てがみ 手紙 / 外国 古代ローマの筆記用具 右からバビルス , 尖筆バ ビルス用のインキ壺 ( イカ の墨や煤でつくられたイン キ ) , タビュラ ( 蝋びきの 書板 ) , 蝋をひく道具。古代 ローマの人々は , これらの 道具を用いて手紙や書類を 作成した。 B. C. 1 世紀ころ ナポリ国立考古博物館 「息子への手紙 イギリスの政治家チェ スターフィールド伯か , 庶子にあてて 30 年問書 き続けた書簡集。紳士 としての心得を教えた もので , 多くの人々に 読まれた の在はあ立 一方になってはいるが、時代感覚を反映した新の配送機構の導入を可能にしていく。そして一 ス現れ長国 文体はまだ形を整えていない。本文、封筒表書九世紀前半にイギリス人口ーランド・ヒルが郵 ラは , 編 き、葉書などに横書きが目だってきたが、まだ 便料金の距離制を廃止し、距離にかかわらず一 のり ちょうふ フ紙がの 法則らしいものはない。 手る』 〈服部嘉香・服部嘉修〉律料金とし、糊付き切手を貼付する制度を開発 紙のい 〔世界の手紙の歴史〕〔古代〕手紙は古代エジ した結果、郵便実務の単純化・能率化が加速さ 手クてイも のツれ プトやバビロニア時代から存在したが、粘土板れ、国際郵便連盟 (zæo) も一九世紀後半に クザさ「れ ンルさ に刻む不便さから大半は公用文書だった。その結成され、郵便配達網の国際化が始まった。 サハ通年出館 ル豪千に書点エジプトではパピルスの発見で日常的な書簡 さて、著名な文人や政治家の書簡は後世に残 ハ文数て図 が多いのが目だっ。 りやすいが、ごく普通の人々の書簡はめったに 手紙の数は郵便配達制度の整備によって増え残らない。その点で貴重なのは「パストン家書 るが、この制度は広大な領土や植民地をもっ強簡」 ( 一四二 ~ 一五 0 九 ) である。中世後期のイギリ 力な国家のなかで発達した。だから、文化度はス中産階級の一族が家族間で取り交わしたこの 高くても都市国家という小さな社会で自足して手紙類は、まったくの俗事が内容になってい いた古代ギリシアよりも、各植民地間の連絡がて、彼らの日常がつぶさにうかがえる。 複雑な行政と軍事制度の枢要部分となった古代 中世は一般に商用書簡が多く、文学的書簡の ローマ帝国のほうが、郵便配達制度 ( クルス乏しい時代だった。しかし同時に感清豊かな時 ス・プブリクス ) が発達した。一日二七二キ。の代でもあった。中世のこの別な側面を代表する 一速度で郵便を急送するなど、実に優れた制度手紙は、一二世紀の有名なフランスの悲恋カッ ので、一九世紀になるまでこれをしのぐ郵便配達プル、アベラールとエロイーズが、仲を裂かれ 制度はヨーロッパでは出現しなかった。皇帝のて僧院と尼僧院からやりとりしたラテン語の書 勅命などローマ公用郵便の文体は、個々のケー 簡集だろう。 スから一般原則を引き出して断を下す点で、た ルネサンス期の代表的書簡集は、イタリア人 とえば使徒パウロの書簡からローマ教皇の司教文主義の先駆者ベトラルカの『無名書簡』 ( 一 = 通達などに受け継がれていく。またキケロ、セ六 0 ) はかの書簡集だといわれる。この時期の書 ネ力、小プリニウスなどの書簡の文体、そして簡はおもにキケロや小プリニウスの書簡が模範 〈簽三→ ~ イ 0 = つよっこ。 オウイデイウス、ホラテイウスらの書簡詩は以 後のヨーロッパ文人の模範になっていった。ロ 〔一七世紀以降〕書簡詩の伝統は、一八世紀イ ろう ーマ人は羊皮紙やパピルスのほかに、板に蝦をギリスの詩人アレグザンダー・ポープにおいて / 塗って、その上にスティルスという鉄筆で手紙頂点に達する。彼はオウイデイウスやホラティ を書くという方法も用いた。彼らはこの鉄筆をウスを手本としていくつかの作品を残したが、 護身用のナイフとしても使ったが、のちにこれその最高傑作は『アーバスノット博士書簡集』 はスタイルという語の起源となった。 ( 一七三五 ) で、友人の医師とのやりとりの形を借 〔中世〕中世はギルドの発達で商用郵便が急増りて同時代の文人を揶揄したもの。また散文の し、各ギルドがメッセンジャー制度をつくった書簡体作品としては、ほば同時代のイギリス作 ( たとえば肉屋ギルドのメッツガー・ポスト ) 。家サミュエル・リチャードソンの『バメラ』 商業の国際化は宗教の時代中世においてすら宗 ( 一七四 0 ) が有名である。書簡体が文学のスタイ 教の壁を貫き、ベネチアは、コンスタンティノ ルになったのは、一八世紀に郵便配達制度の整 ープルとの交信ルートがベルシア領内を通過す備が進み、用件以外のむだ話を書く余裕がで る許可までベルシア王から獲得している ( 一三 き、親密なやりとりが一般人の間でも可能にな 一一 0 ) 。さらに中世後期には郵便への需要が高ま った結果だった。手紙の書き方の模範になった り、郵便制度がギルドから独立して自前の事業ものに、一七世紀フランスの社交界に生きたセ になった。タキシス Taxis 家は一六世紀に二 ビニエ夫人の書簡集がある。イギリス貴族の生 万人の飛脚を擁して全欧の郵便網を押さえてい 活がうかがえる意味で有名なのが、息子にあて た。しかしこの盛況に目をつけた各国政府は、 て約三〇年間書きつづけた、チェスターフィー 以後しだいに郵便網の国家独占を図り始めた。 ルド伯の『息子への手紙』 ( 一七七四 ) である。 その傾向は一八世紀後半の駅馬車、一九世紀な 〔その他〕中国では早くも周の時代 ( 前一一世 かばの鉄道・汽船、一一〇世紀前半の航空機など 紀 ~ 前一一四九 ) から郵便制度が発達し、漢時代に
庭園 / 日本庭園の美 解説 : 重森完途撮影 : 大橋治 = えよう。 て日本庭園が生き続けている大きな特徴とい 品と異なり , 今日に市るまで長期間にわたっ れているように思われる。それが他の美術作 ても , 神を祀るという本来の精神が受け継が も多いが , 日本人の心の奥には , 意識しなく いく。平安時代以降は , 観賞主体になった庭 ど影響を受けす , 古代の思想を連綿と保って 奈良時代以降 , 仏教が入ってきても庭はさは を祀るための神聖な場をつくることであった。 歴史的にみると , 日本庭園の始まりは , 神 本になっている。 然をつくること , それが日本庭園の作庭の基 したうえで , 抽象化されたまったく新しい自 に , 自然を尊重しながら , それを十分に咀嚼 露 , 霞などの自然現象さえ加える。このよう つゆかすみ か , さらに素材以外の素材 , たとえは風 , 光 , ているものとして扱われるのである。このほ 自然のものが用いられる。石にしても , 生き 竹 , 草 , 苔 , 石 , 砂 , 水などみな生きている 庭はほとんど屋外につくられ , 素材にも木 , きんか ( ろ ( お / 、し 鹿苑寺 ( 金閣 ) 庭園京都市北区金 閣寺町鎌倉時代 あしかがよしみつ 金閣の建立は足利義満によるが , そ の前方の池庭や後方の滝などは , 鎌 さいおんじきんつれ 倉時代に西園寺公経の北山山荘とし て完成していた。鏡湖池に蓬莢様式 の島々を点在させた典型的池泉回遊 式の庭で , その美しさを藤原定家は 『明月記』に記している くび真 : 宮崎・雄 ) 竜安寺庭園京都市右京区竜安寺御 陵ノ下町室町時代 山水表現の庭でなく , 室町末期の飾 付けの思想をその発鷏の根底にした , 日本庭園史上画期的な庭。方丈側か ら見た「虎の子渡し」とよばれる石庭
どうろ 道路 / 歴史 ①箱根の石畳江戸時代は山道の道路整備 が十分でなく , 旧東海道の箱根峠は天下の 難所であった ②アッビア街道 B. C. 312 年アッビウス・ク ラウデイウス・カクエスによって着工され た , 古代ローマの幹線軍用道路。ローマ帝 国は高度の建設技術によって国内に大道路 網をつくり , 「すべての道はローマに通す」 。の・を、といわれた ③ポンペイの街路車のわだちの跡と車の 使用を禁しるための飛び石がみえる。街路 は初め砕石が敷かれたが , B. C. 4 世紀から 亠い石板による舗装が普及した ④古代ギリシアの道路クレタ島 , マリア 付近のミノス時代の道。石工事と地ならし の跡がみえる 塾奴な : をご な道路がつくられたのは大化改新 ( 六四五 ) のこ装、架橋、国道、府県道の初歩的改良などが行 ろで、中央集権的な支配体制を全国的に拡大われたとはいえ、欧米と比べて著しく立ち後れ し、徹底化しようとする意図をもって道路網のていた。 第二次大戦により荒廃しきった日本の道路 整備が進められ、七世紀から八世紀半にかけて きない 畿内から北海道を除く全国の主要地に通する陸は、まず維持、修繕を中心にその整備が始まっ たが、一九五二年 ( 昭和二七 ) になって道路法 路ができたと思われる。また、平城京や平安京 が大改定され、道路行政の基本体系がつくられ の建設には大掛りな都市計画が行われ、整然と るとともに有料道路制度を定めた。道路整備特 した街路網が建設された。その後、平安時代か 別措置法 ( 旧法 ) が公布された。時あたかも復 ら戦国時代まで道路の改良、発達はほとんど認 興期にあった日本経済が、その基盤的施設とし められない。織田信長が天下統一に着手するに 至ってふたたび幹線道路が整備されるようになての道路の緊急整備を必要とした時期で、五三 なかせんどう った。江戸時代に入ると、東海道、中山道、日年には道路整備の財源等に関する臨時措置法が 光街道、奥州街道、甲州街道の五街道をはじ成立して、ガソリン税収入が特定財源として道 いちりづか め、多数の脇街道も整備され、一里塚も備わり路事業に充当されることになり、これを契機に 道路網が発達した。参勤交代の制度は、ある程五四年度を初年度とする道路整備五か年計画が 度全国の主要道路の改良に役だったが、江戸時初めて策定された。やがて五六年日本道路公団 が設立された。また同年には道路整備特別措置 代の交通は徒歩、乗馬、駕籠などが主で、車と だいはち 0 るま しては牛車、大八車などがあった程度で、路法も改正され、本格的な有料道路整備事業が日 本道路公団の手によって進められることになっ 一面築造の技術はほとんど進歩しなかった。 明治に入って、社会制度の根本的な変革に伴た。こうして、特定財源制度と有料道路制度と いう、その後の道路整備の二大支柱ができあが い道路はすべて公道となり、乗用馬車の輸入に よって、ようやく道路改良の兆しが現れた。一り、五九年度から名神高速道路の建設が始ま 八七二年 ( 明治五 ) 東京・銀座通りにはサクラり、高速道路時代を迎えることになった。全国 並木を植え、車道に砂利を敷き、歩道はれんが高速自動車国道網を形成する三一一路線七六〇〇 キ。メートルの予定路線を定めることとする国土 と板石で舗装する近代的な道路がつくられた。 だじようかん 七六年太政官布告で国道、県道、里道の三等開発幹線自動車道建設法が五七年に制定されて くらまえ る。以降、高速自動車国道の整備が全国的に 級を定めた。八五年、東京・浅草の蔵前通りでい 近代的な砕石道の築造を試みた。八六年内務省進められ、東名、名神、中央道、東北道、中国 訓令で道路築造標準を制定し、マカダム道路を道、九州道といった縦貫道の整備が進められて いる。高速道路を含めた道路の国際比較をみる 標準工法とした。七二年新橋ー横浜間に鉄道が ) のようになる。↓高速道路 と表 1 ( 開通し、その後長く鉄道の普及発達に力が注が 〔現況〕第二次大戦後の四半世紀にわたり、く れ、近代的道路の建設は大都市内のごく一部に 限られた。大正初年ごろから自動車の数が増ふうを重ねながら道路整備の推進が図られた結 し、ふたたび道路の建設、整備に注意が向けら果、日本の道路は舗装率を中心にいちおうの進 ちよく れ、一九一九年 ( 大正八 ) 道路法が制定され、捗をみた。しかし、経済の拡大と国民生活水 国道、府県道、市町村道などの等級が定められ準の向上に伴い飛躍的に増大した道路交通需要 た。また同年、国道、府県道の改良三〇年計画と対比してみた場合、円滑さや安全性の確保、 がつくられたが、この計画は関東大震災 ( 一九生活環境の改善など各面において今後の道路整 一一三 ) で中断された。大震災の復興事業を手始め備にまつべき課題が山積している現況にある。 日本の道路は、歴史的にみると徒歩の時代か に舗装道路が全国の都市に普及し、地方道の全 面的な改良も幾たびか計画された。しかし、実ら短期間に自動車時代へ移行したため、通過交 際の道路改良事業は一九三〇年代の不況期に失通をさばく幹線道路の多くが市街地を貫通し、 きようきゅう またその道路幅員も狭いなどの悪条件を背負っ 業救済、時局匡救などの名目で行われ、引き 続き全国的な事業が進められる予定であったている。さらに加えて近年の都市化の進展、環 が、第二次大戦で中断された。このため、戦前境制約の高まりなど道路整備を取り巻く環境に の日本の道路は一貫した計画のもとに建設、改は厳しいものがある。 現在、このようなことから第九次道路整備五 8 良がなされたことがなく、都市主要街路の舗 わき
し、矛盾することすらある。たとえば、エジプのビッラノーバ文化、ヨーロッパ中部のハルシ こしている場合も少なくない。 し法」によって設定された時代の一つであって、 やきん 青銅の冶金術に加えて鉄の冶金術が発明され、 トの古王国時代は ( 青 ) 銅器時代であるが、だ ュタット文化 ( 前含 0 こ ~ 前四五 0 こし、一フ・テー 〔鉄器の影響〕鉄の冶金術の採用は、どの民族 ~ 前一世紀末 ) 、北ドイツのヤ にも大きな刺激を与えた。鉄製品の出現は、装 っ普及し、利器のおもな材料が鉄とな 0 た時代のれがみても文化的に弥生時代 ( 鉄器時代 ) よりヌ文化 ( 前き 0 = 《 ことである。ことばの正しい意味では、現代も はるかに進んでいる。しかし技術史的時代区分ストルフ文化 ( 前四 8 ころ ~ 前一世紀末 ) 、北欧の身具、祭器、宝器に対する青銅の豊富な使用を て なお鉄器時代に入るのであって、原子力の利用 によると、弥生時代のほうが古王国時代より進 北方鉄器文化 ( 前四 00 ころ ~ 前一世紀末 ) 、ロシア可能とした。また鉄製の武器、利器、工具など が進んでおりながらも、利器 ( ナイフ、錐、 んでいることとなり、技術史的時代区分と一般東部のアナニノ文化 ( 前六 00 こ ろ ~ 前一一 00 ころ ) など は、青銅のそれらより優れていたし、豊富であ 鎌、のみなど ) つまり刃物は鉄を主材料にして史的時代区分とは矛盾することとなる。そこでである。イタリア中部のエトルリア文化は、ビ った。そのため庶民出身の兵士たちも鉄製の攻 いるからである。しかし考古学でいうのは限定近年では、遠古史の叙述に際して考古学者たちッラノーバ文化を基盤とし、ギリシアの古典文撃武器で武装するようになり、それは庶民の政 された意味での鉄器時代であって、同時代的文は、「鉄器時代」という用語を使うのを控える化の栄光のもとに繁栄した文化であるが、それ治的発言権を増大させた。鉄製の工具は、森林 献は遺存しないか、あるいはあってもきわめてようになった。 はローマ文化の形成に大きな役割を演じた。 の大規模な伐採を容易にし、鉄製の農具は、一 之しく、しかし鉄の冶金術は知られている時代〔鉄器の発生と普及〕鉄は、銅や錫と違い、砂 前八〇〇年ごろ黒海沿岸の草原地帯に伝えら定時間内により広く、かつより深く耕すこと いんせき あぶみ ・れ、万い をさしている。たとえば、日本のいわゆる「古鉄 ( 磁鉄鉱 ) 、隕石 ( 隕鉄 ) 、鉄鉱の形で地表上れた鉄の冶金術は、鐙の発明を促し、精鋭な武や、沼沢地を早く灌漑することを可能とし、こ 墳時代」は鉄器時代とされるが、奈良時代はも至る所に存在している。最初に使用されたのは器の製作を可能ならしめ、その地帯の住民の騎うして生産量は著しく増大した。鉄製の鐙の発 はや同時代的文献が豊富に残っているので、鉄もつばら隕鉄であって、エジプト第四王朝時代馬遊牧民化を助成した。こうして成立したスキ明は前記のとおり、遊牧民族化を助成し、彼ら 器時代としては扱わないのが慣例となってい の遺跡やトルコのアラジア遺丘 ( ともに青銅器タイやキンメル人といった遊牧騎馬民族は、ユ の行動半径を大きくした。さらに諸地方におけ る。 時代 ) からの出土例が証示するとおり、鉄製 ーラシアの歴史に一大波紋を投じた。またインる製鉄や鉄製品の生産の中心地の形成は、物 この限定された意味での鉄器時代は、旧大陸 ( 隕鉄 ) のピンや装身具、まれには短剣の類は、 ド、イラン方面では、侵入したインド・ヨーロ資、ひいては文化の交流を活発にした。この意 にだけ存した時代であって、新大陸には、高度紀元前三〇〇〇年代からっくられていた。しか ッパ系の民族によって前八〇〇年ごろに鉄の冶味において鉄の冶金術の発明と採用は、青銅の の古代文化が存したにもかかわらず、現出しな し隕石や砂鉄は量的に限定される一方、鉄鉱石金術が伝えられた。 場合と比べてその歴史的意義は、はるかに大き かった。旧大陸においては、鉄器時代はけっしの精錬は高熱を出す炉を必要としたため、鉄の 中国では早く殷代 ( 前一七 / 前一六 ~ 前二世紀 ) かった。 て青銅器時代に先行しなかったが、文化の周辺大量の生産は不可能であった。そのため価格も において隕鉄を用いた鉄製品が用いられはした しかしその意義がいかに重大ではあっても、 的な地域では、青銅器時代が現れず、新石器時黄金の数倍というほど鉄は貴金属視されてい が、普及しなかった。鍛鉄、鋳鉄の技術が開発鉄器時代というのは技術史の一時代であって、 代の次に鉄器時代が続いた場合も少なくはなか た。これは、鉄の冶金術が早く知られていなが されたのは春秋戦国時代になってからであった これを一般史の時代として採用することは、適 った。たとえば、日本の場合、縄文時代 ( 新石ら、鉄器時代が容易に現出しなかった理由であが、鉄器文化が確立されたのは前漢代において切とはいえないのである。↓鉄↓鉄器↓青 やよい る。 器時代 ) に直接、弥生時代 ( 鉄器時代 ) が続い であった。朝鮮半島北部では前二世紀ごろに鉄銅器時代 〈角田文衛〉 た。またアフリカ ( エジプトや北アフリカを除 鉄鉱を溶錬してできた塊鉄から少量の錬鉄を器文化が形成されたし、日本では弥生時代前期回江上波夫監訳『図説・世界の考古学 3 先史 く ) では、新石器時代が長く停滞し、所によっ得る方法は早くから開発されていたが、錬鉄は において鉄器文化は始まった。もっとも弥生時 時代のヨーロッヾ ノ』 ( 一九会・福武書店 ) ▽ て時差はあるが、紀元後五 ~ 七世紀に鉄器時代軟らかく、青銅より使用価値が劣っていた。こ代を通じて鉄の冶金術は定着するには至らなか ・クラーク、・ビゴット著、田辺義一 が開始されている。さらにオーストラリアやニ うした初歩的な製鉄術より進んだ方法、すなわった。 梅原達治訳『先史時代の社会』 ( 一九七 0 ・法政 っち ューギニアの一部などでは、新石器時代のままち錬鉄を木炭と接触させながら加熱し、槌打ち すでに述べたように、鉄器時代は、技術史的 大学出版局 ) きようじんこう けんもん 現代に至った人々もいた。こうした変則的な事によって炭素と化合させ、硬くて強靱な鋼を時代区分によるものであるから、各地の鉄器文手継証文てつぎしようもん手継券文、連券 でんば 象は、青銅の冶金術の伝播が遅滞したこと、銅つくる鍛鉄の技術は、紀元前一四世紀ごろアル 化の様相は、歴史的に同一段階にあるとは限ら ともいう。土地所有 ( または占有 ) 権の移転を すず や錫の産地が偏っていたこと、その地の住民が メニアないし小アジア西部で開発され、そこか なかった。まだ部族社会の段階にとどまってい 証明するために作成された証文 ( 権利書類 ) を 古くからの生活体制に満足し、技術的革新に関らヒッタイト人に伝えられたが、やがて前一三る鉄器文化もあったし、新王国時代のエジプト年代順に張り継いだ一連の文書。平安中期から 心が薄かったこと、あるいは技術的水準が青銅世紀になると、おりからの民族移動に乗じて新のように、諸民族の王国を統合して帝国を形成中世を通じてみられる。一つの土地を < から ゆずりじよう ばいけんこけん の冶金術を受け入れるに至っていなかったこと しい製鉄法は各方面に伝播・普及したようであしたような例もあった。鉄器時代が鉄の冶金術 に譲与すれば譲状、売却すれば売券 ( 沽券 ) などによっている。 る。鋼鉄は、武器・農具の材料として青銅よりの有無だけで設定されている以上、鉄器諸文化 が作成される。新しい権利者は前の権利者か 石器時代、青銅器時代、鉄器時代というの優れており、量産ができるようになったため、 にみられる相違は、当然のことであった。 ら、土地とともに土地に関する一連の文書を受 は、利器の製作技術に基準を置いたきわめて技価格も低廉であった。そのため製鉄の技術は熱 それとともに注意しなければならないのは、 け継ぎ、自分の権利が正当な権原を有するもの 術史的な時代区分である。鉄の冶金術の存在 心に習得され、至る所で鉄器時代が開幕し、鉄数多く設定されている鉄器時代の諸文化と、そであることの証明とする。一つの土地が分割さ しようもん あんもんうっし は、出土する鉄器や金くそ、また木製品にみら器を鍛造する鍛鉄法から進んで鋳鉄法も開発されらを担った諸民族との関係の問題である。たれるときには、一方に正文、他方に案文 ( 写 ) れる削り跡などから容易に察知される。つまりれ、農具などの製作を助長した。 とえば、北方鉄器文化やャストルフ文化がゲル が渡され、また、関連文書は引き渡さなかった 遺物に即して証明される。したがって、遺物・ いま各地の様相を探ってみると、メソボタミ マン人、アナニノ文化がフィン・ウゴル人、 ことを注記するなどの処置がなされる。わが国 遺跡を取り扱う考古学者にとっては便利な時代アでは前一三世紀、エジプトでは前一二世紀、 ラ・テーヌ文化がケルト人を担い手とみなす見では土地所有権の存在証明が証文を第一とした 区分といえる。けれどもこうした技術史的時代またギリシア本土では前一一世紀の混乱期に鉄解は、ほとんど異議のないところである。しか ことに由来するが、相当長期にわたって権利関 区分は、文化全体を見渡したうえで設定された器時代は開始された。各地の鉄器文化のうちでしある鉄器文化とある民族との同定問題はなか 係の推移、社会経済状態を考察する好史料であ しれつ 一般史的時代区分とはかならずしも合致しない 〈羽下徳彦〉 も顕著なのは、前九世紀に始まるイタリア中部なか解決が困難であって、熾烈な論争を引き起る。 きり 146
ディーエム 0 ダイレクト・メール 定して一〇〇〇メガヘルツ帯のバルス電波が発信 航空機から地上局設置点までの直線空間距離を法施設としては非常に有効であるため、近年世 8 む されると、地上局のトランスポンダーは受信と ディーエムイー distance measurrng 測定するもので、地上局の方位を知ることはで界的に空港や航路上の要所に多数の地上局が設 equipment の略称で、距離測定装置のこと。 同時に質問波と六三メガヘルツ離れた周波数によ きない。そこで通常、 ( 全方位無線標置されている。↓ >ox 〈青木享起〉 でんば 電波伝播の定速性を利用し、航空機と地上局間 る応答電波を発信する。機上の装置ではこれを識 ) と組み合わせて方位と距離を同時に測定しティエラ・デル・フェゴ Tierra del で の電波の往復時間からその間の距離を連続して受信し、コンピュータにより二つの電波の時間 航空機の位置を求める。これを Fuego 南アメリカ南端部、マゼラン海峡以 自動的に算出する装置。機上のインテロゲータ差を測定し、この時間差を距離に換算して操縦方式といし 一九六〇年に *0<0 ( 国際民間 南にある島々をいう。このうち最大のフェゴ島 ーと地上局のトランスポンダーから構成されて席前の指一小器にディジタル表示する。 航空機構 ) の国際標準方式として採用された。 のみをさすことが多い↓フェゴ島 いる。インテロゲーターから特定の地上局を指 は七〇〇キ。メートルくらいの範囲内では比較的新しい装置であるが、近距離亢 0 チェール 舟ティエール 庭園ていえん 神が来臨すると考えた。日本の庭園が、外国のそれと比べ 日本の庭園 て、みごとな石組を特色とするのはこれに由来する。 〔日本の庭園〕古代 / 奈良時代 / 平安時代 / 鎌倉時代 / 自然と朶、 、冫しかかわりをもつ日本の庭園は、その自然や四季 石組の原初の形とみられるものに「環状列石」や、石を神 いわくら いわ、か 室町時代 / 安土桃山時代 / 江戸時代 / 明治以降 の移ろいとともにつくられ、生き続けてきた。国土の周囲を格化した「磐座」「磐境」がある。環状列石は有史以前の先 〔中国の庭園〕種類 / 歴史 海洋で取り囲まれている日本の庭園は、その広大な海や湖沼住民族のつくったものであるが、その規模は直径一一 ~ 五〇 ) だえん 〔西洋の庭園〕エジプト庭園 / イタリア庭園 / フランスを表現するために池泉を多く設け、中世のころには庭園のこ くらいで、直立した石が円形あるいは楕円形に並んでいる えんち 庭園 / イギリス庭園 / ドイツ庭園 / スペイン庭園 とを「園池」というようになった。『日本書紀』では「園」個々の石の高さは一ないし二のものが多く、環状の石の一 えん ゅう アメリカ庭園 「苑」「囿」などが用いられている。同時代、庭園にあたるこ つはかならず子午線の方向をさしている。このことから環状 さいし せんせんヾゝ 「日本のおもな庭園〕 とばに二則杁」ぎい ・さい力あり、また奈良期から鎌倉期ころま 列石は漁に関係あるとか祭祀に関係あるともいわれ、また、 しやこたん で用いられていったんとだえ、江戸期に復活されたことばに 北海道積丹半島の直径一一の環状列石から人骨を葬ったと りん 大自然に擬して人間がつくった小自然の景観。原初は神を「林泉」がある。このほか庭園を意味することばとしてわがみられる燐が採取されたところから墳墓説も行われたが、ま せんせき さんすい 祀る儀式の場であったり、農作業などの実用の場であったり国で用いられてきたものには、「坪」「池庭」「泉石」「山水」だ定説となってはいない。 かざんかれさんすい いしつば よもぎがつばせんすい オ・いかく すいせき したが、文化が進むにつれて、人間と自然とのかかわりを求「仮山」「枯山水」「石壺」「蓬壺」「泉水」「水閣」「水石」 磐座は祖霊祭祀やその地の守護神が宿る場所として、山上 おその めて、住居を取り巻く環境として発達した。 「御庭」「御園」などがある。 や山腹にある巨石を崇拝したことから始まる。やがて祖霊の 庭園にあたることばは、ヨーロッパではゲルマン語系で 日本の庭園は大きく類別すると、次の三つに分けられる。 降臨する場所あるいは聖地に巨石をいくつも据えて崇拝する スべ、 表現される。すなわち garden jardin ンス ①池庭 ( 池泉 ) 舟遊式、回遊式、借景式 ようになった。これが磐境である。すなわち、磐座は自然の giardino 材ア 、 Garten 響などで、これらの語の基礎となる②枯山水禅院式、池庭式 巨石崇拝、磐境は人間の手によって設けられた巨石崇拝で、 ろじそうあん やよい 共通の語根は gher ・で、土地に関する支配ないし囲い込み ③露地草庵式、書院式 縄文末期から弥生初期にかけて多くつくられた。 あすか しんち しん を意味している。これは村落や部族の共同体の生活のなかで また、庭の構成要素としては、①池と水、②石組、③自然 ついで弥生後期から飛鳥時代にかけて現れるのが神池・神 家畜を飼育する場所であったが、のちに王や貴族のための蔬の風景を再現するための築山、野筋、植栽、④付属物として島である。これも祖霊崇拝や土地の守護神の祭祀と深いかか いしどうろう 菜、果樹、森林園をさすようになったことを示している。その飛石、敷石、石灯籠、垣根などの類がある。以下、日本のわりがあり、広い池に島々が点在する形態は庭園のようにみ れが文化の発達に伴って、実用目的から離れて花や緑樹を植庭園の変遷を時代を追ってみることにしよう。 えるが、実は庭園ではない。古代、異民族や異なった文化 あが え、憩いの場として装飾的な地割や植栽を施して、観賞を目〔古代〕古代の人々は、大自然が神仏のつくったものとすれは、海を渡り島伝いに伝来した。ために海と島は神として崇 的とした庭園へと発達していった。 ば、庭は神仏に捧げるものと考えた。『万葉集』に、「庭なかめられ、海や島を再現して神を祀ったのである。これが神 あすは あれ 日本で「庭園」ということばが使われるようになるのは、 の阿須波の神に小柴さし吾はいははむかへりくまでに」 ( 第池・神島である。当初は庭園として構築したものではないに 西洋文明が入ってきた明治四〇年 ( 一九 0 七 ) ごろからで、 gar ・ 四三五〇歌 ) などしばしば出てくる「庭」は、家の前の開けせよ、飛鳥期以降、神池・神島を基盤として庭園意匠が構成 まっ den の訳語としてであり、その歴史は浅い。 庭園の「庭」た所で、神を祀る場所、斎庭 ( 忌庭 ) とよばれ、隅に梅やされていったことは間違いない。神池・神島が磐境と異なる たちばな という字は、元来中国においては堂前の場所、つまり屋前の橘が植えられていた。現在のような意味での庭はシマとよのは、土木技術を必要とした点で、これは大陸からの渡来人 へいたん 平坦な場所をさしたから、日本に伝わったとき、一木一草一ばれ、この島は離れた地であり別世界を意味した。この場 によってもたらされた造園技術によって各地でつくられたと 石もない広場 ( 祭政を行う場所 ) を『日本書紀』では「庭」、 合、島を取り巻く池は海の象徴で、池と島が日本の庭の原型考えられる。 『古事記』では「邇波」「二八」といったが、 これは後世の いである。また古代、神々は天空から地上の高い所に降臨する 現存する神池・神島は、後世の庭園・池泉の中島に相当す わゆる庭園ではなかった。 と信じられ、その際に大きな枝ぶりのよい木とか大きな石にる神島の数、配置、形態などにより次の四系統に分類するこ まっ 寺」さ つきやまのすじ いわぐみ イカオ と - っ なかじま 0 ルー
ん〔室町時代〕この時代に入ると、庭園の形態に大きな変化がわば無用の長物とな 0 た。そこで、その場所につくられたのかな生活を楽しんだ。武家は自己の勢力を相手に誇一小するた りようあん びようぶ かわら が竜安寺や大仙院などの方丈前の庭園であり、この時期のめに金碧の屏風や金の瓦を建築に飾り付けたが、こうした時 一ん現れる。初期のころはまだ池泉回遊式が多くつくられたが、 それと並行して、屋内から座視して観賞する観賞式池泉が現ものを後期式枯山水とよぶ。以上のような理由から、室町時代風潮は庭園の分野にも浸透して、ふたたび池泉庭園がつく あしかがよしのり てれる。当時の将軍足利義教が庭園を好んだこともあって、一代の庭は一般に小庭園が多い られるようになった。枯山水もなくはないが、豪壮華麗な石 うきようの 四三〇年 ( 永享一 l) 室町殿に池庭がつくられた。細川右京 こうした枯山水庭園は、応仁の乱後の一四七八年 ( 文明一組を展開させるためには、池泉庭園が適していたからであ やしき でんば よしあき 大夫もこの年京都の自邸に作庭し、大内氏も京都の邸に飛泉〇 ) 以降、京都を中心に流行したが、地方にはあまり伝播しる。織田信長が足利義昭のためにつくった二条旧庭園 ( 現存 よしかげえちぜんいちじようだにやかたあと ・かわ 亭をつくった。しかし、室町時代は政治的にも経済的にも不なかった。地方のほうが保守的傾向が強かったからでもあるせず ) や、朝倉義景の越前一乗谷館址の諸庭、粉河寺 ( 和 まつお 安定で疲弊していたから、莫大な工事費を要する広大な池泉し、水墨画はまだ京都を中心にもてはやされていたからでも歌山 ) 、名古屋城二の丸・三の丸、松尾神社 ( 滋賀 ) 、徳島の あわ せんしゅうかく はつくられなかった。 ある。室町末期になると、枯山水も室町初期の省略的・抽象阿波国分寺、千秋閣などがある。そして、桃山的な華麗な 池底部の粘土は鎌倉期よりもさらに薄くなり、砂利は岩島的表現が薄れ、具象的・説明的になってくる。京都・退蔵院意匠を示した池庭としては、醍醐三宝院、二条城二の丸、光 ぎよくほう を意匠する部分にしか敷いていない。 これは舟遊びの習慣が庭園はその好例である。庭園の石組の素材としての石は、平浄院など数多く作庭され、枯山水では京都の本法寺、玉鳳 せいれつ なくなって、それほど清冽な水を必要としなくなったからで安・鎌倉期に比べて際だって小ぶりになっている。これは庭院庭園などがある。 もあるし、経済的理由も大きい。現存するこの時期の池泉庭園が狭くなったためとも考えられるが、雪舟作庭の山口県常 この時代の池泉の底部の構造は室町期と大差ないが、大き 園は、島根県の小川邸・萬福寺・医光寺、山口県の常栄寺・ 栄寺のように広大な庭園でも、枯山水部分の石は比較的小さ く変化したのは石組の素材である。室町期の小ぶりな石とは いのである。 香山園、愛媛県の保国寺、福岡県の亀石坊・横岳崇福寺など 対照的に、高さ一一 三、重さが二、三トン以上もある大きく かわ もりはる かなり多い。こうした足利氏を中心とした各地の作庭には河植栽に関しては、山口の大内盛見が京都の邸に庭をつく 豪快なものを数多く用い、それも集団的に用いている。 らもの いんりようけんにちろく ぜんあみ そてつ 原者が多く従事し、善阿弥、文阿弥、左近四郎など著名な作り、わが国で初めて蘇鉄を植えたことが『蔭凉軒日録』に 池泉では島を多くつくり、中央の大きい島を蓬莱島とし、 つる 庭家が活躍した。 あるが、これは注目すべきことで、蘇鉄は江戸時代になってときには鶴島、亀島で表現した。新しい手法としては、蓬 池泉庭園にかわって出現したのが枯山水である。『作庭記』大いに珍重された 島に石橋などの橋が架けられる。本来、蓬 ~ 來島は海上はるか にも、「池もなくやり水もなき所に石をたつること、これを 室町時代は政治的にも経済的にも暗い時代ではあったが、 な理想郷とされていたから、それまでの池泉庭園では、島を よ 枯山水と名づく」とある。枯山水は水を一滴も使用しないで代々の足利将軍は芸術を愛し、庭園愛好家が多く、仏教では往来する船が港に停泊しているさまに見立てて石組にした夜 どまり 水の表現をするという一種の抽象表現であり、平安末期には 禅宗のもっとも盛んな時代であったから、禅宗寺院に作庭さ 泊石組が行われていたのであるが、その蓬莱島へ歩いて渡 すでに庭園の一部に使われ始めており、これを前期式枯山水れた例が多い れるように橋を架けたのは画期的なことであった。 きゅうだい とよんでいる。室町期になると、庭園となるべき敷地は非常 この時代を代表する池庭としては、慈照寺 ( 京都 ) 、旧大 三尊石組は、平安期の正三角形、鎌倉期の二等辺三角形、 じ きたばたけやかたあと に狭く、たとえば京都・大仙院庭園などは約三一坪 ( 約一〇寺 ( 兵庫 ) 、旧秀隣寺 ( 滋賀 ) 、北畠氏館址 ( 三重 ) 、常栄寺室町期の前期よりさらに開いた二等辺三角形があったが、桃 〇平方 ) しかないが、この狭い敷地に広大な池泉を巡らし ( 山口 ) 、旧亀石坊 ( 福岡 ) 、志度寺 ( 香川 ) 、保国寺 ( 愛媛 ) 山期には不等辺三角形という変則的で動きの激しいものとな あん て具象的な内容を盛り込むのはとうてい困難で、いきおい省などがある。枯山水で有名なのは、前述のほかに、真珠庵、り、この時代にふさわしい表現となった。 りようげん 略的・抽象的表現の庭にならざるをえなかった。すなわち、竜源院 ( 京都 ) 、安国寺 ( 広島 ) などである。 この時代のもう一つの大きな特色は、茶の湯のための露地 庭園の本来の姿は山と水が基本であるが、それを、白砂を敷〔安土桃山時代〕この時代は政治上の時代区分としては徳川 が創案されたことである。それまでの庭園はすべて観賞する いて海洋の姿とし、岩を配して山あるいは島に見立てるとい 家康が江戸幕府を開いた一六〇三年 ( 慶長八 ) までというこ ためか、あるいは舟遊びや遣水にみられるような文学的遊び う表現方法である。 とになるが、絵画や工芸、建築、庭園などの芸術の作風は江の庭であったが、露地はそれまでの庭の性格とはまったく異 かんえい 庭園の構成の参考となるべき絵画も、大和絵はすでに衰退戸初期の寛永 ( 一六一一四 ~ 四四 ) ごろまで続いたと考えてよい。つなる、茶室に入るための実用の庭であった。それも最初は おもて ほくしゅう けんらん けいちょうげん わき 期に差しかかり、かわって北宗山水画のような水墨画が盛まり、桃山芸術の特色である豪華絢爛な風潮は、慶長・元「面ノ坪ノ内」とか「脇ノ坪ノ内」とかよばれて、せいぜい んになってきた。とくに「破墨山水」といわれる抽象表現の和 ( 一五九六 ~ 一六一一四 ) のころよりむしろ寛永期のほうが顕著であ一 ~ 四坪くらいの狭い庭空間で、植栽はなく、坪の外は松林 った。この時代、大和絵がまた復興の兆しをみせているが、 高いものが作庭に与えた影響は大きい。さらに河原者以外に とか大きい松が一本あるのみの簡素なものであった。それが とうはくたわらやそうたっかのうさんらくさんせつ も、雪舟のような画僧が作庭に参加したため、水墨の世界がそれよりも長谷川等伯や俵屋宗達、狩野山楽・山雪らの雄大しだいに意匠を整え、雨の日のために敷石や飛石が考案さ ちょうず 庭園に生かされ、工事費が安くつくこともあって、禅的な抽で鮮やかな障壁画の発達が目覚ましい。等伯は大画面の障壁れ、手水鉢や石灯籠、垣根などが取り入れられ、茶室に至る わ 象性の高い枯山水が流行した。 画に古典的な水墨画を復興し、宗達や山楽・山雪は金碧の障通路としての佗びた庭の体裁を完成させたのである。この露 おうにん また応仁の乱 ( 一四六七 ~ 七七 ) 以前は、書院や寺院方丈の南庭壁画で装飾性の強い華麗な作品を残した。 地の意匠は一般の庭園にも応用され、現在にまで及んでい ほうえ と上とみ せんのりきゅう は儀式や法会を営むための広場であったが、応仁の乱以後は 桃山期は戦国の様相がようやく鎮静して、平和な社会を迎る。豊臣秀吉は蘇鉄だけの露地をつくり、千利休在世のころ 儀式や法会が屋内で行われるようになり、これらの広場はい えた時代で、公武僧俗いずれも明日を思い煩うことなく、豊までに二重露地が完成していた。なお、寛永期の特徴とし ばくだい かれさんすい きんべき かめ
どいっし ール共和国の右翼政党。一九一八年一一月、帝 合にはつねにそうであるが には、一つの文とラインゴイは鱗が普通にあるコイ ( ウロコゴこから今日のインダストリアル・デザインの基 章が二様に解釈される可能性が生まれる。たと イ ) よりも成長や生残率が低い。とくにカワゴ礎が築かれた。連盟結成に先だち、ムテジウス政期のドイツ保守党、帝国党、反ユダヤ主義政 ~ 一九 0 一 (l) して党などが結集して創設した政党。農業界、官 えば、 Das Kind tötete die Mutter. とい , っ はロンドンの大使館に勤務 ( 天九六 イの同型接合体 ( ホモサイゴート homozy- 文章は、「その子供はその母親を殺した」とも、 gote) は、致死性のために実在するものは非おり、この時期にイギリスの合理的な住宅建築僚、プロテスタント系団体、都市中間層を基盤 とした。共和国に対する原理的反対と帝制への 「その母親はその子供を殺した」ないし「その 常に少ない。一七八二年にオーストリアでカワや明快な工芸品から多くの示唆を受けたのだっ 子供をその母親は殺した」とも解釈でき、そのゴイが発表されたのが最初の記録である。日本た。結成後、一四年のケルンにおける連盟展な復帰を目標として、共和国支持派や政府の外交 いすれの解釈が正しいかは、 ( 語勢をも含む ) には、一九〇四年 ( 明治三七 ) にドイツのアイ どで近代主義の方向を定め、二七年のシュトウ政策などを攻撃して現状不満派を集め、二四年 コンテクストによって判断するほかない。 Wolf シュ川沿い地方産のカワゴイ雌四尾とカガミゴ ットガルトの住宅展でその成果は頂点に達すには国会第一党になったこともある。二八年フ klopfte das Herz. とい , っ文章は、初、い者には イ雄一尾が初めて移入され、ドイツゴイの名は ーゲンベルクが党首となると共和制の破壊を目 る。の歩みに影響されて、オーストリ 「オオカミが心臓をたたいた」と迷訳されかねこれに由来している。その後、日本のコイとの ア、スイス、スウェーデン、イギリスにも、一 ざす路線をとり、三三年一月ヒトラー政権成立 の際には連立与党として参加したが、六月に解 ない。正解はむろん「ウォルフさんは心臓がど雑種が各地に広まり、現在でも食用ゴイやニシ九一〇年以降に同様の連盟が発足している。 きどきした」で、この場合の Wolf は三格のキゴイのなかに、これら三つのタイプがみられ 〈木村靖二〉 は、一九三三年ナチス政権によって解散させられた。 ざ Deutsches Theater ド 人名である。 Wolf という単語が、「オオカミ」る。ヨーロッパでは、鱗の少ないコイは料理し散させられたが、第二次世界大戦後の五〇年に ドイツ座 〈高見堅志郎〉 ィッの劇場。ベルリンのシューマン通りにあっ という意味で無冠詞・単数の形で用いられるこやすいので評判がよく、成長の速いカガミゴイ再建された。 こくみんにつぐ Re- とはありえない こうした文章が可能なのも、 、三年以来「ドイツ座」とよばれ た劇場が一八ノ が広く養殖の対象にされている。日本では、食ドイツ国民に告ぐ ドイツ語の語順がそれほど固定されていないか用としてのドイツゴイは好まれないが、ニシキ den an die deutschen Nation 哲学者フィ た。九四年オットー・プラームが主宰するよう しゅうすい らである。 〈浜川祥枝〉 になって、けれんみのない演技、アンサンプル ゴイの「秋水」や「ドイツ紅白」などの品種ヒテがフランス軍占領下のベルリンで敢行した 回相良守峯著『ドイツ文法』 ( 一九七九・岩波全書 ) は、ラインゴイがとくによいとされている。一講演。一八〇七年一二月一三日から・ヘルリン学重視の演出、自然主義作家たちの新作の積極的 ▽浜川祥枝著『ドイツ文法の初歩』 ( 一九天 九六八年 ( 昭和四三 ) に西ドイツから、体高が士院講堂で翌年三月まで毎日曜日夕方、計一四上演によって名をなした。一九〇五 ~ 三二年に 白水社 ) ▽同著『現代ドイツ語』 ( 一九七五・白高く、しかも成長の速いカガミゴイが再度移入回行われた。彳。 皮まここでフランス文化に対するはラインハルトに率いられてシェークスビア劇 ざんしん 水社 ) ▽ハンス・エガース著、岩崎英二郎 された。このコイと日本産養殖種のヤマトゴイ ドイツ国民文化の優秀さを説き、これを国民全や現代劇の斬新な上演で世界的名声を得た。三 かんよう 訳『二十世紀のドイツ語』 ( 一九七五・白水社 ) 四年から四四年まではラインハルトの後継者ヒ との雑種であるヤマトカガミとよばれるもの体に広め国民精神を涵養することがドイツ再興 ルベルトによって指導された。現在は東ベルリ ドイツゴイ〔独逸鯉〕 German carp/8 は、両親の種類よりも品質がよく、新しい食用の道であると説いた。その主張に含まれている ゴイとして推奨されている。↓ニシキゴイ 3 民主主義的、共和主義的要素のゆえにこの講演ンに位置して「・ヘルリン・ドイツ座」の名をも 0 ~ き s き、を 0 硬骨魚綱コイ目コイ科のコ うろ , 一 コイ 〈鈴木亮〉 イの変種で、鱗の少ないコイの総称。大形の鱗 は長い間再版を禁止されてもいるが、イエナのち、東ドイツにおけるもっとも重要な劇場とみ こうさくれんめい Deut ・敗戦に続くティルジットの屈辱的講和によってられている。四六 ~ 六三年にはラングホフが指 が側線に沿って一列と、背びれの基部に一列あドイツ工作連盟 びへい るラインゴイ line carp 、背びれの基部と尾柄 scher Werkbund と略す。プロイセナポレオン支配下に置かれた当時のプロイセン導したのち、数年ごとに総監督が交代している の一部にだけ大形の鱗があるカガミゴイ ( 鏡 ンの貿易省エ芸美術部門主任であった建築家へとドイツの状況のなかでは、むしろ国民精神をが、古典劇のほか東欧の現代劇を手がけて社会 鯉 ) および鱗がほとんどないカワゴイ ( 革鯉 ) ルマン・ムテジウス ( 一会一 ー一九一一七 ) が主導し発揚し精神的に解放戦争を準備する大きな力と主義的演劇の基本を示そうとする姿勢が一貫し ^ 宮下啓三〉 なった。↓フイヒテ 〈岡崎勝世〉て貫かれている。 とがある。これらのうち、カガミゴイは成長やて、一九〇七年秋、ミュンヘンで結成されたド さん こっかじんみんとう さんがっかくめい 0 三 生残率がもっとも高く、同系交配をするとすべィッの建築家・工芸家・実業家の組織。新時代ドイツ国家人民党 ドイツ三月革命 がっかくめい てこのタイプのものが出る。しかし、カワゴイ ワイマ月革命 に向けての工業生産品のあり方が検討され、こ Deutschnationale Volkspartei 国 / 第二次大戦後のドイツ 象徴される「中世」封建社会を形成する。 ドイツ史 〔ドイツ史の研究史〕 しかしこの帝国もゲルマン部族国家の連合体としての性格 〔ドイツ史の概観と時代区分〕 を温存し、その対立にローマ教皇権も介入して皇帝と教皇と ドイツ史の概観と時代区分 〔古代〕先史時代 / 古ゲルマンの社会 / 民族大移動 / フ の聖職叙任権闘争となり、教皇権の優位のなかで第一回十字 ランク時代 ドイツ史における「古代」では、先史時代を含め長い時代軍の発動が宣言された。だが、気候が温暖化するにつれ開墾 〔中世〕神聖ローマ帝国の成立 / 皇帝と教皇 / 領邦とを経てゲルマン人が形成され、紀元前三世紀ころから拡大し も頂点に達した一三世紀後半には、皇帝権も失墜し、諸侯の 都市 て古代ローマ世界と接触するに至り、紀元前後から初めて歴自立化による政治的分裂や外国からの干渉もあって、封建的 〔近世〕ハプス。フルク世界帝国の成立 / 宗教改革 / 封建史時代に入る。だが「ゲルマニア」の大地は、ローマ領内に危機を迎える。 反動とバロックの君主たち / 啓蒙専制主義 組み入れられることはなかった。民族大移動に次いで、西ョ 一般には宗教改革を近代の始期とするが、反宗教改革・封 〔近代〕疾風怒濤 / 三月革命と反革命 / ドイツ帝国主義 ーロッパにフランク王国が形成され、ようやくその拡大と分建反動の展開からドイツにおいて特徴的な啓蒙専制主義の崩 〔現代〕ワイマール共和国 / ナチス・ドイツⅡ第三帝裂の過程においてドイツは封建化を進め、神聖ローマ帝国に壊までが「近世」と考えられる。この時代の反動体制と資本 5
ていえん ⑧ハンプトン・コート宮殿庭園 1 6 世紀初めからっく ・きられた宮殿で , ロンドン郊外にある。広大な敷地にい くつかの庭があるが , フランス庭園を範としている ) へネラリーフェ内アセキアのノヾティオアルハンフ ラ宮殿 ( スペイングラナダ ) の隣の丘にある夏の離 宮。 14 世紀初めの造営で , 噴水にはシェラ・ネバダ山 脈の雪解け水をふんたんに使い , 華麗な空間を演出し ている を 1 ⑥ウィーンのシェーンフルン宮殿庭園 建築家工ルラッハが造園も手がけ , 1 8 世 紀中ころ今日の形に整えられた。ネフチ ューンの泉を中心とするオーストリア・ バロックの典型的な庭 ( のアルハンフラ宮殿のミルトのノヾティオスペイ ンのグラナダにある中世イスラムの遺構で , その はとんどは 14 世紀の建造。長方形の池の東西に ルト ( テンニンカ ) が植えられた小中庭 ⑩北京北海公園 , 静心斎裏回廊の石組 北海公園はかっては紫禁城の西苑であっ たところ。かってのおもかげを今日まで 随所にとどめている は中国庭園の特色の一つで、人々は庭園を歩いて 一幅の絵画を鑑賞し、さらに名勝の地に旅する思 いを味わった。こうした庭園は「天を移し、地を ふところ 縮め、君が懐にあり」といわれたように、王家 の権力と財力を誇示するものでもあった。 清代は北京地区を中心として王宮庭園がいちば ん盛んにつくられた時代で、「百里青を浮かべ、 きんべき 金碧あい望む庭園の海」とたたえられたが、一、 六〇年の英仏連合軍に破壊され、現存するものは 少ない けんりゅう 頤和園は乾隆帝の時代の一七五〇年に建設さ れ、たびたび破壊されたが、一九〇三年に復旧さ ろうはく れた現在のものは総面積約二・九平方、「周囲八 キ。に及ぶ。宮殿中庭は左右に老柏・老松を植え、 四季折々の花を鉢植えにして並べた。 総じて中国の庭園は、すべて楽園追求の思想か ら発しており、規模も日本のそれと比べてはるか に大きく、人工による独自の絵画といえる。 西洋の庭園 ヨーロッパの庭園史は、古代エジプトやメソボ タミアにその先駆を求めることができる。古代ギ リシアでは陶器や壁画、遺跡にその姿をとどめて えんゅう いるが、おそらくは果樹園などの実利的な苑囿で あったと思われる。庭園については、『旧約聖書』 の正典および外典の文献にも出現するが、造園作 業がさまざまな建造物と組み合わされて、高度な 内容をもった庭園空間として生まれてくるのはロ ーマ帝国時代からである。 ローマでは、造園は文化創出の一現象として総 合的な内容をもっていた。初期の古代ローマの庭 園では住宅と庭園とが一体化され、住宅部分が戸 外まで延長された意匠であった。ラテンの史書、 文学、書簡などの著作のなかには皇帝、貴族、富 者、有力者たちの造園についての記事が散見され るが、とくに有名なのは、小プリニウスがローマ 北方の田園の二つの別荘ラウレンティナ荘とトス カナ荘について記述した部分で、その詳細な描写 は多くの専門家により想像復元図がつくられ、ヘ レニズム文化の生活内容の豊かさを想像すること ができる。 みどり 13
っ て 対象というものは存しない。それぞれの時代のきないとしたロックをはじめとするイギリス経の哲学が一様に哲学といわれる以上、そこには 哲当ナてつがく philosophy 哲学は、それぞれ異なった対象を選んで研究し験論者とが対立したのであった。↓経験 なんらかの共通のものが存するはずであろう。 カントの哲学はこの合理論と経験論とを総合そしてこの共通なものとは、対象を取り扱う方 〔哲学とは何か〕哲学の対象 / 哲学の方法ているのである。ます古代哲学についてみる 哲学の形式的定義 / 哲学における進と、ソクラテス以前の初期のギリシア哲学の研統一しようとしたものであったが、ここでもこ法にあるのではないかと考えられるかもしれな 究の対象は自然であった。当時、自然は生命をの認識の問題が一つの中心的問題となってい しかし、このような期待もまた裏切られ 歩 / 哲学の諸部門 〔哲学の歴史〕古代 / 中世 / ルネサンス期もち、自ら動くものと考えられており、現在わる。このような認識の問題は、現代に至るまでる。哲学はその方法についても、けっして一定 れわれが考える自然とはかなり異なっている近世哲学の主要な課題となっており、一九世紀のものをもたないのである。 / 近代 / 現代 から二〇世紀にかけても、哲学の課題は諸科学 だがこのことも、考えてみれば当然のことで 〔最近の動向〕英米系哲学 / 独仏哲学 が、しかしとにかく自然というものが哲学の対 象とされたのである。ところが前五世紀後半の の基礎づけを行うことにあると考える新カントあろう。その研究の対象がそれそれの哲学にお 哲学とは何か いてまったく異なっている以上、その対象を取 ソクラテス以後になると、哲学の対象は自然で学派や、言語というものを分析して、それによ あまね って、われわれが一一 = ロ語のもっ文法的形式に欺か り扱う方法もまた異なってくるのは自然のこと 哲学という語は、明治時代の哲学者西周が英はなく、人間的な事柄となった。そして人間の 語のフイロソフィー philosophy の訳語とし魂のよさということが問題とされ、倫理的問題れて誤った思考に陥ることを防ぐことこそ哲学であるからである。たとえば、神を対象とする てつくったものであるが、フイロソフィーとは に関心が注がれたのである。ソクラテスは、彼の課題であると考える分析哲学なども、やはり哲学と科学の基礎づけを対象とする哲学との間 認識の問題を哲学の中心的な対象と考えている に共通の方法がありえないことはいうまでもな 以前の自然を対象とする哲学を否定し、自然に もともとギリシア語のフイロソフィアー philo- いことであろう。それゆえ哲学史上の諸哲学を ものと解することができよう。 sophia に由来し、フイロとは愛する、好むとついての知はよく生きるということに対してな しかし、これに対して、また近世哲学のうちみても、そこには千差万別の方法がみいだされ いう意味の接頭辞、ソフィアーとは知恵とい , つんの意味ももたないと考えた。↓自然 えんえき には、少なくとも認識という問題を哲学の主要る。ある哲学は演繹的方法によって体系を組織 意味であり、したがってフイロソフィアーとは ソクラテスの後を継いだプラトンやアリスト な対象とは考えず、これとは異なった対象を取しようとした。ある哲学はまったく逆に帰納的 知を愛すること、「愛知の学」である。哲学の テレスにあっては、人間的な事柄に関心が向け 哲という字も賢ないし知という意味である。こ られるとともに、自然に対する考察も行われてり扱おうとした哲学も少なくない。たとえば一方法を重んじた。またある哲学は、実在の真の のように哲学とは、その字義からいっても単に 壮大な哲学体系が打ち立てられた。古代哲学の九世紀のヘーゲルやマルクスらにおいては、哲姿はただ直観によってだけとらえられると考え 学の中心的な対象は歴史であったということが た。さらにカントの先験的方法、ヘーゲルやマ 知を愛する学ということであって、それだけで末期、いわゆるヘレニズム・ローマ時代の哲学 はまだ何を研究する学問であるかはすこしも示 になると、哲学の対象はさらに限定され、いかできるであろう。歴史というものがどういう法ルクスの弁証法的方法、フッサールの現象学的 されていない この点に、哲学が何をする学問 にして自己の安心立命を求めうるかという身近則によって動いていくかということを探究する方法など、多くの哲学者がそれそれ異なった方 であるかわからないという考えが一般に流布すな実践的問題が中心となってきた。ストア学派ことが、哲学のもっとも重要な課題であると考法を哲学の真の方法であると考えたのである。 えたのである。ヘーゲルはいわゆる認識論的哲この点についても、哲学以外の諸科学の場合の る原因があるとともに、また哲学という学問のやエ。ヒクロス学派の哲学は、この傾向を顕著に 特質が存しているといえる。↓愛↓知恵 示している。中世になると哲学の対象は自然で学を評して、「認識する以前に認識しようとすほうが同一の方法をとっているといえよう。哲 るのは、水に入る前に泳ぎを習おうとするよう 学には、共通の方法というものも存しないので 哲学以外の学問の場合、その名前を聞いてそも人間でもなく、神であった。中世を支配した ある。↓科学 なものである」と痛烈に皮肉っている。 の内容がまったくわからない学問はおそらく存のはキリスト教思想であったから、中世哲学が さらに一九世紀から二〇世紀にかけての、ニ 〔哲学の形式的定義〕このように哲学には一定 しないであろう。経済学といえば経済現象につ 宗教的色彩を強くし、神についての考察を中心 ーチェ、ベルクソン、ディルタイらのいわゆるの対象も、一定の方法も存しないのであるが、 いて研究する学問であり、物理学といえば物理 問題としたことは当然のことであるといえるで 生の哲学は、非合理的な生を重んじ、その生をこのことから、哲学とは何であるかということ 現象について研究する学問である。もとより経あろう。↓神 とらえることこそ哲学の課題であると考えてい を規定することがきわめて困難であることが知 さらに下って近代になると、哲学の対象はま 済現象とは何か、物理現象とは何かと問い詰め た変化してくる。近世は中世と異なり、神の観るし、またキルケゴール、ヤスパース、ハイデられるであろう。しかし考えてみると、この点 ていけば、一般の人はなかなか答えられないか ッガー、サルトルらのいわゆる実存哲学は、人 にすでに哲学の本質は示されているのである。 もしれない。しかし、とにかくわれわれは経済念がしだいに背景に退き、かわって人間が中心 現象とか物理現象というものをいちおう常識的的位置を占めてくる時代である。人間が自己に 間を絶対に他人と交代しえない実存としてとらそれはすなわち、哲学はどういう対象を研究し え、人間がいかに自らの自由によってその生きてもよいということである。自然でも神でも歴 に理解しているのであり、したがって経済学と対して自信をもち、人間自身の立場で新しくい か物理学という名前によって、それが何を研究 っさいの問題を考え直していこうとする。この方を決断していくかということを、哲学の中心史でも人間でも認識でも、何を研究してもそこ する学問かということをだいたい知りうるのでような時代の風潮にしたがって、哲学の対象は的な問題として考察していこうとする。このよ には哲学の成立する可能性が存するのである。 しかし、もとよりそれだからといって、どんな まず人間の認識という問題となる。すなわち、 うに哲学史に現れる多くの哲学をみても、そこ ある。ところが哲学の場合には、名前を聞いた 人間ははたして何をどの範囲において認識でき にはけっして一定の対象というものは存せず、対象でもそれを研究しさえすれば、それが哲学 だけではその内容を理解することができない このことは、きわめて注目すべきことであろるのかということを探究することが、哲学のもそれそれの哲学は異なった対象を探究しながであるというわけではない。自然科学は自然を っとも重要な問題となったのである。そして、 ら、すべて一様に哲学と称しているのである。研究するが、それはけっして哲学ではない。歴 う。そしてこれは、哲学という学問の対象がけ この問題に対して、人間は理性的認識によってそれゆえ、われわれは哲学をその対象から規定史学は歴史を研究するが、それもけっして哲学 っして一定していないことを示している。 〔哲学の対象〕哲学は紀元前七世紀ごろ古代ギ真理をとらえうると考えるデカルトをはじめとすることはできないのであり、ただ「愛知のではない。自然とか歴史とか、他の科学も研究 学」とでもいうほかしかたがないのである。 する対象を研究しながら、科学でなく哲学が成 リシアにおいて始まった学問であるが、この時する合理論者と、人間の認識が成り立っために 代以来現代に至るまでの西洋における哲学思想 は経験というものが必要であると考え、したが 〔哲学の方法〕しかしこのように対象の側から立するには、そこに科学とは異なる哲学固有の の変遷を眺めてみても、そこには一定の研究の って人間は経験を超えた事柄については認識で哲学を規定することはできないとしても、多く 関心が存するといわねばならない 138
にすることはむすかしい。手と道具の適応はそ 掌 ( 手のひら ) を広げてすべての指をそろえ 操作がどれだけ独立しているかの程度に依存す 第一の段階は、第三紀鮮新世のアウストラロ うした背景のなかで生まれている。いわゆる人 る、つまり道具は手加減と器用さの融通性に依ピテクスとよばれる人類の祖先が、ありあわせて伸ばした状態にし、 月指側で物をたたくと ーとなり、またその状態で掌 存し、機械は自動作用による機能の専門化によの天然石や粗製の石器を道具として使った「曙き、手はチョッパ 間工学の世界でいうマン・マシン・インターフ るものである、という。そして、これらの中間 石器」の時代である。次の段階は、氷河期にあ側で物を広げたり伸ばしたりするとき、手は篦エースの問題である。これは、機械類に取り付 に工作機械があり、工作機械は精巧な機械の正たるはば六〇万 ~ 一万二〇〇〇年前の旧石器時の役割をする。示指を一本だけ伸ばして、指先けられている押しボタンやスイッチ、回転ノ 確さと熟練した職人の介添えをあわせもってい 代で、まず偶発的な道具の製作をしたピテカンで物の表面にひねる運動をするとき、その指は・フ、ハンドルなどの操作具と、人間の手や足の きり ると述べている。換言すれば、機械とは機能のトロプス類またはヒト属の最古の種の前期旧石錐の働きをする。また掌にくばみをつくって両寸法や形態、その出力などがうまく適応してい るか否かの問題で、もし適応していない場合に 専門化に重点を置き、道具は融通性を表現した器時代の夜明けである。続いて、恒常的な道具手を小指側で接触させると手は器にもなる。こ ものである。 の製作がみられる前期旧石器時代である。この のように手は掌の状態を変えたり、指の位置をは使いにくくなるばかりでなく、誤操作を生じ ベキン 道具とい , っことばとともに、しばしば器具と ころになると、北京原人の発掘とともに、人の変化させることによってさまざまの種類の道具事故の原因ともなりかねない。そこで人間のさ いうことばが用いられる。日常においても道具手が加えられた多くの石器がみつかっており、 や容器になる。また握りこぶしは武器の役割も まざまの特性に見合った操作具が必要となって くる。↓操る と器具はあいまいのまま使われているが、ノワ ホモ・サピエンスの先行者による恒常的な道具する。 レは、道具、器具、武器の区別について、「道の製作のなかに標準化がみられるようになる。 つまり、大量生産時代の道具類は、だれが使 取り外しのできる付加物としての武器を含め れき はくへん 具は能動的であり創造してゆく原理に相応し、 っても使いやすいように、人間の諸特に関す たとえば、礫または板状の石の両側から剥片をた道具は、人類の祖先が直立二足歩行を始め、 る多くの資料を集めて、その資料を基にして、 器具は受動的で生命の保持に役だつものであはぎとり、鋭い縁をもったとがった舌のような手が自由に使えるようになって初めて登場し、 り、武器はなによりも破壊的である」としてい 形をした握斧は標準化がみられる最初の道具で手と歯の機能を補った。つまり人類は、ほかのその道具や製品を使う対象に見合うように、道 る。つまり、道具は農具や大工道具などのようある。 動物のように鋭い歯も力強い手ももたず、走カ具や製品を設計し、生産していくのである。 ちやわん に生産のために用いられるもの、器具は茶碗や さまざまな発展をみせる文化の源泉となった にも恵まれなかったために、手を使って石を飛〔道具の種類〕道具は人類の歴史とともに数多 ・一んーう 机・椅子、・ヘッドなどのように生命を維持して基本的な石器加工の技術は、アフリカからアジび道具とし、木の棒や動物の長骨を棍としてくのものがつくられてきたが、その原形は古代 ゆくときに使われるものであり、武器は動物やアおよびヨーロッパに広がり、アフリカでは石用いた。また獲物の皮をはいだり、肉を断ち切ギリシア時代にほば出そろっている。一九世紀 人間を殺傷するために使われるものである。 核の握斧が、東アジアでは標準型のチョッパー るために、鋭い縁のある天然の石を用いて、手の社会学者エスピナスと fred Espinas は、道 〔聖なる具と生活の具〕人類の歴史において、 にみられる石核文化が、そして西アジアとヨー や歯の働きを補い、やがて恒常的な道具の製作具ということばが用いられる範囲を示すため に、ギリシアのエ人たちが使った道具をあげて 人は生き続けるためにまず置かれた環境に適応ロッパでは剥片文化がそれぞれ発達している。 に移行していく。 おの いるが、それらは、てこ、くさび、斧、槌、 しなければならなかった。さらにそれを支配す中期旧石器時代から中石器時代には複雑な形を〔手と道具の適応〕手加減と器用さにゆだねら ひじがねかい ほぞあな るための技術を身につけなければならなかった した道具が、引き切る、裂く、、削る、磨くなどれてその効力を発揮する道具は、ます手と道具鋸、錠前、金属の柄、孔のあいた肱金、橈と すき つのぞうげ し、そこから道具もっくられた。 帆、舵、錐、錘む・織る道具、犂、孔をあける の技術を取り入れて、動物の骨や角、象牙などの一体化、つまり道具は手になじむようにつく 道具、ろくろなどである。 人類学者のフレーザーは、人類の初期文化をでつくられており、また多くの道具が道具をつられる必要がある。古代の岩壁画に描かれてい じゅじゅっ またフランスのプルードン P. J. Proudhon 呪術のなかに位置づけ、理論的呪術を擬科学 くるための道具としてつくられた。 る道具と手が一つになっている絵が象徴してい としての呪術、実際的呪術を擬技術としての呪 力学的原理を利用した道具 ( 機械 ) がホモ・ るように、道具は人間が使いやすい寸法や筋力 ( 天 0 九ー六五 ) は「人間が仕事をするために使う 術であるとしているが、おそらく呪術を通してサピエンスによって数多くつくられたのが、新などに見合ったものでなければならない。そのもっとも基本的な、もっとも一般的な道具、つ とって 集合意識に支配されていた原始人は、その生活石器時代および金属器時代の特徴である。道具代表的なものが手と把手との関係である。把手まりそれらの道具の帰するところは、てこと棒 のなかで呪具を用いていたであろう。そこではの有効な利用のためには、二〇世紀初頭の道具は、すでに古代の道具につけられ、体験的に手である」と述べ、道具をアルフア・ヘットと同じ 道具は聖なる具として用いられたのである。一 の研究家へーリヒ Friedrich Herig のいう、 になじむようにつくられてきた。たとえば、わ数に分類することを試みているが、それによる 方、俗なる生活の必要から道具の製作が始ま手と道具の接する面 Handseite と物を加工すが国の物づくりの世界で長い歴史をもっ道具に と機能別の道具の分類は次のようなものであ り、擬技術として存在した呪具は、俗な道具に る面 Arbeitsseite が適切でないと十分な効果大工道具があり、道具づくりの上手な大工ほどる。 置き換えられる。 < ー棒あるいはてこ ( 棒、杭、支柱など ) 。 を発揮することはできないが、すでにこの時代腕がよいといわれてきた。物を加工する面すな がねかぎ かんな ー鉤類、曲がった棒 ( 釣り針、懸け金、鍵、 日本においても、「道具」は仏教のなかで用 に道具に柄がつけられ、その作用する縁や先端わち、のみや鉋などの刃先は、それそれの加工 もり いられたことばであって、「蓄うる所の物、身 に適切な運動を与えて、加工する対象物に孔をに見合った刃先角に大工自らの手で研ぎ込ま錨、衲、銛など ) 。 0 ー挟む道具 ( やっとこ、 たす すなわこ のこぎりかなづち を資け道を進むべき者、即ち是れ善法を増長すあけたり、削ったりする方法が取り入れられてれ、道具と手の接点である鋸や金槌などの柄万力、二つの鉤の組合せなど ) 。ー縛るもの あごん るの具」 ( 中阿含経 ) と記されている。つまり いる。てこの原理を利用した槍投げ器がつくら は、大工自身の手の握りに適合する形につくら ( 糸、綱、鎖、柔らかい木の茎 ) 。ーたたく道 いしうす 道具とは人間の生を助け、人間が仏道に従ってれたのもこの時代である。 れる。大工は自分の道具を他人に貸すことも嫌具 ( 大槌、棍棒、槌、石日など ) 。ー先のと 生きるための具をいう。いずれも聖なる具であ〔道具器官としての手と道具〕ノワレは、人間 う。このように厳しい条件のなかで生み出されがった道具 ( 槍、投槍、矢、釘など ) 。コ って、これに対して俗なる生活用具には調度との手の発展段階を三つに分けて、①運動器官とる道具は、道具機能の面からみても優れた効果イン。 =—斧 ( 包丁、刀、剣 ) 。——鑢。 すき ほそく いうことばが使われた。 鋸。ーすくう道具 ( 鋤、スコップ、スプー しての手、②捕捉器官としての手、および③道を発揮する。 くまで またぐわくし ~ 、〔道具の歴史〕人類の道具技術の進化のなか具器官としての手をあげ、手が道具器官として しかし今日のように、機械に限らず道具や製ン、鏝 ) 。ー股鍬 ( 櫛、熊手など ) 。・ Z— 一フで、道具の製作とその使用にはいくつかの段階その資格をかちえたのは「つかむ」ことの働き 品が大量生産される時代では、道具が個人個人傾斜。ーころ ( 車輪や滑車に回転を与えるも レ」がみられる。 によると述べている。↓つかむ の身体寸法や出力に見合った形で使われるよう の ) 。管 ( 管、サイホン、排水溝、煙突 ) 。 あくふ やり うつわ かぎ やすり