一一 - みる会図書館


検索対象: 日本大百科全書 17
915件見つかりました。

1. 日本大百科全書 17

どせい などを規定している。しかし、同法によってイ 門』 ( 一九一一 0 ) および『三人の兵士』 ( 一九 = 一 ) を出ドースプルフ Theo van Doesburg 『罪と罰』を訳して以来、第二次世界大戦後の 上ねかわ 米川正夫、小沼文彦の個人訳全集に至るまで、版した。戦後はバリで「失われた世代」の作家 ( 一会三ー一九三一 ) オランダの画家、室内装飾家、ンディアンに割り当てられた総面積の数倍もの 主要作品については一〇種近くもの翻訳が出そたちと交わり、また各地を旅行して優れた紀行美術評論家。本名 Christia an Emil Marie 土地が白人に割り当てられた。すべてのインデ ィアンに合衆国の市民権が与えられたのは、一 『ロシナンテ再び旅立っ』 ( 一九一一一 l) 、『オリエント Küpper0 八月三〇日ュトレヒトに生まれる。 ろっており、世界でももっともドストエフスキ はせがわふたば ーが広く読まれている。明治期の長谷川二葉急行』 ( 一九 = 七 ) 、『あらゆる国々にて』 ( 一九三四 ) を独学で絵画を学び、一九一〇年ごろからキュビ九二四年のインディアン市民権法 lndian C 三・ とう - 」く しらかば とうそん zenship Act によってである。 〈上田伝明〉 亭、北村透谷、島崎藤村、大正期の白樺派の作書いたが、その間社会を総体として描く方法をスムの影響を受けた。一七年モンドリアンらと はぎわらさくたろうあくたがわりゅうのすけ デ・スティルを結成し、同名の機関誌の編集を回上田伝明著『インディアン憲法崩壊史研究』 家たち、萩原朔太郎、芥川龍之介らに彼の影模索し、『夜の街々』 ( 一九一一三 ) を経て、多数視点 ( 一九七四・日本評論社 ) 担当した。新造形主義に触発されその原理にの 響をみいだすことは容易であり、昭和一〇年代と同時性の手法を極限まで押し進めたニューヨ ークのパノラマ『マンハッタン乗換駅』 ( 一九一一五 ) のシェストフの「不安の哲学」の流行を経て、 っとって抽象的なコンポジションを描く一方、土性どせい soil texture 土壌粒子の粒 ひでおはにやゆたか 径別組成を表すものが土性である。もっとも普 機関誌を舞台に評論活動を始め、一一〇年代には 小林秀雄、埴谷雄高らの独自なドストエフスキを発表した。 ドイツのバウハウスに接近し、ヨーロッパを講遍的に採用されている国際土壌学会法によれ しわゆる第一次 彼は早くから社会主義に共感を寄せていた ー観も生み出された。戦後は、、 戦後派の文学がドストエフスキーの大きな影をが、一九二七年サッコとバンゼッティの処刑を演旅行してデ・スティルの理念の国際化に努めば、まず土粒を粒径二ミリメートル以下一〇分の 一ずつの刻みで粒径区分をし、二 ~ 〇・〇二、广 負っているといえる。↓悪霊↓カラマーゾフ契機に急速に共産党に接近、三二年の大統領選た。一三年ドイツのダダイスト、シュビッター スとオランダの主要都市で「ダダ巡業」を行の砂、〇・〇二 ~ 〇・〇〇二ミリのシルト、それ の兄弟↓死の家の記録↓地下室の手記↓罪挙に際しては、共産党選出の候補を支持したほ う。二四年以降、直角的な構成に対角線を導入以下の粘土の各区分ごとの重量比を三角座標に と罰↓白痴↓貧しき人々 〈江川卓〉か、プロレタリア演劇運動にも関係して劇作を エスエー してダイナミックな効果をねらい、二六年これ記す。あらかじめ規定された三角ダイアグラム 回米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』全一一試みた。同時に『・・』の執筆にとりか 〇巻 ( 一九六九 ~ 七四・河出書房新社 ) ▽小沼文かり、三〇年『北緯四十二度線』、三二年『一を「エレメンタリズム」 Elementarism と命名の領域に従って、記号により図表にあるような 彦訳『ドストエフスキー全集』二〇巻・別巻九一九年』、三六年『ビッグ・マネー』を出版、し、モンドリアンと一線を画した。アルプとレ土性名をつける。ただし略記号の日本語訳名 は、分類法を異にする日本農学会法 ( かって使 三八年にまとめて一巻本三部作として刊行しストラン「オーベット」を装飾 ( 現存せず ) 。 一 ( 一九六三 ~ ・筑摩書房 ) ▽『ドストエフス アプストラクシオン・ 用されていた ) の土性名に同じ表示のものがあ 含・新潮た。この大作によって大不況時代の代表作家と三〇年雑誌『具体芸術』を刊行。い抽象Ⅱ キー全集』二七巻・別巻一 ( 一九天 クレアシオン 社 ) ▽・トロワイヤ著、村上香住子訳目されたが、やがて共産党の政策転換に失望、創造」のグループでも重要な位置を占めるなるので注意を要する。なお三角ダイアグラムで ど国際的に活躍、三一年三月七日スイスのダボ土性区分をする手法には、アメリカ法、ソ連法 『ドストエフスキー伝』 ( 一九全・中央公論社 ) しだいに左翼陣営から遠ざかり、・・』 〈野村太郎〉 などもあり、それそれ粒径の階級区分の方法に スで没した。 ▽小林秀雄著『ドストエフスキイ全論考』出版のころには左翼運動から退いた。共産党の ほう Dawes Severalty, AI- より異なっている。 ( 一九八一・講談社 ) ▽埴谷雄高著『ドストエフ党利党略の犠牲となってスペイン市民戦争で死ドーズ法 土性は土壌の物理性の基本をなすもので、母 スキイ全論集』 ( 一九七九・講談社 ) ▽江川卓著ぬ一青年を主人公にした『ある青年の冒険』 lotment Act of 1887 インディアンに対す ・ワン』 ( 一九四三 ) 、る自営農地法 ( ホームステッド法 ) ともいうべ 『ドストエフスキー』 ( 岩波新書 ) ▽中村健 ( 一九三九 ) をはじめ、『ナンバ き法律。一八八七年二月八日に制定され、提案 之介著『ドストエフスキー・生と死の感覚』『大いなる企画』 ( 一九四九 ) からなる第二の三部作 ( 一九会・岩波書店 ) ▽同著『ドストエフスキ『コロンビア区』 ( 一九五 = ) で、あらゆる政治理念者である上院議員・ドーズにちなんでよばれ 量 重 への絶望を表明した。かっては共産党選出の大る。正確には「種々の特別居住区に住むインデ ーと女性たち』 ( 一九会・講談社 ) の ドス・パソス John Roderigo Dos Pas ・統領候補を熱烈に支持した彼が、六〇年の大統ィアンに単独所有で土地を割り当てること、ア 土 メリカ合衆国およびテリトリーの法律の保護を sos ( 天九六 ー一九七 0 ) アメリカの小説家。著名領選挙では共和党選出候補支持の行動をとった 量 インディアンに広げること、およびその他の目 な弁護士の子として一月一四日シカゴに生まれことで、広範な読者を失望させ、驚かせた。後 重 の る。幼年期には当時まだ内縁関係の両親と欧米期の主要作品として・・』の手法を使的を規定する法」という。ドーズ法はすべての なか ド大った『世紀の半ば』 ( 一九六 D 、自伝『最良の時インディアン部族に適用されるのではなく、異 各地を旅行する機会が多かった。ハー なった状況にあった文明化された五部族 ( チェ 学で審美主義と前衛芸術に心酔したのち、野戦代』 ( 一九六六 ) など。また『トマス・ジェファー シ ロキー、クリーク、チカソー、チョクトー、セ ソンの理知と心情』 ( 一九五四 ) 、『国を築いた人々』 衛生隊に加わって第一次世界大戦に参戦、フラ ミノール ) やオーセジ、マイアミおよびサッ ンス、イタリア両戦線に従軍、この体験をもと ( 一九五七 ) 、『ウイルソン氏の戦争』 ( 一九六一 I) そのは 際 にして、二つの急進的な軍隊小説『ある男の入か政治、歴史関係の著作が多い。七〇年九月一一ク・フォックス族などには適用されなかった。 国 〈平野信行〉 ドーズ法は、特別居住区内の土地を、そこに ム 回杉木喬訳『現代アメリカ文学全集ある青住むインディアンに対し、家族の長に一六〇工 ーカー ( 一セクションの四分の一。約〇・六平グ 年の冒険』 ( 一九夭・荒地出版社 ) ▽尾上政次 ア 訳『北緯四十二度線』 ( 『世界文学大系』所方キ。 ) 、一八歳以上の独身者に八〇エーカー イ 収・一九六三・筑摩書房 ) ▽西田実訳『新集世一八歳未満の孤児に八〇エーカー、現に居住すダ 界の文学 マンハッタン乗換駅』 ( 一九六九・ る一八歳末満の者などに四〇エーカー割り当て分 中央公論社 ) ▽大橋健三郎編『二〇世紀英る権限を大統領に与えること、その土地は合衆 米文学案内幻ドス・パソス』 ( 一九六七・研究国が二五年間保管すること、およびかかるイン性 土 社出版 ) ディアンに対し合衆国の市民権を与えること、 ドス・ / くソス 粘土 HC: 重埴土 LC : 軽埴土 S ℃ : 徼砂質埴土 sc : 砂質埴土 CL : 埴壌土 S ℃ L: 徼砂質埴壌土 SCL : 砂質埴壌土 L : 壌土 SIL : 徼砂質壌土 FSL: 細砂壌土 cSL : 粗砂壌土 LS : 壌質砂土 砂の重量 ( % ) ( し S ℃ SC SCL FSL LS cSL S ℃ L SIL

2. 日本大百科全書 17

にほんか 一九 0 九明治四一一田原良純、フグ毒を抽出、テトロドトキシンと命 名。高峰譲吉、タカジアスターゼで特許取得。日 本窒素肥料水保工場、石灰窒素製造開始 四三秦佐八郎、エールリヒとともにサルバルサンを発 表。九州帝国大学新設。岡田武松「梅雨の説」 四四林鶴一『東北数学雑誌』発刊。藤原咲平、音波の 異常伝播についての研究。鈴木梅太郎ら、オリサ ニンの発見を発表。野口英世、スピロへータ・ リダの純粋培養に成功 一九一 = 大正一真島利行、ウルシオールの構造決定 一一寺田寅彦、 >•< 線回折の研究 三西川正治、 >< 線回折によるスピネル群結品の構造 一九一四 解析。柴田雄次「金属錯塩の分光化学的研究」。日 本鋼管マンネスマン式継目なし鋼管を製作 四石原純、作用量子化の条件および相対性理論に関 する研究。猪苗代水力電気会社、東京への一一二五 キ。メートル、一一・五万ポルトの送電線完成 ( 当一九一一 0 時世界で三番目の長距離送電 ) 。片山正夫、表面張 力に関する理論式 五東北帝大臨時理化学研究所第一一部 ( 主任本多光太 郎 ) 設置、鉄鋼に関する研究を開始。山極勝三郎・ 市川厚一、タールによる癌の人工発生の研究。工 場法施行。本多光太郎・高本弘、磁石鋼の発明 六財団法人理化学研究所設立。化学工業協会設立。一九一一 = 旭硝子 ( 株 ) 戸畑工場、アンモニア法によるソーダ の生産開始。電気化学 ( 株 ) 大牟田工場、変成硫安 の製造開始 七北海道帝国大学新設。大学令公布 ( 公私立大学・ - 九一一 = 一 単科大学の新設を認める、分科大学制から学部制 への変更など ) 。臨時窒素研究所設置、アンモニア 合成の研究開始。東京帝大航空研究所設立 八東北帝大鉄鋼研究所設立 ( 一三年金属材科研究所 と改称 ) 九高木貞治「相対アーベル数体の理論」 ( 高木類体論 ) 発表。日立製作所設立。日本遺伝学会設立 一 0 石原純『相対性原理』。柴田雄次・木村健一一郎「東 洋産含希元素鉱石の化学的研究 ( 其一 ) 」。三菱電一九 = 六 機創立 二柴田勝太郎、アンモニア合成触媒の製造法 ( 東京 工業試験所法 ) 。『アインシュタイン全集ズ全四巻・一九宅 改造社 ) 一一一日本窒素肥料延岡工場でカサレー法による合成ア ンモニア製造開始 一三京城帝国大学設立。小倉金之助『数学教育の根本 問題』。日本農芸化学会設立 一四八木秀次・宇田新太郎、八木アンテナの発明。 沢儀明、秋吉台の大規模反転構造、備中大賀のフ一九 = 一九 ラスト構造を発見。東京帝大地震研究所設立。日 本生化学会設立。住友肥料製造所設立。東京放送 局 ( Z の前身 ) ラジオ放送開始 一九一五 一九一 0 一九一六 一九一セ 一九一九 一九 梅太郎、ウルシオール発見 (一九 lll) で知られ日本の有機化学 まじまとしゆき 一九 = 六大正一五南雲道夫「一階常徴分方程式の解の単独性」 ( 南 を育てた真島利行、物理化学の片山正夫、無機・放射線化学 昭和雲の単独性条件 ) 。竹内端三『函数論』。本多光太 いもりさとやす の飯盛里安らで、当時の日本の第一級の科学者を網羅してい 郎・茅誠司、鉄の単結品の磁性の研究。辻二郎、 うんも にしなよしお 光弾性の研究。仁田勇、ペンタエリスリトールの る。三〇年代には仁科芳雄らが加わる。菊池正士の雲母単結 結品構造 ( >•< 線回析 ) 。水島三一郎、有極性液体の 晶薄片の電子線回折実験は理研西川研究室で行われ ( 一九 = 0 、 電波の異常分散と吸収。坪井誠太郎、斜長石の分 電子の波動性の実証として世界的に高い評価を受けた ( 寺田 光学的研究 寅彦・西川らの線回折研究の成果がその土台にある ) 。日 一一和達清夫、深発地震の存在の確認。岡部金次郎、 分割陽極マグネトロンによる電気振動の発見 本の科学研究の先進部分がようやく世界の科学の第一線にた 菊池正士、雲母膜による電子線回折実験の第一論 どり着いたのである。↓理化学研究所 文。仁科芳雄、クラインとともに線のコンプト 一九二〇年代以降、日本の実験物理学の発展に重要な役割 ン散乱の理論。高柳健次郎、テレピジョンの公開 を果たした研究機関として、理研、各大学の物理学教室に加 実験。台北帝国大学設立 ト木正大、 ZQ 式写真電送方式の発 四丹羽保次郎・ / オ冫 えて、東北帝大附置研究所の金属材料研究所がある。これは 明。増本量、超不変鋼の発明。東京・大阪両工業 本多光太郎の業績 ( 磁石鋼の発明、一九一六 ) を軸に、住友 大学、東京・広島両文理科大学を設置 財閥からの資金援助を受けて発展、成立した (一九本多 五木原均、ゲノム分析第一報。柴田桂太・田宮博、 は所長として研究指導を進め、同研究所は二〇 ~ 三〇年代に 細胞呼吸の生理におけるチトクロムの意義。黒田 チカ、べニバナの色素の研究。加藤与五郎・武井 は世界的にもその分野の一つの中心としての位置を占めた。 ゅうき ますもとはかる 武、フェライト磁石・磁む発明 三三年 ( 昭和八 ) 本多は、増本量、白川勇記 ( 一九 0 六ー 六大阪帝国大学設立。寺沢寛一『自然科学者のため とともにさらに強力な磁石鋼、新鋼を発明した。前後し の数学概論』。昭和肥科、東京工業試験所法による て三島徳七は三一年に磁石鋼を発明している。 アンモニアの生産開始。清水トンネル開通 七正田建次郎『抽象代数学』。三島徳七、磁石鋼 一九三〇年代、理研では仁科研究室が開設され ( 一九三一 ) 、 の発明。佐々木隆興・吉田富三、アゾ色素による 日本の新しい物理学の中心となり始めていた。仁科は二〇年 肝臟癌の人工発生に成功。古賀逸策、カット水 代ヨーロッパでの量子力学成立期の激動に接して帰国、それ 品振動子の発明 を日本に伝えた ( 電子による電磁波散乱についてのクライ 八本多光太郎・増本量・白川勇記、新磁石鋼の ンー仁科の式、一九一一 0 。仁科研究室では自由な雰囲気のなか 発明。山岡孫吉、小型模型四サイクル・ディーゼ ル機関を完成 で理論的研究、宇宙線実験などが進められた。さらに三〇年 九日本製鉄 ( 株 ) 設立 ( 製鉄大合同 ) 。丹那トンネル開 代後半から四〇年代にかけて当時としては国際的にも一級の 通。癌研究会癌研究所開所 水準を目ざしたサイクロトロンが建設され、日本の核物理学 一 0 湯川秀樹「素粒子の相互作用」発表。仁科芳雄・ の水準を引き上げるうえで大きく貢献するものとなった。 ト木稔、電子対発生の理論。理化学 朝永振一郎・ / 本 研究所、サイクロトロン研究を開始。三菱重工業、 日本における理論物理学の系譜は、一九一〇年代東北帝大 九六式艦上戦闘機・陸上攻撃機の試験飛行 における石原純をもって始まる。石原は国内で先駆けて相対 一一岡潔、複素多変数解析関数論第一論文発表 ( 五三 論・量子論の研究を手がけるが、それはなお孤立的なもので 年にかけて九編 ) 。デイラック著、仁科芳雄他訳 あり、仁科は個人としてみれば本質的に実験物理学者であっ 『量子力学』 一一一大阪帝大、理化学研究所にサイクロトロン完成。 た。今日の意味での理論物理学者ということになれば、湯川 しよういち ともなが 日本金属学会設立。機械試験所設立。日鉄八幡製 秀樹、朝永振一郎、坂田昌一らをもって始まるというべき 鉄所、一〇〇〇ト , 高炉火入れ。朝鮮窒素肥科 ( 株 ) であろう。湯川・朝永はともに二九年に京都帝大を卒業、三 長津江第一発電所完成 ( 総出力四〇万を。ワット ) 。 二年湯川は母校の講師として量子力学の講義を始め、朝永は トヨタ自動車工業 ( 株 ) 設立 高本貞治『解析概論』。『岩波講座・物理学』 ( 全一一 同年に仁科研究室に入った。ちなみに、三二年は中性子・重 二巻 ) 刊。中谷宇吉郎ら、雪の人工結品成功 水素・陽電子・宇宙線シャワーなどの発見、加速器による初 一四名古屋帝国大学設立。この年から四四年にかけて の原子核の人工的壊変と、世界の物理学史上、大発見の年で 各官立大に附置研究所が相次いで設置される。清 ある。湯川は三三年大阪帝大に移り、三五年中間子論第一論 水トンネルで宇宙線連続観測開始。桜田一郎・矢 沢将英ら、それぞれポリピニルアルコール系合成文を発表、三七年、宇宙線中に電子の約二〇〇倍の重さの粒 9 一九 一空九 一九 = - 五 一九一 = 四 とらひ・一 ひでき あっし

3. 日本大百科全書 17

たが、藩命で長崎で武器の 、ら州征討に際しても現地に赴いて戦後処理にあた 立ンの ぶ一よう 年国ニ人 購入にもあたった。六四年 っている。幕府の鎮西奉行、公事奉行人などを かめがやっ 四京た友 っ 東き かる ( 元治一 ) 軍賦役となり、 歴任、鎌倉亀谷に居を構えて、おもに朝幕間の じようげん 具す 禁門の変には大砲隊長とし ノ十′ 金燥 よ折衝に努めたが、承元二年一二月一八日京都 人 命デれ 一鍮乾 ス て活躍、第一次長州征討に において没した。 〈海老沢衷〉 貶亡モさ 以真は館 カ フ 高らを炸従軍、第二次のときは長崎 なかはらちゅうや ( 一九 0 七ー一宅 ) 詩 中原中也 か人制 よしき ね出民 スアスで にあって薩長連合に尽力、 人。明治四〇年四月二九日、山口県吉敷郡山口 とばふしみ しもうのりよう ンシカエ を。松 若 ロロフリ 鳥羽・伏見の戦いには一番 町下宇野令村 ( 現山口市湯田温泉 ) に謙助・フ プカト 装張野 クの長男として生まれる。山口中学に進んだ 郎館うア砲隊長として出陣、のちに と銅長 えちご のヒ陸こ回り越後長岡の戦い が、文学にふけって学業を怠り、四年への進級 悌美とれ彝」し 補しる かしわ 」落す に際し落第。立命館中学に転校、両親と離れて 原代 , 村で右足に銃創を受け、柏 中 ( 近ッ中ぎき どうせい ~ ・板阯漆に 崎野戦病院で没した。正五 京都に下宿。一九二五年 ( 大正一四 ) には同棲 やすこ 」猫 1 拭れ 〈菊池俊彦〉 中の長谷川泰子とともに上京、その後アテネ・ 角川書店 ) ▽中村稔著『言葉なき歌中原位が贈られた。 の 2 欅入 広 中也論』 ( 一九七三・角川書店 ) 回中原尚徳・中原尚臣編『中原猶介事蹟稿』 フランセなどでフランス語を学んだ。京都時代 幅るば とみくら なかはらていじろう ( 一八 / ノ ( 一九一一九・自家版 ) に立命館中学の教師冨倉徳次郎を通じその友人中原悌ニ郎 鉢てや くしろ 火れり苔 なかはらまこと ( 一九四七ー ) 将棋名 富永太郎を知り、富永を通じ小林秀雄を知り、 lll) 明治 ~ 大正の彫刻家。北海道釧路に生ま中原誠 けたか しおがま 長らの海 やがて小林の友人である河上徹太郎、大岡昇平れる。一九〇五年 ( 明治三八 ) 画家を志して上人。鳥取県気高郡に生まれ、宮城県塩竈市で育 やよい めづか かいあおいばし らを知り、彼らとの交友の間で詩作した。三四京、縣会の葵橋洋画研究所や太平洋画会研つ。五歳で将棋を覚え、一九五七年 ( 昭和一一一は、弥生・古墳時代の群集墓で、雌塚など三種 おぎわらもりえ つね 年 ( 昭和九 ) 上野孝子と結婚、長子文也、次子究所に学び、中村彝と親交を結んだ。荻原守衛一 D 高柳敏夫八段に入門。六五年秋に四段、以の遺構が県の史跡に指定された。人口八九六 ^ 川崎茂〉 愛雅を得たが、三六年文也の死にあったころかの強い影響を受け、その死後彫刻に転じた。太後順調に昇段、七〇年八段。六八年第一二期六。 ・一う みちよし しんかい 「棋聖戦」で故山田道美九段から初のタイトル 回『中原町史』上下 ( 一九全・中原町 ) ら神経衰弱が昂じ、三七年鎌倉に転居、心身の平洋画会研究所で新海竹太郎の指導を受け、一 やすはる 地三万五千分の一地形図「中原」「久留米西部」 疲労が甚だしく、帰郷を考えたが果たさぬまま〇年第四回文展で『老人の首』が初入選したを獲得。七二年第三一期「名人戦」で大山康晴 しらかば 同年 ( 昭和一 (l) 一〇月一三日永眠。郷里の経が、一二年白樺美術展でロダンの実作に接し、名人を破り二四歳で名人位につき以来連続九長火鉢ながひばち木炭 ( すみ ) を燃料とす ばだい 塚に葬られる。菩提寺は吉敷村長楽寺である。 深く啓発された。一六年 ( 大正五 ) 再興日本期、通算一二期名人位にあり七六年に「一六世る暖房用具の一種。長方形の箱火鉢で、右側に ちょうざん ねこいたしき つるぞう ぶんぼ やぎ 三、四段の引出しを設け、その上に猫板 ( 敷 一九三四年文圃堂刊の『山羊の歌』、死後一一一美術院研究所に移り、石井鶴三、佐藤朝山名人」の資格を得た。 いた おと げんげん 一九七四 ~ 七六年、日本将棋連盟副会長。タ板 ) を置く。灰を入れる落しには多く銅板を張 八年創元社刊の『在りし日の歌』の二冊の詩集 ( 玄々 ) らと研究を続け、第三回院展の『石井 どう - 」 」とく ちよぎゅう イトル獲得は名人、十段、王将、棋聖、王位、り、これに銅壺、五徳を置く。落しの下には引 のほか、戦後三次にわたり全集が刊行され、六氏の像』で樗牛賞を受け、一八年同人となっ ひらくし かどかわ 七 ~ 七一年 ( 昭和四二 ~ 四六 ) 角川書店刊の全た。『若きカフカス人』『平櫛氏の首』など寡作棋王、合計五六期。八七年現在のタイトルは名出しをつけることもある。長火鉢は、普通ケャ さしもの けんろう キ、ナラ、セン、クワなどでつくる指物で、大 集は、詩、評論、小説、日記、書簡など知られで、三三歳で没したが、堅牢な構築性と豊かな人と王座の二つ。「中原自然流」とうたわれ、 餮ン ) 、幅一尺二 〈原田泰夫〉きさは、長さ二尺 ( 約六〇・六 た限りの全遺稿を収めている。孤独な魂の真率空間の広がりをもち、大正期彫刻の代表的存在強さ、棋風、人柄の評価が高い。 み なかばる ( ちょう ) 佐賀県東部、三寸 ( 約三六・四 ) 、高さ一尺一寸 ( 約三三・ な告白の歌というべきその作品は、死後、戦である。遺稿集に『彫刻の生命』があり、その中原 ( 町 ) 中・戦後の多くの若者たちの心をとらえ、現代業績を記念して、中原悌二郎賞が七〇年 ( 昭和養基郡にある町。北は福岡県に接する。一九七三 ) くらいである。江戸時代の寛政年間 ( 一七 〈三木多聞〉 〈九 ~ 一八 0 一 ) ごろから急速に普及し、ちょうど農 一年 ( 昭和四六 ) 町制施行。北部は花崗岩類の 詩に特異の地位を占めるものとして、今日では四五 ) に設定された。 せふり に山漁村の生活におけるいろりのように、長火鉢 回中原信著『中原悌二郎の想出』 ( 一九八一・日動脊振山地で、南に洪積層の丘陵・台地が舌状 確立した評価を得ている。↓在りし日の歌 しようず 広がり、町中央を筑後川に注ぐ寒水川が南流すは、都市の家庭生活の中心として、昭和一一〇年 〈中村稔〉 山羊の歌 出版部 ) しらぎ ひめかた ひぜんふどき ー六 0 薩る。姫方遺跡、『肥前国風土記』に新羅征討の代まで、茶の間や居間になくてはならぬ存在で 回『中原中也全集』五巻・別巻一 ( 一九六七 ~ 七一・ 丿なかはらなおすけ ( 天三一一 中原猶今 あやひと ^ 宮本瑞夫〉 摩藩士、軍事技術者。名は尚勇。また誼卿、鉄際、漢人を居住させて兵器をつくらせた地と記あった。 角川書店 ) ▽大岡昇平著『朝の歌』 ( 一九夭 あやべ 角川書店 ) ▽同著『在りし日の歌』 ( 一九六七・ 心斎と号した。猶介は通称。一四歳のとき御庭載される漢部 ( 綾部 ) 郷、中世の綾部城、さら中平善之丞なかひらぜんのじよう ( 一七 0 九ー しゆく いっき らんがく 方兼御薬方となり、蘭学を志し、一八四九年に近世長崎街道の中原宿などで知られる。南部五七 ) 江戸中期の土佐 ( 高知県 ) の百姓一揆の かげあっ ぜんのしん 、名は隠敦。高岡郡津 指導者。善之進ともいし ( 嘉永一 l) から約三年間、藩命で長崎に出て蘭には旧長崎街道のほか国道三四号や長崎本線 さんろく かみおかきちえ なりあきら 学を学んだ。島津斉彬の集成館事業の中心的が、またそれら北方山麓には建設中の九州横断野山郷 ( 東津野村 ) の出身で、父は上岡吉右衛 きり・一 ゆすはら しようや とす もん 。中平家を継ぎ、同郡檮原村の庄屋となる。 な技術者として活躍した。薩摩切子ガラスの製自動車道が、東西に横断する。鳥栖市に隣接 くるめ 造、写真術の研究、反射炉の築造、洋式帆船やし、近くに久留米、佐賀市などを控え、住宅地一七五二年 ( 宝暦一 l) 土佐藩は専売制を強め、 開発や企業誘致も進められ、かってのハゼノキ国産問屋を指定して農民から各種の生産物を不 蒸気船の製造などに従事、また電信機の製作、 法の安値で強制的に買い上げたため、農民は激 電気を利用した水雷・地雷の実験など多方面に の紅葉の美しい山野景観は姿を変えた。綾部八 ふりゅう かギ、うら わたっている。斉彬の没後、職を免ぜられ、江幡神社の風占旗あげ神事や奉納浮立は遠近に知高し、善之丞のもとに結集して五五年津野山一 戸に出て江川塾に入り砲術を修め、塾頭も務められる。住宅団地造成で発見された姫方遺跡揆を起こす。善之丞ら一三人は逮捕され八人は 中原中也 さっ のやま かんせい っ 456

4. 日本大百科全書 17

にいちす ちよくそう ーいぜきりようそう ( 一犬九ー一九七九 ) どく、民間労働者は前年の十月闘争で賃上げを ー神学校卒業後、会衆派のアメ新関良三 分は五 ~ 六世紀の古墳で、木棺を直葬し、玉四年アンドー すえき リカ海外伝道協会の宣教師となり、 ( 良心の全独文学者、演劇学者。山形県生まれ。東京帝国かちとったが、官公労働者の賃金は予算に縛ら 類、鉄刀、須恵器などを副葬する。長方形墳の 一二六号墳からは、ガラスの皿や碗、火熨斗、身に充満した ) キリスト教主義大学を日本に設大学独文科卒業。旧制四高、学習院教授を経れ、民間労働者の水準にはるかに及ばなかった。 漆製解、黄金製の耳飾、指輪、腕輪、歩揺のほ立する意気に燃え、同年一一月に帰国。翌七五て、第二次世界大戦後、埼玉大学長、共立女子一一月二六日、全日本教員組合協議会 ( 全教協。 か銀製装身具など中国や朝鮮の文物が集中して年 ( 明治八 ) 京都府顧問山本覚馬と同志社をお大文芸学部長となる。西洋古典演劇、ドイツ演現日本教職員組合Ⅱ日教組 ) 、全逓信従業員組 ギリシア さつま いた。一九七六年 ( 昭和五一 ) 新沢千塚古墳群こし、一一月、京都旧薩摩屋敷の跡に同志社英劇の研究に成果をあげ、主著に『シラーと希臘合 ( 全逓。現全逓信労働組合 ) 、国鉄労働組合 悲劇』、『ギリシャ・ローマ演劇史』全七巻があ総連合 ( 後の国鉄労働組合Ⅱ国労 ) 、全国官公職 〈森浩一〉 学校を開設、当初生徒はわずか八人だったが、 として国史跡に指定された。 にいじま富士火山帯に属する伊豆諸熊本洋学校に学んだ生徒が続々と入学した。七る。後者によって学士院恩賜賞、芸術院賞を受員労働組合協議会 ( 全官公労協。現全日本官公 新島 島の活火山島。東京都大島支庁管内で、大島の七年には同志社女学校を開設し同志社の基礎が賞。学士院会員、一九六七年 ( 昭和四一一 ) 文化職労協議会Ⅱ全官公 ) などは全官公庁労働組合 功労者。はかにプルクハルト『ギリシア文化共同闘争委員会 ( 全官公庁共闘 ) を結成し、一 南西約四キ。。南北約一一キ。、東西約三キ。、面積固まった。八八年には「同志社大学設立の旨 〈高橋英夫〉 二月三日、越年資金の支、最低賃金制の確 ( 宮塚山 ) 。人口意」を宣言し、募金活動に奔走したが、志なか史』の翻訳がある。 約二三平方キ。、標高四三二 しきわ にいたかやま中国南東部、台湾島の立、勤労所得税の撤廃、総合所得税の免税点を 〈伊藤和男〉新高山 二九三五で、人口七一八の式根島とともに新島ばで病死。 ぎよくさ , れ 三万円に引き上げよなど、共同要求一〇項目を 本村をなす。白色で多孔質の流紋岩の溶岩円頂・・デビス著、山本美越乃訳・補『新島最高峰玉山の日本統治時代の呼称。↓玉山 ・ : つん ~ せキ一 襄先生伝』 ( 一九 0 三・警醒社 ) ▽『新島襄全集』 仁井田陞しいだのばる ( 一九品ー六 ~ ( ) 中国法政府に提出した。しかし、政府は越年資金を承 丘が多く、軽量・耐火の石材「抗火石」として 認したほかは要求を拒否したため、日本労働組 制史の学者。法学博士。一九二八年 ( 昭和三 ) 会・同朋舎出版 ) 全一〇巻 ( 一九盒 ~ 広く活用されている。一八七一年 ( 明治四 ) ま かおる にいじまほん ( むら ) 東京都大島東京帝国大学法学部卒業。中田薫教授の指導を合総同盟 ( 総同盟 ) 、全日本産業別労働組合会 で流人の島であった。富士箱根伊豆国立公園の新島本 ( 村 ) しきわ 議 ( 産別会議 ) など全国労働組合懇談会主催で 一部で、近年観光客が急増。イチョウの大樹の支庁に属し、伊豆七島のうちの新島、式根島お受け、東方文化学院の助手として唐令の復原に とうしょ ある長栄寺や、ソテッ、オガタマノキのあるよび付属の小島嶼からなる村。新島の西海岸に努力し、三三年刊行の『唐令拾遺』に対して翌一二月一七日、皇居前広場で開かれた生活権確 じゅうさんしゃ 村の役場のある、中心集落の本村、北端に廡村年日本学士院恩賜賞が授けられた。同学院の教保・吉田内閣打倒国民大会には、官公労働者を 十三社神社がある。有史以後の噴火は向山の こうかせき わかごう 、八六年 ( 仁和一 l) の噴火だけで、作井によるの若郷がある。建築材の抗火石、くさや ( おも授として精力的に中国法制史の研究を進めた。含む五〇万人 ( 主催者発表 ) が参加し、内閣打 にアオムロやムロアジ ) の特産と民宿がおもな著書に『支那身分法史』 ( 一九四 = ) 、『中国の社会倒 ( 倒閣 ) 実行委員会の組織が決められた。 温泉はあるが、噴気・地熱地帯はない。近年も がんたん 一九四七年元旦、吉田茂首相が年頭の辞で労 島の付近でよく地震が群発している。定期船は収入源である。サーフィンのメッカである。人とギルド』 ( 一九五 l) 等があり、論文集に『中国 ふていやから 〈沢田清〉法制史研究』四巻 ( 一九五九 ) がある。〈石井良助〉働運動指導者を「不逞の輩」と非難したため、 東京・竹芝桟橋より、大島・利島経由で毎日連ロ三六五三。↓式根島↓新島 うどね 〈諏訪彰〉二万五千分の一地形図「鵜渡根島」「新島」回『補訂中国法制史研究』全四巻 ( 一九含・東全官公庁共闘や各組合の闘志は高まり、一月一 行されている。↓伊豆諸島 うどね 五日総同盟、産別会議、全官公など三〇組合、 京大学出版会 ) ▽『中国身分法史』 ( 一久三・ 「式根島」 囮二万五千分の一地形図「鵜渡根島」「新島」 かっしか 四〇〇万組合員からなる全国労働組合共同闘争 東京大学出版会 ) にいじゅく東京都葛飾区のはば中央、 「式根島」 新宿 ー七三五 ) 委員会 ( 全闘 ) が組織された。全官公庁共闘は にいたべしんのう ( ? にいじまじよう ( 天四三ー九 0 ) 宗教家、中川の左岸にある地区。旧水戸街道と佐倉街道新田部親王 新島襄 かまたりむすめいおえの てんむ 一うずけ の分岐点で、新しくできた宿場が地名の由来。天武天皇の第七皇子。母は藤原鎌足の女五百重一八日に、二月一日ゼネスト突入を宣言し、政 教育家。上野国 ( 群馬県 ) 安中藩の右筆、民治 とねり いらつめ 娘。七一九年 ( 養老三 ) 舎人親王とともに皇府もようやく事態収拾に乗り出し、官公庁職員 の長男として江戸藩邸に生まれる。幼名七五一一一中川橋は一八八四年 ( 明治一七 ) 旧水戸街道に しようむ おびと らんがく 太。一三歳のとき選ばれて蘭学学習を命じら架けられた橋で当時は有料で町の収入とした。太子首皇子 ( 後の聖式天皇 ) を佐せしめら給与を暫定措置として平均一・五倍に引き上げ じようばん 八六東日本旅客鉄道常磐線開設の際、駅をつくるれ、内舎人二人、大舎人四人、衛士二〇人を賜 れ、軍艦教授所で数学、航海術も学ぶ。一 、封五〇〇戸を増し、前に通じて一五〇〇戸 ことを忌避、また京成電鉄も南方へ避けたため、 三年 ( 文久三 ) 漢訳聖書抜粋を読み、翌年七月 町は衰退した。北側に製紙、化学の工場があの厚遇を受けた。ときに位は「一。翌年藤原不 アメリカへ密航。フィリップス・アカデミー 学び、六六年一二月受洗、アマースト大学、アり、南西部には日枝神社など寺社が多く、鍵形比等が死ぬと知五衛および授刀舎人事に任ぜら ありのり ー神学校へ進む。七一年森有礼とポスをした江戸時代の道が残っている。〈沢田清〉れ、軍事を一手に掌握した。七二四年 ( 神亀 一 ) 一品に昇る。七二九年 ( 天平一 ) 長屋王の トンで会い、森の斡旋で留学免許状、旅券を得囮一万分の一地形図「亀有」 そう ひがしおきたま にいじゅくとうげ山形県東置賜郡変には王の罪を窮問した。七三一年畿内に惣 た。翌年岩倉使節団の文部理事官田中不一一麻呂ニ井宿峠 かったしちしゆく たかはた の通訳を委嘱され、欧米の教育施設を巡視。七高畠町と宮城県刈田郡七ケ宿町との県境にある管、諸道に鎮撫使が置かれたとき、大惣管に任 がんじん と - っしようだいじ 峠。新宿峠とも書く。国道一一三号 ( 二井宿街ぜられた。唐招提寺は親王の旧宅を鑑真に与 ふなど え、そこに建てられた。その子に塩焼王、道祖 で、奥羽山脈越え 道 ) が通じる。標高五六 てんびよう 王がある。天平七年九月三〇日没。〈横田健一〉 の峠としては低く、古くから利用されてきた。 ひろさき 一九四七年 ( 昭和 近世は羽州街道に通じ、山形、秋田、弘前などニ・一スト 山台藩は 一一一 l) 一一月一日午前零時を期し、官公労働者約 西奥羽各藩が参勤交代路に利用した。イ ゅのはら 国境警備のため峠下の湯原宿に館を置いた。山二六〇万人を中心に計画されたゼネラル・スト 形側の峠下には二井宿の宿場があった。山形県ライキ ( ゼネスト ) で、マッカーサー連合国軍 〈境田清隆〉 最高司令官の命令で中止された。 側は七曲りの急坂で知られる。 急激な戦後インフレで労働者の生活不安はひ 囮二万五千分の一地形図「二井宿」 あっせん む - 一う 新島襄 かめあり やかた しおやぎ ースト 1 月 31 日午後 9 時 21 分 , 伊井共闘議長は , 涙とと もにスト中止を全国に放送し , 「一歩後退ニ歩前進」を訴えた 659

5. 日本大百科全書 17

〔工業〕一九八五年現在、奈良県工業の事業所数は約八六〇 で零細である。第二次大戦前の専業農家率は五〇 % を超え ていたが、六一年以降激減し、八五年には一〇 % まで下がっ 県総面積の約八〇 % は林野で占められる。私有林が大部分〇、従業者数は約八万九〇〇〇人である。そのうち従業者三 た。農民の多くが安定した職場を求めて就職し、農業所得をで、早くから人工更新が積極的に行われたことや、独特の密〇〇人以上の事業所は二 % にすぎず、事業所のほとんどは中 生計の補助的なものとし、資産管理的な経営を行う都市近郊植方法により、単位面積当りの蓄積量は全国平均よりも高 小零細企業である。部門別にみると、木材木製品、繊維、衣 型農業経営の特色を示している。耕地面積のうち水田が全体 く、スギ、ヒノキを中心とする用材林の品質は高く評価され料品、食料品などの軽工業が事業所数、従業者数とも多い みがき の約八〇 % を占めるが、生産調整のための作物転換が行われている。とくに吉野杉、吉野磨丸太などの良材の産出で知ら一九八四年の工業出荷額は一兆八、 六九五億円で、近畿地方で ており、水稲生産は減少している。野菜生産は全国的にみてれる。 は最下位である。出荷額の順位は一般機械、電気機械、繊 多いほうではないが、京阪神大都市圏近郊の野菜供給地とな 〔水産業〕内陸県であるが、溜池や河川を利用する養殖業、維、食料品、金属製品、木材の順で、重化学工業と軽化学工 っている。盆地気候を利用した水田裏作の大和スイカは有名漁業が行われている。県全体の産業に占める割合はきわめて業の比率はほば伯仲し、年々重化学工業の占める割合が高く である。カキの栽培は古くから知られているが、ミカン、プ 小さいものの、大和郡山市を中心とするキンギョ、色ゴイな なっており、反面、かって出荷額一位であった木材の出荷額 ドウ、ナシなどの果樹栽培も盛んになっている。またチャのどの観賞用魚類の養殖は全国的に有名で、質・量の両面で評は低下している。一般機械、電気機械の進出は、六五年以降 栽培も古くから盛んで大和茶として知られる。最近は施設園価が高い。また、大和川、熊野川水系を中心にアユなどの内の工場誘致、工業団地造成などによるもので、大和郡山市の 芸が急速に伸び、イチゴ生産は全国のトップクラスに入って水面漁業も行われている。 昭和工業団地などを中心に阪神工業地帯からの進出企業がみ られる。地場産業の六〇 % は繊維、木材、衣服の三業種で占 -8 -4- 00 ワ】 つ」 8 1 ー 1 ー 8 っ乙 8 4 ー 0 ワ」 8 4 ・ きたかつらぎ 「 / (. 0 (. 0 っ 0 仄 0 つ」 0 一 4- っこ L-n CO っ . 」ワ」 4 8 フ」 められ、大和郡山市、大和高田市のメリャス工業、北葛城 っっ 0 乙・ 帯 ▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽合 丗一 -0 1 、ワ 1 っ 0 11 郡の靴下製造、御所市、大和高田市のサンダル製造などが知 1 っ 11 0 (. 0 、 1 1 人 11 / レ」 -4 ・一 -0 -0- 戸 0 -8 一 00 1 よワ】 -0 ・ -8 ワ ( う -8 一 られている。伝統工業の技術的発祥の歴史は古く、奈良時代 ド 0 4- -8 -. 0 / 「 / ワ 1 0- 0 11 -4 ・ 1 人 ジ 」、 ) 」 4 0 4 っ 0 00 ワ 0 -4 ・ワ・入 -4 「ー -0 、 1 -4 ・ワ】 1 人 14 11 00 4 ・ 11 1 ー - 1 よ - 必亠 8 ワ 0 LO 11 っ 0 、 1 円円 ス者ビ業 ロ -0 -8 0 -8 / 0 っ 0 《 0 《 0 ワ」 -4- ワ】「 / 8 -0 っー -8 ワワ ) 4 億億 ビ産一ス ( 」 1 人っ 0 ワ】 人 積 2 0 ・ ) 0 -4 「 / ワ / C*•a LO 0 -0- 1 よ 一生サ 図 面 00 《 0 ・ 4 / 0 1 よ、ー 0 っ 0 「 / 《 0 (C) CD サ 、 1 1 よ 11 《 0 11 ワワ」 11 地 フ」 8 「こっっ′」 CO つ」っ 0 乙 ( / 」月 4 つ、 ) 4 ・艮 「 / 一つ」 (C) つ」 1 ー 0 ・ ) 0 ・ ) 4- っ・」図引 政 産 Q Q LLJ LLJ L.L LL U U LL O O 〔 0 〔 0 4 ・つ 0 つ」っ 0 0 4 ・地 ~ 系 生 額額 ▽▽ の 公む公む 総 し 、つ やや よ どちきしわわうわたたみよ図 産産 ののよ いたよかがとかききかし地 者 生生 ワ】 00 -4 -8 -4 e-- っ 0 00 すたん しんううわししおもろしんせおつもみわが 動 産 総総 あきしたかかおこかよよおしく ロ、′「 / ワ《 0 11 -8 8 -8 《 0 っ 0 にてのおとしかかひ少 舌 生 内国を 人 県全よ ワ】 -8 「 1 L.O CO -8 宀亡・朴・丑 村香城町ーー町町町町郡町町町村野 山山村野▽ 町日葛庄麻芝牧寺陵合野野淀市滝吉川迫塔津北北上吉 サ 郡明北新當香上王広河吉吉大下黒西天野大十下上川東よ ・ー宀 00 -4 ・つ 0 っ 0 っ 0 、 1 -8 年 一 4 ・ 1 ー O っ 0 つ」 0 ・ ) 1 ー O つ」 (X) 0 0 1 ー 0 ) LC) 営 9 1 1 、 1 ワ 0 【 0 0 -8 -8 -0- つん ~ 年 . に L 1 ー - 1 ー 11 11 -4 -8 4- -8 《 0 - -0 タ 00 1 ー 4 ・ 0 4 ・ 1 ー ・つ 0 ワ」 ▽ ▽ ▽▽▽▽▽▽ ~ 業業業業 産ムデ 民 + 農林鉱 水内 -0 00 11 CO ワ】 -8 / ら -4 -8 1 人 00 / ( う 11 1 ・《 11 11 11 、ー・、ー人・ー・ロ 家 3 8 日 戸 0 C.O 一 -0 1 人ワ】 11 っ 0 0 率 対 尸 0 0 8 っ 0 っ 0 9 減 行 っ・】 1 人、 1 一 4 ・ワ 1 -0 00 1 よ 増 産 0 施 8 -8 ・ 4 -4 -8 、 1 一 4- 0 戸 0 0 戸 0 ー ワ」、 1 《 0 査 00 《 0 ハ 0 ワ 3 《 0 (. 0 市 積 調 る合 面 国 人人よ 年 0 0 ・ ) にで 8 0 」の 図引 っ 0 っ乙ワ」っ ") っ , 一つ 0 っ , 」っ / 一つ . 」図 7 3 査 む ↓ま 覧地索 0 0 0 0 地索 < L-n 8 阜 ) や 人 と か 村 ら 【 0 年利 ら ちリ え みせ こるど え と在 かがペ 、つのば、つ 数数属 んしくじせこ んかんきわやわだおたい ろにつかか現 総総幻 そっやつや へさ なややてかさご あしかみたうおうはむそみたた月 市 者者烹ロ 市市 年 業業者産 県 郡町ーエー郡丁町本郡陀野町寸寸寸 5 工 就就業生 市田山市市市市市市村郡瀬郡村村 ら , 就総 内国 上ケ辺祁添駒群郷鳩堵城西宅原陀宇田原生爾杖市取 良名良和和理原井條所駒町 な奈市奈大大天橿桜五御生郡 県全注 添月山都山生平三斑安磯川三田宇大菟榛室曽御高高注 ( km2 ) 7 109 ()m ) 24 .04 21 .20 17 . 53 18 239 16 . 26 14 223 24 . 28 43 485 5 . 92 18 826 6 . 93 20 265 16 . 65 20 345 8 . 30 18 105 つ」っ′」っ′」っ」っこっ」っ′」 44.13 67 . 52 24.03 18 783 8 . 62 21 606 14 . 58 27 042 4 . 88 7 003 っ乙つ」っ」っこ ロ凵 CD 9 670 5 . 50 4 . 97 8 536 20 . 59 30 036 っこっ」フ」 ロ凵 ( し っ 0 ・ 4 ・ / 」ー 4- LO う ) O O ( し O O O 産業別就業者 分類不能の産業 0 . 2 公務 4.2 0 0 0 0 ニ = ロ サービス業 20 . 0 製造業 27.0 製造業 26.0 36.9 55.5 33.6 64.3 建設業 全国データ 〇一次産業 〇ニ次産業 〇三次産業 1 . 0 電気・ガス・水道業 3.6 3.9 金融・保険業 4.9 不動産業 12.3 5.7 運輸・通信業 6.6 建設業 卸・小売業 22 . 2 569

6. 日本大百科全書 17

難 ) 。鎌倉にいた弟子たちも多く捕らえられ、し、遺骨は身延山に移されて墓塔が営まれ、弟赦免となる。迫害が与える精神的重圧は大き 6 んえて、伝道活動を展開した。ところがその年八 く、日蓮はそのたびごとに『法華経』の文にこ 7 れ月に起こ 0 た大地震は激しく、鎌倉は壊滅状態信者のなかにも信仰を捨てる者が続出して、教子たちが月番でこれを守ることとな 0 た。↓日 〈中尾堯〉れを照合し、「法華経の行者」日蓮の自覚を開 に陥る。そのうえ洪水、干魍、疫病、飢饉など団は重大な危機にみまわれる。日蓮は概模国依蓮宗↓開目抄↓立正安国論 する ち ち いた。日蓮は五〇歳までは鎌倉を本拠として駿 の天災が続出した。日蓮はこのように不安な状智 ( 神奈川県厚木市 ) の本間氏の屋敷にとどめ回田村芳朗著『日蓮ーー殉教の如来使』 ( 一九 てらどまり しなの 七五・日本放送出版協会 ) ▽高木豊著『日蓮河、房総に布教し、五三歳までは佐渡、六一歳 態から脱出する方法を、宗教者として模索し始られたのち冬の信濃路を越えて寺泊に出、佐 くおんじ さんまい みのぶ その行動と思想』 ( 一九七 0 ・評論社 ) ▽川 までは身延山 ( 久遠寺 ) に住して諸方に文書伝 める。浄土教の信仰を捨てて法華経の信仰にな渡に渡った。国中平野の一隅にある塚原の三昧 添昭一一著『日蓮ー・ーその思想・行動と蒙古襲道し、弟子らを督励して甲斐、駿河にも教団の りきることによってのみ、現実の世界は仏国土堂に置かれた日蓮は、雪中の寒さと飢えに死を いちのさわ 来』 ( 一九七一・清水書院 ) ▽立正大学日蓮教学地盤を築いていった。八二年 ( 弘安五 ) 一〇月 になることができるというのが、その結論であ覚しながら『開目抄』を著す。やがて一谷に あが むさし しー・カ - み かんじんほんぞんしよう ほうねんげんくう 研究所編『日蓮聖人遺文辞典歴史編』 ( 一九 一三日武蔵国池上 ( 本門寺 ) で入滅。 る。いま法然 ( 源空 ) の説く浄土教を禁圧して移され、『観心本尊抄』を著し、本尊と崇める につしょ・つ きえ だいまんだら 五一一 ~ 五九・身延山久遠寺 ) 〔分派の形成〕日蓮は入滅のとき、日昭、日 『法華経』に帰依しないならば、国内に内乱がべき大曼荼羅本尊を書き示した。七四年には異 ろう につ第一う につちょうにちじ 起こり、他国から侵略を被るであろうと、為政例ともいうべき流罪の赦免を得て鎌倉の地に帰日蓮宗にちれんしゅう鎌倉中期に日蓮によ朗、日興、印向、日頂、日持を本弟子 ( 六老 きえ ほけきょ・つ りつしようあんこくろん るが、その主張がいれられないとみて、甲斐国って開かれた宗教。もつばら『法華経』を帰依僧 ) と定め、遺言により身延に埋葬された。翌 者の宗教責任を問う『立正安国論』を著した。 あづち ときより いんせい みのぶ しつけん 身延山 ( 山梨県身延町 ) へ隠栖し、弟子や信者の対象にするので法華宗と称していたが、安土年正月の百日忌には六老僧らの計一八人が交替 日蓮はこの書を、前執権北条時頼に呈上し、 そびようこうげ 桃山時代の末期には天台法華宗 ( 天台宗 ) と区で祖廟に香華する月割当番 ( 輪番 ) 表を制定 『法華経』の信仰に基づく善政を施すことによの信仰指導にあたる。各地に住む信者たちは、 し、各自は有縁の地で布教に励むとともに、所 別するため、日蓮法華宗、日蓮宗といわれるよ って災難の克服を進言する。一一一六〇年 ( 文応供養の品とともに信仰の指導を求めてくる。日 定の月には身延の輪番に服した。しかし三回忌 一 ) 七月一六日のことである。 蓮は、書状や曼荼羅本尊を弟子たちに届けさせうになった。 〔法難〕日蓮のこのような主張に反発した浄土て、その要請にこたえるのが常であった。故人〔歴史〕〔開宗と日蓮入滅までの経緯〕一二五の前後にはもつばら日興が常住して祖廟給仕の あわ さねなが 教の信者たちは、八月二七日の夜に大挙して松の遺骨を抱いてはるばる身延を訪れ、山中に納三年 ( 建長五 ) 四月二八日、安房国 ( 千葉県 ) 任にあたったが、領主の波木井実長の信仰に不 せいちょうじ なむみようほうれんげきよう 骨する者も現れた。領主から信者に対する弾圧の清澄寺で初めて「南無妙法蓮華経」を日蓮純ありといさめて、一二八八年 ( 正応一 ) 離 葉谷の草庵を焼打ちした ( 松葉谷法難 ) 。危う さんろくたいせき が唱えたときを立教開宗の日とする。念仏信者山、駿河の富士山麓に大石寺、本門寺を創建し く難を逃れた日蓮は、下総に移って事が静まるも激しくなったので、その対応も深刻に考えな じとうとうじようかげのぶ きょすみ くてはならない。山中に隠栖生活を送る日蓮であった地頭東条景信の怒りに触れて清澄をた。これが初度の分派で、富士門流形成の起源 のを待ち、翌年ふたたび鎌倉に進出する。とこ ほんろくしんろく ナっして心 追われ、鎌倉に出た日蓮は街頭布教を繰り返しである。日興の門下に本六、新六の一二人をは ろが五月一二日にまたもや捕らえられて、伊豆は、しばしば下痢の病に伏したが、レ じめとする弟子があり、甲斐、駿河、伊豆を中 国伊東 ( 静岡県伊東市 ) に流された ( 伊豆法の休まる暇はなか 0 た。なかでも七九年 ( 弘安ていたが、暴風、大火、地震、置、疫病がし あっはら するが 心として、東は奥羽から西は四国・九州までも (l) 九月に起こった熱原法難は、駿河国富士郡きりで、ことに一二五七年 ( 正嘉一 ) 八月の地 難 ) 。ここでは伊東八郎左衛門のもとに預けら にちぞん ふじのみや れ、その病を祈って快癒させ、海中から得た立熱原 ( 静岡県富士宮市 ) の百姓たちが殉教した震は鎌倉を破壊した。仏者としてこの惨状を黙教線を伸ばし、とくに日尊 ( 一一一 ~ 釡ー一三四五 ) は京 しやくそん 視するに忍びず、仏典によ 0 て災難興起の由来都の第語 ( 後の要法寺 ) など三六寺を建立 像の釈尊を贈られ、これを生涯の随身仏とし はどの深刻な事件であった。 にちもく りつしようあんこく 〔身延山下山・病死〕一方、日蓮が予言した蒙と退治の方法を考え出し、『立正安国論』と名したといわれる。日興の高弟日目の滅後、門下 た。一二六三年 ( 弘長三 ) に赦免されて鎌倉に に対立が生じ、興門の八箇本山は二流三流に分 帰って伝道活動を再開する。その翌年の六四年古の襲来は、一二七四年一〇月に現実のものとづけて一二六〇年 ( 文応一 ) 七月一六日、前執 なったが、大暴風雨によって船が覆ったので、権北条時頼に上奏した。そのなかには内乱・外かれて明治時代に至り、いったんは大同団結し ( 文永一 ) 一一月一一日、故郷を訪れていた日 ほうねん かろうじて事なきを得た。ところが八一年の夏寇の予見があり、また亡国の邪法として法然念て本門宗を公称したが、一九〇〇年 ( 明治三 蓮を、かねてから浄土教の法敵とねらっていた はか 4 」ら・い - : っ とうじようかげのぶ にふたたび博多に来寇したが、武士の果敢な戦仏を指定している。以後、日蓮は数々の迫害を三 ) 大石寺派は本門宗から独立して日蓮宗富士 東条景信が、東条郷松原大路に待ち伏せして しようしゅう いと台風の襲来によって、難を逃れることがで受けるが、それはすべて『立正安国論』に由来派と称し、一三年 ( 大正一 l) には日蓮正宗を 襲撃した。激闘のすえに幾人かの死傷者を出 まつばが はきいさねなが みけん し、日蓮自身も眉間に刀傷を負った ( 小松原法きた。その年の一一月には、領主の波木井実長する。献上の翌月には念仏者の集団による松葉名のった。日昭門流 ( 浜門流 ) は、日昭建立の えち はまど たまさわ が一〇間四面の大堂をはじめとする諸堂を建て谷草庵 ( 自坊 ) の焼打ち、翌年の六一年 ( 弘長鎌倉浜土の法華寺 ( のち伊豆玉沢に移転 ) 、越 難 ) 。ふたたび鎌倉に赴いて伝道していたとこ もうこちょうじよう おんじ うるう 後国村田の妙法寺で法類を相続した。 一 ) 五月から六三年二月までは伊豆の伊東に流 ろ、一一一六八年閏正月に蒙古の牒状が幕府へて寄進した。身延山久遠寺の開創である。とこ ひきがやっ ぶつげん 日朗門流は、鎌倉比企谷の妙本寺、武蔵国池 ろが翌年の八二年になると日蓮の病は進み、秋罪 ( いまの仏眼寺 ) 、六四年 ( 文永一 ) 九月の 届いた。それは元朝への臣従を求めたもので、 しもう、ひらが ころ母の重病を見舞うために故郷に帰り、一一上の本門寺、下総国平賀の本土寺を本寺とし、 には立つのも困難なほどになった。このため、 これを拒否するならば武力による侵攻を被るこ にちぞう ひたち 月一一日東条郷の松原大路で地頭東条景信の伏日朗弟子の九、なかでも日像は京都開教の先 とは覚悟しなくてはならない。日蓮はこれをも故郷を訪ねて常陸 ( 茨城県 ) の湯に入ろうと、 って『立正安国論』の予言が的中したと主張身延山を出て東方に向かった。けれども九月一兵の刀難にあい、弟子一人、信者一人は討ち死駆者となって四条に妙顕寺を創立し ( 四条門 しけカみ みけん むさしせんぞく にし、日蓮も眉間に刀傷を受けた。一方、日本流 ) 、日印 ( 一一一六四ー一三一一 0 は鎌倉の本勝寺を継 し、『法華経』の信仰を盛んに唱えた。やがて九日、武蔵国千束郡 ( 東京都大田区池上 ) にあ も、つ - 」ちょうじよう ほんじようじ むねなか ぎ、越後国に本成寺を創立した。その弟子日 に降伏を勧める蒙古の牒状が一二六八年、六 蒙古との関係がさらに悪化すると、幕府は侵攻る池上宗仲の屋敷に至ると、ふたたび立っこと じよう あしかがたかうじ ー一三六九 ) は足利尊氏の外護で鎌倉本 軍との徹底的な防衛戦を決意し、全国的な臨戦ができなくなった。死の近いことを知った日蓮九年と繰り返しきて、風雲はいよいよ急を告静 ( 一一 勝寺を京都六条に移して本国寺 ( のち本圀寺 ) は、弟子や信者に『立正安国論』を講じ、教団げ、したがって日蓮の立正安国の運動もまたい 体制を敷いた。このような状況のなかで、予言 かずさ もばら こっしようこちろう の的中と法華経信仰を叫ぶ日蓮は、七一年九月の中心となる弟子六人 ( 六老僧。昭、印朗、よいよ激化した。そして七一年九月一二日江のをおこした ( 六条門流 ) 。日向は上総国茂原の たつのくち りゅう - 」う そうげん たつのくち につちょうにちじ オが日興の離 日興、日向、日頂、日持 ) を定める。やがて島の対岸の竜ロ刑場 ( いまの竜ロ寺 ) にて斬妙光寺 ( いまの藻原寺 ) に住しこ、ゝ、 一二日に捕らえられ、片瀬の竜ロ刑場に引か はらん しゅ ぎんしゅ 一〇月一三日辰の刻 ( 午前八時ころ ) 、波瀾に首の科刑にあったが、不思議にも難を逃れ、そ山ののちは身延に常住することになったから、 れて斬首されようとした。ところが奇跡が起こ し ~ し の場からただちに佐渡流罪となり、七四年三月その法類を身延門流という。 って果たされず、佐渡流罪の途に上る ( 竜ロ法富んだ一生を終えた。遺骸は池上の地で火葬に につ - 」う ′、には ~ たっ やっそうあん ときより ほっけ ぎん ほん・一く

7. 日本大百科全書 17

どみにか かんばく は乾燥気候で、サバンナや灌本が卓越し、灌漑 キ、よ , っーわこノ、 西インド諸島東部、小アンティル諸島中のウドミニカ共和国 年年 なしでは農業生産は不可能となる。晩夏から秋 インドワード諸島に位置する国。北のグアドル Repüblica Dominicana 1 よ 11 にかけて熱帯低気圧やハリケーンが毎年襲来 ープ島と南のマルティニーク島 ( ともにフラン し、一九三〇年にサント・ドミンゴは壊滅的な ス領 ) に挟まれたドミニカ島からなる。面積七 被害を受けた。 五一平方キ。。人口約七万七〇〇〇 ( 一九会推計 ) 。 0 ( 5 ( 年万万 4 企・ゴ ノ「しレ 3 、 1 、 1 〔歴史〕イスパニョーラ島は、一四九二年一二 ノっ 0 -0 ・ 11 -8- 、 首都ロゾー Roseau ( 人口一万七〇〇〇、一九 0 。にー -8 べ 人 月コロンプスの第一回航海によって発見され、 英 七 0 。ドミニカ島は南北約三二キロ、東西約二六 2 -8 」「五ロ 2 -0 -0 1 人 -0 レ《 0 ワソ . ン . ℃カ -0- ノ -0 スペイン人がラテンアメリカに初めて植民を開 キ。の火山島で、温泉もある。島の中央部を南北 、「ノ・・ 1 ニ 6 人 % 始した地である。一四九六年コロンプスの弟バ に山地が走り、急流がみられる。風下斜面は土。 億間出入 11 一 -0 、 E 叩 和 8 1 輸輸カ サスド 1 -4 ・《 0 11 ワ】 ルトロメ・コロンによって、サント・ドミンゴ 壌が厚く、風上斜面には熱帯の赤色土壌が発達 共 産 の前身ヌエバ・イサ・ヘラが建設され、スペイン 率 する。一年中、高温で降雨も多く、しばしばハ カ 度加 公心、 の関心がメキシコ、ベルーに移行するまで植民 リケーンの被害を受ける。年降水量は一一一五〇 密増語 ミ面 E 積ロロロ都用貨 民易教地経営の拠点となった。それはまた原住民イン ミリに及び、多種の熱帯性植物が繁茂する。 国い貿宗 ・新面人人人首公通 ディオ ( アラワク族、カリプ族 ) にとって悲劇 一四九三年コロンプスによって発見され、一 きゅうしゅん 西インド諸島中部、イス。ハニョーラ島の東部〔自然〕イスパニョーラ島の地形は、急峻なの歴史の始まりでもあった。エル・ドラド ( 黄 六三二年フランス人が最初に入植した。一七五 三分の二を占める国。西はハイチと国境を接す山脈と地溝低地、山間盆地が織り成し複雑な様金郷 ) を求めてこの地に渡ったスペイン人は、 九年イギリスが島を占領し、一八〇五年イギリ 砂金採掘 ( シバオ金山地区 ) や農園労働に原住 相を呈している。ドミニカには、イスパニョ る。一四九二年、コロンプスの第一回航海によ ス領、一九六七年イギリス自治領となり、七八 せきりよう って発見され、スペインの植民地開発が初めてラ島の脊梁山脈である中央山脈 ( 最高峰ドウ民を酷使し、加えて栄養失調や旧大陸から持ち 年一一月独立した。政体はイギリス連邦加盟の 込んだ疫病のために、約五〇年間のうちに、数 共和国で、議会選出の大統領が元首である。国行われた歴史的な地である。ハイチが一七世紀アルテ山、三一七五 ) 、その北の北部山脈、南の 以降フランスの影響下に置かれ、アフリカおよネイバ山脈とバォルコ山脈が東西に連なり、国十万人いたといわれるインディオは絶滅させら 会は一院制、議員の任期は五年。八〇年七月、 びフランス的要素の強い文化を形成したのに対土の大部分を占めている。これらの山脈は、地れた。砂金が枯渇したのち、一六世紀初めにサ 初めての総選挙でドミニカ保守党が勝利、カリ ブ海地域初の女性首相・・チャールズが就し、ドミニカの文化は、スペイン的要素を基盤質構造的には環太平洋造山帯に属し、ユカタントウキビ・プランテーションがサント・ドミン に二〇世紀以降のアメリカ的要素が加わったも半島、ホンジュラス、ニカラグアから続く山系ゴの周辺で開かれ、インディオにかわる労働力 任、八五年再選された。 めいりよう としてアフリカから奴隷が輸入された。一八世 観光と、低地でのバナナ、ココナツツ、カカのであり、一つの島の中で国境を境に明瞭なの一部をなし、古い地質が第三紀後半の激しい かんぎつ 東西方向の断層運動によって形成されたもので紀までに、サトウキビ、タバコ、カカオが重要 オ、マンゴー、柑橘類の栽培が主要産業である。相違を示している。面積四万八七三四平方キ。 他の西インド諸島と比較すると人口は希薄で、人口六一〇万二〇〇〇 ( 一九会推計 ) 。首都はサある。中央山脈と北部山脈の間には、ヤケデな輸出産品として生産を拡大していった。 一七世紀以降のドミニカは、ヨーロッパの列 ント・ドミンゴ。国名はカトリック暦の安息日 ル・ノルテ川沿いのシバオ低地、ユナ川沿いの ドミニカ島の山地は熱帯林がそのまま残ってい ほんろう 強国とアメリカの思惑に翻弄されたカリ・フ海諸 ベガレアル低地の地溝性低地が連なり、主要な る。住民の大部分はアフリカ系黒人である。東「聖日曜日」を意味する。 国のたどった歴史を象徴するものであった。一 経済活動の舞台となっている。ネイバ山脈とバ 部の居留地に住む現住民のカリ。フ族は約二〇〇 ォルコ山脈の間には断層谷工ンリキーヨ盆地が七世紀末からイスパニョーラ島西部 ( 現在のハ ^ 菅野峰明〉 〇人である。 イチ ) にフランス人植民者が増加し、一六九七 あり、同盆地のエンリキーヨ湖は海面下四六 ) に達する塩湖で ( 乾燥地帯にあり、湖水の蒸発年スペインは同地域をフランスに割譲した。そ により形成された ) 、ラテンアメリカにおけるの後、フランス・スペイン戦争の結果、バーゼ もっとも低い地点を記録している。最大の平野ルの和約 ( 一七九五 ) で全島がフランス領となっ は、南東部のサント・ドミンゴ東方からカリプた。フランス革命の影響は各地で黒人の反乱を 海沿岸沿いに広がるセイボ海岸平野である。 0 (C) 0 ) 0 0 E ワ」っ L-n 0 気候は熱帯に属するが、冬は北東、夏は南東 の貿易風が卓越し、その影響を受けて、年平均象 気温は二六 ~ 三〇度 0 で熱帯としてはしのぎや気 すい。明瞭な雨期と乾期に分かれ、雨期は北部ゴ ン で一二 ~ 四月、南部で五 ~ 一一月と異なってい る。年降水量は一四〇〇ミリであるが、地形の配 置により地域的に多様な様相を示す。年降水量 がもっとも多いのは中央山脈で、その南斜面で ン は三〇〇〇ミリを超える。北東部は降水量が多 サ l-n O L-n C) (C) 0 L-n 0 く、シバオ低地は豊かな農業地帯となってい ℃ 2 2 1 1 る。他方、貿易風の山かげとなる地域や北西部 マリー・カ・ラント 。 : 〔フランス〕 カ 海ディアプロティ、亠 北尺西 マリゴット ー 447 ( 69 カロ レクア スコツツ岬 マルティ二一ク島 1 : 3 , 00 , 000 ドミニカ共和国 北長西洋 20 。、 工ルト・プラタ - ノランセス・ビエホ岬 に 0 オま地 ンティコ フ・ イ 68 。 / 海モーナ島 。 = 。サオナ島第第 1 0km ス ン サ ナ マ ルイ地 50 サント・ミン 朝 ナ ヾラオナ イスパ 第リブ海 べ島べアタ岬 1 0 50 1 : ス 00 〇 , 000 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 101112 月 ←→気温 年平均気温 25.6 ℃ の降水量年降水量 1365.7mm 緯度 / 経度 18 。 26 ' N / 69 。 53 ' W 標高 14m 1987 年版「理科年表」による ん ~ ・んがい 191

8. 日本大百科全書 17

最後は連合軍の攻勢と中国人民の反抗の前に敗退せねばなら し、翌年四月には講和が結ばれた。日本は多額の賠償金のほ りようとう .. な、かった こうして翌一九一五年、日本は中国政府に対して二十一か か、台湾と遼東半島を獲得したが、遼東半島は三国干渉に よって返還させられた。敗戦によって清国はその弱体が明ら条の要求 ( 対華二十一か条要求 ) を提出する。主権を無視す〔戦後〕敗戦後の日本は連合軍の占領下に置かれたが、その 間の一九四九年一〇月、中国の内戦は共産党の勝利に終わ かにされ、これより列強は争って清国に利権を求める。海岸るほどの過大な要求に中国政府は抵抗したが、五月七日に至 つうちょう り、中華人民共和国が成立した。国民政府は大陸を追われて って最後通牒が発せられるに及び、ついに受諾のやむなき の要地は列強の租借地となり、清国の財政は列強の進出によ に至った。五月七日および受諾の五月九日は国恥記念日とし台湾に移った。 って崩壊の危機に立ち至った。↓日清戦争 日本が独立を回復したのは、サンフランシスコ講和条約が 日本国内では清国また中国人を軽侮する風習が生じた。中て長く記憶された。 日本の露骨な圧迫に中国の民衆は反撃した。一九一九年の発効した一九五二年 ( 昭和二七 ) 四月である。そのとき日本 国に対する尊敬の感情がこのころから一変したのである。す でに欧化の風潮が日本の上下にみなぎっていた。しかし、日五・四運動も、排日の気運が高揚した結果であった。世界の政府は、中国を代表する政権として、人民共和国でなく、台 ~ 二二年のワ湾政権を選び、これと平和条約を締結した。ここにおいて、 列強が日本をみる目も厳しくなった。一九二一 本が近代化を目ざして欧米の文化学術を取り入れるとき、こ シントン会議では、中国に関する九か国条約が結ばれ、日本台湾との間には平和が回復したが、中国大陸においては戦争 れを日本語に訳するにあたって活用したのが漢語であった。 和製の漢語が数多くつくりだされ、新しい日本語の内容が充の進出を阻止しようと試みられた。しかし大陸に生命線を求状態が続くという状況になった。その後、民間では経済面、 文化面などでの交流が行われるようになったが、歴代内閣は 実された。その一部は中国にも輸出され、中国語のなかに取めると称して、日本は陸車を中心に侵略の計画を進めてい た。東北の占領を目ざして起こされたのが一九三一年 ( 昭和中国を敵視する政策を改めず、二〇年を経過した。一九七二 り入れられている。 二〇世紀に入り、日本はロシアと戦ったが、その戦場は中六 ) の満州事変である。翌年、戦火は上海に飛ぶとともに、年アメリカ大統領が中国を訪問し、米中関係が正常化する 日本軍の手によって偽「満州国」が建てられた。日本は国際と、ようやく日本政府も動いた。日中の国交が回復されたの 国の東北、すなわち清国領内であった。この戦争ののち、日 は同年九月である。しかも平和条約調印までには双方の主張 本は遼東半島先端のロシア租借地を譲り受け、関東州として的に孤立したが、侵略の企図はとどまるところがなかった。 ねつか 経営するほか、南満州鉄道を通じて東北への進出をもくろむ偽「満州国」は熱河地方も領域に加え、日本軍は長城を越えが食い違ったため、さらに六年の時日を要した。一九七八年 ろこうきよう 八月に至って条約は調印され、こうして日中の長い不幸な時 て華北に進出した。そして一九三七年、蘆溝橋事件をきっ に至った。 〔大正・昭和前期〕中華民国は一九一二年に発足し、すなわかけに全面的な日中戦争が開始される。日中両国の歴史にと期に終止符が打たれたのであった。↓日中関係〈山口修〉 ち元年はわが大正元年にあたる。その三年、一九一四年に第って、もっとも不幸な時期がここに始まった。しかし、一〇回井上秀雄訳注『東アジア民族史・ーー正史東夷伝』全二巻 ( 平凡社・東洋文庫 ) ▽森克己・沼田次郎編『体系日本史 一次世界大戦が起こると、日本はドイツに宣戦し、その柤借万の日本軍が中国本土に出動し、殺人と略奪をほしいままに チンタオ 叢書 5 対外関係史』 ( 一九大・山川出版社 ) 地であった青島を攻略したのに続いて、山東半島一帯を制圧して、その国土を荒らし、民衆を苦しめたにもかかわらす、 に傀組織蒙疆連合委員会を組織した。華北で 救国十大綱領」を提起した。日本も同日、上海 につちゅうせんそう一九三七年などは「一カ月ぐらいでかたづく」といってい 日中戦争 ろ - 一うきよう 。八月三一日北支那方面軍が編成され、平型 ( 昭和一一 D 七月の蘆溝橋事件に始まり、四五たが、それは中国の抗戦力を完全に見誤るもの派遣軍を編成する一方、戦争宣言ともいうべき 野で敗北したものの、九月保定、一一月太原、 年八月日本の降伏で終わった、日本と中国とのであった。日本は七月一一日の「華北派兵声「蘆溝橋事件に関する政府声明」を発表、つい さいなん に全面戦争へと踏み切り、九月二日には「北支一二月済南と占領地を拡大、同月、北平に傀儡 全面戦争。日中一五年戦争という場合は、一九明」に基づき、朝鮮、満州から送り込んでいた 政権中華民国臨時政府をつくった。華中では、 三一年九月の満州事変を起点とする。中国では部隊に加え、同月末さらに日本から増派した一一一事変」の呼称を「支那事変」と改めた。 ペイビン てんしん 一般に抗日戦争とよぶが、第二次中日戦争とい 個師団をもって北平 ( 北京 ) 、天津一帯を一挙 他方、ソ連は八月二一日国民政府と「中ソ不中国側の激しい抵抗を受け、一一月上海を占領 に制圧した。即時抗戦を主張する中国共産党に可侵条約」を結び、武器・弾薬の援助に乗り出したときには、日本軍の戦死傷者は四万に達し う言い方もある。 しよう ていた。同月七日中支那方面軍が編成され、一 日中戦争は、第二次世界大戦の東アジアにお対し、なお和平に賭けていた国民党政府の蒋すが、米・英の日本に対する態度は、この時点 ナンキン ゅうわ 二月南京を占領した。このとき日本軍は大虐殺 ける導火線であり、一貫してこの大戦の重要部介石も、ついに二九日、「最後の関頭」 ( 和平がではきわめて宥和的なものであった。この間 分を占めた。またこの戦争を通じて、中国では 絶望的となり、抗戦の避けられない事態 ) に至国共間の合作態勢は急速に進み、八月、華北の事件を引き起こした。この事件で「二十万を下 ほらとみお はちろ らない中国軍民の犠牲者が生じた」 ( 洞富雄著 新民主主義革命の理論的、主体的基盤が形成さ ったことを表明した。八月九日、大山中尉事件紅軍は国民革命軍の八路軍に改編され、前線に シャン、イこうきよう 『決定版南京大虐殺』 ) 。この事件は国際世論の れた。 ( 海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が上渺の虹橋飛行出動した ( 華中の紅軍は一〇月新四軍に改編 ) 。 せんせい かんしゆくねいか 〔発端〕一九三七年七月七日の蘆溝橋事件が発場付近で中国の保安隊に射殺された事件 ) が起九月陜甘寧 ( 陝西・甘粛・寧夏 ) 辺区労農政厳しい批判を招き、中国の抗戦意識を一段と高 火点であるが、当初「北支事変」と称したよう こるや、日本は上海一帯にも続々と部隊を投府も陜甘寧辺区政府と改称、同月下旬中国共産めるものとなった。国民政府は一一月すでに首 ド ) ゅう・けい に、日本にとり局地的解決の機会は何度もあっ入、一三日ついに交戦状態に突入、上海事変党は第二次国共合作と抗日民族統一戦線の成立都を南京から重慶に移しており、南京占領に ゅ ↓を宣一一一口した。 よって中国を屈服させるという日本の当初の企 た。しかし、一撃で中国を降伏させる、あるい ( 第二次 ) を起こすに至った。↓蘆溝橋事件 ようちょう もうきようチャハルすいえん ち 「蒙疆」 ( 察哈爾・綏遠地方 ) に入った関東軍図は実現しなかった。しかし南京占領、臨時政 は、「膺懲」のために増派せよという拡大論が上海事変 ちょうか・一う 〔全面化〕八月一四日、国民政府は「自衛抗戦は、大きな抵抗も受けず、八月末張家ロ、九月府の成立をみた日本は、三八年一月、ドイツの 7 っ政府、軍部、マスコミをリードし、するすると はじめ ′オトウ に全面戦争へとのめり込んでいった。杉山元陸相声明書」を発表、翌一五日中国共産党も「抗日大同、一〇月綏遠、包頭を占領、一一月張家ロ駐華大使トラウトマンを仲介にして進めていた かいせき

9. 日本大百科全書 17

た。とくに家庭学校は、その後、北海道などに にもうかがえる。こののちも『人のいる風景』 脈をなして産することもある。この鉱物を分十村とむら江戸時代、加賀藩の十村組の きよお きもいり がしら も分校が設けられ、二男の清男 ( 天九ハ ( 一九六一 (l) 、『アメリカ風景』 ( 一九六六 ) などの優れた 析したスコットランドの化学者トムソン T. 長のことで、十村肝煎、十村頭の略称。他藩の おおじようや 〈岡田洋司〉 〈鈴木建三〉 に受け継がれた。 Thomson にちなんで命名された。〈松原聰〉大庄屋にあたり、当藩の徴税など支配の末端詩集を発表している。 戸室山とむろやま石川県金沢市の東部にあ回高瀬善夫著『一路白頭ニ到ルーー留岡幸助の トムとジェリー Tom and Jerry アメ機関として機能した。一村支配の肝煎に対し、 かくせん 生涯』 ( 岩波新書 ) ▽同志社大学人文科学研 角閃石安山岩からな リカ漫画 ( アニメーション ) 映画のヒット・シ数十村をあわせた組の支配を担当し、農民のなる山。標高五四七・ ねずみ もちだか 究所編『留岡幸助著作集』全五巻 ( 一九大 ーズ。猫のトムに追われ、いじめられる鼠のかで、持高・家格・技量の優れた者が選ばれる山で、赤と青の両色の戸室石を産し、加賀藩 けんろく たつみ ふち ジェリ 八一・同朋舎出版 ) た。百姓身分ながらその高級者には扶持が与えは金沢城の石垣、兼六園の庭石、辰巳用水の石 ーが、一転してトムをやつつけるという はく一ん みようじ 0 メーストル 基本バターンに盛り込まれた、さまざまな反撃られ、幕末には苗字も許された。一六〇四年管などに用いた。奈良時代に白山を開いた泰ド・メーストル ちょう そとむろ とめそで振袖の袖丈の長いのを詰め ギャグが見ものである。ときとしてサディステ ( 慶長九 ) に創始されているが、改作法 ( 農政澄が戸室山の外室 ( 岩室 ) に宿ったと伝え、 留袖 さんろく ィックなまでのどたばたと対照的な、キャラク中心の藩政改革 ) の実施の際に制度的に確立し山名の由来とされる。金沢駅から山麓までバスて短くした袖のこと、また留袖の長着をさす。 えどづま 〈矢ヶ崎孝雄〉留袖の長着は黒留袖五つ紋付江戸褄模様の無垢 ターの愛らしさが大いに受けた。元来は劇場用た。その階層は、無組御扶持人、組持御扶持の便がある。 ふくみつ ひら のことで、既婚女性の礼装となっている。生地 短編で、で一九四〇年から六七年までに人、平十村の三種に大別され、その役柄もそれ二万五千分の一地形図「福光」「金沢」 ちりめん はぶたえ ) アメリ は縮緬を用い、白羽二重の下着を重ねて袋帯を に応じて決まっていたが、それぞれ三種につい 一五三本が製作された。日本でも三三本が上映 トーメ Mel Tormé ( 一九一一五ー じゅばんはんえり れつ されたが、 人気が一般化したのは一九六四年てその退役者を、その子弟で後継予定者を列力のジャズ歌手、歌曲作家。シカゴ生まれ。四締める。長襦袢、半衿、帯揚は白を用い、帯締 まるぐけ ( 昭和三九 ) のテレビ放映からである。一五一一一と称したので、現役をあわせると九つの階層に歳から舞台で歌い、七歳からピアノとドラムをは白の丸裄、または白に金・銀をあしらった組 ひも 本の内訳は製作順に、ウィリアム・ハナ Wil ・ なる。一八一九年 ( 文政一 l) に大疑獄事件が起学ぶ。一九四三年に仲間と合唱団メルトーンズ紐を用いる。宮中においては既婚者でも黒地は liam Hanna ( 一九一一 0 ー ) とジョゼフ・ こり一時廃止されたが、三九年 ( 天保一〇 ) にを結成、四七年に独立。五〇年代末までは映画用いす、色留袖を正装としている。民間では色 ラ Joseph Barbera ( 一九一一ー 俳優としても活躍した。美しい情感、洗練され留袖は、年齢の高い末婚者の正装、また既婚者 ) のコンビ演出復活し、明治維新まで存続した。〈吉武佳一郎〉 の場合は身内以外の者の結婚式、披露宴の際な たセンス、高度のテクニックで知られ、白人ジ が一一四本、ジーン・ダイチ一〇本、チャッ トムラウシ温泉ーーおんせん北海道のほ とかち ーしーれレ J ・、 どに用いられる。江戸中期までの小袖には、八 ャズ歌手として最高の存在。自作有名曲に『ク ク・ジョーンズ二一本、その他八本だが、ハナば中央、十勝支庁新得町にある温泉。九七度 0 丿スマス・ソング』『ポーン・トウ・ビー・プっロ ( 振り ) 、身八つ口がなく、これを脇ふさ & バーベラ作品が圧倒的におもしろく、アカデ の高温弱アルカリ泉と五〇度 0 の低温泥泉から 〈青木啓〉 ぎ、脇詰め小袖と称した。しかし幼児の着物は ルー』などがある。 ミー賞受賞の七本もすべてこのコンビのものでなる。ュウトムラウシ川左岸にあり、原生林に たいせつ 体温を内に込めないように八つ口をあけ、これ ある。図アニメーション映画 〈森卓也〉覆われ、大雪山系への南側からの登山口になっ トメ・アスー Tomé・ Aqu プラジル北 わきあけ ている。近くにヌプントムラウシ温泉があるが部、パラ州北東部の小都市。人口約三万 ( 一九を脇明小袖といった。女性が一八歳の元服を迎 トム・トム tom ・ tom 膜鳴楽器の一つで、 みごろ ねむろ 〈 0 ) 。アマゾン川河口付近の支流アカラ川に沿えると振袖の丈を詰めて、袖丈いつばいを身頃 円筒形の両面または片面太鼓。牛革やプラスチ旅館はない。根室本線新得駅からバスの便があ につけて仕立て直したことから留袖の名がおこ 〈進藤賢一〉 し州都ベレンから南へ一一〇キ。の地に位置す ック製の膜が鉄枠によって固定されている。大る。 る : フラジル北部の日本人移民の主要な集団移った。江戸末期になると、帯幅が広く、一般に 二万五千分の一地形図「トムラウシ川」 きさはさまざまで、直径一五ないし五〇誓・。 二つ以上をセットにして垂直に置き、木製の桴トムラウシ山ー・・やま北海道中央部、上住地で、こしようの大産地として知られる。一袖丈も長くなったので、年齢にかかわりなく振 とかち しんとく かわ びえい りのある形態になった。したがって袖型からみ 川支庁美瑛町と十勝支庁新得町の境界にある九二九年 ( 昭和四 ) 南米拓殖株式会社のもとに で打つ。一九二〇年代ごろからジャズなどで使 たいせつ た留袖と振袖の違いは、袖丈の長短だけとなっ われるようになった。スネア・ドラムやシンバ 山。標高二一四一大雪山から十勝岳に至る入植され、マラリア発生で入植者は激減した あさひ 〈岡野和子〉 が、第二次世界大戦後こしよう栽培の成功で急ている。 ルなどとともにドラム・セットを構成し、一人火山群のほば中央にあり、旭岳の南方一二キ の奏者によって演奏される。なお、ドラム・セ位置する。更新世 ( 洪積世 ) に噴出の広大な溶速に発展した。一九六〇年代以降、カカオ、香ドメニキーノ Domenichino ( 一五全ー ットのトム・トムは、装飾音的なバッセージの結凝灰岩の台地上に安山岩質溶岩が山体を形成料、ババイヤ、アプラヤシなども導入され、経四 D イタリア初期バロックの画家、理論家。 〈藤田隆則〉 し、一見ドーム状の地形を示すが溶岩流であ営が多角化している。アマゾニア熱帯農業試験本名ドメニコ・ザンピエリ。ポローニヤに生ま 演奏に頻用される。 〈山本正三〉れる。最初カルペールトに師事したのち、ロド 場がある。 ーーのがっこる。山頂部には直径四〇〇の火口が残ってい トム・プラウンの学校時代 せいろく ビコ・カラッチのアカデミーに学ぶ。一六〇二 ー一九三四 ) うじだい Tom Brown's Schooldays イギリる。大雪山西麓の天人峡温泉からの一泊コース 留岡幸助とめおかこうすけ ( 天奩 びっちゅう 〈岡本次郎〉 明治から昭和初期の社会事業家。備中国 ( 岡年ローマに赴き、アンニバレ・カラッチの下で スの作家トマス・ヒューズの長編小説。一八五などの登山コースがある。 パラツツオ・ファルネーゼの装飾に従事。主と 山県 ) に生まれる。一八歳でキリスト教の洗礼 七年刊。「ある O ・」という筆名で発表され囮二万五千分の一地形図「トムラウシ山」 た。高名なアーノルド博士 ( マシュー・アーノ トムリンソン Charles Tomlinson ( 一九を受ける。同志社英学校 ( 同志社大学 ) 卒業してローマで活躍し、主要作品に『聖ヒェロ一一 ムス』 ( 一六一四、バチカン美術館 ) 、」丁ィアナの リッジ大学後、伝道に従事する。一八九一年 ( 明治二四 ) ) イギリスの詩人。ケンプ ルドの父 ) を校長にいただくラグビー校の学生一一七ー そらち きよう力いし 北海道空知監獄の教誨師となり、囚人の実態狩猟』 ( 一六一七、ローマ、ポルゲーゼ美術館 ) 、サ 生活が、主人公の学生トム・プラウンの目を通を卒業。ニュー・メキシコ大学、プリストル大 ンタンドレア・デッレ・バツレ聖堂の壁画装飾 して描かれる。作者の体験に基づく学生間の友学などで英文学を教える。イタリアで第一詩集を知り、犯罪の根源を絶っための感化事業、と ( 一六一一四 ~ 一一 0 があげられる。三一年ナポリに赴 くに少年教護を志す。そのため、アメリカ留学 情、スポーツ、寮生活などの生き生きとした報『首飾り』 ( 一九五五 ) を執筆。ついで『見ることは すがも き、サン・ジェンナロ礼拝堂の壁画および祭壇 を経て、九九年東京・巣鴨に家庭学校を創立、 キ、告で、教訓的色彩は否めないが、学生小説の古信ずること』 ( 一九夭 ) をアメリカで出版して、 〈小松原茂雄〉 にわかに有名になった。サンポリストやパウン 非行少年の感化に努めた。また、一九〇八年画を制作、同地に没した。宗教画とともに歴史 典として評価される。 せいひっ れいろう ( 明治四一 ) には中央慈善協会を創立し幹事と画、風景画を数多く残し、静謐端正な古典主義 9 ドらの流れをくむ玲瓏とした詩風は、自らカッ め回前川俊一訳『トム・プラウンの学校生活』全 トグラスのイメージで自己の詩を語っているのなるなど、近代日本の社会事業の基礎をつくっ的傾向を示す。その風景描写はプーサンならび ど 一一冊 ( 岩波文庫 ) ばち かみ わき くみ

10. 日本大百科全書 17

ゼラチンに変化し、冷えると固まる性質があ内閣を倒した。陸軍は寺内正毅を首班とする車 6 かが和をもっ ( 収束する ) ためののとりうる値 る。煮魚を冬など放置しておくと煮汁が固まる部内閣すら構想していたがならず、憲政擁護運 6 , フの範囲 ( 収束域 ) はー一橋 x 憤一である。 とんざ のはこのためである。 動の高揚により増師も頓挫した。しかし以後も 一般に ( 1 + 暑 ) 。を二項級数に展開したとき、 おおくましげのぶ 煮こごりは魚の種類によりできやすいもの強く要求し続け、第二次大隈重信内閣下の一五 こその収束域は >() ならばー 1 橋暑橋 1 とな と、できにくいものがある。カレイ、ヒラメ、年に認められた。↓憲政擁護運動↓大正政変 り、また、 ー 1 △△ 0 ならばー 1 △橋 1 とな コチ、メゴチ、ハゼなどは煮こごりができやす ↓西園寺公望内閣↓桂太郎内閣〈阿部恒久〉 る。Ⅱ 0 またはが自然数ならば工はどんな 。とり肉も同様である。ゼラチンや寒天を凝回由井正臣「二個師団増設問題と軍部」 (r 駒沢 数でも収束する。一般二項級数はニュートン 固の補助材料として使う煮こごり料理として 史学』第一七号所収・一九七 0 ・駒沢大学史学 I. Newton によって研究された。〈竹内芳男〉布 は、スッポン、タイ、フグ、アナゴなどの煮こ 会 ) ニ項分布ーこうぶんぶある試行において事分 ごりがある。これらは、調味して柔らかく煮た ニコチアナ ~ 0 、ミ、ミ hort. 象のおこる確率をカとする。この試行を独 〈河野友美〉ナス科の一年草。喫煙用のタバコ ~. き 魚を身ごと固める。 立にれ回繰り返す場合にのおこる回数を 一一コシア Nicosia 地中海東部の島国キプ L. と同属であるが、本種は観賞用草花で、 と置くと、は確率変数であって、 X=k とな ロスの首都。ギリシア語ではレフコシア Lev- ナタバコともいう。高さ〇・五 ~ 一。茎下部 る確率 Pk Ⅱ P ( X Ⅱをは、 q Ⅱ 1 ー、として次式 だえん であるが、この値を直接計算することは容易で kosia という。キプロス島北部のメサオリア平の葉は大きいへら形で、茎上部の葉は長楕円状 で与えられる。 ひしん Ⅱ 0, 1 : ない。このような形の問題に対しては、次のよ野の中央に位置し、ペディエアス川に面する。披針形。茎、葉ともに粘毛がある。五 ~ 七月、 ひょく 、 B ( ドをと表うに正規分布表を用いて計算を行う。二項分布人口一八万 ( 一九公 l) 。周辺の肥沃な平野で生産径約三で赤、桃、白色などの高杯状花を開 この確率分布を二項分布といし く。花壇用とし、栽培方法はペチュニアに準ず される小麦、オリー。フ、ぶどう酒、柑橘類、家 す。 の正規分布による近似確率変数 * の分布が二 〈柳宗民〉 〔例 1 〕さいころを四回投げて、そのうちちょ項分布 B ( ドをであるとき、が大きければ、畜などの集散地で、たばこ、陶器、皮革、繊維る。 などの軽工業が発達する。古くからこの地方の ニコチン nicotine ピリミジンアルカロイ 確率変数 うど二回 6 の目の出る確率は 中心地の一つで、一二世紀に十字軍の支配を受ドの一つで、一八〇九年にタバコの煙より初め 5 2 1 2 25 X—nP 6 6 ( 1 ー け、一五世紀にベネチアの領土となり、一六世て単離され、ポルトガル大使で、喫煙の風習を である。 の分布は標準正規分布に近い ( ラブラスの定紀にはオスマン帝国の統治下に入った。一九世フランスに導入し流行させたニコ Jean Nicot ー一六 00 ) にちなんで命名された。純粋 紀以後、キプロスはイギリスの植民地となり、 ( 一五三 0 ? 前記のトもデ、は、 (q + 洋を二項定理理 ) 。このことを利用して前の〔例 2 〕の確率カ ニコシアはその中心都市で、一九六〇年の独立なニコチンは無色・無臭・揮発性の油状液体 の近似値を求めることができる。 0 於△ 6 ミ によって展開した式 で、水、アルコール、エー である二つの整数气わに対して、、橋 X 橋 b ) とともに首都となった。こうした歴史を反映し テルなどによく溶ける。沸 十 C も ' q デ、十・ は図の青色部分の面積で、これはと同じ平て東西両文明の影響を示す建物が多く残されて Z—O 点二四七度 0 。空気中では いる。一五 ~ 一六世紀の城郭の内部にスレイマ 均および分散をもっ正規分布 N(nP, ( 1 ー ) の項になっている。二項分布 B(), をにおい ン 0—u 速やかに褐変する。この場 のグラフとエ軸および二直線 て、々を横軸に、加を縦軸にとって (k=0, 1 , ニエ・モスク、キプロス民芸博物館、考古学博チ コ x Ⅱー 0.5 , Ⅱ b 十 0.5 合のタバコ臭は分解生成物 物館などがあり、観光都市としても知られる。 ・ . こ、折れ線グラフをつくると次のよ による うになる。主Ⅱ + 、ー 1 が整数であれば、かで囲まれた部分の面積とほば等しい。したがっ西方八キ。にニコシア空港があり、東方五〇キ。の ニコチンはナス科のタバコの葉にリンゴ酸塩 フアマグスタが外港となっている。〈高橋和夫〉 は△主で単調増加、Ⅱ、。 + 1 で最大値て、 / の分布を標凖正規分布として にこしだんそうせつもんだ もしくはクエン酸塩として二 ~ 八 % 程度含まれ をとり、 > + 1 で単調減少である。十、ー 1 + 0.5 ー ー 0.5 ー ニ個師団増設問題 ( 1 ー ( 1 ー 陸軍が強硬に要求し第一次憲政擁護運動、ているが、これは根で合成されたものが運ばれ が整数でなければ、 + 、ー 1 の整数部分を 大正政変の基因となった問題。平時二五個師団てきて葉に蓄積したものである。また、キク科 とすると加は ^ 主で単調増加で、Ⅱ主でと置けば、次の近似式が成り立つ。 P 橋 X 橋 6 ) 北 P ( 橋 Z 橋 3 ) の建設を決めた一九〇七年 ( 明治四〇 ) の帝国のタカサプロウやトクサ科のスギナなどの植物 最大値をとり、 > ミで単調減少である。初め にも含まれている。ニコチンは、タバコの葉の に述べた二項分布の定義から次のことが導かれこの式により正規分布表を用いて〔例 2 〕のカ国防方針に沿いつつ、現有一九個師団の陸軍 を求めると、Ⅱ 0.67 が得られる。〈古屋茂〉は、一〇年の韓国併合後、ロシアへの備えなど粉末から水で抽出し、アルカリを加えて塩基を : 、れは独立で る。確率変数篝、 リを理由に朝鮮配備の二個師団増設を要求した。遊離させ、水蒸気蒸留して得られる。猛烈な神 P(Xt=1)=P, P ( X70 ) Ⅱ q 日 1 ー、 煮こごりにこごり煮魚の汁が冷えてゼ まっしよう ー状に凝固したもの、あるいは、魚肉などを柔第二次桂太郎内閣は財政難を理由にそれを抑え経毒で、中枢神経や末梢神経を興奮もしくは まひ さいおんじきんもち らかく煮て煮汁といっしょにゼラチンや寒天でたが、一一年第二次西園寺公望内閣が成立し、麻痺させる。その作用はシアン化物と同じくら とする。このとき確率変数 しんがい X 】十 X2 十・ い速く、成人の経ロ致死量は〇・〇六で、こ 固めた料理。中国には古くから、ヒッジの背肉中国に辛亥革命が起こると、流動化する情勢に 即応するためにもとふたたび要求。その根底にれは一本の葉巻タバコに含まれる量にほば相当 の確率分布は二項分布 ( ドをである。二項や内臓などを煮つめた羊樵という料理がある。 分布 B ( ドをの平均値は、分散は npq でこれは健康増進食の目的があり、二〇〇〇年余は海車への対抗、陸軍の軍拡や大陸政略を妨げするが、喫煙による摂取量ははるかに少ない - 」うとう いんとう の昔から用いていた記録がある。煮こごりは、 かねない政党勢力の増大への危機感があった。慢性中毒になると、咽頭や喉頭などのカタルを あり、特性関数は、 + q である。 〔例 2 〕さいころを五〇〇回投げるとき、 1 の魚の皮や骨にあるコラーゲンというタンバク質そこで陸軍はこの要求に固執し、一二年 ( 大正はじめ、心臟障害、視力減弱、めまい、動脈硬 化などの症状がみられる。一方、ビタミンの が煮汁に溶出してできたゼラチンのゼリーであ一 ) 一二月閣議が翌年度からの着手を拒否する 目が八〇回以上出る確率力を求めよ。 うえはらゆう * ~ く る。コラーゲンは水とともに長時間加熱すると と、上原勇作陸相を辞任させて後任を出さず同合成原料として使われるほか、硫酸塩は農業用 求める確率第は 2. 216 A 第ゆ , ( 1 ーか ) のグラフ “ 80 500 1 5 デ淋 6 6 ャンカオ わ十 0 . 5 〃ー 0 . 5 かつら かんきっ てらうちまさたけ