イタリア - みる会図書館


検索対象: 日本大百科全書 18
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1. 日本大百科全書 18

はちぎや バチカン市国 イタリアとバチカン市国の間では、一九八四 一八七一年五月イタリア議会は、政治家カプ政教協約で、婚姻を教会の統制下に置くことの り、一八六四年末には八〇か条からなるシッラ びゅうせつ 容忍、・ 学校教育における宗教課目の義務化など年二月、カトリックをイタリア国教としたラテ ールの主張していた「自由国家内の自由教会」 ポ ( 謬説表 ) を公布して近代自由主義をまっ ラン協定を大幅に改め、信仰の自由を認めたコ が認められた。この二つの議定書によって、イ の原則にたって教皇保障法を成立させ、教皇に こうから弾劾した。さらに一八七〇年七月第一 ンコルダートに調印し、同年一一月には教会財 ハチカン、ラテラノ宮殿、カステル・ガンドルタリア統一以来続いた国家と教皇庁の対立にい 回バチカン公会議 ( 天六九 ~ 七 0 ) は、ある条件の 産、課税問題などに関する第二次コンコルダー もとで教皇は信仰や道徳上において誤りを説くフォ宮殿の所有権を認め、その経営費として助ちおうの終止符が打たれた。 ラテラン協定が締結された時期の教皇ピウストに調印している。さらに八五年五月にはカト ことがないように神に守られているという教皇成金を支給することを決めた。また、教皇庁に リックをイタリア国教としない新しいコンコル 一一世は第一次世界大戦後の世界諸国の教会再 の無誤謬説を宣言した。 駐在する外国の使節に外交上の不可侵権を与え 建に尽くし、諸国政府との多くの政教条約を結ダートが調印された。↓教皇領国家↓ラテラ この時期にローマに駐屯していたフランス軍ることを認めた。しかし、イタリア王国とのい 〈藤澤房俊〉 は、プロイセン・フランス戦争による敗北でナっさいの交渉を断った教皇はそれらの発効を拒んだ。一九三三年にヒトラーとの間に締結されン協定 た政教協約はその一つで、今日も西ドイツに適回赤間剛著『バチカンの秘密ーー世界の今日と ポレオン三世の帝国が崩壊したため撤退を余儀否した。ピウス九世とその後継者たち ( レオ一 明日を知るために』 ( 一九会・三一書房 ) ▽橋 なくされた。一八七〇年九月二〇日、カドルナ三世、ピウス一〇世、ベネディクトウス一五用されている。ピウス一二世は第二次大戦中、 本昭一著『バチカンの行動原理ーー近代教皇 将車の率いる六万のイタリア王国軍がローマに世、ピウス一一世 ) のイタリア国家を拒否する平和工作を実施し、反キリスト教的全体主義国 たちの社会回勅』 ( 一九 0 ・コル・ヘ出版社 ) 入城し、教皇ビウス九世は抵抗をあきらめた。 立場は、イタリア国家と教皇庁の正式の和解で家の台頭に対処したが、その成果はあがらなか つ ) 0 びじゅっかん M usei このイタリア王国の実力行使に抗議して教皇はある一九二九年のラテラン協定まで変わること ハチカン美術館 一九六二年一二月、ヨハネス二三世は第二回 Vaticano カトリックの総本山バチカンのサ ハチカン宮殿に閉じこもり、自らバチカンのなく続いた。 ン・ビエトロ大聖堂に隣接する世界屈指の大美 サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に 「幽囚者」として王国政府とのいっさいの交渉 バチカン公会議を招集し、普遍的教会の司牧の を禁じたのみならす、イタリア王国の存在すらおいて、イタリア国家を代表する首相ムッソリ 責任と権限を全世界の司教団と分担しあい、カ術館。ュリウス二世 ( 在位一五 0 三 ~ 一三 ) が古代彫 刻のコレクションを教皇庁のベルペデーレの庭 認めようとしなかった。そして、教皇俗権の廃 ーニと教皇庁を代表する枢機卿ガスパルリが一一トリック、プロテスタント、ギリシア正教など に展示したことに始まり、その後、歴代の教 棄に関与するすべての者の破門を宣した。その つの議定書を取り交わした。一つの議定書は国のキリスト教諸派が平和と正義の実現のために 年の一〇月二日ローマを含む教皇領で住民投票家と教皇庁の和解条約で、これによってカトリ 一致協力することを唱えた。同時にアジョルナ皇、教皇庁によって集められた膨大な美術品、 図書、資料などが収蔵されている。美術館とよ メント ( 現代化 ) とよばれる現代にふさわしい が行われ、一三万三六八一対一五〇七票の圧倒 ックがイタリアにおける唯一の宗教であること ばれる部分は本館の一部と別棟の絵画館である 的多数でローマのイタリア王国併合が支持されが確認され、教皇が絶対的主権をもっバチカン教会改革を行い、枢機卿も伝統的な七〇名とい が、本館に含まれる図書室、フレスコ画で名高 市国の成立が定められた。もう一つの議定書は う枠を取り外して八五名に増員した。このとき に日本、フィリピン、アフリカ いいくつかの間、さらに礼拝堂もあわせて公開 からも初めて枢機卿が選出されされている。 の た。さらに、翌六三年には回勅 本館には『クニドスのアフロディテ』『・ヘル ・ヘデーレのアポロ』『ラオコーン』など古代彫 宗議「地上に平和を」 ( パーチエム・ 他会 刻の傑作を並べるピオ・クレメンティ美術館を 教イン・テリス Pacem in ter ・ 一、諸宗 はじめ、エジプト美術、エトルリア美術、中世 ris) を出し、国際連合を援助し , 臨て世界の平和を促進することをキリスト教美術を展示する各美術館、『聖体の 者の 論議』『アテネの学堂』など、彼の芸術の頂点 ' ・は職訴えた。パウルス六世もヨハネ 叮ミのス二三世の精神を引き継ぎ、世を示すラファェッロの間、回廊、それにポルジ 界の平和に果たす教会の役割をア家の間などが含まれる。絵画館はピオ六世 の そ 強く意識してキリスト教諸派の ( 在位一七七五 ~ 究 ) が建造したもので、ジョット 櫛れ合同や現代世界の教会との対話の祭壇画、メロツツオ・ダ・フォルリの『奏楽 、機ま 一を説き、新しい教会への脱皮をの天使気レオナルド・ダ・ビンチの『聖ヒ工 すため、ポンべイの万国聖体大ティンから現代に至る作品を展示する。ルネサ 、・′議れ ンス最大の遺産の一つシスティナ礼拝堂は、ミ 会、国連総会での平和を訴える 会か 菇教招演説など、現代世界での平和促ケランジ、ロの天井画と祭壇画「最後の審判』 の皇進を行った。七八年に教皇となや、ポッテイチェッリやベルジーノらによる壁 、で教 堂が 画で装飾されている。またニコラ五世礼拝堂の ったヨハネ・。ハウロ二世はポー ランド出身で、共産主義国から壁画はフラ・アンジェリコの残したものであ 、第大な ロ団 〈湊典子〉 の初めての教皇として注目を集る。↓システィナ礼拝堂 ト交 みようれいりつ たいほうようろう 工外め、日本も含む世界中を訪問し 八虐はちぎやく大宝・養老二律の名例律 玉・者て世界平和を説き、若者たちと に規定された八つの大罪。唐律を模し、その十 9 悪のうち不睦・内乱を整理し八項とした。曰謀 7 サ代の対話も精力的に行っている。 ホルタ・ア、イイ ~ リカ通り ~ 萪学ア爿ミ第 . 三 0 、は = 、 , : イ局圉を ビオ 1 コンチリアツイオーネ通 0 ) / 市政 0 = 学い工ト号大聖 サン・スビリト病院 第藹見ー ・ : ) い 300m 0 : 0 0

2. 日本大百科全書 18

に位置する。北と西と南をバチカン大通りに、 を統轄する東方諸教会聖省、カトリック教会の 8 北東をレオ四世通りとリソルジメント広場に、 七秘跡の合法的授受とラテン式典礼をつかさど 7 東をポルタ・アンジェリカ通りに囲まれ、南東る秘跡・典礼聖省、布教地、準布教地への伝道 にサン・ピエトロ広場がある。大部分を中世おを所管する布教聖省、聖職者と信徒の規律監 よびルネサンス時代の城壁に囲まれ、六つの城視、カトリック要理教授、ミサ執行、聖堂財産 門がある。 管理を行う聖職者聖省、修道会を管轄する修道 そのほかに、教皇庁とイタリアの間に締結さ者・在俗修道会聖省、聖職者の育成や一般信徒 れたラテラン協定 ( 一九二九年一一月一一日 ) に の教育を扱うカトリック教育聖省と、かっての 従って、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大秘礼部聖省の一部を独立させた、列福、列聖や 聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、聖遺物崇敬などを扱う列聖調査聖省である。各 カステル・ガンドルフォ教皇庁宮殿など、ロー 聖省の長官は枢機卿が務める。 堂る マ市内外の施設にも主権が及んでいる。ミケラ 教皇庁独自の司法制度は、内赦院、大審院、 大て ンジェロのデザインした華麗な服装のスイス人控訴院から成り立っている。内赦院は信者の良 ようへい 傭兵約一〇〇〇名からなる正規軍、独自の放送 心問題を扱い、神と信徒の信仰的関係を調整す 工を ビど局、銀行、郵便局、鋳貨施設、イタリア国有鉄る。大審院は諸国の大司教区法廷間の権限争議 道と連絡する鉄道などがある。 を裁き、またある事件を控訴院に移管させる通 サ物 主たる建物はサン・ピエトロ大聖堂とバチカ路の役割を果たす。控訴院は教皇に留保された 一 ) の博 ン宮殿である。サン・ピエトロ大聖堂は三三〇事件、大審院を通して教皇が回付する事件を扱 正カ 場チ年ごろにコンスタンテイヌス大帝の命で着工さ う。ただ、カトリック教会においては、審判権 れ、一五〇六 ~ 一六六七年にかけてプラマン はキリストの代理者としての教皇にのみ与えら る端 テ、ミケランジェロ、ベルニーニなどの芸術家れているところから、これらの裁判所も教皇の あ右 での たちによって増改築された世界最大のキリスト 審判権の遂行機関とみなされている。 市森 教建築物である。バチカン宮殿はグレゴリウス バチカン市国の財政は、教皇庁が全世界で行 ロ政 一一世 ( 在位一三七 0 ~ 七 0 の時代から教皇の宮廷う巨額の投資からの利潤、美術館・博物館の入 となり、その後増改築が加えられ、現在の面積場料、切手発行、信徒の寄付金などによってま 囲裏 周堂 五万五〇〇〇平方になった。ほかには世界のかなわれている。外交は、国際法上に認められ で大至宝を集めた美術館・博物館、学術的価値の高た一主権国として、全世界の主たる国々と大 国堂 い蔵書をもっ図書館、銀行、放送局などがあ使・公使の交換を行っている。また、教皇庁に て礼 る。また、シクストウス四世 ( 在位一四七一 ~ 会 ) よる平和と社会正義と人間解放のための努力と まナ によって建立されたシスティナ礼拝堂は、教皇して、教皇による世界各地の視察・訪問の旅 すうききよう のテ 選挙、枢機卿会議など、教皇庁の重要な会議が は、世界の人々の大きな注目を集めていること 行われる場所である。↓サン・ピエトロ大聖堂を忘れることはできない。↓教皇↓教皇庁 後奥 ↓サン・ピエトロ広場↓バチカン美術館↓シ 〔歴史〕ローマ教皇が絶対的主権をもっバチカ らの かそ スティナ礼拝堂 ン市国の成立は、一九二九年二月にローマのサ 〔行政・司法組織、財政〕独立国としての行政ン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂におい 形殿 円宮 事務と全世界六億二〇〇〇万人のカトリック教て、イタリア国家すなわちファシスト政府と教 前カ徒の宗教行政とを管理する教皇庁の組織には次皇庁とが取り交わしたいわゆるラテラン ( ラテ 一手チ のようなものがある。国務省はバチカン市国の ラノ ) 協定に基づく。それまでのイタリア国家 広右 統治を担当し、教皇庁の他の諸機関との連携に と教皇庁の対立の起源は、リソルジメント期に ロ場 ト広あたり、諸国政府との交渉、いわゆる「バチカまでさかのばる。この時期にサルデーニヤ王国 ン外交」を行う。国務省には外務評議会が置か が行った宗教儀式によらない届出制の市民婚の ・れている。 義務づけや、イタリア統一期になされた教会国 サ中 ほかに中央行政機関として九つの聖省があ家領の併合、統一 ( 一会一 ) 後の教会財産の国有 る。教会の信仰と道徳の保護・奨励にあたる教化、数多くの修道院の解散といった政策は、教 理聖省、教区の新設・改廃、司教の任命、流 皇庁を完全に統一イタリア国家と対立する立場 民・移民の世話を任務とする司教聖省、東方諸に追いやることになった。その後、教皇ビウス 教会のうちカトリックに合同した信者の諸問題九世はイタリア国家に対して硬化の一途をたど

3. 日本大百科全書 18

リアの問題を真正面から取り上げた小説が数多 東太平洋に七種、南大洋 ( 太平洋、インド洋、することになったといわれる。このほかに彼 ストウール党と改称した。七一年以来ブルギバ く生まれたこと、方言の多用といった言語面の は、ヘクトルの子アステアナクスを城壁より投 は党委員長に就任し、後継者と目される人物が大西洋の三大洋南部が一続きとなった海域 ) , 書記長と首相を兼任するようになった。八一年二種、北大西洋に一種の合計一二種が報告されげ殺し、戦利品の分配からへクトルの妻アンド変革も見逃すことはできない。ファシズム下の ロマケを得た。そして父アキレウスの霊を慰め窒息した文学状況にあってネオレアリズモの土 すれも水温二 ~ 三 の選挙から複数政党制への移行を前提に他の政ている。ネオピリナ類は、い 党の活動が許されるようになったが、政権党と度 0 以下の軟らかい泥底にいて ( 一種だけは例るために、プリアモスの娘ポリクセネを墓前で壌となったのは、イタリア固有のリアリズムで えさ がんれき してのデストウール党の地位を揺るがすに至っ外的に陸棚の岩礫上 ) 、浮泥を餌にしている。犠牲に供した。彼はテティスの勧めで、しばらあったベルガの「ペリズモ」と、パ。ヘーゼやビ ットリーニらが翻訳・紹介に力を尽くした新興 くトロヤに滞在したのち陸路をとって帰国した ていない。 〈宮治一雄〉「生きている化石」の代表的なものである。図 のアメリカ文学であった。 貝類 〈奥谷喬司〉 が、途中モロッソス人と戦って勝ち、その地の neoteny 動物が幼虫あるい ネオテニー 具体的な作品としては、ネオレアリズモの先 は幼生の形のままで生殖可能な状態になるこネオファシスム neo-fascism 第一次世王となったとも、あるいはデルフォイで殺され 〈伊藤照夫〉駆と目されるパペーゼの『故郷』とビットリー と。幼形成熟、幼態成熟ともいう。たとえばア界大戦後、イタリア、ドイツ、日本などで現れたとも伝えられる。 - ま , っ・刀ノ、 ニの『シチリアでの対話』 ( ともに一九四一刊 ) の ホロートル ( メキシコサンショウウォ ) の幼生た急進的ナショナリズム体制を古典的ファシズネオリアリズム法学 ほうがく はか、レービの『キリストはエボリにとどまり アリズム法学 は変態せず、えらを出した状態で生殖可能となムとよぶのに対し、第二次大戦後のファシズム る。このほかに現生の動物のネオテニーの例が傾向をネオファシズムという。すなわち、第一一ネオレアリスモ neorealismo 一九四〇ぬ』 ( 一九四五 ) 、カルビーノ『蜘蛛の巣の小道』 いくつか知られている。これらは単に個体発生次大戦における日独伊枢軸国の敗北がファシズ年代から五〇年代末にかけてイタリア文学・映 ( 一九四七 ) 、『われわれの先祖たち』三部作 ( 一九五 = しゅうえん ~ 五九 ) 、プラトリーニ『貧しい恋人たち』 ( 一九 の変形の例を示すというより、進化の過程で新ムの終焉を意味するものではなかった。一九画において支配的であった主義・傾向を示すこ ひせき とば。字義的には「新しいリアリズム」の意。四七 ) 、『メテッロ』 ( 一九五五 ) 、ヨービネ『秘蹟の しい動物が出現する仕組みを示すものと考えら五〇年代のアメリカにおけるマッカーシズム、 レジスタンスⅡ解放戦争によってファシズムを地』 ( 一九五 0 ) 、フェノッリオ『アルバ市の二三日 れている。例として脊椎動物の起源がある。原六〇年代に入ってのドイツ国家民主党 間』 ( 一九五一 D などがあり、後続のカッソーラ、 索動物のホヤの幼生はオタマジャクシ型で脊索 2) 、イタリア社会運動などの台頭が顕著なネ倒し、君主制を廃止して共和国として生まれ変 ッサーニ、パゾリーニらの初期作品も含まれ をもち遊泳生活をしているが、変態後定着生活オファシズムの動きである。こうした際だったわったイタリアの「新しい現実」の芸術的表現 こんせき る。詩ではクアジーモドの一連の抵抗詩、雑誌 をする成熟したホヤは痕跡的な脊索しかもたな事例とは別に、経済操作とイデオロギー操作をがネオレアリズモであった。 そうし上 ホヤの仲間から、ネオテニーにより脊索を通じてファシズム的体制が形成される条件が現〔文学〕作品・文学活動を現実の社会との緊張では『ポリテクニコ』 ( 一九四五 ~ 四七 ) 、叢書では 「ジェットーニ」叢書 ( 一九五一 ~ 五 0 の功績が大 もち遊泳生活を送る幼生形を維持しながら成熟代社会には整っており、多くの国で現実化して関係においてとらえ、文学の果たすべき役割、 可能になったものが現れ、それから魚類が生じ いるという指摘もある。経済理論の発展は恐慌 作家の負う責務を鋭く問うたことが最大の特徴であり、最後に、狭義の文学作品ではないが、 たという考え方がある。 〈竹内重夫〉の危険を回避させ、マス・メディアの発達は操であった。各地方、とりわけ、貧しい南部イタイタリア・ネオレアリズモの精神のありかを喚 起するものとして、抵抗運動の刑死者の残した 作的情報の大量伝達と大衆の関心を娯楽などへ ネオ・ヒューマニズム 0 ニュー 遺おス館 を ( ・ウ術 書簡を集めた『イタリア抵抗運動の遺書』とグ ーマニズム そらせることを可能にした。このように、大衆 具スセ美 ラムシの『獄中ノート』の重要性は強調しても にそれとは気づかせずに独裁体制を形成する危 ス武モッ史 ネオピリナ広義には軟体動物門単板綱ネ モのレュ術 〈古賀弘人〉 しすぎることはない。 〈大谷博愛〉 オピリナ科 Trybliidae に属する動物の総称険が現代には存在する。 レストデ美 トウブオン 〔映画〕一方、第二次世界大戦末期から大戦後 で、狭義にはそのうちの代表的な一種ミ・ネオプトレモス Neoptolemos ギリシ プレオす一 オキネ渡イ にかけてイタリアに新しい傾向の映画が生ま き g ミミミをさす。種のネオピリナ ( ガラ ア神話の英雄。ネオプトレモスとは「若い戦 ネア児にウ れ、世界各国に新な衝撃を与えた。現実を凝 テアガイ ) は、一九五二年中央アメリカのコス士」の意味。父はアキレウスで、別名をピロス しろうと 視するカメラが特長となっており、素人俳優の Pyrrhos ( 「赤毛の子」の意 ) ともいう。彼は タリカ沖、水深三五七〇の深海からデンマー 採用やロケーション撮影によるドキュメンタリ クの調査船ガラテア号によって採集された。長父の死後、父にかわってトロヤ戦争に参加す ー的要素が強い画期的な手法で、テーマは社会 径三七ミリ、短径三五ミリ、殻高一三ミリの笠形の殻る。ギリシア軍は彼が参戦しない限りトロヤを 的、政治的なものが多く、強いヒューマニズム をもち、目と頭部触角はない。ロの両側に広い 滅ばすことができないとの預言から、祖父のス - : つもん を訴えた。これら初期のネオレアリズモ映画の 唇弁とロ後触角がある。肛門は後方に位置すキロス王リコメデスのもとで養育されていたネ じんぞう 代表的作品に、ロベルト・ロッセリーニの『無 る。えらは五対。腎臟も神経も対性で、殻内面オプトレモスを、ギリシア軍の陣営に迎え、オ こんばてい 防備都市』 ( 一九四五 ) 、『戦火のかなた』 ( 一九四六 ) 、 デュッセウスがアキレウスの形見の武具を譲っ の筋肉痕は馬蹄形でなく八対に分かれている。 ビットリオ・デ・シーカの『靴みがき』 ( 一九 この特徴は、古生代上部カンプリア紀から上部た。彼の奮戦は目覚ましく、ちょうどこのころ 四六 ) 、『自転車泥棒』 ( 一九四 0 、ルキーノ・ビスコ トロヤ側は、最後の救援軍としてエウリピロス ォルドビス紀の化石から現れるピリナ P ミき ンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 ( 一九 にみられ、軟体動物の祖先が環形動物のような が大軍を率いてきたが、彼はエウリピロスを討 四一 l) 、『揺れる大地』 ( 一九四 0 、ピエトロ・ジェル 体節構造をもっという説を裏づけるものとされち取ってその軍を壊滅させた。また木馬に潜ん おきて ミの『無法者の掟』 ( 一九四九 ) などがあり、デ・ でトロヤ城内へ侵入し、プリアモス王を守ろう た。最初、胎殻は巻いていると報じられたが、 シーカの『ウンベルト』 ( 一九五一 D は、深刻化 とするアゲノルを殺し、さらにゼウスの祭壇に あ現在はこの点は疑問視されている。 する老人問題の予見的作品。脚本家で理論家の れついで一九五九年にユーインガイ ~. ( , 逃れて命ごいをするプリアモス王を容赦なく討 チェーザレ・ザバッティーニも重要な役割を果 き ) ミぎミが南アメリカの沖から発見され、ち取る。このときゼウスの祭壇を血で汚したこ お ようせつ たし、ミケランジェロ・アントニオーニ、フェ ね以後現在までに同科には、中央太平洋に二種、とから、その神罰としてネオプトレモスは夭折 せきつい 227

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な生バスタが一般にかなり普及していたと考え引 っ要な回数だけ行う ) 。一チームは、各ハーフに概念を定式化した。また「未開人の経済生活』の詩の核となるモチーフは顕著であ 0 たーーも っとも妙なる瞬間を截りとったような田園の風られる。しかし乾燥パスタのほうはきわめて貴 二回ずつ、各延長時限に一回ずつの作戦タイム ( 一九四 0 。再版で『経済人類学』と改題 ) のなか す . ( チャージド・タイム・アウト 0 ぎ「 g 。 d time で、経済行動が文化のなかで占める位置の重要物、「鳥のはばたき、糸杉のそよぎ、はるかな重なものであ 0 たらしく、一三世紀のジノバ 、ま out) を各一分間とることができる。なお、ミ性を説き、西欧社会に基づいた経済概念の限界鐘の響き」のなかに、あの葬儀の場景が彼のまの公証人の残した財産目録にマカロニのことが ニ・バスケットボール・ルールでは、競技方法を主張。ボラニーとその支持者が工業社会と無ぶたの裏に焼き付いているかのように、死の気記されている。一四世紀ごろから自家製ベルミ チェッリを専門に売る店ができ始め、一六世紀 配が忍び寄っている。そして『小詩集』 ( 天九七。 に関しても別個に定められている。〈水谷豊〉文字社会との経済の差を経済体制の質の差とし には圧力機 ( プレス ) が出現する。そのころパ 回・ネイスミス著、水谷豊訳『バスケットボ ースコビッツはこれを程度の差のち『初期小詩集』と『新小詩集』に分かれ たのに対し、ハ 〈豊田由貴夫〉る ) 、亡き母に捧げた『カステルべッキオの歌』スタの乾燥は天日乾燥であり、気候の点で恵ま ール・ーーその起源と発展』 ( 一九八 0 ・日本として扱った。↓文化変容 きようえん ( 一九 0 一 (l) 、古典に材を求め蘇生させた『饗宴詩れたナポリを中心に産業として発展していっ O < 同盟出版部 ) ▽岡三郎著『バスケット / スコホ Haskovo プルガリア南部、ハ た。一九世紀になると乾燥機が発明され、天日 ポール・ルール・ハンド。フック』 ( 一九七 0 ・・ヘ 集』 ( 一九 0 四 ) と続く詩集の刊行によって詩人と スコボ県の県都。カスコボ Khaskovo ともい して絶頂を極めた。ほかに、没後刊行のものを乾燥から人工乾燥へ変わっていった。そして。ハ ースポール・マガジン社 ) う。ロドピ山脈北西麓に位置する。人口八万八 ぶんか 七二八 ( 一九公 D 。オスマン帝国時代の一四世紀含めて四冊の詩集、国際コンクールで何度も栄スタ産業はナポリ特有のものではなく、イタリ バスケットメーカー文化 ア全土へ、さらにはスイス、ドイツ、フラン Basket Maker 北アメリカ南西部の北部地末にハスキョイ Khask0i の名で町ができ、商誉に輝いたラテン語による詩の集成『カルミー ス、そして移民とともにアメリカへも普及して ・メキシ業中心地となった。第二次世界大戦後はたばこナ』 ( 一九一四、没後刊 ) 、散文に『暗きミネルバ 方、アナサジ亜領域 ( 現在のニュー つ「 ) 0 コ、アリゾナ両州の北部、およびコロラド、ユや綿織物の製造で知られている。ほかに絹織 ( 天九 0 のほか『神曲』研究三部作、論集『思 〈古賀弘人〉 念と叙説』 ( 一九 0 七 ) などがある。 〔種類〕。ハスタの製造が機械で行われるように タ両州の南部地方 ) の先史文化。Ⅱ期 ( 約二一物、食品工業設備製造がある。市内にプルガリ ア最古のモスク、エスキ・ジャミャ ( 一三九五建回坪内章訳『ミリーチェ ( 抄 ) 』 ( 『世界名詩集なってから、さまざまな形状のバスタが簡単に 〇〇 ~ 一六〇〇年前 ) とⅢ期 ( 約一六〇〇 ~ 一 つくられるようになった。スパゲッティよりも 大成』所収・一九六一一・平凡社 ) 三〇〇年前 ) に分けられる。北アメリカ西部の立 ) がある。近郊に鉱泉があり、東ロドピ山脈 やや細めのスパゲッティーニ、天使の髪という デザート文化から発展し、農耕、人口増加、定の登山基地ともなっている 〈中村泰三〉蓮田 ( 市 ) はすだ埼玉県東部にある市。一 ( 天五五 ー一九九七二年 ( 昭和四七 ) 市制施行。東北本線、国意味で、さらに細くスープ用に使われるカッペ 着性の増大、土器の製作に特徴づけられる。 スコリ Giovanni PascoIi / 、り 2 なーし リ・ダンジェロ、ペン先のような形をしている Ⅱ期の住居は半地下式の粘土張りの床面をも lll) イタリアの詩人。ダンヌンツイオと並び道一一三号、主要地方道大宮栗橋線が通じる。 あや すじ ち、床には炉と貯蔵穴がある。農作物はトウモイタリア現代詩の出発点となった巨星。一二月大宮台地中央部に位置し、東は元荒川、西は綾ペンネ、マカロニよりひと回り太くて表面に筋 くろ いしうす ロコシ、カボチャで、馬蹄形の石皿状の石臼三一日、イタリア中部の田園地帯で一〇人兄弟瀬川によってくぎられる。台地末端には、黒のあるリガトーニ、鳥の巣状のニード、エスカ ちょう はませきやま えぐりいりせんとうき ( メタテ ) 、抉入尖頭器、石製パイプ、巻き技の第四子として生まれる。彼の平穏な少年時代浜、関山貝塚などの縄文前期の遺跡が多い。農ルゴ状のルマーケ、蝶の形のファルファッレ、 か 1 ) 法による籠細工、サンダル、リュウゼッラン繊は、一二歳のとき、農場の管理人をしていた父業が盛んで、とくにナシは県下有数の生産地帯スープの浮き実用に使われる星の形をしたステ そげき 不、麦の穂状のセーミ・ディ・グラー 親が狙撃され死んだことから一挙に暗転し、翌となっている。都心から四〇キ。の好位置にある 維の布、伸展葬の風習が特徴である。 ため、近年住宅や工場の進出が著しく、都市化 ノ、貝の形のコンキリエなどである。生パスタ Ⅲ期には豆類が農作物に加えられ、新大陸の年には長姉と母が死亡し一家は離散、数年後さ としては、日本のひもかわに似たタリアテッ が進んでいる。人口五万三九九一。〈中山正民〉 農耕体系が成立し、七面鳥も飼育された。集落らに次兄と長兄を失った。この相次ぐ不幸はバ ・一う いわっき も規模が大きくなり、地下式の宗教的建造物でスコリの人生と芸術に深い刻印を押した ( ちな囮二万五千分の一地形図「久喜」「岩槻」「鴻レ、きしめん状のフェットチーネ、ラビオーリ さ寺一 のす 巣」 に似たアニョロッティ、帽子の形に似ているの あるキバ kiva も出現した。メタテ、弓矢、磨みに、亡き父に捧げられた処女詩集『ミリーチ せきふ 0 、 でその名のついたカッペッレッティ、フェット イタリア語の原義は、 製有溝石斧などもみられる。土器は無文と白地 工』では「死者たちの日」という詩が巻頭に置 / スタ pasta 材 かれている ) 。そのためパスコリは家族の「巣」麦粉を水などの液体でこねた練り粉のことであチーネより少し幅の広いパッパルデッレなどい 黒色文があり、幾何学的文様が内側に施された。 ↓アナサジ文化↓プエプロ文化 〈小谷凱宣〉の再建に腐心し、一八八七年、妹二人を呼び寄るが、広義には硬質および軟質の小麦粉でつくろいろある。 せ、やがてはルッカに近いカステルべッキオのるマカロニ、スパゲッティなどの乾燥パスタ 〔料理〕。ハスタ料理はイタリア料理を代表する ハスコ・ダ・ガマ 0 ガマ と、ラビオーリ、ラザーニヤ、カネローネなど ものであるといわれるように、北はベネチアか 田園に家を購入し、そして陰に陽に彼を支えた ースコビッン MeIviIIe Jean Hersko- の生。ハスタの両方を総称することばである。 ら南はシチリアまで各地方ごとの特徴をもっバ vits ( 天九五ー一九六三 ) アメリカの人類学者。コ妹マリーアとの生活が終生続いた〔マリーアに カネローネ↓スパゲッティ↓マカロニ↓ラ スタ料理が何百もある。古くはそれ自体たいへ ー一九四一 l) は大冊の伝記・パスコリの生涯に添って』 ロンビア大学でボアズ F. Boas ( 天夭 ごちそう んな御馳走であったパスタ料理が、いまでは昼 のもとに人類学を学び、学位取得後、同大学講 ( 一九六 l) がある〕。苦学してポローニヤ大学へ進ザーニヤ↓ラビオーリ 〔歴史〕日本でパスタということばが使われた食やタ食のコースの一品にすぎなくなってしま 師、ノースウエスタン大学助教授を経て同大学み、在学中、社会主義の運動に参加して逮捕、 のは、一九六五年 ( 昭和四〇 ) 六月に刊行されった。しかしそれは、パスタ料理の重要性が失 教授となる。アフリカ、南アメリカなどで数多投獄された。大学卒業後、高校、大学のギリシ くの調査を行い、アフリカの部族の宗教や民話ア・ラテン語教師として国内を転々とし、一九た『イタリアパスタの研究』が最初である。そわれたということではない。むしろその逆で、 れ以前はマカロニということばで。ハスタを代用 ハスタ料理こそ家庭の主婦の腕の見せどころで に関心を示すとともに、新大陸での黒人がもっ〇六年、カルドウッチの後任として母校ポロー す アフリカ的背景に注目し、その行動様式、家族ニヤ大学のイタリア文学教授の椅子についた。 させていた。小麦粉を水で練った食物という意ある。とくに自分の住んでいる地方に伝わる料 一二年四月六日、ポローニヤにて死去。 味ではバスタの歴史は非常に古く、おそらく古理法、各種ソースの作り方をマスターすること 組織、宗教などを考察、『アメリカの黒人』 ( 一九 一一 0 を著した。これらの黒人研究とともに理論 彼の詩は大部分が小冊子や雑誌に片々と発表代のローマあるいはそれ以前までさかのばるこ が主婦の条件の一つである。イタリアでは肉や 家としても多方面に貢献し、文化の変化に関し された。一八九一年刊行の処女詩集『ミリーチとができるであろう。一三、四世紀のイタリア魚は焼くかソテーするかの簡単な料理が多く、 ぎよりゅう てはその著『文化変容』 ( 一九三 0 で文化変容の 工 ( 樫柳集 ) 』 ( 決定版一九 0 一 (l) から、。ハスコリ ではニョッキ、ラザ ] ニヤ、ラビオーリのよう味つけも塩、レモン汁、オリー。フ油などを用い くき

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にんぎよ スイ 立人 西ドイツアルプレヒト・ローゼル 作「グスタフ」 ( 糸操り人形 ) ・ジーゲル作「ファ 西ドイツハロー ウスト博士」 ( 糸操り人形 ) フランスローラン・ムールゲ 作ギニョール ( 片手遣い人形 ) スペインバルセロナ 街頭での大道芸人によ る人形芝居 ( 糸操り人 歴史』 (I<FII) などの著書もあり、また・ ティ、・シャパンス共著の『人形劇の歴史』 ( 一九五九 ) 、南江二 ( 治 ) 郎の『世界偶人劇史』 ( 一九 三三 ) などもあるが、いずれもいまだ人形劇の歴 史について定説といいうるものはない。その発 生起源を特定の地域や民族についてのみ求める よりは、むしろ人類文化の発展過程で多元的に 発生したものが、それぞれの生産的、生活的諸 行事や宗教との関係のなかでしだいに発達し、 でんば 郎諸民族間の交易やときには侵略をも通じて伝播 し融合しあうなかで、各民族の特質をもった人 形劇が形成されてきたものと考えるのが至当で ビあろう。 〔東洋〕中国においては漢の時代に西域から傀 儡が伝わったといわれるが、宋の時代にはすで に人形劇が盛んに行われ、杖頭傀儡、懸糸傀 儡、薬発傀儡、水傀儡、肉傀儡など各種のもの みんしん があったという記述がある。明や清の時代に入 ると手遣いの布袋戯や棒遣いの形式が現れ、布 袋戯は清朝に福建から台湾に伝わり独自の発展 をみた。 また中国で皮影とよばれた影絵人形劇は、イ ンド、インドネシア、タイ、マレーシア、ビル マなど東南アジア一帯に古くから行われ、イン ーラタ』 ド神話の『ラーマーヤナ』『マハー などが多く上演される。とくに、インドネシア のジャワとバリの「ワャン・クリ」はガムラン 音楽と相まって優れた舞台効果をあげている。 人形は国によってロバ、牛、水牛などの皮でつ くられる。トルコの影絵の「カラギョーズ」は ラクダの皮でつくられ、エジプトから伝わった といわれるが、現在ではむしろギリシアで盛ん に行われている。 〔西欧〕ヨーロッパの人形劇については紀元一 世紀ころすでにギリシア全土に普及していたと もいわれ、ソクラテスやアリストテレスの人形 劇に関する記述もあるが、詳細はわからない キリスト教の強い支配を受けた中世には、大道 芸人たちと修道院における禁令を犯す上演によ & ンタに って人形劇は命脈を保ち、ルネサンスを迎え ドャ一出 て、ようやくその本来の活力ある姿を現す。一 ッジビ演 ン劇六世紀イタリアで急速な発展をみせたコメディ プ団』マ形 劇ク一人 ア・デラルテ ( 即興仮面喜劇 ) の登場人物の一 カトルュ代 リッダシ現人であるプルチネッラは、フランスではポリシ ネールとなって活躍、イギリスに渡ってはバン アプメ一よ チネロとなり、やがてバンチ劇を生む。同じく ルネサンスにはイタリアに手遣い人形の「プラ そう せいいき 172

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にんぎよ 一ム 中国上海木偶劇団「西遊記」 ( 棒遣い人形 ) インドネシアジャワ島に伝承する「ワャン・ クリ」 ( 影絵人形劇 ) / ノノ ノノ / 日本人形劇団プーク『逃げ出したジュヒ。ター ( 三人遣い ) 日本京都府亀岡市「佐伯灯籠人形」 日本兵庫県三原郡三原町「淡路人形籀璃」 ( 串人形 ) ( 棒遣い人形の出遣い ) ッチーノ」が生まれ、イタリアの人形劇芸人た ちはヨーロッパ全土に活躍したと思われ、その 〕。弓い。今日もイタリアのシチリア島で上 演される、頭を太い針金で吊り下げた古い型の マリオネットの形式は、ベルギーのプリュッセ ルやリエージュでも行われている。 ドイツも人形劇の伝統は豊かで、ゲーテの代 形。子表作『ファウスト』は、彼が幼少のころ見たフ 人「・儡 7 山い傀 アウスト伝説の人形劇の印象をもとにしたこと 物は有名な話である。ファウスト劇は今日もヨー ロッパ人形劇の古典で、その劇中に登場する道 田出 半の ヒ人形ハンスウルストやカスペルは当時の民衆 県祭イ 知羊を代表するキャラクターとして大きな意味をも 愛「潮 のち、ことに後者は今日もドイツ、オーストリア 本崎 日亀で子供たちのよき友である。フランスの人形劇 の人気者であったポリシネールは、大革命後ギ ニョールにその王座を奪われ、ギニョールは国 際的に手遣い人形の代名詞ともなった。パンチ は今日もなおイギリスで活躍しているだけでな 、移民とともに新大陸アメリカに渡って活躍 した。中南米ではスペイン、ポルトガルの影響も 考えられるが、プラジルのマムレンゴは民族的 特質をもった独自のおもしろさをもっている。 かいらいしき 〔日本〕一二世紀初期の文献『傀儡子記』で大 江匡房が大陸から渡来したと記している人形 は、棒状の杖頭傀儡と思われる。しかし、同じ ような形体のおしらさま的人形はそれ以前から もわが国に存在しえたであろうし、福岡県築 ・ 1 ひょう じようよしとみ ・一ひょう 、、奇 上郡吉富町の古表神社、大分県中津市の古要 本遣神社に伝わる古表舞とよばれる棒人形構造の 「傀儡子」による大漁祈願の祭祀は、本来「あ まべの民」の海洋信仰の行事であり、当然古く から行われたものと思われる。同じ大漁・豊作 を祈願する「えびす舞」または「えびすかき いの ( 夷舁 ) 」とよばれる人形戯は民衆の生活のなか 珍」 = で古くから行われ、その人形遣いたちのもっと も大きな集団は、西の宮の傀儡子といわれた。 にしのみや はちまん よ彼らはいまの兵庫県西宮市の広田八幡宮に属す のりと さんじよ 酌る産所 ( 散所、算所 ) に住む祝詞職であった。 てんづしまい 甲府 ( 山梨県 ) の「天津司舞」、美濃 ( 岐阜県 ) の「ひんここ人形」など各地で行われる人形に 市西よる祭祀は、人形による演劇つまり人形劇が形 成される以前の人形戯である。ほかに福岡県の 王る 一わもり たぬしまる 圦操田主丸の虫追いに遣われる「実盛人形」なども 者て ある。 東か 日本で人形劇が成立するのは一六世紀の室町 ひやくだゅう 本腰 期で、百太夫ともよばれた西の宮の人形遣いた ノノノ まさふ寺一 173

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はじろこ が、栽培は少ない。葉を生のまま、あるいは乾だし、それもジャン・アレッシオ・アッパトウ ト教とパイディア』 ( 一九六七・筑摩書房 ) ▽アているジャニスは家事を顧みず酒びたり。 燥させてハープとして利用する。また、葉から ーティス Gian Alesio Abbatutis というべン ダルべール・アマン著、家入敏光訳『教父た ーは仕事からも家庭からも解放されたい衝動に 芳香油をとり、せつけんや飲料の香りづけに使 ネームで発表されたものではあったが。↓ペン ち』 ( 一九七一一・エンデルレ書店 ) 駆られ、家を飛び出す。高校時代の体育教師ト しようふ どうせい う。春に種子を播き、苗を育てて畑に定植するタメロン 〈河島英昭〉 バシレイオス ( 一世 ) Basileios 一 ( 全七セロに紹介された娼婦ルースと同棲し、妊娠さ じかま が、葉をとるだけならば、春から夏に直播きし ー三七九 ) せる。その間、酔ったジャニスは、生まれたば ー会六 ) ビザンティン皇帝 ( 在位会七 ~ バシレイオス Basileios ( = = 0 = てもよい。霜にあうと枯れる。 〈星川清親〉四世紀のギリシア教父。聖性のほとばしり出た帝国の最盛期であるマケドニア朝の初代皇帝。かりの赤ん坊を風呂で溺死させたため、 〔食品〕香草系香辛料の一種で、日本では別名「教父の黄金時代」を担う。大バシレイオスと宮廷の馬丁からミハイル三世 ( 在位翁一 ~ 会七 ) は家庭に戻る。しかし、それもっかのま、ルー ちょうしん メボウキ、バジリコともい , つ。南ヨーロッパ、 よばれ、また、ナジアンゾスのグレゴリオス、 の寵臣となり、のちに同帝を暗殺して即位。スのもとへ走るが、結婚を迫られると、逃げ出 ハンガリー モロッコ、アメリカ、インドネシ弟のニッサのグレゴリオスとともに「カッパド 前代からの「フォティオス論争」には第八回公しあてもなく車でハイウェーを走り続ける。新 アが主産地。高貴な甘いにおいとかすかな辛味キアの三つの光」とたたえられる。小アジア東会議を首都コンスタンティノープルで開催し鮮な感覚を生かした現在形の文体で、日常性か をもち、この香りがトマトと非常によくあうた部カツ。ハドキアの町カエサレアの由緒あるキリ 穴六九 ~ 八七 0 ) 、学者出身で総主教のフォティオスら脱出を図る若者の空虚感と不安を描き、一九 め、イタリア料理、とくにピッツアパイのソー スト教徒の家柄に生まれた。コンスタンティノを解任、ローマ教皇と和解。東部では異端のパ 五〇年代の世相を浮かび上がらせる。 ス、ス。ハゲッティ ) ミートソース、チキンカチャ ープル、アテネに遊学してギリシア古典の豊かウリキア派を抑え ( 全一 l) 、小アジア東部に進 第二作『帰ってきたウサギ』 ( 一九七一 ) では三 トーレ、ス。ハゲッティナポリタンなどにはかな な教養を積んだが、やがて、聖者たる姉マクリ出。南イタリアではシラクーザを失ったもの ~ 歳のハリーを取り上げ、ジャニスの家出など ソーセージ、 らす使われる。また、シチュー ナの感化もあずかって修道に志す。シリア、エ の、テマ・ロンギバルディアをカラ。フリアに新複雑な人間関係のなかでよろめきながら生きる ドレッシングや油っこいウミガメのスープにも ジプトの隠修士の下で禁欲的修行を行ったの設し、イスラム勢力の北上に対抗。国内では法男の姿を描く。アポロ打上げ、・ヘトナム反戦、 最適である。ガーリックを利かせたホワイトクち、故郷のネオカエサレアで修道院を組織。こ の整備を図り、『ローマ法大全』の民法と公法黒人問題など六〇年代の時事問題を取り込み、 ラムソースや、スパゲッティのバター和えにバ のとき、後世にまで範となった「修道規則」をのなかから実用に適する規則を抽出した『プロ 社会的な広がりをみせている。第三作『ウサギ ジルを加えると一段と風味を増す。〈斎藤浩〉共住修道士のために作成し、「修道院制の父」ケイロン』 ( 実務便覧 ) とその改編『エバナゴはお金持ち』 ( 一一 ) は自動車販売店主となった ジーレ Giambattista Basile ( 一五七五こ となる。また、ナジアンゾスのグレゴリオスと ーゲ』を刊行した。 〈和田廣〉 ー夫婦の生活を中心に、スワッピング ( 夫 ー一六三一 l) イタリアの詩人、民話作家。ナポリ ともに、オリゲネスの著作からの抜粋『フイロ バシレイオス ( 一一世 ) Basileios = ( 九夭婦交換 ) など七〇年代の社会風俗を丹念に追 の比較的貧しい家庭に生まれたが、幼少のころカリア』 P lo 守を編んだ。エウセビオスの ー一 0 一一五 ) ビザンティン皇帝 ( 在位九七六 ~ 一 0 う。平凡な主人公の市民生活を通じて現代アメ から詩才を現し、文人として、また武人とし要請でカエサレアの司祭にあげられ、その死一一五 ) 。父ロマノス二世 ( 在位九五九 ~ 九六三 ) の没後、 リカの生態を描く異色作といえる。〈井上謙治〉 せっしよう て、イタリア各地の宮廷に仕えた。・ へネチア共後、主教となる。総じてクレメンス、オリゲネ母の摂政、ニケフォロス二世、ヨハネス一世回宮本陽吉訳『走れ、ウサギ』 ( 一九六四・白水社 ) 和国の軍務について ( 一六 0 四 ~ 0 七 ) 、クレタ島の スの学統の継承展開として、ギリシア古典の受の治世を経て、二七歳ころようやく実権を得 ▽井上謙治訳『帰ってきたウサギ』 ( 一九七三・ 防衛に加わったこともある。マントバのゴンザ容に積極的姿勢を示しつつ、異端のアリウス派た。地方豪族スクレロス家、フォーカス家など 新潮社 ) さんみ ーガ Gonzaga 家宮廷に仕えた ( 一六一一一 ~ に対する論陣を張り、三位一体の正統教義の確の反乱を抑えるため、キエフ大公のウラジーミ 〔羽白小千鳥〕 ringed ハジロコチドリ ろに、技巧の勝ったマニエリスモ風の詩編をま立に尽くした。同時に、司牧、福祉、典礼の制 ル一世の援助を得、彼に妹アンナを降嫁させ、 plover/$) C 、き s 三ミ鳥綱チドリ とめて『作品集』 ( 一六一三 ) を刊行した。そのほ定などの実践的活動に多大の足跡を残し、東方キエフのキリスト教化を促進。プルガリアのマ目チドリ科の鳥。ューラシア極北部のツンドラ いしずえ か田園詩『アレトウーザ』 ( 一六一九 ) 、散文に『べ教会の伝統の礎となった。著作に『エウノミケドニア王国を破り ( 一 0 一四 ) 、全バルカン半島やグリーンランドで繁殖し、冬にはヨーロッ ばくろん ンボとデッラ・ヤーサの作品をめぐる論考』オス駁論』 Ad ミ ) E ミ 0 ミぎき、『聖霊につを帝国領とした。続いてシリア、アルメニアに アフリカ、アジアなどに渡る。日本ではご ( 一六一 0 などもあるが、故郷ナポリの方言を駆 いて』 De S. 斗ミ S をミ。のはか、多数の説も進攻、七つのテマ ( 軍管区 ) を新設。その結 くまれな旅鳥あるいは冬鳥で、シロチドリなど 使した詩編『ナポリの美神』 ( 一六三五 ) 、および民教、三〇〇通以上の珠玉の書簡が残されてい 果ュスティニアヌス一世以来の大領土を獲得の群れに混じっていることがあり、広い干潟で 話集『ペンタメロン』 ( 一六三四 ~ 三六 ) が没後に刊る。 〈谷隆一郎〉 し、帝国の最盛期、マケドニア 行されて、民衆作家もしくは民衆の視点から宮回 J. Quasten 【 P ミき、。 ( 1975 , Spectrum, 朝の頂点を築いた。〈和田廣〉 きっこう はしれ 廷文化に拮抗する文学を生み出した作家とし Utrecht, Antwerp) ▽ B. AItaner 【 P ミき・走れ、ウサキ て、バジーレの名を不朽のものにしている。た 、 0 を e ( 1978. Herder, Freiburg, BaseI, Wien) Rabbit, Run アメリカの作 ▽・イエーガー著、野町啓訳『初期キリス家・アプダイクの小説でピュ リツツアー賞受賞作。一九六〇 館 年刊。ウサギというあだ名のハ 美 ・アングストローム ( 二六 フ コ 歳 ) は、高校時代にバスケット ャ チボールの花形選手だったが、い ス まはしがない台所用品販売員。 オ イワ ジャニス・スプリンガーと結婚 レク し、息子のネルソンと暮らして モ いるが、二人目の子供を妊娠し・′ / 、ジ丿レ 2 パシレイオス 2 世 ベネチアサン・マルコ図書館 719

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リの施療院で死ん作業量ないし生産量で示す産出高ノルマその他ノルマン貴族が支配者層を形成し、大陸の軍事が、とくに彼らの北海、地中海における商業活 イタリアなどを転々とし、バ ~ 一二世紀の商業復活につながり、ヨ 。こ。バリではミッキエビチ、スウォワッキ、シ に分かれる。いずれもノルマの超過遂行がなん的封建制も導入され、大陸との関係も強化され動は一一 ーロッパ中世の発展に大きく貢献した。↓バイ らかのプレミアムにリンクされていることに変た。なお、一七三〇年にフランスのバイユー聖 彼の詩は生存中は ョバンらとも交友があった。 , つづれおり 〈富沢霊岸〉 。こうしたノルマの使用は計画経済堂で発見された綴織「バイユー・タベストリキング ほとんど知られず、二〇世紀初めになって認めわりはない はん一 ちょうノルマンディー公 られ、哲学的で難解ながら第一級の叙情詩人とでは避けられないものだが、半面、煩瑣化の弊 には、このときの戦闘の場面が詳しく描かノルマン朝 れている。↓ノルマン朝↓バイユー・タベストウィリアム ( 公としては二世、イギリス王とし 害を伴うことから、最近の経済改革の過程で、 評価された。代表作に『プロメテイディオン』 〈富沢霊岸〉ては一世、征服王 ) のイングランド征服 ( ノル ( 一会 l) 、『ショバンのビアノ』 ( 一会四 ) などがあより間接的な標準指標 ( ノルマチーフ ) に切り じん Normans デンマー マン・コンクエスト ) によって開かれたイギリ る。 〈佐藤経明〉 〈吉上昭三〉換えられていく傾向がある。 ノルマン人 ス王朝 ( 一 0 六六 ~ 二五四 ) 。ウィリアム一世は大陸 ノールフィヨルド Nordfjord ノルウェ・エルマン著、佐藤経明・中兼和津次訳ク、スカンジナビア半島を原住地としたゲルマ ン人の一派。北方人の意で、ビーキング ( バイの封建制度を導入し、サクソン行政組織を利用 『社会主義計画経済』 ( 一九全・岩波書店 ) ▽ ー西海岸の北緯六二度付近に発達するフィヨル ・ N ・ポール著、平館利雄・宮下誠一郎訳キング ) ともよばれる。ゲルマン民族大移動のして集権的な封建制度を確立した。その三男ウ ド。長さ一一三キ。、水深最大五六四。湾奥に ィリアム二世 ( 在位一 0 ~ 二 (0) 、ついで四男 ~ 一一世紀に人口 際には移動しなかったが、八 『社会主義計画経済入門』 ( 一九七四・新評論 ) 散在する集落はノルウェーでもっとも魅力的な ー一世 ( 在位二 00 ~ 三五 ) が後を継ぐが、 増加による土地、食糧の不足などからヨーロッ 保養地であるといわれ、ヨステルダル。フロ氷河ノルマ Norma イタリアの作曲家べツリ ヘンリ ー一世は中央政庁を整備し、全国に巡回 パ各地に侵入。冒険心に富み、航海術に長じ、 ーニのオペラ。二幕五場。フェリーチェ・ロマ の融氷水が流入する湖もあり、多くの観光・保 三一年に作曲、同年ミ商業のほか略奪など海賊的活動を行ったが、と裁判官を派遣して王権を強化した。彼は王子ウ ーニの台本に基づき一八 養客を集める。フィヨルド沿岸には段丘が発達 ィリアムを亡くしたため、神聖ローマ皇帝ハイ くにフランス北西岸、イギリス北東岸の修道院 し、重要な農業地域となっている。〈竹内清文〉ラノ・スカラ座で初演。紀元前五〇年ころ、ロ ーマ共和政末期のガリア地方を舞台とする悲劇や都市を襲った。西フランクのシャルル単純王ンリヒ五世に嫁しその死後アンジュー伯ジェフ ノルマ HOI)Ma/norma ロシア語のノル マには、本来、二つの意味がある。一つは英語である。ドウルイド教の尼僧長ノルマは敵方のは、セーヌ川、ロアール川をさか ガリア総督ポリオーネに恋し子供までもうけるのばって内陸深く侵入するのを防 の norm ないし standard に相当するもので、 ぐため、九一一年首領ロロにノル が、やがて彼は若い尼僧アダルジーザに心変わ 定められた規準ないし規準量を意味し、もう一 つはほば英語の rate にあたり、率を意味すりしてしまう。深い苦悩のうちにノルマは、純マンディーを与えて公とし、フラ 図 ンスに同化させた。その後ノルマ る。たとえば、第二の意味でいうと、 norma 潔を破り祖国を裏切った罪を償うため自ら火刑 す 系 表 台に登り、またポリオーネも改心し、ともに炎 ンディー公ウィリアムは、イギリ pribyli は利潤率 rate Of profit にあたり、 を 略 ぎんげ スのエドワード懺悔王から王位継 / 子順年 に包まれる。いわゆるプリマドンナ・オペラ norma nakopleniya は蓄積率 accumulation 在 朝 ratio にあたる。しかし、一般的には、ソ連をで、主役にはベルカント唱法にたけたソプラノ承の約束を得たが、一〇六六年工 ン きえ 国字 ドワードの死後その約束を違えて はじめ計画経済諸国で計画作業の基礎として用歌手、しかも、清純な宗教的帰依からごく人間 マ年数 しっと イギリス王となったハロルド二世 いられる種々の基準ないし基準量のことをさし的な嫉妬の情に至るまでさまざまな感情を描き に対し王位を要求し、イギリス南 ている。この意味での計画ノルマの数は、おび分ける歌唱表現力と演技力が要求される。ノル ただしく多い。たとえば、基礎的な消費の計画 マの独唱「清らかな女神よ」やアダルジーザと東岸のヘースティングズで戦死さ の二重唱「最後のときまで」などの名曲があせ、同年末ロンドンに入ってウィ 化の場合、人口一人当り望ましい財またはサー リアム一世として即位し、ノルマ ビスの供給量を策定することがある。食糧消費る。日本初演は一九二三年 ( 大正一 (l) カー 〈三宅幸夫〉 ン朝を開いた ( ノルマン・コンク ビ・イタリア歌劇団。 では、栄養学的に根拠づけられた人口一人当り エスト ) 。また他方、一一世紀初 の摂取カロリー量、タンバク質量 ( それも肉、 ノルマン・コンクエスト Norman Conquest 一〇六六年のノルマンディー公ウ頭よりノルマンディーから南イタ 魚、植物性タンパクに分けて ) 、ビタミン量な ようへい ィリアムによるイギリス服。彼はイギリスの リアに渡って傭兵として活躍する どが一小され、それを目標として食糧生産計画が ざんげ たてられる。この意味ではそれは計画のガイエドワード懺悔王から二度も王位継承の約束を者も多かったが、タンクレッドの 子ロべール・ギスカール ( ロ・ヘル ド・ライン的な役割を果たす。他方、価格代替得ていたが、懺悔王の死後、その義弟ウェセッ ト・グイスカルド ) は、教皇の認 性 ( たとえば靴と背広の間のように ) がある場クス伯ハロルドが即位 ( ハロルド二世 ) したた め征服を決意し、教皇の支持も得て同年九月イ可を得て南イタリアを征服し、両 合には、ノルマによる計画化には限界がある。 シチリア王国建設の基礎を開き、 ングランド南東岸のペプンジーに上陸。一方ハ 生産過程でのノルマは、原材料支出ノルマと 労働ノルマの二つに大別される。前者は、一定ロルド二世は、その直前やはりイギリス王位をその甥ロジェール二世時代の繁栄 ハルドラーダをを招いた。ノルマン人の植民活動 の生産物を生産するのに必要な原材料、燃料、ねらうノルウェー王ハロルド・ 電力などの消費ノルマであり、近年、厳しく強スタンフォードで破ったが、ただちに兵を返は、このはかロシア、シェトラン し、一〇月一四日へースティングズで両者は対 ド諸島、オークニー諸島、アイル ん調されている節約ノルマもその一種である。後 ま者は、一単位の生産物を生産するのに必要な標決、ハロルドは戦死した。ウィリアムは同年末ランド、さらにアイスランド、グ リーンランドから北アメリカ大陸 ロンドンに入ってイギリス王ウィリアム一世と る準時間で示す時間ノルマと、単位時間 ( 時門 日、週、月 ) 内に遂行しなければならない標準して即位、ノルマン朝を開いた。征服に従った まできわめて広い範囲に及んだ の ロロ ( 初代ノルマンディー公 ) 十 932 ウィリアム 1 世 十 942 リチャード 1 世 す 996 リチャード 2 世 十 1026 ート 1 世 ロノヾ 1035 ウィリアム 1 世 ( 征服王 ) ( 1066 ~ 87 ) 2 リチャードウィリアム 2 世ヘンリー 1 世アデラ ヤ 1137 ( 1087 ~ 1100 ) ( 1100 ~ 35 ) ジェフリー ( ジョフロア ) マティルダ 十 1167 ( アンジュー伯 ) 十 1151 ヘンリー 2 世 ( プランタジネット朝初代国王 ) ( 1154 ~ 89 ) ート ( ロべール ) スティープン ( プロア伯 ) 4 スティープン ( プロー ( 1135 ~ 54 ) ロノヾ ( ノルマンディー公 ) ュ伯 ) 473

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につき優先弁済を受けることができるのかを確ある。 と根抵当ねていとう「一定ノ範囲ニ属スル不 この地域の美術は、中世盛期まではいわばョ 特定ノ債権ヲ極度額ノ限度一一於テ担保スル」抵定しないと、債権者が優先弁済を受ける額が定 ーロッパの田舎にすぎず、これという特色も認 まらない。そこで、根抵当権の確定という制度 当を根抵当という ( 民法三九八条ノ二 ~ 三九八 て により、根抵当権が担保する債権はどの時点でめられない。その後、この地域が新しい商工業 条ノ二一 l) 。たとえば、問屋と小売商との間や ね の中心として栄えるとともに、美術の世界でも の債権であるか、その債権が確定される。この 銀行と企業との間では、信用取引が継続的かっ 制度により根抵当権が確定されると、その根抵独自の展開がみられるようになる。建築ではフ 頻繁に行われている。商品の売買や金の貸付、 ランス・ゴシックの模倣を超えて、この時期か 代金の支払いや借入金の返済が継続的に行わ当権は普通の抵当権と基本的には異ならないよ れ、それに応じて個々の債権は発生したり消滅うになる。したがって、根抵当権はその確定のら一五世紀にかけて、いかにも市民活動にふさ したりしている。このような場合に、問屋や銀前後において性質を大きく異にする。根抵当権わしい、簡素で合理的なフランドル・ゴシック がいっ確定されるかは重要なことであり、当事を発展させ、市庁舎や職能組合の建物などの公 行が普通の抵当権を設定して債権を担保しよう とすれば、個々の債権が消滅するにしたがって者は、確定の日を根抵当権設定契約で定めてお共建築が盛んになり、都市構成に著しい特色を導者。カシカネに生まれる。首都ルアンダで教 抵当権は消滅するから、個々の債権が発生するくことができる。これを定めたときには、登記発揮するに至った。これに対し、宗教建築は世育を受けたのち、保健局に勤務 ( 一九四四 ~ 四七 ) 。 一九四七年民族文化運動に参加し、同年ポルト ごとに問屋や銀行は抵当権を設定しなければなを必要とする。また、当事者は、確定の日を定俗建築ほどの隆盛はみられなかった。 ネーデルラント美術の中心は絵画であった。ガルのコインプラ大学医学部留学。在学中、の らないことになる。このような不便な結果を回めないままにしておくこともできる。このとき には、法定の事由によって根抵当権は確定す一四世紀後半から一五世紀初頭に、この地方かちにギニア・ビサウ解放闘争を指導したアミル 避するために、取引の慣行として行われていた 〈高橋康之〉らフランスにかけて活躍したミニアチュール画カル・カプラルらと反植民地活動を行い、しば る。↓抵当権 ものが根抵当権である。 むすこ しば逮捕、投獄された。五九年帰国し開業した 家の大部分は、フランドルを中心とするこの地 すなわち、継続的な取引において将来生じるネーティフ・サン 0 アメリカの息子 が、六〇年アンゴラ解放人民運動 ー一七方出身の人たちで、なかでも『べリー公の時疇 であろう多数の債権を、債権額の合計が一定のネデイム Ahmet Nedim ( 一六全 ほうき 、しょ 書』で名高いランプール兄弟が傑出している。議長となり、同年北部の蜂起を指導し逮捕され 三 0 ) オスマン帝国の宮廷詩人。イスタンプー 額を超えない限度において担保する抵当権が設 ルに生まれる。メドレセ ( イスラム高等教育機ついで、ネーデルラント全体の目覚ましい発展た。釈放後、キンシャサを本拠にゲリラ闘争を 定されるようになった。このような抵当権は、 指導。七四年ポルトガル新政権はアンゴラの独 将来の債権を担保するものであり、また、債権関 ) で学んで法官となったが、華やかな「チュ期である一五世紀に至ると、油絵の発見者とま 立を約束したが、独立後の主導権をめぐって部 ップ時代」 ( 一七天 ~ 三 0 ) を表現する詩人とでいわれるファン・アイク兄弟の出現によっ が消滅してもそれに伴って消滅することがない ・パシャて、イタリア・ルネサンスと並び称せられるみ族主義的なおよび DZ—+< と対立し という点において、普通の抵当権の性質に反すして名声を博した。大宰相イプラヒム ー一七三 0 ) の庇護を受け、多ごとな北方ルネサンス絵画を展開した。それ内戦に入った。ネトはソ連・キューバの軍事的 るものである。そこで、かっては、根抵当権が lbrahim Pasa ( ? は、イタリア絵画の理想主義、古典復活に対し支援を受け、七五年一一月アンゴラ人民共和国 くの宴席で詩をつくった。その作風は難解な宮 有効であるか否かが争われたが、判例はその有 廷詩の技法を駆使した華麗さを誇り、当時のイて、大地と結び付いた生活のなかからみいだしを宣一言、初代大統領に就任。独立後、科学的社 効性を認めてきた。一九七一年 ( 昭和四六 ) に ひょうまう 会主義路線を標して国家建設を行ったが、 スタンプールの生活をよく伝えている。後世た生命の喜びや自然への愛情の表現であった。 民法が一部改正されて第三九八条ノ二から第三 〈林晃史〉 ファン・アイク兄弟をはじめ、ロヒール・ファ七九年九月一〇日病死した。 『ネデイム詩集』 (l*llll) が編まれた。↓チュー 九八条ノ一三までの条文が追加され、現在では じよう かみがた ン・デル・ワイデン、 〈永田雄三〉 ップ時代 根抵当につき明文の規定が置かれている。 ハンス・メムリンク、ヒ寝床ねどこ落語。上方落語では『寝床浄 しろうとぎだゅう るり じようやく 0 パヒキュゴー・ファン・デル・グース、ディルク・ポ瑠璃』といった。『素人義太夫』という別名も 根抵当権は、特定の債権を担保するわけでなネーテポリ条約 じようやく ウッ、ヒェロニムス・ポスら、特色豊かな画家ある。義太夫好きの家主が自分の芸を人に聞か い点、および、被担保債権の額が一定でなく変ナサーリ条約 が輩出した。しかも、これらの画家たちのほとせたがり、今夜も番頭に長屋の者を呼びに行か 動するものである点において、普通の抵当権とネーデルラント Nederland 西ヨーロッ ハの王国オランダの正式国名。「低地の国」のんどは今日のベルギー地方で活躍したが、オラせたが、それそれ断りの言い訳をしてだれもこ 異なるが、そのほかについては普通の抵当権と ない。店の者も仮病を使って逃げるので家主は ンダ地方の出身者が多いのである。一六世紀に 。しかし、右の差異に基づい 意。↓オランダ 異なるものでない て根抵当権は特別に扱われる。第一に、。 とのよネーデルラント戦争ーーせんそう 0 オなると、イタリア・ルネサンスの壮大な様式に怒り、長屋の者はみんな出て行け、店の者は暇 せんそう それでも、伝統の自然主義と写を出すという。一同が驚いて集まり、家主が機 圧倒されたが、 ランダ戦争 うな取引によって生じた債権が担保されるの びじゅっ美術実精神は消えず、「百姓プリューゲル」といわ嫌を直して語り始める。そのうちに静かになっ か、つまり被担保債権の範囲を契約 ( 根抵当権ネーデルラント美術 設定契約という ) であらかじめ決めておかなけ史的にネーデルラント美術という場合、その範れ、農民生活を描き続けた大画家ペーテル・プたので、家主がよく見ると、みんな寝ている。 また家主が怒ると、たった一人だけ小僧の定吉 リューゲルが出た。 ればならない。第二に、根抵当権によって担保囲は、イタリア・ルネサンスに対して、北方ル 工芸も一五世紀以降、優れた織物やレースのが寝ずに泣いている。「どこが悲しかった ? される債権の総額 ( 極度額という ) を契約で決ネサンスといわれる一五 ~ 一六世紀の美術のう せんだいはぎ めておかなければならない。 これらは、根抵当ち、独立以前のベルギー、オランダの地域に展産地として発展したが、彫刻は近代を待たねば子別れか、先代萩か」「そんなとこじゃない」 「どこだい」「あすこだい」「あすこはあたしが 権設定契約においてかならず定められなければ開した美術をさす。しかもその中心は南部のフならなかった。↓フランドル美術〈嘉門安雄〉 ゆか ならない事項であり、かっ、登記を必要とすランドル地方であり、ついで北に移ったもの回『世界美術全集ルネサンスⅢ』 ( 一九六五・角義太夫語った床じゃないか」「あたくしは : る。 川書店 ) ▽西沢信彌解説『大系世界の美術あすこが寝床でございます」。原話は『醒睡 の、ほば今日のベルギー領に栄えた。したがっ しようわかんはなしかい 笑』『和漢咄会』など江戸小咄にみられる。 北方ルネサンス』 ( 一九七三・学習研究社 ) そして第三は、根抵当権の確定である。根抵てフランドル美術の名でもよばれるが、近年 かつらぶんらく 八代目桂文楽の十八番だったが、内容がおも 当権は、債務が弁済されないときに債権者が優は、一七世紀のこの地方の美術の呼称と区別すネト Antonio Agostinho Neto ( 一九二 〈関山和夫〉 しろく、いまでも演り手が多い ー七九 ) アンゴラの政治家、詩人。解放運動指 先弁済を受けることを内容とするが、どの債権る意味で、ネーデルラント美術の名が一般的で ネ 276

10. 日本大百科全書 18

きょ る。日当りのよい道端や土手の草地に生え、日 ~ 七月に、地上の物陰に巣をつくり五 ~ 七個ので先端はごく浅く三裂し、長さ約二ミリの短い距的身分としての貴族はパトリキ patricii とい 卵を産む。抱卵は雌のみ、一二 ~ 一四日で雛が がある。テガタチドリに似ているが、ノビネチうが、紀元前四世紀中ごろからパトリキおよび本全土、東アジアに広く分布する。鱗茎や若葉 えさ かえると、雄も餌を運ぶ。冬は日本を去る。全ドリは距が短く、葉がより幅広く、塊根が掌状プレプス plebs ( 平民 ) 両身分の最上層部が融は食用になる。古代に栽培されたものが野生化 〈河野昭一〉 したものといわれる。 長約一一一。雌は、上面が黒と褐色のまだらで に分裂しないので区別される。林縁に生え、中合して形成された新しい支配層をノビリタスと 〔文化史〕縄文時代すでに食用にされ、東京都 下面は淡黄褐色。雄も秋の換羽で似た姿になる部地方以北の本州、北海道からカムチャッカのよんだ。法的概念ではないが、慣用としては共 かっか 〈井上健〉和政の最高官職に就任した者の直系 ( ときには 八王子市宮下遺跡の勝坂式深鉢形土器の中か が、越冬中に羽の縁が擦り切れて、頭からのど冷温帯 ~ 亜寒帯に分布する。 り・ん 1 い 傍系 ) の子孫をさした。彼らは元老院の中核をら、炭化したノビルの鱗茎が出土した。古代に にかけて、および背面が黒く、胸が赤くなる。野火病のびびようタバコの病気で、シュー 2 」・、 1 な , れ 雌雄ともに翼に大きな白斑がある。もつばら地 ドモナス・シリンゲ・タバキ Ps d0 き 0 ミ・ も春先の重要な野草菜であったとみえ、『古事 なして政権をほとんど独占し、とくにコンスル おうじん しさ子ども野び 上や草の葉などの昆虫を捕食する。〈竹下信雄〉、ぎ e pv ・という細菌の寄生によって ( 統領 ) の地位は彼ら以外には就任が困難であ記』に応神天皇の歌として、「、。 りつ はんてん : 」が載る。『万葉集』 おこる。葉に水浸状の小さい黄色の斑点がでった。彼らは経済的に基本的には大地主で、社る摘みに、ひる摘みに : 伸び弾性率のびだんせいりつ 0 ャング率 ひしほすひるつ めいりよう か ) 会的には多数のクリエンテスを擁した。帝政期には調味料の一つとして「醤酢に蒜搗き合てて 野火止用水のびどめようすい埼玉県南部、き、のちに病斑の周りに明瞭な黄色の暈 ( ハ なあつものながのいみきおき ずどの 新座市野火止にあった用水。伊豆殿堀ともよば ロー ) ができる。病勢が進むと隣接した病斑が には、共和政時代および帝政最初期のノビリタ鯛願ふ我にな見えそ水葱の羹」 ( 長忌寸意吉 かわごえ しずのかみのぶつな 〈湯浅浩史〉 れた。川越城主松平伊豆守信綱は一六五三年互いに融合して大きくなり、ついには葉は破れスの父系・母系の子孫のみがノビリタスとよば麻呂、巻一六 ) と詠まれる。 なるせ ものう のびる宮城県中東部、桃生郡鳴瀬町 ( 承応一 l) 野火止に新田集落をつくったが、こてばろばろになる。暴風雨のあとなどに、あたれ、その数は減少した。 〈吉村忠典〉野 ~ の付近は地下水が深いので、飲料水や生活用水 の一地区。旧野蒜村。鳴瀬川河口右岸にあり、 かも野火のように急速に広がり大きな被害を与ノビル〔野蒜〕とをミ g 、 ~ ・ Regel が不足した。このため、多摩川から江戸の飲料えるので野火病とよばれている。なおこの細菌ュリ科の多年草。ネギの仲間である。地下に径明治までは一寒村であったが、明治政府の東北 り , ル・けい 水として引いた玉川上水が一六五五年 ( 明暦の産生する毒素は野火病毒素といわれる。この ~ 二拜一の球形の鱗茎があり、晩秋から線形の開発の拠点として野蒜築港工事が推進された。 一 ) 完成したのを機に、幕府から分水の許可を毒素はラクチルーアミノハイドロオキシーアミ 根生葉を出して越冬する。花茎は高さ五〇 ~ 一八八四年 ( 明治一七 ) の台風などで中止、廃 きんえもん 得て、家臣安松金右衛門に命じ、多摩郡小川村ノピメリン酸のラクトン体で、五〇の〇、下半部に二 ~ 四個の茎葉がある。葉の断港となった。↓鳴瀬 ( 町 ) こだいら とうなうんが しんがし ( 現東京都小平市 ) 付近で取水し、新河岸川に 濃度でタバコの葉に壊死斑を生ずる。この毒素面は三角状で、上面に浅い溝がある。五 ~ 六 野蒜運河のびるうんが 0 東名連河 落ちる流長二四キ。の用水を開削させた。以来約は、グルタミン合成酵素の活性を阻害する作用月、茎頂に一個の散形花序を開く。包葉は膜ノビレ Umberto Nobile ( 天会ー一九七 0 がある。 三〇〇年間利用されてきたこの用水は、都市化 〈梶原敏宏〉質、卵形で先が長く伸び、若い花序を包む。花イタリアの北極探検家、航空 ( 飛行船 ) 技師、 は淡紅紫色で、十数個ある。花柄は長さ一・五空軍少将。南イタリアのア・ヘリーノに生まれ、 による汚染のため一九七三年 ( 昭和四八 ) 分水ノーヒューズプレーカー no-fuse かひ ナポリ大学工学部を卒業。半硬式飛行船の優れ が止められたが、清流復活事業により八四年、 breaker ヒューズを用いない小型磁気遮断 ~ 二。花被片は六枚、卵形で長さ四 ~ 五リ た耐航性に着目し、自ら設計・製作を行い、こ 一一年ぶりに一部通水が復活した。〈中山正民〉器。配線用遮断器ともよばれ、交流六〇〇ポル雄しべは六本、花糸は花被より長い。雌しべは ト、直流二五〇ポルト以下の回路に多く使用さ 一本、子房上位で、三室。果実は裂開し、各室れを使って北極飛行に成功した。一九二六年ア ノビネチドリ「延根千鳥〕 Gy きミ・ ミきき、 s ミ Miyabe ラン科の多年草。れる。遮断器と継電器の機能をあわせもってお に二個の黒色の種子がある。花は普通は大部分ムンゼンやエルズワースとともに、飛行船ノル ひも ゲ号 (Z-—) でスピッツベルゲンから北極を 塊根は紐状、あまり肥厚しない。茎は高さ二〇り、プレーカー自体が故障電流を検知してこれが発達せず、球形で無柄のむかごに変化してい だえん 〈岡村正巳〉 ~ 六〇弩。葉は茎の下部に数枚つき、楕円形でを遮断する。↓遮断器 横断しアラスカに到達した。しかしこのあとア 端 ムンゼンと確執を生じた。二八年イタリア号 長さ約一〇、縁は波打つ。五 ~ 六月、径約五ノビリ Leopoldo Nobili ( 一大四ー一八三五 ) 道 (Z ー 4 ) で自ら探検隊を指揮し北極飛行に赴 リの淡紅紫色花を多数密生する。唇弁は倒卵形イタリアの物理学者。電気化学および熱電気の よ鱗 き、五月二四日北極点上空に到達したが、帰途 研究で知られる。大学卒業後、砲兵隊将校とし の スピッツベルゲン島北北東の氷上に墜落し、ノ て半生を送ったのち、フィレンツェ博物館の物 当 日る 理学教授となる。アンペールの影響下に、電流 ビレ以下の生存者はスウェーデン機やソ連の砕 え 左 〔生氷船に救出された。彼と感情的な対立状態にあ の本性についての論文を、一八二七 ~ 二八年に 発表した。電池による電流についても化学反応 ったアムンゼンは救援に出動し、かえって悲劇 ビ土 熱によって生じるとし、電流と熱 ( カロリッ ノや的な最期を遂げた。この事件でノビレは空軍と ク ) の流れを結び付けた。また電気分解につい ナポリ大学教授の職を去り出国した。ソ連の航 空コンサルタントなどを経て四三年空軍少将に ても静電気による説明を排し、電流の遠隔作用 力によって説明する独自の立場を示した。三一一 復帰、またナポリ大学教授に復職した。晩年は 年にはメロー一一 Macedonio Melloni ( 一七九〈 政界にも進出した。日本海軍の z ー 3 号購入に 一会四 ) と共同で三八対の熱電対による放射熱測 伴い一九二七年 ( 昭和一 l) 来日した。〈半澤正男〉 定装置 ( 熱倍率器 ) を製作し、精確な温度変化 ノープイ・ミー ル HOBb11i MHpZNoviy Mir 「新世界」の意。ソ連の代表的な文芸誌 の測定により、放射熱に関する研究に大きな貢 献をした。 〈高田紀代志〉 でソ連作家同盟の機関誌。月刊。一九二五年ル ナチャルスキーらが編集委員に加わってモスク ノビリタス nobilitas ローマ共和政 ハステルナーク、レオー ワで創甲 / 時代後半の為政者層。語義は「有名な人」。法 の いギ」 へり ノビタキ雄と巣中の雛 ひな ラテ まろ 441