にいっそうの政治的・経済的中心機能を要求することになの特権を付与されて領国経済を支配し、大名やその家臣団の にせよ府中は一国の軍事行政の中心となっていた。府中と守 護所とが一致する所では、政庁地区を中心とした官衙、在庁る。それゆえ彼らは既往の都市や族生する中継都市の掌握を支配と生活を維持・再生産する役割を果たした。こうして城 目ざして近隣の領主と競合し、あるいは本拠移動を試みつつ下町は、各領国内で卓越した政治・経済・文化の中心として 官人居館群、国衙関係寺社群、国衙工房群、周縁部の津・ 位置づけられた。そして各城下町の中心機能を統括する都市 宿・市などからなる複合都市としての発展をみせていたが、新たな城郭都市を形成する。 この城郭都市は、城郭とその周囲の家臣団屋敷・寺社群、として建設されたのが将軍の居住する城下町江戸であった。 新たに守護所を設けて府中とした場合は、守護館や付属官 江戸は、城下町的に改造された京都、寺内町石山の圧服の 周辺地域の枢要な津・宿・市・関や門前町など一 ~ 数個の町 舎、一部の家臣屋敷を中心として、周辺の要地に成立してい た津・宿・市などを掌握するにとどまった。府中に準ずる都場から構成されているが、これが初期城下町 ( 戦国城下町 ) うえに建設された城下町大坂とともに新たな三都となり、そ みやちゅう いちのみや 市としては、一宮を中心に形成された宮中があり、また守とよばれるもので、領主権力の保護と統制を受けて室町 ~ 戦の規模のみならず、政治・経済・文化の中心機能においても 護に匹敵するような有力在地領主の拠点も、居館、若干の家国期に各地に形成される。初期城下町形成の前提には、中世一般城下町を圧倒する巨大都市に成長していった。三都のう ち江戸は、諸大名が参勤交代する首都日政治都市としての性 後期の経済発展に伴う中継都市の族生という条件があった。 臣屋敷のほかに津・宿・市などを伴う都市的な場となってい こうした中継都市は、地理的・自然的条件の優位性と民衆の格を第一義的に有し、また大坂は年貢米・特産物の換金機能 権門都市京都、鎌倉の成立とともに、古代の交通体系はこ営為に加え、領主権力との接触という政治的条件のもとで急などを担う経済都市としての側面を基本的属性としていた 一方、各領国内には港町、宿場町、市場町や門前町も多数 の二大都市を中心に再編され、たとえば鎌倉へ集中する新た速に発展し、各地における経済的中心集落となった。これに な交通網は鎌倉道とよばれた。こうした中世的交通体系は、寺社が結合すれば門前町に、また城郭が結合すれば初期城下存在したが、これらの諸都市は戦国期以来直線的に発展して 権門都市・荘園間の年貢・公事運搬ルートを基軸に、権門都町となった。戦国期の都市発展は、これらの中継都市がおのきたのではなく、幕藩制の成立に伴い近世都市として再編さ おのの固有の機能をもとに拡大するか、または城下町化してれたか、あるいは新たに形成されたものであった。またかっ 市と府中、府中と府中とを結び付け、その間の要地に津・ 宿・市などの中継都市を成立させた。こうした中継都市は、権力支配の基地として機能するか、の二つの方向で展開すての支城下町が、支城の廃城によって港町、宿場町、市場町 などの本来の都市機能を再生したものも少なくない。幕藩領 そのまま独自の発展を遂げる場合と、在地領主の居館や地方る。前者の方向で発展すれば、商工業者を中心とした共同組 まちかた 一かい やかたまち 寺社と結び付いて館町や門前町となる場合とがあった。こ織を成長させ、堺・博多に代表される自治都市への道を歩む主は港町や一部の宿場町・門前町を町方として認定したが、 それ以外は法的には村方と位置づけられて、その交易活動を ことになる。 れらは権門都市や府中に比較すればなお微弱な存在であった じないまち おのみち とさみなと が、尾道、兵庫、博多、十三湊など府中を凌駕するものもし戦国期にはもう一つ特徴的な宗教都市、寺内町が形成され抑止された。この村方にありながら町として活動している農 しんしゅう やましな る。寺内町には山科・石山のように真宗ォルグが上から設商工未分離の町場が在町であり、農民の日常的必要物資 ( 非 だいに現れた。 とんだばやしとんだ 〔中世後期の都市ーー権力と自治の相克〕室町幕府の成立に定する場合と、富田林・富田のように在地土豪らが主体とな需給物 ) の供給地として機能した。これに対し、町方とされ てん よって、京都は武家による全国支配の拠点として各地の武士って形成する場合とがあり、前者は既成の中継都市の吸収、た港町・宿場町などは、遠隔地交易や交通路維持のために伝 まやく 馬役を課されるなど、城下町の経済機能を補完し、領国統治 を集住させ、武家の町という性格を強くした。このころから再編によって成立するもので、一種の城下町的性格を有し、 りようがわ 京都の都市的発展がいっそう進み、道路を媒介とする両側その計画的都市プランは近世城下町の前提となった。これにを支える役割を担わせられた。近世初期に新たに形成された ちょう 町が形成され、武家・公家勢力の後退する室町末・戦国期対して後者は、真宗寺院を核にするとはいえ、一般民衆の交中継都市には、こうした領国経済統制の目的のもとに上から ざいまち ちょう ちょう には町共同体を基礎とする市政機構も成立、いわゆる「町易の中心ともなりうるもので、近世の在町的な性格をもって設定されたものが多い しゅう 近世なかば以降、農村経済の発展に伴って在町の本格的な 衆」の自治都市へ発展する。奈良でも、商工業の発展に支 あづちさんげまち えられ、郷民たちが興福寺と抗しつつしだいに自治都市化を〔近世都市ーー城下町と在町〕織田信長による安土山下町建繁栄が始まる。在町は周辺農村からの人口流入によって町域 遂げていった。これに対して鎌倉は、鎌倉幕府の滅亡、室町設は、近世城下町形成の画期となり、以来豊臣期から幕藩制を拡大させていくが、その住民のなかには、地主として農地 幕府の成立によってその地位を相対的に低下させるが、鎌倉の成立期にかけて、各地に次々と新たな城下町が建設されを所持しながら、特産物生産・流通や質屋・酒屋などの営業 あしかがしげうじ 府の設置とともに関東支配の拠点として再生し、足利成氏のた。近世城下町は、寺内町の都市建設プランを摂取しつつ、を行う商人地主が現れ、周辺農村の零細農民を吸収し、田畑 古河退去に至るまで、京都に次ぐ政治都市であった。戦国期戦国期に進展した城下整備・振興政策を総括し、一挙に創設耕作・日雇い稼ぎなどに従事させるようになる。こうして在 おだわら 7 ほうじよう された新町であり、下からの都市形成の動きや都市自治の発町は、周辺農村との結合を強化しつつ、当初のように単なる の鎌倉は、後北条氏の直轄下に置かれて小由原の拠点機能 を補いつつ、関東屈指の経済・文化の中心となっていたが、展に対する領主権力側の対応であった。初期城下町が城と町農民の日常的必要物資を補給するだけではなく、特産物の生 京都・奈良のような商工業者を中心とした自治組織は、権力との非一体性を特色とするのに対し、近世城下町は両者を一産・流通の結接点ともなり、商人地主のなかには城下町への 一 ) くだか 体化したばかりでなく、石高制、兵農分離の実施によって、進出を試みる者も現れた。これに対して城下町の特権商人た 支配の下にあったために、顕著な発展を遂げなかった。 さむら - いまち こうした三都の変質過程は、同時に既往の地方中小都市の年貢米と在地武士・商工業者を城下へ集住させ、侍町、町ちは、在方商業を否定または制限しつつ、在町の経済機能を し発展と新たな中継都市の族生の過程でもあった。南北朝 ~ 室人町 ( 商人町、職人町 ) 、寺社町など、身分・職種による居城下町に吸収しようとするが成功せす、結局は領国経済全体 の掌握を断念し、城下町限りの経済的発展に力を注ぐように と町期以降、守護や国人領主の領域支配の進展は、彼らの拠点住地の地域的分離を実現した。城下町の商人・職人は、種々 はかた 一 ) くじん いしやま とよとみ ぎいかた
し リントス、テーべなどがあげられる。ギリシア本土のポリスとの関連で重要なのは、この時期にライン、ドナウ両川の防下級の貴族が農村の所領を売却して得た資金を投じて商業に引 とは複数村落の土地所有者が一か所に集まって中心市を建設し衛線に沿って多数のローマ都市が成立したことである。その乗り出すことが早くから、また一般的にみられると同時に、 じようさい ( これを集住という ) 、市民団体を構成することによって成立多くは軍駐屯地や城砦に隣接して商工業者の集落ができて商人のなかで成功した者が商業利潤をもって土地を購入し、 した。集住の動機としては、フェニキア人都市国家からの影自治市になったものであるが、植民市も少なくなかった。二婚姻を通じて貴族化する傾向が早くから強かった。そのた 響や、外敵防衛という軍事的必要が推定されている。中心市世紀の五賢帝の時代は属州都市の全盛期で、デクリオネスとめ、都市君主に対抗して自治権を獲得する運動の指導者とな は原則として城壁を巡らし ( スパルタには城壁がない ) 、丘よばれる都市参事会員を中心とする自治制度が確立したが、 ったのは、貴族化した商人と、商人化した貴族、それに司教 状の高所に防衛の最後の拠点としてアクロポリスを築き、そ二世紀末以後ローマ帝国の財政危機の進行と、それに対応すに仕えていた法律家などの役人を加えた雑然とした階層であ れぞれ独自のギリシアの神をポリスの守護神として祀る神殿るための専制君主政への移行の過程で帝国の強力な干渉が始った。コムーネとよばれる自治都市成立の経過も、のちにド ふもと をそこにつくった。アクロポリスの麓には市民の広場であるまり、この自治制度も揺らいでいった。 ィッの都市参事会の形式上のモデルとなったコンソレ制がま アゴラが設けられ、市場を兼ねた。市民はアゴラで開かれる〔中世ーー商人・手工業者の生産者都市〕西洋中世都市が世ず成立し、ついでライバル都市との競争に勝っ必要から、都 総会に出席して直接民主政に参与し、公共建築物を利用して界史のうえでもっているもっとも本質的な、他に類例をみな市内部の平和を達成する目的で誓約団体が結成されるという スポーツや芸術に才能を発揮することを生活の理想とした。 い特色は、それが商工業に従事する生産者的市民全員の参加 順序であった。自治権は漸次買い取っていく場合が多かっ 市民の範囲は、初めは大土地所有者に限られていたが、戦術する誓約団体を基礎として形成された自治団体であったこ た。またイタリア中世都市は都市国家であり、コムーネの成 重心の移動につれて拡大され、中小の土地所有者も含むよう と、そしてその市民が一つの特権身分として、都市外の住民立は同時にコンタードとよばれる周辺農村 ( 神奈川県ぐらい になった。このことは、ポリス市民の本質が土地所有者にし とは、経済、社会の面だけではなく、法律のうえでも異質のの広さがある ) に対する支配の成立を意味していた。都市法 て戦士であることにあった事実を示している。彼らは個別存在であったことである。もっとも、こうした西洋中世都市はこのコンタードにも適用されたので、イタリアの場合には に、あるいは ( ス。ハルタのように ) 市民団体として集団的の特色が鮮明に認められるのはアルプス以北、とりわけ西北 都市に固有の都市法というものが存在しなかった。成立した 所有する奴隷に、中心市とともにポリスを構成する周辺 ヨーロッパの諸都市であって、アルプスから南の都市、主とコムーネにはコンタードから多数の領主層が移住してきて都 べっし 農村部の耕地を耕作させ、商工業はこれを蔑視して在留外人してイタリアの諸都市には古典古代の都市国家の伝統が残存市の政治を複雑にし、激しい党派争いが繰り返されたため、 にゆだねた。こうした市民によって構成される都市は経済的している。南欧型中世都市は、古典古代都市と北欧型中世都外部からボデスタとよばれるお雇い統治者をよんで、都市の には消費者都市であったと規定することができるであろう。市のいわば中間型にあたるとみてよいであろう。 政治をこれに任せることが多かった。 農村部を含めた面積は、最大のアテナイで佐賀県くらい、人〔イタリアの中世都市〕ゲルマン人の侵入とイスラム勢力の 〔アルプス以北の中世都市〕アルプス以北で中世都市がもっ ロは前五世紀前半のアテナイがおよそ一二万ないし一五万と地中海への進出以後も、イタリアの都市には商業中心地とい とも早期に、またもっとも力強く成立したのはライン川とセ 推定され、市民一一万五〇〇〇ないし三万、その家族をあわせう経済機能が残っていた。九 ~ 一一世紀に東地中海商業で主 ーヌ川の間の地域であった。この地域でも、ローマ都市は司 て八万ないし九万、在留外人とその家族九〇〇〇ないし一万役を演ずるベネチアとアマルフィはいずれも六世紀ごろの成教座の存在を通じて、ゲルマン人の移動からノルマン人の侵 二〇〇〇、奴隷三万ないし四万という構成であった。 立で、ローマ都市の系譜に属するものではないが、この両港入までの混乱期にも集落としての連続性だけはなんとか維持 ギリシアでポリスが分立していたころ、イタリア半島でも に陸揚げされる商品の一部分がアルプス以北へ仲介されてい することができたのであるが、市域の縮小、人口の減少、商 ポリスに類似した都市国家キーウイタースが多数存在してい このよ , っ く道筋には、パビアを筆頭に多数のローマ都市がロンバルデ工業の沈滞、自治制度の喪失は否定すべくもない。 たと推定される。分立を続けたポリスとの相違は、それらの ィア平原に点在していたのである。またカトリック教会の司にローマ都市は過渡期には司教座の所在地であることに主要 都市国家のなかで中部イタリアのラテイウムに成立したロー 教は、教会訓令によって都市への居住を義務づけられていた な存在理由をみいだしていたのであるが、ノルマン人の侵入 マが共和政の時代に他の都市国家を次々に征服し、イタリアので、アル。フスの南北を問わず司教座の存在は都市的定住様の際にその石造の城壁の軍事的価値が再認識されてからは、 半島をほば統一したことである。ただしこの統一は、大領土式の連続に貢献したのであるが、イタリアでは司教座の数が城砦としての機能がこれに加わった。他方、動乱の時期にロ 国家の形成によって実現されたのではなく、征服した諸都市多く、また貢献の度合いも強かったようである。むろんイタ ーマ都市とは無関係に城砦が多数建設されて、新旧二種の城 とそれぞれ内容の異なる条約を個別に結んで、これを同盟市 リアの都市が中世都市へ脱皮していくためには、一〇世紀に砦が併存することになる。やがてノルマン、マジャール、サ にするという方式で達成されたものであった。ローマは同盟司教都市君主制が確立し、一一世紀以降商業の復活期に商人ラセンといった外民族の侵入が終わって平和が訪れるころか キ、んば 市に内政に関しては自治を認め、またローマ市民権を付与し層が成長して本格的な自治権を要求することが必要であった ら、三圃農法の普及による農業生産力の増大、それに伴う人 た植民市を多数建設して、同盟市の反乱に備えた。第一次ポが、その過程にも、アルプス以北にはみられないイタリアのロの増加、増加した労働力による開墾の進展といった一連の エ一一戦争 ( 前一一六四 ~ 前 = 四一 ) 後は新領土を属州制によって支配特殊性がみられる。 現象が生じ、それを背景に、フランドルの羊毛工業などを基 することになるが、その属州にもカエサル、アウグストウス イタリアではローマ都市に隣接する形で商人の新集落が形礎として西北ヨーロッパも商業の復活期に入り、遍歴商人の 以降、既存の都市の昇格 ( 自治市 ) 、あるいは新都市の建設成されることがなく、この新集落の商人全員を結集する単一活躍が目だってくる。遍歴商人はやがて定住の場所を決めて ( 植民市 ) によって多数の都市が成立した。とくに中世都市のギルドが発生したこともなかった。そのうえ、上級および遠隔地商人となったが、その場合、西北ヨーロッパでは新旧 まっ
える超大都市が現れた。ニューヨーク市、メキシコ市、東 別項に譲る。↓都市計画 シャンハイ 都市は「みやこ」と「いち」を意味し、政治の中枢、商業京、上海がそれであり、五〇〇万人以上の巨大都市として ・ヘキン 〔都市の本質と性格〕都市の本質 / 都市の領域 / 都市のの中心地を示した。古代では主として政治・宗教・軍事の拠は、シカゴ、ロサンゼルス、大阪、ソウル、北京、カルカッ 点として築かれ、古代ギリシアのポリス PO デは農民の集夕、モスクワ、バリ、ロンドン、リオ・デ・ジャネイロなど 分類 / 都市の形態 / 都市の諸地域とその構造 〔都市の歴史〕西洋 ( 古代オリエント / 古典古代ーー地住 ( シノイキスモス ) によって成立し、海外に植民都市を発が成長している ( 人口は大都市圏Ⅱ市の外側を含むメトロポ リタン・エリアあるいはコナ・ヘーションによる ) 。 主・戦士の消費者都市 / 中世ーー・商人・手工業者の展させた。中世以後には商業が都市形成の主役となり、北イ 〔都市の本質〕都市は人口が密集することによって成立する タリアの諸都市、ハンザ同盟の諸市は商人が自治権をもって 生産者都市 / 近世 / 近代 ) が、その基礎となるのは、社会経済的活動である。広い耕 繁栄を遂げた。中世の都市は封侯の居城、宗教上の中心地と 中国 ( 都市の国 / 邑ーー都市の発生 / 邑から県へ しても築かれ、城壁、堀によって囲まれていた。これらの前地・林野のうえに生活をたてる農村の人々は第一次産業に従 商業革命と都市の変革 / 中国の都市形態の特徴 ) 日本 ( 古代都市ーー都城と国府 / 中世前期の都市近代都市 ( プリインダストリアル・シティ ) に対して、一九事しているが、都市の経済活動は主として商工業・公務・サ ービス業などの第二次、第三次産業に従事している。これら 三都と府中 / 中世後期の都市ーー権力と自治の世紀以降は工業化の時代を迎え、市街は郊外 ( 城外 ) に大き 相克 / 近世都市ーー城下町と在町 / 近代都市の成立 ) く発展し、産業都市 ( インダストリアル・シティ ) が成長をの人々は比較的狭い区域に集まって都市をつくっている。し して、二〇世紀後半は脱工業、情報化を進かし、南イタリアには、人口一 ~ 二万が密集して住む都市と みた。これに続、 都市の本質と性格 め、巨大都市が成長し、大都市圏が形成され、後産業都市見間違える農業集落があり、オランダのポルダーには、農業 労働者の住む近代的な集落がつくられているなど、都市と村 人間居住の一様式。村落 village と対照される高密度の ( ポストインダストリアル・シティ ) の時代に入っている。 一九八〇年には世界の人口総計は約四〇億人、そのうち人落の境を分けることはかなりむすかしい。都市としての本質 街区をなし、周囲の地方に対する中心地である。市町村と並 は、人口、経済産業、都市景観、計画および都市の法令など ぶ地方行政組織の市をさす場合もあって、実質的な都市と行口二万人以上の市町に住む人々の割合は約三五 % を超え、一 九六〇年の二五 % に比べて、割合においても総数においてもの諸要素からみることが必要である。なかでも結節性 ( ノダ 政上の市とは、その範囲や性格がかならずしも一致しない。 リティ ) とよぶ周囲の地方に対する中心的機能が基本であ 著しく増加した。都市化の傾向は先進国において著しいのみ 英語では town あるいは city とよぶ。都市は各国におい て定義がまちまちであり、それは都市発生の理由、法的な規でなく、発展途上国においても、貧困な農村より押し出される。 わが国の市となるべき普通地方公共団体の要件としては、 定、社会的・地理的な差異があって、国連の人口統計解説をて都市に集まり、スラムをつくる場合が多い。第一次世界大 しみても厳密な比較は困難である。本項では都市の本質と性戦までは、人口一〇万人の集合によって大都市 ( グロス・シ人口五万人以上 ( 以前は人口三万人以上 ) をもち、中心市街 ュタット ) が成立したが、第二次大戦後は一〇〇〇万人を超地を形成すること、商工業などの都市的業務に従事する者お四 と格、都市の歴史についておもに説明し、都市計画については 都市 ^ 青木栄一〉 ートル、全線単線。高知県を南西ー北東方向にれる。 さぬき 縦断し、吉野川上流部と讃岐山地を抜けて讃岐都山流とざんりゅう尺八の流派名。初世中 ー一九五六 ) が一八九六年 ( 明治二 平野に結ぶ四国の幹線鉄道の一つ。一八八九年尾都山 ( 一六 ことひら 九 ) 二月に大阪で創始した。当時の関西は、宗 ~ 走 ( 明治二一 l) 讃岐鉄道によって多度津ー琴平間 力いきよく が開業、山陽鉄道への買収を経て、一九〇六年悦流の支流分派が外曲 ( 三曲合奏 ) 尺八の中 可け 心勢力であったが、組織力に弱く、統一した流 ( 明治三九 ) 国有化。国有鉄道線路名称の制定 よさん - 、一刈琲とともに讃岐線 ( のち予讃本線となる ) の一部としてのまとまりを欠いていた。我流から出発 レ 8 となった。一方、高知側では高知線の名称で建した都山流は、独自の外曲と、普化宗から離れ ほんきよく た音楽本位の自流本曲を打ち出す一方、近代 設が進み、一九二四 ~ 三四年 ( 大正一三 ~ 昭和 とよなが すさき . 物九 ) に須崎ー高知ー豊永間を開業したが、三五的な流組織を整えて西日本を制し、やがて全国 年、三ー豊永間の開業によ 0 て徳島本線と連的な大流派に成長。記譜法、作曲法、演奏法、 ラ 絡し、予讃本線多度津ー阿波池田間 ( 一九 = 三全教授法に洋楽のアイデアを巧みに取り入れ、邦 通 ) 、徳島本線阿波池田ー三縄間 ( 一九三一開業 ) 楽界に新風を巻き起こした。レバートリーは、 をあわせて土讃線となった。その後、路線を高初世都山編曲の外曲、流祖および門人作曲の本 ィッ知県南西部の山地に延長し、一九五一年 ( 昭和曲と新曲の三種があり、とくに近代的な大合奏 一一六 ) までに窪川に達して、六三年土讃本線と曲に特色をもつ。現在、財団法人都山流尺八楽 よど なかむら 会、新都山流宗家、新都山流日本尺八連盟の三 なった。窪川では予土線と中村線に接続する。 〈月溪恒子〉 登サ 土讃線には、土讃本線のほかに中村線が含ま派に分裂。 あわ
とし を夐「アな第第に当第三 33 ⑤フランクフルト・アム・マインの市庁舎。市庁舎は中世ヨ 降バザーリ画バラツツオ・ペッキオ る聖堂がサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。 1554 年以 防御市壁や包囲軍の陣営が忠実に描かれている。中央に見え らのフィレンツェ包囲を描く。ミケランジェロの設計になる ④フィレンツェの遠望。 1529 年 , 神聖ローマ皇帝カール 4 世 都市 ①古代ローマ都市オスティアの遺跡。中央をデクマヌス大 通りが走り , 中心に劇場が見える ②中世の都市。城壁で囲まれた都市の内部は石造建築が建 ち並び , 街路は着飾った人々でにぎわい , 商売も盛んであ る。城門を出るとすぐ畑地 , 森が広がって , 果樹 , 穀物が 栽培されている。都市と郊外の密接なつながりに中世都市 の構造の特徴がうかがわれる。 14 世紀 A. ロレンツェッテ ィ画イタリアシエナ市庁舎 ③ 15 世紀初頭のケルン。 14 世紀から 15 世紀にかけて西ョー ロッパの都市では人口が増加し , 建物の密集化が進む。中 央付近に聖マルチン教会 , その右手にケルン大聖堂が見え る。 1 41 1 年『聖ウルスラの殉教』 ( 部分 ) ケルンワルラ フ・リヒャルツ美術館 贏を * * ーロッパ都市の自治の象徴であり , 市民の誇りであった 立博物館 りがうかがわれる。「姑蘇万年橋図」 1740 年兵庫神戸市 万年橋付近を描いたもので , 清代の商工都市としての繁栄ぷ 河が通してから米の輸送などで発展する。画面は城内の名所 ⑥中国の都市。揚子下流に位置する都市蘇州は , 隋代に運
が生み出された。『大勢三転考』は、「皇国の有状、大に変る時代概念として採用されている。 ん進出が決定的となったと説いている。この時代区分の根底に ⑦時代区分 ほは、摂関家存続についての歴史的意味の問いかけがあり、事三たび」と述べて、神武天皇より江戸時代に至るまでの日 くにのみやっこあがたぬし に「道理」の発現が時代区分の基準であった。このころ、王朝本の歴史を三区分している。①「上っ代」は、国造・県主〔原始社会〕数万年前の旧石器時代から始まる日本の社会 じようもん は、縄文文化を伴う新石器時代を経て、紀元前三世紀ごろ に代表される「骨の代」 ( かばねの世 ) であり、国務はかば 貴族をとらえていた「末世」「末法」思想が、慈円をも深く やよい には弥生文化へと発展した。石器時代の社会は貧富の差がほ ねと領土とを世襲する各氏族の長によって分担されていた。 とらえていたのである。 じんのうしよう きたばたけちかふさ 一四世紀の内乱の過程で叙述された北畠親房の『神皇正②「中っ代」は、大化改新を起点として始まる「職の代」とんどなく、共同労働と労働用具の共有を特徴としていた。 じゅじゅっ せきばつどぐう 統記』 は、日本の歴史を神代と人皇の代とに大きく二つに区 ( つかさの世 ) であり、天皇から官職を授けられた者によっ大形石棒や土偶などの遺物は呪術的世界の表象であり、 じんむ ようぜい 分し、さらに、人皇の代を、①神武天皇より陽成天皇までて国家が統治された時代である。「職の代」は、摂関時代を人々は食料を求めて移住生活を続けていたと推定される。水 よりとも 、一う」う しらかわ ( 上古 ) 、②光孝天皇より白河天皇まで ( 中古 ) 、③白河上皇最盛期として平氏政権に至る。③「下っ代」は、源頼朝の守田農業と金属器を伴う弥生文化は、中国・朝鮮の文化の影響 じとう の院政以降 ( 近代 ) 、とに三区分する。親房は、仏教のみな護・地頭の全国設置によって始まる「名の代」 ( みようの世 ) を受けて生産力を発展させ、集落が各地に形成されるように じゅきようしんとう なった。このころから私有財産と身分・階級が発生し始め、 らず儒教・神道を重視し、不徳の君が出現するとその皇統である。大名・小名が国政を担当した時代であり、戦国争乱 を平定した徳川幕府に至って全盛期を迎えた、という。「上一世紀の後半には一〇〇余国の小国が分立し、漢王朝に朝貢 が断絶し、傍系のうちから有徳の者が帝位につくと述べてい ぎしわじん あまてらすおおみかみ る。親房は、天照大神の神慮が日本の歴史を貫徹しているつ代」から「中っ代」の変化が「上の御心より」生じたものするに至った。『魏志』倭人伝によれば、三世紀には女王卑 やまたいこく こと、皇位継承が、継承者の徳・不徳によって左右され決定であるのに比して、「中っ代」から「下っ代」の変化は「下弥呼の邪馬台国が勢力を強化し、三〇余の小国を連合させた という。邪馬台国には厳しい身分秩序があり、中国王朝との されること、この二要因を時代区分の基準とした。摂関政治より」生起したものと論じ、この変化をもっとも重視してい きよもり 交渉が国家公権の維持に必要であった。 が天照大神の神慮にかなう政道であるとの見解は、慈円の場る。平清盛の時代を論じて、「これそ職の代の極みにして、 やまと 合と同一である。ただし、慈円が武士の登場を歴史的必然で名の代に移る時なりけり」と述べているように、その最盛期〔古代社会〕四世紀には畿内を中心とする大和朝廷の支配体 おおきみ 制が強化され、国家の統一が進んだ。世襲制を確立した大王 あるととらえたのに対し、親房は、武士の台頭を乱世の原因のなかに次代への変化の芽が生まれ始めているとの認識が、 ととらえ、あるべき政道の実現が断絶したためであると説千広の歴史観の特徴である。彼の時代区分は、政治形態およ ( 天皇 ) が君臨し、農具と武具の独占を通じて、族長が土地 かばね と人民を支配した。族長は朝廷から姓を与えられて貴族とな く。武士の登場に対する歴史的評価は正反対である。徳・不び社会制度の変化を基準とするもので、幕末の変動期に紀州 うじびと みやけたどころ り、氏人と隷属民を率いて朝廷に仕えた。屯倉・田荘とよば 徳のあり方が皇位継承と深くかかわるとの考え方は、戦乱に藩政に携わった千広の歴史観が、ここに集約されている。 ペみん ちこくあんみん 明治維新ののち、政府はフランス民権論の影響の強い在野れる大土地を所有した大王は、耕作民として部民を所有し 次ぐ戦乱が人々の生活を混乱させ、治国安民が人々の要求で しようへい た。七世紀の政治改革によって皇室を中心とする支配階級の の啓蒙史学に対抗するため、ランケ学派のリースを招聘し、 あり理想であった内乱期の思想として重要である。 りつりよう たいぎめいぶん 近世に入ると、大義名分論・勧善懲悪の儒教史観を特徴と帝国大学文科大学に史学科を創設した。このため、ドイツ流結集が図られ、支配階級は唐の制度を模倣した律令制度を めひせん りんけ 支配の基本体制とした。人民は、公民 ( 良 ) と奴婢 ( 賤 ) と する林家の歴史学に対抗して、一八世紀の前半、合理性と実の実証主義史学が歴史学界の基調となった。 はんでんしゅうじゅ はんかんぶ あらいはくせき に分けられた。班田収授法によって一定の土地を与えられ しかし、日本史学の研究は、天皇・貴族・将軍などの支配 証性とを重視する史家新井白石が現れた。『藩翰譜』『古史 そようちょう つう 通』などに白石の実証性と合理性とをみることができる。者層を中心としたものが盛んであり、時代区分も、支配者のた公民は、租・庸・調のはかに、兵役・雑役 ( 強制労働 ) を 「本朝天下ノ大勢九変シテ、武家ノ代トナリ、武家ノ代、又交替を基準として、王朝時代 ( 公家時代 ) と武家時代とに分負担した。それは特殊な奴隷制社会であった。八世紀末から とくしよろん 五変シテ当代ニ及プ」と説く『読史余論』は、貴族政治の衰ける二区分法や、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時九世紀にかけて、律令国家の基盤であった班田制が崩れ、貴 しようえん 退と武家政権の発展とを、独自の時代区分によって活写して代、江戸時代など、政権の所在地による区分がもつばら行わ族・寺社の私的土地所有 ( 荘園 ) が発達した。一〇世紀以 たと 降、荘園・公領の耕作を請け負った農民上層 ( 田堵、のちに いる。鎌倉時代から南北朝時代に、天皇・貴族の政権が武家れていた。 みようしゅ 二〇世紀に入ると、ヨーロッパ史学の影響を受けた福田徳有力名主へ発展 ) がしだいに土地の耕作権をもつようにな の政権へと変化する様相を鮮明に描き出した白石の歴史認識 かつろう 三、内田銀蔵、原勝郎などによって、政治史、法制史、経済り、自立した経営を営み始めた。そして耕地と経営を守るた は、史実の合理的解釈と、時代区分にあたっての易姓革命論 ぐんじぎいちょうかんじん 史の分野が開拓され、古代、中世、近代という三分法が採用めに武装化した有力名主や、郡司・在庁官人などのなかか とを特徴とする。 だざいしゅんだい おぎゅうそらい けいせいさいみん 荻生徂徠から経世済民の学を継承した太宰春台は、日本されるようになった。一九二〇年代から三〇年代にかけてのら武士が発生する。彼らは、近隣の武士、さらには中央貴 しゅ′一 史の流れを、①郡県制から国司・守護併置の時代、②守護支社会経済史学と唯物史観にたっ科学的な歴史学の結合と発展族・寺社勢力との対立抗争を通じて勢力を伸張させ、古代社 配の展開する時代 ( 自然の封建制 ) 、③戦国乱世から徳川幕は、経済・政治・文化が構造的に関連しあう社会構成の特質会を克服し、歴史の前面に登場した。↓古代社会 府の時代 ( 真の封建制 ) と三区分する。春台は、郡県制から封をもって時代区分の基準とすべきであるとし、原始社会、古〔中世社会〕中世社会を前期封建社会と後期封建社会に分け 代社会、中世社会、近代社会という四区分法を提唱した。こる。 建制へという制度の変化を基準にして時代を区分している。 一九世紀に入ると、幕府の衰退、社会不安、対外関係の緊の四区分法は、第二次世界大戦後の歴史学界でもっとも有力〔前期封建社会〕古代末期の内乱の結果、一一一世紀末に武士 だてちひろたいせいさんてんこう 張などを反映して、伊達千広『大勢三転考』などの歴史思想な学説として定着し、歴史教育の分野においても、日本史の階級による初めての政権 ( 鎌倉幕府 ) が成立した。中央貴 とうき えきせい ぞう ぎんそう きない ひ 838
スタンダードメトロポリタンスタ アメリカ合衆国においては、 O ・・ハリ スをはじめ、地 アメリカ合衆国では、次の規定による「標準大都市圏ア都市、アメリカ都市などに分類される。これらは発達の核 ティスティカルエリア 心となった市街の立地、街区の形態、時代を記録する建築物理学者が都市の機能分類を発表した。・・ネルソンの分 糸言地域」 (T) < ) を設けて表示している。①中心と などによって識別される。パリは、ノートル・ダム寺院のある類は、都市化地域の統計を用い、九種のサービス ( 小売り、 なるべき都市は人口五万人以上であること。⑦郡別統計によ る労働力人口の七五 % 以上が非農業であること。規定の③はセーヌ川の中の島・シテ島に発し、南岸のラテン区、北部の専門サービス、運輸通信、個人サービス、行政、金融保険不 ④人口の五〇 % 以上が人口密度一平方マイル当り一五〇人以モンマルトルなどを含む市街をつくった。いまは撤去された動産、卸売り、および工業 ) の全サービス人口に対する比を がいせん もってそれらの頻度分布図を描き、全国平均値と平均値から 上の市町村に住むか、⑤非農業者の一〇 % 以上が中心市で働城壁が時代を刻んでいる。凱旋門を中心とするエトアールな の偏差によって判断した。たとえばニューヨーク市は偏差値 くか、あるいは④郡の非農業労働者が一万人以上に達するか ど放射状に延びる並木通りはナポレオン時代に整備された。 たくじ 2 を超える金融保険不動産業によって特徴が認められる。ま 琢治によってま のいずれかに該当することなどである。 〔日本都市の歴史的分類〕この分類は、小川 ー ( 人口約一〇万人 ) は、農業地帯 〔都市の分類〕都市は、人口の大小、行政上の地位、歴史的とめられたように、古代の条坊制都市 ( 平城京・平安京 ) のたミシガン州のアナー の中心市場であり、デトロイトに近い工業都市でもあるが、 性格、産業機能、形態などによって分類される。人口は、産あと、中・近世には、城下町、市場町、宿場町、港町、門前 業・行政の集中に関係して性格を変え、人口の規準は一〇〇町および鳥居前町などが発達をみた。このほかに、鉱山町、ネルソン分類は、専門サービス都市として分類しており、大 万人、一〇万人、五万人を境として、一〇〇万都市、大都農村の中心となる在町などを区別することができる。日本の学都市としての特色を評価している。比例数による分類は人 もとはる ロの多い巨大都市の特色を見誤るおそれがある。東京は全国 市、中都市、小都市に分類される。首都と地方都市は行政上古代都市は中国、朝鮮の伝統を引くが、藤田元春によれば、 まちわり の地位に基づき、後者は州都・県庁所在地の市と地方行政上厳密には異なった町割を示している。中世以後の都市は日本で上位を争う工業都市であるが、工業人口率はかならすしも の権力をもたない市場町など経済活動の中心、歴史的な町な 独得の発達を示しており、近代となって欧米の型式が学ば高くはない 〔都市の形態〕都市の形態は主として人工的につくられ、景 どである。わが国では、東京都 ( 区部 ) を首都として道府県れ、混合型の都市となった。 庁所在市、それ以外の市があり、人口約一〇〇万に達した市〔機能的分類〕都市は住民の活動によって繁栄を遂げ、また観 ( ランドスケープ ) あるいは都市景 ( タウンスケープ ) で は政令指定都市として、府県に準する地位をもっている。札市民生活は都市から各種のサービスを受けている。産業活動ある。それを構成する要素は、土地、建築、道路、鉄道、港 湾、空港、公園緑地および上下水道、電力、ガスあるいは学 幌、横浜、川崎、名古屋、京都、大阪、神戸、広島、北九は都市機能のもっとも重要なものであり、その特色によっ 州、福岡がそれであり、仙台、千葉などがやがて指定されるて、商業都市、工業都市などを分け、細かくは、軽工業都校、病院等の施設である。これらの立地、形状および利用は であろう。 市、重工業都市、港湾都市、観光保養都市、住宅都市などを都市の活動と市民の環境に大きな関係をもつ。 土地は、都市の産業住居等が立地する地形上、交通上の 首都の多くは他の都市とは別な地位を与えられ、アメリカ分類することができる。現在は産業 ( あるいは労働力 ) 別統 合衆国の首都ワシントンは州から独立した ( コロンビア計が整備され、機能分類が精密に行われるようになった。し拠点であるとともに、商業活動、工場群、住宅団地等が展開 特別区 District of C01umbia) をつくっている。州庁の多かしまた正しい分類に達するためには次の諸点に注意する必される広がりをもっている。港湾は海外の資源や市場と結 び、国内の後背地 ( ヒンターランド ) を開く役割をもち、一一 くも州の最大都市にはなく、小都市に所在する。ニューヨー 要がある。 ①今日の都市は、単に固有の市域に住む夜間人口のみによ〇世紀初めまでは、横浜、神戸、長崎などの天然の良港が選 ク州都はニューヨーク市の北二五〇キロにあるオルバニー ( 人 しゅんせつ 口約一二万人 ) にあり、カリフォルニア州の行政の中心はサって支持されるのではなく、昼間流入する人口によってそのばれたが、いまは東京湾、大阪湾岸のように埋立て、浚渫 かしま により、また鹿島のような掘込み港による臨海工業地帯ある ンフランシスコの北東一五〇キロのサクラメント市 ( 人口約一一活動が特色づけられている。昼間の事業所人口によるか、あ いは臨海緑地帯の造成の時代に移った。ヨーロッパの大都市 るいは大都市圏の人口を資料とすることが必要である。都 六万人 ) にある。 ロッテル ハンプルクのエルべ川 〔歴史的分類〕発生の時代別にみれば、古代都市、中世都市の産業は、同じ市に住む人々にサービスする部分と、周囲は、ロンドンのテムズ川 市、近世都市、近代都市に分けられる。永続する都市は、古の地方ないしは全国的、国際的にもサービスする部分とがあダムのマース・ライン川など大河下流に築港され、内陸と海 洋交通の接点として発達を遂げるものが多い い市街に隣接して新しい市街が建設され、あるいは改造による。後者は基礎的機能とよび、都市を発展させる力となる。 道路網は時代によって幅員、密度、形態が変化するが、大 って新旧の都市が累層をなしている。ロンドンは古代ローマアレクサンダーソンは前者すなわち非基礎的部分を産業別人 男の方法では産業別人口の全国平略、三種の型式に分類することができる。 都市として始まり、セント・ポール寺院やロンドン塔のあるロの五 % とみて処理した。リ ①方格状プラン、⑦放射・環状プラン、③自然発達形、で 街区が中世を記録し、続いて西に国会などのあるウエストミ均を基準としてそれ以上のものを基礎的部分として取り出し おがさわらよしかっ 笠原義勝ある。方格状プランは、古代に始まり、中国では長安 ( 現在 ンスター市がつくられた。テムズ川を挟んで下流は工場地区ている。しかし、いずれも完全な方法ではない。小 らくよ・つ ベキン のイースト・エンドから、西はケンジントン緑地に至る範囲は、産業別の全国平均値をとって、標準型都市を選び出し、の西安 ) 、洛陽、北京などの基本形となり、わが国では、古 は東京区部に相当する近代市街である。これは、さらに大口平均値を超える産業人口によって特色を判別した。したがっ代の平城京 ( 奈良 ) 、平安京 ( 京都 ) や、近世の大阪、名古 て、鉱業人口は比較的小さな数値で鉱業都市としての判定が屋などの街区を律した。格子形はローマ都市をモデルとして ンドンとして郊外へと成長をみた。 し〔文化的分類〕文化的特色によってみれば、中国都市、イン下され、卸小売業人口は大きな数値をもたないと特色を判定広がり、新世界においてはタウンシップとともにアメリカ都 市の碁盤割り ( 一マイル割り ) として普及した。わが国では とド都市、イスラム都市、ギリシア都市、ローマ都市、イベリされない。
なら 年齢別人口構成 性盆地で、面積約三〇〇平方キロ、県面積の約八 % を占めるに へいたんひょく 位位 位 すぎないが、標高四〇 ~ 八〇の盆地底は平坦で肥沃な沖積 層からなり、古くから水田農業が発達し、政治・文化の中心 % % 人人人人 2 / 8 2 8 人 -8 【 0 1 ・ 円 L.n 0 ワ」 地となってきた。金剛山 ( 一一一一一 ) を最高峰とする生駒・金 0 0 《 0 11 / 位 / 0 亠思 ワ】 11 ワ】 . の 8 の 人人Ⅱの引 ク ワ】 剛山地は、南北約四五キ。、奈良盆地と大阪平野を画してい 国国 国 6 全 3 全 全全薊 2 る。金剛山地北端には二上火山群がある。盆地内の諸河川を 男女 1 男女 5 っ 0 / \ っ 0 / \ ワ 0 工 ャ 集めて西流する大和川は、生駒山地と金剛山地の間を横断し 年 年 年年年年年市ノ -0 戸 0 -8 良ラギマ て大阪平野に流出する。両山地は金剛生駒国定公園に指定さ 1 よ 11 9 9 奈ナスコ れている。 地 度 得在 県面積の六〇 % 強を占める南部山岳地帯は、紀伊山地の主 数 密 明所 こうしゅん 帯 近畿地方のほば中央部を占める県。日本のほば中央に位置積ロ 民庁花木鳥部をなし、近畿地方でもっとも高峻な山岳地帯となってい あすか かんにゆうだこう 面人 県県県県県 とっ 人 世 し、とくに県北部の奈良盆地は、飛鳥・奈良時代を通して、 る。嵌入蛇行して南流する東の北山川と西の十津川に挟ま ぶつきよう はつけんざん 「国のもなか」「国のまほろば」とうたわれ、わが国の政治・ 人口推移をみると、二〇年は五六万四六〇七であったが、四れた地域で、中央の仏経ヶ岳 ( 八剣山、一九一五 ) を最高峰 おおみね 文化の中心地として栄えた。北を京都府、東を三重県、北西〇年 ( 昭和一五 ) まで停滞、微増が続き、四〇年から四七年とする大峰山脈、東側の大台ヶ原山 ( 一六九五 ) を中心とする だい - う 部を大阪府、南西部を和歌山県に囲まれたわが国でも数少な にかけては戦時中の疎開者の流入による約一六万の増加があ台高山脈、西側の伯母子山脈に分けられる。大峰山脈は古来 しゅげんどう い内陸県であるが、京阪神および中京の二大経済・都市圏に った。しかし、四七年から五〇年の間では一万六〇〇〇の減修験道信仰の中心となってきた地で、大台ヶ原、北山川の瀞 隣接し、経済生活のみならず、精神文化のうえでもそれらの 少があり、都市への還流がみられた。六〇年ごろから県人口 八丁 ( 特別名勝、特別天然記念物 ) などは吉野熊野国立公園 影響を少なからず受けている。面積は三六九二・一五平方キ。 は急増し始める。六〇年から七〇年に約一五万、七〇年から ℃ E u-J E で、全国総面積の約一 % にすぎない。東西六四キ。、南北一〇 八〇年に約二八万と増加し、その間の増加率は全国的にみて やまと 一一キ。で南北に長い。大和一国からなり、一九八七年 ( 昭和六も高い。社会的増減では、六三年を境に出超から入超に転 日皿 一 l) 六月現在、九市八郡一一一町一七村から構成される。 じ、超過率は増大傾向をたどっている。これは京阪神大都市 気量 z 均水 一九八五年の第一四回国勢調査による県人口は一三〇万四圏の膨張と、それに対応する県内の住宅開発など社会的要因 平降 年年 3 八六六で、面積と同様に、総人口の約一 % にすぎない。一七によるものである。 五〇年 ( 寛延三 ) の人口は三七万四〇四一、一八四六年 ( 弘〔自然〕〔地形〕中央部のやや北寄りを西流する吉野川に沿 化三 ) は三六万一一三七で、奈良県が設置された一八七一年 0 て、中央構造線が走 0 ている。この構造線によ 0 て、本県気 ( 明治四 ) には四一万八三二六、八七年四七万六七〇九とい の地形を内帯の北部低地帯と外帯の南部山岳地帯に分けるこの う記録がある。一九二〇年 ( 大正九 ) 第一回国勢調査以降のとができる。北部低地帯は近畿地方の中央低地の一部を構成良 かき、、 するもので、東半部の大和高原 ( 笠置山地 ) 、宇陀山地 ( 東奈 竜門山地がある。奈良盆地は東を大和高原、西に生駒・金剛良 ひし 山地、南は竜門山地、北を奈良丘陵に囲まれた菱形状の地溝奈 奈良 ( 県 ) なら をを 一フ′フ′ (. 0 ( 0 【 -0 1_n 月 4- フ」っ」 O LC¯) C) LC¯) ( Ⅱ一 ) O Ln O O 【う ) ( Ⅱ ) L.n O L.n O CO 「 / 「 / ( 0 ( 0 L.n L-n 内っ 0 っ 0 つ」っ」 〔自然〕地形 / 気候 〔歴史〕先史・古代 / 中世 / 近世 / 近・現代 〔産業〕農林業 / 水産業 / 工業 〔開発〕 〔交通〕 章 県〔社会・文化〕教育文化 / 生活文化 / 文化財 「伝説〕 1 2 3 4 5 6 7 8 9 1011 12 月 2 。 4 。 26 。、 年降水量 等温線 ( ℃ ) -4000mm 以上ロ 2000 ~ 2400 2 月 -3200 ~ 4000 [ こ」 1600 ~ 2000 8 月 -2800 ~ 320 のロ 1400 ~ 1600 。気象官署 所在地 -2400 ~ 2800 匚こコ 1400 。。未満 月平均気温 - 月平均降水量 緯度 / 経度 1987 年版「理科年表 : よる どろ 565
タバコの特産で知られる。古くから開け、中世の要職に抜擢された。国内で外交をめぐる政争 ない。鉱床中のとくに品位のよい経済価値の高那珂 ( 町 ) なか ( まち ) 茨城県中部、那珂郡に しれつ さがみ すがや には相模平氏の支族中村氏が拠点とした中村が熾烈となった六一年 ( 文久一 ) 公武合体と海 い鉱石の部分を富鉱体とよぶが、日本の鉱山である町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 菅谷町と神崎、 はち しよう ごだい とだよしの めかだ 外進出、積極的開国策のいわゆる航海遠略策を はこれを「直り」ということがある。大規模な額田、五台、戸多、芳野、木崎の六村が合併し庄の地で、五所ノ宮がある。南部の遠藤の八 上りとも まん 幡神社は源頼朝の祈願所六十一社の一つといわ建一言した。これは、長州藩の藩是として採用さ 直りは「大直り」というが、外国ではポナンザて改称。郡名を町名とした。那珂台地と那珂川 おたびしょ すいぐん bonanza とよぶ。二枚の鉱脈が交差した所に久慈川の沿岸低地をもつ。東日本旅客鉄道水郡れ、祭礼のおりに御旅所で行われる鷺の舞は貴れるところとなり、さらに朝廷や幕府への遊説 じようばん おちあい できる富鉱体は「落合直り」という。直りを発線、国道三四九号、一一八号が通じ、常磐自重な民俗芸能である。北部を東名高速道路が通を命じられ、優れた弁舌を駆使して周旋にあた はだの お り秦野中井インターチェンジがある。人口九一一一りほば朝幕の了解を得るに至った。翌六二年正 見すると鉱山の経営が楽になるので、山神に御動車道那珂インターチェンジがある。中世は江 みき 〈浅香幸雄〉月、功により中老格に列す。しかし藩内改革派 神酒を捧げて大直りの発見を感謝することがあ戸氏から佐竹氏、近世は水戸藩の支配を経て、明七一。 げんずいそんじよう はたの たな る。 〈武内寿久祢〉治以後は、那珂郡政の中心をなした。菅谷は棚囮二万五千分の一地形図「秦野」「小田原北部」や久坂玄瑞ら尊攘派志士の反対が激化し、ま ひさみっそっぺい 十 ~ ・カ・し 料理店などで飲食・遊興の世た島津久光の率兵上京により、その幕府に近い 倉街道 ( 国道三四九号 ) の宿場であった。台地が 仲居 ナオロ ) ンー Dadabhai Naoroji ( 天 = 五ー はたん 一九一七 ) インド民族運動初期の偉大な指導者の広くゴボウは主産地、ラッカセイ、いも類、野話をする座敷女中。元来は、宮廷で炊事をつと路線は破綻し、藩是は撤回され、雅楽は職を免 はぎ ぶんきゅう すぎ ぜられた。翌文久三年二月六日、萩の自邸に 一人。ゾロアスター教聖職者の子としてポンべ菜類などの栽培が盛ん。スギ苗は杉地区を中心める下級女官の名であったものが武家や民間に 〈井上勝生〉 も継承され、茶屋に移って炊事とは無縁の職業て切腹を命じられた。 に近世以来の生産地。精密機械など近代工業も イに生まれる。四歳のとき父と死別。ポンべイ まえだれ のエルフィンストン・カレッジに学び、母校の発達した。県民の森、鳥獣センター、植物園、となった。紅色の前垂をつけるので赤前垂と俗回中原邦平編述『長井雅楽評伝』 ( 一九七九・マッ ノ書店 ) 数学、自然哲学の助教授 ( 天五 0 ~ 五五 ) を経て、運動公園など健康と憩いの施設が多い。菅谷の称するが、この風俗は宮廷女官以来の伝統であ ちょうちん おおすけ ながいかふう ( 天七九ー一九五九 ) 小説 実業界に身を投じカマ社のロンドン支所長とな鹿島神社大助祭 ( 提灯祭 ) は有名。文化財がる。関西の茶屋の仲居は、単なる給仕人の域を永井荷風 じようぐう えでん 家、随筆家、劇作家。明治一二年一二月三日東 り、のち独立して自分の会社を設立 (I<KII)O 多く、上宮寺の聖徳太子絵伝は国指定重要文超えて、遊女や芸者の指名をはじめ座敷の差配 そうきち 〈原島陽一〉 京・小石川に生まれる。本名壮吉。別号に断 〈櫻井明俊〉の実権を握るようになった。 化財。人口四万〇二三六。 イギリスとインドの両国で民族運動を組織、ロ おわり ちょうてい きんぶ ながい山形県中南部にある市。腸亭主人、金阜山人など。父久一郎は尾張藩 ンドン・インド人協会 ( 天六五 ) 、国民会議派叫那珂郡那珂町史』 ( 一九五六・那珂町 ) 長井 ( 市 ) ひたち 一九五四年 ( 昭和二九 ) 長井町と長井、西根、の出身でアメリカ留学後官吏となり、のち日本 ( 一公五 ) の設立に指導的役割を演じ、三回にわ鷓一万五千分の一地形図「常陸久慈」「石塚」 わしづきどう シャン、イ いさ、わとよた たって会議派議長に就任 ( 一会六、一八九三、 一〈 0 ~ 0 、那賀 ( 町 ) なが ( ちょう ) 和歌山県北部、那賀平野、伊佐沢、豊田の五村が合併して市制施郵船上渺、横浜支店長を歴任した。鸞津毅堂 なで カルカッタ大会 ( 一九 0 六 ) 決議で初めて自治 ( ス郡の町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 名手町と上名行。長井盆地の中央を占め、西部は朝日山地、 ( 宣光 ) の門下で漢詩人として令名がある。母 ワラージ ) を標。インド人最初のイギリス手、麻生津、庁宿の = 一村と王子村の一部が合東部は出羽山地南端の白鷹丘陵があり、中央部厩は毅堂の娘。 下院議員 ( 自由党 ) となる ( 一九 011) 。イギリス併して成立。紀ノ川北岸を西日本旅客鉄道和歌を白川と松川を合流した最上川が北流する。中〔青春の反逆〕荷風は高等師範附属尋常中学科 しん しよう 世初期に大江時広が長井姓を名のり、長井荘をを経て外国語学校清語科に学び中退。一八九八 山線、国道二四号が通じる。紀ノ川を挟んで北 の収奪を論難した富の流出理論でも知られる。 りゅうろう がもう かつらぎ なゾロアスター教徒で、温厚篤実、雄弁は葛城山 ( 会 0 しで大阪府に接し、南は飯盛支配した。その後伊達氏、蒲生氏の統治を経年 ( 明治三一 ) 広津柳浪の門に入り小説家を かぶき よわぎわ 家。インドのグラッドストーンと称される。男山 ( 七四六 ) に至る。紀ノ川北岸に沿う名手市て、一五九八年 ( 慶長三 ) 以降は米沢藩上杉氏志したが、その一方で落語家や歌舞伎作者の修 こし′一うや やまと 女平等論者で婦人教育に尽力。ポンべイで死場が中心集落で、かっては大和街道から西高野の支配下とな 0 た。中心の長井は出と宮に分業をした。当初、柳浪風の写実的作品をも 0 て げんろく 去。主著に『インドにおける貧困と非イギリス街道が分岐する宿場町であった。旧名手宿本陣かれ、交互に市日の立っ交易地で、宮は元禄年出発し、やがておりから盛んになったゾライズ いもせ ~ 一七 0 四 ) からは最上川舟運の河港としムの影響をいわれる『地獄の花』 ( 一九 011) など 間 ( 一六犬 〈古賀正則〉 は国史跡に指定されるとともに、妹背家住宅は 的支配』 ( 一九 0 一 ) がある。 おおじようや たか 中 ( 町 ) なか ( ちょう ) 兵庫県中南部、多可郡江戸初期の大庄屋住宅で国の重要文化財。江一尸て米沢藩の物資流通、商取引で栄えた。大正時を書いた。一九〇三年 ( 明治三六 ) アメリカに はなおかせいしゅう の町。一九二四年 ( 大正一三 ) 町制施行。西日末期の外科医華岡青洲の生地で、墓 ( 県の史代には養蚕地を控えて製糸業の隆盛をみ、長井遊学、以後、フランス滞在を経て〇八年帰国す かじゃ 本旅客鉄道鍛冶屋線、国道四二七号が通じる。跡 ) がある。対岸の麻生津は近世、紀ノ川の河紬を特産したが、第二次世界大戦後は弱電関る。この外遊体験は、西欧市民社会の個人主義 としん すぎ と伝統文化への認識を深めさせ、彼本来の批評 古くから郡の行政中心地。中央部を貫流する杉港で西高野街道の渡津集落。南北の山地はミカ係の工場立地が相次ぎ、主要産業となってい よわさか へいたん 川沿いは比較的平坦な河谷盆地で、酒米の産ン、カキの栽培地。黄銅鉱を産出した飯盛鉱山る。東日本旅客鉄道の長井線・米坂線、国道一一的資質と感覚的柔軟さとに磨きをかける機会を にしおきたま ばんしゅう 与えた。 八七号が通じる西置賜郡の行政、経済の中心 地である。杉原川の水を利用した播州織が基は一九七一年閉山。藤崎堰のある藤崎弁天付近 〔新帰朝者の眼〕帰国した荷風は、『あめりか 幹産業で、就業人口の七五 % が繊維産業に従事と葛城山一帯はかつらぎ高野山系県立自然公地。「伊佐沢の久保ザクラ」 ( 国の天然記念物 ) にしわき 〈小池洋一〉 は樹齢約五〇〇年のエドヒガンザクラである。物語』 ( 一九 00 によって、自然主義主流の文学 し、南部の西脇市に次ぐ織物の町である。北部園。人口九七〇五。 さんろく みようけんさん 朝日連峰の登山口にあたり、最上川に合流する界に新風を吹き込む者として歓迎され、『ふら の妙見山 ( 六九三 ) 山麓は古墳が多く、また県。那賀町史』 ( 一九〈一・那賀町 ) きじゃま かんの うちはた こかわりゅう 野川には野川渓谷や木地山ダム、管野ダムがあんす物語』 ( 一九 0 九、発禁 ) 、『すみだ川』『冷笑』 民余暇村公園や大池キャンプ場がある。人口一二万五千分の一地形図「内畑」「粉河」「龍 め もんざん 〈中川重〉などを次々に発表。新帰朝者の眼に映じた明治 る。人口三万三四九〇。 〈二木敏篤〉 門山」 万二〇七九。 ん、りゆら・ たんばわだ 文明への違和感と下町や花柳界の情趣に親しむ なかい ( まち ) 神奈川県南西部、足回『長井市史』 ( 一九〈 = ・長井市 ) 囮二万五千分の一地形図「丹波和田」「中村町」中井 ( 町 ) たんび うぜんこまっ がらかみ かかみがはら 囮二万五千分の一地形図「長井」「羽前小松」耽美的傾向とが色濃く現れていた。一〇年、慶 なか岐阜県各務原市の中心市街地。柄上郡にある町。一九五八年 ( 昭和三一一 D 町制 那加 かみ 1 ) う 応義塾大学文科教授に迎えられ、『三田文学』 「羽前葉山」「羽前上郷」 カ旧那加町。大正年代に、陸軍航空隊の移駐、高施行。中央部と東部に大磯丘陵を侵食して南流 うめま オカい、った ( 天一九ー六三 ) 幕末長を創刊、反自然主義陣営の中心的存在の一人と > 山本線・名古屋鉄道鵜沼線の敷設、岐阜高等農する中村川 ( 押切川 ) と葛川の上・中流域を中長井雅楽 ときつね なった。おりから、大逆事件が発覚し、それに 州藩の政治家。名は時庸、雅楽は通称。初め小 カ林学校の開設で、急速に発展した。↓各務原心としている。川沿いの谷底平野は水田に、丘 しよう じきめつけ 陵地は畑地に開かれる。酪農が普及し、野菜、姓役につき、一八五八年 ( 安政五 ) 直目付役伴う強権の抑圧政策は、彼のかねてからの明治 3 な ( 市 ) 十・い十・ , れ さ一 かしま おおいそ せき きィ一き かんざき あし つむぎ もがみ さぎまい ばってき だん
〈米山俊直〉 6 して少なくないのである。 いた。仏教をほとんど国教とみなす政策が、飛鳥時代から奈る民衆が少なからず存在していて、物と情報を運んでいた。 ん ・小学館 ) ほ良、平安の各時代を通して流れていた。しかし他方、日本独戦国の時代ごろから、政治、経済、文化の中心であった奈回『日本民俗文化大系』一四巻・別巻一 ( 一九〈 = ~ 会 ひらじろ ▽梅棹忠夫著『日本とは何か。丨ー - ・近代日本文明の形成と発 自の土着的な精霊信仰、祖先崇拝も、それそれ仏教や道教の良、京都などに加えて、寺社の門前町、平城になった戦国大 * 、かいひら 展』 ( 一九会・日本放送出版協会 ) ▽長谷川如是閑著『日本 要素を絡ませながら生き続け、逆に外来の宗教のほうを変化名の城下町、港町、宿場町などが発達した。そして、堺、平 的性格』 ( 一九穴・岩波書店 ) ▽ルース・ベネディクト著、 させてきた。平安時代以来の日本人には独特の無常観があっ野 ( 大阪市 ) 、博多など、カのある市民を中心にした自治組 じゅじゅっ めいりよう 長谷川松治訳『菊と刀ーーー日本文化の型』 ( 社会思想社・ て、それは自然とのかかわりを明瞭に示している。呪術的織が、その町の政治を運営する所もみられるに至った。商人 あみだ かじきとう 現代教養文庫 ) な加持祈疇を伴った密教に続いて、後生を阿弥陀の浄土に期と職人を中心の構成者としているが、そのほかに運送業など ほっけ 待する信仰がおこり、さらに自力本願の禅、法華 ( 日蓮 ) なのサービスを担当したり、芸能など文化的な創造活動をする 海外における日本研究 どの宗派が誕生する。ここで早く西洋のプロテスタンティズ人々も存在していた。 〔歴史ー日本学の伝統〕海外における日本研究の萌芽は一六 江戸時代に入って、都市的な生活様式はたびたび支配者の ムに対応する思想的な動きが認められる。 あづち 忌諱に触れ、取り締まられたが、それでも江戸、京、大坂の世紀、来日した西洋人に求められる。その代表は安土桃山時 さらに戦国時代を経て天下統一が実現する一六世紀後半に ぶん げんろくきようほう なると、人々の合理的な判断、現世に対する唯物論的な見方三都では都市的な文化が繁栄し、元禄・享保、あるいは文代、イエズス会の宣教師フロイスである。江戸時代には、オ ひえいぎん かぶんせい ランダ商館関係者のなかに、膨大な資料を収集してヨーロッ 化・文政の洗練された都市文化を生み出し、それが各地に伝 が生まれてくる。一五七一年 ( 元亀一 l) の信長の比叡山焼打 ジャパノロジー パに持ち帰り、日本学の礎石を築いた人々が現れた。カロ ちは、都の住民に神も仏もないことを示し、いわば仏教の正播して、それそれの地方文化を豊かにしていった。各地の都 統的権威の崩壊を示した。その後、民衆の信仰対象は現世利市に「京町」「江戸橋」などの地名が残るのは、この日本文ン、ケンベル、シーポルトなどである。シーポルトが二度の 明の中心とのかかわりを示すものである。先に、日本文化は滞日中に収集した資料の整理にあたった弟子ホフマンは、オ 益を中心とする機能的な神仏に移ったといえる。すなわち、 壮大な教義体系をもっ宗教は弱体化し、江戸時代になって寺およそ一〇〇の地方文化の拠点をもつ、と述べたが、日本文ランダ、ライデン大学に一八五〇年 ( 嘉永三 ) 開設された日 が戸籍管理の機能を備えるに至って形骸化した。民衆の世直明は、上方つまり京・大坂と江戸という一一つの中心ないし焦本学の講座の初代教授となった。他方、これより一世紀以上 だえん ( 一七三六 ) 、ロシアでは、漂流した日本漁民を教師としてペ し志向などの反映は、江戸時代末期から明治初年にかけて発点をもっているといえる。すなわち、日本文明は楕円である前 テルプルグ ( レニングラード ) に日本語学校が設けられ、日 達した新興宗教の出現にみられる。同様の動きは第二次大戦とみなすことができるのである。 今日、新産業革命が進行する過程のなかで、日本列島の都露・露日辞典なども出版された。 いくつかの新宗教が出現している。 後の社会にもあり、 明治新政府による開国は新しい日本学者のグループを生み しかし日本人の合理的科学的な世界観への傾斜は、明治以市化は大きく進行し、いまではその多くの部分が、ほとんど 来の西欧的な近代科学の輸入によって圧倒的に強いものとな都市化の大波をかぶっている。各地の地方都市が新旧の産業出した。一つのグループはいわゆるお雇い外国人であって、 に支えられて発達し、それそれの地方の発達の拠点となってそのなかから、日本を研究対象として取り上げたり、美術品 り、江戸時代に潜在的に育っていた合理的精神が開花をみせ いる。しかし同時に、東京とその周辺は激しく人口と富を集などを広く収集して母国における日本研究の資料たらしめた た。西欧の人々が抱いている日本のイメージには神秘的なも のを考えられがちであるが、実はそれは大きい偏見にすぎな積し、突出した発達を示すようになった。そして、かってのりした人々が生まれた。イギリスのチェンバレン、アメリカ むしろ日本文化のほうが、西洋ことにヘブライの伝統で中心の一つであった上方ー京阪神は、地方の諸都市の発展とのモース、フェノロサなどがそれである。 もう一つのグループは、とくにイギリスにみられる型であ あるユダヤーキリスト教につきまとう、おどろおどろしい悪東京圏の肥大化の挟撃にあって、相対的に経済の地盤沈下が 魔や呪術、あるいはオカルトのような陰影はほとんど消えて問題になっている。静岡、新潟、福島県までをその圏域に取って、外交官として日本に駐在した人々、たとえばサトー まではひとり日本の中心とオールコックなどである。 いる。むしろ禅のような精神性を強調し、ひたすら内面に向り込みつつある東京首都圏は、い めいそう いうだけではなく、世界の一つの中心としての機能をもち始第三のグループは、民間人として来日し、日本に魅せられ かう瞑想の修行のような悟りを目ざすものになっていて、 めていることは否定できない。しかし、そのために、日本文た文学者、たとえばハーンやモラエスなど。このグループに わゆる神秘主義とは遠いものである。 化の備えてきた楕円的な構造が失われてしまうのは、日本文入れることもできるが、宣教師、とくにアメリカの宣教師が 〔都市の伝統〕日本は農業国であり、日本人は農耕民族であ るという先入観によって、ともすればその都市文化の伝統の化、日本文明の将来にとって、かなり重要な問題を投げかけ第四のグループを形成する。一般に彼らは長期にわたって在 日し、日本への理解と愛情に富んでいた。かならずしも日本 ことが見逃されがちであるが、日本の都市の成立は、藤原京るものといえよう。 一九六〇年代の日本の目覚ましい経済成長の結果、諸外国を研究したわけではないが、その子供や弟子から優れた日本 ( 六九四 ) 、平城京 ( 七一 0) 、そして平安京 ( 七九四 ) にまでさかのば って考えるならば、けっして新しいことではない。唐の長安は日本の発展に注目するようになり、その発展の秘密を日本学者が出た例が多い。ライシャワー兄弟 ( ロバートと前駐日 を模したといわれる都市計画は、都市の生活様式の早い成立文化に求めようとする傾向がある。しかし、その解釈はしば大使エドウイン ) の父親 ( オーガスト ) は日本学者でもあっ けんきようふかい たが、その典型である。 しば牽強付会のところがあり、見当違いのこともある。と を示している。中世の日本人は土地に縛り付けられていたと こうして開国後、日本学に進んだ欧米人が増加したが、そ はいえ、外国人を笑っていてよいわけではない。日本文化に みなすのは、近年の研究によってかならずしも正確ではない の大多数はそれまでの日本学者同様、専門的研究者としての ことが明らかになってきた。定住する農民のほかに、移動すついての認識は、日本人自身が改めねばならない部分もけっ やく かみがた はかた
なかいや ② ④ ③ ① 傚田糾す即三 おて掲 小のー 長湖出市す = 一屬引門 ズ七ひ 2 言 8 代の々、んしゃ 中お座 胤市 - ま製て 山下金木支 み ) 代ムも 6 ( て 要わ スすや 年大日本育英会の創立とともに会長となった。 のと交代しながら太くなったものであるドも中入し、扮装をかえるための場合と、時間 熱心なクリスチャンで、雄弁家であり、早稲田 3 ( これを担根体、根茎という ) 。この根茎の経過を示すだけの場合とがある。 かぶきぶんらく よせすもう に育歌舞伎、文楽、寄席、相撲などの興行物大学出身政治家の中心的存在であった。『殖民 の外皮を除去して乾燥したものを漢方で しょよ さんやく は薯蕷、山薬と称する。胃弱のために食あるいは説教の法座などの途中でしばらく休憩原論』ほか著書多数を残し、昭和一九年一二月 〈佐藤能丸〉 欲がなく、下痢しやすく、疲れやすいとすることをいったが、いまもこの語が使われて四日死去。 いるのは寄席と相撲である。寄席では、中入ま回永井柳太郎編纂会編『永井柳太郎』 ( 一九五九・ き、糖尿病でやせたとき、精力が衰えて せき 勁草書房 ) 咳や遺尿をし、足腰のだるいときなどのでは概して若手が出演するが、中入の前にも客 まえ なか 治療に用いる。ヤマノイモの根茎もナガが入るように、前半の最後には「中入前」「中長唄ながうた三味線音楽の一種目。歌舞 トリ」と称されるトリに準ずる芸人を出演させ伎舞踊の伴奏音楽として誕生、のち鑑賞用の ィモと同様に用いる。中国料理では、皮 ほそぎお る。相撲では十両の取組が終わったあと中入に 「お座敷長唄」も現れる。細棹の三味線や鳴物 付きのまま蒸したあとで皮をむき、塊に なり、この間に幕内力士や横綱の土俵入りおよ ( 大鼓、小鼓、笛、太鼓 ) を伴奏楽器とする。 切って揚げ、砂糖を煮つめた蜜をかけた かみがた ースーシャンヤオ 狂 〔名称〕「長唄」の名称は、上方 ( 京坂地方 ) 抜糸山薬が有名である。なお、むかごび「わり触れ」 ( 翌日の取組披露 ) が行われ、 蔵 じうた げんろく れいよし 、、、根茎よりも作用が強い 中入後に幕内の取組に進む。 〈小林責〉の地歌のなかの長歌に由来するといわれ、元禄 を零余子とし あ称 なかいりけん ( 一七三一一 ー天一七 ) 江一尸期 ( 一六会 ~ 一七 0 四 ) ごろ現れ、最初は「長歌」 斑ということから薬用のはか食用にもされ中井履軒 きよ、つほう る。また、中国の民間では零余子を百日 後期の儒学者。享保一七年大坂に生まれる。 「長哥」「長うた」などとも記されていた。初期 あざなしよしゆく 力いレ」ツ、 咳の治療に用いる。 〈長沢元夫〉通称は徳二。名は積徳。字は処叔。父は懐徳には演奏者の出身地によって、「江戸長唄」「大 月 9 しゅうあん ちくざん らんしゅう なかいやじゅうべえ 堂の二代学主中井甃庵。兄は竹山。五井蘭洲坂長唄」「京長唄」などと区別されていたが、 ⅱ中居屋重兵衛 一うずけ に師事し、程朱学を主とする道学を学ぶが、そ江戸出身者が多くなるにつれて、「江戸」の名 月 ( 一全 0 ー六一 ) 幕末の横浜貿易商人。上野 きようまう あがつま つまごい の 国吾妻郡中居村 ( 群馬県嬬恋村三原 ) 出の学風は折衷学的であった。一七六六年 ( 明和称も無意味となり、享保期 ( 一七一六 ~ 三六 ) ごろ いずみ すいさい せんのすけ より、単に「長唄」とよばれることが多くなっ 身。本姓黒岩撰之助。中居屋重兵衛は商 lll) 大坂・和泉町に学塾水哉館を開いて教授し っ ) 0 井す号。家産の没落から江戸に出て書店和泉た。兄竹山に比べ交際範囲は少なく、もつばら きぐう や 屋に寄寓するかたわら学者と交わって洋研究と著述に従事した。また蘭学にも興味を示 〔沿革〕元禄期に上方の盲人音楽家の演奏する 1 」うりゅう い」わ - っ しらね め 三味線音楽 ( 地歌 ) のなかに比較的まとまった 学、火薬製法などを学び、白根産の硫黄し、医者兼天文学者麻田剛立と交わり、解剖 えっそろうひっ ③④ を扱って火薬を製し産をなしたという。所見として『越俎弄筆』をまとめた。そのほか内容をもった長歌が現れた。これが上方の芝居 しちけいまうげん あんせい 安政開港にあたり、いち早く横浜に進多数の著述があるが、代表作に『七経原』唄となり、やがて上方の歌舞伎俳優の江戸進出 ちょうだいりやくねんせいろく ぶんか によって江一尸にも伝来し、江戸歌舞伎の芝居唄 出、本町四丁目に五〇〇坪近い店舗を開『七経雕題略』『年成録』などがある。文化一 とう にも影響を与えながら、しだいに江一尸趣味に陶 ひらト邯ー いて生糸、茶、石炭などの貿易に従事し四年二月一五日、八六歳で没した。〈上田穣〉 や ながいりゅうたろう ( 天 ー一九冶され、江戸長唄として発展していった。一 た。生糸取引の草分けといわれる。その永井柳太郎 の 終末は不詳であるが、尊王派を支援して四四 ) 大正・昭和期の政党政治家。明治一四年方、上方では、芝居唄は元禄期にその頂点に達 ↓ 0 の 幕府の嫌疑を受け、財産も没収されたと四月一六日石川県金沢に生まれる。同志社、関したものの、その後は歌舞伎音楽としての伝承 わせだ いう。著書に『集要砲薬新書』 ( 一会五 ) 西学院を経て、一九〇五年 ( 明治三八 ) 早稲田は行われず、座敷音楽としての地歌の一分野で はうた 再 がある。墓は嬬恋村と東京都文京区還国大学大学部政治経済学科を卒業後、英国オックある端歌のなかに吸収され、長唄といえば江戸 6 〈山田武麿〉 寺にある。 スフォード大学のマンチェスター・カレッジに長唄に限られるようになった。 宝 4 きようべん まうれき ①享保 ~ 宝暦期 ( 一七一六 ~ 六四 ) 上方の歌舞伎俳 永回萩原進著『中居屋重兵衛』 ( 一九天・有留学。〇九年より早稲田大学で教鞭をとり、 年 6 安 隣堂 ) 植民政策、社会政策、名著研究、英語を一七年優とともに東下した長唄演奏家の活躍により、 おおくましげのぶ ナ . ・刀し・・ 1 人 C 能や狂言で登場人 ( 大正六 ) まで講ずるかたわら、大隈重信主宰地歌の影響の強い三下り調子の曲が中心であ 中入 おんながた 物がいったん舞台から退場すること。能の『新日本』主筆として論陣を張った。二〇年る。また当時は歌舞伎舞踊が女方の専門芸であ 成 道叟では、中入するのはシテがほとんどで、郷里より憲政会所属衆議院議員に初当選し、七つたところから、女性的な曲が多かった。唄方 よしずみ 娘番 たかし ひょうしろう はしがか に坂田兵四郎、初世松島庄五郎、初世吉住小三 嶌三橋掛りを通り鏡ノ間に入るか舞台上の作月八日、原敬内閣を批判して「西にレーニン、 まえ きねや しん ・午蒔 〕 ) 百種 り物の中に入るかし、中入の前を前シ東に原敬」との演説を行い、懲罰を受けた。外郎、三味線方に六世・七世杵屋喜三郎、杵屋新 えもん やさぶろう のち ①②テ、後を後シテという。この場合、同一務参与官、外務次官を経て、三一年 ( 昭和六 ) 右衛門、杵屋弥三郎、鳴物に多田逸八、宇野長 むけんかね あいおいじし ふんそう 紙 人物が扮装をかえ本体を現して再登場す立憲民政党幹事長に就任。ついで党代表として七らが輩出、曲では『無間の鐘』『相生獅子』 さぎむすめ ぎようがのこむすめどうじようじ はなぶさしゅうじゃくじし る場合と、後シテはまったく別の人物に翌年に斎藤実内閣の拓務大臣、三七年に第一次『京鹿子娘道成寺』『英執着獅子』『鷺娘』 本 このえふみまろ ていしん のぶゆき 正 なる場合とがある。この中入の間をつな近衛文麿内閣の逓信大臣、三九年に阿部信行内などが生まれた。 の いっちゅう ぐ演出はさまざまだが、その能にかかわ閣の逓信大臣兼鉄道大臣を歴任した。四〇年発 ②明和期 ( 一七六四 ~ 七一 l) この期になると、一中 長 かたりあい ぶしぶんご ぎだゅう うたじよう ることを物語る語間になることが多い。 会の大政翼賛会では常任総務、東亜局長などに節・豊後節・義太夫節の旋律を加味した唄浄 るり 唄 ふうび 長 狂言では、その例は少ないが、シテもア就任した。また、育英制度の確立に努め、四四瑠璃を創始して一世を風靡した美声の唄方初世 0 みつ ま - 」と ていしゅ かん おおつづみ