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1. 日本大百科全書 17

なおびの 直木賞 / 受賞作品・作家名一覧 回年度期作品名 作家名 回年度期作品名 作家名 回年度期作品名 作家名 1 昭和 10 上鶴八鶴次郎はか 川口松太郎 39 昭和 33 上花のれん 山崎豊子 70 下 鷲尾雨工 2 下吉野朝太平記 赤い雪 榛葉英治 71 昭和 49 上鬼の詩 藤本義一 海音寺潮五郎 40 3 昭和 11 上天正女合戦 下総会屋錦城 城山三郎 72 半村良 下雨やどり 木々高太郎 下人生の阿呆 落ちる 4 多岐川恭 井出孫六 アトラス伝説 41 昭和 34 上馬淵川 5 昭和 12 上 渡辺喜恵子 73 昭和 50 上 下ジョン万次郎漂流記井伏鱒二 6 鏨師 平岩弓枝 74 下復讐するは我にあり佐木隆三 下罩あ城 7 昭和 13 上ナリン殿下への回想橘外男 42 司馬遼太郎 75 昭和 51 上 下兜首ほか 大池唯雄 団十郎切腹事件 8 戸板康二 76 三好京三 下子育てごっこ 43 昭和 35 上錯乱 9 昭和 14 上 池波正太郎 77 昭和 52 上 下 44 下はぐれ念仏 寺内大吉 78 下 堤千代 11 昭和 15 上小指 背徳のメス 黒岩重吾 79 昭和 53 上深重の海 津本陽 軍事郵便 河内仙介 45 昭和 36 上雁の寺 水上勉 離婚 色川武大 下上総風上記 村上元三 下螢の河 46 伊藤桂一 80 下一絃の琴 宮尾登美子 13 昭和 16 上雲南守備兵 木村荘十 47 昭和 37 上天才と狂人の間 杉森久英 大浪花諸人往来 有明夏夫 下 48 下江分利満氏の優稚な山口瞳 81 昭和 54 上浪曲師朝日丸の話はか田中小実昌 15 昭和 17 上 生活 短篇集ナポレオン狂阿刀田 杉本苑子 82 下寛容 神崎武雄 孤愁の岸 下 田岡典夫 49 昭和 38 上女のいくさ 強情いちご 佐藤得二 83 昭和 55 上黄色い牙 志茂田景樹 下巷談本牧亭 安藤鶴夫 17 昭和 18 上 50 花の名前はか 向田邦子 下山畠はか 塵の中 森荘已池 和田芳恵 84 下元首の謀叛 中村正帆 19 昭和 19 上ニューギニヤ山岳戦岡田誠三 51 昭和 39 上 85 昭和 56 上人間万事寒翁が丙午青島幸男 下炎環 永井路子 86 52 下 20 下蒲田行進曲 ー ) 力、こう / 、し、 富田常雄 張少子の話 安西篤子 21 昭和 24 上面ほか 機雷 光岡明 山田克郎 53 昭和 40 上虹 藤井重夫 87 昭和 57 上炎熱商人 下海の廃園 22 深田祐介 23 昭和 25 上天皇の帽子 今日出海 54 下八百長 新橋遊吉 時代屋の女房 村松友視 虜愁記 千葉治平 88 執行猶予 小山いと子 下 下長恨歌はか 一雄 55 昭和 41 上白い罌粟 檀 立原正秋 89 昭和 58 上黒パン俘虜記 24 胡桃沢耕史 下蒼ざめた馬を見よ五木寛之 90 25 昭和 26 上英語屋さん 源氏鶏太 56 下私生活 神吉拓郎 下鈴木お汞 久生十蘭 57 昭和 42 上追いつめる 生島治郎 26 秘伝 高橋治 下アメリカひしきはか野坂昭如 イエスの裔 58 柴田錬三郎 昭和 59 上恋文 連城三紀彦 27 昭和 27 上罪な女 藤原審爾 てんのし村 難波利三 彗当少 - 女 三好徹 立野信之 59 昭和 43 上 下叛乱 92 28 下 下青玉獅子香炉 60 29 昭和 28 上 陳舜臣 93 昭和 60 上演歌の虫はか 山口洋子 僑人の檻 早乙女貢 94 下 下魚河岸ものがたり森田誠吾 30 有馬頼義 61 昭和 44 上戦いすんで日が暮れて佐藤愛子 31 昭和 29 上終身未決囚 最終便に間に合えはほか林真理子 下ポロ家の春秋 梅崎春生 62 下 95 昭和 61 上恋紅 32 皆川博子 戸川幸夫 63 昭和 45 上軍旗はためく下に 高安犬物語 結城昌治 96 下カディスの赤い星逢坂剛 33 昭和 30 上 光と影 渡辺淳一 遠いアメリカ 常盤新平 64 下強力伝 新田次郎 下長良川 豊田穣 97 昭和 62 上ソウル・ミュージック・山田詠美 34 邱永漢 65 昭和 46 上 香港 ラバーズ・オンリー 35 昭和 31 上燈台鬼 南条範夫 66 下 海狠伝 白石一郎 壁の花 67 昭和 47 上手鎖心中 下それぞれの終楽章阿部牧郎 下お吟さま 今東光 斬 ( ざん ) 穂積驚 68 昭和 47 下 勝島 37 昭和 32 上ルソンの谷間 江崎誠致 69 昭和 48 上暗殺の年輸 下 38 津軽世去れ節はか 注 : E = 上半期 ( 12 ~ 5 月 ) ド = ト半期 ( 6 ~ 11 月 ) 昭和 20 ~ 23 年中止 たがむし 井上ひさし 98 綱淵謙錠 藤沢周平 長部日出雄 36 該当作品なし もに廃された。南朝軍の京都進入で光厳、光 みよう やましろやわた 明、崇光三上皇とともに山城八幡 ( 京都府八 3 やまとあのう 幡市 ) に移され、のち大和賀名生 ( 奈良県吉野 郡 ) に幽閉された。一三五七年 ( 延文二・正平 一一 D に帰京し、出家して花園上皇の御所であ はぎわらどの った萩原殿に住した。 ^ 佐々木久彦〉 もとおりのりなが 直毘霊なおびのみたま本居宣長の古道論書。 一巻。一七七一年 ( 明和八 ) 稿本 ( 『直霊』 ) が成り、のち彼の主著『古事記伝』の総論の一 かもまぶち 部としてその第一巻に収められた。賀茂真淵の 『国意考』と並んで復古神道 ( 古学神道 ) を代 表する書である。日本の古代こそが平和と人間 性の完全な開花が実現した理想世界であり、そ あまてらすおおみかみ れは神々の計らいを信じ、日神天照大神を祖 神とする代々の天皇の統治に随順した古代人の 生き方によってもたらされたものであるとし、 この古代人の姿こそが真の神道であると説く。 それに対して、儒教や仏教は人間がその限りあ る知恵をもってつくりだしたものにすぎす、人 情に反するばかりか、人間の本性をもゆがめて しまうとして激しくこれを排斥している。↓本 居宣長↓古事記伝 〈高橋美由紀〉 直会なおらい神祭りにおいて、神に供え おぜんさいしよく たものと同様の御膳 ( 斎食 ) 、あるいは、神に みき しんせん 供えた神酒や神饌のお下がりをちょうだいする 行事をいう。一般には神祭りの最後に行われる ことから、これは神祭りに仕えるために、斎戒 して清浄なる状態になったのを、祭りが終わっ て平常に戻ること、すなわち解斎と説かれる が、もともとは祭りのなかで斎食を頂くことで にいなめ あった。宮中の新嘗祭では、祭儀の中心におい て、神々との共食を直会と称し、京都の賀茂 わけいかづち みあれ 別雷 ( 上賀茂 ) 神社の御阿礼神事 ( 神迎えの 祭祀 ) では、祭場にて、神迎えに先だち、神酒 ) ) りよう と「掴みの御料」 ( 混ぜご飯のようなもの ) を 頂くことを直会と称しているなど、本来の直会 の形式が今日もなお継承されている。直会を解 もとおりのりなが 斎と説いたのは本居宣長である。すなわち、 ものいみ なほりあひつづま 「奈保理阿比の切れる也、直るとは、斎をゆる つねかへ しよっぎ しようし力い べて、平常に復る意也」 ( 『続紀歴朝詔詞解』 ) と。以来、直会と解斎とが混同されてきたので ある。 〈沼部春友〉 直りなおり鉱床中の富鉱体に使う日本古 来の鉱山用語。鉱床中の鉱石の品位はどこも同 じということはまれで、多くの場合、ある部分 、。ゝ、ま力の では鉱体の規模が大きく品位もよしカ 部分では採掘限界品位以下で採掘の対象となら イ ~ い者 ~ し

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. ト . . トー 一 , タ帝 レ紀女 ん史プ紲テ⑥ガカス の世ッグの 剣 ( ⑨ウン AJ プ「フ一ス⑤魔トイラ カビ悪ュ一 ) イド ④外⑨トシレ⑩一 ラ ~ ン ~ ッ死⑩プ紲 ~ カ ト①イ⑤ロ⑦⑩の c ⑩ス @~ ⑩ポルトガルのド 一、・魲多第を分・参のま 0 こ「貪 ⑩⑩イギリス ( 19 世紀 ) シングルヘッドで , カードの隅が角張っている ⑩ ~@ ドイツ四大陸カード ( 19 世紀 ) ⑩⑩アメリカ ( 19 世紀後半 ) シングルへ ッドだが , 隅が丸くなっている から、発生をエジプトに求めたものである。 以上のようにいろいろな起源説があるが、確 2 実なのは、東洋で発生しそれがヨーロッパに伝 えられ現在の形態になったということである。 〔変遷〕東洋に発生したカードがヨーロッパに 伝わったのは一一世紀から一三世紀の間と推定 され、一四世紀には確実な証拠が残っている。 リの国立図書館にフランスのシャルル六世の ために描かれたカードが一七枚所蔵されている が、これは一三九二年のもので、現存する最古 のカードである。 東洋からヨーロッパに伝わったことにつし て、もっとも有力な説は、ジプシーが持ち込ん だという説であるが、このほかイスラム教徒が 文芸・娯楽とともに持ち込んだという説、およ び一一世紀に遠征した十字軍の兵士が持ち帰っ たという説などがある。 〔タロット〕 tarot (cards) ヨーロッパにお タロッキ ta- ける古い形態はタロー tarot 冖ラ、 rocchi タロック tarok とよばれてい るカードである。これはイタリアでつくられた と推定されるが、他の説もある。タローは日本 では一般にはタロットとよばれている。 タロットは、アツウ atout とよばれる切札 一三枚 ( 正しくは二一枚と添札一枚 ) と五六枚 のカードの計七八枚一組である。二二枚の切札 は、一から二一までの番号をつけてある寓意画 そえふだ の札と道化を描いた添札一枚からなっている。 寓意画は時代によって異なるが、一般的なもの は、魔術師・女教皇・女帝・皇帝・法王・恋 人・戦車・正義・隠者・運命の車輪・権力・吊 るし人・死・節制・悪魘・塔・星・月・太陽・ 審判・世界である。これらのカードは人生の縮 図であり、人間の種々の欲望や活動を表したも のである。添札には、おかしな服装をした道化 くせ 1 一と が曲事と悪徳の詰まった袋を背負って歩いてい る絵が描かれている。この添札が現代のジョー カー」 oker になった。ほかの五六枚のカード こんまう 、剣・棍棒・聖杯・貨幣の四種のスーツがあ り、各スーツは 1 から川までの数のカードと 王・女王・騎士・兵士の絵札からなっている。 そうりよ 剣は王侯・貴族、棍棒は農民、聖杯は僧侶、貨 幣は商人を象徴したもので、これは中世におけ る社会階級を表している。タロット七八枚のう ち二二枚のアツウを大アルカナ ( あるいは大タ ロット ) 、残りの五六枚を小アルカナ ( 小タロ ット ) とよんでいる。

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ら奈良市のおもな祭礼・年中行事 な 若草山の山焼き一月一五日若草山 春日大社万灯籠二月三日春日大社 花会式 春日祭 聖武祭 た , ぎのう ・東大寺と興福寺の境界争いに始まる行事とも、 正月のトンド行事ともいう。夕刻、両寺の衆徒が 、まっ 春日大社の神火を椌明に移し、若草山麓の野上神 しめなわ 社で集められた注連縄を焼く。そのあと、一八時 に山裾の枯れ草に点火、全山は火に包まれる ・節分の日と八月一五日の疫神祭の夕刻、境内の石 灯籠一一〇〇〇余と、社殿廻廊の釣灯籠一〇〇〇余 に一斉に火がともされる ・三月一日ー一四日に行われる本尊十一面観音への しゅ 悔過法要 ( 修「一会 ) の一つで、一二日深夜、一一月 堂下の若狭井の水をくみ本尊に供える行法。これ に先だち、籠松明の先導で練行衆が上堂するが、回 廊で振り回す松明の火の粉を浴びると厄除けにな るとい 、大ぜいの見物客が集まる いわしみず ・勅使が参向し、賀茂・石清水両社の祭礼とともに三 みといき 勅祭という。御戸開神事、着到殿の儀などのあと、 献饌、神馬曳回しなど古式を伝える行事が続く ・一一〇七年 ( 嘉承一 l) 堀河天皇は皇后の病気平癒 を薬師如来に祈願、本復後造花を献したことに始 まる。薬師三尊に一〇種一二瓶の造花が献しられ 法要が営まれる。五日夜には鬼追の行事がある 五月二日東大寺大仏殿・聖武天皇の遺徳をたたえる祭り。大仏殿での法要 後、天平装束の稚児を先頭に、荒法師、各時代の 装束をまとった人々が三条通を練り歩く ・興福寺に奉納された神事猿楽から発展した。呪師 走りの儀のあと、南大門跡の舞台で四流の家元が 能狂言五番を競演する。夕刻から篝火が焚かれ薪 能の雰囲気を盛り上げる ・唐招提寺中興の祖覚盛和上は講義中力に刺されて も殺さす血を吸わせたという。これに感動した法 華寺の尼が団扇を献した故事にちなみ、上人の忌 日に鼓楼上から団扇と御供の餅が撤かれる ・鎮花祭の一つ。山地のユリの花を神前に供え、神 楽が奉納される。男女の童子がユリをかざして市 内を行列する ならずひこ 奈良豆比古神社一〇月八日奈良豆比古神社・天智天皇の孫春日王の病気平癒を祈願して一一皇子 が舞を奉納したのが始まりという。篝火が焚かれ の翁舞 るなか、千歳舞、太夫舞などが舞われ、三番叟の 舞で終わる ・雄鹿の角が人間に危害を加えることがあり、この 時期神官が切り落とす。江戸時代に始まる行事で、 角は神前に供えられる 正倉院展 一〇月下旬、奈良国立博物館・聖武天皇遺愛の約九〇〇〇点の正倉院御物の一部 を曝涼 ( 虫干し ) を兼ねて公開する 一一月上旬 ・平安末期、全国的に飢饉・疫病にみまわれた。関 春日若宮御祭一二月一六春日大社 白藤原忠通は若宮を勧請し、悪疫追放、五穀豊穣 一八日 を祈願したのに始まる。一七日の本祭には御旅所 前の芝舞台で各種の芸能が奉納される おみずとり 御水取 ・ 1 ・つわま 団扇撤き 三枝祭 神鹿の角切り一〇月初旬春日大社 三月一三日春日大社 三月三〇日薬師寺 ー四月五日 五月一一ー 五月一九日唐招提寺 六月一七日率川神社 三月一二日東大寺一一月堂 興福寺 かがり味し みち 工芸品で重要文化財に指定されているものは約は、七二一年 ( 養老五 ) 創建の喜光寺、菅原道 ぎねまっ 真を祀る菅原神社がある。 五〇〇件、うち国宝は約一一一〇件を数える。 ちゅういん 奈良市街地の中院町は、、 しまも軒の低い古 一方、一九六〇年以降、地域開発の急進展 は、文化遺産に付随する自然景観などを破壊す風な家並みを残すが、その一隅に南都七大寺の がんごう るおそれがでてきたので、六六年に制定された一つとして繁栄した元興寺の僧坊極楽坊本堂 ぎようきぶ ( 国宝、鎌倉時代 ) があり、行基葺きとよばれ 古都保存法に基づいて春日山、平城京跡など六 がわら じゅうりん つの歴史的風土特別保存地区と、春日山、佐保る屋根瓦の重なりが美しい。十輪院は元興寺 山など六つの風致地区を指定し、地区内の開発の別院で、本堂 ( 国宝、鎌倉時代 ) 、南門など たかばたけ を残している。奈良公園の南の高畑町には新 を規制することになった。 市内観光第一の見どころは市街地東部に広が薬師寺がある。本堂 ( 国宝、鎌倉時代 ) には十 二神将 ( 一体を除いて国宝 ) を安置する。新薬 る奈良公園 ( 国の名勝 ) で、若草山、春日山、 びやくごう たかまど 御蓋山、高円山や、その西麓一帯を含み、杉木師寺の南東方、高円山麓には白毫寺がある。 やますそ みわやま とびひのあさじ 立の間、飛火野、浅茅ヶ原の芝生を一〇〇〇頭高円山などの山裾には三輪山 ( 桜井市 ) へ至る やまのべ を超えるシカ ( 国の天然記念物 ) の群れが遊山辺の道が通じ、一帯は大和青垣国定公園に指 えんしよう ぶ。大仏殿、法華堂など国宝建造物の多い東大定されている。山辺の道に沿って、尼寺円照 しようれき やまむら あしゆら 寺、阿修羅像 ( 国宝 ) など天平彫刻を所蔵する寺 ( 山村御殿 ) 、その東方には正暦寺があり、 たむけやまはちまんぐう 興福寺のほか、春日大社、手向山八幡宮、正倉両寺とも閑雅なたたずまいである。 のと 高円山と春日山の間を流れる能登川に沿って 院、奈良国立博物館、萬葉植物園などの建物や たきさか さるさわのいけ 施設、興福寺五重塔 ( 国宝 ) を映す猿沢池、柳生への道がある。滝坂道、柳生街道といし せつくっ あらいけさぎいけ 荒池、鷺池なども点在する。春日山原始林は特春日奥山の石切峠付近には春日山石窟仏、地獄 別天然記念物に、春日神社境内のナギ樹林は国谷石窟仏 ( ともに国史跡 ) がある。柳生には忍 にくえんじよう の天然記念物に指定されている。 辱山円成寺があり、鎌倉時代の白山堂、春日 うんナい だいこちこよらい 堂 ( ともに国宝 ) や運變作大印如来像、国名勝 市街地の北部、京都へ通じる街道に沿って、 はんにや 聖徳太子草創と伝えられる般若寺がある。三層の庭園がある。芳徳寺は柳生宗矩が建立した柳 ばだいじ 大石塔の下に『大般若経』を納めたことが寺名生家の菩提寺である。このほか、市内には明治 がらん のおこりといい、楼門 ( 国宝、鎌倉時代 ) など維新で伽藍のすべてを失った大安寺 ( 国史跡 ) 、 りようざん にんしよう を残す。北山十八間戸 ( 国史跡 ) は、僧忍性生駒市に近い富雄には霊山寺がある。民家建 が癩患者を救済するためにつくったもの。東大築では元興寺町の江戸中期の商家藤岡家住宅、 寺門 ( 国宝、奈良時代 ) から西に延びる一また明治建築の奈良国立博物館本館、旧奈良県 条大路 ( 佐保路 ) 沿いには、松永久秀が築いた物産陳列所が国の重要文化財に指定されてい こんぶ ありわらのなりひら 多聞城跡、興福院、阿保親王・在原業平父子る。文化施設には奈良県立美術館、寧楽美術 ふたい かんのん が住んだ不退寺、十一面観音 ( 国宝 ) で名高い 館、大和文華館、奈良歴史教室、あやめ池遊園 ・一うみよう 尼寺の法華寺、光明皇后建立の海竜王寺など地自然博物館などがある。 がある。周囲には御陵伝説地のウワナベ池、コ 年中行事は四李を通じて多彩に繰り広げられ げんしようしようむ 、」うけん ナベ池、元正、聖武、孝謙天皇などの御陵がる。一月一五日若草山の山焼きに始まり、三月 しゅにえ 多い。佐保路をさらに西進すると、発掘調査の の東大寺一一月堂修一一会 ( 御水取 ) 、春日大社春 さるまつり たきぎのう 進む平城宮跡 ( 特別史跡 ) があり北西端の奈良国日祭 ( 申祭 ) 、五月興福寺薪能、八月奈良大文 まんとうろう 字送り火、春日大社万灯籠、仲秋名月の日に猿 立文化財研究所資料館では出土品を展示する。 うねめ 平城京の右京にあたる西ノ京には、南都七大沢池のはとりで開かれる采女神社采女祭、一〇 キ ) いたい 寺の一つ西大寺、創建当時の東塔 ( 国宝、奈良月初旬の鹿の角切りなどよく知られ、一二月の 〈菊地一郎〉 時代 ) や金堂の薬師三尊、東院堂の聖観音 ( と春日若宮御祭で締めくくる。 もに国宝 ) で知られる薬師寺、天平美術の建築回奈良市史編集審議会編『奈良市史』全一五冊 がんじんわ ( 一九天 ~ ・吉川弘文館 ) ▽永島福太郎著 中、最大最美といわれる金堂 ( 国宝 ) 、鑑真和 じようぎぞう とうしようだい 上坐像 ( 国宝 ) などを蔵する唐招提寺があ 『奈良』 ( 一九六三・吉川弘文館 ) ▽木村博一著 あきしの る。西大寺の北の秋篠寺は本堂 ( 国宝、鎌倉時 『奈良のあゆみ』 ( 一九会・奈良市役所 ) ぎげいてん 代 ) に安置されている天平末期の伎芸天立像で〔地三万五千分の一地形図「柳生」「大和白石」 名高い。西大寺の南、菅原氏発祥の地菅原に 「奈良」「大和郡山」「生駒山」 まつけ おんまつり き、一う

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にじんす 二進法では、各位の数が 1 か 0 か の『牧神の午後』『春の祭典』は、 コザ 得意な跳躍をまったく使わず、しのどちらかという二つの状態で表 サラ かもバレエの古典技法を無視したすことができるので、たとえば、 シ 一つの電気回路について、閉じて もので観客を驚かせた。 ラ 。へ いる場合を 1 、開いている場合を 著書に病気の初期に書かれた オ 『ニジンスキーの手記』があり、 0 と決めれば、それで、一つの位 ム振 ン 妻ロモラは『ニジンスキー』を著が表されることになる。だから、 キ 彼をテーマにした舞踊作品多くの回路を並べれば、二進法に 年した。 , キオ o に、・ベジャールの『ニジンスよる数を表すことができるわけで ン ジ曲 〈三輪辰郎〉 キー神の道化』、»-a ・ケンプの」一ある。 ニ作ド ジンスキー』、映画に・ロス監 ニス「〉ワニス ニース Nice フランス南東 ニ一ンンスキー BaLIJ1aB (t)OMHt1 HH>KHH ・督『ニジンスキー』 ( 一九全 ) がある。〈市川雅〉 CKI 、 1üZVatsIav Fomich Nizhinskiy ( 一八会 回市川雅訳『ニジンスキーの手記』 ( 一九七一・現部、アルプ・マリティーム県の県 ー一九五 0 ) ロシアのバレエ・ダンサー。両親は 代思潮社 ) ▽・ニジンスキー著、同訳都で、地中海岸のコート・ダジュ ールを代表する観光都市。イタリ 「その後のニジンスキー』 ( 一九七七・現代思潮 ポーランド人の舞踊家で、公演先のキエフで三 ア国境の西三二キロ、アンジュ湾の 社 ) ▽石福恒雄著『ニジンスキー』 ( 一九七九・ 月一二日 ( 旧暦二月二八日 ) に生まれる。ペテ パイヨン川河口に位置し、西側に ルプルグ ( レニングラード ) の帝室舞踊学校を 紀伊國屋書店 ) にしんほう 0 と 1 の二種類の数字に はバール川が流入する。フランス 卒業、マリンスキー劇場の団員となる。一九〇ニ進法 よって数を表す方式。日常使われている数え方第五の都市で、人口三三万八四六 九年パリで旗揚げしたディアギレフのロシア・ じっしん 、都市圏人口四四万九〇〇〇一 ハレエ団 ( バレエ・リュス ) に参加、同年『アは十進法であって、一〇ずつで上の位に進むよ やかた ( 一九公 l) 。背後に海岸アルプスを控 ルミードの館』『レ・シルフィード』、一〇年うになっている。これに対して、二ずつで上の 位に進む数え方が二進法である。つまり、 1 がえて風光明媚なうえ、平均気温は 『シェヘラザード』一一年『バラの精』『ベト 一月七・五度 O 、七月一三・七度 ルーシュカ』などを踊って絶賛を博した。ま二つ集まって上の位に、また、その位の数が二 0 、年平均日照二七七八時間と気 た、一二年『牧神の午後』、一三年『遊戯』『春っ集まるとさらにその上の位に進むというよう の祭典』を自ら振付け上演。一三年の南米巡業な仕組みである。二進法で表された数を十進法候温暖で、避暑・避寒地として最適。別荘、ホス領となった。細く屈曲した通路の旧市街に は、円形闘技場、浴場などの遺跡、古い教会な テル、庭園、カジノのほか、一九世紀にこの地 中にロモラと結婚したため、ディアギレフの怒で表すには、たとえば、 10111 ↓ 1 x 24 十 0 x 23 十 1 x 22 十 1 x 2 十 1 Ⅱ 23 を保養地として開拓したイギリス人建設のアンどが残る。イタリア統一運動 ( リソルジメン りを買い解雇されるが、一六年には復帰してア ト ) の立役者ガリバルディの生地で、彼を記念 メリカで踊り、『ティル・オイレンシュピーゲのようにすればよい。逆に十進法で表された数グレー遊歩道など、保養施設が整い、夏は海水 ル』を振付けた。一七年プエノス・アイレスでを二進法で表すには、 2 で何回も割って、その浴、冬は海岸アルプスのウインタースポーツのするガリバルディ広場がある。地域の文化中心 基地となる。交通も至便で、空港があり、港か 地として大学や博物館も多い。さまざまな年中 の舞台を最後に同バレエ団との関係を絶ち、ス余りを一の位から並べればよい ( 図 <)0 らはコルシカ島へ定期船が就航する。切り花、行事のうち、一八七三年創始の「ニースのカー 二進法での計算は、十進法の場合と同じよう イスに落ち着いたが、一九年に精神分裂病と診 〈青木伸好〉 ニバル」は最大のもの。 に桁をそろえて計算すればよいが、和・積で香水、オリープ油、醸造などの伝統産業に加え 断され、その後療養のため各地を転々とし、五 は、十進法の一桁の計算に相当する表を利用すて、家具・セメント工業も行われる。近年では ニーズ needs 個人の行動を動機づけた 〇年四月八日ロンドンに没した。 機械・電気器具工業も発達するが、産業基盤は り、ある対象に対する選択的な方向づけの誘因 ニジンスキーは二〇世紀におけるもっとも衝る ( 図 撃的なダンサーといわれる。彼の跳躍力はすば 二進法は、コンピュータで利用されている。観光に支えられている。一九六三年開設の花市となるような内面的メカニズムであり、欲求ま 場も知られる。 たは要求ともいう。人間の欲求は多種多様であ らしく、『バラの精』 紀元前四世紀中ごろ、マッシリア Massilia り、まず、睡眠、呼吸、食物の摂取、苦痛の回 を踊ったとき、跳ぶと ( 現マルセイユ ) のフェニキア人植民市として避など生理的緊張に直接結び付くものが考えら 二度と地上に戻ってこ す 、ー 1 11 1 ー・ -0 1 ーよ 、 1 、 1 C 表 開かれ、ニカイア Nicaea とよばれた。前一五れる。これらは生理的欲求または第一次的欲求 ないのではないかと 法 とよばれるが、行動を動機づけるところの有機 四年ローマ人が占領、北部のケメネルム Cem ・ か、空気は重く肉体は enelum ( 現ニース市内シミエ Cimiez) をこの体工ネルギーとしての動因にもなる。人間は、 軽いなどといった神話 11 一い】 1 亠 を 地方の首都とした。後四世紀からは司教座が置このような身体的欲求のほかに心理的または第 化された賛辞が捧げら かれたが、その後ゲルマン民族やイスラム教徒二次的欲求をもっている。心理的欲求は、後天 の れた。男性的な官能 法 っ 0 っ 0 、 1 の侵入を受けて破壊された。九七〇年からはプ的に社会・文化的影響のもとで形成され、獲得 性、野獣性も彼の特徴 ・十・つ」ワ〕ワ〕 ロバンス伯領となって発展、一三八八年からは されるもので、個体の保存や満足を求めるだけ で、『シェヘラザード』 法 サポイア家領、一七九二 ~ 一八一四年はフランでなく、社会環境に対する適応をも動機づけ の金の奴隷などはその 進 ス領となったが、最終的には一八六〇年フランる。 例である。振付け作品 、こさ 〔図 B 〕ニ進法の和・積 積 い》 -0 一 -0 ) 1 亠 【い 1 、 - い一 11 【い一 0 一 1 画、 -1 ( ) 十 ( ) 0 十 1 1 十 0 = 1 ニ進法の計算例 1 1 0 1 0 ( ) 1 れ引信い ースコルシカ島への定期船が発着するニース港。背後の城山を挟んだ向こ う側の砂浜か , アングレー遊歩道などのある海水浴場地帯となっている 740

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うちがた 行。五五年 ( 昭和三〇 ) 内潟、武田の二村と合中心に織られている。中国との貿易品を収めた近代文学の主流をなす文壇文学とはまったく別 島本線に乗り入れて博多方面に直通する。 まりくらもと なお、長崎線には、長崎本線のはかに、佐賀併。津軽鉄道の終点であり、また国道三三九号仲里間切蔵元の旧跡や奥武島の畳石など観光資種の文学世界の追究にほかならない。介山の生 からっ ちくひ まつうら 線、唐津線、筑肥線、佐世保線、松浦線、大村が通じる。東部は津軽山地、西部は岩木川右岸源に恵まれて、観光地化が進んでいる。人口五涯は、以後この作品の完成を目ざした文学精進 はうねん じゅうさん 、 ; 、ほかに法然を描いた 〈堂前亮平〉のそれといってよしカ 〈青木栄一〉の津軽平野で占められ、北部は十三湖に面す。四〇六。 線が含まれる ( 一九会現在 ) 。 くろたに 『黒谷夜話』、聖徳太子を扱う『夢殿』 ( 末完 ) 長崎養生所ながさきようじようしょ江戸末近世初頭に新田開発が行われた地であるが、岩回『仲里村誌』 ( 一九七五・仲里村 ) 期に建てられた日本で最初の西洋病院。建設さ木川の河口付近はデルタ地帯をなし、腰切田、囮二万五千分の一地形図「久米島東部」「久米などがある。晩年の異色作として、自伝的な感 ちちり 想記録文学『百姓弥之助の話』が注目される。 島」「久米島南部」 れた地名から小島養生所ともよばれる。一八五乳切田といわれる湿田で、米の生産はあがらな わ・ん・い 生涯妻帯せす、性狷介にして容易に他人と妥協 七年 ( 安政四 ) 江戸幕府に招かれて長崎の海軍かった。一九四八年 ( 昭和二三 ) からの国営の中里介山なかざとかいざん ( 一会五ー一九四四 ) 」説家。明治一八年四月四日神奈川県西多摩郡することなく、自己の信念に忠実に生き、第二 伝習所医官として来日したオランダ人軍医ポン十三湖干拓事業により、乾田化が進んだ。米作 やのすけ 次世界大戦中は日本文学報国会への入会勧誘も べは軍医養成のための病院付き医学校の設立をと木材業が主で、ヒバの集散地となっている。羽村 ( 現東京都 ) に生まれる。本名弥之助。 〈横山弘〉学校高等科卒業後、電話交換手や小学校教員と拒絶した。ひたすら『大菩薩峠』の続稿を続け 強く要請していた。六〇年 ( 万延一 ) 設立が認可人口一万三三〇五。 ようとしたが、太平洋戦争末期の昭和一九年四 なる。初めキリスト教の感化を受けるが、やが され、六一年九月二〇日 ( 文久一年八月一六日 ) 回『中里町誌』 ( 一九六五・中里町 ) らん うすいち 月二八日腸チフスのため六〇歳で永眠した。↓ て平民社の社会主義に共鳴、日露戦争下の『乱 開院式が行われた。東西一二間半 ( 約一三・七囮二万五千分の一地形図「薄市」「中里」 ちょうデきいん なかうお 〈竹盛天雄〉 ) 南北四間 ( 約七・三 ) の木造二階建て一一中里 ( 村 ) なかさと ( むら ) 新潟県南部、中魚調激韵』は数少ない反戦詩の一つとして注目大菩薩峠 なおえ とおかまち 一五床を備えた大病漑郡にある村。十日町盆地の段丘上に位置すされる。木下尚江と知り合い、また山口孤剱、回『中里介山全集』全二〇巻 ( 一 0 ~ 当一・筑摩 棟からなり、各棟にべッド しらやなぎしゅうこ かべん いいやま 書房 ) ▽尾崎秀樹著『修羅明治の秋』 ( 一九 室八室と、隔離あるいは手術を要する患者を収る。東日本旅客鉄道飯山線、国道一一七号、三白柳秀湖らと雑誌『火鞭』を創刊した。彼の しなの 七三・新潮社 ) ▽松本健一著『中里介山』 ( 一九 容する小病室四室のはかに、薬品室、図書室、五三号が通じる。信濃川の支流清津川両岸の高思想傾向は漸次仏教への傾斜を深め、社会主義 ききようはら 大・朝日新聞社 ) 器具室、洋式調理室、浴室、遊歩場などを備え位段丘面が村の大部分を占め、左岸の桔梗ヶ原的傾向からの離脱が認められる。ュゴーやトル の低位段丘の開発は早く、近世中期から進んだストイの文学に親しみ影響を受けた。一九〇九仲里旧記なかざときゅうき沖縄久米島の仲 ていた。病院に隣接して医学生のための教室・ りゅうきゅう ま・ギ一れ・ 寄宿舎である医学所が置かれていた。医療器具が、広大な田沢原の高位段丘面の開発はこれか年 ( 明治四一 D 、都新聞社に入り、処女作『氷里間切に関する旧記。『琉球国由来記』編纂の たしろなな ための基礎資料として、一七〇〇年代初頭につ などもヨーロッパから輸入され、ポンべはこのらである。清津峡や田代の七ッ釜の景勝地でもの花』を新聞小説として書き、以来、同紙に - 一うや くられたと考えられる。内容は、グスク・イベ 〈山崎久雄〉『高野の義人』などの時代小説を次々に発表。 病院付き医学校の開設によって初めて臨床講義知られる。人口六八二 うたき おおわりの の由来、御嶽の神名、村立ての由来、祭祀で行 を行うことができた。六五年 ( 慶応一 ) には精得二万五千分の一地形図「越後湯沢」「大割野」それらの積み重ねのうえで、一三年 ( 大正二 ) だいば寺、つと、つげ・ なえばさん 大作『大菩薩峠』が同紙上に現れる。日本のわれる呪詞や神歌、年中行事など。琉球国全域 「赤沢」「苗場山」 館と改称、六八年 ( 明治一 ) には改革され一般市 にわたる唯一の風土記資料『琉球国由来記』の 民も受診できるようになり、また西南戦争 ( 一八中里 ( 村 ) なかざと ( むら ) 群馬県南西部、多 かんな 西引介塾こ の 成立事情をうかがわせる最古のものであり、ま ホンべは一八六野郡にある村。神流川上流域の山村で、全域が 七七 ) 時には軍事病院となった。。、 ・み′しト - ・つ あま ) ) 町。ろ学 た、雨乞い、虫封じ、豐穣祈願、造船などを オードイン ( 一会一一来日 ) 、マ傾斜地、高い所は一〇〇〇を超える。神流丿 村でこらき 一年に帰国したが、・、 いレゅレ」・つ じっ - 一くと - っげ 羽端 , が抱 主題とする沖縄の呪疇的古代文学を、豊富に収 沿いに十石峠街道が走り、そこにおもな集落 ンスフェルト ( 一会六来日 ) とオランダ人軍医が 炉なを 山下の和き夢開録している点でも貴重である。琉球大学図書館 が点在する。水田はなく、畑は「耕して天に至 指導にあたった。図医学史〈大鳥蘭三郎〉 介都塾昭働のを 〈外間守善〉 里京村 ( は育塾蔵。 る」の観を呈し、コンニヤクイモ、クワ、雑穀 ナカサキリンゴ 0 ミカイドウ さんちゅう 中東隣年山教に 回『校注仲里旧記』 ( 『仲原善忠全集 3 』所収・ なかさつない ( むら ) 北海道中南が栽培される。いわゆる山中地方で、藤岡、 中札内 ( 村 ) しが、か おびひろ 一九大・沖縄タイムス社 ) ▽沖縄久米島調査 部、十勝支庁管内の村。帯広市の南部にあり、鬼石からバスが通じ、志賀坂トンネルを越えて ちちぶ おがの 委員会編『沖縄久米島資料篇』 ( 一九会・弘 札内川流域の東西に細長い村。村名はアイヌ語埼玉県秩父の小鹿野町にも通じる。過疎化が著 文堂 ) 〈村木定雄〉 「サチナイ」 ( 乾いた川 ) に由来。国道二三六号しい。人口一三九〇。 からっ かはら りようかみさん なかざとたろうえもん唐津 中里太郎右衛門 二万五千分の一地形図「神ヶ原」「両神山」 が通じる。一八九七年 ( 明治三〇 ) 富山、石川 しまじり 焼の陶工の家系名。江戸初期に作陶を始めた中 福井県の移住者で開拓され、一九四七年 ( 昭和仲里 ( 村 ) なかざと ( そん ) 沖縄県島尻郡にあ おちやわんがま 里又七を祖とし、唐津焼御茶碗窯を継承する中 一一一 D 大正村 ( 現帯広市 ) から分村。酪農と畑作る村。沖縄本島南西一〇〇キロにある久米島東部 おう 里家は、歴代作陶に従事した家系で、現在一三 の村で、一戸平均二 八タの耕地面積は十勝地および奥武島、オーハ島を含む。久米島の南 代目を数える。うち、一一一代太郎右衛門 ( 天九五 部、北部は丘陵および台地となっており、中央 方随一。農用地一万八〇〇〇タのうち七二 % てんゅう ー一九会 ) は一一代天祐 ( 天五四ー一九一一四 ) の次男と ま田で、、、 ヒート ( テンサイ ) 、豆類、ジャガイ部は低地。那覇ー久米島間には定期航空便と定 ぎま して唐津に生まれ、幼名は前雄。一九二七年 モを栽培する。他は牧草地で乳牛は約八〇〇〇期航路がある。西海岸の儀間は久米島の中心地 、ー ) んャわ なかどまり に一二代を襲名。歴代のなかでとく ( 昭和一 D ' 〈進藤賢一〉であったが、現在は具志川村の仲泊に移って 頭。人口四一〇一。 に桃山時代の古唐津の復興に力を尽くし、雅陶 いる。水利に恵まれ、かっては稲作が盛んであ 回『中札内村史』 ( 一九六ハ・中札内村 ) たた 唐津焼をよみがえらせ、また叩き技法による独 AJ 囮五万分の一地形図「大正」「上札内」「札内った。現在、産業の中心は農業で、基幹作物の 自の唐津焼を生み出した。七六年 ( 昭和五一 ) サトウキビをはじめバイナップル、葉タバコが 川上流」 重要無形文化財保持者に認定。晩年は得度して 栽培されている。近年、農地の基盤整備が盛 なかさと ( まち ) 青森県北西部、 か中里 ( 町 ) むあん まじゃ つむぎ 無庵を号し、長男に一三代を譲り作陶に専心し な津軽郡の町。一九四一年 ( 昭和一六 ) 町制施ん。伝統的な久米島紬は現在でも真謝の村落を とかち はかた えち 1 ) ・一しきり は / 、 ら みやこ へんさん 421

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にほんか 四大島高任、釜石に洋式高炉建造、翌年より銑鉄製 日本科学史 / 略年表 造 ( 木炭製鉄 ) を開始 六世紀中葉、大陸より仏教伝来。五経・易・暦・一衾一文久一長崎製鉄所完成 ( 近代的重工業施設の最初。七一 年工部省長崎造船所となり、八七年三菱に払下げ ) 医博士ら、造仏寺工人ら来朝、古代文化進む 長崎に養生所設立 ( 最初の洋式病院、長崎海軍伝 六 0 七 ( 推古一五 ) 法隆寺建立 ( 建築技術の進歩 ) 習所教官として招かれたオランダ人ポンべの指 六四六大化一一大化改新。上地制度改革 導 ) 。種痘所 ( 五八年江戸に設立 ) を西洋医学所と 七 0 = 大宝一一大宝律令。天文・暦・医術などの職制・教育定む 改称 詣七天平一九東大寺大仏鋳造。天平建築進む 一一幕府、蕃書調所に数学科を設置。蕃書調所を洋書 九入延喜一八深根輔仁『本草和名』 調所と改称。さらに六三年開成所と改称、名実と 一 = 一九七応永四金閣寺建立。室町建築・城堡建築始まる もに洋学の教育研究機関とする 一茜 = 天文一一生野銀山開かれる。一七世紀初頭にかけて鉱山開 一〈六五慶応一幕府建設の横浜製鉄所竣工、横須賀製鉄所起工。 発著しい ( 石見銀山、甲斐・佐渡金山など ) 森有礼ら一九人ひそかにイギリス留学。六六年、 一二鉄砲伝来。種子島時堯、漂着ポルトガル船より鉄 幕府派遣の外山正一・菊池大麓らイギリス留学 砲購入 ( 西洋文明移入の始まり ) 三鹿児島藩、鹿児島紡績所 ( 磯之浜 ) 設立、機械紡 一八宣教師サピエル来朝、西洋暦法など伝える 績工業の始め。福沢諭吉『西洋事情』 一毫六天正四安上城完成。建築・築城技術の進歩 ( 八三年大坂 一〈六〈明治一戊辰戦争。明治政権成立。新政府、旧幕府の医学 城、八七年聚楽第、九四年伏見城など ) 所・学問所 ( 昌平学校 ) ・開成所 ( 開成学校 ) を復 一発〈慶長三太閤検地完了。検地・刀狩などにより封建的身分 興。福沢諭吉、英語塾を慶応義塾と名づける 秩序が確立、小農民の自立、農業生産力の発展促 政府、大学校を設立 ( 昌平学校を中心に、開成・ される 医学両学校を大学校分局とする ) 、高等教育と教育 一六 00 五イギリス人アダムス来朝、造船・航海術など伝える 行政の一一機能をもたせる。以後、開成学校は大学 一六 0 七 南校 ( 一 <?0 ) ↓南校 ( 一八七一 ) ↓第一大学区第一番 一六 = 一 0 寛永七禁書令 ( キリスト教関係書の輸入禁止 ) 中学 ( 一八七一 l) ↓開成学校 ( 一八七三 ) ↓東京開成学校 一六七 = 寛文二貝原益軒校訂『校正本草綱目』 ( 一八七四 ) と名を変え、医学校は大学東校 ( 一八七 0) ↓ 一六茜延宝一一関孝和『発微算法』 東校 ( 一八七 l) ↓第一大学区医学校 (l<?ll) ↓東京 一交四貞享一渋川春海『貞享暦』 医学校 ( 一八七四 ) と改称され、一八七七年合流して 一六九七元禄一 0 宮崎安貞『農業全書』 東京大学となる。六〇年代から七〇年にかけて全 一セ = 0 享保五禁書令緩和、実学奨励。蘭学勃興の契機 国で藩校改革行われる 七建部賢弘「綴術算経』 三工部省設置。東京ー横浜間に電信開通 一耄四安永三前野良沢・杉田玄白ら『解体新書』 四ドイツ人軍医ミュルレル、ホフマンを大学東校に 一耄六 五平賀源内、エレキテル完成 招き、医学教育体制が整備される ( ドイツ医学の 一大一一天明三大槻玄沢「蘭学階梯』 移入 ) 。文部省創設 一〈 00 寛政一一一伊能忠敬、日本全上の測量開始 五学制制定。新橋ー横浜間鉄道開通。官営富岡製糸 一全一文政四『大日本沿海輿地全図』完成 場開業。造兵寮で鉛室硫酸製造 六ドイツ人医師シーポルト長崎に来航、翌年、鳴 六工部省エ学寮工学校設立 ( 七七年工部大学校と改 塾を開く 称、八六年帝国大学工科大学となる ) 。地租改正。 八青地林宗『気海観瀾』 この年、各地の外国語学校九一校中、八二校は英 二シーポルト事件 語学校 一〈 = - 四天保五宇田川榕菴『植物啓源』 八松本良順ら、東京医学会社 ( 学会 ) 設立。東京気 八宇田川榕菴『舎密開宗』刊行開始 象台設立。新島襄、同志社創立。福沢諭吉『文明 九緒方洪庵、蘭学塾 ( 適々斎塾 ) を開く 論之概略』。全国の小学校数一一万四〇〇〇校以上 一 0 蛮社の獄 ( 渡辺崋山・高野長英投獄 ) 九アメリカ人地質学者ライマン『日本蝦夷地質要略 入哭嘉永一箕作阮甫『水蒸船説略』 之図』 ( 初の地質図 ) 。札幌農学校開校 四川本幸民『気海観瀾広義』 一 0 法・理・文・医の四学部からなる東京大学開設。 五佐賀藩で反射炉完成。以後、薩摩・韮山・水戸・長一全セ 東京数学会社設立、創立時会員一一七名 州で鉄製砲鋳造を目的とする反射炉築造が進む。 一一化学会設立、創立時会員一一四名。東京大学生物学 広瀬元恭『理学提要』 会第一回例会開催 ( 八五年東京動物学会と改称 ) 。 六アメリカの遣日国使ペリーが浦賀に来航 工部省電信中央局開業 ( 全国主要都市間電信網整 一〈会安政一一幕府、長崎に海軍伝習所設立。洋学所設立 備 ) 。東海道大井川架橋 ( 主要街道に架橋進む ) 一会六 三洋学所を蕃書調所と改称 一一一『本草綱目』伝来 天六七 入六九 一〈七 0 一会七 天実 日本への西洋数学の移入は長崎海軍伝習所などを経て始ま った。日本には和算の伝統があったが、一八七二年に小学校 教育での洋算の全面的採用が決まり、八六年教科書検定実施 に対応して、菊池、藤沢利喜太郎らによる中学校数学教科書 が現れ、一八八九 ~ 九七年には全国の中等数学教科書は菊 池・藤沢らによる教科書に画一化された。学会組織としては 東京数学会社が一八七七年に設立され ( 最初の学会の東京医 学会社は七五年 ) 、八四年東京数学物理学会に改組された ( 日本化学会は七八年、日本地震学会は八〇年設立 ) 。この 年、東大数学科の第一回卒業生が出ている。東大最初の物理 学教授は山川健次郎で、彼を助けて物理学教室を建設したの たなかだてあいきっ は田中館愛橘と長岡半太郎である。田中館は九一年教授とな り、一八八〇 ~ 九〇年代日本各地で地磁気測定を行った。長 岡は八七年に大学を卒業、八八年ニッケルの磁気歪について の研究を発表する。化学分野では桜井錠二がイギリス留学か ら帰り、八一年松井直吉とともに東大初の日本人化学教授と なり、以後、熱化学、分子量測定などについての研究成果を 発表する。ようやく日本の近代科学各分野の研究が起動し始 めたのである。この時期、とくに日本人の研究成果として名 きたさとしばさぶろう を高からしめたのは、北里柴三郎 ( 破傷風菌についての研 きよし 究、一会九 ~ 九 0 ) 、志賀潔 ( 赤痢菌の発見、天九七 ) 、池野精一郎 ( ソテッの精虫発見、天九六 ) 、大森房吉 ( 地震学・大森公式、 ひ、し 天九九 ) 、木村栄 ( 緯度変化 2 項発見、一九 0 一 D 、高峰譲吉 ( アド レナリン結晶単離・一九 0 一、タカジアスターゼ・一九 0 九 ) 、長岡 半太郎 ( 有核原子模型、一九 0 三 ) らの業績である。 産業革命の過程における工場制工業は紡績工業を中心に発 展するが、技術的にみて重要な点は、ミュール紡績機から新 鋭機リング紡績機への更新が急速に行われ、一八八九年にリ ング機の総台数がミュール機を上回った。先進国イギリスで とよだ はなお主流はミュール機であった。豊田佐吉は九七年に独創 的な小幅カ織機を完成、これは国内および満州・朝鮮での需 要に適合して急速に普及し、日本資本主義の満州市場支配の ための有力な武器となった。最大の輸出産業であった生糸製 造業は農村工業として展開したもので、器械製糸が座繰り製 り画ら′が 糸を凌駕し飛躍的発展をみせるのは一九世紀末以降になる。 近代的製銑技術の誕生は、釜石鉱山の払下げから出発した ゅうばめ 田中製鉄所が、一八九四年タ張炭を原料とするコークス製銑 のろかげ に成功したときである。このとき技術指導にあたった野呂景 やはた 義は、一九〇一年、操業を開始した八幡製鉄所が技術的困難 から操業を中止した際、それを解決し、〇四年操業再開を成 功させるうえで重要な役割を果たす。そうした能力をもっ技 9 カまいし

7. 日本大百科全書 17

ゃなぎたくにお 三三山陰鉄道西線起工、〇七年境ー鳥取間開通 やがて羽衣をみつけだ一九 00 で没落したという。これは柳田国男が『日を招く話』で指摘たが、 毛北脇永治、一一十世紀ナシ苗を松戸市から移植 一九 0 四 しているように、全国に流布する伝説である。米子市の安して天へ帰るという、諸国に たまこ ' 、よ・つ 一九皂 四 0 鳥取市に電灯がつく 養寺には歯形の栗の話がある。「瓊子姫」は、隠岐へ配流にある「天人女房」と同じであ 一九 0 〈 四一鳥取市内に電話通じる くずも ′一だい・こ 〈武田静澄〉 四五山陰本線全通 ( 京都ー出雲今市間 ) なった後醍醐帝の内親王。父帝を慕って車尾まできたが、供る。 を許されず、髪を切って尼僧となり、隠岐の見える地に庵を回山中寿夫著『鳥取県の歴一〈一 = 大正四鳥取市に上水道完成 10 鳥取高等農業学校設置 史』 ( 一九七 0 ・山川出版社 ) 結んだ。あるとき、栗を献じられ、この栗が芽生えたなら父 一九 = = 昭和六千代川改修、新流路に通水。三四年新袋川通水 ▽四宮守正著『日本の民俗 帝の還御がかなうであろうと、栗を皮のままかみ砕き、祈願 一一大山国立公園指定 一九一一六 1 」う 鳥取』 ( 一九七一一・第一法規出 を込めて植えたのが芽生えて実を結んだという。県西部の豪 鳥取放送局開局 えんぎんだいせん 一一一県内初の百貨店丸由百貨店が鳥取駅前に開業 版 ) ▽岩永実著『鳥取県一九 = 七 円山 ( 大山町 ) の山頂に「豪僧豪円」の地蔵が立っている。 一三満州開拓団一七四人が入植 地誌考』 ( 一九大・記念論文一九 = 〈 関ヶ原の戦い後の国替のとき、米子中村藩は大山寺領の取り 一八鳥取大地震、一〇八三人死亡 集刊行会 ) ▽『鳥取県史』 込みを図った。住職の豪円はその圧力に屈せず抗議し、その 一一 0 米子医学専門学校開設、連合軍鳥取に進駐 一九四五 あんど おんねん 全一八冊 ( 一九六七 ~ 怨念によって藩主は死に中村氏は断絶し、寺領は安堵になっ 全・鳥取一〈咒 一一四鳥取大学開学 あんとく おかます 一一六日本バルプ米子工場 ( 現王子製紙 ) 立地 県 ) ▽野津龍著『生きて一 たという。県東部の岡益の里 ( 国府町 ) に「安徳天皇御陵参 毛鳥取大火、五二一八世帯罹災 一九至 いる民俗探訪鳥取』 ( 一九 考地」がある。台地にある謎の石堂が陵墓に擬せられたのは 三 0 人形峠で日本初の堆積型ウラン鉱床を発見 一九会 全・第一法規出版 ) ▽野 明治になってからのことである。平家一族とともに海底に沈 山陰海岸国立公園指定 にいのつばね 田久男・清水真一著『日本 んだ幼帝の後を追った祖母二位局は、泉ヶ谷に葬られたと 三三日本海テレピ開局 一九犬 たね 三七北条砂丘畑地灌漑事業完了 の古代遺跡 9 鳥取』 ( 一九 伝えている。鳥取砂丘の裏に「多鯰ケ池」という池がある。 四一中海地区、新産業都市に指定 盒・保育社 ) ▽『角川日本一突六 宮下の長者の娘お種は、前世の因縁により大蛇になる宿命に めし 四一一県営鳥取空港が開港 一九 地名大辞典引鳥取県』 あり、あるとき池に飛び込んでそこの主になった。それから 一九会 五八鳥取新都市開発整備事業の実施が認可される ( 一九全・角川書店 ) ▽『鳥 その池を多鯰ケ池とよぶようになったという。東郷町に羽衣 五九中国横断自動車道岡山ー米子線が起工 一九会 は′ ) ろも し 中国電力俣野川ダム発電所運転開始 取県大百科事典』 ( 一九会・ 石という地名があり、付近の大岩は天女が羽衣を干した所と 六 0 国鉄倉吉線廃止。第四〇回国民体育大会開催 伝えている。天女は羽衣を隠した男の女房になって子を生し新日本海新聞社 ) うえまちおうちだに てんじん 一九四三年 ( 昭和一八 ) には鳥取地震、五二年がある。上町の樗谿神社はかって因幡東照宮 鳥取 ( 市 ) と「とり鳥取県東部に位置する氏は天神山城 ( 鳥取市 ) に本拠を構えたが、一 のぶみち せんだい にはフェーン現象による大火災にあうなど災害とよばれた神社で、本殿、拝殿、唐門などは国 市。県庁所在地。市域北部は千代川下流域に形五四五年 ( 天文一四 ) 山名誠通は約六キ。東方の 成された鳥取平野、千代川の埋積作用や砂丘の鳥取久松山に出城を築き、一五七三年 ( 天正の多い都市であったが、耐震・耐火都市に変わの重要文化財。近くの観音院庭園は江戸中期の とよく・、 ・一やま せきこ 作庭で国の名勝に指定されている。このほか藩 発達などで理め残された潟湖の湖山池、日本海一 ) 山名豊はこの城を本城とした。鳥取城下り、南部では新都市整備計画が進行している。 おおわさ ばだい 沿いに発達した鳥取砂丘などからなり、南部は町の始まりである。一五八〇年鳥取城は柴秀〔産業〕城下町であり、第二次世界大戦前まで主池田氏の菩提寺興禅寺などがある。「大和佐 みのみこと きっかわっねいえ 吉により攻略され、一時毛利方の吉川経家が城は消費都市的傾向にあり、工業も食品、木工、美命神社の獅子舞」、「越路の雨乞踊」、「円通 中国山地と山地から流出する河谷からなる。 寺んよう 一八八九年 ( 明治一三 ) 市制施行。一九二 = 一主となったが、八一年経家も秀吉の攻撃を受け製糸に限られたが、戦後、鳥取三洋電機や日本寺人形芝居」は選択無形民俗文化財。このほか 年 ( 大正一 (l) 富桑村、三二年 ( 昭和七 ) 稲葉落城した。江戸時代は一六一七年 ( 元和 = l) 姫フェライト、鳥取エフワンなど電機・繊維縫製「因幡の傘踊」などの民俗芸能や、八月一五、 村、三三年中ノ郷、美保の二村、三七年賀露路から入封した池田光政が鳥取城主となり三十品工業の町となった。最近の工業出荷額は電一六日のしゃんしゃん祭などがある。 くらだおもかげかんどやま 市街地南西方には布勢運動公園と都市公園湖 村、五三年 ( 昭和二八 ) 倉田、面影、神戸、大二万石を領有、一六三二年 ( 寛永九 ) には岡山機、金属、衣服、食料、製紙の順で、県内一を 和、美、東郷、大正、千代水、豊実、明治、藩の池田光仲が移封され、廃藩置県まで池田氏誇っている。砂丘地帯では一九五五年 ( 昭和一一一山池や吉岡温泉がある。そのほか、因幡の白 松保、湖山、大郷、吉岡、末恒の一五村、五五の治下にあ 0 た。鳥取城の南方に掘削された外〇 ) から近代的な灌漑技術により畑地農業が安兎神話の兎海岸、荒木又右衛門や渡辺数馬、 またペえ 年米里村、六三年津ノ井村を編入。西日本旅客濠袋川は千代川河口の外港賀露に通じ、川舟や定した。近年は住宅地化が著しい。鳥取 ( 賀後藤又兵衛の墓などみるべき所が多い。湖山池 いかだ 鉄道山陰本線と時美線、国道九号、二九号、五筏が往来した。なお、江戸時代の中心街は鹿露 ) 港は沿岸・沖合漁業の基地で、カレイ、ズ東方には鳥取大学が立地する。 ゅうしゆっ 〔鳥取温泉〕鳥取駅北東部の市街地に湧出す 三号が通じ、鳥取砂丘にある鳥取空港は東京、野街道沿いであるが、明治になって中心は東方ワイガニなどの水揚げがあり、一万五〇〇〇ト、 , る温泉。一九〇四年 ( 明治三七 ) の発見。泉質 の智頭街道沿いに移り、明治末の山陰本線鳥取岸壁の整備が進められている。 大阪と結ぶ。人口一三万七〇六〇。囮 3 ばうしよう わかき一 〈岩永実〉 は含食塩芒硝泉。 〔文化・観光〕久松山鳥取城跡 ( 国の史跡 ) は り・〔歴史〕鳥取の地名は『古事記』の垂仁天皇の駅の設置で若桜街道沿いが中心街となった。一 やまじろ さんげ さんじよう AJ 条に記される「鳥取部」 ( 水鳥などを捕る部民 ) 九七八年 ( 昭和五三 ) には鳥取駅の高架化で駅山上の丸に戦国時代の山城城郭、山下に近世回『新修鳥取市史』 ( 一〈〈 = ・鳥取市 ) わみようしよう の城郭が残っている。内堀内には県立博物館と五万分の一地形図「浜坂」「若桜」「鳥取北 9 が居住した地とされ、『倭名鈔』の鳥取郷の周辺が市の中心となった。鳥取市街は低湿地に こんぶうかく 部」「鳥取南部」 明治時代の洋風建築仁風閣 ( 国の重要文化財 ) XJ 地。一四六六年 ( 文正一 ) ごろ因幡の守護山名あり、大正期までしばしば水害にみまわれた。 なそ やまな いおり あん みつまさ 一九会 ル・れがい 樗谿神社社殿 重文鳥取市 謂第ぐ 4 7 や . 01 しろ

8. 日本大百科全書 17

なほむし き鳴宿薄第第第 ーを第物ゞに ・い、 T11 ことわざ もっとも隆盛を極めた。 一一 = ロ詩は、簡潔ではあるが文学的にも優れたもの の出発港となっていたが、ファシズム期にはイ 〔観光〕「ナポリを見て死ね」という諺がある ちょ - っしよう ナポポラサルのひととなりについてはあまりである。遊女ニネ・ヘへの嘲笑歌と結びで終わタリアの海外植民地との交易が市の経済発展をように、ナポリは風光明媚な観光都市で、ベス 知られていない。ただ、「無名の人の子」などる。 〈吉田泰〉大きく助長した。一九五〇年代後半から六〇年ビオ火山を背景としたその風景はあまねく知ら 控え目な称号しか自らに用いず、自分の成功をナポリ Napoli イタリア南部、カンパニア代前半にかけては、南部開発政策と関連した大れている。とくにポーメロの止やポジリボの丘 マルドウク神をはじめ神々のおかげとし、碑文 州の州都で、工業・港湾都市、観光都市。英語規模投資もあって、ポミリアーノ・ダルコ、カから眺める市街やナポリ湾の見晴らしはすばら にはたいてい祈りを加えさせることなどからみ名ネープルス Naples 。面積一一七・二七平方ステッラマーレ・ディ・スタビア、ポツツオー しい。市内には、一二七九 ~ 八四年に建てられ 〈月本昭男〉 て、信仰深い人物であったらしい 。人口一二〇万六九五五 ( 一九会 ) はローマ、 リ、カゾーリアなど近郊の諸都市を含めて工業たアンジュー家の城で一五世紀にアラゴン家の しょ The book of Nahum ミラノに次いで同国第三位。人口密度は一平方化が著しく進展し、ナポリを中心とする広大なアルフォンソ一世時代に再建されたカステル・ ナホム書 『旧約聖書』中の十二小預言書に属し、ユダの キ。当り一万〇二九二人で第一位を占める。東方臨海工業地帯が形成された。とくに製鉄、機ヌオーボ、サンタ・ルチア地区にある卵城 ( カ 地エルコシ出身の預一一一一口者ナホムによる、アッシ のベスビオ火山および西方にある独特な火山地械、自動車、造船、精油、食品などの工業活動ステル・デッローボ、一二世紀 ) 、ポーメロの リアの首都ニネ・ヘ滅亡 ( 前六一二年 ) の託宣預帯カンピ・フレグレーイ Campi Flegrei に挟が盛んである。 丘の上に位置し現在では国立博物館となってい 言である。わずか三章に及ぶ内容だが、一章一まれ、ナポリ湾の北東隅に位置する。 ナポリ港の海外との交易量は、かってはジェ るサン・マルティーノ修道院 ( 一四世紀。一六 二 ~ 二章一と三の断片的預言はそれより一〇年〔工業・港湾活動〕同市が近代的工業都市とし ノバに次いで全国第二位を占めていたが、現在 ~ 一七世紀に再建 ) 、一六〇二年に建てられた 以上もさかのばるものとされている。この部分て本格的に発展する契機となったのは一九〇四ではその地位を後退させ、一九八〇年の数値でプルポン家の王宮 ( 。ハラツツオ・レアーレ ) 、 を別にして、一章の「いろは歌」と二章は、罰年のナポリエ業振興特別法である。これによっ はバニョーリ港の取引量を含めても第一〇位に ミラノのスカラ座やローマのオペラ座と並ぶオ 一三世 すべきは罰する恵みの神の賛歌と、新バビロ一一てナポリ西郊五キ。のバニョーリにイルバ社の製すぎない。ただ、カプリ島やイスキア島などナベラの殿堂サン・カルロ劇場 ( 一七三七 ) 、 ア帝国によるニネべ陥落の預言である。アッシ鉄所が建設された。港はすでに一八九〇年代以ポリ湾岸の観光地を近くに擁しているため、沿 紀末 ~ 一四世紀初めに建設されたサン・ジェン リアを獅子、ニネべをその獅子の穴に例えた預降、南部イタリアからアメリカに移民する人々岸航路の旅客数では全国第一位を誇っている。 ナーロ大聖堂などの歴史的建造物が多い。ま を -13 〔上〕ナポリ湾の西部 , 卵城 ( カステル・デッローホ ) か あるサンタ・ルチア港 ( 先 端 ) とサンナツツアーロ港 ( 手前 ) との間に臨む市街。 丘陵上にカステル・サンテ ルモがあり , 右手遠方かす かにベスビオ火山か見える 〔下〕サン・フランチェスコ・ ディ・バオラ教会 ( 19 世紀 ) と , その柱廊に囲まれた半 円形のプレビスチート広場 プロチ第島 / ) ロコロ イスキア島 ティレニア湾 カプリ島 観光案所至 キ丿ラ 匚コロロロロロ サン・ マ . 公園、 世光 ルコ 、ぞホーメロ . : ジリボの丘・、・スビオ火 カステッラマーレ ティ・スタビア ベスピ 会 至、レント リッティ : フ国 ~ ' 。ンツイ防波提 ロワ ー 0 物 サンナツツアーロ港 カステル・ヌオーポ 500 1 : 45 , 000 1000 m ( カステル・デッローホ ナポリ湾 544

9. 日本大百科全書 17

じようるりつくしごと くせまい でんがくさるがく 一七世紀初葉・中葉には上方にも江戸にも多 2 たゆう お歌、曲舞、田楽、猿楽 ( 能 ) 、浄瑠璃、筑紫箏、り、これが猿楽の演目の一部 ( 後の「翁』につ階、陰旋法とも ) が圧倒的優勢になり、各種の ながる ) となる。やがて演技より歌舞を重視す近世邦楽に共通する代表的音階となる。↓音階数の太夫 ( 浄瑠璃の声楽家 ) が輩出してそれぞ ん節切尺癶、室町小歌などがある。日本語に ①三味線楽三味線楽とは三味線伴奏による声れの芸風で語り、各太夫の名をとって何々節と ま基づく民族的な声楽の種目が多く、とくら語る猿楽能が発生し、能と狂言の二種目併演形式 じうた が始まり、猿楽の座が各地に生まれた。南北朝楽の各種様式の総称で、地歌 ( 弾き歌い ) 以外よばれたが、芸風の伝承は続かなかった。この こ物が多い。この期の末には三弦が伝来した。 やまと おうみ 平曲は琵琶の弾き語りの音楽で、その歌詞が時代には近江猿楽と大和猿楽が隆盛であったの種目では声楽 ( 唄または語り ) と三味線は分時期の浄瑠璃を総称して古浄瑠璃という。 ゅうざきかんぜ 芸風と流派名称の継承は、一七世紀末葉に大 担される。多くの種目・流派が現れたが、歌物 が、室町初期の大和猿楽の結崎 ( 観世 ) の座に つまり『平家物語』である。盲僧琵琶に基づき たけもとだゅう かんあみぜあみ と語物の一一系統に分けられる。前者には地歌、坂の竹本義太夫が創流した人形浄瑠璃義太夫節 雅楽と声明の影響を加えて一三世紀初めに芽生観阿弥・世阿弥父子が現れ、田楽・曲舞・近江 ぶんらく おえ はうた ながうたげぎ に始まる。義太夫節は今日も文楽の浄瑠璃また え、一四世紀末に確立した。一四世紀に琵琶法猿楽から歌舞的要素を大幅に摂取して芸風を大長唄、下座音楽、荻江節、端唄、うた沢、小唄 とら′ / 」う 歌舞伎のチョボとして用いられ、素人の趣味と が属し、後者には浄瑠璃が属する。 師の職能団体「当道」が成立して室町幕府の公改革し、今日まで伝わる能の様式を大成した。 以来、大和猿楽は猿楽の代表となり、武家の④地歌発生初期の三味線は様式不定の、はやしても盛行を続けている。↓義太夫節 認を得て以来、平曲は当道の盲人音楽家の専門 うた 一八世紀初頭には大坂の義太夫節、京都の一 芸として独占的に伝承される。江戸時代にも当愛好を受けて他の芸能を圧して流行し、江戸時り唄などの伴奏に用いられたが、一六世紀末に はんだゅう 道は徳川幕府に認められて存続したが、平曲に代には幕府の式楽となった。以後、演目は固定現れた新様式の三味線組歌を最初の曲種として中節、江戸の半太夫節が各都市の代表的浄瑠 みやこだゅういっちゅう じうた かわって地歌、箏曲が盲人音楽家の実際上の専化したが、芸態はますます洗練の度を加え、他始まり、当道の盲人音楽家の伝承芸となったの璃であった。京都の都太夫一中の一中節は当 ゃながわけん 門芸となり、名目的専門芸の平曲の伝承はしだ種の音楽や芸能 ( 郷土芸能をも含めて ) にも大が地歌である。一七世紀中葉の京都の柳川検初は歌舞伎にも用いられたが、後の代には江戸 ぎよ、つ に移って座敷浄瑠璃となった。↓一中節 一八世紀初葉の大坂の野川検 いに弱まり、今日ではごく少数の人々が伝承すきな影響を及ばした。明治以後は猿楽の称にか校から柳川流、 ますみ いくた 江戸半太夫の半太夫節はやがて弟子の十寸見 校から野川流が始まる。地歌は生田流箏曲と結 るのみである。↓平曲 えて能 ( 能楽 ) とよばれている。↓能 しろうと かとう 浄瑠璃は最初は無伴奏の語物音楽として一五合して三絃と箏の合奏音楽となり、一般素人も河東の河東節に席を譲る。河東節は元来は歌舞 早歌は無伴奏の語物で、一三世紀末ころに明 わ 1 」と 空という僧により大成された。公家、武家、僧世紀末ころに発生した。三味線楽としての多様演奏を楽しむ家庭音楽として発展する。↓地歌伎の和事の浄瑠璃だが、のちには座敷浄瑠璃中 かみがた 心 ( 例外的に歌舞伎にも ) になる。↓河東節 ◎長唄上方長歌 ( 地歌の一曲種 ) に対して江 侶など上流階級に愛好され、一四世紀にかけてな展開については次期の条で述べる。 あらごと かぶき おおざっま つくし′一と 同じころ歌舞伎の荒事の浄瑠璃として大薩摩 戸長唄ともいう。初期の歌舞伎踊りの唄や上方 筑紫箏は箏曲 ( 箏の弾き歌いを中心とする音 隆盛したが、一五世紀末ごろから衰退した。早 しゅぜんだゅう うたいもの 歌の語りのリズム上の特徴が、曲舞を経て、能楽 ) の始まりで、越天楽謡物など雅楽系統の長歌などを源流として一八世紀初葉に江戸で成主膳太夫の大薩摩節があったが、のちには衰退 みん 立し、さまざまな他種目の要素をも摂取しっして長唄に吸収された。↓大薩摩節 歌謡および中国 ( 明 ) の七弦琴を源流として、 の謡に影響している。↓早歌 みやこじぶんご 都太夫一中の門弟の宮古路豊後は、分派独立 曲舞は語り舞 ( 立って動き回りながら語る形一六世紀末に北九州で僧賢順により大成されつ、にぎやかな歌舞伎舞踊の音楽 ( 唄、三味線 はやし に囃子を伴う ) として多彩な発展を遂げ、一般して京都で豊後節を創流し、一七世紀中葉に江 式 ) の一種で、鎌倉時代におこり、南北朝時代た。次期に俗箏が派生した以後は衰え、いまは けいこ′と 人の稽古事としても広く普及した。↓長唄 戸に進出し、心中物を得意として大流行した こ摂ごく少数が伝承するのみである。↓筑紫箏 まで流行した。その語り口は猿楽の能の謡し 一うわかまい が、風紀上の理由で厳しい弾圧を受けて一代で 一節切尺八は現行の尺八 ( 普化尺八 ) の先駆 6 下座音楽歌舞伎科白劇の伴奏音楽で、長唄 取されている。その一種である幸若舞は武将た ちに愛好され、江戸時代には能楽とともに幕府的存在で、起源は不明だが一五世紀ころから僧の唄・三味線・囃子が演奏し、通常の囃子のほ絶えた。しかし、その影響は甚大で、多くの浄 いんとん の式楽となったが、明治維新で滅び、いまはわ侶、隠遁者などの間で行われ、一六世紀末ごろかに多種類の打楽器を用いる。起源は古く、初瑠璃流派がその門流から派生した。↓豊後節 そのはち みやぞの しげたゆう かわ 上方での分派には薗八節 ( 宮薗節 ) と繁太夫 ずかに福岡県の郷土芸能として残る。↓幸若舞からは流派も発生して一般人にも普及したが、期の歌舞伎踊りに能の囃子や鉦などを用いたと でんがく ころに始まるが、様式的確立は一八世紀中葉で節がある。前者は江戸に移って座敷浄瑠璃化し 田楽は、そもそもは豊作祈願の農耕儀礼の歌一八世紀からは急速に衰えて滅びた。↓一節切 ある。三味線を用いない場面も多く、音楽だけて細々ながらいまも存続し、後者はやがて衰滅 ほかに、一六世紀から一七世紀にかけては小 舞で、元来は農民が演じたものだが、平安時代 こうた の独立演奏は行われない特殊な種目だが、便宜したが、一部は地歌に摂取された。↓宮薗節 にはそれを職業とする田楽法師が現れ、散楽の歌ーー後の小唄 ( 江戸小唄 ) と区別して室町小 しん かんぎん 弾圧以後の江戸の門流がおこした分派には新 が流行した。歌詞集として『閑吟上ここで扱った。 曲芸的要素を取り込んで、しだいに鑑賞芸能に歌という きよもと とみもと ときわず りゅうたっ 荻江節一八世紀中葉に長唄の唄方だった荻内節、常磐津節、富本節、清元節の四流があ なった。鎌倉末期から南北朝時代にかけてはこ集』『隆達小歌集』などが伝わる。 つるが ろゅう ふじまっさつま 三弦の伝来と三味線の誕生は日本音楽史上の江露友が創始した。歌舞伎を離れて唄と三味線る。富士松薩摩の新内節 ( 流名は後の鶴賀新内 れに劇的要素を加えた田楽能が流行する。田楽 えいろく ~ 七 0 ) のみの座敷芸となった。↓荻江節 による ) は劇場を離れて座敷浄瑠璃となり、常 は猿楽能の大成にも影響を与えたが、室町時代重要事件である。三弦は永禄年間 ( 一五夭 もじたゆう りゅうきゅう に琉球から堺の港に到来し、琵琶の影響のも①端唄・ 6 うた沢・①小唄これらは短編歌曲磐津文字太夫の常磐津節は歌舞伎出演を続け 以後は猿楽に圧されて衰退し、郷土芸能化した ぶぜん っ ) 0 し、 の種目である。室町小歌ののち、江戸時代のは 続して常磐津節から富本豊前の富本節が分 ものが残った。一方、都市民衆も農民田楽を模とに改造されて日本本土独自の三味線となっ えん , かりゆ・つ 倣して大規模で華美な行列や踊り ( 風流 ) を行た。三味線楽は次期に大幅に多様化し、三味線やり唄は三味線伴奏になり、端唄と総称され派し、のち一九世紀初葉には富本節から清元延 じゅだゅう る。幕末一九世紀の江戸では端唄が大流行し、寿太夫の清元節が独立する。富本節は清元節に うようになり、これも盆踊りなど近世以後の郷は近世邦楽の代表的楽器となる。↓三味線 押されて衰えたが、常磐津節と清元節は歌舞伎 〔第五期〕民族音楽大成時代 ( 一七 ~ 一九世紀そこからうた沢 ( 歌沢、哥沢 ) と小唄 ( 江戸小 土芸能につながる。↓田楽↓風流 中葉 ) 日本音楽史の近世。江戸時代全体と一唄 ) が成立した。これらは明治時代に宴席の音舞踊劇の浄瑠璃としていまも盛行している。↓ 猿楽は散楽の劇的な面を源流としたもので、 サルガクはサンガクの転化である。平安末期か致する。中世から近世への推移で重要なのは音楽として隆盛し、これにつれて端唄も種目とみ新内節↓常磐津節↓富本節↓清元節 やつはし ものまね なされるに至った。↓端唄↓うた沢↓ト唄 箏曲一七世紀中葉の京都で八橋検校が筑紫 ら鎌倉末期までは滑褓な物真似 ( 写実的演技 ) 階の変化である。中世までは律音階 ( レミソラ シの音程関係。半音なき五音音階 ) が主流だっ①浄瑠璃元来無伴奏だった浄瑠璃は、一七世箏の律音階の調弦を都節音階に改め、八橋流が 中心の芸態で、これは後の狂言につながる。一 しゅし みやこぶし 紀初頭のころに三味線伴奏となり、人形劇、歌成立する。以後の箏曲は当道の盲人音楽家の専 方、鎌倉時代には法会での咒師の役目 ( 声明演たが、近世以後はその変化形の都節音階 ( ミ そくそう 門伝承となり、筑紫箏に対して俗箏 ( 俗は一般 唱と所作 ) を猿楽の徒が代行することが始まファラシドの音程関係。二か所に半音。陰音舞伎と結び付いて多様化する。↓浄瑠璃 もの き ) ~ い おきな ちゅう

10. 日本大百科全書 17

ながの 長野県 / 市町村一覧 ノ、ロ 増減率 地図 面積 市名 (km2) 索引 336 973 長野市 404.08 3.9 ながの 264.60 197 340 松本市 E 4 まつもと 176.48 116 178 上田市 4.2 うえだ 85 . 19 61 747 岡谷市 ▽ 0 . 7 おかや 299.23 92 401 飯田市 いし、オど 109.91 52 329 諏訪市 すわ 貞坂市 151.43 53 611 2.0 すざか 」、諸市 D 6 94 . 01 43 705 3.2 伊那市 208.75 59 010 駒ヶ根市 G 4 32 396 3.9 こまがね 163.53 中野市 なかの 77 . 89 40 532 大町市 ▽ 1 . 6 おおまち 464.16 32 451 飯山市 B 6 ▽ 3.5 201 . 57 29 034 いいやま 茅野市 265.88 47 273 ちの 塩尻市 172.36 55 960 しおしり 更埴市 3.2 C 5 78 . 54 36 849 こうしよく 佐久市 59 974 193.15 さく ・面不責 人口 増減率 人口 増減率 地図 地図 面責 人口 増減率 地図 面積 郡町村名 郡町村名 郡町村名 索引 索引 ( km2 ) 索引 (km2) ( km2 ) 阿南町 豊科町 J 4 ▽ 3.3 37 . 97 24 735 南佐久郡 123.94 7 052 とよしな あなん みなみさく 7.5 穂高町 1 . 0 上郷町 D 4 24 004 臼田町 E 6 25 . 98 14 330 146.21 83 . 41 16 363 かみさと はたか うすだ 清内路村 奈川村 F 3 ▽ 5.0 佐久町 1 399 E 6 ▽ 0.3 43 . 25 917 ▽ 3 . 1 120.56 122.55 9 058 ながわ せいないし 阿智村 安曇村 小海町 E 3 4.4 ▽ 2.5 ▽ 0 . 7 402.78 2 724 F 6 114.97 6 831 113 . 25 6 023 あすみ あち こうみ 梓川村 川上村 1 . 7 浪合村 E 4 ▽ 2 . 1 42.47 9 508 F 7 208.67 4 711 56 . 12 791 あすさがわ なみあい かわかみ 三郷村 10.0 南牧村 1 . 0 平谷村 ▽ 3.2 39 . 41 13 865 F 6 133 . 40 3 468 77 . 47 635 みさと みなみまき ひらや 堀金村 南相木村 根羽村 E 4 ▽ 2.9 65.04 6 806 F 7 65 . 63 ▽ 9 . 4 89 . 93 1 722 1 453 はりがね みなみあいき ねは 北相木村 下条村 北安曇郡 ▽ 0.7 F 7 ▽ 7.6 38 . 26 4 049 56 .14 1 200 きたあすみ しもしよう きたあいき 八千穂村 売木村 池田町 ▽ 4.8 E 6 ▽ 2.4 44 . 35 788 65.61 5 016 いけだ うるぎ やちは 天龍村 松川村 ▽ 10.0 北佐久郡 」 4 108.90 3 051 まっかわ てんりゅう きたさく 6.0 泰阜村 八坂村 軽井沢町 2 461 ▽ 5 . 8 D 7 64 . 97 155.69 15 051 やさか やすおか かるいざわ 1 . 1 美麻村 喬木村 望月町 E 6 ▽ 1 . 2 66.56 7 304 127 . 28 11 580 みあさ もちづき たかぎ 0.5 白馬村 豊丘村 御代田町 14.3 76.29 7 444 D 7 61 . 54 11 260 はくば とよおか みよた 小谷村 1 .3 大鹿村 H 4 ▽ 14.6 立科町 249.47 1 984 66.41 8 455 おたり おおしか たてしな 上村 更級郡 浅科村 ▽ 4.0 ▽ 0.2 126.42 1 118 19.13 5 978 さらしな かみ あさしな 南信濃村 上山田町 D 5 北御牧村 」 4 ▽ 3.6 ▽ 0.1 206.76 3 160 D 6 25 . 95 5 403 みなみしなの かみやまだ きたみまき 大岡村 C 4 木曽郡 小県郡 きそ おおおか ちいさがた 1 . 9 本曽福島 G 3 埴科郡 丸子町 9 799 ▽ 4.1 150.88 D 5 105 . 62 26 139 きそふくしま まるこ 坂城町 長門町 上松町 G 3 ▽ 3.7 ▽ 0.3 166.81 7 370 96.38 5 188 さかき あけまっ ながと 戸倉町 東部町 4.9 南木曽町 H 3 ▽ 3.1 215 . 88 6 473 89.98 22 481 なぎそ とぐら とうぶ 真田町 1 . 8 楢川村 上高井郡 D 6 F 4 4 369 ▽ 7 . 2 181.76 118.20 10 642 ならかわ かみたかい さなだ 武石村 木祖村 3.1 小布施町 F 3 87 . 23 ▽ 0.1 137 . 67 4 318 4 164 きそ たけし おぶせ 高山村 和田村 日義村 ▽ 2.3 88 . 18 ▽ 3.9 56 . 25 2 570 2 864 たかやま ひょし わだ 青木村 開田村 ▽ 5.4 下高井郡 5 156 ▽ 1 . 7 F 3 149.39 2 208 57 .14 しもたかい あおき かいだ 三岳村 山ノ内町 ▽ 0.1 B 6 諏訪郡 G 3 120.58 2 248 266.01 やまのうち すわ みたけ 木島平村 王滝村 G 2 B 6 ▽ 0.0 312.71 1 708 ▽ 3.4 下諏訪町 63 . 23 26 567 98 . 54 おうたき きしまだいら しもすわ 4.4 大桑村 H 3 野沢温泉村 5 588 ▽ 0 . 9 A 6 富士見町 233.95 14 693 58.41 F 5 144.37 おおくわ のざわおんせん ふしみ 3.6 山口村 0 . 1 上水内郡 原村 2 150 24.57 6 343 やまぐち 43 . 16 かみみのち はら 東筑摩郡 信州新町 C 4 上伊那郡 70 . 58 ひがしちくま しんしゅうしん かみいな 豊野町 明科町 ▽ 0.9 高遠町 D 4 10 197 ▽ 2.5 あかしな 42 . 20 19 . 60 G 5 とよの 139.26 8 542 たかとお 信濃町 8.8 0.2 波田町 E 4 辰野町 59 . 20 12 316 B 5 しなの はた 148.21 F 4 170.41 23 935 たつの 牟礼村 8.7 四賀村 ▽ 1 . 2 箕輪町 90 . 64 6 630 むれ 39 . 55 しが 85.57 21 445 みのわ 三水村 1 .8 本城村 ▽ 2.9 D 4 飯島町 32 . 45 2 702 はんしよう さみす 35 . 66 92 . 52 10 705 いいしま 戸隠村 坂北村 ▽ 1 . 2 B 5 131 . 70 南箕輪村 さかきた 29 . 66 2 731 とがくし G 4 1 1 .6 40.75 9 910 みなみみのわ 鬼無里村 1 . 0 麻績村 D 4 ▽ 5.3 C 4 13 5 . 64 中川村 33 . 83 3 805 きなさ 77.24 5 578 おみ なかがわ 小川村 ▽ 1 . 1 坂井村 長谷村 37 . 87 1 987 56 . 59 G 5 おがわ 320.28 ▽ 3.9 さかい 2 592 はせ 中条村 宮田村 D 4 ▽ 7.5 C 4 4.2 生坂村 39 . 25 33 . 08 なかしよう いくさか 2 904 52 .13 7 898 みやた 下水内郡 1 1 .7 下伊那郡 山形村 27 .10 6 230 しもみのち やまがた しもいな 1 . 9 豊田村 松川町 3.1 朝日村 70.39 4 309 13 511 とよた 72.62 あさひ まっかわ 栄村 高森町 4.6 南安曇郡 さかえ みなみあすみ 45 . 29 12 022 たかもり 注 : 1987 年 6 月現在。人冂は 1985 年国勢調査 , 増減率は 1980 ~ 85 年による。▽は減少。地図索引は長野県地図 ( 443 ページ ) と照合 成 ロ男女 男年 ア O 年 O 【「 ) C)L.n O 【う ) ( Ⅱ ) 【っ ( L.n - Ⅱ一 L-n O L.n O (C) O 0 し「 / 1 ー ( 0 (. 0 【っ广 0 4 ′っ 0 っ ") つ」っこ 人口密度 ( 人 /km2) 833.9 745 . 8 658.3 724.8 308.8 476.1 354.0 464 . 9 282 . 7 198.1 520.4 69.9 144.0 177.8 324 . 7 469.2 310.5 1 960 年 男 女 日 行 -4 - -0 -. 0 -4 4 8 4 -4 4 ーーー 8 8 4 4 施 ー / 1 4 4 ・ 4 -4 一 4 ・ 4 -4 11 0 1 っ 0 4 門 0 門 0 - -0 0 LO - -0 - -0 0 0 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 11 1 1 14 市 世帯数 ( 人 ) 103 376 64 192 35 949 18 516 26 337 16 730 14 648 12 872 17 079 8 932 10 205 9 565 7 614 13 764 16 118 9 611 17 319 35 70 105 千人 0 35 105 70 100 歳以上の人口 ( 1980 年 ) 単位 : 人 全国総数 1 76 81 3 注 : 国勢調査 ( 1960 ・ 1980 年 ) による ( 人 ) ( 人 ) 39 . 68 10 792 46.64 7 896 ▽ 0.3 C 4 1 499 33 . 60 ▽ 6.4 C 4 66 . 95 1 510 B 4 183.21 7 919 ▽ 9.0 B 4 4 699 268.21 ▽ 0.3 7 206 ▽ 6 . 5 2 103 15 . 57 46.29 3.9 16 918 53 . 20 25 . 61 17 828 19 .11 98 . 72 11 663 7 308 ▽ 2.2 18 546 ▽ 1 .7 5 974 ▽ 1 .7 4 884 ▽ 8.5 7 881 9 701 0.4 11 909 6 493 ▽ 0.6 5 969 ▽ 3.4 5 866 ▽ 1 1 . 1 2 864 4 560 ▽ 1 1 . 1 3 635 ▽ 9.5 5 573 ▽ 1 . 6 3 284 ▽ 6.2 34 . 55 A 7 270.51 441