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検索対象: 日本大百科全書 15
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1. 日本大百科全書 15

ちゅうこ ①中国共産党全国代表会議で 投票する鄧小平 ( 左端 ) ら党 幹部たち ( 1985 年 9 月 ) ②上海の旧フランス租界にあ る中国共産党創立大会会場跡 ③北京の毛主席記念堂北門に ある群像「偉大なる功績」 ④中国陸軍の機械化部隊 表大会と人民政府が置かれている。地方各級の第一世界とし、日本と西ヨーロッパ、 東ヨーロ 人民代表大会は地方の国家権力機関である。人 ッパの諸国を米ソ両国の抑圧から逃れようとし 民代表の任期は、省、直轄市、区を設置した市ている第二世界とみなし、同じ抑圧下にあると では五年、区を設置しない市、市管轄区、県、するアジア、アフリカ、ラテンアメリカのその 郷、民族郷、鎮では三年である。地方各級人民他の発展途上国と中国を第三世界とみる見解で 代表大会は、その行政区域の経済、文化、公共ある。その根底には、世界革命の指導権を争う 事業の建設についての計画を審査、決定する。 中ソ両国共産党の対立があるといえよう。香港 県級以上の地方各級人民代表大会は、その行政の主権は、イギリスとの協定によって一九九七 区域の国民経済・社会発展計画、予算とそれら年に中国に返還されることが決まっている。台 の執行状況の報告を審査、承認する。県以上の湾が中国の領土であることは世界各国に承認さ 地方各級人民代表大会には常務委員会を置き、 れているが、アメリカが旧国民政府に対する援 省、直轄市の人民代表大会とその常務委員会は助をやめないため、まだ祖国復帰は実現してい ↓米中関係↓中ソ関係↓日中関係 地方的法規を制定することができる。地方各級 人民代表大会は、それそれ同級の人民政府の省〔防衛〕中国の防衛にあたる武装力は人民解放 長、副省長、市長、副市長、区長、副区長、県軍とよばれ、その全軍を統率するのは人民共和 長、副県長、郷長、副郷長、鎮長、副鎮長を選国中央車事委員会である。中国共産党内部にも 挙し、これを罷免する権限をもっている。地方中央軍事委員会があり、この党の軍事委員会の 各級の人民政府は地方各級の国家行政機関であ主席・副主席が国家の軍事委員会の主席・副主 る。都市と農村には住民の居住区ごとに住民委席を兼ねるしきたりがあるため、事実上国家の 員会または村民委員会とよばれる大衆的自治組武装力は党によって指導されている。一九八五 織が設けられており、それらが居住区の公共事年の党全国代表会議で車事委員会の副主席四名 業と公益事業をつかさどり、治安維持に協力しを事実上の常務副主席一名に減らした。現在の ようし上う・一ん ている。少数民族の自治地方には、自治機関と党車委主席は鄧小平、副主席は楊尚昆である。 して自治区、自治州、自治県の人民代表大会と中国の解放車の戦闘部隊は、四つ前後の省にま 人民政府があり、その地の民族の特徴に応じた たがる七つの大軍区に分かれて駐屯し、大軍区 自治条例を制定し、民族文化の繁栄に配慮を加の内部はさらに省軍区に細分されている。戦闘 部隊は名目上、政府の国防部に属しているが、 えた行政を実施している。 〔外交〕一九五四年に中国の国務院総理、周指揮権は車事委員会の総参謀と各軍区の司令員 おんらい 恩来がインド、ビルマを訪れ、両国とともに平カ孑イ ; 旦壬している。歩兵を主とする単一兵種から 和五原則を提唱した。「主権と領土保全の相互出発し、しだいに空軍、海車、砲兵、装甲兵、 尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互工兵、鉄道兵、通信兵、化学戦部隊、戦略ロケ 恵、平和共存」というこの原則は国際情勢のめ ト部隊の創設し、 こ進み、単一の陸車から混成車 まぐるしい変化のなかで試練に耐え、世界の人隊に発展してきたが、現在は諸車種、諸兵種を 心を深くとらえ、ますます多くの国に受け入れあわせた混成集団車を組織するように努めてい られるようになっている。中国はこの原則の提る。八四年兵役法を改正し、常備兵を少なくし 唱国の一つとしてこれを外交の根本方針に据えて戦時に動員できる予備役を多くすることを決 ており、憲法のなかにも織り込んでいる。中国定した。中国解放車の総兵員は四〇〇万人前後 が外交関係を打ち立てている国は一三〇か国に とみられていたが、八五年六月、中国政府はそ 近いが、なかにはあまり友好的な関係でないものうち一〇〇万人を削減すると公表した。兵員 のもある。対ソ、対米関係は長い間不和だった 削減によって浮かした資金で軍の装備をよくし が、最近かなり改善されてきた。対日関係も、 ようというわけで、これまでに中国は国産の軍 国交が回復され、中国の対外開放政策の実施に用機で空軍を装備するようになり、海軍も艦艇 伴い日本からの経済協力が期待されている。しを自力で設計、建造できる段階に達している。 かし中国は七四年国連特別総会で鄧小平 ( 当時一九六四年に初めて原子爆弾の開発に成功し、 国務院副総理 ) が唱えた「三つの世界論」から六六年には原爆とミサイルを結合した実験を行 まだ脱していない この三つの世界論とは、すった。六七年には水爆をもつに至っている。↓ なわち、世界の覇権を争っている米ソ両大国を中国人民解放車 ( ( 米沢秀夫〉 4 しゅう

2. 日本大百科全書 15

ちゅうご はあくまで財政のうえに置かれたので、唐の初期のような武ず、中央の軍政をつかさどる大臣にも戦時の司令官にも、文 カ国家とは異なり、対外的に華やかな武功をたてることはほ官を任用した。 とんどなかった。しかし、国内に対しては、経済を統制する〔天子独裁と官僚制〕このような文官の中心を占めるのは科 ことによって、強固な中央集権政治を完成した。宋の方針挙出身の官僚であった。唐代の科挙は官庁で行う資格試験に は、文人官僚の手で財政を中央に掌握し、その財政で中央直すぎず、貴族制を完全に脱却することができなかったが、宋 属の軍隊を養い、この軍隊を地方に派遣して国防にあたらせ代になって科挙の最後の段階に天子自らが試験官となって行 る。軍隊を直接握っている武官には政治・民政に関与させう殿試が付け加えられ、これによって天子と新進士との間に 親分と子分のような親密な関係が生じた。唐代まで貴族と庶 業あは地唐に出宋通東なもの家 , もと街綿のて山 ェで封散。とか 民との間には大きな階級の落差がある一方、天子と大臣・外 商況開集たこしかり市こ楽木下れ岡 は好たのめ坊 問たな。る歓に右か 戚との間の家格の差異はきわめて小さかった。それが宋代に 代もっ資わ , 昼つくたれの部 , 描 宋済な物きは , かなつら夜上がが なると、天子と大臣・外戚との間には大きな格差が生する一 経とるを市せなはな限 , 側業戸 栄 , 都よ栄都らき壁とにれ右作井月館方、官僚と庶民との間にあまり大きな差異は感じられず、む 繁し首に繁の巡で土由市ら。しは日術 くた出に美 の達。河てでをがは自両 しろその差異は貧富の差に還元される性質のもので、家柄の 封発た運しま壁りにはのつつや角原 開がつ大と代土入代行西くあつのる林 差ではなくなった。 そこで宋以後、天子の地位が安泰となり、中世の間、不断 に行われた禅譲形式の革命は行われなくなった。天子は政治 上には独裁権力を振るうことができた。この独裁というのは 個人的な専制の意味ではない。政府の諸機構がすべて天子の 手に握られ、あらゆる政策上の決定は最後に天子の決裁を経 ることになり、もしそれがなければ何事も実施に移すことの できない制度の意味である。この制度は天子の個人の恣意を も束縛することになっており、宋の天子は中世の天子ほど個 人的な自由をもたず、したがって暗愚な天子による弊害も目 だたなくなった。 一方、中世的な特権貴族は唐末五代の戦乱の間におおむね 衰亡し、宋初の官僚は庶民からの成り上がり者であった。科 挙制の確立により、以後も庶民から高官に上る道が開かれて いた。しかし、そこに大きな障害となったのは、同時に社会 に貧富の差が生じたことである。科挙に応ずるには相当長期 にわたる勉学を必要とし、これにはそれだけの経済力を必要 とする。そこで経済力のある家は子弟を教育して科挙を受け させ、それによって子弟が進士となればふたたび官につき富 を得ることができる。そういう機会のない貧民はいつまでも 社会の下位に甘んじなければならなくなる。ここに社会は貧 富の両階級に分かれてそれが固定する傾向を生じた。 したいふ 上層の読書人、または士大夫階級はその子弟を教育して 代々官僚とするのに努める一方、その財産を商業に投資し、 でんこ あるいは土地を買って地主となった。土地は佃一尸に貸して小 作料を徴収したが、地主と佃戸との関係は中世における荘 園主と部曲との間のような身分関係ではなく、もつばら経済 関係であった。佃戸は契約によって地主の土地を小作するの せき えん しょっ が 一九〇〇義和団、北京に入る。八か国連合軍、北京に入り 占領す しんもゆう 一九〇一辛丑条約 ( 義和団議定書 ) 一九一一鉄道国有令に対して四川暴動起こる。武漢で革命 ー」んめい 軍蜂起し、辛亥革命始まる 一九一二宣統帝退位 ( 清朝滅ぶ ) し、中華民国樹立さる。 えんせいカ、 袁世凱の反革命と国民党の抗争始まる 一九一三初の国会選挙。袁世凱大総統に就任 一九一四第一次世界大戦始まる ( ー一 0 。孫文、東京で中 華革命党を結成 一九一五日本、中国に対華二十一か条要求を出す 一九一九 リ講和会議。五・四運動。中国国民党発足 一九二一中国共産党成立し、上海で第一回大会 ( 中共一全 大会 ) を開く 一九二四国民党一全大会、連ソ・容共の政策を採用 ( 第一 次国共合作、、一石 ) 一九二五孫文没 ( 一八六六ー ) 。五・三〇事件 一九二六蒋介石、北伐を開始 ( ー一一 0 一九二七蒋介石の四・一二クーデターにより国共分裂。毛 沢東、井岡山に革命根拠地樹立 一九三一満州事変起こる。中華ソピエト臨時政府、瑞金に 成立 一九三四紅軍、大西遷 ( 長征 ) を開始 じゅ ^ ぎ 一九三五長征途上の遵義会議で毛沢東の指導権確立 一九三六西安事件起こる ろこ・フ、、 - う 一九三七蘆溝橋事件により日中戦争始まる。第二次国共合 作なる ( ー四六 ) 一九三八毛沢東「持久戦論」を発表。人民戦争展開 一九四〇汪兆銘、対日協力の南京政府を樹立 一九四一太平洋戦争始まる ( ー四五 ) 一九四一一中共、整風連動を開始 一九四五日本、無条件降伏。国共武力衝突起こる 一九四七人民解放軍総反攻宣言。土地法大綱公布 一九四八人民解放軍、東北を解放。北京に無血入城 一九四九中華人民共和国成立。毛沢東、国家主席となる 一九五一人民解放軍、チベットに進出、解放 一九五三第一次五か年計画開始 一九六四フランスと外交関係樹立 一九六六プロレタリア文化大革命に関する一六か条決定発 表 一九七〇中国、ソ連を社会帝国主義と非難 一九七一林彪死亡 ( 一九 0 八ー ) 。中国、国連に加盟 一九七一一ニクソン大統領訪中。田中首相訪中により日中国 交正常化 一九七六周恩来総理没 ( 一八九八ー ) 。毛沢東主席没 ( 一兊一 四人組 ( 江青・王洪文・張春橋・姚文元 ) 逮捕さる 一九七七鄧小平が復活し、文革派の排除が進む 一九七八日中平和友好条約締結 一九七九中ソ友好同盟相互援助条約破棄 一九八〇四人組の裁判開始 469

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れまで現状を維持する用意があると述べて、国 ら、この点でも旧実権派の対ソ認識・対ソ態度まや大幅に修復され始めている。↓米中関係 一九 2 アメリカ、北爆開始 ( ベトナム戦争 〈中嶋嶺雄〉境線のすべてについて話し合うことを明らかに ↓米ソ関係 が、毛沢東の対ソ認識・対ソ態度とは根本的に 激化 ) 9 林彪、論文「人民戦争の勝 利万歳」発表ⅱ姚文元、呉晗の『海 異なっていたことに注目せざるをえないであろ回中嶋嶺雄著『中ソ対立と現代ーー戦後アジアした。ソ連側は、諸条約が「不平等条約」であ の再考察』 ( 一九大・中央公論社 ) ▽同著『中ることを否定し、国境線全部について話し合う 瑞罷官』を批判 ( 文化大革命の開慕 ) う。中国の対外姿勢はかならず内政の変化を反 一九六六 8 中国共産党八期一一中全会、「プロ ことを拒否し、ただ、双方の合意に達していな ソ同盟の衝撃』 ( 一九全・光文社 ) ▽菊地昌 映して自律的に動くのであり、内政要因は国際 レタリア文化大革命についての一六項 い部分についてのみ話し合うと表明した。六九 政治のパワー・ポリティックスの要因よりも強 典・袴田茂樹・宍戸寛・矢吹晋著『中ソ対 目の決定」採択 年一〇月の中ソ国境会談の開始後、大規模な武 立』 ( 一九七六・有斐閣 ) いと断言してよいのではなかろうか。 北京のソ連大使館に侵入 一九六七 2 紅衛兵、 ちゅうソこっきようふんそう現力画突はなくなったが、双方は国境地帯に一〇 かっての中ソ一枚岩の団結という神話が崩壊中ソ国境紛争 一突〈 8 ソ連軍、チェコ侵入 ( 「人民日報』、ソ したあとに、今度は永遠の中ソ対立という「新在、中国とソ連との間には直接に接する国境線〇万の兵力を配備し、会談はなお具体的成果を じゅ 連を「社会帝国主義」と非難 ) 〈安藤正士〉 ↓中ソ関係 しい神話」が生まれたが、そのような神話しロ こ兄は延べ七〇〇〇キ。、モンゴル人民共和国との国あげていない 一突九 3 ウスリ 川で中ソ武力衝突 4 中国 ち一ゅ , っソこっこ、つかいふく 縛されてしまうことはまた、きわめて危険なこ境線を含めると一万キ。という世界最長の国境線中ソ国交回復条約 共産党九全大会、林彪を毛沢東の後継 とだとい , んよ , つ。 がある。しかし、中ソ間には国境協定は締結さ じようやく一九二四年五月三一日、中国とソ連 者に指名し「ソ連修正主義裏切者集団 〔一九八〇年代の中ソ関係〕現に中ソ関係は、 れず、国境線の末確定地域が多く存在する。中との間に締結された条約。おもな内容は、両国 の打倒」を強調 8 新疆ウイグル自治 中国が毛沢東モデルを脱して経済改革を進め始華人民共和国の成立以後、冷戦時代の一九五〇の国交回復 ( 一条 ) 、帝政ロシアとのすべての 区で中ソ武力衝突 9 ベトナムのホー そとも・つ・一 めた一九八〇年代初頭より大きく変化し始め、年代には、中ソ両国は友好関係にあったが、五不平等条約の廃棄の約束 ( 二条 ) 、外蒙古に対 チ・ミン大統領死去 ( 兄弟党間の団結 さまざまな分野の中ソ交流がふたたび回復し始〇年代末に両国関係に対立が発生すると、六〇する中国主権の尊重 ( 五条 ) 、中国東支鉄道の を願う遺書発表 ) 、北京空港で周恩来と だんび コスイギンの突然の首脳会談中ソ 回収 ( 九条 ) 、租界の返還 ( 一〇条 ) 、団匪賠償 めた。毛沢東の内政方針が否定されるにしたが年から国境紛争が発生した。 国境会談、北京で再開 一九六二年四月にはソ連との国境沿いの新金 ( 義和団事件での外国に対する損害賠償金 ) って、対ソ対決という毛沢東の世界戦略も否定 きよう とうじようゆうみんかくじよう 一九セ一 7 ニクソン米大統領の訪中計画発表 され始めたことは、非毛沢東化という歴史の流 疆ウイグル自治区塔城、裕民、霍城三県の少の放棄 ( 一一条 ) 、領事裁判権の撤廃 ( 一二 9 林彪、クーデターに失敗し逃亡、墜 れの必然であった。 数民族六万人がソ連領に逃げ、五月にはイリ暴条 ) 、関税自主権の承認 ( 一三条 ) などである。 死中国、国連復帰ⅱ国連総会で こうした状況のなかで、ソ連共産党の・フレジ動事件が発生した。中国側はこれら事件をソ連これは、革命後のソ連が帝政ロシアの政策の清 中国代表、米ソ超大国批判 ネフ書記長は、その最晩年の一九八二年三月、の策謀によるものであると非難した。六六年か算を図り各国の支持を得ようとする動きと、中 一九を一 2 ニクソン訪中 、こ国の国権回収運動が一致した成果といえる。そ タシケントで中ソ和解の呼びかけを行った。こ ら始まった文化大革命は中ソの対立を決定的。 1 ベトナム和平協定調印 8 中国共産 のプレジネフ演説は、中国側もこれを積極的に したが、六九年三月二日、中国東北地方の中ソ の後中ソ関係は二七年一二月一五日に中断する 党一〇全大会、ソ連社会帝国主義の不意 の国境をなしているウスリー 川の小さな中州のが、三二年一二月一二日に修好ならびに通商条 受け止める姿勢を示すとともに、やがて、中ソ の襲撃に備えよと指摘ⅱソ連、十月 ちゅう 〈宇佐美滋〉 改善にとっての「三大障害」 ( ①中ソ国境・中珍宝島 ( ダマンスキー島 ) で、両国国境守備隊約を締結して国交を再開した。 革命記念日への中国の祝電に感謝電を ちゅうかん , 蒙国境におけるソ連軍の駐留、②ベトナムのカの大規模な武力衝突事件が起こり、ソ連側は将中ソ対立ちゅうソたいりつ 0 中ソ関係 送リ、不可侵条約締結を提案 ちゅうソふかしんじようやく ンポジア侵攻へのソ連の支持、③アフガニスタ校以下三一名が戦死し、一四名が重軽傷を負っ中ソ不可侵条約 一九 4 サイゴン陥落 ( ベトナム戦争終結 ) ャっ・ : フキエ本、つ たといわれる ( 中国側は不明 ) 。さらに、三月一九三七年七月の蘆溝橋事件による日中の全一九七六 1 周恩来死去 4 天安門事件 9 毛沢 ンのソ連軍駐留 ) という条件を提起し、三大障 ナンキン 東死去江青ら「四人組」逮捕さる 一五日、同島で二度目のより大規模な武力衝突面戦争突入直後の八月二一日、南京で中ソ両国 害が存在する限り中ソ改善は進まないという立 一九七九 2 、 3 中越戦争 4 中国、中ソ友好同 が起こった。五月以降、衝突は、黒竜江と中央政府により調印された条約。全文四か条からな 場を示した。しかし、この「三大障害」という あんど 盟相互援助条約の廃棄を通告関係 条件は、中ソ和解を恐れる西側諸国を安堵させアジア・新疆ウイグル自治区の中ソ国境に拡大る。日本を特定して対象とせず「締約国は双方 改善のための中ソ次官級会議 ( 怩ソ連 るためのものであったとも思われ、中国内部に し、八月に裕民県でソ連がヘリコプター、戦が国際紛争解決のために戦争に訴えることを否 のアフガニスタン侵攻で中断 ) おける「親ソ派」「知ソ派」勢力の存在もあっ車、装甲車を投入する、より大規模な衝突に発認し、また両国の関係において戦争を国家政策 一九全 6 中国共産党、文化大革命を全面否定 て、一九八四年末には中ソ間に長期貿易取決展した。しかし、九月には両国首相の会談が行の手段として行使することを否認する」と宣一言 一九全 3 プレジネフ、タシケントで前提条件 したものである。しかしそのねらいが、日本の め、科学技術協力協定などが久々に結ばれるなわれ、ます国境の現状維持、武力衝突の防止、 なしの中ソ関係改善をよびかけ 9 中 ど、中ソ和解への歩みはさらに進んだ。 双方の武装力を国境の紛争地域から引き離す臨対中国侵略に対してソ連が中国の政府、人民へ 国共産党一一一全大会で胡曜邦、中ソ関 こうして中ソ関係は着実に改善されつつあっ時措置の協議を行って、国境問題を解決するこ の支持を表明するところにあったことは明らか 係改善の可能性に言及中ソ次官級 たが、そのようなときソ連共産党のゴルバチョ となどが同意され、一〇月から国境会談が開始であった。この条約の締結と同時に、ソ連は中 会議再開ⅱプレジネフ葬儀後、一三 国に対する軍需品の輸出を開始し、三八年には フ書記長は一九八六年七月、ウラジオストクでされた。 年ぶりの中ソ外相会談 よりいっそうの中ソ関係の改善を求めた演説を 国境交渉はすでに一九六四年に開始されてい 国民政府に借款を与え、三九年二月には航空協一九会 怩ソ連のアルヒポフ第一副首相訪中し 、 " す当子第乂彿ー , 中ソ経済技術協力協定 行い、中国側の主張する「三大障害」についてたが、現在の国境線に対して両国の認識が大き定、同六月には通商協定を結んで関係を強化し 協定締結 〈宇佐美滋〉 も、モンゴルやアフガニスタンからの撤兵計画 く食い違っている。中国側は、現在の国境線と 一九〈六 7 ゴルバチョフ書記長、ウラジオスト ちゅ , っソゅ、つこ , つど , つめし 」を示すなどで、きわめて積極的な方針を提起し なっているアイグン、北京、イリの諸条約は当中ソ友好同盟条約 クで中ソ関係の全面改善をよびかけ、 た。こうして中ソ関係が改善されるにしたがっ時締結された他の条約と同じようにいずれも じようやく一九四五年八月一四日、ヤルタ秘密 いわゆる「三大障害」の除去に言及。 ゅ - て、中蒙関係や中越関係といった中ソ対立によ「不平等条約」であり、時が熟したとき、平和協定に基づきソ連と中華民国とがモスクワで調 この年、中ソ間の各分野の協力進展 って副次的に生じた中国の国際関係の緊張もい 的に話し合いによって処理すべきであって、そ 印した条約。中ソ両国は、対日戦争の勝利ま ち 、当、つ しん 543

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るようになる。一九二〇年代になると、明星、 6 ・自然・地誌▽木内信藏編『世界地理 2 は二一の研究所、二〇〇人余りの研究員を擁し換を図るにあたって、中国の実情から得た教訓 東アジア』 ( 一九会・朝倉書店 ) ▽河野通博他天一その他大手の会社もでき、製作も活発にな は大きかったといえる。もっとも、その教訓が , フたが、八四年現在では一一九の研究所と三万六 えんおうこ 訳『全訳世界の地理教科書中国ー丨そのる。当時、大衆的に人気があったのは、鴛鴦蝴 〇〇〇人余りの研究・技術スタッフを全国二一その後の日本の歴史に正しく生かされたか否か ちょ、つ ぶきょっ ゅ 国土と人々』 ( 一九八 0 ・帝国書院 ) ▽阿部治平蝶派とよばれる才子佳人の恋愛ものや、武侠 省に抱えている。また、独立の中国農業科学は疑問の残るところであろう。明治維新後の日 ち 著『中国地理の散歩』 ( 一九七九・日中出版 ) ▽映画とよばれるチャンバラものなどであった。 院、医学科学院、林業科学院などがあり、その本は、脱亜入欧を急ぐあまり、自らを中国に対 任美鍔編著、阿部治平他訳『中国の自然地〔三〇年代進歩派〕一九三一年、日本は中国の ほかに国務院の各省庁に直属の各種の専門研究する帝国主義的侵略者たらしめてしまった。 理』 ( 一九会・東京大学出版会 ) ▽黄就順編東北地区でいわゆる満州事変を起こし、東北三 明治以後、日本の近代資本主義国家への転進 所が設置されている。↓中国科学〈田中淡〉 著、山下龍三訳『現代中国地理ーー・その自然省を中国からもぎ取って「満州国」という植民 が一定の成功を収めたため、中国の近代化を指 日本との関係 と人間』 ( 一九全・帝国書院 ) ▽吉野正敏・陳地にする。さらに翌年には上海事変で中国車と 向する人々は日本に注目し、多くの中国人留学 戦う。この侵略行動は中国の映画界を目覚めさ 国彦著『中国の雨と気候』 ( 一九七五・大明堂 ) 中国と日本との往来は、朝鮮半島南部や南西生が来日した。しかし彼らは、天皇制下の日本 かえん せずにはおかなかった。脚本家の夏衍をはじめ ・政治・経済▽安藤正士他著『文化大革命 諸島を経由して、きわめて古い時代から行われの日清戦争後の思い上がりに深い屈辱を感じね と現代中国』 ( 岩波新書 ) ▽辻康吾著『転換とする左翼知識人たちが積極的に明星、聯華な てきたと推定される。その間の文化交流は日本ばならなかった。やがて対華二十一か条要求、 さいなん 期の中国』 ( 岩波新書 ) ▽馬洪著、張風波訳どの映画会社で仕事をするようになり、抗日救 側の大陸文化の受容に重きが置かれたことは事済南事件、そして十五年戦争と、日本は急速に 『中国経済の新戦略』 ( 一九会・有斐閣 ) ▽竹国、反封建、反買弁資本などのテーマを掲げた 実だが、日本の文化が大陸で受け入れられた例帝国主義と軍国主義への道を歩み、ついには自 せんす 内宏・孫尚清著『路地裏の中国経済』 ( 一九映画がつくられるようになる。農村が資本主義 が扇子だけだったかどうかは疑問の余地もあろ滅するに至った。その過程で、日本国民自身も う。また、その往来も一方的に日本から出かけ軍国主義の犠牲となったが、最大の被害者は中 会・日本経済新聞社 ) ▽藤本昭他著『中国的な市場原理でかき回される過程を描いた程歩 ナンキン 高監督の『春蚕』 ( 一九三三 ) 、働く女性の自立を訴 経済ーー調整と改革』 ( 一九会・世界思想社 ) ただけではなく、大陸からの渡来者も多かつ国人民であった。南京大虐殺をはじめ日本軍に かんごう けんずいし ▽阪本楠彦著『中国農民の挑戦』 ( 一九会・サえる張石川監督の『脂粉市場』 ( 一九三一 l) 、青年た よって殺された中国人は二〇〇〇万人に上る。 た。遣隋使、遣唐使などの公式使節や勘合船な そんゅ ちが抗日のための道路建設に参加する孫瑜監督 イマル出版会 ) 第二次世界大戦後、中国侵略に対する深い反 どの官符を携えた船のほかに、多くの民間船が ・社会・文化▽竹内実著『現代中国への視の『大路』 ( 一九一一一四 ) など、社会派的なリアリズ 日中の間を往来した。日本からの入唐者のなか省のうえに、日中友好の橋を架ける先頭にたっ ろじん やまと 点ーー市民大学』 ( 一九会・日本放送出ム作品が続々と現れる。ただしこれらは楽々と には大和朝廷の高官とその候補者のほかに、多たのは、かって魯迅を日本軍国主義から守った そうりよ 版協会 ) ▽村松一弥著『中国の少数民族』っくられたものではけっしてない。ひたすら日 くの僧侶もいた。これらの僧侶の真剣な求道精上海の内山書店店主内山完造であった。アメリ がんじん ( 一九七三・毎日新聞社 ) ▽周達生著『中国民族本との武力衝突を避けようとし、また抗日より 神が唐の来日僧鑑真の心を打ったことはよく知カ占領軍の中国敵視政策のなかで、投獄の危険 も中国共産党との対決のほうが先だと考えた国 』 (Z ックス ) ▽バターフィールド を顧みないで日中友好運動は発足し、やがて、 られている。国使の派遣が廃止されたのちも、 そうみんしん 著『中国人』上下 ( 一九盒・時事通信社 ) ▽民党政府は、明白な抗日的表現や左翼的なテー 日本政府も無視できない大きな運動に発展し、 宋、明、清の各時代を通じて日中の往来は続い マには容赦なく検閲のカットと弾圧を浴びせた 船橋洋一著『内部ーーある中国報告』 ( 一九 た。その間、戦火や政治的理由から中国では失一九七二年 ( 昭和四七 ) 日中国交回復が実現し さいそせい 盒・朝日新聞社 ) ▽竹内実著『茶館』 ( 一九からである。蔡楚生監督の『漁光曲』 ( 一九三四 ) 、 われたり内容を削除されたりした書物が、日本た。また、戦後、社会主義革命によって誕生し - 一うよう 七四・大修館書店 ) ▽竹内実・羅漾明著『中「迷途的羔羊 ( さまよえる子羊 ) 』 ( 一九三 0 、史 た新中国の生気あふれる動向は、敗戦による生 に伝来したいせつに保存された例も一、二にと 国生活誌』 ( 一九会・大修館書店 ) ▽竹内実著東山監督の『青年進行曲』 ( 一九三七 ) 、馬徐維邦監 どまらない。 活難とインフレにあえぐ日本民衆にとって大き ちんせいれい 『現代中国の文学』 ( 一九七一一・研究社出版 ) ▽督の『夜半歌声』 ( 一九三七 ) 、沈西苓監督の『十字 な励ましともなった。むしろ、新中国があまり 二〇〇〇年にわたる日中交渉史は、緊張し対 費孝通著『生育制度』 ( 一九会・東京大学出版街頭』 ( 一九三七 ) などが、この中国映画の芸術的 にも理想化されすぎたことが、後の「プロレタ 立した一時期はあったが、近代まではほば、平 黄金時代の主要な作品である。 リア文化大革命」の過大評価とその挫折による 和で友好的な関係に終始したといえる。ただ明 とよとみ ちゅうごくえいが中国で最初の映〔日本占領下の映画〕一九三七年から四五年ま 幻滅につながったのではなかろうか 中国映画 末の豊臣秀吉の朝鮮侵略によって、江戸時代に で、日本は中国に全面的な侵略戦争を行う。中 「文化大革命」の間の一〇年間の空白を埋める画上映が行われたのは一八九六年八月であり、 は中国との友好関係の修復にはかなりの時間を おもにフランスのフィルムだったようである。 国映画の中心地だった上海は日本軍の占領下に べく、急速な近代化を追求する中国にとって、 要した。江戸時代の鎖国の間にも、日中両国間 じゅ・つけい シャン、イ では生糸の輸入と俵物とよばれる水産物の輸今日の日本の経済発展の過程は謙虚に学ぶべき興行師は上渺の柤界の西洋人たちだった。一九置かれ、映画人の一部は漢ロ、重慶、さらに 対象とされている。今日、中国の日本に対する〇五年、中国人による最初の映画製作が行われは延安に赴いて抗日映画をつくる。しかし多く 出が中絶なしに続き、また多くの漢籍や工芸品 は上海に残る。撮影所は欧米の租界にあったた た。北京で京劇『定軍山』を撮ったのである。 が日本へもたらされた。さらに古代や中世の仏学習熱、日本への渡航熱はすさまじい。それだ め、一九四一年末の太平洋戦争開始までは直接 けに、今日の日本を過大評価することが危惧さ映画のためのシナリオによる最初の劇映画は一 教思想にかわって、儒教が渡来して武家の思想 、まこそと九一三年に上海でつくられた『難夫難妻』だっ的には日本軍の支配下にはなく、そのため寓意 を支配し、漢学者が幅を利かした。芸術面かられる。永遠の日中友好のためには、し ばくばんそう きよくていばきん も、中世以来の南画の影響のほか、曲亭馬琴のもに冷静に相手を見つめ合うことが必要であろた。親の都合で無理やり結婚させられた男女の的な抗日映画もっくられた。ト万蒼監督の『木 ばたん なんそうさとみはつけんでん 蘭従軍』 ( 一九三九 ) は、唐時代の中国女性が北方 〈河野通博〉悲喜劇であり、最初のこの作品が反封建をテー 『南総里見八犬伝』や三遊亭円朝の『怪談牡丹う。↓日中関係↓日中交渉史 どうろう 灯籠』など、中国文学の翻案がもてはやされた回・総論▽司馬遼太郎・陳舜臣著『中国を考マにしていることは興味深い。以後これは中国からの侵略者と戦う少女歌劇風の作品であり、 映画史を貫くもっとも主要なテーマの一つとな抗日の寓意で大ヒットした。太平洋戦争開戦 える』 ( 文春文庫 ) ▽中嶋嶺雄著『中国 こともあった。幕末に鎖国の禁令の緩みに乗じ かわきたながまさ ひろぶみ かおる 歴史・社会・国際関係』 ( 中公新書 ) ▽小島るからである。上海が映画製作の中心地となる後、上海の撮影所は日本人の川喜多長政が指揮 て上海に渡航した長州藩の伊藤博文と井上馨 が、当時ここではアメリカ映画が盛んに上映さする中華電影の支配下に置かれ、大部分は毒に 晋治他編『中国百科』 ( 一九会・大修館書店 ) は、アヘン戦争による欧米列強の中国侵略の状 そんのうじようい も薬にもならぬ作品になるが、彼は中国映画の れており、中国の映画人はその影響を強く受け ▽中国研究所編『中国年鑑』 ( 大修館書店 ) 況を目撃した。彼らが尊王攘夷からの方向転 シャンハイ ぎせつ きぐ 会 )

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を通じ、そこに不凍港 ( 旅順ロ、大連 ) と鉄道な犠牲に供されるものである。ある意味で朝鮮対立としての軍事防衛抗争を通じ、他方では、 中ソ関係 / 略年表 そ 算用数字は月を表す , フ ( 東支鉄道と南満州鉄道、後の中国長春鉄道 ) 戦争は、あたかもこのような文脈において発生中国内部の人民公社、「大躍進」政策をめぐっ をあくまでも求め続けたのであり、蒋介石も毛し、現に朝鮮半島は血みどろの戦場となったのて、深刻な決裂をみていたことが明らかになっ ゅ 一九四九中華人民共和国成立 ( ソ連、ただち たのである。 沢東もソ連のこのような要求に対する抗争と屈である。ソ連が三八度線を、ヤルタ協定で承認 に承認 ) ち 辱を余儀なくされたのであった。 された満州における権益を守る線であると考え 〔国際政治のなかの中ソ冷戦〕やがて中ソ関係 一会 0 2 中ソ友好同盟相互援助条約締結 6 それだけに東北の防衛と確保、具体的には第たとするならば、中国はまさに、ソ連のそのよ は、周知のように一九六〇年以降の中ソ論争の 朝鮮戦争勃発中国人民義勇軍、朝 公然化から、六三年夏のモスクワにおける中ソ 二次大戦後の東北からのソ連の撤退への要求と うな形での東北への干渉を排除するためにこ 鮮戦争に参戦 朝戦争期のソ連軍の東北再進出への懸念が中そ、多大の代償を覚悟で自らこの戦争に不本意両党会談決裂による中ソ対立へ、ついで六九年一全 = 3 スターリン死去 7 朝鮮戦争休戦 国にとっていかに切実なものであったかについ な全面介入を強いられたと思われる。 春のウスリー 川上の中州、珍宝島Ⅱダマンスキ 一会四 9 プルガーニン、フルシチョフらソ連 めいりよう 首脳、中国を初訪問 ては明瞭であり、中華人民共和国にとって東〔中ソ団結神話の形成と崩壊〕ところで、以上 ー島の領有権をめぐる車事衝突、同年夏の新疆 一九会 5 ソ連軍の旅順からの撤退決定 北は、国内的にも対外的にもまさに重要な戦略にみたような歴史的土壌において培われてきたウイグル自治区テレクチ地区をめぐる軍事衝突 一九至 ( 2 ソ連共産党第二〇回大会でフルシチ 的拠点でなければならなかった。 中ソ関係は、それ自身きわめてダイナミックな と、二度にわたる中ソ軍事衝突へと進展し、さ ョフ、スター ン批判 6 ホーランド 一方、中ソ国境紛争の磁場ともなった新疆歴史的さらには戦略的な衝動をもつ国際関係でらに七〇年代に入るや、他方における米中接近 のポズナニで暴動 ハンガリー事件 は、二〇世紀に入ってもそこに居住するイスラあると同時に、戦後アジアの国際環境を決定しの到来に比して、まさに「中ソ冷戦」ともみな 一九五七中ソ新軍事協定調印ⅱ毛沢東、モ ム教徒少数民族の向背や、彼らと漢民族との宗たもっとも重要な要因であった。いわゆるヤル しうるグローバルな国際政治上の抗争となって スクワで「東風が西風を圧倒している」 教的異和を源泉とする反乱とその平定のたびご タ体制といわれるアジアの戦後国際秩序が、結 いったのである。中国はソ連を社会帝国主義、 と発言。社会主義一一一か国の共産党会 とに、中ソ両国の間で利害の衝突を繰り返して局はスターリンないしはソ連の極東認識とくに覇権主義と規定して対ソ対決を呼号し、ソ連は 議、モスクワ宣言発表 きたのである。中華人民共和国成立直後の一九中国認識を源泉として形成されたものであるこ中国を米中軍事同盟による反ソ戦略の担い手と 一九大 5 『人民日報』、ユーゴの「現代修正主 五〇年二月にソ連は「新疆における中ソ石油株とを思うとき、このことはより明白であり、ま して非難した。こうして中ソ対立は、すでに現 義」批判を開始 7 フルシチョフ訪中 式会社設立に関する協定」「新疆における中ソ たそうであるがゆえに、中ソ友好・一枚岩的団代史における重要な一章としての歴史的過程を ( 中ソ共同艦隊案を提起して中国と対 きしよう 有色および稀少金属株式会社設立に関する協結の神話によって、中ソ間の対立・抗争の歴史形成してきているが、中ソ関係は、その特異な 立 ) 8 中国軍、金門島砲撃開始 一九五九 6 ソ連、中ソ新軍事協定破棄 8 中国 定」を中国側と結んで、中ソ合弁会社の設立に的衝動をカムフラージュする必要があったとい 位相によって、それがしばしば双方の、とくに 共産党八期八中全会、中ソ対立・大躍 よる新疆での利権と影響力の確保に成功し、中えなくもない。当時においては、中ソ対立の必中国側の国内政治過程にビルト・インされるが 進で論戦 ( 彭徳懐国防相解任 ) 。中印国 国側は、スターリン死後の五四年一〇月によう 然性について一定の歴史的洞察をその内部に有ゆえに、中ソ関係のダイナミズムま、、 ししきおし 境紛争 ( ソ連、中印紛争を「遺憾」と やくその解消をかちとったのであった。 していたアメリカでさえ、結局はそうした神話動態的たらざるをえないのだといえよう。 して、中国不支持を表明 ) 9 フルシ 以上のようにみてくるとき、ユーラシア大陸 にとらわれてしまったのである。一九四九年の このような中ソ論争から中ソ対立へ、そして チョフ訪中、共同声明出せす の広大な東部内陸において、まさに漢民族とロ中華人民共和国成立以降、毛沢東中国の「向ソ 「中ソ冷戦」へという歩みは、単に中ソ両国関 一九六 0 4 『紅旗』、論文「レーニン主義万歳」を シア民族との「中間地帯」をめぐる歴史的な攻一辺倒」宣言や双方の「中ソ友好」のスローガ係のみならず、いわゆる冷戦サプ・システムと けんでん 発表 ( 中ソ論争表面化 ) 7 ソ連、在中 防と競合、そして相互浸透のダイナミズムが作 ンがあまりにも華々しく喧伝されたがゆえに、 しての中ソ関係の転換によって国際政治の流動 国技術者の引揚げを決定怩八一か国 動してきたことを再認識せざるをえない 社会主義陣営の団結という虚構が、あたかも真化をさらに促進し、中越関係やソ越関係にみら 共産党会議、中ソ対立で難航のすえモ 〔緩衝地帯としての朝鮮半島〕モンゴル、東実であるかのようにみなされ、中ソの一枚岩的れるように、とくにアジアの国際環境を大きく スクワ声明発表 北、新疆が「中間地帯」であったのに対して、朝団結という「神話」が形成されて、外部世界を変動させたのであった。だが「中ソ冷戦」はい ソ連共産党第二二回大会でフルシチ 鮮半島は、中ソ両国にとっての一種の緩衝地帯含むはとんどすべての人々がこの神話に取り憑まや極限に達しただけに、中国における非毛沢 ョフがアルバニア批判、周恩来が反論 であったとみなすことができよう。もとより、 かれてきたのであった。 し大会終了前に帰国 東化の進展によって、中ソ対立をもたらした要 一九六一一中印国境で紛争激化。キュー 朝鮮半島の地政学的位置に関しては、従来から しかし、神話はしよせん、ついえ去るもので因が解消した今日、中ソ和解の可能性に注目せ サイル危機発生 ( これらの事件をめぐ そこが日・中 ( 清 ) ・ソ ( 露 ) の国際的競争の対ある。いわゆる「スターリン批判」を敢行した ざるをえなくなっている。非毛沢東化の進展と って中ソ対立激化 ) 象としての緩衝国であり、伝統的にこれら三国一九五六年二月のソ連共産党第二〇回大会は、 いう中国内政との関連で今日の中ソ関係をみる 一九六一一 6 中国共産党、ソ連共産党への返書「国 間抗争の戦場となってきたという見方は、すで両体制間の平和共存、世界戦争の可避・不可限り、政府間関係はもとより党と党との関係に 際共産主義運動の総路線についての提 に一般に受け入れられているところである。 避、社会主義への移行の多様性という命題や、おいても、中ソ関係が改善されうる要因が成熟 7 モ 案」公表 ( 中ソ公開論争激化 ) 同時に朝鮮半島は、中ソ両国間において、モ スターリン個人崇拝の問題をめぐって中ソ両共しつつあることに着目しなければならないので スクワでの中ソ両党会談決裂 9 『人 ンゴル、東北、新疆が「中間地帯」であったこ産党間のイデオロギー的・理論的不和をもたらある。しかも、毛沢東以後の中国内政の変化 民日報』『紅旗』、論文「ソ連共産党指 とに比し、まさに中ソ両国間の緩衝地帯であっす発端となり、やがて潜在的な中ソ論争の過程は、もはや元に戻ることのできない地点 point 導部とわれわれとの意見の相違の由来 たところにこそ、朝詳半島のもっ地政学的位置を経て、六〇年以降には中ソ論争が公然化し、 of no return を越えたものとしての本質的な と発展」発表 ( 以後、六四年七月の「フ のより重要な意味があったといえよう。 中ソの一枚岩的団結という神話も音をたてて崩社会的・歴史的背景をもっているだけに、実質 ルシチョフのえせ共産主義とその世界 だが、周知のように、緩衝地帯は、ひとたび壊してしまった。しかも、歴史的事実として的な非毛沢東化の著しい進行とともに、当面は 史的教訓」に至るまで、九編の対ソ批 とうしようへい 状況が変化して周囲の均衡が崩れ、内部的に流 判のシリ ーズ論文発表 ) は、中ソ関係は早くも一九五八年の台湾海峡危鄧小平らに象徴的に代表されている旧実権派 フルシチョフ、解任さる 動化するや、まさに戦略抗争の場として徹底的機前後の時期に、一方では中ソ間の深刻な利害勢力の路線が今後さらに強化されるであろうか っ 一九六四 542

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′」ム民主共和国のホー・チ・ミン共産主義政権が、アメリカを本はかねてから中国との接近を望みながら、アメリカの意向したが、領土問題が解決しない以上はその見込みがない。そ 4 、フ後ろ盾とする南のベトナム共和国に対して攻勢をとった。北をはばかって自制していたが、ニクソンの頭越し外交を見届こで中国に対してしきりに和解を働きかけてきたが、これに ゅ - を支援するのは中ソ両国であったが、両国の態度はかならずけると、ただちに反応し、同じ年に田中角栄首相が訪中を断対し中国は三つの条件、つまり外モンゴルからのソ連軍の撤 行し、一九七八年アメリカに先んじて日中平和友好条約を締退、ベトナムに対する援助の停止、アフガニスタンからのソ ちしも協調的でなく、裏面において互いに相手を非難しあっ 吊オこれに基づいて日本は台湾の中華民国との国交を断連軍の撤収を要求してこれに答えている。そしてこの三条件 た。最後に南ベトナム内部における腐敗混乱に乗じた、北の吉しこ。 がいずれも満足させられない現状なので、両国間に和解の交 民主共和国の巧妙なる戦術によってアメリカ軍が敗退し、べち、中華人民共和国が中国を代表する唯一の政権であること トナムの統一が完成された。統一後は・ヘトナムとの関係が悪を承認した。以後、日中の関係はきわめて順調に進展し、中渉がたびたび行われながら、その実施の足どりは、アメリカ 化し、ベトナムはもつばらソ連との連係を強化して中国と断国はとくにその近代化に対して日本の協力を要望している。 に対する和解に比べてもさらにいっそう遅々としているのが かきよう 〈宮崎市定〉 アメリカは日本よりも一年遅れて友好条約を締結したが、実状である。↓中国↓日中交渉史 絶し、あわせて領内の華僑、中国系人民に圧迫を加え、その 結果多数の逃亡難民の群れが発生し、世界各国に向かい分散一方において依然として台湾政権に対する援助を断絶しない 回宮崎市定著『中国史』上下 ( 一九七七、大・岩波全書 ) ▽『中 していった。この中国とベトナムとの摩擦の裏にも領土問題ため、両国間の接近は大いなる支障を受けている。ただし、 国の歴史』全一〇巻 ( 一九七四 ~ 七五・講談社 ) ▽『東洋の歴 史』全一三巻 ( 一九六六 ~ 六七・人物往来社 ) ▽宮崎市定著 が存在する。それは、中国が南シナ海に散在する広範な範囲中国の台湾政権吸取について最大の障害となっているのは、 とうし、よ 『アジア史論考』全三冊 ( 一九七六・朝日新聞社 ) ▽同著『ア の島嶼群、南海諸島をすべて中国領と宣言し、ベトナム領の台湾人民の生活程度が中国人民よりもはるかに高く、したが ジア史研究』全五冊 ( 一九五七 ~ 大・同朋舎出版 ) ▽鈴木俊 って台湾人民がかならすしも中国に併合されることを望まな 介在を許さないからである。 編『世界各国史 9 中国史』 ( 一九六四・山川出版社 ) ▽「ビ ベトナムにおける中国との対抗にもかかわらず、ソ連を仮 いという事実があるからである。 会・冓 1 ・ⅱ』 ( 一九会 ~ ソ連は以前からシベリアの開発を志し、第二シベリア鉄道 ジュアル版世界の歴史 5 ・ 8 ・ 想敵とするアメリカは、中国への接近を計り、一九七二年大 談社 ) 統領ニクソンが北京を訪問し、国交再開の合意に達した。日の開通を進め、開発に必要な資金と技術は日本に求めようと ってきた。ただし生活に即して考えるといってと称し、天子は天命に従ってその地位につき天 ( 紀元前一世紀の末期 ) まで。第二期は前漢末 ちゅうごくしそ , っ 中国思想 じんそう ほ′、トっ も、現実主義とは限らず、現実をどう生きるか下に君臨するものと考えた。また天は人間の生から北宋の中期、仁宗のころ ( 一一世紀なかば しん ころ ) まで。第三期は北宋中期から清代末期、 中国の地域において中国人によって太古以来を考えるについての理想主義的な思考は大いに活を取り巻く自然環境の最大のものであるか ら、本来人間は天に順応し天との調和を図りなアヘン戦争 ( 天四 0 ~ 四一 D のころまで。第四期は 現代に至るまで生み出されてきた思想の全体をありえた。 がら生きてゆかなければならないのであるが、清末以後現在までとする。 第二に、対の思考形式が顕著であったこと。 いう。中国哲学といってもほば同じ内容のもの をさすが、体系性に乏しいものまで含みうるとすべての事物を相対する二つの要素に分けてと天はさらに上記のとおり人間界のもろもろの営〔第一期ーー中国思想の展開〕第一期は中国思 いう意味で、思想のほうが哲学よりもさす範囲らえる思考法で、もっとも典型的なのは陰陽思みの主宰者でもあったから、人のなすべきこと想の成立期である。中国の思想についてわれわ れが知りうるのは、殷代、紀元前一五世紀ごろ がやや広い。中国思想はヨーロッパやインドの想であるが、ただ単純に矛盾対立する陰と陽とすなわち「人の道」は「天の道」を模範とし、 みかど いう二つの異なる性格のものとして区分してと要するに人は天に随順して生きるべきものと考から後のことである。殷代には帝 ( 上帝とも ) 思想とは異なる古い発祥をもち、それらの思想 とよばれる天の神を最高神として、各氏族の祖 らえるのではなく、陰と陽とを相互連関的にとえるのが中国の伝統的な思想であった。なお、 と相互に影響しあいながらも独自の発展を遂げ 「天下」の観念に関連して華夷思想というもの先神、山や川や草木その他種々の神を尊崇し、 らえ、かっその両者の調和・安定を重んする。 てきた。 まっ があった。漢民族独特の民族意識の現れであっそれらの神々を祀って幸いを祈り、また重要な それは、一方に偏った極端を貴ばず、ほどよい 中庸を重んずる思考とも相通ずる面がある。なて、中華 ( 華夏 ) という高度の文化をもった漢行事は占いによって神意を確かめてから実行に 〔中国思想の特色〕 〔中国思想の歴史〕第一期ーー中国思想のおこの「対の思考」は、思考を進める形式とし民族に対して、周辺の異民族を夷狄と称して文移した。周代にも殷代の上帝信仰を受け継いで 展開 / 第二期ーー経学と宗教思想 / 第て現れるだけでなく、思想の内容を論述する場化の低い野蛮人とみなし、夷は華の文化を仰ぎ天が信仰された。そして周王室の天下統治も政 華に服属すべきものとし、中華の文化の及ぶ限治制度や身分秩序も天の意志 ( 天命 ) によって 合の修辞としての対句の表現にも現れる。 三期ーー・新儒学の展開 / 第四期ーーー伝 りの地域が天下であって、それが世界のすべて保証されるものと考え、天を記ることは、この 第三に、中国人は古代以来近代に至るまで、 統思想の変容 支配体制を確認する意味をももっていた。そこ であると意識した。↓天↓天命↓中華思想 終始「天」に対する信仰ないし尊崇の念を抱い 中国思想の特色 ただし以上の三点は、中国本来の伝統的な思で、周の初めに周公が制定したと伝えられる ていた。天は天空であるが、単に自然現象とし 中国思想の特色として次のような事項があげての天空であるだけでなく、天は造物主ないし想について指摘したもので、近代・現代の思想「周の礼」は、天および他の神々を祀る宗教儀 礼であるとともに、天下統治のための政治形態 られる。第一に、思想が現実の生活に密着して造化の根源であって、人およびその他万物を生には該当しない部分がある。 や身分制度を規定する礼制でもあった。↓占い いること。抽象的、理論的な思索に長ぜす、現み出し、自然界・人間界を主宰し、それらの動 ナいじじよう ひがん 中国思想の歴史 世を離れた彼岸あるいは形而上の世界などを求きはすべて天命 ( 天の意志 ) に従って営まれる 中国思想の本格的な展開は、春秋時代後期か 中国思想の歴史は次の四期に分けられる。第 ものと考えられた。だから、人間の住む世界全 めることが少なく、現実をいかに生きるか、ど せいてい しし、それを統治する支配者は天子一期は太古から前漢の末期、成帝・哀帝のころら戦国時代にかけての時期 ( 先秦時代ともい うすればよいかを考えることに大きな関心を払体を天下と、 いてき しん

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とう - 」うナい 一行が『大衍暦』を編纂したころ、祖父の代 書は、南北朝時代の陶弘が編集をした『神農と同じ原料が使われており、手順を誤ると爆発鮮で初めてつくられた。印刷されるものは、仏 くどんしった ほんぞうきようしっちゅう に中国に帰化したインド人天文学者の瞿曇悉達 本草経集注』である。神農とは太古に中国をしてしまう。これが火薬の発明につながったと教・道教の教典や暦が多かったが、マルコ・ポ きゅうしつ は、インドの天文学を漢訳した『九執暦』を ーロは元朝で紙幣が使われていたことに注目し 支配したとされる伝説上の王であるが、民に薬推定される。実際、火薬は唐代末には使われる ん】っ - : っ あが 書いたが、『大衍暦』をはじめとする同時代お ようになる。最近では、南北朝時代の葛洪の錬ており、紙幣によって印刷術がヨーロッパに伝 を教えたとされ、薬の神として崇められてい まうばくし る。本草は薬草の意味であるが、この本には、丹術書『朴子』に記載があるヒ素を用いた丹わったと考えられる。紙と印刷術は知識の大衆よびそれ以後の中国の暦には、その影響はほと ん ~ ′、ーしゆけい んど認められない。元の郭守敬らが編纂した 化と普及に大きく役だった。 動物性・鉱物性の薬も含めて、一年の日数一二六薬の製法も、記述どおりに処方すると爆発し、 これらの四大発明以外にも、寺院・宮殿・墳『授時暦』は中国暦算天文学の到達した最高峰 五の二倍の数の薬物が、上・中・下薬に分類し手順を変えると記されたとおりの銀色の結晶性 墓などの土木建築技術から、『天工開物』に一三ロであったが、当時、中国に伝わっていた優秀な て収録されている。上薬は不老不死を得る仙薬の合金を生じる、という研究報告が出されてい されているような産業技術に至るまで、中国のイスラム天文学の影響は、郭守敬がつくった観 とされるもの、中薬は健康を維持増進する保健る。とにかく、中国で発明された火薬がイスラ 測器にわすかにみられるだけで、暦の伝統的形 技術には優れたものが多く、日本の技術ははと 薬、下薬は病気の治療薬である。なお、鉱物性ム圏を通じてヨーロッパに伝わり、ヨーロッパ んど中国から学び、それに自らのいくらかの改式は変わらなかった。元・明時代には在来の天 の薬は古代エジプト・メソボタミア・ギリシア社会を大きく変えた。 文台のはかにイスラム系の天文台が設置された 磁石が鉄を引き付けることは、古代ギリシア良を加えたものであった。 では使用されたが、中世ヨーロッパでは用いら 〔中国の科学技術が西洋に遅れた理由〕以上が、両者の間に学問上の交流はなかった。 れることがなく、近世になって。ハラケルススがでも中国でも知られていたが、その指極性の指 第二は、前述した官僚制度の強固な支配であ にみてきたように、中世まで西洋より進んでい 初めて水銀を梅毒の治療に用いた 摘は中国のほうが西方よりはるかに早い。宋代 た中国の科学・技術が、近代に入って西洋に遅る。王朝が変わっても技術官僚はたいせつに保 ごろからは方向磁石が航海に使われるようにな 中国の薬物の知識は、唐代の『新修本草』、 北宋代の『証類本草』としだいに増大し、明代り、イスラム圏を通じてヨーロッパに伝わるれをとり、ついに近代科学が生まれなかった理護され召し抱えられたし、文書なども保存され 受け継がれた。 と、精巧な羅針盤がつくられて大航海時代を支由はどこにあるのであろうか。 に『本草綱目』が出て最高の域に達した。 科学技術の研究・開発が政府の手で行われた この問題に簡単に答えを与えることはできな える大きな力の一つとなった。 日本では中国の本草学に独自の知識を加えて ことは、それらの連続的で順調な発達に貢献し いが、まず中国の置かれた地理的環境があげら 紙も中国の発明である。エジプトのパビルス 和漢薬として使っている。 ているが、反面、研究対象が限定され、本質よ 。北・北西は砂漠、西・南西は山岳、南・ ーの語源であるが、これは、パビルスれる 〔技術・化学〕不老不死を得る薬は、初め自然はペー り実用が重視される。このことも科学の飛躍的 界にそのままの形で求められ、仙薬とよばれという植物の茎の細片を縦・横一層ずつ並べて東は海に囲まれて、外敵の侵入が少なく、文化 た。しかし、薬品を濃縮したり、数種類を組み重ね、圧搾機で水分を絞って乾燥させたものでの順調な蓄積、発展がある反面、外来の要素も発展を阻んだであろう。 第三は、中国人の「自然法則」に対する考え 伝来しにくく、それらに刺激された画期的な飛 合わせて相乗作用を働かせたりして、人為的なあり、植物繊維を水に溶かしてほぐし、絡み合 方である。ギリシア人やその文化を受け継いだ 処理を施して効き目を強めた丹薬がしだいに追わせた薄層の紙とは異なる。紙の発明者と伝え躍も期待しがたい。 たんしゃ さいりん 中国の広さと民族の多様さは、数字的にみてヨーロッパでは、一般的・普遍的なものに関心 究されるようになった。主成分として丹砂 ( 硫られる蔡倫より古い前漢の紙が中国で発見され 化水銀 ) が多く使われるようになったところかている。唐の軍がタラス川でアラビア軍に大敗もヨーロツ。ハに匹敵するが、ヨーロッパの諸民が向けられ、自然現象を支配する不変の一般原 らこの名がある。 したとき、捕虜になった中国人兵士のなかに紙族がそれぞれ独自の文化をもち、ほば対等な関理や法則の存在が固く信じられた。一般法則と おう 硫黄と水銀は化学変化が顕著であり、普通の漉き工がおり、彼によって製紙術が西方に伝わ係にあって互いに刺激しあって発展したのに対考えられたものにあわない現象がみつかれば、 し、中国では漢民族が次々と周辺の民族を同化それをも説明しうる、より一般的な法則の追究 人から神仙への顕著な変化に通ずると考えられったといわれる。 していき、残った周辺異民族 ( 現在ではいすれがなされた。 印章は古くからあったし、石碑の拓本をとる たからである。これとは逆に、金はその不変 りよう 中国では個別的なもの、変化するものに関心 ことも南北朝の梁代にすでに行われていたが、 も中華人民共和国の少数民族 ) に比べて、漢民 性・永遠性ゆえに不老不死に通ずると考えら が向けられた。一般法則の追究もなされたが、 木版刷りを印刷の始めと考えると、印刷術は七族の占める割合は圧倒的となった。文化レベル れ、やはり主成分として使用された。 自然現象には法則に従うものだけでなく、従わ も他より格段に高く、それに比肩しうるものが 錬丹術は、中世の西洋・イスラムで盛んに行世紀ごろに中国で始まった。現存する最古の印 少数異民族ないものもある、ということこそ真理であると なかった。元や清の王朝のように、、 われた錬金術と比較されるが、錬丹術でも、天刷物は奈良の法隆寺に残る経文で、七七〇年に 然の金より人工の純度の高い金のほうが効き目木版および銅版によって印刷されたものと思わが漢民族を支配した場合でも、彼らは漢文化を考えられた。このため一般法則の追究が不徹底 に終わった。 が強いと考えられて、金をつくりだす努力がなれるが、最近では、韓国に残る経文に七五一年積極的に吸収し、それに同化しようとした。そ 自然界にかならずそれの従う一般法則がある の結果、ほとんど単一の漢文化が中国全土を覆 印刷のものがあって法隆寺のそれよりも古い されたし、ときには金をつくること自体が目的 , っことになった。 と、最初から決まっているわけではない。した と、韓国の学者は主張している。 とされることもあった。錬丹術・錬金術は互い そのような状況のなかで、中国人はあらゆる がってどちらの選択もありえたわけであるが、 中国の漢字の種類は多いため、活字を用意す に似たところがあるといえる。そして、いずれ ままでのところ、西洋の選ん 問題を自分たちの内部で解決し、物質的・経済結果としては、い も究極の目的は達せられなかったが、新しい物るメリットは少ないが、一一世紀には畢昇が しんかっ むけい 質の発見、化学反応の知識の増大、実験器具の陶活字をつくったことが、沈括の『夢渓筆談』的にも、文化的・科学的にも、いわば自給自足だ道が成功を収めた形になっている。 日本では、法則はよそでみつけてくれるもの する伝統をつくりあげた。また、そのような状 に記されている。 進歩に貢献した。前述のように錬丹術における この本は、方向磁石の偏角や地殻変動 ( 山上況下で、自分たちがもっとも優れているというであった。自分たちはそれを学び、自分のもの 新物質発見の代表例は火薬であった。 せんきん そんしばく にして使いこなすだけでよかった。初めは中国 唐代の医者孫思遞には『千金要方』『千金翼に海の生物の化石があることから ) の指摘な中華思想が育ったのも無理はなかった。このた から学び、西洋のほうが優れていると判断する め、まれに外来要素が入ってきても、中国の科 、フ方』 ( あわせて『千金方』 ) という医学書があど、優れた科学記事が豊富な随筆集である。 と、すばやくそちらに鞍替えした。一昔前まで 陶活字は摩耗しやすく、実用的ではなかった学や文化のバターンを大きく変えるには至らな ゅ・るが、ほかに『丹経』という丹薬に関する著書 しばしば指摘された日本の科学・技術の独創性 4 ちがある。このなかの「伏火硫黄法」は黒色火薬が、やがて木活字もっくられた。金属活字は朝かった。 しんのう ひっしよう かみ

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ちゅうそ もうたくとう 点では、中華人民共和国成立以降はもとより、 おける毛沢東主義の台頭は、相互のナショナリ 三大洋の中層水は、南極収束線から沈降した南たように思われる。漢民族もロシア民族も、 しんがい 現代中国の国民形成の過程、つまり辛亥革命を ずれか一方が他方を完全に制圧したことはなかズムないしは国家エゴイズムをイデオロギーに 極中層水が、中層 ( 現場密度一・〇二七二 ~ 一・ 〇二七四、深さ二〇〇 ~ 九〇〇 ) の所を北上ったが、漢民族にとっては、頑強なロシア民族よって裏打ちすることとなり、この対立はさら含む広い意味での中国革命の全過程において、 その当初からさまざまな問題をはらんでいたこ に排他的な性格のものになった。 し赤道付近まで及ぶが、大西洋ではさらに北上国家の存在が、モンゴル帝国のイメージとダ。フ しかも、モンゴ こうして中ソ関係は、ソ連共産党と中国共産とにさかのばらざるをえない 〈半澤正男〉 った「北からの脅威」としてつねに感ぜられ、 し北緯一一〇度付近まで達する。 しん等一よう ル、東北 ( 「満州」 ) 、新疆といった両民族の ロシア民族にとっては、「南東からの脅威」を党の対立関係へと進展した。それは、一九五六 ちゅうソかんけい中国とソ連との 中ソ関係 ろしん 国際関係で、歴史的な露清関係 ( 帝政ロシアと避けるために、強固に統一された漢民族国家の年のソ連共産党第二〇回大会に端を発して以来接触地域ないしはこれら地域の少数民族の動向 とも絡んで、これらの地域はしばしば中ソ双方 清との関係 ) から現在の中華人民共和国とソ連存在を欲しないという感情を伝統的にかき立てのイデオロギー対立から今日の中ソ両共産党間 邦との関係までを含むが、現代国際関係のうえてきたのである。それだけに、ロシア民族と漢の関係に至る状況をさすものであるが、中ソ両のナショナリズムの激突の舞台となり、攻防の では、一九五〇年代の中ソ社会主義両大国の民族という、いすれも他民族を統合・同化しょ共産党間のこのレ・ヘルの対立関係には、状況の対象としての「中間地帯」になってきたのであ つ ) 0 うとする衝動の強い二つの民族の近三〇〇年来変化によって和解への復原力がしばしば働いて 「一枚岩の団結」の時期、六〇年代の「中ソ論争」 しし。しかない。毛沢東以〔モンゴル〕近現代モンゴル ( とくに外モンゴ きたことも忘れるわナこよ、 の出会いの歴史は、一六八九年のネルチンスク から「中ソ対立」の激化に至る時期、七〇年代の ル ) は、中ソ両国の谷間に存在する「中間地 後の中国内政の変化がこのレベルの中ソ関係に 「中ソ冷戦」の時期、そして八〇年代の中ソ関係条約の締結以来のさまざまな事実が示すよう に、きわめて摩擦の多いものであった。そのよ反映したがゆえに、最近の中ソ和解への動きが帯」であったばかりか、歴史的にもその境界さ 修復・改善の時期にほば区分できる。 えきわめて流動的なこの地域こそ、あたかも漢 〔歴史的背景〕さて、中ソ関係を歴史的に展望うな両民族が現代に至ってともに革命国家を形生じているのだといえよう。 中ソの政府間関係は、党のリーダーシップの民族という巨人とロシア民族という巨人の間に するならば、広大なユーラシア大陸の東岸から成したことは、両者の一致と団結よりも、競合 広げられた一枚のじゅうたんのような存在であ 交替や変遷に従って当然変動しうるばかりか、 と対立をおのずからもたらすものと考えるはう 内陸の中央アジアに至るまで、七六〇〇キ。にな 当面の国際関係の推移いかんによっても変化すり続けてきたのであり、このじゅうたんを今 が自然であったのかもしれない んなんとする国境を連ねて、ソ連と中国という 日、ソ連が自己の側に完全に引き寄せてしまっ 巨大な国家が相対峙しているという地政学的現〔重層的な対立要因〕このことからもたらされる部分だと考えねばならない。それゆえ、この 実を顧みただけでも、この特殊な国際関係の歴る国家間の対立関係は、国境や領土をめぐる対場合には、国際関係がもたらす強いインパクトているがゆえに、中国の反発はまた深まってき たともいえるのである。だが、ともかくモンゴ たとえば米中関係がきわめて悪化するとい 史的位置はただならぬものであるといわなけれ立として、一六八九年のネルチンスク条約以 ルに関しては、モンゴル人民共和国自身がソ連 うような状況ーーが存在すれば、このレベルの ばならない 。この場合、ユーラシア大陸を縦断来、和解しがたく歴史的に存続し続けてきたの して、二つの巨大な民族が存在し、しかも両者であり、それは、ロシア革命の成功ののち「カ範囲内で中ソ関係が変化することも当然考え , つの影響下に社会主義国家を徐々に建設し始めて 以来、その影響下に外モンゴルを収めた一九二 ラハン宣言」 ( 第一次宣言ー一九一九年、第一一るところである。 の中間には、一種の「中間地帯」として広大な 中ソ関係は、以上のように、①民族と民族の〇年代初頭以降、実際の状況はほば確定してき モンゴル民族の居住空間が存在してきたこと次宣一言ー一九二〇年 ) として示された国際主義 たのであった。 関係、②国家と国家の関係、③党と党の関係、 の精神と立場を押し流して貫徹してきた。やが が、この「中間地帯」をめぐる攻防となって、 〔東北・新疆〕これに対して、東北と新疆と ロシア民族と漢民族の対立をさらに増幅してきて一方におけるスターリン主義の形成と他方に④政府と政府の関係の四つの関係の総体として 形成されてきたのであるが、いわゆる中ソ対立は、依然として中ソ両国にとってのバイタルな 、始連 3 「中間地帯」であり続けたのである。少なくと は、中ソ両民族の歴史的角逐に加えて、スター し ソ年 冐行 リンの中国政策、毛沢東の強烈な対ソ民族意識もソ連側はそのようにみなしてきたし、中国側 ' 進兵 か国 は、そのようなソ連の意図に対して不安を抱き を基軸にして歴史的に形成されたものであり、 っ ) 和中は 不る係 以上の四つのレベルの対立関係が重層的に一体続けてきたように思われる。この点でも注目に 8 す関 値するのは、毛沢東自身が一九五八年の時点 化していた状況だと理解することができる。 8 立突国 9 対衝両 しかも、ここでの中ソ対立は、第二次大戦後で、一九五〇年のスターリンとの中ソ交渉を回 とた フ刻兵 ーし想しつつ、当時は、「まだ二つの″植民地〃が のアジアの新しい国際秩序の形成過程こお、 ョ深連て をチのソし て、また同時に中国革命の勝利と中華人民共和あり、すなわち東北と新疆だが、第三国人がそ シ国で こに住むことを許されていなかった。現在は取 ル両 国の生成の過程において、中ソの友好と一枚岩 フ 島険 り消された」と語っていたことである。まさに 的団結の神話を表層としながら角逐し、曲折し、 と期一て 時キめ 右 あるいは接近と離反そして反発の相互作用を繰毛沢東にとって東北と新疆とは、主権を回復す のスわた ンきし り返してきた歴史的過程であり、きわめて壮大べき「植民地」として中ソ間に存在していたの 沢 マ , 展 毛でダ後発 であった。 な歴史のドラマを構成してきたのであった。 る陰 ( 始で そのような東北が中ソ抗争のもっとも重要な すの島開ま 〔「中間地帯」の問題〕イデオロギー上の中ソ 手調宝命 歴史的舞台であり続けたことについては、とく 対立は、非スターリン化が開始された一九五六 握強珍革突 の , 大衝 上 に指摘しなければならない。スターリン時代の 年以降、潜在的に深化し、早くも五八年夏には 好境化カ 友国文武 ソ連は、一九四五年のヤルタ協定と中ソ友好同 台湾海峡危機と核兵器をめぐる車事戦略抗争と しようかいせき 関的い中影い して中ソ両国政府間の亀裂をもたらしたが、国盟条約 ( スターリンと賰介石 ) 、五〇年の中ソ ソ面て〕撮っ 中表めぼ側月家的対立、さらには宿命的な民族的対立という友好同盟相互援助条約 ( スターリンと毛沢東 ) 5 ノ ド きれつ

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、こ裏づけられた一元支配の構造も、教会と国家の なった。しかし、インド的中世社会を決定的し いるのは、インドにおける中世の成立を、①地 戒律の根本にあり、彼ら修道士は、フランク王 二元社会が法の下に均衡する西欧とは異質であ 国時代のアイルランド教会系修道士に範をとっ方における領主的階層の成立、②諸カースト解体したのは、一八世紀中ごろからのイギリス 〈小谷汪之〉り、西欧的経験の所産である国民国家も中国に て、開墾に、農事指導に働いた。教会領、修道 ( Ⅱジャーティのこと。いわゆるバラモン、クのインド植民地支配であった。 はなじまない存在であった。 院領は、どこの土地にあっても領地経営の範型シャトリア、バイシャ、シュードラという古代 中国 〔中国史における歴史的転期〕さて文化の早 となった。 インドの種姓制とは異なり、カーストⅡジャー ティとは現実的な人々の社会集団のことであ〔時代区分設定の意義と問題点〕一九世紀から熟、連続、独自性を前提としたうえでなら、中 教会人はまた社会福祉の担い手であった。一 六世紀に入り、都市の肥大化に伴う社会問題のる ) の形成とカースト制の完成、③それと表裏世界の一体化が進むなかで、固有の伝統文化を国の社会経済体制、国家組織、技術関連の相関 において、発展と進化の転期を画することは可 増大は、貧民救済の「世俗化」、すなわち都市をなす村落共同体の形成、①ヒンドウー教ある背負う非西欧世界においても、近代化の歩調に 能である。古典期を除けば中華帝国期は初期 いはヒンドウー的文化の形成、に求めることで加わることは、ほば普遍で不可逆の課題となり 当局による肩代りを促した。ここに中世カトリ つつある。こうした内在状況が、発展の普遍史 ( 秦・漢 ~ 唐 ) 、中期 ( 唐末 ~ 明末 ) 、晩期 ( 明 ック教会の社会的役割の重要な部分が滑落したある。このように、今日ともすれば超時代的な のである。 インド社会の特徴とされるものは、ほとんどすと各世界文化の独自性の交差のなかで、近現代末 ~ 清末 ) に三分できる。この際、普通、帝国 ぶんすいれい のルーツを探り、そこに中世を設けるとすればの大分水嶺的転換期とされる唐・宋変革期 ( 九 ~ 一〇世紀ごろ、いわゆる中世の成立 教会はまた教育と文化の機関であって、ラテ どこまでさかのばったらよいか、また中世社会 ~ 一三世紀 ) が、中世革命期、中世的転換期と ン語を保守して古典の学芸を伝承し、年代記の期に姿を現すのであって、太古以来存続したと なる。 いうようなものではけっしてない。 のどのような転換が近現代との関連でだいじな 形で歴史を記述した。王侯伯の家政の文書部局 まず国家の形成原理からみると、効率的な行 の長は一三世紀末に至るまで教会人が独占し 〔経過と特徴〕こうして形成されてきたインドのかという問題を生み出すのである。 世界史を古代、中世、近代と三分する構想政組織の始原は秦・漢にあるが、内容が進化を た。一二世紀はイスラム文化圏を介する古典の的中世社会は、一二世紀から一八世紀のムスリ 学芸摂取の時代であり、一三世紀に入れば都市ム諸王朝の支配期にも基本的にはそのまま存続は、人類史の普遍性を見定めるうえで重要であ遂げ、官吏登用法 ( 科挙 ) が確立し、新人登 におけるもう一つの身分団体「大学」の形成をし、さらに発展していったと考えられる。一二るものの、比較の尺度には西欧世界の発展史が用、昇進、行政監察、職務の系列化 ( 三省六 みる。その過程はまた、ヨーロッパ固有の思考世紀初頭、北インドに初めて成立したムスリム暗黙のモデルとされてきた。しかし、その封建部 ) 、文治が徹底して独裁機構がなり、ことに 制や資本主義文明の相対的で特殊な状況が自覚科挙を通じて教養、富、才能による競合的才能 の形成、すなわちスコラ哲学形成の過程でもあ王朝 ( 奴隷王朝 ) ののち、北インドではハルジー 朝、トウグルク朝など四王朝が続き、デリー諸されてきた今日では、かりに三区分法を非西欧主義が社会の普遍価値として定着し、社会は統 り′、ち・ト画、つ 弓イオこうして六朝以来の門 〔一言語の定着〕言語は「ラインとマースの間」王朝と称せられる。これらの王朝支配期の社会世界に用いるにしても、その比較の尺度は文化合と安定をヒしこ。 については、史料が乏しく、あまりよくわからの個別性を意識した柔軟なものでなければなら閥貴族、武人の専権が一掃され、新興の地主、 を境にして北東のチュートン語圏、南西のロマ きようしん 富商、その母胎の地方エリート ( 郷紳 ) が支 ないが、イスラム神秘主義 ( スーフィー ) の諸派ない。中国についてこうした試みはまだ緒につ ンス語圏がようやく定まった。後者はケルト語 配層に登場し、政治の社会支持層が広くかっ流 いたばかりである。 が農村部にまで進入し、イスラム教の底辺への に洗われたラテン語を母胎とし、北のオイル 〔中国の歴史的独自性〕ます下限からみると、動的となった。両税法 ( 唐末 ~ 明末 ) はこの拡 語、南のオック語に分かれ、前者の叙事詩、後 浸透をある程度実現していつ、たことが知られて いる。この時代、一四世紀中ごろにはムスリム 普通、中国の近代化は一九世紀なかばのアヘン大に対応し、政府の世俗勢力 ( 地主、富商 ) に 者の叙情詩の制作は一一世紀の末にまでさかの ばる。一三世紀以降、オック語圏が分解し、ロ政権がデカン高原地方にも成立 ( パフマン朝 ) 戦争が起点とされている。ただし一九世紀の中対する統制が柔軟化するとともに、貨幣経済が し、こののちデカン・ムスリム五王朝と称され国は、旧社会の絶頂期と破局期が並び立っ特異国の財政基盤を拡大強化し、膨大な常備軍、官 マンス語系諸国語の形成をみる。チュートン語 な状況であったから、明確な近代化の歩みは一僚集団が生まれ、交通、産業開発、教育文化の る王朝が成立して、南インドのビジャヤナガル は南ドイツからイングランドにかけて展開し、 しものせき 八九五年の下関条約以後とする見解も成り立施設も拡充し、社会に安定と活力を与えた。一 一三世紀には、侵入以前の記 意を叙事詩に成文王朝と抗争したが、ビジャヤナガルは一六世紀 初め衰退し、ムスリム権力がさらに南にまで及つ。こうすると初期近代の上限、さらに中世社方、社会の都市化と自律化も進化した。宋以後 化する。ヨーロッパ社会はようやく自前の一一 = ロ語 で思考し、歴史を記述するまでに自意識を高めんだ。一六世紀初めムガル帝国が成立すると、会の始源はという問題が生するが、その前に文の社会では、都鄙の分化や相補・相克関係がは 〕〈堀越孝一〉 化の連続と官僚制の存在を考えておく必要があっきりしてきた。県城の総数は人口増Ⅱ生産 たのである。↓封建制〔ヨーロッパ しだいに版図を拡大し、ほばインド全域を支配 増に相関せす不変であったが、地方農村に鎮 した。しかし、ムガルの支配は版図の拡大の裏る。 インド 三千余年の中国史は、初期伝統の成立期であ ( 町 ) や市場地が無数に発生し、日常の交換で で弱体化し始めており、北インドにおけるシク り氏族制にたっ先秦千余年の古典期ないし都市つくられる村々と市場からなる小社会経済空間 教徒領主層の成長、ジャート族領主層の強大化、 〔中世社会設定に関する諸説〕インド史におい しん デカン地方におけるマラータ諸勢力の台頭によ国家期と、秦・漢 ~ 清二千余年の官僚的中華帝プロックが細胞状に広がり、鎮を介し、さらに て、どの時代を中世とよぶかは人によって違い 国期とに二大分するのが自然である。その指標県を介して都市間経済の網の目に組み込まれ、 がある。旧来は、一一世紀までのヒンドウー諸って足元から動揺し始めた。これらの領主層が、 は国家形成原理の特異性にあり、中国が早熟的社会は自給性を脱して分化した有機的、流動的 ~ 一〇世紀以来成立してきた領主層と直接に 王朝時代を古代、一二世紀から一八世紀までの ムスリム諸王朝の時代を中世とよぶ場合が多かつながるものなのか、あるいはそれらとは性格に巨大人口規模と高度の生産力・生産量、経な状況を呈し、ギルド、結社が育ち、地域的、 社会経済的な自律の組織が発達した。民衆は徴 の異なるものなのか、今日の研究段階では十分済・軍事・組織の技術、そして巨大空間の政治 った。しかし、近年、経済構造をメルクマール 明らかにすることができないが、ただ、中世成単位を達成し、二千年の官僚政治の帝国を持続税、治安、教化、科挙については国の一元支配 として、中世Ⅱ封建制と理解する立場が一般化 の下にたったが、社会経済生活では前述の市場 せしてきた。この立場にたつ人々の間にも、中世立期に形成された村落共同体の変質過程から成したことは、比較史上の特例なのである。この キ一ようぞく , フの始期については諸説に分かれ、グプタ朝解体長してきたものであることは、はば明らかとな種の官僚制は前近代世界では古代エジプトと並プロック、結社、ギルド、郷紳、郷族の下で ゅ・期の六世紀、ハルシャ朝崩壊後の八世紀を始期っている。こうして、ムガルは一七〇七年アウぶ異例であり、帝国は東西口ーマより長命であ自律の幅を広げた。 こうした活力と安定は、生産、技術、商業、 5 った。また文化主義というべき中華的世界観に ち一とする説などがある。これらの諸説に共通してランゼープの死後、急速に解体に向かうことに

10. 日本大百科全書 15

いわば受精の瞬間、死有は死の瞬間であり、本 〔効用〕噛むことは人間の本能的な欲求であへの忠」の強調 ( 忠君思想 ) も、とくに武家の面、たとえば、注意しないで通り過ぎていた店 る。精神的にいらいらしているときに物を噛む思想やその反映を受けた近世思想には強く流れも、いったん買い物の必要を生じると注意が向有はいわゆる一生、中有は死有と生有の中間の けられる。 存在である。中有は七日刻みに七段階に分か と気分が治まる。第二次大戦でアメリカ兵の携ている。もとより忠孝は一体だと説かれるが、 〔注意の移動と持続〕注意は刻々に移動する。れ、各段階の最終時に生有に至る機会があり、 帯食糧にチューインガムが配給されたのも戦場しかし社会集団かそれとも家族かという際に しじゅうく : ち 音楽を聴きながら読書をすると、音楽のある部遅くとも七七日 ( 四十九印 ) までにはすべての は、忠・忠義を中心とすることが多く、家族Ⅱ での緊張を和らげるためであった。噛むことは あごや歯ぐきを鍛えるのにも役だち、また、食後孝を重んする中国とは対照的である。この傾向分が注意されたり読書のある部分が注意された生物が生有に至るとされている。遺族はこの まん 日 四十九日目には満 七日ごとに供養を行い、 り、また、それそれの他の部分が注意されない は、幕末には水戸学や志士の忠孝・天皇忠誠な にチューインガムを噛むと歯に付着した食べか ちゅういん こともあり、まれには両方が注意されたり、逆中陰の法事を行う。四十九日という時間は、 どに変形して、やがて明治以降の日本社会の一 すを除去できる。一方、チューインガムに含ま 〈黒住真〉 に両方とも注意されないこともある。注意の移おそらく死体の腐敗しきる期間に関連があると れる甘味料や各種添加物はむし歯やその他健康つの原理ともなった。↓孝 めいりよう 〈定方晟〉 回赤塚忠・福永光司・金谷治・山井湧編『中国動は、同じ様相の感覚ではいっそう明瞭であみられる。 とのかかわりで問題となっており、材料や用い ちゅういんこっきようふんそう 方によって多くの異論が出ている。〈河野友美〉 文化叢書 2 思想概論』 ( 一九穴・大修館書店 ) る。談話中に並行して近くの人々の談話を注意中印国境紛争 中国とインド両国間の国境をめぐる紛争。一九 ▽和辻哲郎著『日本倫理思想史』上下 ( 一九するのはきわめてむずかしい チューインガムノキ 0 サポジラ 両耳に並行して別々にイヤホンを通した音刺五四年に中印両国は平和五原則を声明し、紛争 五一一・岩波書店 ) ▽丸山真男著『忠誠と反逆』 忠ちゅう中国倫理思想の一概念。字義から の平和的解決を確認したが、五九年にチベット いうと、中なる心、真心。かならずしも君臣間 ( 『近代日本思想史講座Ⅵ』所収・一九六 0 ・筑摩激を与えた実験では、あらかじめ教示した内容 だけが注意されること、また、内容を短時間で反乱が起こりダライ・ラマがインドに亡命した の道徳に限らない。「人の為に謀って忠ならざ 書房 ) がくじへん ちゅう ちゅうあいてんのう生没年不詳。中断して左右の耳に交代に与えると注意を防害のを契機に、同年八月と一〇月に両国の東部お りしか」 ( 『論語』学而篇 ) 。孔子の道は「忠仲哀天皇 りじん 恕」で一貫していたという ( 里仁篇 ) 。真心と 記紀によれば第一四代の天皇。四世紀の在位とすることも確かめられている。しかし、自分のよび西部国境で衝突が発生した。ついで六二年 たらしなかつひこ 思いやり。もっとも臣が君に対して真心で仕えなるが明らかでない。足仲彦天皇ともいう。名前のような音刺激はこれと関係なく注意され一〇月、中国車は東部および西部国境で大規模 しも よ やまとたけるのみこと ふだじのいりひめおきながたらし な攻撃を行いインド軍を敗走させたのち、もと ることも忠。「下と為りては克く忠」 ( 『書経』日本武尊の第二子。母は両道入姫。気長足ることも確かである。 かくせ、 ひめじんぐう 注意をどれだけ持続できるかの度合いを覚醒の国境線に引き揚げた。 伊訓 ) 。だいたい初期の儒教倫理では、父子は姫 ( 神功皇后 ) を皇后とする。『日本書紀』に ぎごう かしひ くまそ てんごう 係争地域は西、中、東部の三地域があり、西 天合 ( 先天的関係 ) 、君臣は義合 ( 合わせ物、よれば、筑紫の橿日宮 ( 福岡市香椎 ) で熊襲を度 vigilance という。技術作業面で近来、覚 しんきよう 部は中国新疆ウイグル自治区アクサイチン、 離れ物 ) であった。孔子、孟子とも、親への孝討っことを協議したとき、皇后に神がかって、醒度がとくに要求されている。たとえば、瞬間 しらぎ の前には、国家への忠誠など無視してよいと考熊襲よりも新羅を先に討っことを託宣した。天視で指示針の振れを報告する実験で、指示針のインド・ラッダーク地区で、中国の建設した新 える。忠が臣下の道徳として固定し始めるのは皇は託宣を信ぜず、熊襲を討ったが勝っことが振れが時空的に不規則に任意の位置に呈示され疆・チベット公路があり、中国が支配してい じゅんし 戦国末の荀子あたり ( 『 ~ 旬子』臣道篇 ) であできなかった。そのうえ病気になり、五二歳でる場合には、規則的に定位置に呈示される場合る。中部はシプキ峠、マナ峠を含む中印国境地 る。秦・漢の大帝国が成立してから忠の比重は没した。『古事記』では、神の怒りに触れて急よりも覚醒度を上げることが確かめられた。一帯、東部はプータン東方の中国・チ・ヘットとイ かわち ごかん ばゅう いよいよ大きくなる。後漢の儒者馬融は、『孝死したという。河内の長野陵 ( 大阪府藤井寺方、瞬間視を通じて語の認知閾の測定で、積極ンド・アッサム地域でマクマホン・ラインが実 しんじよ 際上の国境となっている。中国側の発表によれ ^ 志田諄一〉的価値を示す語の閾値は消極的価値を示す語に 経』になそらえて『忠経』を著した。『晋書』市 ) に葬る。 以降の歴代の史書は、「忠義伝」の項目を立て注意ちゅうい attention 特定の事柄に対比べて低いことが報告されているが、この場合ば、紛争地域は合計一二万五〇〇〇平方キ。にわ みん たり、東部九万平方キ。、中部二〇〇〇平方キ。 して気をつける、気を配る心的活動を意味し、 は要求阻止の機制によって覚醒度が下げられた て、忠臣を顕彰する。しかし明の教育勅語「六 ゅ ともみられる。 〈小川隆〉西部三万三〇〇〇平方キ。を占めている。 諭」でも依然、孝が忠に優先する。〈本田済〉注意が向けられる事柄は心的活動の広い範囲に ちゅうおうしやかいほけんいりよう 中印両国の基本的主張は、一九五〇年代末期 ちゅういきよう 0 中央社会保険医療 〔日本〕忠の概念は、日本には漢語・漢学を通わたる。目前の環境に対しては特定の刺激・刺中医協 せんみよう を一よ・フギ一かい から六〇年代初期にかけてのネルー・インド首 じて早くから移入され、『日本書紀』、宣命以激布置に向かうことを意味するが、以前の経験協議会 ちゅういどきせつふうきこ相と周恩来・中国首相との往復書簡、国境会談 来、史書、物語、仏書などに多くみいだすこと について想起される特定の事柄に向かうことを中緯度季節風気候 によって明らかにされた。西部では、インド う 0 季節風気候 ができる。もともと忠とは、心のうちなる真心意味する場合もある。 ちゅういどこうあったい南」 は、伝統的国境線はすでに存在し、全ラッダー のことであり、自分自身にもいうが、他人に向〔注意をひくもの〕注意が向けられる事柄は、中緯度高圧帯 ク地区はインド領であるとしているのに対し けたものをいうことが多い。日本の忠には、そ一方には環境の状況に支配されるし、他方には両半球で緯度三五度付近にある高気圧が連なっ の他者志向の性質がとりわけ強い。江戸時代の人および動物の内的状態・経験に依存する。感た領域をいう。海洋上にできる大規模な高気圧て、中国は、国境線は末確定であり、全アクサ じんさい で、停滞する。夏には多少北へ動き、冬には南イチン地区を中国領であると主張し、東部で 儒者伊藤仁斎は「人の事を謀ること、おのが事性面で注意は環境刺激の弁別・認知に関係し、 いちごう 〈大田正次〉 は、インドはマクマホン・ラインを国境線と主 へ動く。↓高気圧 を謀るごとく、一毫の尽くさざる無き、まさに注意の範囲は認知の範囲を超えるわけではない ごもうじぎ ちゅういん死んでから次の生を受け張するのに対し、中国は、一九一四年のシムラ 是れ忠」 ( 『語孟字義』 ) として、忠とはどこま が、その範囲のなかで注意を向けられない、弁中陰 条約に当時の中国政府は調印していないのでこ 別可能で認知可能な事物が無視されることもあるまでの中間期間における存在。サンスクリッ でも徹底して人を思いやり、人に尽くすことだ ・ハハ antarä-bhava の訳。れを認めす、国境は末確定であり、プラーフ という。思いやりの純粋さに忠をとらえるのでる。すなわち、人および動物にとって注意されト語アンタラー ちゅうう せんこう マ・プトラ川北岸を国境線と主張している。中 > ある。ところで、その忠が志向する他者はおおる事柄が環境のなかから選択される。閃光、爆中有とも訳す。陰も有も存在の意。仏教では りんね 音、地震などの環境刺激や変化は注意をひきや輪廻の思想に関連して、生物の存在の一サイク部でも、マクマホン・ラインを国境とするイン 、フむね社会的上下関係 ( 君臣関係 ) の上位者とさ ゅ - れることが多く、この場合、家族的上下関係すいし、横断路の標識や広告などには注意をひルを四段階 ( 四有 ) に分ける。すなわち、中ドと、中国の主張は対立している。 しよう、つ ほんめしう 一九六〇年代後半の中国の文化大革命以後、 ち ( 親子関係 ) における孝と対立する。この「君きやすい刺激布置が配慮されている。その反有、生有、本有、死有であり、このうち生有は しん きせつふ・つキ一、 : っ いんう 389