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検索対象: 日本大百科全書 14
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1. 日本大百科全書 14

第」国に 0 たばこ ノくッケ ージ ( 日本 ) HERO 1 トいしい R に 5 ′ E HADE FRC 当 ドい 0 一ソ円 6 : A ANDSWEETEST .ÅAPANESE CIGARETTES ! 第 100ACC0. MURAI BROS. 改 CO. ー ; いⅡ F.YOVO,JAPAN- 1895 年 ( 明治 28 ) 両切り 1 0 本 3 銭 ニを ! ー Ciga 「 ette; 工ア - ーシッフ。 1921 年 ( 大正 10 ) 包天中 ohak イ 1899 年 ( 明治 32 ) 口付き 20 本 3 銭 岩谷天狗 * M IJ R A ー S (_) ー GA R E T 丁 E S ′ U R ^ ー B 日 0 s. C 0. LiD. サンライス 1895 年 ( 明治 28 ) 20 本 4 銭 両切り S U N - R E 盟を又カ : 内四第 Z 製見井応を響式 - 気日 ヒーロー 中天狗 * 1899 年 ( 明 治 32 ) 50 本 口付き 8 銭 局貪專煙 敷島 1904 年 ( 明治 37 ) 朝日 コールデンノヾット 1904 年 ( 明治 37 ) チェリ 口付き 20 本 8 銭 1904 年 ( 明治 37 ) 1906 年 ( 明治 39 ) 口付き 20 本 6 銭 両切り 1 0 本 6 銭 両切り 1 0 本 4 銭 不ニ 1906 年 ( 明治 39 ) 口付き 20 本 1 0 銭 て ヤ 1930 年 ( 昭和 5 ) コノ、ク 1 0 本 40 銭 両切り みのり 1930 年 ( 昭和 5 ) 口付き 20 本 1 5 銭 なでしこ 1907 年 ( 明治 40 ) 国華 1910 年 ( 明治 43 ) 刻み 20 匁 1 0 銭 口付き 20 本 1 5 銭 光 1936 年 ( 昭和 11 ) 響 1932 年 ( 昭和 7 ) 桃山 1934 年 ( 昭和 9 ) 金鵄 バイプ 1009 90 銭 両切り 1 0 本 1 0 銭 口付き 20 本 1 0 銭 1940 年 ( 昭和 15 ) 両切り 1 0 本 9 銭 みのり 1941 年 ( 昭和 16 ) 鵬翼 1941 年 ( 昭和 16 ) 刻み 309 20 銭 両切り 10 本 15 銭 新生 ビース コロナ 1947 年 ( 昭和 22 ) 1952 年 ( 昭和 27 ) 1946 年 ( 昭和 21 ) 両切り 両切り 10 本 10 円両切り 10 本 40 円 1 0 本 40 円 注 : 名称 , 発売年 , 区分 , 数量 , 発売時の定価の順。 ホープ 1931 年 ( 昭和 6 ) 両切り 1 0 本 1 5 銭 0 則、 SevenStars を、ス一よ、フ 癶 : HOPE 1948 年 ( 昭和 23 ) 両切り 20 本 60 円 セプンスター 1969 年 ( 昭和 44 ) フィルター 20 本 100 円 ハイライト 1960 年 ( 昭和 35 ) 1957 年 ( 昭和 32 ) 20 本 フィルター 10 本 フィルター 70 円 40 円 ききよう 1948 年 ( 昭和 23 ) 刻み 309 60 円 ・印はに民営のたはこ 849

2. 日本大百科全書 14

おおよど それはたちまち世間の注目を浴び、一大社会問 の東洋大学 ) 教育学部に学ぶ。井上円了の助城下町、また奥州街道の宿場町で、本陣跡が残あり、近世は高城郷であった。町の西部を大淀 題となった。ことの重大さに政府も警保局長を手、金沢の『北国新聞』記者、東京の京華中学 っている。農業中心であったが、近年電器部品 川が北充し、都城盆地の北東部を占める。国道 、・一かいのこ・つよ・つ しようえん しま・つのしようみまたのいん 現地に派遣して実情を調査させた。その結果、教師を経て、境野黄洋らとともに一八九四年などの工場が誘致された。林道工事中に発見さ 一〇号が通る。荘園時代は島津荘三俣院に属 鉱夫への暴力的拘禁の事実が明らかになり、以 ( 明治二七 ) に設立された緯会に加入、雑誌れた銅製「極楽寺印」は県指定文化財。人口五した。高城は中世、南朝方の南九州の一拠点 後一定の是正措置が図られた。 〈三宅明正〉 『仏教』を中心として既成教団の腐敗を攻撃し〇七三。 〈後藤雄二〉で、後の戦国時代に伊東氏から薩摩島津氏の領 回隅谷三喜男著『日本賃労働史論』 ( 一九五五・東た。のち経緯会を脱退し、九九年新たに仏教清回『高清水町史』 ( 一九七六・高清水町 ) 有となった。一六一五年 ( 元和一 ) の一国一城 ま つきだて 京大学出版会 ) 徒同志会 ( 後の新仏教同志会 ) を結成、一九〇鷓一万五千分の一地形図「築館」「高清水」「真 令で廃された。農業が中心で、サトイモ、サッ あらや 高島縮たかしまちちみ滋賀県高島郡地方で〇年 ( 明治三三 ) には機関誌「新仏教』を発刊 坂」「荒谷」 マイモなどのほか畜産も盛ん。高城城跡のほ ねんし そうりよ どきょ・つ まきのはら つくられた綿縮。綿縮は強撚糸の綿糸で織られして僧侶不必要論、読経無用論を唱え、仏教界高清水高原たかしみずこうげん岡山県苫田か、石山観音池、城跡東部の台地上には牧之原 かみ、こいばら たもので、夏季の衣服地として適当な生地であの革新浄化に努めた。また発娼運動などの社郡上斎原村と鳥取県東伯郡三朝町にかけての標古墳群がある。人口一万三八〇四。〈横山淳一〉 - 一うとくしゅ ) っすいさかいとしひ・一 かみや り、木綿栽培を基礎に発達した。この地方での 会改革にも尽力し、幸徳秋水、堺利彦らの平高八〇〇 ~ 一〇〇〇の高原。中国山地の高位囮二万五千分の一地形図「紙屋」「有水」「高 ぶんきゅうげんじ へいたん おんばら しんでんしようない 発生時期は不明であるが、幕末の文久・元治民社とも交わる一方、出版社をおこして仏教・ 平坦面の一部で、南東の恩原高原とともに牛の 城」「高崎新田」「庄内」 てま・つし にんぎよう たがじよう「たがのき」とも読む。 ~ 会 ) のころまでは手紘糸でつくったが、哲学書を出版、講演や著述、評論にも活躍し放牧場に利用されている。南西の人形峠には動多賀城 明治以後 こ木綿紺地に絹糸を交織して「糸入た。昭和二四年一〇月二五日示寂。〈金田諦応〉・カ炉・核燃料事業団の事業所がある。高原は夏宮城県多賀城市に築かれた古代の城柵。古代 り」としたものや、また小紋を織り出したとい たかしまや百貨店の老舗。 高島屋 ( 株 ) はキャンプ、冬はスキーでにぎわう。山陰本線の陸奥国の国府のあったところで、陸奥・出羽 あぜち われ、海外にも輸出されたといわれるが、現在 八三一年 ( 天保一 l) 飯田新七 ( 一〈 0 三ー七四 ) が京倉吉駅などからバスの便がある。《 ( 由比浜省吾〉両国を管する按察使もおり、奈良時代には、鎮 からすま ではまったく断絶した。 〈角山幸洋〉都烏丸通りに妻と二人で古着木綿商「たかしま鷓一万五千分の一地形図「上斎原」 守府も置かれ、東北地方の政治、軍事および文 しなの おうみ じゅふん 高島藩 たかじゅふん 0 受粉 化の中心をなした。 たかしまはん信濃国 ( 長野県 ) 諏訪や」を開店したのが発祥。屋号は出身地近江国他家受粉 郡と筑摩郡の一部を領有した藩。諏訪藩ともい 高島郡にちなんだ。一八五五年 ( 安政一 l) 呉服 たかじよう ( ちょう ) 宮崎県南西部 多賀城の創建年代ははっきりしないが、七三 高城 ( 町 ) おおほうい・ を一たもろかた みやこのじよう う。諏訪上社の大祝諏訪氏は戦国大名として木綿商に転じ、八七年 ( 明治二〇 ) には店を拡 北諸県郡にある町。都城市の北東部に隣接す七年 ( 天平九 ) に初めて史料に「多賀柵」とみ はるのぶ 成長したが、一五四二年 ( 天文一一 ) 武田晴信大して美術織物、輸出用の刺しゅうの製作を行る。一九三四年 ( 昭和九 ) 町制施行。大井手、 え、「多賀城」として現れるのは七八〇年 ( 宝 しんげん よりただ さくらぎ ほまんぼう ありみずしか おおあぎ じのあぎまろ ( 信玄 ) に滅ばされた。一族の大祝頼は、一 うようになった。貿易品の製作と販売がのちに桜本、穂満坊、石山、有水、四家の六大字か亀一一 ) の伊治呰麻呂の乱のときである。この がっさんひわ 五八二年 ( 天正一〇 ) 武田氏、織田氏の滅亡を高島屋飯田となり、第二次世界大戦後は合併さ らなる。中世城館高城、別名月山日和城城跡が反乱で、多賀城も攻め落とされ、放火された。 機に旧領を回復して徳川家康に属し、九〇年家れて丸紅飯田、現在の丸紅へとつながる。一 康の関東移封に伴い、武蔵国に移った。かわっ 八七年、皇居の窓掛け、壁張りなどの用命を受 とよとみ ひわのたかよし て豊臣秀吉の家来日根野高吉が諏訪の領主とな けたのがきっかけで、九七年東京に進出すると ごようたし り、高島城を築いた。その子吉明は一六〇一年ともに宮内省御用達の商人に指定され、翌九八 しもつけみぶ ( 慶長六 ) 下野国壬生に移された。かわって頼年、大阪心斎橋にも店を開き一流の呉服商とな よりみず ふたい 忠の子頼水が旧領諏訪し こ帰った。以後譜代大名った。一九〇九年 ( 明治四一 I) 合名会社、一九 ただつねただはるただとらただときただあっただ として、忠恒、忠晴、忠虎、忠林、忠厚、忠年 ( 大正八 ) 株式会社組織に改組。二二年には かたただみちただまさただあや 粛、忠恕、忠誠、忠礼と一〇代続いて明治維新大阪長堀橋筋に本格的な百貨店を開店、昭和初 に至った。一八世紀末忠厚のとき二之丸一件 扎にかけて百貨店として発展する。 かんせい ( 御家騒動 ) が起こり、これに続い て寛政期 ( 一七 昭和三〇年代に入り、アメリカ、ニューヨー 兊 ~ 天 0 一 ) 以降藩政の改革が行われた。幕末に ク店を開店 ( 一九五 0 、一九五九年、別会社で横 は寒天業や製糸マニュファクチュアも現れた。 浜高島屋の設立をはじめ、以後、地方都市に高 また忠誠は幕政に参画し老中を勤めた。初め諏島屋系の百貨店を展開するとともに、関連会社 訪郡二万七千石を領し、大坂の陣後、筑摩郡の の充実も図っている。資本金一〇六億円、売上 うち五千石を加増されたが、一六五七年 ( 明暦高五〇一六億円。高島屋グループ一八店舗 ( 一九 三 ) 忠晴のとき、弟二家に二千石を分知し旗本会 ) 。 〈森真澄〉 とした。一八七一年 ( 明治四 ) 廃藩、高島県、筑回株式会社髙島屋編・刊『髙島屋百五十年史』 摩県を経て、七六年長野県に編入。〈浅川清栄〉 ( 一九 0 ) たかしましゅうはん 回「諏訪史』全四巻 ( 一九六六・諏訪教育会 ) たかしまりゅう〔 0 高島秋帆 高島流 たかしまぺいほう ( 天七五ー一九四九 ) 高島米峰 たかしみす ( まち ) 宮城県北部、 高清水 ( 町 ) なかくびき よ明治・大正時代の仏教運動家。新潟県中頸城郡栗県郡の町。一九〇二年 ( 明治三五 ) 町制施 よしかわ じ 吉川町の浄土真宗本願寺派真照寺に生まれる。 行。北部はなだらかな止陵、南部は大崎平野に 3 カ幼名は大円、一九一九年 ( 大正八 ) に米峰と改続く水田地帯。国道四号が通じる。中心の高清 いしもだ た名。京都西本願寺普通教校、東京の哲学館 ( 後 水地区は、近世には仙台藩の重臣石母田氏の小 か み亠二さ 多賀城〔上〕南方上空より見た内城跡。内城中央より やや北 ( 写真上方 ) 寄りに政庁正殿 ( 土壇東 西 24g 南北 18m ) がある。その前面は敷石 の南庭 , 後方 ( 北 ) に後殿さらに北門がある。 このほか正殿の前方に東西の脇殿があった 四周は築地が巡り , それぞれの中央に東西南 北の四門が開いていた 〔右〕多賀城出土人面土師器。 同様の顔が 4 面に描かれている 639

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だいがく 大学 ヨーロッノく ①中世の学校教育の基本的教科となった「自由七科」 の寓意図。中央円内の像は哲学で , 外円の像は上か ら右へ , 文法 , 修辞学 , 弁証法 , 音楽 , 算術 , 幾何 , 天文学を表す ②サレルノ大学構内。中世の医学教育のなかでも , 1 2 世紀に設立された南イタリアのサレルノ大学が傑 出しており , 医療に及ほす影響力は大きかった ③ 14 世紀後半 , ドイツの大学における倫理学の授業風景 ④ 19 世紀なかば , ドイツの学生生活の一こまで , 大学寮 内でのフェンシングによる決闘の練習風景と思われる ⑤現代のパリ , ソルポンメ大学 ( バリ第四大学 ) 円 形講堂における授業。正面の壁画は , ヒ。ュビス・ド・ シャパンヌ制作の「聖なる森 J ( 1889 年 ) 。中央にソ ルポンが座し , 左右に科学 , 文芸 , 美術の部門を象 徴する人物が配されている 第罐い町 を・物 お - 歩 : 鷲ロ 日本 ①江戸幕府の洋学研究機関てあっ た開成所は , 明治に入ってさまざ まに名称をかえ , 現東京大学に至 る : 開成学校開業式の図明治 6 年大阪浅井コレクション ②女子中等教員の養成を目的とし て設立された官立女子師範学校は , 第 2 次大戦後お茶の水女子大学と 改称され , 広く女子の高等教育機 関として , その役割を果たしている。 写真は明治 40 年ころの授業風景 ( 3 都心部に集中していた大学は , 近年学生数の増 大と研究施設拡充のため , 郊外に移転する傾向が 続いている。写真は中央大学八王子キャンバス ④学歴社会は有名大学への受験戦争を激化させ , 毎春合格発表の掲示板の前では悲喜こもこもの風 景がり広げられる。東京大学 ⑤大学祭は往年のアカデミズムを離れて大衆化の 傾向を強め , 文字どおりお祭りの様相を呈してい る。早田大学 337

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たなかは 影響を与えたといわれる。藩校日知館の存在も七五年 ( 明治八 ) 東京の銀座に店を構え、田中 製作所を開業、日本最初の民間機械工場となっ 地域文化の形成に大きな役割を果たした。一 六八年 ( 明治一 ) 徳川宗家による駿府藩 ( 静岡た。政府の指定工場として電信器の修理・製作 県 ) の立藩により上知、安房国 ( 千葉県 ) 長尾にあたり、これが芝浦製作所となり今日の東芝 〈若林淳之〉 に転封となった。 へと連なる。日本の精密機械、工作技術の草創 呂 たなかひさしげ ( 一七究ー一 穴一 ) 幕期に多くの技術者も育てた。なお、弟子の金子 田中久重 くるめ 重 末から明治初期の技術者。久留米のべっこう細大吉が養子となって田中姓を継ぎ、養父没後、 不 中 〈井原聰〉 工職人の長男に生まれた。細工や発明の才に優二代目久重を襲名した。 田 田 れ、巧妙な「からくり」人形を製作したりした回今津健治著『近代技術の先駆者東芝創立者田 ます ぎえもん ことから「からくり儀右衛門」ともよばれた。 中久重の生涯』 ( 一九六四・角川書店 ) 国五十年史上』 ( 一九六五・開国五十年史発行 の枡やはかりの差を利用した利の収得など、非 でん たなかひでみつ ( 一九一三ー四九 ) 小説 理な貸付と取り立てによって、報いが生じ死去一 所 ) 八一三年 ( 文化一〇 ) 井上伝に協力して絵田中英光 がすり たなかふゅじ ( 天九四 ー一九〈 0 ) 詩 したことを記して、「非分」の徴収を戒めたも絣を発明、一七年父の死後、家業を弟に譲り、家。東京生まれ。岩崎家から母の実家田中家に 田中冬ニ わせだ の。説話とはいえ、その内容は、奈良時代の女二四年 ( 文政七 ) 肥前国 ( 佐賀県 ) 、肥後国入籍する。早稲田大学政経学部卒業。在学中の人。福島市に生まれる。本名吉之助。立教中学 性の財産所有のあり方や当時の蓄財活動の一面 ( 熊本県 ) 、大坂、京都に技術修業し、三四年一九三二年 ( 昭和七 ) ポート選手としてオリンを終えて銀行員となる。詩作は一九二一年 ( 大 かいちゅうしよくたい むじん を活写している点で注目される。〈荒木敏夫〉 ( 天保五 ) 大坂に居を構え、懐中燭台や無尽 。ヒックに出場。その後左翼連動に加わったが転正一〇 ) ごろから本格的となる。『詩聖』『パン ふじえだ だぎいおさむ するが たなかはん駿河国田中 ( 静岡県藤枝灯を発明、製造販売するかたわら、なおその技向。小説『空吹く風』 ( 一九三五 ) が太宰治に認めテオン』『オルフェオン』を経て、四〇年 ( 昭 田中藩 ふだい 市 ) に城地を置いた譜代藩。田中は東海道藤枝量を磨いた。三七年大塩平八郎の乱で家財を焼られて師事。四〇年『オリンポスの果実』で池和一五 ) 『四季』に参加。詩は澄明精緻な叙情。 ふしみ 宿の南東にあり、田中城は「とくのいっしき失、京都伏見に転居した。ここで幕府天文方谷賞を受賞。以後『われは海の子』 ( 一九四一 ) 、詩集は『青い夜道』 ( 一九一一九 ) 以後、『海の見え こうようぐんかん は平、ましげとみ やまし ( 徳一色 ) 城」 ( 『甲陽軍鑑しを武田の家臣馬 間重富がかって精密器械をつくらせていた金『我が西遊記』 ( 一九四四 ) などを発表する。第二次る石段』 ( 一九三 0) 、『山鴫』 ( 一九三五 ) 、『故園の歌』 みののかみ 場美濃守が改修したものといわれ、縄張りの特工戸田東三郎忠行と親交を結び、その紹介で器世界大戦後、ふたたび左翼運動に参加したが挫 ( 一九四 0 ) 、「山の祭』 ( 一九四七 ) 、『晩春の日に』 ( 一九 っちみかど ぶどう きっ - 一う ぶそん 質から亀甲城 ( 本丸を中心に二の丸、三の丸を械製造販売を続けながら天文暦学の土御門家で折し、『地下室から』 ( 一九四 0 で運動の内在的批六 D 、『葡萄の女』 ( 一九六六 ) 、『サングラスの蕪村』 おうみのだい どうせい 同心円状に配置 ) とよばれていた。一五八二年天文暦学を学んだ。四九年 ( 嘉永一 l) 近江大判を試みる。しかしアドルム中毒、同棲した女 ( 一九七六 ) など。「しぶしぶと雨が降り / 新蕎麦と じよう とよとみ ~ っレ」・つ あんどん ( 天正一〇 ) 徳川家康の支配から豊臣系大名の掾の号を大覚寺より授けられ、これを利用し との悲惨な葛藤などデカダンな生活に陥り、 かいた行燈が出てゐた / 山がせまり二つの谷 ん ~ ・つ・、り かずうじ からすま 中村一氏に移り、さらに徳川氏譜代大名の城地て五二年京都四条烏丸に「機巧堂」という店を『離魂』『野狐』『さようなら』 ( いすれも一九四九 ) が落ちあってゐた」 ( 小さな山の町 ) 。句集、随 ただとし しゆみせん となった。すなわち、酒井忠利一万石、松平出した。この間、須弥山儀を製作 ( 天四七 ) 、ま など苦悩に満ちた小説を残しながら、太宰の墓筆集もある。 〈安藤靖彦〉 ただしげ ただよし げんきよう ( 桜井 ) 忠重二万五千石、水野忠善四万五千石、た蘭学者広瀬元恭と親交を結びヨーロッパの前で自殺した。↓オリンポスの果実〈島田昭男〉回『日本の詩四田中冬二他集』 ( 一九七九・集英 ただはる 松平 ( 藤井 ) 忠晴二万五千石、北条氏重二万五知識や技術を学び、五一年万年時計 ( 自鳴鐘 ) 回「田中英光全集』全一一巻 ( 一九六四 ~ 六五・芳賀 社 ) ▽『研究資料現代日本文学 7 』 ( 一九含 ただよし ただあきらただなり 書店 ) 千石、西尾忠昭・忠成二万五千石、酒井忠能 を製作、これはヨーロッパの懐中時計を利用し 明治書院 ) まさなお すけなおすけはる たなかふじまろ ( 天四五 たなかみちたろう ( 一九 0 一一ー会 四万石、土屋政直四万五千石、太田資直・資晴て精度を高め、洋式・日本式時刻、七曜、二十田中不ニ麻呂 ー一九田中美知太郎 えと ときよりたかよりとし かずのぶ 五万石、内藤弌信五万石、土岐頼殷・頼稔三万四節気、月の満ち欠け、干支をも表示する和時 0 九 ) 政治家。学制施行期から教育令期までの西洋古典学者、評論家。明治三五年新潟県に生 おわり 五千石とかわり、一七三〇年 ( 享保一五 ) 上州 計の傑作である。このはか多数の高級和時計を文部行政の中心人物。尾張藩士出身。一八七一まれる。一一六年 ( 大正一五 ) 京都帝国大学文学 だいじよう 沼田から本多正矩が四万石で入封して、初めてつくり、五三年には佐賀藩精錬方に招かれ、日年 ( 明治四 ) 文部大丞に任ぜられ、同年から部哲学科選科修了。法政大学、東京文理科大学 藩主家は固定した。藩主家の激しい交代は、土本最初の機関車模型を製作、六四年 ( 元治一 ) 七三年まで理事官として岩倉使節に随行し欧米講師 ( ギリシア語と哲学の担当 ) を経て、四七 屋政直以降、大坂城代・京都所司代への就任に久留米藩に招かれ、六六年 ( 慶応二 ) 同藩の今教育制度を調査、帰国後『理事功程』 ( 一五巻 ) 年 ( 昭和一一一 l) 京都帝国大学文学部助教授とな シャン、イ にまとめて上奏。七四年文部大輔に昇進、学制 関係したものであるが、なかには酒井忠能のよ井栄に従って軍艦買付けのため上渺に渡った。 り、五〇年京都大学文学部教授。七八年に文化 ただきょ うに兄忠清の大老失脚に連座して除封された者 の定着に努めた。七六年ふたたびアメリ 勲章を受章。生涯を古代ギリシア哲学研究に捧 しもう、こ もいた。本多氏の領地は、飛び地として下総国 力に渡り教育事情を精査、これに基づい げるとともに、政治にも関、いをもち、時流にけ て、学制の中央集権的画一主義を改め、 内に一万一千五百石余があてられていたが、主 っしておもねることのない評論を発表する。そ しだましづ たる所は田中城周辺の志太・益津両郡下で与え 地地方の実情にあわせて学校教育の定着をの文体は明晰で、だれにでも理解できることを ま寺一とも ま ~ よし ま亠こはるま一 られていた。正矩から正珍、正供、正温、正 図るべく、学監・モルレーの協力を得目ざした。その結果、研究と啓蒙が一体となっ おきまイ」ひろま、こもり 意、正寛、正訥と七代にわたって在封、明治に て七九年教育令を制定。しかし、教育令ている点に特色がある。晩年はプラトン研究に 至ったが、この間、正珍老中、正意若年寄、正 が学事不振を招いたため、田中は翌年司専念した。昭和六〇年一二月一八日死去。 きよう すんぶ 法卿に転出した。その後、イタリア、フ 訥駿府城代など幕政の枢機にも参画していた 代表的著作としては『ロゴスとイデア』 ( 一九 八一六年 ( 文化一三 ) の百姓一揆は、指導者 ランス公使、法相、枢密顧問官などを歴四七 ) 、『哲学初歩』 ( 一九五 0 ) 、『善と必然との間』 くびき 処刑の六月二八日を「首斬り正月」とする義民 任。 〈伊藤和男〉 ( 一九五一 D 、『プラトン』全四巻 ( 一九七九 ~ 会 ) 、『市 伝承を生み、領内上新田に住む百姓青野三左衛 英回西尾豊作著『子爵田中不二麻呂伝』民と国家』 ( 一枩 D 、『哲学談議とその逸脱』 ( 一九 じよこ、つ もんおおくらながつわ 門は大蔵永常と交流、永常の『除蝗録』述作に ( 一九三四・川瀬書店 ) ▽大隈重信編『開会 ) などがある。はかにプラトンその他の翻訳 ま ~ のり さんぎえ ゝはな当 , せつ 亠こ亠こ 810

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じようまう リマキなど各地での方言は多い。 〈井田齊〉五年まで事務局長。この間「ニワトリからアヒ た。一九五四年 ( 昭和二九 ) 上房郡高梁町と タカノッメ〔鷹の爪〕 E きミを かわも たかのふさたろう ( 天六九ー一九 0 四 ) ルへ」の総評路線転換、「家族ぐるみ、地域ぐる同郡の津川、川面、巨瀬の三村、川上郡宇治、 きき (Sieb. et zucc. ) Nakai ウコギ科高野房太郎 の落葉小高木。高さ一一一、直径六〇垰一に達日本労働組合運動の創始者。統計学者高野岩一一一み」闘争を指導し高野時代を築く。〈荒川章一一〉玉川、松原、落合、高倉の五村と合併して市制 にしそのぎ し、幹、小枝ともに灰褐色で、刺がない。葉は 郎の兄。明治二年二月二四日、長崎県西彼杵郡回『高野実著作集』全五巻 ( 一九実 ~ 七七・柘植書施行。五五年上房郡中井村を編入。市域の大部 きび 三出複葉で、長さ五 ~ 一五垰一、小葉には細かい 長崎区銀屋町 ( 長崎市 ) に生まれる。一八、、 房 ) ▽猪俣津南雄著作・遺稿刊行会編・刊分は吉備高原で、中央を高梁川が南流し、北東 きよし うかん 鋸歯があり、長さ五 ~ 一二の長い葉柄があ年 ( 明治一九 ) に渡米し、アメリカ西部で働き 『一階級戦士の墓標ーー高野実追悼録』 ( 一九から有漢川、西方から成羽川が合流する。高梁 七五 ) る。花は五 ~ 六月、短枝の先から出た複散形花つつ学んだ。九一年に沢田半之助らと職工義友 川左岸の狭長な高梁盆地が中心地区である。か たかのゆおんせん秋田県南部、っての松山城下町で、人口が集中し、吉備高原 序につき、淡黄緑色。果実は核果、球形、径約会を組織。やがて ( アメリカ労働総同鷹ノ湯温泉 おがち やくない 五ミリで黒く熟す。北海道から九州に分布する日 盟 ) 会長サミュエル・ゴンバ ーズの知己を得、雄勝郡雄勝町にある温泉。役内川右岸にあり、 は過疎化が進んでいる。 につしん ちかのり あなた 本特産種で、山地に普通に生える。名は、冬芽の日本オルグに任命され、日清戦争終結 八世紀ごろの発見と伝えられる。秋ノ宮温泉郷 古代の巨勢郷、近似郷、穴田郷の地で、大部 がタカのつめに似ているためとされるが、葉の後の九六年帰国。翌九七年に沢田と「職工諸君の一つで、泉質はアルカリ性食塩泉。ふかし湯分は国衙領、巨勢郷は長講堂領であった。一二 がぎゅう 形がそれに似るためとする説もある。材は箱、 に寄す」という檄を発して組合結成を呼びか などのある湯治場であったが、近年行楽向きと四〇年 ( 仁治一 ) 秋葉氏が高梁川左岸の臥牛山 しやくし ( 四大 杓子、箸、扇の骨などに用いられるが、折れけ、七月に労働組合期成会を結成して日本労働なった。温泉郷一帯は自然休養村に指定され、 ) の一峰大松山に築城し、四代ののち高 びっちゅう やすい。本がいものように柔らかいため、イモ組合運動の創始者となったが、その思想は穏健キャンプ場、サッカー場、テニスコートなどの橋氏にかわるが、そのころから松山は備中の ノキの名もある。若芽は山菜として食べられな労働組合主義であり社会主義には反対であっ施設も整備されている。奥羽本線横堀駅からバ 政治の中心となった。戦国時代には大名の争奪 みず る。タカノッメ属は東アジア特産で、日本と中た。一九〇〇年 ( 明治三三 ) に入って労働組合 スの便がある。 〈宮崎禮次郎〉 の地となり、江戸時代も松山藩主は池田、水 のや 国にそれぞれ一種ずつある。 〈門田裕一〉運動が衰退に向かうと運動から手を引き中国に 囮二万五千分の一地形図「秋ノ宮」 谷、安藤、石川の諸氏が交代し、一七四四年 こうにん チンタオ たかののにいがさ ( ? 高野新笠 たかはぎ茨城県北東部にある市。 ( 延享一 ) 板倉氏が入封して明治に至った。一 ー天九 ) 光仁渡り、明治三七年三月一二日、青島のドイツ病高萩 ( 市 ) くだら やまとのおとつぐ 天皇の夫人。父は百済系渡来氏族の和乙継、院で死去した。 〈岡本宏〉 一九五四年 ( 昭和二九 ) 高萩町、松岡町、高岡 八六九年 ( 明治一 D 松山藩は高梁藩と改称、そ はじのまいもてんじ しらか・ヘ くろイ一き くしがた 母は土師真妹。天智天皇の孫白壁王 ( 光仁天回ハイマン・カブリン編著『明治労働運動史の村と黒前村、櫛形村の各一部が合併して市制施の後高梁県を経て岡山県に編入した。 かんむ さわら じようばん 皇 ) との間に、桓武天皇、早良親王らを生ん 一齣』 ( 一九五九・有斐閣 ) ▽大島清著『高野岩 行。明治時代以後、常磐炭田の開発で高萩が 閣か天天残構重 だ。七七〇年 ( 宝亀一 ) 光仁天皇即位ののち夫 三郎伝』 ( 一九穴・岩波書店 ) 発展して中心地となり、これが市名となった。 守築 ( 。を遺 たかののあそん 一 3 たどのる 人となり、高野朝臣の姓を賜った。母が渡来氏高野実たかのみのる ( 一九 0 一ー七四 ) 労働連動大部分を多賀山地が占め、太平洋に面して海岸 城地田しな城あ わせだ 山のコ成 - 櫓山で 族の出身であったことは、次いでたった桓武天家。東京生まれ。早稲田大学在学中、早大文化 段丘と沖積低地がある。国鉄常磐線と国道六 えんりやく た 松で完重の重 皇に大きな影響を与えた。延暦八年一二月二 会、学生連合会を結成。日本共産党、政治研究号、常磐自動車道 ( 工事中 ) が通じる。古く多 のにニ世貴 やましろ おおえ 市 4 も , 近て し 八日没、翌年山背国 ( 京都府 ) の大枝山陵に葬会書記を経て東京出版労組、全労倶楽部排撃同珂 ( 高 ) 国、中世は佐竹氏の支配地、近世は水戸 梁高た 3 閣 つけがろう 高標れ和守しと文 られた。 〈笹山晴生〉盟など労働運動に入り、一九三七年 ( 昭和一藩領となり、一八六八年 ( 明治一 ) 付家老中山 (l) 人民戦線事件で検挙される。第二次世界大氏が独立して松岡藩をたてた ( 二万五千石 ) 。 タカノハガレイ 0 マッカワ タカノハダイ〔鷹之羽鯛〕 flagfish 、、、戦後「巨象のような大統一労働同盟」結成に奔のち多賀郡役所が置かれて以来、多賀地方の行 G を、き s ききき s 硬骨魚綱スズキ目タカノ走するが挫折、四八年 ( 昭和二三 ) 総同盟主事政の中心地となり、諸官庁や会社も設置され ハダイ科に属する海水魚。本州中部以南、台湾、 となる。五〇年の総評結成を推進し翌年から五オ日 ~ こ。月台中期以降、石炭産業の発展で繁栄した 東シナ海に分布。体は台形でよく側扁し、ロは が、一九六七年以降、主要炭鉱が閉山し、かわ 小さく下向きで唇が厚い。胸びれの下部数軟条 って工業団地が造成され、食品・製紙・機械な が長く、太いことなどが特徴。全長は四〇垰 どの工場が増加。山間部の森林は国有林面積が おおのう 達する。体側の斜走帯は赤褐色であること、尾 県内第一位。もと馬産地で水戸徳川家の大能牧 いち びれに白色点があることなどで近縁のミギマキ 場もあったが、現在は肉牛飼育が盛んで牛市も おおきた はなぬき やユウダチタカノハと区別される。幼魚は腹側 開かれる。大北川、花貫川の渓谷は水力発電所 はなぞの の湾曲と側扁度が強く、かみそりの刃状の様相 と景勝地が多く、花園花貫県立自然公園に指定 っちだけ を呈する。産卵期は冬で、早春に全長数垰一の幼 されている。土岳 ( 六 8 ) 、花貫ダムはレクリ あらかわじじ 魚は浮遊生活から沿岸での底生生活に入る。浅 エーション地帯。安良川の爺スギは国指定天然 せきすい 海の岩礁域に生息し、岩や海藻の表面の小動物 記念物。江戸後期の地理学者長久保赤水の出生 を摂食する。海底に静止する際は直線状の腹面 〈櫻井明俊〉 地でもある。人口三万三九六 と肥厚した胸びれとを使う。刺網、定置網、一 回『高萩市史』上下 ( 一九六九・高萩市 ) いそはら いわき し 本釣りなどでしばしば漁獲されるが磯臭くて味 囮二万五千分の一地形図「磯原」「高萩」「磐城 イ うろ - 一 たつわれさん のよくないこと、鱗が硬くてはがしにくいこと 片貝」「里美牧場」「竪破山」 力などであまり好まれない。房総地方でヨメナカ たかはし岡山県中西部、高梁川の 高梁 ( 市 ) オセ、伊豆地方でオケイサン、関西・九州でヒダ タ中流域にある市。明治初年までは松山と称し ぎせつ くらぶ か ~ たねい なりわ 653

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たにざき ほ・つ・か , れ 『少年』『幇間』 ( ともに一九二 ) を発表。この間 たにこう能の曲目。四、五番目物。 などの便があり、東海自然歩道も通る。シイタ谷行 谷崎潤一郎 / 年譜 こんばるぜんちく ふゅう 算用数字は月・日または月を表す ケ、茶、富有ガキが特産。谷汲山華厳寺は西国五流現行。作者は金春禅竹とも。母 ( 前シテ ) 東京帝大から授業料末納のかどで退学を命ぜら そっあじゃり 三十三番札所で、満願霊場。名鉄電車の終点かを説得した松若 ( 子方 ) は、師匠の帥の阿闍梨れる。が、その一一年の一一月号の『中央公 一〈〈六明治一九 7 ・東京市日本橋区蛎殼 ら同寺の山門まで門前町が開け商店が建ち並 ( ワキ ) に従って峰入り修行に参加する。病気論』に『秘密』が掲載され、しかも同じ一一月 町 ( 現中央区日本橋人形町 ) に誕生 こ従って谷号の『三田文学』に永井荷風が『谷崎潤一郎氏 ぶ。毎年二月一八日の豊年祭に行われる谷汲踊になった少年は山伏の定め「谷行」し , 一九 0 一明治三四 3 坂本小学校高等科全科 よ・一くら りは有名で、県の無形民俗文化財。一方横蔵寺底へ投げ込まれ、殺されてしまう。わが身も同の作品』を書き、その文学の特質を激賞するに 卒業。 4 東京府立第一中学校 ( 現日比 には平安・鎌倉時代の多くの仏像が国指定の重じにと嘆く阿闍梨に山伏たち ( ワキツレ ) は同及んで、新進作家として華やかにデビューす 谷高校 ) に入学、辰野隆らを知る そせいえんのぎようじゃ 一九明治三八 9 第一高等学校英法科入学 要文化財としてよく保存され、美濃の正倉院と情し、松若の蘇生を役行者に祈る。すると伎る。荷風は谷崎文学の顕著な特質として、第一 ゅうげん 」んナい 一九 0 ^ 明治四一 9 東京帝国大学国文科入学 もよばれる。両寺とも春秋の季節を中心に参楽鬼神 ( 後シテ ) が現れて、松若を掘り返して生に、「肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄」、第二に 一九一 0 明治四三 9 小山内薫、和辻哲郎らと 「全く都会的なる事」、第三に「文章の完全なる 〈上島正徳〉き返らせる。師弟愛を軸にした奇跡劇であり、 者が多い。人口四四〇八 第一一次「新思想』を創刊。「誕生』「象』 ワキの重い習いの能である。役行者を舞台に出事」をあげたが、これは谷崎文学の本質のいち 回『谷汲村史』 ( 一九七七・谷汲村 ) せい・一く きたがた 「刺青』「麒麟」などを発表 囮二万五千分の一地形図「美濃海神」「北方」す演出もある。ドイツの劇作家。フレヒトにこの早い指摘として正鵠を射たものといえよう。続 たるみ 一九一一明治四四 6 「少年』発表 〈増田正造〉 いて発表した『悪魔』 (一九 lll) には、極端なマ 能にヒントを得た作品がある。 「樽見」「谷汲」「池野」 一九一 = 明治四五 2 『悪魔』発表 たにざきじゅんいちろう ( 天ハ六ー ゾヒズムと女性の悪魔性への賛美があり、この たにぐみかんのん 0 華厳寺 谷崎潤一郎 谷汲観音 ころ 一九一五大正四 1 「お艶殺し』発表 傾向は、『恋を知る頃』 ( 一九一三 ) から翌年の芸術 一九六五 ) 小説家。明治一九年七月二四日東京・ 一九毛大正六 7 「異端者の悲しみ』発表 じようたろう かきがら 日本橋蛎殻町 ( 現日本橋人形町 ) に生まれる。父家小説『饒太郎』に至って独自の世界を築く。 一九一九大正八 1 「母を恋ふる記』発表 ( 、 2 ) しかし、これが芸術至上主義的な放浪生活から は倉五郎、母は関。倉五郎は入り婿で、潤一郎 子 一九 = 0 大正九 5 大正活映脚本部顧問となる の下に三男三女がある ( すぐ下の弟が英文学者生活の正常化への志向を生み、一五年 ( 大正 一九委大正一二 9 箱根で関東大震災に遭 つや 、関西に移住 谷崎精一 l) 。祖父久右衛門は一代で産をなした四 ) 、石川千代と結婚し、『お艶殺し』 ( 一九一五 ) るた すっ 進取の気性の商人で、母の関は「美人絵双紙の以下の毒婦物を相次いで書くが、立て続けに発一九 = 四大正一三 3 『痴人の愛』前半発表 ( ー 婚あ 6 、後半はⅱー一一五・ 7 ) 結で大関にされてゐた」 ( 『幼少時代』 ) という評判禁になり、『神童』 ( 一九一六 ) 、『異端者の悲しみ』 と性 一九一入昭和三 3 「卍』発表 ( ー三 0 ・ 4 ) カ倉五郎は商売下手で失敗 ( 一九一七 ) などの自伝的作品に血路をみいだして の美人であった。 ; 、 郎女 『蓼喰ふ虫』発表 ( ・、一元・ 6 ) ゆく。これらにも、「悪」の芸術性と正当性の を繰り返し、幼時は大家の坊ちゃんとしてだい のろ 一九 = - 0 昭和五 8 妻千代と離婚。千代は佐藤 じに育てられながら、坂本小学校の高等科を卒主張が顕著で、また、『呪はれた戯曲』 ( 一九一九 ) 、 春夫と結婚する旨発表する 〔ゲをれキすを 『途上』 ( 一九一一 0 ) などのスリラー的手法による妻 のえ業するころは、中学へも進めない状態になる。 1 『吉野葛』発表 ( ー 2 ) 9 一九三昭和六 殺しがテーマの作品には、妻千代の妹せい子と 幻を教師や伯父の配慮で、一九〇一年 ( 明治三四 ) ようえい ひびや 『盲目物語』発表『武州公秘話』 奮数え年一六歳で府立一中 ( 現日比谷高校 ) に入の恋愛の影が揺曳している。 発表 ( ー一一三・ 〔小田原事件〕潤一郎は、一九一七年 ( 大正 学、翌年、秀才の特典で飛び級をして三年生に カ 一九 = = - 昭和七ⅱ『蘆刈』発表 ( ー たつのゆたか 4 六 ) に母を、一九年に父を相次いで失い、神奈 なる。同級に辰野隆がいた。『学友会雑誌』「 一九昭和八 6 「春琴抄』発表 おだわら 川県小田原に転居、二〇年から翌年にかけて大 8 の早くから作文や漢詩を発表して注目され、〇五 一九会昭和一〇 1 根津松子と結婚 ロ学 文年、一高英法科に入学、文芸部委員となり、正活映株式会社の脚本部顧問となり、せい子 一九 = 一七昭和一二 6 帝国芸術院会員となる 7 『猫と庄造と二人のをんな』刊行 『校友会雑誌』に小説『狆の葬式』 ( 一九 0 七 ) その ( 芸名・葉山三千子 ) を主演女優に映画製作を 簡谷 書る に京氏物語』全 一九三九昭和一四 1 「潤一良訳 他を発表。〇八年、一高英法科を卒業、「創作試みたりする。また、妻千代をめぐるトラブル 宛す しを早第響平一、や亠をへ ' 二六巻刊行 ( ー四一・ 7 ) 子発家にならうと云ふ悲壮な覚悟をきめ」 ( 『青春から、親友の佐藤春夫と絶交する、いわゆる 7 日本芸術院会員となる 一九四一昭和一六 一津拝 「小田原事件」の起こるのも二一年中で、潤一 物語』 ) て、東京帝国大学国文科に進む。 根崇 『細雪』連載開始するも 一九四三昭和一八 〔文壇にデビュー〕一九一〇年 ( 明治四三 ) 九郎が妻千代と離婚し、春夫が千代と結婚するこ おおめき おさないかおる 軍部の忌諱に触れ六月以降発表禁止 月、小山内薫を盟主として、和辻哲郎、大貫とで事件の解決をみるのは、実に一〇年後の三 そうた しようせん 一九四四昭和一九 7 『細雪」上巻を自費出版 、後藤末雄、木村荘太らと第二次「新思〇年 ( 昭和五 ) 中のことである。しかし、この 一九昭和一一一一 2 「細雪』中巻を刊行 3 間、二三年の関東大震災をきっかけに関西に移 潮』を創刊。資金は、小学校時代からの親友 一さめま かい、らー′、 「細雪』下巻発表 ( ー哭・ 住したことで、谷崎文学は画期的な飛躍を遂げ で、著名な中華料理店偕楽園のひとり息子笹沼 とうそん 一九四九昭和二四ⅱ文化勲章受章に『少将 る。『痴人の愛』 ( 一九一一四 ~ 一一五 ) は、震災後のアメ 1 影源之助と、木村荘太から提供された。島崎藤村 滋幹の母』発表 ( ー吾・ 3 ) 像・ リカ的風潮が生んだモダン・ガールの生態を描 の『破戒』 ( 一九 0 六 ) に始まる自然主義文学運動 「鍵』発表 ( ー 一九昭和三一 まんじ 肖拳 いた風俗小説として評判になり、続く『卍』 もようやく行き詰まり、反自然主義の台頭に励 一会九昭和三四「夢の浮橋』発表 左 ~ 三 0 ) は、同性の魅力のとりこになった まされた潤一郎は、」」 号に『誕生』、一〇月 ( 一九天 一九六一昭和一二六 1 1 『瘋老人日記』発表 ( ー 郎月 六二・ 5 ) 人妻とその夫の破滅劇を、その人妻が大阪弁で 号に『象』、一一月号に『刺青』、一二月号に きりん 一九会昭和四〇 7 ・心不全のため死去。 告白する異色の長編として注目された。『蓼喰 『麒麟』を相次いで掲載。同誌が七号で廃刊に 京都市左京区の法然院に葬られる 谷 ~ 元 ) は、自伝的要素の濃い「離 て『スパル』の同人としてふ虫』 ( 一九天 なったあと、続い ー鬮。当い・■第ー■・■・ー置 け′」んじ 1 こうみ け」ん さい 1 」く 825

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てによって占められている。地価の高い大都市新潟県新発田町で生まれる。第二高等学校中 た。これにゲルマン古代以来の従士関係にみらて、現在は西方のカイコス諸島とともにイギリ ス植民地を構成している。カイコス諸島を含めの市街地においては、再開発による宅地の高度退。一九一四年 ( 大正三 ) 、外国船の密航者と れる誠実の宣誓が結び付き ( 八世紀後半ごろ ) 、 て面積四三〇平方キ。、人口七四三六 ( 一九含 ) 。利用化が図られなければならない。〈巽和夫〉なり海外での放浪生活を始める。一八年アメリ 双務的契約の色彩を帯び、封建制下の臣従儀礼 ランド・スクール たぐちうきち ( 一会五ー一九 0 五 ) 明治力に渡り片山潜と知り合い 〈井上泰男〉 住民の大部分はアフリカ系で、エビ、貝を中心 田口卯吉 が確立するに至った。 に通い、翌年一一月に在米日本人社会主義者団 一一 ) とした漁業が営まれる。グランド・タークス島期の経済学者、史論家、法学博士。出版などの タークシン Phraya Taksin ( 一七三四ー〈 〈栗原尚子〉経営も行う。安政二年四月二九日、江戸目白台を結成し、アメリカ共産党に入党した。一一一年 に国際空港と商業港がある。 <II)O 徴税請負人であっ タイ国王 ( 在位一七六七 ~ しんたく かきよう の徒士屋敷で生まれる。卯年卯月の生まれにち四月コミンテルン第三回大会に出席のためモス たくせん神託 た潮州華僑を父とし、タイ人を母としてアユタ託宣 しぎよく ヤに生まれた。幼いころから利発さを認めら宅地たくち農用地や森林などとともに土なんで名づけられた。名は鉉、字は子玉、号をクワに赴き、大会の議長に選ばれ演説する。二 れ、高官の養子となる。長じて官途につき、タ地利用上の地目の一つで、建築物の敷地に供す鼎という。姉に鐙子 ( 明治女学校校長木村熊三年二月、日ソ国交回復の予備交渉のためにヨ ッフェが来日したとき、その事実上の秘書とし るものとして登録されている土地。わが国の国二に嫁す ) がある。維新に際しては徳川家に従 ーク ( タイ西部 ) の国主に任じられた。一七六 あたみ って静岡の沼津に移り、一八七一年 ( 明治四 ) て帰国し、熱海における後藤、ヨッフ工会談の 七年、アユタヤがビルマ遠征軍の攻撃を受け陥土は三七七五万与で、その三分の二は森林で 落する直前、彼は南東部のタイ湾沿岸地方へ赴覆われ、宅地は一一一二万夕、三・二 % を占め上京、大蔵省に出仕、翻訳局などに勤める。七通訳として活躍。『改造』『文芸戦線』などで執 るにすぎない ( 一九七五 ) 。宅地の内訳は住宅地七年には『日本開化小史』全六巻の刊行を開始筆活動を続けたが、昭和八年一〇月二六日死去 き、兵力をたて直すと、ふたたび北上してビル なび ( 一公一完成 ) 、七八年には『自由交易日本経済した。著書に『赤旗の靡くところ』 ( 一九一一九 ) 、 マ占領軍を駆逐、タイの独立を回復した。王位九四万タ ( 二・五 % ) 、工場用地一五万診 についたタークシンは新たにトンプリーを王都 ( 〇・四 % ) 、事務所・店舗などの用地一三万論』をまとめ、七九年には『東京経済雑誌』を『赤い広場を横切る』 ( 一九三 0 ) など。〈山田敬男〉 じゅう たくちかいはっこうだん 0 住 〈クタ ( 〇・三 % ) となっている。一九七五年発行 ( 初め月刊、のち月二回刊、旬刊、週刊と宅地開発公団 に定め、一五年にわたり自ら各地に兵を進めて としせいび、 : ったん 宅・都市整備公団 国内秩序の回復に努めたが、一七八二年、王の ( 昭和五〇 ) の住宅地九四万わタは一九六五年のなる ) して、経済雑誌社をおこす。ここを中心 たぐちかすよし ( 天三九ー一九 0 四 ) 解 六九万タに対して約四割の増加であり、昭和 乱心を理由とするクーデターが発生して処刑さ に、さらに『支那開化小史』『大日本人名辞書』田口和美 剖学者。武蔵国藤畠郷 ( 埼玉県北埼玉郡 ) 出 れ、トンプリー朝は一代で滅びた。〈石井米雄〉四〇年代における宅地開発の大きさがわかる。 身。一八五三年 ( 嘉永六 ) 江戸に出て林洞海に 都市地域への人口集中による建築物や施設の ダクス Dax フランス南西部、ランド県の らんまう しもつけ 蘭方医学を学び、その後下野国 ( 栃木県 ) 佐野 町。アドウール川下流左岸にある。人口一万九増加、住宅戸数の増加と質的改善などによって おうせい で開業。明治維新後、六八年 ( 明治一 ) 医学校 ハ ( 一九公 I) 。ローマ時代から知られる温泉宅地需要は旺盛であり、宅地価格の高騰を招い 句読師となり、七六年東京医学校の初代解剖学 ている。このため市街化区域内部での宅地開発 町で、アクアエ・タルべリカエ Aquae Tarbel- 教授、翌年東京大学医学部教授となり、没年ま licae 、のちアクアエ・アウグスタ工 Aquae を推進する政策が行われている。土地提供者に ド八七年から二年間 でその職にあった。その司、 Augustae とよばれた。泉温六四度 0 の熱泉は税制上の優遇措置を講するなどして農地の宅地 吉 おう ドイツに留学、九三年には日本解剖学会、一九 への転換を図るとともに、民間事業者による開 硫黄、鉄分、マグネシウムなどを含み、リウマ ロ 田 〇二年には連合医学会をそれそれ創設して初代 チの治療に効果がある。商業中心地でもあり、発については都市計画法の開発許可制度によっ 会頭となった。日本人初の解剖学教授として解 食料品、皮革、機械などの工業も行われる。中て適正な開発への誘導を行っている。さらに多『日本開化之性質』『日本社会事彙』を刊行、一 くの自治体では独自の「宅地開発指導要項」を方、歴史研究の個人雑誌『史海』 ( 一八九一年剖用死体の入手に努力し、しかも従来の刑死体 世にはべアルン子爵領の首都であった。物理・ くめくにたけ 〈青本伸好〉定めて、公共公益施設の整備との調和のとれた五月発刊、九六年廃刊 ) も刊行し、久米邦武のから病死体へ変更して遺体解剖観の刷新に努め 天文学者ジャン・ポルダの生地。 祭天古俗論に賛成する。『群書類従』『続群書類た。神経・血管の破格に関する研究を行う。著 蜀水美たくすいけい / チュオシ「一イシー中国南良好な宅地開発への行政指導を進めている。 らんよう 公共団体が事業主体となって行う宅地開発の従』の出版に努め、さらに日本史研究の基本史書に『人体解剖攬要』ほかがある。〈澤野啓一〉 東部、台湾省中部を西流する同省第一の長流。 へんさん 全長一七〇キ。、流域面積三一五〇平方キ。。北の制度には、全面買収方式と区画整理方式との一一料として『国史大系』『続国史大系』を編纂・ 田口掬汀たぐちきくてい ( 一 0 五ー一九四三 ) 」うかん ギ一よく 説家、劇作家。本名鏡次郎。秋田県生まれ。丁 つがある。前者は事業者が事業用の土地を全面刊行し、歴史研究の先駆、啓蒙的史論の中心と 源流は合歓山に、南の源流は玉山に源を発し、 合流後、島の中央部を西流する。平野部に出て買収して開発を行う方式で、新住宅市街地開発なった。新聞・雑誌においては、イギリスのコ稚奉公、郡役所の雇などを経て新声社に入社し 『新声』記者となり、そのかたわら小説を執筆 分流し、広い扇状地を形成して台湾海峡に注事業、工業団地造成事業などがこれに含まれ。フデン、スミス、リカードを尊敬するとして、 よろずちょうほう ぐ。傾斜が急で流れは速く、水は上流の粘板岩る。後者は換地処分により、公共施設の用に供経済自由論の立場から、政府の経済政策に対すした。一九〇三年 ( 明治三六 ) 『萬朝報』 ' わんしゆっ によって濁っている。流域平野は水利に恵まれする土地および事業費を捻出するための保留る批判を展開。他方、実際活動の面でも東京府転じ、『女夫波』 ( 一九 0 四 ) 、『伯爵夫人』 ( 一九 0 五 ) などの家庭小説を連載して人気作家となった。 水稲の二期作や小麦の産地として知られる。上地用の土地を減歩によって生み出す方式であ会議員、衆議院議員などに当選し、とくに南洋 じっげつたん 一方、彼は脚本にも筆を染め、『トスカ』の翻 〈劉進慶〉る。土地区画整理事業、住宅街区整備事業など諸島進出に関心を示した。明治三八年四月一三 流に日月潭水力発電所がある。 いしゆくじん ゃなか しよとう Turks lslands がこれに相当する。 日、慢性萎縮腎と中耳炎のために死去。谷中案劇『熱血』 ( 一九 0 七 ) などの作品を書いた。〇 タークス諸島 ハマ諸島南東部にある諸島。 宅地需要に対して宅地開発、供給をもって対墓地に葬られる。↓日本開化小史〈松島栄一〉七年萬朝報退社後、大阪帝国座の座付作者、 西インド諸島、 グランド・タークス島、ソルト・ケイ Salt 応することはもちろん必要ではあるが、一方で回『鼎軒田口卯吉全集』全八巻 ( 一九一一七 ~ 一一九・同『大阪毎日新聞』の記者を勤めたが、一五年 ( 大正四 ) 小説「ふたおもて』発表後は創作の は既成市街地内部の宅地の高度利用化を図る必 人社 ) ▽大久保利謙編『明治文学全集凵 キ、 cay 島と七つのサンゴ礁からなる。貿易風が 筆を絶ち、美術批評に専念した。〈畑実〉 要がある。一住戸当り敷地面積についてみる 田口鼎軒集』 ( 一九七七・筑摩書房 ) ち一卓越し気候の変化は少ない。一七六〇年イギリ たぐちうんそう ( 天九一一 ー一九三三 ) 大回『明治文学全集明治家庭小説集』 ( 一九六九・ み、ス領となり、一八七三年ジャマイカの属領とな と、一戸建ては共同建ての七倍もの面積を使用田口運蔵 筑摩書房 ) しており、住宅地の敷地面積の約九割は一戸建正・昭和期の社会運動家。明治二五年五月一日 った。一九六二年のジャマイカの独立によっ タ あんせい みつあざな じ ち めおとなみ でつ 687

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きんてい せんのそうしつ ずいせつ に欽定された。これが大日本帝国憲法であり、 ま高司令部 ) の覚書で解散。性格は変わったが、堺に工場を建設する。六四年、三菱商事と契千宗室の高弟前田瑞雪について茶道を学び、 えんのうさい 一度も改正されることなく、第二次世界大戦 さらに円能斎千宗室より皆伝を受けた。学会の こ同党の流れをくむ戦後右翼に、五四年結成され約して国内販売体制強化を図るが、他部門への た大日本生産党 ( 現総裁鴨田徳一 ) と、吉田益進出が遅れて七一年ころから経営が悪化し、七創設とともに初めての茶道機関誌『茶道学誌』後、新憲法「日本国憲法」の施行 ( 一九四七年 そうきよう とえん 三が五六年に組織した国民同志会 ( 現会長吉田〇年代後半から再建に入る。その後、八四年初を発刊。また浅田宗恭、野崎兎園について五月三日 ) 前日まで存続した。 なんばうろく 〈大野達三〉め大日本製糖は解散し、社名、営業権を譲り受『南方録』を究め、『茶道講義録』をはじめ多く〔明治憲法の構造と特質〕実質的意味の明治憲 尚正 ) がある。 回木下半治著『日本のファシズム』 ( 一九七七・国けた新しい大日本製糖 ( 株 ) が設立された。資の書を著した。その後、一九一〇年 ( 明治四法は、大日本帝国憲法と皇室典範 ( 憲法と同時 三 ) に東京で改めて学会を再興し、茶法の秘伝 に制定 ) に分かれ、いすれも等しく最高の成文 書刊行会 ) ▽大日本生産党編『生産党の記本金一〇億円 ( 一九会 ) 。↓藤山雷太〈田付茉莉子〉 だ、にほんちめいじしょ士ロ 公開を行って茶道界に新風を送った。現在の会法とされたから、成文憲法は二つあることにな 録』 ( 一九五一一・民族公論社 ) 大日本地名辞書 せんおう ふぎん 〈筒井紘一〉 る。したがって、いっさいの成文法もそれに従 だいにほんせいじかい太平洋田東伍著、日本地名の最初・最大の辞書。冨山長は三代目の仙翁。 大日本政治会 ひでき 、、こ、にほんていこくけんば , っ って政務法と宮務法に分かれた。形式的意味の 戦争末期の政治団体。略称日政。東条英機内閣房発行。一九〇〇年 ( 明治三一一 l) 三月第一冊上大日本帝国憲法 一八八九年 ( 明治一三 ) 二月一一日に制定・公憲法、すなわち大日本帝国憲法は、上諭および の総辞職を契機に翼賛政治会の結束力が弱まを刊行。〇七年八月に第五冊下に至るまで一三 り、一九四五年 ( 昭和二〇 ) 二月には脱会者が年を費やして完成。通巻五一八〇ページ、各説布され、翌九〇年一一月二九日に施行された日七章七六条からなり、簡潔で、かなり弾力性が はんろん あった。それゆえに権力的支配が乱用される可 続出し、三月彼らは翼壮議員同志会、護国同志部 ( 地名部 ) 四七五一一ページ、汎論・索引部四本の憲法典の正式名称。通称、明治憲法あるい 能性を内包していた。帝国憲法は、その範型と 二八ページ、日本全域の約四万地区を対象とすは旧憲法ともよばれ、一九四七年 ( 昭和二一 D 会という一一つの院内交渉団体を結成した。こう したドイツ立憲君主制の場合と同じく、自由主 る。全国を道、国、郡の順に配列し、各郡内は五月二日まで存続した。 した状況に対応するため、翼賛政治会主流派は わみようしよう 〔制定の経緯〕徳川封建体制を解体した明治政義、民主主義の理念と、天皇制絶対主義の妥協 新党結成に踏み切り、三月三〇日大日本政治会また『倭名鈔』の「郷」に分けて説述してい る。郷は古代・中世の開発地域としてまとまり府は、政府に不満をもっ士族たちの自由民権運として生まれたものであるが、その根本規範的 を結成、総裁に南次郎 ( 陸軍大将 ) 、幹事長に 動に突き上げられて、憲法の制定に熱意を示す部分である国体規定の第一条、および政体規定 松村三、総務会長に光庸夫が就任した。そをなすことによる。 本書は「地名辞書」と題しているが、その内ようになり、一八七六年 ( 明治九 ) 九月元老院である第四条に加えられた注釈により、強い神 の結果、六月の第八七議会召集日の議席数は、 に草案起草を命じた。こうして、憲法制定の第権主義的色彩を帯びている。 容は巻頭の序言にみられるごとく「地誌」であ 日政三四九、護国同志会三一、翼壮議員同志会 民主的要素としては、政府に対するコントロ 一歩が踏み出された。元老院は、国憲取調委員 一三、無所属二六、欠員三八となり、翼賛議会り、地名を索引しやすい体裁をとっているので ぎれつ ールが弱いながらも議会が設置され、君主の専 に亀裂が入った。その後日政はみるべき活動を地名辞書としたのである。その記載は歴史地理を設けて、各国の憲法を参照し、同年一〇月 けんあん 断防止のため大臣助言制を採用し、司法権の独 「日本国憲按」第一次草稿を作成、さらに七八 に重点を置いており、著者も序言でそれを述べ しないまま、敗戦後の九月一四日解散した。↓ 〈木坂順一郎〉ている。このことは、本書がまた日本歴史地理年第二次草案をつくった。これはベルギー憲法立の原則を確立し、臣民の権利を規定するなど 翼賛政治会 の点があげられ、それが封建社会の近代化に貢 学の先駆書とされるゆえんでもある。その記載などの影響を強く受けて、民主的な色彩の濃い 回大木操著『大木日記』 ( 一九六九・朝日新聞社 ) ともみ ものであったから、岩倉具視らの強い反対を受献した。さらにその後の憲政史にみられるよう 野、津、潟、寺社、 ▽中谷武世著『戦時議会史』 ( 一九七四・民族と内容は、郷内の山、ー、 じようし け、再修正されて、八〇年「日本国憲按」 ( 第に、二回の憲政擁護運動の成果として大正デモ 島、谷、滝、城址等と主要村落の起源、耕地 政治社 ) クラシー、政党政治の開花に大きく寄与してい たいにほんせいとう近代的 ( 田数 ) について説いている。それらの史・資三次確定案 ) として奏上されたが、採用されな 大日本製糖 ( 株 ) しぎ りつ - 一くし 製糖業の先駆。正しくは「だいにつばん ~ 」。料としては六国史をはじめ中央的史書、地方かった。このころ、民間にあっても私擬憲法る。しかしながら他方、天皇主権の原理にた そうらん とう」ぶろう ち、統治権の総攬者として大きな権能が天皇に ( 私人のつくる憲法草案 ) が盛んに提出された。 誌・地方名跡志等にわたり、精細を尽くしてい 八三年 ( 明治一六 ) 鈴本藤三郎 ( 一会五ー一九 えもり なかでも植木枝盛の私案憲法「日本国国憲按」与えられた。独立命令、一連の緊急権が天皇の lll) の創業した鈴木製糖所を引き継いで九六年るが、自然や産業関係の記載は多いとはいえな はちすかもちあき などは急進的で、政府を大いに刺激したため、大権事項とされ、また枢密顧問制、貴族院の設 。また冒頭に日本歴史地理学会長蜂須賀茂韶 日本製精糖が設立された。一九〇六年 ( 明治三 しげのやす おおくましげのぶ たかし 九 ) 日本製糖を合併して大日本製糖と改称、台をはじめ大隈重信、原敬らの政界人、重野安政府も憲法制定の必要性を痛感し、国会開設ま置、軍の統帥権の独立などの反民主的要素が天 くめくこたけ 壌無窮の神話に基づく天皇の絶対性と結び付い 湾に進出する。翌〇七年大里製糖所を吸収、独繹、久米ル武ら学界人、渋沢栄一ほか財界人等でに憲法を制定することを宣明した。 こうした経緯ののち、明治憲法制定の歴史のて、日本の民主化を閉塞し、神権主義的政治構 占体制を築くが、内紛に加え〇九年の日糖疑獄二七氏から序文、推薦文等が寄せられている。 ひろぶみ ひん 事件で破綻の危機に瀕し、三井の藤山雷太が立もって各界・各層をあげての待望の名著であっ最後の幕は伊藤博文の渡欧によってあけられ造をつくりあげていった。こうした憲政の歩み は、そのまま大日本帝国憲法の特質とその歴史 〈浅香幸雄〉た。彼はドイツの法律学者グナイストやシュタ て直す。一四年 ( 大正三 ) 名古屋精糖、一九年たことが知られる。 朝鮮精糖、二三年内外精糖を合併してジャワ回吉田東伍著『増補大日本地名辞書』全八巻インの教えを受けて、ドイツ諸邦、とくにプロ的役割を物語るものにほかならす、こうした神 はっ - 一ういちう ぎせつ イセンの立憲君主制に日本国体に適合する政治権主義のたどり着いた「八紘一宇」運動の挫折 ( 一九六九 ~ 七一・冨山房 ) ( 現インドネシア ) 糖業に進出、さらに金融恐 にいた・つ ご、にほんちやどうがっかい こそ、帝国憲法の命運を端的に表現したものと 組織をみいだした。帰国後、彼を中心として、 慌後、東洋精糖、新高製糖などを吸収して内地大日本茶道学会 せんしよう いえよう。↓憲法↓皇室典範↓日本国憲法 精糖中心から台湾粗糖業へ移行、戦時統制が強近代になって田中仙樵によって新しくおこさ井上毅、金子堅太郎らが加わって最初の試案を ↓私擬憲法 〈池田政章〉 一八八〇年に作成、さらに八八年に確定草案を 化されると、四一年 ( 昭和一六 ) 台湾に本社をれた茶道流派の一つ。一八九八年 ( 明治三一 ) の創設以来、東京をはじめとする関東一円を中完成した。この間何回かの起案、修正は民間の回美濃部達吉著『憲法撮要』 ( 一九一一三・有斐閣 ) 移転、四三年日糖興業と改称する。 ▽家永三郎著『歴史のなかの憲法上巻』 心に、全国に組織を拡大している。仙樵 ( 天七五動きとはまったく無関係に秘密裏に行われ、絶 第二次世界大戦後、外地会社として連合国管 あまた ふくちゃま ー一九六 0 ) は京都府天田郡西中筋村 ( 現福知山対主義的政府の体質にあった案が作成された。 ( 一九七七・東京大学出版会 ) ▽『歴史公論六四 理下に入るが、一九四九年 ( 昭和二四 ) 大日本 げんげんさい しじゅん 号大日本帝国憲法』 ( 一九全・雄山閣出版 ) 製糖として再発足、門司工場に加えて横浜、市 ) に生まれ、二〇歳で京都に出て、玄々斎成案は枢密院の諮詢を経て、八九年二月一一日 はたん らいた 一・つい みつびし 498

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総裁 議定 参ケ ②一八六八年 ( 慶応四 ) 一月 神祇事務科 三職七科制 内国事務科 外国事務科 海陸軍務科 会計事務科 刑法事務科 制度寮 刑法官 ⑤一八六九年 ( 明治ニ ) 七月〔版籍奉還後〕 太政官制 ( Ⅱ ) 神祗官 政官 太政官制 / 明治初期官制沿革表 ①一八六七年 ( 慶応三 ) 一ニ月 神祇事務局 内国事務局 外国事務局 軍防事務局 ム計事務局 刑法事務局 制度事務局 ④一八六八年 ( 慶応四 ) 閏四月〔政体書〕 ( 六九年五月 廃止 ) 太政官行政官 ③一八六八年 ( 慶応四 ) ニ月 総裁ー副総裁 総裁局ー ( 総裁ー副総裁 ) 太政官制 ( — ) 三職八局制 民部省 大蔵省 兵部省 刑部省 呂内省 外務省 上局 下局 神紙官 会計官 軍務官 外国官 民部官 ( 六九年四月設置 ) ⑥一八七一年 ( 明治四 ) 七月〔廃藩置県後〕 太政官制 ( Ⅲ ) 正院↓七し年一月廃止 太政官 ともなった。発行総額は四八〇〇万両余で、七て、いったん参議と省卿の分離を図ったが、 「明治十四年の政変」後の八一年一〇月二一日、 九年 ( 明治一 (l) 一一月までにおもに新紙幣と 〈加藤幸三郎〉兼任を復活。同時に、法律規則の制定、審査に 交換、回収された。 ・こじようかんせい内閣制度成立以あずかる参事院を置いた。八五年一二月二一一 神祗省↓七一一年三月教部省 太政官制・ , ↓七七年一月廃止 日、太政官達第六九号をもって太政官制は廃 前の明治政府の職制。太政官はその最高官庁。 大蔵省 止。同日発足の内閣制がこれにかわった。 〔成立〕王政復古後の一八六八年 ( 慶応四 ) 一 さんしよく 兵部省↓七一一年二月陸軍省・ 太政大臣 〔意義〕太政官制は、幕藩体制を解体した新政 月一三日、太政官代が置かれ三職七科の制が 海車省に分離 ひょうばう 納言↓七一年八月に左大臣・ 宮内省 発足 ( ほどなく三職八局の制に変更 ) 。ついで権が、律令古制への復帰を標榜しつつ、全国 右大臣と改称 うるう 参議↓し三年五月に内閣議外務省 閏四月二一日、政体書を発布して立法・行統治を目ざして創出した中央権力機構である。 ぎせいかん 官設置↓七一一一年一〇月参議・ 司法省 政・司法の三権に分け、議政官以下の七官を置当初、神祇関係機構の位置づけをめぐって混乱 省卿兼任↓八〇年二月兼任 工部省 はあったものの、改革・整備は、太政官に強大 き、これらの中央官庁を太政官と総称した ( 特 廃止↓八〇年三月六部分任 部省 制廃止、参議・省卿兼任 別の官庁があったのではない ) 。しかし、三権な権限を集中する方向で進められた。しかし、 内務省 ( 七三年一一月設置 ) 天皇輔弼の責任が大臣に限られ、国政の実質的 分立の実はなく、行政を担当する五官 ( 行政・ 左院 ( 議長・議員 ) ↓七五年四月 じんぎ 農商務省 ( 八一年四月設置 ) 神祇・会計・軍務・外国 ) の首位にあった行政運営にあたる参議はこの責任にあすからなかっ 開拓使↓八一一年一一月廃止 たこと、国政の審議決定にあたる大臣・参議 官が、国政の決定・執行の中枢機関であった。 はんせぎ 院 ( 諸省長官・次官 ) ↓七三年参事院 ( 八一年一〇月設置 ) 五月臨時機関化↓七五年四 と、これを執行する諸省の長官とは権限を区別 版籍奉還後の一八六九年 ( 明治一 l) 七月八日、 月廃止 官制改革により民部以下の六省を管轄する官庁され、前者が上位に置かれていたこと、などの 元老院 ( し五年四月設置 ) として太政官が置かれ、ここに機構上、太政官制度的特質からしばしば問題が引き起こされ りつりよう 制が成立する。しかし、この改革は律令的太た。内閣制への移行によって、国務大臣と各省 大審院 ( 七五年四月設置 ) 政官制に基づく復古的なもので、三権分立制は長官との重複制が成立し、輔弼と執行との一体 〈大日方純夫〉 消え、太政官の上に神祇官が置かれた。廃藩置化が図られていく。 タシュトウイク文化ーーぶんか TaUJTblK ばんき /Tashtik ソ連、南シベリアのミヌシンスク県後の七一年七月二九日、天皇が親臨して万機回鈴木安蔵著〕。太政官制と内閣制』 ( 一九四四・昭 和刊行会 ) ▽福島正夫編『日本近代法体制 盆地に、タガール文化にかわって現れた文化を総判する正完、各省の長・次官が会合して行 の形成上巻』 ( 一九全・日本評論社 ) ( 前一一 ~ 後五世紀 ) 。牧畜とともに農耕も行われ政事務を審議する右院、議院・諸立法の事を議 だいじようだいじん だじようだいじん 0 太政大臣 ていた。墓にはしばしば火葬がみられるが、土する左院が置かれて太政官三院制が成立。その太政大臣 だじようてんのう 0 上皇 葬の場合にははとんどの頭蓋骨に孔があけら もとに外務以下の八省が設置され、中央集権国太上天皇 とん 家の最高機関として、太政官は確立された。三 れ、ミイラ化されている。そのほかに、墓に 多情仏、いたじようぶっしん里見弴の長編小 ほひっ は、埋葬人形と死仮面 ( デスマスク ) が置かれ院の中心は正院にあり、天皇を輔弼する最高責説。一九二二年 ( 大正一一 ) 一二月から翌年一 なごん 二月まで『時事新報』に連載、二四年四月 ( 前 任者の太政大臣以下、納言 ( 八月一〇日、左・ ていることもある。理葬人形とは、中に草を詰 編 ) および八月 ( 後編 ) 新潮社刊。自分の「一 右大臣と改称 ) 、参議などがこれを構成した。 め外側を皮革で覆って紐で縫い合わせた縫いぐ るみの人形のようなものである。死仮面は石膏〔変遷〕一八七三年 ( 明治六 ) 五月二日、強大生の仕事」を、「本気で惚れ、女にも本気で惚 ふじしろのぶ な大蔵省の権限を抑え、正院の権限を拡大するれさせることだった」と確信する弁護士藤代信 製で、額には赤い染料で渦巻文が、目の下には ために改革が行われ、正院には参議を議官とす之が主人公。多彩な女性遍歴を重ねながらも、 半円形の文様が描かれている。その住民は、漢 けんこん 代の中国史料にみられる堅昆にあたるとみなさる内閣が設置されて、立法・行政をはじめとす真心を尽くして生きてきたと自負する彼は、関 〈林俊雄〉 る国政の中枢機関となった。これに伴って、右東大震災の日の明け方に、「心からしたいこと れている。 だいじようかん 院は臨時に開く機関にかえられた。ついでこのをする分には、何をしたってい、ゝのだ」と言い だじようかん 0 太政官 太政官 すなはち 、、こじようかんさつ一 八六八年 ( 慶年一〇月の征韓論をめぐる政変後から、参議と遺して安らかな臨終を迎える。「多情乃仏心」 太政官札・ , きよう 応四 ) 五月、維新政府より発行された金札。政各省の卿 ( 長官 ) の兼任制が確立してゆき、参という句に想を得て、作者のいわゆる「まごこ ゆりきみまさ 議の権限はしだいに強大となった。七五年四月ろ哲学」Ⅱ「誠実至上主義」を具象化し、強ー 府紙幣の最初のもの。参与由利公正の建議によ 一四日、漸次に立憲政体をたてるとの詔書が発と思われるほど縦横に展開した作品。二〇〇〇 る。明治初年における政府の財政基盤の弱体化 を克服するため、会計基立金三〇〇万両調達とせられたのに対応して、太政官制にも大改革が枚に及ぶ大作で、大正末年の享楽的な風俗描写 げんろう 〈宗像和重〉 並んで建議、裁可されたもので、十両、五両、加えられ、左右両院は廃止。正院のもとに元老が生彩を放っている。 いんだいしんいん 回『多情仏心』 ( 新潮文庫 ) 一両、一分、一朱の五種からなる。戊辰戦争の院と大審院が設置された。七七年一月一八日、 たしよくいんさっ二色以上の色を 戦費調達とも重なり、正貨準備のない不換紙幣地租軽減・政費節減の実施に伴う機構改革の一多色印刷 として六八年末までに二八〇〇万両余も発行さ環として、正院の称は廃止され、名実ともに内刷り重ねる印刷印刷ではカラー写真やカラー れた。この放漫な紙幣発行は、政府信用の末成閣が中枢機関となった。八〇年二月二八日、参テレビと異なり、紙の上に一度に二色以上の印 刷をすることはできず、色数だけの版をつくっ 熟とも相まって、その流通を困難にし外交問題議への権限集中に対する批判の高まりに対し 廃止 ひも レ」つ ~ し あな ばしん せつこう ゆき 737

10. 日本大百科全書 14

えちぜんのだいじようずりよう ÄJ へ帰ってしまう。これ以後、大坂における義太界に新風をおこした。しかし竹田からくり芝居永一 ) 竹本越前大掾を受領 した。〔二世〕 ( 天三九ー一九一 ll) 夫の地盤は固まり、九八年 ( 元禄一一 ) には竹や歌舞伎に押されて経済的には恵まれなかった そねざきしんじゅう ちく′」のじよう ずりよ、つ 初世の孫。一八六四年 ( 元治 ナ . 本筑後掾藤原博教を受領。また一七〇三年が、一七〇三年 ( 元禄一六 ) の『曽根崎心中』 どうじよ・つ そねざき ( 元禄一六 ) の世話物第一作『曽根崎心中』はの大当りで負債を返した。筑後掾が病気引退し一 ) に京都道場の芝居へ出 いずも 大当りで、積年の借財を一気に返済しえたと伝 たのち、一七〇五年 ( 宝永一 l) 初世竹田出雲が演したのち、大坂へ下って いずも えられている。〇五年 ( 宝永一 l) より竹田出雲座本となって経営を引き受け、筑後掾の再出馬『日吉丸』三段目で好評を得 を得て興行方針を刷新、傾いた座運を盛り返しる。七五年 ( 明治八 ) 以降は が座本となって竹本座の経営にあたり、近松門 ぶんらく たんば 左衛門を座付作者に迎えて、『丹波与作待夜のた。一七一四年 ( 正徳四 ) 筑後掾の没後、政太文楽座へ出て、小音ながら情 じようるり はりまのしようじよう けいせいはんごんこう はりかわなみのつづみこもち こむろぶし』『傾城反魂香』『堀川波鼓』『嫗夫が二世義太夫 ( 播磨少掾 ) を継ぎ、『国性味のある浄瑠璃を語り、二世 こしじだゅうせつつのだいじよう やまんば やかっせん 山姥』など名作を上演していく。音声は大音爺合戦』の大成功によって竹本座の確固たる地竹本越路太夫 ( 摂津大掾 ) に次ぐ地位を占め、法善寺の で、生涯に一三〇編余の作品と多数の門弟を残位を築いた。近松の死後の作者には、座本の出 しようとく せんりゅうみよししよう し、正徳四年九月一〇日没した。大坂・天王雲、文耕堂、長谷川千四、並木千柳、三好松津太夫の通称で知られた。 ぶんだゅう ぎだゅう たけもとまさたゆう義太夫節の 寺の南、超願寺に葬る。法名は釈道喜。↓竹本洛ら、人形遣いに吉田文三郎があって、竹本座〔三世〕 ( 一会九ー一九四 D 二世の門弟で文太夫とい竹本政太夫 〈倉田喜弘〉 一九一〇年 ( 明治四三 ) 、二世津太夫が引 太夫。竹本義太夫という芸名とともに、竹本座 の隆盛に貢献した。かくて一八世紀中ごろ ( 享 ぎだゅう たけもとこしじだゅう義太夫保末 ~ 宝暦 ) には人形浄瑠璃全盛期を迎え、退して七世綱太夫襲名と同時に文太夫が三世を系では重要視される名前で、代々名手が続出し 竹本越路太夫 すがわらでんじゅてならいかがみよしつねせんばんぎくら かなでほん ー一七四四 ) 竹本義太夫の門 節の太夫。二世は義太夫節の全盛期をもたらし『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本名のった。この三世は二四年 ( 大正一三 ) からている。〔初世〕 ( 一六九一 やぐらした ちゅうしんぐら とよたけ 忠臣蔵』などの名作を続々上場して、豊竹座文楽座の櫓下になり、その豪快な語り口は弟。義太夫が没した翌一七一五年 ( 正徳五 ) 和 た明治の名人であり、三世は大正の名人であっ みようせき 歌竹政太夫から竹本政太夫と改名。小音ながら たため、近年になって非常に大きな名跡とな ( 一七 0 三創設 ) とともに歌舞伎を圧倒した。当時「カの芸術」とたたえられた。〔四世〕 ( 一九一六ー じよう とよたけ つるぎわ こくせんやかっせん ) 三世の子。本名村上多津一一。父および豊竹喜怒哀楽の情をよく語り、『国性爺合戦』をは った。〔二世〕 ( 天三六ー一九一七 ) 三世鶴沢清七や五竹本座のじみな芸風を西風、はでな豊竹座を東 やましろのしようじよう じようるり 世竹本春太夫に学び、初め竹本南部太夫と名の風とよんだ。その後、歌舞伎の興隆に押されて山城少掾に師事し、一九五〇年 ( 昭和二五 ) じめ数多くの当りをとって、浄瑠璃中興の祖と ぎちペえ しだいに衰え、最後の名作者近松半一一の努力も に四世津大夫を襲名。七三年重要無形文化財保 いわれた。三四年 ( 享保一九 ) 二世義太夫を継 った。一八六〇年 ( 万延一 ) に三世野沢吉兵衛 かずさのしようじようずりよう 〈倉田喜弘〉 ぐか、翌年上総少掾を受領。さらに三七年 と江戸へ下ったとき、吉兵衛の亡父の名前を継むなしく、三世出雲の代の一七六七年 ( 明和持者に認定される。 ぎだゅう はりまのしょ・つじよう たけもとつなたゆう義太夫節の ( 元文一 l) に再受領して、竹本播磨少掾とな いで二世越路太夫となる。三年後に帰坂して文四 ) に退転、その後一時復興したが長くは続か竹本綱太夫 みようせき ぎこば 〈山本二郎〉太夫。名人上手が続出した名跡である。〔初る。〔二世〕 ( 一七一 0 ー ~ 釡 ) 大坂雑喉場の商人の出 楽の芝居に出演。七七年 ( 明治一〇 ) に春太夫なかった。 ぎだゅう とよぎわ たけもとすみたゆう義太夫節の世〕 ( ? ー一七実 ) 二世竹本政太夫の門弟で、一身で、俗に雑喉場政太夫とも西口政太夫ともよ が没したのちは二世豊沢団平を相三味線とし竹本住太夫 すがわらでんじゅて やぐらした ー天一 0 ) 一七七六一年 ( 宝暦一一 ) に竹本座へ出演した。 ぶ。二世の門弟から養子となる。『菅原伝授手 八三年に文楽座の櫓下となった。太夫。六世まである。〔初世〕 ( ? なんほ がつほう ならいかがみよしつねせんばんぎくら かなでほんちゅうしんぐら ー天 0 五 ) 『合邦』や『中将姫』を習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』な 八五年以来しばしば東京へ行ったが、そのつど六七年 ( 明和四 ) に江戸へ下り、大田南畝 ( 岡〔二世〕 ( 一七哭 こくちょう いのくま 流行させ、猪熊の綱太夫といわれた。〔三世〕どの上演により、竹本座に全盛期をもたらし 持ち前の美声で聴衆を魅了し、義太夫節の普及山人 ) と親しく交わる。通称石町の住太夫と あめや あこぎ ながつばね I<II) 二世の門弟。俗称を に大きな足跡を残した。一九〇三年 ( 明治三 いわれた。大坂では『長局』で評判をとった。 ( 生没年末詳 ) 飴屋の綱太夫で、『酒屋』『阿漕』た。〔三世〕 ( 一七三一一ー ふうび たなペ せつつの ー天五五 ) 江塩町政太夫、また前名にちなんで中太夫の政太 ー八九 ) 紀州 ( 和歌山県 ) 田辺の出などで一世を風靡した。〔四世〕 ( ? 六 ) 六世竹本春太夫を襲名したのち、竹本摂津〔四世〕 ( 一全九 だいじようずりよう 戸堀とよばれ、一 八一一一年 ( 文化九 ) 以来、大夫ともいう。登場人物ごとに語り口を変える技 大掾を受領する。同年五月の披露興行は、七身で、世話物の名人といわれた美声家。一、 やぐらした せんだいはぎ ひころく 五日間の大入りを記録した。『先代萩』『中将四年 ( 明治一七 ) の彦六座創設時に櫓下とな坂と江戸で名声を博した。〔五世〕 ( 生没年末巧を使い、従来とはまったく違った演奏法を確 こしじだゅう っしま かわしよう じゅしゅこう つやもの ー一九五九 ) 三世竹本越路太夫の詳 ) 一八三〇年代 ( 天保年間 ) に出座し、対馬立した。一代の当り芸は『河庄』である。四 姫』『十種香』などの艶物が得意で、一三年る。〔六世〕 ( 一会六 やぐら ~ ゅ・つ <llllll) も五世 ( 一天 0 ー天四 0 ) も櫓 門弟で、小常太夫から常子太夫、八十太夫、文太夫から綱太夫を継いだのは六八年 ( 明治一 ) 世 ( 一七五 0 ー一 ( 大正一 l) 引退。大正六年一〇月九日没。〔三 した 世〕 ( 天六五ー一九 = 四 ) 二世の門弟。摂津大掾に次字太夫を経て、一九四一年 ( 昭和一六 ) に住大であるが、主として京都で活躍した。以上はす下を勤めた名手であった。なお六世の襲名は紛 やぐらした みつわかい おんづか いで文楽座の櫓下となった。音遣いに秀でた名夫を継いだ。三和会の中心となって活躍し、五べて櫓下級の実力者といえる。〔六世〕 ( 天四 0 議をおこし、四世重太夫の願いは実らず、東京 ゃなぎ なると の岡太夫 ( 天一五ー九七 ) が一八九三年 ( 明治二 ー会 ) 『柳』『鳴門』を流行させた江戸っ子。 人で、『尼ヶ崎』『寺子屋』『酒屋』などを得意五年 ( 昭和三〇 ) 重要無形文化財保持者に認定 はしもと くつかけむら とよたけ 〈倉田喜弘〉 〔七世〕法善寺の竹本津太夫 ( 二世 ) の後名。六 ) に継いだ。 とした。〔四世〕 ( 一九一三ー ) 本名小出清。豊竹され、五八年に引退。『橋本』『沓掛村』などの いくたいわおとよたけやましろのしよう ぶんらくじようるり やましろのしようじよう 〔八世〕 ( 一九 0 四ー六九 ) 本名生田巌。豊竹山城少ダケモミ 0 ウラジロモミ 山城少掾の門弟豊竹つばめ大夫が一九六七世話物を得意とし、著書に『文楽浄瑠璃物語』 じよう 年 ( 昭和四一 l) に襲名。七一年には重要無形文がある。 〈倉田喜弘〉掾の門弟で、昭和中期を代表する名人。一九タケヤシ butterfly pa 一 m \ 0 、嵶 d 。・ かわ たけもとせつつのだいじよう 0 四七年 ( 昭和二 (l) 八世綱大夫を襲名。『河き、ミ c s Wendl. ( ゝミミ一ミ es 化財保持者に認定され、八四年に芸術院会員に竹本摂津大掾 しよう ふういんきり たけもと、、しじだゅう 庄』『封印切』といった近松物はもとより、古 Bory) ヤシ科アレカ亜科タケヤシ属の代表 〈倉田喜弘〉竹本越路太夫 推された。 ぎだゅう ぶんらく じようるり たけもとつだゅう義太夫節の太典の継承、文楽の発展に力を注ぎ、五五年重要種。マダガスカルの特産種。古くヨーロッパに たけもとざ人形浄瑠璃の劇場。初世竹本津太夫 竹本座 しようべえ 第、たゆうちく一のじよう ー天 ) 津の国屋を屋号とす無形文化財保持者に認定された。著書に『でん観賞用として導入され、以来世界に広く普及し 竹本義太夫 ( 筑後掾 ) が興行師竹屋庄兵衛と夫。〔初世〕 ( 一七九一一 つなたゆう どうとんばり 〈倉田喜弘〉た。俗にアレカヤシとよぶこともあるが、アレ 提携し、一六八四年 ( 貞享一 ) 大坂道頓堀に創る二世竹本綱太夫は、その一字を京都の弟子桜でん虫』『かたつむり』がある。 たつまっ ~ 、け ; もとはり・オのしょ , つじよ、つ カヤシの代表種はビンロウジゝき c ミ e ~ 、 源助に贈り、津太夫と名のらせた。のち、三 設、作者に近松門左衛門、人形遣いに辰松八郎 竹本播磨少掾 たけもとまキ一たゆう かじだゅう ごんえもん L. で、紛らわしい呼称である。幹は高さ八 兵衛、三味線に竹沢権右衛門らを擁し、浄瑠璃世梶太夫、五世染太夫を経て、一八四八年 ( 嘉 0 竹本政太夫 、こき あま にしふう こくせん 髪一ド 4 タケヤシ環紋のめだっ幹と若い果実 716