にほん 国際研究所などが専門分野ごとの日本研究を行っている。 それまで外国の日本研究に対して日本自身が援助すること圏 は、一九五三年に設立された国際文化会館以外にほとんどな ソ連の日本研究には、マルクス・レーニン主義的アプロー 一九六八年の大学改革以後、日本研究は整備され、バリ第 三大学 ( 新ソルポンヌ大学 ) の国立東洋言語文化総合研究所チの優越、中央集権的管理、研究者のキャリアの多様性、外かったが、こうした状況のもとで日本政府は七二年、国際交 ( 一九七一 ) 、バリ第七大学の東アジア言語・文化教育研究ュニテ国との交流の不足、専門分化と共同研究の進行、現代を中心流基金を設立して、海外の日本研究機関や研究者に対して各 種の援助を行うことになった。七三年にはいわゆる「田中基 とする研究の増加などの特徴がある。 ( 一九六公アカマツ、ピジョー、。フリュネ ) では日本文学、日 八三年度には「大 本語、日本思想などを中心とした研究が行われているが、社〔その他の諸国〕こうした傾向のなかで、その他の地域でも金」としてアメリカの一〇大学に、八 ひら 会科学高等学院の現代日本研究センター ( 一九七三 ) は社会科学日本研究が盛んになった。なかでもカナダでは日本研究が本平記念基金」としてカナダのプリティッシュ・コロンビア大 的研究を中心としている。そのほか、コレージュ・ド・フラ格化したのは、一九五六年、プリティッシュ・コロンビア大学の日本研究に資金援助が行われた。また日本の企業や財団 しようへい 、ドーアを招聘しても外国の大学に日本研究のための講座を寄付するなどの活動 ンスの日本学高等研究所 ( 一九七三、フランク ) 、ギメ博物館や学アジア研究プログラムの開設に伴い 日仏協会 ( 一九六一 l) は講演や資料の収集研究によって日本学の以来である。アルバータ、トロント、モントリオールの諸大を始めた。八五年には大蔵省がアメリカの日本研究者を援助 学のほか、研究機関としてはプリティッシュ・コロンビア大するために研究情報基金を設立、また国立の国際日本文化研 普及に大きく貢献している。 究センターの設立も正式に決定された。外国の日本研究の振 〔西ドイツ〕主要な大学に日本関係のゼミナールや講座が置学アジア研究所 ( 一九七 0 、マギル大学東アジア研究セン 興の前提となる日本語教育、留学生や研究者の招致、文化交 かれ、日本学的伝統をもっ研究と教育が行われているが、社ター ( 一九六 0 が代表的である。 流の拡充に対する日本の役割の重要性が広く認められるよう オーストラリアは第二次大戦前、すでにシドニー大学でマ 会科学的研究機関としては、ポン大学日本文化研究所 ( 一九 になっている。 ードックやサドラーによる日本研究の歴史をもっているが、 三 0 、ツアツへルト、クライナー ) 、ベルリン自由大学東ア 一九六一年東京に設立されたスタンフォード大学日本研究 ジア研究所、とくにポッフム大学東アジア研究部門 ( 一九戦後、とくに日本との関係が深まるにつれて本格的に日本研 究が始まった。オーストラリア国立大学、クイーンズランドセンターを前身として、六三年アメリカおよびカナダの大学 六四、デットマー、レビン ) が有名である。 〔イタリア〕一九七〇年代の大学改革後、日本研究の量的拡大学、グリフィス大学、シドニー大学などで日本語教育と並の共同機関たる米加一一大学連合日本研究センター ( 現在は 一二大学 ) は徹底的な日本語教育を行うことで有名である んで日本研究が広範に行われている。 大がみられ、国立大学ではナポリ大学東洋学研究所、ロー さらにアジアや中南米でも、近代化のモデルとしての日本が、そこで教育された日本研究者も数多い。また八三年出版 マ大学インド・東アジア研究所で日本学的研究が行われて された九巻からなる『 KO ミ s E ミ & 0 、をを への関心が高まり、しだいに日本研究機関が設けられるよう 、ポローニヤ大学、フィレンツ工大学 ( マライー になった。しかし、そのレベルはいまだ高いとはいえず、日 は、外国の日本研究者に対して基本的な情報を提供する。こ 一 l) 、ベネチア大学などでは日本語、日本文化の教育研究が なされている。しかしイタリアでは、大学から形式的には独本語教育の普及、日本語文献の翻訳などが中心になっているれらの事業が果たした役割は計り知れない。 日本研究の世界的動向を知るための手掛りとしては、日本 立した研究機関、とくにイタリア中東・極東研究所 (—場合も多い。インドネシア大学、フィリピン大学アジアセ 、一九三一 D および東アジア経済社会研究所 ( 一九七三 ) が活発ンター、アテネオ・デ・マ一一ラ大学、チュラロンコーン大学、関係の学位論文の分析が便利である。アメリカの日本研究者 タマサート大学、マラヤ大学、シンガポール大学、ネルー大の一人、シュルマンは、一八七七年から一九七九年までの約 に社会科学的日本研究に取り組んでいる。 学、デリー大学、香港中文大学東アジア研究センターなど一世紀間に書かれた欧文の学位論文四六五二点を網羅した文 〔ヨーロッパ諸国〕ヨーロッパでは、そのはかの国にも、 規模ではあるが優れた日本学的研究を継続している大学があアジア諸国の諸大学のほか、とくに最近、急速に韓国と中国献目録を作成した。もちろん学位論文を書かない日本研究者 も多いが、過去一世紀の間に少なくとも五〇〇〇人近い日本 る。すでに触れたオーストリアのウィーン大学日本研究所の諸大学や研究所で日本研究が盛んになった。中南米ではメ 研究者がいることになる。そのうち現在も大部分が活躍中と ( 一九三公スラビーク、クライナー ) 、オランダのライデン大キシコ、ブラジルが盛んである。 日本研究の制度化のもう一つの具体化は、研究者の組織推測される一九五〇年以降の学位取得者は約四〇〇〇人であ 学日本学・朝鮮学研究センター ( 一九六九 ) 、デンマークのコ リディン ) 、ポ ( 学会 ) の成立である。アメリカのアジア研究学会 ( 一九四一 ) 、る。そのことからもわかるように日本研究は最近急速に成長 ペンハーゲン大学東アジア研究所 ( 一九六一、 した。またこの四〇〇〇人のうち七割強はアメリカの大学で ヨーロツ。ハ日本研究学会 ( 一九七一 D をはじめ、イギリス、西ド ーランドのワルシャワ大学東洋学研究所 ( 一空六、コタンス キー ) 、スウェーデンのストックホルム大学東洋語研究所ィッ、イタリア、オランダ、オーストラリア、韓国などに国学位を得ており、現在アメリカが日本研究の中心になってい 〈新堀通也〉 ることがわかる。 ごとの学会が存在する。 ( 一九六四 ) などがそれである。 このように日本研究は世界的な広がりをみせているが、そ回新堀通也編『知日家の誕生』 ( 一九会・東信堂 ) ▽同編『外 〔ソ連〕帝政ロシア時代から日本研究の長い伝統をもってお 国大学における日本研究』 ( 一九会・広島大学大学教育研究 り、質量ともに今日も高い水準にある。戦争中の空白を経ての発達を阻む条件が一九七〇年代に顕著になり始めた。大学 センター ) ▽同監修『知日家人名辞典』 ( 一九会・東信堂 ) モスクワ国立大学東洋諸語研究所、レニングラード国立大の拡張に歯止めがかかって研究者の就職難がおき、それを見 ▽国際交流基金の各種報告書 ( 年報、 Newsletter 、地域 学東洋学部、極東国立大学東洋学部などのほか、ソ連科越して日本研究を志す優秀な学生が減ったこと、また財政の ひつばく 別日本研究の現状報告書など ) ▽福岡ュネスコ協会編・ 学アカデミーの極東研究所、世界経済・国際関係研究所、世逼迫のため、研究機関や研究費の淘汰が行われるようになっ 刊『海外日本研究機関要覧』 ( 一九会 ) 界歴史研究所、哲学研究所、とくに東洋学研究所、外務省のたこと、などの条件がそれである。 とうた おお
ンジョ・ダーロやハラッパーの遺跡から発掘さ ト ) 関係が強固で、通婚範囲が広がらず ( とくウラル・アルタイ系諸語に近似 に交差いとこ婚が多い ) 、女性の地位が比較的するとの説が一九世紀初めから ひれた碑文に関する最近の研究により、前三二五 、ら〇年から約五〇〇年間にわたりインド亜大陸の高い、などのドラビダ系社会に共通する特徴断続的に提唱・発展したが、イ 北西部に栄えた都市文化は、ドラビダ系のものは、中世ヒンドウー小王国の支配と密接に関連ギリス植民地政府の言語研究で 隊はオ 、ど を であったろうと考えられている。 している。都市部のヒンドウー寺院のプラーマは完全に無視され、他方ウラ 合ま ル・アルタイ系諸語の研究が分 ン ( バラモン ) 祀の宗教と、村落部の非プラ ドラビダ語族の諸言語を話す人々のなかに 義 くぎ の 化の度合いを深めたため、ドラ は、スリランカをはじめマレーシア、インドネ ーマン祭祀の動物供犠・死霊信仰とが重合した 余 ス ビダ系諸語とアジアの諸言語の ドラビダ系宗教も同様の歴史的背景をもつ。 シア、ベトナム、南アフリカ共和国などの諸外 2 余 形質的・文化的な共通性が顕著でないドラビ近縁関係の研究が阻害され、ド 国に移住した者もおり、これらの人々を含める ン強け と、ドラビダ語族の総人口は一億三〇〇〇万人ダ系の人々の一体性を強調するのは、一九四〇ラビダ民族主義の特異性強調が ラを受 フれを 強に達するものと推定される。また、この語族年以降の政治的傾向である。一九四四年に現タ一般に受け入れられている。ド ~ 日 , 狙 ラビダ系諸語とウラル・アルタ ミル・ナド州で結党したドラビダ・カズガンが は、大まかに次の三つの下位グループに分ける 幻はで画 イ系諸語との近縁関係を認め、 ことが可能である。①北方グループ ( プラーフ 一九五〇年前後の共産党運動を継承する形で、 月ン上ス ソ号一 ィー、マルト五ロ、クルク語 ) 、⑦中央グルー 農民主体の民族主義的改革運動を展開し、六〇南インド文化の発展期を紀元後 ネリク に求めるなら、ドラビダ系諸語 プ ( ゴーンディー諸語、クイ語、クウィー語、年代に共産党・社会党とともにドラビダ分離独 1 たトマ しク を用いる人々の文化的起源を紀 ガドバー諸語、パルン語、ナイキ語、コーラー 立運動を展開し、大治安事件にまで発展した。 戦捉ビた 海捕艦し ミー語、サバラ語、テルグ語 ) 、① ( 南方グルー ヒンディー語の単独公用語化に対してドラビダ元前後の数世紀間に中央アジア のに旗死 から南下したアルタイ系諸民族 プ ( バダガ語、カンナダ語、コダグ語、コータの主要言語であるタミル語の公用語化を主張し 一沖 , 戦 ガ岬がて 語、トダ語、マラヤーラム語、タミル語、イルて得票を伸ばし、六七年にタミル・ナド州議会 に求めるのは、無数のアフリカ アガし残 ラ語 ) 。なお、トウル語がどのグループに属すの単独過半数を獲得した民族主義政党ドラビ諸語から近縁一一 = ロ語を探す、ドラ 一フル勝を ラア大語 るかは、まだ確定していない。以上の諸一言語のダ・ムネトラ・カズガン ( Ⅱドラビダ進ビダのアフリカ起源説よりは科 トフての 〈佐々木明〉 うち大きな使用人口をもつものに、タミル語、 歩連盟 ) も「ドラビダ」の現代的用法の好例で学的であろう。 マラヤーラム語、カンナダ語、テルグ語の四言ある。 虎姫 ( 町 ) とらひめ ( ちょう ) 滋賀県北東部、高く、拡大しつつある縁海の初期の状態と考え ひがしあイ、い 語があり、それそれタミル・ナド州、ケララ 北インドのアーリア系とは異なる南インド固東浅井郡にある町。一九四〇年 ( 昭和一五 ) られている。 〈安井正〉 たかとき 州、カルナータカ州、アンドラ・プラデシュ羽 有の歴史・文化を強調するドラビダ民族主義町制施行。北陸本線、国道八号が通じる。高時トラファルガー・スクエア Trafalgar レ の公用語となっていて、互いに異なる文字によ は、一九世紀以来の北インドのヒンドウー と姉川による沖積地にあり、米作を中心とす Square イギリスの首都ロンドンのウエスト って書き表される。ドラビダ語族のすべての言 ネサンスに類似する復古主義運動である。このる農業の町であったが、六八年の工場誘致以 ミンスター区にある四辺形の小公園広場。ネル 語は、歯音・歯茎音・そり舌音の三音韻系列を運動では、北インド古代文明確立以前の不確定降、化学、製紙、弱電関係の製造業が盛んとな ソン提督のトラファルガーの海戦 ( 一〈 0 五 ) にお へんまう とらごぜん もち、名詞は格と数を、代名詞は男・女・中のオ よ時期に、不確定な経路を通 0 て半島部に拡散り、変貔が著しい。虎姫山 ( 虎御前山 ) は、恒 ける勝利と死を記念して建造され、一八四一年 に完成した。頂上にネルソン像をのせた全高約 三性を示し、動詞は主語の人称と数に応じて変した人々の子孫がドラビダ族であるとして、古谷山の浅井長政を攻略するため、織田信長軍が 化する。 代からの連続性を強調する。しかし、考古学的陣を構築した地として知られる。人口六三四五六の記念碑が立つ。その足元に、東京の百 こうちゃく ^ 高橋誠一〉貨店三越本店の玄関にあるもののモデルとなっ この語族のもっ膠着語的特徴から、同じ類研究が、半島部の定住農耕社会の成立指標とな 型的特徴を有する他の諸一一 = ロ語、たとえばコーカり、ほとんど南インドにしかない巨石文化の年囮二万五千分の一地形図「虎御前山」「長浜」 たライオン像があるほか、二つの噴水があり、 きあったに サス諸語、朝鮮語、日本語、シュメール語、ウ代を紀元前から紀元後にまたがる数世紀としてト一フフ 0 気圧の谷 常時ハトと観光客でにぎわっている。北側にナ ラル語族などとの比較を通じて、親族関係の有 いること、ローマ時代の貨幣が、半島南端内陸トラフ trough 細長いが、海溝よりは幅 ショナル・ギャラリーがある。 〈久保田武〉 のかいせん 無が研究されてきているが、まだ一一 = 〕語学的に証部を中心に出土し、また同時代の地誌・旅行記広く浅い海底のくばみ。舟状海盆ともよばれてトラファルガーの海戦 ^ 奈良毅〉 明されるまでには至っていない に南インドの地名が散見すること、ドラビダ系 いる。外形による名称なのでその成因、構造な 一八〇五年一〇月二一日、イベリア半島南西部 ーーぞく Dravidian インド諸王朝が、南アジアの政治史に登場するのが紀 どにより、いろいろな様態がある。たとえば、 のトラファルガー Trafalgar 岬の沖で、ネ ドラビダ族 半島南部に居住し、ドラビダ系の諸語を用いる元後一千年紀の末であることなどを総合する紀伊半島沖から四国の沖合いにかけて横たわる ルソンのイギリス艦隊がビルヌー。フ Pierre と、定住農耕社会の成立から都市文明への発展南海トラフは、最深部でも五〇〇〇に満たな Charles Jean, Baptiste Sylvestre de Ville- 人々の総称。ただし、ドラビダ系の異なる言語 いが、あまり深くない深発地震を伴っており、 neuve ( 一七六三 で会話しても理解が不可能なことに注意すべき過程のほとんどが、紀元後の現象であるとみる ー天 0 六 ) 提督指揮のフランス・ス である。居住面積・人口とも日本と同程度であべきであろう。 プレートの沈み込みによってできた海溝と同じペイン連合艦隊を撃破した海戦。スペインの港 る。北インドの人々に比べて小柄で色が黒い傾 ドラビダ系諸語が他のいかなる言語ともとく 性格をもっている。海溝のごく初期の状態と考カディスに停泊中のビルヌープの艦隊がナポリ りゅうきゅう 向があるとされる。乾燥した内陸部では雑穀耕 に類似しない独特な存在であるとするのが、ドえられている。東シナ海の琉球列島沿いにあ に出撃することを察知したネルソンは、カディ 作が主で、一般に人口が希薄だが、海岸地帯の ラビダ民族主義のもう一つの特徴である。ド一フる沖縄トラフは、幅はわずか三〇キ。メ ] トルでス近くのトラファルガー岬冲で待ち受けた。戦 一部には水田が集中し、中世都市を中心とする ビダ系諸語がサンスクリット起源の語を多く含あるが、最深部は二三七〇あり、長さも一〇艦三三隻からなるビルヌープの艦隊はイギリス ヒンドウー小王国群が成立した。身分 ( カースみながら、基本語および文法 ( とくに助詞 ) 上、〇〇キ。メートルを超える。地殻熱流量が異常に艦隊を認めると北に針路を変え、これに対して ながまさ 純 242
につち一ゅ , っャ ) , っーしょ , っーし に遣使し、朝貢して、倭国王としての地日中交渉史 / 略年表 ゅ日中交渉史 りよう そうじよ 位の確認を求めた。史書『宋書』『梁書』 ち 中国 朝鮮 弥生文化 / 古墳文化 / 飛鳥・白鳳時代 / 奈良・平安時などには、当時の五人の王の名と、朝貢 っ の次第が記録されている。多くの造形文 代 / 鎌倉時代 / 室町・桃山時代 / 江戸時代 / 明治時代 / 化と並んで、漢字や漢文の摂取に努めた 大正・昭和前期 / 戦後 のもこのころである。南朝から伝えられ たので、漢字は南方音で読まれた。これ前 日本と中国との交渉の始まりは、一一〇〇〇年を超える昔に さかのばる。すなわち、弥生文化の基盤となる稲作の技術、が呉音である。やがて仏教が伝来する および鉄器や青銅器の鋳造技術は、その現物とともに中国大と、仏典も呉音で読まれる。すなわち呉前 陸から伝えられたものであった。このような中国文化の移入音は、仏典の読み方を中心に今日まで残 によって、日本列島の上に文明社会が発展し、やがて古代国った。↓倭の五王 家の形成へと導かれてゆく。 〔飛鳥・白鳳時代〕仏教文化は七 ~ 八世 あすか 〔弥生文化〕古く中国では、日本のことを「倭」とよんだ。 紀、すなわち飛鳥時代から白鳳時代を経 その理由は明らかでない。倭および倭人のことが文献のうえて奈良時代に至る間、大いに興隆した。 かんじよ に登場するのは紀元一世紀後半である。中国の史書『漢書』 仏寺の建築や仏像の彫造には、中国大陸 らくろう 地理志には、倭人について「楽浪 ( いまの平壌付近 ) の先のや朝鮮半島から渡来した技術者が指導的 海の中に倭人がいて、分かれて百余の国をつくっている」と な役割を担った。仏典もしだいに消化さ 記す。 れるに至り、日本人は在来の「神」のほ ばさっ これが、わが国に関する最古の記録である。当時は弥生文かに、衆生を救う仏や菩薩の存在を初め 化中期にあたり、北九州を中心とする西日本に多くの小国がて知ったのであった。中国では六世紀末 分立していた。そうした小国の一つに、、 しまの博多付近を占 に隋が天下を統一し、七世紀初めには隋 な ごかん める奴国があった。奴国王は五七年、建国直後の後漢に使者にかわって唐が建国する。飛鳥時代の日 を遣わして貢献した。後漢の皇帝は倭の奴国王に金印を賜っ本は、数度にわたって遣隋使を送り、さ たことが『後漢書』に記されている。そして金印は、江戸時らに遣唐使を送って、仏教をはじめ中国 しかのしま 代の末期に志賀島 ( 福岡県 ) の西岸から発見された。 の文物制度を学ぶことに努めた。 その後、一〇七年にも倭の国王たちが連合して後漢に使者 いわゆる大化改新を経て、日本の国家 を送っている。やがて倭の小国の間にも統一の気運がおこ体制も整えられると、唐制に倣って律 りよう やまたいこく り、邪馬台国の女王を中心とする連合国家が形成されるに至令の編修が進められた。こうして完成 たいほう つつ ) 0 オ三世紀初めのころと推定される。中国では後漢が倒をみたのが大宝律令である ( 七 (1) 。大化 れ、三国時代となっていた。三国の一つ、魏は東方の経略 にを初めとする元号の制定も、また中国の かん 成功し、韓族を服属させ、勢力を日本にも及ばそうとする。 制度を取り入れたものであった。 しらぎ 邪馬台国もしばしば魏に朝貢し、魏の使者も日本を訪れて、 この間、六六〇年代には、唐と新羅が くだら 倭人の国の情況が詳しく知られるようになった。こうして記連合して百済を滅ばした後を受け、日本 述されたのが『三国志』のなかの「魏志倭人伝」である。た は百済復興のために軍隊を出動させてい はくそんこう だし倭人伝は、地理の記述に不明のところが多く、邪馬台国る。しかし日本の水軍は白村江において の所在も、畿内か、九州か、いまだに解明されていない。 唐の水軍と戦って全滅した ( 六六一 (l) 。その 〔古墳文化〕四世紀における日本国内の情況は、中国史書の後、唐との間にしばらく緊張の状態が続 かわ 記述が不備のため明らかでない。しかし五世紀になると、河 くが、仏僧の往来や文物の受容は絶える ち ことがなかった。 内を中心に強大な王権が確立していた。国王や各地の豪族た ちはその墓所として壮大な古墳を築くに至っている。すでに 仏教と並んで道教が伝えられたこと 中国は南北朝時代であった。倭の歴代の王は、南朝の諸王朝も、日本文化のうえに大きな影響を与え きない やよい わ はかた ずい りつ 秦戦国時代 紀元・ 一 000 ・ 一 - 00 ・西 四 00 ・ 陳梁斉宋東晋 く北朝〉五胡十六国 高句麗 六 00 ・ 七 00 ・ 九 00 ・ 一一 00 ・ 〈 00 ・ 一 00 ・ 五代 十国 新 後漢 楽浪郡 左月 唐 北宋 勃う毎 新羅 高 百 弥生文化 古墳文化 日本 六 00 倭国王、隋に遣使 鳥 六 0 七 小野妹子、隋に遣使 飛 六三 0 初めて遣唐使を発する 鳳六六三白村江の戦い、日本の水軍大敗 ・日 ほっかい 七毛渤海使、初めて入朝 がんしん 四唐僧鑑真、来朝 奈 合四 最澄、空海入唐 〈三〈円仁、入唐 ( ー八四七 ) 会三円珍、入唐 ( 5 八五八 ) 兊四遣唐使を停止 空七呉越国より八万四千塔請来 らようわん 九〈三奝然入宋、九八六年帰朝 しやくしよう 一 00 三寂照入宋、三四年客死 じようじん 一 0 七一一成尋入宋、八一年客死 平清盛が日宋貿易を推進 一一九一栄西、宋より臨済褝を伝える 安 平 縄文文化 ニ三九邪馬台国女王卑弥呼、魏に遣使 = 六六邪馬台国女王壹与、西晋に遣使 ( 倭国に関する記録なし ) 代四一 = 一倭王讃、東晋に遣使 時 四天倭王武、宋に上表 王 五 倭人が百余国をつくる ( 『漢書』 ) 倭の奴国王、後漢に遣使 一皂倭の国王師升ら、後漢に遣使 784
たが、藩命で長崎で武器の 、ら州征討に際しても現地に赴いて戦後処理にあた 立ンの ぶ一よう 年国ニ人 購入にもあたった。六四年 っている。幕府の鎮西奉行、公事奉行人などを かめがやっ 四京た友 っ 東き かる ( 元治一 ) 軍賦役となり、 歴任、鎌倉亀谷に居を構えて、おもに朝幕間の じようげん 具す 禁門の変には大砲隊長とし ノ十′ 金燥 よ折衝に努めたが、承元二年一二月一八日京都 人 命デれ 一鍮乾 ス て活躍、第一次長州征討に において没した。 〈海老沢衷〉 貶亡モさ 以真は館 カ フ 高らを炸従軍、第二次のときは長崎 なかはらちゅうや ( 一九 0 七ー一宅 ) 詩 中原中也 か人制 よしき ね出民 スアスで にあって薩長連合に尽力、 人。明治四〇年四月二九日、山口県吉敷郡山口 とばふしみ しもうのりよう ンシカエ を。松 若 ロロフリ 鳥羽・伏見の戦いには一番 町下宇野令村 ( 現山口市湯田温泉 ) に謙助・フ プカト 装張野 クの長男として生まれる。山口中学に進んだ 郎館うア砲隊長として出陣、のちに と銅長 えちご のヒ陸こ回り越後長岡の戦い が、文学にふけって学業を怠り、四年への進級 悌美とれ彝」し 補しる かしわ 」落す に際し落第。立命館中学に転校、両親と離れて 原代 , 村で右足に銃創を受け、柏 中 ( 近ッ中ぎき どうせい ~ ・板阯漆に 崎野戦病院で没した。正五 京都に下宿。一九二五年 ( 大正一四 ) には同棲 やすこ 」猫 1 拭れ 〈菊池俊彦〉 中の長谷川泰子とともに上京、その後アテネ・ 角川書店 ) ▽中村稔著『言葉なき歌中原位が贈られた。 の 2 欅入 広 中也論』 ( 一九七三・角川書店 ) 回中原尚徳・中原尚臣編『中原猶介事蹟稿』 フランセなどでフランス語を学んだ。京都時代 幅るば とみくら なかはらていじろう ( 一八 / ノ ( 一九一一九・自家版 ) に立命館中学の教師冨倉徳次郎を通じその友人中原悌ニ郎 鉢てや くしろ 火れり苔 なかはらまこと ( 一九四七ー ) 将棋名 富永太郎を知り、富永を通じ小林秀雄を知り、 lll) 明治 ~ 大正の彫刻家。北海道釧路に生ま中原誠 けたか しおがま 長らの海 やがて小林の友人である河上徹太郎、大岡昇平れる。一九〇五年 ( 明治三八 ) 画家を志して上人。鳥取県気高郡に生まれ、宮城県塩竈市で育 やよい めづか かいあおいばし らを知り、彼らとの交友の間で詩作した。三四京、縣会の葵橋洋画研究所や太平洋画会研つ。五歳で将棋を覚え、一九五七年 ( 昭和一一一は、弥生・古墳時代の群集墓で、雌塚など三種 おぎわらもりえ つね 年 ( 昭和九 ) 上野孝子と結婚、長子文也、次子究所に学び、中村彝と親交を結んだ。荻原守衛一 D 高柳敏夫八段に入門。六五年秋に四段、以の遺構が県の史跡に指定された。人口八九六 ^ 川崎茂〉 愛雅を得たが、三六年文也の死にあったころかの強い影響を受け、その死後彫刻に転じた。太後順調に昇段、七〇年八段。六八年第一二期六。 ・一う みちよし しんかい 「棋聖戦」で故山田道美九段から初のタイトル 回『中原町史』上下 ( 一九全・中原町 ) ら神経衰弱が昂じ、三七年鎌倉に転居、心身の平洋画会研究所で新海竹太郎の指導を受け、一 やすはる 地三万五千分の一地形図「中原」「久留米西部」 疲労が甚だしく、帰郷を考えたが果たさぬまま〇年第四回文展で『老人の首』が初入選したを獲得。七二年第三一期「名人戦」で大山康晴 しらかば 同年 ( 昭和一 (l) 一〇月一三日永眠。郷里の経が、一二年白樺美術展でロダンの実作に接し、名人を破り二四歳で名人位につき以来連続九長火鉢ながひばち木炭 ( すみ ) を燃料とす ばだい 塚に葬られる。菩提寺は吉敷村長楽寺である。 深く啓発された。一六年 ( 大正五 ) 再興日本期、通算一二期名人位にあり七六年に「一六世る暖房用具の一種。長方形の箱火鉢で、右側に ちょうざん ねこいたしき つるぞう ぶんぼ やぎ 三、四段の引出しを設け、その上に猫板 ( 敷 一九三四年文圃堂刊の『山羊の歌』、死後一一一美術院研究所に移り、石井鶴三、佐藤朝山名人」の資格を得た。 いた おと げんげん 一九七四 ~ 七六年、日本将棋連盟副会長。タ板 ) を置く。灰を入れる落しには多く銅板を張 八年創元社刊の『在りし日の歌』の二冊の詩集 ( 玄々 ) らと研究を続け、第三回院展の『石井 どう - 」 」とく ちよぎゅう イトル獲得は名人、十段、王将、棋聖、王位、り、これに銅壺、五徳を置く。落しの下には引 のほか、戦後三次にわたり全集が刊行され、六氏の像』で樗牛賞を受け、一八年同人となっ ひらくし かどかわ 七 ~ 七一年 ( 昭和四二 ~ 四六 ) 角川書店刊の全た。『若きカフカス人』『平櫛氏の首』など寡作棋王、合計五六期。八七年現在のタイトルは名出しをつけることもある。長火鉢は、普通ケャ さしもの けんろう キ、ナラ、セン、クワなどでつくる指物で、大 集は、詩、評論、小説、日記、書簡など知られで、三三歳で没したが、堅牢な構築性と豊かな人と王座の二つ。「中原自然流」とうたわれ、 餮ン ) 、幅一尺二 〈原田泰夫〉きさは、長さ二尺 ( 約六〇・六 た限りの全遺稿を収めている。孤独な魂の真率空間の広がりをもち、大正期彫刻の代表的存在強さ、棋風、人柄の評価が高い。 み なかばる ( ちょう ) 佐賀県東部、三寸 ( 約三六・四 ) 、高さ一尺一寸 ( 約三三・ な告白の歌というべきその作品は、死後、戦である。遺稿集に『彫刻の生命』があり、その中原 ( 町 ) 中・戦後の多くの若者たちの心をとらえ、現代業績を記念して、中原悌二郎賞が七〇年 ( 昭和養基郡にある町。北は福岡県に接する。一九七三 ) くらいである。江戸時代の寛政年間 ( 一七 〈三木多聞〉 〈九 ~ 一八 0 一 ) ごろから急速に普及し、ちょうど農 一年 ( 昭和四六 ) 町制施行。北部は花崗岩類の 詩に特異の地位を占めるものとして、今日では四五 ) に設定された。 せふり に山漁村の生活におけるいろりのように、長火鉢 回中原信著『中原悌二郎の想出』 ( 一九八一・日動脊振山地で、南に洪積層の丘陵・台地が舌状 確立した評価を得ている。↓在りし日の歌 しようず 広がり、町中央を筑後川に注ぐ寒水川が南流すは、都市の家庭生活の中心として、昭和一一〇年 〈中村稔〉 山羊の歌 出版部 ) しらぎ ひめかた ひぜんふどき ー六 0 薩る。姫方遺跡、『肥前国風土記』に新羅征討の代まで、茶の間や居間になくてはならぬ存在で 回『中原中也全集』五巻・別巻一 ( 一九六七 ~ 七一・ 丿なかはらなおすけ ( 天三一一 中原猶今 あやひと ^ 宮本瑞夫〉 摩藩士、軍事技術者。名は尚勇。また誼卿、鉄際、漢人を居住させて兵器をつくらせた地と記あった。 角川書店 ) ▽大岡昇平著『朝の歌』 ( 一九夭 あやべ 角川書店 ) ▽同著『在りし日の歌』 ( 一九六七・ 心斎と号した。猶介は通称。一四歳のとき御庭載される漢部 ( 綾部 ) 郷、中世の綾部城、さら中平善之丞なかひらぜんのじよう ( 一七 0 九ー しゆく いっき らんがく 方兼御薬方となり、蘭学を志し、一八四九年に近世長崎街道の中原宿などで知られる。南部五七 ) 江戸中期の土佐 ( 高知県 ) の百姓一揆の かげあっ ぜんのしん 、名は隠敦。高岡郡津 指導者。善之進ともいし ( 嘉永一 l) から約三年間、藩命で長崎に出て蘭には旧長崎街道のほか国道三四号や長崎本線 さんろく かみおかきちえ なりあきら 学を学んだ。島津斉彬の集成館事業の中心的が、またそれら北方山麓には建設中の九州横断野山郷 ( 東津野村 ) の出身で、父は上岡吉右衛 きり・一 ゆすはら しようや とす もん 。中平家を継ぎ、同郡檮原村の庄屋となる。 な技術者として活躍した。薩摩切子ガラスの製自動車道が、東西に横断する。鳥栖市に隣接 くるめ 造、写真術の研究、反射炉の築造、洋式帆船やし、近くに久留米、佐賀市などを控え、住宅地一七五二年 ( 宝暦一 l) 土佐藩は専売制を強め、 開発や企業誘致も進められ、かってのハゼノキ国産問屋を指定して農民から各種の生産物を不 蒸気船の製造などに従事、また電信機の製作、 法の安値で強制的に買い上げたため、農民は激 電気を利用した水雷・地雷の実験など多方面に の紅葉の美しい山野景観は姿を変えた。綾部八 ふりゅう かギ、うら わたっている。斉彬の没後、職を免ぜられ、江幡神社の風占旗あげ神事や奉納浮立は遠近に知高し、善之丞のもとに結集して五五年津野山一 戸に出て江川塾に入り砲術を修め、塾頭も務められる。住宅団地造成で発見された姫方遺跡揆を起こす。善之丞ら一三人は逮捕され八人は 中原中也 さっ のやま かんせい っ 456
とれど スペイン政治・文化の一紀に入ってからもカルロス一世はアルカサルをオフの関係が生じる。たとえば、福祉政策を充 中心地で、首座司教座所再建するなどトレドを重視したが、一五六一年実すれば増税となり、減税すれば福祉政策は後 3 在地でもあり、歴史的建 にフェリペ二世がマドリード遷都を決めてから退する。このような場合には、両者についての 造物が多い古都。市街のは、人口や経済活動の面での発展はやんだ。し さまざまな制約条件を考慮してから、もっとも 北半は、一部がイスラムかし、文化・宗教面での重要性には大きな変化適切な妥協点を選択することが必要である。 時代の城壁に囲まれ、旧 はなく、今日なおトレド大司教はスペインの首フィリップス曲線 〈畑中康一〉 しようひょう 市街は迷路のような狭い 座司教であり、スペイン社会全体に大きな影響トレード・マーク 0 商標 力をもっている。 〈小林一宏〉 道路と袋小路が多く、パ トレード・マトリックス trade ma ・ ティオ ( 中庭 ) と飾り トレド T01ed0 アメリカ合衆国、オハイ trix 表の縦の欄に輸出する国あるいは地域を びよう 鋲のついたドアの家々オ州北西部の都市。ミシガン州境に近いエリー とり、横の欄にそれと同じ輸入する国あるいは が並び、イスラム支配時湖南西端に位置する。人口三五万四六三五 ( 一九地域をとって、どの国 ( 地域 ) からどの国 ( 地 代の影響が色濃く残る。 八 0 ) 。五大湖地域の商工業の中心都市として知域 ) へどれだけの貿易が行われたかを、産業連 建造物にはゴシック様式られる。天然の良港は五大湖の主要な積出し港関表と同じような行列表で示したもの。貿易マ のトレド大聖堂 ( 一三 ~ で、石炭、石油、鉄鉱石をはじめ多種工業製品 トリックスあるいは貿易行列ともいう。表のな 一五世紀造営 ) 、アルカや農産物が集まり、つねに活気がある。また、 かの数字は、貿易額を記入するものもあるし、 サル ( 王城。一三 ~ 交通の要衝ともなっている。工業の面では「ガ貿易額の百分率を記入するものもある。表を横 世紀 ) 、この町で活動し ラスの町」とうたわれるほどガラス工業が盛んの行に沿って読むと、ある期間にその国 ( 地 た画家エル・グレコの記で、車の窓用破砕防止ガラスから薬品用の瓶、域 ) からどの国 ( 地域 ) にどれだけの輸出が行 念館、モスクを転用したファイバーグラスに至るまで多種多様なガラスわれたかがわかり、また縦の列に沿って読む エル・クリスト・デ 製品が生産される。ジープを中心とした自動車と、その国 ( 地域 ) がどの国 ( 地域 ) からどれ ラ・ルス教会などがあ部品、機械、エレベーター、医薬品などの製造だけ輸入したかを知ることができる。このよう る。またタホ川にはロー に、トレード・マトリックスによって多角的な も盛んで、製油業はシカゴ以西では上位にラン クされる。一 マ時代のアルカンタラ 八三三年に二村の合併によって誕国際貿易の網の目の態様が明らかになり、ある 橋、一三世紀のサン・マ生した同市は、落ち着いた教育・文化の都市で国や地域の貿易が変化した場合に、それそれの ルティン橋が架かってい もあり、トレド大学 ( 一〈七一一創立 ) など多くの由国や地域にどのような波及効果を生むかなどの 〈志田明〉 る。市内の建物の外観を緒ある大学や文化施設をもち、市民の間では文分析が可能になる。 変えるような改修は禁止化、スポーツ活動も盛んに行われている。なか トレード・ユニオニズム trade ・ union ・ されている。産業としてでもトレド美術館は世界最大のガラス古美術品 ism 日本では普通「労働組合主義」と訳して ら丘望がの堂 ン かたを物そ聖はイスラム時代からの刀剣製造や織物業が有名の収集館として有名であり、市立動物園も全米 いるが、この用語発生の地たるイギリスでの本 イ 岸れ街建 , 大 である。 〈田辺裕・滝沢由美子〉 にその名を知られる。 〈作野和世〉来の意味では、労働組合運動自体をさしてお 南ま市のルが ス の囲旧上サい塔 〔歴史〕都市としての起源は有史以前にさかのトレード・オフ trade-off 経済的に両り、何々主義といったイデオロギーを意味する にの頂カ尖 レホ流上。ルの ばる。ローマ時代にはトレトウム Toletum と立しえない関係がみられ、一方を追求すると他ものではない。すなわち政治運動などとは区別 トタ曲陵むア左 よばれ、イベリア中央部の数少ない都市として方が犠牲になることをいう。たとえば、物価と される固有な運動領域を表現するものとして、 イに師事、同地の聖ベトロ一一オ教会楽団員とな かなり栄えたが、にわかにその重要性が高まる失業率の対応関係を示すフィリップス曲線によ このことばが使われてきた。それゆえまた、経 る。一六九五年ウィーンに赴き、九七年アンス のは五六〇年に西ゴート王国の首都が置かれてると、物価上昇率が低いときには失業率は高く 済主義的な性格を強くもった運動を内容として ハの楽長となるが、一七〇一年ポローニヤに からであった。イスラム時代に入ると、トレド なり、失業率が低いときには物価上昇率は高く は意味している。その点にかかわって、特殊歴 戻り、同地で世を去った。死の直後に出版されは東のサラゴサ、西のメリダと並んでキリスト なる。・ << ・サミュエルソンと・・ソロ史的には一九世紀後半イギリスで盛んであった た全一二曲からなる『合奏協奏曲集』 ( 作品八 ) 教スペインに対するアル・アンダルス ( イスラ ーは、このフィリップス曲線をトレード・オフ職業別組合の運動をさしていう場合もある。日 の後半六曲は、実質的には三楽章構成のバイオム教スペイン ) の国境防衛拠点となる一方、コ曲線とよび、経済政策によって完全雇用を目ざ本で、トレード・ユニオニズムがいわゆる労働 しつよう リンを独奏楽器とする独奏協奏曲で、このこと ルドバの中央政府に執拗な反抗を繰り返した。 せばインフレは避けられず、物価安定を目ざせ組合主義として運動上での意味をもったのは、 から彼は独奏協奏曲様式の創始者とみなされ後ウマイヤ朝崩壊後は一時独立王国をなした ば失業は避けられないと主張する。このような第二次世界大戦後の高度成長期以降であった。 る。 〈樋口隆一〉 が、一〇八五年にカスティーリヤ王アルフォン場合、完全雇用と物価安定はトレード・オフの経済成長とともに、組合の経済機能が重視され ソ六世の前に無血開城した。 トレド Toledo スペイン中央部、新カス 関係にあるといわれる。 る傾向が強まったが、それを意識的に表現する ティーリヤ地方トレド県の県都。人口六万一、 西ゴート王国時代にイベリア全土の首都であ 経済政策の目標には、完全雇用や物価安定のものとして、この用語も広まった。そこに日本 一三 ( 一九公 I) 。タホ川右岸の標高五二九に位ったトレドの歴史的権威は中世を通じて生き続ほかに、経済成長、社会資本の充実、所得と富的特殊性がある。↓労働運動〈早川征一郎〉 置し、東・西・南の三方を曲流するタホ川が取け、特定の首都をもたなかったカスティーリヤ の分配の改善、資源の有効な配分などがある ドレートン Michael Drayton ( 一五六三ー り巻いている。マドリードが首都になる以前の 宮廷は、しばしばここを滞在地とした。一六世が、これらの目標の間にはしばしばトレード・ 一六三 l) イギリスの詩人。ウォーリックシャー
なんぶとしなお た。藩主南部利直により中津川にもっとも早く 騾子著『中塚一碧楼研究』 ( 一九実・海紅同人ことを記しているわりには明るさが乏しいが、 中津江 ( 村 ) なかっえ ( むら ) 大分県西部、日 かみ た しみじみときめ細かく、味わい深いところのあ架設された上ノ橋の擬宝珠 ( 国の重要美術品 ) 句録社 ) 田郡にある村。村名は、古代以来の地方称津江 けいちょう えいふく には「慶長十四己酉年十月吉日、中津川上之 の中ほどに位置することにちなむ。大部分が古中務なかっかさ生没年不詳。平安中期のるのは伏見・永福門院を中心とする京極派、玉 あそん あつよし うだ 〈松本寧至〉橋源朝臣利直」という刻銘がある。〈川本忠平〉 い安山岩山地で、杉を主とする山林率は九〇 % 女流歌人。宇多天皇の第四皇子敦慶親王と歌人葉歌風に通じるものがある。 たいお なかつがわ神奈川県の中央部を流れ に達し、筑後川水系の鯛生川、津江川の谷にわ伊勢との間に生まれた。名称はおそらく中務回玉井幸助著『中務内侍日記新注』 ( 一九天・大中津川 きよう 修館書店 ) ▽同著『日記文学の研究』 ( 一〈る櫺模川の支流。丹山地主峰群 ( 塔ノ岳、丹 ずかに水田をみる。村の八〇 % が津江山系県立卿であった父の官名によるのであろうが、彼 おちあい 沢山など ) の北東斜面に源を発し、清川村落合 六五・塙書房 ) 自然公園に入り、鯛生金山地底博物館 ( 村営 ) 、女の確かな宮仕えの記録がなく、それがどうい さね ー ) 、 0 、つけ 、こ、し ( 天七九ー一九一五 ) 歌人、で早戸川をあわせ、厚木市街地の北部で相模川 室町時代の伝来寺庭園、下筌ダムが観光地。国う機会に与えられたものであるかは不明。源信長塚節ながっカオカ ゅうき もとよし あきら さねより 小説家。明治一二年四月三日、茨城県結城郡岡へ流入する。延長三三キ。、流域面積一〇三平方 明、平かねき、藤原実頼、元良親王など、彼 道四四二号、三八七号が通過する。人口一五八 。上流の山地のうち、低山部はスギ、ヒノキ 〈兼子俊一〉女と関係のあった男性は多いが、そのなかで信田村 ( 現石下町 ) に生まれる。父が県会議長を 七。 などの植林 ( 常緑針葉樹林 ) 、中山部はおもに 明との間がもっとも長く、深かったようで、二務めたこともある素封家に生まれたが、家運は 囮二万五千分の一地形図「鯛生」「宮ノ尾」 ナガヅ力「長柄〕 long shanny/8Sti- 人の間には多数の贈答歌が残されている。三十傾いていた。水戸中学校を神経衰弱のため中コナラ、クリ林 ( 常緑広葉樹林 ) で覆われ、鳥 うたあわせ 六歌仙の一人で、有名歌合にしばしば参加し、退、文学に親しみ短歌をつくり始めた。二一歳類やチョウ類が多く、四季折々の変化がおもし ミ、 0 こ e 硬骨魚綱スズキ目タウェ ま一おかしき ごせん からふと 「後撰和歌集』以下の勅撰集に六十数首入集。のとき上京し正岡子規を訪れ門人となり、そのろい。中津渓谷を登って達する早戸川の谷も渓 ガジ科に属する海水魚。樺太 ( サハリン ) から ちょうし 〈久保木哲夫〉師弟の情は「理想的愛子」といわれた。子規死谷美に優れ、早戸ダムによる人造湖ができ、県 日本海の沿岸各地および千葉県銚子までの太平家集に『中務集』がある。 さちお さやかにも見るべき月をわれはただ涙に曇る後、同門の伊藤左千夫らと行をともにし『馬酔営の青少年施設が設けられている。これら中津 洋側に分布するほか、朝鮮半島沿岸に分布す そくへん 川本・支流の水源地区から丹沢山地主峰群への 木』『アカネ』『アララギ』などを出し、「写生 折りぞ多かる る。体は細長く、わずかに側扁する。目は小さ りよう 、頭の背縁近くにある。ロは大きく、目より中務省なかっかさしよう令制に規定されたの歌」と自らよぶ精緻で気品をたたえた自然詠登山路も開かれている。近年首都圏の水対策の ちゅう だいじようかん 著しく後方まで開く。背びれはすべて硬い棘か中央官司。太政官に属した八省の一つで、中をつくった。またそのころから小説を書き、一ため、中津川上流に宮ケ瀬ダムの建設が進めら ぐうしき くらめいとのおん とねりずしょ 〈浅香幸雄〉 らなる。体は黄褐色で、多数の小黒点がある。宮職および左右舎人・図書・内蔵・縫殿・陰九一〇年 ( 明治四三 ) 『東京朝日新聞』に日本れている。↓中津渓谷 みよう えたくみうちのくすりないらい なかつがわ新潟県南東部を北流する 産卵期は五、六月ごろ。水深三〇〇以浅の砂陽の六寮、画エ・内薬・内礼の三司を管しの最初の農民文学ともいうべき長編小説「土』中津川 のぞりこ あがつま ・一うと、つ しなの 、ごっきゅう 泥底にすみ、底引網で漁獲される。肉は白身でた。天皇の国事行為や後宮関係の政務に携わを連載。翌年のころより喉頭結核を病み、ふた信濃川の支流。群馬県吾妻郡の野反湖に源を発 なかうおぬまつなんおおわりの ごと し、新潟県中魚沼郡津南町大割野で本流に合流 り、とくに詔書・勅旨の作成に関し、天皇の意たび短歌をつくり、『鍼の如く』 ( 一九一四 ~ 一五、 硬く、練り製品の原料となる。成熟した卵巣は 『アララギ』所載 ) と題する哀韻深い二三一首する延長四一一・七キ。の中河川。津南高位段丘面 有毒で、中毒をおこすことがある。〈尼岡邦夫〉を受けて起案し、覆奏して施行許可をとり、 さかさまき かみだいしようすけ ・大少輔が署名のうえ、太政官に送る要務の作品を残し、大正四年二月八日、旅先の福岡を深い峡谷をうがって流れ、中流の逆巻温泉 中塚一碧楼なかっかい「。へきろう ( 一公七ー一九 おおあかざわ きよみはらりよう なかのつかさ から大赤沢までの八キ。を中津川峡谷とよび、 にあたった。浄御原令では中官とよんだらしの病院で三六年の生を終えた。↓土〈近藤芳美〉 四六 ) 俳人。岡山県玉島 ( 現倉敷市 ) に生まれ おちゅうど あきやま一う うどねり けんもっ なおぞう 白の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水落人伝説で有名な秋山郷の仙境はその上流に し。侍従、内舎人、内記、監物などの官人を擁 る。本名直三。岡山中学在学中キリスト教の洗 かぎ ノ、「み冖」け一り・ . ある。高い段止比高を利用した発電所が多い。 礼を受けている。一九〇七年 ( 明治四〇 ) 上して、天皇印、鍵、駅鈴、伝符や戸籍を管理し だこっ わせだ ~ 大・春両岸の高位段丘面は、一九六八年 ( 昭和四三 ) 京、早稲田大学商科入学、飯田蛇笏らの早稲田た。天皇に近侍し、卿、輔の官位相当は、他省回『長塚節全集』七巻・別巻一 ( 一九七六 なえばさんろく 陽堂書店 ) ▽斎藤茂吉編『長塚節研究』上から国営苗場山麓総合開発事業によって、高冷 吟社に入り『国民新聞』俳句欄に投句し、当時より一階高かったが、平安初期以後、卿に親王 しんぶ 下 ( 一九四四・筑摩書房 / 再刊・ の自然主義文学思潮の影響を受けた。〇八年よを任ずるようになった。奈良中期、一時信部 しょ・つ かわひがしへき′」とう 〈八木充〉 一三・日本図書センター ) り河東碧梧桐選「日本俳句」 ( 雑誌『日本及日省と改称した。 、明春子 る立 ▽平輪光三著『長塚節・生活 年 本人』俳句欄 ) に投句、新傾向作家として頭角中務内侍日記なかっかさのないしに。き鎌 へ市 た山 と作品』 ( 一九四三 ・六芸社 ) ▽ を現し、〇九年には新傾向の中心作家となっ倉後期の日記文学。一二九二年 ( 正応五 ) ごろ ながつわむすめふしみ ゅ松 北住敏夫著『長塚節』 ( 一九 た。一〇年末、選者否定の俳誌『自選俳句』成立。作者は中務大輔藤原永経の女、伏見院中 旅に媛 八一・桜楓社 ) ▽『長塚節歌 を、翌年また早大文科に入学して『試作』を、務内侍 ( 本名経子、生没年末詳 ) 。内容は一一一 ~ 一の林愛 い櫟 集』 ( 旺文社文庫 ) 八〇年 ( 弘安三 ) から九二年に至る一三年間 一二年 ( 大正一 ) には『第一作』 ( 『試作』改 おは と・つぐう のとく なかつがわ岩手県盛 題 ) を創刊して個性的な口語自由律の作を発表伏見天皇の春宮時代から即位以後にわたり、病中津川 きたかみ 行さ鳴 い - ごっ 旅がの した。一五年碧梧桐とともに『海紅』を創刊気で退出するまでの宮廷生活を記している。岡市を西流して北上川に注ぐ 我鳥 東 。延長一三 ・八キ。北上高地 そ し、碧梧桐が去った二二年からは同誌を主宰し趣深い遊宴、華やかな行事、厳かな儀式の模 あべたて 幻歳冊う館 て『層雲』と並んで自由律俳句の流れを形成し様、忘れがたい旅の思い出などをつづって、伏の阿部館山に発し、盛岡市街地 〔 8 短て物 たいとう 歌し博 た。作風は初め頽唐風、のち清新平明な叙情風見天皇に内侍として仕えた光栄を記念したもで米内川をあわせてのち北上川 、 ) ・矢か〈心 じ に注ぐ。盛岡市の上水道に利用 に移った。句集に「はかぐら』 ( 一九一一 (l) 、『一碧の。長い春宮時代ののち、伏見は天皇となり持 つなとり みよういん 長綾 、つ規 〈伊沢元美〉 明院統にようやく春が巡ってきたという感慨され、上流に県営綱取ダムがあ カ楼句抄』 ( 一九四九 ) など。 そじよう ためより が基調にある。なかには浅原為頼の伏見天皇暗る。近年、サケの遡上がみられ 千鳥鳴く夜かな凍てし女の手 ひだ る。右岸に盛岡城跡があり、中 殺末遂事件の記事もあり、持明院・大覚寺両統 飛騨のかた大空秋となり てつりつ 津川は城の外堀の役割をもっ な回『日本詩人全集』 ( 一九六九・新潮社 ) ▽尾崎迭立時代の暗さがおのずから反映し、めでたい おもむき かめ ロ 433
なんとし きんしようこち た場所での礼拝の自由も認め三月に不慮の事故死を遂げた。金正印派によ の礼止 〈玉城素〉 られて、寛容時代の開幕を告る暗殺だったという説もある。 なんねい 初と終 最仰に げることとなった。その後のナンニン 0 南寧 の信争 けで戦平和が心もとないものであっ南官一なんねい / ナンニン中国、広西チワン しゅ 付き教館 日付宗書たにしても、フランス国王の族自治区南部の市。同自治区の政府所在地。珠 - 一う よ - つ、 ) う 限の文権威の回復にあずかって力が江水系上流部の琶江沿岸に位置する。城北区な 月制ス公 ようねい ぶめい 4 しン立あったことは否定できない ど六市轄区からなり、琶寧、武鳴の一一県を管轄 年対ラ国 一七世紀に入ってリシュリュ下に置く。人口二二四万四九〇〇 ( 市区は九〇 ーやマザランは、ナントの王万二九〇〇、一九会 ) 。自治区の行政、経済、文 ノめ しようけい 令グ認 令を中央集権的原理に生かし 化の中心であり、湘桂鉄道が通じ、水運、道 王ュをた の。由っ つつ、ユグノーの政治的特権路交通の便がよい。中国の南方、とくにインド ン一のをの打破に努め、一六八五年に シナ半島への交通・軍事基地として漢代から開 しん しんこう せんか はルイ一四世がこの王令を撤け、晋代に晋興県、隋代に宣化県、唐代には琶 しゅう みんしん 〈志垣嘉夫〉 回田北耕也著『昭和時代の潜伏キリシタン』回することになる。 川が置かれた。明・清代には南寧府が置かれ、 しんがい ( 一九五四・日本学術振興会 ) ▽『古野清人著作南都六宗なんとろくしゅう奈良時代の六つ辛亥革命後に琶寧県と改称され、一九四九年に さんろん くしゃ ほっそう 集 5 キリシタニズムの比較研究』 ( 一九七三・ の学派仏教。すなわち法相宗、三論宗、倶舎分離して南寧市が設置された。市街は琶江の両 りつ じようじっ けごん 三一書房 ) 宗、成実宗、華厳宗、律宗の総称。これらは、岸に発達し、中央部に南北両岸を結ぶ琶江大橋 、なんとしちだいじ平城京および唐を中心として発達した仏教が、遣唐使ととも が架けられている。北岸から南寧駅に延びる朝 南都七大寺 がんごう その周辺の七つの大寺。東大寺、興福寺、元興に唐に渡った留学僧によってもたらされたもの陽路が中心街で、中国民航営業所、バスターミ 〕琶に通展 だいあん やくし げんじようさんぞう る麦運交発 寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺。法隆寺である。その伝来の順は、まず玄奘三蔵の開ナル、劇場、ホテル、デパートなどが並ぶ。工 とうしようだい あすか どうしよう どうじずい やきん す左水のて 流 ( の部し を除き唐招提寺を入れた例もある。飛鳥時代 いた法相宗を道昭が伝え、ついで道慈が隋の業地区は南岸に広がり、製鋼、冶金、造船、農 ぐふく かじようだいしきちぞう 貫橋江南と には大安寺、薬師寺、元興寺、弘福寺を四大寺嘉祥大師吉蔵より三論宗を学んでこれを伝え機具、自動車などの機械工業、電子、時計など を大琶国衝 心江ら中要 と称したが、奈良遷都後は大安寺、薬師寺、元た。さらに、これらとともに倶舎論を学ぶ倶舎の精密工業、薬品、化学肥料などの化学工業の 中琶かての 寧のとくつ事た 興寺、興福寺を四大寺とよび、ほかに五大寺、宗や、成実論を主とする成実宗なども伝わっ ほか、紡織、食品、建築機材など多種の工業が 南市江古よ軍し しようむ 六大寺の称も行われた。七大寺は、聖武天皇のた。これらは仏教の論を中心とした宗で、経を発達している。また、広西大学をはじめ医学な けんじゅだいしほうぞう 崩じた翌々日および初七日すなわち七五六年中心としたものは、唐の賢首大師法蔵の開いた どの単科大学、銅鼓の収集で有名な広西博物館在、近畿日本鉄道や地下鉄も通じ、交通の一大 ずきよう だいほうこうぶつけごんきよう しらぎしん ( 天平勝宝八 ) 五月に七大寺に誦経せしめた 『大方広仏華厳経』に基づく華厳宗が新羅の審がある。名勝としては琶江の古い河床の跡であ中心地。難波高島屋をはじめ、南に大阪球場、 しよくにほんぎ じよう しんかぶきざ 『続日本紀』というのが初めての記載で、その祥によって伝えられた。そこで審祥に学んだる南湖が知られる。 〈青木千枝子〉府立体育館、北に新歌舞伎座などがあり、娯楽 こはん・一うき ろうべん し、よ・つむ 後七九六年 ( 延暦・一五 ) 一一月『印本後紀』な良弁は、聖武天皇とともに東大寺を創建して、南濃 ( 町 ) なんのう ( ちょう ) 岐阜県南西部、街、飲食店街をなし、「なんばシティー」「虹の しよく もんとくじつろく びるしゃなぶつ まち どにみえる。『続日本後紀』『文徳実録』『三代華厳経の本尊の毘盧舎那仏を安置した。とくに 海津郡にある町。一九五四年 ( 昭和二九 ) 城山街」の地下商店街がある。 〈位野木寿一〉 えんぎしき よう しもたど 実録』や『延喜式』などにも言及されており、聖武天皇は戒律を唐に求めるために興福寺の栄町と石津、下多度の一一村が合併して南濃町と改囮一万分の一地形図「天王寺」 ふそうりやっき だいあん ふしよう だいみようじ なんばだいすけ ( 天究ー一九 = 四 ) 大 『扶桑略記』に七大寺の寺名が記されている。叡と大安寺の普照を遣わして、揚州の大明寺称。町域は、養老山地の東斜面の扇状地、揖斐難波大助 がんじん また、『七大寺巡礼私記』『七大寺日記』『七大に住していた鑑真に律宗の将来を促した。鑑真 川沿いの低地にまたがる。低地では水稲作が行正時代の無政府主義者。虎の門事件の犯人。明 さんろく ふゅう 寺年表』 ( 以上平安末期 ) 、『七大寺巡礼記』 ( 室は意を決して七四三年 ( 天宝一 l) より五度の遭われ、養老山地山麓の北部には富有ガキ、南部治三一一年一一月七日、山口県選出衆議院議員難 町時代 ? ) などがある。 〈田村晃祐〉難を乗り越えて七五三年に渡来し、日本に律宗ではミカンが栽培される。国道二五八号沿いに 波作之進の四男として生まれる。一九一九年 のおうれい Edit de Nan- を伝えた。 ナントの王令 〈平岡定海〉輸送機器、繊維などの工業も行われる。近畿日本 ( 大正八 ) 郷里の県立、私立中学を転々とし、 よっ tes 一五九八年四月、フランス西部の都市ナ南日なんにち / ナムイル ( 一九一四ー七六 ) 朝鮮鉄道養老線などにより、名古屋・桑名方面への高校受験にも失敗して上京、予備校に通い、四 はぎわ くっ ントでアンリ四世によ 0 て公布された王令。ナ民主主義人民共和国のソ連派軍人、政治家。磁通勤者が多い。北部の庭田・羽沢貝塚 ( ともに縄谷の貧民窟近くで生活する。社会主義的な著 きよう かわかみはじめ ントの勅令ともいう。フランス宗教戦争時代の鏡北道出身。早くからソ連に入り、一九三九文期 ) が有名。人口一万七二三九。〈上島正徳〉 作、河上肇の随想的論文「断片」 ( 『改造』一 二つの精神・理論・伝統であるカトリックとプ年タシケント大学卒業。四二年ソ連軍大尉とな回『南濃町史』全二巻 ( 一九七七、全・南濃町 ) 九一一一年四月号 ) や大逆事件関係資料などを読 やとみ ロテスタントとの信仰を合法的に共存させて国る。解放後、帰国して教育、訓練に従事。五〇囮二万五千分の一地形図「津島」「弥富」「駒み、これらに強く影響を受け、無政府主義に近 内の平和回復を求めたもの。王令それ自体は目年人民軍総参謀長として朝鮮戦争に従軍。五一 野」「阿下喜」 づき、社会に批判の目を向け始めた。一三年四 わせだ 新しいものではなく、カトリーヌ・ド・メディ 月第一早稲田高等学院の文科に入学したが、半 ~ 五三年朝鮮休戦会談の首席代表として活躍し難波なんば大阪市の南区、測速区にわた どう シスやアンリ三世が公布した寛容王令を受け継て大将、外相に就任し、五四年ジュネー・フ会議り、南海電気鉄道難波駅一帯の地。隣接する道年ほど在学ののち中退し、日雇人夫の生活を体 とんばりせんにちまえ いでいたが、永続的かっ取消しのできないもので朝鮮首席代表として国際的に著名となる。五頓堀、千日前とともに「ミナミ」と称される繁験、やがてテロリストの道に進んでいった。二 とされた。フランス・ユグノー ( プロテスタン七年副首相兼外相。六〇年国家建設委員長、六華街をつくる。一八八四年 ( 明治一七 ) 阪堺鉄三年 ( 大正一 (l) 一二月二七日、第四八帝国議 せっしよう ひろひと ト ) の権利と特典の憲章とみなされ、定められ六年鉄道相、七二年副総理となったが、七六年道 ( 現南海電鉄 ) が開通して以来発展した。現会開院式に臨む摂政宮皇太子裕仁親王 ( 現天 、いⅲい”物ⅱ さいだい えい の どう・一 ずい よ・ - わ はんかい 628
ジボアーレ、。 に対する早期止血、消化管ポリープの切断法、てきたことはよく知られている。なお、日本でよって生計を維持している者 ) および「副業的 サンビア、タンザニアの四か国が きようさく う「身内」と「よそ者」という集団の区別家内労働者」 ( はかに本業を有する世帯主が単 ビアフラを承認したが、アフリカ統一機構 (O 術後狭窄の高周波利用による切開法、最近でい は、多分に成員の主観的意識に関係するもので独で、あるいは家族とともに、本業の合間に家 (2) は、和平の仲介は試みたものの、加盟国はレーザー光線を用いて止血や癌の治療などが における分離主義の否定というその基本的立場精力的に行われている。また胆道癌や膵癌などあって、その意味で内集団・外集団の区別の一内労働を行う者 ) と区別している。 わが国の内職の歴史は江戸時代にまでさかの から、一貫して連邦軍事政府の主張を支持しの手術不能例に対して、十二指腸乳頭括約筋をつのあり方を示すものといってよい。↓よそ者 〈宮島喬〉 ばる。資本主義確立期当時の内職の姿は、横山 ↓われわれ集団 〈小田英郎〉 高周波切開し、総胆管や膵管へのドレナージを へいそくおうだん ないしきよう endoscope 管腔臟器行い胆汁を排出させる閉塞性黄疸の内視鏡的内・・サムナー著、青柳清孝他訳『現代社源之助著『日本之下層社会』 ( 天究 ) において、 内視鏡 ろう 会学体系 3 フォークウェイズ』 ( 一九七五・青「巻煙草、マッチの箱張、ラムプの笠張、貿易 または体腔内を直視下で診断および治療するこ瘻形成術も行われている。同様の手技で胆管結 ろうそく かめ ちっ 品亀の子、足袋縫、鼻緒縫、編物、蝦燭の心巻 木書店 ) ▽・・オルポート著、野村昭 とを目的とした機器の総称。広義には耳鏡、腟石の非手術的排出もよく行われる。内視鏡にフ うちわ ・」うもん き、団扇張」などが「貧民の内職」として描か 他訳『偏見の心理』合本版 ( 一九穴・培風館 ) 鏡、肛門鏡なども含まれるが、狭義には光学系アイバー導光が導入されて以降、柔軟性がよく ないしゆっけっ血液の全成分が血管れている。 を内蔵するものをさす。これには硬性鏡と軟性なって、従来の機器のような苦痛を患者に強い内出血 今日では家内労働者の八〇 ~ 九〇 % を女子の 、血液が体表から体 鏡がある。硬性鏡は金属製パイプにレンズ・プることがなく、検査が容易に行われるようにな外に出ることを出血といし まう - 一う リズムの光学系を内蔵したもので、胱鏡、直り、胃癌の集団検診に際し、食道癌の早期診断を外に出るものを外出血、血液が組織・臓器内や内職従事者が占めている。労働省の調査では、 たい′、っ 腸鏡、腹腔鏡、関節鏡などがある。軟性鏡には含めて内視鏡検査を第一次選択として用いるべ体腔内に出ても体内にとどまっている状態を内高度成長過程で内職従事者は増大し続け、一九 きであるとする考え方も強調されている現況で出血と呼び分けている。なお、出血は、血管壁七二年 ( 昭和四七 ) には一六四万人とピークに 胃カメラとファイバースコープが含められる。 はたん 内視鏡の検査適応領域は広いが、ここでは消化ある。↓胃鏡↓胃カメラ↓関節鏡↓食道鏡の破綻によっておこる破綻性出血と、血管壁の達した。石油危機以降の不況のもとで減少に転 じ、八〇年代以降、国内製造業の海外流出も加 ↓ファイバースコープ↓膀胱鏡〈大柴三郎〉破綻がなくてもおこる漏出性出血に分けられた 器領域を中心に述べる。 - 一うとう うちみみどぎ り、出血がおこる血管の種類によって、動脈性わって内職従事者はさらに減少傾向にある ( 一 ないじどき 0 内耳土器 内視鏡の歴史は古く、一九世紀初めに喉頭内耳土器 ないしゅうだん・がし 、しゅう出血、静脈性出血、毛細管性出血とに分けられ九八六年九九・八万人 ) 。従来の内職は繊維、電 鏡、食道鏡、その後に胃鏡が作製されている内集団・外集団 る。 〈渡辺裕〉気機器、雑貨などの業種に多かったが、近年、 だん in-group, out ・ group 集団の閉鎖性、 が、これらはすべて金属製バイプを目的部位に ( マイクロエレクトロニクス ) 化に伴っ 挿入して観察するもので、制約が多くて日の目 排他性という傾向に着目してつくられた一対の内鞘ないしよう植物器官上の用語。中心 をみずに終わった。二〇世紀に入り軟性胃鏡が概念。アメリカの社会学者・ (-) ・サムナーの柱の基本組織のうち、内皮と維管束組織との間て、在宅ワープロオペレーターやプログラマ 、テープ起こしゃ簿記などの事務内職が増加 にあって、環状に分布し、中心柱の最外層をな 開発されたが、数多くのレンズ系を通して結像用いたことば。内集団は、個人が自らをそれと するので、柔軟性や光量など機器の性能に制約同一視し、所属感を抱いている集団で、それにす部分をいう。種子植物の茎ではほとんど内皮している。 内職的家内労働を規制する法律として家内労 が認められないため、本来の意味での中心柱の が多く、撮影した写真も暗くて診断能が低劣で対して外集団は、「他者」と感じられる集団で、 境界を定められず、したがって内鞘も指摘でき働法 ( 昭和四五年法律六〇号 ) が制定され、委 あった。一九五〇年 ( 昭和二五 ) 日本で胃カメ競争心、対立感、敵意などの差し向けられる対 十 / 、し 。しかし、こうした場合でも中心柱を想定託条件を明確にするため、家内労働手帳の交 に象である。一般に、内集団への所属感や愛着が ラが作製され、臨床上広く普及したが、実際 目で見ることのできない盲目撮影のみであっ増し、その凝集性が高まるとき、それに応じてし、篩部の最外部を内鞘とすることがある。裸付、エ賃支払いの確保、最低工賃の決定、安全 た。しかし、その撮影した写真による診断価値外集団への対抗心や敵意が強まるという傾向の子植物の根の内鞘はほとんどが数層であり、被衛生改善措置、家内労働審議会設置などが定め ^ 伍賀一道〉 あることが知られている。この対内凝集と対外子植物の多くは一層である。これらの植物の場られている。↓家内労働 は優れ、今日でも捨てがたいものがある。つい で登場したのが、ガラス繊維の透光性と柔軟性排斥の相関という事実が、内集団・外集団の関合、側根は、この内鞘の柔組織の細胞が分裂を回横山源之助著『日本の下層社会』 ( 岩波文庫 ) ▽寺園成章著『家内労働法の解説』 ( 一一・ 係におけるもっとも興味深い点である。したが再開して増殖し、根端分裂組織を構成しなが を利用したファイバースコープである。これは 労務行政研究所 ) ら、一兀の根を突き抜けて成長するという内生的 って、この二つの集団の区別は、客観的基準に 革命的な内視鏡で、その後内視鏡診断学上に画 ないしるい はねのある昆虫類のう よる区別というよりは、集団成員の内と外に向起源によって生じる。なお、シダ植物における内翅類 期的位置を占めるに至った。現在では食道から すいかん ち、成長の過程で完全変態を行う内翅群 En- 直腸まですべての消化管、胆道、膵管まで適応けての心理の動きに応じて輪郭づけられてくる側根は内皮起源である。二次肥大する根では、 形成層の一部は内鞘から生じ、またコルク形成 dopterygota に属するものの総称。外翅類に 範囲が広がっている。そのほか、気管支鏡、腹ものといえよう。 〈西野栄正〉 対する呼称。外翅類と異なり、幼虫の期間中は このような心理の動きは、戦争の際の愛国心層も内皮起であることが多い。 腔鏡、膀胱鏡、縦隔鏡、関節鏡などがあり、そ はねのもとになる翅芽が外部にまったく認めら ないしよく製造業者や問屋または請 れぞれの領域で評価されている。これら内視鏡の高揚と敵国への憎悪の激発といった現象や、内職 ははとんどすべて生検が可能で、肉眼診断と同自民族の神聖視と他民族の蔑視、排斥という、負業者 ( 仲介人 ) から原材料や機械、器具などれず、蛹になって初めてはねが外部に現れる。 の提供を受けて、単独または家族の補助者ととチョウやハエなどにみられるように幼虫が成虫 いわゆる自民族中心主義 ( エスノセントリズ 時に直視下採取組織診断が加えられる。 と著しく異なった形態をもっこと、蛹という休 ム ) などのなかに典型的に現れる。これらの場もに製造、加工を行うことによって加工賃を得 消化管の内視鏡学は日本で著しく進歩し、今 日の消化管の癌における早期診断体制の中軸を合、人々の自然発生的な心理の動きだけでなている家内労働のなかの主要な形態をいう。労止期をもっことも大きな特徴である。脈翅目、 、外集団への憎悪をあおりたてて内集団の凝働省の定義によると、「内職的家内労働者」と甲虫目、ネジレバネ目、膜翅目、シリアゲムシ なしている。本来、内視鏡は目で見ることを目 は、主婦や老人など世帯主以外の家族が、世帯目、トビケラ目、鱗翅目、双翅目、ノミ目がこ っ的とするが、最近では機能検査に応用されて疾集を高めようとする世論操作も作用しているこ こに属し、昆虫のなかでも高等とされるものの とが少なくない。西欧諸国ではそうした外集団主とは別に家計補助のため家事の合間に家内労 し患の病態解明、さらに治療面への進出も著し 、い、「専業的家内労働者」集まりで、このなかでは脈翅目のヘビトンポ類 3 として、しばしばユダヤ人が選ばれ、排斥の対働に従事する者をし 、。内視鏡を用いての治療は、異物の摘出をは しよく ) こい りゆ・つ などが原始的と考えられている。〈中根猛彦〉 3 なじめ、食道静脈瘤の硬化療法、上部消化管出血象とされ、スケープゴート ( 贖罪羊 ) とされ ( 家内労働を世帯主が本業として行い、それに ないひ さな
「都心」地域と並んで中枢管理機能を強め、国家レベルだけ カ南部の宇宙基地やハイテクノロジー関係の新興都市をサン種問題の置き換え displacement という形で肩代りしてい ベルト Sun-belt とすると、スノーベルト Snow-belt とかる。都市問題の負の連関といえようが、当然フィラデルフィでなく世界レベルでの「国際都市」「世界都市」の顔を一九 八〇年代に入っていっそう帯びてくるなかで、いわば頂点部 ア市では、行政機関、民間デベロッパーの総力をあげて、イ フローズンベルト Frozen ・ belt と総称されるに至っている。 フィラデルフィアの人口減少 ( 表 2 ) は単に減少の量的側面ンナーシティ地域の再開発Ⅱ再活力化 urban revitalization 分の「光」にあって底辺部分の衰退問題という「影」が覆い 問題への取り組みをみせている。とりわけゴースト・タウン隠されている。したがって東京は、衰退化が大都市共通の問 にとどまらず、人種関係の住民構成と深くつながっている。 一らち 化した地域の更地化を通じてオフィス空間の回復、あるいは題として深刻に受け止められていないのが現状である。しか 具体的には、中産階級白人が市域外に移動して、黒人その他 し都市型社会の八〇年代に入って、東京の都心も地域レ・ヘル 有色人口の相対的比重の増加を意味する。黒人人口は六〇年市域外に流出した中産階級白人の「中心地域への復帰 Back ・ についていえば、人口減少、高齢化、地域管理能力の喪失そ センサス以降、センサスの一〇年単位にほば一〇 % の増加を to ・ the-CitY Movements 」をプログラムとした住空間の回復 の他の問題を抱え、とくに人口減少では、八〇年代中期の現 続けている。このことは、黒人Ⅱ大都市インナーシティ地域を図る。とくに後者の住空間の回復は、相対的に年齢の若い ( とくにスラム地域 ) 、白人Ⅱ大都市周辺地域 ( 郊外地域 ) と都市住民ーープロフェッショナルな職業、高学歴、高収入、在、過去二〇年間に半減の状態にある。都心区の都市自治の 観点からは、まさにノーマンズ・ランド no man's land 、 いう図式ではもはやとらえられないことを示唆する。現実都会的センスの服飾と行動・生活様式の層に焦点を絞ってい ジャニターズ・ゾーン janitor's zone としての中心地域の に、これまで安定的で、央適なコミュニティ・ライフを維持るところから、地域イメージの更新のジェントリフイケーシ ョン gentrification とかシティフイケーション citification 実態は、欧米のコミュニティ放棄とは異なった基盤において してきた中産階級白人の郊外住宅地域にも、黒人 ( 中産階級 八〇年代の都市問題の一つの位相をなす。 黒人 ) の進出をみるに至っている。黒人の郊外化 Black sub- 現象と名づけられている。 都心区の自治のコントロールは、おそらく中枢管理空間と urbanization と、中産階級黒人と白人とのコミュニティ・ 都市再開発Ⅱ再活力化プログラムが現実に有効策となりう しての実態に見合って、一種の「法人都市」としてより上位 レベルでの「統合」あるいは「分離」は、八〇年代都市問題るか否かは今後の推移を見守るとしても、問題は、歴史文化 的に個性的なフィラデルフィアが他の大都市群と機能・構造の行政機関に負託をして、大都市圏、国の「直轄市」として の顕在化したテーマとなっている。↓黒人問題 このような「夜間人口」 的に帯状に連なるなかで、「都市問題」の基盤を踏まえてどの色調を濃くしてくるに違いない 〔コミュ一一ティ放棄と都市再活力化〕一方、中心部インナー シティ地域では、低収入、低学歴、失業・半失業、家族解体のような成熟した都市・地域像を描きうるかが、当面の都市やコミュ一一ティ不在の都心区では、たとえば犯罪や治安上の 問題の解決とあわせて二一世紀に向けての最重要テーマとな不安、人々の精神衛生や夜間時の緊急医療の問題、あるいは 問題を抱える黒人をはじめとする人種、エスニック・グルー プ ethnic group の居住地域が広範に広がるが、古典的スる。現在のところ、くつきりとした輪郭をもっ都市・地域の突発的な社会的事件や。ハニック、災害上の問題も、無機質の ラムのように特定の人種・階層が一つの地域に排他的に凝固全体像、あるいは都市自治のシステムは不透明であるが、そ都心を舞台として目に見えない、身体に訴えない形で隠徴に 進行していくに違いない。陰画としての都市問題の側面とい するという構造を示さない。人種の入れ替えもかなりに流動れがコミュニティ放棄化のインナーシティ地域でも、あるい 的である。そのこと以上に、たとえばフィラデルフィア市では住民層の入れ替えの進む既成郊外地域であっても、地域レえよう。 ベルでの「住民」を主体とした青写真を第一歩とすることだ〔都市問題の総合研究体制〕〔都市化社会の社会問題〕都市 は、スラムすら形成されない、家屋や近隣住区の放棄化し 問題はスラムから都市地域全般に広がりをみせ、しかも大都 わゆるゴースト・タウン現象が八〇年代都市問題の主テーマけは確かであろう。↓向心・離、い 市自体、中心地域と郊 〔日本の都市問題〕大都市の危機Ⅱ衰退化は、わが国では欧 をなしてきている。コミュニティ放棄 community aban ・ -4 -4- 戸 0 戸 0 -9 》《 0 外地域との分極化を著 donment といわれる現象がこれである。あわせて指摘して米にみられる人種・エスニック問題を介在させていないこ 下ー 0- ワ 8 【 0 00 , ・ ワ】 -4 っ 0 11 府 展 しくしている。郊外地 おかなければならないのは、フィラデルフィア市の都市問題と、また本格的都市化の歴史の浅さからいって、現段階の都 の 市 域は、現住地を「終の は一都市、一都市圏の問題にとどまらず、たとえばニューヨ市問題としてかならずしも認識されていない。しかし、たと ~ ・阪・ 4 -0 -4 -0 ▽▽▽▽多 減大 圏すみか」とする住民の ーク市の都市問題とも連合していることである。このことはえば大阪市においては、人口減少 ( 表 3 ) 、高齢化、施設・ 増 亠Ⅲ 府 2 9 5 6 3 3 都定着化のなかで住Ⅱ生 大都市間の問題の共有機関の老朽化と機能不全、地域管理能力の喪失、新しい型の 年反 、 1 ワ 1 人 移 5 大 7 0 0 3 3 」統というより、フィラデ都市問題 ( 都市風紀問題、暴力問題その他 ) の発生などの症 1 活環境条件の充実、ア ーっー 11 「 / 00 ワっ 0 亠Ⅲ ア 00 1 0 0- ワ】【新 ▽▽▽▽ メニティ志向、あるい ルフィア市側からいえ候の大都市インナーシティ問題を経験している。そして同様 あまがさき フ 移下 9 0 4 0 2 3 成 -4 《 0 LO -0- の ワ】 00 一 4 LO 《 0 はサービス行政として ば、ニューヨーク市のの意味での「大阪現象」は、尼崎市、神戸市、北九州市、ー 市 デ ロ ア -8 11 -4 ・ワ」 -9 》 -0 の自治体の復位などの ラ都市問題を引き受けて崎市、東京の一部インナーシティ地域においても発現してき ワ c-C 0- CO 0 ロ -0- (. 0 -0 11 -0- 11 イ -0 【 / っ 0 《 0 0 《 0 ワ 人阪 1 5 8 7 4 3 田 フ フ 2 存立基盤を不可欠なも 9 、つ 0- 11 11 ワ】 -8 一 -8 いるということであている。このことは都市文明史的には六〇年代型の都市化社 00 っ 0 ワ朝ワ」ワ】ワ レ 大 一 4 ・ワ」尸 0 っ 0 「 / -0- 4 ・ 0 う す ノロ -. 0 8 0¯> O¯> -0 -0 -9 、《 0 亠 9 トナ 市 のにしている。この文 示るる。一一ユーヨーク市に会 urbanizing society 段階から、都市化の成熟段階に伴う 11 ~ 1 よ 11 11 ワ朝ワ】、ー 4 1 ・画 尸 0 -0 -8 師府 ラ 阪 5 6 6 2 4 少脈は地方都市や田舎町 流入した人種、エス一一都市型社会 urbanized society 特有の問題群ということが大 もイ 人大 5 6 7 8 8 8 減 6 は調 し ック・グループを、フできる。 とも共通する問題群と ▽ ▽局 O L-n 0 LO O LO (. 0 ( 0 「 / フー CK) 表 表 と 注 いえよう。一方、中心 イラデルフィア市が人 しかし東京の「都心」地域がニューヨーク、ロンドンの 年 1 910 1920 1930 1940 1950 1960 1970 1980 二二い
しよびその世帯員が全人口の六割以上を占めることなどとして 屋 といる。多くの市域内には農家や林野・耕地を含んでおり、実 ~ 古▽ 年 門名 質的都市は市域の一部を占めることが多い。西ヨーロッパ諸 -4 ・ワ】一 4 1 亠っー 国やアメリカでは、人口二〇〇〇人あるいは二五〇〇人が集 市 まる地区 ( ロカリティ ) をもって都市の成立条件としてい ( ▽ る。集落の社会的、歴史地理的状態が東西によって異なるか 大 増 1 上ワなワ】 11 ・ 4 の らである。アメリカ中西部では広漠とした畑の中に教会とド 模 上 人京幻 -8 ワ】ワワ 1 ー - 1 人 1 よ、 1 11 1 人、 1 の東 ( ▽ 市 ラッグストア、ガソリンスタンドなどが建つだけで、中心地 以人師 ロ 8 定 万 市 として都市の最小の条件をもつものがある。 未未未未 区 市 市令 人 万万万万 0 少 都市は国土の要としてたち、歴史の過程を通して成長し変本数 ロ に市市屋市市市市市州市 大 ちみ の 日市 人 京浜阪古幌都戸岡崎九島 ロ 化してきたものである。地味のよい広大な平野を後背地 ( ヒ 模満上上上物上址 東横大名札京神福日 ー . 北広 ~ よ 規未以以以以以リ 率人 1 人ワ」 - ュ - 尸 0 ▽ ンターランド ) として都市が発達する一面には、川の合流点 ロ万万万万万万計 表 ワ」っ 0 4 ・ L-n (. 0 「 / 00 0 ) C) 1 ー 表 じよ・つさい C•O 一 -0 人 11 っ 0 一 .0 1 人 1 よワ】 00 -4 ・ 平合注 に城塞として立地し、交通・商業の要地として育った中小 くるめ 都市もある。都市は空間の可能性を活用する努力によって成草などのように、古い伝統や独得な習慣が保存されている例崎熊本福岡鹿児島久留米佐賀 ( 北海道の札幌・ はこだて がある。 長する。 函館などは初めは区制をとった ) フィルブリックの中心性機能説し こよれば、どの集落にも普 都市景観がれんがとモルタルの集合体になったのはロンド すでに江戸時代から東京は一〇〇万人の人口をもち、大 遍的にみられる機能に始まり、少数の集落のみに限定される ンの大火 ( 一六六六 ) 以後であり、日本では江戸前期のたび重な阪・京都も五〇万人に迫る大都市であった。市数が急増した かわらぶ 特殊な機能がある。人口の大小と機能の種類が中心性の大小 る大火ののちに瓦葺き土蔵造を奨励してからである。今日ものは一九五四、五五年 ( 昭和二九、三〇 ) の合併によってで と対応して階段的に配列される。すなわち、もっとも基底に 日本の町には木造低層の家が多いが、耐震・耐火のためにはあった。現在の人口規模別にみた市数は表 1 のとおりであ は消費者があり、これにサービスする小売業が集まり、その鉄骨鉄筋コンクリート、スチール構造が必要である。土地利る。人口五〇万人を超える市は二一市 ( 表 2 ) 、このうち区 けんべい 一段上位に卸売業が発達し、さらに「積換え」「交換」「管用の集約化、地価の高騰に伴って、建坪率や容積率が増し、 制をもち、府県に並ぶもの ( 政令都市 ) は一一市である。大 理」の業務が順次上位の中心地に現れ、最高位の市は「指高層化が進む。多数の人口が安全・央適に住まい、多くの業都市の都心区は夜間人口が減少し、とくに大阪市は著しく、 導」的機能をもつ。この考えを経済のみに限らず、社会・文務が能率よく活動し、激しい交通をさばくなどの要求を満た周縁住宅区の人口増加が著しい横浜市に第一一位を奪われた 化的機能にも拡張して適用すると、小学校、中学校、高等学すには、古い市街を改造し、新しい建設が行われる。管理と 小さい町村が市となるための最小限の条件を満たすには合 校、大学の系列が集落の大小と中心性に関係をもって現れ、整備は都市を維持発展させる要件であるが、現実には過密や併が必要であり、結果として、実質的都市部が市域の一部に また地区の診療所から、小病院、総合病院に至る医療サービ 混乱が広がっている。都市問題は人々の集団の社会的・地域すぎず、耕地・林野が広く、人口密度一平方キ。当り一〇〇〇 ス圏の大小と専門化の関係にも反映される。 的な摩擦、物質的な設備 ( 道路・住宅・水など ) とのアンバ 人に満たない市が多くなった。統計上、実質都市を表示する 都市においては、農牧林業、水産あるいは採鉱などの自然ランスによっておこり、その解決には農村問題とは異なる技ために、一九六〇年以来「人口集中地区」を定め、市街地の を直接利用する生産活動は本質的には行われず、市民が利用術的・行財政的努力を払うところに、特質をもっている。 人口を表示することとなった。その基準は、隣接した一平方 する食糧、エネルギーなどは主として他地方から供給され 現代の都市化は、昼間人口の都市中央部への吸引と、夜間 キ。密度四〇〇〇人以上をもつ人口調査区を集めて、合計五〇 る。ラツツェルのいう栄養交通が必要である。広い自然の空人口の郊外への分散とからなり、前者には都市再開発、後者〇〇人以上に達する地区である。一九六〇年には、八九一地 間は、緑地、レクリエーションなどのために保持されるが、 にはニュータウン計画を含む新都市建設が行われる。 区、合計人口四〇八三万人に達し、八〇年には一三二〇地 生産緑地は欠ける。土地利用区分に基づき人口密度を調べる〔都市の領域〕市町村域 municipal area はわが国では一八 区、合計人口六九九三万人であった。 と、日本の都市近郊では一平方キ。当り人口密度四〇〇人が農八九年 ( 明治一一一 D 以来行政区画として定着をみた。人口の 他方、人口の増加は郊外に著しくなった。市内の地価が高 村と都市の移行地帯であり、一〇〇〇人以上の密度をもてば増加、市域の拡大、あるいは市町村合併によって、新市が誕 くなり、環境条件が悪く、住みにくくなったためである。東 市街化が進んだ地帯である。また都市の中央部は一万人以上生した。最初に市制を施行したのは次の三九市で、旧城下町京・大阪・名古屋三大都市圏の都心よりの距離別にみた人口 の密度に達する。 が多く、新しい開港場 ( 。印 ) も目だっ存在であった。 増加率は表 3 のとおりである。これに伴って市外より市内へ ひろさき 都市の住民は多くの職業に分かれてその複雑な機能を分担 仙台山形盛岡米沢秋田弘前東京。横浜水 日々通勤し流入する人口が増えてきた。また市内にあった事 して働くのみでなく、都市と地方間や自都市内部においても 戸金沢。新潟甲府富山福井高岡名古屋静業所、とくに工場が市外に移転する件数も多い。これらのこ 寺 ) かい 移動性が大きく、農村のような共同社会、郷土性、伝統の維 岡岐阜大阪京都。神戸姫路堺和歌山津 とから、大都市圏として、行政市域の外に及ぶ領域を区画 しものせき 持には乏しい。しかし、ロンドンのシティ、東京の神田や浅 広島岡山下関松江鳥取徳島高知松山。長し、市内外を通しての統計を示す必要がある。 かなめ 数 市 53 179 217 143 39 10 652 ワ」 0 ・《 0 CO ワ】 1 人 11 1 人 ロー八 -8 門 / - -0 - -0 L.O 戸 0 -. 0 0 人師 市市 市市市市島阪市市市 市葉台山本児大松崎橋 堺千仙岡熊鹿東浜尼船 っっこ 4 ・ L-n (. 0 「 / 00 0 ) 0 1 ー 1 ーっ / 」っ」 (km)