へを 4 兮心 1 囈 ルきもらあしルうきん 縫箔水辺に雪持芦遊禽文様縫箔桃山 時代重文岡山林原美術館 刺しゅうで模様をつくる。これは能装束 ざんしん としては驚くほど斬新な図柄で , 能装束 が完成する桃山の息吹を伝えている バゆま 一を当職はこ朝、。 0 しめきりきくきりしんだんがわり いろいりからおり 紅入唐織紅白締切菊桐文段替唐織桃 山時代重文岡山林原美術館 唐織は能を代表する装束。女性の上着と して多く用いる。刺しゅうでなく , 全部 浮織で模様がつくられている。これは桃 山期の大胆なデザインである れいはく りんばうびしやもん ! つこう 厚板段に彩杉輪宝毘沙門亀甲厚板明 治時代滋賀彦根城博物館 主として男性の役が , 着付として用いる。 彩杉模様は稲妻の変形で , 近世以降のデ ザインとされる あついた 339
科学が高度に分化、発展しているため、総称と世紀以後、ドイツのゲーテの『植物変態論』は 通とともに両線をあわせて伯備線とした。山陽じて画家の基礎的技術として継承されていっ しての博物学という語が使われることはほとんじめ、フランスのラマルクの『動物哲学』、イ 新幹線の開業 ( 一九七一 l) によって、伯備線は京阪た。また密教図像の粉本の多くは白描画で、院 いずも ギリスの O ・ダーウインの『種の起原』などが 神地域と山陰地方中部 ( 米子、松江、出雲平野政期にはそれらの転写が盛んとなった。平安時どない。 人間の生活と深いかかわりをもっ動植物、鉱現れるに及んで、生物進化の思想を基本とした など ) を結ぶもっとも所要時間の短いルートを代 ( 一二世紀 ) の『鳥獣人物戯画』 ( 京都・高 形成し、陰陽連絡線のなかで重要な線となっ山寺、図膨絵巻 ( 別刷 ) ) は、このような伝統物などの自然物を薬用に用いる研究は古くから博物学となり、現代生物学への道を進むのであ しんのうほんぞうきよう た。このため、列車のスピードとサービスの向のうえに生まれたものである。白描の「つくり中国にあり、五世紀ごろに『神農本草経』『博る。 現代生物学は多くの分野に細分化され、その 上、設備の改良が進められて、八二年 ( 昭和五物語絵」も、一三世紀に入るとその技術的洗練物志』などの著作が出るに及んで本草学として が進み「白描やまと絵」の様式が確立し、『隆初めて学問となった。この中国の本草学が『新本質としての生物進化の探究から離れる傾向が 七 ) 電化が完成、複線化も進んだ。大部分の列 ふさきょ・つつやことば なきにしもあらすである。実用の学問であった 修本草』として日本に入ってきたのは八世紀ご 車は山陽本線、山陰本線に乗り入れて、それそ房卿艶詞絵巻』 ( 国立歴史民俗博物館、図 まくらのそうし れ岡山、米子以西に直通する。 〈青木栄一〉絵巻 ( 別刷 ) ) 、『枕草子絵巻』 ( 東京・浅野家 ) ろと考えられる。その後、中国も日本も戦乱の本草学が、科学としての博物学に発展したにも まくしとうひょう かかわらず、ふたたび実用のみのライフ・サイ などの清澄な美感を備える作品がつくられた。時代が続いたため、学問一般の発展はみられな 白票はくひょう 0 紙投票 ↓鳥獣人物戯画↓枕草子絵巻 〈加藤悦子〉 かった。一七世紀初めに至り、徳川幕府が成立エンスにゆくようなことは避けなければならな 白描画はくびようが墨の筆線を主体として 博物学は、「自然誌」ということばが示す 描かれた絵画。したがって、墨の面的な表現を幕府ばくふ大将軍の本営をいう。幕は帳し、学芸が隆盛し始め、徳川家康自身も本草学 ように、あくまで自然のなかでの自然物の生活 主とする「水墨画」とは区別される。彩色を施幕のことで、軍隊が行動するとき随時に幕を用に深い関心をもっていたことなどから、医師た ふんほん いてその陣を取り巻いて府としたところに語源ちの間で薬用としての動植物の研究、記録が進を研究し、記録する生物学の重要な分野であ す前の下絵や、粉本、素描なども含まれるが、 りじちん 〈國井嘉章〉 本格的な白描画は線描によって完成された作品 がある。また一説には、幕は莫 ( 大という意 ) められた。さらに中国の李時珍が著した『本草る。 えいせい である。中国では古く「白画」とよばれ、唐のないしは漠のことで、昔中国で衛青という者が綱目』が日本に渡来し ( 一五九 0 ) 、当時の本草学回上野益三著『日本博物学史』 ( 一九七三・平凡社 ) きようど らんぎん いのうじゃくすい ごどうげん ▽小野蘭山他著、上野益三解説『博物学短篇 呉道玄によって完成されたのち一時衰退してい 匈奴を征した際、大砂漠の中に設けた府、つ者、貝原益軒、小野蘭山、稲生若水らは大き やまと このえ りこうりん 集』上下 ( 一九全・恒和出版 ) まり車営に基づくともいわれる。日本では近衛な影響を受けた。なかでも貝原益軒は『大和本 たカ、北宋末には李公瑩によって復興された。 日本においてもその伝統は奈良時代にまでさか府の唐名、転じて近衛大将の居館をいった。の草』をはじめ『花譜』『諸菜譜』などの書物を はくぶつかん museum ト画りレ」 ~ ッ まふぼさっ 博物館 のばり、『麻布菩薩像』 ( 正倉院宝物 ) などの遺ちに一一九〇年 ( 建久一 ) 源頼朝が右近衛大将 刊行し、本草、博物学の啓蒙普及に努めた。こ 〔博物館とは〕 のように江戸時代に至って日本の本草学は成熟 品が残されているが、その技法は平安時代を通に任ぜられると、鎌倉の居館は幕府とよばれ、 たいしようぐん 〔博物館の歴史〕ヨーロッパ / アメリカ / 九二年頼朝が征夷大将軍になったあとも引き発展し、また博物学としての形を整えたと考え 世重を , な子で手が子 アジア / 日本 てその居館をさしたことから、武家政権のられる。 「段緻定法を左原続い , 曰舎 5 子 7 精宮手 〔役割とその機能〕収集 / 保管・整理 / 展 定 首長およびその居館をいった。歴史学では、鎌 また江戸時代の中期、スウェーデンの博物学 」 5 草 7 詞中のく隆げ景 示 / 調査研究・教育活動 / 今後の課題 倉・室町・江戸幕府のように将軍を首長とする者ツンベルクが来日した ( 一七七五 ) 。彼は、博物 巻枕 , 存の〔台姿道 絵貶『で現皇屋を原女 〔日本の博物館〕 〈伊藤清郎〉 ののが天鍰彳藤ニ武家政権そのものを意味する。 学の基礎となる動植物の分類学をおこしたスウ たき 尢描言も巻条「吹右白た 〔世界の博物館〕 エーデンの学者リンネに学んだ人物で、日本滞 白納た 1 関し瀑布ばくふ 0 滝 本少しの , がるの 画紙清に段で屋れ父訪幕阜山脈ばくふさんみやく / ムーフーシャン中在の数年間に、動植物の標本など多数を得て帰 巻 7 描部かがを 〔博物館とは〕日本では、一九五一年 ( 昭和一一 国、揚子江中流の南岸にあり、湖北省と江西省国、『日本植物誌』 ( 一大四 ) 、『日本動物誌』 ( 天 白紀文絵絵白の描前姉 どうてい 一一三 ) などをまとめた。時を同じくして、日六 ) 社会教育法の精神に基づき、「博物館法」 の境界をなす山脈。洞庭湖東岸から東北東一三 ~ しゅうすい きゅうれい へ連なり、南には修水を隔てて九嶺山脈本でも蘭学の方面で、杉田玄白らの『解体新が制定された。その法律によれば、博物館とは が並走するが、北は岳陽から武漢、黄石に 書』の完成 ( 一七七四 ) があり、従来の実用を主と「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関す 至る揚子江沿岸の低地が広がる。幕阜山した本草学を基盤とした日本の博物学に対しる資料を収集し、保管 ( 育成を含む ) し、展示 して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、 ( 一五九六 ) 、九宮山 ( 一五四三 ) などがある。 て、ヨーロッパの科学の方法を導入したものが しよく その教養、調査研究、レクリエーション等に資 幕阜山は三国時代に呉が幕営を置いて蜀軍生まれてきた。 の侵入を防いだのでこの名があり、別名は ヨーロッパにおける博物学は、ギリシアのアするために必要な事業を行い、あわせてこれら の資料に関する調査研究をすることを目的とす 天岳山または昌江山という。山上には繋 リストテレス以来、動植物、鉱物など自然物に れっせんだん 舟峰、列仙壇など道教に関連する名所がついての研究がなされ、科学としての体系を形る機関」と定められている。 この規定のなかには、美術館、資料館 ( 民 〈酒井敏明〉成してきた。イタリアのレオナルド・ダ・ビン たきせん ばくふせん 0 滝線 チによる「解剖図」や、オランダのレーウエン俗、歴史など ) 、動物園、水族館、植物園、科 瀑布線 はくぶつがく natural history フックの自家製の顕微鏡による微生物の観察記学館 ( 自然科学、技術など ) が含まれている。 一 . ( 博物学 日本博物館協会では、博物館の種類として、総 広義には動物・植物・鉱物などの自然物の録などには、実用にとらわれない真理探究の情 っ 種類・性質・分布・生態などを研究する学熱がうかがわれる。イギリスのハー・ヘーの血液合、郷土、美術、歴史、自然史、理工、動植物 。狭義には動物学、植物学、鉱物学、地循環の原理発見や、イタリアのマルピーギのマがあるとしている。しかし、一般的に博物館と いう場合には、動物園、植物園、水族館などと 質学の総称。同義語に博物誌、自然誌など ルピーギ管の発見などがあり、学理研究として は区別されている。 がある。現代では自然物に関する各分野の の博物学が一七世紀に確立されていった。一 しゅう ロ たか 637
はくもこうげん / ペクムコウオン朝群。バクーの石油の歴史はベルシアの昔より始中流に位置する。白陽淀、西淀とも称する。白 州に分布し、年中姿をみる。冬は体を糸で包む白茂高原 れんか かんきトっ・ が、暖かい日には抜け出て活動する。そのほ鮮民主主義人民共和国の東北地方、咸鏡山脈まる。近代的石油産業はノー・ヘル賞創設者の洋淀、蓮花淀など大小九二余の沼沢の総称で、 か、ヒナハグモやヨーロッパと共通のカギハグ 北西部に展開している高原。高原は、中生代以・ノーベルの兄たちにより整えられ、一九〇最大面積約三〇〇平方キ。、常時は二〇〇平方キ。 ちょうしん - 一う モやアシハグモがいる。図しクモ〈八木沼健夫〉後長津江の侵食削剥を受けて形成された準平〇年代の初めには世界一の石油生産地となっ余。海河流域の南西部の支流を集め、水量を調 ハクモウイノデ〔白毛猪手〕トミを・原が地殻運動によって隆起した高位置準平原でた。その後の革命や第一一次世界大戦の間、油田整して本流へ流下させる機能を果たす。季節的 、ミを c ききミミ (Christ) Koidz. オシダある。隆起連動は傾動地塊を伴い、北西側は緩は破壊と再建が繰り返され、石油生産の中心は な水量の変動が大きく、増水期と渇水期の水位 科の夏緑性シダ。直立する根茎から二回羽状の慢に傾斜し、南東側は急傾斜している。その後第二バクーに移っていった。現在はカスピ海の差は一〇以上に達し、それに伴う水域面積の ひしん 倒披針形の葉を束生する。白色の有節毛が多量河川の開析によって、西頭水流域を除いてはほ油田開発が活発化し、開発された油田群は対岸変化も大きい。沿岸や淀内の中州状の島は干拓 〈田中正三〉 にあるため、この名がある。アジア全域に分布とんど高原状の地形がみられない開析高原に変まで延びている。 により耕地化され、一部は水田となっている。 〈魚塘〉 し、日本では沖縄県を除く各地の山間に普通に / クョウ〔白楊〕 white を三 ar \ Po ・桂花魚やエビなどの魚貝類や、アシ、ヨシなど 産する。ハクモウイノデは四倍体植物で、ミⅡ lus ミ L. ャナギ科の落葉高木。別名ギン の水辺植物、カモ、ガンなどの野鳥も多く、河 麦尸一ばくもんどう 0 ジャノヒゲ 〈秋山元秀〉 北の「魚米の郷」とよばれる。 80 ( は染色体数 ) である。毛の少ない二倍体爆薬ばくやく high explosive 火薬類のドロ ( 銀泥 ) 、ウラジロハコャナギ ( 裏白箱柳 ) 。 はミャマシケシダとよばれる。 〈栗田子郎〉 うち、爆轟とよばれる衝撃波を伴う爆発をおこ樹皮は灰白色を帯び、滑らかであるが、老木で ーク一フ Charles Glover Barkla ( 天七七 はくもうじよ現代中国の歌舞劇。一す物質。衝撃波を発生せずに爆発的に燃焼するは粗く裂ける。名は、若枝、芽、葉の裏に白色 ー一九四四 ) イギリスの実験物理学者。一八九五 白毛女 ろじん ていき 九四五年、延安魯迅芸術学院の賀敬之、丁毅ら物質である火薬と区別される。爆薬が爆轟するの綿毛が密生して銀白色を呈することに由来す年リバブール大学に入り、 O ・ロッジに実験物 りんべん らせん により集団創作された。物語は、貧農の父、楊と、それに伴って発生する衝撃波によって周囲る。芽の鱗片は、頂芽では螺旋状に配列し、側理学を学ぶ。同大学を卒業後さらにケンプリッ パイラオ だえん 白労を悪徳地主黄世仁に自殺させられたうえに の物体は破壊作用を受ける。爆薬には一次爆薬芽では背腹の二列に縦生。葉は卵形ないし楕円ジのトリニティ・カレッジに学び、キャベンデ 自らも妊娠させられた喜児は、黄の家を逃れ出と二次爆薬がある。前者は打撃、摩擦、加熱な形で長さ四 ~ 一〇、表面は濃緑色で浅く三 ~ ィッシュ研究所の・・トムソンのもとで研 て、山中の洞穴に隠れ住む間に、白髪となってどによって容易に発火し、しかも確実に爆発す五裂し、波状の歯牙または欠刻があり、先は鋭究を始めた。一九〇二年リバブール大学に戻 びよう しまった。飢えをしのぐために夜、廟の供物をる物質で起爆薬ともよばれる。後者は起爆薬や くまたは鈍く、基部は円形または浅い、い . 臓形。り、〇九年からロンドン大学教授、一三年から とる喜児の姿をかいまみた村人は、白毛女と恐 伝爆薬などの助けを借りて初めて確実に爆発す雌雄異株。春、葉が出る前に花穂を出し、枝先死ぬまでエジンバラ大学教授を務めた。ごく初 ダーチュン さくやく れ敬う。彼女のかっての恋人大春は八路軍の兵る物質で、爆破薬や炸薬として用いられる。 に下垂する。雌穂は黄緑色で長さ約五弩、柱頭期を除き、 x 線に関する研究に取り組み、・ 士となっていた。彼は、村人の迷信打破のた —型およびⅡ型爆薬として分類される爆薬も は二個で二裂する。雄穂は暗赤色でやや長く ・トムソンの理論に対応する実験成果を次々 め、白毛女の正体を暴こうと山中に踏み込み、ある。—型爆薬は比重を高くすればするほど爆雄しべは六 ~ 一〇本。包葉は深い切れ込みと縁とあげて、原子の構造の解明に寄与した。すな みっせん 喜児をみいだす。救い出された喜児は地主打倒速が高くなるもので、やヘキソーゲン に長毛があり、基部に杯状の蜜腺がある。中央わち、 X 線の偏光の発見、 X 線にさらされた物 の先頭にたち、やがて髪は黒さを取り戻した。 &2><) のような高性能化合爆薬がこれに属アジアからヨーロッパの原産で、明治中期に渡質からの二次 X 線に散乱 X 線と特性 X 線の二種 河北省の民間伝承を素材に、民謡、秧歌の身ぶする。Ⅱ型爆薬は比重を高くしていくとある程来し、公園や街路に植栽される。〈菅谷貞男〉あることの発見、特性 x 線の、系列の発 すすきだきゅうきん りを取り入れ、オペレッタ風にしたもの。主題度までは爆速が高くなるが、それ以上では逆に 白羊宮はくようきゅう薄田泣菫の詩集。一見、散乱 x 線の分布測定による原子内電子数の かなおぶんえんどう 曲『北風吹いて』は有名。五〇年に映画化され爆速が低下し、ついには伝爆しなくなる爆薬で九〇六年 ( 明治三九 ) 金尾文淵堂刊。六四編を推定などである。特性 x 線の発見の功で一九一 らい - 一う 第六回国際映画コンクールに入賞。同作品は、 ある。多くの混合工業爆薬や雷汞、一一トログア収録。上代語を中心に古語を多数取り入れ、古七年にノーベル物理学賞を受賞したが、その記 文化大革命中、バレエ、現代革命京劇にも改編ニジンなどがこれに属する。Ⅱ型爆薬にはある典的詩風を確立した。冒頭の「わがゆく海」念講演で述べた系列については、その存在が やほあひしほ された。 ^ 川合葉子〉 〈前田利昭〉程度以上の加圧下では爆発しなくなる死圧現象 ( 「 : : : わがゆくかたは、八百合の潮ざゐどよ否定されている。 あさびら みをびき がみられる。↓火薬 〈吉田忠雄〉む / 遠っ海や、 ばくらい depth charge 魚雷、機雷 ハクモクレン〔白木蘭〕き あゝ、朝発き、水脈曳の爆雷 、を (Buchoz) Dandy モクレン科の : 」 ) や、ゲーテの『ミニョンの歌』に倣っ と同じ水中破壊兵器だが、もつばら対潜水艦攻 ゆでん baKHHCKHVI He(i)- バクー油田 みづき こひがた 落葉高木。中国原産で、古く日本に渡来した花 Te1 ・ a30HOCHb11i paü0HZBakinskiy neftega- た「望郷の歌」 ( 「 : : : 瑞木のかげの恋語り、撃用として用いられる。水上艦艇や航空機から みぶきゃうげんかぶきこ わぎ てぶりぎれ 木である。大きいものは二〇にもなる。三 ~ zonosniy rayon ソ連、アゼルバイジャン共 壬生狂言の歌舞伎子が / 技の手振の戯ばみに、投下され、あらかじめ調定された深度に達する ゑひろ きゃうあ きみ 四月、淡黄白色の花が葉の展開に先だって開和国力スピ海に面するバクー地方にある油田笑み広ごりて興じ合ふ / かなたへ、君といざか と爆発して潜水艦に致命的な損害を与える。ド やまと き、木全体に花をつけ、大木の花期は壮観であ へらまし。 : 」 ) 、有名な「ああ大和にしあラム缶型 ( 重量約一九〇キロ ) と流線形型 ( 約一 がくへん る。シモクレンやコ。フシなどと違い、萼片は らましかば」などの絶唱のほか、「白すみれ」五〇キ。 ) の二種あり、いずれも爆薬量九〇 ~ 一 たまとこゐ 質、大きさともに花弁とはば同じ。シモクレン などの愛恋叙情小曲群、「魂の常井」などの象三五キ。。潜水艦の速度上昇に伴い現在では速沈 ろう とともに多数の園芸品種が作出されている。シ 徴詩や、民謡体の試みなどがある。高踏的、浪性の大きい流線形型爆雷にとってかわられてい まん モクレンとの雑種群も多く、日本ではサラサレ 漫的な泣菫詩風の頂点を示し、文語定型詩完成る。初期は艦尾に投下軌条を設け、潜水艦が探 ンゲ、ニシキモクレンなどが庭木とされる。シ の功を担う名詩集。 〈広瀬朱実〉知された海面で投下していたが、ソナーなど水 > モクレンと本種のつばみを辛夷といい、漢方薬 回松村緑注釈『日本近代文学大系薄田泣菫測武器の性能向上で探知海域が拡大されるにつ 、らとして頭痛、鼻炎などに用いる。繁殖は、コプ 集』 ( 一九七一一・角川書店 ) れて爆雷投射機が出現、砲 ( 片投射 ) 、 つぎき みしよう ウ / 、シを台本とした接木や実生による。↓コプシ はくようてん / 。ハイヤンティエン中国、砲 ( 両舷用 ) で最大一二〇先まで射出できる ョ白洋淀 だいせい ↓シモクレン 〈植田邦彦〉 河北省中部にある沼沢。海河の支流、大清河のようになった。第二次世界大戦中から爆雷は前 6 しん ばく・こう うみ へり
ち、妊娠する前の月経 ( 最終月経 ) の第一日か 期 / 妊娠後期 / 妊婦検診 始まり、のち一二月に施行されるようになった写実的な恋愛小説の名称である。市井の青年男 にわび 〔母体と胎児との関係〕胎児への影響 / 妊ら数えて分娩が何日目にあるかを調べた何万と 女を主人公に、多くは一人の男生に配するに二 が、内侍所正面に庭燎をたき、向かって左方に いう例から、その平均がだいたい第二八〇日目 婦と血液型 本座、右方に末座を設けて行われる。神楽はま人ないし三人の女性をもってし、三角関係、ま なりたか であることがわかり、これを出産予定日として 〔妊娠中の異常〕異常妊娠 ず庭燎の前に進み出た人長の「鳴高し、鳴高たそれ以上にわたる情痴的恋愛の種々相を描く ふるまふ いる。この二八〇日という数は四〇週に相当 〔民俗〕 し」「不留末不、ふるまふ」という唱え言で始ものである。背景となる江戸市井の風俗の的確 ひちりき し、四週間を妊娠の一か月と考えれば、一〇か 〔諸民族の習俗〕 まる。人長は、笛、篳篥、琴に演奏を命じ、歌な描写に加えて、会話と地の文を対等に扱う近 月になるわけで、しかも四週間は二八日間で大 〔動物の妊娠〕 人を召すなどの進行役のほかに、自ら庭燎の前代的な表現様式も樹立し、明治の風俗小説、硯 ゅう さかき 多数の月経期間の日数とも一致するところか 友社の文学を生む役割をも果たしている。た で足を踏む所作をしたり、輪のついた榊を手に てんぼう 妊娠とは、受精卵が母体と組織的連絡を生ら、便宜上、妊娠期間として採用されたわけで だ、以上のように定義づけられるのは、天保 持って舞った。この人長の採物の榊は御神楽が ためながしゅんすい じ、物質の授受を行いながら発育していく現象ある。したがって、予定日に出産するのは四 % 〈高山茂〉 ( 天三 0 ~ 四四 ) に入って為永春水が人情本をリー 済むと天皇に献上された。 くらいで、大多数はその前後二週間すっ、計四 認証官にんしようかんその任免につき、内ドするようになってからの作品で、それ以前のおよびその状態をいう。つまり着床から出産ま 週間のうちに出産する。 閣の助言と承認に基づき国事行為の一種として文政期の人情本は、音曲、演劇、講釈などに取での期間をさすわけである。 〔出産予定日算出法〕出産予定日を知るには一 行われる天皇の認証 ( ある事実の存在を確認し材した未熟な伝奇小説であった。人情本の名称〔妊娠の成立〕妊娠は①女性生殖細胞である卵 しゅんしよくうめごよみ 証明する行為 ) を要する官吏。国務大臣、最高も、春水が『春色梅児誉美』四編序で彼自身の形成と排卵、②男性生殖細胞である精子の形覧表になった妊娠暦などを利用すればよいが、 もの 裁判所判事、高等裁判所長官、会計検査院検査の作品を人情本と称してから一般化したもの成と射精、③受精、④受精卵の着床、以上の過産科医や助産婦は次のような予定日概算法で計 ちゅう 算している。すなわち、最終月経の開始日の月 官、人事官、検事総長、特命全権大公使などがで、普通にはその書型から滑稽本とともに中程を経て成立する。 ほん 〔排卵〕卵巣内で成熟した卵胞が破裂して卵を数に九を加えた数が出産月で、一一一より多くな その例であり、認証はとくに法律的意味をもた本とよばれ、本屋仲間の公的な称呼としては ちゅうがたえいりよみほん よ、 中型絵入読本、さらにその内容から初期にお排出する現象で、排卵した卵は活発な卵管の運るときは月数から三を引く。出産日は最終月経 なきほん 動による卵管采部の吸引作用と卵管采の繊毛運の開始日の数に七を加えた数で、三〇より多く いては泣本とも称されていた。 なお、各省各庁の長が、予算執行の適正を期 なれば多くなった数だけ翌月に回り、したがっ 動によって卵管采内に吸い込まれる。卵の寿命 人情本は洒落本からテーマや表現技術を多く するため必要があると認めるとき、所属の職員 は排卵後二四時間以内であり、それ以上経過すて出産月が翌月に変わる。月の大小などがある にその所掌にかかる支出負担行為の全部または受け継ぎながら、なお書肆の要求で婦女子を読 ので正確とはいえないが、だいたいの目安には 一部について認証を行わしめることができる。者と予想することでそれにふさわしい題材や表ると受精能力を失う。↓排卵 〔射精〕性交によって性的興奮が高まると射精なる。 会計法上、この職員のことを支出負担行為認証現を加え、洒落本と違って遊里から離れ、中型 〔妊娠週数〕 O ( 世界保健機関 ) では満の がおこり、精液とともに精子が腟内に射出され 官とよぶ。 〈福家俊朗〉絵入読本の名称が示すように、通俗的な世話読 る。この精液内には数億の精子が含まれてお妊娠週数で妊娠期間を表現することになってお 本として執筆されたところに成立する。一般に 人情噺にんじようばなし人情咄とも書く。 じっぺんしゃいつく り、日本産科婦人科学会では、従来の妊娠暦に り、一分間に約二 ~ 三ミリの速度で卵管膨大部ま 落語の一ジャンル。落語を内容のうえから分類それは、無名作者の草稿を十返舎一九が校合し せいだんみねのはつはな て出版した『清談峯初花』 ( 天一九 ) を最初とすでの約二〇の距離を進み、二 ~ 三時間から十よる二八日を一か月とした月数 ( 数え月 ) の呼 したもので、落し噺 ( 小咄も含む ) に対してい はなさん なんせんしようそまひと う。広義には笑いだけでなく人情の機微をうがるが、二世南仙笑楚満人 ( 為永春水 ) や鼻山数時間かかって到着する。精子の受精能力は子び方との混乱を避けるため、妊娠第何か月、第 0 た噺のことで、狭義には世話講釈に近い噺をんらの作品によ 0 てしだいに現実主義的な傾向宮や卵管内で三〇時間から三日以内といわれ何週と表現することにしている。なお、出産に きよくさんじん かなまじりむすめせつよう ついてもこの妊娠週数で区別し、妊娠一一三週ま いう。本来、続き噺で、落ち ( サゲ ) のないもを強め、曲山人の『仮名文章娘節用』 ( 天三一 ) る。↓射精 ~ 三 lll) 以下の春〔受精〕卵管膨大部で精子と卵が都合よく巡りでの分娩を流産、妊娠一一四 ~ 三六週を早産、妊 のであったが、現在では、落ちがあっても人情を経て『春色梅児誉美』 ( 天三一一 娠三七 ~ 四一週を正期産、妊娠四二週以降を過 味があって、しみじみと聞かせる噺も人情噺と水の作品で、他の江戸小説に対して完全に独自会えば受精がおこる。多くの場合、精子が先に しようてい そうしゆく あんえい 一 ) のころ初代石井宗叔性を主張する位置を確保した。鼻山人や松亭卵管膨大部に達して待機するが、少なくとも六期産とよんでいる ( 図 <)O いう。安永 ( 一七七一一 ~ 〈 きんすい ぶんかぶんせい 〔妊娠の診断〕多くの場合、妊娠の診断を下す が長噺を演じ、一一代目宗叔が文化・文政期 ( 一〈金水らも活躍するが、天保の改革の風俗取締り〇個以上の精子が卵に集まる。そのうち一個だ かみがた ことは困難ではない。一般的には自覚的な症状 0 四 ~ 三 0 ) に人情噺を創始したといわれる。上方によって弾圧され、幕末になって復活するものけが卵に侵入して受精を完了することになる。 かんせいきようわ 、一 0 のころに の、そのまま維新開化の波にのみ込まれ、「続受精卵はただちに細胞分裂を開始し、子宮内へと他覚的な徴候に基づいて行われるが、ごく早 でも寛政・享和・文化 ( 一大九 ~ 一ノ こしんぶん しそう 芝屋芝叟が長噺を演じたが、上方落語には「人きもの」とよばれる明治の小新聞の風俗読み物移動を始めるが、このとき男女の性別はすでに期の診断には特別な診断法を用いる。 〔妊娠の徴候〕妊娠による母体の変化としてみ 〈神保五彌〉決定している ( 図 ) 。↓受精↓人工受精 へと解消していった。 情噺」という呼称はない。江戸で人情噺が流行 - 」 - 」んていししよう られる疑徴と、胎児の存在による確徴とに分け したのは幕末期で、初代古今亭志ん生が著名で回『人情本について』 ( 『山口剛著作集 4 』所〔着床〕受精卵は六 ~ 七日かかって子宮腔内に 到達し、子宮内膜に埋まって母体と関係をもつられる。なお、母体の変化には性器以外に現れ 収・一九七一一・中央公論社 ) あった。人情噺を完成の域にまで導いたのは明 えんちょう る変化と、性器に現れる変化とがあり、前者を ようになる。これが着床で、受精から着床までは 治初期の三遊亭円朝であったが、昭和の時代 はやしやしようそうひこ えんしよう 妊娠にんしん pregnancy, gestation 七 ~ 一〇日間とみられている。着床後は本格的不確徴といって区別することもある。不確徴は まで六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵 ( 彦 な発育が始まり、胎児となる ( 図 0)0 ↓胎児妊娠の兆しではあるが不確かなもので、妊婦以 〔妊娠の成立〕排卵 / 射精 / 受精 / 着床 六 ) がこれをよく継承していた。〈関山和夫〉 〔妊娠期間〕出産予定日算出法 / 妊娠週数〔妊娠期間〕真の妊娠持続期間は卵が着床した外にも他の疾患のために現れることがある。す にんじようばん江戸後期の小説の一 ん人情本 なわち、つわり、乳房の変化、頻尿、皮膚の変 ときから出産 ( 分娩 ) までであるが、着床の日 〔妊娠の診断〕妊娠の徴候 / 早期診断法 しジャンル。洒落本の後を受け、洒落本と違って 化など、妊娠早期にみられる自覚的症状が多 3 、臨床上は最終月経の第一日か 〔母体の変化〕性器の変化 / 性器外の変化 んおもに婦女子を読者とし、文政初年 ( 一〈一〈 ) か これに対して性器に現れる変化であるが、 「妊娠中の生理と摂生〕妊娠初期 / 妊娠中ら分娩に至るまでの期間としている。すなわ ら明治初年 ( 天六 0 にかけて江戸で流行した、 とりもの こつけい ん ぶんべん う
えんきよう よ三巻あるいは上・下二巻にまとめられている。 続いて延享年間 ( 噐 ~ 哭 ) に入ると、播磨少掾が死去、し、経営は双方とも苦しく、まず一八九三年に彦六座がつぶ えちぜんのしようじよう 一方、人形については傀儡子の芸からあまり進歩がなく、 越前少掾を受領した豊竹座の祖、若太夫も引退して、竹れ、一九〇九年 ( 明治四一 l) には文楽座も植村家の手から松 めいらく ん片手遣いの小さなもので、舞台も簡単に幕を張った陰から人豊両座とも新しい活躍期を迎えた。とくに竹本座では、座本竹に譲渡された。彦六系の芸人たちはその後も稲荷座、明楽 たて そうすけせんりゅう 形を上に差し出して演じていたが、やがて場面に応じて道具の二世竹田出雲が豊竹座から立作者の並木宗輔 ( 千柳 ) を座、堀江座と続いて文楽座に対抗していたが、一四年 ( 大正 みよししようらく なつまつりなにわかがみすがわらでんじゅてならい みなみづめ ほんみず を飾るようになり、張り抜きの山やからくりを利用して本水迎え三好松洛らとの合作で『夏祭浪花鑑』『菅原伝授手習三 ) 佐野屋橋南詰の近松座の休座を機に文楽座に併合され、 かがみよしつねせんばんざくら かなでほんちゅうしんぐら ひだのじようてづま を用いる舞台なども現れた。人形も山本飛騨掾が手妻人形鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』など浄瑠璃の代表的ここに人形浄瑠璃の専門劇場としては文楽座が唯一の存在と を考案して、背中から手を入れて引き栓でからくりを扱 , っ名作を次々に上演して操り史上の最盛期を現出した。しかし なり、「文楽」の名称が人形浄瑠璃の代名詞となった。 「差し込み式」をつくり、後世の人形の仕掛けの源流を創始人形の発達によって自由な動きが可能になるにしたがって浄 大正期も、太夫に三世越路太夫、三世津太夫、六世竹本土 すそ やましろのしようじよ、つ したが、 辰松八郎兵衛などは裾から手を入れて遣う「突っ込瑠璃の内容も見た目本位の作品が多くなり、かっ、操りに圧佐太夫、二世豊竹古靱太夫 ( 山城少掾 ) ら、三味線に三 せいろく ひろすけ きちべえ どう み式」で、いずれにしても一人遣いから脱しきれなかった。 倒された歌舞伎がいち早く浄瑠璃の当り狂言を取り入れて上世鶴沢清六、六世豊沢広助、七世野沢吉兵衛、初世鶴沢道 はち ともじろう ちく ) のじようふじ えいぎ 竹本義太夫は一七〇一年 ( 元禄一四 ) 受領して筑後掾藤演することによって衰運挽回の機運をつかんだことなどが重 、六世鶴沢友次郎ら、人形に初世吉田栄三、吉田文五郎ら わらのひろのり 原博教と名のり、名声、技芸とも高まっていったが、二年なり合って、人形浄瑠璃の人気はしだいに下降線をたどるこ が数多くの名舞台を展開した。しかし、一九二六年 ( 大正一 うねめ 後の〇三年に門弟の筆頭で美声の誉れ高かった竹本采女が独 ととなった。すなわち、竹本座では近松半二を作者の中心と五 ) に御霊文楽座が火災にあい、まもなく四つ橋に移転新築 とよたけ おうしゅうあだちがはら ほんちょうにじゅうし一う されたが、 立して豊竹若太夫と名のり、竹本座と同じ道頓堀に豊竹座をして『奥州安達原』『本朝廿四孝』などの名作を上演し 世相は昭和初期の不況から第二次世界大戦へ突 たいやていりゅう 創立した。作者には狂歌師鯛屋貞柳の弟で学者・俳諧師と たが興行的には苦しく、豊竹座も一七六四年 ( 明和一 ) に座入、四つ橋文楽座も戦災を受けた。 きのかいおん して著名であった紀海音を招いて近松に対抗させ、『冥途の本であり創始者であった越前少掾が八四歳の高齢で没すると 終戦後、文楽座は松竹の手でまもなく四つ橋に再建された ひきやく けいせいさんどがさ よいごうしん 飛脚』に対する『傾城三度笠』、『心中宵庚申』に対する『心 たちまち座運が傾いて、両座は相次いで退転、ここに竹豊時が、当時急速に高まった労働組合運動の影響を受けて、一九 このきちきたほり 中二つ腹帯』など同じ題材の作品をはじめ数多くの名作を上代は幕を閉じた。このあと豊竹座は六七年に豊竹此吉が北堀四八年 ( 昭和一一三 ) 五月ついに組合派と非組合派に分裂、組 えいちかわ いもせやまおん ろだゅう 演して成功、ここに竹本、豊竹両座が競い合ってますます人江市の側に再興、竹本座も道頓堀で再興を図り、『妹背山婦合派は一一世桐竹紋十郎を中心に三世豊竹呂太夫 ( 一〇世豊竹 なていきん みつわ 形浄瑠璃の人気を盛り上げ、技芸面でも急速な充実を示し女庭訓』 ( 一七七一 ) で一時的な大当りをとったこともあったが、 若大夫 ) 、二世野沢喜左衛門らが集まって三和会を結成して た。これより一七六五年 ( 明和一 l) に豊竹座、その翌々年の長続きはしなかった。↓竹本座↓豊竹座 松竹を離れ自主公演を行い、非組合派は豊竹山城少掾、四世 なにわのじよう ちなみ 六七年に竹本座が相次いで退転するまでの約六〇年間は操浄〔文楽座創立から国立文楽劇場開場まで〕竹豊両座の退転後鶴沢清六、吉田文五郎 ( 難波掾 ) らを中心に因会派と称し、 瑠璃の黄金時代で、「歌舞伎はあって無きがごとし」とまでは演技者には数多くの名手が出たが、作者には優秀な人材な従来どおり四つ橋文楽座を本拠とし松竹資本のもとに興行を いわれ、一般に「竹豊時代」とよんでいる。竹本座では義太 く、新作の行われることはあっても傑作は生まれず、むしろ続けていった。この二派分裂によって演技陣が甚だしく手薄 まさたゆう 夫没 ( 一七一四 ) 後、その遺言により門弟の政太夫を後継者とす過去の名作の再演が多くなり、浄瑠璃も人形も先人の遺産のとなり、両派とも興行成績は思わしくなく、松竹は挽回を期 ることに不満を抱く者たちが相次いで豊竹座に移る。この苦 うえにさらに磨きをかけてゆく洗練の時代に入っていった。 して五六年、文楽座を四つ橋から発生の地道頓堀に移転新築 てんめい ちょう こくせんやかっせん つばき 境に、近松は『国性爺合戦』を書き、一七か月続演という空浄瑠璃の流行は全国に広がって、天明期 ( 一天一 ~ ) には江し、また『お蝶夫人』『ハムレット』『椿姫』など過去にはな めいばくせんだいはぎ かがみやまこきようのにしきえ 前の大入りを収めた。さらに、近松没 ( 一七一一四 ) 後も、初世竹戸で新作が行われ『伽羅先代萩』『加賀見山旧錦絵』な かったジャンルの新作を試みたりした。この間、五五年二月 いずもぶんこうどう はせがわせんし よせ すみたゆう つなたゆう 田出雲、文耕堂、長谷川千四らの合作を次々に発表、政太夫どは今日に残っている。大坂では社寺の境内や寄席など小さ には六世竹本住大夫、豊竹山城少掾、八世竹本綱大夫、四世 かずさのしょっ は一七三四年 ( 享保一九 ) 二世義太夫を襲名、翌年上総少な操芝居の数が増えていったが、寛政年間 ( 一大九 ~ 一合一 ) に鶴沢清六の四人が第一次重要無形文化財保持者 ( 人間国宝 ) じよう はりまのしようじよう 掾を受領し、さらに三七年 ( 元文一 l) には播磨少掾を再受淡路出身の植村文楽軒が浄瑠璃の小屋の経営に手を染めた。 に認定され、同年五月には文楽両派がそろって「人形浄瑠璃 ぶんざぶ 、はくろ・つ 領するなど、語り口に新境地を開いた。また、初世吉田文三 八一一年 ( 文化八 ) 二世文楽軒のとき大坂博労町稲荷の境文楽」として重要無形文化財の総合指定を受け、伝承者の養 ろう 郎らが人形の改良に力を尽くし、手妻の技術を取り入れて、内に操芝居を開き、さらに四代目の文楽翁は七二年 ( 明治成や公開に関する経費の国庫負担への道が開かれた。しか かしら 人形の首の目やロ、眉あるいは手足などの動くくふうを行五 ) に松島に移転、文楽座と名づけた。これに対し八四年に し、六二年に松竹は文楽 ( 因会派 ) の経営放棄を決断した。 一りよう あしやどうまんおおうちかがみ やかんべい しに一七三四年の『芦屋道満大内鑑』の野干平の役 稲荷境内に彦六座ができたので、文楽座も平野町の御霊神社その結果、国、大阪府、大阪市、放送文化基金 ( 当初は z で三人遣いを考案し、ここに現在の人形浄瑠璃の形式がいち境内に移転した。文楽・彦六両座の対抗はかっての竹豊時代の四者が補助金を出して設立した財団法人文楽協会が六 せつつのだい おうできあがったわけである。義太夫節も、両座に優れた太の再現を思わせ、しかも太夫には二世竹本越路太夫 ( 摂津大三年一月に発足、同時に因会と三和会の両派合同が実現し、 じよう おおすみ 夫が輩出し、それそれ元祖の語り風を守って座風が明確にな 掾 ) 、二世竹本津太夫、三世竹本大隅太夫ら、三味線に二世同年四月、道頓堀文楽座で第一回公演が行われた。しかし、 ひろすけ り、特色を発揮した。両座の位置から、じみで堅実な竹本座豊沢団平、五世と六世の豊沢広助ら、人形に初世吉田玉造、文楽座の建物は従前どおり松竹の所有であり、まもなく朝日 きりたけもんじゅうろう の語りを「西風」、華麗でつややかな豊竹座のものを「東風」吉田玉助、初世桐竹紋十郎らの名手が輩出して技芸を競い 座と改称したため、文楽は専用の劇場を失って宿無しの状態 とよんでいる。 となってしまった。 合い、明治期の人形浄瑠璃は黄金時代を築き上げた。しか にしふう まゆ せん ・はんかい かんせい こうつば
めいとく る。戦いのたびごとに『明徳記』『応仁記』などの軍記が書自由な恋愛を認めなかったために、中世までにはみられなか かれたが、それらは優れたものとはいいがたい。むしろ、 った恋愛悲劇が生まれて文学に反映する。第三に統一的な貨 『曽我物語』『義経記』など、成立年代が明らかではないが、幣制度が成立したことで、あらゆるものの価値が金銭に換算 室町時代の所産とみられる、英雄を主人公とした物語が、人されることになり、金銭と人間の格闘を描く文学が生まれて 物造型などの点で優れている。戦国武将たちに愛された芸能 きた。第四には多くの国民が文盲の状態から解放され、出版 、」うわかぶきよく 幸若舞曲にも類似した傾向は認められる。公家文化にかわっ技術が確立したことで、文学が商品として出版業者から売り ばっ - 」う おとぎぞうし はんしよう て勃興したのは庶民文化である。御伽草子と汎称される短出され、文学が中世までのように一部の特権階級のものでな 編の物語草子が前期の擬古物語にかわってこの時期に数多く 、多くの国民の手に解放されたことになり、文学の創作を 生まれたが、それらもだいたいにおいて平易な表現で庶民的生活の手段とする職業作家が登場することになった。 な願望の実現を語るものであった。能・狂言も庶民層に近い 〔雅の文学と俗の文学〕以上のような特徴をもっ近世の文学 かんぎん そうあんこうた 人々の生活を生き生きと表現し、『閑吟集』や『宗安小歌集』は、大きくこれを雅の文学 ( 第一文学 ) との文学 ( 第二文 なども庶民的な哀歓を歌っている。 学 ) に大別される。雅の文学とは伝統的な和歌、和文、漢詩 あづち 戦国時代の後は安土桃山時代とよばれる。この時代は中世文などであり、支配階級や特権階級 ( 武家や公家 ) の側の文 げんろく から近世への過渡期であって、有心の連歌から分かれた俳諧学であり、しかも元禄 ( 一六会 ~ 一七 0 四 ) ごろから庶民のなかか ゅうえん いめつく の連歌や、優艶な和歌に対する狂歌などが愛された。『犬筑らこれらの文学に参加する人々も目だってきて、和歌、漢詩 そうかん もりたけ 波集』の編者宗鑑や『守武千句』の荒木田守武などが俳諧作文のすべてにきわめて清新な詩風をみせることになり、とく ゅうちょうろう 者として、雄長老が狂歌作者として注目される。いずれに に和歌・歌論においては一九世紀に入るときわめて近代的な も現実肯定の精神が認められ、前期の多くの作家たちと対照歌風・歌論を用意することとなって、近代につながってい じようるり びわ 的である。また、平家琵琶にかわって、牛若丸と浄瑠璃姫のる。俗の文学とは、近世に入って文学を生産し享受する能力 ぎつ 恋物語などを語る浄瑠璃が新たな語物として生まれた。中世を確保した庶民によって制作された文学で、詩の俳諧・雑 ・つきよそうし く亠こそうし しゃればんこつけい 後期の文化の担い手としては、僧侶たちを忘れることはでき 俳・狂歌・狂詩、小説の浮世草子・草双紙・洒落本・滑稽 じようるり ばん よみほんはなしばん ない。五山僧らの詩文を中心とする五山文学は、鎌倉時代に本・人情本・読本・咄本であり、演劇の浄瑠璃・歌舞伎、 ぎどうしゅう ぜっこう さかのばりうるが、南北朝から室町時代にかけて、義堂周さらに近世歌謡や、講釈・落語などの舌耕文芸がこれに加わ しんぜっかいちゅうしん いっきゅうそう 信、絶海中津らの詩僧が出、のちにも五山の周辺に一休宗り、庶民の文学としての俗の文学はきわめて多彩な展開を示 じゅん 純が現れている。一方、一五四九年 ( 天文一八 ) キリスト している。庶民の文学といっても、短詩型であるゆえに広く ふくいん 教が伝わり、以後宣教師たちの布教活動の一環として、福音地方の教養ある農民や町人などにも普及した俳諧や狂歌を別 おこフ、わ 書やイソップの寓話などの翻訳、日本古典のロ語訳などが行として、ほかはすべて経済力を確保した町人、主として都市 われ、出版された。キリシタン文学がこれで、在来の文学に の町人 ( 商人 ) によって制作され、ときに武士もこれに参加 も刺激を与え、近世出版文化の先駆けをなしたことは確かでした都市文芸であったのである。 ある。↓軍記物語↓連歌↓御伽草子↓ム月 ヒヒ↓一狂一一一一口↓五 〔上方から江戸へ〕ところで、その近世の文学は、一八世紀 ほうれきめい 山文学↓キリシタン文学 〈久保田淳〉のなかばごろまではその中心地は上方であり、以後宝暦・明 わ さいかくちか 和 ( 一七五一 ~ 七一 l) ごろから江戸が中心地となる。井原西鶴や近 まつもんぎえもん 近世文学 松門左衛門を擁した一七世紀末の元禄文芸復興期を頂点とす あづち 〔近世文学の特色〕一六世紀末の安土桃山時代を過渡期とる上方文学は、小説を例にとると、出版業者の商業主義が、 し、徳川氏の幕藩体制が成立して崩壊するまでの約二世紀流行作家を確保しようとして専属作者制を採用し、その結 半、いわゆる江戸時代の文学をいう。この時代は、第一に中果、作者が身についた技術だけで執筆した安易な娯楽作品が しよしはちもんじ 世までの国民思想の首座を占めた仏教にかわって、現世の秩輩出した。京都の書肆八文字屋が上方文壇をリードした元禄 えじまきせき ぶ序を説く儒教が登場して文学の思想性を決定するが、中期に末からの浮世草子である。井原西鶴の後に、江島其磧などの んなると反儒教的、反仏教的な国学が成立して、とくに近世和注目すべき作者もいるが、要するに西鶴の亜流であり、千編 はんらん ほ歌・歌論の形成を促し、第二に士・農・エ・商という世襲制一律の作品の氾濫は読者の興味をひかなくなった。貸本屋か の身分制度が確立すると同時に家族制度が施行され、男女のら借りて読むという享受形態と相まって、出版業者が新しい ごぎん ぎけい かみがた く かぶき 近世文学 一至〈永正一五小歌集『閑吟集』 一吾一九天文八宗鑑『犬筑波集』このころ成る 一五九 = 一文禄二キリシタン版『伊曽保物語』 ( ローマ字 ) 一六一 = = 元和九安楽庵策伝『醒睡笑』仮名草子おこる 一六〈一一天和二井原西鶴『好色一代男』浮世草子おこる 一六兊元禄二芭蕉『おくのはそ道』 ( 一と一一刊 ) の旅に上 る 一六九 0 三契沖「万葉代匠記』 四去来・凡兆編『猿蓑』 五井原西鶴『世間胸算用』歌舞伎隆盛 一七 0 三 一六近松門左衛門『曽根崎心中』初演 一七 0 四宝永一去来『去来抄』このころ成る 一七一六享保一新井白石「折たく柴の記』起筆 一七哭寛延一竹田出雲ら『仮名手本忠臣蔵』初演人 形浄瑠璃の全盛期 一七六四明和一本居宣長『古事記伝』着手 ( 、九 0 一七六五 一一川柳撰『柳多留』川柳盛ん 一耄五安永四恋川春町『金々先生栄花夢』 一七七六 五上田秋成「雨月物語』 六蕪村「新花摘』 一大七天明七也有『鶉衣』山東京伝『通言総籬』この ころ洒落本・黄表紙流行 一七寛政七本居宣長『玉勝間』 天 0 ニ享和一一十返舎一九『東海道中膝栗毛』 ( ー一三 ) 滑稽本の流行 天 0 七文化四曲亭馬琴『椿説弓張月』 天 0 九 六式亭三馬『浮世風呂』 一一曲亭馬琴『南総里見八犬伝』 ( 、四一 ) このころ読本全盛期 一一一杉田玄白『蘭学事始』 天一九文政二一茶『おらが春』成る 八鶴屋南北「東海道四谷怪談』初演 一一一柳亭種彦『偐紫田舎源氏』 ( 、四一 l) 合巻の流行 天 = 三天保三為永春水『春色梅児誉美』 ( 、四一 ) 人情本の流行 入六 0 万延一河竹黙阿弥『三人吉三廓初買』初演 一一明治四仮名垣魯文『安思楽鍋』 五福沢諭吉『学問のす、め』 一五外山正一ら『新体詩抄』 一六矢野龍渓『経国美談』 一八坪内逍遙『小説神髄』『当世書生気質』 一一 0 一一葉亭四迷『浮雲』 天〈九 一一一一森鵰外ら訳『於面影』 一兊 0 一一三森鵰外「舞姫』 一一四幸田露伴『五重塔』 一一六北村透谷『内部生命論』『文学界』創 一一八樋口一葉『たけくらべ』『にごりえ』 入九七 三 0 尾崎紅葉『金色夜叉』島崎藤村『若菜 集』『ホトトギス』印羽
のふおく 河口、チエサピーク湾の入口に位置する。人口げる。山地のやや湿った林床に生え、北海道か盛んに交易した。彼らが「イワン百人組」など 二六万六九七九 ( 一九含 ) 。州最大の都市で、商ら九州、および中国中南部、ヒマラヤに分布すのギルドを組織していたことも知られている。 る。 業、工業、流通の中心地でもある。対岸のポー 〈小山博滋〉これら商人や手工業者を中心とする市民は民会 ゆりこ ツマス、ニューポート・ニューズとともにハン 伸子のぶこ宮本百合子の長編小説。一九に参加して国政にも参与していたかくしてこ プトン港を構成している。造船、食肉・水産物二四年 ( 大正一三 ) 三月から二六年九月までの時期、ノ。フゴロドはロシアでもっとも栄えた 加工、自動車、肥料、化学製品、衣類などのエ『改造』に断続連載。二八年 ( 昭和三 ) 三月改都市となった。だが門閥貴族間の対立、下層市 王うき 業がある。合衆国海軍大西洋艦隊司令部があ造社刊。作者の実生活に忠実な私小説。伸子は民の蛔起など内的矛盾に悩み、やがて新興のモ アメリカ留学中、苦しい生活をしてきた暗い印 スクワ大公国によって併合されてしまった。ノ り、軍港、海軍航空隊、補給基地などの巨大な つくだ 軍事施設が広がる。一六八二年に町が建設さ象の佃と、親の反対を押し切って結婚する。こプゴロドはその後も商業都市として重きをなし たが、一六世紀後半から衰退に向かい、一八世 れ、たばこの輸出港として発展した。戦略的にれまでの生活の殻を破り、本当の生活を実現し 紀のペテルプルグ ( 現レニングラード ) 建設以 重要な位置にあり、独立戦争と南北戦争時に戦ようとする意欲の現れだった。しかし、佃は、 花 ようやく獲得した中流的生活に安住し、伸子を降はその経済的意義もほとんど失われてしまっ 火を浴びたが、南北戦争後、鉄道の開通によっ 右 〈栗生沢猛夫〉 て内陸部との交通が改善されて港の機能が増大失望させる。本当の生活を求める努力はことご 果 きようわこく中世 した。一八四五年に市となった。〈菅野峰明〉 とく失敗し、愛憎の泥沼にあえぐ伸子は、悪戦ノブゴロド共和国 苦闘のすえ、ついに離婚に踏み切る。親の家か ロシアの都市国家 ( 一二 ~ 一五世紀 ) 。当初キ ノーフォーク・ササン・コーポレー 、ンヨン Norfolk Southern Corporation らも夫の家からも脱出して、自分のカで新しい エフから派遣される公や代官によって統治され キ プアメリカ合衆国東部の大手鉄道の一つ。一九八 生活を切り開こうとする若い女性の真剣な姿ていたが、一一世紀末から都市側の自立傾向が 〈伊豆利彦〉強まり、一二世紀になると公との間に「約定」 二年にノーフォーク・アンド・ウエスタン鉄道は、多くの女性の共感を得た。 を結び、抑圧的な公を追放しながらしだいに独 ノフ、ショーロホフらの名作を掲載し、とくに とサザン鉄道が合併し、その持株会社として発回『伸子』 ( 新潮文庫・新日本文庫 ) 五六年のスターリン批判以後、文壇進歩派の拠足した。総延長二万九三八四キ。 (IR<II)O ミシノ。フゴロド HOBrop0A/Novgorod ソ立するに至った。その領土は西方と南方におい 点とみられ、世界的に注目されている。ソルジ シッピ川以東に広く路線網を有し、ワシント 連、ロシア共和国北西部、ノブゴロド州の州都てはドイツ騎士団、リトワ ( リトアニア ) 、ト ェニツイン、エレンプルグ、ネクラーソフ、カ ン、ノーフォーク、シカゴ、セントルイス、カで、ロシア有数の古都。人口二二万四〇〇〇べリ、モスクワ各大公国に遮られていたが、北 ターエフ、エフトウシェンコ、モジャーエフ、 ンザス・シティ、ニュー・オーリンズなどの諸 ( 一九会 ) 。ポルホフ川の河岸にあり、河港を有す方と東方においてはカレリア、白海沿岸地方か らウラル地方にまで達していた。これらの地方 〈青木栄一〉る。鉄道の分岐点。古来、交通、商業の中心地 トリーフォノフ、アプラーモフらの問題作を都市を結んでいる。 とう Norfolk ls- として栄え、手工業が営まれてきたが、近年は農耕には適さなかったが、毛皮獣、海獣、 次々に発表して話題をよんだ。詩人トワルドフノーフォーク島 ろう はちみつ スキーがシーモノフ ( 一九四六 ~ 五 0 、一九五四 ~ 五 0 に land 南太平洋南西部、シドニーの北東約一種々の工場が建設され、工業都市としての側面魚、蜂蜜、塩、蝦などの産品を豊富にもたらし た。国政の最高機関は自由な市民が集う首都ノ 次いで編集長に就任、名編集長として辣を振七〇〇キ。にあるオーストラリア領の島。面積一一一ももつようになった。主要工業は化学、ラジ るい、党機関や文壇保守派から編集内容を再一一一五平方キロ、人口一九〇〇 ( 一九七 0 。土地は肥沃オ、木材加工である。旧市街にはクレムリン。フゴロド Novgorod の民会で、それは、公、 よう寺一い ~ 一一一世紀 ) 、聖ソフィア寺院 ( 一市長官、千人長、大主教らの要職を任免し、ま だが、食料生産は自給に不十分である。経済的 ( 要塞、一一 非難され、七〇年初頭に解任された。八六年作 一世紀 ) 、 ミロシュ修道院 ( 一一一世紀 ) など多た外国との条約を締結するなど重要な役割を果 家ザルイギンが新編集長に就任。〈中本信幸〉 には観光収入に依存する。シドニーおよびニュ ージーランドのオークランドから航空の便があ数の価値ある歴史的建築物が修復・保存され、 たした。だが実際の権限は、大主教を中心とす ノーフォーク Norfolk イギリス、イン グランド東部、北海に面するカウンティ ( 県 ) 。る。一七七四年・クックが発見。一七八八年多数の外国人観光客が訪れている。教育大学のる貴族会議にあり、市長官や千人長らも名門貴 〈中村泰三〉族のなかから選ばれるのが通例であった。ノブ 面積五三六八平方キロ、人口六九万三四九〇 ( 一九 シドニーと同時に流刑植民地として入植され所在地。 へいたん (I)O 県都ノーリッチ。平坦な県で、西部をオた。一八五六年、バウンティ号の反乱者の子孫〔歴史〕年代記八五九年の項に初めてその名がゴロドはハンザ諸都市やロシアの他の地方と活 がピトケアン島から移住した。中心地キングス現れる。バルト海と黒海とを結ぶいわゆる「ワ発に交易を行って富み栄えたが、やがて門閥貴 アーズ川が北流してウォッシュ湾に流入する。 〈谷内達〉 リャーグ ( ノルマン人の意 ) からギリシアへの族間の権力争いや貴族・上層市民と下層市民と オアーズ川流域には湿地帯が広がり、海面下のトン。 ひょく 道」の北端に位置する。当初キエフ大公の任命の対立に悩まされ、強力な国家体制を確立しえ 土地もある。東部は肥沃である。輪作、機械導ノブキ〔野蕗〕ゝききミを三ミミ ミミ Edgew. キク科の多年草。茎はやや花する公 ( 多くの場合大公の子かそれに近い縁ぬままに一四七八年モスクワ大公の軍門に下っ 入、家畜の舎飼いで高収益をあげ、イギリスに 〈栗生沢猛夫〉 ~ 一。葉は茎の下部に集者 ) により支配されたが、やがて一一世紀末か おける農業革命のロ火を切ったノーフォーク農茎状で、高さ〇・三 法の発祥地として知られる農業先進県。大規模まってつき三角状心臟形。この葉形がフキに似 ら一二世紀初頭にかけて貴族共和制的な体制が野伏のぶし南北朝 ~ 室町時代の武装農民 な農場が多く、小麦、大麦、オート麦、テンサることからノブキの名がついた。葉の裏面は白成立した。ノブゴロドの最盛期はこの貴族共和集団。「野臥」とも書き、「のぶせり」ともい たいへいき ろくはら なかときときます 制の時代 ( 二三六 ~ 一四七 0 である。多くの市民が う。『太平記』に六波羅探題北条仲時・時益が イ、野菜を産し、ウシ、プタ、とくにシチメン綿毛を密生し、葉柄に翼がある。 えんすい おうみ チョウの生産が多い。缶詰、醸造など農業関連茎上部に円錐花序をつくり、頭花を多数つけ手工業に従事したが、とくに重要なのは商業で近江で野伏に囲まれて討ち死にしたとあるよう ノクをる。頭花は白色の管状花からなり、中央のものある。ノ。フゴロドはウラル山脈に達する広大な 、敗軍の将兵を襲って武器などを奪う土民を 工業も立地する。好漁場のドッガー・バ、 ふねん そうかこんばう いったが、守護大名や国人は農民を徴発して伏 は不稔、周辺のものは結実する。痩果は棍棒領土を支配していたが、ノブゴロド商人はその 沖合いに控え、漁業も盛んである。〈久保田武〉 ノーフォーク Norfolk アメリカ合衆国、状、上半部に有柄の腺が多数ある。この腺によ広大な領土から集められた毛皮をはじめとする兵、追撃などに用いたので、臨時に戦闘の補助 ージニア州南東部の港湾都市。ジェームズ川 って、痩果が動物の体などに付着して分布を広森林・海産品をもってハンザ商人や東方商人と員とされた武装農民をも野伏というようになっ せん ~ 一〇月、 ひょく 442
にほんび 日本美術 / 洋画 ①山本芳翠「裸婦』 1882 年 ( 明治 15 ) ころ油彩 85X1365 バリ留学 中に描かれた大作。明治初期の裸婦像として画期的である ②姓田義松「籘当虐 1883 年 ( 明治 16 ) 油彩 80X1205 東京芸術 大学公園で人形芝居を楽しむ老若男女を描いており , 当時のバリの 風俗をよく伝えてくれる ③高橋由ー「酢川にかかる常盤橋』 1884 年 ( 明治 17 ) 油彩 105x めがれ 151Cm 東京国立博物館山形市南郊の坂巻にあった眼鏡橋を望んだ絵 ④浅井患「収穫』 1890 年 ( 明治 23 ) 油彩 69.2X98.5cm 重文東京 芸術大学 かんりん ⑤久米桂一郎『寒林枯葉』 1891 年 ( 明治 24 ) 油彩 43.9x60cm 東 泉芸術大学バリ郊外 , フォンテンプローの森に近い小村フロリの風景 と、わばし ⑥黒田清輝『舞』 1893 年 ( 明治 26 ) 油彩 80.5X65.35 重文東京国立博物館 むしはし ひたたれ ⑦川村清雄「虫干図 ( かたみの直垂 ) 』明治 20 年代油彩 108X172Cm 東京国立博 物館イタリアから帰国後 , 日本趣味に傾斜した画風を示す作品 しようしゃ て水墨画の瀟洒な新様式をたてたが、やがて江戸幕府の御川 用絵師の地位に安住して作風は形式化し、土佐派も宮廷の画 どころあずかり 所預の地位にあってやまと絵の古様をなそるのみで、新 くすみもりかげはなぶさいっちょう 風はおこらなかった。むしろ傍流の久隅守景や英一蝶が個 性的な画風を確立した。 狩野派、土佐派の伝統を取り入れ、独自の画風を打ち立て たわらやそうたっ たのは在野の画家たちである。俵屋宗達は桃山期から活動を 始め、金銀泥絵、色紙、扇面などの大胆な画面構成と明快な 色彩で、代表作の舞楽図や風神雷神図屏風にみるような独自 の絵画世界をつくりあげた。ついで近世絵画に新しい展開を - 一うりん もたらしたのは尾形光琳で、京都の呉服商生まれの彼は染織 によって培われた意匠感覚で、宗達とはまた異なる装飾的な かきつばた 絵画世界に到達した。燕子花図屏風、紅白梅図屏風は彼の代 表作であると同時に江戸絵画の傑作である。光琳の弟に陶芸 家の尾形乾山がいる。 次に絵入版本の作者として登場したのが、浮世絵の祖とい ひしかわもろのぶ われる菱川師宣である。浮世絵は肉筆のはか、彫師、摺師の 協力を得て開発された多色摺によって、飛躍的に豊かな表現 はるのぶてんめい 力をもつようになった。錦絵を創案した鈴木春信、天明期 きよなが おおくびえ 〈九 ) の鳥居清長、美人大首絵という新様式を編み出 きたがわうたまろ した喜多川歌麿、クローズアップによる特異な役者絵を描い とうしゅ、つ ) いしやらく ひろしげ た東洲斎写楽、風景画で世界的な葛飾北斎や歌川広重ほか 替嘆 多くの浮世絵画家が輩出し、江戸美術に大きなウェイトを占 館身と める。 術の匂 江戸幕府が文治政策の基本とした儒学の興隆にしたがって なんしゅう 立物「 誕生したのが南画である。中国南宗画の様式と文人画の理 いけのたいが 馬立ち 念をあわせて取り入れ、日本独特の発展を遂げた。池大雅、 群国立 よさぶそん 与謝蕪村はその代表的画家である。南画が写意的であるとす 5 東頂 まるやまおうきょ 2 山 れば写生に徹したのは円山応挙で、多くの弟子を育成して円 6 5 の 山派を創始した。 よしむね 0 ーノ 一七二〇年 ( 享保五 ) 八代将車徳川吉宗がキリスト教以外 7 奈 の洋書を解禁すると、宗教色のない洋風画にふたたび関心が 〃 / ノ・由み草 ( らんが ひらが 由相 高まり、平賀源内の指導で秋田藩に和洋折衷の秋田蘭画がお しば ) うかん 3 ムロて こった。この影響を受けて司馬江漢はわが国最初の銅版画を あおうどうでんぜん 井の 制作している。亜欧堂田善は銅版画では江漢をしのぎ、江戸 年 6 を 9 め売 名所を描くとともに、油彩の大作、浅間山真景図屏風を残し 0- ) 1 ー ている。 室 ~ 武弟描 画と本たを このほか一八世紀後半から一九世紀初頭の異色ある画家 たのむら じゃくちゅ・つそがしようはく うらかみぎよくどう もくべ や日し【姿 郎「水の に、伊藤若冲、曽我蕭白、浦上玉堂、青木木米、田能村 ぶんちょう からす 一繁入尊ちくでん " 浅木で武竹田らがいる。谷文晁はいわゆる烏文晁様式を打ち立て、 かぎん ゅ湯青水本 ⑧⑨走日文晁の弟子のなかでもっとも傑出した渡辺崋山は洋画の手法 けんぎん にしきえ かっしかほく、い
にほんり も受けるのが礼儀である。前菜は懐紙で受けな が、これも現在の家庭には通用しておらず、和 理、節供料理、神仏の祭事料理など。③地方色〔食器〕古代は木の葉 ( カシワやユズリハなど わん がら食べ、汁のあるものは器を持ってよい。椀 大きな木の葉 ) を用い、次に貝殻、削った白洋兼用の食器も増えている。 の強いもの郷土料理、雑煮などの行事食。 材料的特色の強いもの精進料理、川魚料理、木、素焼の土器を食器とした。飛鳥時代には須〔作法〕日本料理の食礼式が確立したのは室町の蓋は椀が右側なら右手でとって右側に置き、 恵器がつくられ、青銅器や銀器も用いられ、平中期であるが、内容が複雑で実用的ではないの左側のときは右手でとって左手に持ち換え、左 山菜料理、卵料理、鳥料理、肉料理など。 〔献立〕日本料理の献立は、飯、汁、漬物を基安時代には中国から漆器が渡来した。鎌倉時代で、一般にはしだいに簡素化されてきた。食事側に置く。箸は先に器を持ってからとる。一尾 には陶器が急速に発達し、江戸時代には陶磁器作法の基本は、姿勢を正して音をたてず、主客付けの魚は目の下から箸をつけ、上身を食べた 準にして発達し、複雑化したものである。日常 に食べる速度をあわせて、食べたあとは膳や皿ら中骨を外して下身を食べ、骨は皿の隅にまと の献立では、飯、汁、漬物のほかに、主菜とな が一般的に用いられるようになった。現代は陶 める。串刺し料理は串を抜いてから食べ、かま る煮物、揚げ物、焼き物、副菜となる和え物、磁器を中心に、漆器、ガラス器、金属食器、プの上を乱雑にせずかたづけておく。箸使いもい まはさほどやかましくはないが、こみ箸 ( 箸のばこなどは歯あとを残さないようにする。器は おひたしなどを添える。供応料理とされる会席ラスチック製食器とその種類は広範になってき 料理の場合、基本的な料理のほかに三 ~ た。日本料理では原則として一人前盛りで食器先で料理を口に押し込む ) 、移り箸 ( 菜から菜両手でとってから左手に持ち換える。止め椀や ご飯のお代わりは、受け取ったら一度膳に置 まで組み合わせて献立をつくる。材料は、季節の数は多いが、器の形や模様の美しさ、盛付けを続けて食べる ) 、さぐり箸 ( 器の中を箸でか しゅん き、改めて手にとる。最後にお茶を受けたら箸 の美しさを見せるのが、特徴の一つとなってい き混ぜて自分の好きなものをとる ) 、もぎ食い を先取りしたはしり物、旬の物、海の物、山の 物、鳥獣肉などを調和よく取り合わせて選び、る。器の模様にある花鳥風月などにも心を配 ( 箸についている食べ物を口でもぎ取る ) など先を洗い、懐紙で清めてから膳に返す。一度に 料理が並べられたら、冷めて味の落ちるものか 中心をなす料理、中心へと導く料理、あとに余り、本格的にはその季節の器としての決まりも は禁止事項であった。 〈多田鉄之助〉 韻をもたせる料理というように盛り上がりや濃ある。ただし、現在はあまり形式にこだわら 会席料理では、食膳を運ばれたら会釈し、次ら先に食べる。 あいさっ 淡をつけて献立をつくる。料理の合間には酒をず、とくに家庭では人数や好みにあわせて自由客に「お先に」と挨拶して受け、箸を袋から出回土井勝著『新版基礎日本料理』 ( 一九〈三・柴田 書店 ) ▽川上行藏編『料理文献解題』 ( 一九 勧め、酒のあとに飯、香の物、果物、菓子、湯に食器をそろえる風潮がある。日本料理の食器して箸置きに置く。割箸は膝の上で、中央を静 大・柴田書店 ) を勧めて終わりとするのが普通である。 かに開いて割る。酒は最初の一献は飲めなくて は五客分を単位にして扱うのが常識ではある しようじん たった 板は板かまばこ、わさはわさび つけたてんぶら、精進揚げ、立田揚げ、衣をている。ほどよく配列する意味の「按排」と混板わさ 日本料理 / おもな調理用語 同されたともいう。 をさす。つまり、適当に切ったかまばこをわさ つけないから揚げなどがある。 い″り 刺身のつまの一種。ハマボウびで調味した料理をいう。 日本料理の調理用語のなかで、とくに基あし料理で「あしが出る」「あしが強い」オ よ碇防風 いちょ 野菜の切り方の一種。ダイ 本的な用語、または古くからよく使われてどというときのあしは、粘りをさす。食品など フウの葉の柄元のところに、針で十文字に切り銀杏切り うぎり きた用語を五十音順に配列した。 * 卩よリ の「あしが早い」は、腐りやすいことをいう。 込み ( 二ぐらい ) を入れて水にさらす。軸先コンやニンジンなどを、縦十文字に切って四つ に本項目があることを一小す。 割りにし、小口から適当な厚さに切る。切った あしらい付け合せのこと。味を引き立てた が碇のようにカールしたら水から取り出して、 形がイチョウの葉に似ている。 り、彩りや香りを添えるために、付け合わせる。 刺身にあしら , つ。 あごろも 和え物 * あえ もの 具と和え衣を混ぜ合わせた料あたりごますりごまの忌みことば。「する」生けもの もの 活けものとも書き、魚類の生糸がき れきかつお節を糸のように細く削る こと。糸かきは、だしをとるには向かないか 理。おもなものに、なます、木の芽みそ、白和 は縁起が悪いとして「あたる」を使った。ごま きのよいものをさす。釣った魚を生け簀に放し こがわ あごろも え、酢みそ和え、からしみそ、黄金和え、磯和を炒ってすり鉢ですり、和え衣の材料にしたておいて生きたまま料理する場合と、釣った直煮物やおひたしなどの上に盛ったりするのには え、マヨネーズ和えなどがある。 り、胡麻豆腐などに用いる。 後に魚の血を抜いて生けじめにしておいたもの適する。 さつま ダイコン、ニンジン、ウドなど あおに野菜などの緑色を失わないように ぎり 青煮 油揚げや薩摩揚げなど揚げてをいう場合とがある。 糸切り 由抜きめき もち かつらむ いそべ一般には餅をしようゆのつけ焼を桂剥きにしてから元の形にくるくる巻き、小 煮ること。また、色あせしないように塩ゆでにある材料をさらに調理する場合、表面の浮き油磯辺 * 口から細く切ってつくる。これを水に放すとば したり、あくの強い材料に灰や重曹を入れてゆを除き、油くささを取り除くこと。盆ざるに並きにして、焼き海苔で包んだものをいう。この りつとしてきて、刺身のつまに用いることが多 でる場合をいうこともある。一般には、ワラビ べて、上から熱湯をかけて油を抜くのが一般的。 ほかに、海苔を使った料理に磯辺を冠すること しらがだいこん い。ダイコンの糸切りは、とくに白髪大根とよ が多い。材料を海苔で巻いて揚げる磯辺揚げ、 やサヤインゲン、サヤエンドウ、フキなどをさ甘塩魚や肉などに薄く塩をふること。 くず っと下ゆでしてから水にさらし、塩とみりんで塩をふるとき、その量によって、甘塩、薄塩、 シラウオやエビなどを煮て葛でとじ、もみ海苔ばれている。このほかに、縫い糸を巻いて材料 緑色を損なわないように煮つけることをいう。 強塩に分けられるが、一般には甘塩と薄塩は区をかけた磯辺煮、魚にもみ海苔をふりかけて焼を切り分ける方法も、糸切りとよんでいる。 あく水洗いをしたり、ゆでたりし 別しないで使われている。 く磯辺焼き、海苔をわさび和えにした磯わさな あく抜き いぶし材料をいぶすこと、すなわち薫製。 あらい刺身の一種。調理の途中で、手どがそれである。 日本料理では、青松葉や杉の葉など香りのある て、野菜や肉などの食品に含まれるあくを除く洗い はうろくなペ こと。水洗いをして酢水に浸けてあく抜きをす早く冷水で洗うのでこの名がある。コイ、タ板摺り キュウリやシロウリなど材料の葉を焙烙鍋に敷いて、カツオやイカなどをいぶ るものに、ウド、ゴボウ、レンコンなどがあイ、スズキなどの魚が使われる。 もっ色を美しく仕上げたいときに、まな板の上し焼きにする。土佐名物のカツオのたたきも、 に置いて塩をふり、手のひらで押さえながら転 いぶし料理の一種である。 る。ワラビやゼンマイなどは、木灰を加えた水あんばい * 塩梅と書き、昔から料理の味加 縁起を担ぐ料理をいう。これ か、重曹〇・一 % を加えて煮立て、ゆでてあく 減をいうことばである。古くは調味料の種類は がす方法。板摺りしたあと、熱湯にさっと通す祝い肴 * わ ぎかな にはタイ、エビ、田作り、数の子、昆布、黒 抜きをする。肉や魚のあくはスープをとるとき多くはなくて、塩と梅酢が調味の基本であっ と色がさえる。フキはゆでたあとに板摺りする など、浮き上がって泡状になるので、すくい取た。これがちょうどよいぐあいに混ざったとき と、皮がむきやすくなる。また、魚肉などのす豆、かつお節などを使う。 わんだわ 吸い物の椀種に加える野菜を、 って捨てる。 し。非常によい味加減になった。このことか り身を使う料理で、仕上げに、まな板の上に置浮かし もの魚貝類、野菜類などを、熱し ら、塩梅ということばは、単に調理用語だけで いたすり身を包丁の腹で摺り付けながら練る操関西では浮かしとよぶ。ミッパやウドなどを用 揚げ物 * あげ た油の中で揚げる調理法。日本料理には、衣を しることが多い はなく、ぐあいがよいという意味にも転用され作も板摺りとよんでいる。 ぞうに こわじお のり ひざ あんばい ふた
、フ北のう こんばるこん・こう ほうしようかんぜ 座の大和猿楽四座が、今日の金春、金剛、宝生、観世の基に管轄され、シテ方・ワキ方など分業制度が確立する。レバ 0 えち わか、 かきあげ たんば ートリーも固定化し、曲目は「書上」として幕府に登録され である。当時はほかに、丹波猿楽、宇治猿楽、若狭猿楽、越 もとあきらめいわ ぜん 〔能の歴史〕先行芸能 / 観阿弥と世阿弥 / 室町後期から前猿楽、紀伊猿楽などの多くの座があったが、江戸時代までた。能の詞章や演出に合理化を試みた観世元章の明和 ( 一七 六四 ~ 七一 l) の改革もあったが、江戸時代は武士道的な精神性 安土桃山時代 / 江戸時代 / 明治以後 / 第一一次世界大残るのは大和猿楽四座で、丹波猿楽の梅若座が観世座に併合 と、技法の錬磨に努力が傾けられ、謡の音階やリズムの法 されたように、吸収か消滅の道をたどった。 戦後 かんあみ 〔観阿弥と世阿弥〕結崎座を組織した観阿弥と、その長男の則、演出様式がほば固定するのもこの時代である。五代将軍 〔能の制度〕シテ方 / ワキ方 / 囃子方 / 狂言方 〔能の作品〕作品と作者 / 新作能 / 作品構成と種類 / 作世阿弥父子の天才が、日本の文化に新たに演劇というジャン綱吉などは熱狂的に能を演じ、各大名も能役者を抱え、熊本 さくらま あわや 品の分類 / 能の影響 ルを打ち立てる。観阿弥の功績は、物真似本位、強さの主張藩の桜間、友枝家、広島藩の粟谷家など、明治以降の能楽界 に多くの名手を生んだことからも、その水準の高さがわか 〔能の上演〕演出 / 舞・謡・囃子 / 舞台と装置 / 面と装の大和猿楽に、田楽や近江猿楽の歌舞の要素をアレンジし、 幽玄 ( 優雅 ) な美を中心に置いたこと、またメロディ主流だる。また金沢の加賀宝生もいまに伝統を伝える。町人の間に 束 / 演技 くせまい も謡が大流行し、テキストである謡本の刊行は実に目覚まし った大和猿楽の音楽に、リズム本位の曲舞の技法を導入した 「能と狂言〕鑑賞と催し / 組織と研究機関 寺子屋の教科書にまで用いられた。一方、興福寺の薪 こと、大衆の興味を引く生き生きとした能を書いたことにあく、 〔能現行曲一覧〕 のう かすがわかみやおんまつり る。この新しい芸能の京都進出を、一三七四年 ( 文中三・応能、春日若宮御祭などの神事能の伝統は受け継がれ、また 〔能の略式上演方式〕 あしかがよしみつ 安七 ) に将軍足利義満が見たことが、能楽紀元元年となっ幕府の儀礼的な催しはもちろん、将軍就任の祝能には町人が 〔能の用語〕 まちいり た。将軍の後援と父子の努力は、能の芸術性を飛躍的に高め無礼講で江戸本丸に招かれる町入能や、幕府の許可を得て催 よしもと ひご た。とくに当時の最高の文化人である二条良基らの庇護と影す興行の大掛りな勧進能、皇居や本願寺の儀式能もあった。 能は日本の伝統芸能の一つで、狂言とともに南北朝時代か いめおうどうあ ら現代に演じ継がれ、世界でもっとも長い演劇生命と伝統を響のもとに、世阿弥は大きく育ち、近江猿楽の名手犬王道阿また農民の継承する黒川能を酒井藩が保護するなどの姿もみ ぜあ もっている。独自の様式をもっ能舞台に、能面を用い、世阿の唯美主義を吸収し、演劇性本位の大和猿楽の基盤のうえられた。 み 弥が「舞歌二道」と指示したように、舞に高められ抽象化さ に、幽玄の情緒を中心とする詩劇としての能と、その理論を〔明治以後〕明治維新による徳川幕府の崩壊は能に致命的な むげんのう うたいはやし れた演技と、謡と囃子による音楽要素の融合された演劇であ確立する。世阿弥の功績は、今日「夢幻能」とよばれる抜群打撃を与えた。しかし、能の人たちの努力と、外国のオペラ のうがく る。明治以降は「能楽」という呼び方が一般化したが、「猿の演劇発想の完成と、数々の名曲の創作、そして、二十数編やバレエのような芸術を日本にもと考え始めた新興貴族、ま かきよう さるがく ふうしかでん た皇室の能の愛好もあって、能は再生する。明治三名人とよ に及ぶ『風姿花伝』『花鏡』ほかの演劇理論を残したことに 楽」または「猿楽の能」とよばれ、世阿弥は申楽の字をあて ばんま ばれる一六世宝生九郎、初世梅若実、桜間伴馬、またその後 ている。「能」とは歌舞を伴い、劇的展開をもっ芸能の意味ある。世阿弥の後半生は悲劇的であったが、彼の方向づけは でんがく えんねん であり、田楽の能、延年の能も行われていたが、猿楽の能の江戸時代に洗練され、能は現代に及ぶ不朽の生命を得た。世継者に名人が輩出し、大正から昭和の第二次世界大戦にかけ しき ようきよく おいおんあみ ような発達を遂げなかった。「謡曲」は能の声楽部分をさ阿弥の甥の音阿弥も名手で、能は室町幕府の正式の芸能「式て芸術上の黄金時代を築いた。シテ方では、観世流の初世梅 かせつ 若万三郎・一一世梅若実兄弟、観世華雪、橋岡久太郎、観世左 し、またその脚本をいう。世阿弥は能の脚本を「能本」とよ楽」として扱われるようになる。 きゅうせん ながし かねすけ んでいる。 〔室町後期から安土桃山時代〕近江猿楽には犬王があり、幽近、宝生流の松本長、野口兼資、金春流の桜間弓川、金剛 うきよう いわお 流の金剛右京、初世金剛巌、喜多流の喜多六平太、ワキ方に 玄至高の芸をうたわれたが、後継者がなく、大和猿楽には、 しげやま きゅうえんこうよしみつ ぜんちく のぶみつ しんはやし 能の歴史 宝生新、囃子方に川崎九淵、幸祥光ら、狂言では三世茂山 世阿弥の娘婿の金春禅竹、音阿弥の子の観世信光らが新しい やごろう とよとみ 〔先行芸能〕奈良時代に大陸から輸入された散楽は、曲芸、作品を書き、戦乱の世を能は生き抜いた。豊臣秀吉は大の能忠三郎、善竹弥五郎、三世山本東次郎、二世・三世茂山千 かるわギ、 のマ一一アで、自身金春流を舞うほか、配当米を定めて能を保作、野村万蔵らが活躍した。各流儀は能楽堂をもって定期能 軽業、奇術、歌舞などの雑多な芸能であったが、平安時代に ・一つけい ものまね 護した。面や装束の改善なども、桃山時代の技術と富を背景を催し、細川、井伊、松平などの旧大名も能舞台を建設した。 は滑稽な物真似が主流となり、サルガク、サルゴウとよば てさるがく れ、時代を経て対話喜劇としての狂言と、まじめな歌舞劇のとしている。当時は手猿楽とよばれる素人の演能集団が流行〔第ニ次世界大戦後〕戦争でほとんどの能楽堂、かなりの後 しゅし 純北に八刀化していノ、。 一方、寺院の法会における呪師の演技をし、本願寺も坊主能が盛んであったが、事務総長にあたる下継者を失ったが、やがて復興し、前記の名人たちが世を去っ ろうおう つましようしん 間少進は素人ながら抜群の名手で、多くの演能の記録を残 たあとに大きなプームが起こり、催しの盛んなことでは世阿 猿楽者が担当するようになり、また神が老翁の姿で祝福を与 きりしたん 弥以来最大の隆盛をみている。戦後の新たな傾向は、一九五 える古来の芸能も、猿楽者が勤めるようになる。今日も別系している。『アダムとイプ』『ノアの箱舟』など切支丹能とよ おきな 四年 ( 昭和一一九 ) 以降海外能が年中行事となり、むしろ前衛 列の演目として神聖視される『翁』の原型である。鎌倉時代ばれる、布教の手段としての能の利用もあったと伝える。 〔江戸時代〕徳川家康は幼少から観世流の能に親しんだが、演劇として高い評価を得ていること、女流能楽師が公認 ( 一九 後半には、多くの寺に所属した猿楽の座が、能という新しい いえみつ 四 0 されたこと、薪能を称する野外能が全国に広まり、一一一 三代将軍家光の時代に大和猿楽の四座は徳川幕府の直属の芸 歌舞劇を上演するようになり、南北朝時代には、多くの支流 よぎいちりゅう きた やまと おうみ を包括する大和猿楽と近江猿楽が大きな存在となる。なかで能となり、喜多流が新たに認められて、四座一流と称され〇か所以上の定着をみていること、国立劇場能楽堂の発足 ゅうぎき 著、かと とび も奈良の興福寺に属した、円満井座、坂戸座、外山座、結崎た。能は新作をやめて古典芸能となり、世襲による家一兀制度 ( 一九公 (l) などがあげられる。役や流儀による後継者のアンバ えんま : れ ~ く さる く でんがく しろ、つと たきぎ