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検索対象: 日本大百科全書 18
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1. 日本大百科全書 18

りゅうこう 1 ) うしゃ しい歴史を経ながら現存する作品の数々は、豪奢幸次郎、福田正夫、川路柳虹、佐 六七 = 壬申の乱 そうのすけはぎわらさくたろう にして格調高く、日本芸術史の重要な要素とな藤惣之助、萩原朔太郎らが順次、編 = 一大仏造顕の詔 ん っている。刺しゅうの文献上での初見は『日本集を担当した。全体として民衆詩派 宀九四平安奠都 兊四遣唐使廃止 こ書紀』推古朝一三年 ( 六 0 五 ) の条に、「始めて系列の印象が強いが、広く各傾向の 九套摂関常置 銅、繍の丈六の仏像各。一驅を造る」と記されて詩、評論、研究、翻訳その他を集 九会藤原道長内覧 摂関時代 いる。古代にも無着色、無模様の布に刺しゅ , つめ、先輩詩人を顕彰し、新詩人の紹 が施されていたと推測されているが、本格的な介に努めるなど、詩壇の公器的存在 一 0 〈六白河院政開始 代代 刺しゅうは、インドから中国を経て仏教文化と 院政時代 としての役割を果たした。復刻版寺時 = 会頼朝総地頭職 ばん しゅうぶつ ( 源氏将車時代 ) 『日本詩人』 ( 一九七 0 ・日本図書センタ三業 ともにわが国にもたらされた。繍仏、繍幡、 一 = = 一承久の乱 の農壬申の乱 古代 〈飛高隆夫〉 ー ) がある。 繍冠、仏具とその小品、貴族の服飾として発 文永・弘安の役 史 中執権時代 水 にほんしぜん 達、発展してきた。わが国に現存する最古の繍日本自然保護協会 文永・弘安の役区 歴 = = 茜建武の新政 まんだ ( 南北朝時代 ) ほ、こキ、よ , つかし 全日本的な規模で自本 いの遺品は、奈良の中宮寺にある『天寿国曼荼 室町 = = ( 〈足利義満将軍 近世 日 将軍時代 一罨応仁の乱 羅』 ( 繍帳 ) 。六一一一年 ( 推古天皇二九 ) 二月、然保護運動を進めるための財団法人 たちばなのおおいら 戦国・安土 一四九 0 足利義政死 機械工業技術の近 聖徳太子が薨ぜられたとき、王妃の橘大女組織。一九四九年 ( 昭和二四 ) 尾瀬 < 導入による 桃山時代 一至 ( 〈織田信長入京 産業革命 ヶ原の水力発電計画が実現されそう 郎が悲嘆のあまり推古天皇に願い、勅命によっ 代 を一元和偃武 古近近世 て製作されたもので、太子の往生せられた天寿にな 0 たとき、民間有志で尾瀬保存想 至六享保改革 業 期成同盟が結成され、計画阻止に成思 封建時代 国の有様を画面にしたものである。 I<IIÅ異国船打払令 図 平安 ~ 鎌倉時代にかけての繍技は、精細を極果をあげた。五一年阿寒国立公園の本械 一〈穴明治維新 日機 めたものだが、内容的には絵画的作品の跡をま雌阿寒岳頂上の硫黄採掘が問題にな 機械工業時代である。ただし、明治時代以降今 武士と儒教 / 関数主義の成立 ねたものが多く、繍いとしての主体性を欠いてり、全国的な自然保護運動の必要が痛感され、 〔戦国 ~ 江戸時代の思想〕封建制度と朱子日までは第二期から第三期への過渡期の前半 おり、見る者の心を揺さぶるものは少ないよう期成同盟を自然保護協会に改組し、全国的な運 学 / 封建制度と町人の思想 / 治者と被で、今後、後半期に入り、やがて真の意味の機 である。桃山時代になると、富豪商人にまで広動を進めることになった。国土の自然を研究し めいはくこそで 械工業時代を迎えるものと考えられる。 治者の科学思想 / 関数主義の完成 まり、繍箔小袖、能装束などに施された刺しゅて、その景観上の価値を解明し、国民の自然的 ところで、中国の影響を受けた第二期は、日 〔明治以降の思想〕家制国家主義の形成 / うは自主性をもって堂々と繍われている。江戸環境・生物社会・自然資源の保存など広く自然 反体制的思想の展開 / 興亜と脱亜の一一本に伝来した「北」中国思想と「南」中国思想 時代に入ると、町人階級の台頭と泰平ムードに保護に努めるとともに、国民の認識を深めて、 重構造 の性質とその受け取り方の相違によって、この のって、美服としての刺しゅうが隆盛を極め国家諸般の施策に寄与することが運動の目的で 〔むすび〕日本人の思想の二重構造 / イデ時期の日本思想史はまた三時代に分けられるの ある。 〈加瀬信雄〉 た。金・銀糸の多用と総繍い、総鹿の子の小 ひった である ( 図 <)0 オロギー連合と役割分担 袖、匹田絞りと刺しゅうの併用など、まさに爛 じゅく にほ′ルーし挈っ 日本思想 第一期は中国思想の影響をそれはど強く受け 熟期といってよいだろう。明治時代のものは、 はじめに なかった弥生・古墳時代ー始原時代。 〔はじめに〕日本思想史の時代区分 / 生活 諸外国への贈り物や貿易品とされたため、優れ 第二期は「北」中国思想の影響を強く受け、 〔日本思想史の時代区分〕日本人は日本の地理 としての思想 た作品で国外へ持ち出されてしまったものもあ 〔神道思想〕神道思想の更衣現象とその論的環境のために日本史の展開の過程で外国の影それを日本化していった奈良・平安・鎌倉時代 る。また古い時代の作品の多くは一部の所有者 響を不断に受けてきた。西洋の影響がまだ直接 ー古代。 理 / 神道思想の本体 に秘蔵されていて、一般の人の目に触れる機会 第三期は「南」中国の思想の影響を受け、そ 〔氏族時代の思想〕時間と空間の観念 / 神日本に及ばなかった時代、日本は主として隣国 が少なく、そのため日本刺しゅうへの認識が低 中国の影響を受けた。その後、欧米諸国の植民れを利用して日本らしい思想をつくりだしてい 道の成立ー呪術から宗教へ・ く、今日においては過小評価されている向きが あづち はんえり 地獲得の勢いがアジアに及ぶと、欧米の影響を った室町・安土桃山・江戸時代ー近世。 〔律令・格式時代の思想〕儒仏二教の伝 ある。昭和初期までは半衿に大いに用いられて われわれが通常日本思想と称しているのは、 来 / 律令国家と金光明経 / 大仏開眼と受けることになった。その間、南中国から水稲 おり、終戦までは婦女子の情操教育として学校 国民国家の思想 / 格式政治の論理 / 法農業技術、欧米から機械工業技術が伝来して一一水稲農業時代一一千年余りの間を特色づける思想 で教えられてきた。図刺しゅう〈秋山光男〉 大産業革命が起こり、日本の歴史は三時代に大のことで、縄文時代や機械工業時代の思想をい 華経の思想 回今井むっ子編著「日本刺繍』 ( 一九七六・毎日新 うものではない。それでは、この時代の日本思 〔摂関・院政時代の思想〕律令制と摂関きく時代区分されるのである ( 図 <)0 聞社 ) ▽山本らく著『刺繍』 ( 一九七 = ・芸艸 第一期は、石製の手道具を使って主として狩想の特色とは何であるか 制 / 台密の思想 / 院政の理念 / 宿世の 堂 ) ▽浦野理一著『日本染織総華ーー・刺繍』 猟採集生活を営んだ時代 ( その末期が縄文時代〔生活としての思想〕それを語る前に「思想」 思想と末法・末世の意識 ( 一九七五・文化出版局 ) ということばを説明しておく必要がある 〔鎌倉時代の思想〕後白河Ⅱ頼朝体制 / 貴とよばれる ) 。 日本詩人にほんしじん詩雑誌。一九二一年 およそ思想には、①「イデオロギーとしての 第二期は、初めは青銅製、ついで鉄製の道具 族と新古典主義 / 源氏将軍の二重性 ( 大正一〇 ) 一〇月創刊、二六年一一月終刊。 やよい 思想」と「生活としての思想」がある。社会的 格 / 北条執権政治の理念 / 武士と鎌倉を使って農耕を営む水稲農業時代 ( 弥生時代・ 全五九冊。新潮社発行。詩人の大同団結を目ざ 経済的生活のなかに融け込んでいる思想と、政 古墳時代より幕末まで ) 。 新仏教 して一九一七年 ( 大正六 ) 一一月に結成された しろとりせいご ももたそうじ 第三期は、自動機械によって工業生産を行う 治を介在させてそのうえにたっ哲学・芸術・宗 〔室町時代の思想〕足利幕府の政治理念 / 詩話会の機関誌で、白鳥省吾、百田宗治、福士 - 一う らん おう 狩猟採集時代 明治維新 水楯農業技術の 伝来による 産業革命 始原 古代 古代 律令時代

2. 日本大百科全書 18

意すべきであろう。また短歌と並んで現代の国民生活になじを宿す文献として貴重である。ここに織り込められている神成された問題意識に基づいて創作活動を開始し、ここに空前 かげろう ひら みちつなのはは れんが の女流文学時代が拓かれた。藤原道綱母の『蜻蛉日記』を まれている俳句は、元来和歌を母胎とする連歌から派生した話・伝説および多数の歌謡は、天皇家や諸氏族ならびに民間 まくらのそうし せいしようなごん 俳諧の発句の独立したものであるが、日本独自の生活詩としの記録や伝承であり、そこには原始・古代の文学に特有の豊はじめとする女流日記や、清少納言の『枕草子』、紫式部の かな想像力や感性が息づいている。そのほか、神を祭ること『源氏物語』などは日本文学史の金字塔というべきであろう。 て国外からも注目されているこの短詩型は、その由来そのも いちじよう せんみよう のりと のからして日本文学の特質と考えられるが、巨視的にみれば ばである祝詞や天皇の勅を宣布することばの宣命なども忘『枕草子』は、一条天皇時代の宮廷生活を背景として、鋭い かいふう れがたいが、なお日本人によってつくられた漢詩が『懐風知性と清新な感性とに貫かれた美の世界を創造した随筆文学 和歌の伝統にその根幹が求められよう。 そう 藻』に編まれていることも注意される。漢詩・漢文の制作であり、『源氏物語』は、それまでの文学の多様な遺産を総 日本の文学はこうした短詩型の土着的文学を生活のなかに 育成してきた美意識が核となっているといえよう。その伝統 は、大陸文化の積極的な受容によって古代国家を建設した貴収しつつ、貴族社会を生きる人々の心の深層をくまなく照ら のうえに「もののあはれ」「幽玄」「わび」「さび」「軽み」族官人たちの晴れの正統的文学であり、それは次の時代のし出した長編の虚構物語である。『源氏物語』の、同時代以 さ′一ろも けいじじ・よう ちよくせん 降の文学に及ばした影響力は深甚であった。『狭衣物語』『浜 等々の美的理念が培われたが、形而上的な神秘性や抽象的思勅撰漢詩文集の成立へとつながるものである。 ねぎめ まっちゅうなごん 松中納一一 = ロ物語』『夜の寝覚』『とりかへばや物語』などの長 想性とはおよそ縁遠、 しいわば気分象徴的なそれらの理念 この時期までの文学は、すべて漢字・漢文で書かれるほか どんらん なかった。いわゆる万葉仮名も、漢字の音や訓を借用して日編物語、『堤中納言物語』のような短編物語集が現存してい は、前近代に限らず、西欧近代文学の貪婪な摂取によって伝 統と断絶したかにみえる近現代文学においても、基層的に受本語を表記したのである。やがて九世紀後半になって、万葉るが、『源氏物語』の規範性を振りほどこうとするさまざま け継がれているといえよう。もとより短歌や俳句のごとき短仮名をもとにして新たに生み出された平仮名の普及とともの趣向が試みられているものの、至る所に『源氏』の影を宿 ほうじよう している。 詩型とは対極的な物語・小説や劇文学の豊饒な達成を各時に、文学の歴史は期を画するものとなる。 代時代に無視することはできないし、そこには思想的な統一 〔平安時代〕平城京から平安京への遷都は、奈良末期の政治『源氏物語』や『枕草子』を生んだ基盤は藤原氏によって領 性、論理的な構築性を志向する試みがなされなかったわけでの混迷を打開し、律令政治を強化再編しようとする朝廷の方導された摂関政治の最盛期の宮廷社会であったが、摂関政治 はない。しかしながら、日本文学の特質としては、日常生活針による。前代にまして積極的な大陸文化の移入が図られ、は一一世紀の後半ごろから衰退期に入り、やがて院政期が到 のなかに醸成される微妙な人情のあや、伝統的な自然感情の都城の規模や制度文物が一途に唐風化した。この時代の文学来する。こうした時期の文学として特記すべきは歴史物語と えいが 説話文学である。歴史物語には編年体の栄花物語』と列伝 細妙な表現においてその達成度の示される傾向を否定するこ がまず漢詩文全盛の姿をもって開始するのは必然的であっ けい - 一くしゅう おおかがみ りよううんしゅう ぶんかしゅうれいしゅう とができない。 た。九世紀前半に『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』と体の『大鏡』があるが、『大鏡』の形式を受けて『今鏡』以 しようりよう いう勅撰漢詩 ( 文 ) 集が編まれている。空海の詩集『性霊下のいわゆる鏡物の伝統が形づくられる。説話文学には早く りよういき ぶんきようひ しゅう 古代文学 八世紀に『日本霊異記』が仏教説話集として成立したが、そ 集』や同じく空海が中国の詩学を抜抄し編成した『文鏡秘 こんじゃく ふろん このような時期、『万葉の系統を引く『今昔物語集』は、古代末期の世情を生きる 〔文学の発生から奈良時代まで〕日本列島に居住する日本人府論』のごとき偉業も忘れがたい。 がほば共通の言語Ⅱ日本語を用いて社会生活を営むようにな集』以後の和歌は民間や私的世界が歌われていたが、九世紀多様な人間群像を精細にかたどる大著として注目される。ほ うちぎき ′、うだんしよう に『江談抄』『打聞集』『古本説話集』などがある。この ったのは数万年前のことといわれる。その日本語の成立ととの後半になると、いわゆる六歌仙の時代を経て宮廷貴族の世か りようじんひしよう - 一うしよう もに発生したであろう日本文学は、長期にわたるロ誦の期界に進出してきたのである。新たに発明された仮名文字 ( 平時期には新興歌謡である雑芸の歌詞を集成した『梁塵秘抄』 間を経過したが、やがて大陸から伝来した漢字によって記載仮名 ) の普及と不可分の関係において、それは万葉和歌とはのごとき特異な書も編まれた。古くから宮廷や貴族の世界に ふぞくあずまあそび かぐらうたさいばら は、神楽歌、催馬楽、風俗、東遊歌などが伝承されていた される新しい文学の時代を迎えることになった。漢字の伝来異質の、優美繊細な貴族文学としてその風体を整え、『古今 そのものは一、二世紀ころと推定されているが、日本語を表和歌集』をはじめとする勅撰和歌集の規格が確立した。このが、平安中期以降、民間芸能が貴族生活のなかに入ってき いまよ、つ やしきうたあわせ た。そうした今様の流行歌謡が、庶民の生活感情を伝えるも 記するために用いられるのは五世紀以後であり、なおそれに時期は宮廷や貴族の邸で歌合の行事が営まれ、また和歌は 習熟したのは六世紀末から七世紀にかけての推古天皇の時代社交生活に不可欠の雅語として重んぜられたから、多くの男のとして『梁塵秘抄』には収められている。 ごせん じよめい なお前記の『古今和歌集』以後、これを規範として『後撰 であった。この時期を受けて、舒明天皇の時代に始まる一世女歌人が輩出し、おびただしい数の私家集が現存している。 しゅうい やまと 紀余の、いわゆる万葉時代が到来した。万葉時代は、大和地 一方、仮名文字の普及は、しだいに複雑な都市社会を形成和歌集』『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花 りつ せんざい 方を中心として古代国家の機構が整えられ、中央集権的律しつつあった平安京の現実と相まって、多様な散文文学の発和歌集』『千載和歌集』が勅撰集として編纂されたが、『後拾 おちくば 令制の確立する時期であったが、『万葉集』はそうした時代達を促した。『 竹取物語』に始まって『うつほ物語』『落窪物遺集』以後になると、歌人の自覚とともに批評意識が高ま やまと へいちゅう り、歌合の盛行とともに多くの歌論・歌学書を生んだ。『千 の息吹を体現する大叙情詩集であり、大陸文化の盛んな摂取語』などの虚構物語、『伊勢物語』『平中物語』『大和物語』 などの歌物語、『土佐日記』に創始される日記文学などがあ載集』の撰者で、中世的な美的理念の形成に先駆けて幽玄の ぶや個人の自覚と相まって、日本文学の青春期の記念ともいう しゅんぜい る。そのほか、名だけ伝えられて散逸してしまった作品はお歌境を求めた藤原俊成や、旅のなかに新風を開いた歌僧西 んべきものである。一方、この時期に成立した『古事記』『日 ぎよう へんさん ふどき ほ本書紀』『風土記』などは国家の政治的意図によって編纂さびただしい数に上るが、一〇世紀のなかばごろ以降、それま行の活動などが注目される。↓歌謡↓和歌↓短歌↓漢 〈秋山虔〉 7 れたものであるけれども、長期にわたるロ誦文学のおもかげでは享受者の立場にあった女性たちが、その生活のなかに醸文学↓物語文学↓日記文学↓随筆

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にんぎよ ③ ② ④ ① 日本の人形 ①土イ禺。人形の最古のものといわれ , 大部分が 原始信仰に結ひ付いた女性像である。「ハー 形土偶」縄文中期群馬県吾妻町郷原遺跡出土 高 30.5cm 重文 ②朝輪。巫女をかたどったもので , 古代の服装 をうつしている人物埴輪は , 現在の風俗人形の 祖型とも考えられる。「盛装した女」古墳後期 群馬県伊勢崎市八寸出土高 59.5cm 重文東 京国立博物館 ひとがた ③人形。目の表現が正常でないところから , 眼病 治癒に用いたものと思われる。藤原京 ( 694 ~ 710 査良県立橿原考古学研究所 年 ) 出土高 14cm 丁 ④天児。平安時代の腐除けで , 十字形のものに 頭をつけて着物をきせ , 幼児の枕元に置いた。 高 51cm 京都府立総合資料館 ⑤ 3 ⑥ ⑦ ・ノ ! よ、はうびな ⑥享保雛。「にんぎよう」ということはが一般化した⑤這字。天児と同し幼児のための信仰人形。白絹の のは江戸時代で , 人形の中心となる豪華な雛人形が縫いぐるみで , 金紙で束ねた絹糸の黒髪をつけてい つくられた。男雛高 67cm , 女雛高 67.2cm 山形る。後の御所人形の創作にヒントを与えたといわれ 本間美術館 る。高 48cm 京都府立総合資料館 ⑩ ⑦御所人形。江戸時代 , 京都の御所や公家が 慶事の贈答に用いたのでこの名がある。岡本 玉水作「おつむてんてん」昭和初期高 10cm ⑧イ矢見人形。土人形の源流をなすもので , 江 戸初期にはすでに京都伏見の名物だった。「立 お福」高 18cm ⑨こけし。ろくろでひいた木製の人形。つく り始めは江戸中期以後とされる。岩手県の郷 土玩具の , 「おしゃぶりのきなきな」高 205 ⑩山葷人形。神社の祭礼に引かれる山車に飾 しめやま る人形。原形は平安時代の大嘗ムの標山とい 、おん われる。京都祇園祭の「橋弁慶山」 ⑩やまと人形。江戸時代の市松人形の流れを くむもの。同系統の人形が , 「青い目の人形」 の返礼として , アメリカへ渡った。昭和初期 高 87cm 埼玉笛畝人形記念美術館 ⑨ のとして神聖視したり、あるいは人間の身代り として悪病や災難除けに用いたり、安産、豊作 を祈るまじないを目的にしたのが人形の始まり である。現在でも多くの民間伝承や世界各地の 末開民族の生活にそれがみられる。病気にかか った際には、木や草で人間の形をつくり、それ に病気を移らせて海に流す習俗とか、人形で子 供を授かることを祈願するとか、多くの獲物を 得たり、穀物を豊かに実らせることを人形に祈 ることは、石器時代にもあったらしい 人形は時代とともに変転した。宗教的儀式や 祭礼などに用いられていた人形が、しだいに遊 び道具となって子供に与えられるようになっ た。また愛玩物になると同時に製作技法も進ん できて、人形造型の美が鑑賞に堪えうるような 美術工芸品にまで、その位置が高められるよう な発達ぶりを示したのである。 やよい 〔日本の人形〕縄文、弥生式文化時代の遺跡か らも、原始宗教に結び付いた土偶、土面や、軟 質の石でつくった岩偶などが発見されている が、古墳時代になると、古代中国の影響を受け はこわ た埴輪が生まれる。この土人形は信仰の対象の 祭具としてつくられた。その当時の風俗を表現 している点で、現在の人形の祖型が感じられ ひとがた る。古代の人形は、神聖な力をもつものと信じ られていた。それが時代の移り変わりとともに 子供の愛玩物になって、たとえば宗教的な儀礼 の役割を果たした信仰人形が、遊び用に与えら 一れていったとも考えられる。子供への「みや みやげ げ」ということばは、「宮笥」っまり神々の宮 にお参りして求めてくる「器物」という意味を もつ。祭器祭具類がしだいに玩具に変転してい った過程がここに示されている。子供の誕生の 初参りと氏神との結び付きをはじめ、四季を通 じての行事や祭礼などにちなむ民間信仰から生 まれた人形類が玩具化された例は、現在の郷土 玩具に数多くみられる。↓埴輪 かたしろくさひとがたあま 平安時代に入ると、人形、形代、芻霊、天 がっ 児、中世になるとさらに、子などの、植物、 紙、布製の信仰人形が登場してくる。いすれも みそぎはらい 神霊のかわりとして禊や祓に用いられたり、人 間の身代りとして病気、災難除けに川へ流した まくらもと り、幼児の枕元に置いてその健康を守ったり わみようるいじゅしよう した。『倭名類聚鈔』に、「土偶人木偶人俗に 人形という」とあり、さらにひいな ( 雛 ) 、ひ 力いじんくぐっ とのかた ( 人の形 ) 、艾人、傀儡などの語がみ え、さまざまな種類のあったことを示してい 167

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こおもて たっえもん 老女伝日氷作 小面 伝竜右衛門作室町時代京都金剛宗家 室町時代東京梅若六郎家 曲見伝竜右衛門作室町時代東京三井文庫 せいさん 女性の業を表し , 凄惨な美をたたえる。「関寺小町』 もっとも若い世代を表す女面。処女性の美をたたえる。 中年の女性の面。人生の陰りと愛情深い表情を浮かべ ひがき 『檜垣』などに。老女物は能の最奥の表現とされ , 重 豊臣秀吉がとくに愛し , 雪月花の銘を与えた三つの小 る。『隅田川』『三井寺」などの母親の役に用いる 面のなかの一つ。雪の小面とよばれる金剛家の名物面 く扱われる しやくみ 怪士伝徳若作室町時代重文東京宝生会 痩男日氷作室町時代東京三井文庫 地獄に落ちた亡者の面。日氷は , この種の面の創作者 ヒノキの脂がしみ出して特殊な効果を添え , とくに と伝える。「藤戸」「善知鳥』などに用いる 「木汁怪士」とよばれる宝生流の名物面。凄愴さと気品 を兼ね備える。「船弁慶」などに用いられる い新ろくら橳うじよう 十六中将作者不明江戸時代東京梅若六郎家 きんだち 気品ある公達の面。 16 歳で花の命を散らした『敦盛』 などの役にふさわしい やせおとこ せいそう はなこよあくじよ、みつなが 鼻瘤悪尉満永作江戸時代滋賀彦根城博物館 般若洞水作江戸時代東京梅若六郎家 小見伝赤鶴作鎌倉時代重文東京観世宗家 うかい のもり とうはうさく 地獄の鬼神の面。「鵜飼」「野守」などに用いる。世阿 女の嫉妬の激しさと悲しさを表現した , みこ・とな造形。 強い意志と超能力をもつ , 老体の神の面。「東方朔」 おんねん あのうえ しらひげ 弥がこの面をかけて「鵜飼』の新しい演出を演じたと とくに「葵上」の貴夫人の怨念にふさわしい般若であ 「白髭」などに用いる ひたいがみ 伝える観世家の名品 る。額髪が描かれているまれな例 337 はんにやとうすい しっと

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ばぜる には利尿作用があり、胃病にも効くと記述し リの和名がついたが、本格的導入は明治初年以 各五枚。雄花は雄しべ五本、雌花は退化した雄で、江戸時代を通じ、普段使用されることはな た。パセリは縮れた葉が特徴だが、すでにギリ 〈湯浅浩史〉降で、初めは洋食の飾りとして使われ、つま以 しべ五本と一本の雌しべがある。核果は白色、かった。 へんべい シアのテオフラストスが紀元前四世紀にそれに 扁平な腎臓形で径約一。果皮は蝦を含み、こ ーセプレック Johannes Hasebroek 外に料理用として食べられるようになったのは 触れている。 ー一九五七 ) ドイツの経済史家。ケルン大学第二次世界大戦以降である。 れから木蝦をつくるので、別名口ウノキともい 日本では貝原益軒がオランダゼリの名で江戸 全草無毛で特有の香りがある。葉は三出羽状 う。近縁種のヤマハゼによく似るが、ヤマハゼ教授 ( 一九一一七 ~ 三七 ) 。古代経済の性格規定をめぐ は葉裏に毛が生えるので区別できる。 る「古代資本主義論争」に関連して、『古代ギ複葉で濃緑色を呈する。春または秋に苗床に種時代に記録しているが、普及したのは明治後半 れんが りゅうぎゅう 中国、インドシナ原産で、琉球から最初に リシアの国家と商業』 S ミ und を、ぎ子を播き、定植後、秋または春に出る根出葉を以降で、とんかつを考案した銀座「煉瓦亭」の きだもとじろう 渡来したので、リュウキュウハゼの名もある。 、 G ミ ( 一九一一 0 を著し、古代ギリシ順次かき取り、数回にわたって収穫する。種子木田元次郎がとんかつに添えたのが影響してい 現在本州から九州に野生しているのは、古くかア市民は国民経済的な商業の実行者でなく、都を播いて二年目から茎が伸びて五〇はどになる。一方、このために、欧米では刻んでスープ に入れる利用が多いのに、日本では生食や飾り らをとるために植栽されていたものが逸出し市国家には近代的意味での経済政策は欠如してり、黄緑色の小花を開く。寒さに強く、土質も 〈湯浅浩史〉 が主流となった。 たものとされている。 〈古澤潔夫〉 いたと主張、古代ギリシアの商業の高度な発展選ばないので家庭菜園やペランダ園芸でも栽培 される。経済栽培としては、千葉、長野、静岡 〔文化史〕ハゼの古名はハジで、『日本書紀』を説く近代化的解釈を否定した。〈篠崎三男〉 バーゼル BaseI スイス北部、バ 県などに多い。縮み葉系と丸葉系があり、料理シュタット (Stadt) 準州の州都。フランス語 には「梔、此をば波茸と云ふ」と出る ( 巻二 長谷部 = = ロ人はせべことんど (l<- 、 名バール Båle 。人口・一七万六二〇〇 ( 一九〈四 ) 初代下 ) 。ハゼでつくったはじ弓は『古事記』解剖学者、人類学者。明治一五年東京に生まれ用には縮みのない柔らかい葉の品種が適してい ( 上巻 ) 、『万葉集』 ( 巻二〇・四四六五 ) にみらる。東京帝国大学医科大学を卒業後、解剖学をるが、日本では緑色の濃い、縮み葉のものが好で、チューリヒに次ぐスイス第二の都市。西ド 〈星川清親〉イツおよびフランスとの国境をなすライン川沿 れる。古代のハゼはヤマハゼあるいはヤマウル専攻し、京都大学、新潟医学専門学校 ( 現新潟まれる。 つ″い いに発達した町で、河川・鉄道交通の要地であ 〔食品〕葉茎に爽快な芳香と、ややくせのある シである。現名のハゼノキ ( リュウキュウハ 大学医学部 ) 、東北帝国大学の助教授ならびに かみやそうたん ゼ ) の本土への渡来は、神谷宗湛 ( 一五五三 ー一六教授を歴任した。一九二一 ~ 一三年 ( 大正一〇味があり、ヨーロッパでは古くから香味野菜とる。一六世紀の宗教改革時に、フランス、イタ からっちくぜん リア、オランダから逃れてきた新教派の学者、 して用いられてきた。なまのパセリは肉料理の 三五 ) が肥前 ( 佐賀県 ) 唐津や筑前 ( 福岡県 ) に 一 ) にドイツに留学し、解剖学研究のかた えいろく おおすみ 導入、永禄年間 ( 一五夭 ~ 七 0 ) 大隅 ( 鹿児島県 ) わら、・マルティンの指導のもとに人類学を付け合せに彩りとして添えられるが、ロ臭を柔企業家、商人らを市民が受け入れ、これが市の ねじめおがわ 根占村雄川に、 一六四五年 ( 正保一 l) 桜島に伝 学んだ。二七 ~ 二九年 ( 昭和二 ~ 四 ) には数回らげる働きがあるので食事の最後に食べるのも文化・経済の発展に貢献した。現在は化学工業 ( とくに薬品・染料 ) の一大中心であり、ほか 来など諸説がある。室町時代のころからウルシ にわたってミクロネシア人を調査。三八年東京よい。刻みパセリは料理にふりかけたり調理に ろう に電気、機械、印刷などの工業が行われる。工 やヤマウルシの蝦でろうそくがつくられ始め、帝国大学教授となり、翌年理学部に人類学科を用いて風味を引き立てる。スープ、サラダ、魚 ーゼルに立地す リュウキュウハゼによるはぜ蝦はろうそくの生創設、四二年には中国の北京で、北京原人の調料理、肉料理、ソースに香味料として使われ業地区はライン川右岸の小 産を安定させたが、それでも量は少なく、高価査を行った。四三年東京帝国大学を停年退官る。乾燥したパセリフレークはほとんどの料理る。ここにある河港を通じて多量の物資の輸出 にふりかけてよい。カルシウム、リン、鉄、カ入が行われる。左岸の大バーゼルは商業・文化 し、四四年東北帝国大学名誉教授となる。五一 リウム、カロチン、ビタミン 0 などを多く含んの中心で、大聖堂、美術館、歴史博物館などみ ~ 六八年 ( 昭和二六 ~ 四三 ) 日本人類学会会長 でいる。 〈斎藤浩〉るべきものが多い。国際決済銀行本 を務め、五三年日本学士院会員となる。 〈前島郁雄〉 る 〔文化史〕古代ギリシアで開かれていた四大祭部所在地。 主として日本人の人類学を研究テーマとし、 多くの遺跡を発掘した。日本人の起源について典競技のうち、ゼウスを祭るネメア競技と海神〔歴史〕ローマの野営地バジレア Basilea と っ を ポセイドンを祭るイストミア競技では、勝利者して三七四年に初めて記録に現れる。七世紀初 連続説 ( 移行説 ) を唱え、縄文時代人は現代日 木本人の直系の祖先であると主張した。この説はをパセリやセロリの冠でたたえた。パセリの花頭、司教アウグストがこの地に司教座を移した し ことにより、宗教中心都市として発達した。九 言葉の勝利、祝宴、祝日はそれにちなむ。一 今日もその大筋は正しいと考えられている。 めいんし 出 方、冥界の女王ベルセフォネに捧げたことから世紀には東フランク王国、一〇世紀にはプルグ 「石器時代住民と現代日本人」「明石市附近西八 蝋木最新世前期堆積出土人類腰骨 ( 石膏型 ) 」「日葬祭にも使われ、ひいては不吉とする見方も古ント王国、そしてのち神聖ローマ帝国に帰属し 本民族の成立」などの論文がある。〈埴原和郎〉代ギリシアにあった。薬用にもなり、ディオスた。一四世紀にはベストや地震、火災などの災 し 0 、 集 コリデスは『薬物誌』 ( 一世紀 ) で、種子や根害により大打撃を被ったが、市の住民は徐々に セリ parsely/ P ミき s ミき sa 、ミミ を Ho m. セリ科の二年草。ヨーロッパ南東部 実 からアフリカ北岸一帯の砂礫地の原産。紀元前 果 四 ~ 前三世紀のギリシアで記録があり、栽培は 冬 司古く、ギリシア・ローマ時代は薬用、香味料で あったが、紀元後二 ~ 三世紀から野菜としても 紅使われるようになった。九世紀にイタリアから 左 フランスに、 一三世紀に北ヨーロッパに伝わ り、一六世紀にはイギリスへと広まった。アメ キ リカには一九世紀初めに伝わった。日本へは江 一尸時代にオランダ人が初めて伝え、オランダゼ じんぞう ろう されき ー一九六九 ) さき一 パセリ〔上〕葉〔下〕花 747

6. 日本大百科全書 18

のこぎり 造 構 鋸 / 種類 ( 木工用 ) か一内 み身 首 込み 手曲鋸 言田 身の先ー腰一身の元 - 先歯 めくき 目釘 元 い尻 柄 籐巻き 歯渡り 横挽歯 縦挽歯 切削角 75 ~ 80 。 刃先角 30 ~ 40 。 切削角 90 。 刃先角 60 。 前挽鋸 当 1 第 両歯鋸 歯 下 検 歯先を連 ねる線 下歯 検 上 上 [III 上 胴付鋸 突回し鋸 廻挽鋸 おが 石峯寺 ( 神戸市 ) の大鋸 畔挽鋸 代 ( 前一五 00 ころ ) の銅製のものが、現在知られて「第 いる最古のものである。さらに鉄の鋸として 用、冨 は、紀元前八世紀のエジプト ( テーベ ) のもの がもっとも古い。これは、やや湾曲した細長い 刀のような形の鉄の板に歯を刻んだもので、ヨ 縦い専 の ーロッパではこうした形の鋸が古代から中世、 特 近世を通じ一貫して使われていたことが、多く イ・カ一泉 本軋 の銅版画や石版画などからわかる。今日の手で 押して使う西洋型鋸の原型であろう。また木で 、 ) 鋸る斎 のすい 鋸枠を組み、それに帯状の鋸を張った大鋸型式の 3 飾 型 葉鋸も、古代ローマ時代から今日まで通して使わ 次鋸 大目 のれている。水車動力による鋸水車は、一三世紀 まるのこおびのこ 」細 ~ 挽 0 中 ごろから記録にみられるが、今日の丸鋸、帯鋸 7 攣のは江 などのいわゆる機械鋸は産業革命以後に出現し 人方 たもので、日本へも幕末に紹介されている。 1 左景 よこびきたてびき 鋸の歯には大別して横挽と縦挽とがある。横 〔図十 挽は小刀を並べたような歯形で、木材の繊維を 横に切断する原理であるが、一方縦挽は、のみ 来本 伝日 ( 鑿 ) を並べたようなもので、繊維方向に沿っ かて て掘り進む。わが国では古墳時代の出土品が最 古のもので、厚い短冊形の鉄板に歯を刻み、上 中と巻 , 鋸絵 から押し付けて使う原始的なものから始まり、 ての合 けい挽歌 七世期の古墳時代末期までにすでに今日の歯形 . か」縦人 , 職 がはば完成している。法隆寺金堂や五重塔に こんせき 期で番 中種ニ は、盛んに横挽鋸を使用した痕跡がみられる一 わみよう ら一十 が、鋸の形態について触れているのは『倭名 かの三 わみようのほきり 期鋸『 鈔』の「鋸、和名能保岐利。刀に似て歯ある 初」枠 の。る 物なり」とあるのが初めてで、はかの文献には 代が鋸あ なく、確定的な遺物も残っていない。したがっ 町のの 室挽も て、平安時代なかばごろまで一般に使われてい 人 しまのところ不明である。しか た鋸の形態は、、 た最 しこれ以後は、「刀に似て歯ある」形の鋸、つ 鋸しで まり先が細くとがり、歯線が緩く湾曲した、い が、丸鋸や帯鋸による機械製材が普及する明治 わゆる木の葉型の万能タイプの横挽鋸が広く使 われてきたことは、絵巻物などから確認でき時代なかば過ぎまで広く用いられた。なお鋸が る。また歯線が今日のように直線になったのは多くの種類に分化したのは、職人の分化、専門 江戸時代で、さらに横挽と縦挽の二種の歯を左化が急速に進んだ江戸時代なかばごろからであ る。 右に刻んだ両歯鋸が出現するのは、明台になっ 〔種類〕現在、鋸の種類としては両歯鋸が一般 てからのことである。 おが 鋸 中国から大鋸という縦挽の製材用鋸が導入さ的であるが、これは横挽あるいは縦挽のどちら 型 羊れる室町時代なかばごろまで、わが国ではスギかの歯だけが刻まれた片歯鋸が改良されたもの 西 とかヒノキなどの目の通った針葉樹は斧やのみである。胴付鋸は、歯線約三の間に二〇から で打ち割って製材していたため、櫛挽やごく特三〇以上の細かい歯を刻んだごく薄い片歯鋸 殊な工作用は別として、建築用では縦挽鋸は使で、切断面がきれいなので、挽きつばなし ( 鋸 かんな われていなかった。しかしこれ以後日本の木材の切断面を鉋やのみでさらに加工しないこと ) に建具職などがよく用いる。補強のために厚い 加工技術は革新期を迎え、大鋸はやがて日本独 まわしびぎ まえびき 特の前挽という一人用製材鋸を生み出し、これ鋼板の背金をかませている。廻挽鋸は身幅が くしびき おの 418

7. 日本大百科全書 18

〔神道思想の本体〕それでは、神道が関数的に である。神道の歴史を一目で見渡す高所より大変装・変身ぶりは、仏教・儒教やキリスト教な 教などの領域におけるイデオロギーの形をとっ いしはイスラム教などの他の宗教にはみられな応変するたびごとに復原して行く原点、ロゴス た思想がある。②イデオロギーとしての思想の観すると、神道は「着せかえ人形」のように、 いところである。しかも神道は、外来の世界宗なき神道自体、すなわち / とは何か。それをみ なかにも「ロゴス化された思想」と「ロゴス化時代が変わるとすばやく前代の古い思想の衣 しよう されていない思想」がある。「ロゴス化された裳を脱ぎ捨てて、次代の新しい思想の衣裳に教に吸収されてしまうこともなく、またその影つける方法は、いかに時代をさかのばっても、 へきち 思想」とは、ことばで言い表され体系を与えら着かえてきたようすがみえる。奈良時代の初め響の累積に埋没してしまうこともなく、それでまたいかに山間・海隅の僻地に分け入っても、 やまと いてその本質がはっきりしないまま、今日、依つねに特定の衣裳を身に着けている姿よりみい ころには、大和朝廷が諸氏族を統一して古代統 れた思想、「ロゴス化されていない思想」とは、 だしえない「着せかえ人形」のような神道にお 政治ないしは宗教・芸術 ( 文学・美術 ) の活動一国家をつくるためのイデオロギーの衣裳を身然としてあらわに、かっ頑強に神道であり続け ゃなたくにお もとおりのりなが いては、本居宣長の時間的、柳田国男の空間的 とその所産のなかに融け込んでいる思想ーー・美に着けて『古事記』のなかに現れていた。とこている。キリスト教信者やイスラム教徒にはま に遠くに求める方法は有効ではなく、各時代・ ことに奇妙で、えたいの知れない宗教のように 術を例にとると、美的表現の内容と様式に融けろが平安時代に入って仏教が国民に浸透する 各地方の神道からその衣裳を取り去る消去法が 込んでいる ( 表現の内容や様式に形象化されてと、いままでの思想の衣裳を脱ぎ捨てて仏教のみえる。 ほんじすい この事情によって、神道は、元来「神を祭る適当である。消去法というのは、先の数式にお 衣裳に着かえ、鎌倉時代には天台系の本地垂 いる ) 思想ーーーをいう。 じゃく しんごん けるから工をーーっまりその時々の、、 日本の歴史には、中国、ことにヨーロッパの迹神道や真一言系の両部神道となった。室町時行為のうちに融け込んでいる思想」をもつが、 : を消 : からその時々のあ、均 「ロゴスとしての思想」をもたないことがわか 歴史にみられるような、深遠壮大な体系をもっ代に入って禅宗が流行すると、古い思想の衣裳 たロゴス化されたイデオロギーとしての思想はを脱いで三教 ( 儒・仏・老 ) 一致の衣裳に着かる。事実、バイプルやコーランのような神典去して水稲農業時代を貫く共通の / ( 神を祭る ことのなかに融け込んでいる思想 ) を取り出す ( 聖典 ) がない。それにもかかわらず「ロゴス 生まれていないといわれてきた。しかしそれえて反本地垂迹説を唱える吉田神道となった。 としての思想」を借りて自分をロゴス化しよう方法である。そうした方法で取り出した神道思 は、日本人が思考カ弱く構想力に欠けるからで徳川時代に儒教が幕藩体制のイデオロギーにな おうせい とする意思は神道史を貫いて絶えず旺盛にもち想の本質 / は、結論的にいうと、①経験的現実 はよい。日本人は、近代ヨーロツ。ハ人のようると仏教の衣裳をかなぐり捨てて儒教の衣裳に りとうしんじ あんさい らぎん に、思想を生活の外に成立するものとは考えな着かえ、林羅山の説く理当心地神道や山崎闇斎続けてきたのである。裏からいえば、神道は主義 ( 生活中心主義 ) と、②共同体主義のかけ すいか かったからである。つまり生活することのなかの唱える垂加神道などの儒家神道となった。徳「祭りとしての思想」をロゴス的変装・変身の合わされた思想的構造物と私は考えている。 〔経験的現実主義ー生活中心主義〕日本人にと 川中期に国学がおこると、儒教の衣裳をさらり歴史を通してもち続けるという、頑強な反ロゴ 、政治ないしは宗教・芸術活動とその所産に ・」とあ もとおりのりなが って神は、人間をはじめとしてそれを取り巻く ス的傾向をもつようにみえる。宣長が「言挙げ と脱いで、国学の衣裳に着かえて、本居宣長の 融け込ませるものと考えてきたのである。 動植物の生命を生産し豊富にする目に見えぬ神 そうした傾向は、外来思想の空洞化を意味す説く古学神道となり、さらにキリスト教の衣裳せぬ」というのも、この特質をさしたものとい ムスビ ひらたあったね 秘的なカ ( 産霊 productive power) である。 るが、しかし、思想を生活化するという、日本を重ね着して、平田篤胤の唱える古道神道となえよう。また神道が古い厚着を脱ぎ捨てようと いかりまろ り、幕末にはキリスト教と習合して渡辺重石丸するとき、しばしば老荘思想という薄着を利用祭りは、この産霊のカの更新・増長を確認する 人の思想活動の特色であることを見落としては したのも、この反ロゴス的傾向のせいであろう。儀式である。 ならない 。したがって、日本思想および思想史の説くような反本地垂迹的神・基習合神道とな 、」ろも 日本人が神に祈願することは、つねに生命の の重要な研究対象は、ヨーロッパの思想史が哲って、キリスト教の衣裳に衣がえしようとしつまり、神道に本具する一見矛盾するように思 0 0 0 0 0 0 0 生産・増長ないしは生活の安楽・繁栄に関する た。ついで明治時代になって家制国家のイデオえる反ロゴス性とロゴスへの意志は、神道史に 学史として成立しうるのとは違って、外国から 0 0 0 0 0 0 きわめて生活的ーーっまり現実的なことに限ら ロギーが台頭すると、その衣裳に着かえて国家思想的多様性と思想史的非連続性を与えなが 「ロゴスとしての思想」を受け入れた場合でも、 ら、神道の本質を頑強に今日に存続させてきたれてきた。古神道の倫理においては、神の生成 それを生活化したところにある ( 空洞化と生活神道 ( 神社神道 ) となり、太平洋戦争敗戦後は 化はコインの表裏の関係にある ) といえようかあっさりその衣裳を脱いで、アメリカ流の民主ゆえんと考えられる。この神道史を特色づけるの働きにかなうものはすべて「善」、阻害する つねつぐ あし 田 5 , つ。 思想的多様性ものはすべて「悪」とみなされたと村岡典嗣は 他の宗教の歴史にみない 主義の衣裳を身に着けようとした。 いう。したがって神道は、仏教やキリスト教な と思想史的非連続性は、神道の「反ロゴス的な さらに、神道の神観念の歴史をみると、神は 水稲農業生活には当然、水稲農業生活の思想 しんとう があった。それをみいだすためには、神道を取さまざまに変装したというより、変身した感が本質」が「変装・変身の論理」を本来的に備えどの来世教と習合しない限り、人間の死にかか ふどき わることはなかった。『古事記』『風土記』『万 ていることから生じたものと思われる。 り上げるのがもっとも適当であろう。なぜなある。たとえば『古事記』のなかにおいては、 この神道にみられるところの絶えず原初 ( 歴葉集』などの古典によれば、神は社 ( ) をも ら、日本の神道は水稲農業生活とともに成立神は皇室や一部有力氏族の祖先神となった。 し、その後も水稲農業生活の営まれるところ、神・仏習合神道では、神は仏・菩薩の垂迹とな史的「原始」ではなく、歴史を貫いてつねに現つが墓はなく、人は墓に葬られるが社に祭られ このことは、上代日本人に死後 いつ、どこにおいても再生産されて今日に及んり、神・儒習合神道では太極の理、ないしは太在していて動的に活動している「原初」、流行ることはない の観念がなかったことを意味するものではな 語で「原点」といったほうがよいかも知れない ) 極のうちに兆しそめた一気と考えられた。神・ でいるからである。 、人間の死に関することは神道以外の習俗が 国習合神道では皇室およびすべての国民の祖先に立ち戻ることによって、変装・変身を自由自 神道思想 在に行うという、神道および神道思想形成の論担当していたことを物語る。そこで仏教が伝来 神、神・基習合神道ではデウスのような創造・ しんとう 主宰神や最後の審判をつかさどる神となり、国理ーー変り身の速さと復原力の強さ、妥協と守すると、死および死者を仏教に任せるという、 さて、神道の思想ーー神を祭ることのなかに 、変他と持続の弁証法ーーを、私は数学上の文明世界の宗教には類をみない固有の宗教と外 融け込んでいる思想ーーをみいだすには、神道家神道では皇室およびすべての国民の祖先や祖 ちかみち の歴史をみるのがもっとも捷径で ) かっ適当と先神となるはかに、忠臣義士や内乱・外戦の戦用語を借りて「関数主義」 ( 、 0 ) Ⅱを一 sm ) 来宗教の「役割分担」という珍しい現象が生ま と名づけている。この数式において / は神道思れたのである ( 日本の思想史を特徴づける「イ 没者になった。歴史の事実として同一の神社に し私は考えている。 ん〔神道思想の更衣現象とその論理〕〔着せかえおいても祭神が入れ替わり、その社を祭る人々想の本体、は / が受けるその時々の思想の影デオロギー連合と役割分担」のも 0 とも早い例 にさえ知られていないこともあった。 響、は歴史のなかに具体的に現れているそのと考えられる ) 。 人形〕神道が「固有宗教」として水稲農業時代 ところが室町時代以降、死者を神に祀る風習 2 を一貫して存続してきた仕方は、まことに特異〔関数主義〕この神道の臨機応変・自由自在な時々の姿をとる神道思想である。 ば、こっ まっ

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にほんし 〔図 M 〕家制 ( 立憲君主 ) 国家の理念 すいこてんじ 叫ばれ、いわゆる「興亜論」が台頭した。とこ期 ( 古代 ) の初め、推古・天智のころの過渡期 的思考を排斥しえた。徳川幕府の名宰相 ( 老この延長にくるものといってよい さだのぶ 中 ) 松平定信は「ことわりなきが、ことわりの こうした運動の進行する間に、この運動によろが「文明開化」の運動によって日本の近代化を経て、日本の風土における水稲農業生活に根 おおごしょ まことなり」と言い放っている。大御所時代って国家の政治的・経済的独立を達成しても、 ( 資本主義化 ) が進むと、日本はアジアの一員ざした旧来の氏族共同体 ( 閉められた原始封建 りつりよう ( 文化文政時代 ) になると、関数主義の論理は国家と民族の個性を喪失し、国民は分裂して国たる地位を脱して欧米の班に入って、欧米がア社会 ) のうえに、「北」中国伝来の律令政治の ジアに対するごとく、近隣アジア諸国に対処す体制 ( 開かれた中央集権的官僚機構 ) が積み重 その機能を存分に発揮したのである。 民的団結を失うおそれがあるという考えがおこ てんむ ってきた。おりしも自主愛国のヨーロッパの近べしという「脱亜論」が福沢諭吉によって提唱ねられ、天武天皇の改革によって上下二層は縫 明治以降の思想 代倫理と孝親忠君の日本の封建道徳の対決が文された。日本国家の二重構造は「脱亜」「興亜」合し、時とともに相互浸潤の度を進めて平安時 せつかん ありのり 〔家制国家主義の形成〕幕末に欧米の軍事的圧部大臣森有礼の暗殺を引き起こした。ここに至の論を上下に積み重ねた二重構造の対外政策と代に入り、藤原摂関時代には完全に癒着して「公 力によって国を開いた日本は、維新後ただちに って日本と西洋の短所を捨て長所をとって結合その議論をつくりだしたのである。いわゆる家 ( 宮廷貴族 ) 文明」をつくるに至った。また中 ゆきち 文明開化の運動をおこした。福沢諭吉はこの運し、世界に冠たる「新日本」の文明を建設しょ「大東亜戦争」は、現実にはアジア諸国に侵入期より後期へ移り行く過渡期のいわゆる前期武 おうにん まうげんへいじ 動の推進者であった。 うという楽天的な「国粋保存」の思想と運動が しながら、理念的にはアジアを保全するーーア家時代 ( 保一兀・平治の乱より応仁の乱、将軍義 文明開化運動は、挿入の図 *-a に示されている生まれてきた。明治三〇年代に入ると、封建遺ジアをヨーロッパの植民地たる地位から解放す政の死に至る間 ) においては、武士の思想と公 ように、国を開いて西洋の道徳を受け入れる、つ制の良風民俗であるイエを近代国家の基礎に据るーー「聖戦」である、と宣伝されたのである。家の思想との間に同様のプロセスが展開した。 まり一は個人の独立をすすめて国会を開き、一 え直し、そのうえに民主主義の政治機構と資本氏族 ( 原始封建 ) 国家の形成期に征服氏族が被もっとも、この時代の初めごろ ( 源氏将軍時代 ) においては、律令制度下の地方農村から進出し は物質的欲望を解放して資本主義産業をおこ主義の経済機構を上乗せした二重構造の国家が征服氏族をその力を弱めて温存しつつ自分の境 ) 、しらかわよりとも ほ、つ、小っ てきた武士の封建的支配関係は、後白河Ⅱ頼朝 し、これによって社会の元気を振起し、精神を構築された。明治四〇年代に入ると、この上下域を拡大していった姿を髣髴させるのである。 の協力体制によって「古代」的権力機構のなか 活発にして、国家的精神を強め、国家の独立を両層、「忠君」「愛国」の両倫理の結合 ( 縫合 ) じようきゅう かんにゆう むすび に嵌入されていた。承久の乱以後、北条執権 達成し、西洋列強と対等の地位にたって、交わは癒着にまでもたらされて、「日本の近代」国 だいじよ・つい るべくば交わり、絶っぺくば絶っ大攘夷を行家と「忠君愛国」の国民道徳が完成した ( 図 ) 。 私はこの文章の始めに、日本人の思想史はロ時代には両者が並立し、室町時代に入ると武士 う。要は国家の独立が目的で、開国は手段であ〔反体制的思想の展開〕この間に、二重構造をゴスとしての思想よりも、生活としての思想、 の支配機構が逆に公家の支配機構を包摂した が、南北朝時代で両者が縫合し、室町将車時代 るという愛国の運動であった。自由民権運動も上下に貫く家制国家主義的人間と、上部構造か イデオロギーの諸形態に融け込んだ思想を取り よしみつ ら反体制的な個人主義的人間と社会主義的人間 扱うべきであるといったが、いま改めて日本思 ( 義満・義政の北山・東山時代 ) に癒着して しんとう 期武家時代では、 が生まれてきた。 , 彼らは明治二〇年代には、国想の展開を回顧すると、神道思想の特色をなす「公方文明」をつくった。彳 , ちぎよう ろうまん 民主義、浪曼主義、平民主義を唱え、明治三〇経験的生活中心主義、共同体主義、関数主義ふたたび地方農村から台頭して一円知行の大名 年代には国家主義、個人主義、社会主義、明治が、日本思想の展開を特色づけていたことを知領国を形成した新興武士の閉められた封建的な 政治経済機構のうえに、「古代」国家の体制を 四〇年代には家制国家主義、自然主義、無政府ることができる。 つつみこみとかしこみ 主義を主張した ( 図 0)0 なおその間に、新旧思想の二重構造と、そこ 包摂・融解させた公方体制によって成長した 大正時代には第一次世界大戦によって欧米の にみいだされるイデオロギー連合と役割分担も「開かれた」全国的流通機構が積み重ねられた。 圧力が弱まり、国家の上部構造は繁栄して、家また、日本思想と日本思想史の特色であること政治体制においては、一円知行の大大名が他の 制国家主義は大正デモクラシー ( 民本主義 ) 、を知るのである。すなわち 一円知行の諸大名を統率する徳川幕藩体制が成 自然主義は大正リべラリズム、無政府主義はマ 〔日本人の思想のニ重構造〕水稲農業時代の中立したが、全国的流通機構と幕藩体制の二重構 ルキシズムとなって、世界 義 と国民大衆に向かって開か 主 マルキ 欧米外圧の弛緩 無政府主義秘 家 シズム れた政治と思想がおこって 弋次 国 の代 きた ( 図 Z ) 。 義時」 家 4 → 主 やがて昭和に入ってふた の 治争 家昭ー 下 たび外圧が強まり、戦争の 国満 続く時代になると、明治国 体 家 義弋容資本主義 家の体制とその理念が復活 主受 国君 の民権 ! 愛忠 し、天皇への忠誠、国家へ 想民欧民主主義 の奉公が熱狂的に鼓吹され思 衆 るようになった ( 図 C)O の 大 の 代 〔興亜と脱亜のニ重構造〕 大正リペラリズム 主 幕末日本が欧米の軍艦に脅皿 かされて、ことに中国のア大 国 ヘン戦争に刺激されて、日 家 本の独立とアジアの保全が 〔図 L 〕文明開化運動の精神 大攘夷 国家精神 イ↓個人主義的人間 人 資本主義的経済機構 村義 ( 自主愛国 ) 人孝親忠君 ) , 主愛 民主主義的政治機構 家 家 ー↓社会主義的人間 財産篇↑ - ・ーー↓身分篇「明治民法」 社会 民資 主本 王主 個義義物 人 欲 個人的物欲 開国 ・ 0 0 ↓マルキシズム 攘夷精神の鎮静 君 権 封建遺制の 積極保存 家制国家主義 〔図 ( ) 〕近代思想の展開 明治 30 年代 ( 日清戦争→日露戦争 ) 個人主義 社会主義 自然主義 まキ」 家制国家主義の成立 大正時代 ( 第一次大戦→「満州事変」 ) 大正リペラ リズム 自由主義 マルキ シズム

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からすき 発生的に始まったものと考えられており、鋤、の鎌は、緩い円弧の鋸刃が柄に約六〇度の角度えば縄文時代晩期の終末期で、さらにこれ以前次の時代には犂が出現する。犂は従来、島根 じようばた みのひきみ すきさき には焼畑農耕や庭畑 ( 住居周辺の常畑 ) での県美濃郡匹見町出土の犂鑼が古墳時代のものと 3 , フ鍬、犂 ( プラウ ) の刃先は木製から石製へ、石でついているものが用いられているが、日本以 されていたが、これは最近の研究から室町時代 ねの の製から鉄製〈と進化したとされているが、その外の大部分の国では、強い円弧の鋸刃が柄の延作物栽培が行われていたと考えられる。農具に ついていえば縄文時代終末期以降、弥生時代に末以後のものとわかり、古代犂は正倉院の「子 発達の仕方は、それぞれの農業の置かれた環長上に取り付けられた西洋小鎌 ( シックル ) に ひのてがらすき は水稲作が定着・普及するなかで多くの木製・ 日手辛鋤」と、平安時代の諸文献にみえるもの 境、自然条件や、農業の形態、民族の風習など類似したものが用いられている。アフリカやイ によって異なる。農具はまた人力用と畜カ用と ンドネシアの一部では穂刈りが行われており、石製農具が検出されているが、これ以前は打製がもっとも古い資料である。「子日手辛鋤」は むしようり しんせんじきようわみようるいじゅ 指につけた穂刈り用ナイフ ( インドネシアのア石斧などが耕うん用具として比定できるのであ無床犂で、平安期の『新撰字鏡』『倭名類聚 に大別できるが、西洋では畑作中心の農業で、 しよう からすき えんぎしき る。弥生時代の水稲作に伴う農具では、耕うん鈔』の「加良須支 ( 岐 ) 」は、『延喜式』の犂と ニアニなど ) で摘み取られる。 しかも有畜大規模経営の道を歩んだため、早く ひらぐわ から畜カ用具が発達したが、日本では水稲作中 脱穀作業は、、 こく一部で動力脱穀機や足踏み用具としてカシ類の本を材料にした平鍬、丸ともに長床犂系のものである。犂のカラスキと またぐわすき いう訓からは、これが大陸からの伝来であるこ 心で零細集約経営に進んだため、農具は人力用脱穀機が用いられているが、大部分は、穂のつ鍬、股鍬、鋤 ( 長柄鋤、着柄鋤、スコップ ) 、 いしばうち、よら・い いた束を脱穀台にたたきつけたり、牛のひづめ収穫用具として穂首刈りを行った石包丁・石とがわかり、犂の普及は一〇世紀後半から一一一 を中心に発達した。ヨーロッパ諸国やアメリ さるがくき わら に踏ませたりして脱穀する。藁や穂くずと穀実鎌があり、この収穫具は水稲だけでなく、畑作世紀初めにかけてである。『新猿楽記』 ( 一一世 力、日本などにおいては、農具から農業機械へ の発展の道をたどり、農業の主要な作業の手段の選別は、自然の風を用い、竹や草で編んだ穀類の収穫にも使われたようである。弥生時代紀中ごろ ) や『今昔物語』 ( 一二世紀初 ) など まぐわまぐわ としては農業機械が使われているが、まだ多く 莚や地面に広げて天日で乾かす。現在、日本の中期には鍬・鋤の一部の型のものは、その先には鋤、鍬、馬耙 ( 馬歯 ) 、犂 ( 辛鋤 ) 、鎌など がみえ、この時代には西日本を中心に犂が普及 の国々では人力用、畜カ用の農具に依存して いでは、刈り取り、脱穀、乾燥の作業は、バイン端に鉄刃がはめられるようになり、北九州では る。↓鎌↓鍬↓犂 弥生中・後期には鉄鎌が出土し、一部を除いてし、さらに鍬、鎌などの鉄製農具が一般農民に ダー、コンバインや乾燥機を用いている。 まで広まったと考えられる。 はこの時期から石包丁がほとんどみられなくな 〔種類〕耕うん、整地のための代表的な農具と 欧米や日本では農業機械が発達して、農具は せんばこきもみす 鎌倉・室町時代には犂は上層農民のもので、 して、人力用では鋤、鍬があり、畜カ用として重要性を減じ、脱穀用具としての千歯扱や椒摺る。さらに弥生後期には木製のエプリ、田下 おおあし からうす 犂がある。土を耕すことは作物栽培のもっとも り用具としての唐臼などのように、現在みるこ駄、大足、田舟が使われ、脱穀調整具としての下層農民は鍬を耕うん用具の主体とし、さらに たい - : っ たてうすたてきね 基本的な作業であり、ヨーロッパ諸国や日本でとのできなくなった農具も少なくないが、鍬や竪臼、竪杵、横杵もみられる。これらのことか太閤検地以後江戸時代は、耕うん用具の発達が ら、弥生前期には刃先まで木製であっても耕う鍬の分化という形で進んでいく。鍬は歴史的に は、トラクターを動力として耕うん、整地が行鎌などの小道具は今日でもなお欠くことのでき われている。中国やタイ、マレーシア、フィリ ない農具として使われている。東南アジアやイん用具には分化がみられ、後期にはエ。フリ、大身分階層化が進むなかで、下層の農民が自立、 しろか ピンの稲作の中心地では、近年、歩行用トラク ンド、アフリカの諸国では、現在でも農具類は足による代掻きや緑肥の踏み込み、さらに水路維持していく基礎的農具としての意味をもつわ かんがい けで、江戸時代後期には各地の自然・耕地状 ターが使われるようになったが、これらの国々作物生産に欠くことのできない重要な道具であからの灌漑と排水、高倉による穀物の保存な ングラデシる。それぞれの国によって種類や形状、発達のど、水稲作技術やその経営にある程度の完成を況、使用目的に応じたさまざまな形態のものが の一部やインドネシア、ビルマ、バ おおくらながつね 確定するのである。大蔵永常の『農具便利論』 ュ、インドなどでは畜カ犂による耕うんが中心 違いはあっても、たとえばタイの水牛に引かせうかがうことができる。 ふろ むしようり 鉄製農具の使用は一部弥生時代中期からみら (l<llll) では二四地方二七種の風呂鍬のほか、 である。日本では無床犂、長床犂が使われてい る稲束運搬そりや、バングラデシュのてこを利 ふみすき いぐわ きようすき とうぐわびっちゅう たが、昭和に入って短床犂が使われるようにな用した人力揚水機 ( ダン ) などのように、それれるが、これが大きな意味をもってくるのは古唐鍬、備中鍬、踏鋤 ( 鋳鍬 ) 、鋤 ( 京鋤、江 しゅう 州鋤、関東鋤 ) 、馬鍬なども記され、鍬や鋤に った。現在、中国や東南アジアで使われているぞれの置かれた条件に対応したくふうがみら墳時代になってからである。古墳時代に入ると うねた 鉄製の股鍬 ( 馬鍬 ) が現れ、ついで五世紀中ご よる田畑の耕起、砕土、均平、畝立て、中耕、 犂は長床犂であり、インドでも大部分が長床犂れ、変化を重ねながら発達の道をたどってい の系統である。スーダン、タンザニアなどアフる。↓農業機械 〈井上喬二郎〉ろには鉄製の字形の鋤先・鍬先が木製の鋤・ 除草などの技術は完成していたと考えられる。 にちょうがけ 〔日本の農具の歴史〕日本の農具の発達段階を鍬に着装されるようになる。これによって稲作綿作地帯では筋切り、二挺掛といった作条具 リカの諸国や東南アジアの一部では畜カ耕も行 がんづめこぐまで われておらず、鍬を使っての人力耕うんが行わ概観すると、①石製農具と木製農具の段階、 は乾田耕作、深耕が可能となり、生産量が増大も記され、中耕除草用具には雁爪、小熊手、草 ぎよくば 削りなどもできていた↓農具便利論 れている。これらの地方では、鍬のように土を古墳時代の鉄製農具の出現と普及、③江戸時代し、さらに収穫には刃先が湾曲した曲刃の鉄鎌 江戸時代はこれらとともに脱穀調整用具も著 打って耕す道具と、鋤やシャベルのように土を以降の農具改良と発明、④昭和初期からの動力が使われ出し、水稲の根刈りが確実となってく 起こす道具との二種類のみで、耕うん、整地、機具の出現と第二次世界大戦後の農機具の発る。この時代には水稲のほかにアワ、ヒ工、オしく発達した。収穫用具の鎌は、江戸時代前期 に砥石の名産地が生まれていることから日常的 作溝など土を処理するすべての作業を行ってお展・普及に大別できる。これは耕うん、収穫、脱オムギ、コムギ、ダイズ、アズキ、ウリ、ナ ス、モモ、アサなどが遺跡から検出され、畑作 な農具となっていたことがうかがえ、脱穀用具 穀調整用具を基準とした発達段階であるが、い り、形状も単純である。 げんろく せんばこき の進展もうかがえる。鉄製の耕うん用具の発達では元禄期 ( 一六公 ~ 一七 0 四 ) に竹の千歯扱がつく 田植は、日本では田植機が用いられているずれも各段階は当時の生産・生活様式、社会・ は、五世紀中ごろからの鉄の国内生産、古墳のられ、その後鉄製に変わって急速に広まり、さ が、日本以外は手植えであり、しかも大部分が経済構造と密接な関連をもって展開している。 日本における農耕の開始についてはさまざま造築からも十分予想でき、土木技術の発達から らに選別用具では一六八四年 ( 貞享一 ) の『会 乱雑植えであって、田植用の農具はほとんどな かんせい とうみ 一般に東南アジアでは、日本に比べ草丈のな議論があり、縄文時代の農耕の確定には問題灌漑施設も充実するのだが、鉄製農具の所有津農書』に「颶扇」 ( 唐箕 ) がみられ、寛政年 間 ( 一大九 ~ 天 (1) には各地で使われるようにな は、初めは在地の首長層に限られ、これが普及 長い苗を移植するが、苗を深く植えるための道もあるが、最近は各地の縄文遺跡からエゴマ、 すりうす だつぶもみす った。脱桴 ( 椒摺り ) に用いる磨臼は江戸時代 ヒョウタン、リョクトウ、ソバ、イネなどが検するのは六世紀になってからである。一方では 具 ( マレーシアでのククカンビンなど ) を使う からうす になると土の唐臼が使われ、江戸時代後期には 出され、また福岡県板付遺跡からは縄文時代終こうした鉄製農具による生産力の向上が古代国 地方もある。 やりき 遣木の往復運動によって臼を回転させる方式の 収穫用農具としては、刈り取りのための鎌、末期の水田遺構と関連施設、農具、扨が出土家成立の基礎となっていったのである。 古墳時代の鍬・鋤の発達と鎌の確立に続き、 ものが普及し始めている。脱穀用具は千歯以前 掘り取りのための鍬が基本である。日本の稲用し、日本の水稲作の開始は従来の土器編年に従 くわすき すき むしろ もみ せきふ

10. 日本大百科全書 18

しかん つかどうめい文学団体。ナップ文学部が全日本 6 、ふ流 ( 現在三世家元右近 ) 、ここから分かれた左在中村芝翫が七世家元である。流祖と同時代のはじめとして日本舞踊協会に入会しているのは ん近の西川流鯉風派、また正派西川流 ( 現在四世振付師中村弥八に始まる弥八・虎治系のほか、約一一八流派、約四六五九人 ( 一九八七年二月無産者芸術団体協議会の傘下団体として独立 初世中村富十郎を流祖とする本伝中村流、冠現在 ) であるが、全体では ( いちおう古典舞踊し、一九二九年 ( 昭和四 ) 二月創立。略称は作 ま家元喜洲 ) がある。西川流からは「花柳流」が し かんや 同、三二年二月国際革命作家同盟加盟以後は を伝えているものが ) 三五〇流派はどあるとい 一八四九年 ( 嘉永一 l) におこった。初世花柳寿子派、勘弥派があるが、目だっ動きはない。 し 〈如月青子〉 非合法の日本共産党を支持する文 新舞踊活動の舞踊家からも「藤蔭流」「五條われ、さらに増えつつある。 輔は明治期を代表する振付師であり、一一世が斯 回九重左近著『江戸近世舞踊史』 ( 一九三 0 ・万里化・芸術団体のうちもっとも有力な組織として 界最大の流儀に発展させた。現三世は女性であ流」「西崎流」などが生まれた。 しのづか わかやぎ 閣書房 ) ▽小寺融吉著『日本近世舞踊史』活躍し、評論、実作、運動の諸分野を通して革 上方舞は、京舞篠塚流が衰退し、京舞井上流 る。花柳流から出た「若柳流」は現在、正派若 ( 一九三一・雄山閣出版 ) ▽郡司正勝著『おどり命と文学の統一という問題を提起し、文学界、 柳会、宗家若柳流、若柳流西家元、直派若柳 ( 現在四世八千代 ) 、京都に始まり大阪に定着し うめもと バーには蔵原 思想界に衝撃を与えた。中、いメン の美学』 ( 一九五七・演劇出版社 ) ▽渥美清太郎 た吉村流 ( 現在四世家元雄輝 ) 、同楳茂都流 流、直派若柳会、直派分家若柳流などに分か ー ) げ 2 な - 勾 これひと 著『日本舞踊史』 ( 一九夭・雄山閣出版 ) ▽郡惟人、小林多喜二、中野重治、中条 ( 宮本 ) 百 ( 三世家元楳茂都陸平は一九八五年没。理事制 れ、一〇派を超すものとなった。 司正勝著『日本の伝統 6 舞踊』 ( 一九六〈・淡合子らがいる。コップ ( 日本プロレタリア文化 俳優を流祖とするものは、坂東、中村、水による楳茂都流舞踊協会が組織された ) 、大阪 交新社 ) ▽芸能史研究会編『日本の古典芸連盟 ) に加盟以後、機関誌『プロレタリア文 生まれの山村流が主で、山村流は四世宗家若系 本、岩井、市川、尾上など、新旧その数は多い ~ 一九三三 ・一 0 ) を刊行したが、激し 能 6 舞踊』 ( 一九七 0 ・平凡社 ) ▽郡司正勝解学』 ( 一九三一一・ が、今日もっとも規模の大きいものは「坂東のほか六派ある。東京在住の舞手のうち、武原 みつごろう い弾圧と加盟員の転向や敗北的潮流を阻止でき 説・校訂『名作歌舞伎全集四舞踊劇集』 はんは個人としての活動を行っている。一方、 流」である。これは三世坂東三津五郎 ( 一七七五ー ( 一九七 0 ・東京創元新社 ) ▽『日本舞踊全集』ず、三四年二月解散。↓ナツ。フ〈祖父江昭二〉 一会一 ) を流祖とし、現九世を数える。流祖門弟神崎流宗家の神崎ひでは一九八五年没し、現在 しゅうじゅ ・日本舞踊社 ) 全八巻 ( 一九七七 ~ 日本プロレタリア文化連盟にほんーぶ から百々派坂東流が生まれている。「中村流」は三世家元神崎秀珠である。 にほんー・・ーき、 んかれんめい 0 コップ のうち、三世中村歌右衛門を流祖とする派は現 花柳、藤間、西川、若柳、坂東の五大流派を日本プロレタリア作家同盟 ごとき短歌という定型の叙情詩に結実したことであろう。和証させるからであろう。『古今集』や『源氏物語』の研究史 日本文学にほんぶんがく 歌は、もと民族固有の口頭文芸として歌われたものであり、や享受史・影響史それ自体が日本の文化史の一翼を大きく担 恋愛や葬祭をはじめ種々の慶祝などさまざまの営為とかかわうゆえんであるが、そのことと和歌の伝統とは切り離すこと 「はじめに〕 って発達したのだが、水と緑に恵まれた温順な風土のなかでができないのである。勅撰和歌集は室町時代まで二一集が撰 〔古代文学〕文学の発生から奈良時代まで / 平安時代 うたあわせ 〔中世文学〕前期 ( 鎌倉時代 ) / 後期 ( 南北朝 ~ 室町時育成された自然感情や美意識の全的な表現として、日本的な進され、その営みを軸として歌合・歌会が盛行し、大小無 し 数の私撰集・私家集に和歌詠作の実際が知られるが、勅撰集 感性・思惟の表現様式が創出されたのである。 代 ) どうじよう ちよくせん 万葉和歌は『古今集』をはじめとする勅撰和歌集時代のの廃絶ののちも、王朝以来の伝統を固守しようとする堂上 〔近世文学〕近世文学の特色 / 雅の文学と俗の文学 / 上 やまとうた 方から江戸へ / 俳諧・和歌の全国化 / 浄瑠璃・歌舞短歌に受け継がれるが、漢詩に対する倭歌として自覚され、歌人に限らす、作歌人口は地下、地方の諸階層に拡大した。 その発想それ自体は時代・社会の思想や感覚とは縁遠いもの 民族の心性としての天皇信仰と表裏した宮廷文学として、 伎の成長 〔近代文学〕創出期 ( 明治時代 ) / 確立期 ( 明治末 ~ 大わゆる「みやび」文化の伝統を形成した。日常生活のなかのとなっていくほかなかったが、そのことと裏腹に、いわゆる ふ、 ? んい こよって自然諷詠的な叙情詠嘆の型が強固に守られたといえよう。明 贈答・唱和において心の交流のよすがとなった和歌し 正時代 ) / 転換期 ( 昭和前期 ) 練磨された表現技法と繊細な生活感情は、一〇世紀以後に発治以降、この伝統的な和歌が、自我に基づく実感を基本とす 〔現代の文学ーー戦後から現在まで〕 達した物語や日記文学など散文文学の世界に内面的情趣をもる革新運動によって排斥され、近代短歌として文学の第一線 〔海外における日本文学〕 たらすことになる。一一世紀初頭に出現した長編の『源氏物に引き出されたものの、しかしながら三一音の定型はあくま かくしゅ はじめに 語』は世界文学史上の驚異的な金字塔であり、現在では西欧で恪守されたのである。また、そうした近代歌壇の多彩な形 うたかいはじめ ゅう 日本民族は海に囲まれた日本列島において大陸の高度の先の二〇世紀文学と同列にすら評価されているが、その多彩優成とは別個に、南北朝時代以来の古式である歌会始の宮中 おうたどころ 著一いち えん 進文化を主体的に受容しつつ、主として農耕生活を基盤とす艶な人生模様と細緻な心理情動の追求は、生活のなかに美を行事が御歌所によって引き継がれた。第二次世界大戦後も る独自の文化伝統を形成した。そのことは、日本語が外国語求める和歌文学の方法を無視しては理解できまい。『源氏物新制度のもとに正月儀礼となっており、国の内外各層から詠 と接触しつつも、あくまで一つの特殊な一一一一口語としての基本的語』は、以後の物語文学に限らず、さまざまの文学形態に決進される数万首から選ばれる短歌が天皇・皇族の作歌ととも に公表されている。全国各地で発行される歌誌は現在五〇〇 特徴を保持し続けてきたことからも理解されよう。日本文学定的な影響を与えたが、逆にまた和歌の世界にも『源氏』の を超えているが、そうした結社運動のほか、主要商業新聞紙 は、その日本語による日本人の心性の表現として、古代の神人生や表現が美意識の規範として君臨することにもなった。 ということは、『源氏物語』が単に宮廷や貴族の人生や風俗上に常設される投稿歌壇の隆盛からも膨大な数の作歌人口が 話・伝説をはじめとする多様なかっ独特な形態を時代時代に 開花させたが、 とくに注意すべきは、早く古代において日本を描いたものではなく、そこに多面的に開示される日本的な推量されるのである。古代から現代まで、こうした定型詩が 語の特性を集約的に表現した和歌が、『万葉集』にみられる思考や感性の原型が、読者をしておのがじし自己の存在を確日本人の生活のなかに守り続けられたということは大いに注 ナルプ ゅ