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1. 日本大百科全書 17

なおびの 直木賞 / 受賞作品・作家名一覧 回年度期作品名 作家名 回年度期作品名 作家名 回年度期作品名 作家名 1 昭和 10 上鶴八鶴次郎はか 川口松太郎 39 昭和 33 上花のれん 山崎豊子 70 下 鷲尾雨工 2 下吉野朝太平記 赤い雪 榛葉英治 71 昭和 49 上鬼の詩 藤本義一 海音寺潮五郎 40 3 昭和 11 上天正女合戦 下総会屋錦城 城山三郎 72 半村良 下雨やどり 木々高太郎 下人生の阿呆 落ちる 4 多岐川恭 井出孫六 アトラス伝説 41 昭和 34 上馬淵川 5 昭和 12 上 渡辺喜恵子 73 昭和 50 上 下ジョン万次郎漂流記井伏鱒二 6 鏨師 平岩弓枝 74 下復讐するは我にあり佐木隆三 下罩あ城 7 昭和 13 上ナリン殿下への回想橘外男 42 司馬遼太郎 75 昭和 51 上 下兜首ほか 大池唯雄 団十郎切腹事件 8 戸板康二 76 三好京三 下子育てごっこ 43 昭和 35 上錯乱 9 昭和 14 上 池波正太郎 77 昭和 52 上 下 44 下はぐれ念仏 寺内大吉 78 下 堤千代 11 昭和 15 上小指 背徳のメス 黒岩重吾 79 昭和 53 上深重の海 津本陽 軍事郵便 河内仙介 45 昭和 36 上雁の寺 水上勉 離婚 色川武大 下上総風上記 村上元三 下螢の河 46 伊藤桂一 80 下一絃の琴 宮尾登美子 13 昭和 16 上雲南守備兵 木村荘十 47 昭和 37 上天才と狂人の間 杉森久英 大浪花諸人往来 有明夏夫 下 48 下江分利満氏の優稚な山口瞳 81 昭和 54 上浪曲師朝日丸の話はか田中小実昌 15 昭和 17 上 生活 短篇集ナポレオン狂阿刀田 杉本苑子 82 下寛容 神崎武雄 孤愁の岸 下 田岡典夫 49 昭和 38 上女のいくさ 強情いちご 佐藤得二 83 昭和 55 上黄色い牙 志茂田景樹 下巷談本牧亭 安藤鶴夫 17 昭和 18 上 50 花の名前はか 向田邦子 下山畠はか 塵の中 森荘已池 和田芳恵 84 下元首の謀叛 中村正帆 19 昭和 19 上ニューギニヤ山岳戦岡田誠三 51 昭和 39 上 85 昭和 56 上人間万事寒翁が丙午青島幸男 下炎環 永井路子 86 52 下 20 下蒲田行進曲 ー ) 力、こう / 、し、 富田常雄 張少子の話 安西篤子 21 昭和 24 上面ほか 機雷 光岡明 山田克郎 53 昭和 40 上虹 藤井重夫 87 昭和 57 上炎熱商人 下海の廃園 22 深田祐介 23 昭和 25 上天皇の帽子 今日出海 54 下八百長 新橋遊吉 時代屋の女房 村松友視 虜愁記 千葉治平 88 執行猶予 小山いと子 下 下長恨歌はか 一雄 55 昭和 41 上白い罌粟 檀 立原正秋 89 昭和 58 上黒パン俘虜記 24 胡桃沢耕史 下蒼ざめた馬を見よ五木寛之 90 25 昭和 26 上英語屋さん 源氏鶏太 56 下私生活 神吉拓郎 下鈴木お汞 久生十蘭 57 昭和 42 上追いつめる 生島治郎 26 秘伝 高橋治 下アメリカひしきはか野坂昭如 イエスの裔 58 柴田錬三郎 昭和 59 上恋文 連城三紀彦 27 昭和 27 上罪な女 藤原審爾 てんのし村 難波利三 彗当少 - 女 三好徹 立野信之 59 昭和 43 上 下叛乱 92 28 下 下青玉獅子香炉 60 29 昭和 28 上 陳舜臣 93 昭和 60 上演歌の虫はか 山口洋子 僑人の檻 早乙女貢 94 下 下魚河岸ものがたり森田誠吾 30 有馬頼義 61 昭和 44 上戦いすんで日が暮れて佐藤愛子 31 昭和 29 上終身未決囚 最終便に間に合えはほか林真理子 下ポロ家の春秋 梅崎春生 62 下 95 昭和 61 上恋紅 32 皆川博子 戸川幸夫 63 昭和 45 上軍旗はためく下に 高安犬物語 結城昌治 96 下カディスの赤い星逢坂剛 33 昭和 30 上 光と影 渡辺淳一 遠いアメリカ 常盤新平 64 下強力伝 新田次郎 下長良川 豊田穣 97 昭和 62 上ソウル・ミュージック・山田詠美 34 邱永漢 65 昭和 46 上 香港 ラバーズ・オンリー 35 昭和 31 上燈台鬼 南条範夫 66 下 海狠伝 白石一郎 壁の花 67 昭和 47 上手鎖心中 下それぞれの終楽章阿部牧郎 下お吟さま 今東光 斬 ( ざん ) 穂積驚 68 昭和 47 下 勝島 37 昭和 32 上ルソンの谷間 江崎誠致 69 昭和 48 上暗殺の年輸 下 38 津軽世去れ節はか 注 : E = 上半期 ( 12 ~ 5 月 ) ド = ト半期 ( 6 ~ 11 月 ) 昭和 20 ~ 23 年中止 たがむし 井上ひさし 98 綱淵謙錠 藤沢周平 長部日出雄 36 該当作品なし もに廃された。南朝軍の京都進入で光厳、光 みよう やましろやわた 明、崇光三上皇とともに山城八幡 ( 京都府八 3 やまとあのう 幡市 ) に移され、のち大和賀名生 ( 奈良県吉野 郡 ) に幽閉された。一三五七年 ( 延文二・正平 一一 D に帰京し、出家して花園上皇の御所であ はぎわらどの った萩原殿に住した。 ^ 佐々木久彦〉 もとおりのりなが 直毘霊なおびのみたま本居宣長の古道論書。 一巻。一七七一年 ( 明和八 ) 稿本 ( 『直霊』 ) が成り、のち彼の主著『古事記伝』の総論の一 かもまぶち 部としてその第一巻に収められた。賀茂真淵の 『国意考』と並んで復古神道 ( 古学神道 ) を代 表する書である。日本の古代こそが平和と人間 性の完全な開花が実現した理想世界であり、そ あまてらすおおみかみ れは神々の計らいを信じ、日神天照大神を祖 神とする代々の天皇の統治に随順した古代人の 生き方によってもたらされたものであるとし、 この古代人の姿こそが真の神道であると説く。 それに対して、儒教や仏教は人間がその限りあ る知恵をもってつくりだしたものにすぎす、人 情に反するばかりか、人間の本性をもゆがめて しまうとして激しくこれを排斥している。↓本 居宣長↓古事記伝 〈高橋美由紀〉 直会なおらい神祭りにおいて、神に供え おぜんさいしよく たものと同様の御膳 ( 斎食 ) 、あるいは、神に みき しんせん 供えた神酒や神饌のお下がりをちょうだいする 行事をいう。一般には神祭りの最後に行われる ことから、これは神祭りに仕えるために、斎戒 して清浄なる状態になったのを、祭りが終わっ て平常に戻ること、すなわち解斎と説かれる が、もともとは祭りのなかで斎食を頂くことで にいなめ あった。宮中の新嘗祭では、祭儀の中心におい て、神々との共食を直会と称し、京都の賀茂 わけいかづち みあれ 別雷 ( 上賀茂 ) 神社の御阿礼神事 ( 神迎えの 祭祀 ) では、祭場にて、神迎えに先だち、神酒 ) ) りよう と「掴みの御料」 ( 混ぜご飯のようなもの ) を 頂くことを直会と称しているなど、本来の直会 の形式が今日もなお継承されている。直会を解 もとおりのりなが 斎と説いたのは本居宣長である。すなわち、 ものいみ なほりあひつづま 「奈保理阿比の切れる也、直るとは、斎をゆる つねかへ しよっぎ しようし力い べて、平常に復る意也」 ( 『続紀歴朝詔詞解』 ) と。以来、直会と解斎とが混同されてきたので ある。 〈沼部春友〉 直りなおり鉱床中の富鉱体に使う日本古 来の鉱山用語。鉱床中の鉱石の品位はどこも同 じということはまれで、多くの場合、ある部分 、。ゝ、ま力の では鉱体の規模が大きく品位もよしカ 部分では採掘限界品位以下で採掘の対象となら イ ~ い者 ~ し

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とらんふ フランス⑨⑩⑩ル・フロランタン・カード ハンガリー⑩どんぐり⑩ベル チェコスロパキア⑩どんぐり@葉⑩ベル インド @⑩⑩木の皮に手書きのカード ェチオビア①① 現代のカード スペイン⑥剣⑦棍棒⑧聖杯 ウルグアイ④剣⑤聖杯 アメリカ①②③ティファニー社製のカード ◆ スイス⑩どんぐり⑩葉⑩ベル ◆ ソ連 @@@ トランプ生産 150 周年記念カード 中国⑩@⑩水滸伝カード EST 工第 イスラエル④①@ MADE ISRAEL 韓国 @⑩ ニュージーランド⑩④ 〔カードの誕生〕一四世紀の末期から一五世紀 の初頭に、タロットから二二枚の大アルカナを 落として五六枚一組のカードがフランスでつく られた。これが基になり、絵札のうちの騎士が なくなり、各スーツ一三枚、計五二枚一組の現 在のカードになった。現在のカードで兵士・召 使いを表す力ードをジャックとよぶのは、ジャ ックという名が、日本でいう太郎などと同じに 一般的な名前だからである。 各スーツのマークも、剣・棍棒・聖杯・貨幣 からいろいろと変化した。ドイツではどんぐ ト、ベルのスーツを、フランスで り、葉、 ま剣、ハート、ダイヤモンド、棍棒のスーツを 使っている。現在のスーツ、スペード、 ト、ダイヤモンド、クラブはフランスのスーツ の変化したものである。スペード spade は剣 の変形で、イタリア語の剣を意味する spada からきており、英語の spade ( 鋤 ) の意味は ない。ダイヤモンドは貨幣の変形である。クラ ーの葉のよ プ club は棍棒のことで、クロー うな三つ葉を用いているが、古いカードを見る ーのような三つ葉がついてい と棍棒にクロー るものがあり、この三つ葉を棍棒の代用にした 。ハート heart は文字どおり心臓で、 のである 聖杯のかわりに用いられたものである。 一四世紀までのカードは手書きであったので 高価であったが、一五世紀に入り、印刷術の発 達に伴って、木版刷りで大量生産されるように なって、安価になり一般にも普及した。裏のデ ザインもきれいなものになり、一九世紀末期イ ギリスにおいて、隅を丸く落とし、隅にインデ ックスをつけ、絵札を両頭にして、現在用いら れているようなカードになった。 日本には戦国時代にスペイン、ポルトガルか ら伝来したカードを変形させた「うんすんかる てんしよう た」「天正かるた」とよばれるものがあり、さ らにそれが「花札」に変化していったのであ る。↓かるた↓花札 おもなカードゲーム 現在行われているカードゲームの種類は非常 に多い。しかし、基本的に同じような遊び方を グループとして系統的にみれば、ホイストを中 、いにしたホイスト系のゲーム、ラミーをはじめ とするラミー系のゲーム、ストッブ系のゲー ム、ポーカー系のゲーム、およびその他のゲー ムに大別できる。 すき 253

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にじゅう 一二人の子供をかわいがる。しかし、第二次世 このため江戸送り商品は減少し、二十四組問屋る。 夜講をつくっている所では二十三夜塔という記 あらし しん 〈村井益男〉 ところが清朝の時暦になって、黄道上を冬界大戦の嵐はこの小さな島の子供たちをも巻き も衰えた。↓十組問屋 念碑を立てている例もある。二十三夜の月のさ 込み、ある少女は紅灯の巷へ、ある少年は戦場 にじゅうしこう中国古来の代表的至点から始めて一五度ずつの二四分点を設け、 まを見てその年の作物の豊凶を占っている土地ニ十四孝 、また彼らの逸話を収めた同太陽がこの点を通過するときを二十四節気としへと行ってしまい、戦争が終わったときには大 〈大藤時彦〉孝子二四人をいし もある。↓月待 ふくごうかざん にじゅうしきかざん c> 複合火山 名の幼童の教訓書をいう。その人と配列の順序た。そうすると太陽が黄道上を一五度すっ進む石先生も子持ちの末亡人となっていた。戦争に ニ重式火山 げんかくきよけい 対する抗議に裏打ちされた、子供にも大人にも 日数は不等となるが、実際の時候を表すことに にじゅうしくみどんや江一尸ー には諸本で異同があるが、元の郭居敬の作とい ニ十四組問屋 ぐしゅん とくみ 大坂間の商品輸送において、江戸側の十組問屋われる『二十四孝』によれば、虞舜、漢の文なる。これを定気法という。閏月の置き方は平読まれる家庭小説の秀作。五五年に木下恵介監 とうえい そうしんびんそんちゅうゆう えんし ひがきかいせん と対応しその注文に応じて菱垣廻船で荷物を送帝、曾参、閔損、仲由、董永、判子、江革、気法と同様であって、中気のない月を閏月とす督・高峰秀子主演で映画化された。舞台となっ とのしよう よ - っ′一う た小豆島の土庄港には主人公たちのプロンズ った大坂側の江戸積問屋仲間。一六九四年 ( 元陸績、唐夫人、呉猛、王祥、郭巨、楊香、朱封るが、冬至はかならす一一月に、春分は二月 きようしおう ゆけんろうろうらいし さいじゅん に、夏至は五月に、秋分は八月に含まれるよう像が建てられている。 3 日本映画〈上笙一郎〉 禄七 ) 一〇組で組織されたが、のち増加して昌、灰黔婁、老 ~ 來子、蔡順、黄香、姜詩、王 きようま・つ ほうていらんもうそう 享保 ( 一七一六 ~ 三六 ) ごろには二四組になった。褒、丁蘭、孟宗、黄庭堅らであり、仲由と江革にし、閏月はこの規定に反しないように挿入す回『二十四の瞳』 ( 旺文社文庫・偕成社文庫・角 てつく 川文庫・講談社文庫・新潮文庫 ) ▽国分一 綿買次積問屋、油問屋、鉄釘積問屋、江戸組毛のかわりに張孝と田真を入れたものもある。孝る。日本でも一八四四年 ( 弘化一 ) から施行さ りゅうきょ・つ てんはう たん 太郎「二十四の瞳」 ( 朝日ジャーナル編『小 綿仕入積問屋、一番組紙店、二番組紙店、表子譚を集めた書には古く前漢の劉向作『孝子れた天保暦はこの定気法に従っている。↓中国 とん・一う みようじん 〈渡辺敏夫〉 さい巨像』所収・一九七四・朝日新聞社 ) 店、塗物店、内店組、明神講、通町組、瀬戸伝』があるが、敦煌発見の唐末五代の円鑑大師暦↓天保暦 おうぎぶん うんべん あんえい にじゅうしちねん にじゅうじんかく dual personali ・ 雲辯の作といわれる『二十四孝押座文』によっ ニ重人格 物店、薬種店、堀留組、乾物店、安永一番組 ~ ニ七年テーゼ ty 二つのまったく異なる人格が同一人物の 安永九番組である。一七八四年 ( 天明四 ) 株仲て、唐末ごろには孝子の代表二四人を数える習七年 ( 昭和一 I) に決定されたコミンテルンの日 そ・つぎよ、つじ 間として公認され、取締方、惣行事、大行事、慣が形成されていたことがわかる。二十四孝説本に関する方針書。正式表題は「日本問題に関なかに交代して現れ、長期にわたって一方の人 通路人などの役人を置き、仲間人数は三四七人話は、一般に親に対する子の一方的献身を説する決議」。一九二六年一二月の日本共産党第格が持続し、他方の人格のことについてはなに にのばった。江戸ー大坂間の取引では、二十四き、親の喜びのために、七〇歳になっても赤子三回大会は、セクト主義的な福本イズムが指導も思い出せないようなヒステリー的人格をい のまねをする周の老莱子、親を養うためにわが方針となった。コミンテルンは日本共産党の代う。一般に、もともとの人格が良心的で勤勉で 組側がつねに貸勘定で、一八四一年 ( 天保一 子を生き埋めにしようとする漢の郭巨、親の食表をモスクワに招集し、この誤りを克服しようあるのに反して、交代して現れる人格は享楽的 (l) にはその額一六万四四〇〇両にも達した。 ほうらっ たけのこ しん 欲のために、厳冬に筍を探して泣く晋の孟宗とした。コミンテルンと日本共産党の代表とので放埒な場合が多い。このような人格の交代は ニ十四節気 や、氷上に寝て鯉をとろうとする晋の王祥の話協議で翌年七月に採択されたのが二七年テーゼかならずしも二重でなく多重であり、文献的に 、。『二十四孝』である。二七年テーゼは、日本帝国主義によるは一二の顔をもっている事例も記録されてい など、残酷なものが少なくなし 四季節気名気節太陽黄経太陽暦の日付 ちかまつはんじ は江戸時代には日本でも訳され、近松半二らの中国侵略戦争の切迫という情勢の下で、戦争へる。しかし、症例としてはそれほど多いもので じようるり ほんちょう 春立春正月節三一五度一一月四日頃 はない。人格の交代の中間段階はなく、眠りか と進みつつある日本資本主義の矛盾を分析し、 浄瑠璃『本朝廿四孝』など芸能にも多く取り 雨水正月中三三 0 度一一月一九日頃 入れられている。↓本朝廿四孝〈山崎純一〉当面する日本革命の性格と日本共産党の任務をら覚めてみるとまったく違った人格になってし 啓蟄一一月節三四五度三月六日頃 まっていることが多く、それ以前の人格は喪失 回徳田進著『孝子説話集の研究ーー二十四孝を明らかにした。テーゼの最大の歴史的意義は、 春分一一月中 0 度三月一二日頃 清明三月節一五度四月五日頃 中心に中世編・近世編』 ( 一九六三・井上書房 ) 「君主制の廃止」による民主主義革命を強調すしてしまっている。催眠暗示によって実験的に 穀雨三月中三 0 度四月一一 0 日頃 るとともに、日本帝国主義の中国侵略を鋭く予二重人格と類似の状況をつくりだすこともでき にじゅうしし 0 正史 ニ十四史 る。こうした二重人格は、分裂病で異なる人格 にじゅうしせつき中国・日本の見し、これを厳しく糾弾した点であった。テー ニ十四節気 夏立夏四月節四五度五月六日頃 ひょりみ 〈外林大作〉 が併存している場合とは違う。 太陰太陽暦で季節を調節していくために設けらゼは右翼日和見主義の山川主義と左翼日和見主 小満四月中六 0 度五月一二日頃 じゅうせい にじゅうせい 0 重星 芒種五月節七五度六月六日頃 れた、黄道上の二四個の標準になる点を二十四義の福本主義を批判し、綱領的文書としては、 ニ重星 夏手五月中九 0 度六月一二日頃 にじゅうせいけん dual power 節気とよぶ。太陰太陽暦では毎年の日数が同一 初めて日本の革命運動に統一戦線の課題を提起ニ重政権 小暑六月節一 0 五度七月七日頃 ではなく、暦日と季節の関係が変動して、そのした。しかし、コミンテルンの「社会民主主義二つの政治権力が同一国内に併存している状態 大暑六月中一き度七月一三日頃 をいう。この名称は、レーニン執筆の小論文 ずれは、大きい場合一か月ほどにも達する。こ主要打撃論」が反映したセクト主義、党防衛、 秋立秋七月節一三五度八月八日頃 「二重権力について」 ( 一九一七年四月九日付 のすれをなくして季節を調整するために、一年スパイ挑発政策に対する警戒と闘争に十分な注 処暑七月中一五 0 度八月一三日頃 の長さを冬至から始めて二四等分し、各分点を意を払わないという弱点をもっていた。↓日本『プラウダ』 ) に由来する。レーニンは、一九 白露八月節一六五度九月八日頃 〈犬丸義一〉 一七年二月 ~ 三月革命以後の特質として、主要 太陽が通過するときの時候を表す名称をつけ共産党 秋分八月中一合度九月一一三日頃 て、これを二十四節気と称した。その名称は別回日本共産党中央委員会『日本共産党の六十な、現実の、すべての権力機関を掌中にするプ 寒露九月節一九五度一 0 月八日頃 ルジョアジーの臨時政府と、いまだ萌芽的で副 年』 ( 一九全・日本共産党中央委員会出版局 ) 表に示した。一か月に二分点ずつを割り当て、 霜降九月中一一一 0 度一 0 月一三日頃 つばいさかえ にじゅうしのひとみ壺井栄の長次的なものではあるが、確実に成長し続けてい 先のものを節気、後のものを中気と名づけ、こ ニ十四の瞳 冬立冬一 0 月節一三五度二月七日頃 る、絶対的多数者をよりどころとしている政 れに月名を冠して、二月節啓蟄、二月中春分と編小説。一九五一年 ( 昭和二六 ) 二月から一一 小雪一 0 月中一一四 0 度二月一三日頃 月までキリスト教系の青年雑誌『ニュー ・エイ府、すなわち、労働者・兵士 ( 車服を着た農 いうように称する。これは平気法といわれるも 大雪二月節一一五五度三月七日頃 ジ』に連載、翌年光文社から刊行。瀬戸内海の民 ) 代表ソビエトとが、同時に存在しているこ ので、節から節まで、中から中までの日数は三 冬至二月中一一と度一一一月一三日頃 しょつどしま とを指摘している。この二重権力は、革命の過 〇・四四日であるから、一暦月より長いので中 小豆島に生まれた大石先生が新卒の女教師と 小寒一二月節二八五度一月五日頃 、つ - ( : っ 大寒一二月中三呂度一月一一 0 日頃 渡期の、すなわち、革命が普通のプルジョア革 7 / 学校に赴任、そこで受け持った 気を含まない月が生ずる。この月を閏月とすして島の岬のト・ けいちっ ちまた

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ほかに北日本放送、 ま製バット製造などが知られている。 富山県 / 略年表 や〔交通〕県下で最初に鉄道が敷設されたのは一八九八年 ( 明富山テレビ放送 先土器時代上市町丸山遺跡、立山町吉峰遺跡など などがある。 と治三一 ) 中越鉄道による黒田 ( 現高岡市 ) ー福野間であっ 縄文時代水見市朝日貝塚・大境洞窟、富山市蜆ケ森貝 〔生活文化〕江戸時代、越中 た。一九一二年 ( 大正一 ) には氷見まで延長され、二〇年に じようはな 塚など 国鉄城端線・氷見線になった。北陸線は一八九八年金沢か全域が前田氏の支配下にあっ 弥生時代富山市大広田、高岡市福田などの遺跡 おや たために全般的には衣食住の ら高岡まで開通し、翌年富山まで延長、その後新潟県境の親 古墳時代高岡市桜谷古墳、婦中町王塚・勅使塚、立山 へきち なおえっ しらず 町稚子塚などの古墳 不知をトンネルで貫き、直江津まで開通した。高山本線は一地域差は少ないが、山間僻地 ( 成務朝 ) 射水・水見地方に伊弥頭の国造置かれる 九三四年 ( 昭和九 ) に全通した。一九六九年 ( 昭和四四 ) にや急流河川の多い新川地方で ( 斉明朝 ) 阿倍比羅夫、越国の国司に任ぜられる は独特の生活風習がみられ 北陸本線の複線電化が完了し、輸送力は飛躍的に改善された ( 天武朝 ) 越国が越中・越前・越後に分かれる が、富山ー東京間は北陸の県庁所在地中ではもっとも時間をる。昭和初期まで農民は新し 七 0 一大宝一佐伯有頼、立山開山 ( 開山縁起による ) 七一三天平四田口年足、越中守となる ( 越中国司の初見 ) 、綿服を晴れ着とし、それが 要し、北陸新幹線の早期建設に多大の期待がかけられてい かみだき 一八大伴家持、越中守となる ( ー七五一 ) る。富山地方鉄道は富山市を中心に本線、立山線、上滝線な古くなると仕事着とした。男 はんそで うなづき 天平一 能登国分立、越中は新川・婦負・射水・礪波 宀玉宀子 性の仕事着の上着は半袖で丈 どがあり、宇奈月温泉や立山方面へも通じている。 四郡となる 国道は東西に走る八号、名古屋から中部地方を横断して富は腰あたりまでで、アンコモ = 〈三寿永二木曽義仲、源平の礪波山の戦いで大勝 モヒキをはいた。昭和一〇年 = 一 = 一承久三名越朝時、越中・越後両国の守護職となる 山市に至る四一号、庄川沿いの一五六号、能登方面への一六 〇号などがある。滋賀県米町と新潟市を結ぶ北陸自動車道代の初期ごろにモンべが普及一 = = 0 建武一中院定清、越中国守、普門利清、越中守護と なる は県中央部を南北に走り、砺波市と名神高速道路を結ぶ東海するまで女性の仕事着は長着 一 = 入 0 天授六 畠山基国、越中守護となる 、」しひも ~ 林旧二 北陸自動車道の県内着工計画が進んでいる。富山空港は一九で、それを腰紐でたくし上堯 0 元冲七僧綽如、井波の瑞泉寺を創建 きやはん 一至九永正一六越後の長尾為景、越中に侵入し神保氏を破る 八四年にジェット化が実現し、羽田ー富山間を一時間で結んげ、腕貫、手甲、脚絆をつけ ごかやま 一 = 元亀三上杉謙信、越中に入り、一向一揆を掃討 でいる。 た。隔絶地の五箇山では、自 じようはな としやすほん 一犬 0 天正八織田信長の臣佐々成政、富山城に入る 〔社会・文化〕〔教育文化〕富山藩一〇代藩主前田利保は本分たちで織った麻を城端町 一犬五 一三佐々成政、豊臣秀吉に降伏 ぞう 草学者として知られ、富山だけでなく江戸にも薬草園をつくの紺屋で裾模様に染めて長夏 一犬セ 一五秀吉、新川郡を前田利家に与える 一発文禄四前田利家、加賀・越中・能登の三国を領有 るなど富山売薬の振興に大きく寄与した。共立富山薬学校は着に仕立て、祭りの際に着た 一六 0 九慶長一四前田利長、富山城から高岡城に移る 売薬業振興のために一八九三年 ( 明治二六 ) 設立され、そのという。いまも五箇山では 一六河内系の鋳物師により高岡銅器の生産始まる 後幾度かの変遷を経て現在は富山医科薬科大学に引き継がれ『こきりこ節』などの民謡で 一六 = 一九寛永一六前田利次、富山十万石に分封 ている。一九二四年 ( 大正一三 ) には日本海側で最初の高等踊るとき長夏着を着用する。 一六六一 = 寛文三愛本橋架橋、芹谷野用水工事始まる 米作県ではあるが、昭和初 一六七四延宝一一前田正甫、富山一一代藩主となる 商業学校である高岡高等商業学校が開校、四四年 ( 昭和一 一六九 0 元禄三 このころ松井屋源右衛門、反魂丹の販売を始、 九 ) に高岡工業高等専門学校になった。富山大学工学部の前期までは山間地ではヒ工、ア める ( 富山売薬の始め ) 身である。国立富山大学は旧制富山高等学校、富山師範学校ワが主食で、米食は盆と正月 毛一四正徳四庄川の治水工事なる ぐらいであった。平野部でも などが母体となって四九年 ( 昭和二四 ) に発足、人文など五 一セ三一一享保一七放生津潟の一部十拓なる かゆ 学部と経営短期大学部からなる。このほか高等教育機関とし平日は粥の中へダイコン、サ 毛五セ宝暦七礪波郡最大の百姓一揆「北市騒動」起こる 一実七明和四富山藩、反魂丹役所を置く。高岡漆器始まる トイモなどの野菜を入れたゾ て、国立富山医科薬科大学、国立高岡短大、富山県立技術短 せんぞく そうすい 一一一安永二富山藩校広徳館創設 大、富山訓練職業短大、私立の富山女子短大、洗足学園魚津ロという雑炊が一般的であっ 一全 = 一文化一 0 婦負郡一帯に農民一揆起こる 短大。国立の富山工業高等専門学校、富山商船高等専門学校た。魚類は、海岸地域を除け 天天保六石黒信由「加越能三州測量図籍」をつくる がある。 ば塩物・干物で、暮れにプリ 九十二貫野用水工事始まる 一会〈安政五立山の大鳶が崩れ常願寺川出水 一八八四年富山県最初の日刊新聞『中越新聞』が発刊されを婚家へ送る風習があった。 六 一会九 ロシアの軍艦、富山湾に入り測量 砺波平野の散村にはカイニ た。民権運動の越中改進党の機関紙ともいうべきもので、一 入六九明治一一新川郡に農民一揆起こる ( ばんどり騒動 ) 八八八年に『富山日報』と改めた。一九四〇年の新聞統合でユ ( 垣入 ) という屋敷森に囲 四廃藩置県。婦負郡など富山県となる まれた家が多い。屋敷森はス 他の三紙とともに『北日本新聞』となり現在に至っている。 一〈七六 九越中全域、石川県となる 一六石川県から富山県独立 『富山新聞』は一九二三年発刊の『越中新聞』を母体としてギ、ケヤキのほかカキなどの 一七『中越新聞』発刊 いる。放送関係では一九三五年に富山放送局が開局。果樹からなり、スギの葉は燃 うでぬき すそ 2 川

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なほむし き鳴宿薄第第第 ーを第物ゞに ・い、 T11 ことわざ もっとも隆盛を極めた。 一一 = ロ詩は、簡潔ではあるが文学的にも優れたもの の出発港となっていたが、ファシズム期にはイ 〔観光〕「ナポリを見て死ね」という諺がある ちょ - っしよう ナポポラサルのひととなりについてはあまりである。遊女ニネ・ヘへの嘲笑歌と結びで終わタリアの海外植民地との交易が市の経済発展をように、ナポリは風光明媚な観光都市で、ベス 知られていない。ただ、「無名の人の子」などる。 〈吉田泰〉大きく助長した。一九五〇年代後半から六〇年ビオ火山を背景としたその風景はあまねく知ら 控え目な称号しか自らに用いず、自分の成功をナポリ Napoli イタリア南部、カンパニア代前半にかけては、南部開発政策と関連した大れている。とくにポーメロの止やポジリボの丘 マルドウク神をはじめ神々のおかげとし、碑文 州の州都で、工業・港湾都市、観光都市。英語規模投資もあって、ポミリアーノ・ダルコ、カから眺める市街やナポリ湾の見晴らしはすばら にはたいてい祈りを加えさせることなどからみ名ネープルス Naples 。面積一一七・二七平方ステッラマーレ・ディ・スタビア、ポツツオー しい。市内には、一二七九 ~ 八四年に建てられ 〈月本昭男〉 て、信仰深い人物であったらしい 。人口一二〇万六九五五 ( 一九会 ) はローマ、 リ、カゾーリアなど近郊の諸都市を含めて工業たアンジュー家の城で一五世紀にアラゴン家の しょ The book of Nahum ミラノに次いで同国第三位。人口密度は一平方化が著しく進展し、ナポリを中心とする広大なアルフォンソ一世時代に再建されたカステル・ ナホム書 『旧約聖書』中の十二小預言書に属し、ユダの キ。当り一万〇二九二人で第一位を占める。東方臨海工業地帯が形成された。とくに製鉄、機ヌオーボ、サンタ・ルチア地区にある卵城 ( カ 地エルコシ出身の預一一一一口者ナホムによる、アッシ のベスビオ火山および西方にある独特な火山地械、自動車、造船、精油、食品などの工業活動ステル・デッローボ、一二世紀 ) 、ポーメロの リアの首都ニネ・ヘ滅亡 ( 前六一二年 ) の託宣預帯カンピ・フレグレーイ Campi Flegrei に挟が盛んである。 丘の上に位置し現在では国立博物館となってい 言である。わずか三章に及ぶ内容だが、一章一まれ、ナポリ湾の北東隅に位置する。 ナポリ港の海外との交易量は、かってはジェ るサン・マルティーノ修道院 ( 一四世紀。一六 二 ~ 二章一と三の断片的預言はそれより一〇年〔工業・港湾活動〕同市が近代的工業都市とし ノバに次いで全国第二位を占めていたが、現在 ~ 一七世紀に再建 ) 、一六〇二年に建てられた 以上もさかのばるものとされている。この部分て本格的に発展する契機となったのは一九〇四ではその地位を後退させ、一九八〇年の数値でプルポン家の王宮 ( 。ハラツツオ・レアーレ ) 、 を別にして、一章の「いろは歌」と二章は、罰年のナポリエ業振興特別法である。これによっ はバニョーリ港の取引量を含めても第一〇位に ミラノのスカラ座やローマのオペラ座と並ぶオ 一三世 すべきは罰する恵みの神の賛歌と、新バビロ一一てナポリ西郊五キ。のバニョーリにイルバ社の製すぎない。ただ、カプリ島やイスキア島などナベラの殿堂サン・カルロ劇場 ( 一七三七 ) 、 ア帝国によるニネべ陥落の預言である。アッシ鉄所が建設された。港はすでに一八九〇年代以ポリ湾岸の観光地を近くに擁しているため、沿 紀末 ~ 一四世紀初めに建設されたサン・ジェン リアを獅子、ニネべをその獅子の穴に例えた預降、南部イタリアからアメリカに移民する人々岸航路の旅客数では全国第一位を誇っている。 ナーロ大聖堂などの歴史的建造物が多い。ま を -13 〔上〕ナポリ湾の西部 , 卵城 ( カステル・デッローホ ) か あるサンタ・ルチア港 ( 先 端 ) とサンナツツアーロ港 ( 手前 ) との間に臨む市街。 丘陵上にカステル・サンテ ルモがあり , 右手遠方かす かにベスビオ火山か見える 〔下〕サン・フランチェスコ・ ディ・バオラ教会 ( 19 世紀 ) と , その柱廊に囲まれた半 円形のプレビスチート広場 プロチ第島 / ) ロコロ イスキア島 ティレニア湾 カプリ島 観光案所至 キ丿ラ 匚コロロロロロ サン・ マ . 公園、 世光 ルコ 、ぞホーメロ . : ジリボの丘・、・スビオ火 カステッラマーレ ティ・スタビア ベスピ 会 至、レント リッティ : フ国 ~ ' 。ンツイ防波提 ロワ ー 0 物 サンナツツアーロ港 カステル・ヌオーポ 500 1 : 45 , 000 1000 m ( カステル・デッローホ ナポリ湾 544

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なつづた ナツツ / おもなナツツの組成分表 ( 可食部 100g 当り ) ビタミン B 2 ナイア すでにクリ、オニグルミ、ヒメグル ミ、シイ、トチノキの実などが利用 され、渋のあるものは渋抜きの方法 も考案されていた。クルミ類の半栽 培化や奈良時代以前に始まっていた クリの栽培化を除いては、野生から の収集利用が多く、トチノキの実や かちぐりなど、地方によっては神事 とともに今日まで利用の諸方法が受 ~ 効のゆゅ 4 0 2 4 ゅ 0 の間ゅ加 0 0 ゅゅゅゅの幻のののの け継がれているものもある。ヨーロ ツ。ハではクリはローマ時代にはすで ロ、 / 、 8 8 0 0 0 -0 -0 0 00 0 00 8 ワ 0 8 0 0 ワ【ー 0 行ー 00 ヴー 8 ワ 0 -4 ・の . ・の . ・の . 11 00 、 1 っ CO 1 人 -4 4 ワ 1 、 1 ワ】 に栽培され、デートナツツ ( ナツメ カチ 3 ヤシの実 ) やヘーゼルナツツ ( ハシ ム ハミの実 ) は中近東での利用が古 カウ 新大陸では中央アメリカのカボ種類により、また利用目的別に処理される。 クルミやハシバミの多いイタリア、マカダミ チャの種子 ( 主としてミクスタ種、 ム モスカータ種 ) はすでに五〇〇〇年アナツツの産地ハワイなどでは、各家庭でそれ ナウ 前ごろから利用されてきた。 それに特有な殻割り器を備え、割りながら食べ 質 あ ー、 1 っ 0 0 0 8 戸 0 ・ 4 8 14 1 よ / 0 0 ^ 0 ワん -. 0 ワ】 bC -4 00 ー -4 一 1 ワ】 0 0 ワ】ワ 0 ー、 1 4 1 ^ 0 1 人ワん - -0 つん 00 1 -4 1 人 ^ 0 今日、市場を通じ日本で一般的にている。また、すりつぶして和え物とし、スラ 無 利用されているナツツは約一五種、イス片や粉砕片を、揚げ物の衣、料理の香りつ -0 0 0 0 0 戸 0 0 - -0 0 0 0 0 0 0 LO 0 ・ 0 0 0 0 -0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ワ朝りん 0 11 りんつ 8 -4 つん -4- 8 -8 0 0 8 -4 ーワ朝行ー 0 ^. 0 - -0 ン - -0 00 4 1 人 っ 0 一 14 《 0 -4 0 14 ワん 1 戸 0 -. 0 ワ 0 ( 0 っっ 0 1 人ド 0 それに地方的特産品など小規模生産け、飾りなどに用いる。 〈飯塚宗夫〉 品を入れて合計二〇余種がみられナッヅタ 0 ッタ 0 0 0 8 4 ー 0 8 8 -. 0 戸 0 0 0 0 0 0 「ー 0 - -0 0 0 0 -0 0 0 -0 0 シ CO 0 っ一 4 8 1 人「ー -4 8 ^ 0 -4 -0 0 0 ー -4 1 る。これらのうち地方的に利用されナツツバキ「夏椿〕 S 、 e ミミ、ミ do , 、ー 11 - ルームワ】ワ 0 0 カウ る種類を除き、一般化された種類の e ミ Maxim. ツバキ科の落葉高木。シ なかでは、クルミ、ピーナツツ、・ キャラノキ ( 沙羅樹 ) ともいうが、サラソウジュ 分 灰 ンナンなどの一部を除いては消費の ( 沙羅双樹 ) の名で利用されることがあり、真 大部分を海外からの輸入に頼ってい 正のサラソウジュ ( フタバガキ科 ) と混同され 維 る。近年における一般所得の向上、 ることが多い。樹皮は赤褐色で滑らかである。 だえん 水 食生活の変化、好みの多様化につ葉は互生して枝先につき、楕円形で長さ約一〇 -. 0 14 ・ 4 1 《 0 1 人《 0 ーっ -. 0 0 ー 0 ーワ 0 0 ー / ワ】 -4 8 内ー 0 ーワ】ワつつ ようえき よ / 11 -. 0 0 -4- っ《 0 0 0 0 0 00 1 00 8 ワ】 0 8 戸 0 4 8 戸 0 0 ー 0 ー れ、一方ではナツツの加工、包装、 1 1 1 1 夏、新枝の葉腋に径約五でツバキに似た 糖 -1 1 よワ】 1 よ 00 0 -0 ー 1 人っん 11 4 ワ】ー戸 0 -4 1- 1 ・ 11 1 - -0 がくへん 流通の便も加わって、ナツツ類は時白色花を一個ずつ開く。萼片、花弁ともに五 表 っワ・ 4 ワ】 8 00 「ーワん 00 ー 4 ・ 4 8 0 ワん LO 8 - -0 -4 -0 -4 ワ】 0 0 8 8 8 肪 分 -4 -. 0 ワ ~ ー 14 1 人 1 ム 0 0 8 ー 0 0 4 っ朝 1 0 1 人 - -0 ワ」 8 0 ヒ日 や所に関係なくだれでも利用できる枚。雄しべは多数あり、花糸の基部は花弁に合 L.n -4 ・ 0 ()D ー戸 0 行ー c..D 。成 戸 0 0 4 戸 0 《 0 《 0 -4 ワ】 1 人 準 スナック食品として、その種類を増着する。雌しべは一本で、花柱は五裂する。子 標 0 0 00 8 14 《 0 っ朝 14 ー 00 0 00 っ 0 1 人 8 -. 0 《 0 0 -4 0 / 00 ロ し、普及を早めてきた。加工ナツツ房は上位で、白毛を密生する。蒴果は宿存萼に 食 ン質 8 00 【 / -4 -4 一 14 11 ・ 4 ^ 0 0 -4 ′ 0 ワ 1 戸 0 0 ーー《 0 LO 0 1 ワ】 8 4 11 1 よ CO ワ 11 ワ】つな 1 人っん、 1 1 よ 1 よ 11 11 ワ 1 ワ 1 本 タク 日 の消費は大部分がそのままつまみと包まれ、一〇月ころ茶褐色に熟すと、五片に裂 訂 四 してテープル用に利用され、他はク開する。種子は卵形で先はとがり、狭い翼があ 分 水 ッキー、洋菓子、パン、チョコレー る。山中に生え、東北地方以西の本州から九 編 ーレ 査 州、および朝鮮半島に分布する。庭木として植 ト、キャラメルなどにナツツの特徴 宀不一 0 【 / -4 00 1 / 8 -4 0 1 っ - -0 1 8 、 1 ー -4 ワ】ワ 0 0 00 -0 , 1 ワワ】 00 c-O - -0 -4 ・ -4- ワ】 -4- っ 0 1 0 【 0 -0 00 ー源《 を生かして利用されている。テープ えられ、材は床柱、器具、彫刻に用いる。↓サ 工ギは 資 ラソウジュ 庁 〈杉山明子〉 ル用のナツツ類の多くは、加熱のの 術 の ソ . の ン ちに塩加減をし、あるいはさらに香ナット Yves Nat ( 天九 0 ー一九五六 ) フラン セ 学 付 の寸 ン オ味 ) 斗 味 辛料で味つけして、包装出荷されてスのピアノ奏者。南仏ベジェに生まれ、 果果プ付 喇刎甘耐ラ 味もピ ) 炒 6 炒も む の ) 炒 いる。加熱加工法には、ナツツを乾没。バリ音楽院でコルトーの師ディエメールに 乾乾味 りた一 豆 ノー 翫えン子でググンた ( 子ラ ッ実執一炒「タ子乾刀 ノたゾ」量燥のまま炒るドライロースト、食用学ぶ。病身のため演奏活動はコルトーの華やか 傾、ツ種国本ロ「ツ種にのツのシ城幽オ 火のメガナナ ( 少 ートーベンとシ ンウ マレルア実徴油をまぶして炒るオイルローストおさに及ばなかったとはいえ、べ ナのン中日マツのメナキロ実実チ モド ミナカマズトノモののタガワコンゼのの よびマイクロウェー。フ処理の三方法ューマンの解釈で一家をなす。また室内楽で ンシポン ルコイライ一チウスシス一 マヨラカ一カ ア工カカギク クコスソダデトトハヒピピヒヒプペへママ注 があり、どの方法をとるかナツツのも、バイオリンのイザイやチボーと組んだ二重 (mg 0.24 0.92 0.08 1 . 10 0 . 20 0 . 10 0 . 54 0 . 18 0 . 21 0 . 19 0 . 26 0.07 0 . 20 0.18 0 . 07 0.03 0.03 0 . 26 0.15 0 . 03 0.03 0 . 10 0.16 0 .10 0.05 0 . 83 0.30 0 . 04 0.02 0 . 02 0.44 0 . 13 0.08 0 . 26 0.10 0 . 42 0.08 0 . 45 0.24 0 . 23 0.10 0 . 20 0.10 2 . 10 0.24 0 . 37 0.15 0 .86 0.25 0 . 19 0 . 19 0 . 25 0 . 27 0 . 21 0 . 09 0 . 61 0 . 21 0 - -0 ワ」》 -4 00 1 0 0 8 0 っ朝 0 0 1 ワな 0 0 0 8 - -0 -0 8 0 1 00 っワ】 0 ・ 4 0 ・ー・ 0 0 1 14 0 1 ワ】 0 ーワ】ワ 1 1 ーー《 0 1 14 0 14 ワ 00 1 1 770 800 930 590 840 650 560 75 60 55 820 640 710 1 900 710 510 300 1 100 430 1 100 770 760 510 1 200 660 520 680 350 690 0 4 00 / ワ朝 -4 -4 っ 0 ワ 1 ー、 1 0 0 1 -4 1 00 8 00 ^. 0 っ 0 8 8 00 00 CO っ 0 -0 1 よイ 1 0 0 1 人 1 4 -4 - -0 ワんワ 1 00 -4 1 00 ワ】ワ】ワ】ワ】 00 1 ワ】 1 ワん 00 0 -4 ワ - -0 ー -4 -4 -4 0 0 14 -4 「ー 0 0 行ーワ 4 ーワ ワワ 00 11 1 よ 0 11 0 0 1 ・ワなワ 1 -4 ワなワ】 1 1 0 1 っワ】っ 0 CO ワ 0 1 1 よ ー《 0 っ 0 1 戸 0 8 -4 C.D 0 1 -4 0 戸 0 8 0 0 8 4 ー 4 ーワーワ編 4 -4 ワ 1 4 -4 8 8 0 、 1 っ 0 1 人 -0 4 ワ】ワ】ワ・ 4 00 14 11 14 つ 0 -4 ワ 0 -4 14 00 1 っ 0 1 11 - -0 - -0 00 -4 ワ朝 4 130 800 130 190 3 2 7 28 4 10 580 690 1 4 7 570 250 5 390 2 120 2 17 2 3 6 210 4 セン 0 ナツッパキ 514

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. ト . . トー 一 , タ帝 レ紀女 ん史プ紲テ⑥ガカス の世ッグの 剣 ( ⑨ウン AJ プ「フ一ス⑤魔トイラ カビ悪ュ一 ) イド ④外⑨トシレ⑩一 ラ ~ ン ~ ッ死⑩プ紲 ~ カ ト①イ⑤ロ⑦⑩の c ⑩ス @~ ⑩ポルトガルのド 一、・魲多第を分・参のま 0 こ「貪 ⑩⑩イギリス ( 19 世紀 ) シングルヘッドで , カードの隅が角張っている ⑩ ~@ ドイツ四大陸カード ( 19 世紀 ) ⑩⑩アメリカ ( 19 世紀後半 ) シングルへ ッドだが , 隅が丸くなっている から、発生をエジプトに求めたものである。 以上のようにいろいろな起源説があるが、確 2 実なのは、東洋で発生しそれがヨーロッパに伝 えられ現在の形態になったということである。 〔変遷〕東洋に発生したカードがヨーロッパに 伝わったのは一一世紀から一三世紀の間と推定 され、一四世紀には確実な証拠が残っている。 リの国立図書館にフランスのシャルル六世の ために描かれたカードが一七枚所蔵されている が、これは一三九二年のもので、現存する最古 のカードである。 東洋からヨーロッパに伝わったことにつし て、もっとも有力な説は、ジプシーが持ち込ん だという説であるが、このほかイスラム教徒が 文芸・娯楽とともに持ち込んだという説、およ び一一世紀に遠征した十字軍の兵士が持ち帰っ たという説などがある。 〔タロット〕 tarot (cards) ヨーロッパにお タロッキ ta- ける古い形態はタロー tarot 冖ラ、 rocchi タロック tarok とよばれてい るカードである。これはイタリアでつくられた と推定されるが、他の説もある。タローは日本 では一般にはタロットとよばれている。 タロットは、アツウ atout とよばれる切札 一三枚 ( 正しくは二一枚と添札一枚 ) と五六枚 のカードの計七八枚一組である。二二枚の切札 は、一から二一までの番号をつけてある寓意画 そえふだ の札と道化を描いた添札一枚からなっている。 寓意画は時代によって異なるが、一般的なもの は、魔術師・女教皇・女帝・皇帝・法王・恋 人・戦車・正義・隠者・運命の車輪・権力・吊 るし人・死・節制・悪魘・塔・星・月・太陽・ 審判・世界である。これらのカードは人生の縮 図であり、人間の種々の欲望や活動を表したも のである。添札には、おかしな服装をした道化 くせ 1 一と が曲事と悪徳の詰まった袋を背負って歩いてい る絵が描かれている。この添札が現代のジョー カー」 oker になった。ほかの五六枚のカード こんまう 、剣・棍棒・聖杯・貨幣の四種のスーツがあ り、各スーツは 1 から川までの数のカードと 王・女王・騎士・兵士の絵札からなっている。 そうりよ 剣は王侯・貴族、棍棒は農民、聖杯は僧侶、貨 幣は商人を象徴したもので、これは中世におけ る社会階級を表している。タロット七八枚のう ち二二枚のアツウを大アルカナ ( あるいは大タ ロット ) 、残りの五六枚を小アルカナ ( 小タロ ット ) とよんでいる。

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ら奈良市のおもな祭礼・年中行事 な 若草山の山焼き一月一五日若草山 春日大社万灯籠二月三日春日大社 花会式 春日祭 聖武祭 た , ぎのう ・東大寺と興福寺の境界争いに始まる行事とも、 正月のトンド行事ともいう。夕刻、両寺の衆徒が 、まっ 春日大社の神火を椌明に移し、若草山麓の野上神 しめなわ 社で集められた注連縄を焼く。そのあと、一八時 に山裾の枯れ草に点火、全山は火に包まれる ・節分の日と八月一五日の疫神祭の夕刻、境内の石 灯籠一一〇〇〇余と、社殿廻廊の釣灯籠一〇〇〇余 に一斉に火がともされる ・三月一日ー一四日に行われる本尊十一面観音への しゅ 悔過法要 ( 修「一会 ) の一つで、一二日深夜、一一月 堂下の若狭井の水をくみ本尊に供える行法。これ に先だち、籠松明の先導で練行衆が上堂するが、回 廊で振り回す松明の火の粉を浴びると厄除けにな るとい 、大ぜいの見物客が集まる いわしみず ・勅使が参向し、賀茂・石清水両社の祭礼とともに三 みといき 勅祭という。御戸開神事、着到殿の儀などのあと、 献饌、神馬曳回しなど古式を伝える行事が続く ・一一〇七年 ( 嘉承一 l) 堀河天皇は皇后の病気平癒 を薬師如来に祈願、本復後造花を献したことに始 まる。薬師三尊に一〇種一二瓶の造花が献しられ 法要が営まれる。五日夜には鬼追の行事がある 五月二日東大寺大仏殿・聖武天皇の遺徳をたたえる祭り。大仏殿での法要 後、天平装束の稚児を先頭に、荒法師、各時代の 装束をまとった人々が三条通を練り歩く ・興福寺に奉納された神事猿楽から発展した。呪師 走りの儀のあと、南大門跡の舞台で四流の家元が 能狂言五番を競演する。夕刻から篝火が焚かれ薪 能の雰囲気を盛り上げる ・唐招提寺中興の祖覚盛和上は講義中力に刺されて も殺さす血を吸わせたという。これに感動した法 華寺の尼が団扇を献した故事にちなみ、上人の忌 日に鼓楼上から団扇と御供の餅が撤かれる ・鎮花祭の一つ。山地のユリの花を神前に供え、神 楽が奉納される。男女の童子がユリをかざして市 内を行列する ならずひこ 奈良豆比古神社一〇月八日奈良豆比古神社・天智天皇の孫春日王の病気平癒を祈願して一一皇子 が舞を奉納したのが始まりという。篝火が焚かれ の翁舞 るなか、千歳舞、太夫舞などが舞われ、三番叟の 舞で終わる ・雄鹿の角が人間に危害を加えることがあり、この 時期神官が切り落とす。江戸時代に始まる行事で、 角は神前に供えられる 正倉院展 一〇月下旬、奈良国立博物館・聖武天皇遺愛の約九〇〇〇点の正倉院御物の一部 を曝涼 ( 虫干し ) を兼ねて公開する 一一月上旬 ・平安末期、全国的に飢饉・疫病にみまわれた。関 春日若宮御祭一二月一六春日大社 白藤原忠通は若宮を勧請し、悪疫追放、五穀豊穣 一八日 を祈願したのに始まる。一七日の本祭には御旅所 前の芝舞台で各種の芸能が奉納される おみずとり 御水取 ・ 1 ・つわま 団扇撤き 三枝祭 神鹿の角切り一〇月初旬春日大社 三月一三日春日大社 三月三〇日薬師寺 ー四月五日 五月一一ー 五月一九日唐招提寺 六月一七日率川神社 三月一二日東大寺一一月堂 興福寺 かがり味し みち 工芸品で重要文化財に指定されているものは約は、七二一年 ( 養老五 ) 創建の喜光寺、菅原道 ぎねまっ 真を祀る菅原神社がある。 五〇〇件、うち国宝は約一一一〇件を数える。 ちゅういん 奈良市街地の中院町は、、 しまも軒の低い古 一方、一九六〇年以降、地域開発の急進展 は、文化遺産に付随する自然景観などを破壊す風な家並みを残すが、その一隅に南都七大寺の がんごう るおそれがでてきたので、六六年に制定された一つとして繁栄した元興寺の僧坊極楽坊本堂 ぎようきぶ ( 国宝、鎌倉時代 ) があり、行基葺きとよばれ 古都保存法に基づいて春日山、平城京跡など六 がわら じゅうりん つの歴史的風土特別保存地区と、春日山、佐保る屋根瓦の重なりが美しい。十輪院は元興寺 山など六つの風致地区を指定し、地区内の開発の別院で、本堂 ( 国宝、鎌倉時代 ) 、南門など たかばたけ を残している。奈良公園の南の高畑町には新 を規制することになった。 市内観光第一の見どころは市街地東部に広が薬師寺がある。本堂 ( 国宝、鎌倉時代 ) には十 二神将 ( 一体を除いて国宝 ) を安置する。新薬 る奈良公園 ( 国の名勝 ) で、若草山、春日山、 びやくごう たかまど 御蓋山、高円山や、その西麓一帯を含み、杉木師寺の南東方、高円山麓には白毫寺がある。 やますそ みわやま とびひのあさじ 立の間、飛火野、浅茅ヶ原の芝生を一〇〇〇頭高円山などの山裾には三輪山 ( 桜井市 ) へ至る やまのべ を超えるシカ ( 国の天然記念物 ) の群れが遊山辺の道が通じ、一帯は大和青垣国定公園に指 えんしよう ぶ。大仏殿、法華堂など国宝建造物の多い東大定されている。山辺の道に沿って、尼寺円照 しようれき やまむら あしゆら 寺、阿修羅像 ( 国宝 ) など天平彫刻を所蔵する寺 ( 山村御殿 ) 、その東方には正暦寺があり、 たむけやまはちまんぐう 興福寺のほか、春日大社、手向山八幡宮、正倉両寺とも閑雅なたたずまいである。 のと 高円山と春日山の間を流れる能登川に沿って 院、奈良国立博物館、萬葉植物園などの建物や たきさか さるさわのいけ 施設、興福寺五重塔 ( 国宝 ) を映す猿沢池、柳生への道がある。滝坂道、柳生街道といし せつくっ あらいけさぎいけ 荒池、鷺池なども点在する。春日山原始林は特春日奥山の石切峠付近には春日山石窟仏、地獄 別天然記念物に、春日神社境内のナギ樹林は国谷石窟仏 ( ともに国史跡 ) がある。柳生には忍 にくえんじよう の天然記念物に指定されている。 辱山円成寺があり、鎌倉時代の白山堂、春日 うんナい だいこちこよらい 堂 ( ともに国宝 ) や運變作大印如来像、国名勝 市街地の北部、京都へ通じる街道に沿って、 はんにや 聖徳太子草創と伝えられる般若寺がある。三層の庭園がある。芳徳寺は柳生宗矩が建立した柳 ばだいじ 大石塔の下に『大般若経』を納めたことが寺名生家の菩提寺である。このほか、市内には明治 がらん のおこりといい、楼門 ( 国宝、鎌倉時代 ) など維新で伽藍のすべてを失った大安寺 ( 国史跡 ) 、 りようざん にんしよう を残す。北山十八間戸 ( 国史跡 ) は、僧忍性生駒市に近い富雄には霊山寺がある。民家建 が癩患者を救済するためにつくったもの。東大築では元興寺町の江戸中期の商家藤岡家住宅、 寺門 ( 国宝、奈良時代 ) から西に延びる一また明治建築の奈良国立博物館本館、旧奈良県 条大路 ( 佐保路 ) 沿いには、松永久秀が築いた物産陳列所が国の重要文化財に指定されてい こんぶ ありわらのなりひら 多聞城跡、興福院、阿保親王・在原業平父子る。文化施設には奈良県立美術館、寧楽美術 ふたい かんのん が住んだ不退寺、十一面観音 ( 国宝 ) で名高い 館、大和文華館、奈良歴史教室、あやめ池遊園 ・一うみよう 尼寺の法華寺、光明皇后建立の海竜王寺など地自然博物館などがある。 がある。周囲には御陵伝説地のウワナベ池、コ 年中行事は四李を通じて多彩に繰り広げられ げんしようしようむ 、」うけん ナベ池、元正、聖武、孝謙天皇などの御陵がる。一月一五日若草山の山焼きに始まり、三月 しゅにえ 多い。佐保路をさらに西進すると、発掘調査の の東大寺一一月堂修一一会 ( 御水取 ) 、春日大社春 さるまつり たきぎのう 進む平城宮跡 ( 特別史跡 ) があり北西端の奈良国日祭 ( 申祭 ) 、五月興福寺薪能、八月奈良大文 まんとうろう 字送り火、春日大社万灯籠、仲秋名月の日に猿 立文化財研究所資料館では出土品を展示する。 うねめ 平城京の右京にあたる西ノ京には、南都七大沢池のはとりで開かれる采女神社采女祭、一〇 キ ) いたい 寺の一つ西大寺、創建当時の東塔 ( 国宝、奈良月初旬の鹿の角切りなどよく知られ、一二月の 〈菊地一郎〉 時代 ) や金堂の薬師三尊、東院堂の聖観音 ( と春日若宮御祭で締めくくる。 もに国宝 ) で知られる薬師寺、天平美術の建築回奈良市史編集審議会編『奈良市史』全一五冊 がんじんわ ( 一九天 ~ ・吉川弘文館 ) ▽永島福太郎著 中、最大最美といわれる金堂 ( 国宝 ) 、鑑真和 じようぎぞう とうしようだい 上坐像 ( 国宝 ) などを蔵する唐招提寺があ 『奈良』 ( 一九六三・吉川弘文館 ) ▽木村博一著 あきしの る。西大寺の北の秋篠寺は本堂 ( 国宝、鎌倉時 『奈良のあゆみ』 ( 一九会・奈良市役所 ) ぎげいてん 代 ) に安置されている天平末期の伎芸天立像で〔地三万五千分の一地形図「柳生」「大和白石」 名高い。西大寺の南、菅原氏発祥の地菅原に 「奈良」「大和郡山」「生駒山」 まつけ おんまつり き、一う

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ゃなぎたくにお 三三山陰鉄道西線起工、〇七年境ー鳥取間開通 やがて羽衣をみつけだ一九 00 で没落したという。これは柳田国男が『日を招く話』で指摘たが、 毛北脇永治、一一十世紀ナシ苗を松戸市から移植 一九 0 四 しているように、全国に流布する伝説である。米子市の安して天へ帰るという、諸国に たまこ ' 、よ・つ 一九皂 四 0 鳥取市に電灯がつく 養寺には歯形の栗の話がある。「瓊子姫」は、隠岐へ配流にある「天人女房」と同じであ 一九 0 〈 四一鳥取市内に電話通じる くずも ′一だい・こ 〈武田静澄〉 四五山陰本線全通 ( 京都ー出雲今市間 ) なった後醍醐帝の内親王。父帝を慕って車尾まできたが、供る。 を許されず、髪を切って尼僧となり、隠岐の見える地に庵を回山中寿夫著『鳥取県の歴一〈一 = 大正四鳥取市に上水道完成 10 鳥取高等農業学校設置 史』 ( 一九七 0 ・山川出版社 ) 結んだ。あるとき、栗を献じられ、この栗が芽生えたなら父 一九 = = 昭和六千代川改修、新流路に通水。三四年新袋川通水 ▽四宮守正著『日本の民俗 帝の還御がかなうであろうと、栗を皮のままかみ砕き、祈願 一一大山国立公園指定 一九一一六 1 」う 鳥取』 ( 一九七一一・第一法規出 を込めて植えたのが芽生えて実を結んだという。県西部の豪 鳥取放送局開局 えんぎんだいせん 一一一県内初の百貨店丸由百貨店が鳥取駅前に開業 版 ) ▽岩永実著『鳥取県一九 = 七 円山 ( 大山町 ) の山頂に「豪僧豪円」の地蔵が立っている。 一三満州開拓団一七四人が入植 地誌考』 ( 一九大・記念論文一九 = 〈 関ヶ原の戦い後の国替のとき、米子中村藩は大山寺領の取り 一八鳥取大地震、一〇八三人死亡 集刊行会 ) ▽『鳥取県史』 込みを図った。住職の豪円はその圧力に屈せず抗議し、その 一一 0 米子医学専門学校開設、連合軍鳥取に進駐 一九四五 あんど おんねん 全一八冊 ( 一九六七 ~ 怨念によって藩主は死に中村氏は断絶し、寺領は安堵になっ 全・鳥取一〈咒 一一四鳥取大学開学 あんとく おかます 一一六日本バルプ米子工場 ( 現王子製紙 ) 立地 県 ) ▽野津龍著『生きて一 たという。県東部の岡益の里 ( 国府町 ) に「安徳天皇御陵参 毛鳥取大火、五二一八世帯罹災 一九至 いる民俗探訪鳥取』 ( 一九 考地」がある。台地にある謎の石堂が陵墓に擬せられたのは 三 0 人形峠で日本初の堆積型ウラン鉱床を発見 一九会 全・第一法規出版 ) ▽野 明治になってからのことである。平家一族とともに海底に沈 山陰海岸国立公園指定 にいのつばね 田久男・清水真一著『日本 んだ幼帝の後を追った祖母二位局は、泉ヶ谷に葬られたと 三三日本海テレピ開局 一九犬 たね 三七北条砂丘畑地灌漑事業完了 の古代遺跡 9 鳥取』 ( 一九 伝えている。鳥取砂丘の裏に「多鯰ケ池」という池がある。 四一中海地区、新産業都市に指定 盒・保育社 ) ▽『角川日本一突六 宮下の長者の娘お種は、前世の因縁により大蛇になる宿命に めし 四一一県営鳥取空港が開港 一九 地名大辞典引鳥取県』 あり、あるとき池に飛び込んでそこの主になった。それから 一九会 五八鳥取新都市開発整備事業の実施が認可される ( 一九全・角川書店 ) ▽『鳥 その池を多鯰ケ池とよぶようになったという。東郷町に羽衣 五九中国横断自動車道岡山ー米子線が起工 一九会 は′ ) ろも し 中国電力俣野川ダム発電所運転開始 取県大百科事典』 ( 一九会・ 石という地名があり、付近の大岩は天女が羽衣を干した所と 六 0 国鉄倉吉線廃止。第四〇回国民体育大会開催 伝えている。天女は羽衣を隠した男の女房になって子を生し新日本海新聞社 ) うえまちおうちだに てんじん 一九四三年 ( 昭和一八 ) には鳥取地震、五二年がある。上町の樗谿神社はかって因幡東照宮 鳥取 ( 市 ) と「とり鳥取県東部に位置する氏は天神山城 ( 鳥取市 ) に本拠を構えたが、一 のぶみち せんだい にはフェーン現象による大火災にあうなど災害とよばれた神社で、本殿、拝殿、唐門などは国 市。県庁所在地。市域北部は千代川下流域に形五四五年 ( 天文一四 ) 山名誠通は約六キ。東方の 成された鳥取平野、千代川の埋積作用や砂丘の鳥取久松山に出城を築き、一五七三年 ( 天正の多い都市であったが、耐震・耐火都市に変わの重要文化財。近くの観音院庭園は江戸中期の とよく・、 ・一やま せきこ 作庭で国の名勝に指定されている。このほか藩 発達などで理め残された潟湖の湖山池、日本海一 ) 山名豊はこの城を本城とした。鳥取城下り、南部では新都市整備計画が進行している。 おおわさ ばだい 沿いに発達した鳥取砂丘などからなり、南部は町の始まりである。一五八〇年鳥取城は柴秀〔産業〕城下町であり、第二次世界大戦前まで主池田氏の菩提寺興禅寺などがある。「大和佐 みのみこと きっかわっねいえ 吉により攻略され、一時毛利方の吉川経家が城は消費都市的傾向にあり、工業も食品、木工、美命神社の獅子舞」、「越路の雨乞踊」、「円通 中国山地と山地から流出する河谷からなる。 寺んよう 一八八九年 ( 明治一三 ) 市制施行。一九二 = 一主となったが、八一年経家も秀吉の攻撃を受け製糸に限られたが、戦後、鳥取三洋電機や日本寺人形芝居」は選択無形民俗文化財。このほか 年 ( 大正一 (l) 富桑村、三二年 ( 昭和七 ) 稲葉落城した。江戸時代は一六一七年 ( 元和 = l) 姫フェライト、鳥取エフワンなど電機・繊維縫製「因幡の傘踊」などの民俗芸能や、八月一五、 村、三三年中ノ郷、美保の二村、三七年賀露路から入封した池田光政が鳥取城主となり三十品工業の町となった。最近の工業出荷額は電一六日のしゃんしゃん祭などがある。 くらだおもかげかんどやま 市街地南西方には布勢運動公園と都市公園湖 村、五三年 ( 昭和二八 ) 倉田、面影、神戸、大二万石を領有、一六三二年 ( 寛永九 ) には岡山機、金属、衣服、食料、製紙の順で、県内一を 和、美、東郷、大正、千代水、豊実、明治、藩の池田光仲が移封され、廃藩置県まで池田氏誇っている。砂丘地帯では一九五五年 ( 昭和一一一山池や吉岡温泉がある。そのほか、因幡の白 松保、湖山、大郷、吉岡、末恒の一五村、五五の治下にあ 0 た。鳥取城の南方に掘削された外〇 ) から近代的な灌漑技術により畑地農業が安兎神話の兎海岸、荒木又右衛門や渡辺数馬、 またペえ 年米里村、六三年津ノ井村を編入。西日本旅客濠袋川は千代川河口の外港賀露に通じ、川舟や定した。近年は住宅地化が著しい。鳥取 ( 賀後藤又兵衛の墓などみるべき所が多い。湖山池 いかだ 鉄道山陰本線と時美線、国道九号、二九号、五筏が往来した。なお、江戸時代の中心街は鹿露 ) 港は沿岸・沖合漁業の基地で、カレイ、ズ東方には鳥取大学が立地する。 ゅうしゆっ 〔鳥取温泉〕鳥取駅北東部の市街地に湧出す 三号が通じ、鳥取砂丘にある鳥取空港は東京、野街道沿いであるが、明治になって中心は東方ワイガニなどの水揚げがあり、一万五〇〇〇ト、 , る温泉。一九〇四年 ( 明治三七 ) の発見。泉質 の智頭街道沿いに移り、明治末の山陰本線鳥取岸壁の整備が進められている。 大阪と結ぶ。人口一三万七〇六〇。囮 3 ばうしよう わかき一 〈岩永実〉 は含食塩芒硝泉。 〔文化・観光〕久松山鳥取城跡 ( 国の史跡 ) は り・〔歴史〕鳥取の地名は『古事記』の垂仁天皇の駅の設置で若桜街道沿いが中心街となった。一 やまじろ さんげ さんじよう AJ 条に記される「鳥取部」 ( 水鳥などを捕る部民 ) 九七八年 ( 昭和五三 ) には鳥取駅の高架化で駅山上の丸に戦国時代の山城城郭、山下に近世回『新修鳥取市史』 ( 一〈〈 = ・鳥取市 ) わみようしよう の城郭が残っている。内堀内には県立博物館と五万分の一地形図「浜坂」「若桜」「鳥取北 9 が居住した地とされ、『倭名鈔』の鳥取郷の周辺が市の中心となった。鳥取市街は低湿地に こんぶうかく 部」「鳥取南部」 明治時代の洋風建築仁風閣 ( 国の重要文化財 ) XJ 地。一四六六年 ( 文正一 ) ごろ因幡の守護山名あり、大正期までしばしば水害にみまわれた。 なそ やまな いおり あん みつまさ 一九会 ル・れがい 樗谿神社社殿 重文鳥取市 謂第ぐ 4 7 や . 01 しろ

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キ、立長崎総合科学大学、私立長崎外語短大、佐世保市に長崎県ねたもので、踊るたびに華麗 長崎県 / 略年表 、立国際経済大学が新設されている。マスコミには県内一紙のな花が空中に舞う。念仏踊り 旧石器時代吉井町福井洞穴などの旧石器遺跡 カ『長崎新聞』、民放の長崎放送 (zno) 、テレビ長崎は離島部に独特のものが多 縄文時代島原市礫石原などの縄文遺跡 、・りい・な く、オーモンデー ( 三井楽 オ z) がある。 さカ いしムう 弥生時代岐宿町寄神貝塚などの弥生遺跡 〔生活文化〕「京の女郎に長崎衣裳 : : : 」といわれるほど江町 ) は嵯峨ノ島に伝承された 古墳時代芦辺町鬼の岩屋などの古墳 っしま 念仏踊りで南方系のものとい 六六四 ( 天智三 ) 対馬、壱岐などに防人と烽を置く 戸時代の天領長崎の服装は華美ではでなものだったという。 かねかた かまど 六 ) 対騎に旺城を築く 外国人と接触する長崎人の体面を保っために配分された竈われる。踊り手、鉦方ともに めいはく ぎん 六七一 (0) 対馬に唐国使ら一一〇〇〇人来航 銀に支えられた豊かさもあったためであろう。金銀縫箔の衣男性。チャンココ踊り ( 福江 ゅびがね さんご 七 0 一大宝一対馬が金を貢納、年号を大宝と定める 類を用い、べっこう、珊瑚などの髪飾り、それに指鉄 ( 指市 ) もオーモンデーと同形の 七三七天平九東国の防人の任務を解除し、かわって九州の 輪 ) などのトップモードも加わっていた。明治以後、活動的踊りである。ジャンガラ念仏 兵士をあてる 一三壱岐・対馬に国分寺 ( 島分寺 ) を置く で簡素な服装になったとはいえ、現在でも高級衣料や貴金属 ( 平戸市 ) は前一一者と同類の 七延暦一四壱岐・対馬を除き防人を廃する 念仏踊りであるが、踊り手、 の売れ行きはほかの都市より大きいといわれる。 のばり 一一四第一九回遣唐使第一船、対馬陣村に帰着 長崎の正月料理には、寒ブリと鯨肉とは欠かせないものと鉦方のほかに太鼓、幟が多く 一 0 一九寛仁三刀伊の賊、壱岐・対馬・松浦方面を荒らす ひやくひろ された。鯨の腸をゆでた百尋は長寿のめでたい料理。鯨肉加わり、武家色が濃く、三〇 = 九一建久 = 栄西、帰国の途中平戸に寄泊する あ = 三六嘉禄二松浦党、数十隻の兵船で高麗沿岸を襲う に熱湯を通したおばいけの酢みそ和えも珍味である。島原半人余が集団をなして踊る。対 かぶきじようる ぐぞうに = 一詣文永一一蒙古軍、対馬・壱岐に上陸 ( 文永の役 ) 馬の盆踊りは、歌舞伎、浄瑠 島にはガンバ ( 河豚料理 ) や具雑煮、五島の奈良尾には紀州 一もち - きずし = 入一弘安四蒙古軍、対馬・壱岐に上陸するが、鷹島付近 の漁民が伝えた紀鮨がある。対馬のそば、五島のかんころ餅璃の影響を受け、盆狂言とよ で大風のため全滅 ( 弘安の役 ) さらやま はさみ ばれる。皿山 ( 波佐見町 ) に も食品的特産。南蛮、中国料理の導入による長崎の料理には 一五一 0 永正七三浦の乱起こり、宗盛順、釜山浦を攻撃する ちわた ふちゃ しつばく は皿山人形浄瑠璃、千綿 ( 東一会 0 天文元ポルトガル船、平戸に入港。ザビエル平戸布教 卓袱料理、普茶料理、ちゃんばん、皿うどん、南蛮菓子とし 一五永禄八ポルトガル船、大村領福田に入港 てカステラがある。 彼杵町 ) には人形芝居の芸能 一 0 アルメイダ、長崎布教。ポルトガル船、ロ之 長崎市内の商家は京都風で間口が狭く、細長い敷地の奥深が継承されている。 津入港 くに部屋をつくり、中間に小庭をつくり、またここで採光し〔文化財〕旧石器 ~ 縄文時代一 = 七一兀亀一一大村純忠、長崎六町の地割を行う。ポルトガ ル船、初めて長崎に入港 ( 七〇年説もある ) ている。急な坂の町では道路に沿った二階に玄関を設け、階の福井洞穴 ( 吉井町 ) 遺跡を ハリニャーノ神父、ロ之津に来航 はじめ、縄文、弥生の遺跡や亳〈天正七 下に食堂や居間をつくっている。 じゃ 一 0 天正少年遣欧使節、長崎を出発 〔民俗芸能〕長崎くんちの奉納踊りは諏訪神社の神事で、竜古墳群が数多く発掘されてい 一大四 一一一龍造寺隆信、有馬・島津連合軍と戦い戦死 おどり 踊など中国の影響を受けたものが多い。平戸市の亀岡神社る。縄文、弥生遺跡は壱岐、 一五九 0 一八少年使節長崎に帰着、活字印刷機を将来する かぐら で奉納される平戸神楽は二四番あり、神職だけが伝承する一一対馬に多く、古墳は全県に広堯七慶長一一長崎西坂で一一十六聖人殉教 けんまい 一四平戸にオランダ商館設立 剣の舞は真剣を両手に持ち、白刃を口にくわえて回転する神がるが、規模の小さいことを 一六一六元和一一蘭・英貿易を平戸・長崎二港に制限 技が奉納される。壱岐神楽は島内各神社の神職によって伝承特色としている。六六七年 八長崎でキリシタン五五人を処刑 ( 元和大殉教 ) かね ゆだち され、四種目の神楽のはか湯立神楽を伴い、二剣の舞も奉納 ( 天智天皇六 ) に築かれた金一一 = 一寛永一 = 長崎に出島を構築、ポルトガル人を収容する あそう かいず たのき 一四島原・天草一揆起こる される。以上三件は国の重要無形民俗文化財である。貝津神田城跡 ( 特別史跡 ) は浅茅湾 ししまい じようやまみつしま みいらく 一六四一 一八平戸オランダ商館を長崎出島に移す 社 ( 三井楽町 ) では神楽に付属していた獅子舞が正月行事と岸の城山 ( 美津島町 ) を利 ふりゅう 一六老明暦一一一大村領内でキリシタン六〇〇余人が捕らえら こおり ( ず して氏子の家を回る。浮立は鬼面や仮装で踊る華やかな芸能用した朝鮭式山城で、石塁が きど れる ( 郡崩れ ) で、県下至る所で行われる。坂本浮立 ( 東彼杵町 ) は神楽山体を取り巻き、一ノ城戸、 一六七 = 一延宝一長崎奉行所を立山に新設 二ノ城戸、三ノ城戸の水門の 一穴九元禄一一長崎に唐人屋敷完成 浮立とよばれる大村藩の御用浮立で、井崎まっこみ浮立 ( 小 くろかみ じんだて 長井町 ) は諫早領の陣立浮立である。佐世保市黒髪町には木遺構がある。中世、県北の諸実 = 天明 = 大村藩松島炭鉱開坑 あま 1 」 一合四文化一口シア使節レザノフ、長崎に来航 堺浮立がある。いずれも雨乞いや豊年祝いの行事、祭礼に演島が大陸との文化交流を行っ くろまる こうらいぶつ おきた 天 0 〈 五フェートン号事件起こる じられる。勇壮な武家姿が主役をなす踊りに黒丸踊り、沖田た証左として高麗仏、仏典、 一全四文政七シーポルト、鳴滝塾を開く たかしま 踊り、鷹島踊りがある。黒丸踊り ( 大村市 ) は、武家衆八人経巻などの文化財がある。海蓁四元治一大浦天主堂完成 しん によらい が胸に大太鼓を抱き、背中に花からいを差して踊る。花から神神社 ( 峰町 ) の銅造如来立一〈一〈明治一長崎奉行廃止、長崎府を開設。佐賀藩、グラ ーと高島炭鉱の共同経営を始める いはそれそれ一五個の花をつけた長さ三の小竹を八一本束像 ( 国指定重要文化財、以下 ひがしそのぎ みね か っ さ、、もワ とぶひ 414