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検索対象: 日本大百科全書 17
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1. 日本大百科全書 17

. ト . . トー 一 , タ帝 レ紀女 ん史プ紲テ⑥ガカス の世ッグの 剣 ( ⑨ウン AJ プ「フ一ス⑤魔トイラ カビ悪ュ一 ) イド ④外⑨トシレ⑩一 ラ ~ ン ~ ッ死⑩プ紲 ~ カ ト①イ⑤ロ⑦⑩の c ⑩ス @~ ⑩ポルトガルのド 一、・魲多第を分・参のま 0 こ「貪 ⑩⑩イギリス ( 19 世紀 ) シングルヘッドで , カードの隅が角張っている ⑩ ~@ ドイツ四大陸カード ( 19 世紀 ) ⑩⑩アメリカ ( 19 世紀後半 ) シングルへ ッドだが , 隅が丸くなっている から、発生をエジプトに求めたものである。 以上のようにいろいろな起源説があるが、確 2 実なのは、東洋で発生しそれがヨーロッパに伝 えられ現在の形態になったということである。 〔変遷〕東洋に発生したカードがヨーロッパに 伝わったのは一一世紀から一三世紀の間と推定 され、一四世紀には確実な証拠が残っている。 リの国立図書館にフランスのシャルル六世の ために描かれたカードが一七枚所蔵されている が、これは一三九二年のもので、現存する最古 のカードである。 東洋からヨーロッパに伝わったことにつし て、もっとも有力な説は、ジプシーが持ち込ん だという説であるが、このほかイスラム教徒が 文芸・娯楽とともに持ち込んだという説、およ び一一世紀に遠征した十字軍の兵士が持ち帰っ たという説などがある。 〔タロット〕 tarot (cards) ヨーロッパにお タロッキ ta- ける古い形態はタロー tarot 冖ラ、 rocchi タロック tarok とよばれてい るカードである。これはイタリアでつくられた と推定されるが、他の説もある。タローは日本 では一般にはタロットとよばれている。 タロットは、アツウ atout とよばれる切札 一三枚 ( 正しくは二一枚と添札一枚 ) と五六枚 のカードの計七八枚一組である。二二枚の切札 は、一から二一までの番号をつけてある寓意画 そえふだ の札と道化を描いた添札一枚からなっている。 寓意画は時代によって異なるが、一般的なもの は、魔術師・女教皇・女帝・皇帝・法王・恋 人・戦車・正義・隠者・運命の車輪・権力・吊 るし人・死・節制・悪魘・塔・星・月・太陽・ 審判・世界である。これらのカードは人生の縮 図であり、人間の種々の欲望や活動を表したも のである。添札には、おかしな服装をした道化 くせ 1 一と が曲事と悪徳の詰まった袋を背負って歩いてい る絵が描かれている。この添札が現代のジョー カー」 oker になった。ほかの五六枚のカード こんまう 、剣・棍棒・聖杯・貨幣の四種のスーツがあ り、各スーツは 1 から川までの数のカードと 王・女王・騎士・兵士の絵札からなっている。 そうりよ 剣は王侯・貴族、棍棒は農民、聖杯は僧侶、貨 幣は商人を象徴したもので、これは中世におけ る社会階級を表している。タロット七八枚のう ち二二枚のアツウを大アルカナ ( あるいは大タ ロット ) 、残りの五六枚を小アルカナ ( 小タロ ット ) とよんでいる。

2. 日本大百科全書 17

なおびの 直木賞 / 受賞作品・作家名一覧 回年度期作品名 作家名 回年度期作品名 作家名 回年度期作品名 作家名 1 昭和 10 上鶴八鶴次郎はか 川口松太郎 39 昭和 33 上花のれん 山崎豊子 70 下 鷲尾雨工 2 下吉野朝太平記 赤い雪 榛葉英治 71 昭和 49 上鬼の詩 藤本義一 海音寺潮五郎 40 3 昭和 11 上天正女合戦 下総会屋錦城 城山三郎 72 半村良 下雨やどり 木々高太郎 下人生の阿呆 落ちる 4 多岐川恭 井出孫六 アトラス伝説 41 昭和 34 上馬淵川 5 昭和 12 上 渡辺喜恵子 73 昭和 50 上 下ジョン万次郎漂流記井伏鱒二 6 鏨師 平岩弓枝 74 下復讐するは我にあり佐木隆三 下罩あ城 7 昭和 13 上ナリン殿下への回想橘外男 42 司馬遼太郎 75 昭和 51 上 下兜首ほか 大池唯雄 団十郎切腹事件 8 戸板康二 76 三好京三 下子育てごっこ 43 昭和 35 上錯乱 9 昭和 14 上 池波正太郎 77 昭和 52 上 下 44 下はぐれ念仏 寺内大吉 78 下 堤千代 11 昭和 15 上小指 背徳のメス 黒岩重吾 79 昭和 53 上深重の海 津本陽 軍事郵便 河内仙介 45 昭和 36 上雁の寺 水上勉 離婚 色川武大 下上総風上記 村上元三 下螢の河 46 伊藤桂一 80 下一絃の琴 宮尾登美子 13 昭和 16 上雲南守備兵 木村荘十 47 昭和 37 上天才と狂人の間 杉森久英 大浪花諸人往来 有明夏夫 下 48 下江分利満氏の優稚な山口瞳 81 昭和 54 上浪曲師朝日丸の話はか田中小実昌 15 昭和 17 上 生活 短篇集ナポレオン狂阿刀田 杉本苑子 82 下寛容 神崎武雄 孤愁の岸 下 田岡典夫 49 昭和 38 上女のいくさ 強情いちご 佐藤得二 83 昭和 55 上黄色い牙 志茂田景樹 下巷談本牧亭 安藤鶴夫 17 昭和 18 上 50 花の名前はか 向田邦子 下山畠はか 塵の中 森荘已池 和田芳恵 84 下元首の謀叛 中村正帆 19 昭和 19 上ニューギニヤ山岳戦岡田誠三 51 昭和 39 上 85 昭和 56 上人間万事寒翁が丙午青島幸男 下炎環 永井路子 86 52 下 20 下蒲田行進曲 ー ) 力、こう / 、し、 富田常雄 張少子の話 安西篤子 21 昭和 24 上面ほか 機雷 光岡明 山田克郎 53 昭和 40 上虹 藤井重夫 87 昭和 57 上炎熱商人 下海の廃園 22 深田祐介 23 昭和 25 上天皇の帽子 今日出海 54 下八百長 新橋遊吉 時代屋の女房 村松友視 虜愁記 千葉治平 88 執行猶予 小山いと子 下 下長恨歌はか 一雄 55 昭和 41 上白い罌粟 檀 立原正秋 89 昭和 58 上黒パン俘虜記 24 胡桃沢耕史 下蒼ざめた馬を見よ五木寛之 90 25 昭和 26 上英語屋さん 源氏鶏太 56 下私生活 神吉拓郎 下鈴木お汞 久生十蘭 57 昭和 42 上追いつめる 生島治郎 26 秘伝 高橋治 下アメリカひしきはか野坂昭如 イエスの裔 58 柴田錬三郎 昭和 59 上恋文 連城三紀彦 27 昭和 27 上罪な女 藤原審爾 てんのし村 難波利三 彗当少 - 女 三好徹 立野信之 59 昭和 43 上 下叛乱 92 28 下 下青玉獅子香炉 60 29 昭和 28 上 陳舜臣 93 昭和 60 上演歌の虫はか 山口洋子 僑人の檻 早乙女貢 94 下 下魚河岸ものがたり森田誠吾 30 有馬頼義 61 昭和 44 上戦いすんで日が暮れて佐藤愛子 31 昭和 29 上終身未決囚 最終便に間に合えはほか林真理子 下ポロ家の春秋 梅崎春生 62 下 95 昭和 61 上恋紅 32 皆川博子 戸川幸夫 63 昭和 45 上軍旗はためく下に 高安犬物語 結城昌治 96 下カディスの赤い星逢坂剛 33 昭和 30 上 光と影 渡辺淳一 遠いアメリカ 常盤新平 64 下強力伝 新田次郎 下長良川 豊田穣 97 昭和 62 上ソウル・ミュージック・山田詠美 34 邱永漢 65 昭和 46 上 香港 ラバーズ・オンリー 35 昭和 31 上燈台鬼 南条範夫 66 下 海狠伝 白石一郎 壁の花 67 昭和 47 上手鎖心中 下それぞれの終楽章阿部牧郎 下お吟さま 今東光 斬 ( ざん ) 穂積驚 68 昭和 47 下 勝島 37 昭和 32 上ルソンの谷間 江崎誠致 69 昭和 48 上暗殺の年輸 下 38 津軽世去れ節はか 注 : E = 上半期 ( 12 ~ 5 月 ) ド = ト半期 ( 6 ~ 11 月 ) 昭和 20 ~ 23 年中止 たがむし 井上ひさし 98 綱淵謙錠 藤沢周平 長部日出雄 36 該当作品なし もに廃された。南朝軍の京都進入で光厳、光 みよう やましろやわた 明、崇光三上皇とともに山城八幡 ( 京都府八 3 やまとあのう 幡市 ) に移され、のち大和賀名生 ( 奈良県吉野 郡 ) に幽閉された。一三五七年 ( 延文二・正平 一一 D に帰京し、出家して花園上皇の御所であ はぎわらどの った萩原殿に住した。 ^ 佐々木久彦〉 もとおりのりなが 直毘霊なおびのみたま本居宣長の古道論書。 一巻。一七七一年 ( 明和八 ) 稿本 ( 『直霊』 ) が成り、のち彼の主著『古事記伝』の総論の一 かもまぶち 部としてその第一巻に収められた。賀茂真淵の 『国意考』と並んで復古神道 ( 古学神道 ) を代 表する書である。日本の古代こそが平和と人間 性の完全な開花が実現した理想世界であり、そ あまてらすおおみかみ れは神々の計らいを信じ、日神天照大神を祖 神とする代々の天皇の統治に随順した古代人の 生き方によってもたらされたものであるとし、 この古代人の姿こそが真の神道であると説く。 それに対して、儒教や仏教は人間がその限りあ る知恵をもってつくりだしたものにすぎす、人 情に反するばかりか、人間の本性をもゆがめて しまうとして激しくこれを排斥している。↓本 居宣長↓古事記伝 〈高橋美由紀〉 直会なおらい神祭りにおいて、神に供え おぜんさいしよく たものと同様の御膳 ( 斎食 ) 、あるいは、神に みき しんせん 供えた神酒や神饌のお下がりをちょうだいする 行事をいう。一般には神祭りの最後に行われる ことから、これは神祭りに仕えるために、斎戒 して清浄なる状態になったのを、祭りが終わっ て平常に戻ること、すなわち解斎と説かれる が、もともとは祭りのなかで斎食を頂くことで にいなめ あった。宮中の新嘗祭では、祭儀の中心におい て、神々との共食を直会と称し、京都の賀茂 わけいかづち みあれ 別雷 ( 上賀茂 ) 神社の御阿礼神事 ( 神迎えの 祭祀 ) では、祭場にて、神迎えに先だち、神酒 ) ) りよう と「掴みの御料」 ( 混ぜご飯のようなもの ) を 頂くことを直会と称しているなど、本来の直会 の形式が今日もなお継承されている。直会を解 もとおりのりなが 斎と説いたのは本居宣長である。すなわち、 ものいみ なほりあひつづま 「奈保理阿比の切れる也、直るとは、斎をゆる つねかへ しよっぎ しようし力い べて、平常に復る意也」 ( 『続紀歴朝詔詞解』 ) と。以来、直会と解斎とが混同されてきたので ある。 〈沼部春友〉 直りなおり鉱床中の富鉱体に使う日本古 来の鉱山用語。鉱床中の鉱石の品位はどこも同 じということはまれで、多くの場合、ある部分 、。ゝ、ま力の では鉱体の規模が大きく品位もよしカ 部分では採掘限界品位以下で採掘の対象となら イ ~ い者 ~ し

3. 日本大百科全書 17

にじんす 二進法では、各位の数が 1 か 0 か の『牧神の午後』『春の祭典』は、 コザ 得意な跳躍をまったく使わず、しのどちらかという二つの状態で表 サラ かもバレエの古典技法を無視したすことができるので、たとえば、 シ 一つの電気回路について、閉じて もので観客を驚かせた。 ラ 。へ いる場合を 1 、開いている場合を 著書に病気の初期に書かれた オ 『ニジンスキーの手記』があり、 0 と決めれば、それで、一つの位 ム振 ン 妻ロモラは『ニジンスキー』を著が表されることになる。だから、 キ 彼をテーマにした舞踊作品多くの回路を並べれば、二進法に 年した。 , キオ o に、・ベジャールの『ニジンスよる数を表すことができるわけで ン ジ曲 〈三輪辰郎〉 キー神の道化』、»-a ・ケンプの」一ある。 ニ作ド ジンスキー』、映画に・ロス監 ニス「〉ワニス ニース Nice フランス南東 ニ一ンンスキー BaLIJ1aB (t)OMHt1 HH>KHH ・督『ニジンスキー』 ( 一九全 ) がある。〈市川雅〉 CKI 、 1üZVatsIav Fomich Nizhinskiy ( 一八会 回市川雅訳『ニジンスキーの手記』 ( 一九七一・現部、アルプ・マリティーム県の県 ー一九五 0 ) ロシアのバレエ・ダンサー。両親は 代思潮社 ) ▽・ニジンスキー著、同訳都で、地中海岸のコート・ダジュ ールを代表する観光都市。イタリ 「その後のニジンスキー』 ( 一九七七・現代思潮 ポーランド人の舞踊家で、公演先のキエフで三 ア国境の西三二キロ、アンジュ湾の 社 ) ▽石福恒雄著『ニジンスキー』 ( 一九七九・ 月一二日 ( 旧暦二月二八日 ) に生まれる。ペテ パイヨン川河口に位置し、西側に ルプルグ ( レニングラード ) の帝室舞踊学校を 紀伊國屋書店 ) にしんほう 0 と 1 の二種類の数字に はバール川が流入する。フランス 卒業、マリンスキー劇場の団員となる。一九〇ニ進法 よって数を表す方式。日常使われている数え方第五の都市で、人口三三万八四六 九年パリで旗揚げしたディアギレフのロシア・ じっしん 、都市圏人口四四万九〇〇〇一 ハレエ団 ( バレエ・リュス ) に参加、同年『アは十進法であって、一〇ずつで上の位に進むよ やかた ( 一九公 l) 。背後に海岸アルプスを控 ルミードの館』『レ・シルフィード』、一〇年うになっている。これに対して、二ずつで上の 位に進む数え方が二進法である。つまり、 1 がえて風光明媚なうえ、平均気温は 『シェヘラザード』一一年『バラの精』『ベト 一月七・五度 O 、七月一三・七度 ルーシュカ』などを踊って絶賛を博した。ま二つ集まって上の位に、また、その位の数が二 0 、年平均日照二七七八時間と気 た、一二年『牧神の午後』、一三年『遊戯』『春っ集まるとさらにその上の位に進むというよう の祭典』を自ら振付け上演。一三年の南米巡業な仕組みである。二進法で表された数を十進法候温暖で、避暑・避寒地として最適。別荘、ホス領となった。細く屈曲した通路の旧市街に は、円形闘技場、浴場などの遺跡、古い教会な テル、庭園、カジノのほか、一九世紀にこの地 中にロモラと結婚したため、ディアギレフの怒で表すには、たとえば、 10111 ↓ 1 x 24 十 0 x 23 十 1 x 22 十 1 x 2 十 1 Ⅱ 23 を保養地として開拓したイギリス人建設のアンどが残る。イタリア統一運動 ( リソルジメン りを買い解雇されるが、一六年には復帰してア ト ) の立役者ガリバルディの生地で、彼を記念 メリカで踊り、『ティル・オイレンシュピーゲのようにすればよい。逆に十進法で表された数グレー遊歩道など、保養施設が整い、夏は海水 ル』を振付けた。一七年プエノス・アイレスでを二進法で表すには、 2 で何回も割って、その浴、冬は海岸アルプスのウインタースポーツのするガリバルディ広場がある。地域の文化中心 基地となる。交通も至便で、空港があり、港か 地として大学や博物館も多い。さまざまな年中 の舞台を最後に同バレエ団との関係を絶ち、ス余りを一の位から並べればよい ( 図 <)0 らはコルシカ島へ定期船が就航する。切り花、行事のうち、一八七三年創始の「ニースのカー 二進法での計算は、十進法の場合と同じよう イスに落ち着いたが、一九年に精神分裂病と診 〈青木伸好〉 ニバル」は最大のもの。 に桁をそろえて計算すればよいが、和・積で香水、オリープ油、醸造などの伝統産業に加え 断され、その後療養のため各地を転々とし、五 は、十進法の一桁の計算に相当する表を利用すて、家具・セメント工業も行われる。近年では ニーズ needs 個人の行動を動機づけた 〇年四月八日ロンドンに没した。 機械・電気器具工業も発達するが、産業基盤は り、ある対象に対する選択的な方向づけの誘因 ニジンスキーは二〇世紀におけるもっとも衝る ( 図 撃的なダンサーといわれる。彼の跳躍力はすば 二進法は、コンピュータで利用されている。観光に支えられている。一九六三年開設の花市となるような内面的メカニズムであり、欲求ま 場も知られる。 たは要求ともいう。人間の欲求は多種多様であ らしく、『バラの精』 紀元前四世紀中ごろ、マッシリア Massilia り、まず、睡眠、呼吸、食物の摂取、苦痛の回 を踊ったとき、跳ぶと ( 現マルセイユ ) のフェニキア人植民市として避など生理的緊張に直接結び付くものが考えら 二度と地上に戻ってこ す 、ー 1 11 1 ー・ -0 1 ーよ 、 1 、 1 C 表 開かれ、ニカイア Nicaea とよばれた。前一五れる。これらは生理的欲求または第一次的欲求 ないのではないかと 法 とよばれるが、行動を動機づけるところの有機 四年ローマ人が占領、北部のケメネルム Cem ・ か、空気は重く肉体は enelum ( 現ニース市内シミエ Cimiez) をこの体工ネルギーとしての動因にもなる。人間は、 軽いなどといった神話 11 一い】 1 亠 を 地方の首都とした。後四世紀からは司教座が置このような身体的欲求のほかに心理的または第 化された賛辞が捧げら かれたが、その後ゲルマン民族やイスラム教徒二次的欲求をもっている。心理的欲求は、後天 の れた。男性的な官能 法 っ 0 っ 0 、 1 の侵入を受けて破壊された。九七〇年からはプ的に社会・文化的影響のもとで形成され、獲得 性、野獣性も彼の特徴 ・十・つ」ワ〕ワ〕 ロバンス伯領となって発展、一三八八年からは されるもので、個体の保存や満足を求めるだけ で、『シェヘラザード』 法 サポイア家領、一七九二 ~ 一八一四年はフランでなく、社会環境に対する適応をも動機づけ の金の奴隷などはその 進 ス領となったが、最終的には一八六〇年フランる。 例である。振付け作品 、こさ 〔図 B 〕ニ進法の和・積 積 い》 -0 一 -0 ) 1 亠 【い 1 、 - い一 11 【い一 0 一 1 画、 -1 ( ) 十 ( ) 0 十 1 1 十 0 = 1 ニ進法の計算例 1 1 0 1 0 ( ) 1 れ引信い ースコルシカ島への定期船が発着するニース港。背後の城山を挟んだ向こ う側の砂浜か , アングレー遊歩道などのある海水浴場地帯となっている 740

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ほかに北日本放送、 ま製バット製造などが知られている。 富山県 / 略年表 や〔交通〕県下で最初に鉄道が敷設されたのは一八九八年 ( 明富山テレビ放送 先土器時代上市町丸山遺跡、立山町吉峰遺跡など などがある。 と治三一 ) 中越鉄道による黒田 ( 現高岡市 ) ー福野間であっ 縄文時代水見市朝日貝塚・大境洞窟、富山市蜆ケ森貝 〔生活文化〕江戸時代、越中 た。一九一二年 ( 大正一 ) には氷見まで延長され、二〇年に じようはな 塚など 国鉄城端線・氷見線になった。北陸線は一八九八年金沢か全域が前田氏の支配下にあっ 弥生時代富山市大広田、高岡市福田などの遺跡 おや たために全般的には衣食住の ら高岡まで開通し、翌年富山まで延長、その後新潟県境の親 古墳時代高岡市桜谷古墳、婦中町王塚・勅使塚、立山 へきち なおえっ しらず 町稚子塚などの古墳 不知をトンネルで貫き、直江津まで開通した。高山本線は一地域差は少ないが、山間僻地 ( 成務朝 ) 射水・水見地方に伊弥頭の国造置かれる 九三四年 ( 昭和九 ) に全通した。一九六九年 ( 昭和四四 ) にや急流河川の多い新川地方で ( 斉明朝 ) 阿倍比羅夫、越国の国司に任ぜられる は独特の生活風習がみられ 北陸本線の複線電化が完了し、輸送力は飛躍的に改善された ( 天武朝 ) 越国が越中・越前・越後に分かれる が、富山ー東京間は北陸の県庁所在地中ではもっとも時間をる。昭和初期まで農民は新し 七 0 一大宝一佐伯有頼、立山開山 ( 開山縁起による ) 七一三天平四田口年足、越中守となる ( 越中国司の初見 ) 、綿服を晴れ着とし、それが 要し、北陸新幹線の早期建設に多大の期待がかけられてい かみだき 一八大伴家持、越中守となる ( ー七五一 ) る。富山地方鉄道は富山市を中心に本線、立山線、上滝線な古くなると仕事着とした。男 はんそで うなづき 天平一 能登国分立、越中は新川・婦負・射水・礪波 宀玉宀子 性の仕事着の上着は半袖で丈 どがあり、宇奈月温泉や立山方面へも通じている。 四郡となる 国道は東西に走る八号、名古屋から中部地方を横断して富は腰あたりまでで、アンコモ = 〈三寿永二木曽義仲、源平の礪波山の戦いで大勝 モヒキをはいた。昭和一〇年 = 一 = 一承久三名越朝時、越中・越後両国の守護職となる 山市に至る四一号、庄川沿いの一五六号、能登方面への一六 〇号などがある。滋賀県米町と新潟市を結ぶ北陸自動車道代の初期ごろにモンべが普及一 = = 0 建武一中院定清、越中国守、普門利清、越中守護と なる は県中央部を南北に走り、砺波市と名神高速道路を結ぶ東海するまで女性の仕事着は長着 一 = 入 0 天授六 畠山基国、越中守護となる 、」しひも ~ 林旧二 北陸自動車道の県内着工計画が進んでいる。富山空港は一九で、それを腰紐でたくし上堯 0 元冲七僧綽如、井波の瑞泉寺を創建 きやはん 一至九永正一六越後の長尾為景、越中に侵入し神保氏を破る 八四年にジェット化が実現し、羽田ー富山間を一時間で結んげ、腕貫、手甲、脚絆をつけ ごかやま 一 = 元亀三上杉謙信、越中に入り、一向一揆を掃討 でいる。 た。隔絶地の五箇山では、自 じようはな としやすほん 一犬 0 天正八織田信長の臣佐々成政、富山城に入る 〔社会・文化〕〔教育文化〕富山藩一〇代藩主前田利保は本分たちで織った麻を城端町 一犬五 一三佐々成政、豊臣秀吉に降伏 ぞう 草学者として知られ、富山だけでなく江戸にも薬草園をつくの紺屋で裾模様に染めて長夏 一犬セ 一五秀吉、新川郡を前田利家に与える 一発文禄四前田利家、加賀・越中・能登の三国を領有 るなど富山売薬の振興に大きく寄与した。共立富山薬学校は着に仕立て、祭りの際に着た 一六 0 九慶長一四前田利長、富山城から高岡城に移る 売薬業振興のために一八九三年 ( 明治二六 ) 設立され、そのという。いまも五箇山では 一六河内系の鋳物師により高岡銅器の生産始まる 後幾度かの変遷を経て現在は富山医科薬科大学に引き継がれ『こきりこ節』などの民謡で 一六 = 一九寛永一六前田利次、富山十万石に分封 ている。一九二四年 ( 大正一三 ) には日本海側で最初の高等踊るとき長夏着を着用する。 一六六一 = 寛文三愛本橋架橋、芹谷野用水工事始まる 米作県ではあるが、昭和初 一六七四延宝一一前田正甫、富山一一代藩主となる 商業学校である高岡高等商業学校が開校、四四年 ( 昭和一 一六九 0 元禄三 このころ松井屋源右衛門、反魂丹の販売を始、 九 ) に高岡工業高等専門学校になった。富山大学工学部の前期までは山間地ではヒ工、ア める ( 富山売薬の始め ) 身である。国立富山大学は旧制富山高等学校、富山師範学校ワが主食で、米食は盆と正月 毛一四正徳四庄川の治水工事なる ぐらいであった。平野部でも などが母体となって四九年 ( 昭和二四 ) に発足、人文など五 一セ三一一享保一七放生津潟の一部十拓なる かゆ 学部と経営短期大学部からなる。このほか高等教育機関とし平日は粥の中へダイコン、サ 毛五セ宝暦七礪波郡最大の百姓一揆「北市騒動」起こる 一実七明和四富山藩、反魂丹役所を置く。高岡漆器始まる トイモなどの野菜を入れたゾ て、国立富山医科薬科大学、国立高岡短大、富山県立技術短 せんぞく そうすい 一一一安永二富山藩校広徳館創設 大、富山訓練職業短大、私立の富山女子短大、洗足学園魚津ロという雑炊が一般的であっ 一全 = 一文化一 0 婦負郡一帯に農民一揆起こる 短大。国立の富山工業高等専門学校、富山商船高等専門学校た。魚類は、海岸地域を除け 天天保六石黒信由「加越能三州測量図籍」をつくる がある。 ば塩物・干物で、暮れにプリ 九十二貫野用水工事始まる 一会〈安政五立山の大鳶が崩れ常願寺川出水 一八八四年富山県最初の日刊新聞『中越新聞』が発刊されを婚家へ送る風習があった。 六 一会九 ロシアの軍艦、富山湾に入り測量 砺波平野の散村にはカイニ た。民権運動の越中改進党の機関紙ともいうべきもので、一 入六九明治一一新川郡に農民一揆起こる ( ばんどり騒動 ) 八八八年に『富山日報』と改めた。一九四〇年の新聞統合でユ ( 垣入 ) という屋敷森に囲 四廃藩置県。婦負郡など富山県となる まれた家が多い。屋敷森はス 他の三紙とともに『北日本新聞』となり現在に至っている。 一〈七六 九越中全域、石川県となる 一六石川県から富山県独立 『富山新聞』は一九二三年発刊の『越中新聞』を母体としてギ、ケヤキのほかカキなどの 一七『中越新聞』発刊 いる。放送関係では一九三五年に富山放送局が開局。果樹からなり、スギの葉は燃 うでぬき すそ 2 川

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一全九明治一一一東京地学協会設立 一三日本地震学会創立。釜石鉱山製鉄所 ( 工部省 ) 一一 ん一〈〈 0 五ト , 高炉火入れ ( 木炭製鉄 ) 。村田経芳、十三年式 村田銃の発明。薬学会創立 一四東京職工学校設立 ( 九〇年東京工業学校と改称、一〈九六 後の東京工業大学 ) 一五東京植物学会創立。東京気象学会創立。釜石鉱山 製鉄所、パドル法による錬鉄生産開始。地質調査 所設置 一六モース述・石川千代松筆記『動物進化論』。東京気 象台、天気図の作成配布開始。大阪紡績会社、ミ ュール紡績機操業開始 一丁用一兊七 一七アダム・スミス著、石川暎作訳『富国論』刊彳ド 始。全国天気予報開始 一八政府、内閣制度成立 ( 初代首相伊藤博文 ) 。松方デ フレその極に達する。森有礼、初代文部大臣。政 - 〈九〈 府、メートル法条約に加入 ( 九一年尺貫法にメー トル法を併用した度量衡法公布、九三年施行 ) 。長一〈究 井長義、エフェドリンの発見 一九帝国大学令公布、東京大学を法・文・理・医・エ の各分科大学よりなる帝国大学に改組。師範学校 令、小学校令、中学校令公布 ( 以後約六〇年に及一九 00 ぶ学校制度の基礎となる ) 。藤沢利喜太郎「熱伝 導方程式論に現れる超越方程式の根による無限級一九 0 一 数」。東京電燈会社開業。この年天然痘死亡者一万 九〇〇〇人、腸チフス死亡者約一万四〇〇〇人 たなかだてあいきっ 一一 0 ノット・田中館愛橘、全国地磁気測定を開始。北 尾次郎「大気の運動および台風の理論」。文部省、一九 0 = 仙台、金沢、熊本に高等中学校を設置。東京電燈、 火力発電所を建設 ( 三吉電機が国産発電機第一号 製作 ) 一一一長岡半太郎、ニッケルの磁気歪の研究。牧野富太 郎『日本植物志図篇』。電気学会創立。下瀬雅允、 下瀬火薬の創製。東京天文台 ( 麻布 ) 開設 一三北里柴三郎、コッホの下で破傷風菌の純粋培養に 成功。原田豊吉「日本地質構造論」。東海道線、新 橋ー神戸間全通。この年鉄道総キロ数一七三〇 メートルを超える。日本初の経済恐慌の始まり 一一三東京農林学校、帝国大学農科大学となる。東京ー一九 0 四 横浜電話交換開始 一一四上野ー青森間鉄道全通。電気試験所設置。石川千一九 代松『進化新論』 一一五田中館愛橘・長岡半太郎「濃尾地震に伴う等磁カ一九 0 六 線の変位」。桜井錠二「溶質の分子量決定のための べックマンの沸点上昇法の改良」。京都市営蹴上水 力発電所開業 ( 最初の公共用水力発電所、八〇キ。 ワット発電機一一基 ) 一一六中村精男、日本気象に関する本をシカゴ万博に出 品 ( 九七年『大日本風土篇』として出版 ) 。東京地一九 0 〈 質学会設立。御木本幸吉、半円真珠の養殖に成功 入〈六 天〈九 天会 一〈九 0 天九 = 一 天九四 一九 0 = 一 一九 0 七 毛高峰譲吉、タカジアスターゼ発見。北里柴三郎、 ベスト菌を発見。日清戦争。釜石鉱山の田中製鉄 所、旧工部省一一五ト , 高炉のコークス製鉄に成功 ( 国 内での近代製鉄技術の誕生 ) 一一九藤沢利喜太郎『算術教科書』。東京電燈、浅草集中 火力発電所 ( 発電機四基、うち二基はドイツ 社製、五〇サイクル発電機、関東地域五〇サイ クルシステム。一方、大阪電燈は、アメリカ 社製六〇サイクル発電機を輸入して、九七年に発 電所建設、関西地域六〇サイクルシステム ) 。平瀬 イ五郎がイチョウの精子、池野精一郎はソテッの 精子を発見 三 0 京都帝国大学設立。志賀潔、赤喇菌の発見。機械 学会設立。豊田佐吉、動力織機を発明。宮原一一郎、 宮原式水管ポイラーの発明 三一工業化学会設立。三菱造船所、貨客船常陸丸を完 成 ( 日本最初の大型汽船 ) 三一一大森房吉「地震の初期微動の研究」 ( 大森公式 ) 。 川琢治「日本群島地質構造論」。神保小虎『日本 鉱物略記』。日本電気 ( 株 ) 設立 ( 米国ウエスタン・ エレクトリック社と資本提携 ) 三三平山信、東京天文台で一一個の小惑星発見 ( 日本人 の発見した最初の天体 ) 。工業試験所設置 三四大幸勇吉、ブドウ糖の倍旋光についての反応速度 論的研究。高峰譲吉、アドレナリン発見 ( 結品単 離 ) 。官営八幡製鉄所、第一高炉火入れ ( 翌年吹止 め、一九〇四年第三次火入れで成功 ) 三五木村栄、緯度変化の 2 項を発見。長岡半太郎・本 多光太郎「鋼・・朝・鋼の磁歪」を発表。東 京専門学校、早稲田大学と改称 三六専門学校令公布。高木貞治、有理数体に . 、ョを添 加した体上の虚数乗法論。吉江琢児、変分法の偏 微分方程式への応用。長岡半太郎「スペクトル線 と放射能做 ( 現象 ) を説明し得る原子内の連動に ついて」 ( 長岡の土星原子模型 ) 。浅野セメント、 ロータリ ・キルン ( アメリカ製 ) によるセメン ト製造。この前後、数年間に医学諸分野別学会相 次いで設立 三七丘浅次郎『進化論講話』。桂田富士郎、日本住血吸 虫発見 三八井口在屋、渦巻ポンプの理論。池貝鉄工所、旋盤 二台の製作に成功 三九外山亀太郎、カイコの遺伝研究。鉄道国有法公布 この前後、 ( 鉄道総キロ数七二六九キ。メートル ) 。 鐘淵紡績・富士紡績・大阪紡績・三重紡績など紡 績大企業への合併・吸収が進む。医師法公布 四 0 東北帝国大学設立。東京電燈駒橋水力発電所、東 京への高圧送電開始 四一池田菊苗、味の素の発明。三菱長崎造船所、ター ピン船天洋丸完成 術指導者がようやく育ってきていたのである。一九一三年川 ( 大正一 l) の官営八幡製鉄所の鋼材生産高は約二二万トン ( 全 国比八五 % ) に達する。そして日露戦争から第一次世界大戦 直前期に至るこの時期、住友鋳鋼場 ( 一九 0 一設立、のち住友金 属 ) 、神戸製鋼所 ( 一九 0 五 ) 、日本鋼管 (一九 lll) など民間財閥系 しーカいしようたろう 鉄鋼企業が登場する。また池貝庄太郎は一九〇五年、旋盤 二台をフランシスの指導の下に自ら設計し、初めて完全製作 に成功する。電気機械工業では、三井・芝浦製作所が一八九 四年ごろ、交流発電機の製作を開始した。電気技術者の養成 はエ部大学校ー帝大工科大学で行われ、エ部大学校出身の志 おうすけ はつね 田林三郎、藤岡市助、浅野応輔、中野初子の四人は日本の電 気工学・電気事業の先駆者としての役目を果たす。志田・中 野は教育・研究・民間技術指導に尽力、浅野は一八九一年電 気試験所初代所長となって電気事業の育成・指導に努めた。 藤岡は日本最初の国産発電機の製造を成功させ、八六年東京 でんとう 電燈の技師長となり、九〇年白熱舎を創立、東京電気株式会 社に発展させ ( のち東芝 ) 、電球国産化に尽力、また水力発 電・送電事業に貢献した。一九〇七年東京電燈は駒橋発電所 ( 山梨県大月 ) を完成、東京まで七五キロメートルを五万五〇 〇〇ポルト送電に成功した。造船技術では、三菱長崎造船所 ひたち が一八九八年常陸丸 ( 六一七二トン ) を建造して日本造船技術 史上に画期をなし、さらに一九〇八年、最初のタービン船天 しゅんこう 洋丸 ( 一万三四五四トン ) の竣工がその水準を示した。日本 ぜいじゃく の機械工業は、この時期なお脆弱性 ( たとえば工作機械 ) をもちつつもいちおうの確立の見通しを得たのである。 かくして日本産業革命は一九〇〇 ~ 一〇年代に達成された ということができよう。そしてその完成期に、東北帝国大学 ( 一九 0 七 ) 、九州帝国大学 (一九 (0) などが相次いで設立され、日 本の科学・技術の拠点が広がり始める。 〔第一次世界大戦より第ニ次世界大戦終結までの科学・技術 ( 一九一四 ~ 四五 ) 〕一九一三年アメリカから帰った高峰譲吉は産業 開発のための大規模な研究所の必要を説き、第一次大戦勃発 による原料・薬品の輸入困難が契機となって、化学だけでな く物理学をも含む研究所設立の気運が生まれた。政府への建 議、財界からの資金援助を受けて、一七年理化学研究所が設 おおこうちまさとし 置された。一一一年大河内正敏が所長に就任、運営に手腕を振 るう。理研は発足当初から、大学の中心的研究者を兼任の主 任研究員として研究を進めた。二〇年代初期の中心的メンバ しょつじ ーは、物理学では長岡半太郎、 X 線回折の西川正治、金属・ もと 磁性物理の本多光太郎ら、化学では「味の素」発明 ( 一九 00 きくなえ の池田菊苗、オリザニン ( ビタミン ) 発見 ( 一九二 ) の鈴木

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ゃなぎたくにお 三三山陰鉄道西線起工、〇七年境ー鳥取間開通 やがて羽衣をみつけだ一九 00 で没落したという。これは柳田国男が『日を招く話』で指摘たが、 毛北脇永治、一一十世紀ナシ苗を松戸市から移植 一九 0 四 しているように、全国に流布する伝説である。米子市の安して天へ帰るという、諸国に たまこ ' 、よ・つ 一九皂 四 0 鳥取市に電灯がつく 養寺には歯形の栗の話がある。「瓊子姫」は、隠岐へ配流にある「天人女房」と同じであ 一九 0 〈 四一鳥取市内に電話通じる くずも ′一だい・こ 〈武田静澄〉 四五山陰本線全通 ( 京都ー出雲今市間 ) なった後醍醐帝の内親王。父帝を慕って車尾まできたが、供る。 を許されず、髪を切って尼僧となり、隠岐の見える地に庵を回山中寿夫著『鳥取県の歴一〈一 = 大正四鳥取市に上水道完成 10 鳥取高等農業学校設置 史』 ( 一九七 0 ・山川出版社 ) 結んだ。あるとき、栗を献じられ、この栗が芽生えたなら父 一九 = = 昭和六千代川改修、新流路に通水。三四年新袋川通水 ▽四宮守正著『日本の民俗 帝の還御がかなうであろうと、栗を皮のままかみ砕き、祈願 一一大山国立公園指定 一九一一六 1 」う 鳥取』 ( 一九七一一・第一法規出 を込めて植えたのが芽生えて実を結んだという。県西部の豪 鳥取放送局開局 えんぎんだいせん 一一一県内初の百貨店丸由百貨店が鳥取駅前に開業 版 ) ▽岩永実著『鳥取県一九 = 七 円山 ( 大山町 ) の山頂に「豪僧豪円」の地蔵が立っている。 一三満州開拓団一七四人が入植 地誌考』 ( 一九大・記念論文一九 = 〈 関ヶ原の戦い後の国替のとき、米子中村藩は大山寺領の取り 一八鳥取大地震、一〇八三人死亡 集刊行会 ) ▽『鳥取県史』 込みを図った。住職の豪円はその圧力に屈せず抗議し、その 一一 0 米子医学専門学校開設、連合軍鳥取に進駐 一九四五 あんど おんねん 全一八冊 ( 一九六七 ~ 怨念によって藩主は死に中村氏は断絶し、寺領は安堵になっ 全・鳥取一〈咒 一一四鳥取大学開学 あんとく おかます 一一六日本バルプ米子工場 ( 現王子製紙 ) 立地 県 ) ▽野津龍著『生きて一 たという。県東部の岡益の里 ( 国府町 ) に「安徳天皇御陵参 毛鳥取大火、五二一八世帯罹災 一九至 いる民俗探訪鳥取』 ( 一九 考地」がある。台地にある謎の石堂が陵墓に擬せられたのは 三 0 人形峠で日本初の堆積型ウラン鉱床を発見 一九会 全・第一法規出版 ) ▽野 明治になってからのことである。平家一族とともに海底に沈 山陰海岸国立公園指定 にいのつばね 田久男・清水真一著『日本 んだ幼帝の後を追った祖母二位局は、泉ヶ谷に葬られたと 三三日本海テレピ開局 一九犬 たね 三七北条砂丘畑地灌漑事業完了 の古代遺跡 9 鳥取』 ( 一九 伝えている。鳥取砂丘の裏に「多鯰ケ池」という池がある。 四一中海地区、新産業都市に指定 盒・保育社 ) ▽『角川日本一突六 宮下の長者の娘お種は、前世の因縁により大蛇になる宿命に めし 四一一県営鳥取空港が開港 一九 地名大辞典引鳥取県』 あり、あるとき池に飛び込んでそこの主になった。それから 一九会 五八鳥取新都市開発整備事業の実施が認可される ( 一九全・角川書店 ) ▽『鳥 その池を多鯰ケ池とよぶようになったという。東郷町に羽衣 五九中国横断自動車道岡山ー米子線が起工 一九会 は′ ) ろも し 中国電力俣野川ダム発電所運転開始 取県大百科事典』 ( 一九会・ 石という地名があり、付近の大岩は天女が羽衣を干した所と 六 0 国鉄倉吉線廃止。第四〇回国民体育大会開催 伝えている。天女は羽衣を隠した男の女房になって子を生し新日本海新聞社 ) うえまちおうちだに てんじん 一九四三年 ( 昭和一八 ) には鳥取地震、五二年がある。上町の樗谿神社はかって因幡東照宮 鳥取 ( 市 ) と「とり鳥取県東部に位置する氏は天神山城 ( 鳥取市 ) に本拠を構えたが、一 のぶみち せんだい にはフェーン現象による大火災にあうなど災害とよばれた神社で、本殿、拝殿、唐門などは国 市。県庁所在地。市域北部は千代川下流域に形五四五年 ( 天文一四 ) 山名誠通は約六キ。東方の 成された鳥取平野、千代川の埋積作用や砂丘の鳥取久松山に出城を築き、一五七三年 ( 天正の多い都市であったが、耐震・耐火都市に変わの重要文化財。近くの観音院庭園は江戸中期の とよく・、 ・一やま せきこ 作庭で国の名勝に指定されている。このほか藩 発達などで理め残された潟湖の湖山池、日本海一 ) 山名豊はこの城を本城とした。鳥取城下り、南部では新都市整備計画が進行している。 おおわさ ばだい 沿いに発達した鳥取砂丘などからなり、南部は町の始まりである。一五八〇年鳥取城は柴秀〔産業〕城下町であり、第二次世界大戦前まで主池田氏の菩提寺興禅寺などがある。「大和佐 みのみこと きっかわっねいえ 吉により攻略され、一時毛利方の吉川経家が城は消費都市的傾向にあり、工業も食品、木工、美命神社の獅子舞」、「越路の雨乞踊」、「円通 中国山地と山地から流出する河谷からなる。 寺んよう 一八八九年 ( 明治一三 ) 市制施行。一九二 = 一主となったが、八一年経家も秀吉の攻撃を受け製糸に限られたが、戦後、鳥取三洋電機や日本寺人形芝居」は選択無形民俗文化財。このほか 年 ( 大正一 (l) 富桑村、三二年 ( 昭和七 ) 稲葉落城した。江戸時代は一六一七年 ( 元和 = l) 姫フェライト、鳥取エフワンなど電機・繊維縫製「因幡の傘踊」などの民俗芸能や、八月一五、 村、三三年中ノ郷、美保の二村、三七年賀露路から入封した池田光政が鳥取城主となり三十品工業の町となった。最近の工業出荷額は電一六日のしゃんしゃん祭などがある。 くらだおもかげかんどやま 市街地南西方には布勢運動公園と都市公園湖 村、五三年 ( 昭和二八 ) 倉田、面影、神戸、大二万石を領有、一六三二年 ( 寛永九 ) には岡山機、金属、衣服、食料、製紙の順で、県内一を 和、美、東郷、大正、千代水、豊実、明治、藩の池田光仲が移封され、廃藩置県まで池田氏誇っている。砂丘地帯では一九五五年 ( 昭和一一一山池や吉岡温泉がある。そのほか、因幡の白 松保、湖山、大郷、吉岡、末恒の一五村、五五の治下にあ 0 た。鳥取城の南方に掘削された外〇 ) から近代的な灌漑技術により畑地農業が安兎神話の兎海岸、荒木又右衛門や渡辺数馬、 またペえ 年米里村、六三年津ノ井村を編入。西日本旅客濠袋川は千代川河口の外港賀露に通じ、川舟や定した。近年は住宅地化が著しい。鳥取 ( 賀後藤又兵衛の墓などみるべき所が多い。湖山池 いかだ 鉄道山陰本線と時美線、国道九号、二九号、五筏が往来した。なお、江戸時代の中心街は鹿露 ) 港は沿岸・沖合漁業の基地で、カレイ、ズ東方には鳥取大学が立地する。 ゅうしゆっ 〔鳥取温泉〕鳥取駅北東部の市街地に湧出す 三号が通じ、鳥取砂丘にある鳥取空港は東京、野街道沿いであるが、明治になって中心は東方ワイガニなどの水揚げがあり、一万五〇〇〇ト、 , る温泉。一九〇四年 ( 明治三七 ) の発見。泉質 の智頭街道沿いに移り、明治末の山陰本線鳥取岸壁の整備が進められている。 大阪と結ぶ。人口一三万七〇六〇。囮 3 ばうしよう わかき一 〈岩永実〉 は含食塩芒硝泉。 〔文化・観光〕久松山鳥取城跡 ( 国の史跡 ) は り・〔歴史〕鳥取の地名は『古事記』の垂仁天皇の駅の設置で若桜街道沿いが中心街となった。一 やまじろ さんげ さんじよう AJ 条に記される「鳥取部」 ( 水鳥などを捕る部民 ) 九七八年 ( 昭和五三 ) には鳥取駅の高架化で駅山上の丸に戦国時代の山城城郭、山下に近世回『新修鳥取市史』 ( 一〈〈 = ・鳥取市 ) わみようしよう の城郭が残っている。内堀内には県立博物館と五万分の一地形図「浜坂」「若桜」「鳥取北 9 が居住した地とされ、『倭名鈔』の鳥取郷の周辺が市の中心となった。鳥取市街は低湿地に こんぶうかく 部」「鳥取南部」 明治時代の洋風建築仁風閣 ( 国の重要文化財 ) XJ 地。一四六六年 ( 文正一 ) ごろ因幡の守護山名あり、大正期までしばしば水害にみまわれた。 なそ やまな いおり あん みつまさ 一九会 ル・れがい 樗谿神社社殿 重文鳥取市 謂第ぐ 4 7 や . 01 しろ

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にほんか 四大島高任、釜石に洋式高炉建造、翌年より銑鉄製 日本科学史 / 略年表 造 ( 木炭製鉄 ) を開始 六世紀中葉、大陸より仏教伝来。五経・易・暦・一衾一文久一長崎製鉄所完成 ( 近代的重工業施設の最初。七一 年工部省長崎造船所となり、八七年三菱に払下げ ) 医博士ら、造仏寺工人ら来朝、古代文化進む 長崎に養生所設立 ( 最初の洋式病院、長崎海軍伝 六 0 七 ( 推古一五 ) 法隆寺建立 ( 建築技術の進歩 ) 習所教官として招かれたオランダ人ポンべの指 六四六大化一一大化改新。上地制度改革 導 ) 。種痘所 ( 五八年江戸に設立 ) を西洋医学所と 七 0 = 大宝一一大宝律令。天文・暦・医術などの職制・教育定む 改称 詣七天平一九東大寺大仏鋳造。天平建築進む 一一幕府、蕃書調所に数学科を設置。蕃書調所を洋書 九入延喜一八深根輔仁『本草和名』 調所と改称。さらに六三年開成所と改称、名実と 一 = 一九七応永四金閣寺建立。室町建築・城堡建築始まる もに洋学の教育研究機関とする 一茜 = 天文一一生野銀山開かれる。一七世紀初頭にかけて鉱山開 一〈六五慶応一幕府建設の横浜製鉄所竣工、横須賀製鉄所起工。 発著しい ( 石見銀山、甲斐・佐渡金山など ) 森有礼ら一九人ひそかにイギリス留学。六六年、 一二鉄砲伝来。種子島時堯、漂着ポルトガル船より鉄 幕府派遣の外山正一・菊池大麓らイギリス留学 砲購入 ( 西洋文明移入の始まり ) 三鹿児島藩、鹿児島紡績所 ( 磯之浜 ) 設立、機械紡 一八宣教師サピエル来朝、西洋暦法など伝える 績工業の始め。福沢諭吉『西洋事情』 一毫六天正四安上城完成。建築・築城技術の進歩 ( 八三年大坂 一〈六〈明治一戊辰戦争。明治政権成立。新政府、旧幕府の医学 城、八七年聚楽第、九四年伏見城など ) 所・学問所 ( 昌平学校 ) ・開成所 ( 開成学校 ) を復 一発〈慶長三太閤検地完了。検地・刀狩などにより封建的身分 興。福沢諭吉、英語塾を慶応義塾と名づける 秩序が確立、小農民の自立、農業生産力の発展促 政府、大学校を設立 ( 昌平学校を中心に、開成・ される 医学両学校を大学校分局とする ) 、高等教育と教育 一六 00 五イギリス人アダムス来朝、造船・航海術など伝える 行政の一一機能をもたせる。以後、開成学校は大学 一六 0 七 南校 ( 一 <?0 ) ↓南校 ( 一八七一 ) ↓第一大学区第一番 一六 = 一 0 寛永七禁書令 ( キリスト教関係書の輸入禁止 ) 中学 ( 一八七一 l) ↓開成学校 ( 一八七三 ) ↓東京開成学校 一六七 = 寛文二貝原益軒校訂『校正本草綱目』 ( 一八七四 ) と名を変え、医学校は大学東校 ( 一八七 0) ↓ 一六茜延宝一一関孝和『発微算法』 東校 ( 一八七 l) ↓第一大学区医学校 (l<?ll) ↓東京 一交四貞享一渋川春海『貞享暦』 医学校 ( 一八七四 ) と改称され、一八七七年合流して 一六九七元禄一 0 宮崎安貞『農業全書』 東京大学となる。六〇年代から七〇年にかけて全 一セ = 0 享保五禁書令緩和、実学奨励。蘭学勃興の契機 国で藩校改革行われる 七建部賢弘「綴術算経』 三工部省設置。東京ー横浜間に電信開通 一耄四安永三前野良沢・杉田玄白ら『解体新書』 四ドイツ人軍医ミュルレル、ホフマンを大学東校に 一耄六 五平賀源内、エレキテル完成 招き、医学教育体制が整備される ( ドイツ医学の 一大一一天明三大槻玄沢「蘭学階梯』 移入 ) 。文部省創設 一〈 00 寛政一一一伊能忠敬、日本全上の測量開始 五学制制定。新橋ー横浜間鉄道開通。官営富岡製糸 一全一文政四『大日本沿海輿地全図』完成 場開業。造兵寮で鉛室硫酸製造 六ドイツ人医師シーポルト長崎に来航、翌年、鳴 六工部省エ学寮工学校設立 ( 七七年工部大学校と改 塾を開く 称、八六年帝国大学工科大学となる ) 。地租改正。 八青地林宗『気海観瀾』 この年、各地の外国語学校九一校中、八二校は英 二シーポルト事件 語学校 一〈 = - 四天保五宇田川榕菴『植物啓源』 八松本良順ら、東京医学会社 ( 学会 ) 設立。東京気 八宇田川榕菴『舎密開宗』刊行開始 象台設立。新島襄、同志社創立。福沢諭吉『文明 九緒方洪庵、蘭学塾 ( 適々斎塾 ) を開く 論之概略』。全国の小学校数一一万四〇〇〇校以上 一 0 蛮社の獄 ( 渡辺崋山・高野長英投獄 ) 九アメリカ人地質学者ライマン『日本蝦夷地質要略 入哭嘉永一箕作阮甫『水蒸船説略』 之図』 ( 初の地質図 ) 。札幌農学校開校 四川本幸民『気海観瀾広義』 一 0 法・理・文・医の四学部からなる東京大学開設。 五佐賀藩で反射炉完成。以後、薩摩・韮山・水戸・長一全セ 東京数学会社設立、創立時会員一一七名 州で鉄製砲鋳造を目的とする反射炉築造が進む。 一一化学会設立、創立時会員一一四名。東京大学生物学 広瀬元恭『理学提要』 会第一回例会開催 ( 八五年東京動物学会と改称 ) 。 六アメリカの遣日国使ペリーが浦賀に来航 工部省電信中央局開業 ( 全国主要都市間電信網整 一〈会安政一一幕府、長崎に海軍伝習所設立。洋学所設立 備 ) 。東海道大井川架橋 ( 主要街道に架橋進む ) 一会六 三洋学所を蕃書調所と改称 一一一『本草綱目』伝来 天六七 入六九 一〈七 0 一会七 天実 日本への西洋数学の移入は長崎海軍伝習所などを経て始ま った。日本には和算の伝統があったが、一八七二年に小学校 教育での洋算の全面的採用が決まり、八六年教科書検定実施 に対応して、菊池、藤沢利喜太郎らによる中学校数学教科書 が現れ、一八八九 ~ 九七年には全国の中等数学教科書は菊 池・藤沢らによる教科書に画一化された。学会組織としては 東京数学会社が一八七七年に設立され ( 最初の学会の東京医 学会社は七五年 ) 、八四年東京数学物理学会に改組された ( 日本化学会は七八年、日本地震学会は八〇年設立 ) 。この 年、東大数学科の第一回卒業生が出ている。東大最初の物理 学教授は山川健次郎で、彼を助けて物理学教室を建設したの たなかだてあいきっ は田中館愛橘と長岡半太郎である。田中館は九一年教授とな り、一八八〇 ~ 九〇年代日本各地で地磁気測定を行った。長 岡は八七年に大学を卒業、八八年ニッケルの磁気歪について の研究を発表する。化学分野では桜井錠二がイギリス留学か ら帰り、八一年松井直吉とともに東大初の日本人化学教授と なり、以後、熱化学、分子量測定などについての研究成果を 発表する。ようやく日本の近代科学各分野の研究が起動し始 めたのである。この時期、とくに日本人の研究成果として名 きたさとしばさぶろう を高からしめたのは、北里柴三郎 ( 破傷風菌についての研 きよし 究、一会九 ~ 九 0 ) 、志賀潔 ( 赤痢菌の発見、天九七 ) 、池野精一郎 ( ソテッの精虫発見、天九六 ) 、大森房吉 ( 地震学・大森公式、 ひ、し 天九九 ) 、木村栄 ( 緯度変化 2 項発見、一九 0 一 D 、高峰譲吉 ( アド レナリン結晶単離・一九 0 一、タカジアスターゼ・一九 0 九 ) 、長岡 半太郎 ( 有核原子模型、一九 0 三 ) らの業績である。 産業革命の過程における工場制工業は紡績工業を中心に発 展するが、技術的にみて重要な点は、ミュール紡績機から新 鋭機リング紡績機への更新が急速に行われ、一八八九年にリ ング機の総台数がミュール機を上回った。先進国イギリスで とよだ はなお主流はミュール機であった。豊田佐吉は九七年に独創 的な小幅カ織機を完成、これは国内および満州・朝鮮での需 要に適合して急速に普及し、日本資本主義の満州市場支配の ための有力な武器となった。最大の輸出産業であった生糸製 造業は農村工業として展開したもので、器械製糸が座繰り製 り画ら′が 糸を凌駕し飛躍的発展をみせるのは一九世紀末以降になる。 近代的製銑技術の誕生は、釜石鉱山の払下げから出発した ゅうばめ 田中製鉄所が、一八九四年タ張炭を原料とするコークス製銑 のろかげ に成功したときである。このとき技術指導にあたった野呂景 やはた 義は、一九〇一年、操業を開始した八幡製鉄所が技術的困難 から操業を中止した際、それを解決し、〇四年操業再開を成 功させるうえで重要な役割を果たす。そうした能力をもっ技 9 カまいし

8. 日本大百科全書 17

キ、立長崎総合科学大学、私立長崎外語短大、佐世保市に長崎県ねたもので、踊るたびに華麗 長崎県 / 略年表 、立国際経済大学が新設されている。マスコミには県内一紙のな花が空中に舞う。念仏踊り 旧石器時代吉井町福井洞穴などの旧石器遺跡 カ『長崎新聞』、民放の長崎放送 (zno) 、テレビ長崎は離島部に独特のものが多 縄文時代島原市礫石原などの縄文遺跡 、・りい・な く、オーモンデー ( 三井楽 オ z) がある。 さカ いしムう 弥生時代岐宿町寄神貝塚などの弥生遺跡 〔生活文化〕「京の女郎に長崎衣裳 : : : 」といわれるほど江町 ) は嵯峨ノ島に伝承された 古墳時代芦辺町鬼の岩屋などの古墳 っしま 念仏踊りで南方系のものとい 六六四 ( 天智三 ) 対馬、壱岐などに防人と烽を置く 戸時代の天領長崎の服装は華美ではでなものだったという。 かねかた かまど 六 ) 対騎に旺城を築く 外国人と接触する長崎人の体面を保っために配分された竈われる。踊り手、鉦方ともに めいはく ぎん 六七一 (0) 対馬に唐国使ら一一〇〇〇人来航 銀に支えられた豊かさもあったためであろう。金銀縫箔の衣男性。チャンココ踊り ( 福江 ゅびがね さんご 七 0 一大宝一対馬が金を貢納、年号を大宝と定める 類を用い、べっこう、珊瑚などの髪飾り、それに指鉄 ( 指市 ) もオーモンデーと同形の 七三七天平九東国の防人の任務を解除し、かわって九州の 輪 ) などのトップモードも加わっていた。明治以後、活動的踊りである。ジャンガラ念仏 兵士をあてる 一三壱岐・対馬に国分寺 ( 島分寺 ) を置く で簡素な服装になったとはいえ、現在でも高級衣料や貴金属 ( 平戸市 ) は前一一者と同類の 七延暦一四壱岐・対馬を除き防人を廃する 念仏踊りであるが、踊り手、 の売れ行きはほかの都市より大きいといわれる。 のばり 一一四第一九回遣唐使第一船、対馬陣村に帰着 長崎の正月料理には、寒ブリと鯨肉とは欠かせないものと鉦方のほかに太鼓、幟が多く 一 0 一九寛仁三刀伊の賊、壱岐・対馬・松浦方面を荒らす ひやくひろ された。鯨の腸をゆでた百尋は長寿のめでたい料理。鯨肉加わり、武家色が濃く、三〇 = 九一建久 = 栄西、帰国の途中平戸に寄泊する あ = 三六嘉禄二松浦党、数十隻の兵船で高麗沿岸を襲う に熱湯を通したおばいけの酢みそ和えも珍味である。島原半人余が集団をなして踊る。対 かぶきじようる ぐぞうに = 一詣文永一一蒙古軍、対馬・壱岐に上陸 ( 文永の役 ) 馬の盆踊りは、歌舞伎、浄瑠 島にはガンバ ( 河豚料理 ) や具雑煮、五島の奈良尾には紀州 一もち - きずし = 入一弘安四蒙古軍、対馬・壱岐に上陸するが、鷹島付近 の漁民が伝えた紀鮨がある。対馬のそば、五島のかんころ餅璃の影響を受け、盆狂言とよ で大風のため全滅 ( 弘安の役 ) さらやま はさみ ばれる。皿山 ( 波佐見町 ) に も食品的特産。南蛮、中国料理の導入による長崎の料理には 一五一 0 永正七三浦の乱起こり、宗盛順、釜山浦を攻撃する ちわた ふちゃ しつばく は皿山人形浄瑠璃、千綿 ( 東一会 0 天文元ポルトガル船、平戸に入港。ザビエル平戸布教 卓袱料理、普茶料理、ちゃんばん、皿うどん、南蛮菓子とし 一五永禄八ポルトガル船、大村領福田に入港 てカステラがある。 彼杵町 ) には人形芝居の芸能 一 0 アルメイダ、長崎布教。ポルトガル船、ロ之 長崎市内の商家は京都風で間口が狭く、細長い敷地の奥深が継承されている。 津入港 くに部屋をつくり、中間に小庭をつくり、またここで採光し〔文化財〕旧石器 ~ 縄文時代一 = 七一兀亀一一大村純忠、長崎六町の地割を行う。ポルトガ ル船、初めて長崎に入港 ( 七〇年説もある ) ている。急な坂の町では道路に沿った二階に玄関を設け、階の福井洞穴 ( 吉井町 ) 遺跡を ハリニャーノ神父、ロ之津に来航 はじめ、縄文、弥生の遺跡や亳〈天正七 下に食堂や居間をつくっている。 じゃ 一 0 天正少年遣欧使節、長崎を出発 〔民俗芸能〕長崎くんちの奉納踊りは諏訪神社の神事で、竜古墳群が数多く発掘されてい 一大四 一一一龍造寺隆信、有馬・島津連合軍と戦い戦死 おどり 踊など中国の影響を受けたものが多い。平戸市の亀岡神社る。縄文、弥生遺跡は壱岐、 一五九 0 一八少年使節長崎に帰着、活字印刷機を将来する かぐら で奉納される平戸神楽は二四番あり、神職だけが伝承する一一対馬に多く、古墳は全県に広堯七慶長一一長崎西坂で一一十六聖人殉教 けんまい 一四平戸にオランダ商館設立 剣の舞は真剣を両手に持ち、白刃を口にくわえて回転する神がるが、規模の小さいことを 一六一六元和一一蘭・英貿易を平戸・長崎二港に制限 技が奉納される。壱岐神楽は島内各神社の神職によって伝承特色としている。六六七年 八長崎でキリシタン五五人を処刑 ( 元和大殉教 ) かね ゆだち され、四種目の神楽のはか湯立神楽を伴い、二剣の舞も奉納 ( 天智天皇六 ) に築かれた金一一 = 一寛永一 = 長崎に出島を構築、ポルトガル人を収容する あそう かいず たのき 一四島原・天草一揆起こる される。以上三件は国の重要無形民俗文化財である。貝津神田城跡 ( 特別史跡 ) は浅茅湾 ししまい じようやまみつしま みいらく 一六四一 一八平戸オランダ商館を長崎出島に移す 社 ( 三井楽町 ) では神楽に付属していた獅子舞が正月行事と岸の城山 ( 美津島町 ) を利 ふりゅう 一六老明暦一一一大村領内でキリシタン六〇〇余人が捕らえら こおり ( ず して氏子の家を回る。浮立は鬼面や仮装で踊る華やかな芸能用した朝鮭式山城で、石塁が きど れる ( 郡崩れ ) で、県下至る所で行われる。坂本浮立 ( 東彼杵町 ) は神楽山体を取り巻き、一ノ城戸、 一六七 = 一延宝一長崎奉行所を立山に新設 二ノ城戸、三ノ城戸の水門の 一穴九元禄一一長崎に唐人屋敷完成 浮立とよばれる大村藩の御用浮立で、井崎まっこみ浮立 ( 小 くろかみ じんだて 長井町 ) は諫早領の陣立浮立である。佐世保市黒髪町には木遺構がある。中世、県北の諸実 = 天明 = 大村藩松島炭鉱開坑 あま 1 」 一合四文化一口シア使節レザノフ、長崎に来航 堺浮立がある。いずれも雨乞いや豊年祝いの行事、祭礼に演島が大陸との文化交流を行っ くろまる こうらいぶつ おきた 天 0 〈 五フェートン号事件起こる じられる。勇壮な武家姿が主役をなす踊りに黒丸踊り、沖田た証左として高麗仏、仏典、 一全四文政七シーポルト、鳴滝塾を開く たかしま 踊り、鷹島踊りがある。黒丸踊り ( 大村市 ) は、武家衆八人経巻などの文化財がある。海蓁四元治一大浦天主堂完成 しん によらい が胸に大太鼓を抱き、背中に花からいを差して踊る。花から神神社 ( 峰町 ) の銅造如来立一〈一〈明治一長崎奉行廃止、長崎府を開設。佐賀藩、グラ ーと高島炭鉱の共同経営を始める いはそれそれ一五個の花をつけた長さ三の小竹を八一本束像 ( 国指定重要文化財、以下 ひがしそのぎ みね か っ さ、、もワ とぶひ 414

9. 日本大百科全書 17

にほん 李節区分晩冬初春春晩春初夏梅雨夏晩夏初秋秋雨秋晩秋初冬 時 7 5 4 相対湿度 80 60 冬 日本の季節区分 匚こコ日照時間 匚こコ日降水量 相対湿度 日月文局 . 冫皿 日最低気温 日照時問 日降水量 10mm 日皿℃ O CD O 5 0 気 3 2 1 日皿 均 平 100 % ロ I 型 : 西高東低型 ( 冬型 ) ロⅡ型 : 気圧の谷型 匚コⅢ型 : 移動性高気圧型 ロⅣ型 : 栴雨前線または秋雨前線型 v 型 : 南高北低型 ( 夏型 ) Ⅵ型 : 台風型 Ⅶ型・Ⅷ型 : 移行型・複合型 注 : 各 , 季節における気圧配置の出現頻度 ( % ) ( ド ) , ただし東京における各李節の気候要素の値 ( い ( 吉野正敏他 1977 ) 気圧配置型 の出現頻度 1 1 1 21 1 11 21 1 〔春〕一年の一二か月を四等分したときには、三、四、五月る。秋晴れの好天、暑くもなく寒くもなく、収穫、秋祭、ス を春とするが、気圧配置暦、つまり、それそれの季節を性格ポーツで代表される。一一月三日は文化の日であるが、気候 づける気圧配置型の出現頻度からみてつくった暦からみるの立場からは移動性高気圧に覆われて好天になる確率が非常 に高い日である。一一月四日以降は北国からは雪便り、中央 と、春は三月一日から五月二一日までとされ、このなかを細 日本でも初氷の報告が珍しくなくなる。 分すると、初春が三月一日から一七日、春が三月一八日から 五月四日まで、晩春が五月五日から一一一日までである。気温〔冬〕気圧配置暦で特徴ある「西高東低」の冬型気圧配置の は一進一退を繰り返しながら上昇する。一つの低気圧の通過頻度からみると、初冬は一一月二六日から一二月二五日、冬 二二日ごろは ( 真冬 ) は一二月二六日から一月三一日、晩冬は二月一日か するごとに暖かくなる。四月三、四日、二一、 なたねづゅ ら二八日までとなる。 曇りか雨が多く、後者を「菜種梅雨」とよぶ。五月二、三日 冬の季節風がしだいに勢力をつけ、日本海側では雪の季節 ごろの移動性高気圧に覆われた明け方には放射冷却で冷え込 み、中部日本では霜が降り、「八十八夜の別れ霜」とよび、となり、海は荒れる。それと対照的に太平洋側では晴天が多 2 月 くなり、山間地では気温の逆転によって、気温の低い空気が ⅱ 9 養蚕が盛んであったころはクワの霜害が心配され、最近でも たまる状態、すなわち冷気湖 ( 寒気湖ともいう ) が発達し、 幻月果樹などの霜害がある。 8 〔夏〕気圧配置暦からは、初夏は五月二二日から六月一〇明け方、霧が出ることが多い。日中は晴れる。 クリスマスごろ、寒さが弱まることが多い。これは全世界 日、梅雨が六月一一日から七月一六日、夏 ( 盛夏 ) が七月一 七日から八月七日、晩夏が八月八日から二〇日までとされ的なものである。正月からは寒さが厳しく、日本海側の積雪 る。新緑の候が、しだいに濃い緑に包まれる。鳥や昆虫の動は日ごとに深くなる。スキー・シーズンである。豪雪地帯で きが活発になり、木々の花が盛りを過ぎるころには梅雨の空は雪に悩まされる毎日を送らなければならない。二月四、五 日ごろは冬型気圧配置の出現頻度が少なく寒さが弱まること が現れる。五月の下旬には「走り梅雨」が沖縄からの便りに が多いが、その後、「寒の戻り」となって、厳しい冬に逆戻 聞かれる。六月一一日からとされる梅雨は、もちろん西南日 月本ではもっと早く、東北日本ではもっと遅くなる。これは前りする。二月も下旬になると、日中の長さが長くなってくる 線帯が北上するのに時間がかかるためである。また、梅雨はのにつれて、早くも西南日本からは春便りがやってくる。↓ 〈吉野正敏〉 月年による差が大きく、同じ土地でも、早い年・遅い年の差が寒 3 〔海洋〕〔日本付近の海況〕日本列島は、熱帯から亜寒帯ま あり、雨の降り方も著しい差があるのが特徴である。七月に 月 で二四〇〇キロメートルにもわたって南北に長く連なる。した なると「梅雨末期の集中豪雨」があり、九州や山陰から北 2 がって、海洋の熱帯循環と亜寒帯循環とによる両方の海流が 陸・東北地方にかけての日本海側では集中豪雨による被害も おがさわら 大きい。例年は七月一七日から小笠原高気圧に覆われた真夏日本近海を流れ、しかも太平洋の西縁部にあたるので西岸強 化作用を受け、強い流れとなっている。↓海流 または盛夏とよばれる、高温で多湿の季節を迎える。このこ 熱帯循環に乗って、日本付近を南から北上してくるのが黒 ろ海岸部では海陸風が発達する。八月六日ごろにはいったん 小笠原高気圧の勢力が弱って、暑さが弱まるが、その後また潮であり、亜寒帯循環に乗って北から南下してくるのが親潮 暑さが戻り、これを残暑という。日本の南には台風が現れ、である。 〔黒潮と親潮〕黒潮は、日射が強く、大陸から遠く離れて陸 西南日本を襲う。↓集中豪雨↓梅雨 〔秋〕気圧配置暦からは、初秋は八月二一日から九月一一水の流入のない赤道海域に源を発するので、高温 ( 一三度 0 以上 ) 、高塩分 ( 約三四・八 ) で、微細な泥砂やプランクト 日、秋雨は九月一二日から一〇月九日、秋は一〇月一〇日か のうへき ンも少なく、著しく透明で濃碧色を呈する。これに対し親潮 ら一一月三日、晩秋は一一月四日から二五日までとされる。 ーリング海に端を発し、河川水の流 八月下旬には台風が本土に上陸することが多く、初秋は台風は、寒冷で大陸に近いべ の季節でもある。しかし、台風一過、秋晴れとさわやかな涼入の激しいオホーック海の海水を合しているので、低温 ( 中 心部約二度 O ) 、低塩分 ( 三三・五以下 ) のうえに、陸地か しさを迎えることが多い。秋雨は、本来は梅雨と対をなす前 線帯に伴う陰うつな天候の季節であるが、台風活動と重なるらの細かい土砂やプランクトンも多く、透明度は小さく、緑 ないし青緑色をしている。したがって、黒潮と親潮は、船上 と、大雨が降り自然災害をもたらす。 一〇月中・下旬は秋たけなわ、日本では最良の気候を迎えから一見して識別できる。黒潮と親潮とがぶつかり合うと両 1 1 1 21 1 1 1 21 1 1 月 1 2 月 1 月 1 1 21 1 1 1 21 1 1 1 21 1 1 1 21 1 5 月 6 月 7 月

10. 日本大百科全書 17

とらんふ フランス⑨⑩⑩ル・フロランタン・カード ハンガリー⑩どんぐり⑩ベル チェコスロパキア⑩どんぐり@葉⑩ベル インド @⑩⑩木の皮に手書きのカード ェチオビア①① 現代のカード スペイン⑥剣⑦棍棒⑧聖杯 ウルグアイ④剣⑤聖杯 アメリカ①②③ティファニー社製のカード ◆ スイス⑩どんぐり⑩葉⑩ベル ◆ ソ連 @@@ トランプ生産 150 周年記念カード 中国⑩@⑩水滸伝カード EST 工第 イスラエル④①@ MADE ISRAEL 韓国 @⑩ ニュージーランド⑩④ 〔カードの誕生〕一四世紀の末期から一五世紀 の初頭に、タロットから二二枚の大アルカナを 落として五六枚一組のカードがフランスでつく られた。これが基になり、絵札のうちの騎士が なくなり、各スーツ一三枚、計五二枚一組の現 在のカードになった。現在のカードで兵士・召 使いを表す力ードをジャックとよぶのは、ジャ ックという名が、日本でいう太郎などと同じに 一般的な名前だからである。 各スーツのマークも、剣・棍棒・聖杯・貨幣 からいろいろと変化した。ドイツではどんぐ ト、ベルのスーツを、フランスで り、葉、 ま剣、ハート、ダイヤモンド、棍棒のスーツを 使っている。現在のスーツ、スペード、 ト、ダイヤモンド、クラブはフランスのスーツ の変化したものである。スペード spade は剣 の変形で、イタリア語の剣を意味する spada からきており、英語の spade ( 鋤 ) の意味は ない。ダイヤモンドは貨幣の変形である。クラ ーの葉のよ プ club は棍棒のことで、クロー うな三つ葉を用いているが、古いカードを見る ーのような三つ葉がついてい と棍棒にクロー るものがあり、この三つ葉を棍棒の代用にした 。ハート heart は文字どおり心臓で、 のである 聖杯のかわりに用いられたものである。 一四世紀までのカードは手書きであったので 高価であったが、一五世紀に入り、印刷術の発 達に伴って、木版刷りで大量生産されるように なって、安価になり一般にも普及した。裏のデ ザインもきれいなものになり、一九世紀末期イ ギリスにおいて、隅を丸く落とし、隅にインデ ックスをつけ、絵札を両頭にして、現在用いら れているようなカードになった。 日本には戦国時代にスペイン、ポルトガルか ら伝来したカードを変形させた「うんすんかる てんしよう た」「天正かるた」とよばれるものがあり、さ らにそれが「花札」に変化していったのであ る。↓かるた↓花札 おもなカードゲーム 現在行われているカードゲームの種類は非常 に多い。しかし、基本的に同じような遊び方を グループとして系統的にみれば、ホイストを中 、いにしたホイスト系のゲーム、ラミーをはじめ とするラミー系のゲーム、ストッブ系のゲー ム、ポーカー系のゲーム、およびその他のゲー ムに大別できる。 すき 253