大日本沿海輿地全図 ( 伊能図 , 小図 ) 江戸幕府天文台 1821 年 ( 文政 4 ) 204X162Cm ( 西 日本図幅 ) 手書き神戸市立 博物館 1800 年 ( 寛政 12 ) から 1816 年 ( 文化 13 ) に及ぶ伊能思指揮の 幕府測量隊による測量結果に基 づいて , 幕府天文台が日本総海 岸線図を完成したのは , 1821 年 ( 文政 4 ) のことであった。縮尺 を異にする大図 ( 36 000 分の 1 , 全 214 枚 ) , 中図 ( 216 000 分の 1 , 全 8 枚 ) , 小図 ( 432 000 分の 1 , 全 3 枚 ) の 3 種がそのときつくられ たが , 単に科学性ばかりでなく , 芸術性をも考慮したみこ・とな作 品である。測量コース上の主要 地点から一定の山峰や岬を望ん でその方位角を測る交会法の実 施を示す直線も , 朱で図上に示 い , 第い されている。経度数値は京都を 基準とするものであるが , 天文 観測は緯度のみであった 1 一材 十い 1 こうこ ( みちのり 皇圀道度図 1670 年 ( 寛文 10 ) ころ 162 x 83 cm ( 日本 東半 ) 129X178Cm ( 日本西半 ) 手書き大阪府立中之 島図書館 1644 年 ( 正保 1 ) の江戸幕府の命令によってつくられた大 縮尺の国ことの地図 ( 国絵図 ) を資料としているので , しようはう 完成年次にかかわりなく , 普通 , 正保日本総図とよばれ る。編集を担当した北条氏長が優れた測量家であったた かんせん め , 江戸時代の官撰日本図のなかでは出色のものとなっ ている。本土に比べて北海道 , 千島 , 樺太の表現が劣る のは , 松前藩提出の地図が実測図でなかったことによる が , 地名の豊富さでは , 同時代の北辺図をはるかにしの いでいる。図は本州中部で接合できるようになっていて , 縮尺はおよそ 3 分 1 里 ( 432 000 分の 1 ) である うじなが からふと 238
っ イ・ きに家康を助けたことなどから家康にたいへん に丸め、油で揚げたものがつくね揚げ、調味し 優遇され、永世漁業権、つまり無税で全国どこ て煮たものがつくね煮である。生臭い魚肉には ででも漁業ができる特権を与えられた。佃とい ショウガのみじん切りを加えるが、ニンジン、 う名前も家康から与えられたものである。佃の ゴボウ、シイタケなどを細かく切って加えるこ 漁民は家康の恩賞に感謝し、年に一度江戸へ魚 ともあるし、青豆を混ぜてもし 、、。「つくねる」 シ ウ を献上していた。しかし毎年江戸まで行くのは は束ねる、またはこねるの意。こねる動作から ポ ク たいへんなので、江一尸へ移住したい旨申し出る 転じて、その製品を「つくね」といったのであ ッ ク と、家康は央諾し、隅田川河口の佃島 ( 東京都 る。ヤマノイモの一種にツクネイモがあるが、 ッ 〈多田鉄之助〉 中央区佃 ) を与えたという。 略称して「つくね」ともいう。 とれた魚は江戸城中や諸侯へ納めていた。残質、カルシウム、リンなどの補給源となる。し筑波 ( 町 ) つくば ( まち ) 茨城県西部、筑波郡 りの小さな雑魚は調味料で煮つめて自家用の総かし、タンパク質は糖分を加えて長時間加熱すにある町。一八八九年 ( 明治一一一 l) 町制施行。 ひっす はうじよう たみやまお 菜としていたが、保存がきき、値段も安くできるため、必須アミノ酸の一部が変化し、栄養的一九五五年 ( 昭和三〇 ) 北条町と田水山、 だ ) くおか るところから、佃島の近辺でも販売を始めるよ価値は、なまのときより多少落ちる。また食塩田、田井の三村と合併。五六年作岡村、五七年 すがま うになり、佃島でつくるので佃煮とよばれるよ含有量が高いので、高血圧症などの人は注意を菅間村を編入して成立。筑波山地と筑波台地お , つになった。イ 田煮はさらに、諸国の侍たちが交要する。最近は塩分を控えた減塩の佃煮も現れよび桜川の沿岸低地よりなる。国道一二五号、 みやげ 代で帰国する際、土産物として持ち帰ったとこている。 〈河野友美〉四〇八号が通じる。古代に筑波山信仰で開け、 えんりやく ろから、江戸名物として全国に広まるようにな 延暦年間 ( 大一一 ~ 含六 ) にはその中腹に筑波山 ックックホウシ Me ぎミミをミミき はんし ちゅうぜん つ ) 0 の並災みの 昆虫綱半翅目同翅亜目セミ科に属する昆虫。体寺 ( 中禅寺 ) が創建されて門前町筑波が形成 えに戦並し 〔種類〕もともとは小魚類を用いていたが、販長三〇ミリ内外の中形のセミで、体は細長い。 胸された。また小田は小田氏の居城地、北条は筑 ・家を とう はんもん 鉢ば災た京 路が伸び、各地でも佃煮がつくられるようにな背には、黒色の地に緑褐色の斑紋がある。頭波山神社参道の要路にあたる商業地で、それそ につ震れ東 じゅん 地 って、いろいろのものが原料として用いられる楯は大きく前方に膨出する。雄の腹弁は三角れに繁栄した。近世は筑波は寺社領、そのほか 路がれぬ古る 島い木らま , せ ようになった。現在用いられているおもな材料形で、雌の産卵管は腹端を超えて伸長する。は は土浦藩領であった。米作、野菜栽培がおも 佃狭草べをはば は、魚類としては、カツオ、マグロ、ワカサねは透明。七 ~ 九月に出現するが、ノ月彳 ' で、芝や座敷冪の材料のホウキモロコシ、筑波 : と一い , っリ , 康との縁故によって、摂津 ( 大阪府 ) 西成郡佃ギ、ハゼ、ゴリ、シラウオ、小・フナ、コウナ多い。独特な、オーシックック、 山中腹にミカン栽培などの特産がある。工業で まごえもん 村の名主孫右衛門が漁夫三〇余名を連れて移住 ゴ、シラス、小アユなど、貝類として、アサズミカルな声で鳴く。北海道から九州にかけては機械工業のほか、山地の岩石を利用する砕石 すい 1 」う ハマグリ、シジミ、アカガイ、カキなど、分布し、各地に普通にいる。日本には近縁種が業が盛んである。水郷筑波国定公園と筑波研究 し、郷里の名を島名とした。将軍家献上のシラ ウオや諸侯に納めた魚類の残りの雑魚を味つけ乾燥水産物として、するめ、干し小魚、干し貝四種知られ、いずれもそれぞれの種独特の声で学園都市が区域内にあり、観光地と諸施設が整 のり じんのうしようと - つき きたばたけちかふさ して煮つめたのが佃煮で、江戸名物として現在類、干しえび、干しだら、昆布、海苔など、そ鳴く。オオシマゼミミ . os ミ ~ s とクロイ備されている。北畠親房が『神皇正統記』を ワックックミ . きぎミは冲縄本島以北の に至っている。一六四六年 ( 正保三 ) 大坂の住のはか水産物としてアミ、エビなど、植物性の 著した小田城跡は国指定史跡。人口二万二八六 まっ 〈櫻井明俊〉 ものとして、フキ、葉トウガラシ、サンショ島々に分布し、ツクックボウシより一回り大き〇。 吉大社の分霊を祀る住吉神社が建立され、祭り ばやし ウ、シメジ、シイタケ、マッタケなどである。 。イワサキゼミ M しミきは石垣島、西回『筑波町史史料集』全四巻 ( 一九天 全・筑波 の際の佃囃子は江戸三大囃子の一つとされた。 おもて 佃煮は元来、しようゆで煮つめたものがおも表島、台湾などに分布し、オガサワラゼミ 漁師町は幾多の災害を免れ、江戸の情緒を今日 おがさわら ひたち あかし まで伝えている。対岸の明石町との間の佃の渡であったが、最近は糖類を多く加えた甘味のあミ . ミは小笠原諸島特産。どの種も、囮二万五千分の一地形図「柿岡」「常陸藤沢」 かみごう 「筑波」「上郷」 しは、最後の隅田川の渡しとして一九六四年るものが多くなった。新な材料を水でよく洗おもに九 ~ 一一月に多く出現する。〈林正美〉 みなみしたら つくば てみず つくばい蹲って使う手水の形式をい ( 昭和三九 ) まで続いたが、佃大橋の完成で廃 い、水けをきって煮立てた調味液の中に入れ、作手 ( 村 ) つくで ( むら ) 愛知県南部、南設楽蹲踞 〈沢田清〉 弱火でゆっくりと煮つめる。材料中の水分が濃郡にある村。標高五五〇内外の高地湿原の村う。伊勢神宮の五十鈴川で手水を使うのも一種 止された。 かつら しようきん へいたん ちょうず 度の濃い調味液と入れ替わることにより貯蔵性で、長ノ山湿原がある。平坦部は水田単作地の蹲踞で、桂離宮松琴亭茶室前の「流れの手水」 囮一万分の一地形図「新橋」 つくたー 小魚、小ェビ、貝、海藻な が高まる。佃煮のおもな種類としては、ハマグ帯。シイタケ、花、茶が特産。国道三〇一号 ( 3 膨桂離宮 ) もまったく共通したくふうであ 佃煮 とよたしんしろ リなどの貝類を、ショウガ、サンショウなどを ( 豊田ー新城間 ) によって両市への通勤者も増る。通常は立ち使いのできないよう低く水鉢を どをおもな原料として、しようゆを主とした調 しぐれ みずあめ びら よねふく たまり 加えた溜しようゆで煮つめた時雨煮、水飴や砂えた。長者平には中世の米福長者の伝説があ据える。手水構えを不可欠の施設とした茶の湯 味料で煮つめ、保存を目的とした加工食品。 かんせん めいきっ そんきょ 〔歴史〕江戸時代の初期、摂津の佃村 ( 大阪市糖などをたつぶり使って汁気がなくなるまで煮る。甘泉寺は名刹で、コウヤマキ ( 国指定天然の露地で、この蹲踞が発達した。蹲踞して手水 かんろ ねはん よどがわ つめた甘露煮、しようゆ、酒、みりんなどを煮記念物 ) 、涅槃図 ( 県指定文化財 ) がある。人を使うことは、茶の湯にふさわしい謙譲の所作 西淀川区佃 ) の漁民が、江戸・石川島の近くの しゆっせけん 〈伊藤郷平〉であったからである。茶の湯は「出世間」の世 小島に移住し、出身地の地名から佃島と名づけ立てた中に材料を入れ、さらに水飴を加えて煮ロ三五九二。 えび たみの て漁業に従事していた。もともと佃村は田蓑村つめた飴煮などがある。ハマグリの時雨煮は一一一地二万五千分の一地形図「海老」「三河大野」界である。潜りや蹲踞は世俗を超えるための結 界である。亭主が自ら運び入れた水を、客がく 「三河湖」「高里」「新城」 という小さな漁村であり、漁民たちは、徳川家重県桑名の、小アユの飴煮は滋賀県の、ゴリの さん びよう 佃煮は石川県の、それそれ名産として名高い 康が摂州多田廟 ( 兵庫県川西市多田神社 ) へ参 つくね魚肉、鳥獣肉などをすり身にして、む。客にとってもっとも厳粛な所作であり、茶 卵、かたくり粉などを適宜加えて好みの大きさ事における主客の心の最初の触れ合いがある。 するときに船で渡したり、また大坂の陣のと〔栄養〕骨ごと食べられる小魚では、タンバク 3 町 ) かきおか
ちしつ ひ律行為が無効であることを知 0 てこれをなした域の実情を知悉しているということでも 0 とも重くなり、かわいそうだというので、町人百姓ンインンエンドルフ Nik01aus L = 0 ・ 4 、場合には、新たな行為をなしたものとみなされふさわしい存在であった。鎌倉幕府の総追捕使についてだけ、重中軽三追放とも、江戸十里四 wig von Zinzendorf und P0ttendorf ( 7 8 ー六 0 ) ドイツの宗教家。ヘルンフート兄弟 る。 〈淡路剛久〉 ( 守護 ) の源流の一つともなった。〈井上満郎〉方と住居の国および悪事をした国だけを構うこ ↓いは , ル ついひ植物の生育途中で施される肥 回井上満郎著『平安時代軍事制度の研究』 ( 一九とにした。追放刑は幕府だけでなく、諸藩でも団の創始者。貴族の名家に生まれる。敬虔主義 かけ一え ーラウジツツ 領分構 ( 領分払 ) と称し、旗本領でも知行払との教育を受け、一七一一一一年オー 八 0 ・吉川弘文館 ) 料のことで、追い肥、掛肥ともいう。苗の移植 はしゅ ついほう共同体や組織などにおいて、称して行った。普通、他領に追い払うのであるの自分の領地に宗教的迫害者のための居留地へ 時や播種時に施される基肥に対して使われるこ追放 から、追い払われた連中が入ってくる他領地支ルンフート ( 神の加護 ) を建設した。ルター派 とばで、追肥されるときの植物の生育期とそのその内部秩序や統制を維持・強化するために、 配の者にとって大きな迷惑である。八代将軍吉教会の枠内にとどまりながら兄弟盟約に基づく 目的によって、いろいろな呼び名がつけられて特定の者を放逐したり、資格の剥奪、活動の制 むね くきごえ キリスト教の精神的覚醒運動を開始し、さまざ 限を行ったりすること。追放には、大きく分け宗はその弊害を除くため、追放を制限したが、 いる。分げつ肥、中間追肥などは茎肥ともい かんせい い、分げつを促進し茎葉の生育をよくする目的て、共同体や組織体などの当該社会・団体の全これを廃止することはできなかった。寛政の改まな圧迫に耐えてイギリスやアメリカにも運動 さだのぶ で施されるもので、おもに窒素肥料が用いられ体の意志に基づくものと、当該社会・団体の権革の松平定信は、追放刑の者を領内に置くか人を広めた。メソジスト教派の成立には、彼の影 よせば てんぼう ほごえみごえ る。穂肥、実肥などは、生育の中・後期に穂や種力者や統制権者によるものとがある。前者に足寄場に入れてその弊害を防ごうとし、天保の響が大きい。詩才もあり、多数の賛美歌を残し ただくに 〈坂井栄八郎〉 は、ギリシアのオストラキスモス ( 陶片追放 ) 改革の水野忠邦は、追放された者を本国の寄場た。 実の充実のために施されるもので、窒素肥料ば に入れ、大名の命じた追放刑の者をその領分のツインマーマン Bernd と 0 一 s Zimmer ・ かりでなく、リン酸やカリ肥料などもいっしょや日本の村八分などの共同社会からの追放と、 mann ( 一九天ー七 0 ) ドイツの作曲家。ケルン に施されることがある。このほか、最終の追肥除名や粛清などの組織からの追放がある。後者寄場に入れる計画をたてたが、結局実現に至ら とめごえ 〈石井良助〉近郊に生まれる。ケルン大学とケルン音楽学校 のことを止肥とよぶ。果樹では春肥、夏肥、秋では、流刑などの刑罰としての追放、外国人のなかった 肥など、施す時期でよんだり、また果実の収穫強制退去などの国外追放、破門や罷免などによツイマーマン Krystian Zime 「 man ( 一九で学び、ストラビンスキーとミョーの作品から れいごえ ) ポーランドのピアノ奏者。生地の近影響を受け、一九四八年から五〇年にかけてダ 後に施すものを礼肥というなど、基肥と追肥のる行政組織や特定関係からの追放が区別され五六ー くのカトウィーツェ音楽大学に学ぶ。在学中のルムシュタット国際現代音楽夏期講習で十一一音 関係が明確でない場合もある。これら追肥の時る。終戦直後のわが国でなされた公職追放やレ ーシが、これである。↓粛清↓公職一九七五年ショパン国際コンクール第一位とな技法以降の新しい作曲技法を身につけた。歌 期や回数、施肥の割合、使われる肥料の種類な 〈五十嵐仁〉り、以来、多忙な演奏活動に入る。七八年 ( 昭曲、室内楽、管弦楽曲などさまざまな分野で数 どは、作物の種類、土の条件、気候、生育の状追放↓オストラキスモス ついほ , つけ . 、 和五三 ) 初来日。透明で潤いのある明るい美音多くの作品を残しているが、代表作はオペラ 犯罪者を一定地域外に 態や実際の施肥試験の結果に基づいて決められ追放刑 『兵士たち』 ( 一九夭 ~ 六四 ) で、ここでは五〇年代 〈小山雄生〉放逐する刑罰。中世および近世において行われの持ち主で、ショパンを主たるレバートリーに ている。 た。中世では、追放を追却ともよんだが、鎌倉しているが、モーツアルトやプラームス、近現から六〇年代の前衛音楽のあらゆるスタイルが ついふく東洋美術において、一対に 対幅 引用され、この「コラージュ」のオペラは、ア なっている書画の掛軸 ( 掛幅 ) のこと。書では幕府の制では、これに幕府営中の追放、鎌倉追代のポーランド音楽にも積極的に取り組んでい ルバン・ベルクの『ウォッェック』以来最大の 〈岩井宏之〉 左右幅が対句をなし、絵では画題が関連し、そ放、関東御分の郡郷の追放、住所地の追放などる。 くじかたおさだめがき 〈船山隆〉 こニ HM 千現代オペラと評価されている。 の構図も一対で掛けたときのことを考慮して案があった。江戸幕府の公事方御定書で定めたツイムリャンスク湖 ほうれき えどばらい もんぜんばらいところばらい つう江戸後期、ほば宝暦 ( 一七五一 ~ 六四 ) か 配されている。また落款を入れる位置も、右幅追放には、門前払、所払、江戸払、江戸十里 CK0e BonoxpaHmmue/Tsimlyanskoe VO- 通 かんせい ら寛政 ( 一天九 ~ 天 0 一 ) にかけての、江戸人の美 dohranilishche ソ連西部、ロシア共和国ロ は画面向かって右端、左幅は左端と、ほば決ま四方追放、軽追放、中追放および重追放があっ かみがた ぶぎようしょ きれ ストフ州とポルゴグラード州にまたがる人造的生活意識。上方の「粋」に通ずる語で、一般 た。門前払は奉行所の門前から追い放つもの っている。表装に使う裂も同じである。画題に で、多く無宿者について行われる。所払はその湖。ロシア語名は「ツイムリャンスク貯水池」の的には人情の機微に通ずるの意味であるが、時 より三幅対、四幅対などがあるが、仏画では一 六幅対や三〇幅対、ときに五〇幅対に及ぶもの者の居村または居町の立入りが禁ぜられる。江意。ドン川下流部にあり、ポルガ・ドン運河の代に限定されて、江戸では主として遊里に集中 せんじゅ して、客が遊女との愛情の応酬に際して、渋滞 板橋、千住、本所、深川、四谷大工事に伴って一九五二 ~ 五五年に完成、出現し さえある。三幅対に限り、中央の一幅が左右幅戸払は品川、 面積二七〇なく行動できることをいい、さらに転じて、遊 た。長さ二六〇キロ、最大幅三八キロ、 に比べて大きくなったり、裂も左右より高価な木戸の内から追い払う。江戸十里四方追放は日 〈橋原悟〉本橋から四方五里外に追い払うものであるが、〇平方キ。。貯水量二三・九立方キ。、平均水深里における社交上の教養・風俗のすべてに通ず ものを用いる場合がある。 ふださし おかまえ ノ′ /.. トル 一九五一年完成のツイムリャンスクる意をさす。それは宝暦ごろから、札差を中心 在方の者は居村も御構 ( 立入禁止 ) となる。軽 ついぶし平安時代の警察的官職。 追捕使 だいつう りよら・げ・のかみ 水力発電所は出力一六万キ。ワット。貯水池の水とするいわゆる十八大通によってリードされ、 わゆる令外官で、律令のなかに職掌上の規定を追放は、江戸十里四方・京大坂・東海道筋・日 ん ~ ・れ・い むさしやましろせつ により二万六〇〇〇平方キ。の土地を灌漑する。遊里に遊んだ武士・町人に受け継がれて、江戸 もたない。史料上の初見は九三二年 ( 承平二 ) 光・日光道中を、中追放は、武蔵・山城・摂 しゃれ いずみやまと の遊里小説洒落本を支える理念となっており、 沿岸にカラチ・ナ・ドヌー、ツイムリャンスク、 で、海賊の鎮圧を目的として設置された。古代津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・ あんえい するが しもつけ 日本の軍事・警察権は基本的には各国々を単位下野・日光道中・甲斐・駿河を、重追放は、武ポルゴドンスクの諸都市がある。〈須長博明〉安永 ( 一七七 = ~ 全 ) 期には通のなんたるかをいう とよおか しもうさひた あわかずさ さがみこうずけ ついやま兵庫県北部、豊岡市の集通談義の洒落本が続出しているが、これからも として発動されるから、海賊のような広範囲に蔵・相模・上野・下野・安房・上総・下総・常津居山 たじま まるやま わたって活動する集団は対象としにくく、した陸・山城・大和・摂津・和泉・肥前・東海道落。円山川河口左岸にあり、但馬海岸の船泊りわかるように、「粋」が創造的・人間的である のに対し、「通」は著しく観念的・規範的であ がって追捕使が創設されるところとなった。東筋・木曽路筋・甲斐・駿河を御構地とする。御として、また円山川高瀬舟の基地として栄え 〈神保五彌〉 海道・東山道といった広い地域が対象となった定書制定後三年を経た一七四五年 ( 延享二 ) た。現在は沖合底引網漁業の基地であり、イる。↓粋↓十八大通 に、幕府は、追放刑に処せられた日雇たちのう力、カレイ、カニなどを水揚げする。↓豊岡回神保五彌著『近世町人の美意識ーー粋と通を が、やがて各国ごとに任命されるようになり、 〈大槻守〉 めぐって』 ( 『講座日本文学の争点 4 』所収・ 国司制度と相まって軍事・警察行動に活躍しち、仕事のためにひそかに御構場所に住居して ( 市 ) 一九六六・明治書院 ) ▽中野三敏著『戯作研究』 いる者が少なくなく、それが発覚すると罪科が回安田清著『港村誌』 ( 一九六五・港公民館 ) た。任命されたのは主として現地の土豪で、地 かけじく はくだっ
ダンスをするタンチョウ タンチョウの親と卵 一本足で眠るタンチョウ 民俗 せんばづる 千羽鶴図。古来ツルは 霊鳥・鹽嶌とされ , 天 空を翔けるその優美な 姿は絵画のモチーフと なった。図は , 金地に 白い鶴と銀の鶴をあし らった暑苞。伝尾形光 琳筆江戸時代 つる ナベヅルの渡り マナヅルとナベヅルの混群 をあさるナベヅルの家族 ツル 908
あったといえる。この家元制度は一八世紀前期にほばできあ倉天心は欧米人に日本を理解させるための方便として茶道を授を根底にするものであった。聞き書きの茶書としては、利 きゅう やまのうえそうじき じよしんさい なんばうろく がったと考えられている。一八世紀なかば、表千家の如心斎取り上げ、『茶の本』 The Book Tea ( 和訳は一九二九年 ) 休の伝を聞き書きしたと伝える『山上宗二記』や『南方録』 てんねん そうしゅんおう けいちょうおたずねがき おりべのしよう 天然が中心になって考案されたという「七事式」も、こうしを著して「茶道とは日常生活の俗事のなかに見出されたる美をはじめ、『宗春翁茶道聞書』『慶長御尋書』『古田織部正 ちゃのゆこじ かげつ どの せきしゅうりゅうちんしんは きゅうぶんろく た茶の湯人口の増大を前提としていた。七事式とは花月、且しきものを崇拝することに基く一種の儀式」と述べている。 殿聞書』『石州流鎮信派聞書』『茶道旧聞録』『茶湯古事 ひふみかずちゃ ぎまわずみ だんちやわしげつしゅう 座、廻り炭、廻り花、茶かぶき、一 二三、員茶の七つの茶事 茶道は、喫茶という日常的な行為をある種の形式に仕立て談』『茶話指月集』などがある。また、茶会の台本である茶 ひ、まイ、 の作法をいうが、かって中世に盛行した闘茶が茶かぶきとし た生活芸術であり、もっとも典型的な生活文化である。換一言会記は、奈良の塗師松屋久政が一五三三年 ( 天文一 l) に書き て取り込まれているように、遊びの雰囲気のなかで茶に対すすれば、茶の湯には日常性と非日常性・虚構性とが共存し、始めた『松屋会記』をもって嚆矢とする。当時は、草庵茶を たけのじようおう る感覚を磨き、あわせて技量の向上を図った、大衆化時代のそのため時々の生活様式に規制され、絶えず変容する要素創めた珠光が没したあとで、武野紹鵐は三〇歳を超したば 茶のカリキュラムといってよい。当然のことながら茶人の批と、時代を超える抽象化された美的世界とがあるといってよ かりであり、その時期に茶会記が書き始められているのは驚 てんのうじゃ 判を受けたが、こうした茶事が家元自身の手で考案されてい 、。変化の度の激しい現代社会のなかで、外国人はもとより、 くべきことである。ついで四八年からは『天王寺屋会記』が るところに、江戸後期における大衆化時代の茶の湯の一面が これからの日本人に生活芸術としての茶の湯がどこまで受容始まる。さらに五四年には『今井宗久茶湯日記』、八六年 かわかみふはく そうたん 示されている。この七事式の制定に関与した川上不白が、七され伝承されるか、問題はこれからであろう。 〈村井康彦〉 ( 天正一四 ) には『宗湛日記』が書き留められるようになる。 事式を活用して大江戸の武士と町人に千家の茶を広めたのも これらを通常四大茶会記と称して、初期茶道時代の研究には 文献 うなずけよう。不白の茶は「江戸千家」とよばれている。 不可欠の文献となっている。江戸時代に入ると茶会記録も多 くちきり くげそうりよ 〔茶論の展開〕一四世紀中葉に茶の湯が成立して以来、江戸 茶道史を解明していくうえで、公家や僧侶の日記・語録の様化していき、『織部茶会記』『遠州会之留』『遠州ロ切帳』 しようかどう かたぎり 『松花堂茶会記』『片桐石州会之留』をはじめ、仙台伊達家四 後期に至るまでの間に、茶の湯論ともいうべきものもあらか類、または文学書や随筆に至るまで、茶道の文献・資料とし つなむら た出尽くした感がある。一つは、形式化した抹茶道に対するて取り上げなければならないものは多いが、ここでは一般的代綱村による一三〇〇余会の自会記『伊達綱村茶会記』、後 このえいえひろ せんちやどう 煎茶道からの批判である。煎茶は近世に入って伝えられ、文な意味での茶の書について記述しておく。茶書を広義に解釈西天皇の茶会記『後西院御茶湯之記』、近衛家熙の『槐記』 一いじよう ちやきよう ちやろく 人墨客の間に受容されていた。二つは、時代を反映して儒教すると、中国の『茶経』 ( 陸羽著 ) 、『茶録』 ( 蔡襄著 ) 、『大などをみることができる。一方、点前の書としては、奈良興 きそう かんせい せんちやすいき ちょうゆうしん じつぎよう しゅうけんちょうげんしゅう 的な立場からする茶の湯批判で、寛政の改革を推進した松平観茶論』 ( 徽宗皇帝著 ) 、『煎茶水記』 ( 張又新著 ) 、『茶具図福寺の僧実堯によって書かれた『習見聴諺集』に収めら さだのぶ ぜいたく しんあん イ ) かい 定信の茶論にみられるように、贅沢な道具茶に対する非難が賛』 ( 審安老人著 ) などをまずあげなければならない。 これれている「古伝書」 ( 一五六七 ) を初見とし、紹が堺の豪商池 ふまい そう ながそうさ ぶんるい だんちゃ 主である。これについては、松平不昧が、若い時分に書いた らの書は、唐代の団茶法や宋代になって行われるようになっ 永宗作に与えた『池永宗作への書』、春松斎真渓編述『分類 むだごと そうじんばく 文章 ( 『贅一 = ロ』 ) では厳しく道具茶を批判しながら、藩財政た抹茶法を解明していくうえで、不可欠の書である。また、草人本』、『茶具備討集』の記事を和歌に詠み込んだ『烏鼠 ていく。そして茶法の伝授書として最初に出版 の好転を機に近世最大の収集家になったことが思い合わされ単に題材を茶にとったにすぎない往来物である『喫茶往来』集』へと続い げんえ る。しかし不昧の特異性は、茶道具を研究の対象としたこと ( 玄恵法師筆 ) 、茶のみならず桑の煎法を下巻に含む『喫茶養されたのは、一六二六年 ( 寛永三 ) の『草人木』三巻であっ じゅうもっ ぶつにちあん で、実証主義的な研究の萌芽として注目されよう。三つは、生記』 ( 栄西著 ) 、あるいは寺院の什物目録である『仏日庵た。その後、『古織伝』「細川三斎茶湯之書』『利休茶湯書』 ようろく そうへん ペんもうしよう げんかん いいなおすけ ちゃのゆいちえしゅう くもっ れいうんいんきようかっちょう からもの 井伊直弼の茶書 ( 『茶湯一会集』 ) にみられるように、茶の 公物目録』や『霊雲院校割帳』、また唐物道具の目録や室や、山田宗偏による『茶道便蒙抄』『茶道要録』、遠藤元閑 おかざり ちゃのゆひょうりん ちゃのゆさんでんしゅう とうりゅうちゃのゆりゅうでん くんだいかんそうちょうき 礼の書というべき『君台観左右帳記』や『室町殿行幸御飾 による『茶湯評林』『茶之湯三伝集』『当流茶之湯流伝 湯のもっ精神性を強調した茶論である。ことに直弼の場合、 しゅう ここんちゃのゆたいぜん 記』『御飾記』なども、茶の書として欠くべからざるものと集』『古今茶湯大全』の出版へと続いていく。 茶法を正しく 「一期一会」に加えて「独座観念」が説かれており、ここに は、近世を通じて到達した茶の湯観の極致が示されている。 いえよう。これらはしかし、重要な茶道史料であるとして伝えることは茶の道に携わる者にとってもっとも望むもので 〔茶の湯と日本文化〕茶の湯は他の伝統芸能と同様、明治維も、狭義の茶書には含まれない。茶道そのものの内容を記述あろうが、出版という一般的な手法によらず、主張する茶法 を正しく伝授するために書かれたものとして、幕末の大老井 新で衰微するが、明治二〇年代に入ってから再生の道を歩する目的で著されたものではないからである。 のうあみ いなおすけ ちゃのゆいちえしゅう どうばうしゅう む。。フルジョアジーを中心とする近代数奇者たちの果たした 東山時代の同朋衆すなわち能阿弥・芸阿弥・相阿弥たち伊直弼の『茶湯一会集』などもある。 じゅ - 一う しようん そうあん 役割が大きい。しかし江戸時代までは茶道人口のほとんどをによる唐物荘厳の書院茶の時代が過ぎて、珠光による草庵 てまえ 茶事 構成していた男性にかわり、新たな担い手になったのは女性茶が一般化してくると、にわかに、茶事の台本となる点前や たちであった。茶の湯がもっ修行的な一面が近代の女子教育会記を書き留めておく傾向が著しくなった。茶会記を書き留〔初期の茶会と作法〕茶会といわれるものの原初的形態は古 もろもりき に取り入れられた結果であるが、女性の進出は茶の湯の世界めるようになると、今度はおのおのの道具の出処や分類、果 、鎌倉時代末期の『八坂神社記録』や『師守記』『喫茶往 とうちゃ 、フを大きくかえた。また第二次世界大戦後は、国際化の進むなては茶器を目利きして新しい発見をするための手引書が望ま来』などに散見する闘茶の会をあげなければならない。 きようぜん ちゃぐびとうしゅう とかで茶の湯が日本文化の一つとして海外に紹介され、かってれるようになった。その第一が『茶具備討集』 ( 一五五四成立 ) しながら当時の茶会は、饗膳と茶とはそれそれ異なる場所 ないほどの広がりを示しているが、生活様式の異なる外国人であり、『茶器名物集』『仙茶集』などであった。それは、茶で行われていて、闘茶などをする遊興のための催しであるか ちに茶の湯の真髄が理解されるのは容易ではないであろう。岡席における数奇雑談の場の拡大と、聞き書きによる秘事の伝 ら、今日的な意味での「茶会」とよぶには値しない。空間構 3 えい」い こおりでん
楮遂良ちょすいりよう ( 五九六ー六五 0 中国、カプト、カラスウリなどがある。貯蔵根の形成西側の大手町・丸の内地区は会社、銀行、官公 せつこう こうしゅうせんとう 唐代初期の政治家、書家。浙江省杭州、銭塘過程は一様ではなく、根だけから形成されるも庁が集まり、高層ビル街を形成、中央郵便局、 あぎなとうぜんぐせいなんおうようじゅん の人。字は登善。虞世南、欧陽詢とともに初の、軸と根とからなるもの、さらに胚軸と根都庁などがある。その南の有楽町駅付近は娯楽 に茎も加わるものがある。肥大の仕方は、ニン街で、わが国最初の洋式公園の日比谷公園に接 唐三大家の一人。広く文章学問に通じて唐の一一 かすみ たいそう 土 代皇帝太宗に重んじられ、その下命を受けて東ジンのように通常の維管束形成層の活動によるする。霞が関は外務省ほか政府機関が集中、永 物 しんおうぎし 晋の王羲之の筆跡の鑑定や収集整理に携わっ場合が多く、木部や篩部はほとんど柔組織で占田町は国会議事堂を中心とする立法機関の地で かんぎたいふ ら た。やがて、皇帝に近侍する諫議大夫 ( わが国められる。しかし、サトウダイコン、サツマイあり、江戸の三大祭りで知られる日枝神社があ じようち きお や 子 の参議 ) 、そして宮廷の文書・詔勅をつかさどモ、カプ、ダイコンなどでは特殊な形成層が現る。紀尾井町には上智大学や大ホテルがあり、 ちゅうしょ ちゅうしよれい なかっかさきよう はやぶさ ^ 西野栄正〉隼町に最高裁判所、国立劇場がある。江戸城 市 る中書省の長官たる中書令 ( 中務卿 ) に進れ、いわゆる異常肥大を行う。 山 ちよそうそしき植物の体内で各種は一八六九年 ( 明治一一 ) 東京遷都により皇居とな んだ。太宗の崩御に際しては後事を託されるほ貯蔵組織 がいえん よえん ちょうこう ったが、そのうち皇居外苑、東御苑、北の丸公 どの寵幸を得たという。三代高宗のもとではの栄養物質を蓄積する組織をいう。柔組織の一 かなんこう 河南公 ( 河南省の知事 ) に封ぜられ、さらに 種で、細胞は一般に大きく、貯蔵物質を多量に園 ( 日本武道館、科学技術館、国立近代美術館 りんけい しようしようばくや 尚書右僕射 ( 右大臣 ) に至った。しかし、高含有する。塊茎 ( ジャガイモ ) 、鱗茎 ( タマネがある ) は現在開放され、都心に貴重な緑地を そくてんぶこう じゅよ 女図で 代ま 宗が武氏 ( 則天武后 ) を皇后として入輿するこギ ) 、球茎 ( コンニヤク ) 、塊根 ( サツマイモ ) 、提供している。西の九段に靖国神社、三番町に ちどりふち ーえん ↓・い冖」ゅ・つ とをいさめていれられず、愛州 ( 現ベトナム北 乳 ( ィネ ) 、胚の子葉 ( ダイズ ) などは発達千鳥ケ淵戦没者苑がある。北東の神田地区は おっゅう 乙由らにも認められて、当時としては珍しい女部地方 ) に左遷され、この地で没した。遺墨と した貯蔵組織からなり、栄養物質は発芽時に使江戸時代の伝統を受け継ぎ、外神田には神田神 あきはばら かいしょ もうまうしひ がんとうしようきようじよひ ていはっ 社 ( 神田明神 ) があり、秋葉原地区には家庭電 して楷書の「孟法師碑」「雁塔聖教序碑」「伊われる。貯蔵物質は主としてデンプンだが、こ 流俳人として名声をほしいままにした。剃髪は じんばうちょう けつぶつがんひ こじゅのふ 五一歳のころで、以後素園と号している。作風闕仏龕碑」、行書の「枯樹賦」などが知られ、 のほか糖類、脂肪、タンパク質、イヌリン、マ器製品の店が多い。神保町の書店街には、古 〈相馬研吾〉書店が軒を並べる。お茶ノ水地区は大学の町で は概して通俗的であり、とくに気のきいた理知その拓本は、今日も漢字手習いの手本として人ンナンなどを含むこともある。 の働きを含んだ風調が、当時世の人々に喜ばれ気が高い。図書 〈名児耶明〉貯蔵デンプンちよそうーー植物の種子、知られ、明治大学、日本大学やニコライ堂があ る。都心にあって夜間人口の減少が著しい。人 根、地下茎などに貯蔵されているデンプンをい た。句集に『千代尼句集』「松の声』。墓所は不回中田勇次郎編『書道芸術 3 緒遂良はか』 〈沢田清〉 〈堀切実〉 明である。 ( 一九七一一・中央公論社 ) 、次代の植物が発育するための糧となる。貯ロ五万〇四九三。 つるべ 朝顔に釣瓶とられてもらひ水 貯蔵穴ちよそうけっ食糧などを地中に蓄え蔵デンプンでは、デンプン分子が集まってデン午代田区史』全三巻 ( 一九六 0 ・千代田区 ) しんじゅく 回中本恕堂編『加賀の千代全集』全一巻 ( 一九る穴蔵。古代には集団生活を維持するうえに重プン粒とよばれる粒状構造をとる。食品として囮一万分の一地形図「日本橋」「新宿」 おう 夭・同書刊行会 ) ▽同著『加賀千代研究』要な役割を果たした。縄文時代の前・中期、東摂取するデンプン、あるいは工業的に製造され千代田 ( 町 ) ちょだ ( まち ) 群馬県南東部、邑 ながえ ( 一九七一一・北国出版社 ) 北から関東地方の遺跡では数十ないし数百の群るデンプン粒は、すべて貯蔵デンプンである。楽郡にある町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 長柄、 とみながえいらく ↓デンプン 〈村松喬〉富永、永楽の三村が合併改称。八二年町制施 ~ 二のロが ちょすいそしき柔組織の一種で、集した穴がよくみつかる。深さ一 貯水組織 とわ へいたん あか ふくろじようどこう へいたん 水分を蓄えている組織をいう。サポテン、アロ狭く底が平坦な穴で袋状土壙などとよばれる。千代田 ( 区 ) ちょだ東京都区部の中央にあ行。利根川中流北側の平坦地で、中心集落の赤 こうじまちかんだ 工、 リュウゼッランなど乾燥地に生える多肉植 ドングリ、トチなど堅果類を共同の食糧としてる区。一九四七年 ( 昭和二 (l) 麹町、神田の岩は標高二五、江戸時代から江戸に通する河 つきのきぎわ どうかん 二区が合併して千代田区となる。太田道灌が江岸 ( 河港 ) として活況を呈したが、一九〇七年 物によく発達している。貯水組織の細胞壁は薄備蓄したらしい。栃木県槻沢遺跡では大量の いわいだ く、通常、縦に長い大形の生きた細胞の列から土器や獣骨、炭化物片の出土例があり、廃絶後戸城築城 ( 一四五七 ) のとき、千代田・宝田・祝田 ( 明治四〇 ) 東武鉄道開通によりさびれ、現在 ざんし なり、葉緑体を欠き、大きな液胞中に多量の水の穴には食糧残滓などを投棄したことがわかの三村があったから、また、江戸城の別名千代は対岸への渡し船に名残をとどめている。稲作 やまのて やよい と庭木栽培が生産の中心である。北部に更新世 分と粘液を含んでいる。ムラサキオモトやペべる。類例は弥生時代の前・中期に北九州から関田城が地名の由来という。西の大半は山手台地 ロミア ( スナゴショウ ) などの比較的厚い葉で 門地方でみられる。米など食糧を集落で共同管で、東部の沖積低地との境のは、神田山 ( 洪積世 ) 河畔砂止がみえる。人口一万一三七 たてあな するがだい もみじ 〈村木定雄〉 は、貯水組織は表皮下の葉肉内に存在する一な理したもの。古墳時代には竪穴住居内に貯蔵穴 ( 駿河台 ) 、紅葉山 ( 皇居 ) とよばれた。丸の内七。 めめま ひびや かまど 〈相馬研吾〉をつくった。東国では竈と結び付いた「台所セあたりはかって日比谷入り江とよばれた浅海で鷓一万五千分の一地形図「妻沼」 いし数列の細胞からなる。 ちょすいち reservoir, storage res- ット」として一時期盛行した。〈海老原郁雄〉あり、江戸初期に埋め立てられた地で、徳川家千代田 ( 町 ) ちょだ ( ちょう ) 広島県中西部、 貯水池 やまがた ちよそうこん肥大して、柔組織中に康が一五九〇年 ( 天正一八 ) 江戸に入府してか山県郡の町。一九五四年 ( 昭和二九 ) 八重、壬 ervoir 河川の流況を調整するために河川水を貯蔵根 はんじみなみがたかわさこ 生の二町と本地、南方、川迫の三村が合併し ら発展した。区域はほば江戸城を中心に内城・ 貯留する池。河川の流量は自然のままでは変動養分を多量に貯蔵した根をいう。養分は糖質が えの きび 、・れん ~ い するので、河川水を灌漑、発電、水道、工業な主で、たいていはデンプンがデンプン粒として丸の内・日比谷地区は御三家・親藩・譜代大て成立。江川の上流をなす可愛川流域、吉備高 ばんちょう どの用水として利用するときは、豊水期には必蓄えられる。ダリアやキキョウではイヌリンを名、駿河台・番町・麹町地区は旗本・御家原上の小盆地にある。郡東部の中心で、国道二 要な量を十分利用できるが、渇水期には水不足含む。貯蔵根の形はさまざまで、サツマイモやの各武家屋敷地となり、神田は町屋として繁栄六一号、四三三号、中国自動車道が通じ、千代 そとばり 田インターチェンジがある。広島市に近く、交 を生することがある。このような場合には河Ⅱ ダリアのように紡錘形 ( いわゆるいも状 ) のものした。東側と南側の外濠は第二次世界大戦後、 通も便利なため企業の進出が多くなってきた。 ほかの部分は内濠とともに にダムを築造して貯水池をつくり、豊水期や洪は、とくに塊根という。ダイコン、ニンジン、 埋め立てられたが、 でんがく えんすい オ水時に水をため、渇水期に放流して水利用の安ゴボウなどは円錐形、カ。フやサトウダイコンな風致地区として残っている。一九一四年 ( 大正古来、田楽、はやし田、花田植の行事があり、 よ定性を高め、河川水の有効利用を図ることが行どは球形となる。このはか、貯蔵根を形成する三 ) 東京駅が開設され、東京および日本の中心男性がを笠をかぶって踊る「本地の花笠踊」は かわ 〈鮏川登〉植物としてはヤマゴボウ、オシロイバナ、トリ 駅として各種の交通機関が集中している。その国の選択無形民俗文化財になっている。また川 ちわれる。 ごさんけ ふだい 727
ちょうし ちょうじそめチョウジはインドネ短い柄がある。 一〇月、葉腋に無柄の小さ の出身者であり、関西のしようゆ醸造技術を銚一帯に及ぶ富強政権となったが、富におごり、 丁字染め しゅ しかん ナンキン がくへん な黄色花を開く。萼片は四枚、卵形で宿存し、 子に持ち込んだといってよかろう。銚子醤油仲政治が弛緩した。当時南京を本拠としていた朱シアのモルッカ諸島原産の熱帯常緑樹で、つば げんしようみん 間は一七八〇年 ( 安永九 ) 一八人、八五年 ( 天元璋 ( 明の太祖 ) との抗争に敗れ、六七年明みを乾燥したものが香料として古くから用いら花弁も同数でごく小さい。雄しべは四本。子房 は下位で、基部に小包葉が二枚ある。蒴果は線 〈谷口規矩雄〉れ、花梗からはちょうじ油が採取される。わが 明五 ) 九人、一八二一年 ( 文政四 ) 二〇人、四軍に捕らえられて自殺した。 〇年 ( 天保一一 ) 一四人と年代の推移によりか チョウジソウ「丁子草・丁字草〕ミ s 。・国では、平安時代に中国から輸入されたもの状円柱形。種子は海綿質の果皮の一部に包ま ・一くだか れ、紡錘状で長さ〇・九、リ、褐色の縦条があ が、香料または薬用として珍重された。 なりの変動がみられる。一方、銚子の醸造石高ミきき (Thunb. ) Roem. et Schult. せんじゅう 丁字染めは、その煎汁を用いて染めた茶色る。水田や湿地に多く生え、本州から沖縄、お キョウチクトウ科の多年草。茎は直立し、高さ をみると、一七五三年五〇七三石余、五四年六 ゅうそく かた ひしん 七三三石、八〇年八九四九石、一 、、八年 ( 明四〇 ~ 八〇。葉は披針形で普通は互生する系の染め色で、香染めともいわれ、有職では帷よび中国、東南アジアに分布。チョウジタデの びらひとえ 、、 : 対生するものもある。初夏、茎頂に十数個子や単、また袈裟、扇の地紙なども染めたよう名は、花がチョウジに似て、全体がタデを思わ 治二一 ) 一万七六〇〇石となっている。 くろみ たかっき 近世初期の江一尸市場では圧倒的に関西しょ , つの青紫色花を集散状につける。花は高坏状で細である。鉄媒染の加減によって、濃香、黒味香せるのでいう。タゴボウの名は、根の形がゴポ 〈小林純子〉 ゆが中心であり、銚子・野田のしようゆが本格 い筒の先が五裂し、径約一・三。果実は円柱など濃淡を染め分けることができるが、元来ウに似ることによると思われる。 めんちぢみ てん ふはく ほうれき ちょうしちちみ綿縮の一つ。もと天 的に江戸市場に進出するのは宝暦年間 ( 一七五一 ~ 状の袋果で多くは角状に二本に分かれ、長さ約は、香りを布帛に移し染めるということで、媒銚子縮 明年間 ( 一大一 ~ 瓮 ) に織り出された茨城県鹿島 六四 ) からである。一 五垰一。本州、九州のやや湿った草地に生え、朝染を行わずに用いたものであろう。江戸時代に 八二一年 ( 文政四 ) には、 はさき はイ一ぎしま たる 江戸市場におけるしようゆ一二五万樽のうち、鮮半島、中国に分布する。名は、花形が香料植は材料の関係から、丁字染めといっても、楊梅郡波崎町の波崎縞で、一漁婦が考案したが、銚 かわ 一二三万樽が関東しようゆであり、関西しよう物のチョウジに似ることによる。〈山崎敬〉皮などを用いて染めたようである。〈山辺知行〉子の海上商人の手によって全国に広く販売され ちょうしたいりようぶし千葉県たために、幕末には銚子縮と名づけられるよう ちょうしそうそく長男子を最適者銚子大漁節 ゅはわずか二万樽にすぎなかった。江戸市場は長子相続 ね試し になった。綿縮は、綿糸に強撚糸をかけたもの 完全に関東しようゆにとってかわられた。関東の相続人とする相続をいう。一八九八年 ( 明治銚子市の民謡。同地方の漁民がイワシの大漁の うた しようゆは早くから市場競争に勝っため品質の 三一 ) に施行された明治民法は、家督相続につおりに歌ってきた祝い唄で、その源流は、江一尸を製織したもので、日常着として汗をはじくの に適当な生地として使用された。明治に入ると、 向上と廉価に努めた。それは単に輸送上の有利 き長男子優先相続を採用した。これは江戸時代時代後期、読み売りや心中節売りの人々が歌っ ていた二つとせ』とか『心中節』とよばれる今度は銚子において近代紡績糸を使用して盛ん さのみにとどまらす、品質の面においても関東の武家社会の相続法を承継したものであって、 になり、一時は関東地方に普及をみるが、他の しようゆが江戸における関西しようゆを完全に農民の相続法とは一致しないものもあった。明 ものである。ところが一八六四年 ( 元治一 ) 銚 みぞう 駆逐したのである。 〈川村優〉治民法の家督相続は、家長である戸主の地位を子が未曽有のイワシの大漁でにぎわったので、綿織物に押されて衰退し、第二次世界大戦後に 〈角山幸洋〉 居英次著『銚子・野田の醤油醸造』 ( 『日本承継する制度であって、身分相続に祭祀相続をその記念に「大漁唄」をつくることになり、網また復活をみることとなった。 あじろ ー力し ちょうしつ humidity control 空気 産業史大系 5 関東編』所収・一九六 0 ・東京大加味した形をとっていたが、戸主は家産の所有元の網代久三郎、松本旭江、俳諧師の石毛利兵調湿 ときわ 衛が相談の結果、一〇首の歌詞をつくり、常磐中の湿度を調整する操作であり、多くの場合、 学出版会 ) ▽川村優他著『千葉県の歴史』者であったから、その本質は財産相続であった ゅっちょう ( 一九七一・山川出版社 ) ▽常世田玲子著『醤油といってよい。家督相続人は長幼、男女、嫡非津の師匠遊蝶が『一つとせ』を母体に節付け温度の調節も伴うので空気調和ともよばれてい きよもと 屋ばなし・海人がたり』 ( 一九含・崙書房 ) によって法定され順位づけられていたが、法定をした。そして清一兀の師匠である川安楼のきんる。目的に応じて増湿あるいは減湿が行われる あんばばやし ちょうしせい ( 一三一一一 が、次のような方法がとられている。 ー六七 ) 中国、元また遺言による指定の家督相続人のない場合に子が振をつけ、さらに前奏に「阿波囃子」、後 張士誠 ・一うそ 〔増湿 humidification 〕①水蒸気を空気中に 末群雄の一人。泰州 ( 江蘇省泰県 ) の製塩場のは、被相続人の父や母または親族会が選定する奏に「早囃子」を加えてまとまったところで、 一つ駒場に籍を置く塩の仲買人の出身。一三ものとされていた。↓家督相続 ^ 石川稔〉 川口明神へ奉納された。その後、銚子市松岸の直接混入させる。水と接触させ空気中へ蒸発 えんてい おいらん させる。これには、空気を加熱して常温の水と 五三年、塩場管理の官吏や豪戸と、塩丁との間 〔世界〕長子相続は、実際には、継承される権開新楼が花魁の総踊りにこの唄を用いたため、 沿岸部一円に広まっていった。 〈竹内勉〉接触させる方法と、温水と接触させる方法とが に争いが起こったのに乗じ、塩丁を集めて乱を利や財の種類に応じて、他の相続形式と併存し こうゆ - っ 起こし、泰州ついで高郵を占領、これによっててみられるほうがむしろ多い。長子が相続するチョウジタデ〔丁子蓼・丁字蓼〕 L ・ある。 〔減湿 dehumidification 〕①吸湿剤による吸 「誠王」と称した。のち一時、元朝に下ったが、 のは首長位などの位階や祭祀権などの特定の権を ilob ぎ s Maxim. アカバナ科の一 りよう よ - っすこう そしゅう 五六年には揚子江デルタ地帯の中心蘇州 ( 江蘇利に限られ、土地や財産は子供や親族間で分割年草。タゴボウ ( 田牛蒡 ) ともいう。茎は稜が着・吸収。これにはアルミナゲルやシリカゲル 省 ) を占領し、ここに本拠を構えて「呉王」を相続されるといった社会も、アフリカをはじめあって直立し、分枝して高さ三〇 ~ 七〇、紅などの固体吸湿剤による吸着と、濃硫酸や塩化 ひしん リチウムなどの液体吸湿剤による吸収がある。 自称した。 , 彼の勢力は一時、江蘇省から浙江省として広く知られている。また、男子優先の長色を帯びる。葉は互生し、披針形で柔らかく、 男子相続が普通であるが、性別を問わず第一子 露点以下の冷水または冷却面と接触させる。 ③圧縮して単位質量当りの水分を減少させる。 地 調湿操作は通常、大気圧下の空気中の水蒸気 の を対象にすることがほとんどである。しかし、 化学工場などでは水蒸気のかわりに有機溶媒蒸 田る ~ 水れ気を対象とすることも少なくなく、また操作圧 ら 力も大気圧下とは限られていない デみ 〔調湿装置〕空気を送る送風部、加熱または冷 ウ普却を行う温度調節部、および空気と水または吸 7 湿剤とを接触させる増 ( 減 ) 湿部とから構成さ 6 せつこう つの ようえき さくか
もろて 緑直し く片手で握る寸法であり、それ以後双手で握る う数は十三仏などもあり仏教では聖数とされて 常ほ熟 のほ いるが、それと関係があるかどうかわからな もう・一 っ寸法とな 0 た。奈良、平安時代のものは、一部 科は色 には刀身と柄を共造りにした例もあるが、多く い。ただ興味のあるのは、海外の蒙古 ( モンゴ ッ幹褐 さめかわ マ。る淡果 ル ) でオボといってやはり一三の塚を設けてい は刀身の茎を木で覆い、鮫皮を着たものにな ガ木す球 る。なかには金銅の薄板を張ったもの、革や布ることである。七人塚についても落武者を葬っ を着せて漆を塗ったもの、錦を着せたものもあたなどの伝説が伝えられている。 たちうちがたな 塚には上述のように伝説の付随しているもの る。桃山時代までの太刀、打刀の柄は、木に が多いが、行政・経済など実際上の必要から築 鮫皮を着せて黒漆で塗り、糸または革で巻き、 いち かぶとがねふちかなもの 兜金や縁金物を施すのが基本であった。江戸いたものがある。その代表的なものに境塚、一 ′、にギャかい ひし 時代には装飾性が重視され、柄巻も平巻、菱里塚がある。前者は昔の国境に築かれた。信 ひだ 川 ( 長野県 ) と飛騨 ( 岐阜県 ) との山中の境な 巻、片手巻、つまみ巻、捻り巻などくふうがな され、色も黒、白、紫などの単色のほか数色のどに林産物採取の争いの起こらないよう境塚を ふちがしらめめき 設け、そこに境の神を配る例もあった。後者は 組合せも行われ、縁頭や目貫などにも凝った あづち 細工が施された。西洋の剣には双手柄は特殊な街道交通の便を図ったもので、安土・桃山時代 から江戸時代に至って完備された。東海道では もの以外にはなく、ほとんどすべて片手柄で、 して出張し、遠国役人の勤務ぶりを検分した。 銅または金銀の撚り線で巻いたもの、金属の柄江戸日本橋を起点として一里ごとに塚を築き、産、イチゴ、野菜、シイタケ、コンニヤクなど ぞうがん このほか、大名の改易や転封の際に出張し、城 に金銀を象眼したもの、さらに宝石を散らしたその上に榎などを植えて目印とした。↓十三塚の生産も多い。人口一万三八三五。〈村上雅康〉 しも ↓七人塚↓一里塚 〈大藤時彦〉囮二万五千分の一地形図「壬生」「小金井」「下の受渡しなどに立ち会い、また江戸市中火災の ものなどもある。 〈小笠原信夫〉 つけおおがき 野大柿」「栃木」 ときは、火勢を見届けて報告し、あるいは大名 塚つか土を高く盛り上げたものをいうが、回柳田国男・堀一郎著『十三塚考』 ( 一九哭・三 じよう 省堂 ) 石をもって築いた石塚もある。わが国にはいろ 栂池一咼原つがいけこうげん長野県北西部、火消を指揮し、定火消の火事場の働きを監察し いろな目的でつくられた塚があるが、人が足をッカ〔栂〕 Ts ミ s ミ Carr. マ白馬岳東麓に展開する高原。親ノ原を中心として上申した。諸大名の参府・帰国の際には上使 おめ なども勤めた。ちなみに、大奥女中のうち御目 踏み入れない聖地の標識としたものが多い。古ッ科の常緑針葉樹。トガともいう。大きいものた標高八〇〇前後の高原で、昭和三〇年代ま おたり みえ みだいどころ 代人が残した貝殻、石器、土器、人骨など考古は高さ四〇、径一・五に達する。樹皮は赤では地元小谷村の集落の共有地で、牧場や森林見以下の者の役職中に御使番があり、御台所 地、屋根葺き用のカヤ場などがあった。四〇年 ( 将軍正室 ) や上級の女中の書簡や進物などを 学上の資料である貝塚のようなものもあるが、褐色または灰褐色で堅くて厚く、深く縦裂し、 おひろしき りんべん 〈北原章男〉 多くは歴史時代に入ってつくられたものが多不規則な鱗片となってはげる。一年生枝は細代になってスキー場が開設され、これに伴い民御広敷役人に受け渡しした。 に宿、ペンションなどが多くなった。高原上部 、黄褐色で毛はなく光沢がある。葉は二列 く、それそれ伝説を伴っている。塚にはいろい にツカカレハ「栂枯葉蛾〕 De こきミ s りんし たんば ~ 一一一は高層湿原の神の田圃、栂池自然園があり、遊 s ~ 、、を s 昆虫綱鱗翅目カレハガ科に属する ろの名称がついており、古墳関係のものでは、並び、線形で長さ〇・七 ~ 二・五、幅二 いといがわ 、先はヘこむ。雌雄同株。四月ころ開花す歩道がある。また親ノ原には近世糸魚川から松ガ。はねの開張は雄六〇 ~ 七五ミリ、雌は八〇 ~ その形状から丸塚、双子塚、車塚などがある。 - 一うしん 信仰関係のものでは経塚、法華塚、庚申塚、榾る。雄花は枝端に一個ずつつき、長卵形で黄本方面へ塩を運んだ塩の道 ( 千風街道 ) が通り、九〇ミリ。色彩は変異性に富み、黒褐色から赤褐 だいにち 色。雌花は小枝の端に一個すつつき、長卵形で周辺には石仏群や牛方宿が残っている。国鉄大色。前翅には黒色の横線が二本あり、中室端に 荷塚、大日塚などがある。経塚は納経塚ともい 、経文を書写して経筒に入れて納めたもので紫色。球果は急に湾曲した果柄の先に下向きに糸線白馬駅からバスの便がある。〈小林寛義〉白紋をもつ。多くの場合、外横線の外側に赤褐 からふと だえん 囮五万分の一地形図「白馬岳」 色帯がある。日本全土のほか、樺太 ( サハ ある。法華塚以下はそれぞれ神仏の祭地としてつき、楕円状卵形で長さ二 ~ つかいやく ぎようにん つかいばん使役ともいう。江戸幕府ン ) からシベリアに分布する。年一回夏に成虫 築いた塚である。ほかに行人塚というのがあ五、一〇月ころ淡褐色に熟す。種子は倒卵状使番 とよとみ ばんがた ; 当ヒし、よく灯火に飛来する。幼虫はモミ、 および諸藩番方の職名。織田・豊臣両氏の職名カ月イ る。行者が生きながら土中に埋められて往生し円形で長い翼がある。海抜一〇くらいから一 にゆうじよう ッガ、トウヒ、カラマツ、ヒマラヤスギなど多 たという。入定塚というのも同様である。 八〇〇の尾根または尾根に接する斜面などに中にもみられ、本来は戦陣にあって伝令や巡視 ぎつね くの針葉樹に寄生する。幼虫は体長七〇いに達 民間信仰による塚に狐塚というのが各地にあ群生し、福島県以西の本州から九州、および韓を任務とし、武功第一の者の役柄であった。幕 はんもん うつりよう る。今日みられる狐塚は多く田んばの近くにあ国の鬱陵島に分布する。材は紅色を帯びた淡府では、一六一七年 ( 元和三 ) 定役となり、員するケムシで、体の色彩斑紋は樹皮に似てい まっ り、これは田の神の使いとされている狐を祀っ褐色で木目はまっすぐであるため建築、器具、数は二五人あるいは二八人であったが、その後る。通常の毛のほか毒針毛をもつので、毛が皮 一一膚に刺さると炎症をおこす。晩秋、若齢幼虫は たものと思われる。狐については吉凶を知らせ土木、船舶、車両、楽器などに利用する。また増加し、幕末には五〇人を数え、さらに一一 〈林弥栄〉人に及んだ。一 八六六年 ( 慶応一 l) このうち五樹幹を降りて根際などで越冬する。春になると 庭園樹にもする。 てくれたなどの伝説があり、狐霊を祀ったとい きんじなみよりあい う狐塚もある。塚は単独に築かれているのが普都賀 ( 町 ) つが ( まち ) 栃本県南部、下都賀郡六人が御役御免、勤仕並寄合となった。若年寄ふたたび摂食し、初夏に老熟して、繭をつくっ 〈井上寛〉 にある町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 赤津、家中の支配に属し、役高は千石、布衣の格、菊間にて蛹化する。 通だが、多くの塚を並置したものもある。その じゅうさん しちにん ( 一九哭 ) 劇作家、演出 代表的なものに十三塚、七人塚がある。十三 の二村が合併して都賀村と改称。六三年町制施詰めた。平時は、将軍の代替りごとに巡見使のつかこうへし いい・つ裕 行。東武鉄道日光線が通じ、国道一一九三号が町一員として出張し、大名領国の政治の良否を視家、小説家。本名金原峰雄。 . 福岡県飯塚市生ま 塚についてはまだ確定的なことはわからない おもい の西部を南北に通じる。思川沿岸の低地が北か察し、あるいは幼少の主君を擁する大藩に風目れ。慶応義塾大学文学部哲学科中退。大学時代 が、武将と部下の一三人を供養したものとい かっせんば に学生劇団に参加して演劇活動を始め、自作を う。一三の塚が並列してあり、中央の一つの大ら南へ開けている。合戦場は江戸時代日光例幣付の一員として赴任し、国政の後見監察にあた し あたみ すんぶ 使街道の宿駅として栄えた。米、麦中心から畜り、また二条・大坂・駿府・甲府などに目付と相次いで上演。『熱海殺人事件』 ( 一九七三。岸田戯 きい塚が武将のものといわれている。一三とい なかご ふたご まっナ えのき 」かい いえなか ーし , っ・つま・ つ レ」・つっ′、 794
ちょんが すの新興商人層が激しく対立し、内政、外交をめぐ 〈川越敬三〉 4 展に寄与した。 ひきふだ って争った。三年間続いた対教皇庁戦が敗北に 用た ちらし一枚ものの小型印刷広告。引札、び 7 らともいう。英語の bill は公文書についてい いに、を染終わ 0 た一 = 一七八年七月、一部の都市貴族と結 ほうき んだチョンピが蜂起し、市庁舎を包囲して、代る印章を意味する中世ラテン語の bulla に由 茎赤 表者ミケーレ・ディ・ランド MicheIe di Lan ・来し、広告を意味するようになったのは一四七 用 茎理 do ( 一三四三こ ー一四 0 一 ) を中心に権力を掌握した。 〇年代という。世界に知られる手書きの最初の 花下料 〕地圧彼らは独自のアルテをつくり、恒常的に市政にびらはローマ時代の本屋の店先に、また最初の 上 参加しようとしたが、商人、手工業者の反発を 印刷びらは、イギリスのカクストンの『サルズ ギ大段 招き一か月で敗退した。 〈清水廣一郎〉 ーのパイ』 ( 一四七七 ) という宗教書の広告で ロ肥上 ョ「。チョンべ M0ise ・ Kapenda Tsombe ( 一九あると伝えられている。日本では宝永 ( 一七品 ~ チ〔る 一九ー六九 ) ツオンべとも表記する。ザイール ( 旧二 ) ごろに始まって文化・文政 ( 天 0 四 ~ 三 0 ) 期 せいしん するチーロンイに基づくという。チョロギの根チョンジン 0 清津 コンゴ・レオポルドビル ) の政治家。一九一九から盛んに出回り、江戸では引札、大坂ではち 茎は節が多くて長く、ちょっとミミズを思わせチョンダラー沖縄の芸能。本土からの門 年一一月一〇日カタンガ ( 現シャパ ) 州の富裕らしで通っていた。店開きなどで贈るおめでた そうせきさん はるこま えびら る。中国名の草石蚕もそれをカイコに見立てた 付芸の流れをくみ、万歳や春駒を組み合わせた な事業家の子に生まれ、ルンダ族の族長の女婿 いものを江戸では「絵片」といった。主として かんろし 〈湯浅浩史〉 名。別名の甘露子は味による。 もので、沖縄本島を中心に鹿児島県徳之島あた となって、部族内での地位をいっそう強化した。 引札は配る広告、びらは賺る広生ロとい、つように ちょんがれ〔〉ちよばくれ りまで分布する。チョンダラー ( 京太郎 ) とは中学卒業後一時事業家として活動したが、やが区別していた。 ) 大韓京都からやってきた太郎の意。近世初期、美して政治家に転身、五八年にコナカ党 ( カタンガ 鄭一泉和チョンキョンファ ( 一九哭 ちらしあるいは引札は、初め「安売り札回 民国の女流バイオリン奏者。ソウル生まれ。一 い妻を領主に奪われ息子とともに京を追われ沖部族集団 ) の党首となった。六〇年コンゴの独 し」といって安値で売る宣伝のために用いられ 二歳でアメリカに渡り、ジュリアード音楽学校縄に流れ着いた、「絵姿女房」に似た伝説を背立とともにカタンガ州首相となり、コンゴ動乱 たが、のちには開店披露や売り出しのために、 りゅうきゅう ばつばっ で名教師ガラミアンに師事。一九六七年レーベ負った京太郎の一行が、琉球王から、自由に勃発直後の同年七月カタンガ州の分離独立を宣市街の辻々、湯屋、髪結い床、あるいは神社・ ちょうふ ントリット記念コンクールで同門のズーカーマ喜捨を得て仏教を広めてよいという保証を得た一一一口した。六三年一月国連軍によってカタンガが 仏閣、地蔵、道祖神などにまで貼付された。商 ンとともに第一位となり、六八年のニューヨー という由来が語り継がれている。彼ら本土から 制圧されると、分離を終結してスペインに亡命 品が出回り、庶民の購買力が高まって、不特定 しゆり ク、七〇年のロンドンでのデビューで成功を収の門付集団は、明治末期まで首里 ( 現那覇市 ) したが、六四年六月に帰国して中央政府首相に多数を相手とする商業への転換期にあった江戸 あんにやむら げさくしゃ め、以後国際的に活躍。七一年 ( 昭和四六 ) 初郊外の行脚村 ( 現安仁屋村 ) に住み着き、正月就任、左派ゲリラ勢力の鎮圧に成功した。その後期では、このちらしが戯作者たちの腕の振る 来日。作品に真正面から肉迫しようとするひたや稲や麦の収穫のころ、近郊の村々を巡って春後カサププ大統領と対立して六五年一〇月に解 いどころであった。平賀源内の土用のうなぎや そ、っせきこう ばきんしんによとう むきな情熱が、演奏に激しい緊張を生み、それ駒、仏回し ( 人形芝居 ) 、念仏などを唱えて生任され再度スペインに亡命、六七年六月乗機が嗽石香 ( 歯みがき枌 ) 、滝沢馬琴の神女湯、奇 あわせ くにがみ じつべんしゃいつくゆかた ためながしゅんすい が世界各地の聴衆をひきつけている。チェロ奏計をたてていた。現在は沖縄市の泡瀬や国頭郡アルジェリアに強制着陸させられ、六九年六月応丸、十返舎一九の浴衣地、為永春水の伊勢 ぎのぎ さむがわ さんとうきようでんしようけいあん 者の姉およびピアノ奏者の弟と組んだピアノ三 宜野座村に、明治末期に首里の寒川芝居から習 二九日アルジェの獄中で病死した。〈小田英郎〉屋 ( 茶屋 ) 、山東京伝の松桂庵 ( そば屋 ) 、式 ほんだまげ ていさんば 〈岩井宏之〉 重奏団でも活動。 った芸能が伝わっている。両村とも旧暦八月一 ちょんまげ〔丁髷〕正しくは本多髷のこ亭三馬の江戸の水 ( 化粧品 ) などのちらしは後 はやくどち ちょん 〇日前後の豊年祭のときに行い、「早口説」「御とで、えび折りにした髷がゝに似ているところ世にも残る傑作である。 ちぢよう うまめー とりさしめー 知行」「馬舞」「鳥刺舞」で構成され、太鼓打 から生じた俗称である。この俗称は、江戸時代 現代のちらしは、地域広告主のエリア・マー 市 ち、踊り手など総勢二〇人近くで華やかに踊ら よりも、明治初期以降に行われた表現法であケティングの一手段として、折込広告を中心に れる。 〈宜保栄治郎〉 る。明治の文明開化期には、ちょんまげ頭は、 行われ、新聞社も地域広告版あるいはフリー ていしゅう ぎんぎり チョンチョウ 0 鄭州 旧弊のシンポルとされ、開化頭の散切に対してペー ーの発行などで対応している。↓引札 じゅ・つナい はんばっ そうはっ ↓折込広告↓フリー チョンチン 0 重變 半髪といわれた。半髪とは、総髪つまり志士の 〈島守光雄〉 の舞 しようとく 0 承徳 縄馬チョントー 髪形への反対語でもある。今日では、江戸時代回増田太次郎著『引札繪びら錦繪廣告』 0 成都 むのチョントウー の本多髷はほとんど「ちょんまげ」と称してい ( 一九七六・誠文堂新光社 ) ちゅうなん る。図髪形 をチョンナン 0 中南 〈遠藤武〉散らし書きちらしがき和歌や仮名消息な れの チョンピの乱 のらん = tumulto dei チョンリマ〔千里馬〕両翼をもち一日に どの書法の一種。紙面構成の一法として、文字 流風 の駒 Ciompi 一三七八年にフィレンツェで生じ一〇〇〇里を天かけたといわれる朝鮮の伝説上を散らして布置するわが国独自の書き方。散ら 芸春 た都市反乱。チョンピは、毛織物工業の準備工 の竜馬。朝鮮民主主義人民共和国では一九五六 し書きの手紙の古い遺品としては、九六六年 そもう こくうぞうぼさつわんじゅしだい のら程 ( 洗毛、梳毛など ) に従事する下層労働者。年末から「チョンリマの速さで」を合いことば ( 康保三 ) ごろ書写の「虚空蔵菩薩念誦次第紙 きんと・つ 土し 本病フィレンツェでは、他のイタリア都市と同様 に生産革新と勤労者の思想改造とを結び付けて背仮名消息」 ( 滋賀・石山寺 ) 、藤原公任自筆 に、遠隔地商業、金融業、手工業などの二一の推進する増産運動がおこされ、これをチョンリ 『北山抄』紙背の「仮名消息」 ( 京都国立博物 ラ年アルテ ( ギルド組織 ) に結集している者だけがマ連動と名づけた。集団単位で成果を競い合う館 ) や、一一世紀初頭と推定される「三宝感応 ダ豊 よ、つろく きゅうきよど・つ ンっ事実上政治に参加し、多数の下層労働者は排除チョンリマ作業班運動も組織された。チョンリ 要録紙背仮名消息」 ( 京都・鳩居堂 ) があげら りゅうちょう チ泡 されていた。一四世紀後半、旧来の都市貴族とマ運動は七〇年のなかばまで継続されて経済発れる。各行に高低の変化をつけ、流暢に続く かど ろ
おみがわさわらあじき きおろし 、まタによって埋められて手賀沼や印旛沼が発生した。利根川下地引網漁業が伝えられ、肥料用の干鰯生産が著しく伸びて、 て、小見川、佐原、安食、木下などの河港町が発達し、さら圏 なや せきやど ながれやま に関宿から江戸川へ入って、沿岸の野田、流山、松戸、行 ち流右岸の新田の一つ水郷十六島は、徳川氏が近世期初頭に対九十九里浜には内陸の新田村から分村した漁村の納屋集落が ひたち あおはり 岸の常陸佐竹藩に対する防御目的から帰農武士団に新田を開各地に発生した。東京湾岸でも幕末に小糸川河口の青堀で江徳などの河岸を経て江戸へ物資が運ばれた。野田のしようゆ 発させたもので、一六の新村が成立した。九十九里平野北部戸のノリ商人がノリの養殖を試みて成功し、千葉県ノリ養殖工業の発展もこの水運の便によるところが大きかった。 つばきうみ ぎようとく の椿海も、湖水を太平洋へ流す新川の開削によって干拓さ発展の基礎をなしたり、五井や行徳の海岸では製塩が盛ん〔近代〕幕末から明治維新へかけての動乱期に、房総の各藩 じようギい れ、一八村、石高二万石余りの町人請負新田が生まれ、のちとなっていた。 は請西藩を除いては朝廷側につき新政府発足後も存続した すんぶ に干潟八万石とよばれるほどの穀倉地帯となった。 物資の流通は、近世期前期までは房総半島沖から江戸湾へが、これに加えて徳川氏を七十万石の駿府城主としたことか するがとおとうみ 銚子や九十九里浜では紀州漁民の出稼ぎによってイワシの入るため危険が多かったが、後期になると利根川水運が栄えら、駿河、遠江の大名が上総、安房へ移封されることにな きくま つる り、上総に菊間、桜井、小久保、鶴 舞、松尾の五藩、安房に長尾、花房 平のい 1 縞田とがつあ ッ岸地白る水こ広沿で の二藩が設置された。しかし一八七 サ海台のすがるにに野 、起は岸走丘 しり帯平 一年 ( 明治四 ) 七月の廃藩置県によ ン隆岸海並砂てた溝、狭 ラは一 , やれあ地 3 長 星縞野のるで地さ「 って二六県となり、同年一一月に安 衛像平前あ列低用はれ ′画里以で丘 , 利。色さ 房・上総は木更津県、下総はそのほ 観の九 , 線砂はにす緑成 球影十でのは様畑示黄形 とんどが印旛県、下総のうち東部の かいじようそう、 地撮九野緑色模やをるてる 香取・海上・匝瑳三郡は親淪県に 統合された。木更津県の県庁は木更 津、印旛県は市川の本行徳、のちに 流山へ移されたが、七三年に両県が 合併して千葉県が誕生し、千葉に県 庁が置かれた。当時、行政的には二 二郡一四五町二六七〇村で、人口は 一〇三万七五四六であった。その 後、七五年に新治県内の三郡が編入 されるとともこ、リ し不根川を境として 北は茨城県へ管轄替えとなり今日の 行政区域が成立し、八九年の町村制 によって四二町三一六村に統合・整 理された。 明治政府は東京とその周辺の士 族・無産階級の窮民救済を目的に、 旧幕府直轄の牧を農業用地に開拓す ることを計画した。東京の豪商三五 人に下総牧野開墾会社を設立させ、 一万人の公募を行って入植者の開墾 を期した。一八七一年には小金牧に はっとみふたわ みさきとよしき 一 - ごっ 初富、二和、三咲、豊四季、五香、 むつみ とよいち とよふた 六実、十余一、十余二、佐倉牧には ななえ やちまたくみあげ とよみ 七栄、八街、九美上、十倉、十余三 などの新しい開拓集落が生まれ東京 新田とよばれた。入植者は六三〇〇