ちょうせ ⅱⅡⅱⅡⅢⅡ 書にある将軍の呼称を従来の「印本国大君」か家の形成を将来の課題として残したまま、朝鮮せたもので、それ自体すでに米ソの「冷戦」を新たに軍事境界線 ( 休戦ラインともよぶ ) が一 含意していた。戦後一段と深まった「冷戦」段と厳しく南北を隔てることになった。六〇年 ら「日本国王殿下」に改めさせ、また使節の接半島の南半部でまず大韓民国がつくられ、つい のいわゆる「四・一九学生革命」で李承晩政権 遇を簡素化したが、白石失脚後はすべてもとので同年、北半部で朝弉民主主義人民共和国が発は、朝の民族自決の障害となり、南北分裂の が倒れると、北側は改めて統一のための話し合 〈荒野泰典〉足し、分裂が本格化した。しかも南北朝蝉は互最大の原因となった。 形態に戻された。↓殊号事件 一九四五年一二月、モスクワで開かれた米・ いを南側に呼びかけた。これを契機に、韓国で いに反目し、一九五〇 ~ 五三年には同胞相討っ 回申維幹著、姜在彦訳『海游録ーーー朝鮮通信使 の日本紀行』 ( 一九七四・平凡社・東洋文庫 ) ▽朝鮮戦争の悲劇をさえ生んだ。この戦争の休戦英・ソ三国の外相会議は、朝鮮の国家再建を支は南北の平和統一促進を求める大衆運動が一時 中村栄孝著『日鮮関係史の研究下』 ( 一九後も南北の対立抗争は終息せず、それは朝鮮半援する方策の立案を、その地域に駐留する米ソ期大きな高まりをみせた。しかし、翌六一年五 ーくせいき 月の軍事クーデターで登場した相正熙政権は、 六九・吉川弘文館 ) ▽映像文化協会編『江一尸島情勢の不断の緊張要因となって今日に至って両車の共同委員会にゆだねることで合意した。 いる。この状態を克服して国土と民族の統一を米ソ共同委員会は四六年三月から五月にかけてただちにこの運動を抑圧し、「勝共統一」 ( 北の 時代の朝鮮通信使』 ( 一九七九・毎日新聞社 ) ▽ 宮崎道生著『新井白石の研究』増訂版 ( 一九回復することは、階層や思想信条の差を超えた開催されたが、意見の対立で結論が得られず、共産主義に打ち勝っての統一 ) 、「先建後統」 すべての朝鮮 ( 韓国 ) 人の民族的悲願といわ翌年五月の再開後も難航を続けた。その間、朝 ( まず経済建設を急ぎ、南北統一はそのあとに ) 六六・吉川弘文館 ) ちょうせんとういつもんだい朝れ、また、重大な国際的関心事でもある。そのの北と南では、それぞれ別個の国づくりの準のスローガンを唱えた。南北両政権の対決状況 朝鮮統一問題 は六〇年代全体を通じて変わることがなかっ 鮮はもともと、古い歴史と豊かな固有の文化をため、この問題をめぐるさまざまな努力が、現備が進められた。ソ連軍が住民の自治を大幅に もっ単一の民族国家である。国名を大韓帝国と に南北朝鮮間および関係諸国間で繰り返し行わ認めた北朝鮮では、四六年二月に仮政府に相当た。 名のっていた当時の一九一〇年、「日韓併合」れている。だが、分裂後長い歳月を経て、現在する北朝鮮臨時人民委員会がつくられて、土地〔七〇年代以降の変化〕一九七〇年代に入る と、南北両政権は相変わらす厳しい対決姿勢を によって日本の植民地に転落し、国家滅亡の悲の南北朝鮮の間には、北の社会主義、南の資本改革その他の民主改革を実施した。この機構は 翌四七年二月、北朝鮮人民委員会に発展した。維持する一方で、統一問題への寄与を理由にし 運にみまわれたとき、朝鮮民族があげて祖国の主義という社会体制の大きな差が形成されてい 再建を願い、以来三五年間、困難を冒して独立る。韓国が西側陣営の東北アジアにおける軍事米軍が直接軍政を実施した南朝鮮では、左翼連た話し合いを断続的に実施するようになった。 運動を続けたのは当然だった。日本の朝鮮支配戦略拠点の一つになっているという国際政治上動が規制され、四六年一二月、軍政庁の諮問機その最初のものは、七一年九月から始まった南 関として、保守系政治家を集めた南朝過渡立北赤十字会談である。この会談は、朝鮮戦争の は第二次世界大戦の終結とともに崩壊した。その問題もある。朝鮮民族の願いにもかかわら 際に南北に離散した同一家族を捜し出し再会さ れは本来なら単一の独立国家としての朝鮮の新ず、南北統一への歩みはなお多難だといわなけ法議院が設立された。 一九四七年九月、アメリカは米ソ共同委員会せることを直接の目的に掲げた。ついで翌七一一 たな出発点になるべきものだったが、現実は朝ればならない 鮮民族にとって厳しく、大戦直後の複雑な国際〔南北分裂の経緯〕第二次大戦中の一九四三年の難航を理由に、朝鮮問題処理への国連の関与年七月、両政権の高級幹部の間で①自主的、② 情勢のもとで、今度は国土の南北分裂という不一一月、米・英・中三国の首脳は対日戦争の目を求める提案を第二回国連総会で行い、ソ連の平和的、③民族大団結という「祖国統一の三原 幸な事態が進行した。一九四八年には、統一国的をうたい上げたカイロ宣一言のなかで、「三大反対を押し切ってこれを可決させた。翌四八年則」が確認され、これに基づいて統一問題その ものを討議する場として双方の政治家による 国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意五月、国連の関与を拒否した北朝鮮を除外し 「南北調節委員会」が設けられた。こうした南 し、やがて朝鮮を自由かっ独立のて、国連監視下の総選挙が南朝鮮で実施され、 朝くら館 北対話の開始について、南北両政権はどちら 描長物ものたらしめる決意を有する」とその結果、同年八月一五日、を内を初代大 も、自分たちの創意と英断によるものと説明し 々村述べ、朝鮮の独立に対する支援を統領とする大韓民国が発足した。これに対抗し た。南北の和解を求める内外の世論の一定の反 人西市国際的に公約した。カイロ宣言のて北朝鮮でも同年八月独自の総選挙が行われ、 きんにっせい っ ~ 信神内容は一九四五年七月のポッダム九月九日、金日成を首班とする朝鯡民主主義人映だったことは確かだろう。他面、その背後に イ まい政 は複雑な事情もいろいろとあった。その一つは 民共和国が樹立された。これに伴い、ソ連車は 集村庫宣言に引き継がれ、ソ連は同年八 に奥兵 月八日、この宣言に参加して日本同年一二月、米車は翌四九年六月、それそれ撤アメリカの朝鮮半島政策の手直しである。 アメリカ政府は従来、朝民主主義人民共和 に宣戦した。しかし、朝鮮に関す退を終えた。 、ヒ」ま国の存在を認めす、韓国の旗のもとでの南北統 行も引る連合国の公約は、かならすしも〔南北の抗争〕分裂が本格化したのち」仰。 の図 7 一を推進しようとする「一つの韓国」政策をと 誠実に履行されたわけではなかっ統一のための話し合いをたびたび南側に呼びか 当を 4 0 「 ~ 使本 けたが、頑固な反共主義者として知られた李承っていたが、一九七〇年ごろから、南北両政権 ・通色 対日戦争に参戦したソ連車は、晩大統領はこれを無視して「北進統一」 ( 武力の平和的共存を推進することによって朝鮮半島 着 歩本 来紙朝鮮北部にいた日本軍を攻撃して統一 ) を呼号し、南北間の対立は激化した。その安定化を図るという「二つの朝鮮」政策に転 人 この地域を占領した。一方、朝鮮れが武力抗争に発展したのが一九五〇 ~ 五三年換し、その立場から韓国に南北対話の実施を勧 を・る 南部は日本の降伏後上陸した米軍の朝鮮戦争である。この戦争は車事的決着をみ告したのである。韓国政府がこれに応じた理由 本筆て のなかには、六〇年代からの経済開発の進展で によって占領された。北緯三八度ないまま休戦となり、その戦後処理と南北統一 ・藤作 線を境界とするこの朝鯡分割占領への環境づくりを目的にして五四年五月にスイ南側のほうが北側よりも経済的優位にたちつつ 工羽を は、朝鮮半島全域がソ連の勢力下スのジュネープで開かれた関係諸国の国際会議あり、したがって南北対話でも主導権をとりう 。 4 、物・ - 使絵版に置かれることを阻止したいと考も失敗に終わ 0 た。国連車と名の「て朝鮮戦争るとの自信があ「た。北側からいえば、アメリ 力の「二つの朝鮮」政策は南北分裂固定化の政 通浮世えたアメリカが、日本降伏の直 に参戦した米軍は休戦後も韓国駐留を継続し、 きゅ、つきょ 」をい鮮筆浮 また、戦争前の北緯三八度線にとってかわって策であって、統一促進とはまったく逆である。 朝肉が 後、急遽ソ連に要求して実現さ : つばんこくたいくん 665
こうしやくも 鮮語は話すことばだけで、記録を残すには漢字 たがる穢貊族らの北方系朝鮮語と、慶尚南・ 〇〇〇人の信徒中一万余人が犠牲になった。一れた行事があるが、洪錫謨の『東国歳時記』 らくとう - 一う しかなかったのである。つまり文語漢字とロ語 に網羅されている。これらの民俗行事は歳時記道東海岸一円の辰韓語と、洛東江下流を基点と 八六八年朝仏修好条約締結以後緩和され、九三 やくけん の序文で引き合いに出されているように、中国する弁韓語、忠清道、全羅南・北道一円にわたの朝語の二言語使用であった。その結果、漢 年ソウル市を見下ろす丘の上に薬蜆天主教堂、 九八年には明洞大聖堂がつくられた。その後、南方の楚国の『楚歳時記』と比較しているこる馬韓族の南方系といわれる朝鮮語とがある。字要素が大量に朝鮮語に浸透したので、今日の りよう えんげん 『梁書』の「百済伝」に「現在、その言語や衣朝鮮語のなかには膨大な漢字語が混じってい とから、朝鮮民俗の淵源が察知できそうである。 大邱、一兀山と三教区を置いた。 裳は高句麗とほば同じ」とあり、『三国志』る。 儒教思想から男女有別が判然としているが、 〔天道教〕民族宗教である天道教は、一八六〇 さいせいぐ 高句麗以来、漢字によって自国語を表記する 年崔済愚によって創立された東学を継承した、家庭では女子はアンバン ( 内房 ) 、男子はサラ「弁辰伝」には「弁辰は辰韓と雑居している ・ : 一一一一口語や法俗もともに似ている」と述べ、類努力がなされた。新羅時代の吏読もその一つで ンバン ( 舎廊房 ) を専有していた。年中行事で 輸国安民の宗旨の民族主義新興宗教で、西学の せっそう 似性を指摘している。この北方系の民族が朝鮮ある。七世紀の薛聡の創案といわれ、漢字の音 もノルティギ ( 板戯 ) 、タルマジ ( 月迎 ) 、グネ 宗教 ( キリスト教 ) に対抗しての東学とし、 儒、仏、道の三教を中心に、天主教を加味しては女子の遊びで、封建社会における女子解放の半島へ南下して、生活土台が半島部に限られると意を借りて朝鮮語を表記した。この吏読は高 ことにより、ことばの差は縮まり、新羅が三国麗、李朝を通じて一九世紀まで使用されてい 機会ともいわれていた。 創設したものである。 せいそう りゅうたん 古い民俗習慣でいまも現存するのはシプチャを統一してからは新羅語を中心とした統一朝鮮た。そして一四四三年、李朝世宗のとき、表音 慶尚北道竜潭で始まった東学は、第二世崔 くんみんせいおん 文字の訓民正音 ( ハングル ) の創製によって、 ンセン ( 十長生 ) とトンサンレ ( 東床礼 ) であ語が形成されたものという。 時亨のとき全国に布教された。しかし東学に対 古代朝鮮では、中国人との言語接触の結果、言文一致の今日の朝鮮語と文字が完成された。 する政府の弾圧政策と悪政に対して、一八九四る。シプチャンセンは一種の敬老民俗で、日、 かめつるしか ぜんほうじゅん 〈魚塘〉 ↓ハングル↓朝鯡語 年全羅北道古阜の信徒全臻準によって引き起山、水、石、雲、松、不老草、亀、鶴、鹿の長早い時期に漢字が輸入されて使われている。朝 こされた農民反乱 ( 甲午農民戦争 ) は、輔国安生不老のものを描いたり刺しゅうにして壁掛け にする風習で、一種のアニミズムである。トン 民の旗印に社会制度と国家体制の改革を求めた いっき 一揆で、湖南地方や嶺南地方の農民も加担したサンレは、結婚式後、新婦宅に泊まる新郎に対 朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきようわこく / 大規模のものであったが、日本などの外国勢力して、新婦の親族、集落の若者、新郎の友人が の干渉により失敗に帰した。一時沈滞を免れえ新郎を縛り上げ、または足を吊り上げて乱暴チョソンミンチ。チュイインミンコンファクク し、新婦宅から酒食をせびる風習である。 なカったが、いまも多くの信徒を擁している。 年 0 そうざん 衣食住の生活も古代朝鮮族の遺習が今日まで このほかの新興宗教として南学系、甑山系、 みろく 檀君系、覚世系、水雲教、仙道教、弥勒教など残存している。朝鮮人の常用服であるチョゴリ 人 2 0 2 がある。 ( 襦 ) 、チマ ( 裳 ) 、ツウルマギ ( 周衣 ) は、古 ) ノ ン 0 E 0 〔民俗〕朝鮮半島では夫余系の種族が南下して代朝鮮族の居住地が亜寒帯に属していたことに -0 -0 民 ワ -8 人 よって北方系の衣服である。住宅は朝鮮の気候 原住部族を制圧して新羅や夫余の国を建設し 0 義 ピ朝ウ た。原住民族の残した遺跡からは抉入石斧、風土にあう独特のものであるが、オンドル ( 温石 主 率 産 突 ) は、型は違うが満州の女真族も使っていた 有肩石斧のような海洋民族のものと思われる遺 ロ 度加 民 公む、 物が出土しており、言語学的にも南方系の名残ものである。冠婚葬祭は朱子家礼によるもので 密増言 教 鮮積ロロロ都要貨民易 とも思われる語彙が残されていることから、原ある。↓朝鮮服 宗 朝面人人人首主通国い貿 住民族は海洋文化系の民族であるといえる。し〔言語と文字〕朝鮮語は朝鮮半島および周辺の とうしょ きっ 〔略史〕建国の経緯 / チュチェ思想 / 統一九三〇年に金日成が創始したとされるチュチェ かし、民俗習慣として残っているものは北方系島嶼や半島外の朝鮮民族の集団居住地 ( 中国吉 りん ( 主体 ) 思想を指導指針とし、自主独立の路線 の原始宗教や文化の遺産であり、李朝時代に入林省延辺朝鮮族自治州、アメリカのロサンゼル 〔政治〕国家機関 / 政党・社会団体 / 外を堅持している。 ってははとんど中国文化の影響による民俗であスなど ) の約五〇〇〇万朝鮮民族の言語であ る。 交・防衛 る。朝鮮語は理知的な表現は弱いが、感情的な 略史 〔経済〕生産手段の社会化 / 計画経済 / 対 チャンスンやソナンダンは、北方系の原始宗表現に富んでいる。 〔建国の経緯〕一九四五年八月一五日、日本の 朝鮮民族と同様明確な結論はないが、朝鮮語 外貿易 教であり民俗である。これらのトーテミズムや 植民地支配からの解放とともに、朝鮮人民はい はアルタイ語族に属しているといわれている。 〔社会・文化〕福祉 / 教育・科学 / 報道・ アニミズムは、ツングース族やモンゴル族にも ち早く自主独立国家の建設にとりかかった。し 出版 共通のもので、現在もわすかではあるが残存しアルタイ山脈から発して東に進んでモンゴル かし南朝を占領したアメリカ軍政府当局の民 〔文学・芸術・スポーツ〕 語、ツングース語となり、さらに南下して朝鮮 ている。 主愛国勢力に対する弾圧と国土分断政策によっ 〔日本との関係〕 民俗習慣でもっとも広範に今日まで伝承され語となった。アルタイ語系のトルコ、モンゴ て、それは重大な困難に直面した。このような ているのは年中行事である。正月の茶礼 ( 祖先ル、ツングースの三語群は構造上母音調和があ きんにっせい 一九四八年九月九日、金日成主席により北緯状況のなかで統一独立国家を建設するには、ソ り、前置詞を用いず後置詞の助詞を用い、アク に対する祭祀 ) 、元日の雑煮の朝食、立春の日 せ大門に「掃地黄金出」「開門万福来」などの春セント音の長短によ 0 て意味が変わる場合があ三八度線以北の北朝鮮で創建された社会主義国連軍の進駐のもとで情勢が有利に醸成されてい こうちゃく ちょう 家。朝鮮戦争 ( 一九五 0 ~ 吾 D 後は休戦ライン ( 軍た北朝鮮でまず反帝反封建民主主義革命を遂行 、フ帖字を賺り、三月の寒食の墓参り、四月八日る。膠着性があるのは日本語と同様である。 しやか 古代朝鮮語は、満州北西部にいた夫余族、咸事境界線 ) 以北を支配領域とし、一九三〇年代し、そのための土台を築くことが必要であっ よ釈迦生誕日の燃燈会、五月端午のグネ ( 鞦韆、 よくそ つりなわ た。そこで北朝鮮では、解放直後人民の創意で 6 以来の抗日武装闘争の革命伝統を受け継ぎ、一 ち吊縄の長いブランコ ) など、一二月まで伝承さ鏡南・北道沿海地方の沃祖族、江原道一帯にま 一ス、りいり 輸出 10 億 7298 万ドル ( 1984 年 ) 輸入 12 億 0061 万ドル ( 1984 年 ) ( 1984 年ジェトロ ) 少数の仏教 , キリスト教 , 天道 教徒がいる
因となったことは明らかだが、この戦争の直接端の狭い一角に追い詰められた。 ) に国連車は九かに韓国民間人一〇六万余人といわれ、朝・中局が新設 ( 一九四三年一二月 ) されるなど、戦 じんせん の原因と戦争の性格については、いまなお多く 月一五、一六両日仁川で大部隊の奇襲上陸作戦側は軍要員の死傷者だけで二〇〇万人以上と推時動員体制に対応するように総督府の機構も改 の議論がある。韓国、アメリカなど西側諸国でを行い、大邱地区でも反攻に転じた。国連・韓定された。日本は参戦国ではなかったが、開戦変されたが、四五年に廃止された。↓韓国併合 よ は一般に、韓国に対する北からの武力侵攻が発国軍は一〇月初めに三八度線を突破し、同月一当時まだ占領下にあったため、国土と産業をあ ↓朝鮮史↓朝鮮統治政策 〈宮田節子〉 おうりよく - 一う ち 端になったとする見解がとられている。朝鮮民九日平壌を占領、一部の部隊は鴨緑江岸までげて国連軍の作戦遂行のために使われ、海上輸回朝鮮総督府『施政二十五年史』 ( 一九三五 ) ▽山 主主義人民共和国ではそれと反対に、同国の打到達した。 ) 一〇月二五日、中国人民志願軍の送や掃海業務に動員された船員のなかから死傷 辺健太郎著『日本統治下の朝鮮』 ( 岩波新書 ) 倒をねらったアメリカが韓国政府を唆して引き大部隊が鴨緑江を越えて参戦し、朝鮮人民軍と者も出た。また、この戦争に関連して実現した ▽朴慶植著『日本帝国主義の朝鮮支配』上下 起こしたと主張している。近年の日本の研究でともに反撃した。一二月四日には平壌を奪回警察予備隊 ( 自衛隊の前身 ) の発足、左翼運動 ( 一九七三・青木書店 ) は」側からの攻撃先行説が有力視されるよう し、翌五一年一月四日、ソウルを再占領した。規制の強化、「戦争特需」による経済活性化な ちょうせんつうしんし李氏朝鮮 = = ロ使 朝鮮通イ になった。すなわち、韓国をアメリカの事実上第五回国連総会は二月一日、中国を「侵略者」どは、戦後日本の政治、経済にとって一つの重の国王が日本国王 ( 日本の外交権者 ) に国書を の植民地とみなした朝鮮民主主義人民共和国と非難する決議を採択した。国連・韓国車は一一一大な転機となった。 〈川越敬三〉手交するために派遣した使節。日本では朝鮮来 りしようばん あしかがよし が、南北朝詳の武力統一を呼号する李承晩韓月一四日ソウルを再奪回したが、三八度線付近 E)—・・ストーン著、内山敏訳『秘史・朝鮮聘使ともいう。一四〇四年 ( 応永一一 ) 足利義 みつ - 一うりん 国大統領の先手をとって「南半部解放」の軍事では激闘が続いた。マッカーサー総司令官は中 戦争』 ( 一九六六・青木書店 ) ▽・・コンデ満が日本国王として朝鮮と対等の外交 ( 交隣 ) 行動を起こし、その限りでは戦争は朝鮮半島に国本土爆撃を独断で主張、四月一一日トルーマ 著、陸井三郎監訳『朝鮮戦争の歴史』 ( 一九関係を開いてから明治維新まで、両国は基本的 おける一種の内戦として始まったが、アメリカン大統領によって罷免された。④六月以降戦線 六七・太平出版社 ) ▽信夫清三郎著『朝鮮戦にその関係を維持した。それを具体化したのが こうちゃく がこれに軍事介入したことから、大規模な国際は膠着し、双方は互いに強固な陣地を構築し 争の勃発』 ( 一九七一・福村出版 ) 両国使節の往来による国書の交換である。義満 紛争に発展したとする見方である。アメリカのて激しい消耗戦を繰り返した。国連・韓国軍は 朝鮮総督府ちょうせんそうとくふ一九一〇以来かなり両国使節の往来があったが、徳川将 ふぎん 軍事介入が、アジアにおける社会主義と民族解 八月から一一月にかけての「夏季・秋季攻勢」年 ( 明治四三 ) の韓国併合とともに、韓国統監軍は直接使節を送らす、朝鮮も釜山以外への日 放運動の勢力拡大阻止を目的にして行われたこで戦線東・中部山岳地帯の制圧を試みたが、朝府を改変して同年九月三〇日公布 ( 施行は一〇本人の入国を禁じたので、近世では朝鮮使節が とは確かである。 鮮人民軍の要塞「一二一一高地」が二か月余に 月一日 ) 、設置された日本の朝鮮統治機関。以来日するのみとなり、国書の交換もその際にま 〔経過〕一九五〇年六月二五日早朝、北緯三八 わたる猛攻に耐えぬくなど頑強な抵抗にあって後一九四五年 ( 昭和二〇 ) 八月までの三六年間 とめて行われた。近世の朝鮮使節は一六〇七年 度線を挟んで対峙中の朝詳人民軍 ( 北 ) と韓国成功しなかった。翌五二年一〇 ~ 一一月の国にわたって朝鮮を支配した。長官の朝鮮総督 ( 慶長一 (l) から一八一一年 ( 文化八 ) まで一 てらうちまさたけ 軍 ( 南 ) の間に数か所で衝突が起こり、朝鮮人連・韓国軍の大攻勢も同じような結果に終わっ ( 初代寺内正毅 ) は親任の武官で、立法、司法、二回来日した。日本側はこれらをすべて通信使 てつげんへい 民軍は敗走する韓国車を追って南下した。トル た。中部の要衝である三八度線北方の鉄原ー平行政の三権を一手に掌握し、そのうえ軍事権ま と考えたが、 朝鮮側は、初めの三回は徳川将軍 こうきんか っしまそう ーマン米大統領はただちに車事介入を決定して康ー金化を結ぶ三角地帯の攻防戦はとくに激烈でもっていた。 からの国書 ( 対馬藩宗氏の偽作 ) への回答と、 ぶんろく けいちょう ひりょにん 在日米海・空軍、ついで陸軍に出動を命令するで、「鉄の三角地帯」の激闘とよばれた。この 総督府は総務、内務、度支、農商工、司法の文禄・慶長の役で日本に拉致された被捌人の さつかん 一方、国際連合にも介入を働きかけた。ソ連代 門、北朝鮮各地は砲爆撃にさらされ、細菌弾、五部からなり、その下に九局が置かれた。さら 刷還を目的とする回答兼刷還使を名目とした。 そごゃながわいつけん 表不在のまま招集された国連安保理事会は北朝ガス弾にもみまわれた。五三年一月に発足した にこのほかに警務総監部、臨時土地調査局など この齟齬は柳川一件を契機に修正され、以後九 鮮を「平和の破壊者」と非難する決議を採択しアイゼンハワー米政権は戦局打開のため原爆使が設けられた。このなかで猛威を振るったのは回は名実ともに通信使となった。↓柳川一件 ( ニューヨーク時間六月二五日 ) 、国連加盟諸国用を検討したが、結局使用に踏み切ることは断憲兵警察であった。軍事警察である憲兵が普通 通信使一行は正使以下三〇〇人から五〇〇人 念した。 に韓国への軍事支援を勧告し ( 六月二七日 ) 、 警察を兼ねるこの特殊な治安機構は、朝鮮全土で構成され、大坂までは海路、それ以東は陸路 日本駐留米軍のダグラス・マッカーサー元帥を〔休戦〕一九五一年六月二三日、ソ連の国連代に張り巡らされ、「暴徒ノ討伐」から日本語のをとった。一行が日本国内を往来する際の交通 きようおう 司令官とする国連軍総司令部の設置を決定した表ヤコプ・マリクがラジオ放送で休戦を提案普及にまで及ぶ広範な権限をもち、一一一一口論、出宿泊費や饗応はすべて日本側の負担であった かいじよう ( 七月七日 ) 。この国連軍は国連憲章第七章に規し、これを契機に同年七月一〇日から開城で交版、結社の自由は完全に奪われた。さらに支配 が、通信使の来日は両国の威信をかけた外交行 1 一うしゃ 定された正規の国連軍とは異質のものである。戦双方による休戦会談が始まった。その後二年の基本方針として同化政策がとられ、朝人を事でもあり、その接待は豪奢を極め、経費は五 日 韓国軍は統帥権をマッカーサー総司令官に委譲 、激しい戦闘が続くかたわらで交渉が断続的日本人化する同化教育が重視された。この強権〇万両とも一〇〇万両ともいわれた。近世中期 はんもんてん してその指揮下に入った。トルーマン大統領は に行われ、五三年七月二七日、ようやく板門店の下で、朝鮮は日本の原料・食糧供給地、商品 以降の通信使は将軍の代替りごとに来日するの てんめいだいききん また六月二七日、共産勢力の台湾攻撃阻止を理での休戦協定調印にこぎ着けた。協定調印者販売市場へと再編成されていった。これに対し が例となっていたが、一二回目は天明大飢饉の きんにっせい は、一方が朝人民軍最高司令官金日成と中国一九一九年、朝人は三・一独立運動を展開、ために延期され、行礼場所も対馬に変更され 由に米第七艦隊を台湾海峡へ出動させ、同時に ー : っし J ど、ム″し 一一年にようやく実施された。その後 左翼ゲリラ鎮圧に手を焼くフィリビン政府と、人民志願軍司令員彭徳懐、他方が国連軍総司令民族をあげて抵抗した。そのため日本は支配政て、一、 はたびたび計画されながら財政難や外圧のため 第一次インドシナ戦争遂行中の南ベトナム駐留官マーク・クラーク。韓国は休戦を不満として策の転換を迫られた。文官総督任用も可とし、 調印を拒否した。休戦にはなったものの、戦争憲兵警察を普通警察に改めたが、かえって警察 に延期され、実現しないままに明治維新を迎え フランス車に対する軍事援助増強を決定した。 の最終処理としての平和条約は締結されないま力は増強され、同化政策は強化され、民族分裂た。朝鮮側の通信使派遣には日本の国情偵察と 朝鮮戦争の戦局にはほば四つの段階があっ 政策が追求された。一五年戦争下に入ると、す いう目的もあり、来日のたびごとに詳しい観察 た。①戦争勃発直後の七〇日間は朝鮮人民軍のま今日に至っている。 この戦争での交戦双方の被害は甚大で、国べての朝鮮人は「人的資源」として徴用され、記録が残されていて、外国人による近世日本に 圧倒的優勢のうちに進展した。一九五〇年六月 ついての貴重な記録の一つとなっている。なお 二八日には韓国の首都ソウルが陥落、国連・韓連・韓国軍側の戦死者は韓国軍約四二万人、米あらゆる物資は戦力増強のために徴発された。 たいきゅう あらいはくせき 国軍は九月初めには大邱、釜山を含む半島南軍約五万人、その他の国連軍約三〇〇〇人、ほそのため殖産・農林局が廃止され、鉱工・農商一七一一年 ( 正徳一 ) 、新井白石は、朝鮮側国 ばつばっ ふざん よ - つイ一、
ちょうせ に市塔の創建を宣布した。この最高人民「唯一指導体系」が確立されたことと、共和国れに応ずるよう提案する一方、南北最高首脳会 8 都。想 における社会主義建設が新たな段階、つまり社談開催にも意欲を示すなど、朝鮮半島の緊張緩 6 会議選挙には北朝鮮有権者総数の 首た思 九九・九七 % が参加、南朝鮮でも会主義の完全勝利、無階級社会の建設の段階に 和と平和統一の環境づくりに積極的な姿勢をみ 復住有権者の七七・五二 % が地下選挙入ったことに対応した措置といえよう。なぜなせている。↓朝鮮統一問題 を通じて代表を選出し、最高人民ら、共和国では社会主義の完全勝利、無階級社 り李速チ , 急ュ 会建設の過程を、三大革命の遂行による自然改 会議に代議員を送っている。 」麁後チ 「高戦る しかし共和国は、建国後まもな 造、社会改造、人間改造を通じて人間の自主性〔国家機関〕現行憲法により国家機関は、主席 え ばつばっ 車名力し い一九五〇年六月二五日に勃発し と創造性を全面的に発揚させる過程、つまり全制を中心とする主権機関、行政機関、裁判・検 古しも 社会をチュチェ思想化する過程としてとらえて察機関からなっている。主権は労働者、農民、 の化にた朝鮮戦争の厳しい試練を経なけ 来と いるからである。 兵士、勤労インテリに属し、最高人民会議と各 以ホればならなかった。こうして、共 シ和国における社会主義建設は朝鮮 しかし、全社会のチュチェ思想化は長期間を級地方人民会議を通じて行使されるが、満一七 都争国戦争後の復興期を経て本格的に展要する課題であり、それだけに世代交替とも関歳以上の公民には選挙権と被選挙権が与えられ 遷戦ロ に鮮話開されることになるが、それは大連して後継者の問題が重要な問題として提起さている。最高主権機関は普通選挙で選出される 半朝 きく二つの段階に分けることがでれないわけにはいかなかった。とくに共和国で最高人民会議である。立法権その他を行使し、 0 たなきる。社会主義の基礎建設の段階は一九七〇年代に入って、革命世代がほとんど任期は四年、代議員数は六一五名で、定例会議 ~ 5 し巨と全面的社会主義建設の段階がそ死亡したか老齢化し、三十 ~ 四十代が社会の中は年一 ~ 二回、数日間開かれ、休会中は常設会 心的役割を果たしている状況のもとでは、後継 議が業務にあたる。このほか中央主権機関とし 、がしでれである。そして前者の課題が戦 1 第、寿繁同後の復興期 ( 一〈 ~ 契 ) と第一次者の問題は重要な問題として提起されるようにて、国家主権を代表し軍の統帥権をあわせもっ 長て大 五か年計画期 ( 一九五七 ~ 六 0 ) におけ なったが、金日成主席の後継者としては、六〇年国家主席と、主席を首位とする国家主権の最高 リ麗との ・、句市るる古い生産関係の社会主義的改造代以来、党中央文学芸術部門の指導で頭角を現指導機関である中央人民委員会がある。行政機 高者れ と、社会主義工業化の基礎構築をし、七三年に党書記局 ( 七四年には党政治局員関としては、国家主席と中央人民委員会の指導 すいたい 壌ニを通じて達成された結果、六〇年代を兼任 ) 入りした金日成の子息、金正日が推戴下に、内閣にあたる政務院があり、そのもとに 平第央 都ぐ中以降から全面的社会主義建設の段 された。金正日は八〇年の第六回党大会で党内行政実務を担当する各部 ( 省 ) ・委員会が置か 首次の 階に入った。こうして七〇年代以序列第二位となっており、党と国家の実権を掌れている ( 一九八五年一一月には経済関係の 各地に組織された人民委員会を基礎に、四五年降、共和国では六〇年代に達成された社会主義握し、金日成を補佐しながら、あらゆる面で指部・委員会の大幅な統廃合が行われた ) 。また 司法機関としては、その頂点に中央裁判所と中 一〇月北朝鮮行政局を発足させ、翌四六年二月工業化の成果を土台に、社会主義の完全勝利、導的役割を果たしているものとみられている。 には北朝鮮臨時人民委員会 ( 委員長金日成 ) を無階級社会の建設の段階に入るが、これに伴っ 〔統一問題〕祖国統一の問題については、共和央検察所があるが、これらはいずれも国家主席 と中央人民委員会の指導を受けることになって 樹立した。そして三月に土地改革、八月に重要て、七二年には新しい社会主義憲法が採択され国は一九七二年の「七・四共同声明」で確認さ れた自主・平和統一・民族大団結の三大原則に 産業の国有化をはじめ一連の民主改革が実施さ れた結果、人民民主主義制度が樹立され、四七 〔チュチェ思想〕建国後の政治過程、革命と建基づいて、平和的統一の実現に努めてきた。共 地方行政区画は、九道 ( 平安南・北道、黄海 かんきょ・つ 年二月北朝鮮人民委員会 ( 委員長金日成 ) の樹設の全過程はチュチェ思想を具現する過程とし 和国が祖国の平和的統一を促進するために行っ南・北道、咸鏡南・北道、両江道、慈江道、 かん - 一う て特徴づけることができる。チュチェ思想とてきた各種の提案は二〇〇余に上っている。韓江原道 ) 、五直轄市 ( 平壌、清津、咸興、開城、 立を機に社会主義への過渡期に移行するように ぜんとかん よっこ。 は、いわば現代を自主の時代としてとらえ、世国の全斗煥政権については、その成立の経緯か南浦 ) からなっており、道はさらに市 ( 区域 ) 、 しかし、朝鮮臨時民主政府の樹立をめぐる米界の主体、自分の運命の主人は人民大衆であらして正統性がないうえ、八〇年五月の光州事郡に分かれ、郡の下に里がある。地方機関とし り、人間の本質的特性は自主性と創造性にある件を理由に、最初のうちは相手にしないというては、道・直轄市とその下の市・郡レベルにそ ソの対立と、アメリカによる民族分断政策によ って、一九四八年に入り南朝鮮で単独選挙・単とする思想であるが、このチュチェ思想の具現態度をとっていた。しかし、八四年一月三者会れそれ地方主権機関である人民会議と、人民会 議の休会中その業務にあたる人民委員会があ 独政府樹立の気運が高まると、同年四月、平壌の過程は大きく二つの連続した過程に分けられ談 ( 共和国・アメリカ・韓国 ) の開催を提案し ( ピョンヤン ) で金九ら南の右派人士を含む南る。すなわち、党と国家活動のすべての分野でて以来、柔軟な姿勢に転じている。そして同年り、行政執行機関として行政・経済指導委員会 ( 一九八五年に道経済指導委員会を統合 ) があ 北政党・社会団体連席会議が開かれ、南の単独事大主義と教条主義に反対し、チュチェを確立九月、南への水害救援物資の提供を機に、南北 選挙に反対する一方、統一朝鮮政府の樹立を目する過程、つまりチュチェ思想による党の「唯経済会談や赤十字会談の再開、南北国会会談開る。なお、道 ( 直轄市 ) 裁判所と市・郡人民裁 ざした「朝鮮臨時政府憲法」を大衆討議に付す一思想体系」と「唯一指導体系」を確立する過催のための予備接触、オリンピック共催問題を判所は中央裁判所の指導を受けるが、判事は各 る措置を講じた。そして大韓民国 ( 以下韓国と程と、全社会をチュチェ思想化する過程がそれめぐる体育会談をはじめ、八五年九月には分断級人民会議で選任され、中央裁判所を含めて人 略称 ) 発足 ( 八月一五日 ) 後の八月末に最高人である。こうして一九七〇年代以降全社会のチ四〇年史上初の赤十字芸術団と故郷訪問団の相民参審員制度が取り入れられている。また道 民会議代議員選挙を実施し、九月初旬に開かれュチェ思想化が前面に打ち出され、七三年から互訪問など、政治レベルを含めた多角的な接触 ( 直轄市 ) ・市・郡検察所は中央検察所の指導を は三大革命 ( 技術、文化、思想 ) 小組運動が と対話が行われており、さらに八六年一月には受け、検事も中央検察所が任免することになっ た最高人民会議第一回会議で憲法を採択、金日 成首相 ( 当時 ) を内閣首班に選出し、九月九日大々的に展開されるようになるが、これは、金対話進行中、共和国における軍事演習をいっさている。 朝鮮民主主義人民共和国 ( 以下共和国と略称 ) 日成主席を中心とする党の「唯一思想体系」と い中止することを決定、米韓両国に対してもそ〔政党・社会団体〕憲法で結社の自由が保障さ 1 第 - ・ス第既
非核・平和地帯の創設と拡大などに努める一倒的比重を占めており、国営農場の比重はあま ( 千里馬 ) 運動など大衆的革新運動を通じて期 れ、複数政党の存在が認められている。政党に 間を大幅に繰り上げ達成された結果、経済は目 り大きくない。 は、朝鮮労働党、朝鮮社会民主党 ( 前身は朝鮮方、民族的自主・独立を目ざした各国人民の闘 〔計画経済〕経済建設の基調は自立的民族経済覚ましい復興発展を遂げ、共和国は農業国から 民主党 ) 、天道教青友党があり、ほかに統一戦争を積極的に支持する政策をとっている。この 社会主義工業・農業国となった。第一次五か年 ような対外政策の展開を通じて、建国当初の外の建設にある。それは、経済的自立が政治的独 線組織である祖国統一民主主義戦線があるが、 朝鮮社会民主党と天道教青友党は独自の活動を交関係は主として社会主義諸国に限られていた立の物質的基礎であるだけでなく、かって日本計画期の工業生産の成長率は年率三六・六 % に の植民地支配のもとで民族経済の自立的基礎を達している。 が、一九六〇年代以降第三世界を中心に急速に しているとはいえ、その役割は大きくない。 だが、社会主義工業化の全面的実現を目ざし 朝労働党は一九三〇年代以来の抗日武装闘拡大した。八四年現在国交締結国は一〇四か奪われたうえ、解放後国土の分断によってそれ 争の組織的、思想的基盤を土台に、解放後、金国、国連専門機関をはじめ各種の国際機構へのがさらに輪をかけられたこと、また、豊かな水た第一次七か年計画期に入って、経済の成長率 日成主席によって創建された共和国最大の大衆加入は一六〇余に上っている。なお八五年一二カ資源をはじめ、各種の鉱石、石炭、非鉄金属は大幅に低下した。それは主として、キューバ など経済的自立の達成に有利な豊富な地下資源危機を契機に、一九六一一年末から国防力の強化 的前衛政党である。創党以来、朝鮮革命の統一月には核拡散防止条約に加入した。 があることなどによって説明される。 に力を入れなければならなかったという事情に 国防では、自衛の原則のもとに、国の安全と 的指導にあたる政治的参謀部、指導政党として こうしたことから、共和国ではすでに平和的よって説明されるが、工業生産の年平均成長率 今日に至っている。朝鮮労働党の沿革は一九四革命の獲得物を守ることを基本にしており、外 は当初計画の一八 % を大きく下回る一二・二 % 五年一〇月一〇日の北朝共産党の創立にさか国軍や外国の軍事基地は存在していない。一九建設期 ( 一九四七 ~ 四九 ) から、解放直後日本によっ に低下している。しかし計画の三年間延長を通 のばるが、北朝鮮で民主改革が基本的に遂行さ 六二年一二月以降、共和国ではキューバ危機をて破壊された経済の復興を、自立経済の基礎を れた四六年八月に新民党と合党して北朝鮮労働契機に増大した戦争の危険に対処するため、経築く方向で推進した。しかし、それは朝鮮戦争じて、社会主義工業化の課題が実現された結 まいきょ 党となり、さらに共和国創建後の四九年六月に済建設と国防建設の並進路線を打ち出し、全軍によって中断され、国土は墟と化してしまっ果、機械製作工業を中核とする自立的な重工業 は南朝鮮労働党と合党、朝詳労働党として発足の幹部化と現代化、全人民の武装化と全国の要た。したがって経済的自立を目ざした社会主義と軽工業体系が確立され、国民経済のなかでエ した。今日朝弉労働党は、創党当時の少数精鋭塞化の方針のもとに、国防力の強化が図られ経済建設は、戦後の復興期を経て本格的に展開業の占める比重が著しく増大しただけでなく、 されることになるが、戦後それは「重工業を優農業を含む国民経済の技術的改造を通じてその の前衛党から、労働者、農民、兵士、勤労インた。国家財政に占める軍事費の比重は六七年か テリの先進分子を網羅した強大な大衆的前衛政ら七一年までは三〇 % を超えていたが、七二年先的に発展させながら軽工業と農業を同時に発物質的、技術的基盤も強化され、社会主義工業 党に発展しており、党員数は結党直後の四五一一一以降は一四 ~ 一五 % に減少している。軍の主力展させる」という路線に基づいて進められるこ国に転化するようになった。工農業総生産額の 〇人 ( 一九四五・ IID から八〇年には約三二〇万人は一九四八年二月正規軍として発足した人民軍とになった。そして、戦後復興三か年計画が超なかで工業生産の占める比重は、一九四六年の 過達成され、さらに社会主義工業化の基礎構築二八 % から六九年には七四 % に増大、また工業 に増えている。党の最高機関は党大会であるであるが、その総兵力については発表されてい が、中央指導機関には党中央委員会とその内部ないので不明である。西側の推定では約七六万を目ざした第一次五か年計画が、チョンリマ総生産高のうち機械工業が占める比重は解放前 の一・六 % から六七年には三一・四 % に達して ハランス』 ) とされている に党政治局と書記局があり、また党中央検閲委人 ( 『ミリタリー 平 年 数 が、その根拠は明らかでない。人民軍のほか 員会と党中央検査委員会がある。なお党大会は 年 は率 率率の こうして一九七〇年代以降、国民経済の主体 一種の民兵組織である「労農赤衛隊」と 北朝鮮労働党大会から通算で呼称されており、 このえ 長 , 長 産長 化・現代化・科学化を推進することになった 「赤い青年近衛隊」があり、公安機関として政 八〇年一〇月には第六回大会が開かれている。 生成 0 り 0 成加成物 均 0 均、い長 業均 が、それは、工業化が実現された条件のもと 社会団体には、朝鮮職業総同盟、朝鮮社会主務院傘下に社会安全部がある。 工平 産平平万成 で、国民経済諸部門を現代的な科学技術的基礎 義労働青年同盟、朝鮮農業勤労者同盟、朝鮮民 の年 産生年 ~ 年圓 川期 経済 生業 成年 % 整 のうえに据え、経済の総合的発展を図ること 主女性同盟のはか、階層別、職能別団体とし 産業工 0 りり 0 が、経済発展の合法則要求としてだけでなく、 て、仏教徒連盟、キリスト教連盟、文学芸術家〔生産手段の社会化〕生産手段の社会主義的所 % 生農成 生 6 り 標 ワ】 0 ワ】 -0 一衝 。生 総同盟、記者同盟、民主法律家協会、民主科学有を基礎に、経済が計画的に運営されており、 目断 工 % に 1 。 8 % 1 緩 率産産 画中 か標的 私的経営は存在しない。建国当初は、重要産業 者協会、学生委員会などがあり、また祖国平和 「 / 目 4 0 0 0 長生生る 計で農生成 次画 ~ 6 8 8 れ争広産業達率長成産物産物よ 統一委員会をはじめ、各種の平和・親善団体との国有化によって形成された社会主義経済形態 っ乙 0 0 0 0 0 0 8 0 0 0 ぞ戦た生農前長延均生穀生穀 7 一 0 1 1 《 0 0 -4 0 0 0 国際連帯組織ならびに半官半民の赤十字会そのとともに、個人農や私営商工業など社会主義へ 間成年平業。業 第年 ( っ 0 れ鮮業 。 6 発 0 っー 1 よっん戸 0 そ朝のエ % 期均 3 年工 % 工 % の過渡期の初期に固有な小商品経済形態や資本 他がある。 〔外交・防衛〕対外政策では、自主、平和、親主義経済形態が存在した。しかし、朝鮮戦争後 標 -0 0 0 -0 0 0 0 0 0 目 善の基本理念のもとに、世界平和と各国との親の一九五三年秋から開始された、農業および私 什 ( 0 0 0 戸 0 0 0 1 0 0 っ 0 -0 戸 0 共 0 0 戸 0 1 0 「ー 標望年 0 ・ 1 ワ 1 善協力関係の発展に努めている。とくに非同盟営商工業の協同化による社会主義的改造の完成 目展 四率 によって、五八年末には国民経済の全部門で社況 グループの一員として、社会主義諸国や非同盟 画 * 増 展 十ー 1 会主義的所有 ( 国家的および協同組合的所有 ) 諸国、第三世界諸国との友好親善関係の強化に 施 画計画画画画県年大 力を入れており、共和国に友好的に対する資本が支配するようになった。こうして、基幹的工 年計年計 画 の せ主義諸国とも親善関係を結び、経済文化交流の業部門をはじめ商工業企業のほとんどは国営との各年か年年年年 一三卩 カ カ 済年か 代 内 、つ発展を図っている。また、世界の平和と安全をなり、残る一部も一種の社会主義的経営である 経 年 , 次復次次次次 ( 字 よ図るため、核兵器の全廃といっさいの軍事。フロ協同組合に組織されている。ただし、農業部門 画 1 ・ 1 計第戦第第第第注 ちックの解体、外国の軍事基地と外国軍の撤去、では、協同農場 ( 平均三〇〇 ~ 五〇〇戸 ) が圧 よう 電力 ( 億 kWh) 石炭 ( 万 t ) 鉄鋼 ( 万 t ) 非鉄金属 ( 万 t ) セメント ( 万 t) 化学肥科 ( 万 t ) 織物 ( 億 m ) 水産物 ( 万 t ) 穀物 ( 万い 干拓地開墾 ( 万 ha ) 639
じんご の大暴動が起こった ( 一公一。壬午軍乱 ) 。このとき、かねて整備、貨幣・度量衡の統一、租税の金納化、両班と良人との しん 日本への反撃の機会をねらっていた清が出兵し、暴動を鎮圧 間の身分差別の撤廃、奴婢・賤民の解放、寡婦再婚の自由な すると同時に、閔氏一派を抱き込み保守派政権をつくった。 どの改革命令が出た ( 天九四。甲午改革 ) 。これには、甲申政 これに対して、近代的改革による朝の独立と富強を目ざ 変や甲午農民戦争のなかで示された要求が反映している。し す開化派が、日本の支持をあてにしてクーデターを起こし、 かし、日本軍の支配下で行われたために、民衆の目には侵略 ・」うしん 保守派を追放して一挙に開化派政権をたてた ( 一犬四。甲申政の手段と映り、改革の成果はあがらなかった。 変 ) 。しかし清軍の反撃にあい、開化派政権は三日天下で倒 日清戦争に勝った日本は朝鮮に対する独占的支配権を獲得 れた。↓壬午軍乱↓甲申政変 したかと思った。しかし三国干渉によって日本の夢は打ち消 〔甲午農民戦争〕欧米列強は次々に朝鮮に登場し、朝鮮は列 された ( 天九五 ) 。朝鮮では三国干渉を主動したロシアの勢力 ばんかい 強抗争の舞台になった。朝鮮の植民地化の危機は深まった。 が伸び、日本は不振となった。その退勢を挽回するために、 ちゅうきゅう しかも官僚は混乱に乗じて農民への誅求を加重した。この日本公使三浦梧楼らは日本軍人・浪人を使い、王宮を襲って ちゅうたい びんひ とき、東学の紐帯で結ばれた農民は、反侵略・反封建の大反日派の首領閔妃を殺した ( 天九五。乙未事変 ) 。 こう ) 農民戦争を巻き起こした ( 天九四。甲午農民戦争 ) 。農民軍は 〔義兵〕閔妃虐殺は朝鮮人を憤激させた。儒者を指導者とす どんかん めひせんみん 政府の討伐軍を打ち破り、貪官汚吏の処分、奴婢・賤民の解る義兵が各地で立ち上がり、日本および親日官僚に反対し 放、過重税金の廃止、土地の平分、寡婦の再婚、外賊に通じ た。義兵の鎮圧のために政府軍が地方に出動したすきに、ロ シアと結ぶ一派は国王を王宮から連れ出してロシア公使館に る者の処罰などを政府に要求した。↓甲午農民戦争 〔日清戦争と甲午改革〕農民軍を自力で鎮圧できない政府は移した ( 天九六 ) 。これによって開化派政権は倒れ、親露派政 清に出兵を請うた。それを知った日本はただちに出兵した。権が生まれた。 日本は清軍を攻撃する一方、朝鮮政府を威嚇し、閔氏政権を この異常な事態のなかで、鉄道、鉱山、森林などの利権は 倒して開化派政権をたてた。この政権のもとで、官僚機構の次々に欧米および日本に売り渡された。朝鮮の危機は一段と 深まった。この危機に直面して、急進的開化派は『独立新 4 聞』を創刊し、続いて独立協会を結成し ( 天九六 ) 、朝の民 3 主化による独立の達成を目ざす大衆運動を展開した。一八九 、 4 宮た真 一福れ写七年に国王高宗は皇帝に即位し、国号も大韓帝国と改め、自 ゞゞ景わの る使期主独立の国家であることを示した。開化派は一時は国王、政 亠の一に刀 ~ 府を動かし、議会政治が出現するかと思われたが、保守派の 宮な昭 巻き返しによって弾圧され、解散させられた ( 天九 0 。↓李 王庁 ノ , 央る 洋 は中い 氏朝鮮 のて , 央レれ 日本の朝鮮統治と朝鮮人の抵抗 - ・宀圷 0 利 のたて 日本はロシアを朝鮮から排除するために日英同盟を結び 4 / 府しし 3 ~ ,. 《督工と ( 一九 0 一 I) 、ついに日露戦争に踏み切った ( 一九 0 四 ) 。日本は開戦 総 ~ 竣館 年に物 と同時に朝鮮に「日韓議定書」を押し付け、日本軍の行動の る央 自由と基地使用の権利をとり、続いて「第一次日韓協約」「 ′ ' なあ中 よって外交と財務に顧問を送り込み、朝鮮を制圧した。やが むれ国 中さ国 てポーツマス条約で朝鮮に対する日本の支配的地位が国際的 の設韓 = 治建は に承認されると、「第二次日韓協約」 ( 乙巳保護条約。一九 0 五 ) - 統にら 一則か を押し付け、朝鮮を日本の保護国にし、外交の権利を奪い 朝の月 せ 殿 8 府政年統監府を設けた。続いて朝軍隊を解散させ ( 一九 0 七 ) 、司法、 督勤跖 警察、通信などの権利を奪い、ついに朝鮮を併合した ( 一九 総殿 鮮正 朝の後 (O)O 約五〇〇年続いた朝鮮王朝は滅亡した。↓韓国併合 7 ごろう いつみ さい・ 4 、、げん 一九〇六韓国統監府設置。崔益鉉の義兵、淳昌で敗北 一九〇七 ーグ密使事件起こり、日本、高宗の退位強要。 第三次日韓協約調印。軍隊解散 一九〇八東洋拓殖株式会社設立 一九〇九出版法公布。安重根、ハルビンで伊藤博文を射殺 一九一〇韓国併合条約調印。韓国の国号を改め、朝鮮とし、 朝鮮総督府の設置を公布。会社令公布 一九一一朝鮮銀行法、上地収用法、朝鮮教育令を公布 一九一二朝鮮民事令、刑事令を公布 一九一四地方行政区画の改編 一九一五朝鮮鉱業令公布 一九一七朝鮮鉄道の経営を南満州鉄道株式会社に委託 一九一八朝鮮林野調査令公布。李東輝ら、シベリアで韓人 社会党結成 一九一九東京留学生による二・八独立宣一三三・一独立運 動起こる。朝鮮政治犯処罪令公布。総督府、官制 を改め「文化政治」始まる これーん久 一九二〇「朝鮮日報』「東亜日報』創刊。琿春事件起こる。 産米増殖計画実施 一九二三衡平社結成。関東大震災起こり、在日朝鮮人多数 が虐殺される 一九二四朝鮮労農総同盟結成 一九二五在日朝鮮労働総同盟結成。朝鮮共産党創立。第一 次共産党事件により朴憲永ら逮捕される 一六京城帝大法文学部・医学部開設。六・一〇万歳連 動起こる 一九二七新幹会、槿友会組織される 一儿二八李東寧、金九ら、上海で韓国独立党結成。コミン テルン「一二月テーゼ」により、朝鮮共産党解消 一儿二九元山ゼネスト。光州学生運動起こる 一九三〇間島五・三〇蜂起 一九三一新幹会解散。万宝山事件起こる 一儿三二卓魚月イ調停令公布 一九三三農山漁村振興連動始まる。朝鮮語学会、 綴字法統一案を発表 一九三四朝鮮農地令公布 一九三六在満朝鮮人、祖国光復会結成。日章旗抹消事件 一九三七重要産業統制法施行。普天堡の戦い。皇国臣民の 誓詞制定 一九三八陸軍志願兵制度施行。朝鮮教育令改正 一九三九興亜奉公日の制定。国民徴用令実施、強制連行始まる 一儿四〇創氏改名の実施。『東亜日報』「朝鮮日報」廃刊さ せられる 一儿四一朝鮮思想犯予防拘禁令公布。国民学校規定公布。 わ海臨時政府、対日宣戦布告 一九四一一朝鮮語学会事件 一九四三海軍特別志願兵令公布 一九四四徴兵制度の実施。呂運亨ら、朝鮮建国同盟を結成 一九四五朝鮮解放 一九四八大韓民国成立。朝鮮民主主義人民共和国成立 きんゅう ングル 659
いた。金日成は抗日遊撃隊をつくり ( 一九 = 一 I) 、朝鮮人民革命 せ〔義兵運動と愛国啓蒙運動〕朝鮮人は自国の滅亡を座視しての懐柔を図った。また同化政策を強化し、朝鮮人の民族意識 、フいたのではなく、これに強く抵抗した。先に乙未事件後に起の排除に努めた。一方、日本は「米騒動」 ( 一九一 0 に懲り、軍を編成し ( 一九三四 ) 、民族統一戦線としての祖国光復会をつ よこった義兵は一時収まっていたが、日露戦争期から再燃し、 日本の食糧難を打開するために朝鮮で「産米増殖計画」をた くり ( 一九三六 ) 、「満州」各地で日本軍と交戦すると同時に、朝 ち乙巳保護条約の締結以後は全国的に広がり、軍隊解散後は兵て ( 一〈 = 0 ) 、朝鮮米の増産と日本への移出を強行した。その鮮内にも出撃し、朝鮮人を勇気づけた。一方、三・一独立運 士が義兵に参加し、強力に抗戦した。日本軍は総力をあげて過程で朝鮮農民の窮乏が深まり、自作、自小作が減って小作動の直後に上海で成立した大韓民国臨時政府は、その後も命 きんきゅうじゅうけい 攻撃したが、義兵は併合後も「満州」との国境地帯で活動をが増え、多くの離村者が現れた。彼らを吸収する工業は成長脈を維持していたが、その指導者金九は重慶で韓国光復車 続けた。 していなかった。日本、「満州」への移住者が増え、また火を編成した ( 一九四四 ) 。また朝鮮人社会主義者は朝鮮独立同盟 一方、開化派系統の人々は、文化、教育の面で愛国啓蒙運田民が急増した。 をつくり ( 一九四一 l) 、中国人民軍と協力しつつ華北で日本軍と りよ・つん - 一う 動を展開した。大韓自強会、漢北興学会、畿湖学会、湖南学 〔社会主義運動〕社会不安が深まるなかで農民運動、労働運戦った。また朝鮮国内では呂運亨らがひそかに建国同盟をつ 会など多くの文化団体が生まれ、『大韓毎日新報』『朝陽報』動が盛んになり、朝鮮共産党が生まれた ( 一九一一五 ) 。朝王朝 くり、国外の独立運動と連絡をとり、解放の日のための準備 『大韓民報』などの新聞が刊行された。私立学校も各地につの最後の国王であった純宗の葬儀のときには、またも独立万をしていた。↓朝鮮独立運動 くられ、その数は三〇〇〇に上った。朝鮮語の発展を目ざす歳を叫ぶ示威運動が起こった ( 一九一一六。 六・一〇万歳運動 ) 。 しんかんかい 解放と分裂 国文連動も行われ、愛国的英雄の伝記が刊行され、民族の自続いて民族主義者と共産主義者が連合して新幹会を結成し 覚と文明開化を主題とする唱歌もっくられた。これらの運動 ( 一九一一七 ) 、民族的権利の回復に努めた。また光州抗日学生運動 一九四五年八月、日本の敗戦により朝鮭は解放された。政 は義兵運動とは結合しなかったが、朝鮮の独立、国権の回のときには全国の学生・生徒が同盟休校、示威運動を展開し治犯、思想犯は獄から釈放され、国外にいた運動家も帰って げんぎん 復、民権の伸張を大衆に訴え、その覚醒を促した。 ( 一九一一九 ~ 三 0) 、元山ゼネストのときには全国の労働者、農民、きた。朝鮮全土が解放の喜びに沸き立った。しかし朝鯡人内 〔武断政治と土地調査事業〕併合後、統監府は総督府と改称学生、市民と世界諸国の労働者の支援を受けた ( 一九一一九 ) 。 部に政治路線についての対立があったうえに、大戦後におけ された。初期の統治政策は「武断政治」とよばれる。軍人総〔戦時下の朝鮮〕「満州事変」 ( 一九三一 ) から日中戦争 ( 一九三七 ) 、る米ソの対立Ⅱ冷戦の影響を受け、統一国家の樹立は阻まれ 督のもとで、憲兵と警察を一体化した憲兵警察を全土に配置太平洋戦争 ( 一九四一 ) へと続く戦争のなかで、日本は朝鮮を兵た。三八度線を境にして南北に進駐した米ソ両軍は、それぞ りしょ - っ し、言論・集会・結社の自由を完全に奪い、朝鮮人を徹底的站基地にし、食糧や地下資源の増産、重化学工業の移植、武れまったく相反する政権の育成を図り、ついに南には李承 に弾圧した。一方、同化政策を採用し、朝鮮人が「忠良なる器工業の建設などを強行した。同時に朝鮮人に強い思想統制晩を大統領とする大韓民国、北には金日成を首相とする朝鮮 国民」になることを要求した。 を加え、これまでの同化政策を推し進めて「皇民化政策」を民主主義人民共和国が成立した ( 一九四 0 。 武断政治のもとで、日本は大掛りな「土地調査事業」 ( 一九施行した。「皇国臣民の誓詞」を制定し ( 一九三七 ) 、これを斉唱 〔朝鮮戦争〕南北の対立は朝鮮戦争となって爆発した ( 一九 一 0 ~ 一 0 を強行し、農民から土地を奪った。また「会社令」 させ、姓名を日本式のものに改める「創氏改名」を強要し五〇年六月二五日 ) 。南にはアメリカ軍を主体とする国連軍 を公布し ( 一九一 0) 、朝鮮人の会社設立を制限し、民族産業の ( 一九三九 ) 、また神社参拝、宮城遙拝、日の丸掲揚、日本語の使力」レ。 "" 、ヒこま中国人民志願軍が加わり、同族相殺の戦争が行わ 成長を阻んだ。朝鮮人は政治的に弾圧されただけでなく、苦用などを強制した。また朝鮮内の鉱山や軍需工場に徴用するれた。三年にわたる一進一退の戦いののち、停戦協定が結ば しい生活を強いられた。 だけでなく、日本に強制連行して鉱山、軍需工場、鉄道、港れ ( 一九五三年七月二七日 ) 、いちおうの平和が戻った。し 〔三・一独立運動〕厳しい監視のなかでも朝鮮人の反日運動湾などで働かせた。また朝鮮人を戦争に動員するために、ま かし、この戦争によって朝鮮全土が戦場になり、南北ともに ばくだい はひそかに続いていた。また「満州」、上海、アメリカなどず陸軍志願兵制度を施行し ( 一九三 0 、ついには徴兵制度を実莫大な人的、物的損害を受けた。とくに南北相互の民心に深 国外でも独立運動が行われていた。そこへ第一次世界大戦後施した ( 一九四四 ) 。 刻な不信感を植え付けた。↓朝鮮戦争 の民族自決主義の風潮とロシア革命の影響が及んできた。ま こういう日本の政策に朝鮮人は大きな怒りを抱いた。しか 〔朝鮮戦争後の南北朝鮮〕朝鮮戦争後、南では李承晩の独裁 ず日本にいた朝鮮人留学生が独立宣一 = ロ書を発表した ( 一九一し徹底した抑圧のもとでは、それを表明するのは困難であっ政治が続いたが、政治、経済、社会全体にわたる不法、腐敗 九年二月八日 ) 。続いて三月一日、民族代表三三名がソウル た。それだけでなく、日本の政策に対する沈黙も許されず、は民衆の反感を招き、ついに「四月革命」 ( 一九六 0 ) によって で独立宣言書を発表した。独立万歳を叫ぶ示威運動はまずソ知識人のなかには日本の戦争政策、皇民化政策への礼賛を強李承晩政権は倒された。そのあと、多様な政治活動、学生運 ばくせいき ウルで始まり、たちまち全国に波及した。思想、宗教、職 いられた者が少なくなかった。↓朝鮮統治政策↓朝鮮人強動、統一運動が展開されたが、それらは朴正熙らの軍事クー 業、地位の差を越え、老若男女を含む挙族的独立運動が展開制連行↓皇民化政策 デターによって否定され ( 一九六 D 、朴軍事独裁政権が出現し された。参加者二〇〇万、逮捕者五万、死者七五〇〇に上っ 〔独立・解放運動〕朝の独立と解放を求める運動は主とし た。これを三・一独立運動という。↓三・一独立運動 て中国の各地、とくに「満州」で盛んであった。「満州」の 一方、北では戦争による廃墟のなかから戦後の復旧と建設 かんと、つ チョンリマ 〔文化政治と産米増殖計画〕日本は警官、軍隊を動員して 間島地方には早くから朝鮮人が住み、日本の朝鮮統治時代に が急速度で進められた。「千里馬運動」がそれである。その 三・一独立運動を鎮圧したのち、従来の「武断政治」を改めは生活苦のために移住してくる者が増えた。そのなかに多様 結果、一九七〇年には「社会主義工業国」に到達した。その ばくけんえい て「文化政治」を採用し、朝鮮人に多少の発言権を認め、そな政治団体、武装集団が結成され、反日運動の拠点になって過程で、かっての朝鮮共産主義運動の指導者朴憲永をはじめ か′、」い シャンハイ たん よっ・はい ばん はいきょ
ちょうせ 『韓国現代社会叢書』全五冊 ( 一九会 ~ 会・御液には腸リバーゼ、マルターゼ、ペプチダーゼ 8 書』を発表、前年完了した有償・無償五億ドルの 請求権導入が韓国経済に果たした役割を積極的 茶の水書房 ) ▽石南国著『韓国人口増加のなどが含まれている。なお、大腸は絨毛を形成 6 11 -8 1 亠 分析』 ( 一九七一一・勁草書房 ) ▽馬越徹著『現代しないが、大腸の腸腺、つまり管状の陰窩は、 に評価した。七九年一〇月二六日の朴大統領の 死と八〇年九月一日全斗煥大統領の登場は、日 韓国教育研究』 ( 一九〈一・高麗書林 ) 小腸の場合よりも長く、また「小腸よりはるか 入 -8- 1 よ 4- (. 0 LO -8 一 -0- つん さかずき 1 よ 8 ワ】っ 0 「ト - -0- っつつ 輸 本人以上に日本語を使った日本語世代から、 ・南北共通▽梶村秀樹編『朝鮮現代史の手 に多くの粘液細胞 ( 杯細胞 ) をもっている。 ワ 0 -4 《 0 / しょ 移 ングル世代への指導者の世代交代を意味した。 引』 ( 一突一・勁草書房 ) ▽金学俊著、市川正このことから、大腸においては粘液分泌が盛ん なかそね 1 ・・ -8 《 0 00 十・ 易出 ^ 嶋井和世〉 八三年一月、中曽根首相の日本首相としての初 明訳『朝鮮半島の分断構造』 ( 一九八四・論創社 ) なことがわかる。 ワ 0 ワ】 00 ワ】」祝 貿万輸 、 1 ワ 3 00 っ 0 っ一 4 ・ の公式訪韓、八四年九月、全大統領の韓国元首 ▽現代朝鮮問題講座編集委員会編『朝鮮の統チョウセンアカシジミ〔朝鮮赤小灰蝶〕 甬一 りんし の百 と としての初の訪日は、日韓新時代を開くもの 一問題』 ( 一九含・二月社 ) ▽関寛治・高瀬浄 Co 、きききミ = s 昆虫綱鱗翅目シジミチ 年 一 . う ) 0 (C) 0 ーっ」っ 0 4- 「 0 「 / 「 / CO 00 00 8 と、両国民の多数が受け止めた。「不幸な過去 編『朝鮮半島と国際政治』 ( 一九 0 ・晃洋書房 ) ョウ科に属するチョウ。日本では岩手、山形、 単 日 を誠に遺憾」とした日本国天皇のことばを、全 ▽三谷静夫編『朝鮮半島の政治経済構造』新潟の各県に局部的に産する。国外では朝鮮半 視できないものとなっている。 大統領は「国民とともに厳粛な気持ちで傾聴」 ( 一三・日本国際問題研究所 ) ▽林建彦著島、ウス リー川流域に産する。はねの開張三二 一九八六年アジア競技大会ソウル開催と、続し、韓国民は謝罪発言と評価した結果である。 『北朝鮮と南朝』 ( 一九会・サイマル出版会 ) リ内外。はねの地色は橙色。本種が日本に産 く八八年ソウル・オリンピック開催を期に、ス 八五年一二月一八日、国交二〇周年を迎え、張先ちょうせん ( 究 0 ー一 0 七 0 中国、北宋することが判明したのは比較的新しく昭和二〇 あぎなしゃ せつこう ポーツ強国を目ざしての官民一体の選手強化策「韓国側の自信とゆとり」 ( 日本外務省 ) が貿易の官僚文人、詞人。字は子野。湖州烏程 ( 浙江年代のことで、それ以前は朝鮮産として知られ おうようしゅう が推進されており、ソウル・オリンビック主催不均衡拡大、歴史教科書記述問題、在日朝鮮人省呉興 ) の人。一〇三〇年 ( 天聖八 ) 欧陽修ていたのでこの和名がある。年一回の発生、岩 者としての面目にかけての選手の活躍ぶりが注指紋押捺問題にもかかわらず、両国の関係をとともに進士に及第し、各府州の通判 ( 準知手県下の産地ではその最盛期は六月下旬から七 目をひく。ちなみに八四年ロサンゼルス・オリ 「成熟」の時代に移行させようとしている。↓ 事 ) や知事を歴任、都官郎中の位で隠退した。 月上旬、山形県南部の小国町では六月中旬から - につしゅ・つ そしよくとうば 日韓基本条約 ンピックの成績は、ソ連・東欧不参加もあり、 〈林建彦〉晩年は杭州 ( 浙江省 ) で蘇軾 ( 東坡 ) などと下旬。成虫は午後三時ごろを中心に活動する。 金六、銀六、銅七あわせてメダル一九、アジア回・自然・文化▽魚塘著『朝鮮新風土記』交わり、風雅の生活を楽しんで八九歳の長寿を幼虫の食草はモクセイ科のトネリコ、コバノト ( 一九会・三一書房 ) ▽金思燁著『朝の風土保った。唐代に始まる歌辞文芸「詞」におい ネリコ。卵はこれらの樹幹上に数個かためて産 勢では日本の七位に次いで一〇位と健闘した。 と文化』 ( 一九七六・六興出版 ) ▽姜在彦訳『朝て、日常生活を淡々と詠ずる新しいスタイルをみ付けられ、越冬して、翌春、木の芽立ちと同 日本との関係 鮮歳時記』 ( 平凡社・東洋文庫 ) ▽秋葉隆著確立、また和韻の詞をはやらせるなど、文人詞時に孵化する。 3 シジミチョウ〈白水隆〉 連合国最高司令部外交局長・ 『朝鮮民俗誌』 ( 一九含・名著出版 ) ▽魚塘著の流行の先駆けとなった。詞集に『張子野詞』チョウセンアサガオ「朝鮮朝顔〕 D や あっせん 〈村上哲見〉 二巻がある。 ・シーポルトの斡旋で、一九五一年 ( 昭和一一 『朝鮮の民俗文化の源流』 ( 一九全・同成社 ) きき、ミミ L. ナス科の多年草で、熱帯では ▽崔南善著、相馬清訳『朝鮮常識問答』 ( 一九回中田勇次郎著『漢詩大系幻歴代名詞選』低木状となるが、日本で栽培すると一年草とな 六 ) 一〇月に始まった日韓国交正常化会談は、 日本の植民地支配を肯定した「久保田発言」 六五・宗高書房 ) ▽中村栄孝著『朝鮮ーー風 ( 一九六五・集英社 ) ▽村上哲見著『中国詩文選る。原産は熱帯アジア ( インド ) 。日本には江 俗・民族・伝統』 ( 一空一・吉川弘文館 ) ▽鎌 戸時代に伝えられ、栽培もされたが、栽培がむ 日本漁船拿捕の李承晩ライン、対日請求権の扱 宋詞』 ( 一九七三・筑摩書房 ) いなどの難題をめぐって中断を繰り返し、つい 田重雄著『朝鮮仏教の寺と歴史』 ( 一九含・大腸腺ちょうせん腸の粘膜上皮細胞層に配すかしいうえに、薬用としての収量の面でも採 法輪閣 ) ▽梶井陟著『朝鮮語を考える』 ( 一九列する分泌細胞群をいう。小腸の場合は粘膜に算があわず、今日ではほとんどみられない。茎 に一四年に及ぶマラソン会談となった。日韓基 じゅうもう 〈 0 ・龍渓書舎 ) 絨毛があり、その根部から粘膜固有層に管状は直立し、高さ約一、多くの淡緑色の枝に分 本条約の批准書を交換して、国交正常化をみた かれる。葉は互生だが対生状にもなり、広卵形 ・朝鮮民主主義人民共和国▽高昇孝著『朝の落ち込みができる ( これを陰窩とよぶ ) 。こ のは六五年一二月一八日だった。国交は政府レ 鮮社会主義の理論』 ( 一九大・新泉社 ) ▽同著こに消化液の分泌細胞群があり、腸腺 ( 陰窩で全縁または深い波状の少数の鋸歯をもつ。葉 ベルにとどまり、国民レベル末だしを思わせる 『現代朝鮮の農業政策』 ( 一九七一・ミネルヴァ書腺 ) 、あるいはリーベルキューン腺〔ドイツの柄は長い。夏から秋にかけて、葉腋に一個すっ 事件が国交一〇年を控えた七三、七四年に集 房 ) ▽朴尚得著『現代朝鮮教育の発展』 ( 一九解剖学者 J. N. Lieberkühn ( 一七二ー五六 ) にち花をつける。萼は筒状で長く、先端は五裂す 中、日韓関係をたちまち危機的状況に陥れた。 七九・朝鮮青年社 ) ▽現代朝鮮問題講座編集なむ〕とよぶ単管状腺を形成している。腸液をる。花冠は白色または淡紫色の大きな漏斗状 金大中事件であり、日本人二学生事件であり、 委員会編『社会主義朝鮮の経済』 ( 一九〈 0 ・一一分泌するのは陰窩の上半部の細胞からとみられで、長さ一〇 ~ 一五誓・、筒部は細長く、裂片の 朴大統領夫人陸英修の死を巻き添えにした在日 そげき 月社 ) ▽同編『社会主義朝蝉の政治』 ( 一九ているが、ほかに、陰窩の底部に固まっている先は尾状にとがる。雄しべは五個、雌しべは一 韓国人青年文世光の朴大統領狙撃事件である。 全・二月社 ) ▽高瀬浄著『朝鮮社会主義経数個の細胞群もかかわっている。これは。ハネー 個。果実は球形の蒴果で、径約一一・五、表面 金大中事件では金鍾泌首相が来日、朴大統領狙 しいなえっさぶろう には太くて短い刺が多い。短い果柄は、曲がっ 済の研究』 ( 一九七三・文化書房博文社 ) ト細胞〔ドイツの解剖学者 J. Paneth ( 天五七ー 撃事件では自由民主党椎名悦三郎副総裁が訪韓 ん ~ りゆ・つ ・大韓民国▽林建彦著『韓国現代史』 ( 一九 九 0 ) にちなむ〕とよばれ、比較的大型の顆粒をて果実を下垂させるという特徴をもつ。果実は するなど、謝罪特使の往来を必要とした。朴大 七六・至誠堂 ) ▽中川信夫著『日韓問題の歴含んでいるのが特徴である。この顆粒の本態は成熟すると先端が不規則に割れ、中には多数の 統領は、日本側の対応に不満をもち、国交断絶 へんべい 史と構造』 ( 一九七五・末来社 ) ▽隅谷三喜男著不明であるが、ペプチダーゼとかリゾチームと扁平で灰褐色の種子がある。チョウセンアサガ をも想定、その影響を調べたところ、すでに韓 『韓国の経済』 ( 岩波新書 ) ▽黒田勝弘著 いったタンパク質と多糖類を含んでいる。このオは、全株にアルカロイドのスコボラミンを含 国の輸出入の三分の一を日本が占め、直接投資 『韓国社会をみつめて』 ( 一九盒・亜紀書房 ) ハネート細胞は小腸のみに存在する。このほ有しているため、葉と種子は鎮痛、鎮けい、 もアメリカを抜いて日本が一位というところま ぜんそく ▽朝日韓国取材班編『韓国の素顔』 ( 一九会・ か、十二指腸の腸腺の底部には十二指腸腺 ( プ咳剤として胃痛、喘息などの治療に用いられ で両国の経済関係が密着していることを知り、 朝日新聞社 ) ▽李泳禧他著、高崎宗司他訳ルンネル腺 ) とよぶ粘液腺が開口している。腸る。ただし、分量を誤ると発狂状態となり、そ 断念した。韓国政府は七六年一二月『請求権白 おうなっ いんか ようえき ろうと
ちょうせんどくりつうんどう一 同床異夢のかっこうで始まった南北対話が円滑朝鮮統冶政策ちょうせんとうちせいさく 一主義を採用、治安体制を強化した。さらに一九朝鮮独立運動 せ に進むはすはなく、赤十字会談も「調節委員九一〇年八月二九日に朝鮮が日本の植民地にな 一三年には朝鮮教育令を改正、同化教育を拡大九一〇年の朝鮮併合から一九四五年の解放まで 会」も最初から難航してしだいに形だけのものり、四五年八月一五日に解放されるまでの期間 強化した。その一方で、民意を探るため『東亜の三五年間、日本の支配からの解放、民族の独 よ となり、後者は七六年七月、前者は七八年三 の日本の統治政策。この期間は一般に「日帝時日報』『朝鮮日報』『開闢』などの民間の新聞、立を求めて繰り広げられた朝鮮人民の闘い。朝 ち 月、いすれも何の成果もなしに事実上打ち切り代」といわれ、朝鮮総督府が朝鮮を支配した。雑誌の発刊を二〇年から許可し、「地方自治」鮮国内はもちろん、朝鮮人の多数居住する中 となった。 この三五年間を支配政策からみると、次の三期の看板を掲げ、極度の制限選挙を行い、親日派国・日本など国外各地でも、絶えることなく展 〔情勢の流動化〕韓国では一九七九年一〇月、 に区分できる。第一期は、一九一〇年の韓国併の育成を図り、「革命の防波堤」を築こうとし開された。 朴正熙大統領が腹心の部下によって射殺され、合 ( 日韓併合 ) から一九年の三・一独立運動ま た。またこの時期の経済政策は「産米増殖計〔一九一〇年代〕併合前後、日本の侵略に抵抗 ぜんと 翌八〇年五月、事実上の車事クーデターで全斗で。第二期は、一九一九年から三一年の満州事画」によって代表される。日本国内の低米価、する義兵闘争と愛国蒙連動は激しい弾圧を受 かん 煥将軍が権力を掌握した。同年八月大統領に就変勃発まで。第三期は、一九三一年から四五年低賃金を維持するため、朝鮮で安価な米を増産け、その指導者らは「満州」 ( 中国東北 ) 、ロシ 任した同将軍は朴正熙政権当時の対話路線を踏の解放まで。 させることを目的としたこの「計画」は、土地ア領沿海州などに逃れ、そこに独立運動の根拠 襲して、八一年一月以降たびたび北側に対して 〔第一期〕「武断政治」ともよばれ、司法、立改良、耕種法の改善を中心に立案されたが、財地を築くことに努めた。国内では憲兵・警察に 南北首脳会談の開催を呼びかけた。北の金日成法、行政の三権から軍事権までを一手に握った界の不況、農民の抵抗などのために失敗し、そよる弾圧体制の下でも国民会、光復会 ( 後述の 主席との首脳会談し こよって南北の和解を進め、朝鮮総督の下に、憲兵隊司令官が警務総長を兼の過程で土地を失う農民が増加した。期間中、 祖国光復会とは別 ) などの秘密結社が活動を続 双方の代表からなる「協議会」を設けて統一憲ねるという特殊な治安機構である憲兵警察が、米の生産高は微増したが、日本への輸出は激増け、また、天道教、キリスト教などの宗教組 法草案を起草し、また、統一実現までの暫定措全朝に網の目のように張り巡らされた。憲兵し、農民は飢餓輸出を強いられ、三〇年には全織、朝鮮人経営の私立学校、書堂などが民族意 置として南北関係に関する暫定協定を締結する警察は、「暴徒ノ討伐」から日本語の普及まで農家の四八 % 、約一一一〇万戸の絶糧農家が出る識を守り育てる場として機能した。独立運動史 惨状となった。 という構想である。一方、北側では八〇年一〇の広範な権限をもち、朝人の日常生活のなか 上画期的意義をもっ三・一独立運動は、このよ - : つ、りし 月、新しい統一政策として「高麗民主連邦共和 に食い入った。さらに一一 = 口論、出版、集会、結社 〔第三期〕一九三一年の満州事変に始まる十五 うな活動を背景として全民族的運動へと発展し 国」の樹立を目ざすとの方針を打ち出した。こ の自由は完全に奪われ、新聞、雑誌は廃刊させ年戦争下の朝鮮は、戦時動員体制に組み込ま れは、在韓米軍を撤退させたのち、南北の社会られ、ただ総督府の御用紙である『京城日報』、れ、それが戦局の拡大とともにいっそう強化さ 〔一九ニ〇年代〕三・一独立運動後、日本は きようじん ひょうぼう 体制の差を残したまま、双方の政府も残したまその朝鮮語版の『毎日申報』などが許された。れた。とくに強靱な民族意識をもっ朝鮮人を「文化政治」を標榜して言論・集会などの一定 まで、朝鮮のかっての国名である高麗の名を冠一九一一年八月には「朝鮮教育令」が制定さ 皇民化することに政策の主眼が置かれた。満州 の自由を許したため、合法的な運動の展開がみ した緩やかな連邦制を実施するよう南側に呼びれ、朝鮭人を亜日本人化するための同化教育が事変後、日本ファシズムの一環として「農村振られた。愛国啓蒙運動の理念を継承する民族主 かけたものである。北側はまた八四年一月、在開始された。 興運動」 ( 一九三一 (l) が展開され、農家経済の更生義者は、『東亜日報』などの新聞や雑誌による 韓米軍の撤退促進と朝鮮半島の緊張緩和を主要 このような強権の下で植民地支配の基礎作業が意図されたが、しかし増産と節約のみで農村言論活動、国産品愛用・民族企業の育成を図る テーマとする「朝・米・韓の三者会談」を提唱 が行われた。土地調査事業 ( 一九一〇年三月 ~ が救済されうるはずもなく、日中戦の展開とと物産奨励運動、朝鮮人のための高等教育機関設 一八年一一月 ) 、林野調査事業、交通・運輸機もに精神連動の側面を強め、一連の皇民化政策立を目ざす民立大学期成運動などを展開した 以上の取方の提案はいすれも相手側から受け関の建設、金融・貨幣制度の整備、度量衡の統へと連なっていった。神社参拝が強要され、が、生存・生活の危機に直面する民衆の支持を 入れられていない。最大の争点は、在韓米軍の 一などが遂行され、朝は日本の食料・原料供「私供ハ大日本帝国ノ臣民」であると誓わせる得ることができなかった。 撤退を南北統一の先決条件と考えるか否かにあ給地、商品販売市場へと編成されていった。こ「皇国臣民ノ誓詞」が制定 ( 一九三七年一〇月 ) 一方、国外在住朝鮮人を通じて社会主義思想 り、歩み寄りは容易でないようにみえる。他れら経済政策のなかで中軸となったのは土地調 され、三八年二月には徴兵制への地ならしとし がしだいに朝鮮国内にも広がり、社会主義運動 面、情勢はきわめて流動的でもある。たとえ査事業である。これは朝鮮における土地所有権て志願兵制度が施行され、同時に「兵員資源」が活発になった。朝鮮労働共済会 (一九 IIO) をは すその ば、一九八四年、日・米・中三国の首脳が相互の確立と、統治のための財源確保にあった。こ の裾野を広げるために朝鮮教育令の第三次改正じめ各地で労働団体、農民団体が組織され、労 訪問を通じて朝鮭半島の安定化が望ましいとの の過程で封建地主と日本人地主の所有権が確定も行われた。四〇年二月からは「創氏改名」が働争議、小作争議も盛んになった。一九二四年 合意に達すると、同年秋には南北朝鮭間で赤十し、膨大な土地が国有地となり、大多数の農民実施され、朝鮮人はついに自分の名さえ日本式には全国組織の朝鮮労農総同盟、朝鮮青年総同 字会談が再開され、新たに経済会談が始まり、 は小作農に転落した。また会社設立を総督の許に改めなければならなかった。さらに「大陸兵盟が結成され、社会主義運動の発展を示した。 たん 翌八五年七月には国会会談予備会談も始まっ可制とする「会社令」 ( 一九一〇年一二月 ) が站基地」が唱えられ、日本の軍需産業のため、翌二五年四月、朝鮮共産党が結成され、六 た。これら三つの南北対話は、在韓米軍と韓国出され、民族資本は抑圧された。これらの矛盾低賃金と長時間労働を強いられ、地下資源が〇万歳運動などの独立運動の展開にも力を注い 軍が軍事緊張を激化させていると抗議した北側 が一九一九年、三・一独立運動となって爆発し大々的に略奪された。また日本国内の労働力不 によって八六年一月に中断されたが、これも情た。 足を補うための強制連行は三九年の「募集」 ' 一九二七年二月には、民族統一戦線体の新幹 〈川越敬三〉 勢しだいで再開がありうる。 〔第ニ期〕朝蝉人の全民族的抵抗により、日本始まり、四四年の「徴用」へと進んで、青紙一 会が組織され、民衆の支持を受けて四万人の会 回川越敬三著『日本人にとっての朝鮮問題』は支配政策の転換を余儀なくされ、迂回戦術を枚で連行され、過酷な労働を強いられた。この員をもっ組織に成長した。新幹会は、女性団体 きんゅうかい ( 一九七七・大月書店 ) ▽現代朝問題講座編集とりながら、民族分裂政策を積極的に追求してように十五年戦争下の朝鮮では、すべての政策の槿友会や労働組合、農民組合とともに活動 委員会編『朝鮮の統一問題』 ( 『現代朝鮮問題 いった。総督の文官任用の道を開き、従来の憲は「戦力増強」を主軸に展開された。↓朝鮮土し、民族意識を高めるうえで大きな役割を果た 講座』一九七九・二月社 ) ▽金正明編『韓国兵警察を普通警察にかえるとともに、警察官を地調査事業↓三・一独立運動↓皇民化政策 したが、当局の弾圧、コミンテルンの路線転 ↓朝鮮人強制連行 統一への道』 ( 一九六ハ・原書房 ) 約三倍に増強、一府郡一警察署、一面一駐在所 〈宮田節子〉換、内部の意見対立などにより、自ら解散した ばつばっ かいびやく
ししゃ ちんがい へんさん 、漢方では鎮咳、強壮、興奮、止瀉、止汗剤 羅の古歌謡である郷歌など、前期中世語は「語辞典の編纂など、朝詳語の研究と整備を目ざ ぜんがい として喘咳、盗汗、インポテンス、過労、神経 した朝鮮語学会の主力会員を、朝鮮総督府が一 、フ林類事」などきわめて限られた資料しかない が、文字創製以後は、この新製文字で書かれた九四二年に一斉に逮捕した事件。朝鮮語学会が系疾患の治療に用いる。五味とは、有機酸の酸 よ 豊富な文献がある。中期語には、現代語にはな民族精神を高揚させ、独立運動を企てる秘密結味、糖の甘味、精油の辛味、種子の苦味、果皮 かんみ ち 社であるというロ実で、治安維持法を適用しての鹹味 ( 塩味 ) の五種の味をもっているという 、などの音素があり、 sp ・ . st ・ , pt ・ , 〈長沢元夫〉 psk ・ , pst ・のような複頭子音があった。また、弾圧したもので、朝鮮総督府の朝鮮語抹殺政策意味である。 の一環をなすものである。学会員の何名かは獄チョウセンゴョウ〔〉チョウセンマッ 語尾や助詞にまで及ぶ母音調和やアクセントの 音韻的対立があった。文法も、時称体系が、基中死し、何名かは日本の敗戦まで獄につながれチョウセンサザ工〔朝鮮栄螺〕 silver ・ ていたが、生き残った会員は、解放後、南北そ mouth turban \ ミミき s 、 0 ミミミき s ・ 本、強勢、現在、未来、回想の五つを区別し、 謙譲法接辞が存在するなど、現代語と異なる点れそれの国語学界の中心的存在として活躍して、をミ軟体動物門腹足綱リュウテンサザ工科 あまみ 実 〈大村益夫〉の巻き貝。奄美諸島以南の熱帯域のサンゴ礁な が少なくない 果 どにすむ。殻高八〇ミリ、殻径六五ミリに達し、殻 朝鮮語の系統はまだ不明である。・日本語やアチョウセンゴミシ〔朝鯡五味子〕 S ~ ・・ 右 s ミミき c ミミ (Turcz. ) Baillon マップは厚質で堅く、球卵状に膨らむ。殻表には太く ルタイ諸語などとの親縁関係がもっとも多く論 がいぜん 花 て強い螺肋があり、個体によっては肋上に多く じられ、またその蓋然性は高いが、言語学的にサ科の落葉性つる植物。本州 ( 中部地方以北 ) 、 からふと 北海道のはか、樺太 ( サハリン ) 、アムール地の棘を生じる。殻表は黄緑色から黄褐色で、黒 は末証明である。 左 〔文字〕固有の文字は現在、韓国ではハング方、中国、朝鮮半島に分布する。茎はまばらに褐色斑がある。殻ロは丸く、英名のように銀白 シ ル、共和国ではチョソンクルとよんでいる。共分枝し、有柄の葉を互生する。葉身は薄く、卵の真珠光沢をもつ。蓋は石灰質で、外面には弱 かれ・ゅ・つ だえん ゴ い顆粒があり、黄緑色がかる。殻は貝細工やポ 形、広倒卵形ないし広楕円形で、長さ五 ~ 一一 ン 和国ではこの文字のみを用いて横書きにする。 セ 〈奥谷喬司〉 葉の先端は急にとがり、縁に小歯牙があタンの材料、肉は食用となる。 韓国では漢字も混用し、縦書きも横書きもある ウ すうせい ョ ちょうせんさ「かどうめい朝 / 、 が、庶民の文字生活はハングル専用が趨勢であり、葉脈の部分はややヘこむ。雌雄異株で、新朝鮮作家同盟 チ しい枝の基部には長い花柄をもっ花が垂れ下が鮮文学芸術総同盟 ( 文芸関係単一団体として解 る。もともと小説などの文学作品は以前よりハ 〈梅田博之〉り、五 ~ 七月に淡黄白色の花を開く。花の直径放後の一九四六年三月一一五日平壌で結成 ) 傘下候補盟員の推薦と育成、創作と批評の組織、雑 ングルのみで書かれている。 かひ 誌『朝弉文学』『青年文学』『児童文学』の発刊 回李崇寧監修、朴成媛編著『標準韓国語』全二巻は約一・五弩で、花被は六 ~ 九個。雌花では多団体の一つ。「文芸総」が連合組織体に改編さ ソクュンギ らせん ( 一九七一一、七四・高麗書林 ) ▽梅田博之著数の雌しべが花床の上に螺旋状に並ぶが、受粉れ、朝鮮戦争直後の一九五三年九月二八日に南を中心に活動している。委員長は石潤基 ( 小 キムビョンフン 北の進歩的な作家が会し朝鮮作家同盟を結成、説 ) 、副委員長は金昞勲 ( 小説 ) 、李麦 ( 詩 ) 、 ハングル入門』 ( 一九会・日本放送出版協会 ) 後、花床は長く伸び ( 三 ~ 一〇弩 ) 、直径五 ~ カンヌンス 朝鮮語学会事件ちょうせんごが。かいじけん七 ' 、リの深紅色の球形の液果を多数つける。このその第一回大会を開いた。同盟は社会主義リア康能洙 ( 評論 ) ら。小説、詩、児童文学、評論 〈金学烈〉 の各分科委員会もある。 リズムによる新しい文学建設のために正盟員・ 朝鮮語と外来語の表記法、標準語の認定、朝鮮果実を乾燥して黒色になったものを五味子とい 〔新石器時代〕旧石器時代が長く続いたあとに、紀元前五〇 文化政治と産米増殖計画 / 社会主義運動 / 戦時下の 朝鮮史ちょうせんし 〇〇年ごろ、土器と磨製石器を使う新石器時代が始まった。 朝鮮 / 独立・解放運動 〔解放と分裂〕朝蝉戦争 / 朝鮮戦争後の南北朝鮮 / 統一その土器を代表するのは、櫛の歯で刻んだような文様をもっ 〔原始社会〕新石器時代 / 青銅器時代 くしめ せきぞく 半卵形の櫛目文土器 ( 幾何文土器 ) である。道具には石鏃、 への動き 〔国家の形成と中国の郡県〕古朝鮮と辰国 / 中国の郡県 いしすき こっそう こっせん 石刀、骨槍、骨銛などの狩猟、漁労の用具のほかに、石犂、 〔高句麗、百済、新羅三国の発展」百済、新羅、加耶連 いしぐわいしかま 原始社会 石鋤、石鍬、石鎌などの農耕用具がある。遺跡は河川の下流 合 / 三国の抗争 旧石器時代の遺跡、遺物は朝鮮各地で発見されているが、域や海岸に多い。当時の人々は集落をつくって定住したが、 〔統一新羅と渤海〕百済、高句麗の滅亡 / 渤海王国 そのおもなものは、平壌市郊外コムンモルの四〇万 ~ 五〇万彼らは氏族社会を形成していたと思われる。 〔高麗統一国家〕高麗の統一と発展 / 一揆と武人政権 かんきよう くつぼり どうくっ 年前といわれる洞遺跡、咸鏡北道雄基郡屈浦里・鮒浦里〔青銅器時代〕紀元前一〇〇〇年代 ( 前七〇〇 ~ 前六〇〇年 外圧とモンゴルの侵入 の三万 ~ 一〇万年前にわたる遺跡、忠清南道公州郡長岐面石ごろともいわれる ) に、「満州」 ( 中国東北部 ) から朝鮮北西 〔朝鮮両班国家〕朝鮮王朝の発展 / 日本軍の侵入 / 商品 そうり 壮里の三万年前からそれより古い時代にわたる遺物包含層、部にかけて青銅器文化が現れる。土器は朝鮮の独楽のような 貨幣経済の発展 / 新しい思想・文化の台頭 とうす けいきれんせんぜんこく 「列強の侵略と朝鮮の抵抗〕壬午軍乱と甲申政変 / 甲午京畿道漣川郡全谷面全谷里から出土した東アジアでは類のな形をした文様のない無文土器に変わる。青銅器には刀子、の おのやじりやり あくふ ハンドアックス ( 握斧 ) などである。当時の人々は打製石み、芹、鏃、槍先、ボタン、指輪などがある。農業はいっそ 農民戦争 / 日清戦争と甲午改革 / 義兵 〔日本の朝鮮統治と朝鮮人の抵抗」義兵運動と愛国啓蒙器や木、骨の道具を使い、動物をとり、木の実や球根を採取う発達し、プタ、ウシ、ウマの飼育も行われた。私有財産制 度が芽生え、権力をもっ支配者層が現れた。多数の人間を動 して生活した。 運動 / 武断政治と土地調査事業 / 三・一独立運動 へり はん ふた せき いしすき 1 654