歴代 2 3 4 5 6 7 8 9 10 1 1 1 2 1 3 15 16 17 18 19 20 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 在位年 てんのう 在位年 天皇名 神武 綏靖 懿徳 孝昭 孝 : : 霊 孝元 開化 崇神 ー垂こ : 景・イ丁 仲哀 応神 身曼中 雄略 顕宗 を : 賢・ 武烈 継体 : イヒ 欽明 敏達 用明 推古 * 舒明 皇極 * 斉明 * 大智 リムー文 ま寺充 * 文武 元明 * 彗 ! 正に 淳仁 利恵 * 桓武 平城 淳和 仁明 : 青不日 陽成 ! 宇 - 多 髦酉胡 朱雀 村上 冫令 . 泉 . 卩」鬲虫 イと山 じんむ すいぜい あんねい いとく こうあん こうれ、、 こうげん かいか すしん すいにん けいこう せいむ ちゅうあい おうしん にんとく りちゅう はんせい いんぎよう あんこう ゆうりやく せいねい けんそう にんけん ぶれつ けいたい あんかん せんか きんめい びだっ ようめい すしゅん すい、 じよめい こうぎよく うとく さいめい てんじ うぶん てんむ しとう もんむ げんめい げんしよう しようむ うけん じゅんにん しようとく こうにん かんむ さが しゅんな にんみよう もんとく せいわ ようぜい こっっ うだ オし、ご すざく むらかみ れいせい えんゆう かざん 名 神日本盤余彦尊 神渟名川耳尊 磯城津彦玉手看尊 大日本彦耜友尊 観松彦香殖稲尊 日本足彦国押人尊 大日本根子彦太瓊尊 大日本根子彦国牽尊 稚日本根子彦大日日尊 御間城入彦五十瓊殖尊 活目入彦五十狭茅尊 大足彦忍代別尊 稚足彦尊 足仲彦尊 誉田別尊 大鷦鷯尊 去来穂別尊 多遅比瑞歯別尊 雄朝津間稚子宿禰尊 穴穂尊 大泊瀬幼武尊 白髪武広国押稚日本根子尊 ( 皇極天皇重祚 ) ( 孝謙天皇重祚 ) 大炊王 阿倍 首 水高 安閇 珂瑠 野讃良 大海人 大友 中大兄 田村 豊御食炊屋姫尊 泊瀬部尊 橘豊日尊 渟中倉太珠敷尊 天国排開広庭尊 武小広国押盾尊 広国押武金日尊 男大迹尊 小泊瀬稚鷦鷯尊 億計尊 弘計尊 師貞 守平 憲平 成明 寛明 敦仁 定省 時康 貞明 惟仁 道康 正良 大伴 神野 安殿 山部 白壁 みまきいりひこいにえのみこと いくめいりひこいさちのみこと 986 ~ 1011 1011 ~ 1016 1016 ~ 1036 1036 ~ 1045 1045 ~ 1068 1068 ~ 1072 1072 ~ 1086 1086 ~ 1107 1107 ~ 1123 1123 ~ 1141 1141 ~ 1155 1155 ~ 1158 1158 ~ 1165 1165 ~ 1168 1168 ~ 1180 1180 ~ 1185 1183 ~ 1198 1198 ~ 1210 1210 ~ 1221 1221 ~ 1221 1221 ~ 1232 1232 ~ 1242 1242 ~ 1246 1246 ~ 1259 1259 ~ 1274 1274 ~ 1287 1287 ~ 1298 1298 ~ 1301 1301 ~ 1308 1308 ~ 1318 1318 ~ 1339 1339 ~ 1368 1368 ~ 1383 1383 ~ 1392 1331 ~ 1333 1336 ~ 1348 1348 ~ 1351 1352 ~ 1371 1371 ~ 1382 1382 ~ 1412 1412 ~ 1428 1428 ~ 1464 1464 ~ 1500 1500 ~ 1526 1526 ~ 1557 1557 ~ 1586 1586 ~ 1611 1611 ~ 1629 1629 ~ 1643 1643 ~ 1654 1654 ~ 1663 1663 ~ 1687 1687 ~ 1709 1709 ~ 1735 1735 ~ 1747 1747 ~ 1762 1762 ~ 1770 1770 ~ 1779 1779 ~ 1817 1817 ~ 1846 1846 ~ 1866 1867 ~ 1912 1912 ~ 1926 592 ~ 628 629 ~ 641 642 ~ 645 645 ~ 654 655 ~ 661 661 ~ 671 671 ~ 672 673 ~ 686 686 ~ 697 697 ~ 707 707 ~ 715 715 ~ 724 724 ~ 749 749 ~ 758 758 ~ 764 764 ~ 770 770 ~ 781 781 ~ 806 806 ~ 809 809 ~ 823 823 ~ 833 833 ~ 850 850 ~ 858 858 ~ 876 876 ~ 884 884 ~ 887 887 ~ 897 897 ~ 930 930 ~ 946 946 ~ 967 967 ~ 969 969 ~ 984 984 ~ 986 かんやまといわれひこのみこと かんぬなかわみみのみこと しきつひこたまてみのみこと おおやまとひこすきとものみこと みまつひこかえしねのみこと やまとたらしひこくにおしひとのみこと わかやまとねこひこおおひひのみこと おおやまとねこひこくにくるのみこと おおやまとねこひこふとにのみこと おおたらしひこおしろわけのみこと わかたらしひこのみこと おおはっせわかたけのみこと あなはのみこと おあさづまわくごのすくねのみこと たしひのみすはわけのみこと いざはわけのみこと おおさざきのみこと はんたわけのみこと たらしなかつひこのみこと しらがのたけひろくにおしわかやまとわこのみこと あめくにおしはらきひろにわのみこと たけおひろくにおしたてのみこと ひろくにおしたけかなひのみこと おおどのみこと おはっせわかさざきのみこと おけのみこと おけのみこと おおいおう あペ おびと ひだか あえ かる うののさらら おおあま おおとも なかのおおえ もろさだ もりひら のりひら なりあきら ひろあきら あつぎみ さだみ ときやす さだあきら これひと みちやす まさら おおとも かみの あて やまペ しらかべ かる たから たふる とよみけかしきやひめのみこと はっせべのみこと たちはなのとよひのみこと ぬなくらふとたましきのみこと 歴代 66 67 68 69 70 天皇名 後一条 後未雀 後冷泉 後三条 いちじよう さんしよう こいちしよう こすざく これいせい ごさんしよう ( きんしよう ) たいしよう めいじ こうめい こうかく ごももぞの ごさくらまち ももぞの さくらまち なかみかど ひがしやま れいげん こつみよう めいしよう ごみずのお ごようせい おおぎまち ごなら ごかしわはら ごっちみかど ごはなぞの しようこう ごえんゆう こうごん すこう こうみよう こうごん ごかめやま ちょうけい ごむらかみ はなぞの ごにしよう ごふしみ ふしみ かめやま ごふかくさ ごさが ししよう ごほリかわ ちゅうきよう しゅんとく っちみかど ごとば あんとく たかくら ろくじよう ごしらかわ このえ すとく とば はりかわ しらかわ 名 イ裳 ( 二 阜 : 貞 享攵わ文 敦良 見イ二 - 尊イ二 72 73 74 75 76 77 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 92 93 94 95 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 1 1 2 1 1 3 1 14 1 15 1 1 6 118 119 120 121 122 123 124 白河 堀河 鳥羽 近衛 後白河 安徳 後鳥羽 土御門 順徳 仲恭 後堀河 四条 後嵯峨 後深草 亀山 後宇多 伏見 後伏見 後二条 花園 96 後醍醐 97 朝後村上 後亀山 光厳 朝光明 崇光 後光厳 後円融 後小松 称光 後花園 後土御門 後柏原 後奈良 正親町 後陽成 後水尾 明正 後光明 後西 霊元 東山 中御門 桜町 桃園 後桜町 * 後桃園 光格 仁孝 孝明 明治 大正 今上 北 貞 てイ二 顕仁 イ本 : 牙隹・仁 : 第イ二 順仁 憲、イ二 。言イ二 . 尊 3 及 ) イ二 気アわ文 ) 變イ二 一秀・仁 : ク、 : 恒仁 熙仁 胤仁 邦治 尊治 義上 : 寛わ文 熙成 ー量 . イ二 - 豊イ二 : 興イこ 弥仁 系者・仁 : 卓イ二 ・実を : 月劵 : 方 1 仁 : : 興 . ・子 . 良に : - 慶 : 昭仁 智子 ー兼イ二 辛充イ二 ー嘉イ二 谷手こ かねひと おきさだ あつひら あつなが ちかひと たかひと ひろひと よしひと むつひと おさひと あやひと ともひと ひでひと としこ とおひと てるひと やすひと あさひと さとひと ながひと つぐひと おきこ ことひと かたひと みちひと ともひと かつひと なるひと ひこひと みひと もとひと おひと いやひと おきひと とよひと かすひと ひろなり ひろなり のりなが たかはる とみひと くにはる たねひと ひろひと よひと つねひと ひさひと くにひと みつひと ゆたひと かねなリ もりなリ ためひと たかなり ときひと のりひと のぶひと もりひと まさひと なりひと あきひと むねひと たるひと さだひと 1926 ~ 注 : * 女帝。在位年は践祚から譲位または死没年まで。天智 , 持統は称制年も含む 416
とうじ 最く 東寺は官立護国寺、密教道場に加えて大師霊場されたもので、桃山建築の客殿は国宝である。 も代、来おを き一いいん 中時」加て想て年多 ↓空海 〈金岡秀友〉 6 でもある。空海の住房であった西院にはもと不 塔戸一 ) 日し思しの まっ くじぞうやく の江 ) 大置教成一亠そで 動明王が祀られていたが、鎌倉時代に前堂に空〔東寺領〕東寺に対して年貢、公事、雑役など みえいどう しようえん は安密構建 にをのをの日 海の像が安置されると、大師堂、御影堂とよばを負担する末寺、荘園、散在所領、造営料国、 さんじよ る「 ( 亶像海 . 羅弋 1 の イ 2 海るれるに至った。現在の建物は一三八〇年 ( 天授散所などをさす。 す高、弥諸空 , 荼時月 - ) ん 1 」うぶじ ぐふくじちんのうじぜんつう 存総 須のは曼町 2 空す し一 - 印い匕日 六・康暦一 D の再建であるが、そのころから大 末寺には、金剛峯寺、弘福寺、珍皇寺、善通 現。宝。尊置体室 さんけい まんだらじ ほううんじ ほうえ 。い国部幻配立まい法大参 師堂に空海の徳を慕う多くの人々が参詣するよ寺、曼荼羅寺、法雲寺などがあり、東寺の法会 うム法か 塔高。内にのた引 ぎよ・つりよう ム々 重も建堂心そし冓い弓 うになった。いまでも毎月二一日の命日に大師の供物や饗料を勤仕していた。 五と再講中 , 現 = 終の人 みえく せおおくに かわい ①つの②をり表る③後の 東寺草創期の荘園所領は、伊勢大国荘・川合 堂で行われる御影供 ( 正御影供は四月二一日 ) せつったるみ たんばおおやま は「弘法さん」とよばれて大ぜいの参詣者でに荘、摂津垂水荘、丹波大山荘、東寺寺辺水田な おわりおおなり ぎわう。 どで、のち尾張大成荘を加えて、これらの荘園 ちょうじやわたりりよう 〔文化財〕建造物には創建当初のものはない は平安時代末期には長者渡領となり、その しぎよう くそう じきどう が、南大門から金堂、講堂、食堂と一直線に並後、荘務権は執行そして供僧へと移っている。 ぶ伽藍配置は奈良の諸大寺の伝統を受け継いでついで中世における寺領増加の動きは次の三つ にんなじばだいいんぎようへん いる。五重塔 ( 国宝 ) は総高約五五、日本の に分けられる。第一は、仁和寺菩提院行遍の おむろ せんよう 塔のうち最高最大のものである。現在の塔は一働きかけによる宣陽門院、仁和寺御室の所領寄 いよゅげしま あき いえみつ やまとひらのどの 六四四年 ( 寛永一一一 ) 徳川家光の寄進により再進である。大和平野殿荘、伊与弓削島荘、安芸 しんちよくしでんすおうあきほふたじま びぜん 建されたもので、初層内部の板壁には真言八祖新勅旨田、周防秋穂二島荘、備前鳥取荘 ( の わかさたら 像、天井には花文が極彩色で描かれている。そち丹波野口荘にかわる ) 、若狭太良荘などが供 じゅうはつく のほか建造物では金堂 ( 桃山時代 ) 、大師堂僧料荘にあてられ、それによって十八ロ供僧 しゅうえ れんげ ( 室町時代 ) 、蓮華門 ( 鎌倉時代 ) が国宝に、講の基礎となる衆会組織が発足した。第二は、鎌 かんじよう 堂 ( 室町時代 ) 、灌頂院 ( 江戸時代 ) などが国倉後期から南北朝期にかけての公家・武家によ 重要文化財に指定されている。寺宝は、空海がる供僧・学衆の新たな設置とその料荘の寄進で 、、一唐から持ち帰 0 た多くの遺品をはじめ、平安時ある。後宇多院廿。一口供僧・学衆の新補と かみかつら いんの やましろはいし 代以来の彫刻、絵画、工芸、文書などおびただあわせて、山城拝師荘・上桂荘・八条院院 ちょうはりまやの ひたちしだ しい数に上り、国宝、国重要文化財も非常に多町、播磨矢野荘、常陸信太荘を寄進、後醍醐 かん ほうそうごんいんしつむしき く、仏教美術の宝庫といわれる。講堂内には中天皇は勧学会衆に宝荘厳院執務職を、講堂・灌 ちょういん′」ま さいしようこういん ばさっ 央に五如来像、東方に五大菩薩像、西方に五大頂院護摩供僧に最勝光院執務職を、不動堂不 じとう みようおう びっちゅうにいみ ばんてんたいしやくてん 明王像、東西に梵天・帝釈天像、四隅に四天断護摩供僧に大山・太良・備中新見各荘地頭 王像 ( 以上すべて国宝 ) の計一一一尊を安置。そ職をあてた。両執務職に伴うおもな荘園は、宝 おうみみむら はやみ の配置は空海が密教の理想を具現しようとした荘厳院が近江三村荘・速水荘、丹波葛野荘、 とおとうみはつくら あわ ものとされ、また諸像は密教彫刻最古の傑作と遠江初倉荘、阿波大野荘、最勝光院が備中新 ひごかみくら ひぜんまつら して重んじられている。大師堂には不動明王見荘、周防美和荘、肥前松浦荘、肥後神倉荘、 はらだ むらくし ゃなぎはら はちまん 像、僧形八幡神像、女神像、神像 ( 以上国宝 ) な遠江原田荘・村櫛荘、山城柳原などである。 しようらい とばっぴしやもんてん あしかがたかうじ はちまんぐう ど、食堂には唐から請来された兜跋毘沙門天南北朝期に入って足利尊氏が鎮守八幡宮に山城 ぜかみしも 像 ( 国宝 ) などの名品を安置している。絵画で久世上下荘地頭職を、大勝金剛供・千手供供僧 みまさか まんだら かわちしんがい びんごいんのしま は五大尊像、真言七祖像、両界曼荼羅図、十一一 に河内新開荘 ( のち備後因島荘、摂津美作荘に けんだ よしあきら うえまっ びようぶ かいふまきえけさ かわる ) を寄せ、足利義詮が山城植松荘地頭 天屏風など、工芸品には海賦蒔絵袈裟箱、韃陀 したんらでんしやりれん 穀糸袈裟、紫檀塗螺鈿装舎利輦のほか、密教法職を寄進している。第三は、鎌倉後期に始まり みえいどう こんごうばんごこれい 具 ( 金剛盤、五鈷鈴、五鈷杵 ) など、書では室町期に盛行した、大師信仰に基づく御影堂へ じよう せきとく をはじめ諸堂を再興した。明治期には、神仏分「風信帖」の名で知られる弘法大師筆尺牘、最の山城散在所領の寄進である。 び民衆の尽力でそのつど再興された。しかし、 たっちゅう このように主として供僧・学衆料所を中心に 一四八六年 ( 文明一八 ) の京都徳政一揆のと離、廃仏棄釈によって多くの塔頭が廃された。澄筆「弘法大師請来目録」などが国宝に指定さ とうばうき 明治初年に真一一一一口宗の総本山となったが、のち諸れている。また、東寺の寺史『東宝記』 ( 国宝 ) 形成されてきた中世東寺の荘園所領は、供僧・ き、土一揆勢が当寺に立てこもって放火したた かいじん め、金堂以下ほとんどの建物が灰燼に帰した。派と分離し、一九七四年 ( 昭和四九 ) 東寺真言や、かって東寺が所蔵していた二万点余の文書学衆が組織する十八ロ方、廿一口方、学衆方、 ひやくごうもんじよ やましろ とよとみ 豊臣秀吉は一五九一年 ( 天正一九 ) に山城国内宗が結成され、その総本山となる。空海のとき「東寺百合文書」は古代・中世史研究に不可欠最勝光院方、宝荘厳院方、鎮守八幡宮方、不動 ) ) しちにちのみしほ あんど の史料として重視されている。↓東寺百合文書堂方、植松荘方などの機構によって支配されて に始められた後七日御修法は毎年一月八 ~ 一 の二千石余を寺領として安堵。続く徳川幕府も かんち ごうだ いた。そのほかにも、造営方の管領する山城巷 なお、塔頭の観智院は後宇多天皇により創立 それを朱印寺領として認めるとともに、五重塔四日に全真一一一一口宗合同のもとに厳修されている。 ' 、・ミ物当 いっき 、東寺 がらん かどの
プつのを幸いに、地獄へ連れて行く。ォルフェは喜要因ではなく、人格的要素の力も大きい、天才であるらしい。今後は、これら はかならずしも学校秀才ではない、天才と高知を勘案した新しい研究が進み、 」ぶが、人間社会を代弁する世論にたしなめら なぞ ことなどがはっきり天才の謎の解明が期待されてい れ、天国のジュピターのところへ妻を連れ戻し 能指数とは同一ではない、 ん に行く。ところがジュピターはエウリディーチする。近年、創造性テストの研究が盛んなのる。↓英才教育〈藤永保〉 さんず で 工を見て一目ばれ。連れ帰っても、 しいが、三途は、知能テストが知性の一部分しか測定しえて回クレッチマー著、内村祐之訳 の川を渡るとき、振り向いてはならないとい 『天才の心理学』 ( 一九五三・岩波 いないことへの不満に基づく。興味深いのは、 書店 ) ▽ランゲ・アイヒバ う。二人が川を渡りきろうとしたとき、雷鳴と知能テストと創造性テストの成績の間にはかな どろき、オルフェは振り向いてしまう。そしてらずギャップがあり、両者はかならすしも並行 ウム著、島崎敏樹・高橋義夫 山 ダ ォルフェは羊飼いの娘と、エウリディーチェは しないことである。創造生テストが独創的業績 訳『天才』 ( 一九五三・みすず書 ジュピターと結ばれて大喜びだが、世論と地獄を予測できるかどうかはまだ未解決であるが、 房 ) ▽ャスパ ース著、村上 仁訳『ストリンドベルクとゴ の王は浮かぬ顔である。オペレッタの原点とも 少なくとも知能指数による常人・天才連続説は を いうべき作品で、フィナーレを飾るガロップ調 ほとんど信頼を失った。 ッホ』 ( 一九五一一・創元社 ) ▽千 る のバレエ音楽は、フレンチ・カンカンの音楽と 〔第ニの立場〕第二の質的差異を強調する立場 谷七郎著『漱石の病跡』 ( 一九 え せつけん して世界を席巻し、無声映画の大活劇の伴奏音 は、ロンプローゾの天才狂気説に端を発したも 六三・勁草書房 ) そ 楽としてもよく使われた。 でんさいか朝鮮、高 〈寺崎裕則〉ので、精神医学者に多い。この考えは、当然、田柴科 方 後 天才は特殊の遺伝因子によるという遺伝説と結麗の代表的な土地支給制度。田 電弧炉でんころ 0 アーク炉 と しようき一い び付く。ドイツの精神医学者ランゲ・アイヒバ 地と柴地 ( 樵採地 ) が科 ( ラ テンサイ 0 サトウダイコン 天 ンク ) に応じて両班、軍人らに る 天才てんさい高度の創造活動を行い、まウム Lange Eichbaum によれば、古来からの あ に支給されたので田柴科という。 たは傑出した社会的業績を達成するなど常人よ天才三〇〇 ~ 四〇〇人についてみると、生涯 腹 ランクが低い場合には田地だけ りもはるかに優れた能力、才能を示す人物。こ 一度は精神病的状態を表した人の比率は一二 ~ 中 の の能力については二つの見方がある。第一は、 が支給された。九七六年に初め 一三 % に達し、平均人口の〇・五 % より異常に 脈 山 天才と常人の差は量的なものにすぎないとする高い。さらに最高級の天才三五人を選ぶと、精て制定され、以後たびたび改定 山 立場。第二は、その差は質的であると考える立神病的なもの四〇 % に及び、病的なものとの結 されたが、一二世紀に変質し、 場である。 び付きが争えないという。クレッチマーもま一三世紀中葉には崩壊した。田 脈 〔第一の立場〕近年までの心理学では、知能テた、人間の才能と遺伝的体質との結び付きを論柴科で支給された田 ( 科田 ) 山 山 ストの実用的成功とその研究の進展を背景とし じ、カントのような細長型体質ー分裂気質の天は、先祖から代々受け継ぐとい 天 て、天才とはきわめて高い知能指数の持ち主を才と、フンポルトのような肥満型ーそううつ質う意味で永業田と考えられてお きゅうしゅん さし、したがって常人と質的に異なるわけではの天才との類型を分けている。フロイトもま り、科田被給資格を得た者が父祖・親族から相 は山頂から中腹にかけ急峻な開析断層崖をな あそこれなお ないという見解が強かった。たとえば、知能テた、たとえばシェークスピアはきわめて深いエ続すべき田地を用意して国家に申請し、国家がす。山頂には南北朝時代自刃した阿蘇惟直の供 げんかいなだ ストの研究者ターマンは、一四〇以上の デイプス・コンプレックスを抑圧しており、そ規定額の範囲内でそれを認定するという支給方養塔などがあり、頂上から北に玄界灘、南に雲 ぜん 人々の出現頻度は〇・二五 % にすぎず、これられが彼のテーマとして表れ多くの人の共感をよ式がとられた。科田では主として佃戸から収穫仙岳やときに阿蘇山の噴煙などが遠望できる。 の人が天才または英才だとしている。彼は、カぶのだと論じている。これは、遺伝を強調する高の五〇 % をとる小作制経営が行われたが、や天山県立自然公園の中心で登山者が多く、九合 リフォルニアの—C 一四〇以上の英才児を多年わけではないが、特定個人の特定の病理的心性がて佃戸から定額の柤をとる方式に転換してい 目にある農民崇敬の天山神社上宮までは自動車 ったと考えられる。 にわたり追跡研究して、これらの子供は後年に が創造性を生み出すとする点で、やはり一種の 〈浜中昇〉道も通ずる。登山の古い三つの道筋には下宮三 おろし てんさいとうテンサイ ( サトウダイ 社が鎮座する。平野の人々は冬の天山颪に震 なってもは不変であり、学力、学歴に優狂気説であるといえよう。右の所説からは、天甜菜糖 れ、社会的地位や収入も高いことを示した。し才についての精神症状の発生と経過を追跡し、 コン ) の根を原料にした砂糖。。 ヒートシュガえ、山頂の雲のようすで気象など判断したと伝 さんろく かし、なかには、高いをもちながら情緒不それが創造といかにかかわるかを究明しようと ビート糖ともいう。テンサイとサトウキビ える。山麓一帯にミカン園が開け、また厳木ダ 安定のため失敗に終わったケースも一部認めらする病跡学とよばれる研究分野が開ける。ャスは砂糖の二大原料で、日本では甜菜糖の生産量 ムや天山揚水発電所などの開発も進行中であ 〈河野友美〉る。 〈川崎茂〉 れた。また、これら英才児中から予期したよう ースによるストリンドベリとゴッホの分析はのほうが多い。↓砂糖 せふり ふるゆ な創造的業績をあげた人はほとんど出なかっ この分野の古典として著名で、わが国でも近年、天山てんざん佐賀県中央部にある、脊振二万五千分の一地形図「古湯」「小城」 そうせき とうそん にほんでんきさんぎようろうどうくみあし でんさん <> 日本電気産業労働組合 た。さらに、天才といわれる人々の学校時代の夏目漱石、島崎藤村、宮沢賢治などさまざまの山地南西端の山。古来農民の崇敬を集めた霊山電産 おぎ ひがしまつうら 成績を調べると、エジソンやアインシュタイン作家についての研究が盛んになってきている。 で知られる。小城郡小城町、多久市、東松浦天山山脈てんざんさんみやく / ティエンシャンシ きゅうらぎ しんきよ、つ の例で知られるように、全科目好成績というい しかし、創造性研究の進展により、天才は単純郡厳本町、佐賀郡富士町にまたがる。標高一〇ャンマイソ連領中央アジア東部から中国新疆 きよう わゆる優等生型はむしろ少数で、特定の科目に な一つの因子に還元されない複雑多岐なもので四六ト ,. 県下では経ヶ岳 ( 一 0 七六 ) 、脊振山ウイグル自治区中央部までを東西に走る山脈。 熱意と才能は示すものの、成績の不均衡の目だあることが明らかとなってきた。たとえば、創 ( 一 0 五五 ) に次ぐ三番目の高峰。低平な佐賀平全長二五〇〇キロ、中国内は約一七〇〇キ。。標高 しゅう っ場合の多いことが判明した。これらから考え 造の前には集中的な努力の期間が必要であり、野西部の北側に直接そそり立つ。蛇紋岩などの四〇〇〇 ~ 六〇〇〇で、数列の平行した褶 きよく ると、—C の高さだけが成功を保証する唯一のまた美的感受性といった一見無縁な要素も重要山頂付近はなだらかであるが、平野側の南斜面曲・断層山脈からなり、新疆ウイグル自治区 でんこ 328
どうくつ どうけっ 洞窟どうくっ 0 洞穴 どうくついせき岩壁が自然の侵食 洞窟遺跡 作用によってえぐられてできたトンネル状のほ こんせき らあなの中に、人間が利用した痕跡をとどめる 遺跡。人工的に岩壁をくりぬいたものを洞窟と よぶこともあるが、一般には前記をさす。同意 どうけっ 語に洞穴があるが、使用法に差はない。内部の 温度ははば一定し、夏涼しく冬暖かい。また風 雨降雪を避けられ、多少の湿気と暗さがあって も非常に快適な生活環境にあったため、しばし ば古代人に利用された。石灰岩の洞窟は砂岩洞 窟などと異なって落盤が少なく、安定している ためかよく活用された。窟内は、遺構と出土遺 物の状態から、①入口付近は炉址や遺物が多 く、日常生活の場とされ、②すこし奥まった部 分では大形品が出土し、貯蔵や人骨埋葬が行わ れ、③一段と深い暗い場所には壁画が描かれ、 じゅじゅっ 呪術信仰の聖場として使用されたことなどが わかる。 最古の人類である南アフリカのアウストラロ ピテクスから洞窟利用が始まり、後期旧石器時 代になって一般化した。南フランスのドルドー ニュ地方からスペインにかけては比較的濃い分 布を示し、ラスコーやアルタミラなどはりつば な壁画を多く残していることで有名である。ま た北アフリカのリビアからパレスチナ、イラ ク、マレーシア、中国、シベリアまで広く分布 しゅうこうてん がみられる。とくに中国の周ロ店は北京原人 の発見で知られる。日本の場合は規模外形が小 さいが、後期旧石器時代から縄文時代草創期に 多く、以後しだいに少なくなり、断続的に歴史 おおさかい 時代まで使われた。富山県の大境洞窟、島根 せんふくじ 県の猪目洞窟、サルガ鼻洞窟、長崎県の泉福寺 りゅうがどう 洞穴、高知県の龍河洞などの各遺跡がよく知ら 〈麻生優〉 れる。 回日本考古学協会洞穴調査委員会編『日本の洞 穴遺跡』 ( 一九六七・平凡社 ) 洞窟絵画どうくつかいが三万 ~ 一万年前、 ウラルからイベリア半島まで、主としてフラン ス南西部とスペイン北部の諸洞窟に描かれた絵 画をいう。一八七九年アルタミラ洞窟で絵画が 発見されたが、その年代が旧石器時代にまでさ かのばることが学界で認められたのは、一九〇 二年になってのことである。現在、約一二〇の 洞窟で絵画があることが知られているが、質と 量の両面から研究上重要とされるのは一〇ほど である。フランスではコンバレル、フォン・ 〔掻く ( 削る ) 〕掻くとい うのは , 物の表面をこ 物すったり引っかいたり することで , 1 本の指 による掻く動作は彫刻 刀⑦などに外化されて いる。削るという作業 は掻く動作の延長とい える。平鉋⑧はその典 型的な道具であろう。 鉋にも用途によって調 め人とり 鉋⑨ , 面取鉋⑩など多 くの種類がある。手斧 ⑩も掻く動作を外化し た道具である 〔たたく〕たたく動作は平手または握りこ ふしで行われる。たたく道具に人類が古 くから利用した斧⑩があり , これはたた く機能とくさびの働きを備えていて分割 の機能を果たす。槌には金槌⑩と木槌⑩ があり , 用途により使い分けられる 〔穿っ ( 穴をあける ) 〕 穿つ動作を外化した道 , / ・ = ー、具の典型は籬であろう。 これには柄を手でむ 錐⑩やねしの原理を応 用したポルト錐⑩のほ か , 弓錐 , 繰字錐などが⑩ ある。のみも穿つ道具 で種類も多いが , たた きのみ⑩と突きのみ⑩ / 、 に大別される 〔接合〕接合するための 手の動作には束ねる , 結ぶ , 組むなどがある。 大工作業における接合 に用いられる道具には たがね⑩がある。はた がねは締め付ける役割 、第、を果たす。これに似た 道具に万カ⑩があるが , これは保持する手の働 きを外化したものとい える 649
ていちあ テイタノテリウム / 復原図 〈伊藤照夫〉有機物含有率が高く ( 五〇 % 以上 ) 、地表に近 やすく、ぐずついた天気が続く。このときに現巨人でカの強いタイタン Titan の名と、「け はる一め い部分まで過湿のグライ層位をもち、多くは強 でいたん peat 草炭ともよばれ、 れる停滞前線をそれぞれ春雨前線、梅雨前線、 もの」を意味するテール ther という語からっ泥 ~ 灰 ( 日本工業規格 ) では、水生植物、コケ酸性である。高山の小起伏地と高緯度地方の低 〈饒村曜〉けられた名で、肩高三もある大形獣であっ 秋雨前線という たいせき たいせき 地に泥炭の堆積がおこるが、開発の可能な低地 デイダケー Didache キリスト教の「使た。近縁なものとして三九属が知られている。類、湿地帯の草類が堆積し、生化学的変化を地 や低い台地では、排水管理や泥炭層の剥離、あ 、、、北海道、 徒教父文書」の一つ。『十二使徒の教訓』ともそれらプロントテリウム類は、ウマの先祖のヒ表近くで受けて生成したものをし シベリアなど極寒地で微生物活動期間の比較的るいは無機質材料の客土などの土地改良工事が いう。デイダケーとはギリシア語で「教訓」の ラコテリウムのような小形のもので、短期間に 〈浅海重夫〉 意。原文はギリシア語。著者は不明。成立年代急速に体が大形化し、サイのような角が鼻の先短いような地帯に多い。木材と褐炭の中間に位必要とされる。 は一世紀末か二世紀初頭、成立地はシリアかパ に対になって発達していた。しかし、歯や四肢置する。普通は石炭に分類しない。炭層の上層定置網ていちあみ網漁具の一種。定置網は たてあみ から下層へ移るにしたがって草根樹皮などを含建網ともよばれ、この漁具で水産動物を漁獲す レスチナと推定される。全編一六章の小文書の構造は原始的な状態にとどまりやがて絶滅し 〈亀井節夫〉む黄褐色の多孔質から黒褐色泥状のものとなる漁業を定置網漁業という。サケ、イワシ、マ ~ 六章は生命と死との二つの道を説き、 せいさん る。多量の水分を含んでいるが乾燥して燃料とグロ、プリ、サバ、イカなど季節的に接岸回遊 —ティーダブリューアイ training within 七 ~ 一五章は洗礼、断食、祈り、聖餐などの教 会生活の諸規定を、一六章は終末的希望と警告 industry の略。原意は企業内訓練であるが、する。近年ウシなどの飼料製造原料としての用する魚群の通路を遮断して網の中へ誘導し、そ 〈大内公耳〉 の中に落とし入れて一挙に漁獲する趣向の網漁 を語っている。なおこの文書は、長らく部分的そのすべてではなく、アメリカで発達して第一一途も開発されつつある。 具である。網は一漁期を通じて固定設置するの でいたんそういせき泥炭層と にしか知られていなかったが、一八七五年コン次世界大戦後に日本へ導入された特定方式のも泥炭層遺跡 スタンティノープルの修道院で全文のギリシアのをいう。アメリカでは、第二次大戦中、労働は、ミズゴケ、スゲ、アシ、落ち葉などの植物が普通であるが、数日間で位置をかえることも たいせき 語写本 ( 一一世紀のもの ) が発見され、原始キリ 力不足への対応と生産性向上の必要から、戦時遺体が水中に堆積し、腐敗バクテリアの作用をある。定置網類は、魚道を遮断するために陸岸 スト教の研究に一つの光を投じた。〈菊地栄三〉労働力委員会訓練局が一つの企業内訓練方式を受けることなく残された土層をいう。そのため近くから沖へ向かう垣網部 ( 手網、道網ともい つくりだした。それは、作業職、監督職、管理土層内では有機物質の保存がよく、植物性遺物われる ) と、垣網により誘導されてきた魚群を 一アイタノ一アリウム Titanotherium 北 きゅうか 米、モンゴル、東ヨーロッパの新生代第三紀漸職のすべてにわたるものであったが、日本には ( 木製品、漆製品のはか、種子、毬果、草木 ) 落とし入れる身網部 ( 袋網、胴網、箱網などと や、動物ならびに昆虫なども遺存し、遺跡形成もいう ) とからなる。さらに、身網部には囲 新世初期 ( 約三五〇〇万年前 ) の地層から発見監督職の訓練方式がとして導入された。 ・よ , 、ゆ ) っ される化石乳動物の一グループ。奇蹄目ウマその訓練内容は、部下に対する仕事の教え方、当時の自然環境を知るうえで重要な資料が得ら網部 ( 運動場ともいう ) を有するもの、あるい のばり は落し網類のように、昇網と称し、入網した魚 亜目プロントテリウム科に属する。学名として仕事の方法の改善の仕方、人の扱い方の三つをれる。ヨーロッパでは中石器時代以後、北欧に はミ e き dus がもちいられる。ギリシア神話の中心とし、実演と実例による一定の手順を反復多く遺存し、とくにデンマークのマグレモーゼ群の逃逸を防ぐために傾斜のついた漏斗状の通 〈森本三男〉 する学習を特色としている。 Maglemose 遺跡やトールンド Tollund 遺跡路を有するものもある。これらの定置網類は側 、よ″り 張りや型綱が土俵や錨などで固定され、これに テイタン Titan ギリシア神話で、ゼウスは有名である。 あ わが国では縄文時代前期よりみられ、福井県網地がつり下げられており、土俵の固定力と浮 を中心とするオリンポス神族に先だって世界を 三方町の鳥浜貝塚、千葉県丸山町の加茂遺跡、子の浮揚力、網地と沈子の沈降力などのつり合 第 ) 支配していたクロノスとその一族。テイタネス じゅのう いわっき しんぶくじ いで網の水中形状が適正に保たれるように構成 Titanes ( 複数形 ) ともよばれる。英語読みで埼玉県岩槻市の真福寺遺跡、大宮市の寿能遺跡 きづくり されている。浅い水深に敷設されるもののなか タイタン、天文学の土星の衛星名はチタンと表などが知られる。青森県には、木造町の亀ケ おのえ やわたさき はちのヘ これかわ には、木や竹などの支柱を立てて網の形状を整 記する。ガイア ( 大地 ) とウラノス ( 天空 ) を岡、八戸市の是川 ( 中居 ) 、尾上町の八幡崎、 ますあみ いし 1 」う いたやなぎ ひらか 両親とし、普通、男神六人と女神六人の一二神平賀町の石郷、板柳町の土井—号などの各泥える桝網類などがある。 定置網類は、構造の特徴により、台網類、落 をさす。ガイアはこれらの神々のあとキクロペ炭層遺跡があり、いずれも縄文時代晩期に属す あみえり スとへカトンケイルを生むが、ウラノスはそのる。中居遺跡では七八点の木製品、、編物、し網類、桝網類、出し網類、張り網類、網鰊類 ガイア つる 奇怪な姿を嫌って生まれるとすぐに彼らを大地樹皮、蔓製品が出土し、亀ケ岡遺跡では五八種の六種に分類されている。現在の定置網はほと の奥底に隠した。母のガイアはこれを怒り、無に及ぶ植物と二九種の昆虫遺体がみられ、石郷んど落し網類の機構をもったものになってい こんせき らんたいしつき 法な父に報復するようテイタンたちをけしかけ遺跡からは籃胎漆器の内面に織物状の痕跡をもる。落し網類は垣網、昇網、袋網の三部また 〈村越潔〉は、さらに囲網もついた四部からなり、昇網を る。父を恐れて一同沈黙するばかりであったつものも発見されている。 有するところに特徴がある。小型のものは二、 でいたんど bog SO 三 peat SOil が、末子のクロノスだけは母の求めに応じてウ泥炭土 ラノスを待ち伏せし、その生殖器を鎌で切り取湿原や低湿地の湿性植物 ( アシ、マコモ、ガ三人、大型のものは数十人で操業され、一日に る。こうして父にかわりクロノスが天地の支配マ、 ハンノキなど ) の遺体が分解されずに、植一 ~ 三回定期的に揚網して漁獲する。 ラインホーラー 近年は、ポールローラー 権を得たが、クロノスもやがて末子のゼウスに 物組織を残したまま水底に蓄積されて泥炭とな ビッグホーラー、 > ローラーなど油圧式揚網 支配権を奪われる。そしてゼウスとの一〇年間 ったのち、水位の低下あるいは泥土の流入によ にわたる戦い ( テイタノマキア ) に破れたティ り、泥炭層の上部が酸化分解による風化を受け機、漁獲物の陸揚げ用のフィッシュポンプ、入 タンたちは、タルタロスに封じ込められる。お始めると、泥炭を母材とする土壌の生成がおこ網魚群情報の遠隔探知が可能なテレサウンダー そらく、彼らはギリシアの先住民族から受け継る。泥炭土は、泥炭の分解がかなり進んで、植の導入により省力化が進んでいる。日本におけ がれた古い自然神であり、新来の民族の宗教に 物組織が見分けられなくなった状態 ( 黒泥とよ る一九八二年 ( 昭和五七 ) の漁獲量は約五〇万 な 1 」り 、着業統数は約一・八万統である。漁具の規砺 圧迫されて吸収された名残であろうといわれてぶ ) にあるものが土壌化した黒泥土とともに、 ダツを きてい つの みかた そうたん あみ ン ろうと がわ
その関心とは、人間が人生を生きていくにあかというような問題をまず解決しなければ、人のである。このような新しい地盤が絶えず新しるか、というようなことを理解しなければなら たって、どうしても解決しなければならない、 みいだされていくというところに、哲学の進ないであろう。この意味で、この第一部門は哲 生観、世界観という問題に対してもどう考えてく もっとも根源的な問題に取り組もうとすること よいかわからないという考え方をしているので歩が存するのである。哲学史上、哲学の対象が学にとってどうしても必要であると考えられ る。↓論理学↓認識論 であるということができるように思う。人間があろう。↓人生観↓世界観 いろいろに変化してきたことはすでに述べたと 第二の部門は、存在するものを研究の対象と 生きていくうえに、自然というものの探究がも したがって「人生を生きるにあたってもっとおりであるが、このことも、その変化がただで っとも必要であると考えられれば、そのとき自 も重要である」ということばを広い意味に解すたらめなものであったということではない。そするものである。その代表的なものは伝統的に 1 いしド ) み、つ 然は哲学の対象となる。また神というものの探るならば、先に述べた形式的定義はすべての哲れ以前の哲学のよってたっ地盤を反省すること形而上学ないし存在論といわれるもので、それ によって、いままで研究されていた哲学の対象は個々の存在者についてそのもっている特殊な 究がもっとも必要であると考えられれば、その 学に当てはまるであろうし、そしてまたここか ら、われわれは、なにゆえに哲学には他の学問 ; 、実はけっして人生を生きるにあたってもっ性質を研究するのではなく、一般に存在すると とき哲学の対象は神となるのである。 いわれるものについて、それが存在するといわ とも重要なものではないということを自覚し、 この意味で哲学とは、われわれが人生を生き の場合のように一定の対象が存しないかという ていくにあたってもっとも重要であると考える理由をはっきり理解することができるであろこの自覚によって新しい対象が哲学の対象としれるゆえんを考察しようとするものである。こ のような伝統的な形而上学は現代では否定され ものについて探究する学である、と定義するこ て選ばれてきたのである。 う。それはむしろ哲学というものの性格が必然 ることが多いが、しかしこの種の試みもなくな したがって、哲学の対象が変化してきたとい とができるように思う。もとよりこの哲学の定的に要求することなのである。 っているわけではない。 このほか、歴史とか人 義はきわめて形式的なものであって、これだけ〔哲学における進歩〕この点からまたわれわれうところに、ある意味での哲学の進歩が存する 間とか社会などについてその根本的なあり方を で哲学が何であるかを内容的に一小すものではな は、哲学における進歩というものがどういう性のである。哲学史上の偉大な哲学はすべて新し いが、しかし哲学の対象が一定していない以格のものであるかについても、理解することが い地盤をみいだし、新しい立場から哲学の問題探究しようとする歴史哲学、哲学的人間学、社 上、哲学についてはこういう形式的定義以上のできるであろう。一般に科学には進歩があるけを探究していったものであった。つねに根源的会哲学なども存する。↓形而上学↓歴史哲学 ↓哲学的人間学 定義を与えることはできない。ただこの場合、れども、哲学には進歩がないといわれることが な問題を問い直し、それまでの哲学の地盤を覆 さらに第三の部門として、価値について探究 この定義はきわめて広い意味に解されねばなら多い。確かに哲学には、他の学問の場合のようすところに哲学の本質が存する。そしてそこ しようとするものがあるが、これには倫理学、 な意味での進歩がないことは、否定することが に、他の諸学問と根本的に異なる哲学の特徴が ない。人生を生きるにあたってもっとも重要な ものと考えられるのは、多くの場合、人生観とできないであろう。他の学問の場合には一定のみいだされるであろう。この意味において、哲美学、宗教哲学、法哲学などが存する。価値に ついての研究など学問とはならないとして否定 対象が決まっており、したがって一つの学問は学の研究は哲学史の研究と切り放すことができ か世界観というものであろう。したがって右に ない。現代の哲学の問題を理解するためにも、する哲学者もあるが、しかし、人間が生きてい 述べた定義を狭い意味に解するならば、哲学とつねに同じ対象を研究していくわけであるか くうえに人生観、世界観がどうしても必要であ ら、研究を行っていく間に、しだいにその対象その問題がこれまでの哲学に対するいかなる反 は人生観、世界観を探究する学であるというこ る以上は、この哲学の部門もまた欠くことはで についていままで知られなかったことが知られ省から生じてきたか、ということを理解するこ とになるであろう。このことは、けっして間違 宗教哲 きないであろう。↓倫理学↓美学↓ とが必要であるからである。 いというわけではない。昔から哲学は多くの場るようになり、またいままでの知識が誤ってい 合、人生観、世界観を樹立しようとしたのであたことがわかれば、その誤りが訂正されて、正〔哲学の諸部門〕このように哲学という学問は学↓法哲学 るが、しかしすべての哲学がそうであるという しい知識が増していく。こうして学問はいまま人によって研究の対象も違い、問題とするとこ 哲学の歴史 わけではない。哲学は人生観や世界観とはまつでの研究の成果を土台にして、しだいに進歩発ろも違うのであるから、哲学の組織もまた当然 〔古代〕哲学は一般に紀元前六〇〇年ごろ古代 人によって異なってくる。したがって哲学がど たく無関係であるべきである、と考える哲学も達↓ていくことができるのである。 存するのである。科学の基礎づけとか認識とい これに反して哲学の場合には、一定の対象が ういう部門をもっかということについても一定ギリシアにおいて始まったといわれている。こ した見解は存在しない。哲学以外の他の学問に の時代から紀元後四、五世紀の古代史の終わり う問題を哲学の主要な課題と考える哲学など存しないのであるから、他の学問の場合のよう に至るまでの時期の哲学を普通、古代哲学とよ な進歩発達がないのは当然のことであろう。あおいては、その学問がどういう部門に分かれる は、この種のものに属するといえるであろう。 しかしそれにしても、これらの哲学もまた広る哲学はその選んだ対象についていろいろ思索かということについては、だいたいにおいて多ぶ。古代哲学はこれを三期に分けることができ して研究を進めていく。しかしその後に出てく くの人の一致した意見が存するであろう。このる。↓ギリシア哲学 い意味においては、やはり人生を生きるにあた 〔第一期ー創始期の哲学〕前六世紀から前五世 点にも哲学の特殊な性格がみいだされるのであ ってもっとも重要と考えられるものを対象とし る哲学は、まったく別の事柄を研究の対象とし ているといえるように思われる。科学の基礎づて選ぶかもしれないのである。そして、もしこる。しかし現代の哲学で取り扱われている問題紀中ごろまでであり、この時期の哲学は自然を アルケー から考えるならば、われわれはいちおう以下の対象とし、自然のうちに存する不変化的な原質 けを哲学の対象と考える哲学者は、科学ないしのように研究の対象が異なってくれば、それま 科学的見方が人生にとってきわめて重要なものでの哲学は根底から覆され、哲学はまったく新ように哲学の諸部門を分けることができると思を探究した。原質を水と考えたタレス、無限定 なものと考えたアナクシマンドロス、空気と考 であり、したがって科学の基礎づけということ しい地盤から出発していかねばならない。哲学われる。 はこうして、それ以前の哲学を絶えす根底から 第一の部門は、思考の規則や認識について探えたアナクシメネス、また不生不滅の「有るも が人生観、世界観の問題以上に重要なのだとい 究するもので、論理学や認識論が含まれる。すの」のみが存在すると考えたエレア学派のパル う考え方をとっているのではないであろうか。覆そうとするのである。 メニデス、それと反対に絶えす変化する火こそ 科学というものの意義を低く評価しながら、し しかしそれだからといって、哲学にはなんらでに述べたように、ヘーゲルのように認識論の の意味でも進歩発達がないとはいうことはでき成立を認めない哲学者も存するが、しかし、わ原質であると考えたヘラクレイトス、さらに多 かも科学の基礎づけを哲学の課題と考えるとい カうことはまずありえないことであろう。あるい ない。むしろ哲学は、それ以前の哲学のよってれわれがいかなることを認識するにしても、ま数の原質が存在すると考えた多元論者たち、す はまた認識の研究を哲学の課題とする哲学者たっ地盤そのものを反省し、その地盤を覆してずわれわれは何を認識することができるか、わなわちエンペドクレス、アナクサゴラス、およ っ は、われわれが何をどの範囲まで認識しうるの新しい地盤の上に新しい立場の哲学が築かれるれわれが真理と称するものはどういうものであびデモクリトスなどがこの時期に属する。
があるが、全真教ではたとえば長春真人 ④派生他動詞 ( ( 自動詞の使役化 ) ) I want to しこばれる」 ( 「こばれ落ちる」ともいえる ) 。 〔 + め〕前動詞が後動詞を修飾する。「切。 kite. ( 僕たこをあげたい ) 、 ( ( 自動詞 + 場丘処機などのように学徳高い祖師を真ん しよういっ と敬称した。正一教 ( 天師道 ) では代々 り倒す」 ( 切ることにより倒す ) 、「殴り殺す」所目的語 ) 一ミミ d the streets 0f London. 、ど も池 〈澤田瑞穂〉 の管長は天師とよばれた。 ( ロンドンの街を歩きました ) ( 殴って殺す ) 。 〔意味的分類〕動詞は文法的機能とも関連した ③「Ⅵ + 後動詞が前動詞を修飾する。こ 道志 ( 村 ) どうし ( むら ) 山梨県南東部、 みなみつる たんぎわ るわ の場合の後動詞は形式動詞とか補助動詞とよば レベルで、幾種類かの意味的分類が可能であ南都留郡にある村。丹沢山地の北側を流 さがみ えし れることがある。修飾の仕方を三つに分類するる。その一つは、語義の相の違いに基づくものれる相模川の支流道志川の渓谷に沿い約二 」怯も をと 説がある。 で、金田一春彦は日本語について四種類を区別七キ。にわたって集落の点在する山村で、 げ也 かし字 「道志七里」とよばれている。村の約九〇 強意。「縮み上がる」「弱りきる」「誉めちぎすることを提唱した。 ↓ 0 、じ おら る」 % は山林で、耕地は三 % にすぎず、山林の は状態動詞「ある」「できる」など。「ている」 かんよう つのか 約四〇 % は横浜市の水源涵養林になってい 【翆′刀形 @動作の方向。「語り合う」「燃え広がる」「書をつけることができない 当の き足す」 に継続動詞「読む」「書く」など。「ている」る。かっては林業、とくに製炭が盛んであ 想そ 構 3 動作のおこり方。「読みかける」「読み続けをつけると、その動作が進行中であることを表ったが、近年は農業と、村に進出した電子 のか 師る 部品工場に従事している人が多い。観光に る」「読みきる」「読みさす」。これらは相 ( アす。 国れ 窓ば も力が入れられ、釣り客も多く、一九六七 スペクト ) の違いを表すが、相はさらに「読ん ③瞬間動詞「死ぬ」「突く」など。「ている」 夢よ レ」 でゆく」「読んでくる」「読んでしまう」の形でをつけると、その動作・作用が終わって、結果年 ( 昭和四一 l) には道志渓谷民宿学生村が 園ら池 〈横田忠夫〉 開設された。人口二一四一。 も表される。 が残っていることを表す。 庭い蓉 おおむろぎん ~ 芙 〔機能的分類〕一般に、目的語をとるものを他 ④第四種の動詞「そびえる」「優れる」など。二万五千分の一地形図「大室山」「都留」 みしようたいぎん 持泉 動詞、とらないものを自動詞という。日本語にある状態を帯びることを表すもので、「ている」 「御正体山」 この区別を認めない意見もあるが、認めるのがをつけて用いる。 導師どうし唱導師のこと。元来は人 しゅじよう 動詞によっては、文脈の助けで別の種類の動を迷道から善道に導く師、衆生を仏道に誘引打撃を与えた。これは、「藤氏の人々一揆して」 よいと考えられる。その根拠の一つとして、語 、一うえい きようげ ぼさっ せゅうぎ する教化者、または仏・菩薩のこと。転じて、 ( 伊勢結城文書 ) 、つまり、藤原氏の後裔と称す 形のうえで自・他が区別されている動詞が少な詞として用いられることがある。「読む」は③ おやまおだゅうき ききん さきのかんばくこのえつねただ くないことがあげられる。前に「を」がくるも に属することがあり、「死ぬ」も「飢饉のため仏教の法要儀礼に際し、衆僧を率いてその法要る小山・小田・結城氏らが、前関白近衛経忠 はいせき を主宰し、正面拝席についてその儀礼を中心と と同盟し、北朝でも南朝でもない独自な政権で のを他動詞とするという基準は成立しない。 に、毎日たくさんの人が死んでいる」ではに かんのんせんばう なって執行する僧。また、観音懺法などの儀礼 ある「第三王朝」を建設し、成功の暁には、経 「家を出る」 ( 「出す」という他動詞形あり ) 、属する。 レ」も - っド ) ひゅ さいもんひょうびやく 動詞はその本来の用法 ( 比喩的用法・省略用で、祭文を表白宣読する役の僧。禅宗寺院で忠が天下の政権をとり、小山朝郷 ( 最初朝氏 ) 「道を進む」 ( 「進める」という他動詞形あり ) ばんどうかんれい は、法会の首座にあって経文を唱え始め、衆僧 が坂東管領に就任するというものである。これ のように、自動詞も「を」をとりうるからであ法に対する ) において、結び付きうる主語・目 じゅきよう こうせつ に対して親房は、「荒説」であるとか、「御物狂 る。一方、「大きな体を湯に浸る」「顔に笑みが的語などに制約があるのが普通である。「始まの誦経を導く維那の役を意味することもあっ たた 〈石川カ山〉之至」とかいってしきりに否定しようとした 湛える」「壁に背をもたれる」のような実例がる」「終わる」は「こと」主語を要求し、「も さんろん ー七四四 ) 奈良時代の三論 が、実際に朝郷や親房のもとに経忠の使僧がや あるが、これは自・他の区別に関して厳密さをの」主語にはつかない。「食べる」は固形食物道慈どうじ ( ? やまと そうの めかた 欠く用法として、別扱いにする必要がある。要目的語を要求し、「刈る」は多量の密生した成宗の僧。俗姓は額田氏。大和国 ( 奈良県 ) 添ってきた。しかしこの遠大な計画も実現するま しも ちぞう りゅうもん 尸でには至らなかった。 〈新川武紀〉 するに、自・他の区別は、形態・意味・文法の長物を目的語に要求する。英語の cut は道具下郡の人。法隆寺の智蔵に三論を学び、竜 ぎえんほっそう とうじいん京都市北区等持院北町に 三点から総合的になされるべきものである。 に刃物を要求するが、「切る」は「手で切る」と寺の義淵に法相を習う。七〇二年 ( 大宝一 D に 等持院 りんイ ~ い あわたのまひと につとう いえるように、刃物を要求しない 〈国広哲弥〉遣唐使粟田真人に従って入唐し、三論の奥旨をある臨済宗天竜寺派の寺。万年山と号する。本 英語では、一般の辞書にみられる自・他の区 ぜんむい しやかむに どうし出家得度して道教の教団に属学び、善無畏より密教を伝授されたという。七尊は釈迦牟尼仏。一三四一年 ( 興国二・暦応 別は、意味や文法機能に関係なく、単に表面的道士 むそうそせき ・一うかん あしかがたかうじ びよう になされており、目的語があれば他動詞、それし、道観や廟に居住する人。道流、羽士、黄冠一八年 ( 養老一 l) に帰国して大和大安寺の平城四 ) 足利尊氏が夢窓疎石を招いて開創、初め一一 がなければ自動詞としている。しかし、意味機などの別称がある。秦・漢時代の方士はその先移建に尽くし、のち住して盛んに三論を講説し条高倉にあって等持寺と称した。一三五八年 能を十分に考慮に入れると、本来の自・他と、駆である。道士になるには、師を拝してその徒広めた。三論宗の第三伝と称される。七二九年 ( 正平一三・延文三 ) 尊氏が没するとこの寺に どうろく 派生した、単に表面的な自・他を区別する必要弟となり、所定の資格を得ると道 ( 免許証 ) ( 天平一 ) 一〇月に律師に任命され、平城京へ葬り、法名を等持院殿と号し、寺名も等持院と びようしょ ていはっ や字号 ( 法名 ) を授けられる。僧のように剃髪の大安寺の遷造の任にあたり、また『日本書改めた。以来、足利家歴代の廟所として栄え、 が生じる。 へんさん だいはんにやきよう じっさっ かんむりきん はせず、に結って冠や巾をつけ、道服を着紀』の編纂に参画したとされる。『大般若経』十刹の第一位とされた。現本堂 ( 方丈 ) は妙、い ①本来自動詞 Birds can . ( 鳥は飛べる ) 一いしようえ たっちゅう ⑦本来他動詞一 am 、きミ a novel. ( 私はる。女子もまた出家して女道士となるが、これの転読会を創始し、宮中の最勝会の講師を勤寺塔頭から移建されたもので、一六一六年 まさのり しようむ てんびよう どうこどうこ ( 元和一 D 福島正則が建立した古建築である。 は道尼、道姑、また、髪を蓄えて冠をつけたかめるなど、聖武帝の信任が厚かった。天平一 小説を読んでいます ) じよかん ら女冠ともよばれた。 六年一〇月、七十余歳で入寂した。〈伊藤隆寿〉尊氏以下、足利氏歴代将軍の木像が霊光殿に安 3 派生自動詞 ( ( 目的語省略による ) ) 一 am とうしいっき一三四一年 ( 興国置されている。寺宝の等持寺絵図は国重要文化 、き , now. ( いま読書中です ) 、 ( ( 目的語が 正規の道士のほか、俗世間に住んで妻帯肉食藤氏一揆 キ ~ ン」 - っ をしながら祈疇などに従事する者もあり、これ二・暦応四 ) に起こった事件。東国経営に腐心 財。境内には夢窓国師作と伝える庭園、茶室清 主語のなかに取り込まれた場合 ) ) We ミ、 at かきょ きたばたけちかふさ 〈菅沼晃〉 the station. ( 私たちは駅で会いました ) を火居道士とよんだ。出家道士には階級や職名する北畠親房を中心とする南朝勢力に大きな連亭がある。 しん の 叮を宿ヤ れん 3 ともさと 692
、ナ . 所産で、山脈の鞍部がおのずからその近道に選 問ら世る ( 元型 ) を表現する。文化が人間の肉体的猥雑 せきりよ・つ 人なの さを抑圧し精神に優位を与えようとするとき、 ばれた。日本列島は幾筋もの脊梁山脈で表裏 し一佇まて 同愚さし画 道化は抑圧された肉体性を担って表れ、文化の に分かたれ、内陸部には大小の盆地が幾多生成 と 。と逆転版 る行「回木 硬直化に対して、「補償」 ( ュング ) として機能 していたので、国内交通に占める峠の役割も大 おうみ あ愚にらの するのである。 でるいかタ きかった。近江国の四八峠はじめ諸国には古く す互なン こうして道化は、日常的世界が抑圧するさま から数多くの峠路が開かれ、他国他郷との接点 道存 , しラ と・つじんほ・つし な共は成オ館 ざまの要素 ( 性、暴力、破壊、蕩尽、放恣、非 となってもいた。とくに徒歩と牛馬だけによる みにの形 , 書 はちもを年図 合理 ) を表現し、そういう負の役割を担うこと 旧時代の状況では、勾配の緩急より距離の長短 立 化人うる が重くみられたので、山脈を横切る形の峠越し道①のざ界巧国② で文化に平衡を保たせてきた。それは、硬直し つつある共同体が自らを活性化するために要請 の近道は重要な交通運輸の動脈をなしてきた。 また大小多数の藩領に分割されていた江戸時代 、する、笑いを方法とした安全弁なのだというこ とができるし、それで社会が賦活するとすれ では、山脈のかなたはほとんど異藩他郷であっ えんげん ば、道化には古代の民俗的豊穣儀礼にまで淵源 たから、峠下の番所、宿駅には特異な配慮が加 するとおばしい活性化機能があるのだというこ えられ、また峠茶屋、助小屋など、その往還を とになる。さらに安全弁としての機能を果たし めぐる習俗も多彩であり、こうした峠の風物は た道化を追放することによって、社会がふたた 文芸の好題材にもなった。峠は国境、村境ゅ さかいがみ び日常的世界に戻っていくのだとすれば、道化 え、そこには境神、山の神の類が祀られ、「柴 たむけ たて リぐスすタ継年デス にはスケープゴートとしての役割があることに 立、柴折」など行旅の安全を祈る「手向」の習 トちク召の % のエス もなる。道化はその過剰な性的表現を介して世 モの一 慴ムチセ 俗を伴い、また矢立峠、行逢峠など神々の「境 3 。 る 工気ンルンン 界に豊穣をもたらし、社会に平衡を保たせ、文 さだめ」の伝説を伴うものも多い。鉄道開通に 着服シおの一装へマ の 衣ル。プ一 化の更新に力を貸しながら、その役割を果たせ 伴う国内の交通体系の一変で旧峠路の多くは廃 化道さ作』スぎインタ ぐアまチはウィ一ア ばふたたび抑圧されねばならない。 道と化し、峠の麓集落も一挙に廃れ果てた所が ③一はビまッぎ d サタシ きき、ま、、みと 古代ローマでは農耕神サトウルヌスを記念し 少なくない。近年山越えの自動車道の整備で、 祝祭が男女や階級といった日常的秩序の逆転てサトウルナリア祭が毎年一二月に催された。 古い峠筋の復活がかなりみられても、新道は多なす馬鹿者をいう一般的用法と滑稽な言行を専 門的職業とする人をさす狭義の用法とが未分化を目ざし、いわゆる「逆さまの世界」の現出をそこでは偽王 ( モック・キング mock king) くはトンネルか遠い迂回路で、古い峠路はほと が選ばれ、一年の終わりに日常的規範からの逸 〈竹内利美〉であることはみな同じで、「フール」を愚か者目ざすように、役割としての道化も、たとえば んど廃道と化したままである。 はぐろ 両性具有的であるなど、徹底的な両義性を特徴脱と逆転をほしいままにする一時的支配権をゆ とうげ山形県西部、東田川郡羽黒町ととるか道化役者ととるかで困る場合が多い。 手向 せいろく とする。モトリー ( だんだら服 ) とよばれるそだねられ、そして祭りの終わりには共同体の穢 の一地区。旧手向村。羽黒山の西麓に位置すまた宮廷や貴族のお抱え道化師「ジェスター」 たむ がっさんよ、つはい のちぐはぐな衣装に道化の両義性は象徴されれを担って殺害されるスケープゴートとしての 」 ester や、サーカス、ポードビル、映画のス る。羽黒山や月山を遙拝する ( 手向ける ) こと はんちゅう 役割を果たした。中世・近世の道化師がロー ラブスティック・コメディに出てくる「クラウる。日常世界の二項対立的な範疇の境界域に に由来する地名。古くから羽黒山の門前集落と ド・オプ・ミスルール lord of misrule すな ン」 clown といった同系列の語とも用法上の出没して、世界がどちらか一元的な価値観へと して発達、いまも四〇近い宿坊が軒を連ねる。 羽黒 ( 町 ) 区別はきわめてあいまいで、それらを総称する硬化するときには、抑圧された側の価値観の側わち「無礼講の王」とよばれて偽王としてふる から、そうした世界を嗤い攻撃する。社会へのまったのも、中世教会で日常的宗教慣習をこと どうけ見る人を笑わせるようなおも語として「フール」が使われたりもする。 そうりよ 一人の個人を考えてみても、労働と合理性の風刺者という形をとるわけだが、社会道徳は概ごとく逆転させて行われた僧侶たちの「愚者の しろく、おどけたことばおよび行動。そうした あほう わいぎつ おどけた言行をなす人間をいうこともあるし、みでは生きていけす、さまざまなジョークや愚して、人間が肉体をもっゆえの猥雑さ ( 性、飲饗宴」で「阿呆の司教」が果たした役割も、み 行で息抜きを行いながら生命体としての平衡を食、排泄 ) を抑圧する傾きがあるため、その批なこの古代ローマの農耕儀礼における道化の機 さらにそうした言行を専門的職業とする道化 かぶきどうけ 一共同体も、労働と合理を核とす判者たる道化は逆に、人間の肉体性を誇張す能に淵源する。 師、道化役者をいうことも多い。歌舞伎の道化保つように、 がた しかし、中世には寛大に扱われていた「愚者 る日常 ( ケ ) に集合的な愚行を核とする非日常る。人間を精神性や合理性とひとまず切り離し ( 道外 ) 方をさすこともある。 「道化」ということばの起源自体は「童戯」 ( ハレ ) を一定期間対置させることによって平てただの肉体、風の通り抜けていく袋とみるよの饗宴」は近代に入ると徐々に抑圧を被り、一 ひっす 「道戯」であろうという説、オドケやタワケか衡を保つが、そうした生命維持に必須の息抜うな肉体観を道化は体現している。ちなみに種のギルドとしての愚行結社へと世俗化してい てんか ったし、負の力を担う批判者としての道化は、 「フール」のラテン語源フォリス follis は、 き、ないし安全弁としての機能が徐々に制度化 らの転訛であろうという説、それから戦国武将 ふい ) ) どうさん 一六 ~ 一七世紀イタリアの即興仮面劇コメディ 斎藤道三の家臣でおかしな風態をもって人の笑してくると、空間としての祝祭、そして役割と「袋」ないし「鞴」を意味するのである。 ア・デラルテ、シェークス。ヒアを筆頭とする一 あるいは、道化はもっと深い次元で人間生命 しての道化が成立してくる。世界中の各種民俗 いを誘った道家某の名に由来するという説など きようえん はうじよう 諸説あって確かではない。ちなみに中国語では的豊穣儀礼、中世教会の「愚者の饗宴」やそ力の抑圧された無意識の部分を表現していると七世紀初めのエリザベス朝演劇、ローマのミモ まっえい いうこともできる。すなわちフロイト心理学でス劇の流れをくむバントマイム、一七世紀ドイ の末裔たるカーニバルといった祝祭の空間に道 「滑稽」がこれに相当する。英語では「フール」 ッ民衆演劇であるハンスウルスト劇といった演 いうイドミ ( 本能的欲動 ) ないし快楽原則を、 化が付き物なのも、そうした本質的なつながり fo 三、フランス語では「フー」 fou 、ドイツ語 劇のなかに、そのはけ口をみいだしていった。 ュング心理学でいうアーキタイプ Archetype では「ナル」 Narr がこれにあたるが、愚行をのゆえである。 ふもと ゅぎあい すた まっ こつけい 3 はいせつ さか わら ( 2 ) コメディア・テ・ラルテの 道化アルレッキーノ。黒い 仮面は道化の動物性を , フ アリック ( 男根的 ) な棒は 道化の性的エネルギーを表 す。 1 7 世紀トリバ画バ リ国立図書館 ふ ふかっ
ですもす た。しかし、ロダンの情念的な装飾表現からは ない。やはり伝説的人物とみなしておくべき存部のみが上下に扁平である。両種とも水生適応 〈細井雄介〉 のため足は幅広く、水かきがある。吻は長く扁 離れ、単純化した面の構成による静謐な造形を在であろう。 追求し、ギリシアの古典に学びながらも、近代デズフル Dezful イラン南西部、フーゼ平、目は小さく、耳介を欠く。毛は柔らかく、 で合計四四本。 的な知性を感じさせる。絵葉書の着色などで生スターン州北部の都市。デズ川左岸に位置す密生する。歯式は 計をたてながら、近所の人たちをモデルに制作 る。人口一二万一二五一 ( 一九七六 ) 。ササン朝のや湖などの水辺にすみ、巣は土中の水面より高 い位置に、出口は水面下につくり、一産一 ~ 五 した『ドラン夫人』『クラクラ』など滋味あふシャープール一世の治世に、ここに築かれた橋 とりで れる肖像のほかに、晩年には『アッシア』などを守るための砦にちなんでデズフル ( 橋の砦 ) 子を産む。昆虫、ミミズ、ヒル、貝、小魚など の大作も手がけた。 〈三田村畯右〉と名づけられた。夏の最高気温が五〇度 0 近くを食べ、日本のカワネズミに似た生活をする。 なるため、住民は地下室で夏を過ごす。町の北 ロシアデスマンの毛皮は良質なため利用され テスピス Thespis 古代ギリシアで紀元前 〈阿部永〉 六世紀後半に活躍したとされ、悲劇の発見者と東約三二キロのデズ川上流にデズ・ダムが建設さる。 かんがい よばれる人物。悲劇の競演はアテナイ ( アテれて以来、灌漑面積が大幅に拡大された。シト デスモスチルス D き募絶滅ンス にゆう 〈香川優子〉 ネ ) で国家的行事と定められたが、前五三四ロンが特産である。 乳動物の一グループ ( 属 ) 。約一五〇〇万年前 年、テスピスはさっそくこれに合唱隊を率いてデスマスク death mask 死者の顔からの新生代第三紀中新世に、北太平洋の沿岸地域ス しめん に分布していた水陸両生のウシぐらいの大きさ 登場し、自分はひとり離れた長として合唱隊相 じかに型取りしてつくった面型。死面。生きて きゅうし 手の対話を行い、 この第一俳優なるものの創始 いる人の顔を型取ったものは、ライフマスクの動物。臼歯の形態に特異性があり、円柱を束 によって悲劇発展の基礎を確立したという。ま life mask という。古くは、紀元前六、七世紀ねたような状態から、ギリシア語で「束」を意 ろう 、乍ロロを書き、仮のエトルリアで、死者崇拝のために蝦で顔面を味するデスモス desmos と「柱」をさすスチ た、断片すら残っていないがイロ 面の導入のはか、盛時の悲劇が備える体裁を整型取り、肖像彫刻の原型とした。今日では一般ロス stylos からこの学名がつくられた。分類 えたのも彼の功績と伝えられる。だが、これら 、石膏を用いる。すなわち、死の直後、顔面上の位置についてはさまざまな見解がとられ、 かいぎゅう ジュゴンやマナティーのような海牛目に含め の伝承はすべて遠い後代にみいだされるものでを清め、頭髪などを整え、クリームやボマード あご からふと あり、はたして現存の悲劇がどの程度までテスなどの油性のものを離型剤として塗布し、顎のられてきたが、一九三三年 ( 昭和八 ) に樺太 りようせん ( サハリン ) で全骨格が発見され、じようぶな ピスの発明に負うているかは定めることができ稜線に沿って土手を築き、前顔面に筆を用い へんべい て石膏を塗り型取る。この雌型四肢骨や扁平で厚い胸骨が発達していることが そくちゅう に石膏を流し込んで、外型を割わかり、その後、束柱目という特別な分類群 る。代表的なデスマスクとしてが設けられることとなった。ゾウやその仲間の は、べートーベン、日本人では長鼻類や海牛類と近縁と考えられ、新生代第三 ゅうてい そうせき 夏目漱石などが知られる。 紀の初期にほかの有蹄類と離れて進化した特殊 化したグループとされる。束柱類には、このほ なお、身体を型取りしたも のをボディーキャスティングかにパレオ。ハラドキシア P ミきをき d も含 ( スる 西欧でまれるが、ともに日本で全身骨格が発見されて bOdy casting としい いて、それらの形態や生態について詳しく研究 、年フつは古来しばしば行われてきた。 土引ロダンの『青銅時代』はそれと の散 ペ 2 前か が後日 ~ 耳 ・」は、 ~ 魔て疑われて物議を醸したが、現代 一死 3 のでる では、イプ・クラインやシーガ ザの年も剖い クウンた解て トわルなど、これを手段とする作家 スハべ っ体れ マン - のと死さ イ域 7 もいつつ。 〈三田村畯右〉 」冖」ゅ・つ スダト目にの去 ポ全 デ 一日日日ハ ・ほデスマン desman 哺乳綱 食虫目モグラ科のなかで水生適 応した二種の動物の総称。ロシ 〈ゞプろ - ザこア南東部にいるロシアデスマン に見 Des 、きミき os ミは頭胴長一 ~ 二二で、ほば同長の尾は へんべい 「・死一全長にわたり上下に扁平になっ ている。ピレネー地方にいるピ 」を「をリ , レネーデスマン Ga 一 0 = 0 ミ・ きぎ s は頭胴長一一 ~ 一四 一六垰一で、尾は先端 テハ尾長一三 ~ せいひっ せつこう 3 ・ 1 ・ 4 ・ 3 3 ・ 1 ・ 4 ・ 3 ふん デスモスチルス / 復原図 129
ニー ( アメリカ ) に敗れて王座を去った。戦績運動が高揚するなかで、加藤は天賦人権論の否てんぶら〔天鉄羅〕魚貝類、野菜類の材 癜風でんぶう癜風菌という一種のカビ ・ : つも 1 ( 真菌 ) の寄生によっておこる皮膚病で、俗に黒は八一戦六〇勝 ( うち四九 ) 七敗八引分け定者となった。こうした加藤の転向は、彼自身料に水溶き小麦粉の衣をつけ、植物油で揚げた しようじん もの。野菜類の衣揚げは揚げ物、精進揚げと なまずという。青年や中年の男女の胸や背部に 六無判定。五四年に「ボクシング殿堂」入りし が明治政府に仕えたことにもよるが、それより いって区別する人もある。これとは別に、江戸 好発する。エンドウ豆大から指頭大の、多くは 〈石川輝〉も彼の天賦人権論理解の弱さにその原因を求め はん そうてん てんぶしん蒼天を人格化した男神。ることができる。そもそも欧米の社会契約説に末期、京坂でははんべんの油揚げを「てんぶ 淡褐色で、皮膚面から盛り上がらない円形の斑天父神 、までも関西では薩摩揚げのこと を生じ、これが連なって不規則形、地図状の病風、雨、雷電などをもたらし、地上の生命の育おいては、個人の権利・自由をよりよく保障すら」といい、し 変をつくる。色の黒い人では病変部がかえって成者として尊崇されるが、往々にしてあらゆるるためには人民の政治参加が不可欠であると考を「てんぶら」とよんでいる所もある。 〔歴史〕てんぶらの語源については諸説あるが 淡くみえることがある。病変の表面をこすると神々の支配者とされ、創造神としての機能をもえられ、そのことが議会政治の発達を促した。 こめぬか らくせつ 米糠様の落屑を認め、その中に顕微鏡検査によっ。天上を住居とし、万物の支配者とされるこ これに対し、加藤は、日本のような文明の遅れ定説はなく、外来語から転じたという説が強 、。調理する意のテンペーロ tempero ( ポル って癜風菌が証明される。治療としては種々のとから、地上の王権の根源がこの神に帰せられた国では選挙権の賦与は時期尚早であると主張 抗真菌外用剤が有効であるが、再発することがることも多い。その信仰は古代アーリア族に強 し、国会開設に批判的態度をとった。そしてトガル語 ) から転じたとする説、獣鳥肉を用い 多く、ことに夏季に増悪する。〈野波英一郎〉 く、ギリシアのウラノスやゼウス、北欧のトー 『人権新説』 ( 一会 (l) では、生存競争、適者生ない精進料理であるから、寺院すなわちテンプ とうた 天吹てんぶく鹿児島県に伝わる郷土楽器ル、インドのバルナなどがこの系統と考えられ存、自然淘汰という進化論を用いて、人間は生ロ templo ( ポルトガル語・スペイン語 ) の料 む - 」う で、尺八によく似た無簧 ( ノン・リード ) の縦ているが、バビロンのアヌ、へ。フライのヤーウ来不平等に生まれついていること、したがって理が転じててんぶらになったという説などがあ ぎよく・につ 笛。平たく曲がったホテイチクの根に近い部分工、中国の玉皇上帝なども一種の天父神であ自由・平等な人間が契約によって政府を設立しる。一六世紀中ごろに外来船によって紹介され ー、セン でつくり、管の長さ約三〇娉、外周は七 ~ る。また、父権的家族制や遊牧民社会などとのたという社会契約説は妄想であるとして、天賦たのなら、てんぶらそのものと名称がもうすこ で、尺八に比べ細く短い。」 前面四孔、背面一孔結び付きも説かれているが、そうした信仰はマ人権論そのものを否定してしまった。これをめし一般化してもよいと考えられるが、江戸後期 えもり の五孔三節であることから、現行尺八の古型の レー半島のセマン人や、アンダマン諸島のピグ ぐって加藤と植木枝盛、馬場辰猪、矢野文雄、までてんぶらは広くは知られていなかったとみ かんじり とやままさかず 一つとも考えられるが、管尻に近い第一節を節ミー、オーストラリアの原住民など末開民族外山正一らとの間でいわゆる「人権新説論争」てよい。関西では古くからつけ揚げというもの さんとうきようでん はあった。江戸後期の作者山東京伝の弟、 抜きせずに小孔をあける点、また歌ロの切り方においてもみられ、そこでは一般に「全父」 が展開された。その後プロイセン憲法に範をと など、尺八とは著しく異なる。尺八型の歌ロも AII father と名づけられ、人間および万物の った大日本帝国憲法が制定され、儒教道徳に基岩瀬京山は、その著『蜘蛛の糸巻』のなかで 「てんぶらのはじまり」と題して、てんぶらの つくられたらしいが、主流は息を集める部分を父であると同時に保護者とされる。たとえば、 づく封建的な忠孝思想がふたたび隆盛となるな てんめい ~ 瓮 ) 初年、実兄京伝の創作 皮目だけ残して内側からえぐる、つまり中国のオーストラリアのバイアメやダラムルン、プンかで、天賦人権思想は国家主義思想の前に大き名称は天明 ( 一大一 どうしよう によると書いている。大坂から駆け落ちしてき く後退してしまった。↓自然権〈田中浩〉 洞簫型である。製管法は原始的で、管長、節、ジルなどの創造神もそうした全父であり、彼ら 指孔位置なども、製管者によって各管各様であは天上に住んで雷電を声とし、あらゆる生命の転付命△てんぶめいれい金銭債権の強制執た利介という男が魚のつけ揚げを商売にしたい てんじく 行において、債務者が第三債務者に対してもっ というので、京伝は、天竺浪人 ( 浮浪人 ) がふ る。しかも、指孔は管長ではなく、管の外周の 管理者とされる。 長さで決めるため、安定した音律を得るのが困 古典世界におけるゼウスやアヌ、ヤーウェなている金銭債権が差し押さえられた場合 ( 債権らりと江戸へきて始めるのだから「天鉄羅」と さつま 難である。戦国時代 ( 一六世紀末 ) 薩摩武士が どの原像をこの未開人の全父に求める説も有力執行という ) の、その債権 ( 被差押債権 ) の金名づけようといい、夜店を出すとき、京山をよ あんどん キししカび、行灯にこの字を書かせたという。しかし、 戦陣のつれづれに愛好したと伝えられるが、伝で、この信仰はユダヤ教、イスラム教の一神教銭化 ( 換価 ) の方法で、その債権を支ム、こゝ 来は不明。明治以降は急速に衰微、一九八六年的思想を発達させる契機ともなった。またこの えて券面額 ( 債権の目的として表示されている近松門左衛門は、『性爺 ~ 〕戦』 ( 宅一、初演 ) の ( 昭和六一 ) 現在、唯一の伝承者 ( 加治木町在天父神はしばしば農耕民族の地母神と結び付一定の金額 ) で差押債権者に移転する旨の、裁なかで、すでにてんぶらということばを用いて しらおくにとし いる。日本料理の四条流九代目家元、石井泰次 き、天父と地母の夫婦神という観念になってい 判所の決定 ( 民事執行法一五九条 ) 。したがっ 住の白尾國利 ) がその伝承保存に努めている。 じようきよう には、さらに古く貞享二年 ( 一六会 ) 版『料理 〈月溪恒子〉る。 尺八 〈松前健〉て、転付命令は、被差押債権が金銭債権で、券良 こんだて つなよし ふくろとだな 面額を有するときにのみ許される。転付命令は献立集』のなかで、五代将軍徳川綱吉 ( 在職一六 てんぶくろ 0 袋戸棚 回宇野円空著『マライシアに於ける稲米儀礼 天袋 ちょうふギ、い 含 ~ 一七 0 九 ) が朝鮮通信使を招いたときの宴席料 母祖神と月日及び天地の神』 ( 一九四三・日債務者および第三債務者に送達されなければな 占寸剤てんぶざい 0 貼付剤 光書院 ) らないが、第三債務者に送達されるときまで理のなかにテンプラリという料理名があったこ デンプシー Jack Dempsey ( 天九五ー <ID アメリカのプロボクサー。元世界へビー に、他の債権者による差押え・仮差押えの執行とを指摘し、これがてんぶらの語源であるとい 天賦人権論てんぶじんけんろん一七、八世 級チャンピオン。コロラド州マナッサの貧しい 紀の近代国家成立時に民主主義政治原理としてまたは配当要求のないことが必要で、これがあっている。 いすれにしても、てんぶらの名称とてんぶら 農夫の子として生まれる。子供のころからけん欧米において唱えられた自然権 natural right ると転付命令は効力を生じない。転付命令の効 、カ : カコ 5 / 、 ; 虫、一六歳ごろから酒場の用心棒をして思想の訳語。社会契約説に儒教の自然や天の理力は確定により生じ、その内容は、第三債務者そのものが一般に知られ、業者ができたのは江 きんぶら 戸後期である。てんぶらが普及すると、金鉄羅 への送達のときに弁済があったとみなされるこ いたのを、名マネジャーのジャック・カーンズ 念を結び付けて構成した日本版人権・国家思 ゆきち ひろゆき にみいだされた。一九一九年七月、チャンピオ想。福沢諭吉や加藤弘之は、この語を用いて封とである。したがって、差押債権者は他の債権なる新語も登場した。江戸末期の『江戸名物狂 つばき ンのジェス・ウイラード ( アメリカ ) をノック建的身分制の打破を叫び、明治政府は自由・平者に優先して弁済を受けることになるが、転付詩選』に、衣にそば粉を加え、椿油で揚げるの 等な人民の同意によって設立された政権であるされた債権が現実に取り立て不可能となる危険が金鉄羅とある。のちには衣に卵黄を多く用い 、らアウトして第九代世界へビー級チャンピオンに これに対して卵白を用いた銀ぶ なった。このときの試合があまりにも残酷だっ としてその正当性を弁証した。しかし、明治政は、債権者が負担する。第三債務者が十分な資たものをいし んたので、以来「マナッサの虐殺者」とよばれ府の実態が藩閥政府であることが明らかとな力を有するときに、転付命令が実効性を有するらもできた。江戸時代以降、江戸で発達したて 〈本間義信〉んぶらは、明治以降も東京名物としてますます 4 り、国会開設や参政権の獲得を求める自由民権ゆえんである。 一にた。五度の防衛後、二六年九月にジェーン・タ たっ さつま