よ やまべのひじ し * ) わ という切迫した現状に触れたあとで、「本朝の代終わり、百 んにつけ生きていけない生活基盤である。それは古代の人々にちて、宍禾郡を作りし時、山部比治、任されて里長と為り き。此の人の名によりて、故、比治里といふ」 ( 播磨国風土王の威尽きる」と始まる未来記が書き付けられている。 まとっても同様であったと思われる。 このように、末来記は中世において繰り返し生み出され注 〔血縁からみた歴史意識〕日本古代における歴史意識は、基記 ) という形で「邦家之経緯・王化之鴻基」の歴史へと編成 本的には血縁を要とする系譜意識として育ったと考えられされたのである。支配階級の記紀にみられる歴史意識は基本目を浴びてきた。もうすでに死んでしまった過去の聖なる存 いなりやま る。著名な埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文をみると、乎的には六国史に継承され、民衆レベルのそれは地域伝承とし在が書き残した予言、それが土の中から掘り出される。これ いずも 〈関和彦〉は確かに当時の人々にとって心ひかれるできごとであったに 獲居臣は大彦以来の祖先系譜を明確に示している。『出雲国て語り継がれたと考えられる。 ふどき かたりのおみいまろ 違いない。初めは宗教的な性格の強かった予言は、だんだん 幻中世における歴史意識 風土記』意宇郡条にみえる語臣猪麻呂の報復事件は、風土 じよ・つきゅう へんさん に政治的色彩の濃い内容のものへと変化し、承久の乱や南 中世には、未来を予言した未来記が数多く書かれた。ここ 記編纂時の六〇年前のできごと ( 現代史 ) であるが、語臣 あたう 北朝内乱そして応仁の乱といった危機の時代にはかならず現 與の父 ( 猪麻呂 ) の時代として語り継がれている。同様のでは、それを手掛りにして当時の歴史意識を探ってみたい。 〔未来記にみえる歴史意識〕「王位を日に競い、君臣序をたれている。このように、次々と生み出されてくる未来記をつ 言。しくつもみえ、支配階級のみならず一 歴史意識は同風土己こ、 がえ、国務を奪い争う。父子義絶し、国王后妃その数国に満なぎ合わせると、中世における一つの歴史意識の流れが浮か 般民衆の世界にも系譜意識は広がっていたことがわかる。 きかっ かんもっ 『古事記』、六国史の場合、大きくみて、時代区分・設定は天つ。官物滅亡し、王臣相共に恒乏飢渇す。鬼神ことごとく怒び上がってくる。平安期の末来記にみえる太子入滅後何年す しやか じようらん しつえき 皇治世をもってなされているとみてよい。しかし、一般民衆りて、疾疫日々なり。百姓擾乱し、兵殺綿々たり」。一〇〇れば、という表現は、釈迦入滅という時を起点にして、千年 しうま、つ まつぼう とっ . ほら・ してんのうじごしゆいんえんぎ 間の正法そして千年間の像法の時期が過ぎると末法の世が の日常生活においては、今日の元号使用という状況と相違し七年 ( 寛弘四 ) に発見された「四天王寺御手印縁起」は、仏 到来するという、あの末法思想に相通じるものがある。入末 て、生活に密着する形 ( 例、父の時代 ) でとらえていたと思法が滅び尽きたときの社会のありさまをこのように描いてい あり しやくにほんぎ われる。王権とのかかわりで考えても『釈日本紀』所引の有る。聖徳太子が未来を予見して書き残したとされる太子末来法の年についてはさまざまな考え方があったが、もっとも広 く信じられた説では、一〇五二年 ( 永承七 ) が末法元年にあ 馬温泉起源伝承「土人の云へらく、時世の号名を知らず。記は、これ以後、中世社会を通じて次々と生み出されてく かわち ただししまのおおおみ 但、嶋大臣の時と知れるのみ」をみてもわかるように、土る。一〇五四年 ( 天喜一 I) 、河内国にある太子の墓近くの土たるとされている。その末法に入ってすでに久しい鎌倉期に 人 ( 民衆 ) は天皇治世と無関係の場で生活していることがう中から、「吾入滅以後四百卅余歳に及びこの記文出現する哉」なると、第何代目の王の時にどういったことが起こる、とい じえん ぐかんしよう う表現が目だってくる。これは、当時、歴代の天皇を中心に などと刻まれた石が発掘された。慈円の『愚管抄』にも かがえる。 たま した年代記が数多くつくられていて、人々が歴史をとらえる 〔地縁からみた歴史意識〕次に地縁的歴史意識であるが、現「世滅法と聖徳太子の書きおかせ給えるも、あわれにこそ、 ていカ めいげつき ときの枠組みになっていたことを示すものである。しかし、 在、地方の時代といわれ、郷土史・地域史の再検討が課題とひしとかないて見ゆれ」とあり、藤原定家は日記『明月記』 と、つ なってきている。古代においても民衆には郷土愛・土地所有に一一三七年 ( 嘉録三 ) 「人王八十六代の時東夷来る」で始同時にまたここでは、王は百代をもって滅ぶとする考え方が び第ごっく といろいろな側面があると思うが、自分たちの先祖が生産活まり「猴狗人類を喰うべし」という奇怪なことばで結ばれ共通の軸となっており、百代まであと何代残っているのかと いう点に大きな力点が置かれていることを見落としてはなら 動等で活躍した場、生活の舞台である郷土との触れ合いを歴た石の記文が掘り出されたことを記している。また「末代土 ごと 史 ( 伝承 ) 的に伝えようとしている。その典型は記紀、風土を掘る毎に御記文出現」とも書かれており、このころには頻 末法思想や百王思想は、末世の到来あるいは百王の威尽き 記に多数みえる地名起源伝承である。「英保と称ふは、伊予繁に未来記が発掘されたようである。 かれ なづ 国英保村の人、到来たりて此処に居りき。故、英保村と号南北朝内乱期には「聖徳太子未来記五十巻」という大部のるなどという形で、末来に一つの約束された結末を設定す さかみづうたげ さっきもっ ものも現れ、「帝王九十五代、春秋を経て在位し、仏法王法る。しかし、そこでは末法ののち、百王ののちの具体的イメ く」「常に五月を以て此の岡に集聚ひて、飲酒き宴遊しき。 はんじよう はりま かれさおか ージが語られることはない。仏法滅尽王法衰微の末世という ・ : 」「人王九十 故、佐岡といふ」 ( 播磨国風土記 ) をみても、移住・農耕行の繁昌今秋なり。但し七百日滅尽すべし。 けんきようふ力い 事の歴史が語られている。いままでの研究では牽強付会な六代、天下大いに兵乱す。東魚来りてこれを静む。しかる後現実認識を基礎にして、次々と、より遠い末来に終末と崩壊 ごだい ) ) ししカえれば、世界の破滅をつねに意識 伝承として無視されてきたが、そこにこそ民衆レベルの地縁西鳥東魚を食う」などが知られている。九十五代は後醍醐天を設定し続ける。、、ゝ くすのきまさしげ たいへいき 皇にあたるとされている。『太平記』にも楠木正成が将来へし、そしてそれを未来の方向に押しやり続けるところに、中 的歴史意識がかいまみられるのである。 いままでの古代の歴史意識といえば、記紀にみえる「家の確信をもったとされる未来記があり、それは次のようなも世の時間意識の特異さがある。 第一うき 〔冥と顕のニつの世界〕ところで、中世の人々は、歴史を動 之経緯・王化之鴻基」 ( 古事記 ) に典型的にみえる天皇制イのである。「人王九十五代、天下一たび乱れて主安からず。 この時東魚来りて四海を呑む。日西天に没すること三百七十かし、未来に一つの結末をもたらすものが、現実の歴史の内 デオロギーでまとめられる傾向にあったが、以上述べてきた にあるとは考えていなかったし、できごとの因果関係を歴史 余箇日、西鳥来りて東魚を食らう。その後海内一に帰するこ 二つの民衆レベルの歴史意識を抜きに考えることはできない かす 彼らはつね のである。記紀の叙述のみを追えば天皇制イデオロギー一色と三年。猴の如くなるもの天下を掠むること三十余年。大内在的にとらえきれるとも思っていなかった。 , 、現実の歴史の背後にもう一つの世界が存在すると考えて であるが、それはあくまで歴史的産物の一つである。民衆レ凶変じて一元に帰す」 だいじよういんじ おうにん ばつばっ いた。それは人々の目からは見えず、その意志も計り知れな 応仁の乱が勃発した一四六七年 ( 応仁一 ) の『大乗院寺 ベルの血縁・地縁的歴史像は記紀編纂段階において天皇治 しゃぞうじき ばのこおり なにわながらとよさきすめらみこと いものであるが、つねに人々の動きを見守り続け、その方向 世・行為が付され、「難波長柄豊前天皇の世、揖保郡を分社雑事記』には、仏法王法公臣の道がいままさに断絶するか かなめ とおさ かな
とりふし あすか とりぶっし生没年不詳。飛鳥時 8 酸からなり、その配列順序はカナダの生化学者止利仏師 しばのくらっくりべのおびと ウォルシュ Kenneth Andrew Walsh ( 一九三一ー 代の仏師。鳥仏師とも書くが、司馬鞍作部首 2 寺てで くらのおびと くらっくりのとり 隆げ像 ) らによって一九六四年に決められた。 止利仏師の通称。また鞍作止利、鞍首止利 」金法広尊る なんりよう しばたっ と鍍を三あ 反応機構に関してはもっともよく研究されてともよばれる。中国南梁からの渡来人司馬達 造良」裾光が 銅奈ー裳一銘 いる酵素の一つで、活性中心にセリン残基を含等の孫といわれているが、司馬一族は四世紀ご すぐり 宝座すのむセリンプロテアーゼの一つである。ヒスチジろに渡来した「鞍作村主」の子孫とする説もあ 3 国字と文 ン残基も活性中心に存在する。精製は、トリプる。聖徳太子や当時の権力者蘇我氏に用いら 宣尊長 5 の中の シノゲンとしてウシの膵臟から酸抽出し、硫酸れ、『日本書紀』によれば、六〇六年 ( 推古天 コ重をと しやかによらいギそ - っ 一 7 来る アンモニウムで分別して八で結晶化し、再結皇一四 ) に飛鳥寺の釈迦如来坐像 ( 飛鳥大仏、 侍。よ如あ 3 脇る迦で 晶を繰り返して精製される。 3 飛鳥美術 ) を造像 ( 止利作を否定する説 きさきばだい 左い釈師 なお、膵臟にはトリプシン阻害物質 ( インヒ もある ) 、六一一三年聖徳太子と母后、妃の菩提 , てぶ仏 きようじ 像 5 れ結 ビター ) も存在し、ウシでは五六のアミノ酸かのために法隆寺金堂の釈迦如来及び両脇侍像を - 寺図さを止 一置 ~ 印が らなる分子量六一五五のポリペプチドで、トリ 完成している。先の飛鳥大仏が後世の補修が多 〈一びに。無作プシンを阻害するが、キモトリプシン、カリク いのに比し、この三尊像はほとんど完全に残っ 【、を . , ニ」来 , ノ・来 レイン、ウロキナーゼは阻害しない。 これは大ており、光背裏の刻銘から彼の確実な作品と知 ほ・、ギ 如〔 ( 中願由 られ、貴重である。作風は中国北魏竜門系の様 一迦 ? 与の麦などの穀類、大豆などの豆類、そのほかにも 釈央 , 像 存在する。 〈降旗千恵〉式を取り入れながら、独自な造形感覚で日本的 ・」尊中し造 師中壇、坐に に整斉された「止利様式」を確立している。単 トリフス tribus 々 ' 古代ローマの国民の 仏 . 」趺裏 - 利高堂 " 跏背下部区分。王政時代には、国民はティティエ純な形の大きく張った目、両端がつり上がって 止像金」結光 ス、ラムネス、ルケレスの三トリプスに分かれアルカイック・スマイル ( 古式の笑い ) と称さ 岸の家』 ( 一九七九 ) もその延長に位置するといえ 指腸に達し、ここでエンテロペプチダーゼあるたが、このトリ。フスは元来は血縁的な種族集団れる不思議な微笑を感じさせる唇、板を重ねた であったと考えられる。これに対して、セルウ ように堅く直線的な衣のひだなど、象徴的でカ いはトリプシン自身によって活性化され、 よう。この時期にはまた、ナロードニキのテロ イウス・トウリウス王が始めたと伝えられる後 強く、威厳に満ちており、名実ともに七世紀前 リストを描く長編『あせり』 ( 一九七三 ) 、歴史と現プシンとなる。このとき、トリプシノゲンの z 末端の六個のアミノ酸からなるべプチドのトリ。フスは、地域的原理による区分で、最古半の彫刻界を代表する作家であったことを示し 代を同時に描く長編『老人』 ( 一九七 0 などの問 〈佐藤昭夫〉 の区分は、ローマ市域の四トリプス、周辺農村ている。 題作を著した。没後、人間の運命について語る (H2N-Val ・ Asp ・ Asp ・ Asp ・ Asp ・ LYS) が遊離さ 部の貴族 ( バトリキ ) 氏族の名をもった一六区トリプトファン tryptophan 芳香族 長編『ある時間、ある所』 ( 一九八一 ) が発表されれる。トリプシンは小腸でタンバク質の消化に しんし ーアミノ酸の一つ。ノイマイスター Neumei ・ た。ソ連社会、人間、歴史を構造的に真摯に描重要な役割を担っている。すなわち、ペプシン分であったと推定されている。その後、イタリ ster が一八九〇年に、タンバク質のトリプシ 〈草鹿外吉〉 により胃内で加水分解を受けてできたペプチドアにおいてローマ市民の植民市建設や原住民へ く優れた作家であった。 のローマ市民権付与が進むと新しい領域に新ト ン分解物中のインドールに 回草鹿外吉訳『気がかりな結末』 ( 一九七五・集英は、ト腸において、さらにキモトリプシンとト リプスが設置され、紀元前二四一年には総数三 似た性質を示す物質にトリ リプシンによって加水分解され、小さなペプチ 社 ) ▽加藤弘作訳『川岸の館』 ( 一九七九・社会 プトファンと名づけた。一 ドになる。このペプチドは、さらにカルポキシ五になった。しかし、この後、トリプスが新た 思想社 ) に設置されることはなかった。ローマ市民はか 九〇二年ホプキンズ F. トリプシノケン trypsinogen タンパクベプチダーゼ、アミノベプチダーゼ、ジペプチ すいぞう G. Hopkins とコール S. ならすいすれかのトリプス ( 区 ) 民として登録ン 質分解酵素トリプシンの前駆体。膵臟で生合成ダーゼなどの作用で、最終的にはアミノ酸の混 ア W. Cole により、乳タン され、参政権のほか、戸口調査、課税、徴兵な され、膵液に含まれて十二指腸へ分泌される。合物となって吸収される。↓膵臟↓消化 フ すいえき パク質のカゼインの膵液消 トリプシンは、ペプチド鎖の途中を加水分解ど政治的権利義務はすべてトリプスを介して遂 十二指腸の粘膜に存在するタンパク質分解酵素 化物から単離された。 エンテロキナーゼによって、アミノ末端から六するエンドベプチダーゼの一つで、基質特異性行された。たとえば、ローマの民会の一つ、 トリプトファンはタンパク が高く、ーアルギニンまたはーリジンのペプ リプス民会での採決は一区が二票 ( 老人組一 番目のリジンと七番目のイソロイシンの間のペ プチド結合が特異的に切断されて活性化し、トチド、エステルのカルポキシル基側を加水分解票、壮年組一票 ) をもっ仕方で投票が行われ、質を構成するアミノ酸の一つとして広く存在す リプシンとなる。この活性化はトリプシンによする。最適は八付近である。二 ~ 三で安定ケントウリア民会でも前二四一年以後同じ方法るが、タンパク質中の量はあまり多くない。微 で、そのまま冷所で数週間の保存が可能であが導入された。しかし各トリ・フスの区民数は等生物ではインドールー 3 ーグリセロリン酸にトリ る自己触媒反応によってもおこる。ウシのトリ プシノゲンは分子量二万四〇〇〇。〈降旗千恵〉る。餌五以上では自己消化で失活し、カルシウしくなく、中心市の四トリプスはとくに貧民、プトファンシンテターゼが働いて合成される。 ムイオンで安定化される。重金属、ジイソプロ解放奴隷を多く含む巨大トリプスであったか動物では二つの主要な代謝経路があり、一つは トリ。フ、ンン trypsin プロテアーゼ ( タン ハク分解酵素 ) の一つ。消化酵素の一つで高等ピルフルオルリン酸、トリプシン阻ら、ここへの所属替えはしばしば罰として行わキヌレニンになる経路で、キヌレニンはさらに 害剤によって阻害される。単純タンバク質かられた。前二四一年以後、新市民は既存の三五トキヌレン酸、キサンツレン酸、ニコチン酸、 動物の膵液中に存在する。一八七四年ドイツの O< 回路につながるアセトアセチル補酵素 < に リ。フスのいずれかに登録されたから、新市民の 生理学者キューネ Wilhelm Kühne ( 天三七ー一九なり、ウシのトリプシンは分子量二万四〇〇〇 なる。もう一つは、 5 ーヒドロキシトリプトフ 00 ) が命名した。膵臟で不活性の前駆体トリプの一本鎖ポリペプチドで、等電点一〇・五の新登録は政治的力関係に影響を与え、しばしば 〈弓削達〉 アンから、セロトニン ( ホルモン ) になる経路 アルカリタンバク質である。二二三個のアミノ政争の焦点となった。 シノゲンがつくられ、膵液中に分泌されて十一一 すいえき
を支配するものであった。慈円は現実の世界を「顕」とし、 ことを許されない以上、権力の正当性を表明する対象もまた展開された。 とうこあいぎわせいしさい それに対して、人々の目には見えない超越したこの世界を本来的には支配層に限られていた。したがって、日本の国家後期に至ると、その編纂を継承した藤田東湖・会沢正志斎 などが新たな国家観・歴史認識を展開する。彼らの歴史認識 「冥」の世界と位置づけている。中世に幾度となく書かれたの具体的な歴史事象に対する認識に限定すれば、近世という きしようもん せ はちまん は、ヨーロッパ勢力が外圧として押し寄せ、幕藩体制内部の 起請文には、もし偽りをいったならば、伊勢大神宮や八幡時代に歴史認識を有する者は支配層に限らざるをえないし、 だいばさっ じんぎ 大菩薩をはじめ日本国中の大小神祇、さらには大地をつかさ拡大してみてもせいぜい、そのなかにあって時の権力者とは矛盾も露呈されてきた時点で、支配層が抱いた民族の危機意 - 一うむ みようばっ どる地神に至るまでの「冥罰」をわが身に蒙るべしと記さ 距離のある者、あるいは権力的な歴史認識に対する批判を内識の一つにほかならす、これは、東湖においては尊王攘夷論 れている。ここでも人々よ、、 。しつでも自分たちの言動を注目包した一部の知識層の者にまで広げられるだけであろう。一 の主張として、また会沢においては国体論の主張として展開 しんろん こま、その根底にヨーロッ しているものたちがいることを意識しており、そのものたち方、近代へと移行するこの時代は、民衆が歴史そのものに参された。とくに会沢の著『新論』し。 の照覧が誓約を成立させる大きな力となっている。この加してくる時代、あるいは参加していたはずの民衆がそのこ パ列強に対する劣等感覚を内包した ( それと表裏の ) 優越感 「冥」の世界は、秩序だった神々と仏だけの世界ではない。 とを自覚してくる時代である。このことを踏まえれば、民衆覚が、神話的な「神州」に対する陶酔感として漂っており、 たとえば頻発する火事は「天魔の所為か」とされ、また将軍のなかにたとえ断片的もしくは人物伝的なものであっても、狭量で排外主義的な歴史認識が「情熱的」に表明されてい もとおりのりなが らくちゅう の没落を声高に告げ知らせるものがいて洛中騒動という事そこにはより広い意味での歴史意識、あるいは漠然とした歴る。また、後期水戸学の歴史認識の形成には、本居宣長に発 あったね てんこ 態が起きたときも、それは「天狐のしわざか」ということに史観とでもいうべきものが形成されているはずである。重要し平田篤胤に至る国学の歴史認識と国家観が強く働いてい なことは、そのような歴史意識あるいは歴史観が、民衆のなる。宣長の『古事記伝』における考証学的作風も、篤胤の なってくる。「天魔」や「天狐」、そして『太平記』で縦横に ・ち - ト - うりよう ・一しちょう てんぐ おんりよう じゅじゅっ こよみられず、神道的要素が非合理的・国粋主義 跳梁する「天狗」や「怨霊」などの霊的で呪術的な要素かにどのようなものとして存在していたかをとらえることで『古史徴』し。 をもっ存在をも含めた多様なものによって、「冥」の世界はあろう。 的方向で展開されている。これらが、後期水戸学の歴史認識 形づくられていたのである。 〔支配層および一部知識層の歴史認識〕近世前期におけるも と相まって、幕末期の尊王論者ー維新政権の官僚たちに大き らざん 末法の世になると、現実の世界の動きを支配しているっとも権力者的な立場からの歴史書は、幕府儒官の林羅山・ な影響を与え、近代天皇制国家の権力的な歴史認識日皇国史 ほんちょうつがん 「冥」の世界の道理を認識できなくなり、人々はこの世の移鵞峯父子が幕命によって編纂した『本朝通鑑』と、水戸藩観を形づくっていったのである。 らいさんよう たいせいさんてん り行く方向をとらえきれなくなる。では「冥」の世界とつな なお、『日本外史』を著した頼山陽や、幕末に『大勢三転 が編纂した『大日本史』であろう。「本朝通鑑』は、一般に だてちひろ がり、その意志を計りうるものはまったくなくなってしまう は儒教的合理主義にのっとった編年体の史書とされている考』を著した伊達千広などは、いずれも独自の歴史認識を有 のか。慈円は願文に、「顕」と「冥」が隔たってしまって混が、羅山個人の歴史観を貫くものは儒教的もしくは朱子学的していた。ことに山陽は天皇権威の絶対性、皇室の無窮性を 迷に陥ったなかで、未来を知る手だてはただ夢だけだ、と記合理主義とはいいがたい。羅山の歴史観が率直に表れている主張し、かっ現実の政権交替の不可避性をあわせ述べてお しんとうでんじゅ とうしようだいしんくんねんぶじよ じんぎほうてんじよ している。夢は「冥」の世界から発せられるテレバシーのよのは『神道伝授』や『東照大神君年譜序』『神祇宝典序』な り、これらも幕末の志士たちの行動に一つの歴史認識上の根 うなものと受け止められ、夢告の意味を知ろうとして人々は どであるが、そこでは朱子学的合理主義が有する歴史観の核拠を与えていった。 とうぶほうばっえきせい 大きな努力を傾けるのである。そしてもう一つの手だてが、 心である湯武放伐Ⅱ易姓革命の論理と、その思想的本質であ 以上の史論・史書にみられる歴史認識は、おおむね支配者 かくぶっちち 「冥」の世界からの化身としてこの世界に到来した特別な聖る格物致知は無視され、もつばら天皇家と徳川家の血縁の連的な立場からのそれであると一括しうるが、知識層のなかか 一 ) ういん なる存在である。すべてを予見できる優れた能力をもった予続の論理が貫かれている ( 家康皇胤説など ) 。羅山らにみら らこれらの史観とは根本的に対立する歴史認識を有する人物 しようえき ちゅうちょうじ 言者とされる聖徳太子も、そうした超越的な者の一人であれる歴史観の非朱子学性 ( 神儒習合的性格 ) は、『中朝事も出ている。そのなかでも安藤昌益はもっとも徹底的に反 ぶけじき しぜんしん る。それゆえ彼の予言は、「冥」の世界からの架橋であり、実』や『武家事紀』などで、「天皇が不徳のため統治を武臣権力的な歴史観を表明した者である。昌益はその著『自然真 やまがそこう えいどう とうどうしんでん 二つの世界を結ぶ神秘的な回路と考えられた。 に交替する」という論理を明確に展開した山鹿素行らにも共営道』や『統道真伝』において、支配者 ( 「聖人」 ) が民衆 どんしよく 中世社会を通じて、次々と繰り返し生み出され続けた末来通してみられるもので、彼らのそうした歴史認識には、天皇 ( 「衆人」「真人」 ) から搾取する ( 「不耕貪食」 ) ような治 記には、当時の人々の歴史に対する、こうしたとらえ方が一小を形式上の君主として承認して初めて成り立っ幕藩制国家の世のあり方自体が、歴史上のすべての乱の基であるとして現 されているのである。 〈酒井紀美〉あり方が直接反映していたといえよう。 実の階級社会 ( 「法世」 ) を否定し、本来の人間社会である ③近世における歴史認識 近世中期では新井白石がその著『読史余論』において、儒無階級のユートピア社会 ( 「自然世」 ) を、やがてくるべき 近世においては、権力の推移について具体的で系統的な歴教的合理主義の発想から歴史の発展段階的区分 ( 九変五変社会として想定しており、農民本位の空想的社会主義の歴史 史認識を有する者は、基本的には支配層に属する者だけであ観 ) を試み、武家政権発展の延長に徳川幕府権力が位置する観を表明している。 る。それは、学校という場で歴史を教えられる機会がなかっ ことを主張し、その治世の史的意義を礼賛したことが特筆さ 〔民衆のなかの歴史観〕近世の民衆がどのような歴史観・歴 んたためばかりではない。むしろ歴史認識が、権力者がその支れよう。一方、水戸藩主 ( 二代 ) 徳川光圀が多くの史家に命史意識を有していたかについてはまだまとまった研究はな ま配の正当性を弁明するために行った修史事業のなかで形成さ じて編纂を始めた紀伝体の史書『大日本史』には、南朝を正 。したがって、ここではそれを考えるうえでのいくつかの れたという本質的事情による。しかも民衆が政治に参加する統と主張したり、忠臣・逆臣を弁別するなど独自の尊王論が手掛りを提示し、若干の検討を加えることで今後の素材とす 8 みつくに
ただ ま例があるという但し書つきで、普通次のように規制とトーテム所属の原理は別である。婚姻規っ場合もある。北アメ リカのインディアンの 定義される。すなわち、トーテミズムとは、あ制は出自と世代の原理に基づくが、トーテム所 トーテムボールはその てる人間集団が特定の種の動植物あるいは他の事属は母親が懐妊した場所 ( 妊娠はトーテム聖地 一つである。オースト 物と特殊な関係をもっているとする信仰、制度にいる祖霊が女性の体に入ることと考える ) に ラリアにはチューリン 結び付いている。 であり、その特定種をトーテムという。 ⑤トーテムと人間集団の結び付きの由来を語るガとよばれる石か木で 〔形態〕①トーテムとなるものは動物や植物が だえん 多い。ただしこれには種々の型がある。たとえ神話をもつ。トーテムはその集団の祖先であるつくったほば楕円形で一 トーテムと集団は共通の祖先をもつなどその上に象徴的記号を ばオーストラリアのアランダ族は四〇〇種以上とか、 の親族関係が語られたり、集団の祖先がトーテ彫り込んだものがあ の異なる動植物種をトーテムとするが、アフリ る。↓トーテムボール 力のニョロ族やバヒマ族は牛のみがトーテムとムと親密な関係をもっていたなどといわれる。 〔理論〕トーテミズム 北アメリカのホピ族の野生カラシの氏族はオー なり、各氏族は牛の特定のタイプ ( 赤牛、乳牛 など ) か、牛の体の部分 ( 舌、腸、心臓など ) ク ( 樫 ) 、ミチバシリ ( ホトトギス科の鳥 ) 、戦は一八世紀末に紹介さ をトーテムとする。また各氏族が一つのトーテ士という名をもっているが、それは伝説上の移れて以来多くの研究者 の関心を集めてきた問 住の途中で泣いている子供に出会い、カラシの ムをもっ型と複数のトーテムをもっ型があり、 メラネシアではしばしば各氏族が鳥一種、樹木葉とオークの枝を与えて泣きやませ、そのあと題であるが、きわめて多様で複雑な様相を示す果たしていると示唆する。 ほにゆ - っ これらの諸研究を批判的に継承したレビ・ス 一種、哺乳動物一種、魚一種をトーテムにもでミチバシリ、戦士に出会ったからである。ア文化的、社会的現象であり、トーテミズムの概 トロースは、トーテミズムを、末開と文明を問 つ。動植物のほかに、たとえばオーストラリアナグマとチョウの氏族の名のおこりは、先祖が念についてはもちろん、その意味についてもさ では日、月、雲、雪、雨、火、水、季節などの知り合ったアナグマ人間を連れてきて、そのすまざまな説がたてられてきた。トーテミズム研わず人類に普遍的な人間精神の表れの一つとし 究は、どの側面に重点を置くかによって異なてとらえる。彼によれば、トーテムに選ばれた 自然物や自然現象もトーテムとなる。インドをぐあとで子供の慰みにチョウをつかまえてやっ じゅじゅっ ものは「食べるに適している」、つまり経済的 たからである。しかしそのような神話、伝説のり、大きく、呪術、宗教としてみる立場と、 はじめとして、人工的につくられた物品がトー その社会的側面に注目するものとに分けられに価値があるからではなく、「考えるのに適し テムになる所も少なくない。たとえばインドの類をもたない場合も多い ⑥トーテムと集団との強い結び付きは信仰、儀る。トーテミズム研究の先駆者マクルナンはこている」からである。集団間の関係を他の事物 ビール族でトーテムとなるものは植物一九、動 の関係によって表現するのがトーテミズムの論 礼によって、また情緒的、神秘的に示される。れを動物崇拝に由来する宗教とみなし、マレッ 物一七、物品七 ( 短刀、割れ瓶、村落、とげ付 理であり、社会における集団の分類、違い、対 き棒、腕輪、足首輪、パン切れ ) である。そのたとえば、トーテム動物はその名をもっ集団のトやイギリスのフレーザーは呪術とみたが、い げりおうと ほか睡眠、下痢、嘔吐、性交、さまざまな精神者に好意をもっていて襲わないとか、人間の外ずれにせよ初期のトーテミズム研究は文化進化立といったものと、自然界の動植物間のそれら との間に相同、平行関係をみいだし、前者を後 状態といったことがトーテムにされる例がオー 見や性格がトーテム動物に似ているなどといわ主義的な立場にたって、宗教の起源をめぐる問 、トーテミズムは原始的なも者によって表すのである。たとえばとの氏 れる。北アメリカのチッペワ族では、魚の氏族題として取り扱い ストラリア北東部などにある。 ⑦トーテムは氏族、半族、ホルドなどの集団との者は長命で毛髪が細いか薄い、クマ氏族の者のであり、原始心性の表れと考えた。フランス族がそれそれタカとカラスをトーテムとすると いうことは、氏族と氏族の関係のあり方は カ長くて黒くて濃く、また気質が怒りつばのデュルケームは、トーテミズムをトーテムと 結び付く。そのほかオーストラリア南東部には いう物質的なものに象徴される非人格的なカタカとカラスの関係のあり方と同じ、具体的に く戦闘的、ツルの氏族は声がけたたましく弁舌 性によるトーテムがあり、男はコウモリを、女 はキツッキをトーテムとする。また北西アメリ 家であるといわれる。自分のトーテムは、殺し ( マナ ) に対する信仰であり、宗教であると説はとは一方では敵対し、他方では婚姻を通 くと同時に、その社会的起源を強調し、トーテして連帯する同じ部族であるという関係が、タ カ・インディアンの間では個人が特定のトーテたり、採集したり、食べたりしないという禁忌 ムをもっこともある。ただし個人トーテムは単は広くみられる。オーストラリア北部では自分ムは社会の象徴、「旗」であり、社会的結合カカは生肉を食べカラスは腐肉を食べる点では対 、こ。トーテミズムの社会的立し、ともに肉を食べる鳥という点では同じで のトーテムだけでなく、父、母、祖父のトーテとしての役割を説しオ に守護霊だとする考えもある。 3 集団はそのトーテムの名でよばれる。たとえ ムを食べることも禁じられている。ときには見側面に注目する見方はゴールデンワイザーに始あるという関係に類比されるのである。 なお、心理学者フロイトのトーテミズムの解 ばオジプワ族にはツル、アビ、クマ、テン、ナること、触れること、その名を口にすることすまるが、デュルケームを経てラドクリフ・プラ そうかん ら禁止されている。インドのオラオン族で、鉄ウンに受け継がれた。彼は基本的にはデュルケ釈も有名である。彼はトーテミズムを近親相姦 マズの名がついた五つの主要氏族がある。しか ームの説を踏襲し、トーテムは集団の統一の象の禁止と関連づけ、絶対的権力をもち女性を独 し集団がトーテムとは別の名でよばれることもをトーテムとする人々は、唇や舌で鉄に触れて しかし、これらの禁忌を伴わない 徴であり、人々はこの信仰をめぐる儀礼を通し占していた父 ( 原父 ) を息子たちが殺害した 少なくない。たとえばポリネシアのティコピアはならない。 が、彼らはそれを後悔し、トーテミズムという 島では、四氏族がそれそれタロイモ、ヤムイ例もまた多い。オジプワ族では、トーテム動物て集団の連帯性、持続性を確認するという。し かし、トーテムとして特定の動植物が選ばれる機構をつくり、トーテム集団内の婚姻を禁止し モ、パンノキ、ココヤシと特殊な関係にあるは自分の名の氏族の狩人に好んで撃たれるとい 〈板橋作美〉 が、それらの名でよばれてはいない われる。トーテム集団はトーテムと集団の関係理由について、トーテムは集団を代表するものたのだとする。 は集団トーテミズムの場合、同じトーテムをもを物語る神話を儀礼によって再現したり、定期として選ばれたがゆえに儀礼的に重要視される回レヴィⅡストロース著、大橋保夫訳『野生の というデュルケームの説を退け、逆にトーテム 思考』 ( 一九七六・みすず書房 ) つ者の間では結婚しない、つまりトーテム集団的にトーテムへの崇拝儀礼を行う。オーストラ リアでは自分のトーテムの聖地へ行ってその種は他の理由で重要だから選ばれたのだとする。 が外婚単位となる。これはトーテム所属がたい 、ール totem pole 北アメリ トーテムボ てい出自原理に従うからである。しかしこれに の増殖儀礼を行うことがよくみられる。 すなわち、トーテムに選ばれたものは経済的そカ北西海岸のトリンギト族、クワキウトル族、 も例外は多い。たとえばアランダ族では、婚姻 ⑦自分のトーテムを表す標識、図案、彫刻をもの他の価値をもち、社会のなかで重要な役割を ハイダ族、チムシアン族などでつくられる特異 トーテムボール アメリカ合衆国 , アラスカ州のランゲル市 126
ものの歴史を学ぶこと 今日の建設産業は、経済大国となったわが国のの一割近くを占める。それを基盤に、建築ジャーナリズ ムも盛んで、毎月美しい写真を満載した分厚い雑誌が十数種刊行されている。しかし、ジャーナリズムの常とし て、新奇なものだけが紹介されるので、同し建築が多くの雑誌に併載されるのに、だいしなもので見落とされる 場合も少なくない。華々しく紹介される「間題作」に若い建築科の学生たちは目を奪われる。流行作家の講演に は、ドッと人が集まる。情報化社会の「情報」の威力といおうか。これはどこの世界にも共通のことなのだろう。 くトッフの座に近づけると 古いものにこだわっていては老人たちにかなわぬ、先端を行くものをつかめば、早 いう打算が働いているのかもしれないが、新しいものに敏感であるということは、若者の特権である。既成の体 系にわすらわされす、新しい見方、新しい価値体系のネットワークを柔らかい頭脳の中に築き、より進んだ創造 の足場をつくるーーーということは、若者のみのなしうることだ。 しかし、その「新しいもの」だけで豊かな未来が創造できるわけではない。人類が長い歴史の過程で獲得して きた英知の蓄積を無視しては、それを凌駕する創造はできない。私は若い研究者たちにいつも、過去の蓄積を早 くマスターするために、ものの「歴史」を学べといってきた。自然科学の「真理」でさえ歴史的に発展・変化し てきている。それがどのように変わってきたかを知ることは、新しい創造への大きな手がかりでもある。 ところが「歴史」の叙述はたいてい現代に近づくと不親切になり、ときに一面的な評価しかみられない。現代 を論するのは歴史学者ではなく「評論家」である。だから現代の歴史は自ら学んでつくるよりほかはない。むろ ん歴史はそのとりまとめの根底になっている「史観」によって異なってくる。一つの評価に無批判に乗っかって いては危険である。多面的な学習が必要となってこよう。 私の建築科学生時代には、今とくらべて格段に情報が不足していた。歴史上有名な建築物でも不完全な絵や写 真で紹介されていただけである。当時欧州で起こっていた「近代建築」の運動に学生たちは興味をもったが、せ いぜい白黒の写真でしか見ることができす、どんな色がついているかわからぬまま、むしろ白黒のコントラスト に美を感していた。情報化社会の今日、こんなばかげたことはない。研究者もふえ、研究水準も高まり、新しい 発掘や発見が次々と出、歴史の空白も埋められつつある。こうした時代に、人類の英知ともいうべき過去の成果 や知識を広く求めて活用することは、豊かな未来の創造に欠かせぬ前提である。しかし、情報過多の時代にすべ てを検証することは困難である。その中から何を学ぶべきかが重要な間題となる。これをうまく選択できるのも、 若者の特権の一つであろう。 百科事典・百科全書といったものは、広い視野をもって物事を学ほうとする者にとって、たいへんありがたい ものだと思う。 ( 西山夘三 ) にしやまうぞう
にほん 日本 / 植物相 写真の解説にある区系区は本文中の三つの区系区に 準する。図は地方的植物区系を示す ブナ〔日華区系区〕ブナ林は日本の温帯を代表する森林 工ゾツッジ〔極地・高山区系区〕オホーック海沿岸 , カ シラネアオイ〔日華区系区〕日本特産種。本州 , 北海道 である。関東地方以西では , シイ , カシなどを主とする 南部の温帯から亜高山帯の多雪地に自生する ムチャッカ , アラスカなどに分布する。日本には氷期に 南下したと考えられ , 陸中と北海道に自生する 常緑広葉樹林となる ガクアジサイ〔日華区系区〕別図にある「フォッサ ・マ コウヤマキ〔日華区系区〕別図にある「ソハヤキ地域」 を特徴づける日本特産の針葉樹林である。この地域には グナ地域」を代表する種 日本固有の種が多い サンカョウ〔日華区系区〕北アメリカ北東部のアバラチ ア山地に近縁種をもつ植物の一つ。かっては両地域に共 通性の高い植物相がみられたと考えられている 日本の植物区系の例 ( 左上 ) キレンゲショウマ〔日華区系区〕コウヤマキと同様に「ソハヤキ 地域」を代表する特異な植物。朝鮮半島にも分布する ( 左下 ) ワダンノキ〔東南アジア区系区〕小笠原諸島の植物相は琉球諸島 のそれに類似するが , 本種は小笠原諸島の固有種である ( 右上 ) ヒルギ〔東南アジア区系区〕旧世界の熱帯に広く分布し , マング ロープという写真のような独特の植生をつくる Y ーえぞ・むつ地域 K ー -- - 関東地域 」一日本海地域 F ーフォッサ・マグナ地域 M ー美濃一三河地域 S ーソハヤキ地域 A ー阿哲地域 R 一琉球地域 注 : 前川文夫 B ー小笠原地域 ( 1974 年 ) による 500km 825
なつめそ しなの たんご た。九歳のとき養父母が離婚したため夏目家に 夏目漱石 / 年譜 薬用や食用として、信濃 ( 長野県 ) 、丹後 ( 京ナツメグ nutmeg ニクズク ( ニクズク科 みま寺一か 算用数字は月または月・日を表す 都府 ) 、因幡 ( 鳥取県 ) 、美作、備前 ( ともに岡の常緑高木 ) の果実の種子。古くから却荳蒄と帰ったが、父母はかならすしも温かく迎えなか 山県 ) 、阿波 ( 徳島県 ) から献上と載り、当時栽よばれた漢方薬でもあり、肉料理の主要な香辛った。肉親の愛に恵まれなかった幼時の原体験 1 ・ 5 ( 新暦 2 ・ 9 ) 江戸牛 天六七慶応三 培が広まっていたことがわかる。また、『延喜料の一つ。インドネシア、モルッカ諸島が原産は漱石を他人の愛情に敏感な内向型の人間に育 込馬場下横町 ( 現東京都新宿区牛込喜 じ、よう・う であるが、現在ではモルッカのほかに西インドて、また、肉親のなかにさえ他者をみる非情な 式』には、正月上卯の日に供進された悪気払い 久井町 ) に誕生。本名は金之助。里子 みづえうづえ に出され、翌年塩原家の養子となる の御杖 ( 卯杖 ) の一つにヒイラギ、ウメ、モモ諸島のグレナダ島やスリランカを主産地とす人間観を培った。後年の漱石文学が愛とエゴイ 天七六明治九生家に帰る ( 復籍は一公八 ) などとともにナツメがある。ナツメやイヌナッる。開花後約六か月で果実が成熟して割れ、中ズムの種々相を描くことになる遠因の一つであ にしよう 一一明治一四 1 実母千枝死去 4 ごろ東 メなどはインドでは古くから薬用にされ、『チから鮮やかな深紅色疎網状の仮種皮に包まれたる。初めは漢学好きの少年として二松学舎など 京府立一中から一一松学舎に転校、漢学 に学んだが、成立学舎を経て大学予備門 ( 東京 ャラカ本集』 ( 二世紀ごろ ) には下剤、発汗、黒褐色の殻が出てくる。この仮種皮が香辛料の せん を学ぶ メースで、仮種皮をはがして乾燥させた殻を割大学教養学部 ) に進むころから英文学研究を生 強壮、催精などの処方箋が載る。仏典による しやか 一〈〈四明治一七 9 大学予備門 ( 東京大学教 涯の仕事として選び、一八九〇年 ( 明治一一三 ) と、釈迦はナイランジャナド川のほとりで断食った中の褐色大粒の種子がナツメグである。 養学部 ) に入学 に帝国大学文科大学 ( 東大文学部 ) 英文学科に 漢方では下痢、腹痛に用い、母乳促進、消化 苦行に入ったおり、初めは一日にナツメの実を まさおかしき 一〈兊明治二一一 1 正岡子規を知り、俳句の 一粒ずつ、のちに米を一粒ずつ、ついでゴマを促進に効果があるとしていろいろな処方に配合入学した。予備門時代に正岡子規を知り、漢詩 りつくんしとう にしんたん 手ほどきを受ける 一粒ずっとったあと断食したと伝わる。中国でされる。二神丹 ( 食欲増進 ) 、六君子湯 ( 下痢文を介して親交を結び、俳句の手ほどきを受け つうせんさん そうずくさん 一〈九 0 明治二三 9 帝国大学文科大学 ( 東大 も、栽培のもっとも古い果樹の一つで、『詩経』止め ) 、草荳蒄散 ( ロ臭止め ) 、通泉散 ( 母乳促た。九三年大学を卒業、一時大学院に籍を置い 文学部 ) へ入学 らいき たが、東京高等師範学校講師、第五高等学校教 進 ) などが有名であり、芳香健胃剤としてもよ に果実の収穫期が、ネ言』に材の堅さが書か 一〈九一一明治一一六 7 文科大学英文科卒業 く用いられる。大量に ( 大さじ一杯以上 ) 食べ授を経て、一九〇〇年 ( 明治三三 ) には文部省 れ、『史記』の「貨殖列伝」には、ナツメの千 東京高等師範学校英語教師に就任 まひ 本は千戸の領主に匹敵すると出る。〈湯浅浩史〉ると強い催眠と知覚麻痺に襲われ、と同から英語研究のためイギリス留学を命じられる 天会明治一一八 4 松山中学教諭として松山 うすちやき まっちゃ へ赴任 棗なつめ抹茶を入れる茶器。薄茶器の一種様の時間・空間の失覚や非実在的幻覚をおこすなど、英文学者としての道は順調に伸びていっ しんきこうしんおう 一八九五年から翌年にかけて愛媛一〈突明治一一九 4 松山中学を辞し、第五高 で、主として薄茶を入れる漆塗り製の茶入であが、頭痛、めまい、のどの渇き、心悸亢進、嘔た。その間、 こいちゃ 等学校講師として熊本へ 6 中根鏡子 県の松山中学校の教師を勤めたが、その体験は るが、黒塗りのものは袋に入れて濃茶を入れる吐のような後遺副作用はないという。 と結婚 7 五高教授となる 『坊っちゃん』 ( 一九 0 六 ) に生かされている。 ナツメグのスパイシーで甘い刺激性の香りは ことがある。その形姿が植物のナツメの実に似 だえん 一九 00 明治三三 9 イギリス留学へ出発 〔小説家の誕生〕イギリス留学は足掛け三年に メースとよく似ているが、味はまろやかなほろ ているところからの呼称。総体は楕円形である ふた 香辛料とし及んだ。帰国後、一九〇三年 ( 明治一 = 六 ) に第究 0 = 明治三六 1 帰国、東京へ 4 第一高 力、たしたい上部三割のところで蓋と身が分か苦さがあって、メースよりは強、。 等学校兼東京帝大英文科講師 一高等学校教授に就任、兼ねて文科大学の講師 れるようになっている。↓薄茶器〈筒井紘一〉ては、肉の生臭さを消す矯臭作用が非常に強い この年しばしば神経衰弱に悩まされる として英文学を講じた。大学での講義をまとめ ナツメカイ〔棗貝〕 shiny bubble shell ので、肉料理、とくにひき肉料理には欠かせな 一九 0 五明治三八 1 『吾輩は猫であるズー実・ 、ノヾーグ、ミートボール、ロールキャベた『文学論』 ( 一九 0 七 ) と『文学評論』 ( 一九 0 九 ) \ B ミぶミこぎ軟体動物門腹足綱ナッ 8 ) 、「倫敦塔』を発表 は、日本人の手になる最初の英文学研究として メガイ科の巻き貝。本州中部以南に分布し、潮ツ、コロッケ、メンチカッ、ミートソースには 一九 0 六明治三九 4 「坊っちゃん」発表 9 間帯下の海藻の間にすむ。生時は殻は軟体に包かならず用いられる。また、ジャガイモ、キャ評価が高い。しかし、漱石自身は早くから東洋 「草枕』発表 まれウミウシ状。殻高四三ミリ、殻径三〇ミリに達ペッ、ホウレンソウ、カプなどの野菜の甘味をの伝統的な文学精神と英文学のパトス ( 情念 ) 一九 0 七明治四〇 4 朝日新聞社に入社 5 「文 との矛盾に悩み、日本人として異国の文学を研 し、殻は長卵形で、ナツメの実に似ているので引き出す効果もあるので野菜料理にも用いるは 学論』刊 6 「虞美人草』連載 ( ー ) らそう か、プディング、ケーキ、クッキー、ドーナ究することの困難と不安を感じ続けていた。教 9 ごろより胃病に悩む この名がある。殻はやや厚く、螺層は内に巻き 一九 0 〈明治四一 6 「文鳥』連載 7 「夢十夜』 ン、パイなどの菓子類の風味づけ、アレキサン師生活にも耐えがたい嫌悪を覚えるようになっ 込んで外からは見えない。殻表は平滑で光沢が しようはん 連載 ( ー 8 ) 9 『三四郎』連載 7 怩 ) た。加えて、一八九六年に結婚した妻鏡子との あり、桃褐色の地に黒褐色の小斑が密に分布ダーやエッグノッグなどのカクテルにも愛好さ 一九 0 九明治四一一 「永日小品』連載 ( ー 3 ) する。また、三本の暗褐色帯を巡らす個体もあれるなど用途は広い。普通、乾燥粉末状で市販不和、旧養父母との金銭上のトラブルなど家庭 6 「それから』連 3 「文学評論』刊 されているが、原形 ( ホール ) のナツメグをお内の心労も重なり、学生時代からの神経衰弱が る。殻頂に小さい穴がある。殻ロはやや広く、 高じて、強度の発作に悩むことも多かった。当 〈奥谷喬司〉ろし金でおろしたものは新鮮な芳香を楽しむこ 内面は白い。 一空 0 明治四三 3 「門』連載 ( ー 6 ) 8 転 とができる。 3 しニクズク 〈斎藤浩〉時の危機的な日々はのちに『道草』 ( 一九一五 ) で あんうつ 地療養のため修善寺へ行き、大量吐血 描かれるが、そうした暗鬱な心情のカタルシス 夏目成美なつめせいび 0 成美 わがはい して人事不省に陥る として書かれたのが、処女作の『吾輩は猫であ 夏目漱石なつめそうせき ( 天六七ー一九一六 ) ナい」れ、つ 一九 = 明治四四 2 文学博士号を辞退 説家。本名金之助。応三年一月五日 ( 新暦一一る』 ( 一九 0 五 ~ 0 六 ) である。自他を含めて、現実 「彼岸過迄』連 一九一 = 明治四五・大正一 月九日 ) に江戸牛込馬場下横町 ( 東京都新宿区の地平に集う衆愚の生活相が鋭く風刺され、辛 怩「行人』連載 ( ー一三・ 辣に笑い飛ばされている。近代文学に類のない 牛込喜久井町 ) に生まれた。 一九一四大正三 4 「こ、ろ』連載 ( ー 8 ) ュ一一ークな作風で、闊達自在な語り口と相まっ 〔生い立ち〕父は同町一帯を支配する名主小 一九大正四 6 「道草』連載 ( ー 9 ) ひょうえなおかっ 兵衛直克、母千枝との五男三女の末子であって多くの読者を集め、小説家としての地位を不一九一六大正五 5 「明暗』連載 ( ー中絶 ) ロンドンとう まばろし 怩・ 9 胃潰瘍のため永眠。雑司ヶ谷墓 動のものにした。併行して『倫敦塔』や『幻影 た。父母晩年の子として疎まれ、生後まもなく 地に埋葬される の盾』 ( ともに一九 0 五 ) などのロマンチックな短 里子に出され、続いて塩原昌之助の養子になっ ナツメガイ らっ かったっ しん 519
たにかわてつ 北方からの民族集団と、中国大陸からの渡来による民族集団料 んる。日本は、アメリカの核戦略に積極的に加わり、近年の日素な造型に代表される二つの流れが交錯していると、谷川徹 が、重層的に混血を続けて形成されたとされているが、それ ほ米共同作戦演習は、日米安全保障条約の許す範囲を超えて展三が指摘している。また各分野において海外からの影響が認 に開されている。日本本土には、米軍の核戦略通信基地がめられる。しかし、ここでは、個々の分野における伝統につぞれの系統の文化要素が、民族の形成とともに重層的に日本 いてはそれそれの項目に譲り、日本文化の全体について認め文化の基盤になっている。封建体制の展開と戦国の動乱を経 置かれている。 られるその特質を、洗練された部分ばかりでなく、広く常民ての天下統一、そして江戸幕藩体制による地方の整備によっ 日本の社会は、それほどに軍事化しているわけではない。 て、地方文化の拠点が各地に形成され発達した。そのモデル 文化をも含めて検討しておくことにする。 しかし、国民の大多数は、政治、経済、軍事面で進行してい は、四方を山々に囲まれた盆地状の地形にみることができょ る軍事化を静観している。その静観は、ナショナリズムによ〔同質性〕現在の日本文化は、国民文化としてみると、かな ぶんすいれい る積極的支持でなく、大国意識による消極的支持ではあろり強いまとまりー文化統合を示している。これは、本来島国う。周囲七方の分水嶺から水を集め渓谷をつくり、盆地底で ひらじろ う。国民は中流意識と大国意識とをもち、生活保守主義で生である日本が、一民族、一言語、一文化伝統という統合を長一つの川になって一方へ流れ出る。盆地底には平城があっ かんげき い歴史のなかでつくりだしてきたこと、それを背景として今て、城下町が物資と情報と人々を集める。これが盆地を中心 きており、国際化、情報化を楽しんでいる。その間隙で軍事 化が静かに進んでいる。国際化と情報化をもって、生活基盤日の日本文化があることは否定できない。江戸時代の二五〇とした地域的まとまりの基本型であるが、現実には盆地底に を確実、快適にし、人々の心を豊かにしていく方向をとるの年にわたる鎖国という事態が、文化の統合を強める地盤をつ湖ができたり、盆地が大きい川の流域に沿って連鎖状につな くり、さらに明治以後の近代国家としての発展のために、政がる場合もある。また海岸線ではこの「すりばち状」の形が か。それとも、中流意識と、それに根ざす大国意識とによっ て、軍事大国化の方向を静観し、これを容認していくのか。府が意図的に国民文化の形成を推進したことによって、この半分になり、あと半分は海になっているとみなしてよい。日 強いことはよいことだと国民が思い始めているとしたら、戦均質性は生み出された。すなわち、明治初年以来の、国語の本文化にはこのような地方文化の単位 ( 小盆地宇宙 ) が約一 しんとう 〈初瀬龍平〉標準化、神道の国教化、天皇の神格化、国歌・国旗の制定な〇〇ほどもあると考えられる。 後日本社会は根本的に覆ることになろう。 どが、国民皆兵、学校義務教育、納税の義務などとともに進〔多様性そのニー階層的部分文化〕一つの文化はそのなかを 回経済企画庁編『国民生活白書』各年版 ( 大蔵省印刷局 ) いくつかの下位の文化に分けて考えることができ、それを亜 ▽初瀬龍平編『内なる国際化』 ( 一九会・三嶺書房 ) ▽今井められた。その結果、日本文化は世界でもまれにみる同質性 賢一著『情報ネットワーク社会』 ( 岩波新書 ) ▽林紘一郎の高い文化という側面をもつに至ったのである。事実、一億文化 ( サプカルチャー ) あるいは部分文化 ( パートカルチャ ー ) という。日本の地方文化も日本文化全体に対してその部 著『インフォミュニケーションの時代』 ( 中公新書 ) ▽亀数千万人を超える人口を擁した一民族、一一一 = ロ語、一文化伝統 井淳著『週刊誌の読み方』 ( 一九会・話の特集 ) ▽世を「たてまえ」としている国民文化は、ほかには見当たらな分文化であるが、他方、士農工商の身分階層的な部分文化が それぞれ独自に発達して、現代の日本文化の基礎になってい そしてこの「たてまえ」が真実であると思い込まれてい 論調査部編『現代日本人の意識構造』第二版 ( 一九会・日本 放送出版協会 ) ▽博報堂生活総合研究所編『「分衆」の時る側面もある。近代の学校教育や、最近のマスコミの発達がることも認められる。すなわち、儒教倫理を基礎とした武家 はっと 法度や村方の掟に拘束されている士農の農村的文化に対し 代』 ( 一九会・日本経済新聞社 ) ▽山口貴久男著『戦後にみ同質性を促したことも見逃せない。 かたぎ る食の文化史』 ( 一九〈三・三嶺書房 ) ▽前田寿夫著『市民版〔多様性その一ー地域性〕しかしその反面、日本はその文化て、職人気質や商人道に代表される都市的文化の伝統は日本 伝統に多様性を生む条件が存在している。まず、四つの島をの部分文化である。たとえば、武家の主家大切の観念は近代 防衛白書』 ( 講談社文庫 ) 主とする列島は、南北に長く延びた地形をもち、亜寒帯から官僚の国家への献身的奉仕のなかに継承されたし、農民的な 文化 温帯を経て亜熱帯に及ぶ気候帯を含んでいる。さらに中央を勤勉さと片隅の幸福を守ろうとする自己防衛的保守性が現代 は」一」わ やよい いくつかの火山帯が走っていることサラリーマンの行動規範として生きている。職人気質の伝統 日本文化は、縄文・弥生期の土器、埴輪にみられる古代の山脈が走っていること、 あすか はくほうてんびよう などが、その風土の多様性をつくりだしている。日本海側のが現代に至る高度の技術を支えている技術者の精神となり、 美をはじめとして、飛鳥、白鳳、天平以来の建築や彫刻、 こ始まる和歌と、その発展から生深い雪国から、黒潮の洗う太平洋に面した温暖な東海ー南海商人の倹約勤勉の精神は西洋のプロテスタンティズムに肩を あるいは『万葉集』の歌謡し 並べて今日の日本の繁栄の基になっている。このような士農 まれた俳句のような独特の短詩型の詩歌、世界最古の小説と地方まで、あるいは台風通過が多い沖縄から、梅雨のない北 ぜあみ ちかまっ いわれる『源氏物語』に続く文学、世阿弥の能や近松の戯曲海道まで、さまざまな自然があり、それに対応した地方色豊工商の身分階層による部分文化を備えていたのだから、日本 をもっ演劇、独特の発展を示した庭園など、豊かな有形の文かな文化伝統が各地に育っている。それを反映して生業も基はきわめて複雑な社会、いわゆる複合社会である。そして日 ~ いちょうくう力い 化遺産がある。また、聖徳太子、最澄、空海、そして鎌倉本的には農業国としての歴史をもっているが、西南日本がイ本文化は、地域的な多様性に加えて、このような士農工商の はうねんいつべんしんらんえいさいどうげんにちれん 時代の法然、一遍、親鸞、栄西、道元、日蓮ら仏教諸宗の開ネ・ムギの二毛作など多毛作が可能なのに対して、東北日本部分文化の伝統の複雑な構成を背景にもっている。さらに階 もとおりのりなが 祖たちゃ、国学の本居宣長などの独自の哲学を残した思想では一年一毛作で長い冬の農閑期をもってきた。こうした生層生についていえば、江戸時代まではこの「四民」の別に加 せきたかかず えて、京都の天皇家を中心とする宮廷文化の伝統と、身分的 家、また和算の関孝和などにみられる思想、精神的な文化伝活ー生業の地方差は、方言にも豊かな地方差をつくりだし、 に最下層に位置づけられていた被差別民の文化を伴っていた 統が、優れたものとして海外でも高く評価され、しだいに世年中行事にもまた地方差が著しい このような地方文化は、まず日本人の民族としての形成史ことも見逃せない。身分制は明治維新以来の近代化の過程で 界全体の文化遺産となりつつある。 日本文化の系譜には縄文的な荒々しい造型と、弥生的な簡と関係している。すなわち、日本人は、南からの民族集団、「四民平等」が宣一一 = 口され否定されたが、その遺制は末解放部 おきて
ないぞう 〔図 B 〕 せんせつ てんぶく 日本国刑法は「政府ヲ頑覆シ又ハ邦土ヲ僭窃 の球を多面体の内接球という。多面体のすべて これを一般化して、・ヘクトル空間の任意のべ びんらん シ其他朝憲ヲ紊乱スルコト」を目的とした暴動 クトル象みに対して実数 (a,b) が定められの頂点がすべて一つの球面上にあるとき、その を内乱と規定し、その首謀者には死刑または無 ていて、右の条件を満たすとき、 ( をは。球を多面体の外接球、多面体を内接多面体とい 〈山崎カヲル〉 〈柴田敏男〉期禁固の重刑を科している。 う。↓外接 とわの内 ) 惧とい , つ。 たいくう ないそう体腔の中にあって、それだ 一方、単位座標べクトル象象 が右手系内戦ないせん civil war 内乱ともいう。内臓 国家と国家との間でなされる対外戦争 ( 外戦 ) けを取り出すことのできる、ある程度独立した をなすとき、二つのべクトル ひぞう とは異なり、一国の枠内で対立する勢力が国家器官をいう。古くは脳、心臓、脾臟、眼球など 権力の掌握を目ざして行う社会的規模での武力もこれに含めていたが、現在では、脳は神経 に対して、これから定まる 積 2 系、心臓と脾臓は血管系、眼球は感覚器系の視 衝突である。複数民族国家内で、一民族が支配 というべクトルをとわの外積またはべクトル的民族に対して独立・解放のために行う戦争覚器に属させている。したがって、内臓学とし て対象とする内臓は、消化器系、呼吸器系、泌 、 axb と書く。象わの一方が他方も、内戦とよばれることがある。 積といし のなす角を〃とすれば、余弦定理によって 内戦の事例としては、固有名詞的に the Civil 尿・生殖器系、内分泌器系に属する器官とな ( b) Ⅱ可 cos 0 のスカラー倍になっているとき、 x 6 Ⅱ 0 と なる。そうでないとき、外積 axb は次のよ war とよばれる、イギリスのチャールズ一世る。これらの内臓には、実質性臓器と中空性臓 が成り立っ ( 図参照 ) 。とくに、 ( 。 ) Ⅱミ「 と議会の戦い ( 一六四 = ~ 四九 ) 、アメリカの南北戦器とがある。実質性臓器とは、その臓器特有の うにして、わから図形的に定まるべクトルに である。さらに、とわが垂直であるとき 細胞が集合して実質を構成しているもので、肝 ~ 六五 ) をはじめとして、フランスのバ なっている。図において、Ⅱ OA , Ⅱ OB 争 ( 一会一 ( b) Ⅱ 0 となり、气わが単位べクトルのと せん リ・コミューン ( 天七 l) 、革命後ロシアの国内臟、腎臟、精巣 ( 睾丸 ) 、卵巣、甲状腺、下垂 き ( 0 、 ) Ⅱ cos 0 となる。たとえば、し として、右ねじを平面 O<tn の O のところに立 体、副腎、胸腺などが含まれる。これらの実質 —lll) 、一九二一 ~ 四九年の間三次に 象 % を単位座標べクトルとしているが、このてる ( したがって、ねじはこの面に垂直とな戦 ( 一九天 る ) 。このねじを。からわへ一八〇度以内で回わたって行われた中国の国共内戦、人民戦線政性臓器は、分泌機能ももっている。また、実質 こレ」は、 の中には結合組織が入り込んで、間質あるいは したとき、ねじの進む方向に点 O をとり、 OC 府とフランコを指導者とする反乱軍との間に行 (ei,et)=l, を , 0 ) Ⅱ 0 ~ 三九 ) などがあげら支質として実質の保護や支持の役を果たしてい ( i こⅡ 1 , 2 , 3 i*j) の長さが OA, OB を二辺とする平行四辺形のわれたスペイン内戦 ( 一九三六 る。中空性臓器とは、管とか嚢を形成するもの と書き表すことができる。このような性質をも面積一一 bIsin0 (O=ZAOB) に等しくなるれる。 第二次世界大戦以降は、第三世界で多く発生で、そのもっとも内壁には粘膜、その外側には っ座標べクトルの組は、また内積に関する一つようにする。このとき、。 x b =OC と表せ しようまく しているが、その多くは、東西対立を背景と筋層、最外層には漿膜あるいは外膜の層があ る。外積については次の法則が成り立つ。 の正規直交系であるともいわれる。内積につい いんとう ー b x 0 る。中空性臓器には、咽頭、食道、胃、腸管、 し、民族解放連動の要素を含んだものである。 3 〕 0 X b ー ては次の法則が成り立つ。 ・一うとう 西サハラ、エルサルバドル、レバノン、チャ喉頭、気管系、尿管、胼胱、尿道、精管、卵 ⑩任意のスカラーんに対して ① ( a,a) Ⅳ 0 〈嶋井和世〉 ド、ニカラグア、カンポジア、フィリピンなど管、子宮、腟などが含まれる。 ( 守 ) x 6 Ⅱ k(a x b) もし ( a) Ⅱ 0 なら、。Ⅱ 0 である では今日でも継続中である。 ( 0 十 b) x c Ⅱ x c 十 b x c 国際法からすると、内戦は国内 また、内積と外積について次のような代表的 ③任意のスカラーんに対して 問題であり、外国政府は当事者双 ( 守、 ) Ⅱミ b,a) な関係式がある。 方への非干渉を原則として求めら 回 (a,bxc)=(b,cxa)=(c,axb) 〈高木亮一〉れるが、現実には軍事援助、さら には武力干渉という形で外国が介 内接ないせつこの用語は外接と対をなし て多様な意味に用いられる。まず、二つの円が入する例は多い。ロシアの国内戦 ただ一点を共有し一方の円が他方の内部にあるも外国からの軍事干渉と不可分な とき、前者は後者に内接しているという。また、状態で行われたし、スペイン内戦 二円に共通な接線が引けて二円がその接線の反もドイツ、イタリアの支援がなけ 対側にあるとき、その接線を共通内接線という。ればフランコ車の勝利は不可能で 二つの球についても、二球がただ一点を共有しあったといわれる。 反政府勢力が政府機構を備え、 一方の球が他方の内部にあるとき、前者は後者 に内接しているという。次に、多角形の各辺が実質的な政府機能をもっ場合、国 すべて一つの円に接しているとき、その円を多際的に交戦団体として承認され、 角形の内接円といい、多角形をその円の外接多国際法上の資格を与えられること がある。内戦はしばしば大量の流 角形という。一方、多角形の各頂点がすべて一 つの円周上にあるとき、その円を多角形の外接血を伴うが、一九四九年のジュネ ー。フ条約により、一般住民や戦傷 円といい、多角形はその円に内接するという。 病者への人道的配慮が義務づけら 多面体についても、各面がすべて一つの球に 接するとき、その多面体を球の外接多面体、それている。 接 内 その じん 円の内接 共通内接線 ・一うがん 内接円 外接円 375
とっせん 突然変異 〔図 A 〕分子レベルにおける突然変異の型 0 正常な塩基 0 変化した塩基 →変化をおこした位置 また、アメリカ援助物資の払下げ代金を新設の突然変異とっぜんへんい mutation 生物のもっ遺伝情報によってつくられる酵素眼球症がそれそれ一〇〇万回に一回くらいの割 「見返り資金特別会計」に集中して、それを復にみられる種々の変異のうち、遺伝子の量的まやタンパク質がつくられなくなったり、活性が合でおこる。 x 線や線、紫外線などの放射線や種々の変 消失したりするような変化が現れる。このよう 金債の償還原資として運用する措置がとられたは質的な変化によって生じた変異をいう。し たがって突然変異は、それが致死作用をもってな一つの遺伝子の作用に影響を与えるような突異原性化学物質、発癌物質などを作用させる と、突然変異の頻度が人為的に上昇する。この いない限りは子孫の細胞や個体に伝えられる。然変異を遺伝子突然変異 gene mutation また この結果、闇物価は一九四九年初頭をビーク ような人為的に誘発された突然変異を誘発突然 ただし、すでに存在する遺伝子の分離や遺伝的は点突然変異 point mutation という。 に下落し、物価は急速に安定したが、さらにこ 遺伝子の存在する染色体の構造や数の変化に変異 induced mutation という。そのときの れを国際物価にさや寄せさせるために、やがて組換えによって新しい形質が現れる場合は含ま かわせ 突然変異の頻度は、使用した放射線の線量や照 一ドルⅡ三六〇円の単一為替レートが設定されれない。突然変異のことばを生物学上で初めてよって生ずる突然変異を染色体突然変異 chro- mosome mutation または染色体異宀吊 chromo- 射時間、化学物質の濃度や処理時間などに比例 た。この為替レートは六八年まで続いた。こう使用したのはオランダのド・フリース H. de して増大する。 ー一九三五 ) で、オオマッョイグサ some aberration という。染色体の数の変化 してドッジ・ラインはインフレ収束と黒字財政 Vries ( 天哭 〔突然変異の利用〕突然変異が人為的につくら をもたらしたが、 反面、四九 ~ 五〇年にかけて Oe き、きにみいだされた遺伝的な変わりものとしては、染色体の全体のセット ( ゲノム ) が に対して名づけた。その後、アメリカのモーガ整数倍で増加する倍数性 polyploidy や、あるれるようになってから、これらの突然変異を利 深刻な不況ⅱ安定恐慌が発生し、国鉄の公社移 ン T. H. Morgan ( 天六六 ー一九四五 ) が、ショウ特定の染色体のみが一本増加したり減少したり用して、多くの生物の遺伝子の連関関係の研究 行に伴う一〇万人首切りに関連したかのような しもやま trisomy やモノソミー mon- や、種々の生体構成成分の合成や分解の生化学 下山事件・松川事件、民間企業の大量人員整理ジョウバエ属 D き s 。で白眼の突然変異をするトリソミー osomy 、数本の染色体が増減する異数性 het ・的代謝過程の解析が行われ、遺伝学、発生学、 などによって民情は騒然となり、社会不安が起みいだし、さらにマラー H. J. Muller ( 天九 0 ero 三 0 ミ y などがある。また、染色体の構造の生物学の各学問分野における貢献は計り知れな ー一九六七 ) が、ショウジョウバエに X 線を照射し こった。この恐慌の深刻化のさなか五〇年六月 ばつばっ いものがある。また、突然変異の実際的な利用 に朝鮮戦争が勃発し、日本経済は新たな局面をて人為的に突然変異を作成することに成功し変化としては、一本の染色体のなかでの欠失や ほかの染色体との間でとしては、植物の品種改良など育種学、農学、 重複、逆位などのほか、 迎えることになる。↓シャウブ勧告〈一杉哲也〉て、その後の遺伝学の発展に大きく貢献した。 のつなぎ換えとして転座 translocation がある畜産学などの各分野における利用のほか、ペ一一 突然変異は、遺伝子の本体である ( デ 回中村隆英著昭和経済史』 ( 一九会・岩波書店 ) シリン、ストレプトマイシンなど多くの抗生物 突然昇温とっぜんしようおん大気上層の成オキシリポ核酸 ) の塩基の一つが他の塩基に置 ( 図 これらの突然変異によって生じた変化が、形質を多量に生産する自然および人為突然変異の き換わった分子レベルの変化から、遺伝子の存 層圏内でおこる現象。高緯度地方で冬の終わり 態的な形質として認められる場合は形態的突然菌株の開発や改良、特定のアミノ酸やタンパク 在する染色体の構造や数の変化したものなど、 ごろから春にかけて気温が急激に昇り、数日間 変異 morphological mutation または可視突質その他の有用物質を多量に生産する徴生物の で四〇度の上昇をみることもあり、成層圏突種々の程度の変化が含まれる。 然昇温ともよばれている。条季の昇温時には赤〔突然変異の分類〕まず、の一つまたは然変異 visible mutation という。また、生じ株の開発などにも利用されている。また最近 は、食品や医薬品、農薬など環境中に存在する た突然変異によって細胞や個体が生存できなく 道域より高緯度のほうが高温となる。夏から冬多数の塩基の置換 base change 、欠失 dele ・ tion ( または deficiency) 、付加 addition 、逆なるものを致死突然変異 lethal mutation と多数の変異原物質や発癌物質の人間に対する危 に向かう時期にはみられない。南半球ではこの いう。正常または野生型の細胞や個体が突然変険度を予測し、これらを環境中からできるだけ 現象はおこらない。一九五二年に西ドイツのシ位 inversion 、重複 duplication などや塩基 は」にゆみ・ 排除するために、微生物や哺乳類の培養細胞、 エルハーグ R. Sherhag が発見した。↓成層の枠組み移動 flame shift のような分子レベ異をおこす場合を前進突然変異 forward mu ・ 、突然変異をおこした細胞や個昆虫、植物、実験動物など種々の生物の検出系 〈大田正次〉 ルでの変化がある ( 図 <)0 この場合は、その tation といし 体が、同じ場所に突然変異をおこしを使って、これらの物質の突然変異性の調査も ^ 黒田行昭〉 て、ふたたびもとの正常または野生型行われている。↓遺伝子 に戻る場合を復帰突然変異 reverse 突然変異原とっぜんへんいげん mutagen mutation ( または back mutation) 生物の遺伝子や染色体などに作用して突然変異 や異常をおこさせる効力をもった物理的または レい、つ 化学的要因。生物は自然の状態でも一定の低い 〔突然変異の頻度〕突然変異は、外か ら人為的に手を加えなくとも、自然の頻度で突然変異をおこしている。これを自然突 互座 しし、その 状態においてもある一定の低い頻度で然変異 spontaneous mutation と、 おこる。これを自然突然変異 sponta- 頻度は、普通、一遺伝子座当り世代当り微生物 neous mutation というが、その頻度で一億から一〇億回に一回、高等生物で一〇万 は生物の種類や遺伝子の種類によってから一〇〇万回に一回程度である。この自然突 異なり、一遺伝子座当り世代当りの頻然変異の頻度を有意に増大させる作用をもっ要 度は、微生物では一億から一〇億回に因を突然変異原という。 突然変異原にはアルキル化剤、芳香族アミ 一回の割合で非常に低いが、高等動植 ン、ニトロ化合物、ニトロサミンなどの化学変 物では一〇万から一〇〇万回に一回の ガンマ 割合と比較的高い。ヒトでは四肢短縮異原や、 >< 線、線、中性子線、紫外線などの 症が一〇万回に五回くらい、血友病が放射線がある。これらの突然変異原によって誘 む・一うさい 発される誘発突然変異には、 ( デオキシ 一〇万回に三回くらい、無虹彩症や小 やみ 正 ( 野生型 ) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 置換 6 7 8 9 10 11 12 1 2 3 4 欠失 1 2 3 4 ↑ 6 7 8 9 10 11 12 付加 6 7 8 9 10 11 1 2 3 4 5 逆位 1 2 3 4 ↑ ! ー 6 ー ~ ↑ 8 9 10 1 1 12 逆位 〔図 B 〕染色体突然変異の型 a わ c d e f g わ / a b c d e f g 失 正 a わ c d e f g わ / a b f e d c g わ / a わ c d e f g わ / / hla わ c d e f g わ / 重複 a わ c d e f g わ / a わ c d e f g わ / a わ c d e f g わ / a わ c d e わ g f / 切断 逆位 a わ c d e f g わ / a わ c d e f g わ / ガンマ はつがん 1 1 1