ドイツ - みる会図書館


検索対象: 日本大百科全書 18
190件見つかりました。

1. 日本大百科全書 18

と政治的立場』 ( 一九夭 / 再版一九含 ) などの著書 せ がある。 〈矢吹晋〉 ん / インセ J0hann Jacob Wilhelm Heinse ( 一七四六ー天 0 三 ) ドイツの小説家、美術批評家。 世 ウィーラントの弟子として優雅な官能小説を書 4 ヒ くことから出発するが、イタリア体験ののち師 くびき の軛を脱し、一六世紀イタリア・ルネサンスの ン イ 天才的人物を主人公に、美と官能と自然本能の 力とを無制限に礼賛するバロック的小説『アル 地帯の中心地として綿花と家畜の取引市場があ国王コンラート一世は、ハインリヒを後継者に世の死後王位を継いだが、フランケン、シュワ ディンゲロと至福の島々』 ( 一天七 ) を発表。こ ーベン、バイエルン、ケルンテンの各大公権力 の作品は当時のカント的道徳主義の対極をなする。工業活動としては変圧器、製材、家具、金指名して死んだので、フランケンおよびザクセ めんじっゅ ンの豪族は、フリツッラーで彼を国王に選出しを一手に掌握し、中世ドイツを通じて最強の支 ものとして、文学・思想史上重要な意味をも属加工、綿実油、化学製品などの製造がある。 配者であった。リウティッ人、ポーランド人、 たが、シュワーベン大公エー・ヘルハルト、バイ つ。また、フランドルの画家ルーベンスの再発一八一九年交易所が設けられ、三九年に市とな エルン大公アルヌルフはこれを承認せず、後者べーメン人、ハンガリー人に対し、ドイツ国王 〈池田紘一〉 り、綿花市場として発達してきた。〈菅野峰明〉 見者の一人としても知られる。 インドマン Henry Mayers Hyndman ハインライン Robert A. Heinlein ( 一九が対立国王に選ばれた。ハインリヒは領内の教の封建的宗主権を広げ、ゴスラーに壮大な王宮 ) アメリカの作家。アナポリスの会支配権を大公に認めるなどの譲歩によって両を建ててザクセン経営の拠点とし、また教会改 ー一九一二 ) イギリスの社会主義者。社会民 0 七ー 主連盟の創設者。ロンドンに生まれる。父は法海軍兵学校卒業後、カリフォルニア大学大学院大公と妥協を図り、全国的にその王位を承認さ革運動を支援し、「神の平和」運動をドイツに 廷弁護士。マルクスの影響を受けて社会主義者で数学と物理学を専攻。初めてを発表したれることに成功した。対外的には、九一一年以導入して国内平和を推進した。一〇四六年には ていりつ ローマ遠征を行い、鼎立していた三人の教皇を のは一九三九年だが第二次世界大戦で中断、本降西フランク王国に併合されていたロートリン となり、一 一年民主連盟を創設、さらにこ の組織を発展させて社会民主連盟とし、その中格的作家活動は戦後から始まる。現在までにゲンを奪回し、繰り返しドイツに侵入していた一挙に廃位、ドイツ人クレメンス二世を教皇の マジャール人をリアデ付近で打ち破り、エルべ座につけ、教皇権の革新にも力を貸した。だが 心的指導者となった。以後、彼はこれらの組織『太陽系帝国の危機』 ( 一九五六 ) 、『宇宙の戦士』 Ⅱ以東のスラブ人にも征服の手を伸ばし、東部国内においては、ロートリンゲン大公ゴットフ を通してマルクス主義的な社会主義の理論的紹 ( 一九五九 ) 、『異星の客』 ( 一九六一 ) 、『月は無慈悲な夜 ドレし・つ一い リートの反乱などが起こり、聖職叙任権闘争期 国境地帯に城塞網を設置して防御を固め、対 介、組織化を志したが、その立場はかならすしの女王』 ( 一九六七 ) の四作品でヒューゴー長編小 〈平城照介〉 もマルクスと相和するところとはならず、また説賞を四回受賞しており、これは彼の人気と実内的には、教会支配権をふたたび大公から取りの貴族反乱の兆しも生まれた。 その独裁的性格もあって組織運営も円滑には進力を物語る輝かしい記録といえよう。彼の描く戻し、大公に対する王権の強化に努めるなど、 ハインリヒ ( 四世 ) Heinrich IV ( 一 0 五 0 ー二 0 六 ) ザリエル朝三代目のドイツ国王・神 まず、イギリスの社会主義運動に大きな影響を末来世界は、つねに現代の科学と社会の発展的ザクセン朝の支配権を確固としたものにするの に大きく貢献した。 〈平城照介〉聖ローマ皇帝 ( 在位一 0 五六 ~ 二 0 六 ) 。父ハインリ 与えることはできなかった。第一次世界大戦中延長線上で正確にとらえられ、不合理な飛躍が ヒ三世の死後六歳で王位につき、最初は母后ア は愛国主義的立場をとり、一九一六年に国民社 ないところに迫力あるリアリティーが生まれて ハインリヒ ( 一一世 ) Heinrich = ( 九七三ー せっしよう 〈岡本充弘〉 いる。作品の時代や舞台は二一世紀から二三世一 0 一一四 ) ザクセン朝最後のドイツ国王 ( 在位一 0 グネスが摂政として国政をとった。親政開始 会主義党を結成した。 ようせい ~ 一一四 ) 。オットー三世が子供を残さず夭逝し 後、ザクセン経営を推進したが、これに不満を ハインノル〔巴彦淳爾〕中国、内モンゴ紀の近末来で、地球、月、火星といった比較的 0 = またいとこ りんが もったザクセン貴族層は、オットー・フォン・ ル自治区西部の盟 ( 二級行政区 ) 。臨河市、五身近な惑星や衛星であることが多く、また同一たため、又従兄でバイエルン大公のハインリヒ テーマの反復を極力避けて、つねに新しい構想が王位を継いだ。「ローマ帝国の復興」を夢みノルトハイムの指導下に反乱を起こした。反乱 原、磴ロ両県とウラド前・中・後旗、ハンギン 鎮圧後、ミラノ大司教の叙任問題が発端とな 後旗の四旗からなる。盟公署所在地は臨河市。のもとに創作しているのも得がたい特色であたオットー三世のユートピア的政策に対し、ハ 南端を黄河が流れ、北端はモンゴルとの国境でる。このほかおもな作品に、未来史シリーズのインリヒはふたたびドイツに根を下ろしたじみり、教皇グレゴリウス七世との間に聖職叙任権 ろうざん ある。北部はモンゴル高原に属し、南部に狼山第一巻にあたる短編集『月を売った男』 ( 一九な政策に立ち返り、国内諸侯の独立化を抑え、闘争が起こり、一〇七六年教皇から破門を受け - 一うと、つ た。そのため国内貴族層の離反を招き、ハイン 山脈が横たわり、その南の後套平原は黄河から吾 D 、タイム・トラベル・テーマの『夏への扉』王権の強化に努めた。対外的には、ポーランド み ~ ・れがい ひょく リヒは翌年ひそかにイタリアに赴き、カノッサ ( 一九五七 ) 、「愛に時間を』 ( 一九七三 ) などがある。↓ の大公ポレスラフ・クロプリイの拡大政策に対 引水した灌漑水路網が発達する肥沃な土地で、 ぎんげ 〈厚木淳〉 夏への扉 抗し、異教徒のリウティッ人と同盟してマイセ城外で教皇に懺悔して赦免されたが ( カノッサ 小麦、トウモロコシ、サトウダイコン、キビ、 かんぞう まおう ン辺境伯領の喪失を防ぎ、対内的には、バンべ事件 ) 、反国王派貴族はシュワーベン大公ルー ゴマなどのはか甘草、麻黄などの薬材も産す回井上一夫訳『異星の客』 ( 創元推理文庫 ) ▽ 矢野徹訳『月は無慈悲な夜の女王』 ( ハヤカルク司教座を新設して、新しい文化的・宗教的ドルフを対立国王に選び、ドイツ国内は国王支 る。また、南部のウランス海は淡水魚が多い 中心をつくりだしたほか、ゴルツェ修道院に指持派と反国王日教皇支持派に分かれて内乱状態 ワ文庫 ) 西部と北部は草原と砂漠からなり、ヒッジ、ヤ 導される教会改革運動を援助し、教会を王権の に陥った。戦局はハインリヒ側の優位に推移し ギ、ウマ、ウシ、ラクダなどの牧畜が盛んであ / インリヒ ( 一世 ) Heinrich 一穴七六ころー 〈河野通博〉九三六 ) ザクセン朝初代のドイツ国王 ( 在位九一九支柱とするザクセン朝の帝国教会政策をいっそたが、一一〇五年、息子 ( ハインリヒ五世 ) に る。地下資源は石炭を産する。 〈平城照介〉背かれ、リューティッヒ ( リエージュ ) に逃れ う推進した。 ~ 九三六 ) 。捕鳥王の異名がある。リウドルフィン ハイン・プラフ Pine Bluff アメリカ合 〈平城照介〉 衆国、アーカンソー州中央部、ジェファーソング家のザクセン大公オットーの子として生ま / インリヒ ( 三世 ) Heinrich III ( 一 0 一七て再起を図るうちに死亡した。 ー五六 ) ザリエル朝第二代のドイツ国王・神聖 郡の郡都。人口五万六五七六 ( 一九ハ 0) 。アーカれ、九一二年、父の死後大公位を継ぎ、勢力の ハインリヒ ( 五世 ) Heinrich V ( 一 0 ハ一 ローマ皇帝 ( 在位一 0 三九 ~ 五六 ) 。父コンラート二 ー二一一五 ) ザリエル朝最後のドイツ国王・神聖 ンザス川の右岸に位置した河港で、周囲の農業拡大に努めた。フランケン出身の初代のドイツ 560

2. 日本大百科全書 18

はくぶつ 博物館 burgische Geschichte ①天三九②ハンプルク muzeum ①一九只②プラハ gico de Burgos ①天七一②プルゴス ハプロフ地質学古生物学博物館 Pavlov Museum of Ge010gy and Palaeontology ① プルノ市立モラビア博物館 Moravskéポーフム鉱業博物館 Bergbaumuseum ① 〔ソ連〕 一九一天②ポーフム muzeum v Brné①天天②プルノ 一七五五②モスクワ カカーリン記念博物館 Yuri Gagarin Me- ミュンヘン科学博物館 ( ドイツ博物館 ) 〔デンマーク〕 morial Museum ①一九七 0 ②ガガーリン ピヨートル大帝考古学民俗学博物館 Pe ・ ter the Great Museum of AnthropoIogy an ・海洋博物館 Handels ・ og Søfartsmuseet ① l)eutsches Museum ①一九 0 三②ミュンヘン 革命中央博物館 Central Museum of the 一九一四②ヘルシンゲア 〔ノルウェー〕 d EthnographY ①一七一四②レニングラード Revolution of the U. S. S. R. ①一九一一四②モ スクワ コペンハーゲン大学動物学博物館 Z00 一 9 王立ノルウェー科学協会博物館 Konge1i ・ 砲兵・通信・エ兵隊博物館 Museum of ge Norske Videnskabers Selskab, Museet gisk Museum ①一七七 0 ②コペンハーゲン 劇場博物館 State Theatrical Museum ① ArtillerY' Signal Corps and Crops 0f Engi- neers ①一七 0 一一②レニングラード 一九天②レニングラード デンマーク科学技術博物館 Danmarks ①一七六 0 ②トロンヘイム Tekniske Museum ①一九一一②ヘルシンゲアオスロ大学古物博物館 Universitetets Sa ・ モスクワ大学動物学博物館 Moscow State 十月革命博物館 State Museum of the mling av Nordiske ()ldsaker ①一全九②オ University Museum of Zoology ①一七九一② Great October SociaIist RevoIution ①一九一九 バイキング船博物館 Vikingeskibshallen 一 スロ Roskilde ①一九六九②ロスキレ モスクワ ②レニングラード フレゼリクスポー城歴史博物館 National- 動物学博物館 Z0010gisk Museum ①一ハ一三 レニングラード鉄道交通博物館 Lenin ・ 宗教・無神論史博物館 Museum of the historiske Museum paa Frederiksborg ①②オスロ History of ReIigion and Atheism ①一九三一一 grad Museum of Railway Transport ①天 天大②ヒレレズ ノルウェー民族博物館 Norsk Folkemuse ・ ②レニングラード 一三②レニングラード um ①天九四②オスロ 〔ドイツ ( ドイツ民主共和国 ) 〕 レーニン中央博物館 Central Lenin Muse- 総合技術博物館 Polytechnical Museum ベルゲン歴史博物館 Histrisk Museum ①天七一一②モスクワ um ①一九三六②モスクワ 交通博物館 Verkehrsmuseum ①一九五一一② Universitetet 一 Bergen ①一全五②ベルゲン ドレスデン 〔チェコスロパキア〕 ソ連国防省軍事医学博物館 Mi1itary Med ・ 〔バチカン市国〕 ドイツ書籍印刷物博物館 Deutsches Buch ical Museum of the U. S. S. R. Ministry of カラス・宝石博物館 Muzeum skla a biiu ・ und Schriftmuseum der Deutschen Bücherei ピオ・クレメンティーノ博物館 Museo Defence ①一九四一一②レニングラード terie ①一九五 0 ②ャプロネッ・ナド・ニソウ Pio CIementino ①一五 0 六②バチカン シレジア博物館 Slezské muzeum ①天一四①一公四②ライブツイヒ ソ連諸民族学博物館 State Ethnographical 〔ハンガリー〕 Museum of the Peoples of the U. S. S. R. ②オパ ドイツ歴史博物館 Museum für l)eutsche Geschichte ①一空一一②・ヘルリン ①一九 0 一②レニングラード 軍事史博物館 Orszågos Hadtörténeti Mü- スロパキア国立博物館 Slovenské nårodné zeum ①一九天②プダベスト müzeum ①一九一一四②。フラチスラバ ドレスデン技術博物館 Technisches Muse- ソ連ポリショイ劇場博物館 U. S. S. R. State Academic Bolshoi Theatre Museum um Dresden ①一九六六②ドレスデン 交通博物館 Közlekedési Müzeum ①一ハ九六 スロパキア歴史博物館 Historické muze ・ ②プダベスト ①一九一一 0 ②モスクワ um ve Slavkové①一九 0 一②スラフコフ・ フンポルト大学自然史博物館群 Museum ウ・プルナ für Naturkunde der Humb01dt ・ Universität 鋳造博物館 ()ntödei Müzeum ①一九六九② チャイコフスキー博物館 Tchaikovsky プダベスト zu Berlin ①一公九②ベルリン House Museum ①一〈九四②モスクワ チェコ文当ナ博物館 Pamåtnik nårodniho pfsemnictivi na Strahové①一九五三②プラハ ハンガリー自然史博物館 Természettudo- 〔ドイツ ( ドイツ連邦共和国 ) 〕 中央海軍博物館 Central Naval Museum månyi Müzeum ①一ハ 0 一一②・フダベスト ①一七 0 九②レニングラード 農業博物館 Zemédélské muzeum ①天九一グーテンベルク博物館 Gutenbergmuse ・ um ①一九 00 ②マインツ プダベスト国立博物館 Magyar Nemzeti トルストイ博物館 L. N. T01stoy State ②プラハ Müzeum ①天 0 一一②プダベスト Museum ①一九一一②レニングラード ハンプルク歴史博物館 Museum für Ham ・ プラハ国立技術博物館 Nårodnitechnické 示 展 を 資号 本 の 3 史オ 物 学ビ 生 の 海る スル モ設 併 館も 物マ 物館 博・族 洋水 技は 学部 立真 モや 国写 は朝に霾朝「 ミュンヘン科学博物館ドイツ連邦共和国科学 , 技術の 総合博物館。写真はラボアジェの燃焼実験装置 4 国立馬車博物館ポルトガル旧王立乗馬学 校にロココ様式など華麗な馬車を展示 649

3. 日本大百科全書 18

ばうるす ったドイツ兵のバン職人が伝えたともいわれてく、自転のような性質 ( スピン ) をもっことをウリは一九二四年この原理を発見し、指定した叙述した。六〇年一二月二日チュービンゲンに 〈小川圭治〉 いる。作り方は、特殊なバウムクーヘン焼物器明らかにして、スペクトル線の超微細構造の理ド j' ミの値をもっ電子は原子内に一個よて没した。 バウル Hermann PauI ( 天四六ー一九一二 ) で焼き上げる。ローラーにケーキ生地をかけて論をつくり、原子・分子・固体物理学の基礎をり多く存在することができないことを提唱し 回しながら焼き、焼き色がついたらまた生地を築いた。場の量子論の建設においても重要な多た。パウリの原理は、電子のほか、フェルミ粒ドイツの言語学者。ベルリン大学でフンポルト の研究をし、一九二八年にハイゼンベルクと子すなわち陽子や 4 中間子などスピンが半整数の後任者シュタインタールの指導を受け、一 かけて焼く。二〇回ほど繰り返し、層ができるく の粒子に対しても成り立っことが相対性理論と九三年以来ミュンヘン大学教授を務める。青年 ように焼き上げる。生地の配合や火の加減がむともに、現在の場の量子論の形式を確立した。 これは、空間の各点に場の自由度を与え、ラグエネルギー最低値存在の仮定のもとに示されて ( 少壮 ) 文法学派の中心人物として活躍した。 すかしく、年季の入った職人でなければなかな 言語一般の史的変遷の原理をドイツ語、ゲルマ かできない。仕上げにケーキの乾燥を防ぐためランジュ形式から出発して、量子力学の方法を 一一個のフェルミ粒子の量子的状態を状態関数ン語などの豊富な分析データを通して解明しょ に、アンズジャムを薄く塗って粉砂糖をかけ適用したものである。場の量子論は素粒子論お うとした主著『言語史原理』 ( 一会 0 ) は、一九 お ( ) とする。ここであ、もはそれそれの る。好みに切り分けて食べるが、しっとりとし よび物性理論で適用される、現在ではもっとも た滑らかさを好むときには、ホイッブドクリー 高度の理論であって、素粒子の発生・消滅など粒子の座標とする。あとあとが等しいときにも世紀の、「例外の生じない限り言語は法則的に ムを添える。 〈小林文子〉をみごとに記述するものであるが、その成功状態関数がゼロでないとすれば二粒子は同じ量変化する」とする一一 = ロ語史研究法を集大成したも しよと , っ Paumotu . A ・ も、またこの理論に特有の困難も、すべてハイ子的状態をとっていることとなってパウリの原のとして有名である。彼の理論の特色は、①現 バウモッ諸島 代語の研究を基礎として過去の言語発達を追究 しいかえれば、を chipelago 南太平洋、フランス領ポリネシアゼンベルクとパウリの初めの定式にすでに現れ理に反する。 する、②個人の心のなかでの作用を重視し、言 中部にあるツアモッ諸島の別名。↓ツアモッ諸ている。 語発達における類推、混同などの現象を積極的 島 また、一九二〇年代の終わりごろ、原子核の に取り上げ、心理学的に解明しようとする、な 日崩壊でエネルギーが保存しないといわれ大 / ウラ Howrah インド東部、西べンガル どの点である。しかし「言語学は言語史の研究 州中部の都市。フーグリ川の右岸、カルカッタ きな問題となったが、パウリは三一年に、スピ である」と考えるため、言語の体系そのものヘ の二つの項に分けたとき前の項がゼロとなる。 ン二分の一、質量ゼロ、荷電ゼロの粒子 ( ニュ の西に位置する。人口七四万四四二九 ( 一九ハ I) 。 一八七二年プラウネ Wilhelm ートリノ ) が存在するとすれば困難は解決されしたがって状態関数は座標の交換に対して符の関心は弱、。 行政的には独立の都市であるが、実質的にはカ Braune ( 一会 0 ー一九一一六 ) とともに学術雑誌『ド 号を変える、すなわち反対称でなければならな ルカッタとともに発達してきた西郊衛星都市でることを提唱した。これが日崩壊の理論、ひい 一般にフェルミ粒子の系の状態関数は、任ィッ語史・文学史論究』を創刊したのをはじ ある。カルカッタとはハウラ橋で結ばれ、またては現在のような素粒子論の発展する道を開い 中心のハウラ駅はデリー、ポンべイ、マドラスた。ニュートリノの存在の直接的な実験的証明意の二組みの粒子のスピンや座標などの力学変め、ドイツ語、ゲルマン語に関する研究も多くあ などインド各地に至る一大ターミナルとなってはすっとのちになって与えられた。 数の交換に対して反対称になっている。この条るが、なかでも『ドイツ語辞典』『ドイツ語文 パウリは、自然法則、物理学の理論における件はフェルミ粒子の系の状態に強い制限を課す法』『中高ドイツ語文法』はドイツ語学におけ いる。鉄道関連の工業のほかジュート・ 綿工 〈田中一〉る必読の名著といえるものである。〈在間進〉 業、機械・化学工業なども発達し、市の南西に 対称と不変性の重要さを強調し、とくに相対性結果となる。 は植物園と工科大学がある。 〈北川建次〉理論の要求を満たす場の量子論の一般的性質を バウル Ferdinand Christian Baur ( 一七回福本喜之助訳『言語史原理』上下 ( 講談社学 術文庫 ) ー天六 0 ) ドイツのプロテスタントの神学者、 ウリ WoIfgang PauIi ( 一九 00 ー五 0 ス明らかにした。すなわち、ローレンツ変換に対九一一 ヾウルス JuIius PauIus 二世紀終わりか イスの理論物理学者。ウィーンに生まれ、ハンする不変性から、空間軸の反転、時間軸の反転教会史家で、チュービンゲン学派の代表者の一 ら三世紀初めのローマの法学者。生没年不詳。 プルク大学教授ののち、一九二八年から死ぬまおよび粒子ー反粒子変換の三つを同時に行った人。六月二一日、シュトウットガルト近郊のシ ウルピアヌスとともにカラカラ帝の顧問会の一 でチューリヒ工科大学の教授であった。そのとき、場の量子論が不変であることの証明に寄ュミーデンに牧師の子として生まれる。チュー このえ ビンゲン大学の神学寮に学び、プラウポイレン員となり、最高の官職である近衛都督 praefec ・ 間、しばしばアメリカに行き、プリンストン高与し、また、スピンが半整数の粒子はフェル 神学校教授となり、・・シュトラウスらを tus praetcerio として活躍し、古典法学の最 級研究所の客員教授などであった。二〇歳で相 ミーデイラックの統計に、整数の粒子はポー 八一一六年チュービンゲン大学神学部後を飾った。精緻な理論を展開した古典盛期の 対性理論の教科書を著し、これは、その後書かスーアインシュタインの統計に従うことを証明教えた。一 法学者たちの学説を集大成し、『解答録』や s ・ れた量子力学の本とともに、現在でも優れた教した。これらの定理は、弱い相互作用における教授となり、教会史と教理史を担当した。ヘー 科書として読まれている。 バリティの非保存および時間反転について非対ゲルの歴史哲学に倣って、ます原始キリスト教、をき、『質疑録』 Q ミ esti 。ミ s 、『法学提要』守・ 量子力学が建設されたころ、パウリの原理称な現象がみつかった際、その理論化に重要な史を弁証法的に解釈した。すなわち、ペテロの 3 、ミミ s 、『サビーヌス注解』 Ad ミミ、 『告示注解』 Ad Ed ミ ~ 、ミ、『法範』 Reg ミミな ユダヤ人キリスト教的律法教会に対抗して、パ 役割を果たした。一九四五年にノーベル物理学 ( 排他律 ) を導入して、電子が単なる質点でな 賞を受けた。↓パウリの原理 〈町田茂〉ウロの異邦人キリスト教的な霊 ( 精神 ) の教会ど八〇を超える著作を残している。彼の手法は どちらかと言えば批判的傾向が強いといわれ のげんり PauIi's prin ・ が生まれ、二、三世紀の古代カトリック教会が ハウリの原理 ciple 二個以上の電子や陽子は同じ状態を同この二傾向の弁証法的総合として形成されたとる。彼のものとされる『断案録』ミ e 時にとることができないとする原理で、禁制原 いう。『新約聖書』の諸文書も、この二傾向のは数種伝えられ、法の卑俗化研究の重要な史料 〈佐藤篤士〉 いずれかに属すると判定される。この「傾向批となっている。 理、排他原理または排他律ともいう。ここでい う状態とは、原子、分子、原子核やこれらを構評」を方法とする一群の人たちを「青年チュー バウルス Friedrich von Paulus ( 天九 0 ー一九五七 ) ドイツの軍人。一九一〇年ドイツ陸 成する粒子のとる量子的状態のことである。量ビンゲン学派」とよぶ。彼はグノーシス主義を 子的状態を表すには、一組みの整数あるいは半も積極的に評価し、『キリスト教教理史』 ( 天軍入りして以来、ナチ時代に至るまで一貫して 四七 ) では、全体を正・反・合の弁証法的図式で軍職にあった。四二年一月東部戦線第六軍司令 5 整数 ( 整数プラス ) を用いることが多い。パ を ~ パウリ 1 2 ミュー

4. 日本大百科全書 18

のいば 台湾に自生する。川沿いや湿地に多いが、耐暑以来の城郭都市で、第二次世界大戦により中世授となり、終生ここにとどまった。ベルリン・ アカデミー会員となり、『数学年報』ミき・ 性、耐寒性が強く、乾燥にも強いので、至る所の建築物は破壊されたが戦後復旧し、高さ七・ e ムミミミ e ミの編集を担当した。 五の高い城壁で二重に防備された都市構造が に生える。 科学的業績ではポテンシャル論を完成したこ 落葉低木で、枝は直立または半直立である残っている。 ノイプランデン・フルク県は旧メクレンプル とで知られる。また父フランツと・ウェーバ が、他物に寄りかかり、よじ登る習性がある。 かぎ ク、プランデンプルク両州にまたがり、一市一 ーとがニュートンの遠隔作用力に基づいて発展 刺はやや鉤形でひっかかる。まれに刺のないも 八六三年には論文 させた電気力学を継承し、一 のもある。葉は羽状複葉で、五 ~ 九枚の小葉よ四郡からなる。面積一万〇九四八平方キ。、人口 「光の偏光面の磁気回転」で、ファラデー効果 六一万九七〇〇 ( 一九会 ) 。人口密度は一平方キロ りなり、先頭の小葉はかならすやや大きい。月 だえん の理論的説明を行った。八一年から八七年ま 葉の形は倒卵状長楕円形で先は急にとがり、長当り五七人と東ドイツ最低である。ライ麦とジ きよし くで、父ノイマンの『数理物理学講義』全五巻の さ一・五 ~ 五、鋸歯ははっきりしている。托ャガイモが栽培される農業地帯で、住民の多 よう は人口二〇〇〇以下の村に住む。〈佐々木博〉編集に携わった。↓ポテンシャル論〈河村豊〉 葉は葉柄に合着して耳角があり、縁片に腺毛が ノイマン Stanislav Kostka Neumann あり支裂や分裂が激しいものがある。葉面は半ノイマン J0hann Balthasar Neumann ( 天七五ー一九四七 ) チェコスロパキアの詩人。プラ ( 一六 0 ー一七五三 ) ドイツの建築家。ポヘミアのエ 光沢から無光沢であるが、北海道、東北地方の ハの良家に生まれたが早く父を失い、一一〇歳前 ーゲルに生まれる。軍事土木技術家として活躍 日本海側には光沢のあるものがある。下面と葉 じゅうもう ~ 一・五したのち、ウュルップルクの領主司教シェーンから社会主義労働運動に参加。当初のアナキス 軸には絨毛がある。小花柄は長さ一 カく ト的立場からしだいに共産党のプロレタリア芸 花序の軸、花柄、小花柄、萼に軟毛、絨ポルンの宮廷建築家となる。独自の動的で華麗 えんすい 毛、腺毛がある。花は五 ~ 六月、円錐花序に多な空間を創造したドイツ後期バロックの代表的術運動に移り、第二次世界大戦中の地下党活動 数つく。白色で、花径二 ~ 三、花弁は五枚、建築家であると同時に、後年には優美なロココを経て、解放後は党文化面での代表的存在とな った。代表的詩集は『森と水と山中の書』 ( 一九 凹頭の倒卵形である。雄しべは多数、葯は黄趣味をも示した。世俗建築では、ウュルップル ~ アグ屋でラ手ビ ニン陸窓ト左 色、花柱は有毛である。果実は球形で径〇・七ク宮中央広間の大階段 ( 一七 = 0 着工 ) がティエボ一四 ) 、『新しき歌』 ( 一九一 0 、『赤い歌』 ( 一九一一一 l) 、 スイは 〈飯島周〉 一拜一、秋に赤く熟す。染色体数は 2 ミⅡ 14 ロの天井画とともにとくに名高い。そのほかプ『愛』 ( 一九三三 ) など。 オプ」ラノっ面 邸フスのガ , 一正ム で、野生種には倍数体はないようである。古生ルックザール宮 ( 一七三一 ) の大階段やプリュールノイマン Robert Neumann ( 天九七ー一九 ンリム莫なたの あかし ラマカ一きれ作でル 物としては兵庫県明石から三木茂が一九三六年宮の大広間 ( 一七四三 ) など。教会建築ではフィア七五 ) オーストリア生まれのユダヤ系小説家。 大さ表関 イウ年称と成代玄グ 一九三四年イギリスに亡命、三八年市民権取 ( 昭和一一 ) 九月に発表した標本があり、新ツェーンハイリゲン聖堂 ( 一七四三 ) が代表作。ウュ ノカ 通根構のがン ルツ。フルクで没。 3 ドイツ美術〈篠塚二三男〉得。デビュー作『他人の筆を借りて』 ( 一九一一七 ) 世のものとされている。ノイバラには刺がある ヾー Friederike CaroIine Neuber は、著名作家を痛烈に風刺した文学的パロディ 植物という意味を含めて、シロイバラ、アガリノイマン Franz Ernst Neumann ( 一七 ノイ / ー集。しかし彼の本領は時代批判にあり、長編 ー天九五 ) ドイツの物理学者。鉱物学者ワイス ( 一六九七ー一七六 0 ) ドイツの女優。旧姓ワイセンポグイ、アオグイ、グイ、カタラ、シロイチ、コ Christian Samuel Weiss ( 一天 0 ー一会六 ) に影『ノアの洪水』 ( 一九一一九 ) 、『ビビアーナ・サンティ ヾハに生まれる。 モチイバラ、サンヤニンドウ、シロバラ、ニン ルン。弁護士を父にライへンノ 八三一年、固体ス』 ( 一九五 0 、部分的には一九四四 ) 、『犯罪事実』 ( 一九 一九歳のとき書記ヨハン・ノイバーと駆け落ちドウイバラ、オンナイバラ、ヨメグイなど別称響を受けて自然科学を学ぶ。一 比熱に関するノイマンーコップの法則を定式六五 ) は、それそれナチズム、抵抗運動、過去の が多い。このグイとは刺のことである。↓いば して旅回り一座を転々とした。一七二七年ライ ら↓ノバラ 〈鈴木省三〉 化。ついで光の媒質 ( エーテル ) が弾性変化す罪過などアクチュアルな問題と真正面から対決 ブツイヒで一座を結成、ノイベリン ( ノイバー 〈丸山匠〉 〔薬用〕なかば赤くなった末熟果実 ( 偽果 ) のることを仮定して結晶体内での複屈折現象を説している。 夫人一座 ) の名で人気を博した。ここでゴット えいじっしようびし シェットの支援を得て演劇革新に乗り出し、フ乾燥したものを漢方では営実、薔薇子と称する明した。非結晶質中の人工的な複屈折現象の開ノイマン Franz Neumann ( 一九 00 ー五四 ) しやげ アメリカの政治学者。ポーランド南部カトビー ランス古典劇の上演、道化役の廃止などを試み ( 局方名ではエイジッ ) 。日本では瀉下、利尿剤拓的な研究もした。さらに電磁気学研究では、 ふしゅ として便秘、浮腫の治療に用いているが、中国レンツの法則をもとに数学的理論の展開を試ツェでユダヤ系ドイツ人職人の子に生まれる。 たが、のちに劇団経営の立場からゴットシェッ ライブツイヒ大学などで学び、一九二七年より トの理念と対立、ロシア客演後の四一年には彼では利尿、解熱、解毒剤として浮腫、小便不み、四五年ノイマンの法則を定式化した。 科学の重要性が十分認められていなかった当ベルリンの労働問題担当弁護士となり、その後 利、腫れ物などの治療に用いる。テリハノイバ を風刺する作品を上演して支持を失った。以 時のドイツに、数理物理学の手法をフランスか ドイツ社会民主党法律顧問。三三年五月ナチス 一フ R. c ぎきき Crep. の偽果も同様に用い 後、無名のレッシングの戯曲の初演を手がけた はくだっ ーととも政府によってドイツ国籍を剥奪され、ロンドン ら移入してその育成に努め、ウェーバ りしたが振るわず、五三年に一座を解散、不遇る。なお、中国では偽果以外に花、葉、枝、根 に亡命。三六年ロンドン大学でラスキの下で政 〈長沢元夫〉 に、ドイツの電気力学学派の創始者の一人とな 〈大島勉〉も薬用とする。 のうちにベルリンで没した。 った。↓ノイマンーコップの法則〈高橋智子〉 治学の学位を取得後、同年アメリカに移り、市 ノイハラバラ科バラ属。召のノバラとノイプランデンプルク Neubranden ・ 民権取得。社会調査研究所でまとめた『ビヒモ burg 東ドイツ北東部、ノイプランデン・フル ノイマン Carl Gottfried Neumann ( 一八 同意義であるが、とくに RO 召きミ、ミ 0 き Thu ・ スーーナチズムの構造と実際』 ( 一九四一 I) はファ ー一九一一五 ) ドイツの数学者、物理学者。ケー ク県の県都。トレンゼ湖の北端、トレンゼ川の nb. 、 R. 、 000 ミ Sieb. et Zucc. 、 R. ぎ、 e ) ニヒスペルク生まれ。父は著名な物理学者・ シズムの優れた研究書として国際的な評価を得 ミ & Carr. 、 R. c ぎ、ミ Koch. 、 R. きミ流出口付近に位置する。人口八万四〇一七 ( 一九 ・ノイマン。一八五五年に博士号を取得、五る。アメリカ政府のドイツ問題顧問を経て、五 会 ) 。住民のほとんどはプロテスタント。グラ ミ 0 ミ Thunb. var. き一き Fr. et Sav. 、 R. きド 八年ハレ大学の私講師、バーゼル、チュービン〇年からコロンビア大学公法・政治学教授のか イスワルト大学農学教室がある。機械、木材、 ミ 0 き Thunb. var. 斗ミ、 0 き Fr. et Sav. ソーセージ缶詰の各工業が発達している。中世ゲンの大学を経て、六八年ライブツイヒ大学教たわらベルリン自由大学創立に参画、西ドイツ をノイバラと通称している。日本、朝鮮半島、 曇 2 す セン 0 せんもう たく 328

5. 日本大百科全書 18

ばうまい ー一九六 0 ) オー シリーズを発表。一一〇年代は機械およびスポー 『ゾアーナの異教徒』 ( 一九一 0 には、この作者独 / ウム Vicki Baum ( 一分 / ツをモチーフとし、しだいに抽象画に接近、三 ストリアの女流作家。ウィーン生まれ。ハープ 5 自の宗教観やエロス観が現れる。一二年にノー ベル文学賞を受賞、しだいに大作家の風貌を帯六年以降構成的な抽象に移行する。ナチスによ奏者だったがのちに小説を書き始め、一九二九 び、古典的な韻文作品を書くようになる。『冬り制作を禁止されたが、四六年シュトウットガ年、長編小説『グランド・ホテル』が大ベスト ルト美術学校教授に迎えられ、第二次世界大戦セラーになった。これは豪華ホテルの宿泊客た 物語』 ( 一九一七 ) 、スペインの南米征服をテーマに した『インディポーデイ』 ( 一九一一一 I) 、『白き救世後のドイツ美術復興に大きな足跡を残した。四ちの人生模様を巧みな筋立てと感傷とユーモア 主』 ( 一九一一 0 ) 、叙事詩『ティル・オイレンシュピ五年以後の制作にはシュルレアリスムの要素がで描いたもので、日本でも第二次世界大戦前 まきいつま ふぼう 認められる。版画の制作も多い 〈野村太郎〉牧逸馬 ( 林不忘 ) により翻訳された。次の長編 ーゲル』などである。しかし第一次世界大戦後 小説『乙女の湖』 ( 一九三一 l) はフランスで映画化 の世相を背景にした『ヘル・ヘルト・エンゲルマ / ウマン Hans Baumann ( 一九一四ー ドイツの児童文学作家。第二次世界大戦中に新され、バウムの名を世界的にした。〈榊原晃三〉 ン』 ( 一九一一六 ) や、老いらくの恋を扱う『日没前』 ( 一九三一 D では、写実的、心理的な作風に戻って進詩人として知られたが、戦後、児童文学の畑回植田敏郎訳『乙女の湖』 ( 一九五七・東京創元社 ) に転じ、西ドイツの代表的作家の一人となっ いる。告白小説『情熱の書』 ( 一九三 0 ) は、二人 / ウムカルテン Alexander G0ttlieb た。ノンフィクション、冒険小説、歴史小説、 Baumgarten ( 一七一四ー六一 D ドイツのウォルフ カール・ハウブトマン CarI Hauptmann ( 天 の女性に挟まれて悩む男性という彼好みのテー ー一九一一一 ) も作家。プレスラウ ( プロッワフ ) マの個人的体験を裏づける ( 一八八五年、豪商幼年童話、世界の童謡の収集と翻訳、人形劇の学派の哲学者、美学者。ベルリンで生まれ、 の美術学校やイエナ大学に学び、イタリアを旅の娘マリーと結婚、マルガレーテとの恋愛事件脚本など、その活動の範囲はほとんどあらゆるレで勉強し、一七四〇年以降死ぬまでフランク ジャンルにわたる。ノンフィクション『大昔フルト大学の教授であった。実践哲学と理論哲 したのち・ヘルリン郊外に住み、自然主義文学運は夫婦間の危機をもたらし、一九〇四年マリ かりゅうど 動に参加、一八八九年、プラームの自由劇場でと離婚、マルガレーテと正式に結婚した ) 。政の狩人の洞穴』 ( 一九五三 ) 、歴史小説『コロンプス学に先だって認識学をたて、その認識学を感性 的認識論としての美学と悟性的認識論としての 初演された『日の出前』によって一躍自然主義権を獲得したナチスに老大家として利用されたのむすこ』 ( 一九五一 ) 、『草原の子ら』 ( 一九五四 ) 、『ハ ンニバルの象つかい』 ( 一九六 0 ) などが代表作と論理学に分けた。彼は美学を低次の認識学とし の代表的作家となった。環境や遺伝の要因を重彼は、ドイツの破滅を身をもって体験すること いえよ , っ 〈関楠生〉たにもかかわらず、感性的認識の独自な構造を 視し、退廃したプルジョア家庭を描く『平和 になる。第二次大戦中に執筆された大作『アト 祭』 ( 天九 0 ) 、因襲を逃れられぬ知識人を描いた レウス四部作』 ( 一九四一 ~ 哭 ) は、ギリシア世界回沢柳大五郎訳『大昔の狩人の洞穴』 ( 一九五五・ 示して、感性的現象を悟性的な根拠へさかのば 『寂しき人々』 ( 大九一 ) 、芸術家を扱う喜劇『同 に託してドイツの破局と、ヒューマンな世界の 岩波書店 ) ▽大塚勇三訳『ハンニバルの象ることを否定した。この点で哲学体系のなかに つかい』 ( 一九六六・岩波書店 ) 美学を位置づける重要な業績を残した。彼の 僚クランプトン』 (l<*ll) などを次々と発表し崩壊が描かれている。戦後の鎮魂曲である一幕 おり - 一 けいじじよう やみ 『形而上学』 ( 一七三九 ) を中心とする著作は、カン たが、『織工』 ( 天九一 D は、悲惨な貧民の暴動を劇『闇』を残し、ソ連軍占領下のアグネーテン ウマン Hermann Baumann ( 一九三四ー ) 西ドイツのホルン奏者。生地ハンプルク ドルフで、一九四六年六月六日に没した。 トをはじめとしたドイツの思想界で大きな影響 同情をもって描いた最初の社会環境劇である〕 〈佐藤和夫〉 ーの外 あらゆるジャンルにおいて、さまざまな様式の音楽大学で学び、ドルトムント市立管弦楽団力をもった。 初演のころは不評だった喜劇『ビー とう 套』 ( 天九三、続編『放火』 ) は現代でも生命をの多くの作品を残したハウブトマンは、初期にを経てシュトウットガルト放送交響楽団の首席 / ウムカルトナー Bernhard Paumgart ・ ner ( 一会七ー一九七 l) オーストリアの指揮者、 保っている。『ハンネレの昇天』 ( 天九三 ) は、自 は自然科学的な決定論、のちには宿命的な運命奏者となる。一九六四年ミュンヘン国際音楽コ ンクール第一位。六九年フォルクバンク国立音 モーツアルト研究家。生地ウィーンでワルター 然主義とは違った象徴的、ロマン的要素が先取論に傾くようになったが、結局は運命に滅ばさ に指揮を学ぶ。一九一七 ~ 三八年と、四五 ~ 五 りされているが、メルヘン的な『沈鐘』 ( 天九六 ) れてゆく人間の苦悩を同情をもって描いた詩人楽演劇大学教授となり、独奏・室内楽活動に転 以後は、『そしてピッ。ハは踊る』 ( 一九 0 六 ) など一 じ、同年 ( 昭和四四 ) ミュンヘン であり、したがって社会批判には限界があっ ・バッハ管弦九年ザルツ。フルクのモーツアルテウム音楽院院 連の象徴的作品が書かれている。『沈鐘』を境た。戯曲で演目に残っているのは、リアルな環楽団と初来日、七四年には独奏者として来日し長。その間、一三年以来モーツアルテウム管弦 に作風が一変したわけではない。『沈鐘』と同境描写において技巧的に完成度の高い作品であた。とくに演奏至難なナチュラル・ホルンで楽団指揮者を兼任。五八年 ( 昭和三三 ) には単 る。↓織工↓沈鐘↓日の出前↓踏切番ティ じころ、自然主義的な『運送屋へンシェル』 は、他の追随を許さぬ第一人者。〈岩井宏之〉独来日し、交響楽団を指揮してモーツア レ 〈岩淵達治〉 ルトを演奏、ワルター譲りの悠然たる表現を披 自然主義小説『踏切番ティール』 ( 一、 / ウム Lyman Frank Baum ( 天五六 と骨子は同じーーやドイツ史劇『フローリア回成瀬無極訳『寂しき人々』 ( 新潮文庫 ) ▽橋一九 ) アメリカの作家。ニューヨークに生まれ露した。モーツアルト関係の資料の収集と研究 ン・ガイアー』が書かれている。日本で好まれ に力を注ぎ、多くの著作を残した。〈岩井宏之〉 本忠夫訳『喜劇獺の外套』 ( 岩波文庫 ) ▽る。新聞記者、編集者、出版業、俳優、セール ドイトイ 小栗浩訳『ハンネレの昇天』 ( 一九五四・河出書 スマン、劇場支配人、プロデューサー、雑貨店 る象徴劇よりも、環境描写のなかに的確な時代 ハウムクーヘン Baumkuchen ツの伝統的菓子。「木の菓子」の意。シヒトト 相をとらえた写実的な作品、芸術家劇『ミヒア 房 ) ▽登張正實訳『ゾアーナの異教徒』 ( 一九主、劇作家などを経てのち、子供向けに書いた 『 44 ミ、 Goose 、き』 ( 天九七 ) 、『 F ミ、 e 、 エル・クラーマー』 ( 一九 00 ) 、嬰児殺しの『ロー 五四・河出書房 ) ▽横溝政八郎著『ゲルハル ルテ Schichttorte ( 層の菓子 ) またはバウム クーヘントルテ Baumkuchen Torte ともい ゼ・・ヘルント』 ( 一九 0 一 D 、ベルリンの悲喜劇『ね ト・ハウブトマン』 ( 一九七六・郁文堂 ) Goose, Bo 』 ( 天究 ) で好評を得、さら ずみ』 ( 一九一 I) などが、現在の評価は高い。 に『オズの魔法使い』で大成功した。ォズのシ う。昔ドイツで、野外でつくったといわれ、マ / ウマイスター Willi Baumeister ( 天 一九〇七年ギリシアに旅し、古代のなかに残兊ー一九五五 ) ドイツの画家。シュトウットガル リーズを一四冊 ( ほかに他人によるもの二六 ツの木を燃やして、その自然の香りを移しなが 酷で異教的な要素を発見したハウブトマンは、 トに生まれ、同地で死去。初めアドルフ・ヘル冊 ) 書いたほか、男性名と女性名両方の筆名をら焼いたともいわれている。切り口は木の年輪 ツェル ( 一会三 紀行文『ギリシアの春』 ( 一九 00 や戯曲『オデ ー一九三四 ) に学び、のちパリに滞在用いて三〇冊の子供向け創作があり、戯曲や詩状になっており、ドイツ最高の銘菓とされ、誕 ュソイスの弓』 ( 一九一四 ) を書いている。小説してル・コルビュジェおよびレジェと知り合い も多い。また大人向けの作品も数多い 。↓ォズ生日などに長寿を祝う菓子としても使われてい の魔法使い 『キリスト狂エマヌエル・クイント』 ( 一九一 0 ) やその影響を受ける。一九一九 ~ 二二年「壁画」 〈松野正子〉る。日本には第一次世界大戦のとき、捕虜とな ハウブトマン が

6. 日本大百科全書 18

めた現実観はこの時代に培われた。 ( 一会四 ) 、『メモワール』 ( 一会四 ) などの晩年の重 ネ』 ( 一九六五・筑摩書房 ) ▽『ハイネ研究 静養する。そこでパリの七月革命の報を聞き、 年報』 ( 一九七七 ~ ハイネ研究図書刊行会 ) 〔ドイツでの半生〕一八一五年、商人を志してそれが彼に新たな力を与えた。翌年、政府批判要作品を相次いで完成。ここには、苦悩、神、 えんせい 修業するが適性に欠け、断念する。一九年、富 厭世などの、病が呼び出す領域とは別に、苦痛 の結果、逮捕の危険を感じ、祖国を離れ、 ハイネズ〔這杜松〕トミき s き、ミ、 かいぎやく Parl. ヒノキ科の常緑低木。砂浜に生え、茎 豪の叔父の援助でポン大学へ進学し法律を学に移住する。 を諧謔に包み、病を近づけぬたくましさで、 ぶ。ポン、ゲッティンゲン、・ヘルリンの各大学〔パリ亡命時代〕。ハリでは、先に亡命していて新たな境地を開拓するハイネの姿がある。詩人は砂上をはい、四方に広がる。幹は灰黒色、枝 ちみつ に在籍し、文学、哲学にも関心を向け、 < ・ 祖国解放の健筆を振るっていたルートウイヒ・ は淡褐色をなす。葉は三枚輪生して枝に緻密に の愛の最後の灯火が、数か月を病床に寄り添う ・シュレーゲル、ヘーゲルらの講義を聞く。 ベルネや、フランス・ロマン派の詩人たちと親カミラ・セルダンのうえにともった。ハイネは つき、針形で手に触れると痛い。雌雄異株。四 ようえき はえ ベルリン時代 ( 一全一 ~ 五月、開花する。雄花は短枝上の葉腋につき、 ~ 一一三 ) 、著名な文学者のサ交を結ぶ。サン・シモン主義に共鳴、自由奔放彼女をムーシュ ( 蠅 ) とよんで愛んだ。魂の究極 だえん ロンに出入りし、ホフマン、グラッペなど新進 楕円形で黄褐色、葯から黄色の花粉を出す。雌 な生活を始める。ペンの仕事も精力的で、『フ に芽生えた愛を、最後の傑作『受難の花』 ( 天 の作家たちとも交流し、文学的発展が始まる。 ランスの状態』 ( 天三三 ) 、『ロマン派』 ( 天三四 ) 、 五六 ) に託して、一八五六年二月一七日、ハイネ花は楕円形で緑色、厚質の三心皮からなり、お ひつぎ 叔父の娘姉妹への青春の愛と失意の涙が、『詩『ドイツの宗教と哲学の歴史』 ( 一盒四 ) 、『ルテー は世を去った。葬儀は内輪で行われ、柩はバリ のおの内側に胚珠が二個ある。果実は球形、液 集』 ( 一全 I) 、『悲劇付叙情挿曲』 ( 天一一三 ) の珠玉ツィア』 ( 一会四 ) など、ドイツ・フランス文化のモンマルトルに葬られた。 果状で、翌年の九 ~ 一〇月に紫黒色に熟し、や 〔愛と革命の民衆詩人〕せっせっと愛を歌い や白い粉を吹く。海岸砂地に生え、北海道から の詩編に結晶する。二四年秋、ワイマールにゲの橋渡しを担う秀逸な論文や評論を発表する。 からふと しゅんれつ ーテを訪ねたが冷遇されて反発したこともあ体制維持の反動政策に引きずり込まれる祖国を峻烈に革命を叫び、果敢に体制を糾弾、かた九州、および樺太 ( サハリン ) に分布する。海 岸砂防用に使い、庭木ともする。〈林弥栄〉 る。二五年、ゲッティンゲン大学で法律の学位思い、仮借なく振るう彼の反逆の筆は、ドイツわら年金を受給、ユダヤ人に生まれ、キリスト を取得。卒業直前、「ヨーロッパ文化への入場当局の激怒を買い 一八三五年、ハイネは「青教に改宗するなど、矛盾多き生涯を送ったハイ / ィネマン Gustav Heinemann ( 天九九 ー一九七六 ) 西ドイツの政治家。シュウエルム生 券」を得るためキリスト教 ( 新教 ) に改宗す年ドイツ派」の代表作家として、その全著作がネは、その多面性ゆえに位置づけも多様で、と る。しかしこの切符はハイネには無益だった。 発禁処分となった。経済的痛手もあって、彼は くにヒトラー時代には完全に抹殺された。近まれ。弁護士出身で元鉱山支配人。一九四五年 弁護士開業という生活設計の夢は破れたが、 フランス政府から年金を受給、この事実がのち年、一九世紀最大の革命的民衆詩人の評価が定 『旅の絵』第一巻、第二巻 ( 一全六、一一七 ) 、詩集 まる。ェッセイスト、評論家としても優れ、辛 に発覚し、体制迎合のとがめを受ける。 『歌の本』 ( 一全七 ) を発表、名声を高める。 同じころ、彼が「マチルデ」とよんだ若いフ辣で風刺に富むさえた筆は、ドイツ語に新しい ハイネの叙情詩の特徴は、俗謡と芸術性の比ランス娘への愛におばれる。一八四一年、昔の生命を与えた。 びん おうし 類のない調和にある。素朴な民謡風のリズム友ベルネを『ルートウイヒ・ベルネ覚え書』 明治以来森鵐外、上田敏などによって訳さ ひばう に、音感に富む平易なことばが融合し、形象を ( 天四 0 ) で誹謗、死者にむち打っ結果となり、れ、ハイネは日本でもっとも愛読されてきた外 明確に造形する。そこに生ずる豊かな音楽性ベルネの信奉者と決闘に及び、双方無事であつ国詩人の一人である。ハイネ自身の複雑さをそ は、多くの作曲家の心をとらえ、ドイツ歌曲のたが、ハイネは万一を思って事前にマチルデとのままに、「涙の叙情詩人」「革命詩人」「厭世 傑作の多くがハイネの詩によっている。しかし 結婚する。その夏、彼女とピレネー山中にいっ詩人」など、多様な受容がなされてきた。今日 キリスト教民主同盟に入党し四六 彼は叙情詩人の域にとどまらなかった。『歌のしょに過ごしたことが、機知と風刺の物語詩でも、ハイネはなお新鮮な驚きを内に秘めてい 本』には社会の矛盾をえぐる詩編がすでにみら ~ 四九年ェッセン市長、四七 ~ 四八年ノルトラ 『アッタ・トロル夏の夜の夢』 ( 天四七 ) 成立のる。時代が内蔵した矛盾をそのまま自らの矛盾 れ、『旅の絵』第二巻は、その教会、貴族批判契機となった。自由奔放な生活、多くの敵とのとして具現したハイネの全存在が、時代を超越イン・ウエストファーレン州法相を経たのち、 のために発禁となった。一八二〇年代後半は詩争いの連続が影響したのか、四〇歳ごろから身した現代性を備えているゆえんである。↓歌の四九年連邦議会議員に選出され、同年第一次ア 人ハイネ流離の時代であった。二七年、イギリ 体の変調を覚える。四三年、ハイネはひそかに本 〈小松博〉デナウアー内閣に内相として入閣した。五〇年 スに渡ったが、なじめずに帰国する。二八年、 一二年ぶりに祖国に帰る。その体験が、社会主回井上正蔵訳『ハイネ全詩集』全五巻 ( 一九七一一 ~ 西ドイツの再軍備に反対して内相を辞任し、五 ミュンヘンからイタリアへ旅する。一一九年、詩義革命を予一 = ロする壮大な物語詩『ドイツ・冬物 七三・角川書店 ) ▽同著『ハインリヒ・ 二年からも脱退した。五七年社会民主党 人プラーテン伯と論争し、『旅の絵』第三巻で語』 ( 天四四 ) として結実した。パ リに滞在した ネ』 ( 岩波新書 ) ▽舟木重信著『詩人ハイに入党し、「大連立」政権 ( 一九六六 ~ 同伯の私生活を暴露して世の非難を浴びる。三 マルクスとの交友も、ハイネの詩作に大 六九 ) の法相を務め、六九年第三代大統領に選出 〇年春喀血する。失意の身をへルゴラント島できく影響した。『ドイツ・冬物語』と同 された ( 一九七四年任期満了で辞任 ) 。大統領 時に、おもにパリ時代に制作した奔放な 時代、プラント東方外交を背後で支え、法相時 じようし 詩の集成『新詩集』 ( 一会四 ) も上梓する。 代にも徴兵忌避を権利として擁護するなど一貫 〈深谷満雄〉 一方、健康は年々悪化し、四八年、「し した平和主義者であった。 しんぎん 1 とねの墓穴」に呻吟する日々が始まる。 ハイネマン文芸出版で知られるイギリス 脊髄病の苦しみにハイネは打ちのめされ ノイネマン WiIliam Heine- の大手出版社。、 た。世間を厭い、神へ目を向けるように mann ( 一会三 ー一九一一 0) が一八九〇年に設立。同社か なったのもこのころである。しかし、こ ら作品を刊行した著名作家には、ロヾ きようじん リー・ジェームズ、 の極限状態を彼は強靱な精神力で克服 ・スティープンソン、ヘン し、よみがえって、『ロマンツェーロ』 ・・ウエルズ、キップリング、サマセッ ( 天五 I) 、『雑録』三巻 ( 一会四 ) 、『告白』 ト・モーム、コンラッドなどがいる。また、ド かつけっ ハイネ M. オッペンハイム画 ハンプルク美術館 せきずい らっ 7 しん はいしゅ 、ハイネマン 541

7. 日本大百科全書 18

ローマ皇帝 ( 在位二 0 六 ~ 一一五 ) 。 一一〇五年、聖ク家のアルプレヒト一世の死後、王弟シャルルぬ心がけを説く。ほかに恋の喜びを歌う二七編 ( 一九四 0 ・一一一 ~ 四一一・九、全七冊 ) と改題。四六年一 サンドル 〈高津春久〉 職叙任権闘争における反国王派の貴族と結んでを推すフランス王フィリップ四世に対抗し、ケの叙情詩がある。 二月復刊。その後 rCENDREJ ( 一九哭 父王ハインリヒ四世に反乱を起こし、翌年の父 ルン、トリールの大司教らの援助で国王に選ば ハインリヒ・フォン・モールンゲン全六冊 ) に改題。四九年一〇月『 VOU 』に再 ー一一一一三 ) 生。七八年六月、北園の死により一六〇号で廃 の死後正式に国王に選ばれた。だが彼もザリエれた。一三一〇年弟のヨハンをポヘミアの王位 Heinrich von Morungen ( 二五 0 こ 刊。抽象主義の理論と方法的実験の場として、 ル家伝統の王権強化政策を踏襲したため、ふた につけ、ルクセンプルク家が東方に勢力を伸ば中世ドイツの叙情詩人。マイセン辺境伯ディー たいかん たび国内諸侯と対立することになった。また父す端緒をつくった。同年、皇帝戴冠のためイタトリヒ四世に仕えた騎士。ミンネゼンガーのな詩、音楽、建築、工芸などの総合的芸術運動を 志向。前衛詩運動の代表誌として国際的評価を 王に背いてまで実現しようとした目標、すなわ リア遠征を行ったが、グエルフ派とギべリン派かでは最高の叙情的天分に恵まれた人といえ ひゅ ち聖職叙任権闘争を終結させることも、国王側、 との抗争に巻き込まれ、ナポリ王ロべールもハ る。生彩ある幻想的視覚、優れた比喩、神秘的得る。黒田三郎、木原孝一、高野喜久雄、白石 〈千葉宣一〉 教皇側がそれそれの主張を譲らなかったため、 インリヒに対抗して戴冠場所である聖ペテロ教な想像を駆使して高貴な女性へのあこがれを歌かすこらが参加した。 すうききよう ひしよう 幾度もの交渉にもかかわらずはかばかしい進展会を占拠したので、一二年ラテランで枢機卿の った。その飛翔するような恋愛感情は、中世詩の @Kitasono Katue and the VOU Group 】ミド seum 、ゝミ ( 198 RhOde lsland School をみせなかった。その間、一一一五年ベルフェ手から帝冠を受けた。、、 ノチリア王と結んでナポ制約を超えて永遠に新しい。また彼の音楽性豊 ちょうたく スホルツの戦いで諸イイし 矣則こ敗れ、また国王支持 of Design, Boston) リを討とうとしたが、途中マラリアにかかってかな押韻技法と詩形の彫琢は中世恋愛詩の可 の立場をとっていた聖界諸侯も王権から離反し急死した。 〈平城照介〉能性を極限まで拡大したといえる。〈高津春久〉 / ウアー Josef Matthias Hauer ( 天 ー一九五九 ) オーストリアの作曲家、音楽理論家。 始めたので、ハインリヒは聖職叙任権闘争終結 ウ Ea ミ Howe, Richard Howe ( 一七 ハインリヒ ( 獅子公 ) Heinrich der Löwe のための交渉を諸侯の手にゆだねた。その結果 ( 二一一九ころ ー九五 ) ウエルフ家のザクセン大公 ( 在一一六ー究 ) イギリスの海軍軍人。ィートン校で 一九一九年、十二音技法を「発見」して以来、 この技法に基づく数多くの作品、『ヘルダー 一一一三年ウォルムス協約が結ばれ、叙任権を位二三九 ~ 〈 0 ) 兼バイエルン大公 ( 在位二五六 ~ 学んだのち、一七三九年海軍に入り、四五年に 1 一うまん めぐる教権と俗権との紛争にいちおうの終止符〈 0 ) 。父ハインリヒ傲慢公もザクセン、バイエ尉官任官、七年戦争ではプロイセン側にたってン歌曲集』、ピアノ曲『ラビリントス舞曲』な ノエーンベルクが十二音技法を初 が打たれた。だがこの闘争期に聖・俗の諸侯は ルンの大公を兼ねたが、国王コンラート三世とキプロン湾 ( フランス西部 ) の戦い ( 一七五九 ) でどを残した。、、 それそれの領域的支配権を強化し、ドイツ国内対立して、両大公領を失った。ハインリヒ獅子功があった。その間五七年に下院議員に選出さめて用いるのは二三年であるが、両者の技法に の封建化の傾向は決定的に進んだ。〈平城照介〉 公は一一四二年、まずザクセン大公領の領有のれ、六〇年代には政治家として海軍行政にも参は大きな違いがある。ハウアーは徹底して音楽 の形式性を追究したのに対し、シェーンベルク ハインリヒ ( 六世 ) Heinrich VI ( 二六五みを認められた。その後国王フリードリヒ一世画した。七〇年に少将、ついで中将に昇進し、 ー九七 ) ホーエンシュタウフェン朝第三代のド と和解が成立、オストマルクを切り離すことを七六年から北アメリカ基地司令長官として、現は表現性、情緒性を重んじた。ハウアーの技法 ィッ国王・神聖ローマ皇帝 ( 在位二九 0 ~ 九七 ) 。 条件に、五六年バイエルンの大公位も承認され地のイギリス陸軍総司令官である弟のウィリアは、弟子以外に継承されなかったが、近年よう 父王フリードリヒ一世のイタリア政策の一環と た。ザクセンを中心に強力な領域的支配圏を樹ム・ハウ 5 Viscount Howe, William Howe やく再評価の気運が高まっている。 ^ 細川周平〉 して、一一八六年シチリア王女コンスタンツェ 立しようと努め、リューベックを再建してバル ( 一七一一九ー天一四 ) と協力して植民地軍との戦闘に ウアー Bruno Bauer ( 天 0 九ー と結婚。これがのちに重大な政治的結果を生むト海貿易の中心地としたほか、都市建設、司教従事した。七八年にいったん退役。八二年、海ィッの哲学者。ベルリン大学で神学と哲学を修 こととなる。フリードリヒの十字軍遠征の留守座新設を推進し、また対ウエンド人十字軍を組峡艦隊司令長官に任じられ大将に昇進、貴族にめたのち、同大学とポン大学で神学を講義。当 を預かり、国政をゆだねられたが、九〇年フリ 織して、エルべ川以東のドイツ植民運動の端緒叙せられ、同年秋包囲攻撃の続いていたジプラ 初正統ヘーゲル主義者としてシュトラウス批判 ードリヒの死によって正式に国王となった。コをつくった。その勢力拡大政策は国王フリード ルタルの救出に成功した。八三年から八八年まを行ったが、のちへーゲル左派に転じ、無神論 ンスタンツェの父ロジェール ( ルッジェーロ ) リヒ一世との対立をもたらし、国王のイタリアで海相としてピット内閣に参加したのち、フ一フ的立場から宗教批判を展開し、教授資格を奪わ 二世の死後、シチリアの王位を継いでいたその遠征中、獅子公が援軍の要請を拒絶したことでンス革命期に再度海峡艦隊司令長官となり活れた。とくに、福音は宗教的自意識の産物ない ^ 青木康〉 弟ウイレム二世が、八九年子供を残さずに死ん両者の関係は決定的に悪化した。、、 し文学作品と説いて注目される。一八七七年の サクセン貴族躍。九六年元帥。 だので、ハインリヒの妻コンスタンツェに相続層の訴えによる国王の法廷召喚に応じなかった ウ Elias Howe ( 天一九ー六七 ) 裁縫用ミ 『キリストとローマ皇帝』はマルクス主義思想 権が生まれたが、 シチリア人はウイレムのいと ため反逆罪に問われ、八〇年、ゲルンハウゼン シンの発明者。アメリカ東部の農家に生まれやニーチェの宗教観に大きな影響を与えた。啓 も、つ こタンクレードを国王に選び、さしあたりハイの帝国会議で、諸侯から帝国追放と全所領没収る。生まれながらに足に障害があったが、機械蒙思想やフランス革命やドイツの市民革命に関 ンリヒ側の主張は通らなかったが、九四年タン の判決を下された。 〈平城照介〉好きで明るい性格であった。今日のミシンの縫する歴史書も著す。政治的には三月革命後『ク クレードの死を機会に、シチリア征服を敢行、 ロイツ・ツアイトウング』紙に協力するなど保 ハインリヒ・フォン・フェルデケ合原理による裁縫機械を開発し、一八四六年特 パレルモでシチリアの王位についた。その成果 Heinrich von VeIdeke ( 二四 0 こ 〈末川清〉 ー一二 0 以許をとり、イギリスのコルセット会社にわずか守派に接近した。 ー一九三 0 オ にたって、ドイツとシチリアを一体とした世襲前 ) 中世ドイツの詩人。オランダのリン。フル 一一五〇で権利を売却。アメリカで彼の考案を ウアー Ott0 Bauer ( 天 帝国の樹立を企てたが、ローマ教皇やドイツ諸フ出身の騎士。低地ドイツ語を用いた異色の作骨格としたミシンがシンガーらによって製造さ ーストリア社会民主労働者党の政治家。ユダヤ ざせつ 侯の反対にあって挫折した。十字軍従軍の準備品によって、ドイツ中世宮廷文学の黄金期を開れ、特許侵害で争って勝訴し、六七年までアメ人繊維工場主の子としてウィーンに生まれる。 中、メッシーナでマラリアのため急死。このた いた最初の大詩人。彼の叙事詩の代表作は一一 リカ国内で製造されるすべての裁縫用ミシンか ウィーン大学に学んだのち、一九〇七年以来、 め、ホーエンシュタウフェン朝の権力は崩壊の 八九年に完成した韻文の物語『エネイーデ』でら特許料を得た。 〈篠原昭〉同党の『労働者新聞』、理論誌『闘争』の編集 危機にさらされることになる。 〈平城照介〉ある。北フランスでつくられた『エネアス物 VOU バウ詩誌。一九三五年 ( 昭和一〇 ) 者となり、オーストリア・マルクス主義の理論 きたそのかっえ あハインリヒ ( 七世 ) Heinrich VII ( 一一一 語』 ( 一一五 0 ~ 五五 ? ) に素材をとり、古代英雄の七月、北園克衛が岩本修蔵らと結成した VOU 家、とくに民族問題の分析で知られた。第一次 —llllllll) ルクセン・フルク家のドイツ国王・ 世界を中世騎士の生活に移した。恋の情熱にと クラ。フの機関誌。四〇年一〇月まで三〇号を刊世界大戦でロシア軍の捕虜となり、帰国後、同 神聖ローマ皇帝 ( 在位一三只 ~ 一三 ) 。ハプス。フル ホリシェビ・スムに らわれながらも、なお騎士としての節度を失わ行。国粋主義的時代思潮の影響で『新技術』党左派の指導者となったが、・、 561

8. 日本大百科全書 18

おいらん 大正に入ると、大阪難波遊廓廃止、吉原花魁 はいしよううんどう婦人の人権擁 ク、三七年払いとしたが、これは当時のドイツ賠償計画案」や四六年一一月の「ポーレー最終廃娼運動 とびた 道中反対、大阪飛田遊廓設置反対などの運動を の支払能力をはるかに超えるものであった。翌報告」で示されたが、日本の生産力を三一年護の立場からの、公娼制度廃止、公娼の救済・ 一三年末には早くもドイツは支払いができなく ( 昭和六 ) の水準に切り下げ、一〇〇〇工場を更生を目ざす社会運動。わが国の公娼制度 ( 売展開した。一九二三年 ( 大正一 (l) の関東大震 なり、履行を求めるフランス、ベルギーは二一一一賠償工場として撤去するというものであった。春の公認、集娼、地域制限 ) は、江戸時代初期災で吉原の娼妓多数が焼死したことを機に運動 くぶしろおちみ よしわらゆうかく の江戸吉原遊廓の開設許可によって本格的に始は燃え広がり、直後に久布白落実らが全国公娼 年一月にルール地区を占領した。しかし、このしかし、米ソの対立が表面化するにつれて、ア まった。明治政府は一八七二年 ( 明治五 ) のマ廃止期成同盟会を結成、一一六年には廓清会と矯 強行政策はマルクの暴落と政治不安を招き、連メリカの対日政策に変化が生じ、四七年四月に しようぎ リア・ルーズ号事件を機に、いわゆる「娼妓解風会が合同し廓清会婦人矯風会廃娼連盟 ( 当初 合国間の支持を得られなかった。そこで、アメ は、ソ連、フランスなどの反対にもかかわら リカやイギリスを中心に、資金導入を前提とすず、連合国最高司令部 C) の緊急指令を放令」を出し、従来の公娼制度は形式上は立ちは同連合 ) を結成した。この間、矯風会などが ばいどく 公娼制度廃止法案を帝国議会に再三提出。政府 行かなくなった。けれども、翌年三月には黴毒 るドーズ案が作成され、二四年八月のロンドンもって、中間賠償の指定工場一〇〇〇工場の三 〇 % を撤去して、中国一五 % 、フィリピン、オ検査規則が公布され、さらに一二月の貸座敷渡は二〇年の国際連盟の「婦人ニ関スル国際条 会議で採択されて実行に移されたが、五年後に ランダ、イギリスにそれそれ五 % ずっ引き渡す世規則、娼妓渡世規則の公布によって、娼妓の約」を、二五年に条件付きで批准したが、廃娼 はふたたび履行不能に陥った。二九年六月には には消極的で、貸座敷業者も毎年全国大会を開 「自由意志」の売春による新たな公娼制度 ( 貸 最終的な支払案としてャング案が作成され、翌措置を強行し、さらに四九年五月には、残余の いて勢力を誇示していた。 座敷制度 ) が公然化し、強化された。資本主義 三〇年一月のハーグ会議で採択された。しか中間賠償の撤去中止を一方的に声明した。 昭和に入ると普通選挙が実施されたため、廃 し、おりからの大恐慌の影響で、またも支払い 一九五一年九月のサンフランシスコ講和会議 が急速に成長した近代日本における農村の貧困 が困難となり、三二年七月のローザンヌ会議ででは、アメリカは無賠償の立場で臨んだが、アは、『女工哀史』を生むとともに、他方で多数娼連盟は中央・地方の議会運動を重視した活動 こっしん は、賠償支払いの実質的な停止が合意をみた。 ジア諸国の反対のため、条約には単に賠償原則の娼妓を生み出し、印清戦争以後は約五〇〇かを展開し、その結果一九二八年 ( 昭和三 ) の埼 このドイツに対する賠償請求は過酷にすぎたたのみを規定し、具体的な賠償協定は関係国の個所の遊廓、一万軒の貸座敷、五万人の娼妓が太玉をはじめとして、三五年までに秋田、福島、 はたん 福井、新潟など一四県が廃娼を決議するに至っ め、ドイツ経済の破綻を促進し、ナチス台頭の別的な交渉に任せることとした。賠償請求の意平洋戦争の敗戦まで存在した。 つだまみち これに対し、一八六九年の津田真道の人身売た。昭和恐慌下で東北の子供の身売りが社会問 一因になったといわれる。↓ドイツ賠償問題 思表示をしたのは、フィリピン、ビルマ、イン ドネシア、ベトナム、カンポジア、ラオスの六 〔第ニ次大戦後の賠償〕第二次大戦後の賠償問 買禁止建議以来、廃娼論もおこり、七五年には題化するなかで、三一年に来日した国際連盟の くまがや 題の中心は、アメリカ、イギリス、フランス、 か国であったが、のちにカンポジアとラオスは埼玉県が廃娼を断行 ( 翌年の熊谷県合併で、旧婦人児童売買実情調査団は日本の公娼の実態報 ほんじよう ソ連などの戦勝国が、敗戦国とくにドイツと日放棄したので、残り四か国との間に交渉が行わ 熊谷県内の本庄、深谷の二遊廓がそのまま存告 ( ジョンソン報告 ) を出し、翌三二年一〇月 には仏教会が廃娼決議を行った。この間、官民 本に対して行った賠償請求にあった。第一次大れ、六三年三月のビルマとの追加賠償協定の締続し、埼玉県は非廃娼県に ) 、八〇年からは群 戦後のドイツ賠償問題の反省から、第二次大戦結によって賠償交渉は完了した。その結果、四馬県で県会議員の廃娼請願が始まり八二年に県合同の売笑禍防止協会 ( 委員長田川大吉郎 ) が 後の賠償では、経済の非車事化を進めること、 か国合計で、役務および実物による賠償約一一 会が廃娼建議を採択、存娼派との長年の攻防を組織され、政府も廃娼へと方針を転換、第五九 金銭賠償方式をやめて役務賠償および実物賠償億六一一〇〇万ドル、経済協力費または経済開発借経て九四年一月一日より廃娼を断行した ( 実体議会では廃娼法案が熱心に討議され、内務省も は公娼の私娼化にとどまった ) 。全国的には一廃娼断行に傾いたが、実施には至らなかった。 方式を採用することを基本方針とした。 款約七億四六〇〇万ドルを支払うこととなった。 やじまかじ・一 〔ドイツ〕ドイツに対しては、一九四五年二月 日本の賠償支払いは順調に実施され、七七年に 、八六年一二月に矢島楫子を中心に東京婦人矯一方、遅ればせながら、昭和初期にはプロレタ リア婦人運動でも公娼廃止を運動方針に加える の「ヤルタ協定」と同年八月の「ドイツ国に関は完了したが、この賠償支払いは、一面では、風会が発足 ( 九三年四月日本キリスト教婦人矯 ようになった。こうして廃娼気連は高まった するポッダム宣言」で、経済の非軍事化とい , っ被支払国に対する日本の経済進出の足掛りにな風会に改組 ) 、一夫一婦制の建白や、当時「か ったともいわれている。 〈清水嘉治〉らゆきさん」とよばれ、東南アジアを中心に多が、同時に、三一年の満州事変後は廃娼連動も 原則を規定した。具体的には、四五年一二月の 「バリ協定」と四六年三月の「賠償管理委員会回岡野鑑記著『第一次大戦後における賠償及戦数渡航していた「在外売淫婦」の取締りを請願戦時体制に巻き込まれてゆき、三五年、廃娼連 案」が示されたが、ドイツの生産力を一九三六 債問題』 ( 一九四六・日本評論社 ) ▽同著『日本した。九九年の名古屋の一娼妓の自由廃業や翌盟は国民純潔同盟へと改組され、体制化してい った。一五年戦争中の廃娼運動は国民統制のう 年の七五 % に圧縮し、賠償工場として一八〇〇 賠償論』 ( 一九夭・東洋経済新報社 ) 一九〇〇年 ( 明治三三 ) の大審院判決によって ま、じよ , っ ( ? ー前一四 0 ? ) 中国、漢娼妓売買契約の無効、廃業の自由が認められるえで戦争遂行に利用され、四五年一月の三五巻 を指定、そのうちの七五 % を連合国賠償機関が枚乗 あざなしゆくわいいんこうそ 処理し、二五 % をソ連が処理するというものでの文人。字は叔。淮陰 ( 江蘇省 ) の人。初め呉と、自由廃業の気運が高まり、アメリカ人宣教一号まで続く『廓清』も、「指導者日本と貞潔 あぺいそお やまむろぐんべい ろうちゅう 問題」 ( 安部磯雄 ) といった方向に変質した。 あった。四七年には原案を訂正し、三六年の生王澳に仕えて郎中となったが、呉王の謀反の師モルフイや山室軍平の救世軍が献身的にこれ りよう すさき 産力と同一水準に維持することとし、賠償工場計画を知り、諫めたが聞かれず、梁に行き孝王を支援した。洲崎遊廓の娼妓救助に向かった救この間、軍部は朝鮮人子女をも従軍慰安婦とし に仕えた。呉楚七国の乱ののち、景帝に召され世軍イギリス人少佐デュースへの遊廓側によるて戦地へ強制連行し、多くの女性が犠牲となっ を八五八に縮小した。さらにマーシャル・プラ こうのうい ン実施のため、賠償工場は最終的には六六七とて弘農尉となったが、病を理由に辞してふたた暴行事件の外交問題化を恐れたこともあって、 すうよう 敗戦直後の一九四五年 ( 昭和二〇 ) 八月、政 なった。その評価額は七億〇八五〇万ライヒび梁に行き、孝王のサロンに集まる鄒陽、司縣政府は同年一〇月娼妓取締規則を公布、娼妓の しようじよ 府は公娼廃止よりも占領車対策を重視して、国 相如らと交わった。晩年、武帝に召され都に年齢制限を一八歳とし、自由廃業規定を明文化 ス・マルク ( 一九三八年価格 ) とされている。 このえふみまろ 〔日本〕日本の賠償に対する連合国の基本的立赴く途中で没した。美文の名手で、孝王の太子したが、〇二年の大審院の前借金返済命令判決務大臣近衛文麿の主唱で、占領軍用に特殊慰安 しちはっ よ場は、一九四五年 ( 昭和二〇 ) 七月の「日本国を啓発するためにつくられた「七発」はのちにで自由廃業は困難になった。一一年吉原遊廓が婦施設協会 (Z<<) を設立し慰安所を開設。 しに関するポッダム宣言」に示されており、経済「七」とよばれる賦の新形式をつくったもので、全焼すると矯風会は吉原遊廓再興反対運動をお占領軍は翌四六年一月公娼禁止の覚書を提示、 ・か′、暑一い こし、その連動のなかから、機関誌『廓清』を前後して公娼制度廃止の内務省保安部長・警保 > の非軍事化を厳しく貫こうとするものであっ同時代および後世の辞賦に大きな影響を与え 局長通達が出された。しかし占領軍の慰安婦 5 〈根岸政子〉 もっ島田三郎の廓清会も同年発足した。 た。具体的には、同年一二月の「ポーレー中間 っ ) 0

9. 日本大百科全書 18

はいでん 、、をい 落ち着いた色合いを与えている。ハイデルベルある。神聖ローマ帝国フリードリヒ一世の弟コ標本とみなされている。マウエルの下顎骨とよ近代的大学への脱皮が図られた。そのとき、教 ばれることがある。↓原人 〈香原志勢〉授用語もラテン語にかわってドイツ語が採用さ ク城の中にはドイツ医薬博物館がある。市域の ンラートが、一一三六年ころ市背後のケーニヒ ようさい たいがく Ru ・れた。一 八六年の創設五〇〇年祭には全世界 西部、ライン川の沖積低地に広がる新市街は一 シュッール山に要塞として築いたのに始まる。 ハイデルベルク大学 じようさい precht ・ Karls ・ Universität HeideIberg 西ド にその名声を博した。 九世紀以降発展した所で、旧市街とまったく しだいに城砦としての規模を拡大したが、三 おもむき 趣を異にし、緑の多い住宅地、工場、道路・ 十年戦争やプファルツ戦争などで破壊され、現ィッのハイデルベルクにあるドイツ最古の大 第二次世界大戦後は学生の急増により、医 鉄道網が交錯し、田園風景もみられる。主要な存遺構は一五 ~ 一七世紀のもの。後期ゴシック学。一 三八六年、選帝侯ルプレヒト一世により学、自然科学部門が郊外の新キャンパスに移 工業は、たばこ、セメント、車両、印刷機械、様式の鐘楼、ルネサンス様式のルードウイヒ城 リ大学をモデルに創設され、初代学長にはマ転。そこには大規模な南アジア研究所が設けら 万年筆、電気機器など。交通の要地にあたるの館やオットー・ ハインリヒ城館などからなる宮 ルジリウス MarsiIius von lnghen ( 一三三 0 こ れた。学部構成は従来の五学部 ( 神学、法学、 で、駐独アメリカ軍の司令部や病院、西ドイツ殿式城郭である。城 ( 別刷 ) 〈野村太郎〉 九六 ) が就任した。一五世紀前半には、宗派上の医学、哲学、自然科学 ) から一六学部 ( 神学、 国防軍の基地など軍事施設も多い。〈朝野洋一〉 ハイデルベルク人ーーじん Heidelberg 対立で大学の活動は一時停止状態になったが、法学、基礎医学、理論医学、臨床医学、哲学・ 〔歴史〕一一九六年史料に初出する。一一三五 man ヨーロッパ出土の化石人類。一九〇七後半にはルネサンスと宗教改革を支持するオッ 歴史、東洋学・古代学、近代言語学、経済学、 年ウィッテルスパッハ家の所領に入り、以後一年、西ドイツのハイデルベルク市の近郊の小村 ハインリヒ選帝侯がメランヒトンらの協社会・行動科学、数学、化学、薬学、物理学・ かがく 七二〇年までプファルツ伯および同選帝侯の居マウエルから一個の完全な下顎骨が石切りエに力を得て大学改革を断行し、名声を確立した。 天文学、生物学、地球科学 ) に細分化された。 城地であった。一三八六年プファルツ選帝侯ル よって発掘された。ただちに地主を通じてハイ ところが一七世紀に入り三十年戦争の影響を被一九八三年現在、教員数約二一〇〇人、学生数 プレヒト一世によってその地に設立されたハイデル・ヘルク大学の地質学教授シェッテンザック り、閉鎖ー再開ー避難を繰り返し、一八世紀に 約二万六〇〇〇人。↓ハイデルベルク〈馬越徹〉 ↓・にゆ・フ ・一うちょうりよく - 一う デル・ヘルク大学は、ドイツで三番目に古く、一 に引き渡された。伴出する乳類化石から更新は一時的にカトリック教会の支配下に入った。 ハイテン 0 高張カ鋼 、はいてん地衣類ョロイゴケ科の地衣 五、一六世紀にはアグリコラ、ツェルティス、世 ( 洪積世 ) 中期でミンデル氷期の亜間氷期らフランス革命後の一八〇三年、バーデンの領主盃点 だえん ロイヒリンらがその教壇に立ってドイツ人文主しいとみなされたが、文化遺物は伴わなかっカール・フリードリヒによる大学再編により、体の裏側に形成される円形または楕円形の孔を めいりよう 義の中心となり、一五六〇年から三十年戦争た。非常に大型で頑丈 いう。不明瞭な盃点を偽盃点とよび、同じく ( 一六天 ~ 四 0 まではカルバン主義の中心であつであり、新人にみられ ョロイゴケ科にみられる。 〈佐藤正己〉 た。三十年戦争では一六一三年皇帝派の将軍テるような顎先の前突す / イデン Horace H. Hayden ( 一七六九ー おとがい ィリによって、三三年スウェーデン軍によってなわち頤はなく、下 天四四 ) アメリカの歯科医、歯科教育者。コネ 占領され、プファルツ継承戦争では一六八九顎枝は幅広く、下顎切 ティカット州に生まれ、・ワシントンの家庭 年、九三年にフランス軍のために手ひどい破壊痕は浅いという原始的 歯科医として知られるグリーンウッド J0hn を被った。一七二〇年選帝侯の居城がマンハイ特徴をもっていたが、 統部ャ送ル ) る ムに移されてからはかっての重要性を失い、一歯はネアンデルタール 学伝学キを力あ 大の諸た活のも 八〇三年バーデン領に編入された。プファルツ人とそれはど違わなか クら系れ生内 ( で ルか科ま生学 選帝侯の居城、ハイデルベルク城はドイツ・ル った。その当時は比較 べ半文刻学 ル後 , のでるル ネサンス様式のもっとも重要な建築物の一つでする資料が少ないた デ紀ち史スい ある。↓ハイデルベルク大学 ↓ハイデルベルクめ、ヨーロッパ唯一の イ世も歴ハてア観 ハをはンっツは 〈中村賢二郎〉 ものとして重視され じよう Schloß た。ムフ日では、ヨーロ ハイデルベルク城 Heidelberg 西ドイツ、ハイデルベルク市に ツバでは数少ない原人 ルら ′チて あ念 で記 ルを ポ息 ン終 シの の疫 町悪 ラ せつ ハイデルベルクネッカー川に架かる古橋 (Alte Brücke) と旧市街。左上がハイデルベルク城 , 中央 が聖霊教会。大学や新市街はこれより右手で , 写真の範囲外である 533

10. 日本大百科全書 18

ばでんう ・バーデンに分裂しル憲法闘争での拠点としての役割、革命後の憲法 ーテンダー ba 「 tende 「酒場のカウン刃 イ一四世時代にはその侵略体制維持など、一貫してドイツでもっとも自由ターの内側にいて、客の求めに応じ酒類その他 に脳まされた。カール・フ主義的な国であった。 の飲料を調製したり簡単な食べ物や果物などを のる 市れリードリヒ公 Karl Fried- プロイセン・オーストリア戦争ではプロイセ供する者をいう。一六世紀ごろイギリスで、酒 都か 全 D のもと rich ( 一七天 ンに対立したが、プロイセン・フランス戦争で造業者のほかに酒の販売を専門とする居酒屋が 」、」二泉開 日皿も で、一七七一年辺境伯領再はプロイセンにくみしてドイツ帝国の一員となでき、カウンターをバーと、 しし、その内側で作 多な 統合がなり、かっナポレオっこ。 オ一九一八年の革命直前、大公マックスが業する者をバーテンダー ( 管理人または世話 ンと結んで近隣諸国を併合帝国宰相となって自由主義的改革を行ったが敗人 ) とよんだ。アメリカでカクテルが普及する ツの イ人して一躍ドイツの一強国とれ 、バーデンも共和国となり、以後、小市民的に伴い、カクテルを調合する技術者をいうよう になった。日本では一般にバーテンと略称され ( , ま西界なった。一八〇六年バーデ政治風土に支えられ、自由主義者、社会民主 南政 やン大公国となりライン同盟党、カトリック教徒が提携して政府を維持しる。ヨーロツ。ハではバーテンダーと、酒場の主 街議に参加したが、ウィーン会た。 〈岡崎勝世〉人および従業員をさすバーマン barman とを 華会 繁際議後も大公国の位置を確保 〈佐藤農人〉 ーデン・ウュルテンベルク Baden ・区別してよんでいる。 ン した。自営農民と農村工業 Würtemberg 西ドイツ南西部を占める州 ーデン Baden-Baden 西 デで ドイツ南西部、バーデン・ウュルテン、、ヘルク州 一在の発展に支えられて自由主面積三万五七五一平方キ。、人口九二四万一一〇 、子 義運動が発展し、一八年憲〇 ( 一九会 ) 。州都はシュトウットガルト。一九の温泉保養都市。人口四万八七〇〇 ( 一九会 ) 。 ンで 法の制定、著名な学者・政五二年に旧バーデン州と旧ウュルテンベルク州 シュワルツワルト山地北部のオース川の谷沿い ゅうしゆっ が合併、成立。州域は、シュワルツワルト山地 にある。市内に約二〇の温泉が湧出し、ロー 一治家の輩出、四八年の革命 での指導的役割、ドイツ国と層階地形 ( ケスタ ) のシュウェービッシェ・ マ時代の浴場跡も残る。中世にはバーデン辺境 アルプ山地により三地 伯の居地となるが、一七世紀初頭に戦乱で壊滅 域に区分される。西縁した。一八世紀中ごろから復興し、ヨーロッパ のライン川沿岸のバ の代表的社交場の一つとなった。温泉療養施 デン地方は、温暖な気設、ホテル、カジノ、美術館、劇場などが整備 ひょく 候と肥沃な土壌に恵ま され、遊歩道や公園、緑地も広いので、国際会 れ、ブドウ・果樹栽培 議開催地となることも多い。ライン川低地に臨 や園芸農業が行われ、 む西部には、電気機器、鉄鋼、機械、化粧品な フライプルク、カール どの工場がある。 〈朝野洋一〉 スルーエ、ハイデルべ ハト〔鳩〕 dove, pigeon 広義には鳥綱 ルクなどの都市があ ハト目ハト科に属する鳥の総称で、狭義には伝 る。北部から中部はネ書鳩などカワラバトから飼い鳥化された各品 ッカー川の流域で、 種、およびそれらが半野生化したドバトをさ イルプロン以北は農業す。なお、飼養種を鴿と書くことがある。 地帯、南のシュトウッ 〔ハト科の特徴〕ハト科 Columbidae は約四 トガルト周辺は工業地〇属三〇〇種からなり、極地を除き、大陸に限 帯。南東部のシュワー らず太平洋の孤島にも広く分布し、鳥のなかで べン地方はドナウ川のはもっとも繁栄しているグループの一つであ くび 流域で、ポーデン湖かる。体に比べて頭は小さく、頸は細い。嘴は らドナウ川まではアル太く短くて柔らかく、中ほどがやや細くなって ,A 一プス前地の酪農地帯をおり、付け根は蝦膜で覆われ、先端だけは角質 亠なし、フリードリヒスで鉤のように下側に曲がっている。足も短め ーフェンなどの都市で、スズメ目と同じように前向き三本、後ろ向 がある。州内には自動き一本の足指があり、つめは短く頑丈で、樹上 ) ご車、航空機、機械など生活にも地上生活にも適している。翼は先がと 各種工業が発達し、農がった形をしており、大きな胸筋と相まって、 ひしよう 家の兼業化率も高い 強力な飛翔力をもたらしている。初列風切は一 ↓ハーデン↓ウュル 一枚、次列風切 ( 三列風切を含む ) は一〇 ~ 一 テンベルク〈朝野洋一〉七枚、尾羽は一二 ~ 二〇枚。体羽は柔らかく、 かぎ