関係 - みる会図書館


検索対象: 日本大百科全書 17
490件見つかりました。

1. 日本大百科全書 17

た。アメリカはベトナム戦争が泥沼化し通貨が不安定となる年代中葉においては、対米追随を基調としながらも、ともか のなかでどんな表現の「おわび」を挿入して植民地時代から くも全方位外交、等距離外交が国是であった。しかるに、七 などして、一九六〇年代後半には国際収支が悪化した。保護 のしこりをなくすか苦慮したことに象徴されるように、「日 主義をとり続ける日本に対してアメリカからの批判が日増し九年末、イランの政変、ソ連のアフガニスタン侵攻、米ソ対 韓成熟」の新時代を画そうとするねらいが込められていた。 立の激化と続く国際情勢の展開は、一挙に従来の外交路線を に増大する。資本の自由化をめぐる対立も似たような状況に 日本は、朝鮮半島のうち韓国とだけ国交の正常化を図って きているが、これは一種の外圧のしからしむるところでああった。六九年から約二年間もの間、毛・化合繊の輸出自主変更し、明確に西側先進諸国と歩調をあわせて、ソ連と対決 る。日本からみれば、北朝鮮を含む朝鮮半島全体の平和と安規制をめぐって日米紛争が続いたが、似たような貿易摩擦がする姿勢をとらしめることになった。アメリカは貿易摩擦を 定こそが望ましいのであって、そのためには北朝鮮との国交七〇年代に入ると、自動車、電子産業を含む工業部門全般、切り札に使いながら、日本に対する防衛力増強をますます強 く要望するようになった。「経済大国」になりおおせたとい さらにはサービス業、農業というように各分野にまたがるよ 関係を改善することもまた重要な課題である。歴代政府は、 うので、日本国民の間にも応分の車備は当然と考える層が増 アメリカや韓国の顔色をうかがいながら、民間あるいは野党うになる。日米両国は、それそれ国内の産業界と政界の利害 関係をにらみながら、貿易・通商にかかわる外交を処理しなえたこともあって、アメリカのこの方面の要求は増大し、か が行いつつある諸交流を慎重に見守ってきているといえよ っ成功しつつある。とくに八二年一一月成立した中曽根康弘 ければならない。双方意味合いがすこしずつ違うが、両国の う。しかしこの方面で日本政府が対朝関係改善のためになに か非常に積極的な外交路線を打ち出すことは、ここ当分は望 相互依存度が深まることにより、内政と外交との微妙な調整政権のもとで、日米関係は「ロン・ヤス関係」という名称で 象徴されるように、レーガン大統領と中曽根首相の個人的な みえないように思われる。↓日朝関係 をつけることがますます必要になった。 ートナーシップが強調されるなか 一九七〇年代初め、日本は二つのニクソン・ショックにみ信頼関係、イコール・バ 〔対米関係〕日本の外交政策は、少なくもこれまでは、対米 関係を基軸とし、これに規定されて展開してきた。その日米まわれ、改めて日米間の距離を思い知らされた「第一のショで、武器輸出禁止三原則の例外扱いによる対米武器供与、財 ックは、七一年七月なかば、日本政府に事前通知なしにニク政縮減と逆行した防衛費の突出増額、 ( 戦略防衛構 関係であるが、一九五〇年代まではアメリカのほば一方的な ソンの訪中計画が決定され、米中関係に大きな変革がありう 想 ) への積極的な参加などが進展しつつある。「日米新時代」 イニシアティ。フのもとで形成されたものであった。日本は、 といわれながらも、アメリカの戦略体系に規定されている基 そのもとで戦後復興、自立化、発展の基盤づくりの諸過程をることがわかった。第二のショックは、その一か月後、八月 なかばに発表された新経済政策である。ニクソン大統領は本的な枠組みには、四〇年間本質的な変更はみられない。 経て、五六年一二月国際連合への加入が認められ、ようやく 国際社会への復帰を達成するめどがつけられた。六〇年代に 金・ドルの交換を停止する緊急対策を発表、これにより事実かし対米依存型の外交は、日本が将来生き残るために必要な 「国際化」と矛盾することなく両立しうるのだろうか。その 入ると日本は、高度成長期を迎え、急速な経済発展を遂げる上ドル切下げを断行した。日本はこの結果膨大なドルを買い ことは、日本がどんな「国際化」をとるかによって決まるこ ことになる。それにつれ、日米安全保障体制を中心とする日支えねばならなくなり、一時はインフレが深刻化した。七三 米関係において、イコール・バ ートナーシップを求める動き年一〇月には、日本は国際関係においてもう一つ大きなショ とになろう。アメリカの側にも問題がある。アメリカは一方 が日本支配層のなかに出てきた。こうして六一年箱根で第一 ックを受け止めなければならなかった。第四次中東戦争をきで日本の防衛力増強を要望しながら、他方「核の傘」を含ん つかけとする石油ショックである。中東の石油エネルギーに だアメリカのグランド・ストラテジー ( 大戦略体系 ) のなか 回日米貿易経済合同委員会が開かれた。六四年には日本は— 八条国に移行し、翌年には日本の対米貿易が黒字に転ず完全に依存する日本は、アラ。フ諸国と取引して生き延びるほ に日本自衛体制が収まりきることを当然の前提にしている。 かないと判断し、政府は戦後初めて自主外交らしい路線をとアメリカはまた、日本の経済自主化を要求しながら、アメリ るが、この時期には、対米輸出品目が従来の軽工業製品から しだいに鉄鋼、テレビ、自動車などに転換しており、アメリ って中東政策の転換を行い、アメリカとは違って、アラブ支カ市場への日本商品の自由な流入には制限を加えるという政 カ市場への影響が広がり始める。六〇年代後半には沖縄返還持を明確にした。日本は、中東向け経済援助に力を入れると策をとっているが、この矛盾を将来にわたり日本が忍耐しう 問題と日本経済自由化の二点が重要になる。日本では「核抜同時に、石油危機画撃を経済政策、産業政策のうえでどうるか。そもそもいったい、アメリカは、・世界最強国としての き本土なみ」返還と表現したものの、沖縄返還に伴う日米間 緩和し、あわせて石油供給の安定化をどう図ってゆくかに腐生き残り戦略以外に、大局的な見地から道徳的・知的に正当 の会談では、「韓国条項」 ( 在韓米車を有事の際日本が援助す心することになる。このころから、日本の外交は対米向けの化しうる、いかなる基本政策をもっているのか。対米従属型 ること ) の承認、事前協議制の弾力的な運用 ( 核兵器に関す二国間レベルから、ようやく西ヨーロッパ主要国や中東を含の日本外交には、いろいろな問題点がありそうである。世界 る合意 ) が図られ、その結果、日本は日本国土のみならずアむ多元的なものへと転換するようになった。七五年一〇月ラの一群には、日本に対して次のことを期待する、少なくない ジア全体の防衛体系にコミットすることになった。安全保障 ンプイエで開かれた第一回主要先進国首脳会議 ( いわゆるサ諸国があるのも見逃せない。「経済大国」でありながら、政 に関し日米の相互依存がより強められた。 治的に中級国家の立場にたって、今後生じうるさまざまな地 ミット ) に仲間入りしたのは、その一つの現れである。 次に経済の自由化問題がある。国家的な保護育成のもとに こうして日本外交の多極化現象がみられるとともに、予想域にまたがる、さまざまな性質の国際緊張に、信頼に値する 成長した日本産業は総じて国際的競争力に著しく欠けてい 以上に無難に石油危機を乗り越え、安定成長への道を確実に有能な調停者として、ユ一一ークな自主外交を展開する役割を んた。アメリカの自由化要求を「第二の黒船」と称し、それへし始めた「経済大国」日本は、アジア、アフリカなど発展途果たすこと、これである。↓日米関係 〔防衛〕〔自衛隊の概要〕自衛隊は、陸上、海上および航空 の対応をできるだけ遅らせ、時間を稼いで、その間に、産業上国への経済援助の量的拡大と質的転換を期待されるに至っ 構造の高度化・近代化を実行し国際競争力をつけようとし た。対中国、対ソ連との関係修復を課題としていた一九七〇の三つから構成されている。陸上自衛隊は、定員一八万人、 8

2. 日本大百科全書 17

航があったようである。こうしたなかで、日本〔ロシア革命とその後〕一九一七年一〇月のロめ、日本は戦局が不利となるに伴い、ソ連に特 原因として、三八、九年ごろから経営は悪化 シア革命は、日本だけでなくすべての資本主義使を派遣して外交的打開を図ったが、ソ連は四 人で宋に渡航する者が輩出した。南宋に渡る日 し、四〇年末には中野は社長の座を追われた。 そう 以後、主力融資機関であった日本興業銀行の手本船は、一年に四〇 ~ 五〇艘に及んだといわれ諸国とロシアとの関係を根本的に変えた。ソビ五年二月のヤルタ会談で戦後の南樺太・千島列 る。北宋・南宋ともに一貫して対日貿易には積エト革命政権は、ドイツと単独講和条約を結ん島の対ソ返還を条件に、対独戦の終結から二、 によってコンツェルン体制は縮小整理されてい 三か月以内に対日参戦することを米英と約束し 〈下谷政弘〉極的だったが、一一二七年以後、華北を支配すで第一次世界大戦から離脱した。日、英、仏、 った。↓中野友礼 回三宅晴輝著『新興コンツェルン読本』 ( 一九る金と対抗する財源を貿易の利に求めたため、米など主要連合諸国はまもなくソ連への干渉戦た。同年四月、ソ連は期限五か年の日ソ中立条 = 毛・春秋社 ) ▽宇田川勝著『昭和史と新興日本側の対外政策の積極化と相まって日宋貿易争を開始した。日本は一八年八月から連合諸国約を延長しないと対日通告し、五月にドイツが とともに最大兵力 ( 七万余 ) を最長期間 ( 四年連合国側に無条件降伏、七月にポッダム宣言が は空前の活況を呈した。 財閥』 ( 教育社歴史新書 ) 発表され、八月六日に広島に原爆投下、二日後 二か月 ) にわたってシベリアに派兵し ( シベリ 日宋貿易を通じて、宋側からは「唐物」とい につそうばうえき一〇世紀後半 ~ 日宋貿易 - / 、挈ごっ なんそう にソ連は対日宣戦して、ソ連軍は一挙に満州か 一三世紀後半の間、日本と中国の北宋・南宋とわれる香料・陶磁器・書籍・南海産の鳥獣・医ア出兵 ) 、ことに北樺太占領は二五年五月まで ら朝半島および南樺太に進攻し、アメリカも 継続した。二〇年春、ニコラエフスク市で起き 薬品・銅銭などが輸入され、日本からは刀剣・ の間で行われた貿易。中国人の海外発展は七 ~ きゅうきょ いおう た日本人居留民殺害事件 ( 尼港事件 ) は、ポリ急遽、沖縄占領中の一部米車を南朝鮮に派遣 八世紀ごろよりアラビア商人の活発な通商活動水銀。硫黄・木材・砂金などが輸出された。と - 」うしゅう にする間に、日本は連合国に無条件降伏し、第二 シェビキ「過激派」革命の恐ろしさを日本人 に刺激されて、広州を中心とする南海方面をくに日宋貿易を通じて輸入された銅銭、最新の 印象づけ、シベリア出兵を長期化させるのに利次大戦は終結した。 舞台に始まった。九世紀中葉からは、南海貿易建築・土木技術、禅宗は日本の社会経済・文化 で得た東南アジアの特産品を日本へももたらすの諸分野に多大な影響を与えた。〈横井成行〉用された「その間ソビエト政府は、一九二三年〔連合国の対日占領と講和問題〕戦後の日ソ関 とう 回藤田豊八著『東西交渉史研究南海篇』 ( 一九九月の関東大地震に際して救援物資の船舶を派係は、朝鮮の分断にみられるように戦後米ソ対 唐の海商が現れた。 三 = ・岡書店 ) ▽『蒲寿庚の事蹟』 ( 『桑原隲蔵遣してきたが、日本政府はその受領を拒否し決の構図のなかで展開した。対日占領政策は、 唐末五代の混乱期を経て宋朝の中国再統一が こ。しかしその後、日ソ間に非公式・公式の接ポッダム宣言に基づき連合諸国の極東委員会の 全集第五巻』所収・一九天・岩波書店 ) ▽オ なると、治安の安定、国内諸産業の発展、南海 触が続けられ、ソ連政府も安定強化して、二四指令で実施されるものとされたが、実質的には 曽我部静雄著『日宋金貨幣交流史』 ( 一九四九・ 貿易の復興などによって、宋海商の日本来航は 1 ~ 4 』 ( 一九年にイギリスがソビエト政権を承認、続いてイアメリカの単一占領同然であったため、日本は 宝文館 ) ▽『森克己著作選集 唐代をはるかにしのぐようになった。宋海商ら 七五・国書刊行会 ) ▽張祥義「宋代市舶司貿タリア、フランスもこれに倣ったため、日本もアメリカにとっての東西冷戦の前進基地として は、東シナ海のモンスーン・海流を熟知し、日 二五年「日ソ基本条約」で国交を回復した。続復興・再建される道をとることになった。わけ 易研究の現状と課題」 ( 『亜細亜大学教養部紀 宋間を片道五 ~ 七日で航海した。彼らは、五、 ても朝鮮の南北分裂が決定的となり、中国革命 く三年間に石油・石炭・森林・漁業権益につい 要』所収・一九全・亜細亜大学 ) 六月の西南風に乗って来日し、翌年三、四月の につソかんけい 日本とソビエト連て協定も結ばれたが、国家関係では、日ソ基本が勝利 ( 一九四九 ) するに及んで、アメリカにとり 東北風を利用して帰航するのが通例であった。 日ソ関係 条約 ( 第五条 ) による宣伝禁止条項と日本側の日本の役割と地位は死活的となった。ソ連はア 前期 ( 一〇世紀後半 ~ 一二世紀前半 ) には、邦との関係。 だぎいふ はかた メリカの対日占領政策を軍事基地・植民地化と 博多を交易の場とし、大宰府の統制の下に交易〔前史〕幕末のロシア使節プチャーチン来航か治安維持法成立で友好関係は進展しなかった。 につしん 一九二九年 ( 昭和四 ) 以降の世界恐慌とソ連して一貫して非難し、東京の対日理事会は米ソ が行われた。宋海商が携帯する渡航証であるら日清戦争 ( 天九四 ~ 九五 ) ころまでは、日本と帝 こうひょ - っ 「公凭」 ( 商人の身分、積載貨物の内容、来航政ロシアとの関係は概して良好で、幕末・明治五か年計画 ( 第一次と二次 ) は、日ソ関係を悪代表の非難の応酬の場と化した。ソ連は中ソ友 ・ ) うらい 化させたが、三一年の満州事変、さらに日本の好同盟条約 ( 一九五 0 ・ (l) でも対日講和条約の早 目的などを記載。高麗・日本との貿易のために維新における英仏のように日本の内政に干渉す 「満州国」樹立 ( 一九三一 I) 後、両国の間は緊張し、期締結を要求した。朝鮮戦争 ( 一九五 0 ・六 ~ 五三・ 開港した明州の貿易監督機関である市舶司が発るようなこともなかった。両国間の唯一の争点 ちょうこまう からもの 七 ) は、アメリカ側にとっても日本の経済的、 給した ) を基に大宰府に派遣された朝廷の唐物であった領土問題は、千島列島 ( クリル諸島 ) ついにソ満国境で張鼓事件 ( 一九 = 0 、ノモン からふと 軍事的協力を取り付けるうえで対日講和を急ぐ ハン事件 ( 一九三九 ) が勃発、関東車はソ連機械化 交易使が先買権を行使し、その後に一般の交易と樺太 ( サハリン ) との一八七五年 ( 明治八 ) 必要を感じさせ、こうして一九五一年 ( 昭和二 が許されるという形態をとった。のち、朝廷かの交換条約によって解決、日本は千島列島を、部隊に敗北を喫した。これより先一九三六年日 ロシアは樺太を領有することになった。しか本とナチス・ドイツは日独防共協定 ( 原義は反六 ) 九月、アメリカは中ソ、インドなどの反対 らの目録を基に大宰府官吏が先買権を行使する コミンテルン協定 ) を締結 ( 翌年イタリアも参を振り切ってサンフランシスコ講和条約と日米 し、その後、日本の朝鮮半島・中国東北部 ( 旧 ようになり、大宰府の貿易管理が強化されたた め、これを嫌う宋海商らは不入権を獲得した権満州 ) への勢力伸長とロシアの同じ地域への勢加 ) して、反ソ政策を強めていたが、欧州制覇安保条約をセットにして締結した。その結果、 しよう しようえん 門寺社領の荘園内の港湾に着岸して私貿易をカ進出とがまっこうから対立し、ついに日露戦に乗り出したヒトラーは三九年八月に独ソ不可朝鮮戦争における日本の基地・兵器廠としての 役割とも相まって、日ソ関係は悪化するばかり ホーツマス条約 ( 一九 0 五 ) によ 侵条約を結んだうえで翌九月ポーランドに侵 争が勃発したが、。、 行うようになった。このため、九州西岸を中心 さつま 攻、第二次世界大戦が勃発した。四〇年一〇月で、サンフランシスコ条約後も日ソ関係は約五 として博多から薩摩に至る広い地域に交易の場って和平が実現、同条約により日本は樺太の北 は拡大し、貿易統制権をめぐって大宰府と荘園緯五〇度以南を割譲され、また一一年後には日露日本政府は南進論・北進論に分裂するなかで日年間、国際法的には戦争状態のままで降伏文書 漁業条約が結ばれて、北方漁業権はロシア革命独伊軍事同盟を結んで、枢軸国側にたっ旗色をの停戦状態が続くことになり、ソ連は対日理事 領主との訴訟が頻発した。 後も長く日本の権益とみなされるようになっ鮮明にしながら、南方資源制圧の必要から四〇会代表部を実質的な大使館がわりに東京に存続 後期 ( 一二世紀後半 ~ 一三世紀後半 ) には、 おおわだのとまり させた。五二年の国連安保理事会でアメリカの 日本側に平氏政権が成立し、大輪田泊を修築た。その後一九〇七 ~ 一六年 ( 明治四〇 ~ 大正年四月に日ソ中立条約を締結したが、直後に独 力して宋商船を瀬戸内海へ引き入れて貿易を行う五 ) に両国は、中国東北部への英米勢力の浸透ソ戦が勃発した。日ソ両国はともに二正面作戦提案による日本の国連参加に対して、ソ連は拒 」など新たな局面が切り開かれた。続く鎌倉幕府を排除するという共通の利益のため、一部に秘をとることの不利を考慮して、開戦に至らぬ緊否権を行使してこれを葬り去った。 しかしその後、朝鮮休戦 ( 一九五三 ) 、インドシ も基本的に対宋貿易には積極的に関与し、鎌倉密軍事協定を含む協約を四回にわたって締結し張関係を維持した。真珠湾攻撃以後、ソ連は日 っ むつら わかえ いいじまのつ 本にとり連合国側で唯一の非交戦国であったたナ休戦 ( 一九五四 ) 、ネルー・周恩来平和五原則声 7 の外港和賀江 ( 飯島津 ) 、六浦にも宋商船の来ている。 きん ばつばっ

3. 日本大百科全書 17

ただ ま例があるという但し書つきで、普通次のように規制とトーテム所属の原理は別である。婚姻規っ場合もある。北アメ リカのインディアンの 定義される。すなわち、トーテミズムとは、あ制は出自と世代の原理に基づくが、トーテム所 トーテムボールはその てる人間集団が特定の種の動植物あるいは他の事属は母親が懐妊した場所 ( 妊娠はトーテム聖地 一つである。オースト 物と特殊な関係をもっているとする信仰、制度にいる祖霊が女性の体に入ることと考える ) に ラリアにはチューリン 結び付いている。 であり、その特定種をトーテムという。 ⑤トーテムと人間集団の結び付きの由来を語るガとよばれる石か木で 〔形態〕①トーテムとなるものは動物や植物が だえん 多い。ただしこれには種々の型がある。たとえ神話をもつ。トーテムはその集団の祖先であるつくったほば楕円形で一 トーテムと集団は共通の祖先をもつなどその上に象徴的記号を ばオーストラリアのアランダ族は四〇〇種以上とか、 の親族関係が語られたり、集団の祖先がトーテ彫り込んだものがあ の異なる動植物種をトーテムとするが、アフリ る。↓トーテムボール 力のニョロ族やバヒマ族は牛のみがトーテムとムと親密な関係をもっていたなどといわれる。 〔理論〕トーテミズム 北アメリカのホピ族の野生カラシの氏族はオー なり、各氏族は牛の特定のタイプ ( 赤牛、乳牛 など ) か、牛の体の部分 ( 舌、腸、心臓など ) ク ( 樫 ) 、ミチバシリ ( ホトトギス科の鳥 ) 、戦は一八世紀末に紹介さ をトーテムとする。また各氏族が一つのトーテ士という名をもっているが、それは伝説上の移れて以来多くの研究者 の関心を集めてきた問 住の途中で泣いている子供に出会い、カラシの ムをもっ型と複数のトーテムをもっ型があり、 メラネシアではしばしば各氏族が鳥一種、樹木葉とオークの枝を与えて泣きやませ、そのあと題であるが、きわめて多様で複雑な様相を示す果たしていると示唆する。 ほにゆ - っ これらの諸研究を批判的に継承したレビ・ス 一種、哺乳動物一種、魚一種をトーテムにもでミチバシリ、戦士に出会ったからである。ア文化的、社会的現象であり、トーテミズムの概 トロースは、トーテミズムを、末開と文明を問 つ。動植物のほかに、たとえばオーストラリアナグマとチョウの氏族の名のおこりは、先祖が念についてはもちろん、その意味についてもさ では日、月、雲、雪、雨、火、水、季節などの知り合ったアナグマ人間を連れてきて、そのすまざまな説がたてられてきた。トーテミズム研わず人類に普遍的な人間精神の表れの一つとし 究は、どの側面に重点を置くかによって異なてとらえる。彼によれば、トーテムに選ばれた 自然物や自然現象もトーテムとなる。インドをぐあとで子供の慰みにチョウをつかまえてやっ じゅじゅっ ものは「食べるに適している」、つまり経済的 たからである。しかしそのような神話、伝説のり、大きく、呪術、宗教としてみる立場と、 はじめとして、人工的につくられた物品がトー その社会的側面に注目するものとに分けられに価値があるからではなく、「考えるのに適し テムになる所も少なくない。たとえばインドの類をもたない場合も多い ⑥トーテムと集団との強い結び付きは信仰、儀る。トーテミズム研究の先駆者マクルナンはこている」からである。集団間の関係を他の事物 ビール族でトーテムとなるものは植物一九、動 の関係によって表現するのがトーテミズムの論 礼によって、また情緒的、神秘的に示される。れを動物崇拝に由来する宗教とみなし、マレッ 物一七、物品七 ( 短刀、割れ瓶、村落、とげ付 理であり、社会における集団の分類、違い、対 き棒、腕輪、足首輪、パン切れ ) である。そのたとえば、トーテム動物はその名をもっ集団のトやイギリスのフレーザーは呪術とみたが、い げりおうと ほか睡眠、下痢、嘔吐、性交、さまざまな精神者に好意をもっていて襲わないとか、人間の外ずれにせよ初期のトーテミズム研究は文化進化立といったものと、自然界の動植物間のそれら との間に相同、平行関係をみいだし、前者を後 状態といったことがトーテムにされる例がオー 見や性格がトーテム動物に似ているなどといわ主義的な立場にたって、宗教の起源をめぐる問 、トーテミズムは原始的なも者によって表すのである。たとえばとの氏 れる。北アメリカのチッペワ族では、魚の氏族題として取り扱い ストラリア北東部などにある。 ⑦トーテムは氏族、半族、ホルドなどの集団との者は長命で毛髪が細いか薄い、クマ氏族の者のであり、原始心性の表れと考えた。フランス族がそれそれタカとカラスをトーテムとすると いうことは、氏族と氏族の関係のあり方は カ長くて黒くて濃く、また気質が怒りつばのデュルケームは、トーテミズムをトーテムと 結び付く。そのほかオーストラリア南東部には いう物質的なものに象徴される非人格的なカタカとカラスの関係のあり方と同じ、具体的に く戦闘的、ツルの氏族は声がけたたましく弁舌 性によるトーテムがあり、男はコウモリを、女 はキツッキをトーテムとする。また北西アメリ 家であるといわれる。自分のトーテムは、殺し ( マナ ) に対する信仰であり、宗教であると説はとは一方では敵対し、他方では婚姻を通 くと同時に、その社会的起源を強調し、トーテして連帯する同じ部族であるという関係が、タ カ・インディアンの間では個人が特定のトーテたり、採集したり、食べたりしないという禁忌 ムをもっこともある。ただし個人トーテムは単は広くみられる。オーストラリア北部では自分ムは社会の象徴、「旗」であり、社会的結合カカは生肉を食べカラスは腐肉を食べる点では対 、こ。トーテミズムの社会的立し、ともに肉を食べる鳥という点では同じで のトーテムだけでなく、父、母、祖父のトーテとしての役割を説しオ に守護霊だとする考えもある。 3 集団はそのトーテムの名でよばれる。たとえ ムを食べることも禁じられている。ときには見側面に注目する見方はゴールデンワイザーに始あるという関係に類比されるのである。 なお、心理学者フロイトのトーテミズムの解 ばオジプワ族にはツル、アビ、クマ、テン、ナること、触れること、その名を口にすることすまるが、デュルケームを経てラドクリフ・プラ そうかん ら禁止されている。インドのオラオン族で、鉄ウンに受け継がれた。彼は基本的にはデュルケ釈も有名である。彼はトーテミズムを近親相姦 マズの名がついた五つの主要氏族がある。しか ームの説を踏襲し、トーテムは集団の統一の象の禁止と関連づけ、絶対的権力をもち女性を独 し集団がトーテムとは別の名でよばれることもをトーテムとする人々は、唇や舌で鉄に触れて しかし、これらの禁忌を伴わない 徴であり、人々はこの信仰をめぐる儀礼を通し占していた父 ( 原父 ) を息子たちが殺害した 少なくない。たとえばポリネシアのティコピアはならない。 が、彼らはそれを後悔し、トーテミズムという 島では、四氏族がそれそれタロイモ、ヤムイ例もまた多い。オジプワ族では、トーテム動物て集団の連帯性、持続性を確認するという。し かし、トーテムとして特定の動植物が選ばれる機構をつくり、トーテム集団内の婚姻を禁止し モ、パンノキ、ココヤシと特殊な関係にあるは自分の名の氏族の狩人に好んで撃たれるとい 〈板橋作美〉 が、それらの名でよばれてはいない われる。トーテム集団はトーテムと集団の関係理由について、トーテムは集団を代表するものたのだとする。 は集団トーテミズムの場合、同じトーテムをもを物語る神話を儀礼によって再現したり、定期として選ばれたがゆえに儀礼的に重要視される回レヴィⅡストロース著、大橋保夫訳『野生の というデュルケームの説を退け、逆にトーテム 思考』 ( 一九七六・みすず書房 ) つ者の間では結婚しない、つまりトーテム集団的にトーテムへの崇拝儀礼を行う。オーストラ リアでは自分のトーテムの聖地へ行ってその種は他の理由で重要だから選ばれたのだとする。 が外婚単位となる。これはトーテム所属がたい 、ール totem pole 北アメリ トーテムボ てい出自原理に従うからである。しかしこれに の増殖儀礼を行うことがよくみられる。 すなわち、トーテムに選ばれたものは経済的そカ北西海岸のトリンギト族、クワキウトル族、 も例外は多い。たとえばアランダ族では、婚姻 ⑦自分のトーテムを表す標識、図案、彫刻をもの他の価値をもち、社会のなかで重要な役割を ハイダ族、チムシアン族などでつくられる特異 トーテムボール アメリカ合衆国 , アラスカ州のランゲル市 126

4. 日本大百科全書 17

第六期は、こうして中国が名実ともに国際社れに全面的に対応しようとするものではなかっ生すると、中国は一時、池田内閣を慎重に見守 2 ゅ - を参照されたい。 っていたが、やがて池田内閣に対しても批判を 7 会の有力な一員となった一九七一年秋から、翌た。鳩山一郎内閣は、中国側をあえて刺激する ち一〔日中関係の位相〕日本と中華人民共和国は、 つ一九七二年九月に歴史的な国交樹立を達成し、七二年のニクソン訪中にみられる国際関係の大一『〕動を極力避けようとし、民間の日中交流を側行うようにな 0 た。そして六〇年八月、中国側 きな変動を経て、同年九月の日中国交樹立に至面から見守る態度をとり続けはしたが、結局中は新しい対日貿易原則を提示するに至った。そ こ日中関係は、長い不幸な出会いののちに、正常 国側の期待する対応を示すことはなかった。一れは、①政府間協定、②民間契約、③個別的な な国家関係を形成した。その後、外交、経済、る時期。 たんぎん 配慮取引、という「貿易三原則」で、やがて民 第七期は、一九七二年九月の日中国交以降、九五六年一二月、石橋湛山内閣が成立、中国側 文化など各分野の交流が大きく進展し、日中関 間契約による「友好貿易」が六〇年一一月以降 は石橋内閣を大いに歓迎する姿勢を一小したもの 日中関係の急速な展開のなかで、七八年八月に 係は現在、日中両国にとって、もっとも重要な の、当の石橋内閣は短命に終わり、五七年二月拡大され、六一年には中国が指定する友好商社 日中平和友好条約が締結されるまでの時期。 国際関係になっている。半面、わが国には、、 のぶすけ 第八期は、一九七八年夏の日中平和友好条約に岸信介内閣が誕生すると、中国側はきわめての範囲も拡大し、二年半の日中貿易断絶のあと わゆる中国・フームが沸き起こり、「同文同種」 にこのような友好商社方式が実現した。 警戒的な姿勢を示し始めた。しかもこの時期 という親近感もあって、中国という巨大で深遠締結以降、今日に至るまでの時期である。 以上の時期区分ののちに、ここでは、それそが、中国の内政上の「百花斉放・百家争鳴」連〔 i-a ・貿易と日中交流〕第四期は、中国にと な対象を、とかく安易に考える風潮も存在して って「大躍進」政策挫折後の、いわゆる経済調 動から反右派闘争への転換と重なっていたこと いる。日中両民族は歴史的にも民族的にも「同れの時期の特徴と問題点を指摘してみたい。 〔「日本人民の反米闘争」支援の時期〕まず第は、中国側のその後の姿勢を決定づけていっ整期にあたり、対外的には中ソ対立の激化によ 文同種」であることには違いないが、今日の日 た。この間の日中関係はいわゆる「積み上げ方って印象づけられるが、日中関係においては 中両民族はあまりにも異質であり、日中両国の 一期については、一九五〇年二月に調印された *-a ・貿易が開始され、ふたたび日中間の交流 社会的環境はあまりにも異なっている。このよ中ソ友好同盟相互援助条約こそ、中国側からみ式」を基調としたものであり、一九五五年五月 には第三次貿易協定が東京で調印された。第一一一が活発になった時期である。 うなことを考えると、日本と中国は、アジアにて、日中関係を規定する基本的な要因であっ 一九六二年九月、自民党の松村謙三一行は た。この条約の第一条では、日本の軍事的復活次協定によって日中貿易はさらに進展し、五五 おける宿命的な「異母兄弟」なのだというべき しゅうおんらい たかさき に対する中ソの相互防衛が規定されていたから年一一月には日中輸出入組合が設立され、見本周恩来首相と会談し、高碕達之助を団長とす であり、歴史的にも、文化的にも、民族的に ベキンシャンハイ も、また地理的にも相互の摩擦が運命的に生じである。一方、戦後日本の対外的選択は、五一市も東京、大阪、北京、上海で開かれるようにる経済使節団も訪中した。同年一一月には、高 りようしようし 碕団長と廖承志中国アジア・アフリカ連帯委 年九月に調印されたサンフランシスコ講和条約なった。 やすい固有な関係にあるのだといえよう 3 〔岸内閣と日中関係〕第三期は、中国の対日姿員会主席との間で日中相互貿易に関する覚書が 〔日中関係の時期区分〕さて、日中関係はこのならびに日米安全保障条約と、翌五二年四月、 しようかいせき ように特殊な位相にあるのだが、ここでは次台湾の蒋介石政権との間に結んだ日華平和条勢が全面的に強硬化し、日中関係が全面的に断交わされ、五八年の日中関係の断絶以来、実に に、中華人民共和国の成立以後の日中関係史を約によって行われ、ここに戦後日中関係の基本絶した時期である。一九五八年三月、第四次貿四年半ぶりで日中間の正常な貿易が再開される 構造が形成された。この時期の中国は朝鮮戦争易協定が成立したが、中国側は台湾の蒔介石政ことになった。この覚書に基づく貿易 ( 日中双 回顧してみよう。 に当面して臨戦体制をとり続けていたのであ権に親近感を示す岸内閣に対する激しい非難を方代表のイニシアルをとって・貿易とい 一九四九年の中華人民共和国の成立以来、七 二年の日中国交の樹立を経て今日に至る日中関り、中国の対日姿勢は、もつばら「日本人民の開始した。こうしたなかで五八年五月二日、長う ) を軸に日中交流は拡大し、春秋二度にわた きりがみ 反米闘争」を支援する方向に傾いていった。や崎の中国切手剪紙展で発生したのが、一右翼青る広州交易会への日本からの大規模な参加、 係史は、八つの時期に区分することができる。 すなわち、第一期は、中華人民共和国が成立がて、サンフランシスコ対日講和の調印が日程年による中国国旗引き下ろし事件である。中国京・上海における日本工業展覧会開催なども実 した一九四九年から、サンフランシスコ対日講に上るや、この条約の不当性を非難する中国の側はこの事件を中国に対する侮辱・挑発だとし現した。六四年四月には、日中記者交換、貿易 て岸内閣の責任を激しく非難し、あらゆる日中連絡所の相互設置が取り決められた。 和条約が発効した五二年までの戦後日中関係の姿勢がますます強化された。 関係を断絶してしまった。 このように日中関係が好転し日中貿易が拡大 こうしたなかで、日中交流の細い糸をつない 草創期である。 以後、中国は、日本社会党、日本共産党を中するなかで登場してきたのが、日本政府資金に 第二期は、中国側の対日態度の緩和によってでいたのは日中貿易である。しかし、朝鮮戦争 心とする日本の革新勢力をふたたび強く支援激よる長期延べ払いを認めない旨を一九六四年五 日中関係が新時代に入った一九五三年から、中勃発後のアメリカによる対中国禁輸措置のた 月に吉田茂元首相が台湾政府に約束したといわ 国の国内政治に重大な転換 ( 「百家争鳴」運動め、一九五一 ~ 五二年になると日中貿易はほと励するとともに、従来の「積み上げ方式」にか から反右派闘争への転換 ) がもたらされた五七んど断絶に等しくなってしまった。このようなわって、対日政治三原則を日中正常化の基本政れる「吉田書簡」の問題であった。 とき、五二年六月、中国を訪問した三名の国会策として打ち出してきた。この政治三原則と 一九六四年一一月、池田内閣にかわって佐藤 年六月を境とする同年前半まで。 もうたくとう は、「①中国敵視政策を改める、②二つの中国栄作内閣が成立すると、中国側は、佐藤政権批 第三期は、毛沢東路線による中国の国内政治議員は、中国との最初の民間貿易協定に調印 をつくる陰謀に加わらない、③日中両国の国 ~ 父判を開始し、翌六五年一月、訪米した佐藤首相 し、ここに第一次日中貿易協定が成立した。 パターンの高揚期となった一九五七年後半以 〔「積み上げ方式」による日中緩和〕第二期正常化を妨げない」というものであり、この原が日米共同声明で、日本政府の対中国基本姿勢 降、翌五八年五月の長崎における中国国旗引き は、日中関係が従来の緊張から大きく緩和し、 則は日中国交樹立に至るまで、中国側の基本的はいわゆる「政経分離」にあることを示し、対 下ろし事件を契機にして日中関係が断絶してい いわゆる「積み上げ方式」による日中間の交流な対日姿勢となった。このころから中国は、 中国向けプラント輸出に輸出入銀行の利用を認 た六二年前半まで。 第四期は、日中間のいわゆる・貿易関係 が著しく進展した時期であった。一九五三年の「日本軍国主義復活」を説き始め、同時に一九めなかったため、中国側の佐藤内閣非難はます が成立する一九六二年後半から、中国に文化大朝鮮戦争停戦協定、五四年の平和五原則を経五七年の勤評闘争、翌五八年の警職法反対闘争ます激しくなった。 わゆる 革命が開幕する以前の六五年前半まで。 て、中国は従来と大きく異なる対日姿勢を示を経て、六〇年の安保闘争に至る日本の反体制〔政経不可分と佐藤内閣〕第五期は、い 第五期は、一九六五年後半の文化大革命開幕し、日中交流を積極的に呼びかけてきた。 運動をきわめて高く評価し、連日日米安保反対文化大革命によって、中国が建国以来最大の政 から、六九年の九全大会を経て、中国の国連参 以上のような背景をもって展開された日中関のキャンペーンを展開した。 治的・社会的激動を経験した時期であり、文化 はやと 加が実現した七一年秋まで。 係正常化の呼びかけに対し、日本側の反応はこ ところで一九六〇年七月、池田勇人内閣が誕大革命の波紋が日中関係にも大きく及び、日本 ばつばっ はとやま っ〃ー

5. 日本大百科全書 17

につちょ 一九五九年八月には、それまで海外渡航が許 う事件を引き起こして波紋をよんだが、当時の韓関係だが、問題はなお山積している。一九八 が、日韓両政府はそれを押し切ってそれそれの 国内手続を終え、同年一二月一八日、批准書交田中角栄内閣は韓国政府の「遺憾」表明だけで二年と八六年の教科書問題や八六年の藤尾正行されなかった在日朝鮮人に北朝鮮への集団帰国 換、発効にこぎ着けた。 事件を不問に付した。また、七九年一〇月の朴文相発言批判にみられたように、韓国の世論はの道を開く協定が日朝両赤十字間で締結され ぜんとかん 日本の為政者の歴史認識に深い疑念をもったま た。六三年一月には札幌での国際競技開催を契 〔日韓関係の緊密化〕国交樹立に伴う日本の対正熙大統領射殺と翌八〇年五月の全斗煥将軍の 韓資金供与は、具体的には、一九六五年末から クーデターで韓国政情が混乱したとき、従来両まである。日本資本の「経済再侵略」非難の声機に北朝鮮スポーツ選手団の入国が認められる ようになった。さらに七一年から七四年にかけ 向こう一〇年間に、三億ドル相当の物資と役務を国の政界を結んでいた人的パイプが切れて日韓はすでに高く、日本の軍事大国化への警戒も強 まりつつある。全斗煥大統領の任期が八八年一一て、一般民間人の北朝鮮への渡航と北朝鮮から 無償で提供し、また二億ドルの長期低利の公共借関係は一時冷却した。八三年一月、就任後まも なかそわやすひろ 款を供与するものと決められた ( 韓国側はこれない中曽根康弘首相は訪米に先だってソウルに 月で切れることとも絡んで、日韓関係は依然波の入国に対する規制が一部緩和され、北朝鮮政 界人の入国もケース・バイ・ケースで認められ らの資金を国内向けに「対日請求権資金」と名飛び、向こう七年間に総額四〇億ドルという巨額乱含みである。 づけた ) 。それとあわせて同じ期間内に日本かの公共借款供与を約束して韓国政府との関係を〔北朝鮮との関係〕日本と朝鮮民主主義人民共ることになった。七七年には超党派の日朝友好 ら三億ドル以上の商業借款を供与するよう努力す修復し、全斗煥大統領との間で「新次元の日韓和国 ( 北朝鮭 ) の間には国交がなく、政府レベ促進議員連盟の協力で、日本漁船の北朝鮮近海 るとの約束もなされた。これによって日本は韓関係の幕開き」をうたい上げた。 ルの二国間実務協定も皆無である。そればかりでの操業に関する民間協定が両国の漁業団体の 国の経済開発に対して一定の発言権をもっこと 日韓関係緊密化の根底には安保問題がある。 か、日本政府は北朝鮮との間の人の往来にも制 間で締結された。北朝鮮との貿易は、日本の業 になった。両国政府は多面的な協力を発展させ一九六九年一一月に訪米した佐藤栄作首相は一一限を設けている。戦後すでに四十余年、世界中界が一九五六年に日中貿易の形を借りて始めた るという理由で六七年から定期閣僚会議の開催 クソン米大統領との共同声明のなかで「韓国の のはとんどすべての国と国交が開かれ、往来がのが最初で、六一年には政府の許可を得た直接 を制度化し、それに対応して双方の政財界、文安全は日本自身の安全にとって緊要である」と 自由になったもとでのこの例外措置は、他方で取引に変わり、七四年には輸出入計三億六〇〇 化界にも各種の協力推進団体が生まれた。日本うたい上げた。ともにアメリカの同盟国であるの日韓関係の緊密さの裏返しの反映である。当〇万ドルにまで成長した。ただし、この貿易は取 の民間企業の韓国への進出は当初はおもに商業日韓両国の「運命共同体」的関係を確認したこ然、北朝鮮側にも構えた姿勢がある。北朝鮮が 引品目に制約が多く、輸出入銀行の融資も七四 借款供与という形でなされたが、韓国政府が六 の文言は「韓国条項」とよばれ、以後、歴代の 一九六一年七月にソ連、中国との間でそれそれ年に二件について認められただけで以後は認め 〇年代末に外国人直接投資誘致の方針を打ち出日米、日韓政府間で絶えず再確認されるように 締結して現在まで効力を持続させている「友られていない。おまけに七〇年代後半から北朝 して投資環境整備を進めたことから、七〇年代なった。日本政府の対韓借款供与は単なる経済好・協力・相互援助条約」は、日米安保条約と鮮側の貿易代金決済の停滞という悪材料が加わ には直接投資も急増した。とくに七七年からの的支援ではなく、「反共の防壁」とされる韓国米韓、日韓関係を意識した軍事同盟条約であったため、その後の取引は低迷を続けている。 韓国の重化学工業化計画の始動で日本の大企業への安保借款として供与されているのである。 る。その半面、北朝鮮がかねてから日本に関係 北朝鮮は八四年一月、外交関係のない資本主義 の対韓進出が本格化した。それより先一九七一 八三年一月の中曽根・全斗煥共同声明に掲げら改善を求めてきていることも確かである。朝鮮諸国を含む諸外国との経済・技術交流の拡大に 年、日本政府は韓国側の要請により、「対日請れた「新次元の日韓関係」ということばも、そ戦争休戦後の五五年二月、朝鮮民主主義人民共努力するという新政策を決定し、日本からの資 求権資金」とは別枠の公共借款供与を続けるこ の直後にワシントンで「日本列島不沈空母化」和国の南日外相は声明を発表して、「貿易・文本・技術の受け入れにも意欲をみせたが、日本 とに同意した。こうして国交樹立から八四年末論を唱えた中曽根首相と「北東アジア安保」の 化関係およびその他の関係の樹立と発展のため経済界の反応は鈍かった。 までの二〇年間に韓国に投入された日本の資金ための韓国の戦力増強を図る全斗煥大統領との に話し合う用意がある」と日本政府に呼びかけ 日本と北朝鮮の関係のこのような厳しい状態 は、政府資金が累計七一八二億円 ( うち無償分提携を意味した。同大統領が翌八四年九月、現た。同趣旨の発言はその後もたびたび行われた が、将来にわたって固定されるとは限らない 一〇六七億円 ) 、商業借款が累計三二億五七〇職の韓国大統領として初めて日本を公式訪問し が、日本側はいつも黙殺してきた。だが、この朝鮮半島をめぐる情勢はきわめて流動的で、関 あいさっ 〇万ドル、民間直接投資も累計一〇億〇七一一三万たとき、天皇は歓迎挨拶のなかでかっての朝鮮 、両国の間になんの変化もおこらなかったわ係諸国の政策にも多くの変化が予想されるから ドルに達し、日本はアメリカに次ぐ対韓投資国と支配への「遺憾」の意を表明した。天皇自身が けではない。 / ^ 川越敬三〉 徐々にではあるが、人の往来と経である。 なった ( 民間直接投資だけをとればアメリカよどう考えていたかは別として、全斗煥大統領が済・文化の交流が進展した。そうしたことがな回川越敬三著『日本人にとっての朝鮮問題』 りも上 ) 。貿易面でも近年日米両国は韓国の輸天皇のことばを日韓安保協力強化への韓国国民 いに等しかった五〇年代末ごろまでの状態に比 ( 一九七七・大月書店 ) ▽現代朝鮮研究会編『新 出、輸入における一位、二位を争っている。 の抵抗感を柔らげる材料として使おうとしたこ べれば、近年は大きくさま変わりしたともいえ 版朝鮮要覧』 ( 一九大・時事通信社 ) ▽小牧 この間、一九七三年八月には韓国の情報機関とは確かである。 るのである。それは日本の民間の努力が政界を 輝夫編『朝鮮半島』 ( 一九会・アジア経済研究 きんだいちゅうらち が来日中の野党指導者金大中を拉致するとい 一見強化の一途をたどっているかにみえる日動かし、政府を動かしてきた結果である。 所 ) とういでん につっ - よ , つっーしょ , っーし 日本と朝鮮の関係は、最近の言語学、歴史学、文化人類〔倭との関係〕中国文献 ( 『魏志』東夷伝など ) に基づく日 日朝交渉史 学、民俗学など諸分野の研究が進歩するにつれ、東アジア諸本と朝鮮との関係を追究することは限界にきている。紀元前 倭との関係 / 古代日本の朝観 / 東アジア通商圏の一地域文化交流のなかで多角的に探究され、戦前の既成概念を後から「倭」が朝鯡北部の中国属領を経て中国の首都に朝貢 環 / 交隣関係ーー日本国王と朝鮮国王 / 定約通商の体大きく改めるようになってきている。視点を新たにした、日 し、朝鮮南部には金属資源を求めて触手を伸ばした。北部に 制 / 約条の制限強化 / 通商圏の変貌と対馬の貿易独占 / 本の『古事記』『日本書紀』や朝鮮の『三国史記』『三国遺できた高句麗王国は、四世紀に入ると南下してきた。また、 ばかんひやくさい しんかんしんら 徳川政権の外交体制 / 明治の外交 / 日本支配と独立回復事』などの古典批判や、中国古文献の研究も進み、遺物・遺中・南部には馬韓に百済王国、辰韓に新羅王国が興り、 寺、くほう 跡の発見による検証も深まってきた結果である。 ずれも中国に朝貢して冊封を受け、三国はそれぞれ勢力を競 7

6. 日本大百科全書 17

りようしようし たかさき ん来したが、六二年高碕達之助・廖承志の間で「日中貿易にれによりソ連は態度を硬化し「 " 領土問題。は解決ずみ」と解決ずみ」という従来からのソ連の立場が修正されたのかど ↓日ソ関係 しまのところ明らかでない。 いう態度を一貫して譲らず、歯舞、色丹の引き渡しも、日本うかは、、 ほ関する覚書」が締結され、「政経分離」原則のもと交流が再 開された。正常化に「前向きの姿勢」をとらなかった佐藤栄からの外国軍 ( 米軍 ) が撤退しない限りは認めない立場を堅〔対韓関係〕韓国が日本にいちばん近い外国であるには違い 作政権の時代に若干の揺れがあったが、七〇年秋にはカナ持することになり、これに関する限りはその後もなんら進展ないが、その国交関係はなかなかむずかしい。韓国が旧日本 帝国の植民地であったという歴史的事実、そこからくるさま ダ、イタリアその他日本以外の諸国が相次いで中国との関係をみせていない。「千島列島」を「放棄」させたのもアメリ ざまな問題について両国民の認識の仕方に大きなギャップが の修復を済ませてしまったこともあって、日本国内でもなん力なら、「千島列島」の自主的解決のいかんによってはサン ある。加えて、韓国は朝鮮半島の北半分を占める朝鮮民主主 とかしないわけにはゆかなくなる。経済界でさえ国交回復をフランシスコ条約と抵触することあるべしと警告を発して、 けんせい 要求する声が有力となった。佐藤首相一流の「待ちの政治」日本の自主外交路線に牽制球を投げたのもアメリカであっ義人民共和国 ( 北朝鮮 ) ときわめて特殊な関係にたってお た。アメリカからみれば、日ソ両国が領土「問題」を抱え持り、それたるや朝鮮民族固有の問題であると同時に、米中ソ で無為に過ごすうちに、七一年七月一五日、ニクソン大統領 が全米向け放送で中国訪問計画を発表した。キッシンジち、ある種の緊張関係にあるはうが望ましい。下手な「問国際関係そのものに左右される性格をもつ。 はらん 日韓両国は当初から波瀾含みの緊張関係にあった。一九五 ャー補佐官が秘密裏に交渉してつくられた計画だが、日本政題」解決は、まだアメリカの手中にあった沖縄のみならず、 りしようばん 日本全域に配置されている軍事施設への重大な変更をもたら二年一月、韓国は「海洋主権宣言」を行って李承晩ライン 府はこの間の情報をまったく与えられていなかった。日本に しかねなかった。逆にソ連はこれを、日本を対米従属から非を敷いた。公海上に韓国の主権を唱え、その水域に立ち入っ とって寝耳に水の、アメリカの動きを ( 第一次 ) 「ニクソ だほ ン・ショック」という。七二年二月、ニクソンの訪中があっ同盟中立へ引き込むための手段としてとらえた。しかもソ連た日本漁船を頻繁に拿捕した。アメリカの仲介で日韓の正式 にとってみれば日本の北方領土問題は、ソ連がヨーロッパ各会談がもたれたものの、李承晩ライン、対日請求権、在日朝 たのち、その年九月下旬、田中角栄首相が訪中、周恩来と 「復交三原則」を含む共同声明を行い、ここで初めて両国国地に残している「領土問題」と連動する性質のものであっ鮮人の法的地位など山積する問題のどれひとつもらちがあか ず、交渉の成果は実らなかった。やがて、韓国では軍事クー 交が正常化することになった。七四年に入ると実務協定がて、それだけ切り離して特別扱いしにくい面がある。 ばくせいき デターにより朴正熙政権が誕生し ( 一九六一年五月 ) 、この 一九六〇年に入り日本が経済の高度成長期を迎えると、ソ 次々に締結され、平和友好条約の交渉に入る。ソ連を刺激す 時点から両国関係改善の兆しがほのみえてくる。六一年秋、 る「反覇権条項」で交渉は難航するが、七八年八月なかば、連を含む海外から資源輸入が必要になり、ソ連もまたシベリ きんしようひっ 福田赳夫首相の時点でようやく日中平和友好条約が調印されア開発に日本の技術協力などが欲しい事情があり、経済面で大平正芳外相と金鍾泌中央情報部長との会談の結果、最大 た。この条約の締結によって、日本の現在の国際的な位置の日ソ関係は緊密になった。七五年ソ連から日本に対しての難問の一つ、請求権問題が日本側の五億トルの経済協力とい う形でいちおうけりがつけられる見込みとなった。けれども 「日ソ善隣友好条約」締結を提案してくる動きがあった。日 日中協調、日米連携およびソ連との間のある種の対抗関 本側も、たとえば七七 ~ 七八年に日中間の平和友好条約締結日韓交渉に対する韓国国民の反対運動は激しく、六五年六月 係ーーはほば確立した。↓日中関係 「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」が東京 交渉の際、中ソ対立に巻き込まれないよう、ソ連を刺激しな 〔対ソ関係〕日ソ国交回復は、片面講和後の一九五三年八 いよう気を遣いながら「反覇権条項」に対処してきた経緯がで調印され、同年末ソウルで批准書が交換されて国交正常化 月、ソ連首相マレンコフが日ソ関係の正常化が必要であると たんたん 示すように、ソ連圏との友好関係をもだいじにする「全方位の緒につくまでの道のりは坦々たるものではなかった。この 示唆したのを機縁に、急速に気運が高まった。五五年六月、 しげみつまもる 外交」を方針としてきたのであった。ところが七〇年代の末基本条約とともに、漁業協定および在日韓国人の法的地位と 日ソ交渉はロンドンで始められた。翌年夏、重光葵外相に 続いて鳩山一郎首相が訪ソし、「アデナウアー」方式ーー講になると東西関係が全般的に悪化し、七九年二月ソ連のアフ待遇に関する協定が取り結ばれた。前者により李ラインは最 和条約によらない戦争状態の終結措置をとること、つまり領ガニスタン侵攻、危機迫る中東地域への肩入れ強化など軍終的に撤廃された。けれども、在日韓国人の法的地位を例に 土問題を棚上げにして国交回復する方式ーーをとって、日ソ事・外交面の硬化が目だっとともに、アメリカは日本の軍事とっていっても、この協定で解決されたのは永住権関係のほ 共同宣言の合意をみた。日本人俘虜、北洋漁業、日本の国連力増強をますます強く要望してきた。日本国内でも積極的にんの一部であって、差別問題はいっこうにかたづけられてい おうなっ 防衛体制に取り組むべしとする気運が急速に高まった。八〇ないと批判が絶えない。外国人一般に対する指紋押捺の強 加盟など交渉すべき事項があったが、なかんずく問題なのは 領土問題であった。これより先、アメリカは、ソ連を対日講年代に入ると、日本はアメリカと防衛体制を協力しあう「同制、外国人登録証明書の常時携帯義務などの外国人法制問題 和に参加させる可能性を見込んで、サンフランシスコ講和条盟」関係にあるという言明が公然となされ、日本は「西側のは、氷山の一角である。 からふと 一九七三年八月、金大中が東京のホテルから誘拐された事 一員」だと強調されるようになる。七〇年代なかばまで外交 約では日本に「千島列島」をサハリン ( 樺太 ) やその周辺の はぼま、 島々とともに「放棄」させていた。日本側は、歯舞諸島およ政策の基調であった「全方位外交」は捨て去られ、ソ連は潜件から始まり、八二年六月まず中国が提起した日本の学校用 しこたん び色丹島は歴史的に日本の領土であるという立場をとり、交在敵国視されることになった。八六年一月シュワルナゼ・ソ教科書問題の韓国での論議、そのほか日韓修復のための経済 あべしんたろう 渉過程のある時点ではソ連代表はこれら「小千島列島」を返連外相が来日し、安倍晋太郎外相と会談ののち共同コミュ一一協力要請問題、日本と北朝鮮との国交修復問題など、論議の ノ三年一月、中曽根首相が訪韓 還してもいいという態度を示したこともあった。しかし、そケが発表された。これによれば、日本にとって最重要課題で対象は尽きることがない。、 くなしりえとろふ の後、日本政府は、「南千島」とよばれてきた国後、択捉両ある領土問題も含め、日ソ平和条約締結の交渉を次回の外相し、これにこたえて翌八四年九月、全斗煥大統領が訪日し た。韓国大統領の史上初めての訪日は、天皇の「おことば」 こよ入らないという見解を打ち出した。こ定期協議でも継続するとされた。これにより、「領土問題は 島も「千島列島」し。 ふりよ

7. 日本大百科全書 17

ゆる「覇権」条項が取り入れられた。日本政府出された「日本国政府と中華人民共和国政府の 商社員のスパイ容疑による逮捕、日本人記者の恩来四条件」を受け入れるものが続出した。 〔日中国交樹立〕一九七二年七月、日本に田中は、「覇権」条項は特定の国 ( つまりソ連 ) を共同声明」。これによって台湾との間の「日台 国外追放など「造反外交」が日中関係にも大き 角栄内閣が成立したが、周恩来首相は田中内閣さすものではないとの解釈をとったが、結果的平和条約」は終了し、わが国は中華人民共和国 く影響した。 にソ連を大いに刺激し、以後、日ソ関係はさら政府と国交を樹立することになった。声明は、 しかもこの時期の日中関係できわめて重要なを大いに歓迎する旨を発言、従来の佐藤政府に に悪化した。日中平和友好条約の締結が日中関「三つの思想」から構成される前文と九項目の 問題は、日中友好関係の一つの柱でもあった日対してとっていた態度から急激に転換した姿勢 本共産党と中国共産党とが、一九六六年春の宮を示し始め、日中国交樹立に中国側もきわめて係を強化させた反面、逆にソ連のアジア戦略を本文とからなり、両国国民の願望、戦争の反 本顕治・毛沢東会談以降決定的な対立状況に陥積極的になっていた。こうした状況を背景にし拡大させ、アジアの緊張を高めたことは否めな省、国交正常化、中国政府の唯一合法性の承 認、台湾が中国の一部であることの尊重、外交 ったことである。その影響で日本における日中て、七二年九月二九日、日中両国は歴史的な日 こうしたなかで、一九七八年末の中国共産党関係の樹立、戦争賠償の放棄、平和五原則と国 友好連動にもさまざまな対立や分裂が生じ、親中国交を樹立した。訪中した田中首相、大平外 とうしようへい 中国グループは日中友好協会正統本部を結成し相一行は、毛沢東、周恩来ら中国側首脳との会第一一期三中全会で、鄧小平らの「四つの現連憲章の原則の確認、覇権主義に対する反対、 平和友好条約の締結のための交渉の合意、貿 た。この混乱は、日本の友好貿易業界や文化団談ののちに、国交樹立のための日中共同声明に代化」路線が優位を占めた中国側は、やがて八 署名した。 一年六月の同六中全会で華国体制を切り崩易・海運・航空・漁業等の諸実務協定の締結の 体などにも波及した。 ための交渉の合意を内容とする。声明の当夜、 一方、わが国と台湾との関係は、日中共同声し、中国の現代化政策とリンクした日中関係が 一九六七年一一月には佐藤首相がふたたび訪 台湾政府は日本との外交断絶を宣言し、日本の 米し、日米共同声明で「中国の脅威」と、これ明と、「日中関係正常化の結果として、日華平しだいに形成されていった。七〇年代末から八 ちょうし ^ 石本泰雄〉 和条約は、存続の意義を失い、終了したものと〇年代前半にかけては、鄧小平、華国鋒、趙紫対中国関係は新段階に入った。 に対処するための日米協力を表明したが、・ - 一よ・つほう につちゅ , っギ、よぎよ , つきよ、ってし 貿易は協定期間を一年に短縮しつつ継続され認められる」という大平外相の公式談話によっ陽、胡耀邦ら中国首脳の訪日が相次ぎ、日本か日中漁業協定 「日本と中華人民共和国との間の漁業に関する らも歴代首相が訪中するようになった。 た。・貿易は、六八年から日中覚書貿易とて公的には断絶した。 しわゆる「教科協定」をいう。一九七二年 ( 昭和四七 ) の日中 しかし、一九八二年夏には、、 呼称変更されたが、日中貿易は中国の対外貿易 以後、台湾との関係は、亜東関係協会 ( 台湾 ーのなかでは第一位のシェアを占めるに至った。 側 ) と交流協会 ( 日本側 ) という双方民間レベ書問題」で中国側は激しく日本「軍国主義」批国交正常化に伴い、それ以前の民間漁業協定に かわる政府間の漁業協定の交渉が日中間で行わ 三年夏には「東京裁判」問題で、 もっとも、その日中貿易のなかでは「友好貿ルの窓口を通する関係に格下げされ、経済・文判を行い、八 やすくに れ、七五年一二月に本協定が締結された。この 八五年夏には「靖国神社問題」で、さらに八六 易」が占める比重はますます大きくなり、日本化・人事などの交流にとどまっているが、国際 ばっかい 側は覚書貿易協定の調印に関して、中国側の主的孤立のなかでの台湾の奇跡的な経済上の成功年秋にはいわゆる「藤尾発言」で対日批判を行日中漁業協定は、適用水域を、中国が渤海入口 に設定している「軍事警戒ライン」および中国 張をほばそのまま受け入れることとなった。六もあって、日台関係はなおわが国の重要な国際うなど、日中友好関係の陰の部分で中国側はし 九年四月の覚書貿易協定に関する共同コミュ一一関係として存続している。 ばしばイデオロギー的な対日批判を展開してお沿岸に設定している「機船底引網禁止ライン」 り、日本政府はこれに対してつねに中国に「陳以東で、また台湾付近の「軍事作戦ライン」以 さて、日中国交正常化以後、日中関係が大き ケには、日米安保条約と日華平和条約を非難す の黄海・東シナ海の水域 ( 領海を除く ) とし、 る趣旨が盛り込まれ、さらに七〇年四月、周恩 く進展したのは当然であった。日中貿易協定謝」する形で事態を収拾している。一方、中国北 ( 一九七四年一月 ) 、日中記者交換覚書 ( 同 ) 、側の経済改革路線、とくに対外開放政策のつま違反に対して旗国が管轄権を有すること、日中 来首相は、台湾に進出している企業や韓国に投 日中航空協定 ( 同年四月 ) 、日中海連協定 ( 同ずきもあって、総額すでに百数十億米トルを上回漁業委員会の設置等を定め、同協定付属書—で、 資している企業は貿易相手として受け入れない った日中貿易や各種日中合弁企業にも将来性に機船底引網漁業および機船巻網漁業に関する休 ことなどを示した、いわゆる「周恩来四条件」年一一月 ) 、日中漁業協定 ( 一九七五年八月 ) 、 限界がみえ始めていた。八七年初頭には、日中漁区・保護区の設定、漁船の統数、集魚灯の光 日中長期貿易取り決め ( 一九七八年二月 ) 、日 を打ち出した。 一九七〇年一〇月、沖縄返還交渉のために訪中科学技術協定 ( 一九八〇年五月 ) などの政府友好関係や日中青年交流の先頭にたってきた胡度、体長、網目の制限による規制措置を定め、 Ⅱでは避難港等を規定する。 間諸協定・取り決めも相次いで調印され、一九耀邦・中国共産党総書記が、日本やアメリカと 米した佐藤首相と一一クソン大統領との日米共同 この協定は、三年間効力を有するとされ、一 の過度の接近を好まないいわゆる保守派・原則 声明に対しては、中国側はこれに鋭く反発、七九年一二月の大平首相訪中によって総額約一 「米日反動派の罪悪的陰謀」「日本軍国主義復五億米トルの対中円借款も供与されることとな派の圧力によって解任され、その親日ぶりが批九七五年以後三年ごとに更新され、規制内容 も、保護区の拡大などにより強化している。日 活」を中国の対日批判の主要な基調として、連り、翌八〇年からは日中定期閣僚会議も開かれ判されたことは、永遠の日中友好を誓ってきた せんかく 最近の日中両国にとって、一つの試練だといえ中漁業委員会は、東京と北京とで交互に毎年開 日、激しい批判が展開された。尖閣諸島の領有るようになった。 〈水上千之〉 〈中嶋嶺雄〉催されている。 〔中国の現代化と日中関係〕もとより日中両国よう。 権をめぐって対日批判が高まったのもこのとき につち一ゅ , っこ、つノ、 , つきょ , ってい である。 の間には、尖閣諸島の領有権をめぐる角逐や、回高市恵之助・富山栄吉著『日中問題入門』 日中航空協定 「日本国と中華人民共和国との間の航空運送協 ( 岩波新書 ) ▽石川忠雄・中嶋嶺雄・池井優 中国の批判は、佐藤政府に対してますます工中国の経済調整による一九八一年初頭以来の対 スカレートしていったが、同時に日本国内には 日プラント・キャンセル問題、宝山製鉄所建設 編『戦後資料日中関係』 ( 一九七 0 ・日本評論定」。一九七四年 ( 昭和四九 ) 四月二〇日署名、 同年五月二四日に効力が発生した。七二年の日 社 ) ▽中嶋嶺雄著『中国ーー歴史・社会・ 日中国交による日中関係の正常化を求める声をめぐる日中間のトラ。フルなどが生じ、日中関 中共同声明 ( 第九項 ) に基づき交渉が行われ、 国際関係』 ( 中公新書 ) が、マスコミのキャンペーンを中心に一段と高係がすべてにおいて順調に推移してきたわけで 七四年北京で署名。本文一九条、他の二か国間 まった。とくに一九七一年の「ニクソン・ショ 日中共同声明につちゅうきようどうせいめい 航空協定とほば同様であるが、中国が国際民間 一九七二年 ( 昭和四七 ) 九月二九日、わが国の ゅ - ック」によ 0 て知られる米中接近への決定的な このような状況のなかでの重要な問題は、一 しゅうおん 航空条約の締約国とみなされないためと、両国 ち転換と、同年秋の中国の国連参加によって、日九七八年八月一二日、わが国が中国との間に締田中角栄首相・大平正芳外相と、中国の周恩 つ中正常化への動きは日本国内において急速に高結した日中平和友好条約であった。この条約で来首相・姫飛外相との間で、それまで行われの政治社会体制の相違から若干の異なる条項が 3 〈池田文雄〉 7 まり、また、日本の大手企業のなかには、「周は当時の中国の反ソ世界戦略ともみられるいわた意見交換の結果として、両国政府によって発ある。

8. 日本大百科全書 17

明 ( 一九五四 ) 、 ハンドン会議 ( 一九五五 ) など、国際油・天然ガス市場の低迷であり、これがソ連の権は、内外政策ともに新しい気風で展開し始る油田開発の利権を、日本に許与することを約 8 に緊張緩和と平和共存の気運の高まるなかで、一外貨事情を悪化させ、西側からの輸入促進を阻め、従来の対米戦略中心主義から、対米関係をした。日ソ国交樹立によ 0 て共産主義が広がる 7 引き続き重視しながらも西欧諸国や日本をも重ことを恐れた日本は、同条約に秩序と安寧を危 九五四年末の鳩山内閣成立により日ソ関係打開害していることである。 っ 視する政策をとり始めた。シェワルナゼ外相が うくするようなことは行わないとの項を入れさ 隣国であるソ連との経済交流の進展を近年と の条件が調い、五五年六月ロンドンで日ソ国交 訪日 ( 八六年二月 ) したのをはじめ、安倍外相 せるとともに、国内では治安維持法を制定し くに阻んでいるものは、コンピュータから *-« 樹立の交渉が始まった。日本側はソ連軍の南樺 〈中西治〉 太・千島列島からの撤退、相互宣伝の禁止、日 0 、高度通信器機に至るハイ・テクノロジー製もモスクワを訪問して日ソ文化協定に調印し、 本の国連参加、漁業・通商協定の締結などを提品やその技術が、戦略物資としてアメリカの設ゴルバチョフ書記長自身の訪日もすでに約束さ回日本国際政治学会編『太平洋戦争への道第 一巻満州事変前夜』 ( 一九六三・朝日新聞社 ) 案したが、交渉は難航した。ことに領土問題で定したココム禁輸リストに含まれ、日ソ両国とれた ( 八六年五月 ) 。ゴルバチョフのソ連は、 はばま、 しこたん ▽鹿島平和研究所編『日本外交史第一五巻 もに交流したい領域が厳しく制約されているこ長く沈滞していたソビエト経済を活性化させる は、鳩山内閣は、歯舞・色丹両島の返還で平和 とである。アメリカによるココム・リストの援ためにも、諸国や日本からの技術導入や共 日ソ国交問題一九一七ー一九四五』 ( 一九七 0 ・ 回復を図る立場であったが、、、 タレス米国務長官 くなしりえとろふ 鹿島研究所出版会 ) ▽クタコフ著、ソビエ が重光外相に、日本が国後・択捉二島をソ連に用と解釈がかなり恣意的であって、アメリカ自同プロジェクトを推進したいと考えているが、 ト外交研究会訳『日ソ外交関係史第一巻』 譲るならアメリカの沖縄占領は永続化すると威身がコンピュータその他の対ソ輸出を行ってお領土問題の解決の見通しはもとより、経済・技 り、この面ではソ連市場をめぐって米、欧、日 術交流の拡大の展望に限ってみても、前途はか ( 一九六五・刀江書院 ) 嚇したため、日本は領土問題を棚上げしたまま につソきようどうせんげん一 ならずしも容易ではない。核軍縮をめぐるレー で国交回復をせざるをえなかった ( 五六年一〇の競争の激化するなかで、アメリカがココム・ 日ソ共同宣一一 = ロ 月 ) 。 リストを自己の利益になるように利用しているガン、ゴルバチョフの米ソ首脳会談 ( レイキャ九五六年 ( 昭和三一 ) 一〇月一九日に署名さ 〔日ソ経済関係〕しかし翌一九五七年には日ソ傾きのあることを否定しえない。 ビーク会談、一九会 ) がレーガン大統領の戦略防れ、一二月一二日批准書が交換されて発効した 通商条約・貿易決済協定が結ばれ、また国交回復 日ソ経済関係でいま一つ見落としえないの衛構想 (T)Q—) のために暗礁に乗り上げたあ 「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との と同時に日ソ漁業条約も発効して、両国の関係 は、戦前からの日ソ漁業関係であるが、一九五と、日本政府がへの協力を正式に決めた共同宣言」。吉田茂内閣にかわって登場した鳩 やま は貿易やシベリア開発の共同プロジェクトも進六年以来、漁業問題は毎年対立が続いてきた。結果、ソ連がこれを強く非難した最近の実例 に山一郎内閣は、ソ連との国交回復を外交方針に しゅん 展して、大きく前進するようになった。極東シ 一つには戦前からの日本側の乱獲による北方漁もみられるように、日ソ関係において日ソ両国掲げ、一九五五年六月からロンドンで松本俊 べリア森林開発 ( 第一次一九穴、第二次一九七四 ) 、業資源の減少が一因であったが、このため、五はともに、本質的には政経不可分の立場をとっ 一代表とマリク代表との間で会談を開始せしめ たが、領土問題で行き詰まり、五六年三月に無 ウランゲリ港建設 ( 一九七 0) 、サハリン大陸棚石〇 ~ 六〇年代には一一万 ~ 一二万トンの漁獲量でているからである。日ソ関係を真に善隣友好関 しげみつ 油・天然ガス開発 ( 一九七四 ) 、ヤクート天然ガス 日ソ交渉は妥結していたものが、七六年にソ連係として発展させるためには、日ソ双方ともに期休会となった。五六年七月、モスクワで重光 がアメリカ、カナダ、中南米諸国に追随して一一両体制の相違を相互に認知しつつ、より高い次葵外相とシエピーロフ外相との交渉が再開さ 開発 ( 一九七四 ) 、その他の協力関係が進展し、日 ソ貿易も五八年の往復四〇〇〇万ドルから八二年〇〇海里漁業専管水域を宣言・設定したため、 元において政治、経済、文化の交流を発展させれ、その結果、平和条約の締結を棚上げして、 には五五億八一〇〇万ドルに達した。しかし、日 八六年には日本側の漁獲量を大幅に抑え、ソ連る新しい道を模索しなければならないであろ共同宣言に合意するに至った。その内容は、 本はアメリカに追従して、ソ連のアフガニスタの専管水域での日本の漁獲量を一五万トンに誾 う。↓ソビエト連邦 ( 日本との関係 ) 〈陸井三郎〉戦争状態の終結、⑦外交・領事関係の回復、③ ン侵攻への制裁措置としてオリンピック・モス減、かっ底引網漁法を全面的に禁止した。一九回外務省編『日ソ交渉史』 ( 一九六九・原書房 ) ▽国連憲章の原則、自衛権、内政不干渉の原則の クワ大会 ( 一九含 ) をポイコットし、また経済制 八七年度については、ソ連専管水域での日本漁 鈴木啓介著『シベリア開発と日ソ経済協力』確認、④日本の国連加入の支持、⑤日本人抑留 裁に同調したため、その間、大口の対ソ商談を業の一部有料化と、ソ連漁獲物の一部購入とい ( 一九七七・日刊工業新聞社 ) ▽・ポッファ者の送還、⑥賠償請求権の放棄などであるが、 う形で解決した。こうして日本の北方漁業は明 諸国に奪われた。なおその間、田中内閣は 著、坂井信義・大久保昭男訳『ソ連邦史』全もっとも重要なのは平和条約と領土に関する部 日中国交回復 ( 一九七一 l) 後、日ソ経済協力にも乗治時代からの利権を大きく転換せざるをえなく 四巻 ( 一九含・大月書店 ) ▽木村英亮・山本分で、宣言は「正常な外交関係が回復された なった。その理由は、日ソ間に体制の対立から り出そうとしたが、田中金脈事件で果たせずに 敏著『ソ連現代史Ⅱ』 ( 一九七九・山川出版社 ) 後、平和条約の締結交渉が継続される」こと、 しこたん 政治的に未解決の問題が多く存在することも一 終わった。 ▽ < ・ノーヴ著、石井規衛・奥田央・村上範およびソ連が歯舞・色丹を日本に「平和条約が 明訳『ソ連経済史』 ( 一九全・岩波書店 ) しかし、日ソ経済関係はつねに日本側の大幅因であるが、いまやソ連だけでなく多くの国が 締結された後、現実に引き渡す」ことを規定し な出超で、ソ連の厳しい外貨事情によって制約漁業専管水域を設定し、またサケ・マスについ につソきほんじようやく一九ている 〈石本泰雄〉 日ソ基本条約 ベキン につソギ、よギ、よ , っキ、よ , つり・・ され、ことに近年はソ連は日ソ共同プロジェクてアメリカ、カナダなども母川国主義をとり、 二五年 ( 大正一四 ) 一月二〇日に北京で調印さ日ソ漁業協力協定 トによる開発の産品でプロジェクト借款の一部さらに一般に漁業資源保護が世界の世論となつれた日本とソ連との間の関係を律する基本的法 よくきようてい一九七六年および七七年にソ連 を償還することを求めてきているため、貿易のてきていることによるものである。↓日ソ漁業則に関する条約。この条約により、日ソ両国はおよび日本がそれそれ二〇〇海里漁業水域を設 大きな進展はむずかしくなっている。一九八六 一九一七年の革命以後断絶していた外交・領事定したことにより、一九五六年の日ソ漁業条約 年には日本の大型財界代表団も訪ソし、またモ 〔現状と展望〕日本側にとって日ソ関係におい 関係を確立し、日露戦争の終結に際して結ばれは七七年に廃棄され、その後、北西太平洋の一一 スクワで見本市も開かれたが、いずれも長期的て最大の懸案は、し 、うまでもなく領土問題であた一九〇五年 ( 明治三八 ) のポーツマス条約が〇〇海里以遠水域におけるわが国のサケ・マス 視野にたった布石であって、七〇年代アメリカるが、ブレジネフ時代を通じてソ連側は領土問 完全に効力を存続することを確認した。また、漁業は、七八年に締結されたいわゆる旧日ソ漁 からふと のように市中銀行による対ソ大型借款の供与で題を「解決すみ」として交渉を拒否してきた同条約議定書 ( 甲 ) により、日本は当時北樺太業協力協定およびこの協定に基づいて毎年締結 も実施しない限り、日ソ経済関係の大きな発展 ( 「北方領土」の項参照 ) 。その後、短命に終わ ( サハリン ) を占領していた日本国軍隊を二五されたいわゆるサケ・マス議定書に従って行わ はありえないし 、ま一つ、ソ連側の貿易を制約ったチェルネンコ、アンドロポフ時代はともか年五月一五日までに撤退させることを約し、同れてきたが、八二年の国連海洋法条約の採択お している条件は、ソ連の主力輸出商品である石 一九八五年三月に登場したゴルバチョフ政条約議定書 ( 乙 ) により、ソ連は北樺太におけ よびその後の日ソによる署名、八四年のソ連の しげみつ まもる

9. 日本大百科全書 17

ないえん ないえん婚姻の意思をもって同居し、 ーヨーク州にまたがる大きな滝。その壮麗な美窟もある。滝そのものの自然の美しさはもちろ多い。一八九〇年にスタートした水力発電所は内縁 しさで世界的に名高く、年間二〇〇万人以上のん、夜間照明に映えるカラフルな美しさ、雪景世界最古の一つである。一八九二年、ナイアガ実質的には夫婦としての生活をしていて世間で ラ・フォールズとサスペンション・プリッジのも夫婦と考えられてはいるが、婚姻届をしてい 観光客が訪れ、北アメリカでもっとも有名な観色を背にした凍結した冬の滝の壮観さなど、 二村が合併してナイアガラ・フォールズ市が誕ないため法律上夫婦とはいえない事実上の夫婦 光地の一つとなっている。五大湖のうちエリ ろいろな滝が楽しめる。カナダ側のクイーン・ 関係。 生、ナイアガラ川を挟んで、カナダのオンタリ ビクトリア公園からの眺めがとくにすばらしい 湖とオンタリオ湖をつなぐナイアガラ川がナイ かっては、このような関係は法律上なんらの といわれ、カナダ、アメリカ合衆国それそれのオ州の同名都市と対向する。ナイアガラ大学の アガラ・ケスタ ( 緩斜面と急斜面・崖が交互に 〈作野和世〉効果をも生じさせないものであるとされてい コート島側に展望のタワーなどの施設をもつ。カナダと所在地。 現れる地形 ) を横切る部分に生じた。。 た。しかし、一九一五年 ( 大正四 ) に、内縁関 によりカナダ滝 ( ホース・シュー滝、落差四八 アメリカ合衆国はナイアガラ滝の景観を保護すナイアシン 0 ニコチン酸 ーーいいんかい第一次世界大戦係の不当な破棄者は損害賠償義務を負うとする 、幅九〇〇 ) とアメリカ滝 ( 落差五言 るため、観光シーズンの滝の水量を毎秒二八一一一ナイ委員会 におけるアメリカの参戦責任と軍需産業の関係判決 ( 大審院民事連合部 ) が出され、それ以 幅三〇五 ) に分かれる。滝をつくる表層は古〇トン、他の時期はその半分に制限し、残りの毎 が問題となるなかで、一九三四年に軍需産業調来、内縁は法律上の夫婦に準じた関係として、 生代の硬い岩であるが、下層は軟らかい古生層秒三六八〇トン ( 平均 ) の水を水力発電に利用し であるため、滝の裏側は大きくえぐられておている。この電力は付近の電気化学工業、ある査のためアメリカ上院に設置された特別調査委しだいに法的に保護されるようになった。男女 どう の関係が内縁として法的に保護されるには、そ いは周辺の都市に供給される。 〈大竹一彦〉員会をいう。ノース・ダコタ州出身のナイ Ger- り、アメリカ滝では「風の洞穴」とよばれる洞 ald Prentice Nye ( 天九一一 ー一九七 l) 上院議員がの関係が当事者の意思に基づいており、かっ、 ナイアガラ・フォー その委員長を務めた。三五年に公刊されたその夫婦としての共同生活が現実に営まれているこ ルズ Niagara Falls カナダ、オンタリオ州南報告書は、第一次大戦中に一部の軍需産業や金とが必要であり、それで足りる。したがって、 東端の工業都市。人口七融業者が戦争によって巨額の利益を受けたこと夫婦としての共同生活があると認められない男 万〇九六〇 ( 一九〈一 ) 。セを暴露するとともに、大戦に参戦したのは彼ら女の関係、たとえば妾関係などは内縁として保 るる れれント・キャサリンズと大の圧力と策動によるものだとの印象を与えた。護されない。他方、夫婦としての共同生活が現 後者についてはかならずしも決定的証拠が提一小実に営まれていることで足りるのであるから、 知都市圏を形成している。 その開始にあたって結婚式が行われることなど されたわけではなかったが、この調査結果は、 ナイアガラ滝の直下点に の形式がとられることは必要でない と位置し、対岸のアメリカ国内の孤立主義的感情を高め、中立法制定 ( 一九 内縁の法的効果として、不当に内縁関係を破 橋都合衆国にも同名の都市が三五 ) への気運を形成することになった。↓中立 〈藤本博〉棄した一方当事者は、それによって相手方に生 ポ双ある。州政府所属の一大法 りよう ないいん令制に定められた天皇の印 じた物質的・精神的な損害全部を賠償する責任 乢水力発電所があり、製内 ぎよじ くしきりよう レ 紙、機械製造、研摩機、章。印文は「天皇御璽」。官印は公式令で厳密を負う。このことは、単に金銭的な問題にとど のは まるわけでなく、内縁関係の継続につき両当事 に規定されており、大きさは三寸四方で、官印 端市食品加工などの工業が発 りようのぎげ 左ズ 達している。観光都市と中最大のものである。『令義解』には五位以上者が相互的に権利を有し、義務を負うことを示 - 一うぶん すものである。そのほか、内縁には婚姻の身分 カオ しても知られ、カナダ側の位記や諸国に下す公文に押すと規定されてい る。↓印早 〈長塚孝〉的な効果も一般に認められる。すなわち、同 への入国は四八時間に限 メ りビザを必要としない。 奈井江 ( 町 ) ないえ ( ちょう ) 北海道中西部、居・協力・扶助の義務、貞操義務などが認めら かカ 側ア 一九〇四年、町村合併の空知支庁管内の町。一九五〇年 ( 昭和二五 ) 町れる。また、婚姻費用の分担、日常の家事につ 左イ いての連帯責任、所属不明の財産の帰属の推定 , ナおりにクリフトンから現制施行。地名はアイヌ語「ナェイ」 ( 谷川 ) の てんか 滝両 ダの在名に改名。〈山下脩二〉転訛といわれ、奈井江川に由来する。町域は石については、法律上の夫婦と同じ取扱いを受け ゅうばり る。内縁の夫が他人の不法行為で死亡した場合 狩川右岸低地から東のタ張山地に及ぶ。一、 カわナイアガラ・フォー カリ に、内縁の妻が損害賠償を請求できることも古 六年 ( 明治一九 ) 囚人により道路 ( 現国道一二 ルズ Niagara Falls 倶タ はこだて いわ くから認められており、この点でも法律上の夫 右ンアメリカ合衆国、ニュー 号 ) が開かれ、さらに鉄道 ( 現函館本線 ) が岩 景 ヨーク州西部のナイアガ見から延び、区画設定されて移住者の増加を婦と同じ取扱いである。社会保険や社会保障に 全外 たナラ川に臨む都市。人口七みた。大正年間に平野部の水田化が進み、空知関する各種の法律では「届出をしないが事実上 見カ 万一三八四 ( 一久 0 ) 。ナ穀倉地帯の一環となる。山地部は第二次世界大婚姻と同様の関係にある者」を配偶者のなかに 州ィアガラ滝に近いことか戦時から戦後にかけ炭鉱開発が進んだが、石炭含ませることによって、内縁の夫婦を法律上の 倶ク ダ一ら、古くから観光・行楽不況によりすべて閉山した。北海道電力奈井江夫婦と同一に取り扱うことが通例となってい ナョ カ一都市として発展し、鳥獣火力発電所があり、電気関連の工業化を目ざしる。 〈柏村一郎〉 以上のように、内縁の夫婦は法律上の夫婦と 滝ニ保護公園など州立公園もている。人口八六三四。 ほとんどかわらない法的地位を認められるよう 多い。また、工業の発達回『奈井江町史』 ( 一九七五・奈井江町 ) ガカ になったが、次の二点で法律上の夫婦と異なっ も目だち、電気化学、電囮二万五千分の一地形図「砂川」「茶志内」「浦 やきん うす おそきない ナア気冶金関連企業の進出が 臼」「晩生内」 た取扱いを受ける。第一に、内縁の夫婦間に出 3 くっ さん ちゃしない めかけ

10. 日本大百科全書 17

につちゅ ずけ ぶばいがわら けんむ むしやどころとうにん ( 埼玉県所沢市 ) ・分倍河原 ( 東京都府中市 ) のもあって、鎌倉幕府では重んじられなかったる。しかし、生態的地位をどのように考えるか て建武新政権の武者所頭人に任ぜられたため、 やま とくそう よりうど が、上野では隠然たる勢力を保持し、子孫は山ということは、生物群集をどのように把握する その下で武者所の寄人を務めた。一三三六年合戦に勝ち、五月一三日鎌倉を落とし、得宗北 さとみ けんむ たかとき ( 延元一・建武三 ) 義貞征伐を名目に建武政権条高時以下を自殺させた。その功により、建武名、里見、新田など、それそれに御家大としてかの、依然として一つの重要な鍵であり、単に むしゃ あしかがたかうじ 〈福田豊彦〉生物群集内の位置の記述にとどまらず、むしろ に反旗をひるがえした足利尊氏が京都を占領し政権下では重用され、越後などの国司、武者発展した。 さこのえのちゅうじよう どころとうにん ニッチ niche O ・ダーウインが『種の起関係概念そのものとして、いっそう展開される た時点で、義貞に伴い北陸に敗走。勢力の立て所頭人、さらに昇進して左近衛中将などに あしかがたかうじ しばたかつねこうの ^ 遠藤彰〉 直しに努めた。しかし足利方の斯波高経、高任ぜられたが、やがて足利尊氏と激しく対立す原』のなかで「自然の経済における位置」と表べきであろう。↓進化 さき もろやす えちぜんかな つるが ニッチ niche 壁を凹状にえぐった部分の 師泰らの大軍に包囲され、越前金ヶ崎城 ( 敦賀るようになる。三五年 ( 建武一 I) 、関東に下っ現した概念が、後の生態学において具体化され、 ひょうろう こと。壁ともいう。その上部はしばしばアー 市金ヶ崎町 ) に孤立。翌三七年三月六日兵粮た尊氏を追撃するが箱根竹の下の合戦に大敗。ニッチ ( 生態的地位 ecological niche) とよば じよ・つらく しかしその直後、上洛した尊氏を迎撃、京都れるようになった。通常は、ある生物が生物群チ形の装飾がついたり、半ドーム形の天井にな 欠乏により陥落。父の脱出後、尊良親王らとと もに自害した。一説によると、わすか一八歳で合戦で勝利を収め、一時は尊氏を九州に追い落集内で何をしているかを記述するのに用いられったりしている。西洋の建物は厚い壁でつくら 〈海津一朗〉とす。三六年 ( 延元一・建武三 ) 、再挙した尊る。アフリカのサバンナのダチョウのニッチはれているので、室内意匠に変化を与えるために あったと伝えられる。 いくた せつつみなとがわ にったよしおき ( 一三三一ー五 0 南北 氏と摂津湊川・生田の森 ( 兵庫県神戸市 ) にオーストラリアの草原でエミューが占める地位壁の表面に凸形の飾り柱をつけたり、凹形のニ 新田義興 くすのきまさしげ よしさだ あしかがたかうじ ッチを設けたりした。ニッチの中には台を据え 戦い、後醍醐天皇方は楠木正成らを失い、京都と似ている、といった使い方もされる。 朝時代の南朝方の武将。義貞の子。足利尊氏・ えちぜん ただよし て、その上に彫刻を置いたり、花瓶を飾ったり 最初にこのことばを定着させたのは、アメリ 直義兄弟の不和から直義が殺された直後の一三を放棄した。その後、義貞は北陸に移り、越前 きようりよう つるが している。トンネルや橋梁などのわきに設け 五二年 ( 正平七・文和一 ) 、足利方の混乱に乗金ヶ崎城 ( 福井県敦賀市 ) を拠点に再起を図る力のヨセミテの動物相を研究したグリンネル よしあき よしむねえちご ・一うずけ が、三七年これを失陥、嫡男義顕も自刃、つい J. Grinnel である。種というものはそれそれられた非常用の凹形の退避空間もニッチとい じ、弟義宗や越後、上野の一族とともに上野に 、 2 レ」・つド」 、つ 〈小原二郎〉 挙兵、一時は鎌倉を落として関東公方足利基氏で三八年閏七月二日、越前藤島 ( 福井市 ) で守特有の生息場所ができると、そこを埋めるよう したがう しばたかつねへいせん を追うが、尊氏に敗れ越後に逃れる。五八年護斯波高経・平泉寺衆徒の軍と合戦中、伏兵に に進化する、と彼は考え、その最小の分布単位日窒コンツェルンに。ちっー。野口遵 ( 正平一三・延文三 ) 尊氏の死の直後に再度挙遭遇、戦死した。義貞は、鎌倉攻めのため上野を生態的地位と規定した。ここでいう生息場所が日本窒素肥料 ( 一九只創設 ) をもとに築き上げ むさしたまがわやぐちのわたし とは、単なる非生物的環境ではなく、植生や食た化学工業を中心とする一大コンツェルン。い を出たあと、ついに一度も上野の地を踏むこと 兵したが、武蔵国多摩川矢ロ渡で謀殺された。 おんりよう ただよし てんまっ はなかった。尊氏・直義を中心に一族がまとま物や敵、競争者も含めた環境を意味する。そのわゆる新興財閥の一つで「野口コンツェルン」 義興横死の頑末は、義興の怨霊のたたりの伝 ひらが 説とともに長く語り継がれ、江戸時代には平賀って行動した足利氏に比べ、新田氏は家格の低後、イギリスのエルトン C. S. Elton が、現ともよばれた。同コンツェルン形成の端緒は一 やまな いわまっ 源内によって『神霊矢ロ渡』として戯曲化されさももちろんだが、山名・岩松氏ら有力な一族代生態学の古典ともいうべき『動物の生態学』九二三年 ( 大正一 (l) のわが国最初の合成アン 〈千々和到〉 が当初から義貞と別行動をとり、わずかに弟脇 ( 一九一一七 ) において「生物が群集のなかで何をしモニア ( 合成硫安 ) 製造の成功による多角的展 やよしすけ おおだちほりぐち にったよしさだ ( 一三 0 一 ー三 0 鎌倉屋義助をはじめ、大館・堀口氏らの本宗系の庶ているかということ、生物的環境における位開によって与えられたが、本格的確立は満州事 新田義貞 ともうじ こう 末・南北朝時代の南朝方の武将。朝氏の子。上子家しか動員しえなかったのであり、この点置、食物や敵に関する諸関係」とこれを定義し変 ( 一九三一 ) 、金輸出再禁止 ( 一九三一 ) 以降の火薬、 た。ここでは生息場所を、植生を含めた空間的人絹、油脂、あるいは軍需依存の石炭液化、軽 に、すでに義貞の非力さが存在した。にもかか 野国新田荘 ( 群馬県太田市、尾島町、新田町の そうりよう 一部 ) を拠点とする豪族新田氏の惣領であつわらず義貞は後醍醐によって尊氏の対抗馬に仕場所として限定し、生態的地位をいわば関係概金属事業など日本経済の軍事工業化への移行の なかで行われた。また一九三三年 ( 昭和八 ) 以 念として規定した。 立て上げられ、悲劇の末路をたどることになっ たが、小太郎という通称から知られるように、 〈千々和到〉 一方、一九五七年にアメリカの生態学者ハッ降は日本興業銀行、朝詳銀行などとの結び付き 官途名すらもたぬほど鎌倉幕府からは冷遇されたのである。 みな げん・一う た一御家人にすぎなかった。元弘の変 ( 一三三一 ) 回千々和実著『新田氏根本史料』 ( 一九七四・国書チンソン G. E. Hutchinson は、生態的地位を強めた。同コンツェルンの拠点は熊本県水 のべおか ちはや 刊行会 ) ▽佐藤進一著『日本の歴史 9 南を、非生物的環境諸要因に対する個体群の反応俣、宮崎県延岡および豊富低廉な水力発電を開 には、初め幕府軍の一員として千早城攻撃に加 こうなん とみて、多次元空間における位置として数理的発しえた朝鮮興南であり、主要子会社としては 北朝の動乱』 ( 一九六五・中央公論社 ) ▽佐藤和 わったが、その途中帰国。一三三三年 ( 元弘 りトつドレ に表現する方法を提唱し、またその個体群が潜朝窒素肥料、旭ペンベルグ絹糸、日窒火薬、 三・正慶一 l) 、護良親王の令旨を得て北条氏に 彦著『日本の歴史Ⅱ南北朝内乱』 ( 一九七四・ ちょうしん・一う えち」 在的にもっと考えられる基本的ニッチと、競争長津江水電、朝鮮石炭工業などがあった。四 小学館 ) 背き挙兵。上野・越後に展開する一族を中核 こてさしがはら 一年当時で直系子会社三〇社、払込資本金三億 にったよししげ ( 二三五ー一一一 0 一 I) 平者などとの現実の相互作用の結果として実現さ に、関東各地の反幕府勢力を糾合、小手指原新田義重 しゅんべっ 安末期・鎌倉初期の武将。新田氏の祖。父は源れているニッチを峻別した。これを「ハッチ五〇〇〇万円にまで発展したが、敗戦によっ よしいえ こうずけのすけあつもと 義家の子義風、母は上野介敦基の娘。一一五ンソンのニッチ」とよび、前述の「エルトンのて、主要な拠点であった朝鮮などの在外資産を カよ″、 ただまさ 喪失し、コンツェルンは瓦解した。〈下谷政弘〉 七年 ( 保元一 l) 領家藤原忠雅から上野国 ( 群馬ニッチ」と概念的に区別される。この定式化 しようげししき 寺県 ) 新田荘の下司職に任じられた。この地主職は、よく似た生活要求をもっ二種は共存できな回三宅晴輝著『新興コンツェルン読本』 ( 一九 金 いとする競争排除法則から出発しており、一一ッ 三七・春秋社 ) ▽下谷政弘著『日本化学工業 は母を通じて外祖父から継承し、荘園として寄 馬 史論』 ( 一九全・御茶の水書房 ) ▽宇田川勝著 進されたものと推察され、父義国も当荘に住んチのずれや重複を競争の指標として量的に評価 群 『昭和史と新興財閥』 ( 教育社歴史新書 ) でいたと伝えられる。平氏政権下では、近隣のする試みに道を開いた。その後の野外研究や理 ひでさと あしかが につちゅうかんけい本項では、わ 論的展開の経緯をみると、生物群集の理解に欠日中関係 足利氏などの藤原秀郷流の諸氏と、連合あるい が国と、一九四九年 ( 昭和二四 ) 成立した中華 は対立しながら領主権の確保に腐心し、子孫をくことのできない食物関係を含めた分析が要請 貞 義 荘内の村郷に配置して開発に努めた。八〇年され、ハッチンソンのニッチも、広く資源利用人民共和国との関係を述べる。それ以前の日中 よりとも 新 ( 治承四 ) の源頼朝挙兵に遅れて参向したことのスペクトルとして拡大解釈されてきたといえ両国関係の歴史については「日中交渉史」の項 7 げんない うるう わき また かぎ