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1. 日本大百科全書 14

りようぞう びる 、つ『天台智者大師別伝』には大蔵経の名がみえる。蔵 ) 、福州開元寺版大蔵経 ( 毘盧蔵、福州版 ) 、書である。「日本大蔵経』は日本撰述の仏典を亮三が就任し組織的基盤が確立した。平沼は ごかんかん リ語の仏それまで無統制であった体操界を一つにまと 中国で初めて経典を翻訳したのは、後漢の桓帝湖州円覚寺版大蔵経 ( 思蔵、宋版 ) 、磧沙版集成したもの、『南伝大蔵経』はバー らくよう そ の代一四八年 ( 建和一 l) ごろ、洛陽にきた安息大蔵経があり、また宋代に着手し元代に完成し典を日本語に訳したもの、『西蔵大蔵経』『蒙古め、全日本体操競技選手権大会、明治神宮競技 、 6 43 いド ) あんせいこう た普寧寺版大蔵経 ( 元版白雲宗門蔵経 ) があ蔵経』はそれぞれチベット語、モンゴル語によ会など体操の普及発展に尽力し、三二年 ( 昭和 こ国の安世高である。おもに小乗経典を訳した し みん こうわちゅうへ、 ~ 天九 ) に支る。さらに宋版を模刻した元版大蔵経や、明のる大蔵経である。↓漢訳大蔵経↓高麗蔵 七 ) の第一〇回オリンピック・ロサンゼルス大 が、霊帝の光和・中平年間 ( 一天 るかせん 会に選手団を派遣して国際競技への第一歩を踏 婁迦讖が翻訳したものは大乗経典であった。そ太祖による南京大報恩寺版大蔵経 ( 南蔵 ) 、清大正新修大蔵経↓西蔵大蔵経↓南伝大蔵経 ↓日本大蔵経↓蒙古蔵経 〈岡部和雄〉み出した。参加した男子チームは、参加五か国 の後、各時代にわたって翻訳が行われ、元の時の太宗による北京勅版大蔵経 ( 北蔵 ) があり、 ばんれき 明の万暦年間 ( 一五七三 たいそうきようぎ各種の器械を使中五位であったが、ヨーロッパやアメリカ選手 代まで一〇〇〇年以上も続く。 ~ 一六一九 ) につくられた万暦体操競技 わざ 用して行う体操技術の優劣を競う競技のこと。 の妙技に接し、新しい技と技術の方向を学んで 当初は、各自が書写して伝えたが、数の増大版大蔵経がある。 また中国以外でもたびたび開版がなされた。 〔歴史〕器械を使用して行う運動は、古代ギリ 現在の基礎をつくった。ついで三六年第一一回 とともに正しく伝承し護持するために、訳され ・一うらい せいそう けんそう た経典の目録がつくられた。もっとも古い目録高麗では成宗 ( 在位九全 ~ 九九七 ) から顕宗 ( 在位シア時代にも戦技訓練として行われたが、器械ベルリン大会に男子チームが参加、一四か国中 - 一うらい しんどうあん そうりしゅうきよう は、前秦の道安の手になる『綜理衆経目録』一 0 一 0 ~ 三 0 ) の時代に蜀版を受け継いだ高麗版大運動として教育的な目的をもって実施されるよ第九位に躍進した。しかし第二次世界大戦の勃 さいちょ・つ うになったのは一九世紀の初めである。ドイツ発により残念ながら中絶せざるをえなかった。 ( 『道安録』とも略称される ) である。これは、蔵経がつくられた。高宗の時代に再雕された きったん 戦後の体操競技は、他のスポーツと同じく国 それまでの翻訳経典を分類整理して、①撰出経のが現存の海印寺版である。このほか、契丹体操の父といわれるヤーンは、ナポレオン戦争 きん せいか 律論録、異出経録、③古異経録、④失訳経版、金版、西夏版などもっくられた。このよう に敗れた祖国の青少年の身体と精神を鍛練する民体育大会と国際交流により復活した。一九五 りよう 録、 6 凉土異経録、⑥関中異経録、⑦疑経録、 に多くの官版や私版による大蔵経の刊行は仏教ために、ベルリン郊外のハーゼンハイデの森に 〇年 ( 昭和二五 ) にムーア監督ほか三名の選手 の流伝に大きく貢献した。 体操場を設けて、あん馬、木馬、鉄棒、平行からなるアメリカ・チームを招待しての日米対 ⑧注経・雑経志録の八部に分かち、六三九部八 ちょう 日本では九八八年 ( 永延一 l) に東大寺の奝棒、平均台などの器械運動を総合的に行わせ抗競技会がそれである。この大会の収穫の一つ 八六巻を収めたとされる。この目録は現存しな りよう そうゆう ねん いが、梁代に僧祐がこれに基づき、さらに増補然が宋から蜀版大蔵経を将来したのが大蔵経のた。各器具について種々の運動形式を考え、多は、国際体操連盟の副会長であったムーアの日 しゆっさんぞうきしゅう 少の危険が予想される運動もあえて実施するこ本体操界への指導と助言であり、もう一つは、 して『出三蔵記集』を著した。これが現存最初伝であろう。その後、高麗版や宋版、元版、 古の優れた経録であり、「道安録』のおもかげ 明版が伝えられ、大蔵経開版も何度か企てられとにより、美的効果とともに高度な身体支配能アメリカ選手の高度なタンプリングの技術であ ずい ほうきよう をも伝えている。さらに隋代には『法経録』 たが、完成をみなかった。最初に成功を収めた力を要求し、さらに競技的性格を与えた。一 った。五二年第一五回オリンビック・ヘルシン てんかい かんえいじ てんかい げんそう にんじゅ れきだいさんぼう のは天台宗の天海による寛永寺版 ( 天海版 ) で 一四年、彼は第一回の競技会を行った。種目はキ大会に、チームぎりぎりの男子五人の選手が 『彦琮録』 ( 『仁寿録』ともいう ) 、『歴代三宝 じよ・つたい だいとうない りんぎい てつげんどうこう 紀』がつくられ、唐代には『静泰録』『大唐内ある。その後、臨済宗の鉄眼道光によって明の跳躍、木馬連動、懸垂、懸垂移行、登はんのほ参加し、団体五位、目別で竹本正男が跳馬で すもう じようげん うえさこただお たかし 典録』「 - 開元 ( 釈教 ) 録』『貞元録』などが著万暦版を範とした黄檗版 ( 鉄眼版 ) がつくられか、走、相撲などであった。しかし女子では 一一位、上迫忠夫、小野喬が三位、徒手体操 ( ゅ された。これらの諸経録において、大・小乗、た。いずれも江戸時代である。明治になると、 「女性はつつましく」との女性観から非常に発か連動 ) で上迫が二位となり、日本体操初のメ 経律論などの分類・組織がしだいに確立され、活版印刷の大蔵経がつくられた。縮刷蔵経、達が遅れた。それでも一八七〇年代には、女子ダルを獲得した。この大会で注目されたのは、 かんべき まんじ とくに『開元録』に至って、もっとも完璧な目卍蔵経、卍続蔵経などがそれである。縮刷蔵用の器械として振動つり輪、振動平均台などがオリンピック初参加のソ連がすばらしい技術を 録が出現した。その入蔵録に示されている一〇経は高麗版に基づき、さらに中国・日本の典籍あげられている。このようにして体操競技は、発表して男女とも圧倒的勝利を収めたことであ 七六部五〇四八巻という部数・巻数は、大蔵経を増補して一九一六部八五三四巻とし、四〇帙 ドイツ体操を基としてヨーロッパ各国に普及る。このときから、日本は打倒ソ連を目標に研 を新しく書写・入蔵する際の信頼すべき標準と四一八冊に収めた。卍蔵経は七〇八二巻三六 し、体操祭の形で、ほかの競技とともに行われ究と精進が始まった。五四年第一三回世界選手 なった。俗に「五〇〇〇余巻の大蔵経」といわ套、卍続蔵経は七一四〇余巻一五〇套である。 てきたが、その内容、規則などもかなり幼稚な権大会で、男子は団体総合でソ連に次いで二 れるのは、これに基づく。その後も、新訳経のその後、大正から昭和の初頭にかけて刊行されものであった。しかし近代オリンピックが創設位、個人種目別徒手で竹本が、女子平均台で田 追加や遺漏の補充がなされ、大蔵経の規模はま たのが『大正蔵経』 ( 『大正新修大蔵経』 ) で、 されたとき、第一回大会 ( 天九六 ) から選手権競中 ( 現池田 ) 敬子が優勝、初の世界チャンピオ すます大きくなり、中国人の著作も入蔵を許さ本蔵一 ~ 八五巻に収められた部数・巻数は三〇技として加えられ、ここに初めて現在の体操競 ンが誕生した。五六年第一六回オリンビック・ れるようになった。 五三部一万一九七〇巻に上る。これに目録一一一技として国際的に発展することになった。以 メルポルン大会で、男子は団体二位、初参加の そうしょ 木版印刷の技術は唐代には開発されていた巻、図像一二巻を加え、全一〇〇巻の大叢書と 後、一九五二年オリン。ヒック・ヘルシンキ大会女子もよく健闘して団体六位に入賞。種目別鉄 そう が、これを大蔵経に応用したのは宋代になってした。高麗版を底本とし、宋・元・明の各版を におけるソ連チームの衝撃的な登場まで、ドイ棒で小野喬が優勝、オリン。ヒック初の金メダル てんびよう ずいとう とん からである。これまでは写本の大蔵経であった 対校し、さらに天平写経、隋唐の古写経、敦ツ、イタリア、プルガリアなどのヨーロッパ者を獲得した。六〇年第一七回オリンピック・ロ が、この時代から刊本の大蔵経がつくられる。 煌写本をも参照して学的な取捨を加え、質・量国とアメリカが指導的な地位を占めていた。 ーマ大会では、男子は宿願の団体総合に優勝、 ちょつじゅうしんしよく 宋の太祖は九七一年 ( 開宝四 ) 、張従信を蜀ともに充実を図った。現存するもっとも完備し 日本で体操競技が組織的に行われるようにな種目別の鉄棒と跳馬で小野喬が、徒手で相原信 ちょうぞう ゆき の益州 ( 成都 ) へ派遣して大蔵経の騅造を命 た大蔵経である。 ったのは一九一一年 ( 明治四四 ) ごろからで、 行が優勝した。女子も団体四位に入賞した。六 じ、『開元録』に基づいて作業が進められ、一 なお、転用された意味での大蔵経 ( 一切経 ) 慶応義塾大学、麻布中学校、成城中学校、青山四年第一八回オリンピック東京大会では、男子 ゆきお 二年かかって完成した。その板木を用いて太平には『国訳一切経』『国訳大蔵経』『日本大蔵師範などの間で春秋一回対抗競技会や連合競技は団体総合二連勝、個人総合で遠藤幸雄が初優 しんさん 興国寺内の印経院で刷られたものが、有名な蜀経』『昭和新纂国訳大蔵経』『南伝大蔵経』『西会を行ったのが最初とされている。その後三〇勝、種目別では平行棒で遠藤、つり輪で早田卓 も : つ、一 はるひろ 版大蔵経 ( 北宋勅版大蔵経 ) である。宋代には蔵大蔵経』『蒙古蔵経』などがある。いずれも年 ( 昭和五 ) に全日本体操連盟 ( 現在の日本体次、跳馬で山下 ( 現松田 ) 治広がそれそれ優 そうわいまんじゅ ほかに福州東禅寺等覚院大蔵経 ( 祟寧万寿大一定の方針に基づいて編纂された仏教聖典の叢操協会の前身 ) が結成され、初代会長に平沼勝。女子も団体総合第三位に入賞した。六八年 ちしゃ ナンキン ばっ じ ばっ 446

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だいげんかい おおおくまのぶゆき 、一う寺一かま亠こあき だいにのせい Le Deuxiéme sexe を図り、さらに六六年には大規模な研究所を建夫、大熊信行、高山岩男、高坂正顕、市川房枝辞典として、後刊の『大言海』 ( 一九三二 ~ の第ニの性 フランスの女流作家ポーボアールの女性論。全設、七八年に多色曲面印刷技術を開発した。東ら二七名。会員には旧日本評論家協会 ( 一九四 0 創七年、冨山房刊 ) とともに、不朽の価値を有す 二巻。一九四九年発表。女性は女性として生ま南アジア、アメリカなどの海外への進出も活発立、代表津久井 ) のメンバーを中心に広く思想る。『日本国語大辞典』二〇冊 ( 一九七二 ~ 七 、、これるのではなく、男性を主体とする文明によっである。資本金は約三二一億円 ( 一九会 ) 。国内家・評論家が加わり、四三年七月現在で九一七六年、小学館刊 ) の母胎となった。〈築島裕〉 一九 に一四工場。↓佐久間貞一 〈中村清司〉名。幹部には天皇制国家主義の支持者が多く、大日本国粋会 て「他者」にされ二次的にされた存在である、 という主張が根幹をなす。第一巻では、女性の回大日本印刷株式会社編・刊『七十五年の歩「国体ノ本義ニ基キ聖戦貫遂ノタメ : : : 皇国内一九年 ( 大正八 ) 一〇月、関東、関西のやくざ はら 外ノ思想戦ニ挺身スルコト」 ( 定款三条 ) を目を集めてつくった官製の暴力団右翼団体。原 み大日本印刷株式会社史』 ( 一九五一 D 身体的条件の検討から出発して、精神分析およ とこなみたけじろう だいにほんえんかいよ的に掲げ、たとえば米英撃滅思想戦大講演会を敬内閣の内務大臣床次竹二郎が根回し役で、 び唯物史観における女性論を実存主義の立場か大日本沿海輿地全図 そうしょ うめづかんべ いのうただたか オ開催したり、『日本思想叢書』を刊行したりし同年すでに発足していた関東国粋会の梅津勘兵 ら再考。原始社会から現代に至るまでつねに男ちぜんず江戸時代後期、伊能忠敬が作成しこ え きようかく 衛らと関西の侠客西村伊三郎などを「大同団 日本最初の実測日本地図。「伊能図」「日本輿地て、日本文学報国会、日本美術報国会、日本音 に支配されてきた女性の歴史をたどり、さらに とおきち 文学に描かれた「母性」「処女性」「永遠の女全図」ともいわれる。忠敬は日本全国の測量を楽文化協会など、同種の国策協力団体と並んで結」させ、大木遠吉伯爵を総裁にして設立。東 しげたけ にんきようどう 性」などの神話を暴いて、個々の女たちの自由一八〇〇 ~ 一六年 ( 寛政一二 ~ 文化一三 ) に行総力戦体制の一翼を担った。敗戦と同時に活動宮侍講杉浦重剛が皇室中心主義に仁侠道を加 えてつくった綱領 ( これ以外にも、労資協同な い、測量が一段落進むごとに、三万六〇〇〇分を停止、一九四五年 ( 昭和二〇 ) 八月二七日に な実存の可能性を示唆する。第二巻では、性的 〈内川芳美〉 どをうたった別綱領があった ) をもち、労働争 の一の縮尺で製図し、これをまとめて長さ六解散した。↓日本文学報国会 体験をめぐる女性たちの率直な証言をもとに、 回日本ジャーナリスト連盟編『言論弾圧史』議、部落解放運動を襲撃、各地で蛮行を働い 幼年期から女がどのようにつくられ、結婚生活尺、幅三尺ほどの地図 ( 大図という ) とした。 ( 一九四九・銀杏書房 ) ▽黒田秀俊著『血ぬられた。二三年の奈良県水平社事件、二七年 ( 昭和 大図は二一四枚あり、次に大図を六分の一に縮 のなかでどのように抑圧されるかを語ってい しようゆ 一 l) 千葉県野田醤油争議への暴力介入はとくに た言論』 ( 一九当・学風書院 ) 小して縮尺二一万六〇〇〇分の一の図 ( 中図 ) る。一九七〇年ごろからアメリカやフランスで だいにはんこきろく東京大学有名。発足以来関東系と関西系の縄張り争いが 始まった種々の女性解放連動は、いずれもこのをつくり、これをまた二分の一にして縮尺四一一一大日本古記録 そう へん、・一んじよ 著作に対する賛否決定のうちに、自らの進む方万二〇〇〇分の一の地図 ( 小図 ) 三枚に仕上げ史料編纂所が編纂している日本歴史の史料叢絶えす、衝突と手打ちを繰り返し、しだいにカ 二一年 ( 文政書。各時代の代表的な日記その他の古記録を集を失った。五八年 ( 昭和三三 ) に日本国粋会と 向を探っている。↓ポーボアール〈海老坂武〉た。その完成は忠敬の死後、一八 して再建、「保守反動政策排撃、進歩的健善政 四 ) のことであり、これが『大日本沿海輿地全める。同所が『大日本史料』『大日本古文書』 回生島遼一訳『第二の性』全五冊 ( 新潮文庫 ) だいに・・ーゆでん BTopoe 図』である。この地図によって初めて日本の海などに加えて、一九五二年 ( 昭和二七 ) より刊党支持」などの綱領をもったが、現在は名ばか 第ニバクー油田 baKYZVtoroe Baku ソ連のポルガ・ウラル岸線が正確に知られるようになり、日本の地理行を開始した。自筆原本か、そうでなくても最りとなり、この系譜の団体として国粋青年隊、 そうりゅう 〈大野達三〉 地域の油田群。一九三〇年代に最初の油田が発学上きわめて大きな貢献をした。江戸時代、こ良の底本によって厳密に校訂し、逸文などをも蒼龍会がある。 八二八年のシー 収め、できる限りの復原を図る。人名・地名に回荒原朴水著『大右翼史』 ( 一九六六・秀文社 ) 見されてから今日まで、六〇〇以上の油田とガの地図は幕府の独占であり、一 、、こ、にほんこくば , っふじん ス田が発見されている。四八年、巨大なロマシポルト事件で問題となった品のなかにはこの地傍注を施し、内容の見出しを上部欄外に標記大日本国防婦人会 、刀し 満州事変下の一九三二年 ( 昭和七 ) 一〇 〈内田謙〉し、巻末に解題や索引などをつけている。岩波 ユキノ油田が発見されて以来原油の生産が急速図の写しも含まれていた。 ていしんこう 。こ、ほ・ん、刀いこ一 , つ、も′んに》よ 月二四日、軍部 ( とくに陸車省 ) の指導、援助 書店発行。既刊分は時代順に、『貞信公記』 に伸び、ソ連の主要な油田地帯となった。同地大日本外交文書 きゅうれき しようゆう みどう ′一にじようもろみち にほ・れがい、 : っ私ーん」しレ画 『九暦』、『小右記』、『御堂関白記』、『御一一条師通のもとに設立された戦争協力婦人団体。略称国 域にはオレンブルグ・ガス田などの巨大なガス 0 日本外交文書 でんりやく いのくま みんけい 、、こ、 , - ま′ルキ、よ、つ、刀し 記』『殿暦』、『猪隈関白記』、「民経記』 ( 未完 ) 、防。前身は大阪の国防婦人会 ( 三二年三月一 田も数多くあり、天然ガスの大生産地帯でもあ大日本協会 けんない がうんにつけんろくばっ たい者ねい - : っ る。 〈田中正三〉年 ( 明治一一六 ) 一〇月一日に発足した対外硬運『後愚昧記』 ( 未完 ) 、『建内記』、『臥雲日件録抜日設立 ) である。三四年四月一〇日には総本部 ゅう しやけん うわいかくけん ときつねきよう が結成された。同種の愛国婦人会が内務省主導 だいにはんいんさっ業界最動組織。外国人への内地開放、内地雑居に反対尤』、『蔗軒日録』、『上井覚兼日記』、『言経卿 大日本印刷 ( 株 ) うめづまさかげ あらいはくせき 記』 ( 末完 ) 、『梅津政景日記』、『新井白石日記』 であったのに対し、総力戦体制確立を目ざす軍 大手の総合印刷会社。正しくは「だいにつばんする内地雑居講究会派が、全国的な政治運動展 えぎがくすい おかのや 一八七六年 ( 明治九 ) 佐久間貞一らが創開のために組織したものである。領事裁判制廃『江木鰐水日記』である。今後『岡屋関白記』部の意向を受けて、創立趣意書に「国難を打破 もっ ため 『二水記』などの刊行予定がある。〈菅原昭英〉し国防を安固にし以て皇国興隆の為一生を捧ぐ 立した秀英舎が前身。従来の木版印刷にかえて止のためには当然居留地を廃止し、内地開放を だいにほんこくごじてん国るは日本婦人の使命」とうたうなど、ファシズ 活版印刷を採用、日本における近代的印刷業の 行わなければならないという主張を批判し、内大日本国語辞典 かすとし かんじ 先駆となり、九四年に株式会社化した。一九一一地開放を行うか否かの決定権は条約締結国にあ語辞書。上田万年、松井簡治著。本文四冊、索引ム婦人運動の先頭にたった。会員は一六歳以上 の女子を対象とし、一一五歳以上または既婚女子 八年 ( 昭和三 ) サダグ法を導入して日本初の本ると主張した。一二月二九日解散を命じられ一冊。本文は一九一五 ~ 一九年 ( 大正四 ~ 八 ) 、 につしん ~ 二九年 ( 昭和を正会員として、工場、デパートなどの勤労婦 た。↓対外硬 〈酒田正敏〉索引は二九年 ( 昭和四 ) 刊、二八 格的原色グラビア印刷を開始、三五年に日清印 、、こ、にほんげんろんほうこ 三 ~ 四 ) 修正版、三九年 ( 昭和一四 ) 修訂版 ( 五人も組織した。太平洋戦争下の四二年二月二 刷を合併して現社名に改めた。 大日本 = = 口論報国会 日、他の婦人団体とともに大日本婦人会に統合 太平洋戦争期に内閣情報局の指導・監冊 ) 、五二年 ( 昭和二七 ) 縮刷版 ( 一冊本 ) 刊。 第二次世界大戦後は紙器、特殊印刷、精密部 ふざんばう された。↓大日本婦人会 〈米田佐代子〉 品、プラスチックの各専門工場を建設、また一督のもとに組織された思想家・評論家の国策協冨山房発行。上代から大正年代に至る国語、漢 語、外来語一一〇余万語を、歴史的仮名遣いの五叩入日本国防婦人会総本部編・刊『大日本国防婦 九五六年 ( 昭和三一 ) には木目化粧紙などの建力団体。当初、大日本思想報国会の名称で計画 人会十年史』 ( 一九四三 ) されたが、のち大日本一一一一口論報国会に改められ、十音順に配列し、振り仮名で発音を示し、とく 材印刷を開始、五八年には腐食法によるカラー 。こ、こまんこもんじよ東 ~ 示大 一九四二年 ( 昭和一七 ) 一二月二三日に創立さ テレビ用シャドーマスクの試作に成功した。六 に上代、中古、近世語につき豊富な用例を一小大日本古文書 / しーー へんィ一んじよ いちろう そほう 学史料編纂所の編集している古文書集。既刊一 〇年以降、海外から積極的な技術導入を進めるれた。役員は、会長徳富蘇峰 ( 猪一郎 ) 、専務す。語釈は簡明で、語源説等は少なく、中世の かのこぎかずのぶ たつおおおぐしとよ 一方、各地の印刷会社の系列化と営業網の拡充理事鹿子本員信、理事は津久井龍雄、大串兎代語は比較的簡略であるが、空前の優れた国語大七五冊 ( 一九八六年一二月現在 ) 。史料編纂所は たかし ささ 496

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たいそう 体操競技 第一九回オリンビック・メキシコ大会で、男子は、団体総合四連勝、加藤沢男が個人総合と平に開催される世界選手権大会にも五連勝、世界よび世界選手権大会の規定演技は、国際体操連 みつお 盟の男女技術委員がそれそれ作成する。それは は団体総合で史上初の三連勝、個人総合で加藤行棒、塚原光男がウルトラ (-) 「月面宙返り」で体操界に不滅の金字塔を打ち立てた。 さわお 一九七九年第二〇回フォート・ワース ( アメ四年間、すなわち次のオリンピック大会まで有 沢男がソ連の名手ポローニンに劇的な逆転優勝鉄棒、中山彰規がつり輪で二連勝した。七六年 あき リカ・テキサス州 ) 世界選手権大会では、男子効である。全日本選手権大会、全日本学生選手 を成し遂げ、種目別でも加藤がゆかで、中山彰第二一回オリンピック・モントリオール大会 のり 規が鉄棒、平行棒、つり輪の三種目に優勝しで、男子は団体総合五連勝、加藤沢男が平行団体一一連勝ならず、一九年間保持した王座を権大会では、オリンピックまたは世界選手権の ソ連に明け渡し、女子も七位であった。八〇年規定演技を採用している。国民体育大会、全日 た。女子は団体総合四位にとどまった。七二年棒、塚原光男が鉄棒で二連勝した。男子はオリ 第二〇回オリン。ヒック・ミュンヘン大会で男子ンビック五連勝の間に、オリンピックの中間年第二二回オリンピック・モスクワ大会は、ソ連本高等学校選手権大会の規定演技は、日本体操 のアフガニスタン侵攻を理由にアメリカがポイ協会が作成する。規定演技は、実施する対象の コットを提唱し、日本をはじめ自由圏の多くの水準を考慮して、比較的容易な内容で構成され 国が同調して参加を取りやめた。ソ連が団体総る。ところが比較的容易であるというところに しナ 合で優勝、一九五六年メルポルン大会以来二四規定演技の問題点がある。すなわち、容易であ 年ぶりに五輪の王座についた。八一年第二一回るだけに、参加選手の大部分、とくに上位チー を モスクワ世界選手権大会で、日本男子は王座奪ムの選手は正確にやり遂げるであろう。とすれ 座技 王演 ーいかにして他の選手に差をつけるかが問題 回ならす二位。女子も一一位に後退した。 一九八三年第一三回。フダベスト世界選手権大である。実施する運動は同じでも、技のさばき てつ技 会では、男子団体総合でソ連は他の国に王座を方、スケールの大きさ、表現方法など選手ごと つの演 守 , 棒 に異なるのは当然である。規定に忠実に、しか 譲らす、日本は三位とさらに後退したが、具志 来国行 以中平 も確実に実施するとともに、理想像をどこに求 堅幸司が、つり輪でみごと金メダルを獲得し 会 ( の 大寧 た。八四年第二二回オリンピック・ロサンゼルめ、どんな方法で、どこまで仕上げているかが マ李カ ス大会では、前モスクワ大会の報復として、ソ規定演技の見どころである。 ロ 自由演技は、各種目の構成要素を考えなが 連、東欧諸国の大部分がポイコットしたが、ル 操ルはり ーマニアとユーゴスラビアの二か国が選手団をら、各選手が得意な技を自由に組み合わせ、自 体ゼムな 子ン一と派遣し、また中国が初めて参加した。ソ連の不由な方法で行うものである。体の大きい選手と 男サチ位 たロ子 3 小さい選手、腕力の強い選手とスイングのよい 参加で日本の王座奪回が期待されたが、アメリ き。男で 力、中国の躍進が目覚ましく、男子団体総合は選手、柔軟な選手と硬い選手など各自の身体条 てた本い つき日次 一位アメリカ、二位中国、三位日本であった。個件によって、取り入れる技も、組合せも、リズ 争て , に をしは国人総合で逆転優勝した具志堅幸司と、鉄棒で優ム・タイミングなど表現方法も違ってくる。構 点頭で中 頂台 勝した森末慎二が、日本の意地をみせた。女子成要素である難度・組合せ・実施をいかにして のか 4 カ 界カ は団体総合一位ルーマニア、二位アメリカ、三個性的な演技に仕上げるかに選手の苦心があ メ る。すなわち自由演技の見どころは、各選手が 位中国、日本は六位であった。 かメクア どんな独創的な技を、どのような組合せで、 今後世界の体操は、男子は日本、ソ連、そし 連と。ヒで ソ国ン合 て進境著しい中国の優勝争いに、アメリカ、東かに大きく、しかも美しく行うかにある。女子 と土・リ公噌 本 , オ体ドイツが加わり、このなかで優勝をふたたび日 のゆかの演技には規定・自由ともにかならす伴 日にス団 本の手に取り戻すことが急務であろう。女子は奏音楽をつけることが要求されているから、そ ソ連、ルーマニア、東ドイツ、中国、アメリカの優劣および音楽と演技の調和が採点の重要な 若ク個た のツがし が強く、日本は六位入賞が当面の目標である。 ポイントになる。規定演技も自由演技も復行 選ンア男子が王座の奪回、女子が上位進出を果たすに ( やり直し ) は許されない。しかし演技中に器 っオマ勝は、若手選手の育成強化と新技の開発がたいせ械設備上の不備が生じた場合、あるいは、組織 つである。 者側の予測しない不可抗力の事態が生じた場合 財チ棒 〔競技内容〕演技種目は、男子はゆか、あん には、主任審判員は演技の復行を減点せすに許 ネ行 のンマ呼馬、つり輪、跳馬、平行棒、鉄棒の六種目、女可することができる。 術モ の違子は跳馬、段違い平行棒、平均台、ゆかの四種〔競技の種類〕競技には、チーム競技 ( 競技 る歳段 と —) と個人総合競技 ( 競技Ⅱ ) と種目別決勝競 目があり、各種目についてそれそれ規定演技と 技 ( 競技Ⅲ ) の三つがある。チーム競技は、一 自由演技を行う。 技つは均 競だで平 規定演技は、こういう技を、この順序で、こチーム六人の規定および自由演技の上位五人の 操目 体が 6 合 のように実施せよとすべての運動および動きの得点の合計によって行われる。個人総合競技 7 女年 0 人 細部にわたり規定したもので、オリンビックおは、競技—の上位三六選手が出場し、競技—の 4 ローマオリンビック ( 1960 年 ) 男子団体総合の表彰式。日本は 男子団体競技でローマ大会からモントリオール大会まで , オ リンヒ。ック 5 連覇を成し遂げた メルポルンオリンヒ。ック ( 1956 年 ) の種目別鉄棒で優勝した , 小野喬 選手の演技 東京オリンビック ( 1 964 年 ) でのチャスラ フスカ ( チェコ ) のゆか運動演技。華麗で 充実した演技は観客を魅了した わぎ

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たけなみ 期・作者ともに末詳であるが、およそ一〇世紀物の性格や心理、人間的苦悩にまで筆が及んでし衝撃を与える。昭和詩史の詩的青春を飾る、 回「武豊町誌』全四巻 ( 一九七九 ~ 会・武豊町 ) じようがん えんぎ 〈七七 ) から延喜 ( 九 0 一 ~ 九一一三 ) おり、素朴ななかにも現実性を失わずしてなおエスプリ・ヌーポーの記念碑的詩集『象牙海 前半、貞観 ( 会九 ~ 二万五千分の一地形図「半田」「河和」 ろうまん 岸』 ( 一九三 = ) を刊行。『ドノゴトンカ』『詩法』 までの間に、男性知識人によってつくられたと浪漫的な香気高い作品となっている。まさに タケトラカミキリ〔竹虎天牛〕 C ミ ? 考えられている。『源氏物語』「絵合」の巻には「物語の出で来はじめのおや」として、物語史『四季』に参加。第二次世界大戦中は、『中等学 、、ミ s ミミミこ s 昆虫綱甲虫目カミキリ こうぶん へきとう 生のための朗読詩集』 ( 一九四一一・湯川弘文社 ) や ムシ科に属する昆虫。本州以南の日本各地、朝「物語の出で来はじめのおやなる竹取の翁」との劈頭を飾る重要な作品である。 そうしょ てんしよう 伝本は天正二十年 ( 一五九一 l) の奥書をもっ天『新詩叢書』 ( 全一七巻・同社 ) を企画し、詩の 鮮半島、中国、台湾から南方熱帯域に広く分布あり、当時すでに初期の仮名物語の代表作品と 理図書館蔵本 ( 武藤元信旧蔵本 ) が現存最古の危機を乗り越えた。戦後は、児童文学誌一「きり し、竹材とともにヨーロッパ、アメリカにも侵みなされていた。 けいちょう 内容は構成上、かぐや姫の生い立ち、五人の写本、ついで慶長 ( 一五九六 ~ 一六一五 ) ごろ刊の古ん』を指導するなど、詩の社会化を志向。『ポ 入した。体長一一一 = 、リ内外。細形で灰黄色の毛を みかど ルカマズムカ』 ( 一九七九 ) で読売文学賞を受け 密生し、前胸は球形で背部に火の字形の黒い紋貴公子と帝の求婚、かぐや姫の昇天の三部から活字十行本と十一行本がある。整版本は絵入り かんぶん しようほう 〈千葉宣一〉 があり、上ばね両側には前から半環形、横帯、なる。竹取の翁が竹の中から小さい女の子をみで正保三年 ( 一六四六 ) 板、寛文三年 ( 一六六三 ) 板る。 円形の三黒紋がある。成虫は七、八月に多く現つけてたいせつに養育していくうち、わずかのなどが刊行された。なお、写本のなかには絵巻回『竹中郁全詩集』全一巻 ( 一九会・角川書店 ) たけなかはんべえ ( ? ー一五七九 ) 間に美しい女性に成長したのでかぐや姫と名づや奈良絵本の形の伝本も少なくない。また、以竹中半兵衛 れ、枯れたタケに産卵し、幼虫はその材中で育 しげはるしげとら ち、翌年の初夏に蛹になる。食害するタケはマける。姫のうわさを聞いて多くの男たちが求婚上の通行本とは別系の古本と称されるものに、戦国時代の武将。名は重治 ( 重虎とも ) 。半兵 ふわ いわてばだい くらもちのみこ ぶんか いしづくりのみこ ダケ、モウソウチクの若いものが多く、トウモしたが、なかでも石作皇子、車持皇子、右大新井信之蔵文化十二年 ( 天一五 ) 奥書本がある。衛は通称。美濃 ( 岐阜県 ) 不破郡岩手菩提山城 あんどうもりなり いそのかみの あ・ヘのみうしだいなごんおおとものみゆき 〈中野幸一〉主。美濃三人衆の一人安東守就の女婿。俗説で ↓かぐや姫 〈中根猛彦〉臣阿部御主人、大納言大伴御行、中納言石上 ロコシにつくこともある。 まろ 平安時代の物麻呂の五人は熱心であった。そこで姫はこの五回阪倉篤義校注『竹取物語』 ( 『日本古典文学大は領土欲なく、軍師に徹した人物と評される。 竹取物語たけとりものがたり たつおき 系 9 』所収・一九五七・岩波書店 ) ▽岡一男著初め斎藤龍興に仕える。一五六四年 ( 永禄七 ) 語。一巻。『源氏物語』には「かぐや姫の物語」人の貴公子に対してそれそれ、仏の御石の鉢、 いなばやま たまつばくらめ ほうら、 ひねずみかわぎめたっ よもぎう おきな えあわせ 『竹取物語評釈』 ( 一九夭・東京堂 ) ▽片桐洋義父守就とともに龍興の居城稲葉山城を奪取し ( 「蓬生」 ) 、「竹取の翁」 ( 「絵合」 ) とあり、蓬 ~ 來の玉の枝、火鼠の裘、竜の首の珠、燕 こやすがい 一校注・訳『竹取物語』 (r 日本古典文学全集たが、すぐ龍興に返した。龍興没落後は織田信 「竹取翁物語」と題した写本もある。成立時の子安貝を持ってくるように難題を課す。五人 とよとみ 8 』所収・一九七一一・ 小学館 ) ▽野口元大校注長に仕え、豊臣秀吉に付属、秀吉麾下では智 は姫の要求にこたえようと苦心をするが、結局 に人や絵戸 雲天ぐ良江 『新潮日本古典集成竹取物語』 ( 一九七九・新潮将、謀将として重んじられた。秀吉の諸戦の勝 すべて失敗に終わる。最後に帝が姫を求めて勅 らたか奈 かき 社 ) ▽藤岡忠美著『竹取物語』 (r 鑑賞日本利は半兵衛の策によるところ大であったが、七 使を遣わすが、姫はそのお召しにも応じず、養 おうな 空ててる語 九年 ( 天正七 ) 秀吉の磨 ( 兵庫県 ) 平定戦に の古典 4 』所収・一一・尚学図書 ) い親の翁や嫗の嘆きをあとに、不死の薬と手紙 つれす物 語下ら天取 参加した際、三木城攻囲の陣中で六月一三日病 たけとんば竹をプロペラ状に削 を残して、八月十五夜、天人に迎えられて月の竹とんほ 物てえ昇竹 って、その羽根の重心部に軸をつけた飛行玩死した。三五歳とも三六歳ともいう。子孫はの 取っ迎は「期世界へ昇天してしまう。 竹乗に姫本前 たん 〈谷口研語〉 物語の枠組みには、天人女房譚、求婚難題説具。竹軸を両手のひらでぐるぐる揉み回し、そち竹中流軍学をおこした。 たけなみよこあなばぐん福岡 話、地名起源説話など多くの伝承説話の型を用の反動で羽根を回転させ、飛ばして遊ぶ。江尸竹並横穴墓群 みやこ きようまう 県行橋市竹並にある古墳時代の横穴墓群。京都 時代、享保年間 ( 一七一六 ~ 三六 ) の発生ともいし 、現実的な貴族の求婚や帝の求愛物語を主軸 あんえい 一説には、安永年間 ( 一七七一一 ~ 〈 l) に平賀源内が平野南部の低い丘陵地帯にあり、一九七四年 として、自在な想像力により、整然たる虚構の ( 昭和四九 ) から七六年にかけて発掘調査が行わ 一世界を構築しており、空想と現実とが巧みに調考案したともいう。明治以降も手製で遊べるの 和され統一された傑作となっている。文章は簡で子供に愛好され、小学校の工作時間などにもれ、九四八基の横穴墓が発見された。このほか 潔で力強く、処々に漢籍・仏典を援用し、知的登場している。小物玩具としても商品化され、調査以前に破壊された横穴墓、末調査のものを ・一つけい な一一 = ロ語遊戯を楽しみ、滑稽風刺をきかせつつ、明治三〇年代からプリキ製も現れた。軸の先が含めると総数一〇〇〇基以上の大横穴墓群が存 貴族社会への批判意識をうかがわせる一方、人二またになっていて羽根だけが飛ぶものがあ在した。竹並横穴墓群の調査では、これまでの 小規模な発掘で解明できなかった、横穴墓の群 り、これには四枚羽根の周りに輪をつけたもの がある。縁日の露店などでも売られているが、 のに・か 期面・具 第二次世界大戦後はプラスチック製のものも出 後各玩 代のた 〈斎藤良輔〉 回っている。 時対し社 ( 一九 0 四 —<ll) 詩人。本 戸一行神竹中郁 かんせい 江籠流室 を灯ろ氷名育三郎。神戸市生まれ。関西学院大学英文科 れ石こ に学ぶ。一九二四年 ( 大正一 lll) 『日本詩人』 まの良 刻形奈 ( 新詩人号 ) で詩壇に登場。海港詩人倶楽部を . 月亠 / る 結成。詩誌『羅針』を編集。『詩と音楽』『近代 紋風景』で活躍。二八年 ( 昭和三 ) 渡欧。二年間 ( 年れ に及ぶバリ生活でモダニズムの美と思想を満喫 よば んん ~ し、とくに・コクトーや・レイと芸術的交 0 ・ ) / 彡 中 9 一 とと 竹 0 竹竹孚 こノネ・ポエムを発表 遊を結ぶ。『詩と詩論』し、、 ~ こなギ一 がん みの ぞうげ

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ぞうせん 造船業 〔図 A 〕世界船種別竣工量の推移 ( 単位 : 千総トン ) ロ 石油タンカー 1971 年 「コ 兼用船 ( 鉱石などのはら積み 船を含む ) 貨物船 コンテナ船および液化ガス 運搬船 その他 ( 作業船 , クレーン 船等と 100t 以上の漁船 ) 一三ロ 2 059 939 7 936 10 454 1 384 34 203 2 776 6 248 22 725 1975 1 070 27 532 4 計 1 0 222 9 044 1 977 1 073 1 3 1 01 2 243 2 945 1 275 0 3 943 1 8 334 1 562 3 2108 9 404 1 8 157 38 5 1 735 2 739 9 020 注 : 1972 年から船種区分が変史された。ロ イド統計および日本造船工業会資科より 作成 34 000 1 0 000 30 000 20 000 0 〔表 1 〕主要造船国の進水高推移 ( 単位 : 万総トン ) その他諸国 日本 日本の AWES 諸国 世界合計 シェア 台・う弯 韓国 小計うちアメリカ フラジ丿レ 小計うちイギリス ス・べイン 西ドイ スウェーテン フランス ツ 22 * 44 1950 年 16 35 349 10 . 0 133 35 17 7 33 53 1955 532 432 147 93 15 . 6 109 49 133 110 59 1960 836 173 20 . 7 554 27 1 222 48 117 128 1965 43 . 9 558 107 102 536 96 171 93 209 34 1970 2 169 48 . 3 913 124 169 1 048 252 157 354 89 4 1973 3 152 1 230 102 198 113 1 567 49 . 7 246 164 424 100 44 1975 3 590 1 368 130 255 130 1 799 50 . 1 77 48 52 343 1979 1 179 61 38 72 432 36 . 6 404 252 23 18 557 18 1984 1 773 276 53 941 53 . 1 デンマーク , スペイン , 注 : AWES は The Association of West European Shipbuilders : 西欧造船工業会の略で , イギリス , 西ドイツ , スウェーデン , フランス , オランダ , イタリア , ノルウェー ベルギー , フィンランド、ホルトガル , ギリシアの 13 か国。ただし , キリシアは 1980 年まで AWES に算入されていない。 * 印は 1951 年の数値である。数字はロイド統計による 〔表 2 〕タンカー大型化の推移 〔表 4 〕日本の造船所の工場数 , 従業員数および竣工実績の急減 ( 1973 年 12 月と 85 年 12 月 ) 完成年 船名 造船所名 従業員数 ( 人 ) 建造量 ( 竣工 ) 重量トン 工場数 社外工 隻千総トン 事務員 技術員 常用 合計 臨時工 PETRO KURE NBC 呉 1952 年 38 021 労務員 PHOENIX NBC 呉 1954 44 633 SINCLAIR PETROLORE NBC 呉 鋼造船工場 1955 56 089 UNIVERSE LEADER NBC 呉 1973 年 1956 85 515 UNIVERSE APPORO NBC 呉 1985 年 1959 114 356 佐世保重工 日章丸 増減率 ( % ) 1962 132 334 東京丸 石川島播磨 1966 153 685 木造船工場 石川島播磨 出光丸 1966 206 005 1973 年 328 376 493 2 043 361 3 273 217 1 068 UNIVERSE KUWAIT 雀 石川島播磨 1968 326 848 1985 年 172 276 351 1 146 154 1 927 212 1 587 石川島播磨 日石丸 1971 372 400 増減率 ( % ) ▽ 48 ▽ 27 ▽ 29 ▽ 44 ▽ 57 ▽ 41 ▽ 2 49 石川島播磨 1973 グロプティックトーキョー 484 000 注 : 建造量は 1 ~ 12 月の年計。その他は 12 月末現在。 1985 年の 「木造船工場」には強化プラスチック船を含む。▽は減少。 注 : 「 NBC 呉」とは , 戦前の呉海軍工廠を第 2 次世界大戦後 . アメリカの 連輸省「造船造機統計月報」による National Bulk Cargo 社が借用した造船所で , 後に石川島播磨造船に 合併。日本造船工業会資科による ・ー人 1 ・人、ー人 593 26 258 649 11 011 9 ▽ 58 14 734 8 906 ▽ 40 82 610 2 137 41 007 1 218 ▽ 50 ▽ 43 171 048 92 594 ▽ 46 4 858 926 ▽ 81 108 544 59 144 ▽ 46 31 388 21 503 ▽ 31 -8 -0 一 -0 〔表 5 〕世界造船所別進水実績順位 ( 1973 年 ) = 千隻 , トン数 = 百万総トン ) 〔表 3 〕世界船種別船腹量の推移 ( 単位 : 隻数 船種別構成比 その他 オア・ノヾ丿レク・ 進水量 世界合計 造船所 国名 石油タンカー ( 貨物船等 ) ( 万総トン ) キャリアー その他 石油タンオア・バ 日本 隻数 総トン 1 三菱重工業・長崎 隻数 総トン 194 隻数総トン 隻数 総トン ルク・キ 2 石川島播磨・呉 日本 100 ャリアー 日本 3 川崎重工・坂出 90 4 三井造船・千葉 日本 82 5 KOCKUMS ・ MALMO スウェーデン 6 日本鋼管・津 日本 73 7 ODENSE デンマーク 70 8 佐世保重工・佐世保 日本 62 9 日立造船・堺 日本 61 10 住友重機・追浜 日本 59 注 : 船舶輸出組合資科による 「 / っ 0 っ 0 26 74 . 1 28 . 9 12 86 . 6 34 35 . 2 25 45 54 . 9 112.1 35 64 . 2 142 . 9 オア・オイル兼用船を含む。 ・オイル兼用船 , ′くノレク (. 0 っ 0 ・ 0- 《 0 00 戸 0 「 / 《 0 26 . 5 100 . 6 1955 年 32 . 5 55 . 0 18 . 8 160.4 1965 41 . 9 91 . 7 168 . 2 372 . 0 1976 65 . 9 128 . 3 147 . 5 1984 76 . 1 418 . 7 バルク・キャリアー 注 : オア・パルク・キャリアーには , オア・キャリアー ロイド統計および日本造船工業会資科による 各年とも 6 月未現在の数字。

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リアとの結び付き強化など、姑息な事変処理策によって戦争 は、第一次大戦後の東アジア史の重要な特徴であった。この たいへいようせんそう 太平洋戦争 時期に太平洋戦争の一因である日米対立も発展した。日露戦の行き詰まりを打開しようとした。その一方、南方に進出し 戦争の起源 / 英米との対立激化 / 戦争への突入 / 戦争の争後、満州問題、日本人移民排斥問題などをめぐり日米関係て戦争を継続するうえで必要な石油その他の資源を獲得しょ うとして戦線をずるする拡大し、太平洋戦争の悲劇に帰結す は悪化していた。とくに第一次大戦中の日本の強引な大陸進 経過 / 戦争の終結 / 戦時下の国民生活 / 戦争の指導体制 出は、アメリカをはじめとする列国の反感を買っていた。戦るのである。 と戦争責任 / 戦争の結果 / 終戦の詔勅 後アメリカが極東市場に復帰すると、対立は軍事的にも発展〔英米との対立激化〕他方、このような日本の動きは、列国 との対立をいっそう激化させた。満州事変は中国の提訴によ 一九四一年 ( 昭和一六 ) 一二月八日、真珠湾攻撃、日本のし、両国間の海軍軍備拡張競争が深刻となった。アメリカは ~ 二二年にワシントン会議を首唱して、軍縮条約をつて国際連盟の問題となったが、一九三三年 ( 昭和八 ) には アメリカ、イギリスへの宣戦布告で始まり、四五年九月二 日、日本の降伏文書調印によって終わった戦争。日本の指導成立させるとともに、九か国条約によって、アメリカの主張日本は連盟を脱退する一方、三六年の日独防共協定 ( 翌年イ する原則である門戸開放・機会均等などを中国進出の原則とタリアが加入 ) の締結を機として、独伊とともに枢軸陣営結 者層は大東亜戦争と呼称した。一九三一年 ( 昭和六 ) の満州 事変に始まる日中十五年戦争の発展であり、日中戦争を重要して認めさせた。また四か国条約と引き換えに日英同盟は廃成に向かった。アメリカは満州事変に際し、日本の侵略の結 な一部として含む。また世界的には第二次世界大戦の一部で止され、山東省の諸権益も中国に返還された。ワシントン体果に対し不承認を表明したが、やがて三三年にはソ連を承認 あり、その重要な構成要素であった。第二次大戦はファシズ制は、経済的に優越したアメリカの指導権の下に日本の中国し、日本に対抗する新しい勢力均衡を東アジアにつくりだそ うとした。日本がロンドン軍縮会議から脱退した三六年から ム諸国を中心とする枢軸陣営と反ファシズム連合国との間で進出を経済的分野に限り、またその活動範囲を西太平洋に限 定して極東での列強対立の緩和と帝国主義支配の安定化を図は、日米の建艦競争が無制限に行われることになった。日中 戦われたが、日本は日独伊三国同盟によってドイツ、イタリ 戦争の開始は、英米と日本との関係を緊張させ、三七年一〇 アと結び付いていたので、枢軸陣営に属した。三国同盟は一ろうとするものであった。 ワシントン体制の下で、列国との協調、中国内政不干渉を月にはルーズベルト米大統領が、侵略者を隔離すべきだと演 面では植民地分割協定であり、その面からいえば、戦争は世 しではら 界再分割のための帝国主義戦争であった。日本の軍事行動掲げる幣原外交が行われ、一九二〇年代の日本の外交は、ほ説するまでになった。しかし英米は、中国に対する具体的な は、中国を中心に東アジアから東南アジア、太平洋地域一帯ば米英との協調派の主導下にあった。しかし中国における国援助には慎重であった。一方、日本の膨張にはソ連に対抗す ちょう・」ほう に対して行われたが、日本の占領地域の民衆が抗日のための民革命の発展、金融恐慌、世界恐慌の波及に伴う昭和恐慌なる一面もあり、三八年に張鼓峰事件、三九年にはノモンハン 民族的な統一戦線を結成し、武装抵抗を行ったのもこの戦争どの内外情勢は、中国大陸への膨張と対米英抗争を主張する事件と日ソ間に大規模な武力衝突も起こった。そこでソ連 の大きな特徴で、そのため太平洋戦争は、アジア諸民族の側勢力の急激な台頭を招いた。二七年 ( 昭和一 l) に成立した田は、中国の抗日戦に対し当初から積極的な援助を行った。し ぎいち からは帝国主義の植民地体制を打破する重要な契機となつ中義一内閣の対華武力干渉政策はその最初の現れであり、太かし英米の一部には、日本の侵略がソ連の方向に向かうこと た。戦争末期にはソ連も参戦し、その結果、戦後の東北アジ平洋戦争を侵略戦争とし、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判を期待する空気もあり、日本に対抗する列強の連係は不十分 アでソ連の影響力が強化されるに至った。 ( 極東国際軍事裁判 ) は、日本の侵略計画の発端をこの内閣であった。日本の側でも、重要な戦争資材の供給を英米、と くにアメリカに依存している関係上、英米関係を重視する勢 〔戦争の起源〕太平洋戦争は、明治以来の日本の近代化の総の対華政策に置いている。三一年の満州事変も、軍部を中心 決算ともいうべき深い歴史的根源をもつ大戦争であった。日 とするこの勢力の始めたものであった。 力が宮廷や財界をはじめ支配層の有力な部分にあった。しか につしん からふと 満州事変は、一五年に及ぶ中国侵略戦争の発端となった。 し日本の占領地域と戦線が拡大するにつれて、英米の在華権 本は日清・日露戦争によって台湾、朝鮮、南樺太を植民地と し、南満州 ( 中国東北 ) を勢力範囲化して、アジアにおける同時に国内では、軍部の「革新派」を中心とするファシズム益は大打撃を受け、商品や資本も中国市場から後退した。対 唯一の帝国主義国として自立するに至った。さらに第一次世運動の進展するきっかけとなり、軍部はしだいに政治の指導立が深まるのは不可避であり、英米の対華援助もしだいに強 さんとう 界大戦では、ドイツ領南洋諸島と中国の山東半島を占領する権を握っていった。「満州国」建設後、軍部はさらに「防共」化された。三九年になると、イギリスはヨーロッパ情勢の急 とともに、中国に二十一か条要求を突き付け、山東省のドイを大義名分とする華北分離工作を進め、華北に勢力を扶植し迫から、その対華政策を後退させざるをえなかったが、それ ッ旧権益の継承などを認めさせた。また、ロシア革命後の一 ていったので、中国では華北を中心に抗日救国の動きが全国はかえってアメリカの対華政策を積極化させる契機となり、 せいあん 九一八年 ( 大正七 ) にはシベリアに出兵して、東シベリアに に広がっていった。その結果、西安事件 ( 一九三六年一二日米対立がいまや前面に現れることとなった。アメリカはこ かいらい 傀儡国家を樹立しようとした。戦後のベルサイユ会議は山東月 ) を契機に、三七年九月国民党と共産党の提携 ( 第二次国の年七月、日米通商航海条約の破棄を通告し、いつでも戦争 に対する日本の要求を認めたが、これに反発して中国では共合作 ) が成立し、抗日民族統一戦線が結成され、全民族的資材の対日供給を停止して、日本を圧迫できる体制をとっ ろこうきよう た。このような国際関係の緊迫のなかで、防共協定を強化し 五・四運動が起こり、シベリア出兵も頑強なソビエト側の抵な抗戦体制が初めて成立した。この年七月の蘆溝橋事件に 抗によって失敗した。朝鮮でも独立を要求する三・一独立運始まる日中間の全面戦争が長期化し、三八年末ごろから戦線て三国軍事同盟を締結しようとする動きも発展した。その推 こうちゃく が膠着していった最大の理由は、このような中国側の主体進力であった陸軍は対象国としてソ連を考えていたが、八月 へ動が起きた。 日本の大陸侵略が、朝鮮や中国の民衆の持続的な抗日運動的状況の画期的な転換にあった。日本の支配層はこのような 独ソ不可侵条約の成立によって実現を阻まれ、無為無策のう ばつばっ オの展開やソ連の強国化によって停滞をやむなくされたこと情勢を認識できず、国民党政府の切り崩しや、ドイツ、イタちに第二次大戦の勃発を迎えなければならず、このころには 533

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そびえと 教育 個々人のもつ知的・肉体 , - 、 的能力を最大限に発展さ せつつ , 社会主義建設に 役だつ人材を育成するこ とが , ソ連の教育の究極 の目標である 〔左〕スポーツ学校で新体 操のトレーニングに励む ー女生徒たち ( レニングラ 〔右〕科学技術を習得する ための実習を受ける高校 生たち ( モスクワ ) 要参、 4 ーンー 4- 4 は秘密協定を含むもので、中国の服属と英米の 時代にはオランダが、幕末から日露戦争までは 日本との関係 中国進出の阻止をねらった軍事同盟であった。 イギリスが、そして第二次世界大戦後はアメリ 〔ロシア革命から第ニ次大戦まで〕一九一七年 〔帝政ロシアと日本〕ロシア人が日本について力が第三国として介在し、強い影響力を両国間 十月革命によってポリシェビキが政権を獲得 に行使してきた。 最初に情報を得たのは一三世紀後半、元のフビ し、ドイツと単独講和を結んで戦線を離脱し 一八五三年 ( 嘉永六 ) 、アメリカの。ヘリーが ライ・ハンのもとにおいてであった。その後一 た。これに対し日本は米・英・仏などの連合国 六三七年にフランドルの地理学者メルカトルの浦賀に来航した一か月後、三回目のロシアの使 『地図帳』がロシア語に訳され、そのなかにヤ節プチャーチンが長崎へ来航し、通商と国境のとともに干渉戦争を開始した。日本の派兵は七 画定を申し入れた。その結果一八五五年 ( 安政万余、期間も一九一八年八月から一三年一〇月 ポーニヤ ( 日本 ) の地図と簡単な記事が現れた。 しもだ に及び、連合国のなかでも最大の規模であっ (l) 二月七日「日露通好条約」 ( 下田条約 ) が 一七世紀の末にカムチャッカ半島を探検した えとろふ コサックの隊長アトラーソフが、原住民の集落結ばれ、日露の国境は択捉島と得撫島の間に決た。この間一九二〇年には尼港事件が起こり、 からふと で大坂出身の漂流民デン。ヘイ ( 伝兵衛 ) を発見まったが、樺太 ( サハリン ) については双方の当時ソビエト政権を承認していなかった日本 し、日本と千島に関する情報を得た。この報告意見が折り合わす、国境を定めす両国民雑居のは、事件の交渉相手がいないことを理由に、一 えのもとたけあき に接したピヨートル大帝はデンべイを招いてそ地とされた。明治維新後、新政府は榎本武揚を九二五年五月まで北樺太の保障占領を続けた。 一九二四年にまずイギリスがソ連政府を承認 ロシアに派遣し、一八七五年 ( 明治八 ) 「千 の話を聞いた。日本に関心を抱いたピヨートル はデンべイに、ロシア語を習ったうえで日本語島・樺太交換条約」を締結。その結果、全千島し、続いてイタリア、フランスもこれに倣った が、日本も一九二五年に「日ソ基本条約」を結 列島が日本領に、樺太全島がロシア領となった。 を教授するよう命じた。 はこだて ロシア政府は一八五八年 ( 安政五 ) 箱館 ( 現んで国交を回復した。 ロシア人が日本の北辺に渡来するようになっ はこだて 一九三二年 ( 昭和七 ) の「満州国」建設後、 たのは一八世紀の後半からである。このときか在の函館 ) に領事館を開設し、領事館付属の一一 ら日本とロシアは隣国どうしと代目司祭としてニコライが着任した。彼は一八関東軍の勢力は年を追って増大し、ソ・満国境 ちょうこはう するがだい なった。一七七八、七九年 ( 安七二年 ( 明治五 ) に上京し、神田駿河台に復活において一九三八年に張鼓峰事件が、三九年に 永七、八 ) の二度にわたって、大聖堂 ( ニコライ堂 ) を建てるとともに、七年ノモンハン事件が発生、日本車は大敗した。 うるつぶ 一九三九年八月ナチス・ドイツはソ連と不可 ロシアの毛皮商人が得撫島から 制の正教神学校を開設して、伝道と教育に努め 北海道の東部にやってきて交易た。その結果一八八〇年には日本全国で教会数侵条約を結び、その一週間後にポーランドへ侵 を申し入れた。しかし松前藩は六九、信徒数は六〇九九にまで達した。神学校入、第二次大戦の幕が切って落とされた。翌年 このえ こにしますたろうのばりしょむ 幕府にこの事実を知らせず、交卒業生のなかからは小西増太郎、昇曙夢、瀬一〇月、近衛内閣はドイツの提案にのって日独 ぬまかよう 易の申し出を拒絶した。仙台藩沼夏葉といったロシア文学の翻訳家や山下りん伊三国同盟を結んだ。ついで一九四一年四月に くどうへいすけ は松岡外相がスターリンと会談して、「日ソ中 医工藤平助は、蝦夷地のロシア のような聖像画家が現れた。ロシア文学は一八 ふたばていしめい 人に関する風聞とオランダ語で 八一年に二葉亭四迷がツルゲーネフの『あひび立条約」が締結された。その直後に独ソ戦が始 まったが、日本の軍部のなかには対ソ侵攻論が 出版されたロシアの歴史と地理き』と『めぐりあひ』を翻訳出版したときから についての翻訳書をもとにして本格的に紹介されるようになった。とくに明治台頭し、七月から八月にかけて七〇万の兵を動 『赤蝦夷風説考』上下 ( 一大一、 三〇年代からはトルストイ熱が流行し、一九一員して「関特演」 ( 関東車特種演習 ) が行われ た。これは対ソイ 乍戦準備行動であって、事実上 <IID を著し、蝦夷地の開発とロ 六年 ( 大正五 ) には全集や、月刊の『トルスト 日ソ中立条約を侵犯するものであった。 シアとの貿易を説いた。 イ研究』が発行されるまでになった。このほか 〔第ニ次大戦後〕日本がソ連と国交を回復した ついでロシアは一七九二年ドストエフスキー、チェーホフ、ゴーリキーな のは、戦後一一年たった一九五六年 ( 昭和三 ( 寛政四 ) に最初の遣日使節アどの作品も次々に翻訳され人気を博した。 はとやま 極東における日本とロシアの対立はついに日 一 ) のことである。この年一〇月鳩山首相がソ ダム・ラクスマンを、一八〇四 年 ( 文化一 ) に第二回使節とし露戦争を引き起こし、一九〇五年 ( 明治三八 ) 連を訪問して「日ソ共同宣言」が調印された。 しこたん てニコライ・レザーノフを日本「ポーツマス条約」が結ばれた。これによって当初鳩山内閣は、歯舞・色丹島の返還をもって に派遣し、漂流民を送還したう樺太の北緯五〇度以南が日本領となった。また平和条約を締結することを考えていたが、この しげみつ えで通商を求めた。しかし鎖国この条約に基づき一九〇七年日露漁業条約が結年八月アメリカのダレス国務長官が重光外相に くなしりえとろふ 政策をとる幕府は二度ともこのばれ、これ以後、北洋の漁業権は国家権益とみ対し、もし日本が国後・択捉両島をソ連に譲る なされるようになった。 ならアメリカは永久に冲縄を占領し続けるだろ 申し出を拒否した。ロシア側 は、このような拒絶の裏には、 日露戦争後、日本は満州における権益を確保うといったところから、領土問題は棚上げにし 日本との貿易の独占をねらうオするために、ロシアとの接近を図った。その結て国交回復に踏み切ったのであった。 まんもう 日ソ間にはこれより五か月 ~ 印ー 」こ「日ソ漁業条 ランダが糸を引いているのでは果、満蒙地域における日露両国の勢力範囲を画 約」が結ばれていた。これにより、日ソ両国は ないかと考えた。事実、日本と定するために、一九〇七年から一六年に四回に ロシア ( ソ連 ) の間には、江戸わたって日露協約が結ばれた。第四回目の協約資源保護のため協同措置をとることと、年間の 2

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たいへ V 、 太平洋戦争 ⑤ 42 年 8 月ガダルカナル島に上陸したアメリ 力車に対し , 日本軍は食料もなくまた重火器 ① 1941 年 ( 昭和 16 ) 12 月 8 日 , 日本海軍はハ ももたすに白兵戦を挑み , 同島撤退までに約 ワイ真珠湾に奇襲攻撃を加え , アリゾナ , オ 2 万の戦死者を出した。その大半が餓死者で クラホマ , ウェスト / ヾージニア , カリフォル あった。写真は海岸をうすめる日本兵の遺体 ニアなどのアメリカ戦艦を撃沈した ⑥硫黄島では洞窟式陣地が構築され , アメリ ② 42 年 2 月 15 日 , 日本軍はイギリス領シンガポ ールを占領。この日から 3 月末にかけて 6500 カ軍の猛攻に抵抗した。 アメリカ軍は約 3 倍 人の華僑を逮捕 , うち 5000 人を処刑して戦後 の兵力と戦車など火力を投入 , 本土防衛線の 激しい国際的非難を浴びた。写真は中央郵便 一角硫黄島もついに陥落した ⑦沖縄での戦闘は日本国内で戦われた唯一の 局前を行進する日本軍 ③日本軍は占領後シンガポールを「昭南」と 地上戦で , 日米軍双方合わせて 10 万人以上の 死者を出したが , それ以上に悲惨だったのは 改称 , 日本化政策を急速に進めるとともに 住民への被害で , 死者十数万を数えている 南方占領行政の拠点とした。写真は「昭南特 ⑧ 45 年 8 月 6 日午前 8 時 1 5 分 , アメリカ軍は 別市」のビーチロード。 43 年 2 月 ④ミッドウェー海戦で日本海軍は「赤城」など 人類史上初の原子爆弾を広島に投下 , 市街は 一瞬のうちに破壊し尽くされた。写真は爆心 ! 「戔 アメリカ水上機母艦「バ 主力空母を失った。 地に残る原爆ドーム ( 旧広島県産業奨励館 ) ラード」に救助された空母「飛龍」の乗員 以を 0 クト 鳳米 」日水歳 念紀年巡をま島良 第、物 冫第 ⑨ 41 年小学校は国民学校となった。国民学校には軍事教 練という課目はなかったが , 体練 ( 体育 ) の時間に似た ようなことをした学校もあった。写真は天皇皇后両陛下 の写真や勅語・詔書の写しを納めた「神聖」な奉安殿の 前を行進する東京・中目黒国民学校の生徒たち ⑩ 42 年初夏から隣組を通して防空・防火訓練が盛んに行 われた。写真は防毒面をつけた , 毒ガス弾に対する訓練 ⑩ 45 年 3 月 10 日午前 O 時 8 分 , 深川地区に始まった東京 大空襲は , 40k 帚を焼き尽くし , 罹災者約 100 万 , 死者約 10 万人を出した。写真は炭化した死体が折り重なる本所 付近 ⑩たび重なる空襲に家を焼かれ , 行くあてのなくなった 人たちは , 古いバス・電車などを改造したり , 仮小屋を 建てて住んだ 535

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きんてい せんのそうしつ ずいせつ に欽定された。これが大日本帝国憲法であり、 ま高司令部 ) の覚書で解散。性格は変わったが、堺に工場を建設する。六四年、三菱商事と契千宗室の高弟前田瑞雪について茶道を学び、 えんのうさい 一度も改正されることなく、第二次世界大戦 さらに円能斎千宗室より皆伝を受けた。学会の こ同党の流れをくむ戦後右翼に、五四年結成され約して国内販売体制強化を図るが、他部門への た大日本生産党 ( 現総裁鴨田徳一 ) と、吉田益進出が遅れて七一年ころから経営が悪化し、七創設とともに初めての茶道機関誌『茶道学誌』後、新憲法「日本国憲法」の施行 ( 一九四七年 そうきよう とえん 三が五六年に組織した国民同志会 ( 現会長吉田〇年代後半から再建に入る。その後、八四年初を発刊。また浅田宗恭、野崎兎園について五月三日 ) 前日まで存続した。 なんばうろく 〈大野達三〉め大日本製糖は解散し、社名、営業権を譲り受『南方録』を究め、『茶道講義録』をはじめ多く〔明治憲法の構造と特質〕実質的意味の明治憲 尚正 ) がある。 回木下半治著『日本のファシズム』 ( 一九七七・国けた新しい大日本製糖 ( 株 ) が設立された。資の書を著した。その後、一九一〇年 ( 明治四法は、大日本帝国憲法と皇室典範 ( 憲法と同時 三 ) に東京で改めて学会を再興し、茶法の秘伝 に制定 ) に分かれ、いすれも等しく最高の成文 書刊行会 ) ▽大日本生産党編『生産党の記本金一〇億円 ( 一九会 ) 。↓藤山雷太〈田付茉莉子〉 だ、にほんちめいじしょ士ロ 公開を行って茶道界に新風を送った。現在の会法とされたから、成文憲法は二つあることにな 録』 ( 一九五一一・民族公論社 ) 大日本地名辞書 せんおう ふぎん 〈筒井紘一〉 る。したがって、いっさいの成文法もそれに従 だいにほんせいじかい太平洋田東伍著、日本地名の最初・最大の辞書。冨山長は三代目の仙翁。 大日本政治会 ひでき 、、こ、にほんていこくけんば , っ って政務法と宮務法に分かれた。形式的意味の 戦争末期の政治団体。略称日政。東条英機内閣房発行。一九〇〇年 ( 明治三一一 l) 三月第一冊上大日本帝国憲法 一八八九年 ( 明治一三 ) 二月一一日に制定・公憲法、すなわち大日本帝国憲法は、上諭および の総辞職を契機に翼賛政治会の結束力が弱まを刊行。〇七年八月に第五冊下に至るまで一三 り、一九四五年 ( 昭和二〇 ) 二月には脱会者が年を費やして完成。通巻五一八〇ページ、各説布され、翌九〇年一一月二九日に施行された日七章七六条からなり、簡潔で、かなり弾力性が はんろん あった。それゆえに権力的支配が乱用される可 続出し、三月彼らは翼壮議員同志会、護国同志部 ( 地名部 ) 四七五一一ページ、汎論・索引部四本の憲法典の正式名称。通称、明治憲法あるい 能性を内包していた。帝国憲法は、その範型と 二八ページ、日本全域の約四万地区を対象とすは旧憲法ともよばれ、一九四七年 ( 昭和二一 D 会という一一つの院内交渉団体を結成した。こう したドイツ立憲君主制の場合と同じく、自由主 る。全国を道、国、郡の順に配列し、各郡内は五月二日まで存続した。 した状況に対応するため、翼賛政治会主流派は わみようしよう 〔制定の経緯〕徳川封建体制を解体した明治政義、民主主義の理念と、天皇制絶対主義の妥協 新党結成に踏み切り、三月三〇日大日本政治会また『倭名鈔』の「郷」に分けて説述してい る。郷は古代・中世の開発地域としてまとまり府は、政府に不満をもっ士族たちの自由民権運として生まれたものであるが、その根本規範的 を結成、総裁に南次郎 ( 陸軍大将 ) 、幹事長に 動に突き上げられて、憲法の制定に熱意を示す部分である国体規定の第一条、および政体規定 松村三、総務会長に光庸夫が就任した。そをなすことによる。 本書は「地名辞書」と題しているが、その内ようになり、一八七六年 ( 明治九 ) 九月元老院である第四条に加えられた注釈により、強い神 の結果、六月の第八七議会召集日の議席数は、 に草案起草を命じた。こうして、憲法制定の第権主義的色彩を帯びている。 容は巻頭の序言にみられるごとく「地誌」であ 日政三四九、護国同志会三一、翼壮議員同志会 民主的要素としては、政府に対するコントロ 一歩が踏み出された。元老院は、国憲取調委員 一三、無所属二六、欠員三八となり、翼賛議会り、地名を索引しやすい体裁をとっているので ぎれつ ールが弱いながらも議会が設置され、君主の専 に亀裂が入った。その後日政はみるべき活動を地名辞書としたのである。その記載は歴史地理を設けて、各国の憲法を参照し、同年一〇月 けんあん 断防止のため大臣助言制を採用し、司法権の独 「日本国憲按」第一次草稿を作成、さらに七八 に重点を置いており、著者も序言でそれを述べ しないまま、敗戦後の九月一四日解散した。↓ 〈木坂順一郎〉ている。このことは、本書がまた日本歴史地理年第二次草案をつくった。これはベルギー憲法立の原則を確立し、臣民の権利を規定するなど 翼賛政治会 の点があげられ、それが封建社会の近代化に貢 学の先駆書とされるゆえんでもある。その記載などの影響を強く受けて、民主的な色彩の濃い 回大木操著『大木日記』 ( 一九六九・朝日新聞社 ) ともみ ものであったから、岩倉具視らの強い反対を受献した。さらにその後の憲政史にみられるよう 野、津、潟、寺社、 ▽中谷武世著『戦時議会史』 ( 一九七四・民族と内容は、郷内の山、ー、 じようし け、再修正されて、八〇年「日本国憲按」 ( 第に、二回の憲政擁護運動の成果として大正デモ 島、谷、滝、城址等と主要村落の起源、耕地 政治社 ) クラシー、政党政治の開花に大きく寄与してい たいにほんせいとう近代的 ( 田数 ) について説いている。それらの史・資三次確定案 ) として奏上されたが、採用されな 大日本製糖 ( 株 ) しぎ りつ - 一くし 製糖業の先駆。正しくは「だいにつばん ~ 」。料としては六国史をはじめ中央的史書、地方かった。このころ、民間にあっても私擬憲法る。しかしながら他方、天皇主権の原理にた そうらん とう」ぶろう ち、統治権の総攬者として大きな権能が天皇に ( 私人のつくる憲法草案 ) が盛んに提出された。 誌・地方名跡志等にわたり、精細を尽くしてい 八三年 ( 明治一六 ) 鈴本藤三郎 ( 一会五ー一九 えもり なかでも植木枝盛の私案憲法「日本国国憲按」与えられた。独立命令、一連の緊急権が天皇の lll) の創業した鈴木製糖所を引き継いで九六年るが、自然や産業関係の記載は多いとはいえな はちすかもちあき などは急進的で、政府を大いに刺激したため、大権事項とされ、また枢密顧問制、貴族院の設 。また冒頭に日本歴史地理学会長蜂須賀茂韶 日本製精糖が設立された。一九〇六年 ( 明治三 しげのやす おおくましげのぶ たかし 九 ) 日本製糖を合併して大日本製糖と改称、台をはじめ大隈重信、原敬らの政界人、重野安政府も憲法制定の必要性を痛感し、国会開設ま置、軍の統帥権の独立などの反民主的要素が天 くめくこたけ 壌無窮の神話に基づく天皇の絶対性と結び付い 湾に進出する。翌〇七年大里製糖所を吸収、独繹、久米ル武ら学界人、渋沢栄一ほか財界人等でに憲法を制定することを宣明した。 こうした経緯ののち、明治憲法制定の歴史のて、日本の民主化を閉塞し、神権主義的政治構 占体制を築くが、内紛に加え〇九年の日糖疑獄二七氏から序文、推薦文等が寄せられている。 ひろぶみ ひん 事件で破綻の危機に瀕し、三井の藤山雷太が立もって各界・各層をあげての待望の名著であっ最後の幕は伊藤博文の渡欧によってあけられ造をつくりあげていった。こうした憲政の歩み は、そのまま大日本帝国憲法の特質とその歴史 〈浅香幸雄〉た。彼はドイツの法律学者グナイストやシュタ て直す。一四年 ( 大正三 ) 名古屋精糖、一九年たことが知られる。 朝鮮精糖、二三年内外精糖を合併してジャワ回吉田東伍著『増補大日本地名辞書』全八巻インの教えを受けて、ドイツ諸邦、とくにプロ的役割を物語るものにほかならす、こうした神 はっ - 一ういちう ぎせつ イセンの立憲君主制に日本国体に適合する政治権主義のたどり着いた「八紘一宇」運動の挫折 ( 一九六九 ~ 七一・冨山房 ) ( 現インドネシア ) 糖業に進出、さらに金融恐 にいた・つ ご、にほんちやどうがっかい こそ、帝国憲法の命運を端的に表現したものと 組織をみいだした。帰国後、彼を中心として、 慌後、東洋精糖、新高製糖などを吸収して内地大日本茶道学会 せんしよう いえよう。↓憲法↓皇室典範↓日本国憲法 精糖中心から台湾粗糖業へ移行、戦時統制が強近代になって田中仙樵によって新しくおこさ井上毅、金子堅太郎らが加わって最初の試案を ↓私擬憲法 〈池田政章〉 一八八〇年に作成、さらに八八年に確定草案を 化されると、四一年 ( 昭和一六 ) 台湾に本社をれた茶道流派の一つ。一八九八年 ( 明治三一 ) の創設以来、東京をはじめとする関東一円を中完成した。この間何回かの起案、修正は民間の回美濃部達吉著『憲法撮要』 ( 一九一一三・有斐閣 ) 移転、四三年日糖興業と改称する。 ▽家永三郎著『歴史のなかの憲法上巻』 心に、全国に組織を拡大している。仙樵 ( 天七五動きとはまったく無関係に秘密裏に行われ、絶 第二次世界大戦後、外地会社として連合国管 あまた ふくちゃま ー一九六 0 ) は京都府天田郡西中筋村 ( 現福知山対主義的政府の体質にあった案が作成された。 ( 一九七七・東京大学出版会 ) ▽『歴史公論六四 理下に入るが、一九四九年 ( 昭和二四 ) 大日本 げんげんさい しじゅん 号大日本帝国憲法』 ( 一九全・雄山閣出版 ) 製糖として再発足、門司工場に加えて横浜、市 ) に生まれ、二〇歳で京都に出て、玄々斎成案は枢密院の諮詢を経て、八九年二月一一日 はたん らいた 一・つい みつびし 498

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りつ・」くし 命名されて以後、修史事業は本格的になったとを奨励した。また農政活動では、全国の地主お 前身の内閣修史局以来、六国史に続く正史の編会支部、事業所ごとの単位産業報国会、とい , っ さっさそうじゅん せんはうみやけかんらん 纂を目的とし、その材料となる古文書・古記録ビラミッド型の組織に再編成されたのである。考えられる。佐々宗淳、栗山潜峰、三宅観瀾、よび地主組合を糾合し、当局に対して小作争議 あさかたんばく しゅうしゅう の調査・蒐集を行っていたが、一九〇一年大日本産業報国会は、一九四一年九月の勤労秩安積澹泊ら当時有数の学者を動員している。彰取締り励行、争議判決促進、小作法案の修正、 ( 明治三四 ) 二月の『大日本史料』刊行開始に序確立運動、同年一〇月からの勤労総動員運考館は光圀が引退後の一六九八年 ( 元禄一一 ) 米価政策の確立、農村負債整理などを陳情し 〈栗原るみ〉 続き、同年七月から、古代・中世の古文書の翻動、翌年一月からの生産力増強運動を指導するその大部分が水戸城内に移転され、以後、水た。 三、にほんしりよう日本史のも など、全力をあげて労働者の動員に努めたが、 戸、江戸の両地に置かれたが、第九代藩主斉昭大日本史料 刻である『大日本古文書』の出版を開始した。 っとも包括的で基本的な編年体の史料集。東京 『大日本古文書』は、正倉院文書を中心に、六八五福利厚生の分野での取り組みはまったく不十分 ( 烈公 ) 時代に江戸は廃止された。 ちよくせん りつ・一くし 中国の史記に倣って紀伝体の体裁をとった大学史料編纂所編。勅撰の国史である六国史 年 ( 天武天皇一四 ) から七八〇年 ( 宝亀一一 ) であった。また、四一年一一月に理事長に就任 ほんぎ おばたただよし 八七年 ( 仁和三 ) から明治維 までの奈良時代の文書を編年順に配列した「編した小畑忠良のもとで、数度にわたって本部機『大日本史』は、本紀七三巻、列伝一七〇巻、の後を受けて、 し じんむ ひょう しまづ こうやさん いわしみずはちまんぐう 年文書」、高野山、石清水八幡宮、島津家など構の改革、簡素化が図られ、財界人の発言力が志一一一六巻、表二八巻に、神武天皇から南北朝新の一八六七年 ( 慶応三 ) に至るまでの史料を の終期に至る歴史を記述している。光圀在世中政治史を中心に編年体にまとめたもの。日本史 諸家・諸寺社の所蔵文書を収めた「家わけ文強められていった。 一方、各事業所ごとの単位産業報国会は、戦は本紀と列伝が脱稿した程度で、志・表をあわ上の諸事件を年月日順に配列して、内容を簡潔 書」 一八五三年 ( 嘉永六 ) 以降の外交文書を にまとめた綱文を掲げ、そのあとに関連史料を 収めた「幕末外国関係文書」の三種からなり、争経済の悪化とともに、懇談会を通しての下意せて三九七巻、目録五巻が完成したのは一九〇 くろいたかつみ 六年 ( 明治三九 ) 水戸徳川家の手によるもので可能な限り網羅して収めている。政治史の流れ 黒板勝美、相田「一郎らの研究者が編纂に携わ上達という側面がしだいに後退し、戦意高揚の を知るにはもっとも基礎的な史料集で、年末に り、「編年文書」以外は現在も継続刊行中であ掛け声のもとに職場規律と勤勉を一方的に押しあった。『大日本史』の特色は史料を尊重し、 ぎっさい は雑載と称して社会、経済、文化、宗教などの る。↓家わけ文書↓大日本史料〈千々和到〉 付けるものとなり、労働者は離反していった。 京都、奈良、吉野、紀州方面をはじめ、中国、 、、こ、「ほ′ル、 , んギ、よ , つ一は , っ 敗戦が近づ くにつれて、労働者の勤労意欲が減九州、北陸の一部、東北地方などに館員を派遣関連史料を収めていて役だっ。また、死没記事 大日本産業報国会 に関連して編纂されている伝記史料も重要であ 労働者を戦争協力に動員することを退し、欠勤やサポタージュ、「オシャカ」 ( 不良し史料収集にあたらせたことである。また本文 りつ - 一く 目的として設けられた産業報国会の中央組織。品 ) などが頻発するが、産業報国会はほとんどでは「六国史」以外の史料については出典を明る。全体が一六編に分けられ、国家的事業とし 日中全面戦争下の一九三八年 ( 昭和一三 ) 七月それに対処しえなかった。一九四五年 ( 昭和一一記している。内容では三大特筆といわれるものて一九〇〇年 ( 明治三三 ) から出版が開始され た。鎌倉初期の第四編のみいちおう完了し、第 三〇日、協調会時局対策委員会第二専門委員会〇 ) 九月三〇日解散。機関紙誌に『産業報国新のうち、思想的に影響のあったのは、従来の常 一編から江戸初期の第一二編までは編纂・刊行 聞』『産報』『職場の光』『ちから』があった。識を破って南朝を正統としたことである。この が作成した「労資関係調整方策」の建議に基づ ↓近衛文麿内閣↓新体制運動 〈三輪泰史〉編纂事業を中心におこり、後世大成された学風中。一六五一年 ( 慶安四 ) からを収める第一三 き、大日本産業報国会の前身である産業報国連 盟が発足した。しかし、地方組織をもたず、単回芳井幸子著『産業報国会』 ( 『体系・日本現代を水戸学という。光圀と斉昭には「和文大日本編以下は末着手である。なお、末刊の部分につ そうらん いては『史料綜覧』一七巻が出版されており、 史 3 日本ファシズムの確立と崩壊』所収・ 史」の計画もあった。↓水戸学〈瀬谷義彦〉 位産業報国会の加盟も任意であったため、連盟 多少の誤りもあるが、研究上の手掛りを得られ は「労資一体」「産業報国」の理念を普及する 一九七九・日本評論社 ) ▽神田文人編『資料日回『大日本史』全一五巻 ( 一九二・吉川弘文館 ) ^ 黒田日出男〉 本現代史 7 産業報国運動』 ( 一一・大月書 ▽『大日本史』全一七巻 ( 一九一一九・大日本雄弁る。 役割を果たすにとどまり、産業報国運動の実際 ど、にほんせいさんとう一九 店 ) の指導は官憲が担うことになった。すなわち、 大日本生産党 、、こ、にほんじぬしキ、よ、つ力し 三一年 ( 昭和六 ) 六月に結成された全国的な国 一九三九年四月二八日、内務・厚生両省は知事大日本史 だいにほんし水戸第二代藩主徳川大日本地主協会 りようへい みつくに ないしは警視総監を会長とする道府県産業報国光圀 ( 義公 ) が、全国から多くの歴史家を招い 地主の全国的な連合組織。一九二五年 ( 大正一家主義政党。黒竜会の内田良平 ( 総裁に就任 ) ますぞう へんさん 連合会の設置を指示し、また警察の指導のもとて編纂した大部の日本史書。漢文体。全三九七四 ) 一〇月四日、地主組合の全国的結集を目ざと吉田益三が中心となり、同年一一月開かれた ほんちょうつがん に単位産業報国会が続々と結成され、同年中に巻、目録五巻。幕府の『本朝通鑑』と並んでして大阪で結成され、同地に本部をもつ日本農第一回大会には黒竜会、日本国民党など一九団 は会員数が二九九万人 ( 組織率は四三 % ) 、翌江戸時代の二大史書とされる。光圀が修史の志民組合と対抗した。前身は大日本興農会。実質体が参加。最初「大日本主義」を掲げていた くいたつお % ) 、四一年にはをたてたのは一六四五年 ( 正保一 l) 一八歳のと は近畿地方を中心とする中小地主の団体としてが、三二年一月急進愛国党 ( 津久井龍雄 ) や一 四〇年には四八二万人 ( 六六 0 とうぞう 部労働組合が加盟後、「金融寡頭政治の打破」 五四七万人 ( 七〇 % ) に達した。単位産業報国きといわれ、翌年から学者を京都方面に派遣しの性格が強い。初代会長は北田騰造で、二府八 など国家社会主義政策を採用。労働組合に働き 会は、職員層をも含む全従業員組織として事業て古書の収集を始めた。五七年 ( 明暦三 ) 二月県八六九九人を組織した。しかし西日本の小作 ふりそで ・」ま′一め かけて大日本生産党職業組合連合会などの下部 所単位に組織され、会長には社長が就任し、各振袖大火の直後、江戸の水戸藩駒込屋敷に史局争議鎮静化に伴い弱体化し、一九三三年 ( 昭和 を開き、修史事業を始めた。これが『大日本 組織をつくり、中小企業、借地借家人の組織化 役員にはおおむね職制が任命された。 八 ) 一月大日本農政協会に改組、地主団体から このえふみまろ 一九四〇年一一月二三日、第二次近衛文麿内史』編纂の始めである。ときに光圀は三〇歳、農業者の団体へと構成員の規定も変えたが、財や農民連動にも力を入れるなど、当時の右翼連 閣は、産報運動を新体制運動の一環に組み込むまだ世子の時代で、当然、初代藩主父頼房の許政難、幹部間の確執などのため同年一一月に解動のなかでは異彩を放っていた。三一年一二 月、国民社会主義ドイツ労働者党 ( ナチス党 ) ため、産業報国連盟を廃止して新たに大日本産しを得てのことであったろう。 散した。機関誌『農政時報』 ( 月刊 ) を発行。 しよう - 一う その史局が初めて彰考館と命名されたのは 業報国会を発足させ、その総裁には厚生大臣金 最盛期の一九二〇年代後半の活動内容は、顧から提携の申入れがあり、内田総裁が訪日した みつつねお ひらおはちさぶろう 問弁護士による法律関係の相談を中心とした争代表ドン・ガドと会見したことなども注目すべ 光庸夫、会長には平生釟三郎、理事長には湯沢一六七二年 ( 寛文一 (l) で、光圀四五歳、父の しん・ヘい 三千男がそれぞれ就任した。これによって、総跡を継いで藩主となってから一一年目にあた議指導と、関係諸官庁への陳情を主とする農政きであろう。しかし三三年の神兵隊事件で党幹 務、錬成、労務、厚生の四局構成の事務局をも る。これ以後、数名から一〇名程度だった史館活動であった。争議指導では、小作料請求や土部多数が逮捕されたことなどから運動は沈滞し った中央機関、道府県連合会を改組した道府県員は倍増し、のちに多いときは六〇名にも達し た。四二年解党して思想団体大日本一新会とな 地返還などの訴訟および地主による共同の小作 こいしかわ オ産業報国会、警察署管轄地域単位の道府県産報ているから、史局が小石川の本邸内に移されて料取立会社 ( 土地会社 ) 設立などの最強硬戦術り、四六年 ( 昭和一一一 ) 一月 ( 連合国最 かね よりふさ なりあき へんさん - : っ 6 ・れ っ