第六期は、こうして中国が名実ともに国際社れに全面的に対応しようとするものではなかっ生すると、中国は一時、池田内閣を慎重に見守 2 ゅ - を参照されたい。 っていたが、やがて池田内閣に対しても批判を 7 会の有力な一員となった一九七一年秋から、翌た。鳩山一郎内閣は、中国側をあえて刺激する ち一〔日中関係の位相〕日本と中華人民共和国は、 つ一九七二年九月に歴史的な国交樹立を達成し、七二年のニクソン訪中にみられる国際関係の大一『〕動を極力避けようとし、民間の日中交流を側行うようにな 0 た。そして六〇年八月、中国側 きな変動を経て、同年九月の日中国交樹立に至面から見守る態度をとり続けはしたが、結局中は新しい対日貿易原則を提示するに至った。そ こ日中関係は、長い不幸な出会いののちに、正常 国側の期待する対応を示すことはなかった。一れは、①政府間協定、②民間契約、③個別的な な国家関係を形成した。その後、外交、経済、る時期。 たんぎん 配慮取引、という「貿易三原則」で、やがて民 第七期は、一九七二年九月の日中国交以降、九五六年一二月、石橋湛山内閣が成立、中国側 文化など各分野の交流が大きく進展し、日中関 間契約による「友好貿易」が六〇年一一月以降 は石橋内閣を大いに歓迎する姿勢を一小したもの 日中関係の急速な展開のなかで、七八年八月に 係は現在、日中両国にとって、もっとも重要な の、当の石橋内閣は短命に終わり、五七年二月拡大され、六一年には中国が指定する友好商社 日中平和友好条約が締結されるまでの時期。 国際関係になっている。半面、わが国には、、 のぶすけ 第八期は、一九七八年夏の日中平和友好条約に岸信介内閣が誕生すると、中国側はきわめての範囲も拡大し、二年半の日中貿易断絶のあと わゆる中国・フームが沸き起こり、「同文同種」 にこのような友好商社方式が実現した。 警戒的な姿勢を示し始めた。しかもこの時期 という親近感もあって、中国という巨大で深遠締結以降、今日に至るまでの時期である。 以上の時期区分ののちに、ここでは、それそが、中国の内政上の「百花斉放・百家争鳴」連〔 i-a ・貿易と日中交流〕第四期は、中国にと な対象を、とかく安易に考える風潮も存在して って「大躍進」政策挫折後の、いわゆる経済調 動から反右派闘争への転換と重なっていたこと いる。日中両民族は歴史的にも民族的にも「同れの時期の特徴と問題点を指摘してみたい。 〔「日本人民の反米闘争」支援の時期〕まず第は、中国側のその後の姿勢を決定づけていっ整期にあたり、対外的には中ソ対立の激化によ 文同種」であることには違いないが、今日の日 た。この間の日中関係はいわゆる「積み上げ方って印象づけられるが、日中関係においては 中両民族はあまりにも異質であり、日中両国の 一期については、一九五〇年二月に調印された *-a ・貿易が開始され、ふたたび日中間の交流 社会的環境はあまりにも異なっている。このよ中ソ友好同盟相互援助条約こそ、中国側からみ式」を基調としたものであり、一九五五年五月 には第三次貿易協定が東京で調印された。第一一一が活発になった時期である。 うなことを考えると、日本と中国は、アジアにて、日中関係を規定する基本的な要因であっ 一九六二年九月、自民党の松村謙三一行は た。この条約の第一条では、日本の軍事的復活次協定によって日中貿易はさらに進展し、五五 おける宿命的な「異母兄弟」なのだというべき しゅうおんらい たかさき に対する中ソの相互防衛が規定されていたから年一一月には日中輸出入組合が設立され、見本周恩来首相と会談し、高碕達之助を団長とす であり、歴史的にも、文化的にも、民族的に ベキンシャンハイ も、また地理的にも相互の摩擦が運命的に生じである。一方、戦後日本の対外的選択は、五一市も東京、大阪、北京、上海で開かれるようにる経済使節団も訪中した。同年一一月には、高 りようしようし 碕団長と廖承志中国アジア・アフリカ連帯委 年九月に調印されたサンフランシスコ講和条約なった。 やすい固有な関係にあるのだといえよう 3 〔岸内閣と日中関係〕第三期は、中国の対日姿員会主席との間で日中相互貿易に関する覚書が 〔日中関係の時期区分〕さて、日中関係はこのならびに日米安全保障条約と、翌五二年四月、 しようかいせき ように特殊な位相にあるのだが、ここでは次台湾の蒋介石政権との間に結んだ日華平和条勢が全面的に強硬化し、日中関係が全面的に断交わされ、五八年の日中関係の断絶以来、実に に、中華人民共和国の成立以後の日中関係史を約によって行われ、ここに戦後日中関係の基本絶した時期である。一九五八年三月、第四次貿四年半ぶりで日中間の正常な貿易が再開される 構造が形成された。この時期の中国は朝鮮戦争易協定が成立したが、中国側は台湾の蒔介石政ことになった。この覚書に基づく貿易 ( 日中双 回顧してみよう。 に当面して臨戦体制をとり続けていたのであ権に親近感を示す岸内閣に対する激しい非難を方代表のイニシアルをとって・貿易とい 一九四九年の中華人民共和国の成立以来、七 二年の日中国交の樹立を経て今日に至る日中関り、中国の対日姿勢は、もつばら「日本人民の開始した。こうしたなかで五八年五月二日、長う ) を軸に日中交流は拡大し、春秋二度にわた きりがみ 反米闘争」を支援する方向に傾いていった。や崎の中国切手剪紙展で発生したのが、一右翼青る広州交易会への日本からの大規模な参加、 係史は、八つの時期に区分することができる。 すなわち、第一期は、中華人民共和国が成立がて、サンフランシスコ対日講和の調印が日程年による中国国旗引き下ろし事件である。中国京・上海における日本工業展覧会開催なども実 した一九四九年から、サンフランシスコ対日講に上るや、この条約の不当性を非難する中国の側はこの事件を中国に対する侮辱・挑発だとし現した。六四年四月には、日中記者交換、貿易 て岸内閣の責任を激しく非難し、あらゆる日中連絡所の相互設置が取り決められた。 和条約が発効した五二年までの戦後日中関係の姿勢がますます強化された。 関係を断絶してしまった。 このように日中関係が好転し日中貿易が拡大 こうしたなかで、日中交流の細い糸をつない 草創期である。 以後、中国は、日本社会党、日本共産党を中するなかで登場してきたのが、日本政府資金に 第二期は、中国側の対日態度の緩和によってでいたのは日中貿易である。しかし、朝鮮戦争 心とする日本の革新勢力をふたたび強く支援激よる長期延べ払いを認めない旨を一九六四年五 日中関係が新時代に入った一九五三年から、中勃発後のアメリカによる対中国禁輸措置のた 月に吉田茂元首相が台湾政府に約束したといわ 国の国内政治に重大な転換 ( 「百家争鳴」運動め、一九五一 ~ 五二年になると日中貿易はほと励するとともに、従来の「積み上げ方式」にか から反右派闘争への転換 ) がもたらされた五七んど断絶に等しくなってしまった。このようなわって、対日政治三原則を日中正常化の基本政れる「吉田書簡」の問題であった。 とき、五二年六月、中国を訪問した三名の国会策として打ち出してきた。この政治三原則と 一九六四年一一月、池田内閣にかわって佐藤 年六月を境とする同年前半まで。 もうたくとう は、「①中国敵視政策を改める、②二つの中国栄作内閣が成立すると、中国側は、佐藤政権批 第三期は、毛沢東路線による中国の国内政治議員は、中国との最初の民間貿易協定に調印 をつくる陰謀に加わらない、③日中両国の国 ~ 父判を開始し、翌六五年一月、訪米した佐藤首相 し、ここに第一次日中貿易協定が成立した。 パターンの高揚期となった一九五七年後半以 〔「積み上げ方式」による日中緩和〕第二期正常化を妨げない」というものであり、この原が日米共同声明で、日本政府の対中国基本姿勢 降、翌五八年五月の長崎における中国国旗引き は、日中関係が従来の緊張から大きく緩和し、 則は日中国交樹立に至るまで、中国側の基本的はいわゆる「政経分離」にあることを示し、対 下ろし事件を契機にして日中関係が断絶してい いわゆる「積み上げ方式」による日中間の交流な対日姿勢となった。このころから中国は、 中国向けプラント輸出に輸出入銀行の利用を認 た六二年前半まで。 第四期は、日中間のいわゆる・貿易関係 が著しく進展した時期であった。一九五三年の「日本軍国主義復活」を説き始め、同時に一九めなかったため、中国側の佐藤内閣非難はます が成立する一九六二年後半から、中国に文化大朝鮮戦争停戦協定、五四年の平和五原則を経五七年の勤評闘争、翌五八年の警職法反対闘争ます激しくなった。 わゆる 革命が開幕する以前の六五年前半まで。 て、中国は従来と大きく異なる対日姿勢を示を経て、六〇年の安保闘争に至る日本の反体制〔政経不可分と佐藤内閣〕第五期は、い 第五期は、一九六五年後半の文化大革命開幕し、日中交流を積極的に呼びかけてきた。 運動をきわめて高く評価し、連日日米安保反対文化大革命によって、中国が建国以来最大の政 から、六九年の九全大会を経て、中国の国連参 以上のような背景をもって展開された日中関のキャンペーンを展開した。 治的・社会的激動を経験した時期であり、文化 はやと 加が実現した七一年秋まで。 係正常化の呼びかけに対し、日本側の反応はこ ところで一九六〇年七月、池田勇人内閣が誕大革命の波紋が日中関係にも大きく及び、日本 ばつばっ はとやま っ〃ー
ゆる「覇権」条項が取り入れられた。日本政府出された「日本国政府と中華人民共和国政府の 商社員のスパイ容疑による逮捕、日本人記者の恩来四条件」を受け入れるものが続出した。 〔日中国交樹立〕一九七二年七月、日本に田中は、「覇権」条項は特定の国 ( つまりソ連 ) を共同声明」。これによって台湾との間の「日台 国外追放など「造反外交」が日中関係にも大き 角栄内閣が成立したが、周恩来首相は田中内閣さすものではないとの解釈をとったが、結果的平和条約」は終了し、わが国は中華人民共和国 く影響した。 にソ連を大いに刺激し、以後、日ソ関係はさら政府と国交を樹立することになった。声明は、 しかもこの時期の日中関係できわめて重要なを大いに歓迎する旨を発言、従来の佐藤政府に に悪化した。日中平和友好条約の締結が日中関「三つの思想」から構成される前文と九項目の 問題は、日中友好関係の一つの柱でもあった日対してとっていた態度から急激に転換した姿勢 本共産党と中国共産党とが、一九六六年春の宮を示し始め、日中国交樹立に中国側もきわめて係を強化させた反面、逆にソ連のアジア戦略を本文とからなり、両国国民の願望、戦争の反 本顕治・毛沢東会談以降決定的な対立状況に陥積極的になっていた。こうした状況を背景にし拡大させ、アジアの緊張を高めたことは否めな省、国交正常化、中国政府の唯一合法性の承 認、台湾が中国の一部であることの尊重、外交 ったことである。その影響で日本における日中て、七二年九月二九日、日中両国は歴史的な日 こうしたなかで、一九七八年末の中国共産党関係の樹立、戦争賠償の放棄、平和五原則と国 友好連動にもさまざまな対立や分裂が生じ、親中国交を樹立した。訪中した田中首相、大平外 とうしようへい 中国グループは日中友好協会正統本部を結成し相一行は、毛沢東、周恩来ら中国側首脳との会第一一期三中全会で、鄧小平らの「四つの現連憲章の原則の確認、覇権主義に対する反対、 平和友好条約の締結のための交渉の合意、貿 た。この混乱は、日本の友好貿易業界や文化団談ののちに、国交樹立のための日中共同声明に代化」路線が優位を占めた中国側は、やがて八 署名した。 一年六月の同六中全会で華国体制を切り崩易・海運・航空・漁業等の諸実務協定の締結の 体などにも波及した。 ための交渉の合意を内容とする。声明の当夜、 一方、わが国と台湾との関係は、日中共同声し、中国の現代化政策とリンクした日中関係が 一九六七年一一月には佐藤首相がふたたび訪 台湾政府は日本との外交断絶を宣言し、日本の 米し、日米共同声明で「中国の脅威」と、これ明と、「日中関係正常化の結果として、日華平しだいに形成されていった。七〇年代末から八 ちょうし ^ 石本泰雄〉 和条約は、存続の意義を失い、終了したものと〇年代前半にかけては、鄧小平、華国鋒、趙紫対中国関係は新段階に入った。 に対処するための日米協力を表明したが、・ - 一よ・つほう につちゅ , っギ、よぎよ , つきよ、ってし 貿易は協定期間を一年に短縮しつつ継続され認められる」という大平外相の公式談話によっ陽、胡耀邦ら中国首脳の訪日が相次ぎ、日本か日中漁業協定 「日本と中華人民共和国との間の漁業に関する らも歴代首相が訪中するようになった。 た。・貿易は、六八年から日中覚書貿易とて公的には断絶した。 しわゆる「教科協定」をいう。一九七二年 ( 昭和四七 ) の日中 しかし、一九八二年夏には、、 呼称変更されたが、日中貿易は中国の対外貿易 以後、台湾との関係は、亜東関係協会 ( 台湾 ーのなかでは第一位のシェアを占めるに至った。 側 ) と交流協会 ( 日本側 ) という双方民間レベ書問題」で中国側は激しく日本「軍国主義」批国交正常化に伴い、それ以前の民間漁業協定に かわる政府間の漁業協定の交渉が日中間で行わ 三年夏には「東京裁判」問題で、 もっとも、その日中貿易のなかでは「友好貿ルの窓口を通する関係に格下げされ、経済・文判を行い、八 やすくに れ、七五年一二月に本協定が締結された。この 八五年夏には「靖国神社問題」で、さらに八六 易」が占める比重はますます大きくなり、日本化・人事などの交流にとどまっているが、国際 ばっかい 側は覚書貿易協定の調印に関して、中国側の主的孤立のなかでの台湾の奇跡的な経済上の成功年秋にはいわゆる「藤尾発言」で対日批判を行日中漁業協定は、適用水域を、中国が渤海入口 に設定している「軍事警戒ライン」および中国 張をほばそのまま受け入れることとなった。六もあって、日台関係はなおわが国の重要な国際うなど、日中友好関係の陰の部分で中国側はし 九年四月の覚書貿易協定に関する共同コミュ一一関係として存続している。 ばしばイデオロギー的な対日批判を展開してお沿岸に設定している「機船底引網禁止ライン」 り、日本政府はこれに対してつねに中国に「陳以東で、また台湾付近の「軍事作戦ライン」以 さて、日中国交正常化以後、日中関係が大き ケには、日米安保条約と日華平和条約を非難す の黄海・東シナ海の水域 ( 領海を除く ) とし、 る趣旨が盛り込まれ、さらに七〇年四月、周恩 く進展したのは当然であった。日中貿易協定謝」する形で事態を収拾している。一方、中国北 ( 一九七四年一月 ) 、日中記者交換覚書 ( 同 ) 、側の経済改革路線、とくに対外開放政策のつま違反に対して旗国が管轄権を有すること、日中 来首相は、台湾に進出している企業や韓国に投 日中航空協定 ( 同年四月 ) 、日中海連協定 ( 同ずきもあって、総額すでに百数十億米トルを上回漁業委員会の設置等を定め、同協定付属書—で、 資している企業は貿易相手として受け入れない った日中貿易や各種日中合弁企業にも将来性に機船底引網漁業および機船巻網漁業に関する休 ことなどを示した、いわゆる「周恩来四条件」年一一月 ) 、日中漁業協定 ( 一九七五年八月 ) 、 限界がみえ始めていた。八七年初頭には、日中漁区・保護区の設定、漁船の統数、集魚灯の光 日中長期貿易取り決め ( 一九七八年二月 ) 、日 を打ち出した。 一九七〇年一〇月、沖縄返還交渉のために訪中科学技術協定 ( 一九八〇年五月 ) などの政府友好関係や日中青年交流の先頭にたってきた胡度、体長、網目の制限による規制措置を定め、 Ⅱでは避難港等を規定する。 間諸協定・取り決めも相次いで調印され、一九耀邦・中国共産党総書記が、日本やアメリカと 米した佐藤首相と一一クソン大統領との日米共同 この協定は、三年間効力を有するとされ、一 の過度の接近を好まないいわゆる保守派・原則 声明に対しては、中国側はこれに鋭く反発、七九年一二月の大平首相訪中によって総額約一 「米日反動派の罪悪的陰謀」「日本軍国主義復五億米トルの対中円借款も供与されることとな派の圧力によって解任され、その親日ぶりが批九七五年以後三年ごとに更新され、規制内容 も、保護区の拡大などにより強化している。日 活」を中国の対日批判の主要な基調として、連り、翌八〇年からは日中定期閣僚会議も開かれ判されたことは、永遠の日中友好を誓ってきた せんかく 最近の日中両国にとって、一つの試練だといえ中漁業委員会は、東京と北京とで交互に毎年開 日、激しい批判が展開された。尖閣諸島の領有るようになった。 〈水上千之〉 〈中嶋嶺雄〉催されている。 〔中国の現代化と日中関係〕もとより日中両国よう。 権をめぐって対日批判が高まったのもこのとき につち一ゅ , っこ、つノ、 , つきょ , ってい である。 の間には、尖閣諸島の領有権をめぐる角逐や、回高市恵之助・富山栄吉著『日中問題入門』 日中航空協定 「日本国と中華人民共和国との間の航空運送協 ( 岩波新書 ) ▽石川忠雄・中嶋嶺雄・池井優 中国の批判は、佐藤政府に対してますます工中国の経済調整による一九八一年初頭以来の対 スカレートしていったが、同時に日本国内には 日プラント・キャンセル問題、宝山製鉄所建設 編『戦後資料日中関係』 ( 一九七 0 ・日本評論定」。一九七四年 ( 昭和四九 ) 四月二〇日署名、 同年五月二四日に効力が発生した。七二年の日 社 ) ▽中嶋嶺雄著『中国ーー歴史・社会・ 日中国交による日中関係の正常化を求める声をめぐる日中間のトラ。フルなどが生じ、日中関 中共同声明 ( 第九項 ) に基づき交渉が行われ、 国際関係』 ( 中公新書 ) が、マスコミのキャンペーンを中心に一段と高係がすべてにおいて順調に推移してきたわけで 七四年北京で署名。本文一九条、他の二か国間 まった。とくに一九七一年の「ニクソン・ショ 日中共同声明につちゅうきようどうせいめい 航空協定とほば同様であるが、中国が国際民間 一九七二年 ( 昭和四七 ) 九月二九日、わが国の ゅ - ック」によ 0 て知られる米中接近への決定的な このような状況のなかでの重要な問題は、一 しゅうおん 航空条約の締約国とみなされないためと、両国 ち転換と、同年秋の中国の国連参加によって、日九七八年八月一二日、わが国が中国との間に締田中角栄首相・大平正芳外相と、中国の周恩 つ中正常化への動きは日本国内において急速に高結した日中平和友好条約であった。この条約で来首相・姫飛外相との間で、それまで行われの政治社会体制の相違から若干の異なる条項が 3 〈池田文雄〉 7 まり、また、日本の大手企業のなかには、「周は当時の中国の反ソ世界戦略ともみられるいわた意見交換の結果として、両国政府によって発ある。
どじよう 土壌汚染 / おもな土壌汚染性無機元素の特性 汚染土壌中含量 ( ppm ) 元素 おもな汚染源 経路 自然 ( 1 ) 排水 鉱山 ( 農薬 ) ヒ素 6 土壌中 ( 2 ) 農作物中の自然含有量 ( 乾物当り ppm) 規制値 (ppm) 玄米 麦子実野菜 生物に対する毒性人体のお もな蓄積 植物 ( ィネ ) ( 3 ) 動物 ( 4 ) 部位 As(3 価 ) As(3 価 ) 血液 0 . 05 ( ~ 0.09 ) 高 ( 1 ~ 10 ) 5 中 ~ 低中 果実牧草 汚染 ( 2 ) 36 * ( 0.01 ~ 0.3 ) 玄米中 0.09 0 . 06 ( 0.02 ~ 0.14 ) 0 . 04 ( ~ 0.17 ) ( 0.1 ~ ( ~ 23 ) (As) 40 ) カドミウム鉱山 , 製錬工場 , 排水 , 0 . 06 煤煙 , ( 0.01 ~ めつき工場 (Cd) 粉塵 鉱山 , 製錬工場排水 100 めつき工場 3 000 ) 鉱山 , 製錬工場 , 排水 , 20 ( 農薬 ) 煤煙 , ( 2 ~ 粉塵 化学工場 ( 農薬 ) 排水 臓臟 腎肝骨 0 . 03 ( ~ 0.4 ) ( ~ 0.6 ) ( 0 ~ 1 . 4 ) ( ~ 14 ) ( 10 ~ 100 ) Cr ( 3 価 ) 低 200 中 ~ 低中 クロム (Cr) 肝臓 , 腎臓 , 100 ) 脳 腎臓 , 肝臓 肝臓 , 腎臓 19 ( 6 ~ 47 ) 125 * 30 * ( ~ 383 ) 2 ( ~ 27 ) 3 ( 2 ~ 16 ) ( 10 ~ ( 2 ~ 35 ) 40 ~ 65 (Cu) 水銀 (Hg) 100 ) 0 . 03 ( 0.01 ~ 0.3 ) 0 . 02 ( 0.01 ~ 0.1 ) ( ~ 5.4 ) 100 ) 低 中 ( 0.1 ~ 1 ) 0 . 04 ( 0.02 ~ 0.07 ) 排水 40 ( 10 ~ ッケルめつき工場 (Ni) (Pb) ( 0.1 ~ 1 ) ( 100 ~ 1 000 ) ( 2 ~ 13 ) 10 ~ 50 100 ) 骨 , 肝臓 低 ( ~ 0.35 ) ( ~ 1 949 ) 1 ( 0.6 ~ 4 ) 自動車 ( ガ、ソリン ) , 排水 , 10 煤煙 , ( 2 ~ 鉱山 , 製錬所 粉塵 排水 , 50 38 * 50 鉱山 , 製錬所 ( 10 ~ 170 ) ( ~ 513 ) 煤煙 , ( 10 ~ 粉塵 300 ) 注 : は ) H. J. M. Bowen の数値 ( 世界 ) ( 2 ) * 印は可溶性の値 ( 日本 ) ( 3 ) 無機塩添加上耕試験における限界濃度 ( 4 ) 経口による急性毒性 (LD50 mg ・ kg-l) ) 内の数値は最小 ~ 最大の幅を示す ( ~ 0.15 ) ( 2 ~ 11 ) 100 ) 200 ) ( 農薬 ) 腎臓 , 肝臓 中 ~ 低低 22 ( 13 ~ 40 ) 44 ( 17 ~ 80 ) 20 ( 15 ~ 50 ) 亜鉛 (Zn) ( 100 ~ 1 00 の 10 ~ 50 壌であるので、畑作農業や草地農業の本格的発通川流域で発生したイタイイタイ病の原因が、 展は、この火山灰土壌をいかに改良するかにか上流にある鉱山からの長年にわたるカドミウム を含む排水に起因することが一九六八年 ( 昭和 かっている。 火山灰土壌はかって低位生産地の代名詞のよ四三 ) に判明して以来、各地の鉱山や製錬所周 辺のカドミウムによる土壌汚染が全国的に問題 うに扱われてきたが、近年は優良な耕地となっ となった。さらに七〇年にはカドミウム使用工 ている例が多い。このような改良の効果をもた らしたのは、①堆厩肥による優良有機物の富場も汚染源となることがわかり、問題はさらに 化、②石灰による酸性の矯正、③溶成リン肥の拡大された。 この対策措置として一九七〇年「農用地の土 多量施用による土壌改良、などの改良技術の成 壌の汚染防止等に関する法律」 ( 昭和四五年法 果によるところが大きい 〔その他〕酸性土、不良火山灰土以外にもわが律一三九号 ) が制定された。この法律は、特定 国には重粘土、泥炭土、砂質土、礫質土など土有害物質による土壌の汚染が一定の規準を超え 壌改良を必要とする畑土がある。重粘土、泥炭たとき、都道府県知事がその地域を対策地域に 土の改良には排水を主体とした生産基盤の整備指定し、土壌汚染の防止、除去、農用地以外へ が前提となる。また砂質土、礫質土では粘土質の転用など必要な対策を講することを骨子とし たものである。現在のところ同法における特定 の土壌の客土がもっとも有効な手段である。し かしこれらはいずれも莫大な経費を要する点に有害物質としては、カドミウムとその化合物が 問題がある。したがって実際には、作付体系を七一年に指定され、ついで銅、ヒ素が指定され た。そのほかの重金属元素についても指定を検 くふうし輪作を行う、施肥法を改善する、マル チング、深耕などの手段によってこれら不良土討中である。指定基準は、カドミウムでは米 の植生を改善する、などのことがたいせつであ ( 玄米 ) に含まれる量が一以上であると る。 〈小山雄生〉 認められる地域またはそのおそれのある地域で 回川村一水・船引真吾著『改著農林土壌学』あり、銅では〇・一規定塩酸に可溶な銅を土壌 ( 一九六九・養賢堂 ) ▽石川昌男著『農家の土壌中に一二五 ZO-E 以上含む地域である。ヒ素で は一規定塩酸に溶けるヒ素を一五 ( 地域 学』 ( 一九七七・農山漁村文化協会 ) ▽山根一郎 他著『図説日本の土壌』 ( 一九大・朝倉書店 ) の条件によっては一〇 ~ 二〇以上土壌 ▽土質工学会編『土のはなし』全三巻 ( 一九中に含む地域となっている。 土壌汚染防止法に基づく対策指定地域は、一 七九・技報堂出版 ) ▽地学団体研究会編『土 九八一年にはカドミウムが三九地域で指定面積 と岩石』 ( 一九全・東海大学出版会 ) ヘクタ、 ー、ー、ヘクタ、 ヒ 銅が一〇地域で九九一 どじようおせん土壌は食糧生産のは四五ノ 土壌汚染 主要な場である。しかし近年の急速な工業化の素が四地域で一一四タである。このうち対策 進展に伴って公害が発生し、鉱山や工場などか計画が策定されたのは三七地域、およそ三〇〇 ら排出された有害物質が土壌中に蓄積し、その〇タであり、このうち一九地域では排土、客 結果、人間の健康を損なうおそれがあるような土、水源転換などの対策事業が完了している。 農作物が生産されたり、または農作物自体が障事業費は原因者負担が原則であるが、原因が不 明の場合は国が三分の二、県などの地方自治体 害を受けたりする農用地の被害が発生してい が三分の一を負担して行われる。これら指定地 る。このような公害を土壌汚染とよぶ。 土壌汚染は大気汚染、水質汚濁などを媒体と域のおもな汚染源は、休廃止鉱山が全体の九割 して人為的に発生するものである。汚染の原因を占め、残りが工場などである。カドミウム、 物質としては、カドミウム、銅、亜鉛、鉛、水銅、ヒ素の三元素による土壌汚染は依然として 銀、ニッケル、クロムなどの重金属類や、バナ広がりつつあるが、その復原事業は遅れている。 土壌汚染地から生産される農作物のうちで、 ジウム、べリリウムなどの軽金属、ヒ素、アン チモンなどの非金属がある。また、これらの元玄米中のカドミウム含量が一を超えると 素のほかにも、残留性の高い農薬や 0-(022 ( ポ政府買上げの対象から外され、〇・四 ~ 一 リ塩化ビフェニル ) などの有機化合物が問題と E のものは準汚染米として取り扱われている。 カドミウムの汚染地としては富山県神通川 ( 婦 なっている あんなか じん ちゅう 〔鉱山・工場排水等による土壌汚染〕富山県神中町 ) 、群馬県碓氷川 ( 安中市 ) などがあり、 ばくだい づう
どじよう どじようびせいぶつ SOil mi- の採土缶を何個か打ち込み、これから算定すミミズが一か月に一四のシイの葉を摂食し、土壌微生物 うに多種多様な土壌動物を端的に定義すること crobe, SOil microorganism 土壌巾・に生 この重さはシイの葉一一〇枚に相当するという ることが普通である。生息場所や季節の違いし はむすかしいが、青木淳一は「土壌動物とは、 大形動植物遺体をも含めた土壌環境に、永続的よって生息密度や現存量は大きく変化する。森報告もある。粉砕は植物遺体ばかりでなく、動する微生物をいう。土壌中には、細菌、放線 あるいは一時的に生息し、そこでなんらかの活林では、線虫、ヒメミミズ、ササラダニ、トビ物の死体や糞などの動物遺体についてもシデム菌、糸状菌 ( カビ ) 、藻類、原生動物、線虫類 などきわめて多種多様の微生物が生活してい ムシなど腐食性動物の生息密度は高く、一平方シやコガネムシの仲間によって行われる。 動を行っている動物群」と定義している ( 一九 きなぎ 粉砕や分解は微生物との共同作業であったる。その活動は、自然界における物質循環に大 当り合計一〇万 ~ 一〇〇万個体となる。一 七 III)O したがって、土壌中に不活動期 ( 卵や蛹 など ) の間だけ滞在するものや、越冬や夏眠の方、カニムシ、クモ、甲虫のような肉食性の捕が、土壌の耕耘・攪拌は土壌動物の単独作業できな役割を果たすとともに、土壌の性質に変化 ある。土の中を生活の場としているため、移動を与え、植物の生育に重要な影響を及ばしてい ためだけ滞在するものは除外されている。土壌食者の密度は合計一〇〇 ~ 数千個体と少ない。 動物は土壌中という生息場所に適した次のよう現存量は暖かい所ほど大きな値を示すことが多することによって土壌の耕耘が自然に行われるる。 土壌中の微生物のうち、もっとも多いのは細 しハイマッ群落 ( 〇・八 ) より亜寒帯針葉ことになる。すなわち、地表近くの有機物を地 な形態的な特徴をもっている。①空間が狭いた め小形化している。⑦移動しやすいように円筒樹林 ( 三 ) に大きく、それより冷温帯落葉樹下に動かし、地下の貧養な土壌を地表に連び出菌類で、一等の土壌中には数千万から数十億が ・一うデき へんべい 形か扁平で細長い体形をしている。③歩脚は短林 ( 二〇 ~ 五〇 ) 、さらに暖温帯照葉樹林して有機物と土壌とを混合する。また、孔を生息している。細菌類の種類、作用はさまざま つくることによって土壌の通気性や通水性を高で、有機物の分解のほか、空気中の遊離窒素の く、ないものもある。④昆虫では飛ぶ必要がな ( 五〇 ~ 一〇〇 ) で大きい値となっている。 めてくれる。とくに移動力の大きいミミズは土固定、硝化、脱窒など特異的な作用をもったも いため、はねのないものが多い。⑤暗黒の土壌〔土壌動物の働き〕土壌動物のおもな働きは、 一一う、つん 中では体色はじみで白色化しているものもあ有機物の粉砕と土壌の耕耘とに大別される。枌壌耕耘にもっとも大きな働きをしている。たとのもある。細菌に次いで多いのが放線菌で、土 壌一中に数万から数百万が生息し、複合脂 る。⑥目が退化しているものもある。 砕は、土壌動物が落ち葉や落ち枝のような植物えば、クソミミズは一年間に一平方当り三・ ふん キ。の糞塊 ( 径二ミリぐらいの小さい粒の糞から質、セルロース、キチンなど分解しにくい有機 土壌動物は地球上の陸地のあらゆる場所に生遺体を食料として摂取し、糞として排出するこ とによって行われる。動物の消化管を通った粒なる ) を地表に排出し、土壌中に三・一分の物に作用する。糸状菌は一般には放線菌よりや 息しているが、環境の変化に敏感である。とく に、人間の影響で自然が変化を受けると、生息子の細かい有機物には、バクテリアや菌類など空間を形成したという報告がある。実際には食や少ないが、森林土壌には多く含まれる。糸状 する種類が減少したり、種類が入れ替わったりの微生物が増殖しやすく、植物が養分として利べた土をすべて糞塊として地表に排出したわけ菌には高等な糸状菌である担子菌類 ( キノコ する。このことを利用し土壌動物を指標動物と用する無機物に分解されやすい。また、微生物ではないので、土壌耕耘量はさらに大きな値と類 ) も含まれ、セルロース、リグニンなどを分 なる。 解する能力をもっているが、水田土壌には少な して用い、自然の豊かさの目安とする研究も始によってある程度変質した植物遺体は、それら 。藻類はおもに土壌の表面近くに生息してお められている。 の影響を受けないものより動物に摂食されやす〔採集法〕野外で採取した土壌資料から動物を らんそう 〔生息密度と現存量〕生息密度や現存量は一平 つまり両者は有機物の分解過程で互いに作分離・抽出するには、動物の体の大きさや特性り、水田土壌に多い。藍藻類、緑藻類が多く、 藍藻類のなかには空中窒素を固定するものもあ 方当りの個体数や重量で表すことが多く、肉用しあい分解を促進している。土壌動物が粉砕を利用した次の三つの方法がある。 ) ハンドソーティング白布の上で落ち葉や土る。 眼で見える大形の動物は五〇 ( または二五 ) する落ち葉の量は相当多く、一年間に一平方 ふるい これら土壌微生物が果たすもっとも大きな役 四方の方形枠を何個か調査して算定する。肉眼当りダンゴムシが一五、キシャヤスデが六〇壌を篩にかけ、落下した動物をピンセットと吸 等の落ち葉を摂食したという研究がある。また虫管を使用し、肉眼で採集する方法で、ミミ割は、自然界における物質循環である。植物が では見えない小形の動物は五 x 四、深さ五 ズ、ダンゴムシ、ムカデ、ヤスデ、クモなど体生育した有機物を、土壌中の微生物の働きによ , トス分瓶を包 , す , ゴ って、炭酸ガス ( 二酸化炭素 ) と水に分解す 長二 = 、リ以上の大形土壌動物を対象とする。 採 , と , ャ部ー 土にて射れが れるニ , の入 端せ照つど ツルグレン装置上方から電球で照射し、篩る。また、窒素の循環に関しても、有機物の分 置入すダモロルる置れのでになる 法 装を射 , クの一す装切に球昇ズく の上の土壌資料を乾燥させることによって動物解によるアンモニアの生成、硝化細菌によるア ろうと 集ン葉照れな斗コ下ンの斗電上ミて 採レちでっさ漏ル落マグ漏 , のミしを漏斗のロの部分に移動させ採集する装置であンモニアの硝酸化成、脱窒細菌による硝酸の脱 グ落球に にルンスし度メ動 物ル電る , がし的一キラた温ヒ移る ( 写真 ) 。カニムシ、ダ一「トビムシ、カマ窒、根粒菌による空中窒素の固定など、いすれ 動ッ土らすシど動動ペッガ満 も土壌中の微生物の作用によるものである。こ アシムシなど小形節足動物を採集するのに有効 たか燥ムな移自 ト , をと虫管 し方乾ビデ に〔スみ水る線ム である。 のような物質循環の過程は、土壌の性質にも影 ③べールマン装置土壌中の水に依存して生活響を与え、農業上重要な意義をもつ。有機物の している線虫、ヒメミミズ、クマムシなどの小 分解に際し、微生物の働きが適度で、分解が適 形の湿性動物を抽出する方法である。これは土当な速さであれば、一部は直接高等植物に利用 壌資料を水に浸した状態で、泳ぎ出してくる動され、一部の有機物は高分子の腐植となって養 物をゴム管の中に集めるという湿式の抽出装置分の貯蔵の役割を果たすとともに、土壌の物理 性の改善に役だっ。寒冷で湿潤な所では、こう である ( 写真 ) 。 した微生物の作用がほとんどないため、植物が ⑦、③の採集法は、体長二ミリ以下の肉眼では なかなかみつけることが困難な微小動物を対象末分解のまま残って泥炭として蓄積され、農作 とする。 〈青木淳一・原田洋〉物の栽培は不可能な場合が多い。また、熱帯の わん どじようねんどこうぶつ 0 粘 畑地では、逆に微生物の作用が盛んで有機物の 土壌粘土鉱物 どこ・つふつ 分解が速いため、腐植が残らず、可溶性となっ 土鉱物 4 かくはん
では純粋な四酸化二窒素 N ~ 0 、が存在する。 素、亜鉛、鉄などの上を通すと一酸化炭素に還 % 混ぜて用いたほうが有効である。このほか、 たとえばニシの語も、アクキガイ科以外の種の 4 元される。マグネシウムやアルカリ金属は、二固形炭酸 ( ドライアイス ) は皮膚疾患の腐食剤気体および液体では、二酸化窒素と四酸化二窒語尾につくことも多く、たとえばタニシ ( タニ 6 〈幸保文治〉素はいつも共存しているが、化学的性質として シ科 ) 、オキニシ ( オキニシ科 ) 、キキョウニシ 六、酸化炭素中で加熱すると燃えて炭素を遊離すとして使われている。 titanium di- は区別する必要はない。平衡状態での混合気体 ( カプラガイ科 ) 、ナガニシ ( イトマキボラ科 ) 、 こる。アルカリ金属やアルカリ土類金属の水酸化ニ酸化チタンにさんかー・ 物と炭酸塩をつくる。水酸化カルシウムでは、 oxide チタンと酸素の化合物。酸化チタン中の N02 の体積 % は、二七度 0 で三三・ テングニシ ( コプシボラ科 ) などをあげること 0 、 一五四度 0 で一〇ができる。 〈奥谷喬司〉 いったん沈殿した炭酸塩 CaC03 が過剰の二酸とも、チタニア titania ともよばれる。チタン % 、五〇度 0 で五七・一 にし west 太陽の沈む方向。さまざま 化炭素とさらに反応して可溶性の炭酸水素塩塩水溶液の加水分解で沈殿した水酸化チタン〇・〇 % であり、さらに高温になると一酸化窒西 Ca(HC03)2 を生じる。この石灰水との反応は 2 を強熱すると得られる。天然にはルチル ( 金素に解離する。二酸化窒素は褐色、常磁性であな語源説があるが、「日のイニシ ( 往にし ) 方」 二酸化炭素の検出法に用いられる。また、自然 るが、四酸化二窒素は無色、反磁性である。酸の意とする説もある。日の沈む方向は季節によ ン しようにゆう せき 界における石灰石の溶出や沈降 ( 鍾乳洞、石タ 化作用が強く、炭素、リンなどはこの気体中でって異なるので、漠然とその方向をいうことも じゅん 「 / 11 筍など ) はこの反応による。他の気体に比べヒ 燃焼する。濃硫酸、濃硝酸に溶け、水に溶けてあるが、正確にいう場合は北より左に九〇度離 イ石 ひがん て二酸化炭素は水に溶けやすく、室温一気圧で酸錐量点点重 硝酸と亜硝酸を生じる。二酸化窒素は刺激臭がれた方向 ( これは彼岸のときの日没の方向にあ とり ニ鋭式融沸比結 約〇・〇三モル溶液となる。水溶液中には炭酸 あり、きわめて有毒である。硝酸製造の原料と たる ) をいう。十二支名では西は酉の方角にあ えいすい を生じており、約四の酸性を示す。高温高圧紅石、正方晶系 ) 、鋭錐石、板チタン石 ( 斜方なるはか、液体はロケット燃料、有機合成の一一たる。南西諸島では本土で北を示す方向をニシ 下でアンモニアと二酸化炭素を反応させると、 品系 ) のそれそれ結晶構造の異なる鉱物としてトロ化剤、金属硝酸塩無水物の調製に用いられとよぶ。これは、冬の李節風の方向が、本土で 〈守永健一〉 中間にカルバミン酸アンモニウム H2NC02NH 、産出する。アルカリと硫酸には溶けるが、それる。↓酸化窒素 は西寄りであるのに対し、南西諸島では北寄り さんかなまり を生じて次のように反応が進む。 となるため、卓越風の方向の違いが、方角名に 以外の酸と水には溶けない。磁器の原料となるニ酸化鉛にさんかなまり 0 酸化鉛 2NH3 十 C07 ー↓ H2N ・ C02 ・ NH 、 manga- まで影響しているものと思われる。 ほか、微粉末化したものはチタンホワイト ( チニ酸化マンカンにさんか H2NC02NH 、ーー↓ H2NCONH2 + H20 タン白 ) ともよばれ、塗料、印刷インキ、化粧 nese dioxide マンガンと酸素の化合物。酸 地学上、西という方向は、①地球の自転の方 この反応は尿素 H2N ・ CO•NH2 の製造に用い 品、ゴム、繊維、紙、樹脂などに顔料として利 化マンガンともいう。化学式 Mn02 、式量向は西から東に向かう、②前記①の影響などで られる。 用される。医薬品にも保護剤として使われ、紫八、 ~ ノ・九。天然に。ハイロルース鉱として産出。 中緯度地方では上層で西寄りの風が卓越してい 〔用途〕もっとも重要な用途は、炭酸ナトリウ外線防止の効がある。溶融して塊状に仕上げた正方晶系のルチル型構造のほかに多くの変態が 〈根本順吉〉 る、などの特徴をもっている。 ム、炭酸水素ナトリウム ( 重曹 ) 、鉛白 ( 塩基ものはチタニアの名で人工宝石として利用され知られる。硝酸マンガン冊を酸素気流中で約一 語源的には、日の「いにし ( 往 ) 方」とする しやくみよう わくんのしおり 性炭酸鉛 ) の製造ならびにソーダ水などの清涼る。↓酸化チタン 〈岩本振武〉五〇度 O に加熱すると生成する。灰色から灰黒『日本釈名』『和訓栞』などの説、日没する意 にさんかちっそ nitrogen diox ・色の枌末 ( 比重五・〇二六 ) 。 Mn01. 。。のようの「ひねし」の転とする「東雅』などや、「に 飲料水用である。液体炭酸は消火剤に用いられニ酸化窒素 る。固体炭酸は優れた冷凍剤で、食料品、果物 ide 窒素と酸素の化合物。過酸化窒素ともい なベルトライド化合物が知られる。両性酸化物ぎし ( 和風 ) 」の義とする『大言海』などの諸 あみだ などの貯蔵、輸送に適している。〈守永健一〉 うが、過酸化物ではないので、これは誤称であであるが希酸やアルカリに作用しにくく、 説がある。仏教で阿弥陀仏の極楽浄土をいうの かぶき 〔薬用〕呼吸興奮薬の一種。二酸化炭素は呼吸る。一酸化窒素と酸素の混合気体 ( 体積二対 も溶けない。アルカリでマンガン囲化合物のをはじめとして、歌舞伎では舞台に向かって左 かみがた すもう 中枢を刺激して吸気作用をおこさせる働きをも一 ) を寒剤で冷却、液化してつくるか、硝酸鉛酸化またはマンガン新化合物の還元により、水側 ( 上方では右側 ) 半分をいい、相撲などの左 つ。動脈血中の二酸化炭素の量が減少すると、 を熱して発生する気体を寒剤で冷やして酸素と 和物 Mn02 ・ 2H~0 が沈殿する。酸化剤となる。右対称に記された番付でも左側をさし、東方よ まっしよ、つ 呼吸数が減じ、末梢血管の拡張がおこって、分離してつくる。工業的には、アンモニアの接乾電池、マッチ、花火の材料となり、ガラスのり一枚格が下とされる。太陽が沈む方向である 血圧低下、心拍数の増加と血液拍出量の減少が触酸化反応ガスから大規模に製造される。常温青色を消すのに、また乾性油の製造などに用い ため、絶対にありえないことのたとえに「西か ことわぎ みられる。もともと二酸化炭素は呼気より排出で赤褐色気体、液体は黄色、固体は無色。固体る。実験室で酸素発生の触媒、有機化学の分野ら日が出る」の諺があるほか、まったく分別 される生体の代謝産物であるが、これが動脈血 でアルコールの酸化などに用いる。↓酸化マン のないことを「西も東も知らない」との諺もあ ガン 中に増加すると、呼吸中枢が興奮して呼吸が速 〈守永健一〉る。 〈宇田敏彦〉 くなり、ガス交換を盛んにして血中の二酸化炭 にじ rainbow 雨上がりのときなどに、 ニシ〔辛螺〕軟体動物門腹足綱に属する虹 素の量を少なくしようとする。また、空気中の 巻き貝のうち、主としてアクキガイ科の種を中太陽と反対方向に現れる色のついた光の輪。太 二酸化炭素の濃度が三 ~ 五 % になると生理的影 心につけられた俗称。このうち、イボニシ ( 疣陽の光が雨滴の中で屈折し反射してできる。月 響が現れ、八 % を超えると呼吸困難を訴え、一 辛螺 ) などは食べてみるといくぶん辛味があるの光でもできるが、太陽のときに比べ色が薄 〇 % 以上になると意識喪失がみられ、一八 % で ので、カラニシ ( 辛螺。転じてこの漢字がニシ しゅにじふくにじ 致命的となる。 にあてられる ) などとよばれる。巻き貝に関す〔虹の種類〕虹には主虹、副虹などのほか次の 存 なお、呼気中には二酸化炭素が約四・四 % 含 る和名にはニシのほかにも、ボラ ( 法螺。主と各種がある。 6 一 けんろう 共 度 まれており、過換気症候群の発作時には数程 して大形紡錘形の堅牢き貝に多くつけられ ①主虹太陽と観測者を結んだ線の延長方向の 度の大きさの紙袋でロと鼻を覆って呼吸し、呼 素 ている ) 、ニナ ( 蜷。小形の細長い巻き貝に多点を対日点というが、この対日点を中心として 定 0 窒 気中の二酸化炭素を再吸入することによって発 は Z O ! 江 , メ O い ) などの語尾がつくものがあるが、それらの半径約四二度 ( 赤色の部分 ) で、輪の外側が 4 一幻固 作を消失させる。また一般に酸素吸入を行うと 使い方は分類によるものではなく、したがって赤、内側がすみれ色でその幅が約二度の虹であ 酸 z 量点点重 0 きには、酸素単独よりも二酸化炭素を五 ~ 一〇ニ式融沸比 つけ方に確固とした法則があるわけではない る。普通によく見られる虹であるが、いわゆる 1.75 Å \ 1.18 グ N 134 。
にほん 宿区牛込柳町の排気ガス公害を訴える老人 水銀による水俣病患者の救済を要求する人々。〔下〕東京都新 日本の「公害列島化」をもたらした。〔上〕工場廃液中の有機 ⑩公害問題高度成長政策追求のひすみは , 1970 年代初期 , 講堂の攻防戦 きつけた。その闘争の終焉を象徴する 1969 年 1 月の東大安田 % 165 校で学園紛争が発生 , さまざまな抗議を既成社会に突 ⑩学園紛争 1960 年代末約 2 年間にわたって全国大学の約 80 チッソは直。 ⅶツい 3 ⑦安保闘争空前の国 民運動に発展した日米 安全保障条約改定反対 闘争は , 条約改定こそ 阻止できなかったもの の , 革新陣営に大きな 自信を与え , その後の 日本政治の流れに強い 影響を及ほした。 1960 年 6 月 1 5 日 , 国会前に 詰めかけた反安保のデ モ隊 ⑧東京オリンビック 1964 年 , 日本は OECD に加盟し , 東海道新幹 線が開業した。この年 10 月開催された東京オ リンビックは , 日本経 済の高度成長を世界に 示す祝典でもあった 入場する日本選手団 駆けとなった まれる革新自治体の先 の後全国で相次いで生 ら 2 人目 ) が当選 , そ れた美濃部亮吉 ( 左か とする革新勢力に推さ 事選で社共両党を中心 1967 年 4 月 , 東京都知 ⑨革新都政の誕生 ⑩沖縄・嘉手納基地アメリカの施政下 にあった沖縄では , 祖国復帰運動と米車 基地反対運動とが結び合って , 粘り強く 続けられた。 1970 年 9 月 , ベトナム爆撃 にも参加した B ー 52 の飛来に抗議の人々 ⑩日中国交回復米中接近という新事態 のなかで , 日中関係正常化を決断した田 中内閣は , 組閣後 2 か月半の 1972 年 9 月 , 首相自らが訪中して日中共同声明に調印 , 国交回復を実現した。毛沢東 , 周恩来と ⑩ロッキード事件 1976 年 2 月表面化し た , 旅客機トライスターの日本への売込 みをめぐるロッキード汚職は , 前首相田 中角栄ら 1 7 名が起訴されるという巨大疑 獄に発展した。逮捕され東京拘置所に入 る田中角栄。 1 976 年 7 月 27 日 ⑩自民党圧勝 1986 年 7 月の衆参同日選 挙は , 自民党に衆院 304 ( 追加公認 4 を 含む ) , 参院 74 ( 同 2 を含む ) という大量 議席をもたらし , 続いて発足した第 3 次 中曽根内閣は「戦後政治の総決算」路線 の総仕上げを進める構えをみせた。開票 当日の自民党本部 859 ー疋の日本 衣瓦奠淼簽、野 0 白 0 稻 0 渡、。、、、 萇カ " 期ー山 , み新。班齦れ , い些、 1 第。。物 翁前前前え 合崎久 特平大佐 永山 和成ー隆 見彬秀 = 北松野鹿松四久坂国係尾 版「三第新ををド 山犬都 1 を物塩 を正 平男第司瓦を
ち一である。湾全体は重要港湾に指定され、中城湾入れるような長靴を一足」っく 0 てやると、こを与え、工作物またはバイトに 港とよばれる。本土復帰後、中城湾開発計画が立れを履いて大活躍、ついに、この若者を王女の送り運動を与える。中ぐり盤が ーこよ、「ふつう用いられるのは、一般に工作物 案され、埋立てなどによって一九八七年の国体婿にしてしまう話。巻末の教訓し。 よ主会場や産業用地が建設中である。〈目崎茂和〉若者にとって、 / 世渡りの術とかけひき上手がの形状が複雑で回転運動を与え / もらった財産より役に立つ」「枌ひきの息子られない場合、または工作物の ナガクチキムシ〔長朽木虫〕昆虫綱甲虫 目ナガクチキムシ科 Melandryidae の昆虫のが、これほど早く、 / 王女さまの心をとらえ、重量が大きい場合などである。 / また中ぐり盤では中ぐりバイト 恋わすらいの目でみつめられたからには、 総称。世界各地に分布し、温帯域に多く、一〇 いしょ・つ のかわりに正面フライス工具な 〇〇以上の種類が知られており、日本からも約衣裳や顔かたちや若さが、 / 恋心を吹きこむの に、 / 無関係な手段ではない証拠」 ( 新倉朗子どを取り付けて、平面を切削す 七〇種が記録されている。体長三 ~ 二〇 = 、リぐら 長卵形から長い円筒形ないし舟形で、脚の訳 ) と記されている。↓ペロー童話集〈窪田般彌〉ることもできる。中ぐり盤は横 ふせつ ながくて ( ちょう ) 愛知県愛知郡、中ぐり盤、ジグ中ぐり盤、精密 附節は五節で後脚だけ四節、多くの種は脛節先長久手 ( 町 ) おわり 端の棘に微細なぎざぎざがある。森林地帯にす名古屋市東郊、尾張丘陵にある町。町名の起源中ぐり盤に分類され、テープル はイ一ま の大きさ、主軸直径、主軸移動 は長湫の転化、湫とはくねくねした細長い狭間 み、成虫はキオビホソナガクチキムシ P ミ 0 き・ かながれ 、、、ミ s やアオバナガクチキムシミ を意味し、ここでは東西に長い香流川の谷であ距離、主軸頭の上下移動距離な構 ム やぎこかみごう 、ミ。きの類などのように枯れ木や倒る。一九〇六年 ( 明治三九 ) 長湫、岩作、上郷どにより機械の大きさが表されのラ 〈清水伸二〉 の三村が合併して長久手村と改称、一九七一年る。 木にくるものや、ヨッポシヒメナガクチキムシ なかご core 鋳物のぐ 0 一 os 、、、ミ s 一ミスニセハナノミ属 0 洋・ ( 昭和四六 ) 町制施行。長久手古戦場は国の史中子 とよとみ などキノコに集まるものがあり、幼虫も枯跡で、一五八四年 ( 天正一一 I) 豊臣秀吉軍と織中空部あるいは孔などをつくる中 だのぶかっ れ木やキノコにすむが、アオオビナガクチキム田信雄・徳川家康連合軍とが戦い秀吉軍が敗れときに、鋳型 ( この場合はとく おもがた あんしようじ ス に主型という ) とは別につ た戦場で、岩作の安昌寺には首塚がある。戦 盤 シ属 9 は成虫が花に集まる。 後の住宅化は目覚ましく、スポーツ、文教施設り、外型内に収める砂型。中子 近縁のキノコムシダマシ科 Tetratomidae 回 は脚の坿節に葉片がなく、脛節先端の棘にはぎでは愛知青少年公園、愛知県立芸術大学、私立は大部分が溶湯に取り囲まれる中 ざぎざもない。モンキナガクチキムシ、ルリキ愛知医科大学ができ、愛知県農業総合試験場もので、溶湯流に耐える強度、耐 に学んだ日本画を趣味としている。六三年 ( 昭 ノコムシダマシなど日本に一〇種近く産し、キ設置された。公園にはよく整備されたスポーツ熱性、凝固収縮を可能にするための可縮性、中 和三八 ) の還暦を記念して、皇居内に音楽堂 〈中根猛彦〉施設があり、国際的行事も行われている。人口子から発生するガスを排除するための通気性、 ノコや枯れ木にすむ。 ながぐっしたの 〈小田部雄次〉 〈伊藤郷平〉製品の内部から砂を取り除きやすくするための ( 桃華楽堂 ) が建設された。 Pip- 二万五五〇七。 長ぐっ下のピッピ ひらばり 三 Långstrump スウェーデンの児童文学作囮二万五千分の一地形図「瀬戸」「平針」 崩壊性など、主型以上に多くの要求がなされ中郷 ( 村 ) なかごう ( むら ) 新潟県南西部、中 〈井川克也〉頸城郡にある村。妙高火山東麓に位置する。近世 家アストリッド・リンドグレーンのデビュ 長久保赤水ながくばせきすい ( 一七一七ー天 0 一 ) る。図鋳型 あぎな くにのみやくに ほっ - 」く ながこ ) 皇后。久邇宮邦まで北国街道沿いの純山村にすぎなかったが、 作。一九四五年刊。不そろいの靴下を履き、ウ江戸中期の地理学者。名は玄珠、字は子玉、通良子 ひたち マとサルを連れて一人で暮らす、怪カ無双で利称は源五兵衛。赤水は号。常陸国多賀郡赤浜村彦親王の第一女子。母は鹿児島・島津家の出一九二〇年 ( 大正九 ) 信越本線二本木駅前に日本 たかはぎ 学身。一九一八年 ( 大正七 ) 学習院女学部中等科曹達二本木工場が誘致されて以来、力性ソーダ 発な女の子ビッビの物語。従来子供に禁じられ ( 茨城県高萩市 ) の農民の子に生まれたが、・ まつみね ひろひと の町として全国的に知られた。現在は松ケ峰に 問を好み励んだ。一七六五年 ( 明和一 l) 近郷出三年のとき、皇太子裕仁の妃に内定。その後、 ていた行動をのびのびとやってのけるピッピの 姿に世の評論家や教育者は顔をしかめたが、子身で安南 ( ベトナム ) 漂流民の送還者を迎えに良子が色盲遺伝子の保有者であるとの理由で一兀新温泉や遊園地が開発され、観光の村としても やまがたありとも 供たちは自分たちのかなわぬ夢を実行に移す主長崎へ赴き、「安南漂流記』『長崎紀行』を著老山県有朋が内定取りやめを求めた宮中某重大有名になっている。人口六〇一六。〈山崎久雄〉 せきやま かっさい し、地理学に傾注した。七四年 ( 安永三 ) ほば事件が起こる。しかし一三年九月婚約、二四年囮二万五千分の一地形図「関山」 人公ピッピに共感し、喝采を惜しまなかった。 せんそ しだいに大人もこの作品のすばらしさを認識し 日本の沿岸の実形に即した『日本輿地路程全一月二六日結婚。二六年一二月裕仁の践祚によナガコガネグモ〔長黄金蜘蛛〕、 g ちきゅうせつ 図』を作成。七七年水戸藩主の侍講に召され、り皇后となる。その誕生日三月六日は地久節をミこミ節足動物門クモ形綱真正クモ 始め、高い評価を与えるようになり、のちにリ へんさん として四五年 ( 昭和二〇 ) 敗戦まで祭日であっ 目コガネグモ科に属するクモ。夏の終わりに成 ンドグレーンが数々の名作を発表する動機とな『大日本史』地理志編纂に加わる。彼は修正に あきひと まさひと った。続編に『ピッピ船にのる』と『ピッピ南努めて『改正日本輿地路程全図』を七九年大坂た。明仁 ( 一九三三年生まれ。皇太子 ) 、正仁熟し、水田の畔などに多くみられる。体長二〇 ひたちのみや ~ 二五ミリ、腹部はやや長く、細い黄と黒の多数 〈山内清子〉で刊行、八五年 ( 天明五 ) には世界図『地球万 ( 一九三五年生まれ。常陸宮家を創立 ) の二男、 の島へ』がある。図児童文学 もりひろ の横縞がある。網は垂直円網で、中央にジグザ 国山海輿地全図説』や中国図『大清広輿図』も成子 ( 一九二五年生まれ。東久邇宮盛厚と結 回大塚勇三訳『リンドグレーン作品集 1 長く 寺一ち - 一 婚。一九六一年死去 ) 、祐子 ( 一九二七年生まグの隠れ帯をつける。成長とともに隠れ帯の形 刊行した。実測図ではないが、関連文献を深く っ下のピッピ』 ( 一九六四・岩波書店 ) かずこ ながぐっをはいたねこ Le 検討した編著で、いずれも明治初年まで信頼され、翌年死去 ) 、和子 ( 一九二九年生まれ。鷹は変わる。つまり、初めは数本並列している 長靴をはいた猫 つかさとしみち つば あっこ 〈石山洋〉司平通と結婚 ) 、厚子 ( 一九三一年生まれ。池が、成熟すると長い一本になる。九月初めに壺 Chat botté散文で書かれたペロー童話の一れて版を重ね、広く流布した。 らんのう たかこ 編。親の遺産として小猫一匹しかもらえなかつ中ぐり盤なかぐりばん主として中ぐりバイ田隆政と結婚 ) 、貴子 ( 一九三九年生まれ。島形の卵嚢をつくる。ファープルは『昆虫記』 ひさなが トを用いて工作物の穴の内面を切削してくり広津久永と結婚 ) の五女をもうけた。書道、歌道で、このクモの産卵状況を詳しく書いている た粉ひきの三男坊は、わが身の不運を嘆いた。 せいそん げる加工を行う工作機械。バイトには回転連動などのほか、「桃苑」の雅号をもち、前田青邨が、記事に誤りのあることがフランスや日本の しかし、この小猫は非常に賢く、「やぶの中に あし ナいせつ ながくで しん あな ( 一九 0 三ー たか 上下送り / 、ンドル 主軸頭 00 0 0 。 あぜ テーフ丿レ とうろく サドル べット 406
最後は連合軍の攻勢と中国人民の反抗の前に敗退せねばなら し、翌年四月には講和が結ばれた。日本は多額の賠償金のほ りようとう .. な、かった こうして翌一九一五年、日本は中国政府に対して二十一か か、台湾と遼東半島を獲得したが、遼東半島は三国干渉に よって返還させられた。敗戦によって清国はその弱体が明ら条の要求 ( 対華二十一か条要求 ) を提出する。主権を無視す〔戦後〕敗戦後の日本は連合軍の占領下に置かれたが、その 間の一九四九年一〇月、中国の内戦は共産党の勝利に終わ かにされ、これより列強は争って清国に利権を求める。海岸るほどの過大な要求に中国政府は抵抗したが、五月七日に至 つうちょう り、中華人民共和国が成立した。国民政府は大陸を追われて って最後通牒が発せられるに及び、ついに受諾のやむなき の要地は列強の租借地となり、清国の財政は列強の進出によ に至った。五月七日および受諾の五月九日は国恥記念日とし台湾に移った。 って崩壊の危機に立ち至った。↓日清戦争 日本が独立を回復したのは、サンフランシスコ講和条約が 日本国内では清国また中国人を軽侮する風習が生じた。中て長く記憶された。 日本の露骨な圧迫に中国の民衆は反撃した。一九一九年の発効した一九五二年 ( 昭和二七 ) 四月である。そのとき日本 国に対する尊敬の感情がこのころから一変したのである。す でに欧化の風潮が日本の上下にみなぎっていた。しかし、日五・四運動も、排日の気運が高揚した結果であった。世界の政府は、中国を代表する政権として、人民共和国でなく、台 ~ 二二年のワ湾政権を選び、これと平和条約を締結した。ここにおいて、 列強が日本をみる目も厳しくなった。一九二一 本が近代化を目ざして欧米の文化学術を取り入れるとき、こ シントン会議では、中国に関する九か国条約が結ばれ、日本台湾との間には平和が回復したが、中国大陸においては戦争 れを日本語に訳するにあたって活用したのが漢語であった。 和製の漢語が数多くつくりだされ、新しい日本語の内容が充の進出を阻止しようと試みられた。しかし大陸に生命線を求状態が続くという状況になった。その後、民間では経済面、 文化面などでの交流が行われるようになったが、歴代内閣は 実された。その一部は中国にも輸出され、中国語のなかに取めると称して、日本は陸車を中心に侵略の計画を進めてい た。東北の占領を目ざして起こされたのが一九三一年 ( 昭和中国を敵視する政策を改めず、二〇年を経過した。一九七二 り入れられている。 二〇世紀に入り、日本はロシアと戦ったが、その戦場は中六 ) の満州事変である。翌年、戦火は上海に飛ぶとともに、年アメリカ大統領が中国を訪問し、米中関係が正常化する 日本軍の手によって偽「満州国」が建てられた。日本は国際と、ようやく日本政府も動いた。日中の国交が回復されたの 国の東北、すなわち清国領内であった。この戦争ののち、日 は同年九月である。しかも平和条約調印までには双方の主張 本は遼東半島先端のロシア租借地を譲り受け、関東州として的に孤立したが、侵略の企図はとどまるところがなかった。 ねつか 経営するほか、南満州鉄道を通じて東北への進出をもくろむ偽「満州国」は熱河地方も領域に加え、日本軍は長城を越えが食い違ったため、さらに六年の時日を要した。一九七八年 ろこうきよう 八月に至って条約は調印され、こうして日中の長い不幸な時 て華北に進出した。そして一九三七年、蘆溝橋事件をきっ に至った。 〔大正・昭和前期〕中華民国は一九一二年に発足し、すなわかけに全面的な日中戦争が開始される。日中両国の歴史にと期に終止符が打たれたのであった。↓日中関係〈山口修〉 ち元年はわが大正元年にあたる。その三年、一九一四年に第って、もっとも不幸な時期がここに始まった。しかし、一〇回井上秀雄訳注『東アジア民族史・ーー正史東夷伝』全二巻 ( 平凡社・東洋文庫 ) ▽森克己・沼田次郎編『体系日本史 一次世界大戦が起こると、日本はドイツに宣戦し、その柤借万の日本軍が中国本土に出動し、殺人と略奪をほしいままに チンタオ 叢書 5 対外関係史』 ( 一九大・山川出版社 ) 地であった青島を攻略したのに続いて、山東半島一帯を制圧して、その国土を荒らし、民衆を苦しめたにもかかわらす、 に傀組織蒙疆連合委員会を組織した。華北で 救国十大綱領」を提起した。日本も同日、上海 につちゅうせんそう一九三七年などは「一カ月ぐらいでかたづく」といってい 日中戦争 ろ - 一うきよう 。八月三一日北支那方面軍が編成され、平型 ( 昭和一一 D 七月の蘆溝橋事件に始まり、四五たが、それは中国の抗戦力を完全に見誤るもの派遣軍を編成する一方、戦争宣言ともいうべき 野で敗北したものの、九月保定、一一月太原、 年八月日本の降伏で終わった、日本と中国とのであった。日本は七月一一日の「華北派兵声「蘆溝橋事件に関する政府声明」を発表、つい さいなん に全面戦争へと踏み切り、九月二日には「北支一二月済南と占領地を拡大、同月、北平に傀儡 全面戦争。日中一五年戦争という場合は、一九明」に基づき、朝鮮、満州から送り込んでいた 政権中華民国臨時政府をつくった。華中では、 三一年九月の満州事変を起点とする。中国では部隊に加え、同月末さらに日本から増派した一一一事変」の呼称を「支那事変」と改めた。 ペイビン てんしん 一般に抗日戦争とよぶが、第二次中日戦争とい 個師団をもって北平 ( 北京 ) 、天津一帯を一挙 他方、ソ連は八月二一日国民政府と「中ソ不中国側の激しい抵抗を受け、一一月上海を占領 に制圧した。即時抗戦を主張する中国共産党に可侵条約」を結び、武器・弾薬の援助に乗り出したときには、日本軍の戦死傷者は四万に達し う言い方もある。 しよう ていた。同月七日中支那方面軍が編成され、一 日中戦争は、第二次世界大戦の東アジアにお対し、なお和平に賭けていた国民党政府の蒋すが、米・英の日本に対する態度は、この時点 ナンキン ゅうわ 二月南京を占領した。このとき日本軍は大虐殺 ける導火線であり、一貫してこの大戦の重要部介石も、ついに二九日、「最後の関頭」 ( 和平がではきわめて宥和的なものであった。この間 分を占めた。またこの戦争を通じて、中国では 絶望的となり、抗戦の避けられない事態 ) に至国共間の合作態勢は急速に進み、八月、華北の事件を引き起こした。この事件で「二十万を下 ほらとみお はちろ らない中国軍民の犠牲者が生じた」 ( 洞富雄著 新民主主義革命の理論的、主体的基盤が形成さ ったことを表明した。八月九日、大山中尉事件紅軍は国民革命軍の八路軍に改編され、前線に シャン、イこうきよう 『決定版南京大虐殺』 ) 。この事件は国際世論の れた。 ( 海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が上渺の虹橋飛行出動した ( 華中の紅軍は一〇月新四軍に改編 ) 。 せんせい かんしゆくねいか 〔発端〕一九三七年七月七日の蘆溝橋事件が発場付近で中国の保安隊に射殺された事件 ) が起九月陜甘寧 ( 陝西・甘粛・寧夏 ) 辺区労農政厳しい批判を招き、中国の抗戦意識を一段と高 火点であるが、当初「北支事変」と称したよう こるや、日本は上海一帯にも続々と部隊を投府も陜甘寧辺区政府と改称、同月下旬中国共産めるものとなった。国民政府は一一月すでに首 ド ) ゅう・けい に、日本にとり局地的解決の機会は何度もあっ入、一三日ついに交戦状態に突入、上海事変党は第二次国共合作と抗日民族統一戦線の成立都を南京から重慶に移しており、南京占領に ゅ ↓を宣一一一口した。 よって中国を屈服させるという日本の当初の企 た。しかし、一撃で中国を降伏させる、あるい ( 第二次 ) を起こすに至った。↓蘆溝橋事件 ようちょう もうきようチャハルすいえん ち 「蒙疆」 ( 察哈爾・綏遠地方 ) に入った関東軍図は実現しなかった。しかし南京占領、臨時政 は、「膺懲」のために増派せよという拡大論が上海事変 ちょうか・一う 〔全面化〕八月一四日、国民政府は「自衛抗戦は、大きな抵抗も受けず、八月末張家ロ、九月府の成立をみた日本は、三八年一月、ドイツの 7 っ政府、軍部、マスコミをリードし、するすると はじめ ′オトウ に全面戦争へとのめり込んでいった。杉山元陸相声明書」を発表、翌一五日中国共産党も「抗日大同、一〇月綏遠、包頭を占領、一一月張家ロ駐華大使トラウトマンを仲介にして進めていた かいせき
ちゅうげん などを例外とし、主として遊撃戦術を駆使してした事件 ) であった。このときは、中国共産党慶・成都への空爆 ( 一〈岩 ) 、華北での中原会戦二七 ~ 二八 ) の日清戦争以来の中国に対する侵 せつかん ちょうさ ( 一九四一 ) 、華中での長沙作戦 ( 一九四一 ~ 四一 l) 、浙頼略と植民地支配の歴史に終止符が打たれたので 日本軍と戦いつつ、一歩一歩解放区を建設、拡が国民参政会への出席を一時拒否するなど国共 だつう 大していった。解放区は抗日民族統一戦線の模関係は著しく悪化したが、かってのような全面作戦 ( 一聶 l) 、そして大陸打通作戦 ( 一九噐 ) なある。 〔惨勝〕勝利した中国も、一〇〇〇万の生命を ど、日本はなお幾度かの大規模な作戦を試みた 範地域とすることが目ざされた。このように農内戦の状態に戻ることはなかった。↓皖南事件 ものの、ついに中国を屈服させることはできな奪われ、五〇〇億ド、もの物的損害を被った ( 沈 〔兵站基地〕日中戦争の泥沼からの脱出を、日 民を主体としたひとりひとりの民衆の立ち上が きんじゅ かった。それは、長期にわたった中国人民の抗鈞儒「関於戦争罪犯的検挙和懲罰」一九五一年 りが、中国の抗戦力の奥深い源泉であった。日本は「南進」に求めた。ヨーロッパにおけるド 本軍は、正規軍との戦いのほか、このような広ィッ軍の電撃的勝利は、このような方向に弾み戦を基礎に、ソ連・米・英の援助、さらに解放九月 ) 。約四万もの中国人が労働力不足を補う 範な人民と対決しなければならなかった。解放を与えた。一九四一年一二月八日、日本は太平区・国民党地区での日本人の反戦運動、朝鮮人ために強制的に日本に連行された。台湾では、 区は、四一年から翌年にかけて、殺し尽くす洋戦争に突入した。このときすでに日本は、中の抗日闘争などの国際的支援があったからであ日本語使用の強要、姓名の日本式化 ( 改姓名 ) ( 殺光 ) 、焼き尽くす ( 焼光 ) 、奪い尽くす ( 搶国との戦いで戦死者約一八万、戦傷病者約四一一一る。そして一九四五年八月、アメリカの二発のなど皇民化政策が進められ、何万という人々が 原爆投下、ソ連・モンゴル軍の参戦により、日「大東亜戦争」に日本兵として動員された。「満 光 ) の三光政策を伴った日本軍の激しい攻撃と万を出していた。 太平洋戦争の初戦における勝利は華々しかっ本はついに降伏した。降伏文書の調印は九月一一州国」でも、「五族協和・王道楽土」の掛け声 国民党軍の締め付けにより、一時大幅な縮小を たが、早くも一九四二年六月、ミッドウェー海日行われたが、中国では翌三日を「抗日戦争勝の下で、中国人に対する民族的抑圧と差別が行 余儀なくされた。しかし、解放区は四五年春に 利記念日」としている。支那派遣車は九月九日われた。関東軍「七三一」石井特殊部隊による は、全部で一九、面積約一〇〇万平方キ。、人口戦で主力空母四隻を失うという大敗北を喫し もうたく た。米・英との戦端を開くや日本は、中国戦線南京で、第一〇軍は一〇月二五日台北でそれそ生体実験などはその代表的な一例であった。 約一億を擁するまでに発展した。この間、毛沢 中国革命により、台湾に逃れた蒋介石政権と から兵力の一部を引き抜いて南方へ転出させなれ中国軍に投降した ( 関東軍は極東ソ連軍に投 東の「新民主主義論」 ( 四〇年一月 ) の発表な の間に、日本は一九五二年 ( 昭和二七 ) 四月 ければならなくなり、中国に対する軍事的勝利降 ) 。こうして中国の日本軍約二〇〇万はすべ どがあり、解放区では、新民主主義革命の勝利 て降伏した。中国 ( 満州・台湾を含む ) に展開「日華平和条約」を結んだが、日本と中華人民 の可能性はいよいよ遠のいていった。日本は、 へ向けての基盤が形成されていった。 共和国との間に正式に「戦争状態の終結」が宣 した日本車の戦死者は約五四万人に達した。 中国の豊富な資源を米・英との戦いに動員し、 〔国共関係〕比較的順調だった国共関係にも、 「満州国」と南京の「中華民国」は、日本降伏せられるのは、七二年九月二九日の「日中共同 武漢喪失 ( 一九三八年一〇月 ) 前後からさまざ中国を「大東亜戦争」の兵站基地化した。一 とともに崩壊した。植民地台湾、澎湖列島、租声明」においてであった。戦闘が終わって二七 まな矛盾、対立が表面化する。国民党に対する方、日米交渉の最後の焦点が、日本軍の中国か 日本の政治工作に加え、解放区拡大など中国共らの全面撤収にあった ( ハル・ノート ) よう借地関東州はすべて中国に返還された。中国に年もの後のことである。↓日中共同声明↓太 〈安井三吉〉 に、開戦前後から米・英は中国支持を明確化渡った約二〇〇万の一般日本人も、そのほとん平洋戦争↓満州事変 産党の勢力拡大に国民党が危惧を抱き始めたた めである。一九三九年以降国民党は、中国共産し、ビルマ・ルートなどの援蒋ルートを通じてどが帰国することになった ( ソ連の対日参戦回日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編 『太平洋戦争への道 3 ・ 4 』 ( 一九六一一、六三・朝日 後、満州において、戦闘、襲撃、病気、飢餓、 党の活動に対する制限を強め、武力弾圧すら国民政府に対する軍事援助を本格化させた。↓ かん 新聞社 ) ▽臼井勝美著『日中戦争』 ( 一九六七・ 自決などにより亡くなった日本人は約一八万人 惹起した。その最大の事件は四一年一月の皖南進政策 ぎしよう あんき 中公新書 ) ▽歴史学研究会編『太平洋戦争 事件 ( 安徽省南部で国民党軍が新四軍を襲撃〔降伏〕揚子江中流の要衝宜昌への攻撃、重である ) 。こうして、一八九四 ~ 九五年 ( 明治 史』全六巻 ( 一九七一 ~ 七三・青木書店 ) ▽秦郁 0 -0- 0 -0- -0 LO 在 11 0 彦著『日中戦争史』 ( 一九七一一・河出書房新社 ) 現 っ 0 、ー 4 00 -0 -8 4 ・ CO 《 0 ▽伊藤隆著『十五年戦争』 (r 日本の歴史』 月 0 為 - 11 -9 ~ -4 ・ る 一三ロ ト 6 一九七六・小学館 ) ▽藤原彰著『太平洋戦争史 数 年 -0 0 論』 ( 一九全・青木書店 ) ▽江口圭一著『十五 概 0 0 年 / 11 、 1 4 ・戸 0 4 ・ 者 小学 年戦争の開幕』 (r 昭和の歴史 4 』一九全・ -8 ワ 3 -0- 囲 台 館 ) ▽藤原彰著『日中全面戦争』 ( 『昭和の 死 歴史 5 』一九全・小学館 ) ▽木坂順一郎著 び の 0 0 原 ロ 0 0 よ 限 家 小学 『太平洋戦争」 ( 『昭和の歴史 7 』一九ハ = ・ -0 ^ 0 お 415 6 大張 館 ) 員 最 デ 丘 ( 0 0 0 0 人 局 人 機 川間解 11 「ー ・ 0- -0 ・北ロ 図 0 0 華 11 戸 0 害 本 で 尸 0 戸 0 - -0 《 0 O 内 中 4 争 11 -0- 「 / 日 被 ん 1 人 ( 0 っ 0 っ 0 0 0 乃 包 関 「ー 11 〕貝 0 -0 る る の 及 本 よ 軍軍 か区区区 日 日 お カ放放放 陸海計 7 月 る 関 透 員 月 8 月 争 響解解解 後後後 失務者に 年 8 国 敵敵敵 損公失 年恥年 の 争中 中南 5 *—悦 のと喪 戦時 区報華華 田将死傷方気将死傷機人傷屋 国軍戦負行病軍戦負行間死家 没数 中伏化弭 空 飛民 日降現 死者 じゃっき 晋察冀辺区 北京 天津・ 片綏辺区 は寧辺区 門冀魯辺医 南 済 山東区 州 准南区・ ・西安 蘇中 ・南京 『・中区 鄂了曇 : 区 武 浙東ズ 長 寧 南・ 州東江区 へいたん 0 1944 年末の日本軍の最大限 占領地域・作戦行動地域 省界 出典 : 中国現代史資科叢刊 「抗日戦争時期解放区概況』 ( 500km につしん しん 791
としがす 下、活性の大きな触媒を用いて反応させると、 メタン五〇 % 、水素と二酸化炭素が二五 % すっ の高カロリーガスが得られる。 ⑤水素化分解法水蒸気と反応させるのでな 、水素と反応させてメタンを製造するプロセ スである。水素化分解反応は発熱反応であるの 」 0 門宀 で、この場合には除熱を考えねばならない。七 五〇度 0 、二〇 ~ 三〇気圧の条件で連転される。 〔都市ガスの貯蔵〕一般の都市ガスは、負荷変 ◎←◎ ( ◎ご ( ◎◎ 動に対応できるようかなりの容量のガスタンク ( ガスホルダー ) に貯蔵される。低圧ホルダーと カスのシール 高圧ホルダーがある。前者には、・ に水を用いた有水式ホルダーと、特殊鉱物油、 0 ナ家 合成ゴム膜などをシール材とした無水式ホルダ 要 ーとがある。高圧ホルダーは球形または円筒形 ( の耐圧容器で、最高一一〇気圧の圧力で貯蔵され 中 る。低圧ホルダーに比べて、小型で漏洩がな 本 鉄 0 く、建設費が安いなどの利点が多く、近年増加 する傾向にある。は、液化して可搬式耐 中 圧容器 ( ポンべ ) または貯槽に貯蔵する。多量 の場合はガスを低温に冷却して液化し、常圧で ス ◎◎ 貯蔵する。 *-2Z()5 の場合も、 2ZC タンカーか ス 0 ら受け入れたものを、低温に保「て大気圧近傍 で保存する。↓ガスタンク 〔都市ガスの供給〕都市ガスは、消費者がつね ダ需 接発 離 に一定の圧力で使用できるように供給されなけ ホ距 ク 近ればならない。その圧力は、ガスの種類、燃焼 ク ロ王 器具の性能によって異なるが、一般には水柱一 〇〇ミリメートル程度、プロ。ハン系では水柱三〇 ロロロこ 〇ミリメートル程度に保たれている。ガスホルダ カ ン カ カン ーから消費者までは、鋳鉄、鋼などのガス導管 ス ン タ ス ータ ガ 方 タ によって輸送されるが、供給圧力の大小によっ ガ ・田 圧 て、低圧供給、中圧供給、高圧供給に分けられ 亠—l 原 低 る。低圧供給は低圧ホルダーの圧力を利用する 度の発熱量となる。 程度のもので、ゲージ圧〇・一気圧以下で輸送 を用いる方法も、タールの処理、ガス精製の必リーで各家庭に供給できるよう転換を進めてい される。中圧は〇・五気圧以上、高圧は三気圧 ②熱供給法原料ナフサの一部を空気で燃焼さ 要なことから大きな進展はみせず、むしろ、よる。↓液化石油ガス↓液化天然ガス↓ナフサ 以上の圧力が用いられる。低圧ホルダーに貯蔵 りクリーンで取り扱いやすいナフサを原料とす〔都市ガスの製造法〕前述のように、現在の都せるものである。ナフサの性状やプロセスの相 していたガスを高圧供給する場合は圧送機で加 る種々のナフサガス、あるいはガス発生装置を市ガス製造においてはナフサを原料とする方法違によって発熱量は大きく異なる。 ③連続式水蒸気変成法反応器を外部から加熱圧しなければならず、それだけ余分の動力を必 必要としないや石油精製工業の副生ガスが中心となっているので、それについてやや詳 ( オフガスという ) が石油系ガスの中心を占めしく述べる。ガス製造の反応熱をいかに供給すする方法である。通常二〇 ~ 三〇気圧、六〇〇要とする。しかし、供給区域が広い場合、ある ~ 七〇〇度 O 、担持ニッケル触媒を用いて、一 いは遠距離輸送する場合には、多量のガスを能 るようになった。さらに、一九六九年にアラスるかによって五種に大別できよう。 ①サイクリック方式ガス化反応と燃焼反応を立方当り三〇〇〇 ~ 四五〇〇キロカロリーのガ率よく送れる点で有利であるため、最近では一 カから、七二年にプルネイから大量の液化天然 スを得ている。 〇気圧程度の高圧も採用されつつある。いずれ ガス (=zc5) が輸入されるようになり、これ交互に行う方式で、触媒を用いない熱分解式の にしても、消費者が利用する際は低圧でなけれ ものと、ニッケル系触媒を用いて、七〇〇 ~ 九 ④オートサーミック方式反応温度を四五〇度 により都市ガスの原料構成は大きく変化するこ ばならず、中圧、高圧で供給されてきたもの とになった。当初は、中力ロリーのガスに変成〇〇度 O 付近で操業する接触分解式のものがあ 0 まで下げ、メタンの生成反応を促進すること により、この反応の発熱と水蒸気との反応の吸は、整圧器によって減圧され、設定圧力に保持 して供給したが、東京ガス、大阪瓦斯などではる。水素が主成分で、一酸化炭素、メタンも比 一立方当り一万一〇〇〇キ。カロリーの高カロ較的多く、一立方当り四五〇〇キ。カロリー程熱をバランスさせようというものである。加圧されるようになっている。 石油精製工場 L P G 購入ガス 天然ガス 精製装置 発生装置 ゼ ン 精製装置 石炭運搬船 → 熱量調節器 硫安 硫酸 コールタールナフタレンペンゼン 機 発生炉ガス CO 変成炉 基メートル ホルダー ステー - ション ガスホルダー ガ / ヾナー ガノヾナー 高圧輸送本管 中圧輸送本管 ガバナー 高圧ガスフラント 支管 遠距離需要家 支 圧低 ろうえい