい仏 そうぎようたんしゆく 教理解へと導こうとするもの。硬質の教理解説 操短そうたん 0 操業短縮 そうたんかん肝臟から出る総肝管的な記述が多いが、各論の断片を順不同に並べ 総胆管 たんのう おもむき ( 左・右肝管が合したもの ) と胆嚢から出る胆た趣があり、体系的ではない。他の説話集と 嚢管が合一してから、十二指腸に開口するまで類似の説話も少なくないが、著者の見聞に基づ く同時代の説話には捨てがたい味わいのあるも の部分をいう。↓肝臓 そうたんかんかくちょうしよう のも多い。説話集としては珍しく著者自身を話 総胆管拡張症 たんのう 肝臟から出る肝管と胆嚢から出る胆嚢管が合一題にするところがあり、説話集編者の内面をの して十二指腸乳頭に達するまでの総胆管が、こそかせている。 〈小島孝之〉 9 ヨークライン ョ - 判川 - 舵角 指示器 舵輪 角置 命発 舵角受信 指示器 操舵機 宀し 宀匕 ヒントル 舵輪 カ・ジョン 〔図 B 〕人力操舵装置 ( 小型船舶の例 ) ロッド クロスへッド ( 操縦装置 ) 補助操縦 装置 車 命令舵角 受信装置 滑り棒 ( 手動 ) 補助操舵機 ( 操舵機 ) 置 機装 舵停 操発 追従装置 ギャ 逆に切ったねじをもつ回転軸 操舵機 4 舵 コードラントチラー 滑車 ドラム 置 角達 宀し一ム 緩衝装置 舵角発信器 舵輪 操舵鎖 ( 索 ) 舵角指示器 車 舵頭材 0 滑車 宀ヒ ふすま ふさい

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たかのささぶろう ( 一会一一 りのよい裸地に生える。 名は 9 ミ旁 as をミきとなる ) 。本州中部の北 〈小山博滋〉働者教育の分野でも先駆的役割を果たす。高野高野佐三郎 むさしちちぶ にしそのぎ やっ アルプスと八ヶ岳の高山帯に産するが、本種は 高野 ( 町 ) たかの ( ちょう ) 広島県北東部、比房太郎の弟。明治四年九月一一日長崎県西彼杵郡近代剣道確立期の一大指導者。武蔵国秩父郡大 日本産チョウ類のなかでもっとも高山性のもの婆郡の町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 上高野山、長崎区銀屋町 ( 長崎市 ) に生まれる。東京帝国宮郷 ( 埼玉県秩父市 ) の旧家に生まれる。幼時か みつまさ ら祖父苗正について小野派一刀流を学び、六歳 で、その分布の下限は標高一一五〇〇を下るこ下高野山の一一村が合併して町制施行。国道四一一一大学法科大学卒業後、大学院で労働問題と統計 しもうさのかみ おうめきだわ 二号が王貫峠を越えて島根県へ通じている。周学を専攻し、在学中の一八九七年 ( 明治三〇 ) のとき領内巡視中の藩主 ( 忍藩 ) 松平下総守の とがない。種ミ 0 こはラップランド、アルタ せきりよう おおよろぎさん くみだち イ山脈、タルバガタイ山脈、北アメリカ寒冷地囲は中国山地の脊梁部をなす大万木山 ( 一 = 天桑田熊蔵、小野塚喜平次らと社会政策学会を創御前で、祖父と組太刀五六本を演じ、奇童の一一 一るま寺」 しんいち など北極をめぐる地域に分布し、周極種として 、猿政山などの山々がそびえ、山間の新市立、その中心的世話役となった。九九年より四字と銀子一封を賜ったという。一八歳のとき、 ごう かんのせ 八六年 知られる。はねの開張四八、、リ内外。成虫の出現盆地が中心地で、江川の支流神野瀬川が西流し年間ドイツに留学、社会統計学および経済学を上京して山岡鉄舟の門に入った。一 期は七 ~ 八月 ( 七月下旬ごろが最盛期 ) 、本種ている。高冷地で雪も多く、水田単作地帯であ学んで帰国し、東大の教授となって同大学で初 ( 明治一九 ) 鉄舟の推薦で警視庁の剣術世話掛 る。ジャガイモ、キャベッ、リンゴ栽培などやめて設けられた統計学の講座を担当、社会統計 に採用されたが、師の死にあって在職二年余で は一世代の完了に足掛け三年を要するもので、 一年目の冬は三齢 ( または二齢 ) 幼虫で、二年酪農、林業などが行われる。南西部に高ダム学の研究と普及に努めた。一九一〇年 ( 明治四辞職帰郷。やがて埼玉県警の武術教授掛を命ぜ 三 ) 国勢調査準備委員となり、日本最初のセンられると、祖父以来の道場明信館の第一支館を 目の冬は五齢幼虫で越し、三年目に羽化出現すとその貯水池がある。堀江家住宅は一六世紀の いりもや サス実施を指導し、また一六年 ( 大正五 ) わが 浦和に建て、これを手始めとして星野仙蔵ら県 る。幼虫の食草はヒメスゲ、イワスゲなどのカ建造とされる入母屋造農家で、国指定重要文化 ャツリグサ科植物である。 〈白水隆〉財。人口二九五五。 〈北川建次〉国最初の試みとして「二十職工家計調査」を実内・近県の素封家の理解援助を得て、相次いで たり とんばら かみふの タカネマッムシソウ〔高嶺松虫草〕囮五万分の一地形図「多里」「頓原」「上布野」施した。彼はまた東大法科大学より経済学部を支館を設定し、公務のかたわら剣道の普及に精 たかのいど At the Hawk's Well 独立させるため努力し、一九年これを実現させ力的な活動を続けた。九五年、京都に大日本武 S き b ぎを、 0 こミ Miq. var. ミミ Take- 鷹の井一尸 da マッムシソウ科の越年草または一果生のアイルランドの詩人、劇作家イエーツの一幕物た。この年、国際労働会議の代表に選任された徳会が創立されると、いち早く明信館の組織を 多年草。茎は高さ三〇 ~ 四〇。葉は対生し、詩劇。一九一六年初演。アルスター伝説の英雄が、手続上の不備から労働組合の反対にあってあげてこれに加入し、翌九六年第二回武徳祭に 羽状に裂ける。八 ~ 九月、草丈に比して大きな クーフリンは不死の水を飲むため山中の涸れ泉断念、責任をとって東大を辞職した。これを機出席し、大演武会の審判委員に選ばれ、精錬証 青紫色の頭花を上向きに開く。亜高山帯から高にくるが、見張りの女 ( 実は土地の霊である鷹に大原社会問題研究所の所長となり、社会問題を授与された。ついで大日本体育会が創設され 山帯の小石混じりの草原に生え、中部地方以北 の化身 ) の踊りに誘い出されて、水の湧き出るの研究調査や学者養成に尽力。また労働運動、るや、九八年には同会埼玉県常務委員を委嘱さ の本州、四国に分布する。 〈高橋秀男〉瞬間を逃し、自己の運命を知って、攻め寄せる無産政党運動の助言者となり、他方、大阪労働れている。翌九九年には、平沼専蔵の援助を受 けて東京の九段下に第四一一支館東京明信館を建 タカネマンテマ S ミミミ、 ge 女車と戦う。ほかに、五〇年間待ち続けて、な学校の経営委員長としてその運営に献身した。 Chowdh. ナデシコ科の多年草。茎は株立ちお水を飲むことのできない老人が登場する。イ 二五年学士院会員、三八年 ( 昭和一三 ) 国際統て、大日本武道研究所の看板をあげた。 おりから中等学校の体育科に武道を加える主 となり、高さ一〇 ~ 二〇。葉は茎の下部につ エーツが日本の能の英訳に着想を得て書いた、 計協会正会員となる。 ひしん 戦後、「日本共和国憲法私案要綱」を発表し旨の建議案が衆議院を通過し、それに対応する き、狭倒披針形。夏、茎頂に花を一個開く。萼象徴主義的な劇の一つ。裸の舞台、三人の楽師 あ 筒は大きく、黒紫色の一〇本の脈が目だっ。花兼口上役、登場人物の仮面、劇中の踊りなど、 て天皇制廃止と共和国大統領制を主張、また安教員の養成が急務となり、一九〇八年 ( 明治四 とよひ・一 ぺいそお 弁は淡紅色で、先端が萼筒よりわずかに出る。 作劇技法に能の様式の影響がみられる。ロンド 部磯雄、賀川豊彦らと連名で社会主義政党結成一 ) 東京高等師範学校の撃剣科講師に招かれ がんれき みちお た。一一一年、大日本武徳会より大日本帝国剣道 中部地方の高山の岩礫地にまれに生え、北半球ン初演の際には、舞踊家伊藤道郎が鷹の化身をを呼びかけ、のち日本社会党の顧問となる。一 きた の寒帯に分布する。 〈三木栄二〉演じた。日本の新作能『鷹の泉』 ( 喜多流 ) 、九四六年 ( 昭和二一 ) より四九年四月五日に没形調査委員を嘱託され、その主査 ( 五名 ) の一 かんぜ タカネョトウ「高嶺夜盗〕 S 」 'nz stis 『鷹姫』 ( 観世流 ) は、この劇を逆輸入翻案したするまで日本放送協会会長として放送民主化に人として同剣道形の制定にあたり、翌一三年 りんし もの。 〈高松雄一〉 尽力した。統計学に関する代表的著作に「統計 ( 大正一一 ) 同会より剣道範士の称号を授与され まト三昆虫綱鱗翅目ャガ科に属するガ。 はねの開張一一五 = 、リ内外。前翅は灰黒色、後翅は回高橋康也訳『鷹の井戸』 (r 世界文学大系ハ 学研究』 ( 一九一五 ) 、『社会統計学史研究』 ( 一九一一五 ) た。ついで一五年名著『剣道』を刊行し、一六 イエイツ・エリオット・オーデン』所収・一九などがあり、また監訳書に『統計学古典選集』年には柔道の永岡秀一とともに教授に昇任し、 純白色で黒の縁どりがある。日本では七、八月 りようせん ごろ、北アルプスや南アルプスの稜線のお花 七五・筑摩書房 ) ▽風呂本武敏訳『鷹の泉』一一巻 ( 一九四一 ~ 四九 ) 、ウェップ夫妻著『産業民以後三六年 ( 昭和一一 ) 七五歳をもって依願退 〈大島清〉官するまで、前後三十余年にわたって剣道界の 畑や湿原上を陽光下に飛ぶ。本種のように高山 ( 『イエイツ戯曲集』所収・一久 0 ・山口書店 ) 主制論』 ( 一九一一七 ) などがある。 帯に限って生息するガを「高山ガ」とよび、こ たかのいわさぶろう ( 天七一 ー一九回大島清著『高野岩三郎伝』 ( 一九六ハ・岩波書店 ) 大指導者の地位にあった。この間、昭和天覧試 高野岩三郎 ▽法政大学大原社会問題研究所編『大阪労働合など大試合の審判員として活躍、また、私塾 のはかに十数種のヤガ、シャクガ、メイガ類が四九 ) 統計学者。労働運動への助言・指導と労 修道学院を経営して多くの名剣士を生んだ。八 学校史』 ( 一九全・法政大学出版局 ) 知られている。これらのガは氷河期の終結とと 〈渡辺一郎〉 たかのがわ京都市左京区を南西流し九歳で老衰のため死去。 もに高山に残された遺存種と考えられ、現在、 高野川 〈杉繁郎〉 北極圏に広く生息している。 て川に合流する川。滋賀県境付近の山地に発一咼野松山たかのしようざん ( 一〈〈〈ー一〈実 ) でまちゃなぎ ーこ注漆芸家。本名は重人。熊本市池上町に生まれ し、大原、八瀬などを経て出町柳で鴨月 . し タカネョモキ〔高嶺蒿〕」 4 ミ s を ひらせいろくあど 、ミミ Yabe キク科の多年草。根出葉をつ 。全長約一七キロ。高野川と比良山西麓の安曇る。祖父は細川藩の儒者、父は小学校校長であ し ったが、幼時より細工物に興味をもち、一三歳 川の渓谷を結んで若狭街道 ( 国道三六七号 ) が ける短茎と花をつける花茎とがある。八月、ヨ ななくち 通じ、古くは「京の七ロ」の一つの大原口が設で飽託郡立工業徒弟学校漆工科に入学。のち京 のモギとしては大形で径約一二 = 、。の頭花をつけ ゅう けられていた。水質が染色に適し、下流では友都市立美術工芸学校描金科、東京美術学校漆工 カる。サマニョモギに似るが、毛が少なく、葉の ーレ′つやましようさい 〈織田武雄〉科を卒業。在学中は白山松哉に親しく学び、砺 禅業が行われる。 オ裂片が狭い。中部地方以北の本州の高山の日当 高野岩三郎 ぜん ー一九五 0 )

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第 2 次世界大戦Ⅱ ①ドイツ軍とソ連軍の戦車戦。 1943 年 7 月 , ソ連のベルゴロド ( ロシア共和 国 ) 北方約 50km の平原で展開された②スターリングラード ( 現ポルゴグラ ード ) 市内の攻防戦。ソ連軍 ( 写真 ) の徹底抗戦を前にしてドイツ軍は 43 年 1 月末に降伏した③ミッドウェー海戦 ( 1942 年 6 月 ) 。この戦いで日本海軍 はその主力を失い , 以後 , 太平洋戦争の戦略的主導権をアメリカに渡すことに なった。右は日本の航空母艦「赤城」。この直後に米車機により被弾 , 炎上する ④工ル・アラメインの戦い。北アフリカでは , ロンメル麾下の独伊軍とイギリス のモントゴメリーの第 8 軍との間に熾烈な戦闘が繰り広げられたが , 43 年 5 月独伊 軍は一掃され , 連合軍のイタリア進攻が始まる。捕虜となったイタリア軍兵士 ーし、同月一六日総辞職した。かわってペタン元帥が首相とな り、翌一七日降伏を申し入れた。休戦協定は、六月二二日、 第一次大戦でドイツが降伏したときと同じく、コンビエーニ ュの森に置かれてある鉄道車両の中で調印された。この結 果、フランス本国の約三分の二はドイツ軍の占領下に置か れ、南部の残りの地域は「自由地帯」として植民地ととも に、ビシーに移ったペタン政府にゆだねられた。七月一〇 日、第三共和国憲法は廃止され、ペタンは国家元首となり、 ファッショ的な体制が樹立された。一方、降伏と同時に亡命 したドゴール将車は、ロンドンに「自由フランス」を設立 し、国民に対独抗戦を訴えた。 〔イギリスの戦い〕フランスを打倒したヒトラーは、イギリ スとの妥協の平和を期待した。イギリスは帝国の維持が保障 されたら、ドイツのヨーロッパ大陸支配を認めるであろう、 こう思ったのである。だが、チャーチルの抗戦の意志は堅 一九四〇年七月一九日ヒトラーが平和を呼びかけたとき いっしゅう も、これを一蹴した。ナチズムとは妥協の余地はないとい うのである。政治的に妥協できなければ、軍事的に屈服させ る以外にない。 このためもっとも有効な手段はイギリス本土 上陸作戦 ( 「あしか作戦」 ) であるが、これは制空権の獲得 を前提とする。こうして、ヒトラーは「あしか作戦」の準備 を七月一六日に命するとともに、八月一三日ゲーリングの指 揮をもってイギリス空軍に対する攻撃を開始した。その目的 は制空権掌握にあったから、イギリス戦闘機の撃墜、空軍基 2 地・軍需工場の爆撃に重点が置かれた。だが、イギリスの沿 岸レーダー網はよく整備され、空軍も性能や装備・訓練にお いて優れていたので、ドイツ空軍は容易に目的を達成できな かった。九月七日ロンドン爆撃が始まり、一一月一四日コペ ントリー空襲以後、都市への夜間の無差別爆撃に方針が転換 されるが、これは軍事的圧力から経済的・心理的圧力への戦 ( 、術転換を意味する。事実ヒトラーは一〇月一二日、「あしか 作戦」を翌四一年の春まで延期すると決定していた。 〔ヒトラーの対ソ戦への転換〕前述のように「あしか作戦」 の準備を命じたものの、ヒトラーはイギリスとの妥協の道を 模索し、一九四〇年七月三一日、陸軍首脳に、翌年春を目途 に対ソ攻撃を開始するとの決意を一小した。ヒトラーの考えは こうであった。イギリスはソ連とアメリカに期待している。 ソ連を一掃すれば、イギリスは最後の期待を失い、ドイツは ヨーロッパとバルカンの支配者になる。また、ソ連の一掃に よって東アジアでの日本の地位は強まり、アメリカとの対立 を深めよう。海洋帝国イギリスと大陸帝国ドイツとが妥協で 482

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たゆう ー一九き ) 小説 らえた。一二年博文館を退社、『人生の一宿駅』参加。パレスチナ戦争では司令官として活躍 四 ) 徳川を姓とし、翌年江戸城田安門内に屋敷田山花袋たやまかたい やかた たてばやし を与えられ、これを田安屋形と称したため田安家。明治四年一二月一三日、群馬県館林に生を書き、翌年藤村の渡仏を見送ったころから大し、その後のロードス島休戦交渉ではイスラエ ろくや きな転機を迎え、日光などにこもり、フランス ル代表団長を務める。一九五三 ~ 五八年参謀総 家とよばれる。一七四六年 ( 延享三 ) には十万まれる。本名は録弥。旧館林藩士の父鋿十郎は 一八七四年 ( 明治七 ) 警視庁巡査となり上京、 の作家ュイスマンスから仏教へと心を移し、長、この間五六年の第二次中東戦争でイスラエ 石の領地を与えられ、将軍の家族の一員として はる 待遇された。以後一時中絶期間はあるが、治花袋は七六年母に連れられ父の許にきたが、翌「時は過ぎゅく』 ( 一九一六 ) 、『一兵卒の銃殺』 ( 一九 ル軍を指揮。五八年に退役。五九年にマパイ党 なりまさ なりたかよしより かめのすけ 察、斉匡、斉荘、慶頼、寿千代、亀之助と七代年、父は西南戦争に従軍して戦死、花袋と母た一七 ) など意欲的な仕事をしながら『残雪』 ( 一九から国会議員となり、同年ペン・グリオン内閣 いえさと ていねん 一 0 などに諦念の世界を描いた。二〇年 ( 大正 に農相として入閣。六六年ペン・グリオンのラ 続いた。明治維新のとき亀之助 ( のち家達 ) はちは館林に帰る。八一年家計を助けるために、 旧将車家を相続し、慶頼がふたたび家督を継い 小学校の学業なかばで東京・京橋南伝馬町の有九 ) 花袋・秋声生誕五〇年の会が催され、『文フィ党に参加。六七年の第三次中東戦争では国 よしとも はんべい でっち で、藩屏に列した。↓徳川氏 〈上野秀治〉隣堂書店の丁稚となったが、翌年不都合なこと章世界』終刊のころから、『源義朝』 ( 一九一一四 ) な 防相として電撃作戦を展開した。しかし、第四 ろう ( 一七一五ー七 I) 八代をおこして、館林に帰り復学、かたわら吉田陋どの歴史小説に自己を投影し、愛妓を中心にし次中東戦争の責任をめぐる世論の批判の前に七 田安宗武たやすむねたけ - 一じろ、つ 1 一さんきよう えいき一いしんし 将軍徳川吉宗二男。幼名小次郎。御三卿田安軒の休々草堂で漢詩文を学び、『穎才新誌』に、 て男女の愛欲を問題にした『髪』 (一九 lll) から四年国防相を辞任。その後、七七年ペギン首相 ももよ みやと 家の祖、国学者、歌人。一七二九年 ( 享保一四 ) 和歌や漢詩を投稿した。八六年、兄実弥登が修長編『百夜』 ( 一九一一七 ) を書き、三〇年 ( 昭和五 ) のリクード内閣の外相に就任するが、和平交渉 じゅさんみ うえもんのかみ とみひさ ・一うとうがん 元服、従三位左中将兼右衛門督に叙任、徳川 史局に勤めたので一家をあげて東京・牛込富久五月一三日喉頭癌で没した。↓田舎教師↓蒲をめぐって・ヘギンと対立し七九年一〇月辞任。 ごんちゅうなごん 〈伊能武次〉 〈小林一郎〉自伝『私の生涯』がある。 氏を称し、六八年 ( 明和五 ) 権中納言に累進町に住む。大学予備門 ( 東京大学の前身 ) に通団 かだありまろ した。幼少より学問を好み、荷田在満を召し抱う同藩の野島金八郎に英語を学び、西洋文学に ・ダヤン著、笈川博一訳『中東和平交渉』 回『花袋全集』全一七巻 ( 一九七三 ~ 七四・文泉堂 ) かもまぶち しゅうへい ( 一九〈三・時事通信社 ) え、ついで彼の推薦によって賀茂真淵を家臣と触れる。八九年ごろより松浦萩坪 ( 辰男 ) の ▽柳田泉著『田山花袋の文学』二巻 ( 一九五七、 ゃなぎ し、古典研究を深めて三者互いに影響を与え合「紅葉会」に入り、和歌を正式に学び松岡 ( 柳 ン〔達延汗」 Dayan Qaran 大・春秋社 ) ▽岩永胖著『自然主義文学にダヤン・ た ( 一四六四ー一五一一四 ) モンゴルの君主。チンギス・ った。後の国学者に与えた影響も大きい。歌集田 ) 国男を知る。このころから、軍人や政治家 於ける虚構の可能性』 ( 一九穴・桜楓社 ) ▽小 あもりごと ン家の再興者。本名はバト・モンケ。幼くして 志望をやめ、文学に進むことを決意する。 『天降言』のほか、在満・真淵との歌論につい 林一郎著『増補田山花袋』 ( 一九六九・創研社 ) ・一うよう かたいやくげん えみすい 一八九一年尾崎紅葉を訪問、直接には江見水 父母と離れて苦労したが、一四七九年チャハル て議論のすえまとめた『歌体約一言』古典の評 ▽小林一郎著『田山花袋研究』全一〇巻 ( 一九 ちゅう ′辷つも - ・つ せ おぐら ハンの未亡人と結婚、 論・注解である『伊勢物語註』『小倉百首童蒙蔭の指導を受け『千紫万紅』に『瓜畑』など ~ 会・桜楓社 ) 部族長マンドールン・ 訓』『古事記詳説』などを著し、また服飾、音を発表、九四年『文学界』に近づき、島崎藤村 田谷カ三たやりきそう ( 天究ー一九公 ) テノ七年父ポルフ晋王が殺されるとともに北元の帝 みつこし 〈上野秀治〉 ハン ( 大元皇帝 ) と称し と交わる。九六年国木田独歩を知り、翌九七年 ール歌手。東京・神田の生まれ。一〇歳で三越位に登ってダヤン・ 楽、植物などの研究も行った。 じよじよう 民友社より独歩らとの共著で詩集『抒清詩』呉服店少年音楽隊に入り音楽修業。一九一七年た。外モンゴル東部から内モンゴルにかけての 回土岐善麿著『田安宗武』全四巻 ( 一九四一一 ~ 四六・ 日本評論社 ) を出版する。貧窮のため心の慰藉を旅に求めて ( 大正六 ) 美声を認められてローシー主宰の歌諸部族を再統一し、これを左右両翼の六万戸に 書いた紀行文集『南船北馬』 ( 天究 ) が博文館劇団に入団したが、翌年ローシーが帰国してか編成、一一人の息子たちに分封して、エセン以 ダヤーナンダ・サラスパティー Da- おとわ yänanda Sarasvafi ( 一 0 四ー会 ) 近代イン の大橋乙羽に認められ、九九年博文館に入社、 らは、浅草の観音劇場や金竜館の舞台に立ち来、分裂と混乱の続いたモンゴルを再建した。 ぎよくめい ドの宗教改革者。本名はムール・シャンカル詩友太田玉茗の妹リサと結婚。一九〇〇年『ポッカチオ』などに主演して、いわゆる浅草これ以後、内外モンゴルに広がったチンギス・ ハンの血を引い MüI Shankar0 カーティアワール地方のバラ ハンの子孫は、すべてダヤン・ ( 明治三三 ) より週刊『太平洋』の編集に加わオペラの黄金時代を築いた。関東大震災 ( 一九 〈岡田英弘〉 モンの家に生まれ、幼時よりべーダ聖典を学り、ゾラ、フロべールらの外国文学を研究して一一三 ) 後も「ヤパン・モカル」「笑いの王国」なている。 ゅぎよう たゆうある種の芸能人、神職、遊女 ぶ。一三歳のとき出家遊行者となりインドの聖紹介、〇二年『重右衛門の最後』、〇四年『露どに出演する一方、放送オペラやレコー太夫 地を遍歴、一八四八年にはヨーガ行者の。ハラマ 骨なる描写』を発表、日露戦争従軍と相まってド吹き込みに活躍、第二次世界大戦後も衰えぬなどの称号または敬称。大夫とも書く。元来は ーナンダと出会ってこれに師事した。彼は当時傍観者態度による「平面描写」を確立した。〇美声と情熱で歌い続け、八四年 ( 昭和五九 ) に中国の官制に倣った官位の一種で、五位の称で ふ のヒンドウー教の堕落を攻撃し、べーダ聖典こ 六年『文章世界』の主筆となり、〇七年『蒲は八五歳で音楽生活七五周年のリサイタルを開ある。古代に、五位の者が儀式およびそれに伴 とん 〈寺崎裕則〉 う芸能をつかさどったことから、転じて、神事 そが真理の書であるとして、「べーダに帰れ ! 」団』を書き、自然主義文学の地位を築いた 『生』 ( 一九 00 、『妻』 ( 一九 0 ハ 芸能を奉仕する神職や芸能人の称となった。神 と主張した。のち、七五年にアーリヤ・サマー ダヤン Moshe Dayan ( 一九一五ー全 ) イス イ : 勹物く ・ : っ↓れん ~ ジを創設し、生涯を伝道活動に送った。↓アー の長編を次々と創作、〇九年に書き下ろしで刊 ラエルの軍人、政治家。パレスチナのデガニア事舞太夫、猿楽の太夫、幸若・説経・義太夫節 ときわずとみもときよもとしんない リヤ・サマージ ^ 増原良彦〉行した『田舎教師』は名作として人々の心をと に生まれ、早くからユダヤ人自衛組織ハガナに などの語り手、常磐津・富本・清元・新内など ぶんごじようるり かぶきおんながた 豊後浄瑠璃の語り手、さらに歌舞伎の女方や まんぎい かるわィ一はうか 大道芸人 ( 万歳・猿回し・鳥追い・軽業・放下 師など ) にも太夫の称を名のる者があった。 たておやま 歌舞伎の立女方を太夫というのは、初期の遊 女歌舞伎のスターが、先行の幸若舞太夫や女猿 楽の太夫から引き継いだ称と考えられるが、こ れと遊女を太夫とよぶこととの影響関係ははっ きりしない。また、初期の座元 ( 本 ) は俳優た る太夫たちをまとめる役だったことから太夫一兀 9 あき 田山花袋 ( 天七一 しゃ 田谷カ三ごプン大将』の フリツツ ( 1 953 年 6 月 ) ダヤン

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全日本大学野球選手権大会も、しだいに実力勝雄。第一五回はアメリカ。第一五回まで開催 八三 ~ 八五年には青山学院、慶応義塾などをは戦後はともに六大学と軌を一にし、四六年春の 地がアメリカの場合が七回あるが、日本はアメ の差が少なくなり、一〇年を経過するころから ーグ戦から再開した。 じめ、続々と野球部が創設され始めたが、とく 力の地では一度も優勝していない。第一五回 関西六大学、東都大学の両連盟は、戦後、東大会参加全チームのレ・ヘルアップがみられ、甲リ に八八年第一高等学校 ( 東京大学教養学部の前 身 ) 野球部の設立を契機に、学生間の野球熱は京六大学と同様に大学野球のリーダーシップを子園の高等学校選手権大会と比肩される学生球大会から試合方法を五回戦制に改め大会期間を とり、一九四七年から五一年までこの三連盟の界の名物となった。そして三連盟の代表以外に短縮した。 異常な高まりをみせ、その無敵ぶりとともに、 なお、現在 ( 一九会 ) の大学選手権大会参加チ 日本野球史上「一高時代」といわれる一時期を秋の優勝者が実力を競って、全日本大学野球の覇権を奪取するチームの出現を期待する声も聞 かれるようになった。一九六九年の第一八回大 ーム数は一六で、以下のような区分の連盟の代 現出した。九五年一高が横浜外人クラ。フを破っ王者を決定する試合を行ったが、実力伯仲で優 たことは当時の大事件であった。一九〇三年勝が預かりになること三度、四八年に法政大会に、ついに首都大学野球連盟の代表、東海大表である。①北海道地区大学野球連盟、北部 わせだ 地区大学野球連盟、 3 東部地区大学野球連盟、 ( 明治三六 ) 早稲田大学に野球部が設立されて学、五一年に早稲田大学が優勝しただけで、五学が宿願を達成し、初優勝を成就した。 ④東京新大学野球連盟、 6 東京六大学野球連 二年から名実ともに日本一を決める後述の第一 東海大学の初優勝に次いで翌一九七〇年には から、早慶時代に移行した。同年一一月二一 みたつなまち 盟、⑥東都大学野球連盟、⑦首都大学野球連 日、三田綱町球場で初の早慶対抗試合が行われ回全日本大学野球選手権が開催されることにな中京大が優勝し、大学野球界は、東京六大学、 一一対九で慶応が勝利を収めたが、この試合こ り、大学王座決定戦は五年で解消した。 東都大学、関西六大学の三連盟で優勝を独占す盟、⑧神奈川五大学野球連盟、⑨愛知大学野球 そ、その後満天下のファンを二分するようにな これは、新制大学を全国五地区に分けて予選る時代は終わった。地方大学のレ・ヘルが向上連盟、中部地区大学野球連盟、関西五大学 ったいわゆる「早慶戦」の開幕である。しかを実施、その代表五チームと既設の六大学、東し、大学野球の実力は平均化した。大学出のプ野球連盟 ( 代表二校 ) 、に広島六大学野球連盟、 g 西部地区大学野球連盟、九州六大学野球連 し、早慶戦は、〇六年応援団問題から突然中止都大学、関西六大学の三連盟の代表三チームと ロ選手のなかに、大学選手権で優勝したことの さいとうあきお しらたけ 〈神田順治〉 され、一九年間もの空白時代を迎えた。この早でトーナメント式の争覇試合を実施したものでない大学から斎藤明夫 ( 大商大・大洋 ) 、白武盟、鬮九州地区大学野球連盟。 よしひさ かどたふみあき 慶不戦の空白を埋めて登場したのが明治大学野ある。第一回の覇権は慶応義塾大学が獲得した。 だいかぐら獅子神楽の一種。獅子の 佳久 ( 日体大・広島 ) 、門田富昭 ( 西南学院太神楽 ささきおさむ 球部である。明治大学は一一年に部を新設し、 関西六大学連盟は、一九五六年の大学選手権大・大洋 ) 、佐々木修 ( 近畿大工学部・近鉄 ) 霊力によって悪魔祓い、火伏せ、息災延命を祈 一四年 ( 大正三 ) に早慶明三大学リーグ戦を開大会で、大会開始以来四年連続優勝していた東などの好投手の名がみられる。 疇する二人立ち ( 一頭に二人入る ) の獅子舞 始、ここに今日の東京六大学リーグ戦の基が開京六大学連盟を代表する早大と、東都大学連盟 一九七一一年から日米大学野球選手権大会が開で、大神楽、代神楽とも書く。代神楽の名は伊 かれた。翌一五年には法政大学が加わり、つい の日大を、村山実 ( のち阪神 ) の好投で連破し催された。これは大学野球の世界一を争うもの勢参りの代参の意に出るという。もと伊勢や尾 わり で一三年に立教大学が加入、二五年になると東て、関西大学が初優勝、関西六大学の名をあげ として、両国の国内大学野球選手権大会に優勝張から出たといわれ、獅子を回しながら、伊勢 京大学が参加を申し込み、それに早慶の不戦も た。六二年に関西六大学連盟は近畿地区の大学したチームを中心に、それそれ最強チームを編のお祓いと称して諸国を巡回した。現在も三重 たゆう 解決して、ここに名実ともに備わった六大学リ を合同して関西大学連合に一本化したが、八一一成し、七回戦を行うものである。第一回は日本県桑名市太夫町に伊勢太神楽の組が九組伝わ ーグ戦が開始された。この六大学リーグ戦は四年に関西大学連合を解散、関西五大学野球連盟側がアメリカを招き、七三年の第二回はアメリ る。一二月二三、二四日、太夫町の増田神社の 二年 ( 昭和一七 ) 秋のシーズンまで継続して行 ( 関西学生、関西六大学、近畿、京滋、阪神 ) 力が日本を招くというように、交互に相手国チ祭礼に各組が集合し、全曲を交代で奉納するほ われたが、第二次世界大戦の激しくなった四一一一が並立の状態で運営するようになった。 ームを招待して、毎年六月末から七月にかけてかは各組とも巡業に出る。その活動範囲は近 ~ 四五年の三年間は中止された。終戦とともに 東都大学連盟は、加盟校の増加とともに実力挙行する。第一回は日本が優勝、第二 ~ 六回ま畿、中部北陸、中国地方の一定の村々で、各戸 六大学リーグの復活が叫ばれ、四六年 ( 昭和一一を充実し、大学選手権では関西六大学の代表にでアメリカが五年連続優勝し、第七回大会に島の竈祓いを行う。伊勢太神楽の流れをくむ獅子 おかきちろう 一 ) の春のシーズンには再開された。 先を越されたが、優勝回数は東京六大学の一、、 岡吉郎監督の好采配で日本が勝ち、第八、九回舞は全国的に分布して祭礼などに奉納される。 あった その他の東都大学野球連盟は一九三一年 ( 昭回に次いで一二回の優勝を記録している ( 一久六 はアメリカ、第一〇回は日本、島岡監督二度目一方、江戸の太神楽は熱田派 ( 尾張派 ) と伊勢 和六 ) の春から、また関西六大学野球連盟は一一一現在 ) 。プロ野球の実力のバ ・リーグ、人気の の制覇。第一一回はアメリカ、第一二回は日派の二系統があり、早くから江戸に出て寄席芸 こまぎわ おおたまこと 一年秋からリーグ戦を開始した。しかし六大学セ・ ーグになそらえて、実力の東都、人気の本、優勝監督は駒沢大の太田誠。第一三回はアとして定着、現在も江戸の太神楽として曲芸 かもだ こつけいかけあ リーグと同様に戦争中三年間 ーグ戦を中止。東京六大学といわれる。 メリカ、第一四回は日本、監督は法政大の鴨田 ( テゴト ) や滑稽掛合い ( シコナ ) を演じてい る。↓伊勢太神楽図神楽 ^ 渡辺伸夫〉 合 だいがくりよう令制官司の一つ。式 大学寮 学学 学 連学 学 学 学 ふしょ・つひかん 一大 大大 大学学学学学大学学学大学大 学大学 部省の被管。中央における官吏養成機関。起源 てんじ 六大大大大大六大大大六大六 ″大六″大 西京 を属京 は天智朝にさかのばるが、制度・機構の整備は 京都知都西都京都都都京都京 都京 たいほう かみすけじようさかん 関東 勝所東 東首愛東関東東東首東東東東 東東東 大宝令制定のとき。事務官は頭、助、允、属の 憂 しとう 学 学 四等官とそれ以下の下級官吏 ( 使部 ) 。教官は 権 みようぎようどう ようろう はかせ 大 学 大 学 学 手 本科 ( 明経道 ) に博士、助博士 ( 養老令で助 塾学学学学学学大学学学塾学学学学学学学大学学大学学学学学学学学学学学学 選 名義大大大大大大田大大大義大大大大大大大亜大大田大大大大大大大大大大大大 教 ) 各一人、書道、算道に博士各二人、それそれ がくしよう 球学応教治冶西教教稲政本政応沢修本央政海京細西央稲沢海沢治央治治政沢政政洋 学生 ( 四〇〇人 ) 、書生 ( 若干名 ) 、算生 ( 三 野大慶立明関立立早法日法慶駒専日中法東中亜関中早身東明中明明法駒法法東 おん 〇人 ) を教育した。音博士は右の諸生に漢音を 又ワ】 -4 ・ - -0 「ー -0 1 よワ」 -4 ・ -0 「 / -8 -0- 、 1 ワ】 00 -4 ・ - -0 「 / -8 0 ・ 1 《ワっ 0 4 ・戸 0 おんせい 球大度 教授したが、専門の音生はいなかった。奈良中 野本 みようばうもんじよう 期に本科から明法、文章二道が分離独立し、 し学日数 しどう 、、こ大全可 平安以降、明経道、算道とあわせて四道とよば 当ーっ乙っ 0 月阡 L-n ( 0 「 / (X) 0 ) CD つ」 ( こ月 LC) つ」っ乙つ」ワ」っ」っ」っ . 」っ′」っ′」っ」っ 0 っ 0 っこっ 0 へこっ 0 東都大学 東星六大学 東都大学 かつお 351

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たいふう 台風 / 〔表 1 〕熱帯低気圧の分類 域内最大風速 ( m / s ) ( 国際 ) 分類 ( 日本 ) 17.2 未満 ( 風力 7 以下 ) 弱い熱帯低気圧 tropical depression 17.2 以上 24.5 未満 ( 風力 8 ~ 9 ) tropical storm 24.5 以上 32.7 未満 ( 風力 10 ~ 11 ) severe tropical Storm 32.7 以上 ( 風力 12 ) typhoon , cyclone , hurricane * 注 : * 印は発生海域によって呼称が異なり , 北太平洋西部では typhoon である 〔表 2 〕台風の大きさと強さの分類 台風の大きさ 100g1 ) 等圧線風速 25m / s 以上 程度 の半径 (km) の半径 (km, 参考 ) 100 未満 ごく小さい 小型 ( 小さい ) 100 ~ 200 中型 ( 並みの大きさ ) 200 ~ 300 大型 ( 大きい ) 300 ~ 600 超大型 ( 非常に大きい ) 600 以上 ー 9 ・ 5 . ・ ~ . ・一 . ・ 5 ・・ ( ー ) ECHO INTENSITY AREA 2 ・ 1 ・ OY 物 物物罸 01 第を第第を 39 ′飛 0T0 当ー今 0 一 20 新 1 : ÜO ′第 : : 96 を , TA 勲 9 をド 01 909 物ま H"ZE ; 第鯑心 ? 37 工 : ℃に一 HA 物寺 27 に】 YA ′ 0 ー 4 第毛愛 H ヨこ穹 台風の強さ 中心気圧最大風速 階級 (m/s, 参考 ) (mb) 990 以上 25 未満 弱い 並みの強さ 960 ~ 989 100 前後 25 ~ 34 200 前後 強い 930 ~ 959 35 ~ 44 非常に強い 900 ~ 929 300 前後 45 ~ 54 900 未満 55 以上 400 またはそオび人上猛烈 計 △ロ 月 6 2 そ 道お てこ。 月 6 5 っ冐る もあ をはて 月ー月 、 1 の除 月 9 0 9 と陸 2 た上て つのれ なに圧ま 数 月 1 4 4 と邦気含 3 ) 九 8 11 ′ 0 生 上 ( 低は 以本帯の 発 月 1 、 0 tn 日執 ~ ~ も 、力しオ フー、 1 4 延ル ・は過年 数月 7 4 Ⅳ のた通別 年 速 風まを 回 風 00 ー 0 台圧部 陸 月 3 1 風 , 気島 台は・低ど 上 が陸帯な 1 ー ( 日「 び 月 8 1 圧上温島 数 よ 布 で陸 お 帯台の五 分 上 生月凵 5 生 いたた風 発 弱しし諸 発 台 , と陸豆 風日 ~ 9 は数上伊 の 台 生生に 発発か島 男月 5 5 ののこ諸也 台 月 風月ど西 数数台のの南 瀲北東海伊国国州数田 生陸 表 発 ( 上注 東関東紀中四九回 〔発生と来襲〕一九五一年 ( 昭和一一六 ) からこれまでの統計 〔台風の語源〕もとは颱風と書いたが、一九四六年 ( 昭和二 によると、台風の発生数およびこれらの台風の日本への上陸 一 ) に制定された当用漢字にないため台風と改められた。颱 風は中国語の颱と英語の typhoon の音をとったもので、一数は表 3 、地域別上陸数は図 < にみるとおりである。以上の 般に通用するようになったのは大正時代からである。それ以統計期間中、年間発生数のもっとも多かったのは六七年の三 のわき あらし 前は大風、嵐、また古くは野分とかよばれていた。颱は暴風九個で、七一年の三六個がこれに次ぐ。また、もっとも少な 5 周示 のもっともひどいものをさし、中国における最古の用例は一かったのは年間発生数一九個の六九年である。台風の発生し のの は海面水温が二七度 0 以上 象 0 輛七世紀後半に編集された『福建通志』である。日本でも一九やすい場所は、図に示したが、 ) 気風尸 , 台時世紀初めに小説家の滝沢馬琴が『椿説弓張月』のなかで颱をの海上、②コリオリの力が働く場所 ( 少なくとも北緯五度以 ④上層と下層の風速差 北 ) 、③水平方向の風速差が大きい、 。る用い、これを「あかしま」と訓じた。しかし、一八五七年 時雲 しんぞう 5 雨す ( 安政四 ) 洋学者伊藤慎蔵が熱帯低気圧についての専門書をが小さい、などの条件が満たされやすい場所ということがで 日の豌 号文 きる。つまり、は ) は台風の形成・維持には大気下層で温暖で 訳したが、その題名は『颶風新話』であり、明治になっても 月 6 年風表片仮名でタイフーンと書くか、漢字を用いるときには「大湿潤な空気が、および③は台風の渦の形成に、また、④は たラ風」と書かれることも多いなど、滝沢馬琴の颱の用法は、そ積乱雲の発達に伴って放出される凝結熱が、台風中心の上空 カ え の のまま、明治後期から使われるようになった颱風にはつながで放出することが必要であることを示している。この条件は 図ら 下 成と ハリケーンなど他の地域で発生する熱帯低気圧でも同じであ らない。一方英語の typhoon は、一六世紀にはイギリスで 合か ( コ字あ使用例があるなど颱の用例より古い。中国では昔、台風のよる。月別では八月と九月に発生数が多いが、これは、比較的 工が 高緯度の海域でも海面水温が一一七度 0 を超え、台風が発生す うに風向の旋回する風系を颶風とよんだが、この知識が南シ 雲 ダ右雨 ナ海を航海していたアラビア人に伝えられ、彼らはそれをぐるようになるからである。 毎年一〇個くらいの台風が日本に接近し、このうち三個く の、タに るぐる回るという意の t ミぎとよび、これが一方では颱風 風一常 台レ非 らいが日本に上陸する。上陸台風は、月別には八月、地域別 になり、他方ではタイフーンに転化したと考えられる。 たいふう 上陸時の中心気圧 ( mb ) ロ 990 以上 ロ 960 ~ 989 930 ~ 959 匚こコ 930 未満 11()E 川 ()E 17 い E つ」 3 つ」 3 につ 3 注 : 赤線で囲まれた所は発生数の多い地域 516

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すぎのばうみようさん 和二四 ) 中退した。この間米本光代と結婚、世 よ橘家円蔵たちばなやえんそう落語家。初代の僧杉坊明算が製法を修得し生産を始めた えんしよう は二代三遊亭円生の前名。二代はその門人のが、又三郎も鉄砲製法を入手するため種子島を阿弥に傾倒し古典に親しむ。五六年処女作『セ たきぎのう ゃいたきよさだ えんちょう いっちょう ールスマン・津田順一』を発表後、『薪能』 円坊。三代は三遊亭円朝門下の一朝の前名。訪れ、一両年滞在して八板清定より製法技術を つるぎさき あくたがわ ち 〔四代〕 ( 天六四ー一九一一一 I) 本名松本栄吉。四代円生学び、堺に帰って大掛りに鉄砲製造と販売を行 ( 一九六四 ) 、『剣ヶ崎』 ( 一九六五 ) などが芥川賞候補 門下で、さん生から一八九〇年 ( 明治一一三 ) 円った。そのため「鉄砲又」と異名をとり、堺のとなり、『白い罌粟』 ( 一九六五 ) で直木賞を受賞。 蔵襲名。驚異的な能弁で評判をとる。品川の師鉄砲業者の中心となり、堺を全国有数の鉄砲産以後その中世美への愛着を軸とした甘美な虚無 〈橋詰茂〉感と鮮烈な叙情をたたえた作風は多くの読者を 匠とよばれ、門下から五代・六代円生を生む。地とした。 あなん がん 円蔵の五代目は五代円生、六代目は六代円生の橘湾たちばなわん徳島県東部、阿南市の南得たが、昭和五五年八月一二日、食道癌のため とらのすけ 〈佐藤泰正〉 前名。〔七代〕 ( 一九 0 一一ー含 ) 本名市原虎之助。 東にあり、紀伊水道に面したリアス式湾。湾ロ死去。 ・一・かっ ぶんじゃく 代桂文楽門下で、桂文雀から月の家円鏡を経幅五キロ、奥行七キ。。湾内には小勝島、高島、回『立原正秋全集』全二四巻 ( 一一 ~ 会・角川 ゅうかくぎ 書店 ) ▽武田勝彦編『立原正秋人と文学』 て一九五三年 ( 昭和二八 ) 七代円蔵。遊廓の妓野々島など大小一〇余の島々が点在し、弁天島 は」・つ・かーれ にはアコウなど熱帯性植物群落 ( 国指定天然記 ( 一九全・創林社 ) ▽同著『立原正秋伝』 ( 一九 文学四三好達治・立原道造』 ( 一九全・角 夫太郎、幇間の経験もあり、著書『てんてん人 むろ あわ 全・創林社 ) 書店 ) 生』を残した。〔八代〕 ( 一九三四ー ) 本名大山武念物 ) がある。「阿波の松島」ともよばれ、室 ますぞう タチフウロ〔立風露〕 Ge き ~ ミ守や 雄。七代円蔵門下で竹蔵、升蔵、月の家円鏡を戸阿南海岸国定公園域となっている。水深は約立原道造たちはらみちそう ( 一九一四ー三九 ) 詩 一五で、天然の良港をなし、古くは海賊の活人。大正三年七月三〇日、東京生まれ。旧制一 ミ e 、 ~ ・ Fr. et Sav. フウロソウ科の多年草。 経て一九八二年 ( 昭和五七 ) 八代目襲名。マス 〈関山和夫〉躍した地で伝説も多い。北岸には埋立てにより高を経て、一九三七年 ( 昭和一一 D 東京帝国大茎は直立し、高さ六〇 ~ 八〇垰一となるが、基部 コミでも大いに活躍。 四国電力阿南火力発電所が立地し、また日本電学建築科を卒業。初め前田夕暮主宰の『詩歌』は倒伏し、葉柄とともに下向きのやや開出した 立花家橘之助たちばなやきつのすけ ( 天穴 よせおんぎよくし に自由律短歌を発表したが、三好達治の四行詩毛がある。葉は根生し、茎上では対生する。葉 ー一九三五 ) 寄席の音曲師、浮世節の家元。本名工 ( 株 ) も進出している。湾岸には国際キャン つのみわ たつおむろう えんきっ ひし に触発されて詩作に転じ、ついで堀辰雄、室生幅は七 ~ 一〇で五深裂し、裂片は菱形でさら 石田みよ。東京生まれ。三遊亭円橘の弟子になプ場もある。北部の津峰 ( 一一四七 ) からの湾内 きよもと さいせい のぶお はうた 〈高木秀樹〉犀星に師事、津村信夫や丸山薫、リルケ、『新 に三裂し、少数の歯牙がある。両面ともに毛が り、六歳から寄席へ出て清元、端唄、俗曲を歌の眺望はすばらしい たく上う 八二年 ( 明治一五 ) 大阪へ下り、男装二万五千分の一地形図「橘」 古今和歌集』などの詩風を摂取しながら、繊細あり、とくに裏面の脈上は毛が多い。托葉は緑 しまばら な詩語を音楽的に構成した独自な十四行詩型を色を帯びて狭く、離生する。 ~ 九月、長い花 と美音で人気を博した。八五年に帰京後は、 橘湾たちばなわん長崎県南部、島原半島と ちちわ てんま 創出した。三四年、初めて信州追分に滞在、こ柄の先に径約三の淡紅紫色花を二個開く。花 『大阪天満』『京の四季』『とっちりとん』など長崎半島との間にある湾。千々石湾ともいう。 弁は五枚、濃紅紫色の脈が数本あり、基部に白 「三都音曲語り分け」や「端唄浮世節」を看板第三紀中期以降になって、この地に火山活動が おんなくばう 毛を密生する。小花柄は果時に開出する。山地 に、人気者となって「女公方」といわれた。一あり多量のマグマを噴出し、陥没カルデラを生 の草原に生え、本州から九州、および中国、ア 九一二年浮世節家元になる。昭和一〇年六月一一じた。これが橘湾の起源で、千々石カルデラに 〈小林純子〉 ムールに分布する。 九日、台風による増水で京都・紙屋川の濁流に 海水が浸入して生じたものである。北岸は千々 〈倉田喜弘〉石断層の延長部にあたり、直線状の海岸線を示 のまれて没した。↓浮世節 立間たちま愛媛県南部、北宇和郡吉田町 の一地区。旧立間村。立間 ( 宇和 ) ミカン発祥 立花山たちばなやま福岡県北西部、福岡市し、海底も海岸に接して三〇の水深があり、 へいたん しんぐうひさやま 湾内の大部分は水深三〇 ~ 四〇の平坦な砂質 造 地で、宇和青果加工工場があり、ミカンなどの 東区と糟屋郡新宮・久山両町との境にある山。 か - 一うせんりよく さんぐん 道 各種缶詰・ジュースの生産を行う。↓吉田 ( 町 ) 標高三六七でおもに花崗閃緑岩、三郡変成の海底面を示し、これがカルデラの火口原と推 原 はえなわうた 立 たちまちづき立ちながら待つうちに 岩からなる。福岡平野の北口に位置する軍事上定されている。海面上では一本釣り、延縄、打 立待月 おおともさだとし せ の地の風光を愛し、以後多くの詩の背景として出てくる月の意で、陰暦一七日の夜の月、とく の要衝で、山頂の城跡は、大友貞載が一三三〇瀬網漁業が主で、沿岸の岩礁地帯ではアワビ、 やまじろ ちくぜんよう いる。堀辰雄らの『四季』の同人となり、『コ に八月のそれをいい、十七夜、立待の月ともい 年 ( 元徳一 l) に築いた山城であり、「筑前の要サザ工、ウニ、ナマコの特産がある。湾の東岸 もぎ とみつ おばま に小浜温泉、西岸に茂木港、北東岸に富津港、ギト』などにも作品を発表したが、昭和一四年う。十五夜以後、月の出はしだいに遅くなり、 塞」といわれた。付近一帯のクスノキ原始林は ろくまく 北西岸に網場港がある。一九七三年 ( 昭和四三月二九日、結核性肋膜炎のため二四歳で夭折十六夜 ( いざよい ) の月は山の端にいざよい、 一九五五年 ( 昭和三〇 ) 特別天然記念物に指定 じよじよう いまちづき 八 ) 以降、石油備蓄の湾としてスタート、タンした。丸山薫は「エスプリ清くして抒情に典十七夜は立ち待つほどに出、十八夜 ( 居待月 ) された自生北限の巨木林として有名で、頂上か たと ふしまちづき キ。リットル ) を国家備蓄雅に新声あふれたるは、譬へば神がしばしこのは座し居て待ち、十九夜 ( 臥待月 ) は臥して待 らの眺望に恵まれ、ハイキングコースも整備さカー一〇隻 ( 二五〇万 ふけまちづき さんろく げんかい 〈石井泰義〉竹の青きを吹いてその余韻を永へに耳にのこしち、二十日 ( 更待月 ) には夜半近くと遅くな れており、玄海国定公園に含まれる。山麓付近している。 給うたかの感がある」と哀悼した。詩集に る。これらの呼称は、一説に、七夜待ちといっ ではミカン栽培が行われている。〈石黒正紀〉 立原正秋たちはらまさあき ( 一九 = 六ー わすれぐさ かんのん たいきゅう 説家。韓国大邱で生まれる。両親は日韓混血、 『萱草に寄す』『暁とタの詩』 ( 一九三七 ) があり、 て十七夜より二十三夜までの月を七観音に配し 地〕二万五千分の一地形図「古賀」 りちょう たちばなやまたさぶろう生没年父金井慶文は李朝貴族の末裔である。一九三一一没後、堀辰雄により『優しき歌』 ( 一九四七 ) が刊て、月待ちの本地供などを修した風習によると 橘屋又三郎 しん いずみさかい 〈宇田敏彦〉 不詳。戦国時代の和泉国堺 ( 大阪府堺市 ) の商年 ( 昭和七 ) 父は自決、三五年母再婚のため親行された。全集は四度刊行されている。第一回 たわ せき 人。一五四三年 ( 天文一一 l) ポルトガル人が種戚に預けられ、三七年内地に帰り市立横須賀商中原中也賞受賞。↓萱草に寄す〈飛高隆夫〉立回りたちまわり 0 殺陣 子島に鉄砲を初めて伝えた。島主種子島時堯は業学校を経て、四四年京城帝国大学予科に入学回『立原道造全集』全六巻 ( 一九七一 ~ 七三・角川書タチモ「立藻〕 M. に 'i を三ミミミ uss ミ、ぎ ~ ・ わせだ ちょう 店 ) ▽中村真一郎編『立原道造研究』 ( 一九 se (Regel) Maxim. アリノトウグサ科フサ 二挺の鉄砲を買い取るとともに、製作技術と火したが、病気のため帰国。四五年早稲田大学専 ねごろ 七一・思潮社 ) ▽安藤靖彦編『鑑賞現代日本モ属の多年草。沼や湿地に生える。茎は水中で 門部法科に入学したが、作家を志し四九年 ( 昭 薬製法を家臣に学ばせた。その後、紀伊根来寺 かつら とぎたか まっえい ようせつ 川タチフウロ夏 , 淡紅紫色の花をつける 762

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たにざき ほ・つ・か , れ 『少年』『幇間』 ( ともに一九二 ) を発表。この間 たにこう能の曲目。四、五番目物。 などの便があり、東海自然歩道も通る。シイタ谷行 谷崎潤一郎 / 年譜 こんばるぜんちく ふゅう 算用数字は月・日または月を表す ケ、茶、富有ガキが特産。谷汲山華厳寺は西国五流現行。作者は金春禅竹とも。母 ( 前シテ ) 東京帝大から授業料末納のかどで退学を命ぜら そっあじゃり 三十三番札所で、満願霊場。名鉄電車の終点かを説得した松若 ( 子方 ) は、師匠の帥の阿闍梨れる。が、その一一年の一一月号の『中央公 一〈〈六明治一九 7 ・東京市日本橋区蛎殼 ら同寺の山門まで門前町が開け商店が建ち並 ( ワキ ) に従って峰入り修行に参加する。病気論』に『秘密』が掲載され、しかも同じ一一月 町 ( 現中央区日本橋人形町 ) に誕生 こ従って谷号の『三田文学』に永井荷風が『谷崎潤一郎氏 ぶ。毎年二月一八日の豊年祭に行われる谷汲踊になった少年は山伏の定め「谷行」し , 一九 0 一明治三四 3 坂本小学校高等科全科 よ・一くら りは有名で、県の無形民俗文化財。一方横蔵寺底へ投げ込まれ、殺されてしまう。わが身も同の作品』を書き、その文学の特質を激賞するに 卒業。 4 東京府立第一中学校 ( 現日比 には平安・鎌倉時代の多くの仏像が国指定の重じにと嘆く阿闍梨に山伏たち ( ワキツレ ) は同及んで、新進作家として華やかにデビューす 谷高校 ) に入学、辰野隆らを知る そせいえんのぎようじゃ 一九明治三八 9 第一高等学校英法科入学 要文化財としてよく保存され、美濃の正倉院と情し、松若の蘇生を役行者に祈る。すると伎る。荷風は谷崎文学の顕著な特質として、第一 ゅうげん 」んナい 一九 0 ^ 明治四一 9 東京帝国大学国文科入学 もよばれる。両寺とも春秋の季節を中心に参楽鬼神 ( 後シテ ) が現れて、松若を掘り返して生に、「肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄」、第二に 一九一 0 明治四三 9 小山内薫、和辻哲郎らと 「全く都会的なる事」、第三に「文章の完全なる 〈上島正徳〉き返らせる。師弟愛を軸にした奇跡劇であり、 者が多い。人口四四〇八 第一一次「新思想』を創刊。「誕生』「象』 ワキの重い習いの能である。役行者を舞台に出事」をあげたが、これは谷崎文学の本質のいち 回『谷汲村史』 ( 一九七七・谷汲村 ) せい・一く きたがた 「刺青』「麒麟」などを発表 囮二万五千分の一地形図「美濃海神」「北方」す演出もある。ドイツの劇作家。フレヒトにこの早い指摘として正鵠を射たものといえよう。続 たるみ 一九一一明治四四 6 「少年』発表 〈増田正造〉 いて発表した『悪魔』 (一九 lll) には、極端なマ 能にヒントを得た作品がある。 「樽見」「谷汲」「池野」 一九一 = 明治四五 2 『悪魔』発表 たにざきじゅんいちろう ( 天ハ六ー ゾヒズムと女性の悪魔性への賛美があり、この たにぐみかんのん 0 華厳寺 谷崎潤一郎 谷汲観音 ころ 一九一五大正四 1 「お艶殺し』発表 傾向は、『恋を知る頃』 ( 一九一三 ) から翌年の芸術 一九六五 ) 小説家。明治一九年七月二四日東京・ 一九毛大正六 7 「異端者の悲しみ』発表 じようたろう かきがら 日本橋蛎殻町 ( 現日本橋人形町 ) に生まれる。父家小説『饒太郎』に至って独自の世界を築く。 一九一九大正八 1 「母を恋ふる記』発表 ( 、 2 ) しかし、これが芸術至上主義的な放浪生活から は倉五郎、母は関。倉五郎は入り婿で、潤一郎 子 一九 = 0 大正九 5 大正活映脚本部顧問となる の下に三男三女がある ( すぐ下の弟が英文学者生活の正常化への志向を生み、一五年 ( 大正 一九委大正一二 9 箱根で関東大震災に遭 つや 、関西に移住 谷崎精一 l) 。祖父久右衛門は一代で産をなした四 ) 、石川千代と結婚し、『お艶殺し』 ( 一九一五 ) るた すっ 進取の気性の商人で、母の関は「美人絵双紙の以下の毒婦物を相次いで書くが、立て続けに発一九 = 四大正一三 3 『痴人の愛』前半発表 ( ー 婚あ 6 、後半はⅱー一一五・ 7 ) 結で大関にされてゐた」 ( 『幼少時代』 ) という評判禁になり、『神童』 ( 一九一六 ) 、『異端者の悲しみ』 と性 一九一入昭和三 3 「卍』発表 ( ー三 0 ・ 4 ) カ倉五郎は商売下手で失敗 ( 一九一七 ) などの自伝的作品に血路をみいだして の美人であった。 ; 、 郎女 『蓼喰ふ虫』発表 ( ・、一元・ 6 ) ゆく。これらにも、「悪」の芸術性と正当性の を繰り返し、幼時は大家の坊ちゃんとしてだい のろ 一九 = - 0 昭和五 8 妻千代と離婚。千代は佐藤 じに育てられながら、坂本小学校の高等科を卒主張が顕著で、また、『呪はれた戯曲』 ( 一九一九 ) 、 春夫と結婚する旨発表する 〔ゲをれキすを 『途上』 ( 一九一一 0 ) などのスリラー的手法による妻 のえ業するころは、中学へも進めない状態になる。 1 『吉野葛』発表 ( ー 2 ) 9 一九三昭和六 殺しがテーマの作品には、妻千代の妹せい子と 幻を教師や伯父の配慮で、一九〇一年 ( 明治三四 ) ようえい ひびや 『盲目物語』発表『武州公秘話』 奮数え年一六歳で府立一中 ( 現日比谷高校 ) に入の恋愛の影が揺曳している。 発表 ( ー一一三・ 〔小田原事件〕潤一郎は、一九一七年 ( 大正 学、翌年、秀才の特典で飛び級をして三年生に カ 一九 = = - 昭和七ⅱ『蘆刈』発表 ( ー たつのゆたか 4 六 ) に母を、一九年に父を相次いで失い、神奈 なる。同級に辰野隆がいた。『学友会雑誌』「 一九昭和八 6 「春琴抄』発表 おだわら 川県小田原に転居、二〇年から翌年にかけて大 8 の早くから作文や漢詩を発表して注目され、〇五 一九会昭和一〇 1 根津松子と結婚 ロ学 文年、一高英法科に入学、文芸部委員となり、正活映株式会社の脚本部顧問となり、せい子 一九 = 一七昭和一二 6 帝国芸術院会員となる 7 『猫と庄造と二人のをんな』刊行 『校友会雑誌』に小説『狆の葬式』 ( 一九 0 七 ) その ( 芸名・葉山三千子 ) を主演女優に映画製作を 簡谷 書る に京氏物語』全 一九三九昭和一四 1 「潤一良訳 他を発表。〇八年、一高英法科を卒業、「創作試みたりする。また、妻千代をめぐるトラブル 宛す しを早第響平一、や亠をへ ' 二六巻刊行 ( ー四一・ 7 ) 子発家にならうと云ふ悲壮な覚悟をきめ」 ( 『青春から、親友の佐藤春夫と絶交する、いわゆる 7 日本芸術院会員となる 一九四一昭和一六 一津拝 「小田原事件」の起こるのも二一年中で、潤一 物語』 ) て、東京帝国大学国文科に進む。 根崇 『細雪』連載開始するも 一九四三昭和一八 〔文壇にデビュー〕一九一〇年 ( 明治四三 ) 九郎が妻千代と離婚し、春夫が千代と結婚するこ おおめき おさないかおる 軍部の忌諱に触れ六月以降発表禁止 月、小山内薫を盟主として、和辻哲郎、大貫とで事件の解決をみるのは、実に一〇年後の三 そうた しようせん 一九四四昭和一九 7 『細雪」上巻を自費出版 、後藤末雄、木村荘太らと第二次「新思〇年 ( 昭和五 ) 中のことである。しかし、この 一九昭和一一一一 2 「細雪』中巻を刊行 3 間、二三年の関東大震災をきっかけに関西に移 潮』を創刊。資金は、小学校時代からの親友 一さめま かい、らー′、 「細雪』下巻発表 ( ー哭・ 住したことで、谷崎文学は画期的な飛躍を遂げ で、著名な中華料理店偕楽園のひとり息子笹沼 とうそん 一九四九昭和二四ⅱ文化勲章受章に『少将 る。『痴人の愛』 ( 一九一一四 ~ 一一五 ) は、震災後のアメ 1 影源之助と、木村荘太から提供された。島崎藤村 滋幹の母』発表 ( ー吾・ 3 ) 像・ リカ的風潮が生んだモダン・ガールの生態を描 の『破戒』 ( 一九 0 六 ) に始まる自然主義文学運動 「鍵』発表 ( ー 一九昭和三一 まんじ 肖拳 いた風俗小説として評判になり、続く『卍』 もようやく行き詰まり、反自然主義の台頭に励 一会九昭和三四「夢の浮橋』発表 左 ~ 三 0 ) は、同性の魅力のとりこになった まされた潤一郎は、」」 号に『誕生』、一〇月 ( 一九天 一九六一昭和一二六 1 1 『瘋老人日記』発表 ( ー 郎月 六二・ 5 ) 人妻とその夫の破滅劇を、その人妻が大阪弁で 号に『象』、一一月号に『刺青』、一二月号に きりん 一九会昭和四〇 7 ・心不全のため死去。 告白する異色の長編として注目された。『蓼喰 『麒麟』を相次いで掲載。同誌が七号で廃刊に 京都市左京区の法然院に葬られる 谷 ~ 元 ) は、自伝的要素の濃い「離 て『スパル』の同人としてふ虫』 ( 一九天 なったあと、続い ー鬮。当い・■第ー■・■・ー置 け′」んじ 1 こうみ け」ん さい 1 」く 825

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よろずちょうほう たかはしさだつぐ ー六 0 刀が、のちに『萬朝報』紙上に紹介されたダダ 高橋貞次 し毅、斎藤実、岡田介内閣時代、すなわち一 イズム宣言に深い感銘を受け、一九二三年 ( 大 九三一年 ( 昭和六 ) 一二月から三六年二月までエ。本名高橋金市。伊予 ( 愛媛県 ) 西条大町村 の財政運営を一般に高橋財政とよんでいる。こ ( 現西条市 ) に生まれる。一九一八年 ( 大正七 ) 正一 (l) 辻潤の編集になる詩集『ダダイスト新 がっさんさだかず 一六歳のとき大阪の月山貞一の門に入り、子の吉の詩』を刊行、詩壇に強い衝撃を与えた。そ これに先だっ井上財政の金解禁・緊縮財政が大恐 慌によって破綻した後を受けて、犬養内閣の高月山貞勝から直接に指導を受けた。その後、中の後詩集には『新吉詩抄』 ( 一九三六 ) 、『霧島』 ( 一九 わんしゆっ 橋蔵相には満州事変の戦費捻出と恐慌対策と央刀剣会の養成工となり、二三年に郷里西条で四一 D 、『胴体』 ( 一九五六 ) ほかがあるが、しだいに 郎 いう二つの課題が課された。三一年一二月一三独立、号を竜王子のちに竜泉という。五五年仏教的、東洋的観念の深いものとなっていっ 橋 た。ほかに小説『ダダ』 ( 一九一一四 ) 、『狂人』 ( 一九 日、つまり蔵相就任当日に金輸出再禁止を実施 ( 昭和三〇 ) 重要無形文化財保持者に認定。松 高 せあった みなせ 山市道後に没。伊勢、熱田、水無瀬などの各神三 0 、『ダガバジジンギヂ物語』 ( 一九六五 ) 、美術論 し、金本位制を停止して管理通貨制へ移行し、 しんまうとう 宮の神宝刀や天皇家の守刀をつくる。作風はと集『すずめ』一 ~ 一〇 ( 一九六一 ~ 七 0 ) や、『参禅スに留学し、経済学史を専攻、帰国後母校の教 積極財政展開の前提条件を整えた高橋は、翌三 ちょうじ はもん くに備前伝の丁子の刃文を得意とし、刀身彫刻随筆』 ( 一九五 0 など仏教関係の著作も多い。『高壇に立った。イギリス重商主義学説の研究を中 一一年度予算を軍備拡張と土木事業を中心とした きようきゅう 心として、その研究領域は中世および古典古代 〈小笠原信夫〉橋新吉全詩集』 ( 一九七一 D によって芸術選奨を受 時局匡救の膨張予算とし、歳計の赤字を日本の技に抜群の力量を発揮した。 〈大塚博〉経済学説にまで及ぶが、とくに『重商主義経済 たかはしさとみ ( 天八六 ー一九六四 ) 哲賞した。 銀行引受による公債発行でまかなうこととし高橋里美 よねぎわ ひがしおきたま 学説研究』 ( 一九四 0 ) とそれに先だっ『経済学前 た。こうした財政展開は日本の景気を大きく回学者。山形県東置賜郡上郷村上新田 ( 現米沢回『高橋新吉全集』全四巻 ( 一九全・青土社 ) たかはししんごろう ( 一七九一 ー天史』 ( 一九一一九 ) は、重商主義研究の権威としての 復させ、世界史上初のケインズ主義的財政政策市 ) に生まれる。県立米沢中学校から第一高等高橋新五郎 つか 1 ) しゅうき 学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科卒業五七 ) 幕末の機業家。塚越結城織の祖。武蔵国地位を確立した大著である。四七年 ( 昭和二 と評価されている。 あだち わらび かわせ 一方、金輸出再禁止後の円の為替相場は急落 ( 一九一 0 ) 。同大学院在学中に「意識現象の事実と足立郡塚越村 ( 埼玉県蕨市 ) に生まれ、幼名国一 l) には吉田茂内閣の文相を務め、その後、日 その して輸出が増加したが、高橋はしばらく放任主其意味」を書き、学界の注目を集めた。第六高太郎、一一代目新五郎を襲名する。創業の父初代本芸術院院長、東京国立博物館館長、文化財保 おうめあしかが 義をとり、やがて一九三三年春に為替管理を開等学校、新潟高等学校の教授を歴任ののち、東新五郎の遺志を継ぎ、青梅、足利の機台をくふ護委員会委員長、映倫管理委員会委員長などの たかばた 北帝国大学理学部助教授 ( 一九一二 ) として科学概う、改良し、一八二五年 ( 文政八 ) 新高機を発要職を歴任した。 始して、円相場の低位安定、輸出促進を図った あおじま また、浮世絵の収集および研究でも著名で、 が、諸外国はこれを為替ダンピングと非難し論を講ずる。二年余のドイツ留学ののち、同大明、精巧な青縞の製織に着手した。織法や染法 あずまや に改良を加え、業務は盛んとなり商号を東屋と 『浮世絵二百五十年』 ( 一突一 ) 、『浮世絵随想』 た。やがて景気回復とともに高橋は、赤字公債学法文学部教授 ( 一九一一 0 、さらに山形高等学校 唱えた。三七年 ( 天保八 ) には高機一〇二台、 ( 一九六六 ) などの著書もある。七九年に文化勲章 発行によるインフレ懸念から財政均衡を意識す長 ( 一九四七 ) 、東北大学長 ( 一九四九 ) に選出される。 あいがめ 〈飯田鼎〉 るようになり、三六年度予算で公債漸減・軍事その間、『フッセルの現象学』 ( 一九三一 ) によって藍甕一三〇本の染め工場をもつほどになり、遠受章。 費抑制方針を打ち出したが、軍部の強い反発をわが国に初めて現象学を紹介し、また『全体の近から伝習を受ける者一二五名、各地に開業す回高橋誠一郎著『回想九十年』 ( 一九七三・筑摩書 でしはたや る弟子機屋、孫機屋と称する者数十か村に及 房 ) ▽同著『随筆慶応義塾ーーエピメーテ 招いて、ついに二・二六事件で暗殺されるに至立場』 ( 一九三一 I) をはじめとする諸著によって、 はたそ ウス抄』正・続 ( 一九七 0 、全・慶応通信 ) る。以後、日本財政は歯止めを失って膨張の一 日本古来の存在感情に根ざした独自の哲学体系び、問屋制的機業を行った。没後は機祖神社に きたろう はじめ たかはしせつろう ( 一九一四ー ) 漆 〈一杉哲也〉を築き、西田幾多郎や田辺元らと並び称され祀られ、毎年開業を記念して八月七日には機祭 途をたどった。 高橋節郎 じゅ ほたか りが行われる。一九二四年 ( 大正一三 ) に従五芸家。長野県穂高町に生まれる。一九三八年 たかはしさだき ( 一九 0 五ー三五 ) 大た。晩年には日本学士院会員 ( 一九五 0 ) 、文化功 高橋貞樹 位を追贈。 ( 昭和一三 ) 東京美術学校漆工科卒業。四一年 正・昭和戦前期の社会連動家。明治三八年三月労者 ( 一九五 0 。死後『高橋里美全集』が刊行さ とうざん ふた びようぶ 〈滝浦静雄〉 なお三代目新五郎は東屋唐桟を、四代目は双第四回新文展で「木瓜の図二曲屏風」が特選、 八日大分県に生まれる。一九二一年 ( 大正一れた。 子縞 ( 塚越双子、埼玉双子、東京双子 ) を考五一年 ( 昭和二六 ) 第七回日展で『星座』が朝 〇 ) 大分中学四年修了で東京商科大学 ( 一橋大回『高橋里美全集』全七巻 ( 一九七三・福村出版 ) たかはししゅんば ( 天 0 五ー六 0 幕案、代々発明家として知られた。〈大村進〉倉賞を受賞。五三年より日展審査員を八回務 学の前身 ) 予科に入学するが二年で中退。一三 高橋春圃 しんき 4 っ・んほ、つ ひご たかはしすすむ ( 一九 9 一ー会 ) 能役者。め、六五年『化石譜』で日本芸術院賞、『蜃気 年山川均の主宰する水曜会に入り、同年七月創末期の蘭方医。熊本藩医。肥後国阿蘇郡の生ま高橋進 ろう 冖は、つーしトっ けんそう てんほう 立の共産党にも参加、翌二三年六月の第一次共れ。名は叶、号は桃渓。天保 ( 天三 0 ~ 四四 ) の初宝生流シテ方。一二歳で近藤乾三に入門。続楼』で文部大臣賞を受けた。また六四年以来、 てい一し いて明治三名人の一人先代宝生九郎に師事。松 日本現代工芸美術展に続けて出品し、現代工芸 産党事件では検挙を免れた。同年九月の関東大め肥後へきた京都の日野鼎哉に出会ったのを機 ながし かねすけ いくのすけ 震災で関西に逃れ、初期水平運動の理論的指導に洋方を志し、長崎へ出て、数年間竹内玄同に本長、野口兼資の後輩として、田中幾之助の先美術家協会の指導者として現代性に富む漆芸創 しやだっ かえい ~ 五四 ) の初輩として流儀に重きをなした。洒脱な人格、堅作運動を進め、七六年、東京芸術大学教授とな にあたり、一一一月全国水平社青年同盟を組織し師事、帰国後開業した。嘉永 ( 天哭 〈郷家忠臣〉 た。早熟な理論家で、二四年に刊行した名著め、長崎の商館医モーニケから痘苗を得て郷里実、重厚な演技は能界の指標として仰がれ、そり後進の指導にあたる。 たかはしそうへい ( 天 0 一一 / 0 三ー三三 ) に種痘法を広めた。有徳の士として知られ、江の謡の力感、リズムのみごとさは比類がなかっ 『特殊部落一千年史』は一九歳のときの作。二 高橋草坪 あぎな 六年五月訪ソし、レーニン講習所に学び、党再戸・長崎へしばしば赴き、諸家より新知見を求た。一九七八年 ( 昭和五三 ) 重要無形文化財保江戸後期の南画家。名は雨、通称は元吉、字を きよし きんこう ぶんご 建のため二八年 ( 昭和三 ) 末帰国。『マルクスめた。子の正純・正直ともに名医とうたわれ持者 ( 人間国宝 ) に認定される。高浜虚子門下草坪といい、錦江外史と号する。豊後 ( 大分 きっき として、俳句にも優れた作が多い。後継者に高県 ) 杵築の商家に生まれる。一 八二二年 ( 文政 た。後年、一九二八年 ( 昭和三 ) 従五位を贈ら 主義』誌上に多くの指導的論文を発表したが、 あきら しさむ たのむらちくでん 〈末中哲夫〉橋章、高橋勇がある。 〈増田正造〉五 ) 同地を旅行中の田能村竹田に画才をみいだ 翌二九年の四・一六事件で検挙され、懲役一五れた。 たかはししんきち ( 一九 0 一ー たかはしせいいちろう ( 一会四ー一九 年の刑を受けた。三三年獄中で転向を表明、三 され、その門に入った。竹田の東遊に同道し、 高橋新吉 ) 詩高橋誠一郎 やわたはま てんばう ようせつ 五年六月結核で執行停止となり、出獄したが、人。愛媛県に生まれる。八幡浜商業学校を卒業 <ll) 経済学者。新潟県に生まれる。一九〇八 京坂にもその名を知られたが天保四年に夭折。 え 一一月二〇日に死去した。 〈渡辺悦次〉目前に中退。初め福士幸次郎の影響を受けた年 ( 明治四一 ) 慶応義塾政治科を卒業、イギリ 享年は三一歳と三二歳説とがある。画は重苦し つよし ひとし はたん 十′い十 4 ′ じゅ まっ 656

10. 日本大百科全書 14

さだみず たむららんすい ( 一七天 ー七六 ) 江戸 後在野の研究生活に徹した。研究は農民一揆、という。祭神について種々伝承されるが、定水田村俊子たむらとしこ ( 天会ー一九 ) 小説田村藍水 ほんぞう 交通、風俗、工業、人物史にわたり、時代も幅大明神と古くより称され、本社奥殿床下に定水家。明治一七年四月二五日、東京・浅草の米穀中期の本草学者。江戸神田の生まれ。通称元 あべしようおう 広いが、主として江戸時代の古文書解釈を基礎といわれる井戸のあることより、古来本社周辺商佐藤家に生まれる。日本女子大学国文科中雄、名は登、藍水は号。阿部将翁に本草を学 やしろ ろはん にする著作で大きな業績を残した。歴史の本体の水田を潤す井戸に対する信仰に発する社とみ退。幸田露伴の門に入り、佐藤露英の筆名で処び、諸国を採薬して、その栽培に従事した。幕 っゅわけごろも えんぎ は民衆であるという立場と生活・生産を営む郷られる。八四九年 ( 嘉祥一 l) 従五位下、延喜の女作『露分衣』 ( 一九 0 三 ) を発表。その後、女優命でチョウセンニンジンの国産化を図り、種子 みようじん さめき 制で名神大社、のち讃岐国一宮、明治の制でとして毎日文士劇や中村春雨の新社会劇団の舞栽培に努め、各地への移植に成功した。二〇歳 土の歴史の集積が日本史であるという立場から しようギ一よ にんじん 台に立つ。一九〇九年 ( 明治四一 l) 田村松魚でその方法を記述した「人参譜』を著す。三〇 歴史を理解し、日本史のなかの不平等と平等の国幣中社。 と結婚。一一年『あきらめ』が『大阪朝日新歳のときの著『人参耕作記』では栽培・調製法 例祭一〇月八日、ほかに五月八日の初夏祭、 問題に終生焦点をあてた。著書『日本農民一揆 あけ おかちょうたれのしんじ 録』『一揆・雲助・博徒』『日本工業文化史』御蚊帳垂神事、一〇月八日例祭後の御蚊帳撤聞』の懸賞に一等当選。以後、『誓言』 ( 一九一一 l) 、を記述した。三六歳のとき幕府医学館教授とな ら 〈鎌田純一〉『女作者』『木乃伊の口紅』 ( ともに一九一三 ) 、『り本草を講じる。一七五七年 ( 宝暦七 ) 本郷湯 『近世日本交通史』『やくざの生活』『日本風俗神事など特殊神事が多い。 たんび 史』『世直し』など。 〈深谷克己〉タムラソウ Se ミミミききき L. sub- 烙の刑』 ( 一九一四 ) など、耽美的な色濃い官能描島で第一回物産会を催し、多年諸国から採集し た動植鉱物類を陳列公開した。旅の不自由な当 回歴史科学協議会編『現代歴史学の青春』 ( 一九 sp. s ミミ ( 三 (n) Kitam. キク科の多年写と男女の相克の世界を描いた作品を発表し、 含・三省堂 ) ▽永原慶二・鹿野政直編『日草。根茎はやや太い木質で、茎は直立し、高さ大正初年間の第一線の女流作家として華やかに時、諸国の物産を一堂に集めた企画は、本草家 せいとう 相互の研究に便宜を与え、一般の好評を博し 一・五に達する。葉は大形で羽状に切れ込活躍。青鞜社にも加わる。 本の歴史家』 ( 一九七六・日本評論社 ) もりりつし おおっきげんたく しかし、はで好みと浪費癖から生活は崩れ、た。門人に平賀源内、大槻玄沢、森立之らがい ~ 一一月、茎の上 田村三省たむらさんせい ( 一七三四ー天 0 六 ) 江み、質が薄く、刺はない。八 〈根本曽代子〉 戸後期の会津藩士、愛石家。姓は田邨とも。若部に枝を分け、その先に大きな赤紫色の頭花を一八年 ( 大正七 ) 愛人のジャーナリスト鈴木悦る。 えもんただとも たむらりゅういち ( 一九一一三ー を追ってカナダに渡り、悦とともに日本人労働田村隆一 松城下の町家酒井伊右衛門忠知の三男に生まつける。頭花は中性の細い管状花と両性の太い せいじえもん れ、藩士田村清次右衛門の養子となり、その名管状花からなり、花柱の先は二分して開出す者を蒙する民衆社を経営、一八年間を経て一一一人。大正一二年三月一八日、東京に生まれる。 あれち ぶちぎんみしょ 明治大学文芸科卒業。『荒地』出身の代表的詩 を襲名。養父の跡七石二人扶持で吟味所支配無る。総包片は多数で密に重なる。花床には鱗片六年 ( 昭和一一 ) 帰国。文壇に返り咲こうとし つん ~ くばかわっるじ かんじよう たが、創作力はすでに衰退していた。窪川鶴次人の一人。府立三商時代、北村太郎らと詩作を 役となり、のち物書本役、塩方、郡役所勘定状の剛毛がある。痩果は円柱形で無毛。冠毛は なかぎりまさおあゆ ろう 郎と恋愛に陥り、苦境脱出を図って単身中国に始め、村野四郎らの『新領土』、中桐雅夫・鮎 オ毛状にならない。アザミの類に似るが、葉に などを勤める。一七八八年 ( 天明八 ) 幕府の奥 かわのぶお ふるかわこしようけん 日信夫らの rLE BAL 』などに参加、また加島 羽・松前巡察に際し古川古松軒と領内の遺跡刺がなく、花柱分枝が開出し、冠毛が羽毛状で渡る。上海で雑誌『女声』の発行に従事してい みよしとよいちろう のういつけっ ないなどの点で異なる。山地の開けた草地や高たが、昭和二〇年四月一六日脳溢血により死祥造、三好豊一郎らを知り、詩作を深める。学 を巡見し、九四年 ( 寛政六 ) 江戸藩邸の再建に 従事、翌年の藩政改革にあたっては物産方とな原に生え、本州から九州、朝鮮半島に分布す去。六〇年 ( 昭和三五 ) その名を記念して、女徒出陣で海軍予備学生として敗戦を迎えたが、 ふど はんせん 流文学者の作品に贈られる田村俊子賞が設けら戦後いち早く第二次『荒地』を創刊主導 ( 一九 る。一八〇三年 ( 享和三 ) 藩撰『新編会津風土る。基本亜種 subsp. きききはシベリアか へんさん 〈広瀬朱実〉四五 ・ lll) 、年刊『荒地詩集』を編集するなど、 らヨーロッパにかけて分布する。〈小山博滋〉れた。 記』の編纂に従ったが、完成を待たずに没し 回『明治文学全集明治女流文学集一一』 ( 一九活発な詩活動に入る。おもな詩集に『旧約聖 た。この間、領内の遺跡・遺物を踏査し、奇石田村泰次郎たむらたいじろう ( 一九一一ー わせだ 小説家。三重県生まれ。早稲田大学仏文科に学 六五・筑摩書房 ) ▽瀬戸内晴美著『田村俊子』書』から示唆を得た第一詩集『四千の日と夜』 を採集、一二〇余に分類し、『会津石譜』二巻 ともいちろっ てんめいききん ( 一九五六 ) 、独自の新定型詩を実践してみせた『言 ( 角川文庫 ) にまとめた。また藩命により、天明飢饉 ( 一天一一一び、井上友一郎らと同人雑誌で活躍。学生時代 たむらとらそう ( 天七三 ー一九四三 ) 作葉のない世界』 ( 一九六一 l) 、『緑の思想』 ( 一九六七 ) な 会 ) に際し諸国を巡回し、その惨状を後世に は評論活動が主であったが、卒業後『人民文田村虎蔵 そんばうろく ~ 三七 ) 。一方曲家、音楽教育家。一八九五年 ( 明治二八 ) 東どのほかに、実的語法による『死語』『誤解』 伝えるため、『孫謀録』二巻 ( 一七会 ) を著述し庫』に長編『大学』を連載 ( 一九三六 ( 一九七六 ) 、『スコットランドの水車小屋一九九 た。↓新編会津風土記 〈庄司吉之助〉『行動』にも参加し、行動主義の作家として出京音楽学校を卒業し、その後一一五年間、東京高 きようべん いちのみや 田村神社たむらじんじや香川県高松市一宮発した。第二次世界大戦に応召し、中国各地を等師範学校で教鞭をとる。言文一致唱歌を提九詩集』 ( 一九八一 l) 、『陽気な世紀末』 ( 一九〈三 ) など やまとととひももそひめのみこと いさせりひこの 唱し、『尋常小学唱歌』 ( 一九 0 五 ) 、『高等小学唱で独自の時代意識を歌い続けた。ほかに対話集 町に鎮座。倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦転戦、敗戦後復員するや『肉体の悪魔』 ( 一九 へんさん みことさるたひこのおおかみあめのかぐやまのみことあめのいたねのみこと 四六 ) 、ついで『肉体の門』 ( 一九 ) を発表。肉体歌』 ( 一九 0 六 ) などを編纂。彼の作曲による『花『青い墟にて』 ( 一九七三 ) 、『ばくの中の都市』 命、猿田彦大神、天隠山命、天五田根命 いっすんばうし まっ ( 以上五神を田村大神という ) を祀る。創建年の解放こそ人間の解放であるというその主張咲爺』『金太郎』『一寸法師』『浦島太郎』など ( 一突 0 ) 、『五分前』 ( 一九公 l) など。アガサ・クリ 〈原子朗〉 代不詳、社伝で七〇九年 ( 和銅一 l) 社殿を創建は、戦後の混乱期に画期的な形で迎えられ、肉は広く愛唱され、大正時代の童謡歌曲の先駆とスティの推理小説の翻訳も多い よっこ。 〈柴田典子〉回『田村隆一詩集』 ( 一九六〈・思潮社 ) ▽清水昶 体文学の作家として目覚ましい活躍をするが、 著『詩人の肖像』 ( 一九全・思潮社 ) ▽大岡信 しだいに風俗小説家的傾きを示すに至った。後 いな ) 」 著『現代の詩人たち上』 ( 一九ハ一・青土社 ) 年の短編集『蝗』 ( 一九六五 ) には、かっての肉体 文学的作品と違い、人間の存在を観念と生命と タムワース Tamworth オーストラリ ア、ニュー・サウス・ウェールズ州北東部の都 の相克においてとらえようとした、じみながら 市。シドニーの北西四五〇キロ ( 道路距離 ) にあ 沈潜したヒューマンな作品が多い。ほかに『失 る。人口二万九六五七 ( 一九ハ一 ) 。東部高地の西 はれた男』 ( 一九六七 ) 、『兵士の物語』 ( 一九七一 ) など ウ 斜面、ニュー・イングランド地方南西端に位置 〈中石孝〉 がある。↓肉体の門 ラ回『筑摩現代文学大系田村泰次郎他集』 ( 一九 する。同地方南部と西方の平原を控えた伝統的 9 む な地方中心都市で、周辺の小麦・ヒッジ・酪農 8 タ 大・筑摩書房 ) いっき じゅ りんべん シャンハイ 田村俊子 ほんごう