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検索対象: 日本大百科全書 17
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1. 日本大百科全書 17

なつめそ しなの たんご た。九歳のとき養父母が離婚したため夏目家に 夏目漱石 / 年譜 薬用や食用として、信濃 ( 長野県 ) 、丹後 ( 京ナツメグ nutmeg ニクズク ( ニクズク科 みま寺一か 算用数字は月または月・日を表す 都府 ) 、因幡 ( 鳥取県 ) 、美作、備前 ( ともに岡の常緑高木 ) の果実の種子。古くから却荳蒄と帰ったが、父母はかならすしも温かく迎えなか 山県 ) 、阿波 ( 徳島県 ) から献上と載り、当時栽よばれた漢方薬でもあり、肉料理の主要な香辛った。肉親の愛に恵まれなかった幼時の原体験 1 ・ 5 ( 新暦 2 ・ 9 ) 江戸牛 天六七慶応三 培が広まっていたことがわかる。また、『延喜料の一つ。インドネシア、モルッカ諸島が原産は漱石を他人の愛情に敏感な内向型の人間に育 込馬場下横町 ( 現東京都新宿区牛込喜 じ、よう・う であるが、現在ではモルッカのほかに西インドて、また、肉親のなかにさえ他者をみる非情な 式』には、正月上卯の日に供進された悪気払い 久井町 ) に誕生。本名は金之助。里子 みづえうづえ に出され、翌年塩原家の養子となる の御杖 ( 卯杖 ) の一つにヒイラギ、ウメ、モモ諸島のグレナダ島やスリランカを主産地とす人間観を培った。後年の漱石文学が愛とエゴイ 天七六明治九生家に帰る ( 復籍は一公八 ) などとともにナツメがある。ナツメやイヌナッる。開花後約六か月で果実が成熟して割れ、中ズムの種々相を描くことになる遠因の一つであ にしよう 一一明治一四 1 実母千枝死去 4 ごろ東 メなどはインドでは古くから薬用にされ、『チから鮮やかな深紅色疎網状の仮種皮に包まれたる。初めは漢学好きの少年として二松学舎など 京府立一中から一一松学舎に転校、漢学 に学んだが、成立学舎を経て大学予備門 ( 東京 ャラカ本集』 ( 二世紀ごろ ) には下剤、発汗、黒褐色の殻が出てくる。この仮種皮が香辛料の せん を学ぶ メースで、仮種皮をはがして乾燥させた殻を割大学教養学部 ) に進むころから英文学研究を生 強壮、催精などの処方箋が載る。仏典による しやか 一〈〈四明治一七 9 大学予備門 ( 東京大学教 涯の仕事として選び、一八九〇年 ( 明治一一三 ) と、釈迦はナイランジャナド川のほとりで断食った中の褐色大粒の種子がナツメグである。 養学部 ) に入学 に帝国大学文科大学 ( 東大文学部 ) 英文学科に 漢方では下痢、腹痛に用い、母乳促進、消化 苦行に入ったおり、初めは一日にナツメの実を まさおかしき 一〈兊明治二一一 1 正岡子規を知り、俳句の 一粒ずつ、のちに米を一粒ずつ、ついでゴマを促進に効果があるとしていろいろな処方に配合入学した。予備門時代に正岡子規を知り、漢詩 りつくんしとう にしんたん 手ほどきを受ける 一粒ずっとったあと断食したと伝わる。中国でされる。二神丹 ( 食欲増進 ) 、六君子湯 ( 下痢文を介して親交を結び、俳句の手ほどきを受け つうせんさん そうずくさん 一〈九 0 明治二三 9 帝国大学文科大学 ( 東大 も、栽培のもっとも古い果樹の一つで、『詩経』止め ) 、草荳蒄散 ( ロ臭止め ) 、通泉散 ( 母乳促た。九三年大学を卒業、一時大学院に籍を置い 文学部 ) へ入学 らいき たが、東京高等師範学校講師、第五高等学校教 進 ) などが有名であり、芳香健胃剤としてもよ に果実の収穫期が、ネ言』に材の堅さが書か 一〈九一一明治一一六 7 文科大学英文科卒業 く用いられる。大量に ( 大さじ一杯以上 ) 食べ授を経て、一九〇〇年 ( 明治三三 ) には文部省 れ、『史記』の「貨殖列伝」には、ナツメの千 東京高等師範学校英語教師に就任 まひ 本は千戸の領主に匹敵すると出る。〈湯浅浩史〉ると強い催眠と知覚麻痺に襲われ、と同から英語研究のためイギリス留学を命じられる 天会明治一一八 4 松山中学教諭として松山 うすちやき まっちゃ へ赴任 棗なつめ抹茶を入れる茶器。薄茶器の一種様の時間・空間の失覚や非実在的幻覚をおこすなど、英文学者としての道は順調に伸びていっ しんきこうしんおう 一八九五年から翌年にかけて愛媛一〈突明治一一九 4 松山中学を辞し、第五高 で、主として薄茶を入れる漆塗り製の茶入であが、頭痛、めまい、のどの渇き、心悸亢進、嘔た。その間、 こいちゃ 等学校講師として熊本へ 6 中根鏡子 県の松山中学校の教師を勤めたが、その体験は るが、黒塗りのものは袋に入れて濃茶を入れる吐のような後遺副作用はないという。 と結婚 7 五高教授となる 『坊っちゃん』 ( 一九 0 六 ) に生かされている。 ナツメグのスパイシーで甘い刺激性の香りは ことがある。その形姿が植物のナツメの実に似 だえん 一九 00 明治三三 9 イギリス留学へ出発 〔小説家の誕生〕イギリス留学は足掛け三年に メースとよく似ているが、味はまろやかなほろ ているところからの呼称。総体は楕円形である ふた 香辛料とし及んだ。帰国後、一九〇三年 ( 明治一 = 六 ) に第究 0 = 明治三六 1 帰国、東京へ 4 第一高 力、たしたい上部三割のところで蓋と身が分か苦さがあって、メースよりは強、。 等学校兼東京帝大英文科講師 一高等学校教授に就任、兼ねて文科大学の講師 れるようになっている。↓薄茶器〈筒井紘一〉ては、肉の生臭さを消す矯臭作用が非常に強い この年しばしば神経衰弱に悩まされる として英文学を講じた。大学での講義をまとめ ナツメカイ〔棗貝〕 shiny bubble shell ので、肉料理、とくにひき肉料理には欠かせな 一九 0 五明治三八 1 『吾輩は猫であるズー実・ 、ノヾーグ、ミートボール、ロールキャベた『文学論』 ( 一九 0 七 ) と『文学評論』 ( 一九 0 九 ) \ B ミぶミこぎ軟体動物門腹足綱ナッ 8 ) 、「倫敦塔』を発表 は、日本人の手になる最初の英文学研究として メガイ科の巻き貝。本州中部以南に分布し、潮ツ、コロッケ、メンチカッ、ミートソースには 一九 0 六明治三九 4 「坊っちゃん」発表 9 間帯下の海藻の間にすむ。生時は殻は軟体に包かならず用いられる。また、ジャガイモ、キャ評価が高い。しかし、漱石自身は早くから東洋 「草枕』発表 まれウミウシ状。殻高四三ミリ、殻径三〇ミリに達ペッ、ホウレンソウ、カプなどの野菜の甘味をの伝統的な文学精神と英文学のパトス ( 情念 ) 一九 0 七明治四〇 4 朝日新聞社に入社 5 「文 との矛盾に悩み、日本人として異国の文学を研 し、殻は長卵形で、ナツメの実に似ているので引き出す効果もあるので野菜料理にも用いるは 学論』刊 6 「虞美人草』連載 ( ー ) らそう か、プディング、ケーキ、クッキー、ドーナ究することの困難と不安を感じ続けていた。教 9 ごろより胃病に悩む この名がある。殻はやや厚く、螺層は内に巻き 一九 0 〈明治四一 6 「文鳥』連載 7 「夢十夜』 ン、パイなどの菓子類の風味づけ、アレキサン師生活にも耐えがたい嫌悪を覚えるようになっ 込んで外からは見えない。殻表は平滑で光沢が しようはん 連載 ( ー 8 ) 9 『三四郎』連載 7 怩 ) た。加えて、一八九六年に結婚した妻鏡子との あり、桃褐色の地に黒褐色の小斑が密に分布ダーやエッグノッグなどのカクテルにも愛好さ 一九 0 九明治四一一 「永日小品』連載 ( ー 3 ) する。また、三本の暗褐色帯を巡らす個体もあれるなど用途は広い。普通、乾燥粉末状で市販不和、旧養父母との金銭上のトラブルなど家庭 6 「それから』連 3 「文学評論』刊 されているが、原形 ( ホール ) のナツメグをお内の心労も重なり、学生時代からの神経衰弱が る。殻頂に小さい穴がある。殻ロはやや広く、 高じて、強度の発作に悩むことも多かった。当 〈奥谷喬司〉ろし金でおろしたものは新鮮な芳香を楽しむこ 内面は白い。 一空 0 明治四三 3 「門』連載 ( ー 6 ) 8 転 とができる。 3 しニクズク 〈斎藤浩〉時の危機的な日々はのちに『道草』 ( 一九一五 ) で あんうつ 地療養のため修善寺へ行き、大量吐血 描かれるが、そうした暗鬱な心情のカタルシス 夏目成美なつめせいび 0 成美 わがはい して人事不省に陥る として書かれたのが、処女作の『吾輩は猫であ 夏目漱石なつめそうせき ( 天六七ー一九一六 ) ナい」れ、つ 一九 = 明治四四 2 文学博士号を辞退 説家。本名金之助。応三年一月五日 ( 新暦一一る』 ( 一九 0 五 ~ 0 六 ) である。自他を含めて、現実 「彼岸過迄』連 一九一 = 明治四五・大正一 月九日 ) に江戸牛込馬場下横町 ( 東京都新宿区の地平に集う衆愚の生活相が鋭く風刺され、辛 怩「行人』連載 ( ー一三・ 辣に笑い飛ばされている。近代文学に類のない 牛込喜久井町 ) に生まれた。 一九一四大正三 4 「こ、ろ』連載 ( ー 8 ) ュ一一ークな作風で、闊達自在な語り口と相まっ 〔生い立ち〕父は同町一帯を支配する名主小 一九大正四 6 「道草』連載 ( ー 9 ) ひょうえなおかっ 兵衛直克、母千枝との五男三女の末子であって多くの読者を集め、小説家としての地位を不一九一六大正五 5 「明暗』連載 ( ー中絶 ) ロンドンとう まばろし 怩・ 9 胃潰瘍のため永眠。雑司ヶ谷墓 動のものにした。併行して『倫敦塔』や『幻影 た。父母晩年の子として疎まれ、生後まもなく 地に埋葬される の盾』 ( ともに一九 0 五 ) などのロマンチックな短 里子に出され、続いて塩原昌之助の養子になっ ナツメガイ らっ かったっ しん 519

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なかみか た。一八九〇年 ( 明治二三 ) までに五冊を出版理論がある。五一年 ( 昭和二六 ) 反強磁性共鳴 陽鉄道の社長となり、積極的な経営を行った。 しな そう 中御門家 / 略系図 八一年八月大改革の必要に迫られていた三井銀した『支那通史』は宋代で止まったが、名著との理論を発表、それ以後、反強磁性体の異方性 4 しん して好評を博し、清国で翻刻された。教科書用エネルギーの研究を進め、スピンのらせん構造 行に理事として迎えられ、まもなく副長となっ に編した『那珂東洋小史』は東洋史学の成立にを提唱するなど磁性体研究で業績をあげた。六 て、三井銀行および三井家諸事業の改革に着手 彼は事業の発展のためには、人材の登用寄与するところ大であった。宋に次ぐ元代を研三年学士院恩賜賞を受賞。七四年より関西学院 〈常盤野和男〉 が必要だと考え、慶応義塾出身の三〇歳前後の究するために「蒙古語」を学び、『蒙文元朝秘大学教授。 そうま じんぎすかん 青年を採用し、重要な任務を与えた。藤山雷史』を訳出した『成吉思汗実録』もまた後世を中村なかむら福島県浜通り北部、相馬市 ひえき さんじ の中心地区。旧中村町。一六一一年 ( 慶長一 太、和田豊治、武藤山治、村上定、朝吹英二、裨益した。比較的初期の述作で、日本上古史、 ひびおうすけ とくに紀年の問題、外国関係などの研究は、死六 ) 相馬氏が中村城を築き、その城下町として 日比翁助、池田成彬らであった。中上川は焦げ としおみのぶいえつねさだすけぶみつねゆき のぶと、、 後に編集された『那珂通世遺書』に収められて発達した。明治以降相馬郡の中心であったが、 付いた貸付金の回収に成功し、職制を改革し、 亘時Ⅱ俊臣ー宣家Ⅱ経定ー資文Ⅱ経之 はらまち 〈宮崎市定〉都市機能は原町市に移った。相馬妙見神社の相 九三年商法施行に際し、諸事業を四つの合名会 つわあき 経明 社 ( 銀行、鉱山、物産、呉服 ) に改組した。一 那珂湊 ( 市 ) なかみなと茨城県中部、那珂馬野馬追い祭、相馬藩主ゆかりの相馬駒焼で知 られる。↓相馬 ( 市 ) ↓中村藩 〈原田榮〉 川河口にある市。一九五四年 ( 昭和二九 ) 那珂 方、入手した諸工場を組織して工業部を創設し ひらいそ まえわたり につしん 功をたて、維新後、華族に列し家格により子のたが、日清戦後の不況のため不振であった。晩湊町が平磯町、前渡村の一部を編入して市制囮二万五千分の一地形図「相馬中村」 つねあき 経明が伯爵となったが、経之の功により一、 年井上と対立し、三井内部でも孤立し、苦境の施行。那珂川の河口北側を占め那珂台地東端部中村なかむら愛知県名古屋市の北西部に と岩礁海岸をもつ。茨城交通湊線と国道一一四五ある一地区および区名。名古屋駅の西方約四キロ 八年 ( 明治二一 ) 侯爵を授けられた。また経之なかで病死したが、彼の三井改革の功績は大き きょまさ とよとみ たかいえ 〈安岡重明〉号が通じる。貝塚や古墳群が多く、古代は仲のこの地は、豊臣秀吉・加藤清正の生誕地で、 の三男隆家は分家して男爵を授けられた。な ~ 、冖」 21 た : っ社一い かんばくみちなが よりむわ 回安岡重明編著『日本財閥経営史三井財閥』国幡田郷、中世は江戸氏、佐竹氏の支配、近世豐国神社、豐清一一公顕彰館などがある。秀吉を お、関白道長の一一男頼宗の子孫が、一時中御門 まっ 八三年 ( 明治一六 ) 県令 ( 一九全・日本経済新聞社 ) ▽白柳秀湖著『中は水戸藩に属した。奥州と江戸を結ぶ海運の中祀る豊国神社は、一 を称したが、のちに松木と称して今日に至った くにさだれんべい 〈飯倉晴武〉 家もある。 上川彦次郎伝』 ( 一九四 0 ・岩波書店 ) ▽安岡重継港として栄え、イワシ漁業も盛んだった。国国定廉平が中心となり建立した社で、参道入口 防上の要地として砲台、異国船番所、反射炉、 には朱塗りの大鳥居がある。顕彰館は一九六七 なかみかどてんのう ( 一七 0 一ー 明他著『日本の企業家①明治篇』 ( 一九七三・ 中御門天皇 八六四年年 ( 昭和四二 ) の建設、二公ゆかりの画像、木 有斐閣 ) ▽三井文庫編・刊『三井事業史』郷校文武館などを置いた。また、一 第一一四代天皇 ( 在位一七 0 九 ~ 三五 ) 第一一三代 げんじかっし ひがしやま やすひと ( 元治一 ) に始まった元治甲子の乱の激戦地と 像、書状など約一一〇〇余点が展示され、フジの 本篇第一巻・第二巻・第三巻上 ( 一九含 ) 東山天皇の第六子。名は慶仁。生母は新崇賢 ひがしやっ くしげたかよし なった所。明治時代はたばこ製造業が専売法移名所としても知られる県立中村公園内にある。 門院賀子 ( 内大臣櫛笥隆賀女 ) 。一七〇七年中道 ( 町 ) なかみち ( まち ) 山梨県中部、東八 みさか さんろく かみしも によう 1 」 一八八九年 ( 明治二一 l) 上・下中村と稲地 ( 宝永四 ) 親王宣下。翌年立太子。女御新中和代郡にある町。甲府盆地の南縁、御坂山地山麓行まで盛大を極め、水運は衰えて漁業が中心と おりとよ ふえふき このえいえひろ なった。近年は茨城県第一の漁業基地となり、村が合して織豊村、のち中村となり、名古屋市 門院尚子 ( 近衛家熙女 ) 。三五年 ( 享保二〇 ) の曽根丘陵と笛吹川左岸の低地に位置する。一 さくらまち うばぐちかしわ てるひと げんぶん へ合併したのは一九二一年 ( 大正一〇 ) であ 皇太子昭仁親王 ( 桜町天皇 ) に譲位。元文一一九五五年 ( 昭和三〇 ) 右左ロ、柏の二村が合併水産加工業も盛大。水産試験場、造船、機械修 年四月一一日崩御。御陵は京都東山今熊野にあして町制改称。町名は、往時甲州 ( 山梨県 ) と理工場などもある。河口港のほか外洋港もできる。第二次世界大戦後は商工業の盛んな市街地 かんそういも つきのわ に変わった。 ^ 伊藤郷平〉 り、月輪陵という。 〈辻達也〉駿州 ( 静岡県 ) を結ぶ中道往還が町を縦貫してている。農業は、サツマイモとその乾燥芋の特 いんひん ゅ - つん ~ ′、 当地にはかって中村遊廓があった。一八七五 なかみがわひこじろう ( 天五四 いたことに由来する。米作と養蚕を主とする農産地である。徳川光圀が責賓閣を、歴代の水一尸 中上川彦次郎 おおす かんとう さかいがわ ぶんご ー一九 0 一 ) 明治時代の実業家。豊後 ( 大分県 ) 村であるが、とくに養蚕は隣村の境川村、豊藩主が比観亭、観濤所をつくり、水戸八景の一年 ( 明治八 ) に北野新地の業者を大須観音裏へ おおあらい みなとのきはん とみ 中津藩士の家に生まれる。福沢諭吉の甥。慶応富村とともに盛んで、丘陵上はほとんどが桑園つ「水門帰帆」とした景勝地で大洗県立自然移して旭遊廓と名称を改めた。しかし市街地の ちょ - っし 義塾を卒業し教員となる。一八七四年 ( 明治で占められている。丘陵には国指定史跡の銚子公園に属する。平磯白亜紀層は県指定天然記念拡大による風教上の理由で、明治末期にはさら に旭遊廓を移転させる必要が生じた。その移転 七 ) から四年間イギリスに留学し、そこで井上塚・丸山塚古墳など古墳が二〇か所以上もあ物、阿字ヶ浦は北関東最大の海水浴場。北部の ふどき ひたち あっせん かおる 馨を知る。帰国後、井上の斡旋でエ部省に出り、先史時代の遺跡も多く、一部は「風土記の水戸射爆場跡地は常陸那珂港建設予定地であ先をめぐる疑獄事件などのため実現に時間を要 〈櫻井明俊〉 し、一九二三年 ( 大正一 (l) に中村遊廓は開業 仕し、のち外務省公信局長となる。明治十四年丘」とよばれて保存され、県立考古博物館もある。人口三万三〇一一。 の政変で野に下り、『時事新報』の社長兼編集る。旧中道往還沿いには国道三五八号や甲府回『那珂湊市史料』全七巻 ( 一九 ~ 公一・那珂湊し、以後売春防止法実施 ( 一九五 0 まで続いた。 しようじ しようだ 大遊廓としては開設が新しいため、設備などが 長となった。八七年荘田平五郎の勧めにより山精進湖有料道路が設けられ、いまでは簡単に よいといわれた。前身の旭遊廓は廃娼運動の 富士五湖方面に達することができる。人口五一一囮二万五千分の一地形図「那珂湊」 〈原島陽一〉 〈横田忠夫〉 九〇。 ) 物理拠点として有名。 永宮健夫ながみやたけお ( 一九一 0 ー 学者。東京生まれ。一九三三年 ( 昭和八 ) 東京囮二万五千分の一地形図「名古屋北部」「名古 回『中道町史』上下 ( 一九七六・中道町 ) きょす いちかわだいもん 屋南部」「清洲」「蟹江」 囮二万五千分の一地形図「甲府」「市川大門」 帝国大学理学部物理学科卒業。三九年大阪帝国 なかみちょ ( 一会一 ー一九 00 東洋大学理学部助教授、四三年同大学教授となる。中村 ( 市 ) なかむら高知県南西部、幡多郡の 那珂通世 しまんと に中心をなす都市。市域は四万十川 ( 渡川 ) 下流 史学者。盛岡に生まれ、もと藤村姓。養父那珂第二次世界大戦後の日本の固体物理学の発展 通高に国学・漢学を学び、東京に出て慶応義塾指導的役割を果たした理論物理学者の一人であを中心に開ける。一九五四年 ( 昭和二九 ) 中 とみやまおおかわすじ しもだ わらびおか を卒業した。長く東京高等師範学校教授としてる。初期のおもな仕事には、塩化アンモニウム村、下田の二町と東山、蕨岡、富山、大川筋、 ぐどう うしろかわやっか なかすじ 東京大学講師を兼ね、主として東洋史学を講じ などの結晶内の分子の方向配列と回転的振動の麦ー 束中筋、東中筋、具同の九村が合 ひさよし 中上川彦次郎 すん せいひん 市 ) ひかん なかの あさひ わたり はた

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。しかし、有効とみなされているから珍重されているので び理念のレベルでいえば、欧米型をモデルにして「人類普遍 政治・国際関係・防衛 ある。この事実は、天皇および皇室を中軸においてクニ集団 の原理」を語る日本国憲法の枠組みのなかで動いているとい に所属していることこそが日本人のアイデンティティであ える。 〔総論〕一九八六年 ( 昭和六一 ) 九月、自由民主党全国研修 なかそねやすひろ 問題は、ソフトの部分である。社会あるいは人間関係におる、という考えあるいは感覚によって、支えられている。 会において中曽根康弘首相は、日本は「単一民族国家」であ 「単一民族国家」論は、日本人のアイデンティティたるクニ ける日本・日本人の特質が、政治の領域に顔を出してくる。 るので、多民族国家のアメリカに比べて「知識水準」が高い という趣旨の発一言をした。この発言は、日本のジャーナリズたとえば、「日本的集団主義」といわれるものである。この集団への所属意識の強さ・現れに焦点をあわせた議論であ ことばによって何を意味するかということ自体に争いがあるり、そういうものとして日本国内ではよかれあしかれ十分に ムでは最初はとんど無視されたのと対比的に、アメリカでは 広く報ぜられ、激しい広範な抗議を招いた。国内で中曽根発が、「赤信号みんなで渡れば怖くない」で表現されているよ説得力をもっているわけである。なんらかの形である種の危 うに、「みんな」 ( 群れ ) には独特な論理が通用し独自な力を機に当面するとき、「みんな」が内に向かって凝縮し、「みん 言が注意をひかなかったのは、きわめて多くの日本人が首相 同様に「日本日単一民族国家」の神話を心のどこかに秘めてもっと考えられている社会、「集団」優位の社会、「集団」をな」でクニを守るためには、ぜひ、この構造と意識が存続し なければならない、とこう考えられている。 いることと無関係でない。実際には、アメリカと違うにして指向する社会、「集団」に所属することを重視する社会など けれども、クニ集団所属者間にのみ自己完結的に有効な論 も、日本は日本なりにいろいろな民族、人種が入り交じってを意味するであろう。政党およびそのもとにある派閥はもち 存在してきたし、現にそうである。今後はますます「国際ろんのこと、政治過程に登場するさまざまなグループは、左理と構造が、クニ集団とは無関係なところに生きている、他 化」した形で生き延びてゆくほかないと考えられているか右、保守・革新を問わず、多かれ少なかれ、「集団主義」にの世界の人々にどれほど通用しうるであろうか。もし、「国 よって組織され行動している面がある。下位の集団は、より際化」が日本の生き残れる唯一の道であるとすると、この難 ら、「単一民族国家」の観念にばかり固執しているわけには 問を日本人自らが解かねばならない ゆかない。それにもかかわらず、あるいはこの神話が崩れつ上位の集団に包摂された形で、これに従属する。そして日本 つあるがゆえに、一九七〇年代の終わりころから「日本人」人にとって最高位の集団は、「日本」というクニである、と〔法体制〕〔総説〕日本の国家体制は、基本的には現在の憲 のアイデンティティを求め、日本国や日本人の独自性・優秀考えられている。戦前には、このクニこそが世界に冠たる法典 ( 一九四六年制定、翌年施行の日本国憲法 ) に基づいて 性を確認する人々が目だっ。こういう風潮のなかで、現在の「国体」であった。そして「国体」は「万世一系の天皇が統できあがっている。だが、それに先だっ歴史的な背景をも視 そうらん 日本政治の歴史的原点にあたる「戦後民主主義」の虚妄性を治権を総攬したまう」システムをさす、と公式に宣言されて野に置く必要がある。この場合、さしあたり一八六七年 ( 慶 いた。つまり、戦前には、ソフトの部分の頂点にたっ天皇が応三 ) からの明治維新までさかのばれば十分である。幕藩体 つき、これを単なる一時のあだ花として葬り去ろうとする傾 こんせき 制、さらにはそれ以前の政治制度は、現在ほばまったく痕跡 向がみられるようになった。けれども、こうした「右寄り」そのまま政治・権力組織の頂点にたっという、その意味では 傾向は、政治の表面にどれほど強く出てきたかを別にすれウラとオモテを合一させる仕組みになっていた。この仕組みをとどめていないからである。明治維新以降、近代国家形成 りつりよう ば、戦後四〇年の全過程で、あたかも通奏低音のようにつねは、戦後の法体制には引き継がれなかった。けれども、ソフが模索された。当初のうちこそ、古代律令制国家の機構の トの部分、ウラの世界での天皇の地位はなお大いに有効であ再現などが試みられることもあったが、やがて西欧諸国の憲 に看取されてきたものであった。日本国憲法は、この人々か らみれば、「戦後民主主義」の最悪の象徴である。憲法は改る。いや、そればかりでなく、最近はとくに外交というオモ法体制をモデルとして踏襲することが既定の方針となった。 正されなければならない。憲法の戦争放棄規定とともに、天テの面にも、クニの代表者Ⅱ天皇あるいは皇室が現れ、重要一八八九年 ( 明治二一 l) 成立した大日本帝国憲法 ( 明治憲 法、翌年施行 ) は、概していってプロイセンおよび南ドイツ 皇の地位をおとしめた規定、権利ばかり強調する人権保障規な役割を果たすことが期待されるようになっている。 ぜんとかん これらにかえて、明治憲法 一九八四年九月、韓国の全斗煥大統領が来日し、「日韓諸邦の憲法に倣っている。明治憲法体制下、政党が発達し議 定も廃絶されなければならない。 会が政治の中心となる傾向が強くなるとともに、イギリス型 に倣って、日本国・日本人に固有独特な憲法をもつべきであ " 新時代〃の到来」とうたわれたが、その際の最大のイベン ばんさん るーー・と、主張する。 トは、宮中晩餐会における天皇の、「過去の不幸」についての憲法 ( 議院内閣制 ) がモデルとして考えられるようになっ 日本政治の本流を規定する人々は、けっしてこの種の「右の「おことば」朗読であった。一九六五年に締結した日韓基た。昭和前期の非立憲的な戦時体制期を経て、敗戦とともに 寄り」路線を頭から否定することはしないが、「戦後民主主本条約などよりははるかに天皇の「おことば」のほうが両国始まった再生復興期のなかで誕生した日本国憲法は、色濃く これ関係にとって重要である、と両国の政治支配者たちは考えたアメリカ合衆国憲法に影響を受けているのが特徴である。そ 義」にも積極的な意味があったとみる。憲法改正は を欲しても現実に不可能であるというだけではなくてーー得のである。これとは別に、いわゆる「皇室外交」もきわめてれそれの時期に、憲法運用のレベルで日本の独自な性格が出 策ではない、と判断する。憲法第九条は、一定の防衛力を維活発である。天皇・皇后は七一年にヨーロッパ訪問、七五年てくるのは当然であるが、憲法体制の骨組み自体はむしろ欧 にアメリカを訪問した。皇太子は一九五三年イギリス女王戴米先進国に準拠し、それらと共通のものを採択しようと努め 持し漸増するのに妨げとならないばかりではなくて、内外の 防衛力増強要求への適切な歯止めとして役だっている。民主冠式出席のほか、皇太子妃とともに世界各国を一一一回訪問してきたといえる。 ん主義・基本的人権の諸規定も社会の発展と安定化にプラスのており、皇室の海外訪問は総数で八七回の多きに及ぶ ( 一九〔明治憲法制定以前〕江戸幕府の大政奉還、王政復古などに 端を発して、明治維新という一大政治・社会変革が展開する - ま役割を果たしてきた、とみる。 八六年七月現在 ) 。 さっちょう ことになる。明治政権の担い手たちは薩長その他の有力藩 8 こうして日本の政治は、とくに制度 ( ハードウェア ) およ 皇室外交は形式的・儀礼的なものにすぎないかもしれな かん

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ながうた 屋を杵家と改姓。さらに三〇年より「杵家」を 稀音家 長唄の流派 きナ初世は二世六三郎の門弟「きねいえ」とよぶ。五世は四世の娘で、四四 杵屋佐吉家 はやし なりもの で、現在まで五世を数える。四世は三世の孫年に五世を襲名。八三年 ( 昭和五八 ) 五世は一一 長唄の唄方、三味線方、囃子方 ( 鳴物 ) は、 やすけ で、三味線主奏楽を創始し、三味線の改良を図世七媼を継ぎ、長男弥佑が六世を襲名した。 それぞれ家元を中心に流派を形成している。 しんとみ かんげん り、豪絃、咸絃を試作。新富座、明治座の邦楽 唄ほどではないがその数は多く、「長唄八天下」 そのほか三味線方の家系としては、杵屋に五 ということばさえも生まれている。以下、現在部長を歴任し、長唄協会の設立にも尽力し、会 みたろう 長の要職も務める。現佐吉は四世の子で、一九三郎、作十郎、三太郎、巳太郎、弥十郎、弥三 の主要な流派をあげる。 郎、そして伊三郎を家元名とする柏家、小十郎 五一年 ( 昭和一一六 ) 五世を襲名した。 きねやかつごろう・ 杵勝を家元名とする中山家などがある。 かっさぶろうけ 杵屋勝五郎・勝三郎家 〈三味線方 きねやろく 杵屋の宗家といわ派の流祖は初世杵屋和吉の門弟初世勝五郎。勝 ざえもんけ 杵屋六左衛門家 れる。現在まで一五世を数えるが、これは宗家五郎名義は現在まで六世を数え、四世までは三 家元名は伊三郎。初世は初世 むらけ としての代数で、勘五郎、喜三郎名義をも含め味線方であったが、五世より唄方に転向する。芳村家 ている。一三代目六左衛門までは代々三味線方初世勝三郎は初世勝五郎の門弟で、現在まで七杵屋正次郎の門弟で、現在まで一一世を数え る。幕末から明治にかけて、五世、六世が歌舞 であったが、一四代目六左衛門は唄方に転向、世を数える。二世勝三郎は初世の子で、幕末か しぐれさい みやこどり ならやまぶしこう ら明治にかけて都鳥』『連獅子』『時雨西伎長唄で活躍。九世は三味線方三世杵屋栄蔵が 『能阿』『楢山節考』など約五〇〇曲を作曲する あだちがはら ぎようふなペんけい とともに、東京音楽学校 ( 現東京芸術大学 ) 教行』『船弁慶』『安達原』など数多くの名曲を兼ね、その没 ( 一九六七 ) 後、三味線方の妻女恵津 子が一時一〇世伊三郎を継いだが、一九七九年 授、長唄協会会長などの要職を務めた。その没残した。この二世が非常な名手であったため、 ろく * 一 ( 昭和五四 ) 孫の唄方である金五郎が一一世を (lß<l) 後、次女の六左 ( 唄方 ) が一五代目六現在では杵勝派は勝三郎が家元になっている。 左衛門を襲名、そのため六左の兄一五世喜一一一現勝三郎は六世の子で、一九四一年 ( 昭和一襲名、恵津子は三世芳村遊喜と改める。なお、 芳村家には伊三郎の控え名として伊十郎名義が 郎、六世勘五郎は杵屋会を組織して一五代目と六 ) 七世を襲名した。 きねや稀音家姓は一一代目杵屋六左あり、三世 ( のち二世吉住小三郎 ) 、六世、七 たもとを分かっている。 稀音家 毳栄蔵名義は一一代目六左衛門の別号稀音家照海に始まる。現在の家元名世が著名である。 杵屋栄蔵家 家元名は小三郎。現在まで六 は六四郎。初世は四世六三郎の門弟で杵屋六四吉住家け 衛門の初名に始まり、現在まで四世を数える。 三世栄蔵は五世勘五郎の門弟で、歌舞伎座邦楽郎。現在まで四世を数える。三世六四郎は一九世を数える。初世小三郎は住吉神社の神官の出 よしずみ 部長、左団次一座・猿之助劇団の邦楽部長、松〇二年 ( 明治三五 ) 四世吉住小三郎 ( 後名、慈身といわれ、『娘道成寺』初演の立唄として著 きよう 竹の邦楽顧問、長唄協会会長などの要職を歴恭 ) と長唄研精会を創設し、長唄の普及発展名。四世は三世の義弟で、のちその養子とな よしむら り、一八九〇年 ( 明治二三 ) 四世を襲名。一九 に努める。一一六年 ( 大正一五 ) 杵屋を稀音家と 任、さらに芳村家の家元 ( 伊三郎 ) を兼ね、そ の一生を歌舞伎長唄発展のために尽力するとと改め、三九年 ( 昭和一四 ) 六四郎名義を長男七〇二年 ( 明治三五 ) 三世杵屋六四郎と長唄研精 きぶんだいじん かんだまつり 会を結成、六四郎と『紀文大尽』『神田祭』『お もに、長唄の作曲家、研究家としても知られて世三郎助に譲り、自分は父の名跡を復活して一一 しちきちさ みやこふうりゅう じようかん いる。その没 ( 一九六七 ) 後、実子の五世正次郎が世稀音家浄観を名のる。現四世六四郎は三世七吉三』『都風流』などを合作する。六三年 しキ、トっ ( 昭和三八 ) 慈恭と改名。五世は四世の子で、 の長男で、長唄研精会の総帥である。 四世栄蔵を襲名した。 家元名は長十郎。現在まで四六三年に五世を襲名。五世の没 ( 一九公 (l) 後、長 ふじけ 」ぶろう初世六三郎は三代目今藤家 杵屋六三郎家 こんどう 勘五郎 ( 杵屋宗家としての三代目 ) の子といわ世を数える。流祖は本名今藤長十郎。歌舞伎囃男小三治郎が六世を襲名した。 家元名は喜三郎。三世岡安源 れ、現在まで一二世を数える。四世は初世正次子方。初世田中佐十郎の門弟で、一一世佐十郎よ岡安家け あづまはっ かんじんちょう り今藤長才と改める。二世長十郎は初世の門弟次郎の門弟と伝えられる初世喜三郎を流祖と 郎の門弟で、作曲の名手、勧進帳』『吾妻八 おいまっ 一一世今藤佐太郎の子で、初め囃子方、のち七世し、現在まで七世を数えるが、四世以降は三味 』『老松』などの作曲家として著名。現六三 郎は一一世の長男で、父の没 ( 一九六七 ) 後、一一一松永鉄五郎の門弟となり、鉄太郎を名のり長唄線方である。三世は、三世芳村伊十郎、二世富 てんばう 三味線方に転向、一九〇四年 ( 明治三七 ) 今藤士田音蔵とともに天保の三名人といわれ、むし 世を襲名した。 きょはち き社初世は二世六一一一家を再興して二世長十郎となる。古典長唄に精ろ前名の喜代八で有名。四世は初め唄方、のち 杵屋正次 ( 治 ) 郎家 へんさん 一二代目杵屋六左衛門に師事して三味線方に転 郎の門弟で、現在まで六世を数える。三世は一一通し、『近世邦楽年表』の編纂にも従事する。 三世長十郎は二世の次男で、作曲と演奏会で意じ、以後、喜三郎の代々は三味線方で、ともに 世の門弟正三郎の子、幕末から明治にかけての れんじし げんろくはなみおどりかがみじ 作曲の名人で、『連獅子』『元禄花見踊』『鏡獅欲的な活躍をした。四世は三世の娘が八四年作曲に長じている。現喜三郎は六世の次男で、 一九五二年 ( 昭和二七 ) に七世を襲名した。 ( 昭和五九 ) に襲名。 子』などを作曲。現正次郎は三世杵屋栄蔵の門 しよう′一ろう えいしんじ えみひこ け家元名は庄五郎。現在まで四 弟栄美彦の門弟で、前名栄慎次、一九八一年杵家家元名は弥七。初世は三世杵屋弥松島家 ド ) ゅ、つ , っ・つ 十郎の門弟で、現在まで六世を数える。四世世を数える。流祖は松島四郎八の門弟といわ ( 昭和五六 ) 六世を襲名した。 しちおう れ、美声家であったという。二世は六世松永忠 きねく初世は四世六三郎のは二世の門弟弥寿治 ( のち初世七媼 ) の娘で、 杵屋六四郎家 五郎が一八七七年 ( 明治一〇 ) に名義を復活し 門弟で、現在まで四世を数える。初世、一一世は大正時代に三味線音楽の楽譜化に心血を注ぎ、 三味線文化譜を考案。一九二七年 ( 昭和一 l) 杵て襲名。明治期に唄方として活躍。三世と四世 杵屋姓であったが、三世が稀音家と改姓する。 きねや かぶき きねかっ かしわ おぎえ ふじたきちじ 富士田吉次 ( 吉治 ) 、遊里に進出して荻江風長 ろゅう 唄 ( 後の荻江節 ) を創始した初世荻江露友、め りやすを得意とした初世湖出市十郎、三味線方 おくぞう にしきやそうじ に西川億蔵、錦屋総治、初世杵屋作十郎、一一世 杵屋六三郎、鳴物に宇野長七、三世田中伝左衛 たちゃく 門らが輩出した。この時期には立役 ( 男役 ) に も舞踊の名手が現れ、立役舞踊も上演されるよ うになった。それに伴って男性的な曲も作曲さ れ、本調子が積極的に取り入れられ、江戸趣味 よしわらすずめくま むすめななくさ 的な長唄も生まれた。『娘七種』『吉原雀』『隈 どりあたかのまっ 取安宅松』などが作曲されている。 あんえい かんせい ~ 天 (1) 長唄の過渡期 ③安永 ~ 寛政期 ( 一七七一一 で、前代の内容本位の唄浄瑠璃の時代から次の ぶんかぶんせい 文化文政期 ( 天 0 四 ~ 三 0 ) のリズミカルな江戸趣 味的な長唄の全盛期を迎える転換期であった。 唄方では初世湖出市十郎、初世松永忠五郎、初 よしむら 世富士田音蔵、初世・二世芳村伊三郎、三味線 方に八世杵屋喜三郎、二世六三郎、初世正次 ににんわんきゅう 郎、初世佐吉らが活躍し、『二人椀久』『蜘蛛 1 ) だいりき ひょうしまい 拍子舞』『五大カ』『木賊刈』などが生まれた。 ひなだん また舞台に雛壇 ( 演奏者が上下二段に座して演 奏するための台 ) が採用されて華やかに演奏さ れるようになったのもこの時期からである。 ④文化 ~ 文政期 ( 天 0 四 ~ 三 0 ) 長唄の黄金時代。 へんげ 変化舞踊の流行に伴い短編の舞踊曲が数多く作 ときわずとみ ぶんご 曲され、一方では豊後節系浄瑠璃 ( 常磐津、富 もときよもと かけあ 本、清元 ) との掛合 ( 一曲を細かく分担して交 互に演奏する形式 ) による変化の妙が発揮され ともやっこ しただしさんまそう えち′一じし しおくみ た。『越後獅子』『汐汲』『舌出三悼叟』『供奴』 うらしま かくべえ 『浦島』『角兵衛』などが作曲されている。また 新たに歌舞伎舞踊の制約を脱した鑑賞用長唄 あづま おいまっ げきざる ( お座敷長唄 ) として『老松』『外記猿』『吾妻 1 なっ 1 い 八景』などがつくられたのもこの時期である。 八一一六年 ( 文政九 ) には豪快な節回しを持色 おおざっま とする大薩摩節を吸収し、その後は積極的にそ の旋律を駆使し、長唄の領域は拡大された。唄 方に二世芳村伊三郎、二世伊十郎、初世富士田 千蔵、三味線方に九代目杵屋六左衛門、二世正 次郎、四世六三郎、四世三郎助 ( のち一〇代目 もちづき 六左衛門 ) 、鳴物では四世望月太左衛門らが活 躍している。 けいおう てんほう ⑤天保 ~ 慶応期 ( 天三 0 ~ 六 0 前代に続く全盛 しきやまんば あきのいろくさ 期で、『秋色種』『四季の山姥』など鑑賞用の 長唄が作曲されるとともに、復古的な傾向と かんじんちょうつるかめ しての謡曲に題材を求めた『勧進帳』『鶴亀』 らしようもん 『紀州道成寺』『羅生門』などが作曲された。 おかやすきょはち 唄方には天保の三名人といわれる岡安喜代八 3 とく寺 ~ かり くもの

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につしん 張する儒学者も多かった。日朝修好条規締結 れたりした 9 下士層は城外の南学館・北学館に 後、特権を背景に日本人の朝鮮への圧迫が強ま 7 学んだ。出版事業も盛んで『日新館童子訓』の るにつれ、朝鮮の反日の気運は事あるごとに表 編・刊など著名である。 おうみにしおお みのなえぎ ほかに同名の藩学が、美濃苗木藩、近江西大 面化した。八二年には、時の執権勢力であった じ いづ びんひ たじま っしま 資王妃Ⅱ閔妃一族および日本に反対する兵士と都 路 ( 仁正寺 ) 藩、但馬村岡藩、対馬府中 ( 厳 じんご すくも 開市貧民の暴動がソウルに起こった ( 壬午軍乱 ) 原 ) 藩、土佐藩支封宿毛 ( 家老伊賀氏領 ) にあ さいもつば つ ) 0 〈木槻哲夫〉 が、日本政府はこのあと済物浦条約 ( 済物浦は 誌横 じんせん 事 仁川の中の地名 ) を結び、ソウルに軍隊を駐屯 回吉村寛泰編『会津日新館志一 ~ 五』 ( 『会津史 真号 させた。さらに八四年には、朝鮮の自主的近代 料大系』所収・一九八三 ~ 会・歴史春秋社 ) ▽ 日第 化を目ざす開化派青年貴族たちが起こしたクー 川渉著『会津藩教育考』 ( 一九三一・同書発行 だじようかん ラックを太政官顧問に任じて新聞から手を引デター ( 甲申政変 ) に介入し、日本の勢力拡大 会 ) ▽文部省編・刊『日本教育史資料一、 五、六』 ( 一公九 ) ▽笠井助治著『近世藩校のかせた ( その後、新聞紙条例を改正、外国人がを図った。一方、朝鮮の王朝政府では事大主義 日本の新聞の持ち主になることを禁じた ) 結的な考えが強く、壬午軍乱後、朝鮮に軍隊を送 綜合的研究』 ( 一九六 0 ・吉川弘文館 ) 日清修好条規につしんしゅうこうじようき一果、七五年一二月五日廃刊となる。〈春原昭彦〉り勢力を伸ばしてきた清国に依存する傾向が強 てんしん だてむね 八七一年 ( 明治四 ) 七月二九日、日本側伊達宗日清製粉 ( 株 ) につしんせいふん製粉業界のまった。八五年、日清間に天津条約が結ばれ、 り - 」うしよう しようだていいちろう 城、清国側李鴻章を全権として調印された、最大手。一九〇〇年 ( 明治三三 ) 正田貞一郎ら朝鮮から日清両軍は撤退し、今後の出兵に際し たてばやし 日中両国が自主的に締結した最初の修好通商条が機械製粉を目ざして群馬県館林町に創立しては相互に通知することが約束されたが、清国 約。日本は七〇年、朝鮮との国交問題を有利に た館林製粉 ( 株 ) が前身。〇七年、横浜に工場は徐々に朝鮮への影響力を強め、九〇年代に入 だいじようやなぎわらさきみつ 解決するため、外務大丞柳原前光を対等条約を建設中であった旧日清製粉 ( 株 ) を合併、社ると、貿易でも日本は相対的に後退するように 親鍋れ日阪 け日「は『 , 入 締結の予備交渉に派遣、李鴻章から条約締結の名もそれに改めた。明治末から大正期にかけてなった。日清戦争前の日本の対朝鮭貿易は、全 てんしん 応諾を得た。翌年日本は清独天津条約を模した各地に工場を建設、相次ぎ製枌会社を合併して輸出総額中の一・五 % 、全輸入総額中の一一・三 にれくとた」 赤さ高」っ図 不平等な草案を提示したが、清国は最恵国条款生産拠点を拡充。さらに一一六年 ( 大正一五 ) に % ( 天九三 ) で、その比重は比較的軽かった。し つら名親な行 真むは日に徳 かし、日本の対朝弉貿易が朝社会にもたらし と清国内地の通商権規定を削り、領土保全と侵鶴見工場を完成、製枌能力を全国一位とし、 か難りう人寺 親を法むよ亠乗略に対する相互援助規定を付け加えた。その結麦粉輸出も本格化した。第二次世界大戦後は五た影響は深刻で、とりわけ日本が朝鮮米を大量 日←鍋のかる親一 果、領事裁判権と両国が列強に強制された協定七年 ( 昭和三一 l) に西ドイツのミアグ社とスイ に輸入したことは、朝鮮で農民収奪強化の一因 スのビューラー社から空気搬送の最新式ニュー となり、甲午農民戦争 ( 東学党の乱 ) を引き起 で、領主と対立を生み、破門される。やがて関税率とを相互に認め合う変則的対等条約とな じようらく きんじがね 上洛した日親は、『法華経』の純粋な信仰を将った。そのため列強中には反西欧連合を密約しマチック方式製粉設備を導入して製粉設備近代こす背景ともなった。また金地金の日本への流 せんべん あしかがよしのり りつしようちこくろん 軍足利義教に進言しようと、『立正治国論』をたと疑う国もあり、政府内にも列強と同様の特化に先鞭をつける一方、ビタミン、の合成出も、朝鮮の近代的幣制樹立に大きな打撃を与 える結果となった。 著したが、捕らえられて激しい法難を受ける。権獲得に失敗したとの批判があって、批准書交法を開発した。六一年以降は、日清飼料 ( 株 ) 、 〔開戦外交〕一八九〇年 ( 明治二三 ) 日本では 獄中で、焼けた鍋をかむらされたということか換は七三年に持ち越された。その後も日本は列 日清フーズ ( 株 ) を設立して、配合飼料、ケー ゆる ら、「鍋かむり日親」の異名がある。赦されて強と同一の条約に改訂することを求めて清国とキミックスなどの分野にも進出、七〇年代には帝国議会が開かれたが、議会と政党に基礎を置 ほんばう ゝよ、月台の官僚政府は、これ以後しばしば議 からは、京都の本法寺を中心に諸地方に伝道、 交渉を続けたが、不成功のまま日清戦争で消滅エンジニアリング事業も開始した。資本金約九カオし日冫 〈藤村道生〉 八億円 ( 一九八七 ) 、国内に二四工場。〈中村清司〉会と衝突、政治的危機にみまわれた。その政治 三〇余か寺の寺院を創建した。著書に『立正治 しやくぶくしようしよ、つでんとうしよう 国論』のほか「折伏正義抄』『伝燈抄』『谷回信夫清三郎編『日本外交史』 ( 一九七四・毎日新日清戦争に。しんせんそう一八九四年 ( 明的危機を回避するため、九四年三月ごろには、 しよう えんぎ 〈中尾堯〉 聞社 ) 抄』『本法寺縁起』がある。 治二七 ) の夏から翌年春にかけて、主として朝当時進められていたイギリスとの条約改正に成 につしんしんじし一八七二年鮮の支配をめぐって戦われた日本と清国 ( 中功するか、対外戦争を引き起こして国民の関心 に。しんかん会津藩 ( 福島県 ) の藩日新真事 日新館 ほしなまさゆき 学。好学の藩祖保科正之の後を受け、一七八 ( 明治五 ) 三月一六日、イギリス人。フラック国 ) との戦争。中国では、一八九四年の干支かを外にそらせるか、またはクーデターによって かたのぶ 年 ( 天明八 ) 五代藩主松平容頌が、家老田中玄 John Reddie Black が東京で創刊した日刊紙。 ら、甲午中日戦争という。 憲法を停止するか、とまで考えざるをえない状 宰の建言で創立。藩士の子弟一〇歳以上の就学初め一か月ほどは隔日刊であったが、内外のニ 〔戦争前の日本と朝鮮・清国との関係〕日本で况に、日本政府は立ち至っていた。したがっ を規定。一七九九年 ( 寛政一一 ) 日新館と命 ュース、出入船舶表、相場表、論説、広告を掲 は明治政府成立の直後から、朝鮮侵略政策が政て、ちょうどそのころ朝鮮に甲午農民戦争が起 名、生徒一〇〇〇名余。漢 ( 朱子 ) 学を中心 載する堂々たる新聞で、七月には政府買上げ紙府の重要な対外政策となり、一八七五年 ( 明治こると、これに注目し、朝鮮政府が清国に出兵 しんとうすいか 一一うかとう に、皇学、神道 ( 垂加 ) 、洋 ( 医 ) 学、武学を ( 各府県へ渡す ) 、一一月七日には左院御用 ( 議 八 ) には江華島事件を引き起こし、翌七六年にを請うと、日本も出兵し、これを機会に日清間 教え、一五歳以上は武学も併修。生徒は学業の事録などの掲載紙 ) の特典を与えられた。しか は朝鮮側に一方的に不平等な日朝修好条規を結の戦争を始めようとした。五月三一日、第六議 かおる とよとみ 進度により四等級に編成され、試験により進級し七三年五月七日、井上馨、渋沢栄一の「財政ばせた。しかし、朝では豊臣秀吉の朝鮮侵略会で政府弾劾の上奏案が可決されると、六月二 する制度であった。成績優秀者は大学校 ( 至善 意見書」、七四年一月一八日には板垣退助らの によって受けた民族的苦痛は長く記憶され、そ日には議会を解散すると同時に、朝鮮への出兵 みんせん がぎん 堂 ) に進み、学業・武道で一定の成績に達しな「民撰議院設立建白書」を特報するなど政治事のうえ欧米の資本主義国の侵入を警戒し、日本を決定し、清軍が農民戦争発生地近くの牙山方 かとく えいせいせきじゃ い者は退塾を許さず、家督相続で扶持を減じら 件をスクープするようになったため、政府は。フも同じく「洋賊」であるとする衛正斥邪論を主面に上陸したのに対し、日本軍は六月中旬まで 醪 はる つるみ 誌真新日 - 一うしん

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にいがた ⅵ曷西 臨海町 ・総町兀 卍正命寺 潟鉄工所 ー湊町 附属 陵 - 女子 謇第 ( 第本ター ⅸ冠 文ー / 青陵高文 & を弯事 屋松ー しっ 西船見 ロ丁き 潟テレビ 2 新を大要 潟グランド コープケミカル 一日 : : 神幵 白山公園、、義茶旧議掌 . = = = = ・、 北越製 ーを第 ) を冫年 1 ド当第体育 ,. 渠化会館 。ホデ △ー △ 2 ( 第第発 ガしせきや ◎県 0 卍 1 , 宝寺 [ 二〕こコ [ 二 : : コ に匚コ匚 ) 新潟市 い 本 海 1000m 500 1 : 4 〇 , 〇〇〇 月。舞ネ 一 1 ニ橋ー わ . 屋大 央き売日 ö国道工事 南凵 ( ①東方上空から新潟駅と市街地を望む。新潟駅は 1904 年 ( 明治 37 ) 私鉄駅として開業し , 新潟市 07 年国鉄に編入。現在の駅舎は , 当時より約 300E 東方に 1958 年建てられ , 上越新幹線 , 信越本線 , 越後線 , 白新線などが発着する。イ罍農川河口に新潟港が望見される ②旧新潟税関庁舎。新潟港開港の翌年 , 1869 年 ( 明治 2 ) 建造された。屋根に監視塔を設 け , 正面入口はアーチになっている。現在新潟市郷土資料館。重文 3 新潟祭 ( 住吉祭 ) 。船首に竜をかたどった御座船で神輿を渡す水上渡御の行事が行われ , 8 月 6 ~ 7 日大民謡流し , 8 日花火大会がある 657

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とやまが り李各大背訪 , 矢にと舞ど富末 だ。売薬業者の納める役金は藩庫を潤したが、 魂丹」の処方を伝授され、この薬方が非常に功 ムロ , をは , る先げ産め歌な ~ 一行の を奏したことから、藩の事業として各地に行商藩財政は慢性的赤字で、その対策をめぐって家 2 柳李れみ先にんえ意一土 , 跡た明 そうが の行入包意段ば見得にで旧いら させることにしたという。当初は町役所の総曲臣間の対立が強かった。一八五七年 ( 安政四 ) 売用はをで得上ろか。もの・てか わ とみたひょうぶ 薬商人薬い敷で最そり画とも所れ末 輪で売薬商の取締り管理をしていたが、のちに江戸家老富田兵部が詰め腹を切らされ、六四年 , よ版とた名ら幕の の行薬にろ呂 かぜん かつま 山〕売段嵐担たこ薬どしゃ刷 , も同役所内に反魂丹役所が設けられ、藩の財政も ( 元治一 ) 家老の山田嘉膳は藩士島田勝摩に斬 としあっ にねば場 , 売な参面でれた 鱚て〕船持場色され大いに潤ったと伝えられる。行商の方法は、現られた。最後の藩主一三代利同は宗家金沢から 立医風て名彩刷わ 角しの極印使在とほば同様の配置販売方式がとられた。すな迎えられたが、藩政の終息した一八七一年 ( 明 、伎がでで わち、各家庭にあらかじめ薬を置いておき、年治四 ) にはまだ一六歳であった。〈坂井誠一〉 山ま に一度か二度、家庭訪問し、使用された薬の代回坂井誠一著『富山藩』 ( 一九七四・巧玄出版 ) 金のみを受け取り、使用分を再度補充する、 富山平野とやまへいや広義には富山県の平 たてやま わゆる「先用後利」の方法である。家庭訪問に野の全部をさす。東は北アルプスの立山連峰、 みやげ となみ 際しては、配置員 ( 売薬人 ) が子供への土産南は飛騨の北部山地、西は砺波の丘陵性山地に ( 角風船や売薬版画 ) や各地のニュースを運ん囲まれ、北は富山湾に面する地域で、中央部の 1 」とう ごせい くれは でくるため、たいへんに喜ばれた。また、藩と呉羽止陵によって呉東平野と呉西平野に二分さ じんづう じ上うがんじ かみいち しても配置員の教育には力を入れ、まじめで信れる。呉東平野は、神通川、常願寺川、上市 はやっき 、早月川、片貝川などの新旧扇状地の複合平 頼できる人材の養成に努めた。 富山売薬は現在も行われており、約四七〇〇野と独立的な黒部川扇状地からなり、呉西平野 しよう いみず は、低平なデルタ性の射水平野と庄川扇状地が 人の配置員が登録されている。配置薬の種類は 風邪薬、胃腸薬、膏薬などのほか、近年では応大部分を占める砺波平野、二上山で分離してい ひみ 急バンドテープやドリンク剤なども加わり、そるが低平な氷見平野からなる。 の配置品目は増えている。なお、顧客名簿であ 狭義の富山平野は呉東平野の一部で、富山湾 に臨む沖積平野である。神通川と常願寺川によ る「懸場帳」は売買の対象ともされる。↓ 〈難波恒雄・御影雅幸〉り形成された扇状地で、立山に源流をもっ常願 た。著書に『蚕種論』 ( 一九 0 九 ) がある。一九一家庭薬↓行商 戸山ヶ原とやまがはら東京都新宿区のほば 寺川は急流で、上流部にカルデラの大崩壊地が 中央部にある地域名。江戸時代、尾張徳川家の五年に学士院賞受賞。↓遺伝学〈田島弥太郎〉回宗田一著『日本の名薬』 ( 一一・八坂書房 ) 下屋敷があり、今も残る箱根山 ( 四四・六メ 国立。一九四九年富山藩とやまはん百万石加賀藩の分藩。一あり、大量の土砂を流出し平野部に水害をもた 富山大学とやまだいがく としつね 旧東京市内最高地 ) は、当時の築山 ( 玉円峰 ) ( 昭和二四 ) 富山薬学専門学校、富山高等学校、六三九年 ( 寛永一六 ) 加賀藩三代前田利常が幕らした。平野の中心は富山市である。〈深井三郎〉 みったか ー一九 00 ) 明 で、相模の箱根山に見立てて、庭内を旅する趣高岡工業専門学校、富山師範学校、富山青年師府に願い出て、長子光高に加賀藩八十万石を継外山正一とやままさかず ( 天哭 かえい としはるだい としつぐ 向につくられていたという。明治以降、陸軍用範学校を統合して、文理、教育学、薬学、工学がせ、次子利次に富山藩十万石、三子利治に大治期の学者、文化人。嘉永元年九月二七日静岡 ちゅぎん 地となり、陸軍戸山学校や射撃場・演習場に使の四学部からなる新制大学として発足。その聖寺藩七万石を分与し、自身は小松に隠居、藩士の家に生まれる。幼名捨八、号ゝ山。一、 六六年 ( 慶応一 l) 幕府留学生としてイギリスへ 後、経済学部の新設 ( 一九五三 ) 、文理学部の改組養老領として二十二万石を領有した。富山藩の 用された。第二次大戦後は、住宅・文教地区と えっちゅう 領域は、越中国 ( 富山県 ) 婦負郡六万石、加留学。帰国後、静岡学校教授兼洋学部長を経て なり、戸山ハイツ、国立病院医療センター、早 ( 一九七七 ) による人文学部、理学部の設置を経て、 ありのり 〈沢田清〉現在は五学部 ( 人文学、教育学、経済学、理賀国 ( 石川県 ) 能美郡のうち二万石、越中国新七〇年 ( 明治三 ) 外務省弁務少記として森有礼 稲田大学文学部などがある。 かわ とともにアメリカ駐在、のち辞任しミシガン大 川郡のうち二万石であった。利次は分藩のと 外山亀太郎とやまかめたろう ( 天六七ー一九一 0 学、工学 ) に大学院修士課程 ( 人文科学、理 ひやくづか き、婦負郡百塚に築城することを考え、富山学で哲学、理学を修め、七六年帰国。開成学校 学、工学 ) の構成となっている。なお薬学部と 動物学者、遺伝学者。神奈川県の生まれ。一、 九四年 ( 明治二七 ) 東京帝国大学農科大学卒和漢薬研究所は七五年に新設された富山医科薬を仮城としていちおう入城した。しかし財政的教授、東京大学、帝国大学、東京帝国大学教授 にも百塚での築城は困難であり、また分藩時のを歴任し、九三年からわが国初の社会学講座を 業。九六年福島県立蚕業学校長。一九〇二年科大学へ移管された。附属教育研究施設として ( 明治三五 ) タイへ養蚕指導のため出向、カイ教育実践研究指導センター、トリチウム科学セ領地が分散していて不便であった。これらの矛担当。東京大学文科大学長、東京帝国大学総長 」ふく コの遺伝学的研究を行う。帰国後、蚕業試験場ンターなどがある。本部は富山市五福三一九盾を解決するため、一六五九年 ( 万治一 l) 宗藩を務め、九八年第三次伊藤内閣文部大臣とな 〈馬越徹〉との間で国替が行われた。すなわち能美郡のうる。進化論・スペンサー学説の紹介、ローマ字 技師、東京帝国大学助教授を経て、一七年 ( 大〇。 うらやま 正六 ) に教授。メンデルの法則が再発見 ( 一九 富山の薬売りとやまのくすりうり富山からち二万石、新川郡浦山あたり一万六千八百石学会の創設、音楽・絵画・演劇の改良など、そ の活動は多岐にわたり、矢田部良吉、井上巽軒 00 ) されたころ、カイコの遺伝研究により、動日本全国の家庭へ配置家庭薬を行商に回る人、が、加賀藩領であった富山町およびその近郊の えっちゅう あるいはその行為をいう。後者は越中売薬あ新川郡の村々と替地された。「越中富山の薬売らと『新体詩抄』 (l<<ll) を刊行して、日本近 物界にもメンデルの法則が適用されることを、 世界に先駆けて明らかにした ( 一九 0 六 ) 。そのほるいは富山売薬ともよばれる。越中売薬は、富り」として全国的に著名な富山売薬は、二代藩代詩史上の先駆をなすなど、明治の文化・教育 ま ~ ことし はん はんもん か、カイコの斑紋、繭色、卵色などの遺伝に関山藩第二代藩主前田正甫に始まるとされる。前主正甫が始めたと伝えられ、気付け薬である反に少なからぬ影響を与えた。高等教育会議議 ごんたん する数々の論文があり、母性遺伝現象にも正し田正甫は生来病弱で、幼いころから医薬に対す魂丹などを配置行商した。藩は反魂丹役所を設員、貴族院議員、初の東京帝国大学名誉教授。 えぞまつまえ い解釈をもっていた。また一代雑種の利用が蚕る関心が強い人であった。一七世紀の末、正甫けて指揮監督した。配置先は、北は蝦夷松前著書に『ゝ山存稿』 ( 一九 0 九 ) がある。明治三三 ばんだいじようかん 〈小股憲明〉 は当時の岡山藩医万代浄閑 ( 常閑 ) から「反 ( 北海道 ) から南は薩摩 ( 鹿児島 ) にまで及ん年三月八日没。 業上有利なことに着目し、その普及に努力し 寺一がみ 4 ま、 3 とし 瞽 ごんたん ーしっド」 さつま ひだ ~ 学 . ・刀し ふたかみ そんけん

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じようい ひもたけ やすちか ヨーロッパには靴の紐茸 shoe string mush- 屋安親、杉浦乗意とともに奈良三作と称された たみ″に / 、 ん家政学部に分離改組され、三学部となる。大学 る room のような俗名がある。また、オニノヤガ名ェで、とくに高肉彫りを得意とした。刀装具 5 院は修士課程三研究科 ( 文学、理学、家政学 ) ふちがしら つば せ れ ラ、ツチアケビなどの無葉緑のランは、ナラタのなかでも縁頭がもっとも多く、鐔は少ない。 一年には博士課程後期 ( 三年 ) だ さ 、らのほかに、八 レ」 ケ菌と共生して特殊な菌根をつくり、ナラタケ縁頭は利寿独自の腰の低いで、蒐鍮、赤 けからなる人間文化研究科 ( 比較文化学、生活 用 な 食菌に助けられて生活する。なお、新鮮なナラタ銅などの地に色金を多用して花鳥、人物を絵画 環境学 ) が設置された。本部は奈良市北魚屋東 ゅう 国ケの茎の根元の肉または菌糸は、ときに弱い発風に美しく表す。鐔はすべて肉厚の鉄地で、雄 〈馬越徹〉 町。 ちみつ ぞうがん の 〈今関六也〉勁かっ緻密な高肉彫り、象眼などに妙味をみせ 光性を示すという報告がある。 奈良線ならせん西日本旅客鉄道の線路名 きづ 多 称。京都府、木津ー京都間三四・七キ。、全線単 ならたけ病ならたけびよう林木や果樹の根ている。代表作に大森彦七図鐔 ( 重文、大阪・ し 〈原田一敏〉 系および幹の地際部が侵され、地上部全体がし田口家 ) がある。↓奈良派 線、直流電化。宇治川東岸および木津川東岸を 走って京都と奈良を結ぶ。沿線に宇治市、城陽 分おれて枯れる病気。病原菌はナラタケミミや奈良人形ならにんぎよう奈良市産の木彫り 地 斗ミ = き (Fr. ) Karst. というマッタケ目彩色人形。素材を生かし、一刀で荒彫りに形を 市などがある。奈良鉄道によって一八九五 ~ 九 ~ 二九 ) 開業し、関西鉄道の時 六年 ( 明治二八 界キシメジ科のキノコである。森林生息性で、木まとめてあるところから「奈良の一刀彫り」と 世 の根元に繁殖し、土壌中に黒色ひも状の根状菌もよばれ、古くから奈良名物にもなっている。 代を経て、一九〇七年 ( 明治四〇 ) 国有化、〇 でんがく かすが 、ケ糸束を伸ばし、生樹の根に接触すると侵入して江戸初期、奈良春日大社の祭具の島台や、田楽 九年の線路名称の統一で奈良線となった。当時 か ) たかさごおきなおうな ラ病気をおこす。カラマツやサクラでは水の停滞法師の笛役の笠などにつけた高砂の翁嫗、 は京都ー桃山間では現在の近畿日本鉄道京都線 しようじよう にしごもん しやすい場所で、ヒノキやクリでは逆に乾きや猩々の人形になそらえて、奈良・西御門町の のルートを運転していたが、二一年 ( 大正一 しようじゅ ひもの みなみこま すい土壌で集団的に発生する。緑地の貴重木で春日檜物職岡野平右衛門 ( 号松寿 ) が、檜物 ならだ山梨県西部、南巨摩郡早川 〇 ) 東海道本線の線路変更により、その旧線の奈良田 は防菌処理を加味した外科手術による治療法がをつくるかたわら、この人形作りを始めたのが 町最北部にある集落。早川渓谷の上流にあり、 京都ー稲荷間を奈良線に編入し、稲荷ー桃山間 - : つけーれ を新たに建設して在来線を廃止した。長らく非奈良時代に孝謙天皇が遷居されたという伝説、確立したが、造林地での防除はきわめて困難でおこりとされる。 りようせん 〈小林享夫〉 ヒノキ材を湯に浸して油を抜き、稜線を鋭 電化のまま用いられていて、京都ー奈良間にほそれにまつわる七不思議の伝えなどあり、隔絶ある。↓ナラタケ 3 要樹病 かす く表して彫り上げる。飾り物や根付け用として ば並行する近畿日本鉄道京都線が、スピード、 山村として民俗学的資料にも富んでおり、言語 奈良漬けならづけ粕漬けの代表的なもの の一つ。シロウリを主原料に、キュウリ、未熟売り出され、のちには能楽に取題したものや、 列車本数とも圧倒的優位にたち、奈良線は輸送にも特徴がある。しかし、第二次世界大戦後、 たちびなしか わきやく の小さいスイカ、ダイコンなどを調味・熟成し立雛、鹿などと種類を増やした。幕末から明治 電源開発のためダム ( 奈良田湖 ) が建設され、 力の小さな脇役的な鉄道の地位にとどまってい とえん ゅうしゆっ る。八四年 ( 昭和五九 ) に電化されたのちもそ旧集落は移転。温泉も湧出し、観光地化してた酒粕に漬けたもの。本来は、シロウリを漬け期にかけては、木彫家森川杜園が、鹿などを題 たものに限って奈良漬けとよんでいたが、今日 材にして芸術的な作品を発表した。現在奈良の の地位は本質的には変わっていない列車はす昔のおもかげは消えてしまっている。↓早川 なうり みやげ 〈横田忠夫〉では菜瓜類も用いられている。奈良は古代より観光土産としてつくられているが、五程度を べて木津より関西本線に乗り入れて京都ー奈良 ( 町 ) よい清酒の産地で、その酒粕を利用した粕漬中心に、一毳ンの小形物もある。春日大社から正 囮二万五千分の一地形図「奈良田」 間に直通運転される。 えと ふせ けも早くから発達していた。奈良で漬けられる月の干支守りとして授与しており、一九六七年 なお、近畿日本鉄道奈良線は、布施ー近鉄奈ナラタケ〔桷茸〕ゝ、ミミミミぶミミ ひつじ ( 昭和四一 l) の末年には、羊が年賀切手の図案 良間二六・七キ。 ( 一九一四年開業 ) 、生駒山地を (Fr. ) Karst. 担子菌類、マッタケ目キシメ漬物という意味でこの名がついた。原料のシロ 〈斎藤良輔〉 ジ科の食用キノコ。傘は五 ~ 一二拜一、丸形からウリは縦二つ割りにして種をとり、下漬け、中となった。 3 郷土玩具 貫いて大阪ー奈良間を結んでいる。〈青木栄一〉 とうだいじ あめ なら也んじ ( 天一一一一ー九 = ) 明治期平らに開く。傘の色は飴色ないし淡黄褐色で、漬け、本漬けの順に漬ける。下漬けは塩だけの奈良の大仏ならのだいぶつ 0 東大寺 奈良専一一 さめき の篤農家、農業技術者。讃岐国三木郡池尻村中心部に暗色の細かいささくれを帯び、周辺部場合と、酒粕を用いる場合がある。酒粕使用のナラノヤエサクラ〔奈良の八重桜〕 すじ ( 香川県三木町 ) 生まれ。若くしてイネの優良には放射状の筋がある。ひだは黄白色で、茎に場合は、古い酒粕に塩を混合して使う。中漬け P 、ミミ s ミミきき Koehne cv. ~ ミや Z ミミ バラ科の落葉高木。奈良に古くから知られるカ 種を選抜し、奈良稲とよばれ、近隣に普及し垂生。茎にはつばがあり、つばから下は黒みをは本漬けに用いたあとの古酒粕を利用する。中 た。明治になって香川県勧業係付属となり、一帯びる。胞子紋は白い。発生期は初夏から晩秋漬けは二〇 ~ 三〇日ごとに酒粕をかえて回数をスミザクラの八重咲き品種。葉は倒卵状楕円形 八七七年 ( 明治一〇 ) 第一回内国勧業博覧会にで、世界各地に分布する。多くの国で食菌とし多くするほど風味のよいものができる。普通、で長さ九 ~ 一一一、表面の脈上と葉柄に毛があ 酒粕の入れ替えは一 ~ 四回行う。本漬けに近づる。四月下旬 ~ 五月、茶褐色を帯びた葉を出す 自選のイネ、改良農具および稿本『農家得益て親しまれ、日本では、オリミキ、ポリポリ、 かんしょ ハキタケ、アシナガなど多数のくにつれてウリの塩分は少なくなり、酒粕の糖とともに、径約三の淡紅色花を開く。花弁は 弁』を出品して受賞、この間、砕土器、甘蔗圧サワモタシ、 三〇 ~ 三六枚、雌しべは一 ~ 二本あり、萼や小 搾器、運搬車などの改良を行った。八四年三田地方名がある。普通、立ち本や立ち枯れした木分やアルコール分が移行して風味がよくなる。 しようちゅう ぞうし の根元に束になって群生する。ナラタケは樹本本漬けは新しい熟成酒粕を用い、焼酎、みり花柄に毛がある。奈良市雑司町の知足院のもの 育種場雇となる。翌年『農家得益弁』が出版さ は国の天然記念物に指定されている。 3 膨サク れ、また千葉県巡回教師に迎えられて指導にあの病原菌としても知られ、林木、果樹、庭木なん、砂糖などをあわせた中に、中漬けの終わっ しんせん 一フ 〈小林義雄〉 たウリを漬け込む。漬け込み後一か月くらいか どを枯らす。その対象となる木は六〇〇余種に たり、これを『新撰米作改良法』として出版し ら食べられるが、べっこう色になるまで漬けた た ( 一会ノ 、 ) 。その後秋田県の有志に招かれて赴も上る。これをならたけ病といい、菌は根から 楢葉 ( 町 ) ならは ( まち ) 福島県浜通り南部、 ふたば ものが味にこくがある。↓粕漬け〈河野友美〉双葉郡の町。一九五六年 ( 昭和三一 ) 竜田、木 侵入して樹皮の下の形成層を侵していく。なら き、同地で没した。 わみようしよう ならとしなが ( 一六六七ー一七三六 ) 江戸戸の二村が合併して成立。町名は『倭名鈔』 彼の本領は選種であるが、メイチュウ防除指 たけ病で枯れた木の樹皮下には、黒色で光沢の奈良利寿 じようばん 、奈良の棆葉郷による。東日本旅客鉄道常磐線、国 導や西洋野菜・果樹や大麻、コンニヤクなどのある根状菌糸束が形成され、これによってナラ中期の装剣金工家。通称を太兵衛といし としはる としなが あぶくま 〈福島要一〉 タケは長い年月生き延びていく。この特徴から 利治の門人とも奈良利永の門人とも伝える。土道六号が通じる。西から阿武隈高地、丘陵、太 栽培指導も広く行った。 だえん

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、ら名大谷広太郎。一九六四年 ( 昭和三九 ) 九月、入選して認められ、卒業後『早稲田文学』の記ぶ。初代宗哲 ( 一六一七ー空 ) は通称を八郎兵衛、 げんひっ あん 、勇山、漆翁、方寸と号し 七世友右衛門から四世を襲名した。近代感覚の者となり、自然主義系統の作家として大正末ご名を玄弼といし ふじむらようけん む 女方として活躍。長男が八世友右衛門、次男がろまで小説、評論、翻訳を発表した。その後農た。点茶を好み藤村庸軒と深く交わり、千家の ) である。 〈服部幸雄〉民芸術に関心を寄せたり、教壇に立ったりした塗師として代々業を伝えた。三代宗哲 ( 一六究ー よ七世芝雀 ( 一九五五ー しつようきゅうさい が、四五年 ( 昭和二〇 ) 郷里に引きこもり、以一七七六 ) は漆桶、汲斎、紹朴と号し、中村家各 中村真一郎なかむらしんいちろう ( 一九天 なつめ しようがん ) 小説家、評論家。大正七年三月五日、東後晴耕雨読の生活を送った。作品集に『半生』代のうちもっとも著名。棗の作品が世に賞玩 ひょうはく され、七〇歳の賀に七〇〇点の棗をつくり、彭 京日本橋に生まれる。東京帝国大学仏文科卒 ( 一九 00 、『星湖集』 ( 一九一 0 ) 、『漂泊』 ( 一九一三 ) な ^ 郷家忠臣〉 業。一九四二年 ( 昭和一七 ) 加藤周一、福永武どがあり、翻訳には『ポヴリー夫人』 ( 一九一六 ) 祖宗哲と称された。 などがある。 彦らと文学研究グループ、マチネ・ポエティク 〈畑実〉中村大尉事件なかむらたいいじけん一九三 を結成。一方、ファシズムの荒れ狂うなかで発回「明治文学全集肥中村星湖他集』 ( 一九六九・筑一年 ( 昭和六 ) 六月一一七日、満州 ( 中国東北地 - もレ J こうあんれい しんたろう 表のあてもなく長編『死の影の下に』を書き続 摩書房 ) 区 ) 奥地の興安嶺方面を調査中の中村震太郎大雪オ物 なかむらせいじ ( 天六九ー一九六 0 ) 物尉が同行者とともに中国人に殺害された事件。 けた。それは、第二次世界大戦後、雑誌連載の中村清ニ のち、四七年 ( 昭和一三 ) 刊行されると一躍注理学者。福井県生まれ。一八九二年 ( 明治一一同年九月の満州事変の準備の一環として、中国 五 ) 帝国大学理科大学卒業。一九〇〇年 ( 明治敵視、排外熱をあおるために、軍部によって巧 目され、戦後派作家としての位置を確立した。 ェア穏そこ 象・一米 イ油文館人ノ 同年『近代文学』の同人に参加。以後『死の影三三 ) 東京帝国大学助教授、〇三 ~ 〇六年ドイみに利用された。参謀本部員であった中村大尉 一匣町寺・レ、 , 1 ニをノしき一をる 美の , か描カ の下に』の長編五部作をはじめ、『回転木馬』 ツ、フランスに留学して光学、結晶学を研究、 は、農業技師と身分を偽り、同地区において対 5 代目をらで魅て 一一年東京帝大理学部教授。一二年 ( 大正一 ) ソ作戦のための軍事スパイ活動を行ったが、関 ( 一九五七 ) 、『空中庭園』 ( 一九六三 ) 、『雲のゆき来』 ン正 3 近盲コ柔調なし 工大 ン ( 立のンの色的現 ( 一九六五 ) などで、さまざまな文学的実験を試み「偏光を用いてひずみを験する装置」で光弾性玉衡指揮下の中国兵に逮捕され、軍事スパイと 彝ロ年 x 国ア工風な問表 工京シシルか人に して処刑された。陸軍省は、七月中旬にこの事 ることとなる。他方、評論『王朝の文学』 ( 一九実験を行う。また、東洋音楽の理論をはじめ、 中 東ロロ一やのと らいさんよう 五七 ) や『頼山陽とその時代』 ( 一九七一。芸術選奨液体の拡散、湖沼の静振、三原山火山調査、日 件を察知、調査ののち、八月一七日にスパイ活 ( 一九只 受賞 ) などでも独自の境地を開く。評論にはは光東照宮の鳴き竜の調査、法隆寺などの古文化 ー六三 ) 小説 動の事実は隠蔽し、中国軍に殺害されたことの中村地平なかむらちへい あくたがわりゅうのすけ しらめ かに『芥川龍之介の世界』『近代文学への疑財の科学的調査、不知火、魔鏡の研究など広範みを発表した。そのためにこの事件は、国民の家。本名治兵衛。宮崎市生まれ。旧制台北高等 まるがめ 問』などがある。八五年長編『冬』で日本文芸な分野で活躍。また大学教授二人が四国の丸亀排外主義をあおるための宣伝材料として、軍部学校を経て一九三三年 ( 昭和八 ) 東京帝国大学 のぶお 大賞受賞。 〈関口安義〉の一婦人の透視能力を実験して確認し、社会的などに大いに利用されることになった。↓満州 美学科卒業。在学中、津村秀夫・信夫兄弟、植 としお 事変 に話題となった「千里眼事件」 ( 一九一 0 ) では、 。中村真一郎長篇全集』全三巻 ( 一九七 0 ・河出 〈風間秀人〉村敏夫と同人誌『四人』を発行。『作品』に発 ー一九表した『熱帯柳の種子』 ( 一九三一 I) で注目される。 書房新社 ) ▽『中村真一郎評論全集』全一巻科学的研究の擁護のため透視実験を厳しく批判中村太八郎なかむらたはちろう ( 天天 けいおう ぶせますじ ( 一九七一一・河出書房新社 ) ▽『中村真一郎短篇した。『物理実験法』 ( 一九三四 ) は名著として知ら 三五 ) 普選運動の推進者。慶応四年二月二〇日、卒業後、都新聞社に入社、また井伏鱒二に師 もぐら しようきよう ろうまん 全集』全一巻 ( 一九七三・河出書房新社 ) ▽篠れた。 〈井原聰〉長野県で名主の子に生まれる。奨匡社などの事。『日本浪曼派』にも加わり、『土龍どんもば なかむらがんじろう なかむらせんじゃく 0 中村鴈治郎 自由民権運動の影響下に育ち、上京して、一八 つくり』 ( 一九三七 ) は郷土色豊かな作品。『南方郵 田一士解説『日本の文学肥中村真一郎他』中村扇雀 ちょうじ せんじん ( 一九六九・中央公論社 ) 八三 ~ 八八年 ( 明治一六 ~ 二一 ) 岡千仭の漢学信』 ( 一九三 0 や『長耳国漂流記』 ( 一九四 0 ~ 四 I) は 中村宗十郎なかむらそうじゅうろう ( 天 = 五ー 瓮 ) 歌舞伎俳優。本名藤井重兵衛。屋号末広塾と専修学校に学ぶ。帰郷して、鉄道敷設や米南方に取材して浪漫的な作風を示す。四四年宮 中村新太郎なかむらしんたろう ( 天 ふどきそうしょ ひゅうが かせん 四 l) 地質学者。東京に生まれる。一九〇六年屋。俳名霞仙。名古屋生まれ。一七、八歳のこ穀取引所設置に努め、改進党・進歩党系の政治崎に疎開、「新風土記叢書」中の『日向』 ( 一九 なおえ ( 明治三九 ) 東京帝国大学地質学科卒業後、広ろ歌舞伎俳優になろうと志し、田舎回りの旅役家として知られた。印清戦争後、木下尚江らと四四 ) などもある。第二次世界大戦後は『義妹』 島高等師範学校講師、農商務省地質調査所技者から出発して修業のすえ、実力が認められ松本に平等会をつくり、九七年、東京で社会問 ( 一九四七 ) や『八年間』 ( 一九五 0 ) で現実的な作風を 師、朝鮮総督府技師を経て一九年 ( 大正八 ) 新て、やがて明治期の京阪劇壇の重鎮にまで出世題研究会、松本で普通選挙期成同盟会の結成に結実させ、宮崎県立図書館長を務めるなど地方 あらしかめぞう かめぞう 〈高橋春雄〉 設の京都帝国大学地質学科助教授に就任、ただ した立志伝中の名優。嵐亀蔵、中村歌女蔵、参画した。投獄にめげず、貴衆両議院への普選文化の振興にも力を尽くした。 みます ちにアメリカ、イギリス、フランス、イタリア 三枡源之助 ( 三世 ) を経て、一八六五年 ( 慶応請願書提出、雑誌『普通選挙』の発行などを松叫中村地平全集』全五巻 ( 一九七一・皆美社 ) に留学、一三年教授に昇任した。徹底した野外一 ) 中村宗十郎と改名。東京の九世市川団十郎本で行い、一九〇二年 ( 明治三五 ) 以降は全国中村彝なかむらつね ( 天ー一九 = 四 ) 洋画 調査教育で学生を指導し、幾多の優れた専門家 に対して、関西における演劇改良運動を実践しを舞台に普選運動に尽力した。日朝親善、土地家。明治二〇年七月三日、旧水戸藩士の三男と かつれき やまじあいざん じようばん を養成した。常磐炭田、平壌炭田の報告は模た。団十郎の「活歴」などのような急進主義を国有問題にも取り組み、〇五年、山路愛山らと して水戸に生まれる。早く父母と死別。陸軍幼 範的調査と仰がれ、内外の文献にも通じ、厳密とらず、漸進主義を唱え、劇場内外の慣習の近国家社会党の創立に参加、二五年 ( 大正一四 ) 年学校を肺結核で中退し、一九〇六年 ( 明治三 わじっ あおいばし せいき な批判検討で知られ、大正 ~ 昭和前期の地質学代化にも力を注いだ。写実的な芸風で、和実を には土地国有講究会を組織した。昭和一〇年一九 ) 白馬会の葵橋洋画研究所で黒田清輝に、 たちゃく かたき おんながたふけ ひがし ふせつみったに 界の進歩に大いに貢献した。 〈石山洋〉得意とし、立役のほか敵役、女方、老役をも〇月一七日没。墓所は東京多磨霊園、郷里東翌年太平洋画会研究所に移って中村不折、満谷 ちくま くこしろう ( 天会ー一九七四 ) 兼ねた。 〈服部幸雄〉筑摩郡山形村清水寺に顕彰碑がある。↓普通選風四郎に師事。太平洋画会展、文展に出品し、 中村星湖なかむらせいこ まさため わせだ 〈上條宏之〉 一〇年太平洋画会会員となる。同年第四回文展 説家。本名将為。山梨県生まれ。早稲田大学英中村宀示哲なかむらそうてつ江戸時代から京挙運動 せんけ 文科卒業。一九〇七年 ( 明治四〇 ) 早大在学都に続いた塗師。茶の湯家元・千家の職家の一回平野義太郎編『普選・土地国有論の父中村太出品の『海辺の村 ( 白壁の家 ) 』が三等賞、翌 中、『少年行』が『早稲田文学』の懸賞募集に の塗師として世襲した家柄で、現在一一代に及 八郎伝』 ( 一九一穴・日光書院 ) 年の文展では『女』が三等賞を受賞。新宿中村 たけ かぶき いんべい こっしん

10. 日本大百科全書 17

本での一部類似した状況は、はるかに遅れた歴史的時点におのナウマン、動物学のモースら一二人であり、日本人は数学 か日本科学史にほんかがくし だいろく やたべ いて生じた。 の菊池大麓、植物学の矢田部良吉ら三人であった。九年後、 ん 〔はじめに〕 西欧で近代科学・技術成立にあたって先駆となったのはカ東大が帝国大学となったときは菊池・矢田部のほか、物理学 じ。ようじ 〔近代日本の科学・技術〕近代科学の揺籃期 / 日本産業学である。一七世紀におけるそれへの社会的前提として運輸の山川健次郎 ( 天五四ー一九三一 ) 、化学の桜井錠二、古生物学の とよきち 革命展開期における近代科学・技術体系の成立 / 第 ( 船舶・運河など ) 、鉱山業ほかの産業の発展が要求する力学原田豊吉ら日本近代科学建設を担った人々が理科大学の中心 一次世界大戦より第二次世界大戦終結までの科学・ 上の諸問題が存在した。弾道学はそのまま力学の課題であとなっており、外国人は化学のダイバーズ、物理学のノット る。当時の日本の社会における生産力発展は、少なくともそのみであった。↓お雇い外国人 技術 うした問題を提起しうるまでには至っていない。さらに思想 〔現代日本の科学・技術〕現代科学・技術体系の確立と 明治初期、殖産興業の中枢となったのは一八七〇年設置の 面でみるとき、西欧においてはギリシア哲学、キリスト教的工部省で、その下に技術者養成を目的に工学寮が置かれた。 展開 / 今日の問題点 世界観、およびそれらへの対抗的思想の発展が近代科学成立これは七七年工部大学校と改称、七九年第一回卒業生一一三名 はじめに への契機として大きく作用したのに対して、日本では儒学そを出す。うち一一名は海外に留学、そのなかに化学の高峰 じようきち しだりんざぶろう みよししんろくろう 約一三〇年前、数隻の黒船に驚いた日本の社会は、そのの他が思想として存在はしたが、以上のような意味での契機譲吉、電気の志田林三郎、造船の三好晋六郎 ( 天五七ー一九 たつのきんご へんばう 後、大きな変貌を遂げ、今日に至っている。その変化の基軸とはなりえなかった。かくして封建時代にあっては、近代科 一 0 ) 、建築の辰野金吾らが含まれている。この時期は日本産 の一つとなるのが、科学・技術の社会における制度的確立で学樹立へ向けての日本社会の力量は、部分的に発揮されるこ業革命のいわば前段階にあたるが、その機械制紡績業の先駆 たかかずたけべかた あることはいうまでもない とはあっても ( たとえば前述の事例や和算の関孝和、建部賢となったのは、幕末・明治維新期に創設されたいわゆる始祖 かしま ひろ 私たちが今日、自らのものとしている現代科学・技術は、弘ら ) 、体系的に示されることはありえなかった。それは、 三紡績 ( 鹿児島・堺・鹿島紡績所 ) である。政府による綿紡 明らかに西欧社会にその起源をたどらなければならない。歴幕末・明治期の西欧科学・技術の導入・移植の過程以降にお績業の保護育成は一八七〇年ごろから積極的に進められ、 いて試されることとなる。 史上、日本が西欧文明に接した大きな画期が二度ある。一度 〇年代なかばにかけて紡績機払下げ工場として岡山・三重・ はペリー来航・明治維新期であり、いま一度がその約三世紀 佐賀・山梨・大阪・長崎・静岡・栃木の府県にいわゆる十基 近代日本の科学・技術 前の鉄砲伝来である。前者は日本における近代社会樹立にと 紡が成立する。最初から民間紡績会社として大規模生産を開 しよくほう って決定的な意味をもつものとなった。一方、後者は織豊 〔近代科学の揺籃期 ( 天五三 ~ / 、五 ) 〕日本における近代的かっ始したのは大阪紡績会社である。八三年ごろからミュール一 政権から徳川幕藩体制という統一的封建社会成立への重要な体系的な科学・技術の成立は、明治維新政権の成立 ( 一会 0 万〇五〇〇錘の大規模生産を蒸気動力で開始、綿紡績業とし 契機となった。鉄砲伝来の年、一五四三年 ( 天文一一 l) は世から第二次世界大戦の終結 ( 一九四五 ) までを画期とする約八〇て昼夜二交替制を初めて採用し、そのために八六年に工場と 界科学史上の観点からすれば、コペルニクスの『天球の回転年間に欧米のそれの導入・移植をもって始まった。その最初 しては初めて電灯を設備した。大阪紡績はのちに東洋紡とな について』および・ヘサリウスの『人体の構造について』 ( フの拠点となったのは、徳川幕府が創立した長崎海軍伝習所る。一方、生糸製糸業のために政府は群馬県富岡に富岡製糸 ばんしよしらべしょ ア。フリカ ) が刊行された画期的な年である。その年に日本は ( 一会五 ) 、蕃書調所 ( 天五六 ) 、沼津兵学校 ( 一会 0 などであ場を設立し、一八七二年開業した。 西欧文明・技術の成果、しかも火器という形のものに直接、る。蕃書調所はのちの東京大学に、長崎海軍伝習所の修理工 〔日本産業革命展開期における近代科学・技術体系の成立 みつびし 接したのである。鉄砲伝来から鎖国期に至る間のキリシタン場として誕生した長崎製鉄所はのちに三菱重工業長崎造船所 ( 一、、 ~ 一九一一 (l) 〕日本資本主義成立の前提としての本源的蓄積 らんがく ばっ・一う 文化移入および江戸時代中期以降の蘭学の勃興とその展開となる。幕末・明治初期に欧米科学の急速な導入・移植を可は地租改正 ( 天七三 ) から松方内閣によるデフレ政策に至る間 らんがく 能にした第一の前提は、一八世紀以降の蘭学者たちの存在で は、幕末期のシーポルトの来日とその影響などを含めて、明 に集中的に遂行され、その最終段階である一八八五年末 ~ 治期の欧米科学・技術の本格的導入、国内における近代科ある。実験・観察を重視する近代科学の精神と方法は蘭学を六年に日本の産業革命は本格的に始動し、ほば一九〇〇 ( 明 学・技術成立の重要な前提条件となった。↓蘭学 学んだ者たちによって開拓された。 治三三 ) ~ 一〇年の間に達成されて産業資本の確立をみる。 日本の開国後の貿易相手国の中心はイギリス、ついでアメ国民経済の資本主義的編成が軌道にのると、日本資本主義は 鉄砲伝来が、社会的・歴史的大事件としての意義をもつの は、その後の迅速な普及があってのことである。それを可能 リカで、オランダは競争力を失っていた。そして開国後約一その確立が同時的に帝国主義への転化の過程となるという世 にしたのは当時の刀鍛冶を中心とする優れた鍛工技術であっ〇年間で蘭学から英学への転換は決定的になった。幕末 ~ 明界史上例のない道を歩み出す。この過程に、教育・科学・技 ありのり た。また蘭学の代表的事業である『解体新書』刊行 ( 一七七四 ) 治にかけて欧米近代文化の移植に大きな力を発揮したのはお術の側面で直接に呼応するのが、初代文部大臣の森有礼によ げんばく は、それを成功させた杉田玄白ら蘭医の力量と努力があって雇い外国人たちである。その人数が多かった時期は一八七〇り着手された諸教育改革である。一 、八六年帝国大学令公布 可能となった。さらに幕末期、物理・化学などの分野の蘭書 ( 明治三 ) ~ 八〇年の約一〇年間である。アメリカ人、イギとともに、東大は法・文・理・エ・医の各分科大学よりなる あおちりんそう ようあん 翻訳を行ったのは、青地林宗、宇田川榕菴ら蘭医であった。 リス人が多く、ドイツ人、フランス人がそれに次いだ。七七帝国大学となり、同年、師範学校令、 小学校令、中学校令な 西欧における近代科学・技術成立過程においても、医師・高年、開成学校と東京医学校が合併して東京大学が成立したと ども公布された。また、この年、現役陸軍大佐が東京師範学 やきん 級職人たちがその一翼を担ったことはよく知られている。日 き、理学部教授は外国人が化学のアトキンソン、地質・冶金校長となった。 / ノ六