大一九一 = ・蒸気機関車の全面的国産化に移行 ・新橋ー下関間に日本最初の展望車を連結、一、 一一等特別急行列車 ( 後の「富十」 ) を運転 ・横川ー軽井沢間にアプト式電気機関車四〇 形を使用。幹線電化、電気機関車の始め ・最初のディーゼル機関車完成 ( ) 一九 = = ・京王電気軌道 ( 現京王帝都電鉄の前身 ) 開業 ・最初のディーゼル動車完成 ( 一 ) 一九一四・東京駅開業、新橋を汐留、島森を新橋と改称 ・東京ー高島 ( 現横浜駅 ) 間、電車運転開始 ・大阪電気鉄道 ( 現近畿日本鉄道の前身 ) 開業 一九一六・京浜東北線一一等列車に日本最初の電気暖房を設 置 ・シベリア鉄道最終完成 一九亳・オーストラリア横断鉄道が開通 一九天・生駒鋼索鉄道開業。日本における最初のケープ ルカー 一九一九・大晦日国電終夜運転開始 ・大型旅客用機関車一八九〇〇形 ( 後の五一形 ) 登場 一空 0 ・鉄道院を鉄道省に格上げ 一空ニ・新橋ー横浜間の鉄道開通を記念するため、一〇 月一四日を鉄道記念日に定める 一九一 = = ・東京ー下関間に三等特急 ( 後の「桜」 ) を運転 ・目黒蒲田電鉄 ( 現東京急行電鉄の前身 ) 開業 ・大型貨物用機関車九九〇〇形 ( 後の五〇形 ) 登場 一九・国鉄車両一斉に自動連結器に取換え ・神田ー上野間の高架鉄道開通、山手線の環状運 〕転・始 6 る 和 昭一空六・東京駅四台、上野駅一一台の入場券自動販売機を 使用 ・桜木町ー上野間省線電車に自動戸閉装置を使用 タ特募 一九宅・東京地下鉄、上野ー浅草間開業 ス , 公 ・小田原急行鉄道 ( 現小田急電鉄の前身 ) 開業 ポ 4 般 名和一 ・山手線、京浜東北線、中央線で有科車内広告を 称昭を 愛 ( 称 始める の年愛 ・列車集中制御装置 ( ) の使用始まる ( ) 急四の 特車 一九天・標準形国産電気機関車五一一形登場 一九 = 九・最初の冷暖房装置付き客車登場 ( ) 九月 + 人日時刻改正に蔭し東京下関問 ・東京ー下関間の特急列車を「富士」「桜」と命名。別急抒列車。左箭を甜け〒た 琵から獅利用下さい 一九一一 0 ・東京ー神戸間に特急「つばめ」運転開始 : 一等特別斤 0 列 一九 = = ・清水トンネル完成、上越線全通 ス牛特別急行猛 車 一九 = 三・歯車式ディーゼル機関車一〇形を製作。日 こ尚名を基み墻県ー友ま。、イ蓄考の内 4 ャ % の奮込 2 定ーえ々を・ - よした 本最初の国産ディーゼル機関車 ・鉄道弘済会創立 物る風あ をー風下 一田・魅士第なネ 第凩履 と一〈 = = ・最初のガスターピン機関車完成 ( 一 ) 一九 = 一四・丹那トンネル完成、東海道本線ルート変史 っ ・国鉄電車に密着連結器を取り入れる て ( * ) は東京交通博物館提供 「豊 3 ー・宿第 1. は一 ニ - ・ンツ 朝 11 開業当時の東京駅。 1908 年 ( 明治 41 ) 3 月に着工 , 14 年 ( 大正 3 ) 12 月に営業を開始した 4 特急「富士」。 1912 年 ( 大正 1 ) 新橋ー下関間に運転された 1 , 2 等特急を , 29 年 ( 昭和 4 ) に「富士」と命名した 新興国や中南米諸国においては、資本と技術の貧困から、日 本やヨーロッパの鉄道先進国フランス、ドイツ、イギリスな どから車両や技術を導入している。 〔日本〕〔鉄道開業まで〕日本での鉄道の歴史は、幕末の一 八五三年 ( 嘉永六 ) ロシア艦隊司令官プチャーチンが艦上で 運転した鉄道模型を見学して、五五年 ( 安政一一 ) 蒸気機関車 の模型 ( 現鉄道記念物 ) を製作し試連転を行った佐賀藩に始 まる。その間の五四年にはアメリカの通商使節ペリーの再来 産 国 のとき、献上品の蒸気機関車模型一式を横浜で運転した。こ のように鉄道の知識は模型からであった。六〇年 ( 万延一 ) 用 車 日米和親条約批准書を携えた幕府の遣米使節がパナマ経由で 行 アメリカ国内の鉄道を利用した体験を、随員であった福沢諭 吉が『西洋事情』 ( 天六六 ) のなかで「汽車」の字を用いて紹 特 Thomas 介している。このころイギリスの貿易商グラバ の BIake GIover ( 天一穴 ー一九一一 ) が長崎の大浦海岸で蒸気機関 山 車の試運転を行ったといわれ、また、日本在留の外国人から 江戸と横浜間、大坂と神戸間の鉄道建設が出願されている。 東機 に、アメリカ公使館書記官のポ そのなかで六七年 ( 慶応三 ) 車ダ ートマン A. L. C. Portman が、江戸と横浜間の鉄道建設 の免許を幕府から得たが、明治政府はこれを認めず、六九年 気形 ( 明治一一 ) 東京ー京都ー神戸間その他の鉄道を政府自ら建設 おおくましげのぶ ひろぶみ 2 のすることを正式に決定した。この計画は大隈重信、伊藤博文 1 ー 4 下 が積極的に推進し、その陰にはイギリス駐日公使パークスの 強い勧めがあった。これにより、日本でのイギリスとアメリ 力の鉄道利権争いにはイギリスが優位となり、イギリス人技 師モレル以下のいわゆるお雇い外国人の技師たちと資材によ って、日本の鉄道が建設されることになった。 〔鉄道の進展と幹線の国有化〕一八七〇年三月、新橋ー横浜 間が着工、七二年五月、品川ー横浜間が仮開業し、同一〇月 しおどめ 一四日 ( 後の鉄道記念日 ) には新橋ー横浜 ( 現汐留ー桜木 町 ) 間が正式に開業した。引き続き七四年大阪ー神戸間、七 七年には大阪ー京都間が開業した。八〇年、北海道開拓使に おたる ほろない よる幌内鉄道がアメリカ式鉄道技術によって手宮 ( 小樽 ) ー 札幌間に開業した。 政府の財政難から鉄道建設は思うように進展しなかった かみ が、鉄道頭として鉄道建設に積極的に働いていた井上勝の熱 意により建設が進み、一八八〇年京都ー大津間も開通し、そ おう ) か の間の逢坂山トンネル ( 現鉄道記念物 ) は日本人技術者の手 によって完成し、また、七九年には日本人機関士が初めて誕 なかせんどう 生した。東京ー京都間の鉄道は当初中山道経由で計画されて いたが、八六年に東海道経由に変更され、八九年、東京 ( 新 165
とうかい とうかいどう・さんよれたことで、現実感と滑稽とを確保して、「切り、八六年東京ー名古屋間では東海道経由に変 8 東海道・山陽新幹線 もつばら はかた うしんかんせん新幹線東京ー博多間の通称。日落向を専として」 ( 四編序 ) というように、 更された。これによって東西から建設を促進 5 まいばら 本国有鉄道線路名称のうえでは、それそれ東京切落Ⅱ大衆相手の読み物として、意識的に読者し、八九年七月一日、長浜ー米原ー馬場 ( 現膳 着 . ー新神一尸間を東海道本線、新神戸ー小倉間を山の好尚に適応させようとしている。当然その笑所 ) および深谷ー米原間の開業によ 0 て全線の きよくていばきん ただ やじよう やす 倉ー博多間を鹿児島本線の一部に含 いは、曲亭馬琴が「只村農野嬢の解し易くて開通をみた。 よろこ ( 0 Ⅱ陽本線、小 めている。これは、新幹線が在来線の線増とい 笑ひを催すを歓ぶのみならず、大人君子も膝栗 当時の東海道本線は国府津ー沼津間 ( 箱根越 みる うたてまえでつくられているからである。東海毛のごときは看者に害なし」 ( 近世物之本江戸 え ) 、大垣ー米原間 ( 伊吹越え ) 、膳所ー京都間 おうさか 道本線・山陽本線の輸送需要の急増に応ずる目 作者部類 ) と評したように、風刺の毒をまった ( 逢坂越え ) などに二五 % の急勾配区間があり、 ・一うしよう 的で計画された、国際標準軌間 ( 一四三五ミリメ く含まない、文字どおりの哄笑である。大衆日本経済の発展とともに急増する輸送需要に応 ートル ) を採用した新規格の高速鉄道で、東京 に歓迎された理由であるが、弥次郎兵衛・喜多ずるのに大きな障害となった。これらの急勾配 ー新大阪間は東海道新幹線の通称で、一九五九 八の愚行・失敗が、旅に出ることによって地域区間は伊吹越えの西側斜面で一九〇一年 ( 明治 年 ( 昭和三四 ) 着工、六四年一〇月一日開業し 社会のさまざまなルールや制約から解放された三四 ) に複線化と別線建設を同時に行って勾配 た。これを博多まで延長する山陽新幹線の建設 いと願う庶民の心情を典型的に描いてみせたこを緩和したのを最初として、二一年 ( 大正一 が決定され、七二年三月一五日新大阪ー岡山間 とも見逃せない。一九は『続膝栗毛』として、〇 ) に逢坂越えを、三四年 ( 昭和九 ) に箱根越 きそ こんびらさんけい みやじま が、七五年三月一〇日岡山ー博多間が開業し金毘羅参詣、宮嶋参詣、岐蘇街道、善光寺道 えを、四四年に伊吹越え東側斜面の別線建設を た。路線延長一〇六九・一キ。メートル ( 営業キ中、草津温泉道中などに弥次・喜多の滑稽を描完成して二五 % の上り勾配を解消した。とくに 口一一七六・五キ。メートル ) 。東京ー新大阪間 いて、完結したのは一八一三年 ( 文政五 ) であ箱根越えにおいては、当初箱根外輪山の外側を ・につばい おだわらあたみ は最小曲線半径二五〇〇、最急勾配二〇 % 、る。一一一年間出版され続けたわけで、リ 干行中か回るルートであったものを、小田原、熱海経由 かながきろぶん たんな ら模倣作が相次ぎ、仮名垣魯文の『西洋道中膝とし、丹那盆地の下に長大トンネル ( 丹那トン 最高速度一一一〇キ。メートル / 時を建設基準とし ているが、新大阪ー博多間はそれぞれ四〇〇〇栗毛』 ( 天七 0 ) にまで及び、現代でも題名やパ ネル、完成時七八〇四 ) を掘削して沼津に短 一五 % 、二六〇キ。メートル / 時で設計されロディーその他に、「膝栗毛」の名を利用する絡するという大工事となった。丹那トンネルの ゅうすい 〈神保五彌〉建設は、大量の湧水、温泉余土、断層などの存 ている。各駅停車の「こだま」 ( 大部分は東京作品は多い。 ー新大阪間 ) と特定の駅のみ停車の「ひかり」回中村幸彦校注『日本古典文学全集的東海道在に加えて、北伊豆大地震など、多くの障害に が運転され、もっとも速い「ひかり」は東京ー 中膝栗毛』 ( 一九七五・小学館 ) ▽松田修著『東際会して、全通までに一六年の歳月を要した。 ごてんば 博多間を五時間五七分 ( 最高速度一一一一〇キ。メー 海道中膝栗毛』 ( 一九七一一一・淡交社 ) 現在の御殿場線はかっての東海道本線の箱根越 とうかいどうほんせん日本国有えルートの名残である。 トル / 時、表定速度一七九・七キ。メートル / 東海道本線 時、一九会現在 ) で走破する。↓新幹線↓東北 鉄道の線路名称。東京ー神戸間五八九・五キ。メ 複線化は日本の幹線鉄道中もっとも早く、一 新幹線↓上越新幹線 〈青木栄一〉 ートル、品川ー新川崎ー鶴見間一七・ ノロメー 八七六年の新橋ー品川間に始まり、逐次複線区 きようりよ・つ よこすか おおがきみの れよ入口公郎と喜崎 と , つかいど一 , っち一ゅ , つひギ、 / 、り・ 物その袋 人治 トル ( おもに横須賀線電車用 ) 、大垣ー美濃赤 間を延長して、一九一三年天竜川橋梁区間の , , は長東海道中膝栗毛 たるい じっぺんしゃいつく こつけいぼん 見はこのた端主弥右師に げ十返舎一九作の滑稽本。八編一八冊。挿絵坂間五・〇キ。メートル ( 単線 ) 、大垣ー新垂井完成により全線の複線化を完了。東京側のター 毛坂 , 案れ発のの ( 絵も館 栗大に図さ毛人姿働のと物 ー関ヶ原間一三 ・八キ。メートル ( 単線 ) 、新幹ミナル駅を新橋から東京駅に移したのは一四年 は一九自画。一八〇二 ~ 〇九年 ( 享和二 ~ 文化 膝 とた出栗ニ旅・こ博 中編「こつり膝る 0 にリ、 0 六 ) 刊。書名は初編が「浮世道中膝栗毛」、一一線東京ー新神戸間、および貨物線一六線区一五で、旧新橋駅は汐留と改称して貨物駅となった。 道八。巻凝売「あ像自八月史 ・八キ。メートルよりなる ( 一九会現在 ) 。旅客また電化は、一四年に近距離電車区間として東 海司袋れなでおに肖多川浦編が「道中膝栗毛」、三編より「東海道中膝栗三 絵の 6 喜多松 東〔のぞうり〔子 毛」。十返舎一九の代表作であり、滑稽本の代扱い線は、特記した線区を除く全線が複線、直京ー横浜間が最初であるが、中長距離列車用と に主眼が置かれていることであろう。 表作でもある。 流電化。日本の鉄道網のなかでの最重要幹線しては二五年の東京ー国府津間に始まり、五六 するが かんだ 駿河府中の生まれで、江戸・神田八丁堀に住で、首都圏、中京圏、京阪神圏を結ぶ。日本最年 ( 昭和三一 ) に全線の電化が完成している。 その大流行により、以降、東海道は幕末から きたはち とちめんやじろべえ 第二次世界大戦後も東海道本線の輸送需要は 明治にかけて多くの絵師によってさまざまな角む栃面屋弥次郎兵衛が、居候の喜多八を連れて初の営業用鉄道として、政府自らの建設、経営 せ 増加を続け、一九五七年国鉄は東京ー大阪間に 江戸を出発し、東海道を西に、伊勢参宮にと旅で、品川ー横浜 ( 現桜木町 ) 間が一八七一一年六 度から描かれ、浮世絵における重要な題材の一 っとなり、浮世絵に風景画のジャンルを完成さ立ち、京見物から大坂に至るまでの道中記形式月一二日 ( 明治五年五月七日 ) 仮開業、同年一国際標準軌間 ( 一四三五ミリメートル ) を採用し せることとなった。東海道を描いた多くの絵師の文学である。弥次郎兵衛・喜多八の二人の関〇月一四日 ( 明治五年九月一二日 ) 明治天皇をた新規格の別線の建設を決定し、六四年に東海 かなそうし のなかで特色あるシリーズを残した絵師として係は、狂言のシテ・アドにあたり、仮名草子の迎えて新橋 ( 現汐留 ) ー横浜間で開業式を行っ道新幹線として開業した。さらに七二年に山陽 ちくさい ナいさいえいせん 『竹斎』や『東海道名所記』などの道中記文学た。京阪神側では大阪ー神戸間が七四年に開業新幹線の一部として新大阪ー岡山間が延長開業 は、湜斎英泉、一一世広重、三世歌川豊国、歌川 くこよし よしとらとよはらくにちか のスタイルを襲ったものである。二人の道中のし、京都ー大阪間が七六年、大津 ( 現浜大津 ) されている。これによって大都市間の旅客輸送 国芳、歌川芳虎、豊原国周などがあげられ、こ おうせい 愚行・失敗は、江戸出発より大坂に至るまで連 ー京都間が八〇年と逐次延長された。当初は東の機能は新幹線に移り、在来線は、沿線に連続 うした旺盛な制作は明治初年ごろまで続いてい しゃれ なかせんどう る。 〈永田生慈〉鎖的に続けられるが、それらは洒落本以来の写京と京都とを結ぶ幹線鉄道は中山道経由で建設する個々の都市圏内輸送と貨物輸送を主とする はなしぼん 回歌川広重絵、吉田漱解説『浮世絵大系東実的な描写と、狂言・噺本・浮世草子その他、される予定であったが、中部地方の山地を横断ようになった。↓東海道・山陽新幹線 海道五拾三次』 ( 一九七五・集英社 ) 先行文芸のあらゆる笑いの要素を作者が取り入する部分が予想以上に難工事であることがわか 東海道線には、東海道本線のほかに、山手 癬物え花 ( 良 を第剱共が 本分色独人 何・皆窄藐に 五込舎罕た題 喜夛」 黽血李 貫信歩飛 4 1 おとし しおどめ きり なごり やまのて
0 を てんもん ー廴呼 って見え、これを星間赤化とよぶ。これらの微 粒子の表面を触媒として星間分子の大部分は形 成されている。今日では徴粒子表面だけでな く、ガス状態の分子どうしの化学反応の研究も 重要になっている。 固体微粒子の組成の研究も重要な課題となっ ている。太陽や星などでは各元素の存在の割合 がほば一定の値であるが、星間ガスでは水素原 子やヘリウム原子を除くと、その割合は太陽な どに比べて少なくなっている。少なくなった元 素の多くは固体微粒子の中に閉じ込められてい る。これらは星間塵とよばれ、酸素を主成分と する水、炭素のグラファイト、ケイ素の砂粒な どがおもな成分である。星間塵は星を誕生させ る分子雲の中に多量に存在し、周りの熱源に対 応していろいろの温度の赤外線を放射してい る。星がどのように誕生するのか、またその周 りに太陽系のように円盤状に物質が集まり惑星 系がどのようにつくられるのかは、この星間塵 の性質によって異なってくる。天体現象の説明 には固体物理学の知識が必要になってきてい 星間分子の多くは星間塵の表面で形成され、 しかも複雑な分子まで発見されているが、電波 観測でそれらが発見されるためには、星間空間 の視線上に 6 個以上の同種類の分子がなければ ならないことを考慮すると、その数は少ないで あろうが、より複雑な分子の存在が考えられる。 そして星間塵の主成分が水や炭素原子であるこ とを考え合わせると、生命の基になる有機物質 が存在する可能性もある。このような状況と、 星が誕生するときに惑星系を形成する可能性が 強いことから、地球以外の宇宙に存在の可能性 がある生命体についての研究がなされている。 よを時のツ太の・イの射に年入望 天体生物学が始められている。↓地球外生命 に决当星ンどろ星ホ差反要田収射 て反 た衛レ なこ・不 収年紀 原子どうしが密に結合して自由に動けなくな 遠ーのれのイ月年とジ色田会はっト 望イ端さっフ 月ツの協ル売 ったのが固体である。一方、太陽程度の質量の わいせい 異作四 鏡 , 立工をイ館 して製のる惑は星プ遠は王シ鏡フ物星の進化の最後の段階にあたる白色矮星は、原 イこって星い 諸れ惑ン望ンの図一遠博 子どうしの表面が接触するぐらいに詰まった天 し木て をつも このケ折ト年のハ望のル 屈一花鏡・の作プ 説いを館導。れ球。で 体である。太陽よりはるかに質量の大きい星の 動てえ術指るら地械まる ュ遠作年ッ 地しゅ美がれ彫 は器星 鏡ニは望鏡自イ場合には、原子核の中に電子が押し込められて 出」ル とす土て遠た真射遠はⅱホ 提プレと部 示にれ望い写反望彼は しまい、すべてが中性子でできた中性子星にな 裁を一 の下ラを心ら射て。の射。れジ る。一立方垰一メートル当りの白色矮星と、 教拠一ルガもか一動中け反したン反たこッ の値館オ運をつのとしトのし 6 の中性子星の間には大きな隔たりがある。 ののロ 儀一数物の陽も館ンう作一ル見がプ ′唯行博リ体太星物トこ自ュエ発たン しかしこのような星は一種の固体として取り扱 レで 観は運学ラ天 , 衛博一除をニシをいケ 《月た星て的科一のでのルュを鏡の一星て うことができる点において共通している。中性 9 ガ観願け木し均オ系作星プニ点遠載ハ王得鏡 ⑩る年受⑩と平 = ⑩陽製土ッ⑩欠望掲⑩天を遠子星の多くは強い x 線源である。そして x 線源 ⑨日時計地球の自転によっておこる太陽の影の移動から時問の経 過を知る日時計は古代エジプトやメソボタミアにもあった。写真は 1 6 世紀イタリアでつくられた円柱と多面体日時計。フィレンツ工科 ⑩ジャンタール・マンタールインドのジャイプルにある 18 世紀の 天文台。マハラジャ・ジャイ・シンが建てたもので , 六つの日時計 があるが , 写真はその一つ ⑩天文観測ドナト・クレティ ( 1671-1749 ) の描いた天文観測の ようす。屈折望遠鏡を使っており , 月の模様が克明に描かれている。
てんきず 天気図 〔図 A 〕天気記号 ( 国際式 ) 01 03 雲が消散しているか乂は発達がにぶってい る。前 1 時間内の空の状態の変化 煙霧鬥見程 10km 未満 ) 観測時に視界内に砂しんあらしあリ , 又は 観測時前 1 時間内に観測所に砂しんあらし く 電光は見えるが、雷鴫は川に ・えない 雲の変化不明 , 前 1 時間内の空の状態の変 煙例えは野火 , 山火の煙 , 工場の煙 , 火 05 山灰等のため視程が悪くなっている ( * 視程 10km 未満 ) 観測時又は観測時前 1 時間内に観測所乂は 09 観測所付近に発達したしん旋風が表れたが , 砂しんあらしはない 13 観測所に地霧又は低い水霧があり連続して いる ( 目の高さ以ド , 海上の場合は 10m 以 視界内に降水あり , 地面又は海面に達して いるが . 観測所にはない ( 5 km 未満 ) 霧雨乂は霧雪かあった。しゅう甬性でない 降水 着水性の雨又は着水性の霧雨があった。し ゅう雨性でない降水 020 視界内に降水があるが、地面又は海面に達 ▽ 観測時乂は観測時前 1 時間内に観測所乂は 視界内にスコールあり 雲が発生しているか又は発達している。前 1 時間内の空の状態の変化 観測時に観測所乂は観測所付近から風に巻 き [•.ti られたちり乂は砂 ( 風しん ) はあるが 発達したしん旋風乂は砂しんあらしはない。 また船舶の場合は観測点で高いしぶきがある 観測所に地霧又は低い水霧があり散在して いる ( 目の高さ以ド , 海上の場合は 10m 以 - ド ) 視界内に降水あリ . 地面又は海面に達して いるが , 観測所から遠い ( 5km 以上 ) 観測時乂は観測時前 1 時間内に観測所又は 視界内にたつまきあリ みぞれ又は凍雨があった。しゅう雨性でな い降水 ひょう . 水あられ , 雪あられ乂は雨を件う ひょう , 水あられ、雪あられがあった 砂しんあらし , 弱乂は並 ( * 視程 500m 以上 ) , 観測時前 1 時間内変化なし 砂しんあらし , 強 ( 事視程 500m 未満 ) , 観測 時前 1 時間内に始まった又は濃くなった 地ふぶき , 強げ視程 500m 未満 ) , 目の高さ より高い 霧乂は水霧 , 空を透視できない。観測時前 1 時間内にうすくなった 霧又は水霧 , 空を透視できない。観測時前 1 時間内に始まった乂は濃くなった 霧雨 , 観測時前 1 時間内に止み間がなかっ た。観測時に弱 霧雨 . 観測時前 1 時間内に止み間がなかっ た。観測時に強 空模様全般に変化がない。前 1 時間内の空 の状態の変化 07 空中広くちリ , 黄砂 * が浮遊している ( ちリ 煙霧 ) ( 観測時に観測所付近で風に巻き上げ られたものではない ) ( を見程 10km 未満 ) もや ( * 視程 10km 未満 ) 06 08 10 12 14 16 19 18 雷電 , 観間時に降水なし 20 22 21 23 雨があった。しゅう甬性でない降水 雪があった。しゅう雨性でない降水 24 25 司を十ョ 司 & 十三 現在天気 ( 番号は気象電報で報告するときの数字 ) しゅう由があった しゅう雪乂はしゅう雨性のみぞれがあった 30 29 31 砂しんあらし , 弱乂は並 ( * 視程 500m 以上 ) , 観測時前 1 時間内にうすくなった 砂しんあらし , 強 ( * 視程 500m 未満 ) , 観測 時前 1 時間内変化なし 地ふよき , 弱乂は並 ( * 視程 500m 以上 ) 。目 の高さよリ高い 霧又は水霧 , 空を透視できる。観測時前 1 時間内にうすくなつな 霧乂は水霧 , 空を透視できる。観測時前 1 時間内に始まった又は濃くなった 霧雨 , 観測時前 1 時間内に止み間があった。 観測時に弱 霧雨 , 観測時前 1 時間内に止み間があった。 観測時に強 霧雨と由 , 弱 雷電があった ( 降水を件ってもよい ) 霧又は水霧があった 砂しんあらし弱又はルげ視程 500m 以い . 観測時前 1 時間内に始まった乂は濃くなっ た 地ふぶき . 弱又は並げ見かけの視程 500m 以 い、目の高さよリ低い 観測時に離れた所に霧乂は水霧があるが , 観測時前 1 時間内に観測所にはなかった。 その霧乂は水霧は観測者よリも高い所まで 広がっている 霧又は水霧 , 空を透視できる。観測時前 1 時間内に変化なかった 34 33 35 砂しんあらし強 ( * 視程 500m 未満 ) . 観測 時前 1 時間内にうすくなった 地ふぶき . 強 ( * 見かけの視程 500m 未満 ) 、 目の高さよリ低い 37 38 39 41 42 43 霧乂は水霧か散在している 45 46 霧又は水霧 . 空を透視できない。観測時前 1 時間内に変化なかった 49 48 50 霧 , 霧水発生中 , 空を透視できない 霧 , 霧水発生中、空を透視できる 54 52 53 55 霧山 , 観測時前 1 時間内に止み間があった。 観測時に並 着水性の霧雨 , 弱 霧 , 観測時前 1 時間内に止み間がなかっ た。観測時に並 着水性の霧並乂は強 56 58 霧雨と由、並乂は強 60 61 62 63 山 . 観測時前 1 時間内に止み間があった。 観測時に弱 観測時前 1 時間内に止み間があった。 観測時に強 雨 , 観測時前 1 時間内に止み間がなかった。 観測時に弱 雨 , 観測時前 1 時間内に止み間がなかった。 観測時に強 トⅱ , 観測時前 1 時間内に止み間があった。 観測時に並 雨、観測時前 1 時間内に止み間がなかった。 観測時に並 64 65 66 67 着水性の由、弱 着水性の雨、並又は強 68 69 70 契・美 雪 , 観測時前 1 時間内に止み間があった。 観測時に弱 雪 . 観測時前 1 時間内に止み間があった 観測時に強 雪 , 観測時前 1 時間内に止み間がなかった。 観測時に弱 雪 , 観測時前 1 時間内に止み間がなかった。 観測時に強 みぞれ又は霧雨と雪、並乂は強 みぞれ又は霧雨と雪 , 弱 74 73 75 雪 . 観測時前 1 時間内に止み間があった。 昇 観測時に並 雪 . 観測時前 1 時間内に止み間がなかった。 観測時にル 霧雪 . 霧があってもよい 78 77 △ 細水 . 霧があってもよい 独結品の雪。霧があってもよい 凍雨 80 81 83 ▽ ▽ △ 雪あられ又は水あられ , 弱。由又はみぞれ を伴ってもよい ひょう . 弱 , 雨乂はみぞれを作ってもよい。 △ ひょう , ル又は強。甬乂はみぞれを伴って 観測時に由 . 弱。前 1 時間内に雷電があっ ▽ 雷鴫はない もよい。雷はない たが観測時にはない 観測時に雪、みぞれ , 雪あられ . 水あられ 観測時に・みぞれ . 雪あられ , 水あられ 95 雷電 . 弱乂は並。観測時にひょう , 水あら 乂はひょう . 弱。前 1 時間内に雷電があっ 又はひょう , 並乂は強。前 1 時間内に雷電 れ乂は雪あられは件わないが、由 , 雪又は かあったが観測時にはない たが観測時にはない みぞれを伴う。観測時に雷電 雷電 . 強。観測時にひょう , 水あられ乂は 98 を 99 △ 需電 . 観測時に砂しんあらしを件う。観測 雷電 . 強。観測時にひょう . 水あられ又は 雪あられは伴わないが . 山、雪又はみぞれ 時に雷電 雪あられを件う。観測時に雷電 を件う。観測時に雷電 5 8 ・▽・ * ▽・△▽・ 1 ー」 ・▽・・美▽・△▽・ しゅう雨 , 弱 しゅうⅲ . 並又は強 しゅう雨 . 激しい しゅう雨性のみぞれ . 弱 86 しゅう雪 . 弱 しゅう雨性のみぞれ . 並乂は強 しゅう雪 , 並乂は強 88 89 90 雪あられ又は水あられ . ル乂は強。山乂は みぞれを伴ってもよい 観測時に雨、並又は強。前 1 時間内に電 があったが観測時にはない 需電 . 弱乂はル。観測時にひょう , 水あら れ乂は雪あられを伴う。観測時に雷電 92 93 0 食〇ん z 全雲量風速 雲量川分 ( ノット ) 4 2 3 9 6 7 注 : 大気図記号および解説文中 の表記については . 気象庁 資科による 人空不明乂は 測定すること かできない 0 9 ~ 10 ( 9 以 しかし川ではない ) ( 間なし ) 5 量 : を観測しない 6 4 33 ~ 37 13 ~ 17 18 ~ 22 38 ~ 42 43 ~ 47 28 ~ 32 48 ~ 52 23 ~ 27 8 ~ 】 2 53 ~ 57 58 ~ 62 63 ~ 68 297
てつどう 加鵬ミリ期朋 明治 刻一 着 時橋れ。に ・ウエスティングハウス ( 影 ) 、空気プレーキ方式 新ら通月し を開発 賃 し毒 1 成 運台用間 , 入六九・大隈重信・伊藤博文の推進により、明治政府が 初時神治月 鉄道建設方針を決定 最年業一明 5 本開阪 ( 年 ・アメリカ大陸横断鉄道完成 日問大年 ・ワシントン登山鉄道開業 ( ) 。最初のラックレ 浜〕 左 表横工 ール式鉄道 一全 0 ・エ部省が設けられ、鉄道掛はこれに入れられる ・建築師長エドモンド・モレル ( ) ら、東京汐留 直府円全す から測量を開始、新橋ー横浜間が着工 一〈七一・モン・スニ・トンネル開通。最初のアルプス山出川”川を 三日 地貫通トンネル 一全一・新橋ー横浜間の鉄道開業。日本最初の鉄道 ・ロピンソン ( 影 ) 、自動信号機を発明 一全 = ・新橋ー横浜間で貨物輸送開始 ・サンフランシスコの市街ケープルカー開業 一〈七四・大阪ー神戸間の鉄道開業 : 一分三 一〈七五・神戸工場 ( 現鷹取工場 ) で日本初の客車を製作 赱不冢一小ニ 一全六・ヨーロッヾ ノの国際特急に寝台車が連結される 家式ニ 一〈耄・京都ー大阪間の鉄道開業 小見四人斐ハ去賃十ニ戈走 ^ 半金ノ事 ・六郷川木橋を鉄橋に改築。鉄道における最初の 鉄橋 明鉄 , した 内りとし ・中国で鉄道開業 年幌あ地た 一全九・最初の日本人機関士任命 ( 三人 ) に基果 し内にを ・ジーメンス介イ ) 、ベルリン博覧会で電気機関車 。業構際割 庫開駅の役物 を運転 関に宮設な念 天〈 0 ・幌内鉄道、手宮ー札幌間の鉄道開業。北海道最 機 , 手建要記 宮の道重道 初の鉄道 手治道鉄て鉄 ・逢坂山トンネル完成。日本人による最初のトン ・横浜駅 ( 現京浜東北線桜木町上りホーム ) に「横 浜ステーション内小間物店」が開業。最初の駅 売店 ・エジソン ( 影 ) 、電気機関車を製作 一一・ベルリン市で架線集電式の市街電車が走る 天全・東京馬車鉄道開業 ・ベルリンに最初のトロリー ハスが登場 天〈 = 一・日本鉄道、上野ー熊谷間開業 ・最初の跨座式モノレール開業 ( ) ・ロータリー式除雪車発明 ( ) 天会・品川ー赤羽間開業 ・日本鉄道宇都宮駅で、白木屋が「にぎり飯」を 販売。最初の駅弁 ・阪堺鉄道 ( 現南海電気鉄道の前身 ) 開業。 ・カナダ大陸横断鉄道完成 天全・自動連結器開発 ( ) 一〈〈〈・スプレーグ ( 影 ) 、最初の電車を運転 ・伊予鉄道、三津浜ー松山間開業。四国最初の鉄道 一犬九・東海道線、新橋ー京都間全通、列車便所設備が 設けられる 金一 4 3 い′ 第■竈 で、のちに鉄製にかえられた。初期の鉄製レールは字型 で、底辺が外側になるように敷設し、底辺の上を車輪が転が るようになっていた。その後、車輪外周の内側につば状の輪 縁 ( フランジ ) をつけ、レールの頭部の内側を走る、現在の 走行方式となった。 車両の動力源は人力あるいは馬力によっていたが、一八世 紀の後半にワットの改良した蒸気機関をさらに改良利用する 方法が多くの人によって研究された。一八〇四年にイギリス の・トレビシックは、初めてレールの上を走る蒸気機関車 を製作し、石炭の運搬車を馬にかわって弖しオ ールが弱く芳しい結果ではなかったので、一八〇八年にも機 関車を製作したが採用されず、そのキャッチミー・キャン号 は街中で見せ物として運転をする始末であった。一 年、。フレンキンソップは、鉄のレールに鉄の車輪では滑ると の予想から、レールの頭部の外側に歯型をつけ、それにかみ 合わせる歯型のついた動輪をもっ機関車を発明したが、その 必要性のないことが認識されたため普及しなかった。この考 え方は、のちに登山鉄道の歯車式鉄道 ( ラックレール式鉄 明路活 道 ) として実用化されている。 年ま 一八二五年には・スティー。フンソンがロコモーション号 8 3 る を製作し、ストックトンーダーリントン間の鉄道が開業し 道軋場 鉄登 た。これが世界最初の機関車による営業鉄道である。一 九年にはリバブールーマンチェスター間の開業に先だち、採 京巧電し 東治面躍 用する機関車の競作を行ったが、・スティー・フンソンの息 一一子のロバート・スティープンソンの製作によるロケット号が ~ 優勝し、この機関車によって翌年に営業を開始した。↓ロコ モーション号↓ロケット号 アメリカでは一八世紀の終わりごろに馬車鉄道が各地に出 現したが、一八二七年にポルティモア・オハイオ鉄道会社が ーの製作 創設され、また、一八三〇年にはピーター・クー したトムサム号などによってサウス・カロライナ鉄道が開通 した。これは、ロケット号によるイギリスの鉄道開業三か月 後のことであった。その後アメリカでは蒸気機関車による鉄 道の実用化が進み、産業の発展と開拓に大きな役割を果た し、一八六九年には早くもアメリカ大陸横断鉄道が完成して ヨーロッパ大陸ではイギリスやアメリカにわすかに遅れ、 フランスは一八三二年、ドイツと・ヘルギーは三五年、オース トリアは三七年、ロシアは三八年、イタリアは三九年と次々 に開業した。アジアではインドが早く一八五三年、日本は七 二年 ( 明治五 ) 、中国は七七年である。 163
一九一一四・南満州鉄道の大連ー新京間に特急「あじあ」の 運転を開始 一九 = 五・国鉄木造電車の鋼体化始まる っ 一」一〈 = = ( ・五一形蒸気機関車使用開始 一九一宅・フランス国鉄 ( 、 0 ) 設立 一九 = 〈・蒸気機関車「マラード号」 ( ) 、時速一一〇二 八キ。メートルを記録 一九 = 一九・東京ー下関間弾丸列車計画始まる ・南アフリカでプルートレインの運転を開始 一九四ニ・二四時間式の時刻表示始まる 一九四四・名古屋鉄道管理局で、女子車掌登用 ・関門トンネル完成 一九・占領軍による鉄道管理開始 一九四六・旅客の交通秩序維持のため、旅客巡察員 ( 現鉄 道警察隊 ) を置く ・石炭事情悪化により旅客列車を削減 一九四七・中央線急行電車に婦人子供専用列車を運転 一九哭・大型旅客用機関車 t0 六一一形登場 一九四九・公共企業体「日本国有鉄道」発足 ・東京ー大阪間に、戦後初の特急「へいわ」を運転 一会 0 ・東京ー沼津間に、湘南電車の運転を開始 ・日本最初の民衆駅、豊橋駅ピル開業 一九五五・周遊乗車券発売 ・初の国産交流式電気機関車四四形、四 五形完成 ・フランスで電気機関車 00 七一〇七が客車三両 を牽引して時速三三一キ。メートルを記録 一九五六・東海道本線、全線電化完成 ・国鉄本社に東海道線等増強委員会を設置 一九・東京ー大阪間三時間の超特急列車構想を発表 ・仙山線、仙台ー作並間で交流電気機関車の運転 を開始 ・国鉄通勤用高性能電車一〇一系登場 ・ヨーロッパ国際特急 ( ) 列車運転開始 一九犬・啝京ー神戸間に日本最初の電車特急「こだま」を 運転 ・特急「あさかせ」を新形固定編成として、東京ー 鹿児島間に特急「はやぶさ」を運転 一九発・汐留ー梅田間にコンテナ専用特急列車運転開始 ・「こだま」、高速度試験で時速一六三キ。メートル を記録 ( 狭軌鉄道の世界最高記録 ) ・東海道新幹線東京ー大阪間、新丹那トンネル東 ロで工事着工式 一突 0 ・持急「はつかり」をディーゼル動車に取換え。 ディーゼル特急運転開始 一突一・シベリア鉄道、モスクワーイルクーック間電化 一九六ニ・北陸トンネル完成 ・大型液体式ディーゼル機関車五一形登場 一九六 = 一・横川ー軽井沢間のアプト式運転廃止 ・新幹線、モデル線で時速一一五六キ。メートルを樹立 橋 ) ー京都間が全通した。 一年には日本最初の民設鉄道の日本鉄道会社が倉設 くまがや され、政府の協力により八三年上野ー熊谷間が、続いて前橋 し まで開業し、九一年には現在の東北本線が青森まで開通し はー九・かい た。一八八五年から八九年にかけて、阪堺鉄道、甲武鉄道、 伊予鉄道、山陽鉄道、関西鉄道、九州鉄道、両毛鉄道、水戸 鉄道などが相次いで開業し、民設鉄道は全国の営業路線の五 〇 % を超えるまでになった。このような清況から九二年には 鉄道敷設法が公布され、政府は鉄道建設政策の指導にあたる ことになった。以後はこの法に基づき幹線を重点的に推進 第 和 昭る し、官設、民設ともに営業距離は伸長し、輸送カ・量ともに あ 年で 増大した。 につしん ネ しかし、日清・日露両戦争後の国力の増進と軍事的な要請 ン とから、全国の幹線鉄道の統一が一挙に進み、一九〇六年 完底 ル海 ( 明治三九 ) 鉄道国有法が公布され、翌年までに全国の主要 " ~ 【 . ネの ン初 ト最民鉄一七社が買収、国有化され、国鉄路線網の営業路線は約 記日九〇 % 、旅客輸送量は約八四 % 、貨物輸送量は約九〇 % に達 ていしん 一九〇七年、鉄道の管轄は逓信省から離れ帝国鉄道庁が設 年間し 田阪場 大登は置され、翌年には鉄道院となり、特別会計官庁として国有鉄 京間急 道の経営にあたるとともに、全国の民設鉄道をも監督するこ 土小 一東戸特 とになった。 神ス 一ネ 急酥京ジ 〔都市近郊鉄道の発展〕主要民鉄の国有化後の全国各地の民 特、一果ビ 鉄は、局地的な交通機関としての役目を担うことになった が、一九一〇年軽便鉄道法も公布され、明治末から大正の初 めごろにかけて、各地に民営の鉄道が盛んに建設され、都市 および都市と近郊とを結ぶ地域に電気鉄道が採用され、都市 の発展とともに経営規模は拡大されていった。 このような情況から一九一九年 ( 大正八 ) に地方鉄道法、 一一一年に軌道法がそれぞれ公布され、民営鉄道に対する統一 的な規制が行われるようになった。この間に国鉄の経営と民 ~ 鉄の監督は、一九二〇年鉄道院にかわって設置された鉄道省 が ( 打 , っことになった。 一九二二年に鉄道敷設法が全面的に改正され、これまでに 咄、一第言第建設された全国の幹線網を整備するため、亜幹線や支線の建 設が進められるようになり、また、民鉄の都市近郊および各 都市間の連絡鉄道の建設も再燃した。国鉄では新線の建設と 並行して、幹線整備のため東海道本線の電化、迂回路線的な 上越線の建設などを行った。一方、車両や運転などの技術に おいても、二一年には空気ブレーキ装置の採用、二五年には 自動連結器への一斉交換、信号の自動化などを進め、運転性 , い当、誕をみを 「マラード号」。 1938 年 , 202.8km / h を記 録した。ロンドン - 科学博物館 4 最初の湘南電車。 1950 年 ( 昭和 25 ) に運転を開始 , オレンジ色と緑色のツー トンカラーが話題になっ た 0 K 0 0 無 A 166
クトルが一度に得られる。対物プリズムは暗い の環を勧める。どんな望遠鏡で見ても写真にはの方法を知るに貴重な資料であ 〈山下泰正〉る。 〈大川清〉 、、こ天体までの低分散スペクトルを得るのに適してない感激がある。 の いるが、線の精度はシーイングに依存する。回森本雅樹著『天体観測セミナー』 ( 一九含・恒天体磁場てんたいじば一般 台 個々の天体の高分散スペクトルは大望遠鏡にス 星社厚生閣 ) に宇宙に存在する磁場をさす せつこう かる ト分光器を装着して観測する。分光器には が、恒星磁場、星間磁場、銀河 天ムロ山てんだいさん中国、浙江省天台県北 」帝れ 回折格子分光器のほか、とくに高い分解能を必 にある仏教の名山。標高一二〇〇前後の諸峰磁場、銀河間磁場に大別され 煬わ の 要とするときにはフア・フリーベロー干渉計やフ の谷間には、かって無数の寺院が点在した。もる。磁場はそれ自身が広がって れ 8 ーと リエ干渉分光器なども用いられる。 と道教の霊山で、「天上の三台星に応ずる地」 弱くなろうとする傾向があるの 「合て 天文学の進歩とともに観測対象は星でも銀河とされて天台山の名が生まれた、と伝えられで、恒星や銀河などの宇宙物質 寺め でも、より暗い天体に向かう。あるいは逆に微る。四世紀中ごろから仏僧が入山して仏寺建立が引力によって集積していると ちぎ 光天体のより精密な観測結果から天文学の進歩が盛んになった。五七五年に入山した智顗 ( 天ころでは比較的強いが、星間空 国の ちん しゅぜん き顗 がもたらされるといっても過言ではない。かす台宗開祖 ) は、陳の宣帝の保護を受けて修禅寺 間や銀河間空間では弱い。 山ら智 そう 台祖 太陽のような一般の恒星では かな光から情報を得るには、大口径鏡の集光カ ( 宋代に大慈寺と改名 ) を建て、天台宗の根本 天開 かんじよう が必要であり、集めた光を分光、測光、変光、道場とした。智顗の没後、弟子の灌頂らが隋黒点のような活動領域を除く ようだい しんおう あるいは偏光 ( 磁場測定 ) など目的に応じて多の晋王 ( のち煬帝 ) の援助を受けて六〇一年に と、磁場の強さは平均数ガウス程度であるが、 ている。銀河磁場は宇宙線粒子を銀河内に閉じ 方面から測定して、その天体あるいは天体現象天台山寺を創建し、六〇五年煬帝から国清寺の フレア星や磁変星では数千ガウスから数万ガウ込めておくのに重要な役割を演じる。活動的な の本質が研究される。光の領域に限らず、 X 線額を賜与された。これが「天下四絶」の一つとスに及ぶ。磁場は恒星内部のダイナモ機構によ銀河では爆発現象に伴って大規模な磁場を吹き から電波まですべての波長域で大口径化は必要たたえられた天台宗総本山の国清寺である。 って維持されており、恒星表面にフレアをはじ出す。多くは電波銀河として強いシンクロトロ さいちょう であり、それらを総合して、初めて宇宙のより 日本天台宗祖の最澄が八〇四年に山に入りめとするさまざまな電磁流体力学的な活動現象ン放射が観測される。銀河間磁場は電波銀河か ばさつかい えんさい えんちん 完全な描像が得られる。そして、これなしには天台法門と菩薩戒を受けて以降、円載、円珍、を引き起こす。また白色矮星や中性子星などのらの偏波の観測で測定される。宇宙規模での磁 じようじんえいさいちょうげん 天文学の健全な発展は望めない。 成尋、栄西、重源らが唐から宋にかけて続々 高密度星では、一〇〇万ガウスに及ぶ強い磁場場の方向性や非均一性は、原始銀河雲の形成と - 一くせ、 微光天体の観測には空が暗いことが必要であと天台山を訪れた。現在、国清寺には高さ五九の存在が推定されている。この強い磁場が速い も関連してこれからの宇宙論で重要な問題とな せんとう 〈小平桂一〉 るが、文明の発達とともに、夜空は急速に明る もある六角九層の隋代の墫塔のはか、山門を自転と結び付いて、パルサーなどの不思議な高るであろう。 みろく くなっている。かすかな光の星は人工光に埋も入ると、正面中央から奥へ弥勒殿、雨花殿、大工ネルギー現象をおこすと考えられる。恒星磁転貸借てんたいしやく賃借人が賃借目的物 れて見えなくなってしまう。夜間照明は地上を雄宝殿が建ち並び、この三大殿の左右には妙法場はスペクトル線のゼーマン効果や光の偏光をの全部または一部を第三者 ( 転借人 ) に使用収 照らすのが目的であり、天文台の観測環境を守堂、観音殿、禅堂など多くの堂宇が侍列し、昔利用して測定される。 益させる契約。賃借人と転借人との間では契約 日のたたずまいをしのばせている。〈佐藤智水〉 るのも文化国家の一つの使命ではなかろうか。 星間磁場は、電波星からの電波の偏波面がフはつねに有効に成立するが、賃貸人と賃借人と アラデー効果で回ることを利用して測定され、 の間の法律関係および賃貸人と転借人との間の 〔アマチュアの天体観測〕天文学にはアマチュ天ムロ山脈てんだいさんみやく / ティエンタイシャ せつこう アの観測が大きな寄与をすることがある。これン中国、浙江省の東部を北東から南西に走る一〇万分の一から一〇〇万分の一ガウス程度の法律関係は、賃貸人の承諾の有無によって定ま せんかれい は、天体現象が繰り返さない、天体観測にはそ山脈で、南は仙霞嶺に連なる。甬江、曹娥江と 弱いものであることが判明している。しかし星る。賃貸人の承諾のない転貸 ( 無断転貸 ) の場 れい かちょう 霊江の分水嶺。主峰の華頂山は天台県県城の北 間物質が収縮して原始星が誕生する際には、非合、賃貸人は賃借人に対して契約を解除するこ の時々の天体現象の記録だという性格があるこ だんがい とによる。太陽黒点、変光星、惑星面、流星な東にあり花崗岩からなる。断崖絶壁、滝などの常な圧縮がおこるので、この程度の磁場が絡みとができるというのが民法の規定である ( 民法 どアマチュアの活躍できる分野はたくさんあ名勝が多く、「黄山の秀、天台の奇」といわれ付いたままでは星になれない。また大質量の星六一二条 ) が、借地・借家の場合には、無断転 ずい る。日本列島も南北に長いから、多くの人が協る。隋代に勅命により建立された山中の国清寺の放射や爆発によって周辺の星間物質が急激に 貸を理由に契約を解除しうるためには、それが じっとく 力すれば天候の悪さを理め合って連続した貴重は天台仏教の発祥地。寒山・拾得の一一聖も国清押されると衝撃波を生じ、その波面近くでは磁背信行為 ( 信頼関係を破壊するような行為 ) に さいちょう えんちんえいさい なデータになる。変光星には光電測光装置がア寺に居住した。最澄をはじめ円珍、栄西など場の強化とともに高エネルギー電子の加速がおあたることを必要とする、というのが判例であ マチュア間でも使われてきており、波長域を決多数の日本の学僧がこの地を訪れ、日本仏教に こり、シンクロトロン放射が観測される。超新る。賃貸人と転借人との間では、無断転貸が背 ざんがい める色フィルターを共通にすれば均質な高精度与えた影響は計り知れない。 〈林和生〉星の残骸や銀河の渦状腕部にはこの種のシンク信行為として賃借人が契約を解除されると、転 のデータが得られる。従来から彗星の発見には 貸借はその基礎を失い、したがって、転借人は 天台寺瓦窯址てんだいじがようし福岡県田口トロン放射が観測されている。 アマチュアの貢献が大きかった。また、新星も 川市伊田法師殺しに所在する奈良前期の瓦窯址 銀河磁場とよばれるものには、銀河規模でみ使用収益権を賃貸人に対抗できない。 これに対 しらぎ かわら して、賃貸人の承諾のある転貸の場合には、賃 暗いものまで発見されることが多くなったが、群。新羅様式瓦を使用した天台寺廃寺の瓦窯た一般の星間磁場と、銀河中心核などの特殊な これは天体写真の普及に負うところが大きい で、一九三一年 ( 昭和六 ) に一号址、六〇年活動によって生じた活動磁場の二つがある。一貸人と賃借人との間の賃貸借はそのまま有効に 以前に撮影した写真と比べるわけだが、膜面の ( 昭和三五 ) に二号址の調査が実施された。と般の銀河磁場は恒星の誕生と死によってつねに 存続する。賃貸人と転借人との間では、転借人 のばりがま は賃貸人に対して直接に義務を負う。したがっ 傷を新天体と見誤らないために、二枚以上撮影もに半地下式無階有段登窯で、段は一号址で励起されるほか、銀河回転によって引き伸ばさ して確認するとよい。アマチュアにとって観察四段、二号址で七段が確認された。ともに各段れ強められる一方、銀河間空間へと逃ナて、 。して、転借人は、賃貸人に対して、目的物の保管 めがわら がっしよう の対象はなんでもよい。深夜にひとりで星空を上には女瓦を二枚重ね、合掌式に組み合わせ、 。銀河回転が卓越しているので、磁カ線も渦義務、目的物の返還義務 ( 賃貸借終了時 ) 、賃 〈淡路剛久〉 楽しむのもよい。手始めには半月の月面と土星四枚一組のものを五組立て並べており、窯詰め状腕に巻き付きながらも全体としてはほば沿っ料の支払い義務などを負う。 ・一くせい ずい わいせい ド、ッ ; といゝ気、 ト「 376
とうだい 東大寺①空から見た大仏殿 ( 金堂 ) 。昭和の大修理も終③法華堂 ( 三月堂 ) 。東大寺に遺る唯一の奈良時 わり , 大屋根の鴟尾も金色に輝いている。下方代の仏堂で , 旧暦 3 月に法華会が行われること 三月堂ともよばれる。国宝 に鐘池 , 上方に正倉院が望まれる。金堂は国宝 , から , 回廊 , 中門は国の重要文化財に指定されている④転害門。鎮守の手向山八幡宮の転害会の際に , ②南大門。 1199 年 ( 正治 1 ) 重源によって再興上棟 こが御旅所にされることに由来する名で , 石 された大仏様建築で , 左右脇の間には運慶 , 偀慶造の基壇上に建つ八脚門。諸門のうち天平創建 による金剛力士像か相対して安置される。国宝時の唯一の遺構である。国宝 代、頭部は江一尸時代の鋳造で、草創当初のおも 東大寺 / 主要建造物と仏像 だいたい しゅうへき れんべん かげは台座蓮弁、左大腿の褶襞部分に残るの しゃ けたゆき おお みである。そのほか仏生会に用いた銅造誕生釈 ( 重文 ) 桁行、司、 大湯屋 ゅや はさつはん かんぶつ いりもめ、 入母屋造。鎌倉時代の創建であるが、室町時代迦仏立像・銅造灌仏盤 ( 国宝 ) や、銅造菩薩半 てんびよう の一四〇八年 ( 応永一五 ) に大改修された。中跏像 ( 重文 ) など天平期の作品があったが、 現在は奈良国立博物館に委託されている。 世浴室の貴重な遺構。 とうろう ( 国宝 ) 桁行三間、梁間三間、 大仏殿正面の前庭にある金銅八角灯籠 ( 国 開山堂 ちょうげん 宝形造。一二〇〇年 ( 正治一 l) に重源が造立宝 ) は高さ四・六一一の大灯籠で、天平時代の した方一間の小堂を一二五〇年 ( 建長一 D に現貴重な遺品である。 日」てがい ( 国宝 ) 三 門一戸の八脚門。 在地に移築し、方三間に拡張された。もとの小転害尸もん てんびよう 堂は内陣として残され、大仏様建築の特色をよ東大寺に残る唯一の天平時代の門。旧東大寺 かすがずし たむけやまはちまんぐう く伝えている。堂内の春日厨子に安置される木鎮守手向山八幡宮の転害会のとき、この門を御 たびしょ ろうべんそうじよう 造良弁僧正像 ( 国宝 ) は平安後期の優れた肖旅所としたのでその名がある。鎌倉時代の修理 で一部に大仏様の組物を付す。 像彫刻として名高い いりもや 日ー・なんだ かいだ ( 国宝 ) 五間三戸、入母屋造 現堂は江戸時代の再建。堂内南大尸 いもん んいん 戒壇院 てんびよう 戒壇上の四隅に塑造四天王像 ( 天平時代、国の重層門。一一九九年 ( 正治一 ) 再建の建築 そう てんじく ちょうげん 宝 ) が立てられており、各像の表現は天平の写で、重源が中国宋から導入した天竺様 ( 大仏 様 ) の代表的遺構。左右一間すつに金剛力士像 実の精華といわれる。 げん・ろく 二驅 ( 鎌倉時代、国宝 ) を安置する。像高約 か鷙勧進所ともいう。元禄年門 勧学院 ・一うけいーレトっこん ・四の日本最大の木彫仁王像で、運慶・快 ~ 一七 0 四 ) 公慶上が大勧進所とした所 そうぎよう はちまん で、院内の八幡殿にある快慶作の僧形八幡神慶が一門の仏師を率いて制作したものである。 にがっ ( 重文 ) 七五二年 ( 天平勝宝 像 ( 鎌倉時代、国宝 ) は、当代神像彫刻の傑ニ月堂 どう じっちゅう 四 ) 第二代別当実忠の創建。現堂は一六六九 三昧堂 2 ( 重文 ) 一〇二一年 ( 治安一 ) 年 ( 寛文九 ) の再建。本尊十一面観音像は秘仏 の創建と伝えるが、現堂は一六八一年 ( 天和である。毎年、旧暦二月にこの堂で修一一会 ( 御 ほっけぎんまいえ 一 ) の再建。毎年旧暦四月に法華三昧会を修す水取 ) が行われるので二月堂の名がある。堂の ぶっしようや さんろう るところから、四月堂ともよぶ。堂内には平安下に参籠所、その南に閼伽井屋、西に仏餉屋 ふげんばさっ ( いずれも鎌倉時代、重文 ) がある。 後期の普賢菩薩像を安置する。 よせむね わんぶ ( 重文 ) 三間四方、寄棟造で、 つどう 煢江戸時代の建物。堂内に安置念仏堂 俊乗堂 ば物、つ しよう : ん されている木造俊乗上像 ( 国宝 ) は大勧進鎌倉時代の建築。本尊の木造地蔵菩薩像 ( 像高 ちょうげん 八二垰一、重文 ) は一二三七年 ( 嘉禎三 ) 康慶の 俊乗房重源の晩年の姿を写したもので、鎌倉 時代の肖像彫刻の代表作。 けたゆき ほっけ しよう ( 国宝 ) 毎年旧暦三月に法華 どう ( 国宝 ) 桁行一間、漿間一間、入法華堂 鐘楼 ろう らいどう えいさい しようげん 母屋造。栄西が承元年間 ( 一一一 0 七 ~ 二 ) に建立会が行われるところから三月堂ともいう。礼堂 したもので、組物の細部に禅宗様の影響がみら ( 鎌倉時代 ) と本堂 ( 奈良時代 ) とがつながり ろうべん れる。構架には、七五二年 ( 天平勝宝四 ) 鋳造一棟をなす。初代別当良弁が東大寺創建以前に けんじゃく ばんしよう 八六、国宝 ) を吊創建した羂索堂がその始まり。本堂は七三三 の巨大な梵鐘 ( 高さ三・ 年 ( 天平五 ) の建築と伝えるが、七四六 ~ 七四 ( 国宝 ) 東大寺の金堂。桁行八年ごろとみられている。本堂中央の内陣には つでん 大仏殿 ふくうけんじゃく ばんてんたいしやくてん 五間 ( 五七 ) 、漿間五間 ( 四七・五 ) 、一重本尊不空羂索観音像、梵天・帝釈天像、四天 てんびよう も・一しよせむわ 裳階付寄棟造。現存の建物は一七〇九年 ( 宝永王像、金剛力士像 ( いすれも国宝 ) など天平 六 ) 再建のもので、南大門と同じ大仏様建築で時代の乾漆像の逸品を安置する。また、本来ほ がっ・つば かの堂にあったと考えられる塑造日光・月光菩 ある。創建当初の金堂とは形も異なり、間ロも 縮小されたが、高さは同じく五二あり、日本薩像 ( 国宝 ) 、長年秘仏とされてきた塑造執金 最大の木造建築である。堂内に安置する本尊盧剛神像 ( 毎年一二月一六日のみ開扉、国宝 ) 、 きちじようてん しゃなぶつぎぞう 舎那仏坐像 ( 像高一四・八七、金銅、国宝 ) 塑造吉祥天像 ( 重文 ) など天平期の貴重な遺 は「奈良の大仏」として名高い。胴体は鎌倉時品がある。 けたゆき けたゆき さっ 727
でんはて 電波天文学 光と電波で見た宇宙 星間分子の電波スペクトル CH30H メチルアルコール ( CH3 ) 20 ジメチルエーテル HC02CH3 ギ酸メチル HCO + ホルミル基 C2H5CN プロヒ。オニトリル HCN シアン化水素 目盛りは絶対温度 1 度 ( IK ) の物質 が出す電波の強さ。したがってこ の図では各物質の電波と 1 K の物 質のそれとの相対的な強さを示す 星間分子の電波スペクトル。野辺山宇 宙電波観測所の 45m 電波望遠鏡と 16 000 チャンネル電波分光器によって観測さ れたオリオン星雲の例。横軸に周波数 , 縦軸に電波の強さがとってあり , さま ざまな星間分子が存在することがわか G. ハスラムらによる 六五 ) 、三宇宙黒体放射の発見 ( 一九六五 ) 、多彩な 、つ皮 にしょ千黽 ) などである。こと 星間分子の発見 ( 一九穴 ~ らのの に星間分子のスペクトル線が波長 星方 は遠 ートルのミリ波領域で多数発見されたことは、 波て 電波の最短波長であるミリ波での観測の発展を 電め のわ 促した。暗黒星雲や星の外層大気に広く分布す 状医、 点はる る星間分子をその電波ス。ヘクトル線で研究する くあ ことによって、星の形成とその一生、銀河系の る多で あの一構造など多岐にわたる領域での新たな発展が予 でそサ 合 想されたからである。 場がエ 半導体工学、精密工学、大型コンビュータな たるク - ・見えや ど現代の第一線の技術の投入によって、ミリ波 で見河 観測のための巨大で精密なパラボロイドや干渉 計が実現し、その成果が競われ始めている。ま 見は波 た電波干渉計も大型コンピュータの登場によっ で鵜電 一標の て、天体の電波画像を高分解能で描き出す電波 座 , 状 河合点写真儀 ( 超合成干渉計とよばれる ) へと発展し 銀場は た。おもに長波長側で威力を発揮する超合成干 れ見〔 渉計は、遠方の銀河中心核が放出する宇宙ジェ すで ットなど、高エネルギー現象の解明を進めてい 光合 まⅧ物 宙〕こ 〔電波天文学の現状〕電波天文学の研究分野は 宇阯見 た , で 画然と分けられるものではなく、本互し . 見り波 であ電関与しているが、およそ以下のように大別でき 波でた よ , っ 電宙っ と宇が 光た広 カシオペヤ座 A 。全天でもっとも強い電波源の一つであるカシオペ ざんがい ヤ座 A は数百年前の超新星爆発の残骸と考えられ , 爆発による衝撃 波は現在も広がっている。野辺山宇宙電波観測所の 5 素子電波干渉 計による波長 1 .3cm の電波写真 オメガ星雲 ( M 1 7 ) の CO 分子スペクトルによ る電波写真。光で見え る星雲は中央部にあり , 令たい分子のガスはこ れを取り巻いて外へと 膨張している。野辺山 宇宙電波観測所 45m 電 波望遠鏡による 428
のち かめま 部の亡霊 ( 後シテ ) が現れ、和歌の徳と仏法を部 ) 、経済学部 ( 一部、二部 ) 、法学部、工学部 間、川口市ー栃木県鹿沼市間は六車線、その他校、宮城青年師範学校を統合して、新制の東北 たたえ、都の春をめで、美しく舞う。シテの性と、文学・経済学・法学・工学の各研究科の大は四車線である。一九八六年 ( 昭和六一 ) 現大学となった。 格を和泉式部の霊とする脚本と、梅の精のイメ 学院からなる。キリスト教主義に基づく国際性在、青森線の浦和市ー青森市間六七五キ。 当初八学部 ( 文学、教育学、法学、経済学、 かんよう いちのヘ ージを強く演出する流儀とがある。〈増田正造〉の涵養を目ざしている。本部は仙台市土樋一 線の岩手一戸町ー八戸市間四一キ。は開通してお理学、医学、工学、農学 ) で出発したが、歯学 と一 , つほノ、い′ルーしょ / 、に 〈喜多村和之〉り、その他も建設に着手している。インターチ部 ( 一九六五 ) 、薬学部 ( 一九七一 I) が増設され、現在 東北院職人歌合絵巻 一九三四、三 エンジは、開通している区間に五八か所あり、 一〇学部で構成されている。なお、一九六五年 んうたあわせえまき鎌倉後期の絵巻。一巻。東東北凶乍とうほくきようさく 京国立博物館蔵。一一一一四年 ( 建保一 l) の中秋五年 ( 昭和九、一〇 ) に東北地方で発生した凶建設中の区間に七か所設置される予定である。教育学部教員養成課程が分離独立して宮城教育 十三夜に、東北院 ( 法成寺の東北、上東門院の作。三四年の全国産米実収高は、気候不順のた この道路は、東北地方の主要都市相互および首大学となった。大学院は一〇研究科のすべてに わんぶつえ 御所を寺とする ) の念仏会に集まった職人や庶めに、三一年の凶作時よりも下回った。とく 都圏との時間距離を大幅に短縮して、輸送の大博士課程が設置されている。附置研究所として 民が、貴族階級の遊びをまねて歌合を行ったと に、冷害にみまわれた東北地方の減収は著しか動脈となり、沿線地域の開発を促進している。 は、すでに戦前からの伝統をもっ金属材料研究 いう設定でつくられたもの。「月と恋」を題と った。青森、岩手、山形三県の収穫高は、過去東北横断自動車道の各路線とともに、東北各県所、農学研究所、選鉱製錬研究所、抗酸菌病研 きようじ し、経師を判者に、医師・鍛冶・刀磨・巫女・ 五年間の平均値の四 ~ 五割にすぎなかった。翌を相互に結んで、東北地方の一体化に大きく役 究所、科学計測研究所、高速力学研究所、電気 あま おんみようじ ばんしょ・つ ばくち 海人 ( 以上左 ) 、陰陽師・番匠・鋳物師・博三五年にも、冷害による凶作が青森、岩手両県だつものと見込まれている。 〈肥田木修〉通信研究所、非水溶液化学研究所があるはか、 うちあきひと あお とうほくしんかんせん新幹線上日本文化研究施設、大学教育開放センター、青 打・賈人の多種の職人の詠んだ歌とその画像をを中心に東北地方を襲った。そのため恐慌時に東北新幹線 しやだっ ばやま 描き、歌仙絵の形式につくられる。絵は洒脱な 打撃を受けていた農家経済はさらに悪化し、木野ー盛岡間の通称。日本国有鉄道線路名称のう葉山地震観測所、地磁気観測所、原子核理学研 がん 速筆に茶や朱の淡彩を施す略画風であるが、顔の実や草の根を食糧とせざるをえない家庭や、 えでは東北本線の一部に含められている。東 北究施設、地震予知観測センター、リハビリテー 貌は個性的で各職人の風貌をよくとらえてい 身売りする娘、欠食児童の数が急増した。芙本線の輸送需要の増加に応する目的で計画されション医学研究施設、脳疾患研究施設、材料強 まんじゅいん ぎしようぎ はぎわらどの る。京都の曼殊院に伝わり、奥書に「萩原殿妓、娼妓、酌婦、女給になった娘たちの数は、 た国際標準軌間 ( 一四三五 = 、リメートル ) を採用度研究施設など三四の学部附属教育研究施設が はなぞの ( 花園院御所 ) 御絵也」とあって、もと花園天三三年末から一か年の間に、東北六県で一万六 した新規格の高速鉄道で、一九七一年 ( 昭和四附設されている。このほか医学部、歯学部、抗 皇の御物で、その崩御 ( 一三四 0 以前の制作と推〇〇〇余名に達している。こうした状況は大き 六 ) 着工、八二年六月二三日、大宮ー盛岡間 酸菌研究所に附属病院がある。キャンパスは仙 定されている。 ^ 村重寧〉な社会問題として論議の的となり、政府は応急を、八五年三月一四日、上野ー大宮間を開業し台市内五地区 ( 片平、川内、荒巻字青葉、星 りようつつみどおりあまみや と , つほノ、、お、つ第」んじレ」 , っし 土木事業の実施や政府所有米支給によって事態た。路線延長四九一一・九キ。メートル ( 営業キロ陵、堤通雨宮 ) に分散している。本部は仙台 東北横断自動車道 。↓宮城教育大学〈馬越徹〉 やどう東北地方を東西に横断する高速道路。 に対処し、民間においても救援運動が展開され五三一・七キ。メートル ) 。最小曲線半径四〇〇市片平二ー一 岩手県北上市を起点とし、秋田市を終点とするオ 回東北大学編・刊『東北大学五十年史』上下 こ。しかし、凶作の痛手は容易に回復せす、農〇、最急勾配一五 % 、最高速度一一六〇キ。メー 秋田線、仙台市を起点とし、山形県酒田市を終村窮乏問題はこれ以後の重要な政治課題となっ トル / 時を建設基準として設計されている。各 点とする酒田線、福島県いわき市を起点とし、 〈横関至〉駅停車の「あおば」 ( 大部分は上野ー仙台間 ) こおりやま 、北任 , 研誇 片東主し置を 郡山市で東北縦貫自動車道と交差し、新潟市回農民組合史刊行会編『農民組合運動史』 ( 一九と特定の駅のみ停車の「やまびこ」 ( 大部分は 市る。を足附史 を終点とするいわき新潟線の三路線があり、総 六 0 ・日刊農業新聞社 ) ▽農林省編『農務時上野ー盛岡間 ) が運転され、もっとも速い「や 台あ所郎発学歴 仙に究太て大の 延長は四六六キ。、全区間四車線である。一九八 報第七分冊』復刻版 ( 一犬一・御茶の水書まびこ」は上野ー盛岡間を二時間四五分 ( 最高 ス研光えの号 学ハ属多迎で 六年 ( 昭和六一 ) 現在、秋田線、いわき新潟線 房 ) ▽『日本農業年報第七輯農業恐慌五速度二四〇キロメートル / 時、表定速度一八〇・ 大ン金本に国第 北ャ学 , 授が所 は全区間の、酒田線は宮城県村田町ー川崎町 ケ年』復刻版 ( 一九大・御茶の水書房 ) ▽江五キロメートル / 時、一九会・二現在 ) で走破す 寺 1 がえ 東キ大年教わ究る 〈青木栄一〉 間、山形市ー寒河江市間、山形県朝日村ー酒田 ロ圭一著『十五年戦争の開幕』 (r 昭和の歴史る。↓新幹線 市間の建設に、それそれ着手している。インタ 4 』一九全・ 小学館 ) とうほくだいがく国立。一九〇七 東北大学 ーチェンジは、建設中の区間に、秋田線六か とうほくじゅうかんじどう年 ( 明治四〇 ) 、東京、京都帝国大学に次いで、 東北縦貫自動車道 所、酒田線九か所、いわき新潟線一二か所設置しやどう東北地方を南北に縦貫し、首都圏に 日本で三番目の帝国大学として勅令により創設 ねりま さっ ~ ろ される予定である。これらの路線は、地形的に 結ぶ高速道路。起点の東京都練馬区から、関東された東北帝国大学が前身。当初、札幌農学校 隔てられていた東北地方の中央部と日本海側の平野を北上し、宇都宮市を経て東北地方に入を改称した農科大学と一一年に設置された理科 こおりやま 交流を拡大し、その一体化に大きな役割を果た り、郡山市で東北横断自動車道いわき新潟線大学からなっていたが、一五年医科大学を増 すものと期待されている。また冬季の交通不便と交差し、宮城県村田町で同酒田線に接続し、設。一九年 ( 大正八 ) 、その前年に公布された を克服し、沿線地域の生活利便の向上をもたら 仙台市を経て一般国道四号沿いに北上し、岩手大学令により分科大学制を廃して学部制をと きたかみ すものである。 〈肥田木修〉県北上市で東北横断自動車道秋田線に接続し、 り、理学、医学、工学の三学部を設置、その とうほくがくいんだいがく 私盛岡市を経て、終点の青森市に至る青森線と、 後、法文学、農学の一一学部を増設、さらに金属 東北学院大学 あしろ 八六年 ( 明治一九 ) 、キリスト教伝道 岩手県安代町で青森線から分岐して、終点の八 材料研究所 ( 一九一九 ) をはじめとする一〇研究所 / 、者養成のため設置された仙台神学校を前身と戸市に至る八戸線の二路線がある。東京都練馬を第二次世界大戦前に設置し、研究中心の総合 し、九一年東北学院と改称、一九四六年 ( 昭和区ー川口市間は東京外郭環状道路の一部とな大学として発展した。四九年 ( 昭和二四 ) 第二 , つ一一一 ) 東北学院専門学校となり、四九年新制大る。東京都ー青森市間六九九キ。、安代町ー八戸高等学校、仙台工業専門学校、宮城県女子専門 XJ 学となった。八七年現在、文学部 ( 一部、二市間六七キ。で、そのうち東京都練馬区ー和光市学校、東北大学附属医学専門部、宮城師範学 ぎたかみ ( 一九六 0 ) 803