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検索対象: 日本大百科全書 14
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1. 日本大百科全書 14

たイギリスは、フランスに圧力をかけ、ともに「不干渉」政 治的・戦略的地位の改善を意味するが、その非武装化はベル ↓満州事変 〔ナチス・ドイツの再軍備〕一九三三年一月ドイツに成立しサイユ条約およびロカルノ条約に規定され、フランスの安全策をとることにした。同年九月、独伊を含む不干渉委員会が たヒトラー政府は、日本の満州侵略に対する国際連盟の無力保障に決定的意味をもっていたから、フランスはこれに断固組織されたが、独伊の反乱軍援助は強化される一方で、国外 からの援助が得られないスペイン政府は苦境に陥った。ソ連 とした軍事的対抗措置をとらなかったことで、自らベルサイ な対応をみて、同年一〇月軍備平等権が認められないのを口 ュ体制とこれを支える安全保障体系を放棄したといわなけれはこれを不当であるとし、政府車への武器援助を公然と開始 実に軍縮会議および国際連盟から脱退した。これはヒトラー ↓エチオピア戦争 した。国際的な反ファシズム運動も人民戦線を支持した。こ が再軍備政策に乗り出したことを意味する。三五年三月、再ばならない。 ゅうわ 軍備の事実を覆えなくなったナチス・ドイツは、ベルサイユ 〔反ファシズム運動〕ファシズムと戦争の危険に対して、 こにスペイン内戦は、英仏の宥和政策に鼓舞された独伊と、 これに対する人民戦線・ソ連、つまりファシズム対民主主義 条約の軍備制限条項を廃棄し、再軍備を宣言した。同年五ち早く警鐘を打ち鳴らしたのは、ヨーロッパの知識人であっ た。すでに一九二六年、アンリ・ バルビュスはロマン・ロラの戦争という性格を帯びるに至った。第二次大戦の基本的対 月、仏ソ相互援助条約が締結されると、イギリスは、これが ンと、イタリアのファシズムに反対して国際反ファシズム委抗関係が早くもここに認められる。 西欧とドイツとの対立を深め戦争の危険を増大させるのを恐 イギリスの不干渉政策は、実質上、独伊に「宥和」的であ れ、むしろドイツと妥協することで、これを一定の枠内に閉員会をつくり、二九年にはアインシュタインらと最初の反フ ったから、ヒトラーは一九三六年夏リッペントロップを駐英 じ込めようとした。同年六月、イギリス・ドイツ海軍協定をアシズム大会をベルリンで開催していた。三二年八月には、 成立させ、英独海車力の比率を一〇〇対三五とし、ベルサイ ロランとバルビュスによる世界反戦大会がアムステルダムに 大使に任命し、英独同盟の実現に努める一方、同年八月経済 ュ条約を「修正」し、ドイツの再軍備を事実上容認したが、 開かれ、戦争とファシズムに反対する決議を採択した。ドイ四か年計画に着手した。その目的は、四か年以内にドイツ軍 これを抑制できなかった。↓ナチス ツでナチズムが勝利し、 、リにファシスト暴動が起こり、オの戦争準備を整えること、およびドイツ経済を戦時経済に移 〔エチオピア戦争〕一九三三年一〇月ドイツが国際連盟を脱 ーストリアにドルフース独裁が出現するなど、各国でファシ 行させることであった。エチオピア侵略、とくにスペイン内 退するとムッソリーニは当惑した。かねてイタリア・ファシ ズム勢力の攻勢がみられ、戦争の危機が切迫すると、知識人戦でのフランコ援助によって、イタリアは英仏との対立を深 ズムはナチズムの模範と自負していたのに事前になんの相談や労働者の活動も活発になった。三五年六月、パリに第一回め、ドイツに急速に接近する。三六年一一月ムッソリーニは もなく、同年六月に仮調印のイギリス・ドイツ・フランス・ 文化擁護世界大会が開かれ、ファシズムと戦争に反対する知ミラノでの演説において独伊「枢軸」を誇一小した。同月には 日独防共協定が結ばれ、日独伊のファシズム連合はここに明 イタリア四国協定はこのため消滅したからである。この四国識人の国際的連帯が呼びかけられた。 りよう 協定は、軍縮問題で対立する独仏間を調停するものであった 共産党の指導を通じて世界の労働連動に大きな影響力をも瞭に姿を現した ( 三七年一一月イタリアも防共協定に参加 が、イタリアの植民地獲得についての了解も含まれていた。 っコミンテルンでも、ナチズムの成立を阻止できなかった苦した ) 。↓スペイン内戦↓日独伊三国防共協定 ムッソリーニは、かねてから地中海帝国の建設を夢みてい い経験を反省し、これまでの戦術が再検討された。一九三五〔日中戦争〕日本は「満州国」を成立させると、その開発に たが、一九三五年一月フランス外相ラバルとの会談でエチオ年夏のモスクワでのコミンテルン第七回世界大会では、ファ努めるが、軍事的観点からする「日満経済。フロック」はすぐ ピア侵略が黙認されたと思った。さらに同年四月のイギリ に行き詰まった。「満州。フーム」の後退とともに、華北に対 シズムから民主主義を救い、戦争に反対するため、広範な民 ス・フランス・イタリア首脳によるストレーザ会議でも、英主主義的勢力を結集する人民戦線戦術が採択されたのであする関心が増大する。日本軍の華北侵略の危機が高まるなか 仏がドイツの脅威に対抗するためイタリアには妥協的であるる。こうしてスペインでは、三六年二月の総選挙を前に共和で、一九三五年八月中国共産党は「抗日救国のために全同胞 に告げる書」 ( 八 ・一宣言 ) を発表し、内戦を停止して抗日 と判断すると、雨期明けの一〇月エチオピア侵略を始めた。主義諸党と社会党、共産党などとの間に人民戦線協定が結ば これは日本の満州侵略に次ぐ第二の公然たる武力侵略であつれ、総選挙の勝利ののち、共和諸党からなる人民戦線政府が救国にあらゆる力を結集するよう訴えた。これは広範な民衆 た。国際連盟は、イタリアを「侵略国」とし、連盟規約第一成立し、社会党、共産党はこれを閣外から支持した。フランの共感をよび、抗日救国運動は急速に拡大した。だが、国民 六条による経済制裁の措置をとったが、もっとも重要な石油スでは三五年六月、左翼政党、労働組合を中心に人民連合と政府は「抗日七君子」の逮捕にみられるようにこれを弾圧 しようかいせき そうきよう は禁輸品目から除かれていた。イギリスは石油の禁輸が戦争 いう名称の人民戦線が成立し、三六年五月の総選挙で大勝すし、三六年一二月蒋介石が「剿共」督励のため西安を訪れ に発展するのを懸念したし、イタリアとの友好を望むフランると、同年六月、人民戦線政府が成立し、共産党はこれに閣ると、張学良はこれを逮捕し、中共代表周恩来の仲介で、蒋 スはもともと制裁に積極的でなかったからである。三六年五外から協力した。↓反ファシズム運動↓人民戦線 介石に内戦停止、国共合作、武装抗日を認めさせた。こうし 月、エチオビア皇帝はイギリスに亡命し、イタリア軍は首都〔スペイン内戦〕一九三六年七月、スペインで人民戦線政府て抗日民族統一戦線が形成され始めると、危機感を抱いた日 ろ・一うキ画う アディス・アベバを占領、ムッソリーニは「新ローマ帝国」 に対するフランコ将軍の反乱が勃発した。ドイツ、イタリア本の軍部は華北の兵力を増強し、三七年七月七日の蘆溝橋 の成立を宣言した。国際連盟の威信は地に落ち、英仏とイタはただちにフランコに軍事援助を与えた。ヒトラーはスペイ事件をきっかけに日中戦争に突入した。 このころ、欧米の関心はスペインに注がれていた。イギリ リアの対立は激化した。ヒトラーはこのような状況を利用ンに経済的・戦略的拠点を得ようとしたが、イギリスの動向 じ こし、三六年三月、ドイツを目標とする仏ソ相互援助条約が批 にはとくに注目を怠らなかった。スペイン人民戦線政府からスはドイツの脅威に直面し、東アジアでは対日宥和の方向を たどった。アメリカでは、孤立主義的傾向の強まるなかで 准されようとしているとの冂実の下に、突如ラインラント非の要請にこたえ、フランス人民戦線政府は援助を決定した。 オ武装地帯に進駐した。これはドイツの主権の完全な回復、政だが、スペイン内戦が独伊対英仏の戦争に発展するのを恐れ「不承認主義」の原則は風化した。フランクリン・ルーズベ 4

2. 日本大百科全書 14

じ第ニ次世界大戦 / 略年表算用数字は月または月・日、年・月・日を表す 世界 西暦 一九一九 6 ・ 一九二〇 Ⅱ第一次世界大戦終わる 連合諸国、ドイツとのベルサイユ条約調印 一九一九 3 ・ ー朝鮮で独立運動 ( 三・一独立運動 ) ・田オーストリアとのサン・ジェルマン条約調印 北京の学生、山東問題で抗議 ( 五・四運動 ) ( 中国 ) ・プルガリアとのヌイイ条約調印 田・田孫文、中国国民党結成 ( 中国 ) 田国際連盟成立 6 ・ 4 連合諸国、ハンガリ 3 ロ右翼のカップ一揆 ( 0 ) 一九二〇 3 ・ ー中国共産党創立 ( 中国 ) Ⅱ・ 4 原首相刺殺され とのトリアノン条約調印 ・トルコとのセープ一九二一 3 新経済政策 ( ネップ ) へ移行 ( ソ連 ) る ( ) ル条約調印 ・ムッソリーニ、政権獲得 ( リ ) 一九二二 2 ・ 6 ワシントン海軍軍備制限条約・中国に関する ・トルコとのセープル条約修正され、ローサン一九二三 ・ 85 9 ヒトラーのミュンヘン一揆 ( 0 ・ ) 九か国条約調印 ヌ条約調印 一九二四 一九二四 4 ドーズ案成立し、ドイツの賠償支払方法決まる ・第一次国共合作成立 ( 中国 ) 一九二五 一九二五 田・田ドイツ・フランス国境を保障するロカルノ条 3 ・に孫文死去 ・上海で学生の反日デモ ( 五・ 約調印 三〇事件 ) ( 中国 ) 一九二七 5 8 ・ 4 ジュネーブ海軍車縮会議 一九二八田・ー第一次五か年計画始まる ( 読 ) 7 ・ 9 蒋介石、北伐開始 ( 中国 ) 一九二九 一九二八 8 ・ケロッグープリアン条約 ( 不戦条約 ) 調印 5 ・総選挙で労働党勝利し、 6 ・ 5 第二次マクドナルド労働一九二八田・ 8 蒋介石、国民政府主席となる ( 中国 ) 一九二九 田・ニューヨーク株式市場大暴落。世界経済恐監 党内閣成立 ( ) 6 ャング案成立し、ドイツの賠償支払方法修一九二九 引インド国民会議派、完全独立を決議 正される 始まる 一九三〇 図浜口首相、狙撃される ( 日本 ) ロンドン海軍軍縮条約に日英米仏伊が調印 一九三〇 4 ・ 一九三〇 9 ・図国会選挙でナチス党急上昇イ ) 中華ソピエト ( 瑞金 ) 9 . 絽社州 - 事 . 赤夂始まる 6 ・アメリカ大統領フー 賠償および戦債支一九三一 5 ・Ⅱオーストリアのクレジット・アンシュタルト銀行破産し、 政府成立 ( 中国 ) 払いの一年間モラトリアムを提案 「満州国」建 ヨーロッパの金融恐慌深刻化 ・田第一次十海事変起こる 3 ・ー 一九三二 8 オタワでの英帝国経済会議でプロック経済化が進一九三二 5 ・ 国宣言 4 ・中華ソピエト政府、対日宣戦布告 ドルフス内閣成立 ( 瞽を められる ( ) 同月末アムステルダム国際反戦大会 ・丐陸海軍の青年将校、大養首相を射殺 ( 五・一五 ・・ルーズベルト、大統領に当選 0 し 事件 ) ( 日本 ) ・ヒトラー、首相に就任 ( 0 ) 2 ・国際連盟、リットン報告書を承認、「満州国」 一九三三 356 ニューディール諸立法成立 0 し 657 ロン一九三三 3 ・全権委任法によりヒトラー独裁権を得る ( 0 ) 田・ジュネープ軍縮会議 国際連盟脱退 ( Ⅱ本 ) 不承認を夬議 3 ・ ドン世界経済会議失敗 一九三四 2 ・ 6 右翼、二月事件を起こす ( 冖し 4 ・ ・ロソ連を承認 ドルフス、独裁政一九三四 4 ・田中共「全国民に告ぐるの書」で抗日救国を訴 および国際連盟から脱退 ( ) 6 ・レーム事件 ( 0 ) 7 ・オーストリアのナチ 樹立 ( 臀し える ( 中国 ) 田中共、瑞金を脱し、長征開始 ( 大西遷 ) 田国際連盟加入 ( ) ス、ドルフスを暗殺するがクーデターに失敗 ・独ポ不可侵条約調印 ・ソ連・チェコ一九三五 ロ人民投票によりサール復帰 ( 響 ) 再軍備宣言 ( ト 5 ・ 2 仏ソ相互援助条約調印 ・田梅津ー何応欽協定 8 ・ー中共、抗日救国統 58 ・モ 4 英仏伊、ストレーサ会議でドイツの再軍備宣言を非難 スロパキア、相互援助条約調印 一戦線を訴える ( 八・一宣言 ) ( 中 田英独海軍協定調印 スクワでコミンテルン第七回大会、人民戦線戦術を 田・ 3 第二次エチオピア戦争始まる 採択 ロンドン海軍軍縮会議 2 ・円人民戦線内閣成立 0 ( ) 3 ・ 7 ラインラント進駐 ( 0 ) 7 ・ロスペイン内一九三六 5 ・ 9 エチオピア併合宣言 ( 6 ・ 4 プルム人民戦線内閣成立 ( ) 9 ヒトラー、ナチス党大 戦始まる 9 ・ 9 ロンドンにスペイン内戦不干渉委 会で経済四か年計画を発表、軍拡本格化 ( 響 ) . 日独防 ー独伊「枢軸」形成 員会成立 共協定調印 ・ 5 ヒトラー、外相と三軍首一九三七 ・ 5 ルーズ一九三七 5 チェンバレン内閣成立 (*) ・ドイツ空軍ゲルニカ爆撃 0 ( ) 田 脳に侵略計画を示す ( ) ベルト、日独侵略国家を非難 ( 「隔離」演説 ) ( ) ー・ 6 日独伊三国防共協定 一九一一一八 9 ・にヒトラー、ズデーテン・ドイツ人の自決権を一九三八 2 ・ 4 ヒトラー、軍首脳を史迭し、統帥権を掌握 ( 0 ・ ) 3 ・ ドイツ・オーストリア合邦 ・ダラディエ首相、人民戦線 要求 ( 0 ) ・ミュンヘン協定で、英独仏伊がズ 5 田「水品の夜」 ( ユダヤ人弾圧 ) ( 0 ) ~ 離【見 ( フラ デーテン地方のドイツへの割譲を決定 幻ヒトラー、ポーランドにダンツイヒ割譲を要一九三九 3 ・田ポ ~ ミア、モラビアを占領し、チ = コスロパキアを解体一九三九 4 ・ヒトラー、独ポ不可侵条約および英独海軍協定を ドリードに入り、ス 求 ( 0 ) 3 ・フランコ軍、マ 破棄し、フランスのアルサス・ロレーヌ領有を否認 ( 0 ) べイン内戦終わる行 ( ) 3 ・引チェンバレン首相、 ロソ連 3 リトビノフにかわりモロトフ、外相に就任 ( ソ連 ) 9 ・ 独伊軍事 英仏のポーランド援助を保障っ \) 5 ・ 7 ドイツ軍、ワルシャワ占領 9 ・ 軍、ポーランド侵入 ・独ソ不可侵条約 同盟条約 ( 鋼鉄条約 ) 調印 0 ′、 0 0 ) ・ 00 独ソ境界・友好条約でポーランド分割 ードイツ軍、ポーランドに侵入、 ビエト・フィンランド戦争 英仏、ドイツに宣戦布告、第二次世界大戦始まる 4 ・ 9 ドイツ軍、ノルウェーを襲い、デンマーク占領 ( 6 ・ 7 ・円海軍大拡張法成立 ( ) 8 ・ 356 バルト三一九四〇 田チャーチル挙国内閣成立 ( ) ノルウェー軍降伏 ) 5 ・ 国併合 ( ソ当 9 ・ 日独伊三国同盟調印 一九三四 一九三五 一九四〇 一九三七 一九三九 一九一九 ヨーロン。、 8 ・Ⅱワイマール憲法成立 ( 0 ) 一九三五 青年 ・ロンドン海軍車縮会議脱退 ( 日本 ) 2 ・ 将校によるクーデター未遂事件 ( 二・一一六事件 ) ( ) に蒋介石監禁され、抗日救国を迫られる ( 西安事件 ) 6 ・ 4 第一次近衛文麿内閣成立 ( 日本 ) 7 ・ 7 日中戦 いっこ . っ 0 争始まる 9 ・第一、一次国共合作成立 ( ー ) 日本軣南京を占領、大虐殺事件を起こす 一九三八 758 日ソ両軍衝突 ( 張鼓峰事件 ) 田・日本軍 武漢三鎮占領 59 ・日ソ両軍衝突 ( ノモンハン事件 ) 日米通商航海条約の廃棄を通告 ( ) 8 ・ 8 平沼騏一郎内閣、「欧州情勢は複雑怪奇」として総辞 職 ( 日本 ) 一九四〇 アジア ・第一一次近衛文麿内閣成立。大東亜共栄圏建設 を声明、武力行使を含む南進政策を決定 9 ・ 476

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いろな面で再検討が必要になっている。大学院般の傾向としては、共同で行われる大型のもカレッジである。それは、地域の老幼男女がい 〔教育、研究、開放への道〕一八世紀のころま つでも、だれでも、なんでも学習できて、やが の、多くの専門にまたがるものが増えている。 もわが国ではスタッフ、予算、設備など多くの では、ある程度の基礎学力があれば ( 宗派によ る制限はあったが ) 、大学への登録は容易であ点で中途半端なものになっている。研究者や専研究の方法も、いわば古典的なものから、コンては学位もとれるような仕組みになっている。 職業人、大学教師の苗床としての大学院の存ピュータなどを使う新しいものまで多様であ大学教育の大衆化のもう一つの形態に放送大学 ったが、近代的な学校の体系化とカリキュラム門 シティがある。大学はい の編成が進むにつれて、入学の条件が問われる在意義は大きく、外国人留学生の数もますまする。研究の大型化は当然研究費の大型化につなやオープン・ユニ・ハ がるから、研究組織のリーダーは研究費の確保まや各国民の生涯の教育の一環としての新しい ようになり、今日、大学入試はどの国でも問題増えるであろう。学位の出し方を含めて大学院 にもメスを入れる必要がある。大学の研究を推にも力を注がねばならない。また大学と企業そ姿をみせつつあるのである。↓大学拡張↓放 をはらんでいる。ただ、ドイツ、フランス、イ 〈横尾壮英〉 の他産業界や軍との共同動作も盛んになる傾向送大学 タリアのように、高校卒にはすべて、ある年齢進するものとして、一九世紀以後に発達したの 回島田雄次郎著『ヨーロッパの大学』 ( 一九六四・ は研究所である。わが国でも国・公・私立の多にあり、それに伴う問題も起こってくる。 まではいつでも、どの大学にも登録を認める、 至文堂 ) ▽永井道雄著『日本の大学』 ( 一九 現代大学の第三の機能といえる社会へのサー の大学に附属の研究所、研究センター、研究 したがって大学には厳しい定員制がない国々く 六五・中公新書 ) ▽皇至道著『大学の歴史と ビスは、一九世紀にイギリスの大学によって先 と、わが国のように、どの大学にも定員制があ施設などがある。また、国立大学の共同利用機 改革』 ( 一九七 0 ・講談社 ) ▽中山茂著『帝国大 って、年に一度の学力試験で及落を判定する国関も近年その数を増している。国立大学のいわ鞭をつけられ、アメリカの大学に続いて他国も 学の誕生』 ( 一九大・中公新書 ) ▽寺崎昌男著 ゆる附置研は二〇大学に五七あり、東大や京大それに倣ったものである。いわゆる大学拡張 とは、そのやり方がきわめて対照的である。 『日本における大学自治制度の成立』 ( 一九七九・ 大学教育のいろいろな問題点の一つは、一般の場合の附置研の数は学部の数に匹敵する。国 university extension の中身は開放講座、夏 評論社 ) ▽潮本守一著『大学と社会』 ( 一九 期大学、夜間部、通信教育などいろいろである 教育にある。一般教育は専門教育の基礎を固立の共同利用研、附置研等で働く者は研究者・ 全・第一法規出版 ) ▽天野郁夫著『試験の が、イギリスではそれらの活動が大学と労働者 め、かっ広い視野と豊かな発想を養うために始事務系職員あわせて八六〇〇人余である。 社会史』 ( 一九盒・東京大学出版会 ) ▽横尾壮 大学で行われる研究は、基礎的なものと応用教育協会、地方教育当局 められた制度だが、それが内実のあるカリキュ 英著『ヨーロッパ大学都市への旅』 ( 一九会・ の共同動作として行われてきた。アメリカで最 ラムとして活性化され、魅力のある授業となる的なもの、個人レベルの小規模なものから、 リクルート出版部 ) のにはなお多くの障害があり、制度を含むいろわゆる巨大科学の研究までさまざまである。一近著しい発達を示しているのはコミュ一一ティ・ 秋田大学①秋田市手形学園町②一九一〇④教、エ、農 北見工業大学①北見市公園町②一九六〇 日本の大学 ・一一六 ) ③秋田鉱山専門学校④〔群馬県〕 ( 昭三五・四・一 ) ③北見工業短期大学④工 ( 明四三・三 四年制の国立、公立、私立大学一覧・・ーー 群馬大学①前橋市荒牧町②一九一五 ( 大 北海道教育大学①札幌市中央区南一一四条西教、医、鉱山 ・一 D ③桐生高等染織学校④教、 〔山形県〕 ・四・一 ) ③北海道第 日本の大学の生い立ちや成長の跡をたどるこ②一九四三 ( 昭一 かならすしも簡単なことではない。たと 一・第二・第三師範学校④教 山形大学①山形市小白川町②一九一〇医、エ ( 明四三・三 ・一一六 ) ③米沢高等工業学校④〔埼玉県〕 えば国立大学は、第二次世界大戦後、複数の高北海道大学①札幌市北区北八条西②一、、 七六 ( 明九・八 ・一四 ) ③札幌農学校④文、 人文、教、理、医、エ、農 埼玉大学①浦和市下大久保②一九二一 等教育機関を母胎にして再発足したものが多い 八 ) ③浦和高等学校④教 〔福島県〕 ので、創立時の名称や年月日は、記述が容易で教、法、経、理、医、歯、薬、エ、農、獣医、 ①福島市松川町②一九二一 ( 大養、教、経、理、エ ここでは、原則として文部省高等教水産 福島大学 〔千葉県〕 一〇・一一一・九 ) ③福島高等商業学校④教、 育局大学課の監修になる「全国大学一覧』 ( 昭室蘭工業大学①室蘭市水元町②一九一、 経 千葉大学①千葉市弥生町②一九二一 ( 大 和六一年度 ) から、その下欄にある「編成学校 ( 大七・三・三〇 ) ③北海道大学付属土木専門 一〇・一一一・九 ) ③東京高等工芸学校④文、 部④工第一部、エ第一一部 〔茨城県〕 及創立年月日等」の最初の行を掲載した。 ①本部の所在地、②創立の年月日、③創立時〔青森県〕 茨城大学①水戸市文京②一九二〇 ( 大教、法経、理、医、薬、看護、エ、園芸 〔東京都〕 の名称、④学部名 弘前大学①弘前市文京町②一九二〇 ( 大九・四・一七 ) ③水戸高等学校④人文、教、 理、エ、農 ・一一六 ) ③弘前高等学校④人文、 お茶の水女子大学①東京都文京区大塚 なお、表記は常用漢字を使用した。 ・一 (l) ③官立女子師 ②一八七四 ( 明七・三 また、国立大学の附置研究所については、第教、理、医、農 筑波大学①茨城県新治郡桜村天王台②一 九七三 ( 昭四八・一〇・一 ) ③筑波大学 ( 前 範学校④文教育、理、家政 〔岩手県〕 一巻掲載の項目「アカデミー」 ( 日本のおもな 試験研究機関 ) を参照のこと。 岩手大学①盛岡市上田②一九〇二 ( 明一一一身は東京教育大学 ) ④第一学群 ( 人文、社会、電気通信大学①調布市調布ヶ丘②一九四 五・三・二七 ) ③盛岡高等農林学校④人文自然 ) 、第二学群 ( 比較文化、日本語・日本文二 ( 昭一七・四・一 ) ③官立無線電信講習所 国立大学 社会科学、教、エ、農 化、人間、生物、農林 ) 、第三学群 ( 社会工学、④電気通信 〔宮城県〕 国際関係、情報、基礎工学 ) 、医学専門学群、東京医科歯科大学①東京都文京区湯島 〔北海道〕 ②一九二八 ( 昭三・一〇・一一 D ③東京高等 東北大学①仙台市片平②一九〇七 ( 明四体育専門学群、芸術専門学群 旭川医科大学①旭川市西神楽②一九七三 ( 昭四八・九・二九 ) ③旭川医科大学④医 〇・一 ) ③東北帝国大学④文、教、法、経、図書館情報大学①茨城県筑波郡谷田部町春歯科医学校④医、歯 日②一九七九 ( 昭五四・一〇・一 ) ③図書東京外国語大学①東京都北区西ヶ原②一 小樽商科大学①小樽市緑②一九一〇 ( 明理、医、歯、薬、エ、農 八九七 ( 明三〇・四・一三 ) ③東京高等商業 四三・三・一一七 ) ③小樽高等商業学校④商宮城教育大学①仙台市荒巻字青葉②一九館情報大学④図書館情報 学校 ( 現一橋大学 ) 附属外国語学校④外国語 六五 ( 昭四〇・四・一 ) ③宮城教育大学④ 〔栃木県〕 帯広畜産大学①帯広市稲田町②一九四一 ・一一八 ) ③帯広高等獣医学校④教 東京学芸大学①小金井市貫井北町②一九 宇都宮大学①宇都宮市峰町②一九二二 〔秋田県〕 ( 大一一・一〇・二一 ) ③宇都宮高等農林学校四三 ( 昭一八・四・一 ) ③東京第一・第二・ た大畜産 せん 339

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〔「戦争切迫」の危機〕フランスの国会が「カードル ( 下士て、フランスは完全に孤立し、対ドイツ復讐戦争を望んでも するのは、一七年四月六日、アメリカがドイツに宣戦を布告 した時点においてである。アメリカ参戦の直前に、ロシアで官 ) 法」を成立させ、フランスが陸軍の増強に強い意欲を一小とうてい実行できぬこととなった。ドイツの安全は十分に保 しているのをみたビスマルクは、フランスへの車馬の輸出を障されたようにみえた。↓三国同盟 三月革命 ( ロシア暦により二月革命ともいう ) が起こり、ロ けれども、一八九〇年三月二〇日に、ビスマルクは新帝ウ マノフ王朝が崩壊した。一九一七年は、大戦にとってだけで禁止する一方、新聞を操作してフランスに圧力をかけた。一 あつれき イルヘルム二世との軋轢によって心ならずも辞職に追い込ま 氏こま、「戦争は切迫してい 八七五年四月九日の『ポスト』糸し。 なく、世界史全体にとっても大きな転換の年であった。三月 革命に続く十一月革命 ( ロシア暦で十月革命 ) によって、ドるか」という挑戦的な標題をつけたレスラー Konstantin れる。その三日後の三月二三日、ビスマルクの後継者のカプ リビ首相らは、オーストリアとの友好と明らかに矛盾するロ ィッとの即時講和を望んだレーニンが政権の座につく。そし Rößler ( 一全 0 ー九六 ) の論文が掲載された。この論文につい て、一八年三月の。フレスト・リトフスク条約でロシアはドイてドイツ外務省の一高官がフランス大使に釈明をしたが、釈シア・ドイツ再保障条約の更新を拒否した。そこでロシアは フランスに接近を開始し、九四年一月四日にはロシア・フラ ッ側に屈服する。にもかかわらず、大戦そのものは、同年一明のなかに若干不穏当な表現があったのを、大使は意図的に ンス同盟が正式に成立する。専制君主国のロシアが共和国フ 一月ドイツ側の敗北に終わった。その原因はいくつかあげら誇張してパリに伝えた。こうして、あたかもドイツがフラン ランスと同盟を結ぶことを、ドイツの政治家たちは予想して れるが、巨大な国力をもつアメリカの参戦は、後に述べるよスの復讐に先手を打つ「予防戦争」を真剣に考慮しているか 、よ、つこ。 うにとくに決定的な作用を及ばした。この意味で、大戦はヨのような印象がかき立てられた。これに対しイギリスが、ビ 一方、イギリスは、工業、貿易、海軍、植民地の四つの局 ーロツ。ハの戦争として始まり、世界戦争として終わったのでクトリア女王自らドイツに警告する動きをみせ、また、ロシ ア皇帝アレクサンドル二世は外相ゴルチャコフを伴って翌五面でドイツの挑戦を受けたと感じて、しだいにフランス、ロ ある。 けんせい ヒスマル シア両国に接近する。一九〇四年四月にはイギリス・フラン 月にベルリン入りをして、ドイツを強く牽制した。、、 大戦終了の日付としては、一九一八年一一月一一日をあげ ス協商が、〇七年八月にはイギリス・ロシア協商が、それそ クにはこのとき「予防戦争」を遂行する意図はなく、『ポス ノリ交外のコンピエーニュ るのが妥当であろう。この日に、。、 ト』紙の論説を放任したのも、フランスをことばのうえで脅れ調印の運びとなり、ここにイギリス、フランス、ロシア三 の森で、イギリス、フランスなどの連合国側とドイツとの間 かすことだけをねらってのことであったと思われる。しか国間の協力体制が成立した。これは、ビスマルクの後継者た に休戦条約が調印され、砲声は消えたのである。 し、このときの国際危機は、ドイツが不用意な態度をとったちが予見しえなかった「外交革命」であり、ビスマルク体制 大戦前史 はまったく崩壊してしまった。かくてドイツがあてにできる 場合には、三帝同盟が存在するにもかかわらず、ロシアはイ 〔ドイツ統一の負の遺産〕大戦の遠因について、歴史をさかギリスとともにフランスを支援してドイツを挟み撃ちにする同盟国はオーストリア一国だけとなった。フランスとの秘密 のばって尋ねるならば、一八七〇 ~ 七一年のプロイセン・フ可能性があることを証明した。そして、一九一四年にはその中立条約を〇二年に結んだイタリアは、忠実な同盟国ではな くなった。はるかな東アジアの日本さえ、〇二年 ( 明治三 とおりの事態が生じたのである。この意味で一八七五年の危 ランス戦争の戦後処理方式のなかに、その根源に相当するも 機は、新興のドイツ帝国がいかに困難な国際的条件のなかに五 ) の日英同盟、〇七年の日仏協商と日露協商によって、ド のが潜んでいたといえよう。フランス国民はアルザス・ロレ ィッを包囲する協商国側の一員となっていた。↓三国協商 ーヌ ( ドイツ名エルザス・ロートリンゲン ) の両州を奪われ置かれているかをビスマルクに教えるものであった。さら ふくしゅう に、この危機は、後の大戦のあり方を考え合わせると、四〇〔バルカン問題〕ロシアは、その伝統的な政策の一つとし たことを忘れず、多くの人々が心のなかで復讐を誓った。 戦争に勝ったプロイセンが中心となってドイツ統一が達成さ年後に生する事態を予告したともいえる、実に示唆的なできて、バルカン半島の北から南へ向かって勢力を伸ばそうと努 えんこん ごとであった。 めていた。かってこの地方を制圧していたオスマン・トルコ れたが、フランス国民の怨恨は、統一後のドイツとフランス ひんし 〔ビスマルク体制の成立と崩壊〕三帝同盟が頼りにならぬこ帝国は、瀕死の「ヨーロッパの病人」 Sick man of Europe との関係に重くのしかかる。新しいドイツ帝国の首相となっ たビスマルクは、両州併合に反対であったが、軍事上の立場とを一八七五年の危機を通じて明確に知らされたビスマルクとよばれるに至るような衰退ぶりを示していた。さらに、バ から併合を主張した軍部に押し切られてしまった。フランスは、新しい安全保障体制を索する。そして、彼が苦心してルカン半島にはさまざまなスラブ系の民族が雑多に居住して いたここに、ロシアの南下政策にとっては有利な状況が生 の作家ドーデの短編集『月曜物語』のなかの「最後の授業』っくりあげたのが、いわゆるビスマルク体制である。その中 まれる。ビスマルクが主宰した一八七八年の・ヘルリン会議 心は、オーストリアとのドイツ・オーストリア同盟 ( 一九・ には、このときのフランス国民の無念さがよく表されてい ぎせつ 会一一・五 ) であで、この方面へのロシアの野心はいったん挫折し、このあと 一 0 ) と、これにイタリアを加えた三国同盟 ( 一 る。このような事情からビスマルクは、ドイツの安全を保障 った。また、ドイツとルーマニアとの同盟も八二年に成立すロシアは一時シ・ヘリアから満州 ( 中国東北 ) 、朝鮮への進出 する国際的な条約網をつくりあげることに全力を注いだ。ド に熱中した。しかし、日露戦争 ( 一九 0 四ー 0 五 ) での敗北によっ ィッ統一達成後に彼がまず期待をつないだのは、オーストリる。さらに重要なものとして、八七年六月、ロシアとの間に ロシア・ドイツ再保障条約が成立する。しかし、ロシアとオて東アジアへの進出をあきらめたロシアは、ふたたびバルカ アおよびロシアの両帝国の皇帝とドイツ皇帝との三帝同盟 ーストリアとの関係はバルカン問題をめぐって悪化していたンの南下政策を本格化させる。その際、スラブ民族の盟主と ( 一八七三年一〇月成立 ) であった。しかし、この同盟が頼 ち してのロシアがバルカン半島の雑多なスラブ系諸民族を統合 りにならぬことを一小す事態が七五年春から初夏にかけて生ずので、ビスマルクは再保障条約の内容を同盟国のオーストリ > る。「戦争切迫」の危機がそれであった。↓プロイセン・フラアに対しても秘密にしていた。ドイツはイギリスとも良好なするという汎スラブ主義の主張が、一九世紀後半以来一貫し オンス戦争 関係にあった。こうして、このビスマルク体制の完成によって、ロシアに都合のよいイデオロギーとして利用され続け ( 以ト 1 へ

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一九四一 一九四二 一九四九 一九五五 一九五六 一九四三 一九四六 一九四七 田ドイツ軍、西部戦線で攻撃開始 5 ・丐オランダ軍降伏 5 ・ ベルギー降伏 5 ・ ー 6 ・ 4 英仏軍、ダンケルク撤退 6 ・ . 2 ・虫ーハ 6 ・ドイツ軍、ハリ入城 っ乙ノ・イー 英仏に宣戦布告 ( 影 ) ーヒ 1 「一フー 休戦協定調印 第英戦強化を命令 9 ・ 7 ド 、寸ノ乍戦準 ィッ空軍のロンドン爆撃始まる 備を命令 一九四一 4 ・ 6 ドイツ軍、ギリシア、ユーゴスラピアに侵入 5 ・ 6 スター ーゴスラビア軍降伏 4 ・ギリシア軍降伏 ー副総統へス、和平のためイギリス ン、首相に就イ に飛び失敗 ( 0 ) 6 ・独ソ戦争始まる田ドイツ軍、モスク ワ攻略に失敗貶ソ連軍の反攻 ・バンゼー会議でユダヤ人問題の最終解決 ( 殺害 ) を決定 ・ロンメル指揮下の独伊軍、エル・アラメインに達 する 9 ・ ングラード市内に入る ドイツ軍、スター 米英軍、北アフリカ上陸 ・に 5 ロ北アフ 引スターリングラードのドイツ軍降伏 ・田米英軍、シチリア島上陸 7 ・ 2 ム リカの独伊軍降伏 ーニ失脚、 9 ・ 3 - イタリア、休 バドリオ内閣成立 ( ) 戦協定調印、 9 ・ 8 連合国、休戦を発表 9 ・ 8 ドイツ軍、ロ マを占領、 9 ・にムッソリ ーニを救出し、 9 ・巧ファシスト 共和政府樹立 。田・ロヾドリオ政府南に逃れ、対独宣戦布告 戸 0 ・ 8 ーマリアナ沖海戦 3 ・ 8 日本軍、インハ ーロドイツ軍、ク一九四四 6 ・ ・ソ連軍、レニングラード解放 作戦開始するが、 7 ・ 4 失敗 7 ・ 7 サイバン島の 6 ・ 6 米英軍、 米英軍、ローマを解放 リミア半島散退 6 ・ 4 ・田グ 日本軍全滅 ・田東条英機内閣総辞職 ノルマンディー上陸 7 ・ヒトラー暗殺未遂事件 ( 響 ) アム島の日本車全滅 . レイテ〕冲一戦 ・ 2 ワルシャワ蜂起、ドイツ軍に鎮圧される ( ラ ) 国王が政変を強行し、連合国と休戦、 ・対独宣戦布告 米軍機、サイ。ハン基地から東京を初空襲。以後空襲 リ市民 臨時政府 本格化 9 ・ 2 対・独断 ~ 父ー ) 、 9 ・ 円英ソと休戦協定調印 ( ・ 成立 ( 冖し % 戦線離脱し、中立宣言 ( 3 ・ 3 対独宣戦布告 ) の 9 ・ 5 ソ連、プルガリアに宣戦布告 9 ・ 9 祖国戦線政府成立、 プルガ 0 ー田摂政ホルティ、休戦協 ・ 2 対独宣戦布告 ( リ 「独立戦線」 定に調印。クーデターにより親独政権樹立、 ( ンガ 0 ・ソ連軍とチトーの解放 臨時政府、対独宣戦布告 ( リ 軍、ベオグラード解放 ( 「一勢ス 一九四五 2 ・ 4 ・ ) にルズ ・臨時政府、連合国と休戦 ( 鬱ガ ) 9 米軍、ルソン島 -i-; 陸、 2 ・ 円硫黄島上陸、 Ⅱ米英ソ首脳、ヤルタ会談 4 ・ 2 ・ロドレスデン空襲 ( 死一九四五 ー沖縄本島上陸 4 ・ 6 日ソ中 者約一一三万人 ) ( ) ・ロソ連軍により、ワルシャワ解放、 田東京大空襲 ベルト死去。トルーマン、大統領に昇格 ( 霧 ) 2 ・ロプダベスト解放、 4 ・ロウィーンい自頑、 4 . ベルリン 立条約の不延長を通告 ( ソ連 ) 4 ・ 7 鈴木貫太郎内閣 国 サンフランシスコ連合国会議 6 ・ 8 ・ 0 英軍、ラングーンを解放 突入 4 ・ 米ソ両軍、エルべ河畔トルガウで出会う 4 ・ 成立 ( 日本 ) 5 ・ー 連憲章調印 ・田ニュー・メキシコで原爆実験 ( リし ・ヒ、に一フー , 目秋 米車、広島に原爆投下 8 ・ 8 対日宣戦布告 ( ソ連 ) 2 米英ソ首脳、ポッダム会談 7 ・ パルチサン、ムッソリーニを銃殺 ( 影 ) 5 ・ 7 ドノ・ツ ~ 半降伏 5 8 ・ 9 米軍、長崎に原爆投ト 8 ・図ポッダ . ム宣一言 デーニツツ政府の全員が逮捕され、 対日ポッダム宣言 8 ・ 2 対独ポッダム議定書発表 0 4 ・く、 巧同発表、 9 ・ 2 降伏文書調印 ( ) 受諾決定、 8 ・ 第三帝国消滅 ( 響 ) 2 国際連合成立 ー内閣成立 ( ) 一九四六田・ 3 ・ 5 チャーチル、「鉄のカーテン」演説 国共停戦会談決裂、内戦始まる ( 中国 ) 一九四六 6 ・ ーニュルンベルク国際軍事裁判判決 ハリ講和会議 一九四八 4 ・ ベルリン封鎖始まる 日本国憲法公布 ( 日本 ) プルガリア、 田連合国がイタリア、ハンガリ 一九四九 ・ 7 ドイツ民主一九四八 ・田極東国際軍事裁判判決 5 ・ 6 ドイツ連邦共和国 ( 西ドイツ ) 成立 ルーマニア、フィンランドとパリ条約調印 一九四九田・ 共和国 ( 東ドイツ ) 成立 ー中華人民共和国成立 ( 中国 ) 6 ・ 5 ョ」ーロ トルーマン・ドクトリン発表 0 し 一九五五西ドイツ、。、 リ条約 ( 5 ・ 5 発効 ) で主権を回復、北大西洋条一九五〇 6 ・ 朝鮮戦争始まる ・ 5 コ ノ彳こ一ⅱ画 ( マーシャル・フラン ) 発表 ・東ドイツ、一九五一 約機構 (Z<+O) に加盟し、再軍備に着手 9 ・ 8 対日講和条約、同時に日米安全保障条約調印 ミンフォルム結成 ワルシャワ条約機構に参加、 9 ・ ソ連と主権回復の条約を結ぶ一九五六 2 田国連加盟 ( ) 田・円日ソ国交回復宣言 4 ・ 4 北大西洋条約調印 一九七〇 8 ・西ドイツ、ソ連とヨーロッパの現状承認の条約に調印、 一九七一 ロ日米沖縄返還協定調印 米英仏ソ、オーストリア国家条約調印 に・ 7 ポーランドと関係正常化の条約に調印 四日中共同声明で戦争状態を終結し、国交正常 2 ・フルシチョフ、ソ連共産党第一一〇回大会でス一九七一 9 ・ 3 米英仏ソ、ベルリン協定調印 化図る ) ンを批判 一九七二に・ 幻西ドイツおよび東ドイツ、基本条約調印 一九し八 8 ・ に日中平和友好条約調印 一九四四 ー・ 6 ルーズベルト、「四つの自由」演説 ( 霧 . ) 3 ・ ・ルーズベルト、国家 Ⅱ武器貸ケ法成立 0 し 8 ・ 0 ・ ) 非常事態を宣言 ( ー . ー米英首脳会談、大 西洋憲章発表、 9 ・ ソ連など一五か国、支持を表 月・ 2 Ⅱ独伊、アメリカに宣戦布告 ー連合国二六か国、ワシントンで共同宣言に調一九四一一 2 米英ソ首脳、モスクワ会談。ソ連第 二戦線を要求、英米北アフリカ上陸作戦を決定 4 米英首脳、カサプランカ会談。無条件降一九四三 伏原則を発表 6 ・ ーコミンテルン解散 米英首脳、ケベック会談。第二戦線を決定 8 ( , っこ 米英中首脳、カイロ会談 ー米 英ソ首脳、テヘラン会談。第二戦線、ソ連の対日参 戦を討議に・ ーカイロ宣言発表 連合国四五か国はプレトン・ウッズ協定一九四四 を結び、国際通貨基金 (—äcæ) ・世界銀行を設置 9 米英ソ中、ダンバートン・オークス会議 ( 8 月 ) で国際連合案を検討し、発表・ 英ソ首脳、モスクワ会談。バルカン分割で一致に・ 田仏ソ相互援助条約調印 ァ 26 4 ー 一九四五 一九四二 ・ロ日ソ中立条約調印 ・田日米交渉始まる 5 日本資産の凍結 ( ) ( 日本軍 仏印南部進駐田・田東条英機内閣成立 ( 日本 ) に・ ー御前会議、対米英蘭開戦を決定 ( 呈 ) に・ 8 ワ イ真珠湾攻撃、太平洋戦争始まる ・ 9 日独 . 伊 - に 宣戦布告 ( 当 ) に・田マレー沖海戦 巧シンガポールの ー・ 2 日本軍、マニラ占領 2 ・ 英軍降伏 3 ・ 8 日本軍、ラングーン占領 3 ・ 9 ジャワの蘭印軍降伏 5 ・ 4 ー・ 8 サンゴ海海戦 6 ・ 5 ー 7 ミッドウェー」毋戦 - 田連 一九四三 2 ・ー 57 日本軍、ガダルカナル島撤退 合艦隊司令長官山本五十六戦死 5 ・四アツツ島の 日本軍全滅 5 大東亜会議 ( 日本 ) マキン・ タラワ両島の日本軍全滅 一九四一 本車、北部仏印進駐 田・に大政翼賛会発足 ( ) 477

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されたのであった。しかもアメリカ議会はベルサイユ条約をてドイツは「受け身の抵抗」を中止せざるをえす、インフレ 4 って重大な段階ないし局面を意味するにしても、この時点に じ ーションの収束を図るが、このためには賠償問題が解決され 批冫しなかったため、ウイルソンは失意のうちに引退せざる に第二次大戦の開始時期を求めることはできないであろう。日 カカし をえなかった。かくてウイルソン主義は瓦解し、アメリカは なくてはならない。賠償問題は、イギリス、フランスの対米 米対立の主要原因は中国問題にあったからである。すでに、 一九三七年七月以来、日本は中国に対する全面的攻撃を始め孤立主義に復帰する。大戦後、資本主義世界は社会主義国ソ戦債問題と緊密に連関していたから、アメリカの主導下に一一 ていたし、さかのばれば三一年九月満州 ( 中国東北部 ) で軍連の成立によって縮小されただけでなく、敗戦国ドイツは弱四年ドーズ案がまとめられた。アメリカ資本によってドイツ 経済を再建させ、その支払う賠償金をもってイギリス、フラ 事行動を起こし、三二年には「満州国」を樹立していた。同体化し、戦勝国であるとはいえイギリス、フランス、イタリ ・はくだ、い もうたくとう 年四月、毛沢東は中華ソビエト政府の名において対日宣戦布アの各国は戦争の被害と莫大な戦費のため疲弊し、かわってンスは対米戦債を返済するというのである。ドイツ経済の復 アメリカと日本とが台頭して、資本主義世界の内部構造は大興を契機としてヨーロッパ経済は急速に安定に向かった。フ 告をしていたのである。わが国でも最近、三一年九月の満州 ぎせつ ランスの対独強硬策の挫折は、その追求するヨーロッパでの 事変以来四五年八月の敗北までを「十五年戦争」として把握きく変動した。アメリカは最強の資本主義国となったいま、 孤立主義に復帰することは、世界政治と世界経済において最政治的、経済的な覇権的地位の喪失、対英従属の強化をもた する見解が提唱されている。↓十五年戦争 らさざるをえない 第二次大戦は二つの中心をもつが、本項では便宜上叙述の大の発一一 = ロ権を留保しようとしたことを意味していた。 ソ連は、戦後処理会議に招待されるどころか、日本、アメ ヨーロッパの経済的安定は、政治的緊張を緩和させた。一 重心をヨーロッパに置く。ここではナチス・ドイツ ( ヒトラ リカ、イギリス、フランスなど帝国主義列強による干渉戦争九二五年、独仏国境を多角的に保障するロカルノ条約が締結 ー ) とファッショ・イタリア ( ムッソリーニ ) とが戦争の震 に苦しみ、ポーランド、ルーマニアのため領土を奪われ、ポされ、翌年ドイツは国際連盟に加盟した。フランスはライン 源地であって、両国の侵略戦争への衝動、これを抑止できな ゅうわ ラントから予定よりも早く撤退した。「ロカルノ精神」は喧 リシェビズムの西漸を阻止するための、フィンランドからバ い英仏の宥和政策がまず概観され、一九三九年九月のドイツ でん ていねん 伝され、二八年には戦争の放棄をうたった不戦条約が成立し ルト諸国、ポーランドを経てルーマニアに至るいわゆる「防 のポーランド侵入が「青天の霹靂」としてではなく「諦念」 をもって受け取られた事情を明らかにする。大戦中について疫線」で西欧から隔離させられた。世界史上最初の社会主義た。だが「黄金の二〇年代」もっかのまの繁栄にしかすぎな かった。二九年一〇月末、ニューヨーク株式市場の大暴落を は個別的な戦闘の経過にのみ注目する戦争史ではなく、戦争国ソ連を排除し、これに国際的孤立を強いるべルサイユ体制 の政治史、社会史、経済史に留意し、問題点の指摘に努めとは、ソ連からみれば、帝国主義列強の支配する反ソ的反革きっかけに、世界経済恐慌が始まったからである。↓ベルサ た。大戦のいま一つの中心、東アジアおよび太平洋における命的国際秩序にほかならない。かくてソ連は、国際的孤立のイユ体制↓ドイツ賠償問題↓戦間期 日中戦争、太平洋戦争については、とくに別項で解説される打破に努めるとともに、帝国主義列強による包囲、反ソ十字〔東アジアにおける侵略の開始ー「満州国」樹立〕世界恐慌 に直撃された日本は、政治的、経済的に深刻な危機に陥っ 関係上、ここでは必要な範囲にとどめた。↓日中戦争↓太車の脅威に不断の警戒を怠らない いうまでもなくべルサイユ体制は、敗戦国ドイツを犠牲と た。これを集中的に表現するのは、帝国主義的「満州」支配 平洋戦争 し、これを抑圧する体制として成立した。ドイツはベルサイの動揺である。二〇世紀初頭以来日本は満州に進出したが、 ディクタート 大戦前史 ュ条約を「ロ授」され、植民地を失い、領土は削減され、大戦中、中国の全面的支配を意図して二十一か条の要求を押 し付けた。このあまりにも露骨な帝国主義的侵略の要求は、 〔ベルサイユ体制〕一九一四年の第一次世界大戦勃発から四厳しい軍備制限を課され、「天文学的」数字に上る賠償金に 五年の第二次大戦終了までを連続した過程としてとらえ、一あえいだ。しかも戦争責任はひとりドイツにのみあるとさ英米の反発を招き、日本はワシントン会議で後退せざるをえ 七世紀の三十年戦争に次ぐ第二の三十年戦争とする見方 ( ノれ、国家としての名誉まで傷つけられた。ベルサイユ条約のなかった。一方、この要求を契機に、中国の反帝国主義的民 族運動は新たな段階に入り、一九二〇年代の国民革命の進展 イマン ) もあるけれども、第二次大戦の前史としては、一九「修正」はドイツ・ナショナリズムの結節点となった。 とともに、日本の満州支配を直接脅かすに至ったのである。 ベルサイユ条約は、ある意味で三大国アメリカ、イギリ 二九年一〇月に始まる世界経済恐慌に一つの画期を認めるの まんもう が妥当であろう。三一年の満州事変はこの恐慌と密接な連関ス、フランスの利益妥協の産物であったから、敗戦国ドイツ「満蒙は生命線」とする日本は、三一年九月軍部の「謀略」 にあったし、三三年のヒトラー政権の成立もこの恐慌の社会だけでなく、これに強い不満を抱く戦勝国のイタリア、日本で満州事変を起こし、三二年三月「満州国」を樹立した。国 的政治的影響を無視しては考えられないからである。だが本も「修正」を要求した。一九三〇年代に入ると、日独伊三国際連盟がこれを否認すると、三三年三月、日本はただちに連 盟を脱退した。各国は恐慌対策に追われていたし、連盟も日 項では、第一次大戦後の国際秩序すなわちベルサイユ体制のは自ら「持たざる国」と称し、「持てる国」英仏に対して公 然と「陽のあたる場所」 ( 商品の販売市場、原料供給地、つ本の侵略行為に対してなんら有効な措置をとれなかった。ア もっ問題性を指摘することから始める。 メリカは武力による現状変更を承認しない ( 「不承認主義」 ) 第一次大戦が終了したとき、東・中欧には革命運動が渦巻まり植民地 ) を要求するようになる。 き、中国、インド、アラ。フ世界などの植民地・半植民地で ベルサイユ会議で対独強硬策を追求したフランスは、一九と宣言するにとどまり、イギリスはこれすら支持しなかっ た。イギリスは、インドやアラ。フの民族運動に悩まされただ 二三年初め、賠償引き渡しの遅延を口実に、ドイツ経済の心 は、民族解放闘争が高揚し始めていた。アメリカ大統領ウィ ルソンの「十四か条」は、一面ではこのような民衆の運動や臟部ルール地方を占領した。ドイツはこれに「受け身の抵けでなく、中国の反帝国主義運動の激化に不安を覚えたから 抗」で対抗した。・ トイツ経済は崩壊し、革命的危機が生じである。英米の事実上の黙認を前に、日本では軍部および帝 願望、期待を代表したけれども、その理想主義は、ロイド・ いっき →っ・つ・か、し ほんろう ジョージやクレマンソーの老獪な帝国主義的現実主義に翻弄た。一一月にはヒトラーのミュンヘン一揆もみられた。かく国主義勢力がますます力を得て、軍国主義化が推進される。 ばつばっ ひ

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リアとの結び付き強化など、姑息な事変処理策によって戦争 は、第一次大戦後の東アジア史の重要な特徴であった。この たいへいようせんそう 太平洋戦争 時期に太平洋戦争の一因である日米対立も発展した。日露戦の行き詰まりを打開しようとした。その一方、南方に進出し 戦争の起源 / 英米との対立激化 / 戦争への突入 / 戦争の争後、満州問題、日本人移民排斥問題などをめぐり日米関係て戦争を継続するうえで必要な石油その他の資源を獲得しょ うとして戦線をずるする拡大し、太平洋戦争の悲劇に帰結す は悪化していた。とくに第一次大戦中の日本の強引な大陸進 経過 / 戦争の終結 / 戦時下の国民生活 / 戦争の指導体制 出は、アメリカをはじめとする列国の反感を買っていた。戦るのである。 と戦争責任 / 戦争の結果 / 終戦の詔勅 後アメリカが極東市場に復帰すると、対立は軍事的にも発展〔英米との対立激化〕他方、このような日本の動きは、列国 との対立をいっそう激化させた。満州事変は中国の提訴によ 一九四一年 ( 昭和一六 ) 一二月八日、真珠湾攻撃、日本のし、両国間の海軍軍備拡張競争が深刻となった。アメリカは ~ 二二年にワシントン会議を首唱して、軍縮条約をつて国際連盟の問題となったが、一九三三年 ( 昭和八 ) には アメリカ、イギリスへの宣戦布告で始まり、四五年九月二 日、日本の降伏文書調印によって終わった戦争。日本の指導成立させるとともに、九か国条約によって、アメリカの主張日本は連盟を脱退する一方、三六年の日独防共協定 ( 翌年イ する原則である門戸開放・機会均等などを中国進出の原則とタリアが加入 ) の締結を機として、独伊とともに枢軸陣営結 者層は大東亜戦争と呼称した。一九三一年 ( 昭和六 ) の満州 事変に始まる日中十五年戦争の発展であり、日中戦争を重要して認めさせた。また四か国条約と引き換えに日英同盟は廃成に向かった。アメリカは満州事変に際し、日本の侵略の結 な一部として含む。また世界的には第二次世界大戦の一部で止され、山東省の諸権益も中国に返還された。ワシントン体果に対し不承認を表明したが、やがて三三年にはソ連を承認 あり、その重要な構成要素であった。第二次大戦はファシズ制は、経済的に優越したアメリカの指導権の下に日本の中国し、日本に対抗する新しい勢力均衡を東アジアにつくりだそ うとした。日本がロンドン軍縮会議から脱退した三六年から ム諸国を中心とする枢軸陣営と反ファシズム連合国との間で進出を経済的分野に限り、またその活動範囲を西太平洋に限 定して極東での列強対立の緩和と帝国主義支配の安定化を図は、日米の建艦競争が無制限に行われることになった。日中 戦われたが、日本は日独伊三国同盟によってドイツ、イタリ 戦争の開始は、英米と日本との関係を緊張させ、三七年一〇 アと結び付いていたので、枢軸陣営に属した。三国同盟は一ろうとするものであった。 ワシントン体制の下で、列国との協調、中国内政不干渉を月にはルーズベルト米大統領が、侵略者を隔離すべきだと演 面では植民地分割協定であり、その面からいえば、戦争は世 しではら 界再分割のための帝国主義戦争であった。日本の軍事行動掲げる幣原外交が行われ、一九二〇年代の日本の外交は、ほ説するまでになった。しかし英米は、中国に対する具体的な は、中国を中心に東アジアから東南アジア、太平洋地域一帯ば米英との協調派の主導下にあった。しかし中国における国援助には慎重であった。一方、日本の膨張にはソ連に対抗す ちょう・」ほう に対して行われたが、日本の占領地域の民衆が抗日のための民革命の発展、金融恐慌、世界恐慌の波及に伴う昭和恐慌なる一面もあり、三八年に張鼓峰事件、三九年にはノモンハン 民族的な統一戦線を結成し、武装抵抗を行ったのもこの戦争どの内外情勢は、中国大陸への膨張と対米英抗争を主張する事件と日ソ間に大規模な武力衝突も起こった。そこでソ連 の大きな特徴で、そのため太平洋戦争は、アジア諸民族の側勢力の急激な台頭を招いた。二七年 ( 昭和一 l) に成立した田は、中国の抗日戦に対し当初から積極的な援助を行った。し ぎいち からは帝国主義の植民地体制を打破する重要な契機となつ中義一内閣の対華武力干渉政策はその最初の現れであり、太かし英米の一部には、日本の侵略がソ連の方向に向かうこと た。戦争末期にはソ連も参戦し、その結果、戦後の東北アジ平洋戦争を侵略戦争とし、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判を期待する空気もあり、日本に対抗する列強の連係は不十分 アでソ連の影響力が強化されるに至った。 ( 極東国際軍事裁判 ) は、日本の侵略計画の発端をこの内閣であった。日本の側でも、重要な戦争資材の供給を英米、と くにアメリカに依存している関係上、英米関係を重視する勢 〔戦争の起源〕太平洋戦争は、明治以来の日本の近代化の総の対華政策に置いている。三一年の満州事変も、軍部を中心 決算ともいうべき深い歴史的根源をもつ大戦争であった。日 とするこの勢力の始めたものであった。 力が宮廷や財界をはじめ支配層の有力な部分にあった。しか につしん からふと 満州事変は、一五年に及ぶ中国侵略戦争の発端となった。 し日本の占領地域と戦線が拡大するにつれて、英米の在華権 本は日清・日露戦争によって台湾、朝鮮、南樺太を植民地と し、南満州 ( 中国東北 ) を勢力範囲化して、アジアにおける同時に国内では、軍部の「革新派」を中心とするファシズム益は大打撃を受け、商品や資本も中国市場から後退した。対 唯一の帝国主義国として自立するに至った。さらに第一次世運動の進展するきっかけとなり、軍部はしだいに政治の指導立が深まるのは不可避であり、英米の対華援助もしだいに強 さんとう 界大戦では、ドイツ領南洋諸島と中国の山東半島を占領する権を握っていった。「満州国」建設後、軍部はさらに「防共」化された。三九年になると、イギリスはヨーロッパ情勢の急 とともに、中国に二十一か条要求を突き付け、山東省のドイを大義名分とする華北分離工作を進め、華北に勢力を扶植し迫から、その対華政策を後退させざるをえなかったが、それ ッ旧権益の継承などを認めさせた。また、ロシア革命後の一 ていったので、中国では華北を中心に抗日救国の動きが全国はかえってアメリカの対華政策を積極化させる契機となり、 せいあん 九一八年 ( 大正七 ) にはシベリアに出兵して、東シベリアに に広がっていった。その結果、西安事件 ( 一九三六年一二日米対立がいまや前面に現れることとなった。アメリカはこ かいらい 傀儡国家を樹立しようとした。戦後のベルサイユ会議は山東月 ) を契機に、三七年九月国民党と共産党の提携 ( 第二次国の年七月、日米通商航海条約の破棄を通告し、いつでも戦争 に対する日本の要求を認めたが、これに反発して中国では共合作 ) が成立し、抗日民族統一戦線が結成され、全民族的資材の対日供給を停止して、日本を圧迫できる体制をとっ ろこうきよう た。このような国際関係の緊迫のなかで、防共協定を強化し 五・四運動が起こり、シベリア出兵も頑強なソビエト側の抵な抗戦体制が初めて成立した。この年七月の蘆溝橋事件に 抗によって失敗した。朝鮮でも独立を要求する三・一独立運始まる日中間の全面戦争が長期化し、三八年末ごろから戦線て三国軍事同盟を締結しようとする動きも発展した。その推 こうちゃく が膠着していった最大の理由は、このような中国側の主体進力であった陸軍は対象国としてソ連を考えていたが、八月 へ動が起きた。 日本の大陸侵略が、朝鮮や中国の民衆の持続的な抗日運動的状況の画期的な転換にあった。日本の支配層はこのような 独ソ不可侵条約の成立によって実現を阻まれ、無為無策のう ばつばっ オの展開やソ連の強国化によって停滞をやむなくされたこと情勢を認識できず、国民党政府の切り崩しや、ドイツ、イタちに第二次大戦の勃発を迎えなければならず、このころには 533

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数が増えた。しかし同判決は各州に独自の州立対象とするものなどで、それそれが建学の精神可の主体が重なって問題は少ないが、私立の場し、ドイツでもポフム大学などは学部にかわっ 大学をつくらせる契機ともなり、宗派にとらわや学風をもって、東京や関西に誕生した。それ合は、その設置をだれがどういう形で認めるかて学科 Abteilung 制をとっている。大学の内 ら私立のものを含めた法的整備は一九〇三年が問題になる。たとえばイギリスでは、設置を部組織として、学部とともに重要な役割を果た 、れない近代的な州立大学の出現を促した。また 八六二年のモリル法によって、いわゆる国有 ( 明治三六 ) の「専門学校令」によってなされ意図する団体が国王の創立特許状を得て、初めしてきたものにカレッジ ( 学寮 ) がある。これ たが ( 当時の専門学校の数は五〇 ) 、専門学校て設立が公認される。わが国では大学設置基準は教育研究の単位であるよりも生活の単位だ 地賦与大学 ( ランド・グラント・カレッジ ) が おうせい が、イギリスのオックスフォード、ケン。フリッ 現れ、農工業などを重視して産業社会に貢献すないし高等の諸学校の大学への昇格意欲は旺盛というものがあり、その基準に達しているかど うかを大学設置審議会が判定することになって ジや、一九六〇年以降に設立された「ニュー る新しい大学へと発展した。それに、ドイツので、政府は一八年 ( 大正七 ) 、臨時教育会議の いる。アメリカでは、そうした中央の機関はな ーシティ」では、学寮が大学の中核的な 影響のもとジョンズ・ホプキンズ大学など大学答申に基づいて「大学令」を公布した。以来、 くて、大学は自由に設置され、設立された大学組織となっている場合が少なくない。とくに古 院大学の誕生があり、さらには「大学拡張」に大学には総合大学のほかに単科大学、官立のは が互いに自己規制をしてレベル・ダウンを防ぐ 典的な大学の場合には、学寮が固有の基金や財 かに公・私立の大学も存在することになる。こ よる大学の地域社会へのサービスも始まった。 うして四〇年 ( 昭和一五 ) の大学の数は四七アクレディテーション accreditation 方式がと産をもち、自治権ももっていて、チュートリア 一九世紀の後半以後、アメリカの大学は数的に られている。 ルなど独自の教育を行ってきた。 急増した。そしてその種類や形態において、あ校、学生数八万余、そのほかに多くの高等専門 〔管理運営〕学内の管理運営の方式には、教授 設置形態は、大学の財政問題にもかかわると 学校があった。 るいはカリキュラムや研究教育の方法におい ころが大きい。研究や教育の規模が拡大する状会を中心にするものと、理事会を中心とするも 軍国主義が招いた第一一次世界大戦では、大学 て、きわめて自由で多彩な様態を示し、世界を もまた国家とともに破滅するかと思われた。し況のなかでは、私立大学が授業料収入だけでそのとの二つがある。たとえばヨーロッパの大陸 リードする力強い存在となった。 〔日本の大学の歴史〕日本で大学という名が現かし敗戦は破滅よりも再生の機会をもたらしの経費をまかなうことは不可能だし、大学の研部やわが国の国公立の大学では、一般に各学部 の「教授会の議を経る」ことが管理運営上不可 た。アメリカに指導された新しい教育体系のも究・教育活動に公的性格があるとすれば、そこ れるもっとも古い例は、古代の大学寮である。 りつりよう に公費の援助があるのは当然だと考えられる。欠のこととなっていて、中世以来の学部自治の とで、大学は六・三・三の初・中等教育を終え それは、唐の影響を受けた律令制度の一環と ただ公費の援助は、国や地方自治体の大学に対伝統がそこにある。しかし今日のマス化した大 して設けられた、貴族の子弟を養成する施設でた青年を、男女の差別なしに迎え入れる四年制 学では、教授会も適正規模を超えることが多い あった。それ以後も高度な修学の場が貴族、僧の高等教育機関となった。国・公・私立とい , っする干渉や統制を招くおそれがあるので、大学 三つの設置形態は、戦前の伝統を背景に存続しの自治と公費の助成をどう両立させるかが問題し、教授たちがすべて管理運営に向いていると 侶、武士などを対象として不断に存在したが、 も思えないから、人事・予算などすべてを教授 になる。そうした面で一つのサンプルにあげら 大学とはよばれず、明治の初めに欧米の高等教 新しく生まれ変わった新制の大学は、一九 会で決めるやり方は、限界にきているともいわ シティない 五三年 ( 昭和二八 ) の時点で国立七二、公立一一一れるのは、イギリスの大学補助金委員会 Uni ・ 育制度が導入されたとき、ユニバ しカレッジに対応する邦語として、その名が用四、私立一二〇、学生数あわせて四四万であ versity Grants Committee 方式でれている。アメリカの大学などで多くみられる ある。わが国でも、国費による私学助成が最近理事会方式は、ジュネープのアカデミーでカル いられたのであった。 り、そのほかに短期大学も二二八校存在した。 しようへい′一う 積極化した。一九八六年の私立大学に対する経 バンによって始められ、オランダやスコットラ すでにそれ以前、江戸には昌平黌、地方に大学院も修士、博士の二段階で発足した。こう ンドの大学を経由してアメリカに根づいたもの 常費補助は二四三八億円余である。↓私立学校 は藩校など、国民の修学の場は相当に整い、知して、わが国の大学は急速に民主化され大衆の ートの場合、理事は五名 ( 日本 的水準はなかなかのものであったから、欧米のものとなった。それは大きな脱皮と発展を意味〔内部組織〕大学の内部組織としては、学部、である カレッジ の私大でも五名以上とされている ) 、そのもっ モデルが現れたときの反応も、きわめて敏感か したが、やがてまた新しい問題をも伴った。た学寮、研究所、附属病院などがある。学部は、 っ積極的で、文明開化を目ざしてさまざまな学とえば、教育と研究をどう相即させるか、教育大学における研究教育のもっとも普通にみられとも重要な任務は学長の選考、教授の人事、財 の量に対する質の保証、各大学の個性の確認、 る単位である。歴史的には神学、法学、医学の政上の配慮などである。教授や助教授は教育と 校や塾が現れた。慶応義塾、開成学校、医学 研究に専念する立場にある。 一般教育の見直し、大学院の整備、それにいう「上級三学部」と、その予備的位置からしだい 校、工学寮、札幌農学校、同志社英学校などな 学長にも二つの類型がある。ヨーロッパに由 ど、官も私もこぞって大学の種を播いたのだ までもなく大学入試の問題などである。昭和四 に昇格した哲学部が老舗であって、西欧の大陸 が、そのなかでもっとも早く体裁が整い中身も〇年代の大学紛争でも提起されたそれらの問題部ではこの伝統がいまも色濃く残っているが、来してわが国の国公立大学でモデルになってい 充実したのは、官の代表東京大学であった。そが今後どう克服されるか、いま大学の歴史は曲一九世紀以後は、哲学部から理学部、法学部かる学長は、教授等のなかから互選によって選ば り角にあるといえよう。↓大学紛争 ら経済学部、医学部から薬学部が分かれるとい れ、その任期は長くない。イ 也方イギリスの大学 の設立の試みは一八六九年 ( 明治一 l) にもみら の学寮長に起源をもつアメリカなどの学長職 れたが、七七年に法・文・理・医の四部門から〔設置形態等〕前述したように、わが国の大学うように、分化現象が著しく、いまでは相当に へんばう には、国立、公立、私立の三種類があり、私立 変貌している。アメリカでは、学部に相当するは、任期がなく理事会から大きな権限をゆだね なる近代大学としてスタートした。同大学は八 ものをスクールとかカレッジとよんでいるが、 られていることが多い 六年の帝国大学令により「帝国大学」と名を改が数的に過半数を占めている。アメリカには私 しゅよう ヨーロッパの神・法・医・哲の伝統があまりな 公権力との関係も、大学の管理運営の大きな め、「国家の須要に応ずる学術技芸」を教授攻立と公立の二種類があるが国立 ( 連邦立 ) はな 究するところとなる。そしてそれを頂点とする い。ドイツではほとんどが公立 ( 最近私立が加 いことと、実用主義の傾向もあって、さまざま 問題である。一般に大学は自治を認められてい 官による高等教育機関の整備は、旧制の高等専わる ) 。イギリスではすべてが私立だが、財政な名称の学部が大胆につくりだされた。家政学て、国家や地方自治体は、大学に対して財政そ 門学校を全国的に配置することと、京都、東その他地域社会や国の援助を受ける度合いが大部、歯学部、ホテル学部などはアメリカ生まれの他の面で「支持しつつ干渉しない」ことがだ 北、九州などの帝国大学をつくるという二つの きいので、私立でありつつ国公立的性格ももつであり、わが国もその影響を受けている。 いじだといわれている。しかし具体的な事例、 方向で進められた。↓東京大学 ている。フランスはほとんどが国立。ソ連、中 学部はその数が増えただけでなく、組織の単とくに政治上の問題、イデオロギーにかかわる 他方、私立の高等教育機関も数多くつくられ国といった社会主義国の場合は当然国立であ位としての再検討も迫られている。わが国では 問題では、自治の程度をめぐって議論が分かれ つくば ↓大学の自治 た。法律を教えるもの、宗派立のもの、女子をる。国立や公立の場合は、設置の主体とその認筑波大学が学系・学群と称する組織によっているることも少なくない。 そう

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R ~ 、ミ ~ ミミ ( 1968 , Calmann-Lévy, Paris) た内部分裂をおこした。袁世凱は反同盟会の諸ち、国立工場の閉鎖に踏み切り、これに反発し んダイナンウミヘビ〔大灘海蛇〕。デ h 。「。 だいにくみあい労働組合内の不満 4 よ snake, longbill snake eel/ 0 ミ、ま党を集めて共和党をつくり、自己の御用党として起こった労働者の六月暴動を陸相カべニャッ第ニ組△ロ た。革命派側も少数党を合併して同盟会を国民クに全権を賦与して過酷に鎮圧した。以後、力分子が、これまでの組合を脱退して新しく結成 きミき、をミぎ s 硬骨魚綱ウナギ目ウミヘビ科 した労働組合をいう。この場合、分裂前の最初 に属する海水魚。単にウミヘビともよばれる。党に改組し、袁の独裁を政党内閣によって抑制・ヘニャックを内閣議長とする保守化したプルジ にあった組合を第二組合との対比で第一組合と しようとした。一三年二月の国会議員選挙で国ョア共和派の強権支配の下で、王党諸派の連合 本州中部以南、西太平洋からインド洋、大西洋 に分布。ウミヘビ類中もっとも大きく、全長約民党側が大勝すると、じゃまな国民党勢力をそ体である「秩序党」の発言権が高まった。一一よぶ。第二組合結成の原因としては、一般に りようしゅう そうきようじん 月四日に公布された「第一一共和政憲法」に基づ①組合の組織運営、運動方針に対する組合員の ぐために袁世凱はまずその領袖である宋教仁 一六〇弩に達する。体は円柱状で尾びれを欠 りよう き、尾端は肉質で終わる。吻が長く、上下両を暗殺するとともに、国民党系の三人の都督き一二月一〇日に行われた大統領選挙では、予不満、②組合幹部の派閥対立、③対立する上部 くちばし 組織や政党など他団体の介入、④使用者による 想をはるかに超えてナポレオン一世の甥ルイ・ ( 一省の軍事責任者 ) を罷免または左遷した。 顎は突出して長い嘴状となり、先端部に強い はんもん この袁の挑発にのせられ、一三年七月、江西省ナポレオン・ポナバルトが農民の支持を受けて組合分裂工作、などがあげられる。とくに日本 犬歯をもつ。体は灰褐色で斑紋はなく、縦走ま りれつきん の場合は経営組織と基盤を同じくする企業別組 たは斜走する多数の微小隆起線がある。夜行性の李烈鈞などがたって反袁の軍事行動をおこし大統領に当選、王朝左派のオデイロン・ 合を特色としているため、組合幹部の買収、利 で、内湾の浅所で夜間に釣られたり、定置網やた。これを第二革命という。しかし、準備不足 Camille Hyacinthe Odilon Barrot ( 一七九一ー 益誘導など使用者側の分裂工作を受けやすく、 深海の機船底引網にも入るが、肉は不味で食用のうえ、革命派の結集も弱く、軍事面では簡単七 lll) 内閣が成立した。 に敗北した。第二革命失敗後、袁の権力は強化〔立法議会の時期〕一八四九年五月に行われた第二組合結成の有力な要因となっている。 〈浅野博利〉 価値はない。図。レウミヘビ 第二組合の特徴をあげれば、第一に組織的に 立法議会選挙の結果、秩序党が勝利し。フルジョ され、彼は一歩進んで帝制運動を推進するよう ダイナンキンポ「大灘銀宝〕 ribbed になり、やがて第三革命が起こされた。↓第一一一ア共和派は惨敗したが、急進共和派の「山岳は職員層、役付き工、職制など使用者に近い者 gunnelX8Dictyoson ミ 6 ミ、こ硬骨魚綱ス 〈倉橋正直〉党」の進出も目だった。大統領は、まずローマが主体となっていること、第二に運動路線とし ズキ目タウェガジ科に属する海水魚。北海道南革命 だいにきようわせい La Deu ・派兵問題を契機とする六月一三日の山岳党の反ては階級闘争路線を排して労使協調、労働組合 部以南の日本各地と朝鮮半島南部に分布する。第ニ共和政 そくへん 一八四八年の二月革命乱を鎮圧したのち、秩序党との対決に踏み切主義など穏健路線がとられていることである。 xieme République 体は側扁し、帯状である。頭部には低い皮質突 によって成立し、五二年まで続いたフランスのり、一一月バロー内閣を解任して超議会内閣をこのため第二組合は、しばしば使用者側の第一 起がある。側線は複雑につながって網目状に配 つくった。ついで、五〇年五月の議会による普組合に対する組織的攻撃に協力し、組合切り崩 置する。背びれは後部の七 ~ 一〇本の長い軟条政治体制。第二共和制とも書く。 を除いて、短くて鋭い棘からなる。背びれと臀〔臨時政府の時期〕一八四八年二月一三日から通選挙の廃止が引き起こした大衆の不満を議会しの下請機関的な役割を担う。 また、争議時を例にとれば、早期妥結や第一 リ民衆は王宮を占 にそらし、諸党派の対立を巧みに利用しながら 三日間の市街戦ののち、 びれは尾びれと連なっているが、それらの間に きよく 地歩を固め、大統領の再選を禁止する憲法条文組合よりも低額条件で妥結をみるなど、スト破 領、国王ルイ・フィリップは退位し、二四日議 浅い欠刻がある。腹びれは小さい一棘で、とき には消失する。内湾や入り江の藻場、潮だま会共和派はロマン派の詩人ラマルチーヌを首班の修正提案を議会が否決したことを直接の契機りと同じ役割を演じ、事実上御用組合となって いる例が多い とする臨時政府を結成、共和制と男子普通選挙として、五一年一二月二日、クーデターを決 り、沿岸の岩礁域などにすむ。全長約三〇 このような第二組合の結成を防止するために 肉は不味で食用としての価値はない。図要ギンを宣言した。臨時政府は、プルジョア共和派行、いっさいの反対派を逮捕、追放して独裁権 は、ユニオン・ショップ協定やクローズド・シ 〈尼岡邦夫〉 ( ナシオナール派 ) を主体に、急進共和派 ( レカを握った。 ョップ協定あるいは唯一交渉約款を締結するな 0 フォルム派 ) のルドリュ・ロラン、社会主義者〔大統領独裁期〕人民投票の圧倒的多数でクー 第ニインターナショナル デターを追認されたルイ・ナポレオンは、任期どの方法もあるが、かならずしも有効な手段と のルイ・プラン、労働者のアルべールと bert インターナショナル だいにがいしや経営難に陥った会 ( 本名と exandre Martin) ( 天一五ー九五 ) を加一〇年の大統領に独裁的権限を与える新憲法をはなっていない。第二組合防止の有力な方途 第ニ会社 社を再建するため、負債を含む資産勘定を棚上え、労働者の生活権の保障を宣一 = ロ、「労働対策一八五二年一月に公布し、全国を遊説してナポは、①組合民主主義の確立、②職場闘争の推 レオン崇拝熱をあおったのち、再度人民投票に 進、③組合員の理論学習の強化、などにより地 げし、営業活動だけを行うために新設される会委員会」 ( リュクサンプール委員会 ) と国立工 道に組合の闘争力、団結力を高めることであ 社。会社更生法の規定する再建方法の一つであ場 ( 作業場 ) の設立などの失業対策を打ち出し訴え、帝制を復活、ナポレオン三世と称した。 たが、前年来の経済恐慌を解決できず、直接税こうして第二共和政にかわって、第二帝政る。なお、第二組合の結成にあたって使用者が るが、第二会社という語は法律用語ではない。 一冖ラにつき四五チの付加税をかけたため、労 ( 制 ) が成立した。第二共和政に関する最近のなんらかの形で手を貸すなどしたとき、あるい 経営難の会社を解散するよりも関係者にとって 働者、農民、小商工業者の不満を買った。この研究の重心は、政治史よりも労働者の生活環は第二組合の結成直後に第一組合を差し置いて 損害が少なく、再建の可能性があるときに用い 境、民衆意識の分析を基礎とし、民衆運動と政ュ一一オン・ショッ。フ協定や唯一交渉団体条項を る。なお、第二次世界大戦直後、戦時補償を打情勢のなかで、プランキらの社会主義者や革命 ち切られた会社に、この名称を用いたことがあ勢力の反対を押し切って行われた四月一一三日の治過程との関連を総合的に追究する社会史に移含む労働協約を締結した場合には、明らかに不 る。 りつつある。↓二月革命↓第二帝政〈桂圭男〉当労働行為とみなされる。↓スト破り↓御用 〈森本三男〉憲法制定議会選挙の結果、プルジョア共和派が しんがい 〈吉田健二〉 回ガストン・マルタン著、井上幸治訳『一八四組合 だいにかくめい中国、辛亥革命 圧勝、王党派の進出も目だった。 第ニ革命 えんせい力し だいにげいじゅっろん第二次世 ( 第一革命 ) 後の一九一三年、袁世凱の国民党〔憲法制定議会の時期〕議会共和派は、臨時政 八年の革命』 ( 白水社・文庫クセジュ ) ▽カ第ニ芸術論 くわばらたけお ール・マルクス著、中原棯生訳『フランスに界大戦直後、桑原武夫が提起した現代俳句否定 弾圧に対する反袁の挙兵。一九一一年の辛亥革府にかえて五人メンバーの「執行委員会」を結 おける階級闘争』、村田陽一訳『ルイ・ポナ論。一九四六年 ( 昭和二一 ) 『世界』一一月号 命により清朝が倒れ、中華民国が成立、一二年成、国立工場を目ざして全国から流入する失業 労働者との対決姿勢を パルトのプリュメール十八日』 ( 『マルクス に「第一一芸術ーー現代俳句について」の題で発 三月袁世凱が北京で臨時大統領に就任した。革者の暴動の脅威に備え、 エンゲルス全集第七、八巻』所収・一九六一、表。四七年白日書院刊『現代日本文化の反省』 命成功後、一時に種々の政党が誕生したが、潜鮮明にし、ポーランド問題を契機とする一八四 六一一・大月書店 ) ▽ Louis Girard 【ト lle 在的に分裂の要素を抱えていた中国同盟会もま 八年五月一五日の労働者の暴動を鎮圧したの 五二年河出書房刊『第一一芸術論』に所収。桑原 ノ

10. 日本大百科全書 14

一九〇九年 ( 明治四一 l) に韓国銀行が設立されから広く用いられるようになった。彼は、国民 六〇年代後半から進められてきた金融再編成の ッ橋に国民体育館が建設されるに及んで、社会 るまで同国の中央銀行的役割を果たした。 所得水準の上昇に伴って就業人口構成の比重が 体育施設の芽期を迎えた。しかし、体育館が実現を目ざす金融効率化行政の第一歩として、 国立銀行の営業期間満了とともに一八九六年第一次産業で低下し、第二次および第三次産業 また互いの弱点を補うものとして、その効果は 充実してくるのは第二次世界大戦後のことで、 で上昇することを明らかにしたが、わが国の場 スポーツの普及や、国民体育大会、さらに東京多くの注目を集めた。七九年に初めて預金量一株式会社第一銀行と改組、普通銀行に転換し、 オリンピックなどの競技会が契機ともなって、〇兆円銀行を実現し、さらに八三年には二〇兆 五大銀行の一角を占めた。第二次世界大戦時の合、第一次産業の就業人口構成比は、一九三〇 量的にも質的にも整備されてきた。加えて、一円を突破した。八六年三月末現在、資本金一三 一九四三年 ( 昭和一八 ) 、当時の国策に即して年 ( 昭和五 ) の四九・七 % から八〇年の一〇 九六一年 ( 昭和三六 ) に制定されたスポーツ振七八億円、預金残高二六 、兆六三〇五億円、貸出三井銀行と合併して帝国銀行となり、四四年に九 % へと激減している。↓産業構造〈三浦正史〉 興法による、公共体育館への国庫補助政策の貢残高一九兆四〇七七億円、店舗数国内三五三、 は十五銀行を合併、日本最大の普通銀行となっ だいいちじしゅうだん primary 第一次集団 献も大きいと考えられる。このように発展して海外一〇、従業員数二万〇一三六人である。↓ た。戦後、金融機関の再建整備に際し、四八年 group アメリカの社会学者 0 ・・クーリー きた今日の体育館のあり方に関して、高齢者や第一国立銀行↓日本勧業銀行 ( 株 ) 〈岡田和喜〉 ( 昭和一一三 ) に旧第一系が第一銀行、旧三井・ 『社会組織』 ( 一九 0 九 ) のなかで提唱した集団概 身障者の利用に対する考慮や、省エネルギー対 だいいちきようわせい Premiére 十五系が帝国銀行 ( のち三井銀行と改称 ) とし念。典型的には、家族、遊戯集団、近隣集団に 第一共和政 策などが、今後も課題としてあげられる。そし République 駕 フランス革命における国民て新発足した。第一銀行は六四年に朝日銀行をみられるように、その特徴は人々の対面的 face- て施設整備の方法として、課外や休日に一般に 公会成立 ( 一七九 = ・九・ = 一 ) からナポレオンの皇合併し、さらに七一年には日本勧業銀行と合併 to-face な親密な接触 primary contact に基 開放して効率的利用を図る学校開放の方策が提帝就任 ( 天 0 四・五・一 0 までの、フランス最初 して、第一勧業銀行となった。↓第一勧業銀行 づく結合からなり、成員間には「われわれ」と 唱され、実施されてきている。また都市部を中の共和政体。第一共和政は、国民公会期、総裁 ( 株 ) 〈岡田和喜〉 いうことばで一小されるような強い共感・一体感 心として、土地の有効的利用から施設を重層化 政府期および統領政府期に区分することがで回第一銀行八十年史編纂室編『第一銀行史上が共有されている。こうした構造的特徴は、子 する方法や、学校体育館と社会体育館とを一体き、国民公会期はさらにジロンド派政権期、山 巻』 ( 一九五七・第一銀行 ) 供にとって自己概念や人間性 human nature だいいちじきようさんとう の形成に関する、いわば苗床のような第一次的 とした施設計画などは、土地確保の困難さに対岳派独裁期およびテルミドール派政権期に分か第一次共産党事件 応していくための解決策の一つと考えられる。れる。普通直接選挙を定めた民主的な山岳派憲じけん日本共産党に対する最初の弾圧事件。重要性をもっ集団であるとされた。すなわち、 近年、スポーツをはじめ、教育、芸術などの多法 ( 一七九三年憲法 ) は実施されずに終わり、 創立後非公然活動に従事していた共産党につい 子供の自己概念の形成は、彼が信奉する人々 まなぶ 目的な文化活動のできる総合的な施設もみられテルミドール派憲法 ( 一七九五年憲法 ) で制限て、一九二三年 ( 大正一一 l) 五月、佐野学の管 ( 重要な意味をもっ他者 ) の彼自身に対する評 るよ , つになってきた。 〈中山克彦・谷口純市〉選挙に復帰、議会と政府を切り離した総裁政府理していた秘密書類をスパイから入手した警察価に規定され、そこから子供の誇りや自尊心、 さかいとしひ・一 ひとし 体育の日 くのひ一〇月一〇日。「スが二院制・五総裁で発足した ( 一七九五・一 0 ) 。し当局は、六月五日未明、堺利彦、山川均ら約恥や虚栄の感情が生まれる。また、第一次集団 ポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」こ かし政局は安定せず財政も乱れたため、一七九 八〇名を一斉検挙した。この検挙により、共産での経験を通して、愛や奉仕、フェアプレーの とが趣旨の国民の祝日。一九六六年 ( 昭和四九年にシェイエスなどが、政治的自由を狭めて党の存在が世間に知られ、「第二の大逆事件」精神、真実や正義などのいわゆる第一次的価値 一 ) 建国記念の日、敬老の日とともに追加制定行政権力を強めた統領制憲法を作成し、三統 との宣伝で、運動全体に大きな衝撃を与えた。 理念が内面化される。このような人間性形成の された。それ以前は一〇月の第一土曜日がスポ領・三院制を設けた。第一統領ナポレオンは一 結局一一九名が起訴され、治安警察法違反で公判 メカ一一ズムは文化差を超えて普遍的であり、ま ーツ振興法による「スポーツの日」とされてい 八〇二年、終身統領となり、さらに二年後皇帝に付され、二五年八月二〇日判決がなされた。 たこのような第一次的価値理念は、より複雑な たが、六四年の東京オリンピック大会開会式の に就任して専制的性格を強めた。フランス銀行第二審判決は翌年四月二八日に言い渡され、大全体社会の統合の基礎として機能しているとし いしずえ 日を記念してこの日が選ばれた。各地で体力検が設置されて資本主義発展の礎が築かれるの審院は八月四日被告人らの上告を棄却し判決は た。クーリーはまた、開放社会における民主主 定や運動会といった関係行事が繰り広げられもこのナポレオン統領の時期である。↓フラン確定した。この事件は、創立されたばかりの日義や世論の結晶化も、こうした潜在的な道徳的 る。 〈森脇逸男〉 ス革命 〈岡本明〉本共産党に対する最初の弾圧事件であり、日本統合力なしには機能しないと論じ、他方、社会 第一インターナショナル 回西海太郎著『フランス政治史』 ( 一九六 0 ・学芸 の支配階級が、日本共産党の存在それ自体を許の産業化とともに、物質主義的価値観が第一次 0 インターナショナル 書房 ) さない反動性を一小し、反共主義の出発点となっ集団の機能を衰退させつつあることも指摘した。 しんがいかくめい 卩、、こいいちかくめい 0 辛亥革命 クーリ 第一革命 一た。創立されたばかりの共産党は大きな打撃を 第一国立銀ラだいいちこくりつぎんこう ーの理論は、民主主義に関するその楽 ひょりみ だいいちかんぎようぎんこ 第一勧業銀行 ( 株 ) 八七三年 ( 明治六 ) 国立銀行条例に基づいて設受け、党内に解党主義的な日和見主義の潮流が観論が批判されているほか、とくに・・ う一九七一年 ( 昭和四六 ) 一〇月、第一銀行立された国立銀行で、日本最初の近代的銀行。生まれ、それとの闘争が重要課題となり、また ーナードは、大規模な組織は第一次集団と異な みつ と日本勧業銀行の合併で成立したわが国で預金当初別々に銀行設立を計画していた三井、小野天皇制政策のスパイ・挑発政策との闘争の重要り、派生的・特殊的な価値理論がそのプロセス かおる 量第一位の都市銀行。第一銀行は、一八七三年両組が、井上馨、渋沢栄一の勧めで、共同出資性を教えた。↓日本共産党 〈犬丸義一〉を統制していると批判した。なお、表面的・非 ( 明治六 ) に第一国立銀行として設立されたわ に踏み切って設立したものである。設立時の資回我妻栄他編『日本政治裁判史録 3 大正』人格的な、打算的・契約的な第二次接触に基づ が国最初の近代的銀行を前身とし、一八九六年本金は二五〇万円。設立とともに渋沢は総監役 ( 一九七四・第一法規出版 ) ▽犬丸義一著『日本 く第二次集団 secondary group の概念や、組 はたん に普通銀行に転換、五大銀行の一つとして活躍として同行の経営に参画、七五年小野組破綻後 共産党の創立』 ( 一九全・青木書店 ) 織のなかの小集団の第一次集団的機能に注目し とうどり だいいちじさんぎよう産業を一一一た擬似的第一次集団 pseudo-primary group した伝統をもっ都市銀行である。日本勧業銀行の経営危機にあたり頭取に就任した。これ以後第一次産業 ち は一八九七年に設立された特殊銀行で、第二次渋沢の指導のもとに同行は、国立銀行の指導的部門に分類した場合の一区分。わが国の標準産の概念などがその後使われるようになった。↓ > 世界大戦前の日本の金融市場で不動産金融専門 小集団↓第二次集団 地位にたっとともに、金融界近代化の先駆けと業大分類では農業、林業、狩猟業、漁業、水産 〈大塩俊介〉 > 機関として特異な位置を占めていた。戦後の一もなり、王子製紙会社など近代工業の育成にも養殖業がこれに該当する。産業の三部門分割 @o ・・クーリー著、大橋幸・菊池美代志訳 オ九五〇年に普通銀行に転換した。両行の合併は力を尽くした。また七八年には朝詳にも進出、 は、 0 ・・クラークの実証研究に採用されて 『社会組織論』 ( 一九七 0 ・青木書店 ) 307