インド - みる会図書館


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1. 日本大百科全書 15

に至るガンジス流域を領土とし、グプタ帝国の大湖、ミシシッ。ヒ川からフロリダ州、メキシコ である。設計はフ一フンス人の著名な都市計画家チャンドラー Raymond Chandler ( 天 北部と広く分布する。体は細長く鱗がない。比 ル・コルビュジェに依頼した。町は碁盤割りで会 ー一九五九 ) アメリカの推理作家。 ードボイ基礎をつくった。その間に、ビハール北部の名 広い街路と公園が特色である。州庁舎をはじめルド推理小説のエスプリに到達した作家として家リッチャビ家の娘クマーラデービーと結婚較的大きな脂びれをもち、尾びれは「一叉する。 州議会、ヾ。 ノンシャープ大学など、他のインドの世評が高い。一九三三年に最初の作品をパル し、そのうえ「大王の王」「最高の君主」とい 肉は引き締まって美味であり、また大きい個体 ぎんしん 一一六キロにもなるので、漁業上重 都市とはまったく異なった斬新なデザインの建プ・マガジンに発表し、三九年の『大いなる眠う王位を誇示するサンスクリットの新しい称号では一・二 物が多い。このように近代的な都市だが、反面り』で高い評価を得たが、探偵フィリップ・マを唱えて、王朝の権威を高めた。その後北イン要な種である。また、アメリカでは養殖された インドの現実から遊離しているとの批判もあ ーローはこのときの創造である。五四年にエド ドに広く用いられたグプタ紀元の元年は三二〇り、釣りのよい対象魚となっている。イギリス る。住居地区はすべてコミュニティ計画にのつガー賞を受賞した『長いお別れ』は彼の最高傑年にあたり、それは彼が王位についた年と考えではペットとして輸入されている。日本では試 とっており、インドの在来都市に多いカースト 〈山崎利男〉験的に養殖されているが、まだ本格的には行わ 作といわれ、その凝縮された描写、皮肉な会られている。 〈中坊徹次〉 別、人種別、宗教別、出身地別の住み分けはで話、サスペンスと暴力の漂う雰囲気、構成力のチャンドラグプタ ( 一一世 ) Chandragup- れていない。 きるだけ排除し、混在させるように努力してい あるプロットなどで都会的文学性を漂わせてい Champa インドシナ半島東 ta = 生没年不詳。インド、グプタ朝第三代チャンバー る。しかし、この町の建設にあたった多くの労る。ハリウッドの脚本家として、一時期活躍しの王 ( 在位三七六 ~ 四一四ころ ) 。チャンドラグプタ一岸、・ヘトナムのフェ ( ュエ ) 地方から南部にか 働者が、そのまま住み着いたバスティー ( スラたこともある。↓大いなる眠り 〈梶龍雄〉世の孫。ビクラマーディティャ ( 武勇の太陽 ) けて存在したインドネシア系のチャム人の王 くりん ム ) が市街の縁辺や空き地に発生し、また近代回「世界ミステリ全集 5 チャンドラー』 ( 一九と称し、中国文献では超日王と記されている。 国。中国の史料によれば、土侯の区憐が一三七 的なショッピングセンターよりも、インド在来 七一一・早川書房 ) ▽フランク・マクシェイン彼は父王サムドラグプタの広大な領土を継承し年ごろ日南郡象林県に侵入したのが始まりで、 りんゅう のバザール ( 露天市 ) が繁盛するなど、ヨーロ 著、清水俊二訳『レイモンド・チャンドラー て、治世の初めに中央インドの政治、文化の中国名を中国では林邑とよんだ。ただし九世紀中 せんじよう ッパ的な都市景観や住み方も、しだいにインド の生涯』 ( 一久一・早川書房 ) 心地ウジャインを占領し、三世紀にわたって支ごろ以降は占城とよんだ。チャンパーはイン げつしよう 本来の様式に変わりつつある。 配していた異民族たるシャカ民族を駆逐して、 ド文化系の王国で、サンスクリット語の呼称で 〈北川建次〉チャンドラキールティ 0 月称 ある。クアンナム・ダナン省から出土した四世 チャンデルナゴル Chandernagor イチャンドラグ。フタ Chandragupta 生中央インドからグジャラートまでを征服した。 ンド東部、西べンガル州東部の都市。シャンデ 没年不詳。古代インドのマウリヤ朝の建設者その南のデカンのバーカータカ朝には娘を嫁が 紀後半のサンスクリット語の碑文により、イン ひせん ルナゴルともいう。カルカッタの北三四キ。、フ ( 在位前三一七 ~ 前一一九六ころ ) 。卑賤な階級の出身とい せ、この婚姻関係を通じて南部に勢力を及ばし ド文化の浸透・定着が明らかになった。住民は さんろく ーグリ川沿岸に位置する。人口四二万一二五六 われているが、確かなことはわかっていない た。かくして、彼はべンガル湾からアラビア海チョンソン山脈山麓の狭い沿岸平野に住み、国 一六七三年フランス東インド会社が建マガダ国のナンダ朝を倒し、それにかわって、 に至る広大な領域を支配して、その車事、行政内はいくつもの地域に分立していた。チャンパ 設し、以後イギリスとの間で争奪を繰り返した 二世紀にわたり進展してきたマガダ国の北イン制度を整備し、また大量な金貨を発行して、貿 ーは、ベトナム北部の広大で肥沃な平野部を略 が、インド南部のポンディシェリとともにフラ ド統一支配の事業を遂行し、さらにアレクサン易商業を盛んにした。この繁栄のようすは、当取しようとして北進を目ざし、ホアソン地方 まつけん ンスのインド貿易の拠点であった。一九五〇年ドロス大王が残したギリシア人勢力を西北イン時北インドを訪れた法顕の旅行記に記されてい ( ビンチティエン省北部 ) へ侵攻を続けた。し インドに返還された。郊外にジュートや綿織物 ド辺境地方から一掃した。紀元前三〇五年ごろる。このときはサンスクリット文学の最盛期に かし、五世紀からは敗北の連続で、一四七一年 の工場がある。 〈貞方昇〉セレウコス朝ニーカトール ( セレウコス一世 ) あたり、後世詩聖と仰がれたカーリダーサがウには・ヘトナムの黎 ( レ ) 朝聖宗の攻撃により首 が東進すると、これと和議を結んで、アフガ一一 ジャインで詩と戯曲をつくった。 〈山崎利男〉都ビジャヤが陥落し、滅亡への道をたどった。 チャンド一フー Seth carlo Chandler ー一九一三 ) アメリカの天文学者。ポストン 現在チャム族はベトナム南部のファンラン地方 スタン南半をも領土とした。かくして彼は空前チャンドラ・ホース <> ポース こうなん に生まれ、一 八六一年生地の高校を卒業後、たの大領域をもつインド最初の統一帝国を建設し などに残っているが、一部はイスラム化した。 チャンナン 0 江南 へいげん Plaines フェ地方のミソン遺跡には当時のヒンドウー教 だちにグールド ( ダッドリー天文台長 ) の助手た。この帝国については、セレウコス朝の使節チャンニン平原 となり、六四年にアメリカ海岸測量局で経度測 メガステネスの旅行記と、チャンドラグプタの des Tranninh ラオス中部の平原。ビエンチ系の寺院址、美しい上品な彫刻・破風が残って 量に従事した。八一年 / ート大学天文台員宰相カウティリヤの著作といわれる『アルタ・ ャンの北方一五〇 ~ 一九〇キ。、標高一二〇〇 ~ おり、とくにチャムの塔は有名である。↓チャ ム族 〈石澤良昭〉 となり、実地天文学の観測に精進、その業績に シャーストラ』 ( 実利論 ) とに描かれている。 一四〇〇に位置し、南北四〇キ。、東西五〇キロ ちょうはく一ん さんち 0 長白山 より、九一年デ・。ハウ大学より学位を得、九五それによれば、彼は専制的な君主であって、帝にわたって広がる。古代人の墓といわれる大きチャンバイ山地 つぼ 年国立科学アカデミーからワトソン賞を受け、国の支柱は巨大な常備軍と機構の整備した官僚な壺が並ぶ遺跡があり、ジャール Jarres ( フ地 ↓っド」し ) っ さらに九六年イギリスの王立天文協会から金メ とであった。豐饒なガンジス流域は河川によ ランス語で壺の意 ) 平原ともよばれる。ラオスチャンバラチャンチャンバラ・ハラの略。 かん力い ダルを授与された。天文通信の改良、浮遊天頂って灌漑され、その発展した農業生産は帝国の最高峰のプービア山 ( 一一全 0 ) がある。一九六白刃を持って斬り合うことの俗称で、演劇、映 儀の考案、緯度の精密測定、彗星および変光星経済的基盤となった。また、都市の商工業を管〇年代の内戦では、その地理上の位置から戦略画、テレビなどの用語として使われている。一 の観測、恒星目録の調整などの諸業績のなかで理下に置き、その交易を監督した。〈山崎利男〉上の要地とされ、左右両派の争奪の地となっ 九一七年 ( 大正六 ) に新国劇を旗揚げした沢田 も、特長は緯度観測の方法と成果である。自作 〈菊池一雅〉正二郎が従来にない迫真的な殺陣を考案して人 チャンドラグプタ ( 一世 ) Chandragup- 気を集め、これがチャンバラ劇すなわち剣劇の の浮遊天頂儀を用いて一八八四年秋から翌年の ta 一生没年不詳。古代インドのグプタ朝第一チャンネル 0 チャネル 、ま 春にかけて継続観測し、その誤差〇・〇二八秒代の王 ( 在位三一一 0 ~ 三三五ころ ) 。三世紀中ごろ、ク チャンネルキャットフィッシュ chan- 流行を招き、昭和期には女剣劇も生まれた。そ ばんどうつまさぶろうおおこうち シャン朝衰退後、マガダ地方 ( 今日のビハール ん角の精度を吟味して周期四二七日の緯度変化を nel catfish \ 、ミミミミ s ミ、ミ ~ 、 s 硬骨魚の影響は映画にも及び、阪東妻三郎、大河内伝 や発見、その原因が振幅〇・三秒角範囲の極運動州南部 ) に興起した小国に生まれ、周辺の諸勢綱ナマズ目イクタルルス科 lctaluridae に属す次郎など多くの剣劇 ( 時代劇 ) スターが輩出し 〈島村福太郎〉力を征服して、アラハ ードからべンガル北部る淡水魚。アメリカ大陸のプレーリー地方、五た。↓剣劇↓時代劇 〈向井爽也〉 3 ちに基づくことを実証した。 ひょく

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、こ裏づけられた一元支配の構造も、教会と国家の なった。しかし、インド的中世社会を決定的し いるのは、インドにおける中世の成立を、①地 戒律の根本にあり、彼ら修道士は、フランク王 二元社会が法の下に均衡する西欧とは異質であ 国時代のアイルランド教会系修道士に範をとっ方における領主的階層の成立、②諸カースト解体したのは、一八世紀中ごろからのイギリス 〈小谷汪之〉り、西欧的経験の所産である国民国家も中国に て、開墾に、農事指導に働いた。教会領、修道 ( Ⅱジャーティのこと。いわゆるバラモン、クのインド植民地支配であった。 はなじまない存在であった。 院領は、どこの土地にあっても領地経営の範型シャトリア、バイシャ、シュードラという古代 中国 〔中国史における歴史的転期〕さて文化の早 となった。 インドの種姓制とは異なり、カーストⅡジャー ティとは現実的な人々の社会集団のことであ〔時代区分設定の意義と問題点〕一九世紀から熟、連続、独自性を前提としたうえでなら、中 教会人はまた社会福祉の担い手であった。一 六世紀に入り、都市の肥大化に伴う社会問題のる ) の形成とカースト制の完成、③それと表裏世界の一体化が進むなかで、固有の伝統文化を国の社会経済体制、国家組織、技術関連の相関 において、発展と進化の転期を画することは可 増大は、貧民救済の「世俗化」、すなわち都市をなす村落共同体の形成、①ヒンドウー教ある背負う非西欧世界においても、近代化の歩調に 能である。古典期を除けば中華帝国期は初期 いはヒンドウー的文化の形成、に求めることで加わることは、ほば普遍で不可逆の課題となり 当局による肩代りを促した。ここに中世カトリ つつある。こうした内在状況が、発展の普遍史 ( 秦・漢 ~ 唐 ) 、中期 ( 唐末 ~ 明末 ) 、晩期 ( 明 ック教会の社会的役割の重要な部分が滑落したある。このように、今日ともすれば超時代的な のである。 インド社会の特徴とされるものは、ほとんどすと各世界文化の独自性の交差のなかで、近現代末 ~ 清末 ) に三分できる。この際、普通、帝国 ぶんすいれい のルーツを探り、そこに中世を設けるとすればの大分水嶺的転換期とされる唐・宋変革期 ( 九 ~ 一〇世紀ごろ、いわゆる中世の成立 教会はまた教育と文化の機関であって、ラテ どこまでさかのばったらよいか、また中世社会 ~ 一三世紀 ) が、中世革命期、中世的転換期と ン語を保守して古典の学芸を伝承し、年代記の期に姿を現すのであって、太古以来存続したと なる。 いうようなものではけっしてない。 のどのような転換が近現代との関連でだいじな 形で歴史を記述した。王侯伯の家政の文書部局 まず国家の形成原理からみると、効率的な行 の長は一三世紀末に至るまで教会人が独占し 〔経過と特徴〕こうして形成されてきたインドのかという問題を生み出すのである。 世界史を古代、中世、近代と三分する構想政組織の始原は秦・漢にあるが、内容が進化を た。一二世紀はイスラム文化圏を介する古典の的中世社会は、一二世紀から一八世紀のムスリ 学芸摂取の時代であり、一三世紀に入れば都市ム諸王朝の支配期にも基本的にはそのまま存続は、人類史の普遍性を見定めるうえで重要であ遂げ、官吏登用法 ( 科挙 ) が確立し、新人登 におけるもう一つの身分団体「大学」の形成をし、さらに発展していったと考えられる。一二るものの、比較の尺度には西欧世界の発展史が用、昇進、行政監察、職務の系列化 ( 三省六 みる。その過程はまた、ヨーロッパ固有の思考世紀初頭、北インドに初めて成立したムスリム暗黙のモデルとされてきた。しかし、その封建部 ) 、文治が徹底して独裁機構がなり、ことに 制や資本主義文明の相対的で特殊な状況が自覚科挙を通じて教養、富、才能による競合的才能 の形成、すなわちスコラ哲学形成の過程でもあ王朝 ( 奴隷王朝 ) ののち、北インドではハルジー 朝、トウグルク朝など四王朝が続き、デリー諸されてきた今日では、かりに三区分法を非西欧主義が社会の普遍価値として定着し、社会は統 り′、ち・ト画、つ 弓イオこうして六朝以来の門 〔一言語の定着〕言語は「ラインとマースの間」王朝と称せられる。これらの王朝支配期の社会世界に用いるにしても、その比較の尺度は文化合と安定をヒしこ。 については、史料が乏しく、あまりよくわからの個別性を意識した柔軟なものでなければなら閥貴族、武人の専権が一掃され、新興の地主、 を境にして北東のチュートン語圏、南西のロマ きようしん 富商、その母胎の地方エリート ( 郷紳 ) が支 ないが、イスラム神秘主義 ( スーフィー ) の諸派ない。中国についてこうした試みはまだ緒につ ンス語圏がようやく定まった。後者はケルト語 配層に登場し、政治の社会支持層が広くかっ流 いたばかりである。 が農村部にまで進入し、イスラム教の底辺への に洗われたラテン語を母胎とし、北のオイル 〔中国の歴史的独自性〕ます下限からみると、動的となった。両税法 ( 唐末 ~ 明末 ) はこの拡 語、南のオック語に分かれ、前者の叙事詩、後 浸透をある程度実現していつ、たことが知られて いる。この時代、一四世紀中ごろにはムスリム 普通、中国の近代化は一九世紀なかばのアヘン大に対応し、政府の世俗勢力 ( 地主、富商 ) に 者の叙情詩の制作は一一世紀の末にまでさかの ばる。一三世紀以降、オック語圏が分解し、ロ政権がデカン高原地方にも成立 ( パフマン朝 ) 戦争が起点とされている。ただし一九世紀の中対する統制が柔軟化するとともに、貨幣経済が し、こののちデカン・ムスリム五王朝と称され国は、旧社会の絶頂期と破局期が並び立っ特異国の財政基盤を拡大強化し、膨大な常備軍、官 マンス語系諸国語の形成をみる。チュートン語 な状況であったから、明確な近代化の歩みは一僚集団が生まれ、交通、産業開発、教育文化の る王朝が成立して、南インドのビジャヤナガル は南ドイツからイングランドにかけて展開し、 しものせき 八九五年の下関条約以後とする見解も成り立施設も拡充し、社会に安定と活力を与えた。一 一三世紀には、侵入以前の記 意を叙事詩に成文王朝と抗争したが、ビジャヤナガルは一六世紀 初め衰退し、ムスリム権力がさらに南にまで及つ。こうすると初期近代の上限、さらに中世社方、社会の都市化と自律化も進化した。宋以後 化する。ヨーロッパ社会はようやく自前の一一 = ロ語 で思考し、歴史を記述するまでに自意識を高めんだ。一六世紀初めムガル帝国が成立すると、会の始源はという問題が生するが、その前に文の社会では、都鄙の分化や相補・相克関係がは 〕〈堀越孝一〉 化の連続と官僚制の存在を考えておく必要があっきりしてきた。県城の総数は人口増Ⅱ生産 たのである。↓封建制〔ヨーロッパ しだいに版図を拡大し、ほばインド全域を支配 増に相関せす不変であったが、地方農村に鎮 した。しかし、ムガルの支配は版図の拡大の裏る。 インド 三千余年の中国史は、初期伝統の成立期であ ( 町 ) や市場地が無数に発生し、日常の交換で で弱体化し始めており、北インドにおけるシク り氏族制にたっ先秦千余年の古典期ないし都市つくられる村々と市場からなる小社会経済空間 教徒領主層の成長、ジャート族領主層の強大化、 〔中世社会設定に関する諸説〕インド史におい しん デカン地方におけるマラータ諸勢力の台頭によ国家期と、秦・漢 ~ 清二千余年の官僚的中華帝プロックが細胞状に広がり、鎮を介し、さらに て、どの時代を中世とよぶかは人によって違い 国期とに二大分するのが自然である。その指標県を介して都市間経済の網の目に組み込まれ、 がある。旧来は、一一世紀までのヒンドウー諸って足元から動揺し始めた。これらの領主層が、 は国家形成原理の特異性にあり、中国が早熟的社会は自給性を脱して分化した有機的、流動的 ~ 一〇世紀以来成立してきた領主層と直接に 王朝時代を古代、一二世紀から一八世紀までの ムスリム諸王朝の時代を中世とよぶ場合が多かつながるものなのか、あるいはそれらとは性格に巨大人口規模と高度の生産力・生産量、経な状況を呈し、ギルド、結社が育ち、地域的、 社会経済的な自律の組織が発達した。民衆は徴 の異なるものなのか、今日の研究段階では十分済・軍事・組織の技術、そして巨大空間の政治 った。しかし、近年、経済構造をメルクマール 明らかにすることができないが、ただ、中世成単位を達成し、二千年の官僚政治の帝国を持続税、治安、教化、科挙については国の一元支配 として、中世Ⅱ封建制と理解する立場が一般化 の下にたったが、社会経済生活では前述の市場 せしてきた。この立場にたつ人々の間にも、中世立期に形成された村落共同体の変質過程から成したことは、比較史上の特例なのである。この キ一ようぞく , フの始期については諸説に分かれ、グプタ朝解体長してきたものであることは、はば明らかとな種の官僚制は前近代世界では古代エジプトと並プロック、結社、ギルド、郷紳、郷族の下で ゅ・期の六世紀、ハルシャ朝崩壊後の八世紀を始期っている。こうして、ムガルは一七〇七年アウぶ異例であり、帝国は東西口ーマより長命であ自律の幅を広げた。 こうした活力と安定は、生産、技術、商業、 5 った。また文化主義というべき中華的世界観に ち一とする説などがある。これらの諸説に共通してランゼープの死後、急速に解体に向かうことに

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じゅおうきようすかん 敦煌莫高窟第 249 窟天井画西魏時代 十王経図巻北宋代紙本着色縦 29cm 重文大阪和泉市久保惣記念美術館 し物みせ人 画面の中央には , 須弥山を背にして立つインドの神 , 阿修羅が描かれている。 敦煌石窟で発見された仏画や経巻は , 東洋学の発展に寄与すること多大であっ インド神話に基づく西方の神々と , 中国の神々 , 風神や雷神が混じり合って た。本図はここで発見された『十王経図巻』の巻頭で , 釈迦如来を中心にして , 十 いるところに敦煌壁画の特色が見て取れる 王が列座する光景を表している ヒんこうはっこう : つ 敦煌莫高窟第 220 窟壁画唐代 この七仏薬師浄土変には , 「貞観十六年」と いう墨書の題記があり , 642 年の造営になる ことが知られる。舞楽する人たちは全部で 32 人。舞い人は 4 人 , 楽隊は 28 人が左右に分か れて 2 組となっている。横笛を吹く者 , 琵琶 げんかん や阮咸を弾する者 , 小鼓を叩く者など , 華麗 な奏楽が仏前において演しられる 491

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いわば受精の瞬間、死有は死の瞬間であり、本 〔効用〕噛むことは人間の本能的な欲求であへの忠」の強調 ( 忠君思想 ) も、とくに武家の面、たとえば、注意しないで通り過ぎていた店 る。精神的にいらいらしているときに物を噛む思想やその反映を受けた近世思想には強く流れも、いったん買い物の必要を生じると注意が向有はいわゆる一生、中有は死有と生有の中間の けられる。 存在である。中有は七日刻みに七段階に分か と気分が治まる。第二次大戦でアメリカ兵の携ている。もとより忠孝は一体だと説かれるが、 〔注意の移動と持続〕注意は刻々に移動する。れ、各段階の最終時に生有に至る機会があり、 帯食糧にチューインガムが配給されたのも戦場しかし社会集団かそれとも家族かという際に しじゅうく : ち 音楽を聴きながら読書をすると、音楽のある部遅くとも七七日 ( 四十九印 ) までにはすべての は、忠・忠義を中心とすることが多く、家族Ⅱ での緊張を和らげるためであった。噛むことは あごや歯ぐきを鍛えるのにも役だち、また、食後孝を重んする中国とは対照的である。この傾向分が注意されたり読書のある部分が注意された生物が生有に至るとされている。遺族はこの まん 日 四十九日目には満 七日ごとに供養を行い、 り、また、それそれの他の部分が注意されない は、幕末には水戸学や志士の忠孝・天皇忠誠な にチューインガムを噛むと歯に付着した食べか ちゅういん こともあり、まれには両方が注意されたり、逆中陰の法事を行う。四十九日という時間は、 どに変形して、やがて明治以降の日本社会の一 すを除去できる。一方、チューインガムに含ま 〈黒住真〉 に両方とも注意されないこともある。注意の移おそらく死体の腐敗しきる期間に関連があると れる甘味料や各種添加物はむし歯やその他健康つの原理ともなった。↓孝 めいりよう 〈定方晟〉 回赤塚忠・福永光司・金谷治・山井湧編『中国動は、同じ様相の感覚ではいっそう明瞭であみられる。 とのかかわりで問題となっており、材料や用い ちゅういんこっきようふんそう 方によって多くの異論が出ている。〈河野友美〉 文化叢書 2 思想概論』 ( 一九穴・大修館書店 ) る。談話中に並行して近くの人々の談話を注意中印国境紛争 中国とインド両国間の国境をめぐる紛争。一九 ▽和辻哲郎著『日本倫理思想史』上下 ( 一九するのはきわめてむずかしい チューインガムノキ 0 サポジラ 両耳に並行して別々にイヤホンを通した音刺五四年に中印両国は平和五原則を声明し、紛争 五一一・岩波書店 ) ▽丸山真男著『忠誠と反逆』 忠ちゅう中国倫理思想の一概念。字義から の平和的解決を確認したが、五九年にチベット いうと、中なる心、真心。かならずしも君臣間 ( 『近代日本思想史講座Ⅵ』所収・一九六 0 ・筑摩激を与えた実験では、あらかじめ教示した内容 だけが注意されること、また、内容を短時間で反乱が起こりダライ・ラマがインドに亡命した の道徳に限らない。「人の為に謀って忠ならざ 書房 ) がくじへん ちゅう ちゅうあいてんのう生没年不詳。中断して左右の耳に交代に与えると注意を防害のを契機に、同年八月と一〇月に両国の東部お りしか」 ( 『論語』学而篇 ) 。孔子の道は「忠仲哀天皇 りじん 恕」で一貫していたという ( 里仁篇 ) 。真心と 記紀によれば第一四代の天皇。四世紀の在位とすることも確かめられている。しかし、自分のよび西部国境で衝突が発生した。ついで六二年 たらしなかつひこ 思いやり。もっとも臣が君に対して真心で仕えなるが明らかでない。足仲彦天皇ともいう。名前のような音刺激はこれと関係なく注意され一〇月、中国車は東部および西部国境で大規模 しも よ やまとたけるのみこと ふだじのいりひめおきながたらし な攻撃を行いインド軍を敗走させたのち、もと ることも忠。「下と為りては克く忠」 ( 『書経』日本武尊の第二子。母は両道入姫。気長足ることも確かである。 かくせ、 ひめじんぐう 注意をどれだけ持続できるかの度合いを覚醒の国境線に引き揚げた。 伊訓 ) 。だいたい初期の儒教倫理では、父子は姫 ( 神功皇后 ) を皇后とする。『日本書紀』に ぎごう かしひ くまそ てんごう 係争地域は西、中、東部の三地域があり、西 天合 ( 先天的関係 ) 、君臣は義合 ( 合わせ物、よれば、筑紫の橿日宮 ( 福岡市香椎 ) で熊襲を度 vigilance という。技術作業面で近来、覚 しんきよう 部は中国新疆ウイグル自治区アクサイチン、 離れ物 ) であった。孔子、孟子とも、親への孝討っことを協議したとき、皇后に神がかって、醒度がとくに要求されている。たとえば、瞬間 しらぎ の前には、国家への忠誠など無視してよいと考熊襲よりも新羅を先に討っことを託宣した。天視で指示針の振れを報告する実験で、指示針のインド・ラッダーク地区で、中国の建設した新 える。忠が臣下の道徳として固定し始めるのは皇は託宣を信ぜず、熊襲を討ったが勝っことが振れが時空的に不規則に任意の位置に呈示され疆・チベット公路があり、中国が支配してい じゅんし 戦国末の荀子あたり ( 『 ~ 旬子』臣道篇 ) であできなかった。そのうえ病気になり、五二歳でる場合には、規則的に定位置に呈示される場合る。中部はシプキ峠、マナ峠を含む中印国境地 る。秦・漢の大帝国が成立してから忠の比重は没した。『古事記』では、神の怒りに触れて急よりも覚醒度を上げることが確かめられた。一帯、東部はプータン東方の中国・チ・ヘットとイ かわち ごかん ばゅう いよいよ大きくなる。後漢の儒者馬融は、『孝死したという。河内の長野陵 ( 大阪府藤井寺方、瞬間視を通じて語の認知閾の測定で、積極ンド・アッサム地域でマクマホン・ラインが実 しんじよ 際上の国境となっている。中国側の発表によれ ^ 志田諄一〉的価値を示す語の閾値は消極的価値を示す語に 経』になそらえて『忠経』を著した。『晋書』市 ) に葬る。 以降の歴代の史書は、「忠義伝」の項目を立て注意ちゅうい attention 特定の事柄に対比べて低いことが報告されているが、この場合ば、紛争地域は合計一二万五〇〇〇平方キ。にわ みん たり、東部九万平方キ。、中部二〇〇〇平方キ。 して気をつける、気を配る心的活動を意味し、 は要求阻止の機制によって覚醒度が下げられた て、忠臣を顕彰する。しかし明の教育勅語「六 ゅ ともみられる。 〈小川隆〉西部三万三〇〇〇平方キ。を占めている。 諭」でも依然、孝が忠に優先する。〈本田済〉注意が向けられる事柄は心的活動の広い範囲に ちゅうおうしやかいほけんいりよう 中印両国の基本的主張は、一九五〇年代末期 ちゅういきよう 0 中央社会保険医療 〔日本〕忠の概念は、日本には漢語・漢学を通わたる。目前の環境に対しては特定の刺激・刺中医協 せんみよう を一よ・フギ一かい から六〇年代初期にかけてのネルー・インド首 じて早くから移入され、『日本書紀』、宣命以激布置に向かうことを意味するが、以前の経験協議会 ちゅういどきせつふうきこ相と周恩来・中国首相との往復書簡、国境会談 来、史書、物語、仏書などに多くみいだすこと について想起される特定の事柄に向かうことを中緯度季節風気候 によって明らかにされた。西部では、インド う 0 季節風気候 ができる。もともと忠とは、心のうちなる真心意味する場合もある。 ちゅういどこうあったい南」 は、伝統的国境線はすでに存在し、全ラッダー のことであり、自分自身にもいうが、他人に向〔注意をひくもの〕注意が向けられる事柄は、中緯度高圧帯 ク地区はインド領であるとしているのに対し けたものをいうことが多い。日本の忠には、そ一方には環境の状況に支配されるし、他方には両半球で緯度三五度付近にある高気圧が連なっ の他者志向の性質がとりわけ強い。江戸時代の人および動物の内的状態・経験に依存する。感た領域をいう。海洋上にできる大規模な高気圧て、中国は、国境線は末確定であり、全アクサ じんさい で、停滞する。夏には多少北へ動き、冬には南イチン地区を中国領であると主張し、東部で 儒者伊藤仁斎は「人の事を謀ること、おのが事性面で注意は環境刺激の弁別・認知に関係し、 いちごう 〈大田正次〉 は、インドはマクマホン・ラインを国境線と主 へ動く。↓高気圧 を謀るごとく、一毫の尽くさざる無き、まさに注意の範囲は認知の範囲を超えるわけではない ごもうじぎ ちゅういん死んでから次の生を受け張するのに対し、中国は、一九一四年のシムラ 是れ忠」 ( 『語孟字義』 ) として、忠とはどこま が、その範囲のなかで注意を向けられない、弁中陰 条約に当時の中国政府は調印していないのでこ 別可能で認知可能な事物が無視されることもあるまでの中間期間における存在。サンスクリッ でも徹底して人を思いやり、人に尽くすことだ ・ハハ antarä-bhava の訳。れを認めす、国境は末確定であり、プラーフ という。思いやりの純粋さに忠をとらえるのでる。すなわち、人および動物にとって注意されト語アンタラー ちゅうう せんこう マ・プトラ川北岸を国境線と主張している。中 > ある。ところで、その忠が志向する他者はおおる事柄が環境のなかから選択される。閃光、爆中有とも訳す。陰も有も存在の意。仏教では りんね 音、地震などの環境刺激や変化は注意をひきや輪廻の思想に関連して、生物の存在の一サイク部でも、マクマホン・ラインを国境とするイン 、フむね社会的上下関係 ( 君臣関係 ) の上位者とさ ゅ - れることが多く、この場合、家族的上下関係すいし、横断路の標識や広告などには注意をひルを四段階 ( 四有 ) に分ける。すなわち、中ドと、中国の主張は対立している。 しよう、つ ほんめしう 一九六〇年代後半の中国の文化大革命以後、 ち ( 親子関係 ) における孝と対立する。この「君きやすい刺激布置が配慮されている。その反有、生有、本有、死有であり、このうち生有は しん きせつふ・つキ一、 : っ いんう 389

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や ち チャ / 民俗 〔右〕出雲のポテポテ茶。番茶 に陰干しした茶の花を一つま み加えて大ぶりの茶碗に注ぎ , 好みに応じて煮豆 , みそ , 漬 け物 , 飯などを入れて大きな 暴発でかきませてたてる。名 称は , 点茶の際に発する音に よる 1 〔左〕四国の茶堂。とくに伊予・ 土佐国境付近の山間部に多い。 ~ 、 . 、、もともと村境守護の仏を祀る 堂であったが , 旅人の接待所 ともなり , 今でも弘法大師の 縁日などに自家製の金炒り茶 を振舞う習俗が残る。愛鰀県 東宇和郡城川町 中、いに、最近はティーバッグの売れ行きが伸びている。 の起源を江戸時代初期もしくはそれ以前に置いているが、一 ソ連では帝政時代から茶は飲用され、ロシア人のお茶好き般的には江戸時代中期以降にその形成をみたものがほとんど は有名である。おもに紅茶が飲まれているが、中央アジアでである。これら茶産地形成の要因としては、まず諸藩による は緑茶も飲まれる。グルジア地方の暖地で一九世紀に入って栽培奨励があげられ、とりわけ領内に山地を抱える藩では、 いわゆる茶年貢の徴収を図って山腹の茶園化を進めた。また から生産するようになり、今日 ( 一九〈四 ) 約一五万トン生産され ひやま ているが、さらにインドやスリランカから紅茶など八万トンが茶産地の形成が促される際、なかには秋田県の檜山茶にみら かんえい かんぶん れるように、寛永 ~ 寛文期 ( 一六一一四 ~ 七三 ) に盛行をみた大名茶 輸入されている。 モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビアなど北アフ園が基礎となった例もあり、大名茶は、茶道に傾倒した大名 リカ諸国では、信仰上酒を飲まないので茶の飲用は多く、おたちがその領内に良質の茶の産出を求めたことから始まって いる。やがて武家の間に伝わった喫茶の習俗は庶民の間にも もに中国緑茶が好まれるが、第二次大戦後、一時日本茶が輸 入されたこともあった。気候や食環境の影響で、多量の砂広まるが、茶が庶民的な飲料となる兆しはすでに近世初頭に けいあんのおふれがき 糖、ハッカの葉を入れて飲む。インドやスリランカの生産国うかがえ、「慶安御触書」 ( 一六四九年に公布された勧農条 もうすまじくそうろう では、植民地時代はほとんどを輸出していたが、独立後は下例 ) には「酒茶を買い飲み申間敷候。妻子同前之事」とあ しやし 級紅茶を飲むようになり、生活水準の向上とともに品質もある。しかしこの段階では、喫茶そのものは奢侈の一つとして がり、消費量も増えてきている。 禁じられており、その普及はやはり茶産地の形成に対応して 〔茶の生産と消費〕茶の利用 ( おもに飲用 ) は中国を起源に 一八世紀以降となる。茶の生産を促したもう一つの要因は、 、 ) う - えき・一く ) ん第」う 『農業全書』『広益国産考』などによる民間農政家たちの啓蒙 全世界に普及した。初めは医薬用や、限られた人々の消費に とどまっていたが徐々に増え、本格的に生産の始められたの にあった。これらの農書はかならずしも商品生産を目的とし たものではなく、屋敷地や若干の畑地を利用して自家用に栽 は六世紀後半からだといわれている。隣国への飲用の紹介は 培する農家に奨励したものであった。また茶の入手が困難な 早かったと考えられるが、日本へは八世紀、生産の本格化は 一二世紀に入ってからである。東西のヨーロッパ人が茶を知地域では、山野に自生しているマメ科のカワラケツメイを煎 第一うば、つ ったのは九世紀で、アラビア、ベルシア人を通じてのことと じて代用 ( 弘法茶 ) とした。 いわれている。中国からの輸入は一六世紀で、大量輸入に耐 茶の飲み方には抹茶法と煎茶法の二通りあるが、前者は茶 えがたくなり、やがてイギリス資本などによりインド、スリ 道に用いられるもので、庶民の飲料として普及したのはもっ ランカなどでもっくるようになったが、それは一九世紀にな ばら煎茶法である。今日煎茶といえば、葉茶を急須などに入 だ ってからで比較的新しい。つまり、中国茶業は長く内需・外れて湯を注ぎ、浸出を待っという淹し茶が普通だが、かって なペ 需を一手に引き受けていたことになる。今日全世界では、茶は鍋や釜の中で葉茶を煮出す方法がはとんどであった。さら しんちゃ 園一一六〇余万タから二〇〇万トンを上回る茶を生産している。 に茶の飲み方には振茶といって、茶を泡立たせて飲む方法が ちやせん 主産国はアジアにあるが、アフリカ、南アメリカ地域でも栽ある。振茶とは、煮出した茶を茶筅で攪拌し、泡立ててから しといがわ 植し、三〇か国以上に及ぶ。もっとも多いのは中国、次いで飲むもので、富山市から糸魚川、直江津にかけての地域では インド、スリランカ、インドネシア、ソ連、日本の順であ ハタバタ茶、松江市や松山市ではポテポテ茶の名で愛飲され る。消費は、茶種別に紅茶と緑茶に大別すると、紅茶の需要ている。これらは、各自が茶碗などにくみ取ってから塩その は緑茶のはば四倍で、しかも増えている。最大の消費国はイ他を入れて泡立てるのに対し、一方、大きな器で泡立てたの おけちゃ ギリス、次いでアメリカ、ポーランド、カナダなどであるち配分するのは桶茶とよばれて、奥三河そのはかの地方にみ が、独立後のインドの伸びも大きい。緑茶では中国、次いでられる。なお、那覇市のブクプク茶もこの系列に属する。 振茶による茶会は主として主婦たちによる寄合であり、家 日本、北アフリカ、中近東諸国の消費が多い。一人当りでみ た場合、茶の消費の多い国はイギリス、ニュージーランド、 の慶弔をはじめ節供や旅立ち、子供の誕生、命日などことあ オーストラリア、トルコで、比較的消費量の多い日本の二 ~ るごとに行われた。招待者は親類もしくは隣近所の婦人で、 四倍にも達する。しかし、最近、先進国においては嗜好飲料 いろりの席順が厳格に決められている所さえあった。茶を仲 の多様化により伸びは停滞している。↓製茶業〈桑原穆夫〉立ちとする茶会は振茶に限らず、茶講、茶組、茶仲間などの 〔庶民における茶〕今日の茶産地における伝承の多くは、そ名で全国各地に認められる。現在でも中国、四国、九州の茶 336

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ちえのわ し流路を変えながらビル・パンジャル山脈を横 えて余生をその地で送り、七一年二月一三日 ーポード・コースト・ラインを合併して新しい る。最近では、使用者が無償で組合費を徴収す 断し、ジャム北西のアクヌールからパンジャー 没。 るのは労働組合の自主性を損なうとして、これ持株会社 (-)T)>< コーポレーションが発足した。 しかし、旧チェッシー 主要作品には、金にエマイユを施した『フラブ平原へ下り、ジェラム、ラービ両河川をあわ ・システム傘下の鉄道 を一方的に停止する事例が増えている。しか ンソア一世の塩入れ』 ( 一五四 0 ~ 四三、ウィーンせたのち、サトレジ川に合流する。インド領内 ・システム鉄道の名称で独立し し、この制度は、労働組合の自由意思による協は、チェッシー 美術史博物館。 3 金属工芸 ) 、青銅の浮彫りで延長一二〇〇キ。、流域面積二万七〇〇〇平方 た経営が行われている。主として旧チエサビー 定に基づくものであり、また、組合費の滞納に な・んがい マララ、カンキ、トリムなどから、灌漑用 『フォンテンプローのニンフ』 ( 一五四三 ~ 四四、ルー よる除名や脱退を防いで、組合財政の確立に貢ク・アンド・オハイオ鉄道と旧ポルティモア・ 〈林正久〉 献している。使用者のねらいは、経費援助禁止アンド・オハイオ鉄道の路線網よりなり、ニュプル美術館 ) 、またコジモ一世の委嘱による青運河がパキスタン側へ通じる。 ーヨーク、フィラデルフィア、ワシントンなど銅の『ベルセウス』 ( 一五四五 ~ 五四、フィレンツェ、 知恵熱ちえねっ生後六か月前後の乳児にみ の規定を逆用して、従来の労使慣行を破棄し、 ロッジア・ディ・ランツィ ) などがある。『べられる原因不明の発熱。最近は発熱の原因が明 組合の財政基盤の弱体化を図ることにある場合の東海岸の都市地域より、ピッツバーグ、クリ ープランド、デトロイト、シンシナティ、シカ ルセウス』は彼の会心作であるが、彫刻としてらかになることが多く、この用語は用いられな が多い。↓労働協約 〈三富紀敬〉 あるいは鋳造技術としてよりも『自伝』が語るくなっている。この時期の乳児は、運動機能や ゴ、セントルイスなどの諸都市を結んでいる。 ーーご 0 チェコ語 チェック語 〈青木栄一〉 劇的な制作過程によって有名であり、ベルリオ知的な発達が目覚ましく、いわゆる「知恵づ チェックライター check writer 事務総延長一万八一三七キ。 ( 一九公 l) 。 き」といわれ、また、同時に発熱しやすくなる ーズ作曲のオペラ『べンペヌート・チェッリー 用機器の一種。小切手、手形、証券、領収書なチェッリーニ Benvenuto cellini ( 一五 、、・パリ初演 ) もこのエピソードによ時期でもあるため、知能発達に伴う発熱とし 00 ー七 I) イタリアの金銀細工師、彫刻家、著ニ』 ( 一ノ三ノ どの額面金額を、書き換え防止のため紙面に刻 て、昔から知恵熱と称されてきた。最近は、母 っている。 述家。一一月三日フィレンツェに生まれる。 み込んで印字するもの。一九二〇年代にドイツ チェッリーニの『自伝』は五八歳から六二歳子免疫の低下に伴う感染症を生じやすくなる時 『自伝』によれば、女児の誕生を望んでいた両 とアメリカで同時に発明されたといわれるが、 起源は明らかではない。字体は洋数字と和数字親によって、皮肉にもべンべヌート ( ようこその間に執筆されたが、生前には出版されず、一期ということが明らかとなり、発熱の原因も咽 とうえん 頭炎や感冒などによることが多い。したがっ 七二八年にイタリアで初版が、七一年イギリ いらっしゃいました ) と名づけられたという。 のものがあるが、ほとんどが洋数字のもので、 機能上、手動式と電動式とに大別される。現在一五歳で金銀細工師の徒弟となり、一九歳で家ス、九六年ドイツで出版され、ゲーテの賞賛をて、知恵熱と称して放置することなく、小児科 、。〈帆足英一〉 日本でもっとも多く使われているのは、手動式郷を出て各地を遍歴したあとローマに住み、約博している。ほかに『金銀細工について』『彫医の診察を受けることが望ましし ちえのかなしみ rope OT 二〇年間主として同地で活躍。最初ラファェッ 刻について』 ( ともに一契 0 、および『詩集』知恵の悲しみ のロータリー ( 回転 ) 式で、これは印字をハン 〈裾分一弘〉 YMaZGore ot uma ロシアの劇作家グリポ ドル操作で指定しながら一字ずつ刻字する方式ロ派およびメダル製作者フォッパ・カラトッソ ( 天九一 ) がある。 エードフの四幕喜劇。一八二四年作。舞台は一 らの影響を受けたが、のちミケランジェロの作回黒田正利訳「自伝』 ( 一九六七・現代思潮社 ) である。手動式にはこのほかレバー式 ( 型と 第二次世界大 八二〇年代のモスクワ。三年ぶりに外国の旅か もよばれている ) といって、所要の印字をあら風を模して工芸や彫刻の制作に従事。クレメンチェトニク Cetnik ~ 咒叮 ら帰ったチャッキーが旧知のファームソフ家で ハンドテ七世、フランソア一世、イツポリット・デス戦中ューゴスラビアのミハイロビチを指導者と かじめつまみでセットしたあと、レバ ついしよう ルを引くだけで一斉に印字できるようになってテらの委嘱による工芸品には、ミケランジェロする抵抗組織。本来、チェトニクとは、一九世みたものは尊大と追従、因習と愚昧の世界で 紀後半にオスマン帝国からの解放を目ざし、マあった。彼は舞踏会でこの汚辱に満ちた上流階 いるものもある。また電動式というのは、電話の影響を強くとどめている。四〇歳、フランソ めんば のダイヤル方式になっているもので、一字ずつア一世の招きでパリに滞在、四五歳でフィレンケドニアに生まれたセルビア人不正規義勇兵の級を面罵するが、かえって狂人扱いされる。封 打っていく方式、セットした数字をワンタッチッ工に帰郷し、以後メディチのコジモ一世に仕団体名。第一次世界大戦後、軍隊に準じる組織建的農奴制ロシアに対する痛烈な風刺喜劇とし せりふ として、ユーゴスラビア王国内のセルビア民族て、多くの台詞が慣用句となり登場人物の名が ^ 野沢松男〉 で打っ方式などがある。 , の駆を ル年台ッ てつどう 主義者と結び付いて活動。第二次大戦中の一九普通名詞となったほどである。戯曲は厳しい検 チェッシー 。阡 / ー、ノイ ・システム鉄道 に上が年 レデと造匠 9 四一年四月、枢軸軍がユーゴスラビアを占領す閲にあい、作者の生前には上演を許されず、本 Chessie System Railroads アメリカ合衆国 も鋳意に のなな成 ニ高ファ ると、ミハイロビチが王国軍の降伏を承認しな文は写本として流布、一八五八年国外で、六一一 東部の大手鉄道の一つ。一九七三年、チエサビ ジ想れ麗完作 ズむツィ構ま豊 , 大 いセルビア人将兵を集め、「チェトニク」とし年ロシア本国で初めて出版された。〈野崎韶夫〉 ーク・アンド・オハイオ鉄道の持株会社として ナいとれた ッスン含ロッよ て再編成した。等しく蓄えたひげを特徴とする回米川正夫訳『知恵の悲しみ』 ( 『ロシア文学全 チェッシー ・システムが設立され、八〇年、シ エウロをン念ぐ巧さし チセプ座エラ入た技使要 集肪』所収・一九五九・修道社 ) チェトニクは、ロンドンの亡命政府の支持を受 ちえのわいろいろの形の輪を抜 け、枢軸軍に対する抵抗の基本姿勢として「待知恵の輪 いたり、また入れたりして遊ぶ玩具。江戸時 機主義」をとった。このため、チトーを中心と するバルチザン運動と敵対することになり、結代、日本に漂着した中国人によって伝えられた 局枢軸軍と共同行動をとるに至った。連合国側九連環が始まりという。これは金属製の九つ の輪を組み合わせたもので、これを組み立て、 の支持を失い、枢軸国の敗退に伴って四四年に ギ一よく 〈柴宜弘〉または抜き差しして遊んだ。最初は玉でつくら 解体した。 がわ Chenab インド北れたが、銅か鉄製となり、婦人、子供の玩具と チエナプ川 して一般化した。なお一八二〇年 ( 文政三 ) 長 西部のカシミールからパキスタンを南流するイ ハンジャープ・ヒマ崎の清国人により、この九連環を主題にした歌 ンダス川五大支流の一つ。 かんかん が流行し、「看々踊」として大坂で興行された。 ラヤ山脈のバラ・ラチャ峠に源を発し、北西に 流れ、キストワール付近からは南に西に繰り返また明和年間 ( 一七六四 ~ 七 = ) には、江戸に参府し きゅうれんかん 135

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ら物まド 五天竺図 1364 年 ( 正平 19 ・貞治 3 ) 177 x 166.5 cm 奈良法隆寺 しゆみせん 西洋製世界図が舶載される以前におけるわが国での世界図は , 仏教の須弥山説を背景とす るものであった。それによると人問の住む現実の大陸は , 須弥山の南方の大海中にあり , その形は南に行くほど細くなっているという。これは明らかにインド半島の輪郭からの着 せんぶしゅう 想で , この図では卵を逆さにしたような形に表されている。大陸の名は目詹部洲で , その大 部分はインド ( 天竺 ) によって占められるが , 東にはシナ ( 震旦 ) , 西にはベルシア ( 波斯 ) があり , 日本 ( 四国 , 九国 ) は東北の海中に置かれている い物三第第い 南瞻部洲万国掌菓之図浪華子 ( 鳳潭 ) 1710 年 ( 宝永 7 ) 刊 116X 130Cm 木版筆彩京都浄土真宗本願寺 派本願寺 ( 西本願寺 ) 西洋の地球説や世界地図の伝来によって強い衝撃を受 等をⅱ天辭第を けたのは , 須弥山説を奉じていた仏教界であった。大 地は平たく , 人の住む大陸 , 目詹部洲は北広南狭だとす る仏説の存立を危うくするものだったからである。そ うした危機感から , 基本的枠組みは崩すことなく西洋 え洋を曁物参 系地理知識を吸収して , 内容の新しい世界図をつくる 試みがなされたが , その刊行図の最初がこれである。 ヨーロッパは群島 , 南米は日本南方の一大島嶼に変形 茎ノ、 鮻ドはす されている 万国総図 , 人物図 1645 年 ( 正保 2 ) 刊 132.4 x 57.9cm , 1 32 x 57.6cm 木版筆彩 下関市立長府博物館 わが国で初めて刊行された西洋系世界図で , 陸地の輪郭はマテオ・リッチ図の流れをく むが , 地名は直接西洋製の地図から拾った ものを , 仮名表記としている。奇妙なこと に , 木版による地名は方形枠のあるものの みで , 他は手書きである。つまり刷り上が った段階では , まだ半製品だったわけで , この図の用途がきわめて特殊であったこと を物語っている。測量術修得者に卒業のし るしとして『万国総図』が手渡されたとい う記述が江戸中期の測量書にあるので , 地 名の記入や図面への着彩も課業の一つであ ったに違いない しんたん 240

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地図 / 世界 イ冓成 , 解説 . 海野ー隆 / くヒロ ニアの世界図 B ℃ . 500 大英博物館 ンドン / ヾビロ ニア人は , 大地は円盤状 で , それを覆う天はドーム状だ と考えていた。「苦い川」と記 入されている環状の大洋の外側 にある三角形は , それぞれ「島」 と説明されており , , こに天空 を支える柱があると想像されて いたらしい。図は北が上で , 円 内上部の東西に長い長方形がバ ビロンの町である。バビロンを 南北に貫く平行線はユーフラテ ス川を , その北部の弧状の図形 は山地を , 南部の東西方向の平 行線は湿地を表している。東南 きば 部の牙状の図形はベルシア湾と 考えられている。いくつかの小 円は各地の都市である。上部の 記事はサルゴン 1 世 ( B. c. 24 世 紀 ) の遠征物語であって , 図の 説明ではない 〔上〕イドリーシーの世界図 1154 年直径 24cm 手書きイギリス オックスフォードボードリアン図書館 中世のイスラム教圏では , 指導者たちがギリシア科学摂取の政策を 推進したため , 地図学においてはプトレマイオスのそれが出発点と なった。新たな経緯度測定による図形の修正が進み , しだいに水準 の高い内容のものになった。その完成期を代表する作品がこれで , アフリカとアジア東南部との連続は訂正され , アラビア半島やカス ビ海の輪郭は実際に近づいている。しかしインド半島の欠女ロやナイ ル水源の「月の山」の表現などは , プトレマイオス図の踏襲に終わ っている。南を上にして地図を描くのはイスラム教圏での風習であ るが , その理由は明確ではない 〔下〕プトレマイオス世界図 ( ラテン語写本 ) 1472 年 59.3x87cm バチカン図書館 2 世紀のアレクサンドリア ( エジプト ) の天文学者プトレマイオスは , 地図学に関 えんすい しても画期的な業績をあげた。その世界図には , 正距円錐図法とそれの経線を円弧 に変えた図法の 2 種が使われており , 本書掲載の図は前者によっている。東西は 180 度 , つまり地球の半分を収め , アフリカとアジア東南部とを陸続きとし , インド半 島はなく , セイロン島 ( タブロバーナ ) を過大に描いている。当時の作品は伝わら す , 現存最古のギリシア語写本でも 12 世紀をさかのばらない。中世イスラム教圏 , 近世キリスト教圏の地図学は , ともに「プトレマイオス」から出発している トⅨー 1 ) T ーい、 ー S 、い S い 1. A N 、ぐら 資科提供 : 岩波書店「宇宙誌」 ( コスモグラフィア ) / 鹿島出版「南蛮紅毛日本地図集成」 233

9. 日本大百科全書 15

ちゅうお 中央アジア美術 ①有翼天使像 3 世紀 ン出土塑壁彩色 21 . 8 x 30 . 6 ー cm フレスコ画の断片。この天 使はガンダーラ石製浮彫りによ くみられる「花綱 ( ガーランド ) を担ぐ人物」の一人てある ②ドロナ像 6 ~ 7 世紀キジ ル千仏洞第 3 区マヤ洞出土 塑壁彩色 40.5X29.5cm 釈迦 の遺骨 ( 仏舎利 ) を公平に八分し た仏弟子のドロナを描く ちゅうおう しんわ る。また西トルキスタンの地域では、一九三〇 中央アジア神話 しんわ 年ごろからソ連のグリャズノフ、ヤクポフスキ 0 シベリア・中央アジア神話 ちゅうお、つ」丨ーびじゅ マッソン、トルストフらによって組織的な 中央アジア美術 つ中国人によって、かっては西域とよ考古学的調査が行われるようになって今日も続 ばれていたアジア大陸中央部の美術。地けられ、発掘品はエルミタージュ美術館や現地 理的にパミール高原によって東西に二分の博物館などに取められている。 しんきよう 〔建築〕西トルキスタンでは、初期パルティア され、東トルキスタン ( 現中国新疆ウ イグル自治区 ) 、西トルキスタン ( ソ連の王城址ニサ、ホラズム王国の都城址コイ・ク のキルギス、タジク、ウズベク、トルク リルガン・カラ、初期クシャン朝時代の都城址 ハルチャヤン、三世紀初期にホラズムの主都と メン、カザフの五共和国 ) とよばれた が、ここでもこの区分に従って考察する。 なった都城址トプラク・カラ、ソグド人の都城 址ピャンジケントなどが発掘されている。それ これらの地域は、中国、インド、イラ ンという大文明圏に囲まれた、内陸性のそれ周囲に防壁や塔を巡らし、その中に宮殿や れいびよう 気候を強く示す乾燥地帯であり、オアシ神殿、霊廟、住居を配していた。西トルキス ス都市を結ぶ天山北路と南路 ( いわゆる タンの仏教遺跡は、目下、カラ・テべ、ファャ でんば ズ・テべ、アイルタム、ダル・ヘルジン・テべ、 シルク・ロード ) が通商路や文化伝播の 道となったために、オアシス都市にもこアジナ・テべ、カライ・カフィルニガンなどに れらの諸文化が混合した独特な文化が栄みいだされている。このうちカラ・テべには、 えていた。しかし長い年月の間に、これ西トルキスタン唯一の石窟寺院址があり、他の まいきょ らの都市の城、寺院、墳墓は発墟と化し多くはストウーパ、僧院、住居などからなって ていたが、一九世紀末にこの地域に対す 東トルキスタンには、タクリマカン砂漠の南 る地理的、考古学的関心が高まり、種々 の調査や発掘が行われるようになった。縁に城址や地上に建てられた寺院址が多く、北 とくに当初関心を集めたのは東トルキス縁には石窟寺院が多い。地上に建てられた寺院 れんが は、日干し煉瓦や木材などによって構築されて タンの地域で、二〇世紀初頭までにロシ 出をな墓 , 文れュシ一 いる。たとえばミーランの寺院址では、円塔形 アのプルジェバリスキー、クレメンツ、 シムの大 ナ紙との土が曜ら ノ矢ムウ片は 一の対一出く入口 のストウーパの周りに回廊があり、さらにその べレゾフスキー兄弟、オルデンプルグ、 タ手。同ン欠なのウ圷断る④ タを例例 トカ象せ ~ ス厚る スウェーデンのヘディン、イギリスのス周りを方形の外壁が取り囲む構造である。ラワ れ一部異類 としゆっ 財わ① てらるホ頭は タイン、ドイツのグリュンウェー一丁ル、 ク寺院址は、四面斗出形の基壇をもっストウー 紀れ知れ後にる世しを館 6 5 見品物 世 x かかわ紀 ル・コック、フランスのペリオ、日本の パを方形の周壁が囲む構造である。石窟寺院 おおたに C) は・朴田 、 .. 」思世 5 , て ~ 発産博 大谷探検隊などが競って調査を行い、収は、基本的にはインドの石窟寺院にみられるチ て図と 5 ⅱねれ 5 高で量立 図色せ人土 ~ 高束さ品 」堂の国品 物着わ美出 3 で施作部造」祠し京来集品を各国に持ち帰った。それらは現ャイティャ窟とビハーラ窟の形式を踏襲してい 人本合下の金」紐かい頭 押東将 在、レニングラードのエルミタージュ美る。しかし、チャイティャ窟と違って窟内に仏 下紙ぎ樹ら頭鍍を「毫な薩土—型て隊 かム銅れ髻亠白いは菩出ク。へ検 術館、ストックホルム東アジア美術館、塔はなく、そのかわりに奥壁に方形の柱体をつ ③土つる葬の = 彎肉のて⑤クュっす探 くり、その周りに回廊を巡らす方柱窟にかわっ ロンドンの大英博物館、ニューデリーの がん インド国立博物館、ベルリン国立インドている。方柱には仏像を安置する龕がつくら 美術館、パリのギメ美術館、東京国立博れ、仏塔崇拝から仏像崇拝へと変わっているこ とがわかる。タクリマカン砂漠北縁にも、地上 物館、韓国国立中央博物館などに収蔵さ れている。東トルキスタンの調査はこれの寺院の遺構は少なくない。とくにヤール・ホ せんべん ト、カラ・ホージョには、大塔の四方にそれそ ら外国人によって先鞭をつけられたが、 一九二七年から三五年にかけてヘディンれ二五基すつの奉献塔を配した構造のものな こうぶんひっ が組織した西北科学考査団には黄文弼らど、複雑な構造をもったものが多い 中国の研究者も参加し、第二次世界大戦〔絵画〕絵画遺品のうち、もっとも数多く残る ものは壁画である。壁画は、岩壁や煉瓦壁を平 後に中華人民共和国が成立してからは、 らに仕上げたのち、植物繊維や動物繊維を混ぜ 新疆ウイグル自治区博物館や新疆ウイグ た土を塗り、さらにその上にしつくいをかけ ル自治区文物管理委員会などが中心とな て、この上に描かれている。西トルキスタンで 3 って、この地域の発掘調査を継続してい ちゅうおう せいいき

10. 日本大百科全書 15

や ち 青製は、現在の煎茶の品質につながる清爽な香味をもった茶への普及は六世紀の後半になってからである。当時飲まれた世紀に入り、中国の政情不安、イギリスによって開拓された だんちゃ びんちゃ インド、スリランカの紅茶の台頭、ジャワや日本の茶の市場 で、日本人の好みにもあって、日常的な嗜好飲料として一般茶は、葉を蒸して搗いて固めて乾かした餅茶ないしは団茶が 参加によって多くの市場を奪われ、大部分が国内用の生産に 庶民にも茶を飲む風習とともに広まっていった。こうして江おもなもので、葉茶 ( 葉形を保つ茶。散茶ともいう ) もあっ ろんじんたあはんもうほん み おうみ とどまるようになった。葉茶の竜井、大方、毛峰が代表種で 飲むときは粉末にして飲んでいたようである。 て伊勢、美たが、 戸末期には茶産地も変わり、山城、近江に続い のとおとうみ 七六〇年ごろに陸羽の著した『茶経』は、茶の作り方、飲あるが、古風な団茶、餅茶もまったく後を絶ったわけではな 濃、遠江、駿河、武蔵が台頭してきた。一八五九年 ( 安政 。第二次世界大戦後はほとんどの茶が国営の茶農場でつく 六 ) から輸出されるようになって、日本茶業は近代産業へとみ方、効用などを記した世界的な茶の宝典である。そのころ には、中国の文化振興政策と相まって茶は大衆の間に浸透られ、栽培、製造の近代化への研究も進められている。 発展し、とくに静岡県の茶生産は清水港を輸出港として非常 な発展を遂げた。第二次世界大戦後はヤプキタを中心に優良し、産地も山岳地帯から低地へと広がり、七八二年には茶を〔西洋〕ヨーロッパ人が中国茶の飲用を知るようになったの は、一五一六年にポルトガル人がマカオにきて交易を始めて 品種が普及し、栽培や製造法も機械化によって生産性が高め貢ぎ物として徴収し、また課税の対象にもするようになっ からである。やがてオランダがポルトガルにかわって東洋貿 た。半発酵茶もっくられて茶の種類も増え、飲み方も多様に られ今日に至っている。 ほんぞう あが 〔中国〕伝説では、約四〇〇〇年前に本草学の祖と崇められなった。粉にして飲む方法にかわって葉茶を熱湯で浸出する易の主役となり、一六一〇年にオランダ東インド会社がマカ ひらど ジャワ経由でヨーロッパ ている炎帝神農氏が茶の解毒作用を認め、飲用が始まったと飲み方になってから、製法も品質保全のためには蒸し茶よりオや日本の平戸で大量に茶を買い しよく お・つほう しせん に移入した。ポルトガルやオランダで珍重されていた茶が、 されている。文書としては前漢末期に四川省 ( 蜀 ) の王褒の釜炒り茶のほうが優れていることが認められ、今日の中国の どうやく 一六五七年にはイギリスに伝わって人気が高まり、自力輸入 戯文『僮約』 ( 前五九 ) に茶の飲用を思わせる記述のあるのが釜炒り製に発展していった。 この中国茶は、一方ではベルシア、アラビア人によってシの要望がヨーロッパの海洋熱をあおることになった。そのた もっとも古いが、喫茶方法など具体的な記述がみられるのは 三世紀もなかばごろからである。三国時代には仏教が酒を五ルク・ロードを通って西欧に紹介されたが、オランダ東インめスペイン、オランダ、ポルトガル、イギリスなどが東洋交 ド会社による輸出も一六〇六年に始まり、仕向け先も東西ョ易を争い、イギリスが勝ちを収め、一六六九年にはイギリス 戒の一つにし、茶の飲用を勧めたために栽培も始められるよ そうりよ ーロッパ、オーストラリア、アメリカなどへ広まっていっ東インド会社が自らの手で中国茶をロンドンに輸入するよう うになったが、飲用は僧侶や上流社会のみにとどまり、大衆 になった。ソ連も中国茶に魅せられ、一六八九年には条約を た。一八世紀なかばごろにはイギリスの要望で紅茶が最大の ちょうか一 ) う が開かれたので、 輸出用茶種となり、一九世紀には中国の輸出金額の四割強を結んで張家ロ↓蒙古経由の陸路輸送ルート 占めるなど、中国茶は世界の茶市場を独占していたが、二〇一七世紀以降急速にヨーロツ。ハに茶の飲用は広まった。当初 は中国での飲用法に倣ったと思われ、初期に入 (T) -0- 1 よワ】ト 6 った茶は釜炒り緑茶や半発酵 ( ゥーロン茶系 1 ーハ 0 統 ) の武夷茶であったが、やがて完全発酵の紅 表 月 易 茶がイギリス人に好まれ、紅茶の生産を促す方 0 ) -0- ワワ編 -. 0 只 1 ー戸 0 本 向に発展していった。紅茶はパン食にもあい る 省 ミルクやクリームを加えて飲む方法もくふうさ 年 れ、貴族的な雰囲気が愛されてティーパー 一三い -0 っ「ー ) 翫 ーが盛んになり、新しい風俗も生まれた。 でんば 1 ・ワ朝ワ」物一 農 アメリカへの伝播は一七世紀からで、一七五 農 圭ロ 「〇年にはティーガーデンもできて普及の勢いは O 0 ワ ) " 0 (. 0 一亠 0 3 3 省 産 1 人 11 11 尸 0 王産 1 ー LO 1 省 目覚ましいものがあったが、輸入にあたってイ 生 県 府 産 ロ、レ目、・第は 県崎 農ギリスが干渉、高い茶税を課したことに反発 県本宮 京良 農 0 ・ ) CO 「 / -0- 11 ハ月ハ 1 ー -4 ・ー 1 よ し、ポストン茶会事件 ( 一七七三 ) などが起きて茶 はポイコットされ、しだいにコーヒーの飲用に 年 O -4- ーワ】ま 6 費 月る移った。しかし今日でも紅茶の飲用は多く、レ 1 ーワ】 -4 ・ を 県当 モンティーもアメリカで始められ、とくにアイ 本計 人 日統 スティーはよく飲まれているようである。緑茶 人 省省 年 をしし 産蔵「 やウーロン茶も中国、日本、台湾などから輸入 水大省 蠍阡阡仟 〕量 面高高高 している。カナダもほばアメリカと同じ歴史を 農計厚 培産出入 紙消年 栽生輸輸注 たどり、インド、ケニア、スリランカの紅茶を 3 2 = = = [ > 伝播経路 / ロ中国系起源地 ロアッサム系起源地 チャ / 起源と伝播 〔表 4 〕日本の茶業推移 1983 61 . 0 102.7 12 . 0 1970 1971 1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1 984 1 985 その他 1 7 . 5 総生産高 95 500 t 静岡県 50.3 三重県 鹿児島県 1 3 . 0 もう - 一