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1. 日本大百科全書 18

トウ不可能であったティグリス、ユーフラテス両川 同第二次中心地 am ( アメリカ ) そのものを拡大するはうを有利とする。一方、張したが、それらを集大成したのがドイツの わんえん モロコシ、ナンキンマメ、カンショ、バレイシ の沖積地帯に導入され彎轅犂が使用された。生 中耕農業においては、なかなか経済的合理的労・ウエルトである。 ョ、カボチャ、ワタ、トマト、タバコ 産性が高く、安定度の高い灌漑農業の発達は、 働集約度に達しないから、土地面積を拡大する ウエルトは、サウアーの「文化複合」説とハ すき 急激な人口増加をもたらすとともに、農業に従 犂農耕第一次中心地 ( 西南アジア ) よりも、同一の土地面積の上に労働力を追増す ーンの「鍬農耕から犂農耕へ」説を結合して、 オオムギ、コムギ、エンドウ、ブドウ、ナス 事しない人々ーー商工業者や一群の支配階級 ることを有利とする。そのため、休閑農業にお 「鍬農耕文化複合から犂農耕文化複合へ」とい を生み出す。こうして紀元前三千年紀に、 同第二次中心地 noa ( 北東アフリカ ) いては、労働粗放化 ( 機械化 ) の方向に発展う学説をつくりあげた。「文化複合」というの テフ、シコモーレ、コーヒー、トウゴマ ューフラテス下流域にまず都市国家群が成立 し、中耕農業においては、労働集約化 ( 道具は、農業をあらゆる物質文化の複合体として把 同第二次中心地 med ( 西南アジア ~ 地中し、やがて北方に領域を拡大してアッシリア王 化 ) の方向に発展する。 握する考え方である。人類は採集狩猟段階か 国、バビロニア王国に発展した。灌漑技術は、 しかし、産業革命のような非農業人口 ( 農産ら、約一万五〇〇〇年前、熱帯地方で鍬農耕段海地方 ) ーーライムギ、エンバク、ニンジン、 さらにナイル川やインダス川にも伝播し、それ 物に対する需要 ) が急増するような場合には、階に入り、やがて鍬農耕を温帯地方に適合させオリープ それに古代国家を発達させた。なお、この地域 同第二次中心地 ca ( 東アジア ) ーーキビ、 以上のような基本的発展方向とは反する技術がる努力から犂農耕が生まれた。これら三つの文 じゅんか アワ、ダイズ、チャノキ、クワ、ウルシ、ミッ のもう一つの灌漑方法として、カナートとかカ 導入されるが、それが基本的発展方向に馴化さ 化複合の内容は表 1 のようである。 レーズとかよばれるものがある。掘り当てた伏 図 Q において、—の線とⅡの線の間は鍬農耕マタ れ、さらに、それにふさわしい農村社会が政策 そして、これらの発生地を異にする作物が、流水を砂漠の下に長いトンネルを掘って耕地に 的につくりだされるとき、その新農法は普及文化複合の地域であり、Ⅲの線とⅣの線の間は し、農業生産力は急増する。これが「農業革犂農耕文化複合の地域である。この図でみるその後、世界各地で混合して今日の農業が形成導く井戸灌漑である。 〔二圃式から三圃式へ〕古代ギリシア、ローマ 命」である。これについての具体的な説明は後 と、鍬農耕文化複合と犂農耕文化複合の地域されたとするのである。 このウエルトの説は、農業の起源についてもの農業は、西南アジアの二圃式が伝播したもの が、熱帯と温帯に広範に存在していることか 述する。 と思われる。耕地は、彎轅犂によって十字に浅 ら、それらが世界の各地で相互に無関係に発生っとも有力な説だが、それ以外にも諸説がない 農業の歴史 しかし、わけではない。たとえば中尾佐助は、根栽農耕耕されたから、方形をしていた。やがて、ロー したと考える人があるかもしれない 〔農業の起源〕農業の起源については、二〇世これらの文化複合を構成している要素の一つか文化、サバンナ農耕文化、地中海農耕文化、新マの二圃式と彎轅犂は、ローマの領土の拡大と ハビロフ、スイスの 大陸農耕文化がおのおの独立に発生して、のちともに北ヨーロツ。ハに伝播したが、北ヨーロッ 紀前半にソ連の Z ・ 二つが、いくつかの地域で偶然に発生するとい 。ハは南ヨーロッパと異なり夏雨型の湿潤地であ ド・カンドル、アメリカの O ・ O ・サウアー うことがあったとしても、これらの構成要素の に混合したと主張する。 しかし、いずれの説をとるにせよ、今日、熱り、三圃式がゲルマニア地方の方形犂と結び付 ドイツの・ ーンなどが、それそれの説を主すべてが、い くつかの地域で相互に無関係に発 いてしだいに北ヨーロッパに普及し、ほば一三 生するということはありえないから、かならず帯の主作物がタロイモ、ヤムイモであり、温帯 道器 地球上の一か所で発生し ( 第一次中心地 ) 、その主作物が穀物であることは変わらない。われ世紀ごろまでに、ヨーロッパは北に三圃式、南 容工 でんば の細み石家 に二圃式が一般化する。 こから各地に伝播したものと考えなければならわれにもっとも関係の深いのは穀物であるか 集猟カ然みの砕形し間 採狩人天編酒磨円な土 三圃式は村落共同体の存在を前提とし、さら ない。伝播の過程で、さらに新しい作物を加えら、以下、穀物栽培の歴史について記述する。 に村落共同体の形成は封建制の形成と結び付 ることが考えられるが、とくに新しい作物が多〔休閑農業の歴史〕コムギ、オオムギの発生地 他 造 の ) にみるように、耕地は道路に く。図 ( が西南アジアであることは前述した。考古学的 く累積する地域を第二次中心地と名づけよう。 屋そ 。いまから約一万年よって三つの耕区に区分され、一つは休閑地、 ウエルトによれば、その地域と主要な作物は次発掘によれば、これらま、 家式 育道土ピ臼形み 前、西南アジアの比較的降雨のある冬雨地帯他の二つは穀物畑になっていた。各耕区はさら のようである ( 図 Q)O るい液と方込 容耕 よ機だ唾石の差ド にいくつかの小耕区に分かれ、各小耕区はさら 鍬農耕第一次中心地 ( 東南アジア ) ( マルトンヌの年乾燥指数一〇 ~ 二〇 ) に二圃 内農家力に織と砕階茎 にいくつかの条地に分かれている。普通、小耕 ハナナ、タロイモ、ヤムイモ、バンノキ、サト式農業として成立した。降雨があるといっても 人手手酒磨一刃べる ウキビ わずかであるうえに年の偏差が大きく、収穫が区は一二ないし二〇エーカー、条地はだいたい 合 酒手 複 ほとんど皆無の年も少なくなかっ 一エーカーはどであった。方形犂は重く、多数 留 年 けんいん + 亠 -0- / っ 0 1 よ -0- 【 / 00 -4 ・ の 蒸車 既 -4 ・ 4 ・《 0 -4 -0- 「 / 1 人・成、 た。それで、収穫を安定させるためのウマ ( 普通四 ~ 六頭 ) によって牽引されたか 文 ル・れみんい 地 っ 0 1 ・よ 1 ー - 1 ・よ 作 車ろルと臼 既 に水が利用できる所では灌漑が始ら、その転回度数を減らすために条地は短冊形 耕 穫 り - 一ら′ 一乂 農 まった。まず初め、山間の細流や泉をなし、犂耕は小耕区ごとの共同作業によっ 四ろピ水踏家式灌 す 年 犂 育と用機シ , 足形み の水を利用して行われた。灌漑は収た。条地と条地との境には垣がなく、犂き残さ と び 飼い橇造織ャ臼 , 方込 既 1 、、 1 4 ・ -0- 11 ′ 0 「 / 、 1 ワ」 - -0 / 1 よ耕畜 穫を安定させるだけではなしに、それた草地か、簡単な境界標があるにすぎす、ま 製みモの臼の差ド 地 1 ・人、ー人 1 ・よ 1 ー人 1 ー人 お農家路器踏と車し階孔 た耕地には農道もなかったから、播種も収穫も れを二、三倍にする ( 表 2 は一九六 耕犂大牽道土足酒水回多刃べ 農〇年のイランの農業統計であるが、定められた期間内に全村一斉に行わなければな 農 方の 鍬 これでも平均して灌漑地は非灌漑地らなかった ( これを「耕地強制」という ) 。家 産 レ よ っ 生 ラ穫 畜は春から夏まで共同放牧地に放牧され、冬作 の約二・二倍の高い収量を示してい ノ孝 イ収 ギシの 物 ( コムギなど ) と夏作物 ( オオムギなど ) の 類アの正る ) 。 キ、採科法造業業業術柄 ギム コ他類 類ンフ他崎 食方製工工工技の やがて、このような灌漑技術が、収穫後は、それそれの刈り跡地に放牧された。 ムオビロの類モタ菜ロルの 産送器維酵粉築具床 表 畜輸土繊発製建道寝注 一方、夏の間に採草地で干し草をつくり、一一 3 コオキモそ豆イワ野メアそ注気候の乾燥と低湿地のために居住が け人ち ( 物 作

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のうぎよ 業業 農農 閑耕 生 ~ 休中 泉均 業業 帯業農農 地。↓農草草 草除除 晶除閑耕灌 性界 業業 帯業農農れる る産 地農水水さあけ生 燥水保保綻で 分乾呆閑耕 労線 休中んす 均曲 のら 平カ 業た 農 農も 農 大化 は変 的的分のとカ 燥閏区か 上ん農働 閑労 よよんす 農 ろら休界 もか ( ⅢⅡ Ⅲ年指数二〇以下で夏指数五以上の地域 第Ⅲ地域は、年指数二〇以下の乾燥地だが、保つかを主要な目的とし、後者は雑草に対してし、地カを回復する。一方、夏に、より湿潤的 Ⅳ年指数二〇以上で夏指数五以上の地域 夏雨型のため夏作物の栽培が可能であり、した 作物を守るために雑草をいかにして効果的に除な地域に成立する中耕農業では、夏に休閑する 第—地域は、年指数二〇以下だから、もちろがって夏作物の播種直前と収穫直後に、乾燥地去するかを主要な目的としている。したがってなら、地カの流失と雑草の繁茂を促すから、地 ん乾燥地である。しかも、そのほとんど全地域用の犂で耕起するほか、とくに一年中でもっと前者では浅耕し鎮圧する。その際、深耕や土壌力は劣化する。また、休閑農業では、播種から が年指数一〇以下の砂漠であり、そこでは、河も雨の多い夏には、耕地に夏作物があるから、 の反転は水分の蒸発を促すから有害である。後収穫までの間に中耕を必要としないが ( 中耕を かんがい 川や井戸水による灌漑が可能な所でのみ農業が犂は使用できず、鍬による浅耕と鎮圧が行われ者では深耕し土壌を反転して雑草を埋め殺す。必要とするのは園芸作物 ) 、中耕農業では、す その際、浅耕は除草にほとんど効果がない。そべての作物に中耕を必要とする ( したがって、 行われる。そのほか、わずかに存在する年指数る ( 中耕保水作業 ) 。 第Ⅳ地域は、四地域中でもっとも湿潤な地域れゆえ、前者は小型・軽量であり、これに属す休閑農業におけるような農業と園芸の区別がな 一〇 ~ 二〇の地域で、冬雨による農業が行われ ている。雨がほとんどないから、春から秋までであり、夏に雑草が繁茂するため除草が必要とる主要な犂は、南アジアのインド犂、西南アジ い ) 。このような両者の差をグラフで表したの わんえん は耕地を休閑し、乾燥地用の犂で普通二回、地なる。しかし、湿潤とはいえ、夏指数が五 ~ 一 アから地中海地方にかけての彎轅犂、東アジアが図 0 である。これは、横軸に一定の土地面積 一の北ヨーロツ。ハでは、一年目の冬作物と二年の中国犂などである。一方、後者は大型・重量 の上に追増される労働量をとり、縦軸にそれそ 表を浅耕・鎮圧して毛細管現象を断ち、地表か らの水分の蒸発を防ぎ ( 休閑保水作業 ) 、一〇目の夏作物を無除草で栽培し、三年目に耕地をであり ( 産業革命後、小型・軽量化 ) 、これにれの労働量の平均労働生産力と限界労働生産力 月にコムギを播く。一〇月から翌年三月まで雨休閑して ( このような農法を三圃式という ) 、属する主要な犂は、北ヨーロッパの方形犂、日をとったものである。両曲線は当然、平均労働 むしよう 生産力の最高点において交わる。労働価格が が降るから、それによってコムギは成長し、六 湿潤地用の犂で深耕・反転し除草を行う ( 休閑本の無床犂・短床犂などである。 〔休閑農業と中耕農業〕以上の説明を要約した 月に収穫される。以後、翌年四月まで放置さ除草作業 ) 。これに対し、夏指数九 ~ 一〇七の の高さで表されると、 c-o の高さと限界労働生 れ、四月以降、ふたたび休閑保水作業を繰り返東南アジアや東アジアでは、年中繰り返して鍬のが図である。これは保水農業と除草農業と産力曲線の交点の横軸の位置 0 Ⅳが経済的合 し、一〇月にまたコムギを播く ( このような農による中耕除草作業を行う必要がある。 いう基準で区分したものだが、それを休閑・中理的労働集約度である。この 0 はまた、この 法を二圃式とよぶ ) 。 なお、これまでの説明のなかで乾燥地用の犂耕という基準から休閑農業と中耕農業として区価格条件における労働受容力または労働消化カ 第Ⅱ地域は、年指数二〇以上だが、冬雨型な とか湿潤地用の犂とかいうことばを使ったが、分し直すこともできよう。両者はきわめて対照をも意味する。この図からわかるように、休閑 ので、夏は乾燥し、二圃式が行われる。ただし同じく犂といっても、乾燥地用のものと湿潤地的な性質をもつ。夏に、より乾燥的な地域に成農業においては、じきに経済的合理的労働集約 り - 一う 第—地域よりはるかに湿潤なので、全土で二圃用のものとでは形態も用途もまったく異なって立する休閑農業では、夏に休閑し犂耕すること度に達してしまうために、一定の土地面積の上 式が行われる。 いる。前者は乏しい水分をいかにして効果的に によって、保水あるいは除草に有効な働きをな に労働力を追増するよりも、むしろ、土地面積 農業 / 〔図 A 〕マルトンヌの乾燥指数 年指数 く 20 < 西南アジア O 地中海 ( 南 ) ソ連 ( 南 ) 4 4 3 地中海 ( 北 ) , ソ連 ( 南 ) ↑ーーー夏指数ーーーーヤ 北ヨーロッノヾ , シベリア 9 . 37 ノ、ンシャフ 華北 ( Ⅱ ) 1 ーっ」 1 0 . 96 1 0 . 93 東南アジア 東アジア 1 06 1 07 107.42 はしゅ ( 中耕農業 ) ( 休閑農業 ) M N 〔図 D 〕鍬農耕文化複合 ( I ~ Ⅱ ) と犂農耕文化複合 ( Ⅲ ~ Ⅳ ) の地域 ⅣⅢ ( mecl 、一 lhed 350

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のうぎよ は、飼料↓家畜↓厩肥の増加をもたらし、収量た。フランスやドイツなどは関税障壁を設けてサ、マメ、ワタなど、冬作物はオオムギ、コム 自由貿易の国イギリスは、 ギなどである。夏作物の収穫直後、まだ夏雨に 3 それを防止したが、 の増加をもたらすとともに、家畜の年間舎飼い だん を可能とした結果、放牧地と採草地を不必要と農業を急速に衰退するままに放置した。今日のよる水分が土中にある間に犂耕し、ただちに碗 力いし 子や耙や蓋子による砕土・鎮圧作業が続く。春 状況についてはのちに改めて考察する。 し、耕地の増加をもたらした。 る よ にも、播種に先だち、犂耕と砕土・鎮圧が行わ しかし、クロー 最後に確認しておきたいことは、休閑農業の ーの栽培のみであれば、従 的来の村落共同体 ( 三圃式 ) の枠内でも可能であ固有の発展方向 ( 機械化 ) に反する労働集約的れるが、あまり乾燥が激しいときには犂耕は省 ったが、カプの栽培となると ( カプは元来、園技術 ( 人力中耕 ) が導入され、それが固有の発かれる。播種は縷による。 じゅんか このような農業がいつごろから始まったか 芸作物であったから ) 、二回の中耕を必要とし、展方向に馴化されるとともに ( 畜カ中耕 ) 、ま かっ刈り跡放牧を不可能としたから、村落共同た、それにふさわしい農村社会がつくりだされは、北インドについては正確にはわからない 体の枠内には収まりきれず、これを破壊し交換て、急速に普及して農業生産を発展させる、そが、華北については、少なくとも現在の型の犂 ができたのは漢時代だといわれている。いまか 分合して、それそれに垣を巡らした個人的な農れが休閑農業における農業革命の特徴だという ら約一三〇〇年前である。古代農業では、犂な 場にすることが必要であった。これを囲い込みことである。 ( エンクロージャー ) という。それは全村一斉〔中耕農業の歴史〕中耕農業も、休閑農業と同どの農具はもっと単純なものを使用していたに に行うことが必要であったから、イギリスでは様に乾燥地から湿潤地へと発展している。文献しても、農作業の手順ははとんど変わりはなか ったのではないかと思われる。 一八世紀初め以来、囲い込み法が制定され、村上、もっとも古くさかのばれるのは北インドと 水・れ 〔ィネの起源と伝播〕中耕農業の主作物の一つ 北中国 ( 華北 ) で、いずれも年の乾燥指数が一一 取落の耕地面積の三分の二以上の所有者が賛成す であるイネは、雑穀に比べて、はるかに複雑な 冖一れば実行できることとされた。産業革命期に囲〇以下の乾燥地である。 わたなべただよ の い込みは急速に進み、それに伴って輪栽式 ( そ〔北インドと北中国の古代農業〕北インドでは伝播経過をたどった。渡部忠世によれば、アッ の発生地の地名をとって当時、ノーフォーク農紀元前一〇〇〇年ごろには家畜と犂をもち、夏サムから雲南に至る山岳地域で、焼畑農耕のな 同知 おかば かから稲作が発生したという。陸稲的なイネが 法とよばれた ) も普及した。ただ、カ・フの中耕作にキビ、冬作にオオムギなどをつくり、また 共図 場 落式宅 華北では前二〇〇〇年ごろにアワ、キビ、オオ長い間優先的な地位を占めていたが、紀元後に を人力で行う限り、これはノーフォーク以外に 村模邸家場農 主会師宿車設 はなかなか広まらす ( ノーフォーク北部は砂質ムギなどをつくっていた。ここに、すでに、休至って、しだいに小河川の流域の比較的に水が もみ 領教牧旅水池分 かりのよい湛水地に栽培され、椒粒の丸い日本 地 ) 、一八世紀初め・タルによって発明され閑農業との違いがはっきり現れている。一つに 2 3 4 5 ( 0 7 はアワ、キビのような雑穀の栽培、二つには一一種に近い水稲的なイネに交代した。メコン、メ た馬力条播機が普及し、中耕が畜力化されるに 月から翌年三月まで、雪のため放牧できない家及んで、初めてノーフォーク以外にも広まった毛作が行われていることである。休閑農業ではナム、イラワディ川などの河谷に沿って南下 ようす・一う 中耕農業では夏雨のためし、一つは揚子江の河谷沿いに北上して日本に 二毛作は不可能だが、 のである。これを農業革命という。 畜の舎飼いに用いられた。 まで達する流れとなり、いま一つはプラマプト 畜カ中耕とともにノーフォーク農法は一九世夏作が可能なうえに、冬は乾燥するのでムギ作 〔三圃式から輪栽式へ〕三圃式成立以後の北ョ ; 可能なのである。これらの雑穀は、やがて東ラ川に沿ってインド東部の低湿地に分布したイ 紀から二〇世紀にかけて西欧、アメリカ、つい ーロツ。ハの農業の発展は、家畜の飼料の変化と ンド種的なイネとなり、やがて一三、四世紀ご 大きな関係をもっていた。なぜなら、一九世紀で東欧に広まり、各地で農業革命を引き起こし南アジアや東アジアへ伝播していった。 北インドと華北の古代農業の姿を推測する手ろからべンガル湾を越えて東南アジアに入り、 の中ごろまで、主要な肥料はほとんど家畜の糞た。なかでもアメリカの農業革命は、ひとり休 にようきゅうひ 尿 ( 厩肥 ) であり、したがって農業生産を発閑農業に対してのみならず、中耕農業に対してだてとして、これらの地方で現在どのような農それまで日本種的なイネが分布しえなかった平 野部の低湿地に分布した。 達させるためには家畜の頭数を増やす必要があも大きな影響を及ばした。一九世紀中ごろの南業が行われているかをみてみよう。 東南アジアには、穀作が行われる前に、タロ 北インドの現在の農業は、夏作物 ( 雑穀、マ ったからである。まず一四世紀ごろから、北イ 北戦争の人手不足から、アメリカ北部の工業地 ィモ、ヤムイモを主作物とし、掘棒と鍬のみを 域では農業機械の発明が相次いだが、とくに重メ、ワタなど ) を六、七月に播き、一〇、一一 タリアと低地地方で耕地における牧草 ( 一般に クロー 月に収穫し、また冬作物 ( コムギ、オオムギな農具とし、小家畜のみを飼育する農業 ( ウエル アルカリ性土壌ではルーサン ) の要なものは自動刈取機と自動脱穀機であった。 トのいう「鍬農耕文化」、中尾佐助のいう「根 ど ) を一〇、一一月に播き、翌年の三、四月に 南北戦争後、ホームステッド法と鉄道敷設によ 栽培が始まり、一七世紀にはイギリスに、一 世紀にはフランス、ドイツに広まった。そのやり西部・中西部の開発が急速に進められたと収穫する。犂耕は六月のモンスーンとともに開栽農耕文化」 ) が行われていた。 中尾は、さらに、根栽農耕文化の二次的発展 り方は、コムギ↓オオムギ↓休閑の三圃式におき、これらの農業機械、とくに刈取機と脱穀機始され、犂は二頭のウシで引かせるインド犂 とトラクターが結合されたコンバインが威力をで、犂耕後はかならず板の上に人が乗り、ウシ形態として、西はアッサムから中国南部を通 いて、オオムギとともにクロ ーバーを混播し、 り、東は西日本に至る地域に「照葉樹林文化」 に引かせて鎮圧をする。播種は、土壌が乾燥し オオムギの収穫後と翌年 ( 休閑 ) の二年間、耕発揮した。今日、コンバインは資本主義国と社 会主義国とを問わず、また休閑農業と中耕農業きってしまわないうちに、すばやく種子を適当を提唱する。それは根菜農耕文化からはサトイ 地をクロー ー畑にするのである。しかし、一 とを問わす、世界中に普及し、とくに人口の希な深さに埋めなければならないから、二頭のウモ ( タロイモの一種 ) とヤマノイモ ( ャムイモ 八世紀後半、イギリスに産業革命が起こると、 シに引かせた播種機が用いられる。中耕は夏作の一種 ) を受け取ったほかィモ作は発達せず、 この程度のことでは非農業人口の急増に追い付薄なカナダ、アルゼンチン、オーストラリアな けなくなり、耕地にさらに根菜飼料 ( カ・フなどで、コムギ生産に貢献している。アメリカに物には普通二回、冬作物には行われない。休閑かわってコンニヤク、シソ、ウルシ、チャノ キ、ミカンなどを栽培し、カイコを飼育し、焼 ど ) が導入された ( したがって作付け方式はコ始まる新大陸の農業革命によって、安価で良質中に犂による保水作業が行われる。 ーとなり、こ 畑農耕のなかから稲作を生み出した。そのほ また、現在の華北の農業も、これに似てい ムギ↓カプしオオムギ↓クロー な農産物が大量に旧大陸に輸入され、一九世紀 ーとカプの栽培末にはヨーロッパ各国に農業恐慌を引き起こしる。夏作物はアワ、キビ、トウモロコシ、アか、酒のような飲料、さらには宗教に至るま れを輪栽式とよぶ ) 。クロー 条地 小耕区 西耕区 ン一領主羊欄 領主 放牧地 領主 放牧地 南 東耕区 ( 休閑地 ) 地 一口・又 住宅および庭 採草地 区 路 6 水流 森林 耕 たんすい ろう

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にゆじら 農業土地利用 ロ酪農 ロ酪農およびラム肥育 ロラム・ウシ肥育 ヒッジ・ウシの粗放的牧畜 ロ毛用ヒッジの粗放的牧畜 ロ園芸農業 ロ混合農業 [ : こコ未開発地 ( 山岳 , 森林など ) 注 : Walter lmber and Kenneth B. Cumberland, 1973 , " 」 V に川 / / 〃〃 d " による ッジの肥育が盛んである。④中央部はトンガリ シャモア、ネコ、イタチ、ウサギ類、ハリネズ⑥マナワッ低地、⑦ウエリントン、⑧ィースト 歴史 ガン、ツグミ、カラス、スズ ロ国立公園のある火山地帯で、ロトルア、タウ ランドの八つに分けて解説する。 メ、マスなどの淡水魚などである。 ①北部のノースランドはかって帆船のマストボなど観光・保養地がある。火山台地は外来種〔探検と植民〕ニュージーランドへ最初に渡来 したのはモア・ハンター ( モアを狩る人 ) とよ 家畜の放牧による生息環境の破壊および移入材に用いられたカウリ松の伐採で早くから開のラディアタ松の植林が行われ、林業が重要な ばれるポリネシア系の人種で、八世紀ごろタヒ 動物の野生化のため、ニュージーランドにもと け、独立以前の中心地であった。最初の首都一フ産業となっている。⑤西端部のタラナキ地方に さんろく ッセル Russell ( オークランド北西約一八四はエグモント山麓に古くからの酪農地帯があチ方面から南下したと考えられている。その後 もとすんでいた固有の動物は、急速に姿を消し キロ ) はこの地にある。今日、ホワンガレイは石る。またこの国最大の天然ガス田カプニがあ一三 ~ 一四世紀にマオリ族の大規模な移住があ ていった。現在では、保護区の設置など固有種 る。タラナキ地方の中心都市はニュー・プリマり、主として温暖な北島に居住した。ヨーロッ の保護の努力が払われている。 〈新妻昭夫〉油精製基地として知られる。②オークランドは パ人で最初に訪れたのがタスマンで、その後イ この国最大の商工業都市で、あらゆる工業が集ス。⑥さらに酪農地帯は南西のマナワッ低地へ 也士心 二一一口 ーマストン・ノースのギリス人クックが一七六九年以来数次の探検を 中し、全国の工業生産額のおよそ四分の一を占広がり、ワンガヌイ、パ 〔北島〕自然環境と行政区分を加味していくつめる。外港ワイテマタは羊毛、酪製品の輸出港二都市がその中心である。⑦南部には首都ウェ重ねた。当初は捕鯨、アザラシ漁の基地として リントンがある。背後が丘陵地のため、首都は 利用され、一八一四年、イギリス人宣教師サミ かの地域に分けることができるが、ここでは、 である。オークランドには国際空港があり、日 北のハット・バレーにかけて発展している。⑧ュエル・マースデン Samuel Marsden ( 一七六五 ①ノースランド、②オークランド、③ワイカト 本からの直航便が乗り入れている。③ハミルト 天三 0 が伝道所を建てマオリ語によって教化 地方、④中央部 ( 火山台地 ) 、⑤タラナキ地方、ンを中心とするワイカト地方は集約的酪農、ヒ東部のイーストランドは牧羊地帯であるが、ネ ーピアからへースティングズにかけてのホーク した。一八三九年六月一五日にニュージーラン 月月 C) C) O 量 つ」 ( ー 0 CD 0 CD ドはオーストラリアのニュー・サウス・ウェー 湾岸は園芸農業地帯となっている。 上 水 CO ( -0 日皿 ルズ領に組み入れられ、イギリス海車のウィリ 〔南島〕サザン・アルプスから南西部のフィョ 降 E 0 0 気 と アム・ホプソンが総督代理として就任した。翌 ルドランドにかけては無居住地となっている。 しゅうちょう この部分を除くと、①ウエストランド、②タス四〇年二月六日、マオリ族の酋長との間にワ 気 マン湾岸、③アルプス東麓、④カンタベリー平イタンギ条約が締結され、統帥権はイギリス国 王に移譲され、その後ニュー・サウス・ウェー 野、⑤オタゴ地方に分けられる。 ①山脈の西、ウエストランドは炭田と石炭積ルズから離れてイギリス本国の直轄植民地とな 出し港が点在する。②北部のタスマン湾岸は果った。これは、当時南太平洋へ進出しつつあっ 樹地帯で積出し港ネルソンがある。③アルプスたフランスの勢力を阻止する意味をもった。 〔植民地の発展〕本格的な移民は一八四〇年、 東麓の氷食湖地帯は観光地で、ハー ニュージーランド会社の植民地がポート・ニコ クイーンズタウンなどの観光都市がある。ま ルソン西岸 ( ウエリントン ) に建設されたこと た、粗放的な大規模放牧地が展開する。④その に始まる。ついでオタゴ協会、カンタ・ヘリー協 東に続くカンタベリー平野は小麦とヒッジの混 合農業地域で、カンタベリー・ラムが肥育され会などによって移民が送り込まれた。当初の開 る。中心都市はクライストチャーチ。⑤南部は発方式はニュージーランド会社の経営者ウェー オタゴ地方で北半は混合農業、南半は酪農地域クフィールド Edward Gibbon Wakefield ( 一七 I<KII) によるもので、イギリス的社会経済 となり、中心都市はダニーデン、インバーカー ギルである。 制度を保ちながら自給的農業経営の実現を目的 とするものであった。しかし 一戸当り一六タの経営規模 ホ締て では小さすぎて失敗に帰し 理でつ 代ギなト た。かくして自給的農業経営 督ンとス 総夕日ラ にかわって大規模粗放的牧羊 , イ念ト 地が奥地へ延びていった。北 日ワ記 6 に国ル 島では土地所有とキリスト教 月間建ナ ョ 2 の 布教をめぐり、移住者とマオ 年と在シ 叩長現ナリ族との間に第一次 ( 天三四 ~ 酋は 族日ギ四 0 と第二次 ( 一会 0 ~ 七 0 ) の 約リのン 条オこタ二回にわたってマオリ戦争が 衣ギマ。イ 起こった。一方、南島では、 ンとたワ タンれ 八六一年オタゴ中部で、六 イソさる ワプ結い 五年ウエストランドに、相次 オークランド オークラン ハミルトン ネービア 0 ウェリントン 0 0 クライストチャーチ クライストチャーチ 7 0 0 ク ダニーデン インバーカーギル 400km 200 ミティジ、 123

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はちおう こうぶしょ ある。ことに第二巻の終わり近くに複式簿記の 6 専を含め二〇大学がある。明治の森高尾国定公し、幕末には講武所奉行の支配下に入り、一、 なみ ていめい 六六年 ( 慶応一 D には陸軍奉行並の下にあって記述があることが、この本の評価を高めてい 園、多摩御陵 ( 大正天皇・貞明皇后の陵墓 ) 、 八王子千人隊と改称した。第二次長州征伐などる。ここに論じられている代数は、この時代特 小仏関跡 ( 国史跡 ) 、都立滝山自然公園などが すんぶ 山 に随行したが、幕府滅亡とともに解散し、駿府有の末知数だけが記号化されたもので、二次方 〈沢田清〉 ある。人口四二万六六五四 的 回『八王子市史』 ( 一九六七・八王子市 ) ▽佐藤孝方面に移住するか、江戸近郊の多摩地域で土着程式を対象としている。現代式に書けば。を + 型 典 bx=c およびを + c 日となる方程式に「解 〈村上直〉 太郎著『八王子物語』三冊 ( 一九七九・武蔵野郷帰農化した。 の 代 土史刊行会 ) ▽鈴木樹造著『八王子方一一 = ロ考』回村上直編『八王子千人同心史料』 ( 一九七五・雄法不能」と記しているのは、当時の状態をよく 〈中村幸四郎〉 山閣出版 ) ▽同編『江戸幕府千人同心史料』示している。 ( 一九〈三・かたくら書店 ) たちかわ ( 一九全・文献出版 ) 八開 ( 村 ) はちかい ( むら ) 愛知県西部、海部 っ囮二万五千分の一地形図「立川」「武蔵府中」 きそ ながら せいしん よせ はちおうのらん中国、西晋の内郡にある村。木曽川、長良川を隔てて岐阜県海 「拝島」「八王子」「五日市」「与瀬」 八王の乱 と きゅうぶ 史 園 国 ノ王子織物はちおうじおりもの東京都八王乱。外戚間の抗争に宗室司馬氏が巻き込まれ、津町に境する。以前給父の渡しのあった所で、 公 渡し場跡のすこし上流に一九六九年 ( 昭和四 八人の藩王が政権を争った。 跡然子市を中心として生産される織物の総称。とく ゅうき ぎじゃくじ ) が完成した。木 に絹着尺地が主体で、紋ゥールお召、多摩結城〔前期〕西晋開祖の武帝 ( 司馬炎 ) は同族に軍四 ) 東海大橋 ( 一三二八 一をを山立 はんべい などが知られていたが、ウール着尺地へと転換権を握らせて藩屏としたが、晩年、外戚楊氏が曽・佐屋両川の洪水に脳まされ、一八九六年 うたす ろうだん 市帯 ( 明治二九 ) の鵜多須切れの水害は佐屋川廃川 し、このほか、ネクタイやマフラーなどの雑貨政治を壟断して不満が高まった。第二代恵帝の 王跡類も生産している。この地は平安時代ころから皇后賈氏は権力の掌握を図り、藩王を唆して楊の原因となった。全村が川に囲まれた沼沢地 八城 農家の副業として織布が行われ、鎌倉時代には氏一党を滅ばしたものの、実権は宗室の長老汝で、東部の開治では砂地の畑で根菜類、苗木、 はちわ なんりよう しようとく つむぎ けいおう はち・一う ~ 一六 ) 南王亮に帰することになった。このため賈氏は西部の八輪では低湿地のレンコンが特産になっ 八高線・横浜線が分岐、京王帝都電鉄京王線が滝山紬の名で知られた。正徳年間 ( 一七二 きりゆ、つあしかが たかおさん 〈伊藤郷平〉 八王子および高尾山に達している。中央自動車以後は、桐生、足利などの先進機業地から製織偽詔して楚王璋に亮を殺させたのち、璋を殺している。人口五〇六三。 はたや 囮二万五千分の一地形図「津島」 道の八王子インターチェンジがある。また国道技術を導入して専業化し、機屋仲間も組織さて権力を手中に収めた ( 一一九一 ) 。 はちがたじよう室町期 ~ 戦国期の城。 一六号、二〇号、四一一号も通る。一五二一年れ、関東三機業地の一つとなり、江戸中期より〔後期〕専権一〇年の賈氏が皇太子を廃殺する鉢形城 ちょうりん おうめじま かわな み ) だーしば と、反発を強めていた趙王倫が挙兵して賈氏一埼玉県大里郡寄居町鉢形にある。城の北西側は ( 大永一 ) 大石定重が加住丘陵の高月城から滝末期にかけて、黒八丈、青梅縞、上田縞、川和 だんがい はかたおび うじてる 山に城を移し城下町を建設。のち北条氏照の居縞、郡内縞、黄八丈、博多帯などの生産が知ら党を滅ばした ( 三 00 ) 。しかし倫も恵帝から帝位荒川に面した高さ一〇〇ほどの断崖になり、 しんげん 城となったが、武田信玄の攻撃に対して「滝はれていた。大正から昭和にかけて、銘仙を中心を奪って斉王冏らの起義軍に敗れ ( 三 0 一 ) 、恵帝背後をその支流深沢川が流れる天険の要害であ つわもとはたけやましげ ちょ、つさ てんしよう る。古く平安末 ~ 鎌倉初期に源経基や畠山重 とした大機業地であったが、現在では、着物需を復位させた冏も専権に走って長沙王父のクー 落ちる」の意を忌み嫌い、天正年間 ( 一五七三 ~ ただよ 九一 ) 元八王子に八王子城を築き、城下町も移し要の減少とともに、今後はファッションに力をデターで殺され ( = 0 一 l) 、乂も成都王穎、河間王忠が拠っていたという伝承もあるが、史料的に ぎよう とよとみ いったんは確実なのは一四七三年 ( 文明五 ) から七六年に た。一五九〇年 ( 天正一八 ) 豊臣秀吉の関東平入れ、洋服地生産に活路をみいだすべく努力し顯らの連合軍に討たれた ( 三 0 三 ) 。 ながおかげはる きよう かけて長尾景春が築いたとするものである。関 〈角山幸洋〉穎が郊 ( 河北省 ) に拠って朝権を専制したが、 定の際、落城した。江戸時代、幕府の直轄地とている。 ながお かんれいやまのうちうえすぎ おうしゅん せんび なり、現在の中心市街地に町が開かれ、甲州ロ ノ王子千人同心はちおうじせんにんどうしん鮮卑族と結ぶ軍閥の王浚に大敗して失脚し、東管領山内上杉氏と執事長尾氏とが城主を争 やす うじつな せんせい たが、北条氏綱が山内上杉氏を討ち、藤田康 の守りとして関東十八代官、その配下の千人同江戸時代、武蔵国多摩郡八王子 ( 東京都八王子実権は、長安 ( 陜西省 ) に拠る顯に移った がしら 市 ) の周辺に土着していた千人頭を中心とした ( = 0 じ。その顋も山東省から進撃した東海王越ルを城主とした。城はさらに、康邦の女婿とな 心が置かれた。また甲州街道の宿場町として八 に敗れて、覇権は恵帝、ついで懐帝を擁する越ってこの地に入ってきた北条氏邦によって大規 日市・横山町に本宿が置かれ、市場町として四郷士の集団。一五九〇年 ( 天正一八 ) 徳川氏の 一一びとがしら のつく日には横山町で、八のつく日には八日市関東入国を機に甲斐の武田旧臣小人頭を中核の手に帰した ( 三 0 六 ) 。この間、兵乱は地方にま模につくりかえられている。以後、小田原城の ろく、い に構成され、甲州の国境警備と治安維持の任にで広がって、流民の反乱、軍閥の自立、諸勢力支城の一つとして氏邦による鉢形領支配の中心 で、月六回の六斎市が開かれた。周辺は生糸・ とよとみ が軍事力に利用した非漢民族の興起が相次いでとなった。一五九〇年 ( 天正一八 ) 、豊臣秀吉 絹織物の生産地で、その集散地としてもにぎわあたった。初め二五〇人、ついで五〇〇人とな としいえ み ~ 洋〕ん ~ っ せきろく えいか による小田原征伐のとき、前田利家、上杉景勝 「永嘉の乱」となり、まもなく越も前趙の石勒 り、一六〇〇年 ( 慶長五 ) 関ヶ原の戦いを機と った。機業は明治後期、カ織機の導入とともに ろ・つじよう 中心市街地へ工場が集中し、ネクタイ、男性用して一〇〇人ずつ一〇組、計一〇〇〇人に拡大車に苦戦して憂死し ( = 二 ) 、事実上、西晋は滅らの大軍に攻められ、籠城戦のすえ開城し、 〈小和田哲男〉 され、一〇人の千人頭 ( 旗本 ) の統率下にあっ亡、五胡十六国から南北朝へと続く分裂と混乱廃城となった。 着物地、絹毛交織物の特産地を形成してきた。 やりぶぎよう はギ ) ま 〈安田二郎〉 八月はちがっ August August た。老中支配から槍奉行支配下に置かれ、千人の時代が始まった。↓晋 しかし、近年は北八王子、西八王子、狭間など ちぎよう aout フラ 一年一二か月の八番目の月。節は初 チオーリ Luca Paci01i ( 一四四五 ? の工業団地に近代工業が進出するに伴い、機業頭は二百 ~ 五百石の知行地を与えられ、平同心 ほん のうち流通部門は残っているが、生産部門は山は十三俵一人扶持が給され、平時は在村し本一 0 ? ) イタリアの数学者。フランシスコ派の秋であるが、月のなかばまでは一年中でもっと びやくしよう 修道士であった。広く読まれた著述『算数、幾も暑さの厳しい時期で、秋の涼気の訪れが待た 梨県の都留地方へ下請けに出すようになった。百姓として農耕に従事し、幕府の一朝有事の ふみづき 多摩地区の中心都市としてにぎわっているが、際に備えた。一六五二年 ( 承応一 ) 以降幕末ま何、比および比例全書』 S ~ ミき斗、ミれる月である。陰暦の文月 ( 七月 ) にあたり、 かんせい ミ . 0 ミミ、を、 0 をミミ・ミを、 0 ミ、ミミ暦のうえでは七日か八日に「立秋」があって、 東京の衛星都市としての性格も強く、住宅団で日光勤番 ( 火消役 ) を勤め、寛政 ( 一大九 ~ 天 あんせい 地、大学などの進出が顕著である。「学園都市 (1) 、安政期 ( 一会四 ~ 六 0 ) には一部が蝦夷地開 ( 一四九四 ) を残した。この本には日本で出版され海や山への夏季行楽の最盛期を迎え、中旬に た写真復刻本もあるが、第一部は算数と代数、は、所にもよるが、炎暑も峠を越すかの感があ づくり」をモットーに一九八七年現在、多摩美拓にあたった。同心、組頭は知識人が多く、日 術大学、中央大学、創価大学など国立東京工高光や八王子周辺の地方文化や産業発達に寄与第二部は幾何学であり、三〇〇ページの大作でり、秋近しの思いもひとしおのころとなる。台 0 ら がいせき さや

6. 日本大百科全書 18

はこだて えのもとたけあぎ はこだてほんせん北海道旅客鉄道 八年 ( 明治一 ) 九月一九日夜半、榎本武揚の率函館八幡宮はこだてはちまんぐう北海道函函館本線 城にこもって新政府軍と戦った。五稜郭と同じ あさひがわ ほんだわけのみことおう やちがしら いる旧幕府艦隊は品川沖を脱し、途中仙台に寄館市谷地頭町に鎮座。祭神は品陀和気命 ( 応の線路名称。北海道、函館ー札幌ー旭川間四 洋式城郭の四稜郭は国の史跡に指定されてい おしまさわら ことひら じん おおとりけいすけ へきけつひ はちまんぐう ・一キロ、大沼ー渡島砂原ー森間 ( 砂原支 る。函館八幡宮に近い地に碧血碑があり箱館戦って、東北戦争に敗れた大鳥圭介らの旧幕府脱神天皇 ) のほか住吉大神、金刀比羅大神を配二三 争の幕府軍の戦死者が理葬される。南部の海岸走軍などを収容し、総勢約三〇〇〇人となり、祀。北海道鎮護神、開拓・航海・漁業の守護神線 ) 三五・三キ。、砂川ー上砂川間 ( 砂川支線 ) えぞ として道内で広く崇敬されている。一四四五年七・三キ。、よりなる。複線化率五八・九 % 一〇月二〇日蝦夷地 ( 北海道 ) 鷲ノ木に上陸し 沿いの丘陵地には、一五〇〇年ごろの小豪族の かめだ とりで しみずだにきんなる 砦であった志苔館跡 ( 国の史跡 ) がある。湯た。榎本軍は箱館府知事清水谷公考らの新政府 ( 文安一 I) 亀田郡領主河野氏が箱館に築いた城樽ー旭川間が交流電化。道南と道央を結ぶ幹線 の鎮守として八幡宮を祀ったのが起源と伝え鉄道で、とくに石狩平野を縦貫する電化区間が 川町のトラピスチヌ修道院は一八九八年に創立軍を破り、同月二五日箱館を占拠。さらに一一 えさし まつまえ 月五日松前福山城を陥落させ、一五日に江差をる。以後社地は変転したが、明治になって北海交通量も多く、北海道の主要都市が集まってい されたシトー会に属する女子修道院である。 制圧、蝦夷地を占領した。一一一月中旬、士官の道開拓使の崇敬社となり、一八八〇年 ( 明治一る。小樽ー岩見沢間は北海道最初の鉄道である 函館山へはロープウェーが通じ、頂上からは ほろない 函館市街や函館港を一望でき、とくに夜景で知入札 ( 投票 ) で、総裁榎本武揚、副総裁松平太三 ) 函館山を背にする景勝地である現在地に移幌内鉄道の一部として一八八〇 ~ 八二年 ( 明治 たんこう たちまちみさき よさの あきこ 三 ~ 一五 ) に開業、八九年に北海道炭礦鉄道 った。旧国幣中社。例祭は八月一五日。神輿が一 られる。立待岬には与謝野鉄幹・晶子夫妻の郎らの首脳人事を決定し、五稜郭を本拠地とし 〈牟禮仁〉 に譲渡された。同鉄道は九一 ~ 九二年に岩見沢 歌碑が立ち、大森浜の啄木公園には石川啄木のて、いわゆる榎本政権を樹立した。この政権の市内を巡幸する。 おんごく そらちぶと ー空知太 ( 現在の砂川と滝川の中間、空知川 はこだてぶぎよう江戸幕府遠国奉 座像がある。市の東部の湯ノ川温泉は函館観光性格について、人事の公選や、一一月四日に箱箱館奉行 行の一つ。老中の下に属し、蝦夷地行政をつか畔 ) 間を延長開業し、さらに九八年、北海道官 〈瀬川秀良〉館に入港した英・仏の軍艦艦長と榎本が取り交 の基地となっている。 かみかわ はこだて 回『函館区史』復刻版 ( 一九七三・名著出版 ) ▽わした文書に「デ・ファクトの政権」Ⅱ「事実さどった。奉行所を箱館 ( 北海道函館市 ) に置設鉄道が空知太ー旭川間を上川線として開業し き、前彳 」麦二期にわたって設けられ、蝦夷地の経た。一方、函館ー小檜間は北海道鉄道 ( 初代 ) 『函館市史通説編』 ( 一九含・函館市 ) 上の政権」の文章があることなどによって「共 てつざん かっくみ によって一九〇二 ~ 〇五年 ( 明治三五 ~ 三 囮二万五千分の一地形図「川汲」「鉄山」「横津和国」とするものがある。しかし、榎本らが一営・開発や警固をはじめ、和人地の民生、ある ななえ に開業、北海道炭礦鉄道は〇六年、北海道鉄道 いは後期の場合には開港場箱館にかかわる通 岳」「赤川」「五稜郭」「七飯」「函館」「立待二月初めに新政府に送った嘆願書などでは、蝦 は〇七年に国有化された。〇九年、函館ー旭川 夷地を旧徳川家臣団に与えることを要望してお商・外交なども管掌した。 かりあげち ぼしん 間を統合して函館本線とした。砂原支線は一九 はこだてせんそう戊辰戦争の最後 り、天皇政府を認めたうえで、蝦夷地に徳川藩〔前期 ( 天 0 一一 ~ 0 七 ) 〕幕府は仮上知していた東 箱館戦争 四五年 ( 昭和二〇 ) 駒ヶ岳付近の急勾配緩和の 八六的な組織をつくろうと考えていたと解すべきで蝦夷地を永久に直轄地にするにあたって、一 の戦い。五稜郭の戦いともよばれる。一 あろう。 〇二年 ( 享和一 l) 二月、従来の蝦夷地御用掛をため開業したもので、そのうち森ー渡島砂原間 しかし、新政府はこの嘆願を廃して蝦夷地奉行を設け、同年五月一〇日これは渡島海岸鉄道 ( 一九一一七 ~ 一天開業 ) を国有化して おしゃ まつまえ 改築した。一九五〇年代より長距離列車は長 いめ ' 分拒否、一八六九年三月征討軍をを箱館奉行と改称した。その後、幕府が松前・ くっちゃん まんべ かいようまる った似郭 万部ー札幌間では倶知安付近の急勾配区間を避 をた薐派遣した。先に開陽丸を失って蝦夷地全域を直轄することになったのに伴い ちとせ むろらん 後えこ五 いた榎本艦隊は、政府軍旗艦甲一八〇七年 ( 文化四 ) 一〇月二四日、奉行所のけるため、室蘭本線、千歳線経由で運行するも 背加館 のを物鉄艦 ( 原名、ストンウォール・ 松前移転と松前奉行への改称が命じられた。松のがしだいに多くなって、現在では長万部ー 館撃博 樽間は実質的にはローカル線であり、また函館 箱砲ジャクソン号 ) を奪取すべく 前奉行は松前藩が松前・蝦夷地に復領する一 みやこ はてに函 ー長万部間も、本州と北海道との間の旅客輸送 隊し、立三月二五日宮古湾に停泊中の政二一年 ( 文政四 ) まで存続した。 働入市 府艦隊を奇襲したが失敗。四月〔後期 ( 一会四 ~ 六 0 〕箱館開港に対処するための主力が航空交通に移るとともにその重要性は おとべ 一八五四年 ( 安政一 ) 六月三〇日設置。翌年に低下している。これに対して、小樽以北の区間 , に道九日政府軍は江差北方の乙部に 撃内海 きこない おとペ 進港北 は札幌を中心とする道央縦断の幹線鉄道として は松前・蝦夷地の大部分、木古内以東、乙部以 上陸、一七日松前を攻略、五月 岸箱 西が幕領となり、箱館奉行の管轄に入った。そ輸送需要が大きく、明治・大正期から複線化が 一一日箱館を占領した。総勢八 海も図 ~ 六九年 ( 昭和四三 ~ 魯よ艦争〇〇〇余人といわれる。一三日の後、一八六四年 ( 元治一 ) に乙部以西熊石ま進められていたが、六八 きょたか 隊諸 にで八か村が松前藩に還付されたが、六八年 ( 慶四四 ) に複線・電化された。 本車政府軍参謀黒田清隆は五稜郭 えさし 箱 の府「 なお、函館線には函館本線のほかに、江差 こもる榎本らに降服を勧告、榎応四 ) 四月一二日に維新政府により箱館裁判所 せきしよう うたし まつまえ さっしよう 軍政 〈小林真人〉線、松前線、札沼線、千歳線、石勝線、歌志 本は拒否したが、オランダ留学が置かれるまで存続した。 しんめい 政たっ はこだてへいや北海道南西部、渡内線 ( 転換方法を協議中 ) 、深名線が含まれる , まな中に得た『万国海律全書』を兵函館平野 日。と 〈青木栄一〉 火に失わせるのは惜しいとし島半島南端にある平野。亀田平野、大野平野と ( 一九現在 ) 。 月っ戦 て、政府軍に贈った逸話は有もいう。大部分は大野川などのつくる沖積地函館山はこだてやま北海道函館市街の南部 5 とい がぎゅうざん ななえとうげした 2 にある山。標高三三四。臥牛山ともいう。 名。結局一八日には開城し、新で、七飯町峠下を頂点とする二等辺三角形を 台勢激 なしている。東部は段丘と洪積扇状地、西部は新第三紀中新世に噴出したもので、石英安山岩 態て政府による国内統一が完成し の出 た。↓榎本武揚↓開陽丸 段丘と沖積扇状地である。北海道農業の先駆地を基底とし、その上に鮮新世の溶岩・集塊岩が 挟撃 館反五稜郭↓戊辰戦争〈船津功〉で、大野町には水田発祥の記念碑があり、果樹のる。函館湾に突き出ているが、亀田川や沿岸 たいせき 箱猛回石井孝著『戊辰戦争論』 ( 一九栽培も古くから行われた。湾岸には石油精製、流の土砂の堆積による砂州で亀田半島と結ばれ 争らも はこだて 戦か軍 会・吉川弘文館 ) ▽佐々木セメント工業が立地する。平野の中心は函館て陸絜島となっている。第二次世界大戦までは ようさい 館背」本 〈瀬川秀良〉要塞地帯で、一般の立ち入りは禁じられてい 箱腹 ) 榎克著『戊辰戦争』 ( 中公新書 ) 市。 たくーく まっ たる 671

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なって、農作物の選種をはじめ、農事改良全般和一五 ) 段階においても、農業就業者は全就業国が買収する。②農地の買収価格は、田は賃貸には三五 % に減った。改革後は自作農が日本農 価格の四〇倍 ( 一〇町・当り平均七五〇円 ) 、畑業の根幹となった。 にわたって議論がなされ、種苗交換会ともなつ者の四一 % 、農林水産業は全国民所得の二四 % 以上のように、農地改革は、地主制度を解体 た。商品生産の進展が農業技術改良への関心をを占めていた。農業では、農家一戸当り平均経は四八倍 ( 平均四五〇円 ) とし、農地証券で支 促し、また、西南戦争後のインフレによる農業営耕地面積約一タと零細農民経営が圧倒的で払う。③国は買収農地を小作人に直接売り渡して、広範な小作農を安価に自作農に転化し、 の困難がこの傾向を促進した。初めての全国的あり、農家の半分は賃労働を主とした兼業農家す。その際、小作農は二四年年賦の低利資金の残存小作地についても小作農の負担を著しく軽 融資を受けることができる。④農地の買収・売減し、耕作権を強めることによって、農民が農 八一年 ( 明治一四 ) のだった。全耕地の半分は小作地であり、七〇 % 規模での農談会は、一、 第二回内国勧業博覧会の際、東京浅草本願寺に の農家は大なり小なり土地を借りる小作農民だ渡しを二か年で終える。⑤農地の買収・売渡し業生産力商業的農業の水準ならびに生活水準 一二〇名の老農を集め、前田正名のリードのも った。小作農民は、小作地について収穫米の半計画の立案・審議、紛争処理の機関として地方を改革前に比して大きく高めることを可能にし 自治体に農地委員会を置く。市町村農地委員会た。 とに行われた。後の系統農会は農談会を足掛り分に達する高額現物小作料を徴収され、農業所 と同時に、農地改革にはいくつかの限界もあ につくられたものである。↓農会〈祖田修〉得では最低限の生活を維持することさえ困難は小作五、地主三、自作二の委員構成とし、階 農地のうち耕作の目的に供される土地で、生活は貧しく、高利負債にあえぐ者が多か層別選挙により委員を選出する。⑥小作料は定った。農地改革は林野には手を触れなかった。 これによって、林野利用による農民的畜産の展 った。農業では生きていけない農民は子女も含額金納とし、最高小作料率は収穫物価額の二五 ( 農地法一一条一項 ) 、すなわち農作物の栽培を目 的とする土地をいう。より具体的にいえば、農めてその多数が低賃金で出稼ぎし、生活を補っ % ( 田 ) 、一五 % ( 畑 ) とする。⑦小作農が開は制約されることとなった。また、農地改革 はしゅ は小作地の自作地化に眼目を置くことによっ た。ここでは、零細農民経営、とりわけ高額小 「信義に反した行為」をするなど「正当の事由」 作物を肥培管理 ( 耕うん、施肥、播種、除草な ゝよ、艮り、地主はかってに賃貸借契約を解除て、小作問題とともに日本農業のもう一つの特 作料を負担する小作農民経営から低賃金労働力がオしド ど ) して、収穫物を得ることが目的となってい 徴をなす農民経営の零細性にはまったく手を触 る土地のことである。右の意味における農地 が生み出され、逆に、その賃金が農家所得を補することはできない、などである。 すでに一九二〇年代以降、小作争議が激化れることなく、それを改革後に引き継いだ。そ は、農業統計上 ( 作物統計、耕地及び作付面積充することによって零細農民経営と高額小作料 統計など ) 耕地として取り扱われている。これが維持存続されるという相互規定関係がみられし、さらに戦時に入って社会平和と農業生産力れによって、零細自作農民経営はやがて一九六 に対して、農業経営を行ううえで、主として肥 た。これによって、日本の資本家は農村から低増進の必要が強く叫ばれるようになった段階〇年以降の従属的独占資本主義の展開のもとで 料用、飼料用のための採草や家畜の放牧に利用賃金労働力を豊富に調達しえたし、またそれをに、自作農創設政策は登場していた。また、現激しい分解にさらされ、「総兼業化」といった ^ 暉峻衆三〉 実には実施されなかったが、終戦直後の四五年事態が現れることにもなった。 するが、肥培管理をいっさい行わない土地を、有力な武器として対外市場を拡大し、アメリ 採草放牧地 ( 農地法二条一項 ) という。農地とカ、イギリスなど先進資本主義国との対立を激一二月、占領軍とは独自に農地改革案が政府の回暉峻衆三編『日本農業史』 ( 一九〈一・有斐閣 ) ▽同著『日本農業問題の展開下』 ( 一九ハ四・ 手でつくられた ( 「農地調整法改正」、通称第 採草放牧地とをあわせて農用地 ( 農業振興地域化し、やがて戦争へと突入した。 東京大学出版会 ) ▽大内カ著『日本資本主 の整備に関する法律三条一号 ) という。わが国 連合国による対日占領の実権は資本主義超大一次農地改革案 ) 。だが、そのいずれと対比し 義の農業問題』改訂版 ( 一九七一一・東京大学出版 では、農用地に占める採草放牧地の割合が、明国Ⅱアメリカが掌握したが、アメリカとしてても、実施された農地改革は、地主的土地所有 会 ) ▽栗原百寿著『現代日本農業論』 ( 青木 治末年以降急速に減少し、近年では三 ~ 四 % と も、日本が農村を基盤とする低賃金を武器にふの解体とそれによる自作農の創設という点では 文庫 ) ▽農地改革記録委員会編『農地改革 たたび脅威を及ばすことを防止する必要があっ はるかに徹底しており、その間に大きな断層が 無視し , つるほどになっている。 顛末概要』 ( 一九五一・農政調査会 ) ▽・・ た。また、対日占領を開始してまもなく、中国認められる。 農地は、食糧生産の基本的生産基盤であるだ ドーア著、並木正吉他訳『日本の農地改革』 この農地改革によって、かっての小作地 ( 一 けでなく、広大な空間的広がりをもっため、私や朝鮮で共産主義勢力が急速に勢力を増して政 ( 一九六五・岩波書店 ) ▽『農地改革の歴史的意 的財産であると同時に社会的財産でもある。し権を掌握していくが、その際、徹底した土地改九四五年で二四四万八〇〇〇タ ) の八〇 % に 義』 ( 『山田盛太郎著作集第四巻』所収・一九 たがって、法制上における農地の所有権・利用革による広範な農民の支持の獲得がてことなっ及ぶ一九四万二〇〇〇タの農地が解放され、 会・岩波書店 ) 小作農に売り渡された ( うち、買収日一七五万 権の性格規定の相違は、一国の農業発展を左右ていた。また、日本国内でも、生産の著しい低 のうちそうせい開墾や干拓などに する。また、農地の壊廃・拡張および基盤整備下のもとで、労働・農民運動が高揚し、徹底し七〇〇〇く財産税物納による「管理換」ⅱ 農地造成 よって、農地を新たにつくりだすこと。安定し は、都市的土地利用など農業以外の土地利用と た土地改革が要求され、共産主義勢力の伸長と一八万五〇〇〇タ ) 。解放農地の六割は在村地 た農業基盤をつくり、かっ都市化による農地転 ほどよいバランスを保ちつつなされる必要があ相まって政治的危機が進行していた。こういっ主、四割は不在地主の所有地であった。 用や壊廃を補うため、わが国では一九八〇年代 るが、ここでも、農地の所有および利用に関すた内外の諸条件に支えられて、地主制度の解体 改革前には全農地の四六 % 、田の五三 % が小 る諸制度が、一国経済の効率性や国土利用に重による自作農の広範な創出を目ざす農地改革作地であったが、改革後 ( 一九四九 ) にはそれそれ前半では年々約二万タが土地改良事業で造成 0 、 一四 % に激減した。地主保有地としてされている。 大な影響を及ばしている。地価高騰のなかで、 ; 、占領政策の重要な一環として断行されるこ ととなった。 残った「残存小作地」についても、小作料は低 開墾は、山林、原野など末墾の陸地から、水 土地の所有および利用に関する制度全般につい 農地改革遂行のための法律は、「自作農創設 く抑えられ、小作農の小作料負担は著しく軽減田、畑、樹園地、牧草地などの農地を開くこと て、社会的コンセンサスの形成が強く望まれる である。開墾により水田をつくる開田は、戦後 ゆえんである。↓農地法 され ( 小作料率は一九五〇年代後半でも五 ~ 六 〈武部隆〉特別措置法」と「農地調整法改正」であり、一 の , つっ・かい、刀 / 、 から高度成長期にかけて大々的に行われたが、 一般には、第二次九四六年 ( 昭和二一 ) 一〇月に公布された。そ % ) 、耕作権も強化された。そして、改革前に 農地改革 世界大戦後、日本が連合国軍の占領下に置かれれは、同年六月の対日理事会で提案・採択されは自作農は全農家の二八 % にすぎなかったが、米の過剰を契機に停止した。畑作物は全般的に 改革後は五五 % と過半を占めるに至り、逆に、 輸入依存率が高いこともあり、水田以外の開墾 」た際に、占領政策の重要な一環として実施されたイギリス案を骨子としたものである。 ち一た「農地改革」 ( 一九哭 ~ き ) をさす。 そのおもな内容は次のとおりである。①不在農地をまったくもたぬ小作農は二八 % から八 % ( 開畑 ) は依然、重要な役割をもっている。 地主の小作地はすべて、在村地主の小作地は、 に著減し、大なり小なり農地を小作している小 、フ戦前、日本農業は日本の資本主義経済にとっ 開畑のおもな工程は、伐採↓抜根・排根↓表 9 北海道四夕、都府県平均一タを超える部分を自作・自小作農家も改革前の四一 % から改革後土剥ぎ↓基盤切盛り↓表土戻し↓土壌改良剤散 3 のて重要な地位と役割を有した。一九四〇年 ( 昭 まさな

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ス川の右岸に沿い幅二キ。、長さ二〇キロにわたっ たところで忠治地蔵がある。東日本旅客鉄道高 2 はとちやハトムギを原料にしたもの 熱望した連合カナダ植民地の農民は、英領北ア はと茶 せみ 〈村木定雄〉 8 で、煎じて茶のように飲む。ハトムギはイネ科て東西に細長く延びる。東部が旧市街地で、穀崎線高崎駅からバス二時間 メリカ植民地の統合という形で併合しようと、 かくしやま コンフェデレーションを推進した。一八六七年の一年草で、熱帯アジアが原産。日本には享物商、香辛料商などの小さな店や住宅の密集す囮二万五千分の一地形図「浅間隠山」 と はとば pier 古くから使われたこ のカナダ自治領の成立とともに、六九年、平和保年間 ( 一七一六 ~ 三六 ) に中国から伝わったといわるなかに一六世紀のモスク、一七世紀のシク教波止場 裏に広大な土地はカナダ政府に売却された。会れている。秋にとれる果実は堅くつやのある外寺院などがある。中央部がバンキプルといわれとばで、港で波止のある場所をさして波止場と だえん 社の数多い駐屯地は、その後カナダ西部の諸都殻に包まれ、長さ八 ~ 一〇ミリ程度の楕円形である植民地時代の市街地で、かっては多くのイギよんでいる。波止の語源には諸説があり、中国 よくい はとうふとう てんか 語の馬頭・浦頭・埠頭などから転訛したもの、 リス風建築物があった。西部は新市街地をな る。漢方では、この果実の乾燥したものを慧苡 市に発達している。現在はカナダのデバートに し、病院、高等裁判所、高級住宅が並び、ア一フあるいは泊 ( ハテ ) から転じたものなどがあげ その名を残している。 〈大原祐子〉仁と、 しい、利尿、健胃のほか皮膚の荒れを防ぐ ビア、ベルシアの古文献の収集で有名な図書館られている。 として、古くから用いられてきた。いば取りの バートタイマー part-timer 通例、一日 えんてい 一般に海中へ土堰堤を細長く突き出し、その の所定労働時間が同一企業の正規の労働者より 妙薬としても知られている。果実にはデンプンや、パトナ大学がある。これまでのガンジス川 堤防と鉄道に挟まれた帯状の市街地は西部、南表面を石材で被覆した構造物で、波を防いで静 短い者、あるいは一日の所定労働時間が同じでのほか、穀類のなかではタンパク質、脂肪、ビ あっても、一週の所定労働日数が正規の労働者タミン、、鉄などを豊富に含む。また新陳部へと拡大している。米、小麦、砂糖などの農穏な水域をつくり、貨物の積み下ろしを行った より少ない者をいう。しかし、実際には正規労代謝をよくするなどの働きもある。粒食、粉食産物を集散するとともに、織物、ガラスなどを所であり、現在でいえば、防波効果を含めた小 〈中山晴美〉型の突堤式物揚場、あるいは背後の運上所 ( 税 働者と同等の労働時間の者も含まれていたり、 などいろいろの食べ方があるが、茶には殻付き産する。 ひょうが 0 関 ) などの陸上施設を含めた突堤式埠頭に相当 残業をするバートタイマーもいるため、正確に のハトムギを煎じて飲む。炒ったものにはコー バトナイエークル氷可 ひょうが 〈河野友美〉 バハトナヨークトル水河 する。小型船は波止場で直接荷役が可能である 、。ヾートタイマーは 定義することはむずかししノ ヒーのような風味がある。 けいえし が、大型船は水深の関係から接岸は困難で、 女子に集中しており、とくに中高年女子の比重 、ドック haddock/ Me ぶミきミミ s バートナーシャフト経営 が大きくなっている。労働省の「雇用動向調 ミミ e. さミ s 硬骨魚綱タラ目タラ科に属する海 Partnerschaft 西ドイツの経営経済学者ギ型船を利用した沖荷役となる。 ド・フィッシャーが提唱した共同体思想を基調 現在の横浜港の大桟橋付近には、幕末の開港 査」 ( 一九会 ) によれば、パートタイマーの就業水魚。マダラに似ているが、側線が黒く、一個 、一くはん に置いた労使共同経営のこと。労働者は資本・ 時において東波止場、西波止場が幕府により築 動機としてもっとも多いのが「家計の補助」の大きな円形の黒斑が胸びれ基部と側線の間に ( 五五・九 % ) で、これに「おもな生活収入」ある。全長八〇垰一余り。大西洋の中・北部に広資産に持ち分参加するとともに、利益・業績の造されていた。港湾施設が近代化へ向かう明治 な 1 】り ような経営成果の分配にも参加する。この経営 二〇年代以前の名残の一つでもあったといえよ ( 一三・五 % ) 、「生活水準の向上」 ( 一二・〇 く分布し、水深四〇 ~ 三〇〇の海底にすむ。 、つ ^ 堀ロ孝男〉 % ) 、「余暇の活用」 ( 一一・七 % ) などが続い 雌は四六、雄は四一拜一で成熟する。二 ~ 七方式では、労働者は単なる労働力ではなく、ま ヾドヾ Padova イタリア北東部、ベネト ている。 月の間に水深一〇〇 ~ 一五〇の所で産卵すた他人によって指揮・監督される被用者でもな 丿バドバ県の県都。人口二三万四六七八 ( 一九 ~ 一・七、リ、受精 く、自由な自発的協働者として共同体を構成す 女子労働者のなかで週労働時間が三五時間末る。卵は大きくて直径一 ふか しぎよ 。ヾッキリオ (I)O 英語名パドウア Padua る。これによって階級闘争は克服され、構成員 満の短時間雇用者は、一九七〇年 ( 昭和四五 ) 後二週間で孵化する。卵や仔魚は浮遊して遠く 全員が経営者としての責任を自覚するために経ネ川沿いに位置し、高速道路や鉄道の幹線が通 の一三〇万人から八五年の三三三万人へと急増 北のはうへ運ばれる。孵化後半年ぐらいで五 した。石油危機 ( 一九七三 ) 以降の減量経営のもと余りになって底生生活に入る。おもにトロール営成果は上昇する。この経営方式の根底にはキる交通の要地。工業も発達し、とくに機械、金 リスト教倫理があり、その点で規範的性格が強属、化学、食品、繊維などの工業が盛んであ で、当初パートタイマーは人員整理の対象とさ網で漁獲され、西ヨーロッパでは食用としての 〈落合明〉 いが、中小企業に多くの実践例をみることがでる。一一三二年に創設されたパドバ大学は、イ れたため一時期減少したが、その後、労務費の価値が高い。 〈森本三男〉タリアではポローニヤ大学に次いで歴史が古 削減などを目的に正規労働者にかわって幅広く ハードテックス hard tex 現在の半硬きる。 はとのすけいこく東京都西多摩 一五九二年から一六一〇年にかけてガリレ 採用され、いまや企業の生産過程や営業活動の質繊維板 ( セミハ ードボード ) に属するもの。植鳩ノ巣渓谷 おうめ イが数学教授を務めた。聖アントニウスの墓が なかで不可欠の存在となりつつある。また、職物繊維を成形熱圧した比重〇・四 ~ 〇・八、曲郡奥多摩町の東部、東日本旅客鉄道青梅線鳩ノ 種や仕事の内容も正規労働者と変わらないケー げ強さが一平方メートル当り五〇キ。グラム以巣駅近くにある多摩川の渓谷。多摩川が関東山あるサンタントニオ教会 ( 一三世紀 ) は重要な スが増えている。しかし、労働条件の点では上の板で、現在はこの名称は一般的ではない。 地を深く下方侵食してできた渓谷で、鳩ノ巣小 巡礼地となっている。ほかに、聖母マリアとイ エスの生涯を描いたジョットの壁画で知られる 種々の格差がみられ、時間当り賃金は、正規労テックスなる用語は、セロテックス社によって橋とよぶ吊橋からの眺めは渓谷美で知られる。 ここから白丸湖まで遊歩道があり、とくに紅葉スクロべーニ礼拝堂 ( 一四世紀 ) 、ドナテッロ 働者の七〇 % 台にとどまっている。また、退職開発された軟質繊維板が日本に輸入されたとき 金、有給休暇、福利・厚生、社会保障面での格につけられた商品名で、 ードテックスの名はの秋がよい。付近は杉丸太の産地で、江戸時代によるプロンズ像の傑作『ガッタメラータ将軍 差は一段と顕著である。労働省は一九八四年にそれよりも硬くて強いという性質から生まれた に木材を運ぶ人夫たちが二羽のハトの巣を発見の騎馬像』 ( 一四五三 ) など、市内には中世からル ートタイマーの雇用・労働条件の整備を目的ものである。内装や天井・壁材に用いられ、防 したことから地名が生じたという。白丸湖の西ネサンス期にかけての美術や建築が多数存在す かずま ちち 〈有馬孝禮〉 〈堺憲一〉 に「パートタイム労働対策要綱」を定めた。↓ 火処理を施した防火板もある。 端に幅約一・三の数馬の切り通しがある。秩る。 不安定就業↓婦人労働 〈伍賀一道〉 〈沢田清〉 〔歴史〕紀元前四世紀に建設され、ローマと関 父多摩国立公園に属している。 バトナ Patna インド東部ヒノ むさしみたけ ートタイマー』 係を保ちつつ発展した。帝政期に農・工業の中 回東京労働基準局編『新版 州都。人口九一万八九〇三 ( 一九八一 ) 。ガンジス囮二万五千分の一地形図「武蔵御岳」 あがつま ( 一九会・日本労働協会 ) ▽白井晋太郎著『パ はとのゆおんせん群馬県吾妻郡 、い地となり、ことに羊毛と織物の産地として有 川本流とガンダク川、ソン川、ガガラ川の各支鳩ノ湯温泉 はるな ートタイム労働の現状と労務管理』 ( 一九会・ 吾妻町にある温泉。榛名山の西方、吾妻川の支名であった。またローマの歴史家リウイウス誕 流が合流する付近に位置する交通上の要地で、 めるがわ せつこう 労務行政研究所 ) ▽労働省婦人局編『婦人紀元前五世紀から現在に至るまで、文化、交易流温川上流に位置する。泉質は食塩を含む石膏生の地でもある。ゴート族やフン族による破壊 おおど くにさだちゅうじ 労働の実情』各年版 ( 大蔵省印刷局 ) の中心地として発達してきた。市街地はガンジ泉。近くの大戸関所跡は国定忠治が処刑されののち、カロリング朝期には多くの特権を得て きよう つりは」ー )

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としよう。その際、工業であれば、生産されるの ) を要求し、農産物価格は費用価格プラス地本の農民の大部分は自作農に転化し、優良地を補正型 ) と市場介入型 ( 市場価格誘導型 ) に二 すべての商品の価値水準は均等となり、個別的代 ( ) の水準に形成され、より優良地では経営する農民は地代相当の超過所得を得ること分される。前者には不足払い方式 ( 交付金制度 ー大豆、菜種、加工原料乳など ) と安値補填方 となった。しかし、全農家一戸当り平均農業所 価値と社会的価値の水準は一致し、各資本家「費用価格」を超える全超過分が地代として地 得は、労働者五〇〇人以上の大規模製造工業の式 ( 安定基金制度ー野菜、肉用子牛など ) が、 は、不変資本 (u) + 可変資本 ( / ) + 平均利主に支払われることとなる。 さらに、小農民経営はしばしば資本主義のも労働者の時間当り賃金を一〇〇とすると、一九後者には需要調整方式 ( 最低価格保証制度ー麦 潤Ⅱ生産価格、を均等に実現しうる。 ところが、工業と違って農業では、土地が重とでの過剰人口滞留の重要な場となっており、六〇年代末まではその六五 % くらいの水準へと類、砂糖類など ) 、供給調整方式 ( 抑制価格制 要な生産手段とされ、経営に用いられる個々のそのことと結合して過小経営を多く含む。ま上昇して農工間の格差を縮小するが、七〇年代度ー飼料など ) 、需給調整方式 ( 安定帯価格制 以降、日本の独占資本の力が強大になり、外国度ー食肉、繭・生糸、乳製品など ) が含まれ た、資本主義の展開のもとで独占資本が農民に 土地は豊度や市場への位置が異なる。したがっ 〈藤谷築次〉 て、農業資本家の資本条件がかりに均等であっ生産手段を供給し、農民の農産物を購買するこ農産物の輸入が増大し、農産物の過剰傾向が強る。 のうさんぶつきかく農産物にお ても、豊度が異なり、産出される農産物の量に とも多い。このような場合、農産物価格形成に まるもとで、ふたたび格差を拡大して四〇 ~ 五農産物規格 〈暉峻衆三〉 いて、流通の円滑化、取引の簡素化・公正化を 差があると、個々の農産物の個別的価値の水準おける自家労賃部分 ( / ) は、しばしば資本主〇 % の水準に低落した。 は異なってこざるをえない。 こうして、農産物義のもとでの重層的賃金構造の最底辺部の回常盤政治著『農産物価格政策』 ( 一九大・家の図るため定められる品位、形量および包装など の規準をいう。代表的なものに日本農林規格 光協会 ) ▽吉田忠著『農産物の流通』 ( 一九 の場合は個別的価値と社会的価値との間に乖離「レ」相当のものでしかない。そこでは、農民 天・家の光協会 ) ▽暉峻衆三・中野一新編があるが、この規格は農産物加工品 が生じ、社会的需要を満たすのに必要な最劣等は貧困を余儀なくされ、しかも貧困であるため に対するものが主であり、大部分の農産物には 『講座今日の日本資本主義 8 日本資本主 地での農産物の個別的価値が、その農産物全体 に農業労働の生産性を高めるための投資をする 義と農業・農民』 ( 一九全・大月書店 ) ▽花田定められていない。現在、農産物規格には、国 ことができず、農産物の価値、したがって価格 の社会的価値を規定することとなる。 仁伍著『日本農業の農産物価格問題』 ( 一九や国に準ずる機関によって定められる標準規格 このようにして、農産物価格が社会的価値に 水準は高く押し上げられたままその低下が阻止 っ 天・農山漁村文化協会 ) ▽御園喜博著『農と、府県や生産者団体などが自主的に設定する より規定されることによって最劣等地の農業資される。また、農民は貧困であるために、、 自主規格とがあり、同じ呼称で格づけされてい 産物価格形成論』 ( 一九七七・東京大学出版会 ) 本家は生産価格を実現するが、より優良地を経そう農業労働を多投して農産物を増産し、それ のうさんぶつかかくしてもその規準はまちまちで一元化されていな によって農業所得を増大させようとするため、 営する資本家には生産価格を超える超過利潤部 農産物価格支持制度 。これは、農産物の種類や特性によって規格 じせいど農産物の価格問題は価格変動問題と 分が発生することとなる。この優良地が借地経かえって農産物価格の一段の低落と農民の過労 価格水準問題に大別されるが、両者ともに生産が設定されてきた背景および方法が地域や産地 営である場合には、平均利潤を超えるこの超過を招くことが多い。また、農業所得を補うべく 利潤部分は差額地代として地主の手に渡る。さ きわめて低賃金で農業外に出稼ぎすることも多者の立場と消費者の立場で問題認識の基準が異ごとで異なっているからであり、とくに野菜や なる。価格変動問題の焦点は、生産者視点では果実などでは、品種・系統が多様で個体差が大 らに、最劣等地も借地経営である場合は、その 。さらに、零細農民経営が借地で行われると きいこと、産地間競争が激しく製品差別化傾向 地主は土地所有の独占に基づいて、この最劣等きは、農民の最低限の肉体的再生産しか可能と生産者価格の暴落という問題であり、消費者視 、、ことなどから、各産地ごとで独自の自主 点では消費者価格の暴騰という問題である。両カ弓し 地についてもなにがしかの地代 ( 絶対地代 ) をしない自家労賃部分を超える全剰余が地代とし 要求し、農産物価格は生産価格水準を超えてあて地主の手に収取される。ここでは小作農民の者は表裏の関係にあり、価格変動系列としては規格が設けられることが多い 一方、標準規格は、それが定められる背景と る程度高まらざるをえない。 低所得・貧困と地主の高地代とが並存すること一体のものである。ただし、消費者価格の変動 なる法律や普及主体が農産物によって異なり、 率よりも生産者価格の変動率のほうがはるかに ところで、日本をはじめ多くの資本主義国でとなる。 たとえば、野菜は野菜生産出荷安定法により野 は、農業生産の中心的担い手は資本家ではなく 小農民経営はもちろんのこと、資本家的農業大きいから ( 固定的な流通マージンが大きなウ ェイトを占めるため ) 、生産者価格の変動問題菜供給安定基金が、果実は農林水産省の委託に て家族労働力を主体とした小農民経営である。経営も、非農業部門に比して一般にその経営 こういった農業がより深刻になる場合が多い。生産者価格が変より日本園芸農業協同組合連合会が、牛肉や豚 この場合、小農民が自作農であるとすると、彼 ( 資本 ) 規模は格段に小さい すうせい は小地主、小資本家、賃金労働者という三つの経営がひとたび恐慌に巻き込まれ、農産物価格動時であっても、変動を貫く価格の趨勢値が生肉は「畜産物の価格安定等に関する法律」によ り日本食肉格付協会が、それそれ規格の設定や 性格を兼備している。しかし、自作小農民が農の激落にみまわれると、彼らは破滅にさらさ産者の立場からみて適正な水準にあるならば価 業生産を継続する最低限度の条件は、一般に、れ、社会体制としても危機に陥る。こう、つこ しオ格水準問題は生じないが、現実には多くの農産普及を行っている。標準規格設定の目的は、初 不変資本 (u ) に相当する「本来的費用」を差事態を避けるために農産物価格支持政策が本格物について価格水準問題が発生している。問題めは、政府が価格支持等で市場に介入する際の 目安を定めることにあったが、現在では規格取 し弓いたのちに、自分自身に支払う労賃部分 化される。一九二九年恐慌以降の事態がそれで認識の基準は生産費水準との比較である。 引の普及および一元化を図ることに重点が置か 農産物価格支持制度は、狭義には後者の価格 ( ) が得られることであり、小資本家としてある。 の平均利潤や小地主としての地代をかならずし〔日本における農産物価格形成〕いま、日本の水準問題に対処するための制度であるが、広義れている。一般に農産物規格には、野菜や果実 には農産物価格安定制度と同義と考えることものように、形状色沢、病虫害の有無などの品位 も必要としない。 このようにして、自作小農民農産物全体を一括してその価格形成をみると、 のもとでは、農産物価格は一般に最劣等地での地主制度が優勢であった第二次世界大戦前 ( 農できる。「価格安定」は政策用語としては価格規準と、重さ、大きさなどの大小規準との二 平均的経営の「費用価格」 (u + レ ) の水準に 地改革前 ) には、小作農民が農産物価格から受変動の抑制と価格水準の適正化の両者を意味すつの規準によって、それそれ「秀・優・良」 け取る農業所得〔農業粗収益マイナス農業経営る。農産物価格安定制度は市場統制型と市場活「»-2 ・・ TJ 」などの呼称で格づけされるもの 形成され、より優良地の自作小農民の手元に と、牛肉や豚肉などのように、外観、肉質、重 ん 用型に大別される。前者は政府 ( または政府機 は、地代に相当する、費用価格を超える超過所費 ( 肥料、農機具、飼料などの物財費に支払小 関 ) が需給と価格を直接管理する方式で管理価量などが総合的に加味されて「上・中・並」と 六、得が得られることになる。また、小農民経営が 作料を加えたもの ) 〕は、せいぜい労賃水準と いった呼称で格づけされるものとがある。近 7 、フ借地のもとで行われる場合には、最劣等地につしては最低の部類に属する農業日雇賃金相当の格制度 ( 米、葉たばこ ) とよばれる。後者の市 のいても地主はなにがしかの地代 ( 絶対地代相当自家労賃にすぎなかった。農地改革を契機に日場活用型はさらに市場不介入型 ( 市場価格事後年、農産物の生産・流通の大量化・大型化に伴 3

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のうこフ 農耕文化 / 4 大農耕文化の発生地と伝播 用いられ、現在は金属鍋の利用が普及してきて しており、アメリカサトイモ、マニオクなどのら、ハングリー・ライス、テフ、ライシャン、 アに典型的な根栽農耕文化は、全体的にみてき いも類利用の農耕文化がある。また西アフリカ シコクビエなどといった局地性の高いものまで わめて原始的とみられがちだが、その栽培植物 アフリカのサバンナ農耕文化地帯では、中世 の品種改良の程度はきわめて高いものがある。 の海岸近くの熱帯雨林地帯にはヤムペルトとよを含めて、きわめて多種類の雑穀が栽培されて ハナナ、パンノキの主要品種は染色体が三倍化 ばれ、ヤムイモを主食とする文化がある。ここ いる。これら雑穀類をみると、ある共通性がみ以降多くの王国が成立し、インド、中国でも古 したもので、種子なしになっている。タロイではアジアから導入された料理用パナナ、タロ られる。雑穀の穀粒はイネ、麦に比べて小形で代帝国が成立した。しかしインド、中国の場合 はしゅ には地中海農耕文化の影響として、麦作農業が モ、ヤムイモもきわめて多くの品種がつくりあィモ、ダイジョなどが主作となる農耕文化が、 あり、春に播種し夏以降に収穫する。これは冬 作が主力となる麦類と顕著に異なっている。雑古代帝国の成立に大きく作用している。 げられ、また、用途や環境適応性の異なるものおそらく紀元前後ごろから発達した。 がつくりだされており、その歴史の古さがうか 根栽農耕文化では農業の主作物がいも類であ穀は夏作物であり、温帯、熱帯で夏の雨期に栽〔地中海農耕文化〕オリエントとよばれる西ア がわれる。 ジアの地域は古くから農耕が始まり、古代文明 り、いも類は重量が大きく腐敗しやすいので、 培されるものである。これら雑穀の共通の特性 からみると、イネは穀粒がやや大きく、おもにを形成した地帯で、その中心地域は「豊かな三 根栽農耕文化は、その発生地は中国南部から権力によって収穫物を収奪し、輸送、集中、貯 マレー半島にわたる地帯とみられ、そこでタロ蔵することが困難である。したがってこの農耕水田で栽培されているが、農耕文化としては、 日月地帯」の名でよく知られている。ここで成 ィモ、ヤムイモの主要種のダイジョ、ハリィモ文化では強大な権力が成立しにくく、地方的政これらの雑穀と共通の農耕文化基盤のうえに成立した農耕文化が地中海農耕文化である。この などが栽培化され、民族移動に伴って、ポリネ権以上の階層社会の成立がみられす、専門的技立しているものである。このように夏作物の雑地域は地中海性気候で、冬は寒くなく、降雨が でんば シアの東端まで伝播した。年代的にみると、 術集団の形成も少ない。したがってそれらは高穀を主作物とする農耕文化は、その起源地、栽あり、夏は暑く乾燥して、原野の草は茶色に枯 プア・ニューギニアの中央高地で九〇〇〇年前 度文明に取り残されることになった。 培植物の種類、農耕方式、料理加工方式などにれる。生じている草は冬に生育期をもつ一年草 の導水溝が発掘されており、そのころに植物栽〔サバンナ農耕文化〕現在の世界の農業の主作文化複合が共通的に成立しており、基本的な大で、麦はまさにそうした草である。オオムギ、 コムギなどのはか、ライムギ、エンバクなど麦 培があったことの確証とされている。この年代物はイネ科の穀類である。穀類のなかにはイ きい文化類型である。 の古さは、西アジアの麦作を中心とした農耕文ネ、麦類のような主要なもののほか、いまは副 この農耕文化は、アフリカのサハラ砂漠以南作を中心とし、冬作の豆類のエンドウ、ソラマ メ、根菜類のビート、タマネギ、カプ、ダイコ 化と比較して、勝るとも劣らぬ古さである。 のサヘル地帯とよばれるサバンナ帯がその第一 次的にみられる雑穀という一群の穀類がある。 ンなどを主作物とした農業が成立した。またウ オセアニアに典型的な農耕文化とよく似たもその内容はアワ、キビ、ヒ工、モロコシ、トウ次発生地と目される。具体的には西アフリカを のは、新大陸のカリブ海沿岸にも独立して成立 シ、ヤギ、ヒッジなどの家畜化が行われ、乳加 ジンビエのように現在もかなり重要なものか貫流するニジェール川の中流域で起源した可能 性が高いので、この農耕文化をサバンナ農耕文工が発達した。この地域の農耕文化は考古学的 チて栽セ南しニコジ耕重 工しの化 , 播マシの農が 化とよぶことになった。 言査がよく行われており、その歴史がかなりよ てと自文ワ伝 , キ地栽耕 サバンナ農耕文化は西アフリカから東アフリ くわかっている。地中海農耕文化は旧石器時代 が物独耕ア流はメ高根農 一や作な農は交に , スの子 力、インド、中国、日本、東南アジア地域に伝終末期に野生のオオムギ、コムギなどの採集か , がうナでに地化デら種 播し、それそれの土地で独自の栽培植物が開発ら始まり、新石器時代になり耕作された。先土 はエよンド互生文ンれる ピのバン相発栽アそす され、それらが相互に交流伝播した。これらの器新石器時代 ( 土器のない新石器時代 ) の第三 立ロ 文クアサイがの根 耕コピ北 ら化の化る栽 広大な地帯でのサバンナ農耕文化はいろいろな期の紀元前七五〇〇 ~ 前六五〇〇年ころには耕 農シオぶ , れ文型文あを 作、収穫、貯蔵、加工 ( 石製の臼と杵、パン焼 変化がみられるが、作物の中心はイネを含めた ナとチよりそ耕帯栽がシ ンフ工とあて農熟根とコ き炉 ) などができ、完成した農耕時代に入って 雑穀が主力になっている。そのほかササゲ、ダ テ ロ 一もしの地帯化 きた。その後土器が出現し、料理法が改良され イズ、アズキなどの豆類があり、栄養上植物性 サはるタにそ陸低温文モ たですンど。大の暖栽ウ のタンパクの補給が可能になった。またキュウた。その後もこの農耕文化の発達は著しく、畜 しア展セなたカ近る根ト 生ピ発をドれリ付す地のる 、ナスのような末熟果を野菜とする果菜類がカによる犂の利用が発達し、主食の大量生産が 発オはろンさメ海と冷類 発達した。これらの栽培植物はすべて夏作物と進んだ。麦類は乾燥、貯蔵、輸送が便利で、そ でチ耕こイ化アプカ高穀て 帯工農と南培 丿主るたっ いう共通の特色をもっている。ゴマその他の油れを集める大権力が成立し、強大な階層社会か 地。ナたと栽た力をすれな 料作物も栽培されている。こうしてサバンナ農らなる古代帝国が生まれてきた。この農耕文明 ルるンれドがつるモと優に へすバさンビいすイカ , 態 は、西のエーゲ海地方、北アフリカ、イタリ 耕文化は農作物だけで栄養を完結させることが サ播サ発イキてとマ主に状 の伝 , 開北はしカツをえた ア、さらに西ヨーロッパに伝播し、今日の世界 できるようになった。この農耕文化は本来的に 力にれがはで展主サモうつ は家畜を欠いていたが、後述する地中海農耕文文明の中心的存在のヨーロッパ文明をつくりあ アら物一ド発をのイのあ フピえ植タン歩ク近ガ化 化からウシ、ヒッジ、ヤギなどの家畜を受け取げた。またユーラシア大陸の乾燥した草原日ス アオ加培ンイ進オ付ャ文な り、プタも現れてきた。農具としては鍬が全地テップなどに家畜飼育を専業とする遊牧民を生 文 域で基本としてつねに用いられているが、畜カむもととなった。麦類はチベット・ルートとシ 文 耕一化文 耕 農タ文耕 べリア・ルートで東アジアの中国へ伝播し、イ による犂は地中海農耕文化からの受容である。 路農ナ化ナン耕農 アフリカのサヘル地帯の農民の大部分には、現ンドにはイラン高原から伝えられ、いすれの地 経海ン文ンセ農陸 播中バ耕ハの栽大 在も犂の利用がみられない。雑穀の食用化は米域でも最初の古代帝国の形成の基礎となった。 伝地サ農サ化根新 うすきわ 以外は粉食が多く、脱穀、製粉にまで臼と杵が 〔新大陸農耕文化〕コロン・フスの航海後、一六 →呂ロ昌 常用される。加熱料理には古代から土器が広く世紀になって新大陸の発見 ( 地理上の発見 ) 時 3 0 6 2 プ すき