観衆のなかになにがしかの意識をもたらしたものと思われ略』 ( 天 ) を書いて、野蛮↓半開↓文明という一種の発展 んる。まず、民衆が一定の歴史観・歴史意識をもちうる機会・ なめし 段階論を提出し、半開日本の文明化を希求した。「日本国の ほ背景を列挙すると、①名主など村役人層による村連営の際やる。 じだん 最後に③について考えてみたい。近世は、寺檀制度の下で歴史はなくして日本政府の歴史あるのみ」、彼は政権交替の に寺子屋などを通じて断片的な歴史事象が知らされうること、 じようるり 盟浄瑠璃・歌舞伎などの芸能の世界に触れること、③仏教や中世以上に仏教ないし仏教的習俗が民衆の生活のなかに定着叙述に中心を置くこれまでの歴史書をこう批判して、人民の あんしよう 民衆の信仰のなかの生命観・自然観に含まれる広義の歴史観した時代であった。仏教的世界観・生命観が、経文の諳誦歴史、被治者の歴史を指向し、「権力の偏重」に日本歴史の ふしだんせつばう に日ごろから触れていること、などである。以下順次考察をや法話、節談説法、絵解き仏教説話などを通じて、広く民衆特質をみた。こうした日本社会の病弊の告発は、西洋と日本 とを対比するという世界史的視野を前提として初めて成り立 の生活意識として根づいていった。宗派による差異が著しい 加えたい。 いんがおうほ、つ りんねてんしよう まず①についてであるが、これはどちらかといえば、前述ので一概に論じられないが、輪廻転生観、因果応報観、他ったものであった。しかし、福沢の功績は特質の把握に終わ うきち の支配層が有する歴史認識が持ち込まれうる機会である。た界観などは、人間の歴史に対する見方を包摂する観念であって、日本社会の発展過程の解明は、次に出た田口卯吉の手 そうもう だし、幕末期に平田派国学に傾斜したいわゆる草莽の国学的り、それらが実に多様な形態で生活のなかに漂っていた点をにゆだねられた。自由主義経済学者として著名な田口は『日 <ll) を書き、史料に依拠して日本の歴 な名主が村政運営する場合などには、そうした歴史認識の一十分に検討すべきであろう。自己およびいっさいの生命を、本開化小史』 ( 天七七 ~ 過去 ( 宿世 ) から現在 ( 現世 ) そして未来 ( 来世 ) へと転生史を発展的に描き出した。彼は歴史の法則的認識を目ざし、 端が村内に直接的に持ち込まれることがあったとみてよい が、一般的には名主や村役人自身がそれほど具体的な歴史認するものとするとらえ方、また来世での浄土往生に至上の価歴史発展の原動力を人間の本来的欲望と、生産力の発展に求 彼らが記したかなり詳しい参宮道値をみいだす価値観などは、その展開のありようによってめた。歴史に向き合う田口の主体的姿勢は、自由民権運動に 識を持ち合わせていない。 , 中記などをみても、旅中の史跡に対する知識は、おおむねは、現実の歴史における権力者的な価値観を相対化する役割くみし、当年の政府の干渉主義的経済政策を厳しく批判して たいへいき いた実践と深くかかわり合うものであった。 『太平記』などの軍記物や芸能からのものであり、物語的歴を果たすものである。たとえば、能の世界では、現世の戦い 〔明治国家とアカデミズム史学〕在野の文明史学が近代的な 史認識である。したがって、支配層が有していた天皇と武家で数々の武勲をたてた武士が、来世においてその殺生の罪の しゆら ために修羅の苦しみを受け、成仏できずにいるような場面が歴史認識の水門を開いているとき、政府の側は正史編纂事業 にかかわる歴史認識などが、上から意図的に注入されること そこでは現世の封建的価値観は仏教の普遍的を進めていた。これを担当したのは修史局に集まった考証学 はほとんどなかったとみられる。また、寺子屋なども特殊な少なくないが、 しげのやすつぐ くめくにたけ ほしのひさし 場合を除けば読み書きなどの技術の習得が中心で、近代の学人間観によって否定されている。こうした仏教的思惟が、特系の漢学者、重野安繹・久米邦武・星野恒らで、彼らは新史 校のように、支配の要請によって儒教的な思想が歴史認識に定の歴史観の受容以前に、近世民衆のなかに広範な規範とし料に基づく考証の結果、『大日本史』に代表される大義名分 的・勧善懲悪的歴史認識をしだいに退けていった。一方、一 て存在していたことは見落とせない。すなわち、近代におい かかわることとして系統的に教授されることは少なかった。 かみがた 八〇年代、ドイツ流に傾斜していく国家路線に対応して、 次に⑦について述べる。近世中期に上方で盛んになった人て国家的「民族的」な一国史観が、封建的忠孝観念を媒介に して上から押し付けられてくる以前に、それを拒絶しうる、歴史学にもドイツの影響が及び始めた。一八八七年 ( 明治二 形浄瑠璃や、後期 ~ 幕末期に江戸で栄えた歌舞伎などの作品 にも、ある意味の歴史観・歴史意識が潜んでいる。江戸・大より普遍的な思惟のあり方が民衆のなかに存在していたこと〇 ) 帝国大学文科大学に史学科が設置され、ランケの弟子リ かなた ースが教授として着任。その助言で史学会が創立され、『史 坂・京都の三都の富裕町人や、伊勢参宮などの旅に出た地方をみておく必要があろう。なお、海の彼方からやがてこの世 みろく に弥勒の世がもたらされるという弥勒信仰も、民衆がもって学雑誌』が刊された。また、修史局は八八年に帝国大学に の上層農民らが江戸や大坂でこれらに親しんだが、たとえば かんじんちょう すがわらでんじゅてならいかがみよしつねせんばんぎくら いた土俗的なユートピア感覚であり、民衆的歴史観の一つと移管されて、重野らは八九年設置の国史学科教授となった。 歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『勧進帳』など こうして、考証史学とランケ風ドイツ史学を基礎にアカデミ いえる。幕末の百姓一揆の高揚や世直し情勢のなかで、そう では歴史の「敗者」に同情が寄せられ、強い権力や勝者を好 ほんちょうにじゅうし一一う まない情本位の歴史観が提供される。また『本朝廿四孝』した弥勒信仰的な歴史観の発露があったことも記憶にとどめズム史学は成立した。草創期の『史学雑誌』は考証派の論文 くもん かつより 〈奈倉哲三〉 を掲げて、儒教的大義名分論と対決した。しかし、第五号誌 では、敵対する武将の娘への恋に苦悶する武田勝頼が描かれたい。 上でリースが、抽象的な議論をやめて史料に基づく調査・研 ④近・現代における歴史認識 ている。これ以外にも、武士が主君への忠義のため親子・夫 婦の情愛を犠牲にするようなテーマ・場面が多く、儒教的封近・現代における歴史認識の推移を、各時期の主要な課究に従事すべきことを提起してから、実証主義・史料主義が 建道徳を優先させながらも、それがしばしば人間の情に対立題・思潮と歴史学のあり方とのかかわりに中心を据えて、み主流となっていった。一八九〇年教育勅語が出されたとき、 星野はこれに迎合する道を選び、他方、久米は論文「神道ハ するものであることが描かれており、観衆の側で武家社会のていくことにしよう。 あり方を相対化する契機が含まれていたことは、民衆の歴史〔文明開化と文明史学〕日本人の近代的な歴史認識は、明治祭天の古俗」が神道家・国家主義者の攻撃にあって、大学を 追われた。こうして官学アカデミズムは、政治権力に従属し 観を検討するうえで留意すべき点であろう。また、幕末期の初年の「文明開化」の思潮のなかに源を発する。ギゾーやバ ゅう ックルの文明史、およびスペンサーの社会理論が、その湧ながら、問題意識を欠いた実証主義を歴史学の基本とする道 百姓一揆の激発のなかで、一八五一年 ( 嘉永四 ) に江戸中村 けいもう さくらぎみん ひがしやまさくらそうし しままで出に多大な影響を与えた。啓蒙思想家たちは日本社会の近を歩んでいく。 座が上演した『東山桜荘子』 ( 佐倉義民伝 ) は、、 不動のようにみえていた武家の支配が大きく動揺してきたと代化を図ろうとする優れて実践的な意識に支えられて、日本〔民友社と史論史学〕アカデミズム史学の成立期は、他方で ゆきち の過去と直面し、これと対決した。福沢諭吉は『文明論之概史論史学の台頭期でもあった。それは、一八九〇年前後から きだけに、歴史に対する民衆の主体的なかかわりについて、 いっき しゆっ
を支配するものであった。慈円は現実の世界を「顕」とし、 ことを許されない以上、権力の正当性を表明する対象もまた展開された。 とうこあいぎわせいしさい それに対して、人々の目には見えない超越したこの世界を本来的には支配層に限られていた。したがって、日本の国家後期に至ると、その編纂を継承した藤田東湖・会沢正志斎 などが新たな国家観・歴史認識を展開する。彼らの歴史認識 「冥」の世界と位置づけている。中世に幾度となく書かれたの具体的な歴史事象に対する認識に限定すれば、近世という きしようもん せ はちまん は、ヨーロッパ勢力が外圧として押し寄せ、幕藩体制内部の 起請文には、もし偽りをいったならば、伊勢大神宮や八幡時代に歴史認識を有する者は支配層に限らざるをえないし、 だいばさっ じんぎ 大菩薩をはじめ日本国中の大小神祇、さらには大地をつかさ拡大してみてもせいぜい、そのなかにあって時の権力者とは矛盾も露呈されてきた時点で、支配層が抱いた民族の危機意 - 一うむ みようばっ どる地神に至るまでの「冥罰」をわが身に蒙るべしと記さ 距離のある者、あるいは権力的な歴史認識に対する批判を内識の一つにほかならす、これは、東湖においては尊王攘夷論 れている。ここでも人々よ、、 。しつでも自分たちの言動を注目包した一部の知識層の者にまで広げられるだけであろう。一 の主張として、また会沢においては国体論の主張として展開 しんろん こま、その根底にヨーロッ しているものたちがいることを意識しており、そのものたち方、近代へと移行するこの時代は、民衆が歴史そのものに参された。とくに会沢の著『新論』し。 の照覧が誓約を成立させる大きな力となっている。この加してくる時代、あるいは参加していたはずの民衆がそのこ パ列強に対する劣等感覚を内包した ( それと表裏の ) 優越感 「冥」の世界は、秩序だった神々と仏だけの世界ではない。 とを自覚してくる時代である。このことを踏まえれば、民衆覚が、神話的な「神州」に対する陶酔感として漂っており、 たとえば頻発する火事は「天魔の所為か」とされ、また将軍のなかにたとえ断片的もしくは人物伝的なものであっても、狭量で排外主義的な歴史認識が「情熱的」に表明されてい もとおりのりなが らくちゅう の没落を声高に告げ知らせるものがいて洛中騒動という事そこにはより広い意味での歴史意識、あるいは漠然とした歴る。また、後期水戸学の歴史認識の形成には、本居宣長に発 あったね てんこ 態が起きたときも、それは「天狐のしわざか」ということに史観とでもいうべきものが形成されているはずである。重要し平田篤胤に至る国学の歴史認識と国家観が強く働いてい なことは、そのような歴史意識あるいは歴史観が、民衆のなる。宣長の『古事記伝』における考証学的作風も、篤胤の なってくる。「天魔」や「天狐」、そして『太平記』で縦横に ・ち - ト - うりよう ・一しちょう てんぐ おんりよう じゅじゅっ こよみられず、神道的要素が非合理的・国粋主義 跳梁する「天狗」や「怨霊」などの霊的で呪術的な要素かにどのようなものとして存在していたかをとらえることで『古史徴』し。 をもっ存在をも含めた多様なものによって、「冥」の世界はあろう。 的方向で展開されている。これらが、後期水戸学の歴史認識 形づくられていたのである。 〔支配層および一部知識層の歴史認識〕近世前期におけるも と相まって、幕末期の尊王論者ー維新政権の官僚たちに大き らざん 末法の世になると、現実の世界の動きを支配しているっとも権力者的な立場からの歴史書は、幕府儒官の林羅山・ な影響を与え、近代天皇制国家の権力的な歴史認識日皇国史 ほんちょうつがん 「冥」の世界の道理を認識できなくなり、人々はこの世の移鵞峯父子が幕命によって編纂した『本朝通鑑』と、水戸藩観を形づくっていったのである。 らいさんよう たいせいさんてん り行く方向をとらえきれなくなる。では「冥」の世界とつな なお、『日本外史』を著した頼山陽や、幕末に『大勢三転 が編纂した『大日本史』であろう。「本朝通鑑』は、一般に だてちひろ がり、その意志を計りうるものはまったくなくなってしまう は儒教的合理主義にのっとった編年体の史書とされている考』を著した伊達千広などは、いずれも独自の歴史認識を有 のか。慈円は願文に、「顕」と「冥」が隔たってしまって混が、羅山個人の歴史観を貫くものは儒教的もしくは朱子学的していた。ことに山陽は天皇権威の絶対性、皇室の無窮性を 迷に陥ったなかで、未来を知る手だてはただ夢だけだ、と記合理主義とはいいがたい。羅山の歴史観が率直に表れている主張し、かっ現実の政権交替の不可避性をあわせ述べてお しんとうでんじゅ とうしようだいしんくんねんぶじよ じんぎほうてんじよ している。夢は「冥」の世界から発せられるテレバシーのよのは『神道伝授』や『東照大神君年譜序』『神祇宝典序』な り、これらも幕末の志士たちの行動に一つの歴史認識上の根 うなものと受け止められ、夢告の意味を知ろうとして人々は どであるが、そこでは朱子学的合理主義が有する歴史観の核拠を与えていった。 とうぶほうばっえきせい 大きな努力を傾けるのである。そしてもう一つの手だてが、 心である湯武放伐Ⅱ易姓革命の論理と、その思想的本質であ 以上の史論・史書にみられる歴史認識は、おおむね支配者 かくぶっちち 「冥」の世界からの化身としてこの世界に到来した特別な聖る格物致知は無視され、もつばら天皇家と徳川家の血縁の連的な立場からのそれであると一括しうるが、知識層のなかか 一 ) ういん なる存在である。すべてを予見できる優れた能力をもった予続の論理が貫かれている ( 家康皇胤説など ) 。羅山らにみら らこれらの史観とは根本的に対立する歴史認識を有する人物 しようえき ちゅうちょうじ 言者とされる聖徳太子も、そうした超越的な者の一人であれる歴史観の非朱子学性 ( 神儒習合的性格 ) は、『中朝事も出ている。そのなかでも安藤昌益はもっとも徹底的に反 ぶけじき しぜんしん る。それゆえ彼の予言は、「冥」の世界からの架橋であり、実』や『武家事紀』などで、「天皇が不徳のため統治を武臣権力的な歴史観を表明した者である。昌益はその著『自然真 やまがそこう えいどう とうどうしんでん 二つの世界を結ぶ神秘的な回路と考えられた。 に交替する」という論理を明確に展開した山鹿素行らにも共営道』や『統道真伝』において、支配者 ( 「聖人」 ) が民衆 どんしよく 中世社会を通じて、次々と繰り返し生み出され続けた末来通してみられるもので、彼らのそうした歴史認識には、天皇 ( 「衆人」「真人」 ) から搾取する ( 「不耕貪食」 ) ような治 記には、当時の人々の歴史に対する、こうしたとらえ方が一小を形式上の君主として承認して初めて成り立っ幕藩制国家の世のあり方自体が、歴史上のすべての乱の基であるとして現 されているのである。 〈酒井紀美〉あり方が直接反映していたといえよう。 実の階級社会 ( 「法世」 ) を否定し、本来の人間社会である ③近世における歴史認識 近世中期では新井白石がその著『読史余論』において、儒無階級のユートピア社会 ( 「自然世」 ) を、やがてくるべき 近世においては、権力の推移について具体的で系統的な歴教的合理主義の発想から歴史の発展段階的区分 ( 九変五変社会として想定しており、農民本位の空想的社会主義の歴史 史認識を有する者は、基本的には支配層に属する者だけであ観 ) を試み、武家政権発展の延長に徳川幕府権力が位置する観を表明している。 る。それは、学校という場で歴史を教えられる機会がなかっ ことを主張し、その治世の史的意義を礼賛したことが特筆さ 〔民衆のなかの歴史観〕近世の民衆がどのような歴史観・歴 んたためばかりではない。むしろ歴史認識が、権力者がその支れよう。一方、水戸藩主 ( 二代 ) 徳川光圀が多くの史家に命史意識を有していたかについてはまだまとまった研究はな ま配の正当性を弁明するために行った修史事業のなかで形成さ じて編纂を始めた紀伝体の史書『大日本史』には、南朝を正 。したがって、ここではそれを考えるうえでのいくつかの れたという本質的事情による。しかも民衆が政治に参加する統と主張したり、忠臣・逆臣を弁別するなど独自の尊王論が手掛りを提示し、若干の検討を加えることで今後の素材とす 8 みつくに
一九〇〇年代初頭にかけて、「官」に対する「民」の側から、部を基盤とした経済史学が経済政策と結び付き、日本資本主資本主義論争が展開された。論争を通じて問われたのは、日 ほんじようえいじろう 文明史学を受け継ぐ民間史学として登場してきた。代表的担義の要請にこたえながら発展していた。本庄栄治郎らがそ本社会の全体像を世界史のなかにいかに位置づけるべきかで ぎんぞう あいざんたけごしよさぶろうとくとみそほう い手は、山路愛山、竹越与三郎、徳富蘇峰らで、いずれも雑の中心であった。すでに一九〇〇年代、内田銀蔵が日本経済あった。 誌『国民之友』に拠る民友社系のジャーナリストであった。史と歴史理論に大きな成果を残していたが、西田・本庄の研〔ファッショ化と皇国史観〕『講座』が出たころ、官学アカ 彼らは考証に拘泥する官学史学への対抗意識を抱きながら、究はこれを継承・発展させたものであった。こうして、自由デミズムのなかには、歴史学を戦争とファシズムの具に供し ひらいずみきよし 政治・経済・社会・思想・文化の幅広い領域で史論を展開主義的な史学の潮流は、国民の歴史意識を国家・国体から解ようとする勢力が登場していた。平泉澄がそのリーダーで し、歴史に生命を吹き込んだ。政治的には民党の側にたってき放ち、より自由な市民的・民衆的方向へと転換させる機能ある。彼は陸軍皇道派や新官僚などのファッショ的政治勢力 しゅ一 ) うかい に接近するとともに、東大学内に朱光会をつくって、皇国史 藩閥政府を批判するという現実に対する実践的姿勢が、新しを果たした。これを歴史学における「民本主義」の表れとみ 観の主導者となった。このような天皇を中心とした国家体制 いテーマの発見へと導き、党派的立場が史論の明快さを生んることもできよう。 だ。ただし、史料に基づく実証方法に弱点があったことは否〔マルクス主義と唯物史観史学〕一九二〇年 ( 大正九 ) 前後の正当化を目ざす非科学的歴史認識は、文部省編『国体の本 めない。 の時期に社会史的研究が登場してきた背景には、第一次世界義』 ( 一九三七 ) などに集約され、国民を国粋主義的に統制する 〔大正デモクラシーと自由主義的史学〕日露戦後から第一次大戦後の社会問題の深刻化、労働運動・農民運動など社会運イデオロギーとなっていった。すでに一九三六年講座派が弾 世界大戦前後にかけて高まりをみせたデモクラシーの機運動の発展があった。こうした状況はさらに進んで、労働者の圧にあい、三七 ~ 三八年労農派も弾圧されて、唯物史観史学 は、法律学における天皇機関説、政治学における民本主義を側にたっ史学、唯物史観を方法とする史学を生み出した。分の前に政治権力が立ちはだかった。そればかりではない。官 しうまでもなくマルクス、エンゲル憲は四〇年には極右勢力の攻撃を受けた津田左右吉を出版法 生み出したが、このような自由主義的思潮は歴史学のうえに析の指針となったのは、、 も及んだ。『神代史の新しい研究』 ( 一九一三 ) 、『文学に現はれたス、レーニンらの理論である。政治史偏重でもなく、政治史違反容疑で起訴し、古代史の研究書四冊を発売禁止に付し そうきち を捨象した経済史でもなく、文字どおり経済的下部構造と政た。学問研究の自由は奪われた。しかし、ファッショ的支配 る我が国民思想の研究』 ( 一九一六 ) などを書いた津田左右吉は、 のもとでも、歴史学研究会を拠点とする研究者や、羽仁の指 ヨーロッパ近代の神話学・宗教学・民俗学・心理学・文献学治的上部構造の統一物として歴史は構想されることとなっ に学んだ合理主義的研究方法を駆使して、日本民族の独自性た。しかも、日本の近・現代を本格的な歴史的分析の対象と導を受けた人々によって科学的・実証的研究は続けられ、敗 を究明しようとした。とくに『古事記』『日本書紀』の厳密したのは、唯物史観史学が最初であった。それは、現状を変戦後、新たな歴史認識を提示する前提が準備されていた。 な史料批判を通じて打ち立てた日本古代史研究によって、古革しようとする優れて実践的な立場から歴史が問題にされた〔戦後変革と科学的歴史認識〕敗戦を機として日本社会の民 まなぶ ことに由来している。一九二二年前後の佐野学による社会史主主義的変革を目ざす動きは高まった。これに即応して、歴 代に関する歴史認識は初めて神話から解放された。津田史学 かずお 研究を先駆とし、福本和夫の唯物史観に関する理論的提起を史認識においても、封建制を克服して民主化・近代化を達成 の基底に据えられていたのは、「国家」「国体」ではなく、 しようとする強烈な課題意識に支えられた成果が現れて、大 「国民」であった。一九一一年 ( 明治四四 ) 国家権力の弾圧前提として、それは一九二七年 ( 昭和一 D 前後に成立した。 ひさお はっとりしそう のろえいたろう きたさだきち を受けて野に下った喜田貞吉もまた、一九一九年 ( 大正八 ) 野呂栄太郎『日本資本主義発達史』、服部之総『明治維新史』きな影響を与えた。経済史の大塚久雄は、西欧を理念型とし ゆが が唯物史観史学の成立を告げる記念碑的作品である。ついでた近代社会像・近代的人間像を提一小して、日本近代の歪みを 雑誌『民族と歴史』を発行し、「国民側」「劣敗者の地位」に ま寺」お えぐり出した。政治思想史の丸山真男は、西欧近代を基準と たって、天皇の歴史、権力の歴史ではなく、民族の歴史、民羽仁五郎が出てブルジョア史学に鋭い批判を向け、マルクス 衆の歴史を明らかにしようとした。国史学の政治史偏重に対主義史学の優位性を主張した。彼らの研究は、きたるべき革した超国家主義の分析を通じて、日本近代の思想的特質を明 たけよし して社会史を対置したのである。また、民俗学を樹立した命の性格を規定する現状分析の問題と密接な関係をもち、迫らかにした。法社会学の川島武宜は、日本社会の家族的構成 ゃなぎたくにお 柳田国男は、権力者が残した史料にもつばら依拠するこれりくるファシズムと戦争の危機に立ち向かう運動の一翼を担を明らかにして、その封建的特質を解明した。このような非 った。その結晶が、『日本資本主義発達史講座』全七巻 ( 一九 マルクス主義の社会科学者とともに、この時期、戦時中の研 までの歴史学によっては顧みられることのなかった農民に目 ~ 一一三 ) であり、この達成はその後、歴史学ばかりでなく、究蓄積を踏まえたマルクス主義歴史家の活躍も目覚ましかっ を注ぎ、その暮らしと伝承を通じて日本と日本人のあり方に た。彼らは史的唯物論に基づいて日本社会の発展過程の法則 迫った。柳田民俗学は、政治史を中心とした歴史学の英雄史社会科学の諸領域にわたって深甚の影響力を及ばしていくこ よしたろう ととなる。『講座』に結集した平野義太郎は『日本資本主義性を明らかにし、科学的歴史認識を打ち立てようとした。た 観に、生活史を中心とした「常民」史観を対置し、民衆の日 なおじろう もりたろう 社会の機構』 ( 一九三四 ) に、山田盛太郎は『日本資本主義分析』だ、その歴史認識には、西欧基準の「世界史の発展法則」が 常性から過去をとらえようとした。京都大学の西田直二郎は 『日本文化史序説』 ( 一九三一 l) を書いて文化史学を創始し、世界 ( 同 ) に、それそれの成果をまとめあげた。こうして、日本 いかに日本社会に貫徹しているかを検証しようとする傾向が 史的視野から日本史の全体像を展望した。それは、各部門の資本主義の「軍事的半農奴制的」Ⅱ封建的特質を指摘し、天強く、一国史的・公式主義的性格はぬぐいがたかった。しか 羅列ではなく、歴史家の主体的判断によって部分から全体を皇制絶対主義の支配を打破することに当面の課題を設定するし一九五〇年代に入ると、対日講和問題・朝鮮戦争などで政 ん構想しようとする明確な歴史理論に裏づけられていた。その講座派理論が成立した。天皇制と正面から対決する歴史認識治情勢が緊迫の度を深め、他方、アジア、アフリカ、ラテン ま背後にあったのは、リッケルトやディルタイから学び取った が初めて登場した。これに対して、雑誌『労農』に集う理論アメリカでは民族運動が高まった。こうした情勢に刺激され 歴史哲学的省察であった。また、国史の枠の外では、経済学家は日本資本主義のブルジョア性を強調し、両者の間で日本て、歴史学においても民族の問題が提起され、また、国際的 8
よ やまべのひじ し * ) わ という切迫した現状に触れたあとで、「本朝の代終わり、百 んにつけ生きていけない生活基盤である。それは古代の人々にちて、宍禾郡を作りし時、山部比治、任されて里長と為り き。此の人の名によりて、故、比治里といふ」 ( 播磨国風土王の威尽きる」と始まる未来記が書き付けられている。 まとっても同様であったと思われる。 このように、末来記は中世において繰り返し生み出され注 〔血縁からみた歴史意識〕日本古代における歴史意識は、基記 ) という形で「邦家之経緯・王化之鴻基」の歴史へと編成 本的には血縁を要とする系譜意識として育ったと考えられされたのである。支配階級の記紀にみられる歴史意識は基本目を浴びてきた。もうすでに死んでしまった過去の聖なる存 いなりやま る。著名な埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文をみると、乎的には六国史に継承され、民衆レベルのそれは地域伝承とし在が書き残した予言、それが土の中から掘り出される。これ いずも 〈関和彦〉は確かに当時の人々にとって心ひかれるできごとであったに 獲居臣は大彦以来の祖先系譜を明確に示している。『出雲国て語り継がれたと考えられる。 ふどき かたりのおみいまろ 違いない。初めは宗教的な性格の強かった予言は、だんだん 幻中世における歴史意識 風土記』意宇郡条にみえる語臣猪麻呂の報復事件は、風土 じよ・つきゅう へんさん に政治的色彩の濃い内容のものへと変化し、承久の乱や南 中世には、未来を予言した未来記が数多く書かれた。ここ 記編纂時の六〇年前のできごと ( 現代史 ) であるが、語臣 あたう 北朝内乱そして応仁の乱といった危機の時代にはかならず現 與の父 ( 猪麻呂 ) の時代として語り継がれている。同様のでは、それを手掛りにして当時の歴史意識を探ってみたい。 〔未来記にみえる歴史意識〕「王位を日に競い、君臣序をたれている。このように、次々と生み出されてくる未来記をつ 言。しくつもみえ、支配階級のみならず一 歴史意識は同風土己こ、 がえ、国務を奪い争う。父子義絶し、国王后妃その数国に満なぎ合わせると、中世における一つの歴史意識の流れが浮か 般民衆の世界にも系譜意識は広がっていたことがわかる。 きかっ かんもっ 『古事記』、六国史の場合、大きくみて、時代区分・設定は天つ。官物滅亡し、王臣相共に恒乏飢渇す。鬼神ことごとく怒び上がってくる。平安期の末来記にみえる太子入滅後何年す しやか じようらん しつえき 皇治世をもってなされているとみてよい。しかし、一般民衆りて、疾疫日々なり。百姓擾乱し、兵殺綿々たり」。一〇〇れば、という表現は、釈迦入滅という時を起点にして、千年 しうま、つ まつぼう とっ . ほら・ してんのうじごしゆいんえんぎ 間の正法そして千年間の像法の時期が過ぎると末法の世が の日常生活においては、今日の元号使用という状況と相違し七年 ( 寛弘四 ) に発見された「四天王寺御手印縁起」は、仏 到来するという、あの末法思想に相通じるものがある。入末 て、生活に密着する形 ( 例、父の時代 ) でとらえていたと思法が滅び尽きたときの社会のありさまをこのように描いてい あり しやくにほんぎ われる。王権とのかかわりで考えても『釈日本紀』所引の有る。聖徳太子が未来を予見して書き残したとされる太子末来法の年についてはさまざまな考え方があったが、もっとも広 く信じられた説では、一〇五二年 ( 永承七 ) が末法元年にあ 馬温泉起源伝承「土人の云へらく、時世の号名を知らず。記は、これ以後、中世社会を通じて次々と生み出されてく かわち ただししまのおおおみ 但、嶋大臣の時と知れるのみ」をみてもわかるように、土る。一〇五四年 ( 天喜一 I) 、河内国にある太子の墓近くの土たるとされている。その末法に入ってすでに久しい鎌倉期に 人 ( 民衆 ) は天皇治世と無関係の場で生活していることがう中から、「吾入滅以後四百卅余歳に及びこの記文出現する哉」なると、第何代目の王の時にどういったことが起こる、とい じえん ぐかんしよう う表現が目だってくる。これは、当時、歴代の天皇を中心に などと刻まれた石が発掘された。慈円の『愚管抄』にも かがえる。 たま した年代記が数多くつくられていて、人々が歴史をとらえる 〔地縁からみた歴史意識〕次に地縁的歴史意識であるが、現「世滅法と聖徳太子の書きおかせ給えるも、あわれにこそ、 ていカ めいげつき ときの枠組みになっていたことを示すものである。しかし、 在、地方の時代といわれ、郷土史・地域史の再検討が課題とひしとかないて見ゆれ」とあり、藤原定家は日記『明月記』 と、つ なってきている。古代においても民衆には郷土愛・土地所有に一一三七年 ( 嘉録三 ) 「人王八十六代の時東夷来る」で始同時にまたここでは、王は百代をもって滅ぶとする考え方が び第ごっく といろいろな側面があると思うが、自分たちの先祖が生産活まり「猴狗人類を喰うべし」という奇怪なことばで結ばれ共通の軸となっており、百代まであと何代残っているのかと いう点に大きな力点が置かれていることを見落としてはなら 動等で活躍した場、生活の舞台である郷土との触れ合いを歴た石の記文が掘り出されたことを記している。また「末代土 ごと 史 ( 伝承 ) 的に伝えようとしている。その典型は記紀、風土を掘る毎に御記文出現」とも書かれており、このころには頻 末法思想や百王思想は、末世の到来あるいは百王の威尽き 記に多数みえる地名起源伝承である。「英保と称ふは、伊予繁に未来記が発掘されたようである。 かれ なづ 国英保村の人、到来たりて此処に居りき。故、英保村と号南北朝内乱期には「聖徳太子未来記五十巻」という大部のるなどという形で、末来に一つの約束された結末を設定す さかみづうたげ さっきもっ ものも現れ、「帝王九十五代、春秋を経て在位し、仏法王法る。しかし、そこでは末法ののち、百王ののちの具体的イメ く」「常に五月を以て此の岡に集聚ひて、飲酒き宴遊しき。 はんじよう はりま かれさおか ージが語られることはない。仏法滅尽王法衰微の末世という ・ : 」「人王九十 故、佐岡といふ」 ( 播磨国風土記 ) をみても、移住・農耕行の繁昌今秋なり。但し七百日滅尽すべし。 けんきようふ力い 事の歴史が語られている。いままでの研究では牽強付会な六代、天下大いに兵乱す。東魚来りてこれを静む。しかる後現実認識を基礎にして、次々と、より遠い末来に終末と崩壊 ごだい ) ) ししカえれば、世界の破滅をつねに意識 伝承として無視されてきたが、そこにこそ民衆レベルの地縁西鳥東魚を食う」などが知られている。九十五代は後醍醐天を設定し続ける。、、ゝ くすのきまさしげ たいへいき 皇にあたるとされている。『太平記』にも楠木正成が将来へし、そしてそれを未来の方向に押しやり続けるところに、中 的歴史意識がかいまみられるのである。 いままでの古代の歴史意識といえば、記紀にみえる「家の確信をもったとされる未来記があり、それは次のようなも世の時間意識の特異さがある。 第一うき 〔冥と顕のニつの世界〕ところで、中世の人々は、歴史を動 之経緯・王化之鴻基」 ( 古事記 ) に典型的にみえる天皇制イのである。「人王九十五代、天下一たび乱れて主安からず。 この時東魚来りて四海を呑む。日西天に没すること三百七十かし、未来に一つの結末をもたらすものが、現実の歴史の内 デオロギーでまとめられる傾向にあったが、以上述べてきた にあるとは考えていなかったし、できごとの因果関係を歴史 余箇日、西鳥来りて東魚を食らう。その後海内一に帰するこ 二つの民衆レベルの歴史意識を抜きに考えることはできない かす 彼らはつね のである。記紀の叙述のみを追えば天皇制イデオロギー一色と三年。猴の如くなるもの天下を掠むること三十余年。大内在的にとらえきれるとも思っていなかった。 , 、現実の歴史の背後にもう一つの世界が存在すると考えて であるが、それはあくまで歴史的産物の一つである。民衆レ凶変じて一元に帰す」 だいじよういんじ おうにん ばつばっ いた。それは人々の目からは見えず、その意志も計り知れな 応仁の乱が勃発した一四六七年 ( 応仁一 ) の『大乗院寺 ベルの血縁・地縁的歴史像は記紀編纂段階において天皇治 しゃぞうじき ばのこおり なにわながらとよさきすめらみこと いものであるが、つねに人々の動きを見守り続け、その方向 世・行為が付され、「難波長柄豊前天皇の世、揖保郡を分社雑事記』には、仏法王法公臣の道がいままさに断絶するか かなめ とおさ かな
されていたことと深くかかわっている。欧米資本主義に対抗 族・寺社勢力は、依然として勢力を保持していたが、鎌倉幕は田畑永代売買禁止令、分地制限令などによって、田畑の売 けんむ した日本資本主義は、一九一〇年代の世界大戦以降、独占資 府の滅亡、建武政府の成立と崩壊を経て展開した一四世紀の買・質入れを原則的に禁止され、土地に緊縛され、死なぬよ 内乱の過程で、古代的諸勢力は完全に没落し、武士階級によ う生きぬようにと位置づけられて、年貢生産にのみ専心させ本主義 ( 帝国主義 ) として独自の展開を遂げたが、四五年の られることとなった。 る支配が決定的となった ( 室町幕府 ) 。一四 ~ 一五世紀には、 敗戦によって崩壊した。敗戦後の農地改革、財閥解体、なか 各地の荘園・公領において、単婚家族労働によって農業生産 武士階級は三都や城下町に住み、農民から収奪した年貢米んずく日本国憲法の公布 ( 四六年一一月 ) 以降を現代社会の 〈佐藤和彦〉 を営む小農民 ( 農奴 ) が広範に成長した。畿内および周辺でとその換金によって生活した。三都や諸大名の城下町に住ん始期とすることができよう。 は、宮座・村堂を媒介として農民結集が図られ、有力農民のだ商人は、年貢米の販売や必要物資の調達など、武士階級の日本人はどのように歴史を意識し、認識してきたか じ そうそん 日本人の歴史意識もしくは歴史認識を探ることは、日本人 指導によって惣村が形成された。惣村は共有財産をもち、自経済的要求を満たした。 けんだんけん よりあい 検断権を行使して、自治的に村政を運営した。寄合を中心と 自給的色彩の強い農村社会を基盤とした幕藩制社会も、一 の時間に対する観念や世界観、ひいては社会意識・人生観な する農民結集は、抵抗の砦でもあった。内乱の過程で、荘園七世紀後半以降は貨幣流通、商品流通の農村への浸透によっ どを解明することにつながる。 こくじん 歴史意識・歴史認識が時代や地域によって異なることはも 制的支配の根幹であった職の体系が崩れ、各地に守護や国人てしだいに変質する。一八世紀初頭には、農具の改良により 領主による支配領域が生まれた。 農産物が増大し、一九世紀の二〇年代には商品作物栽培が全ちろんであるが、それを意識または認識する主体が支配者で 農業生産力の発展を基盤とする分業・流通の展開は、農村国化して、富裕農民の土地集積と地主化がみられるようになあるか、被支配者であるかによっても変わる。これまでは、 と地方都市とを結び付け、民衆蜂起 ( 土一揆 ) の条件をつくる。農民層分解が進み、農村工業が展開するなかで、問屋制歴史書を中心に分析が行われてきたため、被支配者のそれに りだした。土一揆の頻発は室町幕府の支配体制に打撃を与家内工業やマニュファクチュアなどの資本制生産関係が成立 ついてはほとんど光があてられてこなかった。そこで、以 おうにん え、体制内矛盾を激化させた。応仁の乱以降一六世紀にかけする。 下、古代、中世、近世、近・現代と時代別に民衆の歴史意 て、武士相互の戦闘が日常化する。戦国争乱のなかで、国人貨幣経済の発展は、領主階級にも影響を与えずにはおかな識・歴史認識を含めて、総体として日本人がいかに歴史を認 どごうじぎむらい 領主・土豪地侍が新しい支配階級へと成長し、戦国大名と かった。支出の増大により財政の窮乏化した幕藩領主は、年識してきたかを明らかにし、意識の面から日本史の再構築を げ一 ) くじよう よばれるに至った。下剋上の社会を生き抜くために、彼ら貢の増徴を図るに至った。しかし過酷な年貢収奪に反対する試みることとする。これは、人間の意識が社会によっていか は独自の法をもち、強大な軍事集団 ( 家臣団 ) を編成し、領百姓一揆 ( 惣百姓一揆↓全藩一揆 ) が頻発し、都市では町人 に規定されたのか、逆に人間の意識がいかに社会を変ええた うちこわし 内のあらゆる人々を支配する大名領国を形成・展開した。戦層を主体とする打毀が続発した。封建支配を根底から揺りのかを考えることになり、今日、わたしたちが置かれている 国争乱の最終段階に至って、兵農分離を基本政策として、検動かす世直しの民衆運動が展開したのである。一九世紀には状況を再認識することになろう。 ちかたながり しレ - くほう 地・刀狩を強行して統一政権の完成を目ざす織豊政権が登幕府や諸藩において財政の立て直しを基調とする諸政策が進 1 古代における歴史意識 場した。 められたが、効果はほとんどなかった。 古代における歴史意識の変化を全体的に把握し、その特色 なお近年、農業民を中心にとらえられていた従来の中世社 欧米列強のアジア進出は、日本にも深刻な事態を引き起こを析出しようとするとき、いろいろな研究上の障害・制約が 会観に対し、遍歴し、交易に従事する非農業民 ( 漁民、山した。幕府による開国を契機として、全国各地に討幕運動が存在する。その障害・制約の根源は、課題追究の素材となる 民、芸能民、商工業民 ) に視点を据えて中世社会の歴史を把激化し、内乱状況のなかで、一八六七年 ( 慶応三 ) 江戸幕府史料そのものが、古代における歴史意識の全体像を知るため 握すべきであるとの学説が発表され、多大の影響を与えつつは崩壊したのである。↓封建制 の素材としての歴史的性格をもっていないところにある。古 りつ - ) くし ある。中世社会は、多元性、分裂性を特徴とし、多様な価値〔近代社会〕明治政府は、一八六九年の版籍奉還、七一年の代の人々の歴史意識の特徴を析出するには、単に六国史等を 観の存在する社会であり、さまざまな職能集団が活躍したと廃藩置県、七三年の地租改正などの諸政策を進めることによ中心に通史的に把握するよりも、人々の生活の場に視点を置 ふっしよく する所論や、南北朝内乱期に未開社会から文明社会への分水 って、幕藩体制支配を払拭した。そして、欧米先進国の法 いて考察すべきであろう。 嶺的位置を与える見解もある。 律・制度・文化などを積極的に取り入れて、近代的な機構を いままでの研究では、古代における歴史意識といえば、記 〔後期封建社会〕織豊政権が基調とした兵農分離の政策は、整備していった。国会開設と憲法を求める自由民権運動は、 紀にみえる古代天皇制イデオロギーが中心であった。しか 一七世紀初頭に成立した江戸幕府に引き継がれた。幕府は、 八九年の大日本帝国憲法の発布、九〇年の国会開設となってし、ひと口に古代の人々といっても、天皇を頂点とする支配 かいえき 大名の改易、減・加封を繰り返して家臣団所領の再編成を行結実した。 階級と被支配階級との対立があったのであり、考察なくして ぶけしょはっと さんきんこうたい 、武家諸法度、参勤交代の制度化によって統制力を強め 政府の富国強兵と殖産興業などの諸政策は、一八九〇年代すべての人々の歴史意識を一括して記紀イデオロギーとして た。さらに、外国貿易の管理と統制のために鎖国政策を実施から一九一〇年代にかけて資本主義を急速に発達させること は非学問的である。 となり、この過程で機械制工場生産が確立した。朝鮮・中国 ここでは試みとして二つの視点を提示し、古代の人々の歴 につしん における市場開拓の要求が、日清・日露の戦争を生起させ史意識の側面を析出してみたい。それは血縁・地縁意識とい ん幕藩体制の経済的基礎は自給自足的経済の農村にあった。 ほ農業生産から離脱した武士階級は、農業生産の担い手であるた。日本資本主義の特徴である低賃金と長時間労働は、日本う視点である。血縁・地縁はあらゆる意味でわれわれの生活 よ 百姓 ( 小農 ) から生産物の過半を年貢として収奪した。農民資本主義が農村における半封建的な寄生地主制のうえに構築を左右する日常性であり、それなくしては良きにつけ悪しき れい とりで しき ほうき つ ち き
ものの歴史を学ぶこと 今日の建設産業は、経済大国となったわが国のの一割近くを占める。それを基盤に、建築ジャーナリズ ムも盛んで、毎月美しい写真を満載した分厚い雑誌が十数種刊行されている。しかし、ジャーナリズムの常とし て、新奇なものだけが紹介されるので、同し建築が多くの雑誌に併載されるのに、だいしなもので見落とされる 場合も少なくない。華々しく紹介される「間題作」に若い建築科の学生たちは目を奪われる。流行作家の講演に は、ドッと人が集まる。情報化社会の「情報」の威力といおうか。これはどこの世界にも共通のことなのだろう。 くトッフの座に近づけると 古いものにこだわっていては老人たちにかなわぬ、先端を行くものをつかめば、早 いう打算が働いているのかもしれないが、新しいものに敏感であるということは、若者の特権である。既成の体 系にわすらわされす、新しい見方、新しい価値体系のネットワークを柔らかい頭脳の中に築き、より進んだ創造 の足場をつくるーーーということは、若者のみのなしうることだ。 しかし、その「新しいもの」だけで豊かな未来が創造できるわけではない。人類が長い歴史の過程で獲得して きた英知の蓄積を無視しては、それを凌駕する創造はできない。私は若い研究者たちにいつも、過去の蓄積を早 くマスターするために、ものの「歴史」を学べといってきた。自然科学の「真理」でさえ歴史的に発展・変化し てきている。それがどのように変わってきたかを知ることは、新しい創造への大きな手がかりでもある。 ところが「歴史」の叙述はたいてい現代に近づくと不親切になり、ときに一面的な評価しかみられない。現代 を論するのは歴史学者ではなく「評論家」である。だから現代の歴史は自ら学んでつくるよりほかはない。むろ ん歴史はそのとりまとめの根底になっている「史観」によって異なってくる。一つの評価に無批判に乗っかって いては危険である。多面的な学習が必要となってこよう。 私の建築科学生時代には、今とくらべて格段に情報が不足していた。歴史上有名な建築物でも不完全な絵や写 真で紹介されていただけである。当時欧州で起こっていた「近代建築」の運動に学生たちは興味をもったが、せ いぜい白黒の写真でしか見ることができす、どんな色がついているかわからぬまま、むしろ白黒のコントラスト に美を感していた。情報化社会の今日、こんなばかげたことはない。研究者もふえ、研究水準も高まり、新しい 発掘や発見が次々と出、歴史の空白も埋められつつある。こうした時代に、人類の英知ともいうべき過去の成果 や知識を広く求めて活用することは、豊かな未来の創造に欠かせぬ前提である。しかし、情報過多の時代にすべ てを検証することは困難である。その中から何を学ぶべきかが重要な間題となる。これをうまく選択できるのも、 若者の特権の一つであろう。 百科事典・百科全書といったものは、広い視野をもって物事を学ほうとする者にとって、たいへんありがたい ものだと思う。 ( 西山夘三 ) にしやまうぞう
が生み出された。『大勢三転考』は、「皇国の有状、大に変る時代概念として採用されている。 ん進出が決定的となったと説いている。この時代区分の根底に ⑦時代区分 ほは、摂関家存続についての歴史的意味の問いかけがあり、事三たび」と述べて、神武天皇より江戸時代に至るまでの日 くにのみやっこあがたぬし に「道理」の発現が時代区分の基準であった。このころ、王朝本の歴史を三区分している。①「上っ代」は、国造・県主〔原始社会〕数万年前の旧石器時代から始まる日本の社会 じようもん は、縄文文化を伴う新石器時代を経て、紀元前三世紀ごろ に代表される「骨の代」 ( かばねの世 ) であり、国務はかば 貴族をとらえていた「末世」「末法」思想が、慈円をも深く やよい には弥生文化へと発展した。石器時代の社会は貧富の差がほ ねと領土とを世襲する各氏族の長によって分担されていた。 とらえていたのである。 じんのうしよう きたばたけちかふさ 一四世紀の内乱の過程で叙述された北畠親房の『神皇正②「中っ代」は、大化改新を起点として始まる「職の代」とんどなく、共同労働と労働用具の共有を特徴としていた。 じゅじゅっ せきばつどぐう 統記』 は、日本の歴史を神代と人皇の代とに大きく二つに区 ( つかさの世 ) であり、天皇から官職を授けられた者によっ大形石棒や土偶などの遺物は呪術的世界の表象であり、 じんむ ようぜい 分し、さらに、人皇の代を、①神武天皇より陽成天皇までて国家が統治された時代である。「職の代」は、摂関時代を人々は食料を求めて移住生活を続けていたと推定される。水 よりとも 、一う」う しらかわ ( 上古 ) 、②光孝天皇より白河天皇まで ( 中古 ) 、③白河上皇最盛期として平氏政権に至る。③「下っ代」は、源頼朝の守田農業と金属器を伴う弥生文化は、中国・朝鮮の文化の影響 じとう の院政以降 ( 近代 ) 、とに三区分する。親房は、仏教のみな護・地頭の全国設置によって始まる「名の代」 ( みようの世 ) を受けて生産力を発展させ、集落が各地に形成されるように じゅきようしんとう なった。このころから私有財産と身分・階級が発生し始め、 らず儒教・神道を重視し、不徳の君が出現するとその皇統である。大名・小名が国政を担当した時代であり、戦国争乱 を平定した徳川幕府に至って全盛期を迎えた、という。「上一世紀の後半には一〇〇余国の小国が分立し、漢王朝に朝貢 が断絶し、傍系のうちから有徳の者が帝位につくと述べてい ぎしわじん あまてらすおおみかみ る。親房は、天照大神の神慮が日本の歴史を貫徹しているつ代」から「中っ代」の変化が「上の御心より」生じたものするに至った。『魏志』倭人伝によれば、三世紀には女王卑 やまたいこく こと、皇位継承が、継承者の徳・不徳によって左右され決定であるのに比して、「中っ代」から「下っ代」の変化は「下弥呼の邪馬台国が勢力を強化し、三〇余の小国を連合させた という。邪馬台国には厳しい身分秩序があり、中国王朝との されること、この二要因を時代区分の基準とした。摂関政治より」生起したものと論じ、この変化をもっとも重視してい きよもり 交渉が国家公権の維持に必要であった。 が天照大神の神慮にかなう政道であるとの見解は、慈円の場る。平清盛の時代を論じて、「これそ職の代の極みにして、 やまと 合と同一である。ただし、慈円が武士の登場を歴史的必然で名の代に移る時なりけり」と述べているように、その最盛期〔古代社会〕四世紀には畿内を中心とする大和朝廷の支配体 おおきみ 制が強化され、国家の統一が進んだ。世襲制を確立した大王 あるととらえたのに対し、親房は、武士の台頭を乱世の原因のなかに次代への変化の芽が生まれ始めているとの認識が、 ととらえ、あるべき政道の実現が断絶したためであると説千広の歴史観の特徴である。彼の時代区分は、政治形態およ ( 天皇 ) が君臨し、農具と武具の独占を通じて、族長が土地 かばね と人民を支配した。族長は朝廷から姓を与えられて貴族とな く。武士の登場に対する歴史的評価は正反対である。徳・不び社会制度の変化を基準とするもので、幕末の変動期に紀州 うじびと みやけたどころ り、氏人と隷属民を率いて朝廷に仕えた。屯倉・田荘とよば 徳のあり方が皇位継承と深くかかわるとの考え方は、戦乱に藩政に携わった千広の歴史観が、ここに集約されている。 ペみん ちこくあんみん 明治維新ののち、政府はフランス民権論の影響の強い在野れる大土地を所有した大王は、耕作民として部民を所有し 次ぐ戦乱が人々の生活を混乱させ、治国安民が人々の要求で しようへい た。七世紀の政治改革によって皇室を中心とする支配階級の の啓蒙史学に対抗するため、ランケ学派のリースを招聘し、 あり理想であった内乱期の思想として重要である。 りつりよう たいぎめいぶん 近世に入ると、大義名分論・勧善懲悪の儒教史観を特徴と帝国大学文科大学に史学科を創設した。このため、ドイツ流結集が図られ、支配階級は唐の制度を模倣した律令制度を めひせん りんけ 支配の基本体制とした。人民は、公民 ( 良 ) と奴婢 ( 賤 ) と する林家の歴史学に対抗して、一八世紀の前半、合理性と実の実証主義史学が歴史学界の基調となった。 はんでんしゅうじゅ はんかんぶ あらいはくせき に分けられた。班田収授法によって一定の土地を与えられ しかし、日本史学の研究は、天皇・貴族・将軍などの支配 証性とを重視する史家新井白石が現れた。『藩翰譜』『古史 そようちょう つう 通』などに白石の実証性と合理性とをみることができる。者層を中心としたものが盛んであり、時代区分も、支配者のた公民は、租・庸・調のはかに、兵役・雑役 ( 強制労働 ) を 「本朝天下ノ大勢九変シテ、武家ノ代トナリ、武家ノ代、又交替を基準として、王朝時代 ( 公家時代 ) と武家時代とに分負担した。それは特殊な奴隷制社会であった。八世紀末から とくしよろん 五変シテ当代ニ及プ」と説く『読史余論』は、貴族政治の衰ける二区分法や、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時九世紀にかけて、律令国家の基盤であった班田制が崩れ、貴 しようえん 退と武家政権の発展とを、独自の時代区分によって活写して代、江戸時代など、政権の所在地による区分がもつばら行わ族・寺社の私的土地所有 ( 荘園 ) が発達した。一〇世紀以 たと 降、荘園・公領の耕作を請け負った農民上層 ( 田堵、のちに いる。鎌倉時代から南北朝時代に、天皇・貴族の政権が武家れていた。 みようしゅ 二〇世紀に入ると、ヨーロッパ史学の影響を受けた福田徳有力名主へ発展 ) がしだいに土地の耕作権をもつようにな の政権へと変化する様相を鮮明に描き出した白石の歴史認識 かつろう 三、内田銀蔵、原勝郎などによって、政治史、法制史、経済り、自立した経営を営み始めた。そして耕地と経営を守るた は、史実の合理的解釈と、時代区分にあたっての易姓革命論 ぐんじぎいちょうかんじん 史の分野が開拓され、古代、中世、近代という三分法が採用めに武装化した有力名主や、郡司・在庁官人などのなかか とを特徴とする。 だざいしゅんだい おぎゅうそらい けいせいさいみん 荻生徂徠から経世済民の学を継承した太宰春台は、日本されるようになった。一九二〇年代から三〇年代にかけてのら武士が発生する。彼らは、近隣の武士、さらには中央貴 しゅ′一 史の流れを、①郡県制から国司・守護併置の時代、②守護支社会経済史学と唯物史観にたっ科学的な歴史学の結合と発展族・寺社勢力との対立抗争を通じて勢力を伸張させ、古代社 配の展開する時代 ( 自然の封建制 ) 、③戦国乱世から徳川幕は、経済・政治・文化が構造的に関連しあう社会構成の特質会を克服し、歴史の前面に登場した。↓古代社会 府の時代 ( 真の封建制 ) と三区分する。春台は、郡県制から封をもって時代区分の基準とすべきであるとし、原始社会、古〔中世社会〕中世社会を前期封建社会と後期封建社会に分け 代社会、中世社会、近代社会という四区分法を提唱した。こる。 建制へという制度の変化を基準にして時代を区分している。 一九世紀に入ると、幕府の衰退、社会不安、対外関係の緊の四区分法は、第二次世界大戦後の歴史学界でもっとも有力〔前期封建社会〕古代末期の内乱の結果、一一一世紀末に武士 だてちひろたいせいさんてんこう 張などを反映して、伊達千広『大勢三転考』などの歴史思想な学説として定着し、歴史教育の分野においても、日本史の階級による初めての政権 ( 鎌倉幕府 ) が成立した。中央貴 とうき えきせい ぞう ぎんそう きない ひ 838
加プーム 増ベビー 然第ニ次 丙午 ( ) 率 亡 死 率 出ベビープーム 第一次ー ロ終戦 ( ) ーー 総太平洋戦争 ( ) 日中戦争 ( 引 ) 移 推 の満州事変 ( 引 ) 態 んロ関東大震災 ( ) ー・、、 , ま人 総人口の推計による推移 実績値推計値 1 60 ( 百万人 ) ぐ高位 1 40 130 100 中位 120 ( 単位 : 百万人 ) ( 単位 : 人口千人当り ) 《ー低位 100 出生率 死亡率 て現在に至っている。文法史的にみると、一六世紀と一七世 れるようになってきている。 圓年億 一九八五年の国勢調査後に厚生省人口問題研究所は、その紀との間に大きな変化があり、「古代語」と「近代語」とに 万ん低 二分される。活用は古く動詞に九種、形容詞に二種あった 国勢調査を基礎にして「日本の将来推計人口」を発表した。 年 0 5 万ん その中位推計によると、人口増には変動要因が多いが、日本が、中世以後しだいに減じて、現代では動詞五種、形容詞一 る 意 3 0 意 4 よ の総人口は二〇〇〇年には一億三一〇〇万、そして二〇一三種となった。そのほか、助動詞も語形・活用が大きく変わっ 年向倉 1 た。基本的な名詞・動詞・形容詞などは、語彙の変化が少な 圓こ低位ロ 年はピークとされて一億三六〇〇万となり、その後は緩やか , 中人 2 減人 , 計 いが、副詞・接続詞・助詞などは、語形や用法に歴史的変化 な減少に転する。その間には出生率が下降して年少人口が減 九ぎ万人推 後万来 が大きい。また、中国から古代以来大きな文化的影響を受 少、それに伴い生産年齢人口 ( 一五 ~ 六四歳 ) がまた減少し をの 3 の 加そ立思 5 増 , 本て老齢人口のみが増え、高齢化社会となる。そして生産年齢け、多数の中国語語彙を漢語として輸入した。そして文字も も位 後達中位 人口一〇人が扶養すべき老人と子供 ( 従属人口 ) の数は、一中国製の漢字を受け入れ、その中国字音を日本的に変容させ とク人生 ヒークの二〇一七年にて使用したが、さらに漢字について日本語独特の読み方 ( 和 る←は厚九八五年が四・七人であるのに対し、。 る 〈浅香幸雄〉訓 ) を定着させ、さらにその表音的用法に基づいて、平仮 は六・七人に増加すると推計している。 れ人齠れ 一三卩 推昉ロ和 〔一一語〕日本語が唯一の公用語として使用され、その話者の名・片仮名という日本独特の文字を創案した。ローマ字は一 中 3 部推 人口は一億二〇〇〇万人に及び、世界のなかでも屈指の多数五世紀末に初めて渡来したが、一九世紀中葉以後、欧米文化 1 、 8 ーへ ロはロ 2 。である。しかし対外的には交流が少なく、近時は外国人の日の摂取とともに、英語、ドイツ語、フランス語などの外来語 人に人の 総年の後 0 本語学習熱もようやく高まったが、国際的勢力は弱小であが多数輸入された。しかし音韻体系、文法の基幹はほとんど 〈築島裕〉 る。歴史上外国との接触が少なかったのが原因であろう。日変化しないで現在に至っている。↓日本語 本語はウラル・アルタイ語族の一つと説かれてきたが、近時 歴史 は反論が多く、南方語またはチベット・インドの諸語との関 年 曰日本史における「時代区分」の歴史と時代区分 係、さらには南方系一一一一口語のうえに北方系一一 = ロ語が重なったなど 時代区分とは、歴史の流れを一定の基準によって区分する の諸説があるが、いまだ定説を得ない。地域的に隣接する朝 ことであり、研究者・歴史家の思想 ( 歴史認識の方法 ) と深 鮮語、アイヌ語などとは、かならずしも同系の証明が成立し りゅうきゅう る く関連する。いかなる時代区分によって歴史を研究し叙述す ていない。日本語の方言は琉球方言と本土方言とに大きく (X) こ 二分され、本土方言はさらに東部・西部・九州の三大方言にるかは、史学史の展開を特徴づけるメルクマールでもある。 8 な 「時代区分」の歴史 分かれるが、東京方一言を中心とした「共通語」が標準となっ 日本の史学史上、一貫した史観と個性をもった史書が現れ ている。「共通語」の母音は、 a, ・一 . u, e, 0 の五種で、 るのは、中世に入ってからである。 間 7 開音節を中心とする音韻体系をもち、子音には みちなが おおかがみ 藤原氏の栄華を叙述した『大鏡』は、神代より藤原道長 ts, d, d5, dz, n, 三今 , b, ・一うとく にんみよう ・一うぎよく p, m, r, 」 . w があり、有声音・無声音の対立はあるまでの歴史を、①皇極天皇まで、②孝徳天皇から仁明天皇 もんとく まで、③文徳天皇以降、の三期に区分している。この区分 が、有気音・無気音の対立はない。文法は「主語ー目的語ー がいせき 人 は、藤原氏の栄華の発生と発展の要因を、外戚関係のあり方 述語」の構文を主とし、実体概念を表す名詞・動詞・形容詞 こうちゃく 省 に求め、それを基準とした結果である。 などの下に、関係を表す助動詞・助詞がっき、膠着語の一 生 まら′げ一ん 厚 保元の乱をもって、貴族社会から武家社会への転換が始ま っとされる。語尾変化は、動詞、形容詞 ( ・形容動詞 ) およ じえん ぐかん 4 告 り、その変化を不可避的なものであるとする慈円の『愚管 び助動詞に存し、名詞、副詞などには存しない。単数・複 報 しよう O 査 抄』は、歴史の推移を「道理」の展開としてとらえている。 調数、性、格などによる語形変化は存せず、接尾語などによっ せつかん 庫て表す場合があるにすぎない。過去・現在・末来・推量などその「道理」は、天皇家と藤原摂関家との関係のあり方に求 局 は、主として助動詞によって表し、格関係・条件関係・強められた。慈円は神代より後鳥羽天皇までの歴史を、①宇多 1 ) 寺、んじよう 3 統 天皇まで ( 上古 ) 、②後三条天皇まで ( 中古 ) 、③後鳥羽天 庁調・感動などはおもに助詞によって表す。 、一うしよう 5 務 総 皇まで ( 末代 ) 、と三期に区分し、上古における天皇親政、 日本語の歴史は、五世紀以来の文献と、若干のロ承文芸 一くそう などによって知られる。八世紀には八母音が区別されていた中古の摂関政治に続く末代に至って、もろもろの道理が錯綜 とされる ( 近年異説がある ) が、九世紀以後、五母音に減じし、戦乱が継起していわゆる末世となり、この時期に武家の 8 自然増加率
日本Ⅱ幕藩制国家は徳川将軍を日本国大君と称し、中国の 『愚管抄を読む』 ( 一九〈 ~ ( ・平凡社 ) ▽奈倉哲三著「幕藩制 ん四八二年に夷千島王が朝鮮に遣使した。夷千島王は安東 支配イデオロギーとしての神儒習合思想の成立」 ( 『世界史 ほ氏と推定されるが、蝦夷地は中世国家のなかの異域であった。華夷秩序の外側に独自の国際秩序Ⅱ大君外交体制を築いたの における民族と民主主義』所収・一九七四年度歴史学研究 豊臣政権は一五九一一年唐入りⅡ朝鮮出兵を行った。秀吉はである。それは、日本の国家主権を侵すおそれのあるキリス けん じんぐう 会大会報告・青木書店 ) ▽小沢栄一著『近世史学思想史 朝鮮侵略を正当化するため、神功皇后の三韓征伐の伝説を喧ト教を排除しつつ、また、女真族が一六一六年満州に建国し こうきん ベキン でん 研究』 ( 一九七四・吉川弘文館 ) ▽伊豆公夫著『新版日本史学 伝した。同年、秀吉は天皇を明の北京に移し、自身は寧波をた後金国が、一九年サルフの戦いで明軍を破り、二七年、三 居所とする、日本・朝鮮・明三国の支配方針を公表した。そ六年と朝鮮を侵略して服属させ、四四年の明滅亡後中国の新史』 ( 一九七一一・校倉書房 ) ▽大隅和雄編『因果と輪廻』 (r 大 せつこう かめいこれのり かみ 系仏教と日本人 4 』一九会・春秋社 ) ▽『日本歴史講座第 れ以前にも秀吉は、亀井舷矩を琉球守に、ついで明国浙江省たな覇者となった、という緊張した東アジア情勢に対処する 八巻』 ( 一九五七・東京大学出版会 ) ▽『岩波講座日本歴史 台州の台州守に封ずる意図をみせていた。豊臣政権は足利政なかで形成されていった。大君外交は、天皇と将軍という一一 別巻 1 』 ( 一九六三・岩波書店 ) ▽遠山茂樹著『戦後の歴史学 権と違って、明を征服して華夷の逆転を企図しており、それ元的君主制を基礎にしているが、その外交上の論理について きょまさ と歴史意識』 ( 一九天・岩波書店 ) ▽永原慶一一・鹿野政直編 を神国思想が支えていた。一五九一一年にはまた加藤清正が朝は足利政権を例に既述した。要するに、日本を朝鮮の上位に とまん・」う 『日本の歴史家』 ( 一九七六・日本評論社 ) ▽『岩波講座日本 鮮から豆満江を越えてオランカイに侵入した。その結果日本位置づけるのがねらいである。琉球は島津氏の領分であり、 じよしん 歴史別巻 1 』 ( 一九七七・岩波書店 ) は、満州における女真族の統一戦争を知り、オランカイが日琉球国王は幕藩制的知行・軍役体系のなかにおいては琉球国 ・発展の特質▽吉田孝著『律令国家と古代の社会』 ( 一九 本でいうところの蝦夷地であるという認識をもつに至り、以司であった。 しゅんてん ためとも 会・岩波書店 ) ▽戸田芳実著『日本領主制成立史の研究』 後、女真族に対する警戒心を強めていった。 一七世紀なかばごろ、初代の琉球王舜天を源為朝の子と よしつね ( 一九六七・岩波書店 ) ▽竹内理三編『土地制度史 1 』 ( 一九 〔近世〕江戸幕府は明との国交回復を重要な外交課題としてする為朝伝説、源義経の蝦夷征伐譚である義経伝説が創作さ 七三・山川出版社 ) ▽永原慶一一著『日本中世の社会と国家』 いた。そして対明交渉を明の朝貢国朝鮮・琉球を介して行うれ、琉球、蝦夷地を幕藩制国家内の異国・異域として支配す ( 一九全・日本放送出版協会 ) ▽佐々木潤之介著『幕藩制国 ため、一六〇七年朝鮮との国交を回復した。続いて〇九年にることの正当化が行われた。朝鮮に対しては、神功皇后の三 家論』上下 ( 一九会・東京大学出版会 ) ▽『大系・日本国家 琉球を征服したが、対明交渉の必要上、琉球を国家として存韓征伐伝説、新羅入貢を根拠とする朝鮮蔑視観が根強かっ 史』全五巻 ( 一九七五 ~ 七六・東京大学出版会 ) ▽竹内誠他編 続させた。琉球を通じた対明交渉の結果、一五年、明が幕府た。大君外交体制は一八世紀末以降欧米列強の外圧が強まる 『教養の日本史』 ( 一突七・東京大学出版会 ) ▽義江明子著 の国交要求をいっさい拒否したことが明らかになった。日明 なかで動揺・解体していったが、近代国家は琉球、蝦夷地を 内国化すると同時に、朝侵略Ⅱ征韓論を具体化していっ 『日本古代の氏の構造』 ( 一九会・吉川弘文館 ) ▽佐藤進一 国交は成立しなかった。 ひらど 〈紙屋敦之〉 著『日本の中世国家』 ( 一九公一・岩波書店 ) ▽藤木久志著 翌年、幕府は中国船を除く外国船の来航を長崎・平戸に制 『豊臣平和令と戦国社会』 ( 一九会・東京大学出版会 ) ▽歴 限した。一六三三年から三九年にかけての五次の鎖国令によ回・時代区分▽クローチェ著、羽仁五郎訳『歴史叙述の理 論及歴史』 ( 一九一一六・岩波書店 ) ▽遠山茂樹著『時代区分 史学研究会編『天皇と天皇制を考える』 ( 一九会・青木書店 ) って、キリスト教の禁止、日本人の海外往来の禁止、貿易の ▽『講座日本歴史 5 ・ 6 近世 1 ・ 2 』 ( 一九会・東京大学出 論』 ( 『岩波講座日本歴史別巻 1 』所収・一九六三・岩波書 管理・統制を行い、一六四一年平戸のオランダ商館を長崎の 店 ) ▽田村圓澄他編『日本思想史の基礎知識』 ( 一九七四・有版会 ) ▽村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎著『文明とし 出島に移して、鎖国が完成した。 しんちよく てのイエ社会』 ( 一九七九・中央公論社 ) ▽明石一紀「古代・ 斐閣 ) ▽笹山晴生著『日本古代史講義』 ( 一九七七・東京大学 鎖国が進捗した一六三〇年代に、幕府は長崎、対馬、薩 中世の家族と親族」 ( 『歴史評論』四一六号所収・一九会・校 摩、松前の四つの窓口を通じて、周辺諸国家・民族との対外出版会 ) ▽石田一良編『時代区分の思想』 ( 一九会・べりか ん社 ) 倉書房 ) ▽飯沼賢司「「職」とイエの成立」 ( 『歴史学研究』 関係を、華夷秩序に基づいて、自己の礼的秩序のなかに再編 ちぎよう ・歴史意識・認識▽岩橋小彌太著『上代史籍の研究』 五三四号所収・一九会・青木書店 ) ▽石上英一著「古代国 成していった。蝦夷地では、松前氏がアイヌ交易権を知行と ( 一九五六・吉川弘文館 ) ▽岡崎敬・平野邦雄編『古代の日本家と対外関係」 (r 講座日本歴史 2 古代 2 』所収・一九会・ して与えられていた。一六三三年、幕府巡見使に対する、ア おめみえ イヌのウイマム ( 御目見 ) という服属儀礼が始まった。琉球 研究・資料』 ( 一九六七・角川書店 ) ▽唐木順三著『日本東京大学出版会 ) ▽村井章介著「中世日本の国際意識に りようちはんもっ ついて」 ( 『民衆の生活・文化と変革主体』所収・一九全・青 人の心の歴史』上 ( 一九七六・筑摩書房 ) ▽平野仁啓著『続 は、一六三四年島津氏の領知判物に加増して幕藩制の知行・ 木書店 ) ▽同著「建武・室町政権と東アジア」 ( 『講座 古代日本人の精神構造』 ( 一九七六・未来社 ) ▽永藤靖著『時 軍役体系のなかに組み込まれ、同年、琉球国王が襲封を感謝 間の思想ー古代人の生活感情ー』 ( 一九七九・教育社 ) ▽湯浅 日本歴史 4 中世 2 』所収・一九会・東京大学出版会 ) ▽ する謝恩使の派遣が始まった。一六四四年には、将軍代替り 同著「中世日本列島の地域空間と国家」 ( 『思想』七三二号 泰雄著『古代人の精神世界』 ( 一九八 0 ・ミネルヴァ書房 ) ▽ を祝う慶賀使が派遣された。琉球、蝦夷地は日本Ⅱ幕藩制国 和田英松著「聖徳太子未来記の研究」 ( 『史学雑誌』三二、 所収・一九会・岩波書店 ) ▽荒野泰典著「日本の鎖国と対外 家のなかの異国・異域であった。朝鮮に対しては一六三五 たいくん 意識」 ( 『東アジア世界の再編と民衆意識』所収・一九会・青 三三所収・一九 lll) ▽赤松俊秀著「愚管抄について」「南北 年、日本あての国書に徳川将軍を日本国大君と称するよう求 木書店 ) ▽同著「一八世紀の東アジアと日本」 ( 『講座日 朝内乱と末来記」 ( 『鎌倉仏教の研究』所収・一九五七・平楽寺 め、翌年の通信使から使用させた。オランダ人については、 書店 ) ▽黒田俊雄著「愚管抄と神皇正統記」 ( 『日本中世 本歴史 6 近世 2 』所収・一九会・東京大学出版会 ) 一六三三年から商館長の江戸参府が制度化された。中国人は ぶぎよう はっさくのれい の国家と宗教』所収・一九七五・岩波書店 ) ▽大隅和雄著 八朔礼のとき、長崎奉行に私的に対面した。 ニンポー たん
やまと ん視野とアジア〈の視角が導入されてい 0 た。これは、六〇年〔氏姓制度と部民制〕四世紀に入り大和朝廷が成立すると、置づけられた。このように戸を基準に編成された支配体制を 、その台帳が戸籍・計帳である。戸籍は六年に ほ代以後、国内的契機と国際的契機の統一的把握によ 0 て世界氏姓制度と部民制という新たな支配制度がつくられたが、そ編戸制といい ) れが明確な形をとってくるのは五世紀のことといわれる。氏一度作成され、人民の身分の確定をするとともに班田収授の に史像・日本史像を再構成しようとする認識へと連なってい 姓制度は、中央貴族や地方豪族が国政上の地位や身分の尊卑台帳にもなった。班田面積が男子に多く ( 六歳以上の男子に しようてい おみむらじ たん に応じて、朝廷よりウジやカバネ ( 臣・連など ) を与えら二段、女子にその三分の一 I) 、かっ、租税も正丁 ( 成年男 〔帝国主義的歴史観と民衆史・人民闘争史〕一九六〇年代に 入ると、経済の「高度成長」と即応して、日本の工業化・近れ、国家的な身分を表示するとともに、朝廷における特定の子 ) を中心とした負担体系であったから、律令制国家の人民 官職を世襲し、それに基づいて土地・人民を支配した制度で支配体制は「戸」を単位としながらも成年男子を支配の中心 代化を美化する歴史認識がアメリカの駐日大使ライシャワー とした体制であったといえる。このことは、編戸が兵士徴発 らによって持ち込まれ、国民の大国意識の伸長を図った。まある。 氏姓制度が支配層内部の秩序を形づくったのに対し、人民の前提であったことによく示されている。 た、建国記念の日の制定、明治百年記念式典の実施、教科書 の検定など、歴史認識を国家が統制しようとする動きも強ま支配の根幹が部民制である。部民制の成立過程については未律令制的人民支配のもう一つの特徴は、国郡里制を敷き、 つつ ) 0 オこうした非科学的な帝国主義的歴史認識に抗しつつ、確定の部分が多いが、四 ~ 五世紀の大和政権の征服過程と並国司は中央派遣にするなど中央集権的な地方支配体制をとっ ぐんじ しなべ 科学的歴史認識を構築するための活動は続けられた。六〇年行して諸豪族領有下の人民 ( 部曲 ) をトモ・品部として王権たにもかかわらず、郡司はその地の有力豪族を任用したこと 代後半以降、「六〇年安保」の経験を踏まえて登場した民衆に従属・編成して、労役の提供や生産物を貢納させる体制をである。すなわち、律令国家の地方支配は国司までの中央集 のエネルギーと意識に注目する民衆史・民衆思想史、国家権つくりだし、六世紀初頭ころに確立したと考えられている。権的な体制と、郡司以下の旧来の在地的な支配体制の温存と いう一一重構造をとったのである。 力と、これに対抗して変革を志向する人民の諸闘争に分析をこうして体制的に成立した部民制は、①品部Ⅱ天皇の民、② こしろなしろ このような支配の二重構造の評価を含めて律令制的な支配 加える国家史・人民闘争史は、そうした歴史認識の試みであ子代・名代Ⅱ皇室・皇族の私有民、③部曲Ⅱ諸豪族の私有 へいじようきよう こ完成期を求め 体制の完成期については、平城京遷都前後し った。そのなかで、民衆を歴史の基本的主体とする認識が固民、の三種類から構成された。 しかし、大和政権の基盤を形成した部民制も、群集墳の発る定説に対して、奈良時代は法としての律令と、現実の社会 められ、女性史・部落史・地方史などさまざまな分野で認識 制度との間にまだ整合性が認められず、律令が社会に内実化 の広がりと深まりが獲得されていった。こうして今日、日本生などにみられるような在地構造の変化と、それに伴う支配 人は、戦後歴史学の成果のうえにたって、歴史認識の基礎に基盤の動揺に対応するため、七世紀中葉には廃止され、王権していくのは平安時代、とくに一〇世紀以降であるという新 による一元的な人民支配が進められる。その契機をいつに求説が出されており、今後の研究が期待される。 民衆・人民を置き、世界史的視野で歴史を構想すべき段階に 〔負名制〕編戸と班田による人民支配も、九世紀に入ると編 〈大日方純夫〉めるかは、いわゆる六四六年 ( 大化一 l) の「大化改新詔」の 至っている。↓史学史 ふごうろうにん しんびよう 戸支配を打破した「富豪浪人」Ⅱ富豪層などの成長によって 信憑性とも関係する難問題であるが、ここでは「改新詔」 圓日本史発展の特質 たと かっしせん 六六四年 ( 天智天皇三 ) の「甲子の宣」、そして六七五年大きく動揺する。初め律令政府は彼らを「田堵」として認 ①日本史における人民支配の体制 〔階級と身分の発生〕日本における階級の発生は、弥生時代 ( 天武天皇四 ) の「部曲廃止令」を通して、部民制の廃止と、め、彼らを支配体制を否定する存在として禁圧の対象とし かめかんば 一元的な人民支配政策が遂行されたと評価しておきたい。そた。しかし国家財源の確保と支配体制の再編のための現実的 中期 ( 紀元前後 ) に共同墓地の甕棺墓の中に鏡や剣などの副 りつりよう しせきぼ 葬品をもったものが現れてくることや、その後、支石墓やガれは律令制の導入と密接に関係するが、人民支配の具体的な対応から、九世紀末 ~ 一〇世紀初頭の国政改革を通じて、 こうごねんじゃく けいしゅう , : つま 形周溝基など共同体内の支配者の墓と考えられる特別の墳な形態としては、六七〇年 ( 天智天皇九 ) の庚午年籍、六彼らの経営を収取の基盤とした体制を成立させる。それが負 みよう 墓が出現することなどによって確認できる。また、文献的に九〇年 ( 持統天皇四 ) の庚寅年籍という戸籍の作成と関連し名制である。負名制は、耕作者の能力に応じて公領の耕作 ′」かんじよとうい かんじよ と租税の納入を請け負わす制度であったが、逆に租税末進の は、中国の史書『漢書』地理志や『後漢書』東夷伝から、紀て進められた。↓氏姓制度 うけ、く おうみ 〔編戸制と班田制〕日本の律令制は近江令 ( 存在を疑問視す場合は耕作権も否定されるという「有期的請作」が原則であ 元一、二世紀の「倭」に「百余国」の国があり、そのなかの あすかきよみはら せい - 一う すいしよう った。ここに至って中央政府が戸籍・計帳によって人民を個 る見解もある ) 、飛鳥浄御原令、そして七〇一年 ( 大宝一 ) 一国王「帥升」が「生ロ ( Ⅱ奴隷 ) 百六十人」を献じてい たいまう ることなどが記されており、すでに階級が成立していたことの大宝律令の施行によって法制的な完成をみるが、その人民別的に ( 戸を介在するが ) 支配する体制は完全に放棄され、 せん 支配の特徴は、まず人民を「良」と「賤」の二身分に大きく国家の人民支配は「負名」Ⅱ在地の有力者の支配を通じてし がわかる。 ぎしわじん か実現できない間接的な体制となった。この重層的な支配体 この階級差を具体的に知ることができるのが『魏志』倭人区分して支配したことである。しかし、「賤」は全人口の一 とよとみ やまたいこく は、以後中世を一貫して存在し、豊臣秀吉による検地帳の 伝に記された「邪馬台国」の場合である。邪馬台国では、女割程度であったから、実質的な意味をもったとは考えられ制 しゅうもんにんべつあらためちょう 王や奴隷だけでなく、社会の構成メンバーのなかにも「大ず、実際に人民支配を担ったのは良民の支配制度である編戸作成、江戸時代の宗門人別改帳や五人組帳の作成による 百姓支配体制まで続くのである。 人」「下戸」という身分差が明確に現れてきており、また官制と班田制である。 いちだいそっ 〔荘園公領制〕このような能力主義に基づく収取体制の採用 律令制国家の人民支配の基本的な単位は「戸 ( 郷戸 ) 」で、 僚制も一定程度発達し、「諸国を検察」する「一大率」や中 国の漢時代の「刺史」のような地方官が存在したことが知ら五戸で保を構成して治安・納税上の連帯責任を負わせた。そは、在地有力者の公領の開発・再開発を推進させ、在地領主 して五〇戸で一里を構成し、地方支配機構の最小の単位に位層や中世的な村落をつくりだした。そして、それらの運動の れ、階級国家としての体裁を整えつつあったといえる。 じん 0 わ やよい - 一ういん かきべ へんこ ふ