年 - みる会図書館


検索対象: 日本大百科全書 14
928件見つかりました。

1. 日本大百科全書 14

第」国に 0 たばこ ノくッケ ージ ( 日本 ) HERO 1 トいしい R に 5 ′ E HADE FRC 当 ドい 0 一ソ円 6 : A ANDSWEETEST .ÅAPANESE CIGARETTES ! 第 100ACC0. MURAI BROS. 改 CO. ー ; いⅡ F.YOVO,JAPAN- 1895 年 ( 明治 28 ) 両切り 1 0 本 3 銭 ニを ! ー Ciga 「 ette; 工ア - ーシッフ。 1921 年 ( 大正 10 ) 包天中 ohak イ 1899 年 ( 明治 32 ) 口付き 20 本 3 銭 岩谷天狗 * M IJ R A ー S (_) ー GA R E T 丁 E S ′ U R ^ ー B 日 0 s. C 0. LiD. サンライス 1895 年 ( 明治 28 ) 20 本 4 銭 両切り S U N - R E 盟を又カ : 内四第 Z 製見井応を響式 - 気日 ヒーロー 中天狗 * 1899 年 ( 明 治 32 ) 50 本 口付き 8 銭 局貪專煙 敷島 1904 年 ( 明治 37 ) 朝日 コールデンノヾット 1904 年 ( 明治 37 ) チェリ 口付き 20 本 8 銭 1904 年 ( 明治 37 ) 1906 年 ( 明治 39 ) 口付き 20 本 6 銭 両切り 1 0 本 6 銭 両切り 1 0 本 4 銭 不ニ 1906 年 ( 明治 39 ) 口付き 20 本 1 0 銭 て ヤ 1930 年 ( 昭和 5 ) コノ、ク 1 0 本 40 銭 両切り みのり 1930 年 ( 昭和 5 ) 口付き 20 本 1 5 銭 なでしこ 1907 年 ( 明治 40 ) 国華 1910 年 ( 明治 43 ) 刻み 20 匁 1 0 銭 口付き 20 本 1 5 銭 光 1936 年 ( 昭和 11 ) 響 1932 年 ( 昭和 7 ) 桃山 1934 年 ( 昭和 9 ) 金鵄 バイプ 1009 90 銭 両切り 1 0 本 1 0 銭 口付き 20 本 1 0 銭 1940 年 ( 昭和 15 ) 両切り 1 0 本 9 銭 みのり 1941 年 ( 昭和 16 ) 鵬翼 1941 年 ( 昭和 16 ) 刻み 309 20 銭 両切り 10 本 15 銭 新生 ビース コロナ 1947 年 ( 昭和 22 ) 1952 年 ( 昭和 27 ) 1946 年 ( 昭和 21 ) 両切り 両切り 10 本 10 円両切り 10 本 40 円 1 0 本 40 円 注 : 名称 , 発売年 , 区分 , 数量 , 発売時の定価の順。 ホープ 1931 年 ( 昭和 6 ) 両切り 1 0 本 1 5 銭 0 則、 SevenStars を、ス一よ、フ 癶 : HOPE 1948 年 ( 昭和 23 ) 両切り 20 本 60 円 セプンスター 1969 年 ( 昭和 44 ) フィルター 20 本 100 円 ハイライト 1960 年 ( 昭和 35 ) 1957 年 ( 昭和 32 ) 20 本 フィルター 10 本 フィルター 70 円 40 円 ききよう 1948 年 ( 昭和 23 ) 刻み 309 60 円 ・印はに民営のたはこ 849

2. 日本大百科全書 14

当第 そひえと ソビエト映画 い■一、一こ す・一れ 、ト ①セルゲイ・エイゼンシュティン監督「戦艦ポチョムキン』 1925 年 ②フセポロード・ブドフキン監督「母』 1926 年 ③ニコライ・エック監督『人生案内』 1 931 年 ④ワシリーエフ兄弟「チャパーエフ」 1934 年 ⑤アレクサンドル・プトウシコ監督「石の花』 ( カラー作品 ) 1 946 年 ⑥ミハイル・カラトーゾフ監督「戦争と貞操 ( 鶴は翔んでゆく ) 』 1957 年 ⑦セルゲイ・ケラーシモフ ! ・静か なるドン」 ( カラー作品 ) 1958 年 ⑧アレクサンドル・サルヒ監督 「アンナ・カレーニナ」 1968 年 ⑨ゲオルギー・シェンゲラーヤ監 督「ビロスマニ」 ( グルジア映画 ) 1972 年 ミハルコフ監督「機 ⑩ニキータ・ 械しかけのビアノのための未完成 の戯曲」 1977 年 ⑩アンドレイ・タルコフスキー監 督「ノスタルジア」 1983 年 197

3. 日本大百科全書 14

~ 一一一七 ) 、⑦社会主義社会の強化、国防強化期土地の無償没取と分配を定めた「土地について ( 一九三七 ~ 四一 ) 、⑧大祖国戦争期 ( 一九四一 ~ 四五 ) 、⑨ の布告」をただちに発し、ついで一九一八年一 復興と発展、社会主義世界体制の成立期 ( 一九四五月には「勤労被搾取人民の権利の宣言」を採択 ~ 五一 I) 、 g 社会主義社会の発展期 ( 一九五一一 ~ 五 0 、して、新しい共和国の基本原則を明らかにし 鬮社会主義社会の完成と共産主義への漸進的移た。以後一八年三月ごろまでに、広大な旧ロシ 、」行期 ( 一〈究 ~ 吉 ) 。また、「ソビ、ト歴史百科事ア帝国領域の各地でソビエト政権が成立し、臨 典』第一三巻 ( 一九七 I) の「ソビエト連邦」の項時政府の体制は一挙に崩壊した。一八年三月に 目における時期の区分は、ほばこれと同じで、 はドイツと単独講和を結び、この前後に、銀 ①一九一七 ~ 一八年、②一九一八 ~ 二〇年、 行・運輸・大工業企業・外国貿易を国有化し、 一九二一 ~ 二五年、④一九二六 ~ 四〇年、向一社会主義的改造のための態勢を整えようとし 九四一 ~ 四五年、⑥一九四六年以降、となってた。↓ロシア革命 いる。一九七六 ~ 八〇年に刊行された経済史〔国内戦と諸共和国の誕生〕しかし息をつく暇 『ソビエト経済』 ( 全七巻 ) は、①一九一七 ~ 一一はなく、一九一八年なかばより、イギリス、日 〇年、一九二一 ~ 二五年、③一九一一六 ~ 三一一本をはじめとする帝国主義列強が軍隊を送り、 年、④一九三三 ~ 三七年、⑤一九三八 ~ 四五反革命軍を助け、国内戦・干渉戦が始まった。 年、⑥一九四六 ~ 六〇年、⑦一九六〇 ~ 七〇年ソビエト政権は、赤軍を創設してこれにあたる 代の各巻に分けられており、⑥は、「国民経済とともに、自家消費・種子分を除く穀物を農民 の復興と発達した社会主義経済の創設」、⑦は、 から強制的に出させる食糧徴発制を土台とする 「発達した社会主義の段階でのソ連経済」と題「戦時共産主義」政策をとり、すべての力を国 されている。ジュゼッペ・ポッフアの「ソ連邦内戦勝利のために動員した。富農の穀物徴発に 史』 ( 一九七九 ) では、革命、ネップの時代、工業は貧農委員会があたり、富農と貧農との階級闘 化と集団化、個人権力、大祖国戦争、冷戦、フ争は激しくなった。一九年三月の第八回党大会 ルシチョフ下の一〇年、の七つに区分されて いでは、「貧農に依拠しながら中農層と強固な同 盟を結ぶ」政策が明らかにされ、中農を漸進的 ここでは、①革命期、社会主義的改造とエかつ計画的に社会主義建設に引き入れる方針が 業化期、 ) 大祖国戦争期、④スターリン批判 とられた。周辺諸民族地域では、国内戦のなか 期、「発達した社会主義」の時期、と五つので、革命と反革命との激しい闘争が行われた。 時期に区分して概観する。 ( なお、革命前のロ また、フィンランドでも、一七年一二月六日に シアの歴史については「ロシア史」の項を参照 セイム ( 議会 ) がロシアからの独立を宣言し、 されたい ) 三一日にソビエト政府がこれを承認した。一 〔革命期〕〔十月革命〕第一次世界大戦のさな方、・ハルト海沿岸地方では、首都とほば同時に か、一九一七年二月七日 ( ロシア暦一〇月二 ソビエト政権が樹立されたが、まもなくドイツ 五日 ) に首都ベトログラードでソビエト政権が軍に占領され、反革命政権が成立した。しか 成立し、世界最初の社会主義革命が成功した。 し、これらを例外として、大部分の地域におい この年の三月 ( ロシア暦二月 ) に起こった「一一てはソビエト政権が諸民族勤労者の支持を得て 月革命」により、国会の勢力を中心として形成確立する。 された臨時政府は、平和と土地を求める労働 ・ヘロルシアでま、、 。しったんミンスク市の権力 者・農民にこたえることができす、兵士・労働を握ったソビエトを、一九一八年三月にドイツ 者をつかんでいたソビエトでは、臨時政府を支軍が倒し、領域の大部分を占領したが、赤車の エスエル 持するメンシェビキと T) が多数を占めてい 反撃によって一九年一月一日にソビエト共和国 た。これに対してレーニンを指導者とするポリ が成立した。ウクライナでは、一七年一二月二 シェビキは、「四月テーゼ」によって、ソビエ五日にハリコフでソビエト政府が組織され、一 トがただちに政権をとることを主張して勢力を 八年一月にキエフの中央ラーダを廃した。まも 急速に伸ばし、それを実現したのである。 なくべトリュラ政府が協商国の援助を得て勢力 ソビエト政府は、民族自決の原則に基づく を伸ばしたが、一八年一一月にソビエト政権が 無併合・無賠償の即時講和を交戦諸国の政府と復活した。ウクライナは、旧ロシア帝国領域内 人民に訴えた「平和についての布告」、地主ので工業・農業とももっとも発展しており、労働 2 一お新 ! 3 い、きにい 第を・をト

4. 日本大百科全書 14

ア、ラトビア、リトアニア、モルダビアでソビ は最悪の様相を呈し始めた。↓冷戦 称 ) は。フレジネフ、首相はコスイギンによってしてシベリア開発も着実に進めている。 と 一九八六年二 ~ 三月の第二七回党大会では、 んエト政権が成立してソ連邦に加入した。三八年〔スターリン批判期〕〔「雪どけ」時代〕一九引き継がれた。新政権は、工業管理・計画制度 「張鼓峰事件」、三九年「ノモンハン事件」と紛五三年三月、一九二二年以来三〇年にわたって改善の試みを推し進め、最新技術導入、自動党の中核をなす政治局の一二人中八人がアンド び 争が続いた日ソ間には、四一年四月、中立条約党書記長であったスターリンが急死した。後を化、巨大なコンビナート・大発電所の建設を行 ロポフ以降の新メンバーとなるなど、ブレジネ 、、ゝ結ばれた。↓日ソ中立条約 継いで首相兼党第一書記となったマレンコフ った。エレクトロニクス・無線工学等の部門もフ期における人事の停滞と対照的に、党と政府 〔ドイツによる侵略と反攻〕一九三九年九月第は、消費物資の生産に力を入れた。まもなく第発展、工業・農業を含めた地域生産総合体がっ の指導部が大きく若返った。 二次世界大戦が始まっていたが、四一年六月突 一書記となったフルシチョフは、カザフスタンくられ始めた。穀物生産は七八年には二億三七 この大会で採択された新しい党綱領では、 如ドイツ車がソ連に侵攻し、一一月にはモスクの処女地開墾などによって農業生産の向上を図二〇万トンと一九五三年の三倍近くに増大、畜産「社会主義社会を全面的に完成し、その可能性 ワ、レニングラード近くまでが占領された。し り、こうして、国民生活は急速に豊かになって においても、牛・羊・豚の頭数で世界一、二と と優越性を共産主義へのいっそうの前進のため かし一二月にはモスクワ近郊でソ連軍の反撃が きた。ソ連はすでに原爆を保有していたが、五なった。農業の機械化・化学化・電化も格段に にもっと十分に有効に利用する」ことがうたわ 始まり、ドイツ軍の電撃戦の失敗は明白となっ 三年には水爆実験にも成功、五五年にはワルシ進み、労働の生産性の向上、飼料の増産に力がれている。また同時に決定された、二〇〇〇年 た。レニングラードはこの年九月に包囲された ャワ条約機構を成立させるなど軍事的な力をつ注がれた。 を目ざす「経済社会発展の基本方向」では、科 がついに陥落せず、防衛戦は九〇〇日も続い け、朝鮮、インドシナの戦争を休戦に導いた。 〔新憲法の採択〕ブレジネフは、一九七六年、学技術進歩の加速、社会的生産の構造的再編、 せんめつ た。ドイツ側枢軸車三三万が包囲殲滅された四このころアジア・アフリカ諸国の発一言権も強ま元帥、国防会議議長、七七年には最高会議幹部管理システム・経営方法の改善によって、国民 二年九月から四三年二月にかけてのスターリンり、周・ネルーの平和五原則が声明されるなど会議長を兼任、八二年一一月に没するまで一 所得・工業生産の二倍化を予定している。 グラードの戦いは、戦争の転機であった。ソ連平和共存の気連が盛り上がった。五六年二月、年間という長期にわたって党と政府を率いた。 グロムイコにかわったシェワルナゼ外相の下 第二〇回党大会では、フルシチョフが秘密報告 車の反攻が始まり、四三年七月クルスクの戦い この間、七四年にソルジェニツインを国外追で西欧に平和攻勢をかけるなど、国際政治面で で枢軸車は五〇万以上を失った。アメリカ、イでスターリン個人崇拝を厳しく批判し、「雪ど放、八〇年にはサハロフをゴーリキー市に流刑 も積極的にイニシアテイプをとろうとしており ギリスはソ連と反ファシズム連合を形成し、武け」を一挙に推し進めた。反対するマレンコするなど、反体制知識人に対する締め付けは強中国との関係も改善されつつある。〈木村英亮〉 フ、モロトフらは、のちに失脚に追い込まれまったが、全体としてみれば、豊かになってき 器を援助したが、四四年六月に連合軍がフラン 政治・外交・防衛 た国民生活を背景として、ゆっくりと自由化が スに上陸するまで、枢軸軍の大部分は独ソ戦線 〔社会主義世界体制の確立〕一九五〇年代、エ進んだといえよう。中央アジアやシベリアの発〔政治制度〕ソビエト連邦は社会主義国家であ に投入されていたのである。 やぎん ソ連軍は、ドイツ軍を追撃して東欧をファシ業生産の伸びは目覚ましく、冶金や機械製作な展も順調で、諸民族はほば実質的な平等を達り、全権力は人民に属し、人民は人民代議員ソ ビエトを通じて国家権力を行使することになっ ズムの支配から解放、一九四五年四月ベルリンどのほか、後半には石油化学など新しい分野も成、民族間の文化的接近も進行し、文字どおり を包囲し、五月八日にドイツは降伏した。八月急速なテンボで発展した。中央アジアなど周辺 のソ連邦となってきた。七七年の新しい憲法ている。現行憲法は一九七七年一〇月七日に採 八日には日本に宣戦し、中国東北地区の日本軍の諸民族共和国も本格的な工業化の時期に入っ は、この段階を文書として確定したものといえ択されたもので、現在のソ連を「発達した社会 よう。↓ソビエト連邦憲法 を撃破した。この戦争 ( ソ連のいわゆる「大祖 主義社会」と規定し、国家の性格を「社会主義 国戦争」 ) におけるソ連の勝利は、世界史に大 東欧諸国では、ユーゴスラビア、ポーランド セフ ( 経済相互援助会議Ⅱコメコン ) を通じ的全人民国家」としている。ソ連はロシア連 邦、ウクライナ、・ヘロルシア、ウズベク、カザ きな意義をもっている。東欧諸国では人民民主を例外として、一九六〇年前後に農業経営がすての東欧社会主義諸国との経済的結合も強化さ 主義革命が勝利を収め、帝国主義の植民地体制べて生産協同組合か国営農場によって行われるれ、一九七一年には「総合プログラム」を採択フ、グルジア、アゼルバイジャン、リトアニ は崩壊した。 ようになり、社会主義的改造を完了した。ソ連し、新段階を画した。一九六八年のチェコ介入ア、モルダビア、ラトビア、キルギス、タジ 〔復興〕大祖国戦争によって、ソ連は国富の一一一はこのころ「発達した社会主義」の段階に入っ に際しては「制限主権論」を唱え、政治的・車ク、アルメニア、トルクメン、エストニアの一 たとされている。 〇 % 、二〇〇〇万の人命という歴史に例のない 事的団結を強調した。アメリカとは、七二年以五のソビエト社会主義共和国からなる「単一の 損害を受けた。一九四二年に工業生産は四〇年 一九五七年、人工衛星スプートニク一号打上降毎年穀物を輸入し、七二年ニクソン大統領と 連邦的多民族国家」であり、各共和国は連邦か の六六 % 、農業生産は三八 % にまで低下した げによって人気を高めたフルシチョフ党第一書 ( 戦略兵器制限交渉 ) —、七九年カー らの脱退権をもっている。 が、開戦後一三六〇以上の大企業、一〇〇〇万記は、五八年ブルガーニンの後を継いで首相をター大統領とⅡに調印するなど共存路 ソ連の最高国家権力機関はソ連最高会議 ( 国 以上の人が東部に疎開した。粗鋼などの重工も兼任、国連総会で完全全面軍縮を提案、アイ 線を求めたが、七九年一二月のソ連軍アフガニ 会 ) であり、連邦会議と民族会議の一一院からな 業、戦車、航空機をはじめ兵器類の生産は急激ゼンハワー、ケネディらアメリカ合衆国大統領スタン介入以後、関係は悪化した。 る。両院は同権で、同数の代議員からなり、両 に増大してドイツをしのぐに至り、四四年の工と会談、六一年には新しい党綱領作成にイニシ 〔ゴルバチョフ政権と第一一七回党大会〕一九八 院の意見がどうしても一致しない場合には最終 業生産はすでに一〇四 % となった。戦後四六 ~ アテイプをとるなど精力的に活動した。しか 二年のプレジネフ没後、党書記長は、アンドロ的には全人民投票によって決定される。最高会 五〇年の第四次五か年計画によって引き続き復 し、中国共産党との路線上の対立を国家的対立ポフ、チェルネンコとかわり、八五年、五四歳議は通常、・一年に二回招集され、一回の会期は 興が進み、五〇年の工業生産は一七二 % となっ に至らしめたことや、「キューバ危機」など外のゴルバチョフが就任した。新政権は、経済改二、三日である。閉会中は、両院合同会議で選 た。スターリンは、人民委員会議議長 ( 首相 ) 、 交上の失敗、農業政策を中心とする内政上の失革の推進と徹底的な綱紀粛清・労働規律強化に出される最高会議幹部会が最高国家権力機関の 国家防衛委員会議長、最高司令官などの権限を敗を原因として、六四年に失脚した。 よって、鈍化した経済成長を高めようとし、と機能を果たし、宣戦の布告、戒厳の宣告、軍最 一身に集め、戦争を勝利に導いたが、その個人〔「発達した社会主義」の時期〕〔アメリカに 、数年来不作続きの農業生産を、八二年の 高統帥部の任免、国際条約の批准または廃棄、 的権威は過度に高まり、戦後まもなく始まった接近する経済力〕一九六四年一〇月、フルシチ「食糧計画」によって向上させようとしている。法律の解釈など広範な権限を行使する。幹部会 「冷戦」という国際的緊張のなかで、個人崇拝 ョフ失脚後、党第一書記 ( 六六年に書記長と改 八四年一〇月の第二シベリア鉄道開通をてこと 議長が国家元首にあたり、各共和国最高会議幹 216

5. 日本大百科全書 14

総裁 議定 参ケ ②一八六八年 ( 慶応四 ) 一月 神祇事務科 三職七科制 内国事務科 外国事務科 海陸軍務科 会計事務科 刑法事務科 制度寮 刑法官 ⑤一八六九年 ( 明治ニ ) 七月〔版籍奉還後〕 太政官制 ( Ⅱ ) 神祗官 政官 太政官制 / 明治初期官制沿革表 ①一八六七年 ( 慶応三 ) 一ニ月 神祇事務局 内国事務局 外国事務局 軍防事務局 ム計事務局 刑法事務局 制度事務局 ④一八六八年 ( 慶応四 ) 閏四月〔政体書〕 ( 六九年五月 廃止 ) 太政官行政官 ③一八六八年 ( 慶応四 ) ニ月 総裁ー副総裁 総裁局ー ( 総裁ー副総裁 ) 太政官制 ( — ) 三職八局制 民部省 大蔵省 兵部省 刑部省 呂内省 外務省 上局 下局 神紙官 会計官 軍務官 外国官 民部官 ( 六九年四月設置 ) ⑥一八七一年 ( 明治四 ) 七月〔廃藩置県後〕 太政官制 ( Ⅲ ) 正院↓七し年一月廃止 太政官 ともなった。発行総額は四八〇〇万両余で、七て、いったん参議と省卿の分離を図ったが、 「明治十四年の政変」後の八一年一〇月二一日、 九年 ( 明治一 (l) 一一月までにおもに新紙幣と 〈加藤幸三郎〉兼任を復活。同時に、法律規則の制定、審査に 交換、回収された。 ・こじようかんせい内閣制度成立以あずかる参事院を置いた。八五年一二月二一一 神祗省↓七一一年三月教部省 太政官制・ , ↓七七年一月廃止 日、太政官達第六九号をもって太政官制は廃 前の明治政府の職制。太政官はその最高官庁。 大蔵省 止。同日発足の内閣制がこれにかわった。 〔成立〕王政復古後の一八六八年 ( 慶応四 ) 一 さんしよく 兵部省↓七一一年二月陸軍省・ 太政大臣 〔意義〕太政官制は、幕藩体制を解体した新政 月一三日、太政官代が置かれ三職七科の制が 海車省に分離 ひょうばう 納言↓七一年八月に左大臣・ 宮内省 発足 ( ほどなく三職八局の制に変更 ) 。ついで権が、律令古制への復帰を標榜しつつ、全国 右大臣と改称 うるう 参議↓し三年五月に内閣議外務省 閏四月二一日、政体書を発布して立法・行統治を目ざして創出した中央権力機構である。 ぎせいかん 官設置↓七一一一年一〇月参議・ 司法省 政・司法の三権に分け、議政官以下の七官を置当初、神祇関係機構の位置づけをめぐって混乱 省卿兼任↓八〇年二月兼任 工部省 はあったものの、改革・整備は、太政官に強大 き、これらの中央官庁を太政官と総称した ( 特 廃止↓八〇年三月六部分任 部省 制廃止、参議・省卿兼任 別の官庁があったのではない ) 。しかし、三権な権限を集中する方向で進められた。しかし、 内務省 ( 七三年一一月設置 ) 天皇輔弼の責任が大臣に限られ、国政の実質的 分立の実はなく、行政を担当する五官 ( 行政・ 左院 ( 議長・議員 ) ↓七五年四月 じんぎ 農商務省 ( 八一年四月設置 ) 神祇・会計・軍務・外国 ) の首位にあった行政運営にあたる参議はこの責任にあすからなかっ 開拓使↓八一一年一一月廃止 たこと、国政の審議決定にあたる大臣・参議 官が、国政の決定・執行の中枢機関であった。 はんせぎ 院 ( 諸省長官・次官 ) ↓七三年参事院 ( 八一年一〇月設置 ) 五月臨時機関化↓七五年四 と、これを執行する諸省の長官とは権限を区別 版籍奉還後の一八六九年 ( 明治一 l) 七月八日、 月廃止 官制改革により民部以下の六省を管轄する官庁され、前者が上位に置かれていたこと、などの 元老院 ( し五年四月設置 ) として太政官が置かれ、ここに機構上、太政官制度的特質からしばしば問題が引き起こされ りつりよう 制が成立する。しかし、この改革は律令的太た。内閣制への移行によって、国務大臣と各省 大審院 ( 七五年四月設置 ) 政官制に基づく復古的なもので、三権分立制は長官との重複制が成立し、輔弼と執行との一体 〈大日方純夫〉 消え、太政官の上に神祇官が置かれた。廃藩置化が図られていく。 タシュトウイク文化ーーぶんか TaUJTblK ばんき /Tashtik ソ連、南シベリアのミヌシンスク県後の七一年七月二九日、天皇が親臨して万機回鈴木安蔵著〕。太政官制と内閣制』 ( 一九四四・昭 和刊行会 ) ▽福島正夫編『日本近代法体制 盆地に、タガール文化にかわって現れた文化を総判する正完、各省の長・次官が会合して行 の形成上巻』 ( 一九全・日本評論社 ) ( 前一一 ~ 後五世紀 ) 。牧畜とともに農耕も行われ政事務を審議する右院、議院・諸立法の事を議 だいじようだいじん だじようだいじん 0 太政大臣 ていた。墓にはしばしば火葬がみられるが、土する左院が置かれて太政官三院制が成立。その太政大臣 だじようてんのう 0 上皇 葬の場合にははとんどの頭蓋骨に孔があけら もとに外務以下の八省が設置され、中央集権国太上天皇 とん 家の最高機関として、太政官は確立された。三 れ、ミイラ化されている。そのほかに、墓に 多情仏、いたじようぶっしん里見弴の長編小 ほひっ は、埋葬人形と死仮面 ( デスマスク ) が置かれ院の中心は正院にあり、天皇を輔弼する最高責説。一九二二年 ( 大正一一 ) 一二月から翌年一 なごん 二月まで『時事新報』に連載、二四年四月 ( 前 任者の太政大臣以下、納言 ( 八月一〇日、左・ ていることもある。理葬人形とは、中に草を詰 編 ) および八月 ( 後編 ) 新潮社刊。自分の「一 右大臣と改称 ) 、参議などがこれを構成した。 め外側を皮革で覆って紐で縫い合わせた縫いぐ るみの人形のようなものである。死仮面は石膏〔変遷〕一八七三年 ( 明治六 ) 五月二日、強大生の仕事」を、「本気で惚れ、女にも本気で惚 ふじしろのぶ な大蔵省の権限を抑え、正院の権限を拡大するれさせることだった」と確信する弁護士藤代信 製で、額には赤い染料で渦巻文が、目の下には ために改革が行われ、正院には参議を議官とす之が主人公。多彩な女性遍歴を重ねながらも、 半円形の文様が描かれている。その住民は、漢 けんこん 代の中国史料にみられる堅昆にあたるとみなさる内閣が設置されて、立法・行政をはじめとす真心を尽くして生きてきたと自負する彼は、関 〈林俊雄〉 る国政の中枢機関となった。これに伴って、右東大震災の日の明け方に、「心からしたいこと れている。 だいじようかん 院は臨時に開く機関にかえられた。ついでこのをする分には、何をしたってい、ゝのだ」と言い だじようかん 0 太政官 太政官 すなはち 、、こじようかんさつ一 八六八年 ( 慶年一〇月の征韓論をめぐる政変後から、参議と遺して安らかな臨終を迎える。「多情乃仏心」 太政官札・ , きよう 応四 ) 五月、維新政府より発行された金札。政各省の卿 ( 長官 ) の兼任制が確立してゆき、参という句に想を得て、作者のいわゆる「まごこ ゆりきみまさ 議の権限はしだいに強大となった。七五年四月ろ哲学」Ⅱ「誠実至上主義」を具象化し、強ー 府紙幣の最初のもの。参与由利公正の建議によ 一四日、漸次に立憲政体をたてるとの詔書が発と思われるほど縦横に展開した作品。二〇〇〇 る。明治初年における政府の財政基盤の弱体化 を克服するため、会計基立金三〇〇万両調達とせられたのに対応して、太政官制にも大改革が枚に及ぶ大作で、大正末年の享楽的な風俗描写 げんろう 〈宗像和重〉 並んで建議、裁可されたもので、十両、五両、加えられ、左右両院は廃止。正院のもとに元老が生彩を放っている。 いんだいしんいん 回『多情仏心』 ( 新潮文庫 ) 一両、一分、一朱の五種からなる。戊辰戦争の院と大審院が設置された。七七年一月一八日、 たしよくいんさっ二色以上の色を 戦費調達とも重なり、正貨準備のない不換紙幣地租軽減・政費節減の実施に伴う機構改革の一多色印刷 として六八年末までに二八〇〇万両余も発行さ環として、正院の称は廃止され、名実ともに内刷り重ねる印刷印刷ではカラー写真やカラー れた。この放漫な紙幣発行は、政府信用の末成閣が中枢機関となった。八〇年二月二八日、参テレビと異なり、紙の上に一度に二色以上の印 刷をすることはできず、色数だけの版をつくっ 熟とも相まって、その流通を困難にし外交問題議への権限集中に対する批判の高まりに対し 廃止 ひも レ」つ ~ し あな ばしん せつこう ゆき 737

6. 日本大百科全書 14

たにかわ 谷川岳 艮一 5 ′不太ー たにかんじよう ( 天三七ー一九二 ) 幕 一九六〇年 ( 昭和三五 ) には土合口から標高一 いる。それでも群馬県観光課の調査によると、長 ( 六五年辞任 ) を歴任。法政大学名誉教授。谷干城 てんじんだいら 八一年 ( 昭和六 ~ 五六 ) の五〇年間 三二〇の天神平まで谷川口ープウェーが設 地中海学会会長、愛知県文化懇談会議長その他末・明治期の軍人、政治家。土佐藩士谷万七・ けられ、国設天神平スキー場もできて、登山者に六九三人が遭難死し、年平均一三・九人とな多くの要職につく。その活動は幅広く、世界連伊久の長男として、天保八年二月一二日土佐に 層が厚くなり、しだいに観光地の性格も帯びてる。これを最近一一五年間についてみると、死亡邦政府運動、憲法問題研究会、科学者京都会議生まれる。幼名申太郎、のち守部。号は隈山。 なだれ めつけ ちどう きた。しかし、天候が激変しやすく雪崩や濃者の多かった年で三七人、少なかった年で七人 に加わる。七五年芸術院会員。ゲーテの人間性江戸で修学ののち、土佐藩小目付役、致道館助 おもて 霧、豪雨の襲来もあり、登山とくに岩登りによ となる。土合ロの国道二九一号のそばに慰霊塔 と思想に深く共鳴し、美の深さと高さを探究し教、長崎表探索御用などの役を勤め、一八六七 さつど る転落などで多くの遭難者を出し「魔の谷川 と碑が建てられ、碑には三一年以降の死亡者のている。宗教的立場は、ゲーテのいっさいのも年 ( 慶応三 ) 薩土盟約交渉にもあたった。廚辰 はんしん けんじ 岳」ともいわれる。そこで、一九六七年群馬県氏名と都県名が刻してある。↓一ノ倉沢↓三 のに神をみる汎神論で、宮沢賢治への傾倒もそ戦争後は一時土佐藩政改革に関与。七一年 ( 明 にしくろおわ ひょうぶごんのだいじよう は谷川岳遭難防止条例を制定、西黒尾根コース国山脈 〈村木定雄〉こに由来する。「生涯一書生」をモットーとす治四 ) 兵部権大丞に任ぜられて以後、陸軍裁 みなかみ しげくらだけ などの一般コースを除いて、一ノ倉沢、幽ノ地三万五千分の一地形図「茂倉岳」「水上」 る。著書に『感傷と反省』 ( 一九一一五 ) 、『享受と批判所長官、熊本鎮台司令長官、士官学校長とも 評』 ( 一九三 0 ) 、『生の哲学』 ( 一九四七 ) 、『宮沢賢治』 つばら軍職を歴任した。この間、西南戦争時に 沢、マチガ沢などの危険指定地域を登山届出制谷川徹三たにかわてっそう ( 天九五ー ろうじよう にした。悪天候の日には群馬県知事が登山を禁哲学者。明治二八年五月二六日愛知県に生まれ ( 一九五 D 、『人間であること』 ( 一九七 I) その他多数は熊本籠城を経験。七八年陸軍中将。八一年 とりおこやた 1 」ろう そがすけのり 止し、また土合口に谷川岳登山指導センターをる。一九二二年 ( 大正一一 ) 京都帝国大学哲学ある。 〈原島正〉鳥尾小弥太、三浦梧楼、曽我祐準とともに国憲 設けて遭難防止と安全登山を指導し、また警備科を卒業。一一八年 ( 昭和三 ) 法政大学文学部哲回『谷川徹三選集』全三巻 ( 一九四六 ~ 四七・斎藤書創立、議会の開設を建白するなど、中正党派と 隊を配置するなどして遭難事故の減少に努めて学科教授。五一年 ( 昭和一一六 ) 理事、六三年総 店 ) して活動した。八四年学習院長、八五年農商務 ' / 小温泉 5 km 00 , 〇〇〇 台 至しょのもうこうげん 谷川岳 太平洋側と日本海側を分ける脊梁 山脈にあたり侵食作用が強く , と くに群馬県側は急峻な谷が多い。 「魔の山」といわれ遭難者の多いこ とで知られる。 〔上〕手前中央が谷川岳 , 右側は一 ノ倉岳。その問の谷が一ノ倉沢 〔左〕出合い付近からみたーノ倉沢 てんばう 822

7. 日本大百科全書 14

そびえと 教育 個々人のもつ知的・肉体 , - 、 的能力を最大限に発展さ せつつ , 社会主義建設に 役だつ人材を育成するこ とが , ソ連の教育の究極 の目標である 〔左〕スポーツ学校で新体 操のトレーニングに励む ー女生徒たち ( レニングラ 〔右〕科学技術を習得する ための実習を受ける高校 生たち ( モスクワ ) 要参、 4 ーンー 4- 4 は秘密協定を含むもので、中国の服属と英米の 時代にはオランダが、幕末から日露戦争までは 日本との関係 中国進出の阻止をねらった軍事同盟であった。 イギリスが、そして第二次世界大戦後はアメリ 〔ロシア革命から第ニ次大戦まで〕一九一七年 〔帝政ロシアと日本〕ロシア人が日本について力が第三国として介在し、強い影響力を両国間 十月革命によってポリシェビキが政権を獲得 に行使してきた。 最初に情報を得たのは一三世紀後半、元のフビ し、ドイツと単独講和を結んで戦線を離脱し 一八五三年 ( 嘉永六 ) 、アメリカの。ヘリーが ライ・ハンのもとにおいてであった。その後一 た。これに対し日本は米・英・仏などの連合国 六三七年にフランドルの地理学者メルカトルの浦賀に来航した一か月後、三回目のロシアの使 『地図帳』がロシア語に訳され、そのなかにヤ節プチャーチンが長崎へ来航し、通商と国境のとともに干渉戦争を開始した。日本の派兵は七 画定を申し入れた。その結果一八五五年 ( 安政万余、期間も一九一八年八月から一三年一〇月 ポーニヤ ( 日本 ) の地図と簡単な記事が現れた。 しもだ に及び、連合国のなかでも最大の規模であっ (l) 二月七日「日露通好条約」 ( 下田条約 ) が 一七世紀の末にカムチャッカ半島を探検した えとろふ コサックの隊長アトラーソフが、原住民の集落結ばれ、日露の国境は択捉島と得撫島の間に決た。この間一九二〇年には尼港事件が起こり、 からふと で大坂出身の漂流民デン。ヘイ ( 伝兵衛 ) を発見まったが、樺太 ( サハリン ) については双方の当時ソビエト政権を承認していなかった日本 し、日本と千島に関する情報を得た。この報告意見が折り合わす、国境を定めす両国民雑居のは、事件の交渉相手がいないことを理由に、一 えのもとたけあき に接したピヨートル大帝はデンべイを招いてそ地とされた。明治維新後、新政府は榎本武揚を九二五年五月まで北樺太の保障占領を続けた。 一九二四年にまずイギリスがソ連政府を承認 ロシアに派遣し、一八七五年 ( 明治八 ) 「千 の話を聞いた。日本に関心を抱いたピヨートル はデンべイに、ロシア語を習ったうえで日本語島・樺太交換条約」を締結。その結果、全千島し、続いてイタリア、フランスもこれに倣った が、日本も一九二五年に「日ソ基本条約」を結 列島が日本領に、樺太全島がロシア領となった。 を教授するよう命じた。 はこだて ロシア政府は一八五八年 ( 安政五 ) 箱館 ( 現んで国交を回復した。 ロシア人が日本の北辺に渡来するようになっ はこだて 一九三二年 ( 昭和七 ) の「満州国」建設後、 たのは一八世紀の後半からである。このときか在の函館 ) に領事館を開設し、領事館付属の一一 ら日本とロシアは隣国どうしと代目司祭としてニコライが着任した。彼は一八関東軍の勢力は年を追って増大し、ソ・満国境 ちょうこはう するがだい なった。一七七八、七九年 ( 安七二年 ( 明治五 ) に上京し、神田駿河台に復活において一九三八年に張鼓峰事件が、三九年に 永七、八 ) の二度にわたって、大聖堂 ( ニコライ堂 ) を建てるとともに、七年ノモンハン事件が発生、日本車は大敗した。 うるつぶ 一九三九年八月ナチス・ドイツはソ連と不可 ロシアの毛皮商人が得撫島から 制の正教神学校を開設して、伝道と教育に努め 北海道の東部にやってきて交易た。その結果一八八〇年には日本全国で教会数侵条約を結び、その一週間後にポーランドへ侵 を申し入れた。しかし松前藩は六九、信徒数は六〇九九にまで達した。神学校入、第二次大戦の幕が切って落とされた。翌年 このえ こにしますたろうのばりしょむ 幕府にこの事実を知らせず、交卒業生のなかからは小西増太郎、昇曙夢、瀬一〇月、近衛内閣はドイツの提案にのって日独 ぬまかよう 易の申し出を拒絶した。仙台藩沼夏葉といったロシア文学の翻訳家や山下りん伊三国同盟を結んだ。ついで一九四一年四月に くどうへいすけ は松岡外相がスターリンと会談して、「日ソ中 医工藤平助は、蝦夷地のロシア のような聖像画家が現れた。ロシア文学は一八 ふたばていしめい 人に関する風聞とオランダ語で 八一年に二葉亭四迷がツルゲーネフの『あひび立条約」が締結された。その直後に独ソ戦が始 まったが、日本の軍部のなかには対ソ侵攻論が 出版されたロシアの歴史と地理き』と『めぐりあひ』を翻訳出版したときから についての翻訳書をもとにして本格的に紹介されるようになった。とくに明治台頭し、七月から八月にかけて七〇万の兵を動 『赤蝦夷風説考』上下 ( 一大一、 三〇年代からはトルストイ熱が流行し、一九一員して「関特演」 ( 関東車特種演習 ) が行われ た。これは対ソイ 乍戦準備行動であって、事実上 <IID を著し、蝦夷地の開発とロ 六年 ( 大正五 ) には全集や、月刊の『トルスト 日ソ中立条約を侵犯するものであった。 シアとの貿易を説いた。 イ研究』が発行されるまでになった。このほか 〔第ニ次大戦後〕日本がソ連と国交を回復した ついでロシアは一七九二年ドストエフスキー、チェーホフ、ゴーリキーな のは、戦後一一年たった一九五六年 ( 昭和三 ( 寛政四 ) に最初の遣日使節アどの作品も次々に翻訳され人気を博した。 はとやま 極東における日本とロシアの対立はついに日 一 ) のことである。この年一〇月鳩山首相がソ ダム・ラクスマンを、一八〇四 年 ( 文化一 ) に第二回使節とし露戦争を引き起こし、一九〇五年 ( 明治三八 ) 連を訪問して「日ソ共同宣言」が調印された。 しこたん てニコライ・レザーノフを日本「ポーツマス条約」が結ばれた。これによって当初鳩山内閣は、歯舞・色丹島の返還をもって に派遣し、漂流民を送還したう樺太の北緯五〇度以南が日本領となった。また平和条約を締結することを考えていたが、この しげみつ えで通商を求めた。しかし鎖国この条約に基づき一九〇七年日露漁業条約が結年八月アメリカのダレス国務長官が重光外相に くなしりえとろふ 政策をとる幕府は二度ともこのばれ、これ以後、北洋の漁業権は国家権益とみ対し、もし日本が国後・択捉両島をソ連に譲る なされるようになった。 ならアメリカは永久に冲縄を占領し続けるだろ 申し出を拒否した。ロシア側 は、このような拒絶の裏には、 日露戦争後、日本は満州における権益を確保うといったところから、領土問題は棚上げにし 日本との貿易の独占をねらうオするために、ロシアとの接近を図った。その結て国交回復に踏み切ったのであった。 まんもう 日ソ間にはこれより五か月 ~ 印ー 」こ「日ソ漁業条 ランダが糸を引いているのでは果、満蒙地域における日露両国の勢力範囲を画 約」が結ばれていた。これにより、日ソ両国は ないかと考えた。事実、日本と定するために、一九〇七年から一六年に四回に ロシア ( ソ連 ) の間には、江戸わたって日露協約が結ばれた。第四回目の協約資源保護のため協同措置をとることと、年間の 2

8. 日本大百科全書 14

・チェンバレンの自由統一党に 発酵温度を適温に保つ利点がある。水牛乳を使来の葬送墓制に変革をもたらした。〈森祖道〉途を開いた。同製鉄所はコークス高炉のメッカ由党を離れ、 参加し、九一年まで同党の上院での代表者を務 久三となり、この技術は全世界へ広がっていった。 用したものは脂肪分が五 ~ 八 % と高く、ダヒをダビー Georges Ambroise Davy ( 一、 ん、は , れ 〈石井摩耶子〉 コークス高炉は・コートのパドル法とともにめた。 ー一九七六 ) フランスの社会学者。エコール・ノ 攪拌すると乳脂肪 ( ギー ) とバターミルク ( ラ ッシー ) の部分に分かれる。ギーは保存性の高ルマル・シュペリュール ( 高等師範学校 ) を卒製鉄法を木炭製鉄から石炭製鉄の時代に移行さダービー DerbY イギリス、イングラン ド中部、ダービーシャー県の県都。人口二一万 ハターオイルで、食用のほか灯明ともなり、業。ニースやリョンのリセ ( 高等中学校 ) の教せた。この変革には・ワットの蒸気機関が大 ーミンガムの北北東約六 〈中沢護人〉五七三六 きな役割を果たした。 授を経て、一九一九年ディジョン大学教授とな ラッシーはインド人のもっとも手近な栄養源に なっている。ダヒは野菜、果物と混ぜたり、カり、四四年ソルポンヌ大学教授となった。デュダービー 74 Ea ミ DerbY, Edward 〇キ。に位置し、トレント川の支流ダーウエント 川に臨む。商工業、行政の中心地。航空機エン レーなど各種の料理に使われるほか、肉類の漬ルケームの指導を直接的に受けた一人で、デュ George Geoffrey Smith Stanley ( 一七九九 ジン、陶器、合成繊維、鉄道車両、化学などの ー一会九 ) イギリスの政治家。一四代ダービー け込み用など、広くインド人の食生活に欠かせルケーム学派に属する。法社会学、政治社会 ^ 新沼杏二・和仁皓明〉学、道徳社会学の領域で業績をあげている。諸伯。・・・ダービーの父。ィートン校、工業も発達する。町の前身は七王国時代から知 ない食品である。 ー一九三六 ) フラ 個人から構成されている社会的事実が諸個人のオックスフォード大学で学んだのち、下院議員られるが、現在の市の起源はノルマン時代の市 ダビ Eugéne Dabit ( 天九八 八一三 ~ 四四年、四四年以降上院議員 ) と場町に始まり、近代に入って毛織物やビールの ンスの小説家。パリの下町で連送馬車の御者を外にあり、諸個人を超えるものとする社会学主 ( 一 なり、一八三〇年にはホイッグ党グレー内閣の産地として知られるようになった。イギリス絹 父とし、家番を母として生まれる。一四歳で初義の立場をとる。主著としては、契約の原初形 態を社会学的に研究し、末開社会における交換アイルランド担当相に任じられた。三三年には織物工業発祥の地で、一七一九年にイタリアか 等教育を終え、金物商に徒弟奉公に入ったり、 ら技術が伝わった。一七五〇年ウィリアム・デ の形態であるポトラッチに契約の起源を認めた植民相に転じて帝国内の奴隷制を全廃したが、 電気技師になったり転々とし、一九一六年第一 ュスへ丿ーにより陶器産業が創始され、以後 次世界大戦に志願兵として出征、二〇年に復『契約関係の構成』ごミきをミミ 7 製陶業で有名になった。また一九〇七年にはロ テュルケーム 員。その後、画家を志したが成功せず、文筆で、きミ ~ ミ (l*llll) がある。また、。 ールス・ロイス社の本社が置かれた。創立者へ 身をたてようとし、戦時中の体験をつづった自の創刊した『社会学年報』ト ) ミ ~ ミ e sociologique ンリー ・ロイス卿の像が市内にある。市の美 やギュルビッチの創刊した『国際社会学雑誌』 伝的作品『プチ・ルイ』 ( 一九一一六 ) を発表、つい 術館は、当地出身の画家ジョセフ・ライト Jo- で、両親が経営していた安ホテルに出入りする Les 0 e ) 7 ミ e ミぎミ套 Socio 、の ナャ seph Wright ( 一七三四ー九七 ) の作品展示で知られ 雑多な職業の浮き草のような庶民の姿を描いた編集委員としても知られている。↓ポトラッチ ギ る。 〈久保田武〉 〈野口武徳〉 ↓デュルケーム学派 ト説『北ホテル』望ミ Nord を二九年に 一ン一ダービー DerbY 競馬のレース名。ザ・ 発表し、第一回ポピュリスト賞を受賞、一躍文ダービー Abraham DarbY ( 一六七七ー ダロレ ダービー・ステークス the Derby stakes の 一七 ) イギリスの製鉄発明家。木炭を燃料とす 名をあげた。。ンツドやジャン・ゲエノ Jean るそれまでの高炉にかわり、初めてコークスを三五年下野して保守党に移った。四一年にはピ略称。一七八〇年ロンドン郊外エプソン高原に Guéhenno ( 天九 0 ー一九七 0 やロジェ・マルタ きよう 住む第一二代ダービー卿エドワード・スミス・ ール内閣の植民相に就任したが、穀物法撤廃に ン・デュ・ガールに勇気づけられ、多くの小説燃料とすることに成功した。オランダから鉄の 砂型鋳造の技術を導入し、一七〇七年、プリス反対し、党の分裂後、反自由貿易の立場をとるスタンレー 72 ミ 0 「 Derby. Edward や短編『オアジス荘』『島』 ( ともに一九三一 l) 、『パ つば ー天三四 ) が創設した。こ Smith Stanley ( 一七五一一 リの場末町』 ( 一九三三 ) 、『死んだばかりの男』 ( 一九トルで薄壁の鋳鉄の鍋・壺の製造に成功した。保守党の指導者となった。以後、五二年、五八 の前年、ダービー卿はエリザベス・ハミルトン ~ 六八年の三度首相を務め、六 ~ 五九年、六六 翌年セバーン川上流コールブルックデールの放 三四 ) 、『緑の地帯』 ( 一九三五 ) などを発表した。い ひん すれも自然主義的絶望感の漂う、貧しい人々を棄されていた高炉を買い、〇九年コークスによ七年には第二次選挙法改正を実現した。自由党と結婚、そのとき新夫人の願いによって四歳牝 る高炉操業を開始した。一七年没したとき息子が優位にあった時代に保守党を守り、ディズレ馬のみによるレースを行った ( これがオークス 主人公とした作品であるが、どれもあまり評判 むすめむこ の始まり ) 。この催しが当時の競馬界に好評で リを政治の表舞台に登場させた功績は大き にならなかった。三六年ゴーリキーの葬儀に出は六歳であったので娘婿たちが経営を担当し、 〈青木康〉迎えられたことから、ダービー卿は自分の名を 席するためジッドらとソ連を訪問中、しようこ鋳鉄の料理鍋、フライバン、シチュー鍋、火格 ひんば ダービー、 5 斗 E ミ、、 of DerbY, Edward 冠した四歳牝牡馬の混合レースを思い立ち、 う熱でセバストボリで客死した。なお『北ホテ子類をつくり、ニューコメン蒸気機関の部品、 ル』は三八年マルセル・カルネが映画化し、多鋳鉄管、トロッコ用車輪、鋳鉄軌道、その他さ Henry Stanley ( 天一一六ー九一 (l) イギリスの政〇年五月四日にエプソン高原で距離一マイル 〈稲田三吉〉 まざまに販路を広げた。二八年から事業に加わ治家。一五代ダービー伯。ケンプリッジ大学卒 ( 約一六〇〇 ) レースを行った。これがダー くの観客を集めた。 ったダービー二世 ( 一七一一ー六一 (l) の時代には、送業後、一八四八年保守党下院議員となり、二年ビーの最初である。八四年、有名なタッテナ 回岩田豊雄訳『北ホテル』 ( 新潮文庫 ) ム・コーナー Tattenham Corner のあるダー ーリ語ジャーベ風の改善によって高炉内温度が上昇し、石灰の後には処女演説で早くも頭角を現す。五二年父 荼毘だび火葬のこと。 ーティ」 häpeti ( 燃やす、焚く ) の音写。古来大量添加による高温高塩基操業による脱硫が可一四代ダービー伯の率いる内閣 ( 第一次 ) の外ビー・コース ( 二四四〇 ) ができた。一九二 インドで主として仏教徒の採用した葬法で、そ能になり、錬鉄に精錬するのに適した材質の銑務次官となり、以後、植民相、初代インド相、〇年、タッテナム・コーナーの一部を削って二 の遺骨を尊重して祀祭する風習がおこり、のち鉄をも製造するようになり、コークス銑は鋳造外相を歴任。六九年父の死後爵位を継ぎ上院議四一四になり、以後今日まで毎年六月の第一 でんば 員となる。七四年第二次ディズレーリ内閣の外水曜日に行われ、この日をダービー・デーとよ には仏教の伝播した地域に広く行われた。教祖用だけでなく、錬鉄用にも進出した。一七六 しやくそん 相となったが、首相の対露強硬政策に反対してんでいる。競馬場は一〇〇万人近い人で埋ま 釈尊自身の遺骸は荼毘に付され、その遺骨は年から経営に参加したダービ三世 ( 一七五 0 ー まっ り、お祭り騒ぎとなる。 九 D の時代にはコール・フルックデール製鉄所は辞職。八〇年には自由党に移った。八二年から 八分されて祀られた。日本では仏教の伝来につ そうりよ 現在、ダービーの名を冠したレースは世界各 八五年までグラッドストーン内閣の植民相とし れて、ます僧侶の火葬がなされ ( 七〇〇年、道イギリス最大の製鉄所となり、ことに彼が中心 となって建設された総重量四〇〇トンの鋳鉄を使て、熱帯植民地拡大に反対の立場を守った。し国で行われている。アメリカのケンタッキー 昭が最初 ) 、のちに天皇 ( 七〇三年、持統帝が び ダービー ( 一八七五年三月一七日、第一回開 8 た最初 ) や貴族の仏教徒の間にこれが広まり、古用した鋳鉄橋は、構造材としての鉄の新しい用かし、八六年、アイルランド自治に反対して自 し ~ し じとう

9. 日本大百科全書 14

たゆう ー一九き ) 小説 らえた。一二年博文館を退社、『人生の一宿駅』参加。パレスチナ戦争では司令官として活躍 四 ) 徳川を姓とし、翌年江戸城田安門内に屋敷田山花袋たやまかたい やかた たてばやし を与えられ、これを田安屋形と称したため田安家。明治四年一二月一三日、群馬県館林に生を書き、翌年藤村の渡仏を見送ったころから大し、その後のロードス島休戦交渉ではイスラエ ろくや きな転機を迎え、日光などにこもり、フランス ル代表団長を務める。一九五三 ~ 五八年参謀総 家とよばれる。一七四六年 ( 延享三 ) には十万まれる。本名は録弥。旧館林藩士の父鋿十郎は 一八七四年 ( 明治七 ) 警視庁巡査となり上京、 の作家ュイスマンスから仏教へと心を移し、長、この間五六年の第二次中東戦争でイスラエ 石の領地を与えられ、将軍の家族の一員として はる 待遇された。以後一時中絶期間はあるが、治花袋は七六年母に連れられ父の許にきたが、翌「時は過ぎゅく』 ( 一九一六 ) 、『一兵卒の銃殺』 ( 一九 ル軍を指揮。五八年に退役。五九年にマパイ党 なりまさ なりたかよしより かめのすけ 察、斉匡、斉荘、慶頼、寿千代、亀之助と七代年、父は西南戦争に従軍して戦死、花袋と母た一七 ) など意欲的な仕事をしながら『残雪』 ( 一九から国会議員となり、同年ペン・グリオン内閣 いえさと ていねん 一 0 などに諦念の世界を描いた。二〇年 ( 大正 に農相として入閣。六六年ペン・グリオンのラ 続いた。明治維新のとき亀之助 ( のち家達 ) はちは館林に帰る。八一年家計を助けるために、 旧将車家を相続し、慶頼がふたたび家督を継い 小学校の学業なかばで東京・京橋南伝馬町の有九 ) 花袋・秋声生誕五〇年の会が催され、『文フィ党に参加。六七年の第三次中東戦争では国 よしとも はんべい でっち で、藩屏に列した。↓徳川氏 〈上野秀治〉隣堂書店の丁稚となったが、翌年不都合なこと章世界』終刊のころから、『源義朝』 ( 一九一一四 ) な 防相として電撃作戦を展開した。しかし、第四 ろう ( 一七一五ー七 I) 八代をおこして、館林に帰り復学、かたわら吉田陋どの歴史小説に自己を投影し、愛妓を中心にし次中東戦争の責任をめぐる世論の批判の前に七 田安宗武たやすむねたけ - 一じろ、つ 1 一さんきよう えいき一いしんし 将軍徳川吉宗二男。幼名小次郎。御三卿田安軒の休々草堂で漢詩文を学び、『穎才新誌』に、 て男女の愛欲を問題にした『髪』 (一九 lll) から四年国防相を辞任。その後、七七年ペギン首相 ももよ みやと 家の祖、国学者、歌人。一七二九年 ( 享保一四 ) 和歌や漢詩を投稿した。八六年、兄実弥登が修長編『百夜』 ( 一九一一七 ) を書き、三〇年 ( 昭和五 ) のリクード内閣の外相に就任するが、和平交渉 じゅさんみ うえもんのかみ とみひさ ・一うとうがん 元服、従三位左中将兼右衛門督に叙任、徳川 史局に勤めたので一家をあげて東京・牛込富久五月一三日喉頭癌で没した。↓田舎教師↓蒲をめぐって・ヘギンと対立し七九年一〇月辞任。 ごんちゅうなごん 〈伊能武次〉 〈小林一郎〉自伝『私の生涯』がある。 氏を称し、六八年 ( 明和五 ) 権中納言に累進町に住む。大学予備門 ( 東京大学の前身 ) に通団 かだありまろ した。幼少より学問を好み、荷田在満を召し抱う同藩の野島金八郎に英語を学び、西洋文学に ・ダヤン著、笈川博一訳『中東和平交渉』 回『花袋全集』全一七巻 ( 一九七三 ~ 七四・文泉堂 ) かもまぶち しゅうへい ( 一九〈三・時事通信社 ) え、ついで彼の推薦によって賀茂真淵を家臣と触れる。八九年ごろより松浦萩坪 ( 辰男 ) の ▽柳田泉著『田山花袋の文学』二巻 ( 一九五七、 ゃなぎ し、古典研究を深めて三者互いに影響を与え合「紅葉会」に入り、和歌を正式に学び松岡 ( 柳 ン〔達延汗」 Dayan Qaran 大・春秋社 ) ▽岩永胖著『自然主義文学にダヤン・ た ( 一四六四ー一五一一四 ) モンゴルの君主。チンギス・ った。後の国学者に与えた影響も大きい。歌集田 ) 国男を知る。このころから、軍人や政治家 於ける虚構の可能性』 ( 一九穴・桜楓社 ) ▽小 あもりごと ン家の再興者。本名はバト・モンケ。幼くして 志望をやめ、文学に進むことを決意する。 『天降言』のほか、在満・真淵との歌論につい 林一郎著『増補田山花袋』 ( 一九六九・創研社 ) ・一うよう かたいやくげん えみすい 一八九一年尾崎紅葉を訪問、直接には江見水 父母と離れて苦労したが、一四七九年チャハル て議論のすえまとめた『歌体約一言』古典の評 ▽小林一郎著『田山花袋研究』全一〇巻 ( 一九 ちゅう ′辷つも - ・つ せ おぐら ハンの未亡人と結婚、 論・注解である『伊勢物語註』『小倉百首童蒙蔭の指導を受け『千紫万紅』に『瓜畑』など ~ 会・桜楓社 ) 部族長マンドールン・ 訓』『古事記詳説』などを著し、また服飾、音を発表、九四年『文学界』に近づき、島崎藤村 田谷カ三たやりきそう ( 天究ー一九公 ) テノ七年父ポルフ晋王が殺されるとともに北元の帝 みつこし 〈上野秀治〉 ハン ( 大元皇帝 ) と称し と交わる。九六年国木田独歩を知り、翌九七年 ール歌手。東京・神田の生まれ。一〇歳で三越位に登ってダヤン・ 楽、植物などの研究も行った。 じよじよう 民友社より独歩らとの共著で詩集『抒清詩』呉服店少年音楽隊に入り音楽修業。一九一七年た。外モンゴル東部から内モンゴルにかけての 回土岐善麿著『田安宗武』全四巻 ( 一九四一一 ~ 四六・ 日本評論社 ) を出版する。貧窮のため心の慰藉を旅に求めて ( 大正六 ) 美声を認められてローシー主宰の歌諸部族を再統一し、これを左右両翼の六万戸に 書いた紀行文集『南船北馬』 ( 天究 ) が博文館劇団に入団したが、翌年ローシーが帰国してか編成、一一人の息子たちに分封して、エセン以 ダヤーナンダ・サラスパティー Da- おとわ yänanda Sarasvafi ( 一 0 四ー会 ) 近代イン の大橋乙羽に認められ、九九年博文館に入社、 らは、浅草の観音劇場や金竜館の舞台に立ち来、分裂と混乱の続いたモンゴルを再建した。 ぎよくめい ドの宗教改革者。本名はムール・シャンカル詩友太田玉茗の妹リサと結婚。一九〇〇年『ポッカチオ』などに主演して、いわゆる浅草これ以後、内外モンゴルに広がったチンギス・ ハンの血を引い MüI Shankar0 カーティアワール地方のバラ ハンの子孫は、すべてダヤン・ ( 明治三三 ) より週刊『太平洋』の編集に加わオペラの黄金時代を築いた。関東大震災 ( 一九 〈岡田英弘〉 モンの家に生まれ、幼時よりべーダ聖典を学り、ゾラ、フロべールらの外国文学を研究して一一三 ) 後も「ヤパン・モカル」「笑いの王国」なている。 ゅぎよう たゆうある種の芸能人、神職、遊女 ぶ。一三歳のとき出家遊行者となりインドの聖紹介、〇二年『重右衛門の最後』、〇四年『露どに出演する一方、放送オペラやレコー太夫 地を遍歴、一八四八年にはヨーガ行者の。ハラマ 骨なる描写』を発表、日露戦争従軍と相まってド吹き込みに活躍、第二次世界大戦後も衰えぬなどの称号または敬称。大夫とも書く。元来は ーナンダと出会ってこれに師事した。彼は当時傍観者態度による「平面描写」を確立した。〇美声と情熱で歌い続け、八四年 ( 昭和五九 ) に中国の官制に倣った官位の一種で、五位の称で ふ のヒンドウー教の堕落を攻撃し、べーダ聖典こ 六年『文章世界』の主筆となり、〇七年『蒲は八五歳で音楽生活七五周年のリサイタルを開ある。古代に、五位の者が儀式およびそれに伴 とん 〈寺崎裕則〉 う芸能をつかさどったことから、転じて、神事 そが真理の書であるとして、「べーダに帰れ ! 」団』を書き、自然主義文学の地位を築いた 『生』 ( 一九 00 、『妻』 ( 一九 0 ハ 芸能を奉仕する神職や芸能人の称となった。神 と主張した。のち、七五年にアーリヤ・サマー ダヤン Moshe Dayan ( 一九一五ー全 ) イス イ : 勹物く ・ : っ↓れん ~ ジを創設し、生涯を伝道活動に送った。↓アー の長編を次々と創作、〇九年に書き下ろしで刊 ラエルの軍人、政治家。パレスチナのデガニア事舞太夫、猿楽の太夫、幸若・説経・義太夫節 ときわずとみもときよもとしんない リヤ・サマージ ^ 増原良彦〉行した『田舎教師』は名作として人々の心をと に生まれ、早くからユダヤ人自衛組織ハガナに などの語り手、常磐津・富本・清元・新内など ぶんごじようるり かぶきおんながた 豊後浄瑠璃の語り手、さらに歌舞伎の女方や まんぎい かるわィ一はうか 大道芸人 ( 万歳・猿回し・鳥追い・軽業・放下 師など ) にも太夫の称を名のる者があった。 たておやま 歌舞伎の立女方を太夫というのは、初期の遊 女歌舞伎のスターが、先行の幸若舞太夫や女猿 楽の太夫から引き継いだ称と考えられるが、こ れと遊女を太夫とよぶこととの影響関係ははっ きりしない。また、初期の座元 ( 本 ) は俳優た る太夫たちをまとめる役だったことから太夫一兀 9 あき 田山花袋 ( 天七一 しゃ 田谷カ三ごプン大将』の フリツツ ( 1 953 年 6 月 ) ダヤン

10. 日本大百科全書 14

ぞうせん 造船業 〔図 A 〕世界船種別竣工量の推移 ( 単位 : 千総トン ) ロ 石油タンカー 1971 年 「コ 兼用船 ( 鉱石などのはら積み 船を含む ) 貨物船 コンテナ船および液化ガス 運搬船 その他 ( 作業船 , クレーン 船等と 100t 以上の漁船 ) 一三ロ 2 059 939 7 936 10 454 1 384 34 203 2 776 6 248 22 725 1975 1 070 27 532 4 計 1 0 222 9 044 1 977 1 073 1 3 1 01 2 243 2 945 1 275 0 3 943 1 8 334 1 562 3 2108 9 404 1 8 157 38 5 1 735 2 739 9 020 注 : 1972 年から船種区分が変史された。ロ イド統計および日本造船工業会資科より 作成 34 000 1 0 000 30 000 20 000 0 〔表 1 〕主要造船国の進水高推移 ( 単位 : 万総トン ) その他諸国 日本 日本の AWES 諸国 世界合計 シェア 台・う弯 韓国 小計うちアメリカ フラジ丿レ 小計うちイギリス ス・べイン 西ドイ スウェーテン フランス ツ 22 * 44 1950 年 16 35 349 10 . 0 133 35 17 7 33 53 1955 532 432 147 93 15 . 6 109 49 133 110 59 1960 836 173 20 . 7 554 27 1 222 48 117 128 1965 43 . 9 558 107 102 536 96 171 93 209 34 1970 2 169 48 . 3 913 124 169 1 048 252 157 354 89 4 1973 3 152 1 230 102 198 113 1 567 49 . 7 246 164 424 100 44 1975 3 590 1 368 130 255 130 1 799 50 . 1 77 48 52 343 1979 1 179 61 38 72 432 36 . 6 404 252 23 18 557 18 1984 1 773 276 53 941 53 . 1 デンマーク , スペイン , 注 : AWES は The Association of West European Shipbuilders : 西欧造船工業会の略で , イギリス , 西ドイツ , スウェーデン , フランス , オランダ , イタリア , ノルウェー ベルギー , フィンランド、ホルトガル , ギリシアの 13 か国。ただし , キリシアは 1980 年まで AWES に算入されていない。 * 印は 1951 年の数値である。数字はロイド統計による 〔表 2 〕タンカー大型化の推移 〔表 4 〕日本の造船所の工場数 , 従業員数および竣工実績の急減 ( 1973 年 12 月と 85 年 12 月 ) 完成年 船名 造船所名 従業員数 ( 人 ) 建造量 ( 竣工 ) 重量トン 工場数 社外工 隻千総トン 事務員 技術員 常用 合計 臨時工 PETRO KURE NBC 呉 1952 年 38 021 労務員 PHOENIX NBC 呉 1954 44 633 SINCLAIR PETROLORE NBC 呉 鋼造船工場 1955 56 089 UNIVERSE LEADER NBC 呉 1973 年 1956 85 515 UNIVERSE APPORO NBC 呉 1985 年 1959 114 356 佐世保重工 日章丸 増減率 ( % ) 1962 132 334 東京丸 石川島播磨 1966 153 685 木造船工場 石川島播磨 出光丸 1966 206 005 1973 年 328 376 493 2 043 361 3 273 217 1 068 UNIVERSE KUWAIT 雀 石川島播磨 1968 326 848 1985 年 172 276 351 1 146 154 1 927 212 1 587 石川島播磨 日石丸 1971 372 400 増減率 ( % ) ▽ 48 ▽ 27 ▽ 29 ▽ 44 ▽ 57 ▽ 41 ▽ 2 49 石川島播磨 1973 グロプティックトーキョー 484 000 注 : 建造量は 1 ~ 12 月の年計。その他は 12 月末現在。 1985 年の 「木造船工場」には強化プラスチック船を含む。▽は減少。 注 : 「 NBC 呉」とは , 戦前の呉海軍工廠を第 2 次世界大戦後 . アメリカの 連輸省「造船造機統計月報」による National Bulk Cargo 社が借用した造船所で , 後に石川島播磨造船に 合併。日本造船工業会資科による ・ー人 1 ・人、ー人 593 26 258 649 11 011 9 ▽ 58 14 734 8 906 ▽ 40 82 610 2 137 41 007 1 218 ▽ 50 ▽ 43 171 048 92 594 ▽ 46 4 858 926 ▽ 81 108 544 59 144 ▽ 46 31 388 21 503 ▽ 31 -8 -0 一 -0 〔表 5 〕世界造船所別進水実績順位 ( 1973 年 ) = 千隻 , トン数 = 百万総トン ) 〔表 3 〕世界船種別船腹量の推移 ( 単位 : 隻数 船種別構成比 その他 オア・ノヾ丿レク・ 進水量 世界合計 造船所 国名 石油タンカー ( 貨物船等 ) ( 万総トン ) キャリアー その他 石油タンオア・バ 日本 隻数 総トン 1 三菱重工業・長崎 隻数 総トン 194 隻数総トン 隻数 総トン ルク・キ 2 石川島播磨・呉 日本 100 ャリアー 日本 3 川崎重工・坂出 90 4 三井造船・千葉 日本 82 5 KOCKUMS ・ MALMO スウェーデン 6 日本鋼管・津 日本 73 7 ODENSE デンマーク 70 8 佐世保重工・佐世保 日本 62 9 日立造船・堺 日本 61 10 住友重機・追浜 日本 59 注 : 船舶輸出組合資科による 「 / っ 0 っ 0 26 74 . 1 28 . 9 12 86 . 6 34 35 . 2 25 45 54 . 9 112.1 35 64 . 2 142 . 9 オア・オイル兼用船を含む。 ・オイル兼用船 , ′くノレク (. 0 っ 0 ・ 0- 《 0 00 戸 0 「 / 《 0 26 . 5 100 . 6 1955 年 32 . 5 55 . 0 18 . 8 160.4 1965 41 . 9 91 . 7 168 . 2 372 . 0 1976 65 . 9 128 . 3 147 . 5 1984 76 . 1 418 . 7 バルク・キャリアー 注 : オア・パルク・キャリアーには , オア・キャリアー ロイド統計および日本造船工業会資科による 各年とも 6 月未現在の数字。