やま′ ) し ふきめきやたい なもので、絵巻形式の制約の画面を生かして、吹抜屋台などる。宋代の文化、ことに禅宗は精神面でも大きな刺激とな来迎図が描かれた。京都・禅林寺の山越阿弥陀図は山上に出 ちおん ひきめかぎはな 画面構成に種々のくふうがなされている。引目鈎鼻とよばれり、室町時代を通じて絵画・書跡に大きな影響を及ばした。現する阿弥陀が臨場感あふれる筆致で描かれ、京都・知恩院 はやらいごう にちれん おんな る単純化された人物描写、叙情性や装飾性を特色とし、「女さらに鎌倉時代に生まれた浄土真宗、時宗、日蓮宗などの新の阿弥陀一一十五菩薩来迎図 ( 早来迎 ) はスピード感に満ちて え しぎさんえんぎ ばんだいなごんえ 絵」とよばれる。これに対し『信貴山縁起』『伴大納言絵仏教が人々に及ばした新興の気運は、美術の面にも反映して よりとも くる。 肖像画も盛んに描かれた。京都・神護寺の源頼朝・平重 詞』などは説話や伝説を主題とし躍動する線描や場面展開 もり たかのぶ みつよし おとこえ おうにん 続く室町時代には、応仁の乱 ( 一四六七 ~ 七七 ) によって文化面盛・藤原光能の各画像は似絵の名手といわれた藤原隆信の筆 で、「男絵」とよばれる。ほかに白描画の『鳥獣人物戯画』、 にも大きな変革がもたらされ、美術面でもその前と後では著と伝えられ、それそれの対象人物の個性を鯡やかにとらえて 『地獄草紙』『餓鬼草紙』などの六道絵、書画一体の美をねら みなせ のぶぎね いる。隆信の子信実も似絵を得意とし、大阪・水無瀬神宮の った『三十六人集』などがある。また浄土を願う写経の流行しい相違がみられる。京都五山・鎌倉五山を中心に栄えた禅 寺一たけ 後鳥羽天皇像 ( 一一三一 ) 、『随身庭騎絵巻』『佐竹本三十六歌仙 に伴い、料紙や見返しの装飾に善美を尽くした装飾経が社寺宗美術は、応仁の乱によって中国風は一挙に葬り去られ、日 一うしん はなぞの いつくしま に奉納された。平家一門による厳島神社の『平家納経』は本古来の伝統を生かした新しい美術が台頭する。その際、絵絵巻』などがある。信実以後では豪信作の花園天皇像 ( 京 みようえ こうぎん もっとも有名である。↓絵巻↓装飾経 画における雪舟や雪村のように、京都から離れた諸地方で美都・長福寺、一三三 0 、京都・高山寺の明恵上人像などがある。 絵巻物は前時代に続い てさらに流行普及した。『紫式部日 〔工芸〕平安時代を代表する金工品に仏具と和鏡がある。梵術活動が行われるようになったこと、前代まで一部支配者の しよう まくらのそうし えんぎ 記絵巻』『枕草子絵巻』などの文学作品のほか、戦記絵巻も 鐘は貞観一七年穴七五 ) 銘の神護寺梵鐘、延喜一七年 ( 九一七 ) ためのものであった美術がしだいに階層の幅を広げたこと、 もう・」 えいさん ばっ第う 銘の栄山寺梵鐘など年記のある作品も多く、銘文を陽鋳したそして、次代の近世文化勃興の基礎がそれによって築かれて数多くつくられ、『平治物語絵巻』『蒙古襲来絵詞』などは精 とうろう ほうそうげ 弘仁七年穴一六 ) 銘の興福寺灯籠扉もある。また、宝相華文 いったことが特筆されよう。 巧な表現で、戦記の記録画としても貴重である。社寺縁起、 いつべん けまん を透彫りした中尊寺金色堂の華鬘、厳島神社の平家納経を納〔彫刻〕南都復興事業に活躍したのは、奈良仏師の康慶とそ高僧伝も相次いでつくられ『北野天神縁起』『一遍上人絵伝』 し - 一う うた おぶすま などがある。鎌倉後期には『男衾三郎絵巻』『東北院職人歌 めた経箱などは、当時の貴族の嗜好をよく示している。鏡もの子弟たちである。康慶の子運慶は青年期に見たり修理した あわせ 草花や鳥を繊細に表し、三重・四天王寺薬師如来像の胎内発多くの天平仏に対して鋭い観察力を働かせ、それが土台とな合絵巻』のような庶民性のあるものが現れ、これはやがて おとぎぞうし せいたか むじゃくせしん 見の唐草双鳳鏡には藤原時代の和鏡の様式がみられる。この って、興福寺無著・世親像 (llllll) や金剛峯寺の制多伽童子室町時代の御伽草子へと展開していく。 そう いっさんいちねい しげもり 宋の水墨画は、白雲恵暁、一山一寧ら禅僧の余技による山 時代も後期になると武士が台頭し、厳島神社の平重盛所用紺像のような、天平彫刻の写実と平安初期の重量感をあわせも はたけやましげただ おどしおおよろい たんけい 水画・花鳥画によって第二の唐絵として日本に定着した。こ 糸威大鎧、東京・御岳神社の畠山重忠所用赤糸威大鎧などっ新様式を確立した。運慶没後、長子湛慶は父の作風を受け みんちょうしゅうぶん さんじゅうさんげん 継ぎながら大胆な表現を抑制し、三十三間堂本尊千手観音れらの禅僧の余技に対して、室町時代には明兆、周文ら専 の鎧が多く残されている。 みやこ 門の絵師が活躍し、禅僧の詩文に水墨画を組み合わせた詩画 漆工芸は、平安中期に研出蒔絵や蒔きばかしをして色彩効像のような優美な都ぶりの作品を残した。第三子の康弁は興 こうしよう ふすまえ 果を出し、さらに蒔絵と螺鈿を併用して金銀と貝の調和をみ福寺の天燈鬼・竜燈鬼をつくり、第四子康勝は京都・六波軸や水墨襖絵がつくられた。室町末期になると地方画壇にも すおう らみつ くうやしょつにん せるなど、高度の技術を完成させた。これらは調度類、仏羅蜜寺の空也上人像をつくっている。 活発な動きがあり、周防国 ( 山口 ) の画僧雪舟は堅固な構築 ひたち 具、建築装飾に用いられ、藤原時代の正倉院ともいわれる奈 材質面からみると、平安時代にはあまりみられなかった銅性と実在感に富む独特の山水画を完成、常陸国 ( 茨城 ) 出身 かすが けめきがた 良・春日大社本宮御料古神宝類には蒔絵箏、金地螺鈿毛抜形像や塑像が復活した。銅の生産量が各地で増加したこともあの雪村は東国で活躍し、雄健な作品を残した。一方、京都で けんちょう かのうまさのぶ たち は狩野正信が唐絵とやまと絵の手法を分け用いて、狩野派の 太刀などの優品がある。 って、東大寺の大仏が復興されたほか、建長年間 ( 一一一四九 ~ しようへい みん もとのぶ ↓みい、十当め・ さなげさんろく 陶磁は、高火度焼成による釉陶器が愛知県猿投山麓で五六 ) には鎌倉・高徳院の阿弥陀如来像、いわゆる鎌倉大仏が始祖となった。正信の子元信はやまと絵に水墨障屏画と明 の花鳥画を取り入れて、書院建築の装飾画としての障屏画様 つくられて全国に流布し、このころ奈良三彩の流れをくむつくられた。 りよくゆう あつみ とこなめ 肖像彫刻に優品が多いのもこの時代の特色の一つで、禅宗式を生み出し、これはやがて金碧障屏画として次の桃山期に 緑釉陶もっくられた。平安後期には渥美窯や常滑窯が築か めいげつ ちんそう れている。 では師の肖像頂相が盛んにつくられた。また神奈川・明月院大きく発展していく。 からぎめ しげふ ) 染織の遺品は少ないが、 貴族の束帯や裳、唐衣などの装束の上杉重房像のような、武人の俗体像も鎌倉彫刻の写実的傾〔工芸〕武家文化を反映して武具刀剣類の生産が盛んで、大 ) がみ ふせんりよう とやましろびぜんみの 和、山城、備前、美濃、相模のいわゆる五か伝串心として で、文様を浮き出させる浮線綾が発達し、また色の重なり向を示している。 ま一むね に変化を求める襲色目により、百余色に及ぶといわれる微 鎌倉期後半になると仏像彫刻は急速に衰え、室町期に入っ多くの名刀が製作された。ことに相州正宗は後世の刀工の範 ゅうじよう あしかがよしま、 3 とされた。刀装具では足利義政に仕えた後藤祐乗が有名で、 ても新しい様式は生まれなかった。わずかに慶派の流れをく 妙な染色技術が発達したことは注目してよい じしよう つばい がん 1 、う はせでら 〔鎌倉・室町時代〕鎌倉の美術は、治承の兵火 ( 一一含 ) によむ椿井仏所が活動し元興寺、長谷寺の造仏を行った。この時彼は室町期の代表的な彫金作家である。室町時代には茶の湯 てんみよう あしゃ ちくぜん ひ 0 て焼失した南都東大寺と興福寺の復興事業から始まった。代には能楽の流行とともに、面打ちとよばれる能面作家が佳が流行し、筑前 ( 福岡県 ) の芦屋、佐野 ( 栃木県 ) の天命 が茶の湯釜の生産地として名高い んその際、範とされたのは前代の藤原期のものではなく、飛品を多く残している。 漆工芸は前時代から盛んに行われていたが、鎌倉期になっ 〔絵画〕藤原時代の終わりからみられた群像表現や現実感、 ほ鳥・天平の古典美術であった。このような、いわば一種のル ついしゅ ネサンス現象は、建築・彫刻の分野でもっともよくみられ速度感が強調され、その一つとして現世と来世を結び付けるて明の堆朱・堆黒の手法をまねた鎌倉彫がつくりだされ、室 かさねいろめ こんじき とぎだし そう ばん そう - 一うけい こうべん らい′」う きんべき やま
きようさく かんし 一週間くらい続くと、急性に尿毒症状を呈するれは、細い管 ( 尿道カテーテル ) を尿道から膀 あるときは、異物鉗子で摘出を試みる。結石よ狭窄を合併するので、細い棒状の尿道。フジー きようさく 胱に挿入し、膀胱にたまった尿を排出させる方 ( 消息子 ) を挿入して拡張するが、尿道再建術ことがある。 り尿道の出口側に尿道狭窄がある場合には、 元来、尿毒症は緩徐漸進的に発症するもの法である。尿閉が一度の導尿で改善しない場合 〈松下一男〉 が必要となる場合もある。 尿道プジーで拡張すれば、結石は排出される。 ぜったい にようどうだっ尿道粘膜が一部尿道で、初期にはロが渇き、舌苔が著しく、食欲不は、留置カテーテル法といって、カテーテルを 尿道憩室内にできた原発性の結石は、憩室を切尿道脱 しみん せん ロ部より外部へ脱出してしまった場合をいう。振となり、疲労しやすく、嗜眠性であるが安眠しばらく膀胱に挿入したままにしておく。尿道 除するはかはない。尿道前立腺部に発生する前 おうと まひ せんしゅ 立腺結石は、前立腺肥大症といわれる腺腫と本女児や下半身麻痺の女性にたまにみられる。排できない。やがて吐き気、嘔吐がおこり、また狭窄などで導尿が不可能なときは、膀胱を直接 せんし 来の前立腺との境界付近にできるので、肥大症尿に際して強い腹圧が加わったあとなどにおこ胃腸カタルを伴い、鼓腸や下痢が現れ、腸に潰穿刺して排尿する。↓排尿障害↓神経因性膀 よう しゆりゅう 〈土田正義〉 り、尿道ロ部に真っ赤に怒張した腫瘤を生す瘍を生ずるために血便を排出することもある。胱↓尿毒症 の手術を行わなくては除去できない。診断は、 にようばう房は曹司 ( 部屋 ) 、すなわ 四肢のけいれんをおこすことはあるが、全身的女房 後部尿道や前立腺結石は x 線撮影で、前部尿道る。そのまま放置しておくと壊死に陥るので、 ち部屋を与えられて貴人に仕える女性。平安中 なけいれんはない。さらに進行すると、昏迷・ 〈松下一男〉すぐに指で整復したほうがよい。先天性の大き の場合は触診か尿道鏡で行う。 ないしみようぶ な尿管瘤が脱出したときも同様の徴候を呈する昏睡に陥り、ついには心不全や脳血管障害のた期以後、内侍や命婦など上級の女官や、院宮・ 尿道造影去にようどうそうえいはう尿道に まう・一う 上流貴族に仕える侍女を称する。それに対して めに死亡する。 ので、垪胱鏡による鑑別診断が必要である。 造影剤 ( ヨード製剤 ) を入れて X 線撮影を行う なんばう くろうど 慢性腎炎や高血圧によるものは治癒の望みは蔵人や院宮等の侍臣に用いる「男房」の語もあ 尿道脱は、一度整復してしまえば再発はまれ 方法で、尿道の形状を描出する。患者を斜位に によかん おうが る。公的地位をもっ女房はもちろん「女官」で 横臥させ、尿道内に造影剤 ( コンレイ四〇〇やコである。もし、整復が不可能だったり、再発をまずないが、中毒や尿路障害によるものは救命 あるが、この称は女房以下の下級女官のみをさ ンラキシンなど ) を三〇 : ー 、ー . リットル注入しな繰り返す場合には、尿道カテーテルを挿入留置の可能性がある。安静と保温に注意し、タンパ しゃ ク質を強く制限し、強心・利尿剤を投与し、瀉す場合もあった。女房は父・兄弟・夫などの官 がら撮影する。この方法により、①尿道の形、して、脱出した部分をカテーテル周囲で強く結 せせいしようなごん きようさく しゆだい せん さっ とくにその狭窄の状況、②腫大した前立腺の紮しておくと、やがては壊死をおこして自然に耐、輸血、リンゲル液、ブドウ糖液の注射を行名にちなんだ「女房名」 ( 伊勢、清少納言な かんりゅう 要う - 一うけい う。人工腎臟、腹膜灌流によって症状を緩解ど ) でよばれるのが通例で、公式の任官や叙位 脱落する。そのあと断端を電気凝固しておけば 形、③胱頸部の形を知ることができる。 させることもできるが、それ以外は腎移植によ等の記録がない限りほとんど本名は確認できな 〈松下一男〉 尿道造影法がよく行われるのは男子高齢者で治癒する。 きんび 、。『禁秘抄』。し こま宮中の女房の家柄による品 〈加藤暎一〉 あり、前立腺肥大症や前立腺癌の診断に用いら 尿道膀胱竟こようどうばうこうきよう膀胱鏡るほかない じようろう じん にようばっ東アジアのシンバル系体格 ( 上﨟・小上﨟・中﨟・下﨟 ) を記してい れることが多い。このはか、静脈注射による腎の一種であるが、側方を見る一般の膀胱鏡と異鐃跋 鳴楽器。青銅または銅製の膨らんだ円盤を二枚る。なお後世「女房」の語は一般的に妻女をさ 盂造影法の終了後、排泄された造影剤を用いてなり、前斜方を見るようにつくられている。こ めいりよ・つ 〈黒板伸夫〉 尿道を造影する方法もあるが、影像が不明瞭のため膀胱内を観察し、かっ尿道の状況も観察打ち合わせたり、こすり合わせて鳴らす。それして用いられるようになった。 ひも でかっ不確実のことが多く、あまり行われなできる。しかしその目的のために膀胱鏡の先はそれの中央に紐がついていて保持しやすいよう回角田文衛著『日本の後宮』 ( 一九七三・学燈社 ) にできている。こするときに、両手とも回す場 い。なお、女性で尿道造影法を必要とすることあまり屈曲しておらず、挿入はほかのものに比 ▽須田春子著『軒後宮及び女司の研究』 ( 一〈 かたばっ もろばっ 全・千代田書房 ) ▽浅井虎夫著、所京子校 合を諸跋、右手だけを回す場合を片跋といし はまれである。 〈大越正秋〉 してやや困難である。 訂『新訂女官通解』 ( 講談社学術文庫 ) 現在わが国で市販されているものは、洗浄しその使い分けは仏式の宗派によって異なる。大 にようどうそんしよう尿道を後部 尿道損傷 と前部に分けると、後部尿道の損傷は、骨盤骨 ながら膀胱内を観察し、抜去しつつ前立腺部、形のものは跋・鉢・銅跋・銅盤、小形のものは女房詞にようばうことば室町時代の初期ご せんとう どびようしどびようし てびらがわ どうばっし えいん かんりゅう 尿道部を観察する灌流式のみで、これにはワ銅跋子・銅拍子・土拍子・妙鉢・手平金・ちやろ、御所や仙洞御所に奉仕する女房たちによっ 折や高所からの落下で会陰部を強打したときに 〈山口修〉てつくられた語。それ以後もっくり続けられ ップラー型とポルフ型とがある。本来はこの型つばなどと呼称される。 発生する。むろん男性がほとんどである。尿道 おおじようろうおんなのこと せん 膜様部と前立腺部との接合部で破れるか断裂すの膀胱鏡を尿道膀胱鏡とよぶが、バンエンドス尿閉にようへい胼胱内に尿が停滞する状た。『大上﨟御名之事』によれば、食料品七九 語、調度品一一六語であるから、女房たちの身の コープ ( 万能膀胱鏡 ) も尿道膀胱鏡とよばれる態をいい、いかに努力しても排尿できない場合 る場合がもっとも多い。受傷直後に尿道口から きよう、こく こともある。この型の内視鏡は主として尿道をを完全尿閉という。尿道狭窄、前立腺肥大症、回りの品物の異名からなるが、のち動作や官職 血液の排出をみたら、尿道損傷を考え、絶対に せきずい 排尿を試みさせたりしてはならない。カテーテ見るためのもので、膀胱についてはあまり観察脊髄損傷、尿道結石などにみられる。激しい尿の語にまで及んだ。宮中でつくられたため、上 しやすくない 〈河村信夫〉意を催しながら排尿できず、膀胱痛のため七転品で優雅なことばとみられて、将軍家や高家の ルを挿入する前に、まず尿道に造影剤を注入し じん 八倒の苦しみを訴え、冷や汗を流して頻脈状態女性にまねられ、江戸時代には富裕な町家の妻 て x 線撮影を行い、損傷の部位と程度を確認す尿毒症にようどくしよう腎機能不全が進行 になる。こういう場合に下腹部を触ってみる女にまで広まった。現代に残るものが多い。語 る。尿道が完全に断裂したときは、造影剤は膀すると尿量が減少し、また腎臟が有する体液の - 一う と、半球状の膀胱の膨隆を認め、強い圧痛があの作り方には、元の語の一部を残した「わら」 性状 ( 量の分布、イオン組成、酸塩基平衡な 胱内へは到達しない。骨盤腔内に多量の出血が ど ) を一定に保つことが不可能となり、尿成分る。前立腺肥大症をもつ人は、飲酒中に突然尿 ( わらび ) 、「まき」 ( ちまき ) の類、それを繰り おこり、排尿はできない状態なので、ただちに 手術を要する。部分断裂の場合には、細いカテが血液中にたまってくる。そのために中毒様の閉になることがある。一方、排尿することはで返した「かうかう」 ( 香の物 ) の類、元の語の ーテルが膀胱内に無理なく挿入できれば、それ脳および胃腸症状をはじめとして全身の諸臟器きるが全部排出できず、尿の一部が膀胱に残留一部を残しそれに「もじ」をつけた「すもじ」 の機能障害による症状を呈する状態を、尿毒症する状態を不完全尿閉という。多くは排尿困難 ( 鮓 ) 、「そもじ」 ( そなた ) の類、性質や外観を を留置しておけば治癒する。 前部尿道の損傷も、後部尿道の場合と同じ機という。慢性腎炎の末期、高血圧による腎硬化を伴い、膀胱内に残留する尿 ( 残尿 ) も増加す考えた「おひや」 ( 水 ) 、「おかべ」 ( 豆腐 ) の じん - : っ 1 ローれ ま 序でおこるが、カテーテルや膀胱鏡などの挿入症、痛風・糖尿病などの末期、女性に多い膠原る。残尿が増えるにつれて腎機能が障害を受類、「物」「の物」をつけた「青物」 ( 野菜 ) 、 せん 、フ時にもおこりうるので、これらの操作には十分病、尿路の通過障害 ( 前立腺肥大症 ) などが原け、ついには尿毒症に至る危険がある。前立腺「夜の物」 ( 夜着 ) の類、縁起によってつけた 「紫」 ( 鮎 ( 藍 ) にまさる↓鰯 ) 、「待兼ね」 ( 来 7 因となる。そのはか、急性腎炎、中毒、脱水 肥大症、尿道狭窄、脊髄損傷に多い よな注意を要する。 〈真下三郎〉 完全尿閉の救急処置として導尿法がある。こぬか↓小糠 ) の類などがある。 尿道損傷の治癒後は、多かれ少なかれ尿道症、低血圧、両側上部尿路結石で著明な乏尿が はいせつ がん せん せん こんめい
りくちょう へんとうし 必要な場合に行われる。肺生検の方法は経気道本に遣わした返答使。裴氏は六朝時代以来の排泄器官はいせつきかんタンパク質代謝の態をもたらす原因はサルコイドーシスなど多数 ぶんりんろう 名族で、世清は来日時には文林郎 ( 秘書省の属副産物である窒素化合物や余分な水分・塩分なあり、その臨床像や病態生理は基礎疾患により 肺生検と経胸壁肺生検の二つに大別される。 こうろじしようきやく どの物質を排泄する営みをもっ器官で、多細胞複雑な様相を呈するが、一方、呼吸困難などの 〔経気道肺生検〕気管支鏡を用いて肺病変部の 官 ) ・鴻臚寺掌客 ( 外国使節の接待係 ) の職に 組織片や細胞を採取する方法で、近年はフレキあった。『日本書紀』によると、裴世清一行は、動物の大部分がもっている。一般に、動物学で自覚症状、びまん性の結節状または網状の陰影 おののいもこ シプル気管支ファイバースコープを用いて行わ遣隋使小野妹子らとともに、六〇八年四月に筑は排出器官、医学では排泄器官とよぶ。脊椎動を主徴とする胸部 X 線像、拡散障害を主とする し じんぞう かざりぶね がん れる。肺癌やサルコイドーシスなど限局性肺疾紫に到着、六月難波津に入る際には飾船三〇物の排泄器官は腎臟であり、腎臓に付随する輸肺機能所見など、共通する所見もみられる。 まう - 一う か」りうま 一九四四年にハンマン Hamman およびリ 患の診断に有用である。局所麻酔下で行われる艘の歓待を受け、八月に飾騎七五匹に迎えら尿管、胼胱は尿の輸送部の役割をもっている。 まっしよう 〈嶋井和世〉 ッチ Rich が「急性びまん性間質性肺線維症」 ↓排出↓腎臓 が、気管支鏡の可視範囲を超えた末梢にあるれて入京し、朝廷に招かれて煬帝からの親書を 病変部やびまん性肺疾患に対しては x 線透視下推古天皇に伝えた。九月には帰国の途につく肺切除療法はいせつじよりようほう肺疾患の四剖検例を発表したのが、肺線維症の概念の たか が、送使に小野妹子が命ぜられ、あわせて高 に対する外科的治療の一つ。肺を肺区域、肺葉始まりである。その後、慢性の経過をとる症例 で行う。診断の確実性は採取切片の数に左右さ むこのくろまろみなぶちのしようあん みん れることが多く、出血や気胸の危険性を伴う向玄理、南淵請安、僧旻などの留学生が同などその解剖学的単位に従って切除する肺区域も多数追加され、間質性線維症の前段階ともい うべき間質性肺炎が注目されるようになった。 が、経胸壁肺生検に比べると侵襲が少なく、術行した。裴世清来日の記事は『隋書』にも詳し切除、肺葉切除、肺摘除と、解剖学的単位とは 〈菊地照夫〉無関係に部分的に切除する肺部分切除とがあ種々の分類が発表されているが、現在では肺線 式も患者負担も軽い 〔経胸壁肺生検〕経気道肺生検が行えない場合廃石はいせき鉱山、炭鉱、採石場等で採る。普通は背部から側胸部にかけて斜めに皮膚維症といえば、局所性でなく、びまん性のもの ろっこっ せんし に用いられることが多く、穿刺肺生検と開胸肺掘あるいは選別の過程で廃棄される不用の岩石切開を加え、第五あるいは第六肋骨床で開胸しをさし、原因となった病名の明らかな場合は原 疾患名をつけてよび、原因不明のものを「びま 生検の二つの方法がある。穿刺肺生検は胸壁か類をいう。処理過程によって塊状、粒状、泥状て肺切除を行う。 肺切除療法の対象となる疾患は、良性疾患でん性線維化性間質性肺炎」とし、これを狭義の ら針を穿刺して行うもので、肺の小切片を得るのものがあり、泥状のものを廃滓ともよぶ。土 じゅうてん 〈山口智道〉 は肺化症、膿胸、肺結核症、気管支拡張症、肺線維症とするものが多い。 裁断法と、テレビ透視下で長針を穿刺し、病変建材料、坑内採掘跡の充填材その他に一部利 部に達したら針に注射器をつけて吸引し、細胞用されているが、それ以外は粗粒のものは廃石肺真菌症などである。これらの疾患のなかで、媒染剤ばいせんざい mordant 媒染法にお たいせき いて、染料を繊維に定着させる薬剤。媒染剤と あるいは液性成分を吸引して検索する吸引法と捨場に、泥状のものは廃滓ダムに堆積される。内科的治療で治癒する見込みがないものに肺切 がある。また、開胸肺生検は全身麻酔下で開胸非鉄金属鉱山では採掘された原鉱の九〇 % 以上除が適用される。良性腫瘍のうち、肺動静脈瘻しては、アルミニウム、クロム、鉄、スズ、銅 などの金属塩類やタンニン酸などがある。 のように合併症が発生するおそれのあるものに して行うもので、他の診断法では確診のできな が廃石であって、その捨て場所が最近得がたく 媒染剤は浸染では水溶液から繊維に吸収させ は肺切除が行われるが、術前に良性腫瘍と確診 いびまん性肺疾患に行われ、侵襲も大きいが診なっており、その処理および有効利用が検討さ なっせん がついたものには、最近では肺切除は行われなて用いたり、捺染では捺染糊に混合して印捺す 〈石原恒夫〉れている。わが国の鉱山から出る廃石量は、一 断率は高い。 。悪性腫瘍に対しては、手術適応があれば原るか、浸染と同様に繊維に吸収させたのち、捺 肺性心はいせいしん ( 世界保健機九七六年度 ( 昭和五一 ) で年間約八〇〇万ト一 則として肺切除療法が行われる。この際、肺切染糊で媒染剤を破壊してから染色して模様をつ 関 ) では、肺の機能をはじめ構造にも影響を与そのうち利用されているのは約二〇 % である。 かくせい 〈飛田満彦〉 くる方法がある。↓媒染染料 金属鉱山および北海道の炭鉱では、廃石のこ除のほかに肺門部および縦隔のリンパ節廓清も える疾患の結果、発生した右心の肥大をいし 左心室障害や先天性心疾患によるものを除く、 とを俗に「ずり ( 研 ) 」と称し、また九州の炭行われる。 〈石原恒夫〉配線図はいせんす電気を使用する場所およ おもち と定義している。基礎疾患としては、慢性閉塞鉱では「ばた ( 硬 ) 」とよぶ。ピラミッド状に廃絶録はいぜっろく江戸幕府の旗本 ( 御持び機器内部における電線の径路または接続関係 ぶんか またぞうあきのぶ 日を示す図面をいう。一般に屋内の電気配線を一小 性肺疾患とくに肺気腫および肺結核が多いが、堆積した「ばた山」は筑豐炭鉱地帯の象徴であ筒同心 ) 小田又蔵彰信の著。三巻。文化年門 った。↓廃滓 〈麻生欣次郎〉 そのほか、。 ( 天 0 四 ~ 一 0 成立。大名の減封、除封を中心に、すものを屋内配線図、機器内の配線を表すもの ひまん性間質性肺炎、肺線維症、強 はいせきいこう運搬可能な大きさ関ヶ原の戦い以降年月順に記述したもの。同じを機器内配線図といっている。また電気系統を 皮症などがある。右室肥大は臨床的に早期には 配石遺構 中心とした配線系統図がある。↓屋内配線 把握しがたいが、右心不全状態になれば診断はの石を一定の形状に配置した遺構を、単に配石著者になる『恩栄録』とともに、大名の配置・ せきたん 配線図は、読図者が図面の意味を理解するこ 比較的容易である。咳、痰、呼吸困難、チアノ遺構とよんでいる。もつばら縄文時代に、石材移動・加除・転廃を知るうえでの貴重史料。 しゆだい ーゼ、頸静脈怒張、肝腫大などが認められる。 の入手しやすい地域に発達した。北海道の環状『廃絶録』には諸本があり、収載年次の下限をとに重点が置かれるため、現場の実際の寸法に せきり こだわらず描かれ、ときには縮尺を無視した 低酸素血症、高炭酸ガス血症があり、胸部 X 線石籬、秋田県大湯遺跡の環状列石などが有名で異にしているが、『改訂史籍集覧』所収本は一 まっしよう り、電線径路が現場の実際と多少相違すること 写真では肺動脈主幹部の拡大とともに末梢動ある。前者は墳墓であり、後者もその可能性が 八六五年 ( 慶応一 ) まで収録している。これは 脈の細小化および減少がみられ、心電図では右強いが、祭祀関係のものという考えもある。遺後人によって漸次追加されたことを示しているもある。これが機械関係の製作図との大きな差 ごびゅう 室肥大所見がみられる。治療は、肺性心に陥っ骸を埋めた墓壙の地表に配石のみられる例が多が、『恩栄録』とともにおびただしい誤謬があである。電気配線の表現が重点であるため、通 てしまってからでは遅すぎる。早期診断、早期 いが、この場合配石は、墓標的な性格をもつもる。藤野保校訂になる『恩栄録・廃絶録』は、常建築図や機器の構造図は細線かもしくは薄く 治療とともに予防がたいせつである。喫煙、大のであったと考えられる。配石遺構の性格に 各種の文献と照合し、厳密な校訂を加え、その描かれ、これに記入される電気配線を太く濃く ふんじん 誤りを正したもの。 〈藤野保〉描いて見やすく表現する手法がとられている。 気汚染、粉塵、刺激性ガスを避けるはか、上気は、墳墓関係、祭祀信仰関係のもののほかに、 道炎やインフルエンザの感染予防、肥満の防主として住居の床面に平たい石を敷き詰めた敷回藤野保校訂「恩栄録・廃絶録』 ( 『日本史料選図中の配線の状態や電気器具は図記号 ( シンポ し ル ) により表現される。図記号は特殊のものを ん止、適度の運動を行うのがよい 〈山口智道〉石住居址など、居住関係のものもある。山口県 書六』一九七 0 ・近藤出版社 ) せ裴世清はいせいせい生没年不詳。六世紀前 土井ケ浜遺跡の弥生前期の埋葬人骨の四隅に肺線維症はいせんいしよう肺間質にびまん除き「日本工業規格」および日本電気協会制定 ずい ^ 岡本勇〉性に線維性結合織が過剰形成をおこし、肺の機の「内線規程」に定められたものが使用され > 半の隋の官人。六〇七年 ( 推古天皇一五 ) に推は、一種の配石がみられる。 ようだい はいしゆっ 〈越野一二〉 5 古天皇が派遣した遣隋使に対して隋の煬帝が日 世はいせつ 0 排出 能が障害されている状態をいう。このような病る。 きしゅ そう やよい せきつい ろう のり
ねんじゅ 晦日 不定日 不定日 CO ・ 1 ー 朽敬老の日 秋分秋分の日 上亥日 3 文化の日 勤労感謝の日 酉日 中辰日 冬市 晦日 とよのあかり 豊明節会 忌火御飯 御ト奏 月次祭神今食 正月事始 御仏名 冬至粥 大晦日年越し 大祓鎮火祭進第 注 = 現在の国民の祝日が、伝統的な日本の年中行事と時期村落レベルでの行事は、宮中・公家・武家の行事と呼 的に重なることを示すため、新暦のまま示した。しか称・内容は違ってはいても、同し時期に行事を行うと し、かっては、村落レベルの行事も、宮中・公家・武ころに、亜文化 ( サプカルチャー ) との接触と相違が 家の行事も旧暦で行われていた。今日、村落レベルでみられる。なお、地域によって、行事の日取りや名称 は、新暦、Ⅲ暦、月遅れ、あるいは正月・盆などは新旧が異なる場合もあるが、おもなものだけを記した 双方で行う所などもあり、かなり繁雑である。また、 体育の日 工らえ 夏越の祓 釜蓋正月海開き山開き 七夕七日盆井戸替え 四万六千日 草市 盆 ( ー ) 迎え火盆踊り しようりよう 精霊送り薮入り送り火 地蔵盆 一一十六夜待 土用丑の日 虫十し 八朔・ 二日灸出替り ( 旧暦 ) 中秋の名月芋名月綱引き 風祭風の盆 おくんち菊の節供 ( 旧暦 ) 豆名月栗名月 彼岸中日 刈上朔日 十夜念仏 とおかんや 十日夜 二十日夷誓文払 亥の子祭 ふいご祭たたら祭 七五三 ( 紐解き祝 ) 大師講 報恩講 酉の市 乙子朔日 事八日針供養 はっさ′、 大魃 御調度払拭乞巧奠 更衣 残蔔宴 。んなめさい 神嘗祭 亥子餅 御暦送忌火御飯 せい , 施餓鬼 盂蘭盆会中元 秋の除目 観月宴 ふかんてれ一えのそう 不堪佃田奏 重陽 にいなめさい 新嘗祭 ( 中卯日 ) たのみ 〈波平恵美子〉 きっこう′、ん まつり じゅ しろ中心になり、それに商店街の季節的催し事 としての呪的儀礼が「小正月」 ( 一五日 ) 中心 - 一と に多彩な形で行われてきた。その後、節分、事も加わって、多数市民の交歓する「場」を造出 八日、三月節供、社日、春彼岸、四月八日、五していったことが注目される。現在、全国的な みなくち 月節供と春の行事も多く、それに苗代の水口意味での「年中行事」のおもなものは、ほとん 祭から田植に至るまでの「農作始め」の予祝どこうした都市の社寺の大祭などに集約されて いるのである。 儀礼が加わり、さらに神社の「としごい ( 祈 えんしきじん ぎおん 日本の年中行事の原拠は『延喜式』神祇部の 年 ) 」の祭礼が重なる。夏季には天王祭、祇園 とし′一い はなしずめあい なごしはらえたなばた 祭、夏越の祓、七夕あるいは風祭、虫送りなど宮廷祭事の記事に求められ、祈年、鎮花、相 おおはらえおおいみ なめこいなめ しゅうばっ 農作・人身を脅かす悪疫邪霊の鎮送・修祓行嘗、新嘗等の農耕儀礼と鎮魂、大祓、大忌祭 事が続き、また雨乞い・日乞いもこの期に重な等と京周辺の名神大社の奉斎が主になってい 1 」っ、 った。やがて秋季、稲の成熟に伴っては八朔、た。その後「臨時祭」がいくつか追加されもし とおかんや かかし 穂掛け祭、刈上げ、十日夜 ( 案山子あげ ) 、亥たが、やがて鎌倉期には衰退し、幕府体制下に の子祭、庭じまいなどと一連の収穫時の報謝的は別系のものが生じて室町幕府に至って大成し まも 儀礼が続き、農作の護り神 ( 田の神 ) を送り出た。それは「五節供」中心の形で、中国習俗を せんしよう す。「田の神」はかくて「山の神」となり翌春多く受容し、また宮廷儀礼の先蹤をも加えて 「典礼化」したものである。そしてこれをめぐ また田野に下って農作を守ると信じられてもき だいし っては「故実の学」も成立し、その後の江戸幕 たのである。大師講、えびす講、一二月一日、 一二月八日、冬至祭とその後も若干の行事が続府や諸藩の年中行事の典拠ともなった。こうし き、正月準備の諸行事を加えて、その「年暦」た「公」の場の「年中行事」に中国の暦法・陰 みようどう 陽道の影響が強かったことはいうまでもない は一巡する形である。 としがみ 正月に迎える神は「年神・正月様」という漠しかし民間の年中行事はこうした「公」場面の 然とした神格しか与えられていないが、年初に年中行事や暦法の影響を受けつつも、実質的に は案外に民族固有行事の伝統を失わずにいまに 家々に迎え入れ、やがてそれを送り出す意味だ けは、「松迎え・松送り」の行事や「正月飾至っているとみられるのである。 ^ 竹内利美〉 り・年神棚」のしつらえに示され、また一部地〔中国の年中行事〕中国の漢民族の間では年中 方には「ミタマ」と称し「祖霊」の訪れとそれ行事を歳時・歳事などと称する。中華民国成立 (一九 lll) 以来、公的には太陽暦を用いているが、 を思念して「供物」を捧げる風習も残ってい たままっ る。そして除夜の「魂祭り」のことは古典にも漢民族の伝統的な年中行事は太陰暦において営 その事例をみいだしうるのである。盆行事は古まれている。さらに太陽年に基づく二十四節気 が重要な意味をもち、高度に体系化された暦に く仏教行事と習合して死者の追福供養の意味が 明らかではあるが、家代々の死霊の一体化した従った固定的な日に行事が行われるのが一つの しょ - つりよう 「精霊さま」が年々一定時期に家々を訪れ、そ特徴である。また漢民族全体からみると、年中 きようおう の加護を期待して饗応し、やがてそれを丁重行事の行事内容は、各地でその気候・生業形態 に送り出すといった想念は仏説からは出てこな等によって若干の差異はみられるが、高い普遍 いらしい 。ともかく正月と盆における「祖霊」性をもって存在している。また祭祀の多くが家 の送迎儀礼と、それに伴う人事関係の「切替族単位で行われる。現在多くの行事が改革され え・再認」の儀礼は、農作の予祝報謝儀礼ととているが、古くより伝わる漢民族の伝統的年中 もに、日本の年中行事系列の骨格をなすものと行事は以下のごとくである。 正月は年中行事のなかでもっとも重要なもの みてもよいであろう。これらはすべて「ハレの 日」として農作業のくぎりに配置されて、村人である。元旦には諸神・祖先の祭祀がなされ、 の憩いと楽しみの日となり、花見、磯遊び、野これ以後五日まで年賀が行われ、華やかな正月 遊び、山あがりなど信仰的意味を残しながら多気分が満たされるとともに、不吉なものを避け 分に行楽化したものも生じ、盆踊り・村祭りのるさまざまの禁忌が課せられる。正月には年 樵 ( 餅 ) をはじめとする種々の料理が豊富につ にぎわいなどもそこに加わった。 くられる。五日が過ぎると仕事が再開され、通 都市生活の年中行事も農村の形をおおむねは 受け継いだ。ただそこでは、社寺の祭礼法会や常の生活へ戻っていくが、正月は一五日の元 とう しようせつ 縁日市、あるいは花見・納涼等の行楽行事がむ宵節をもって終了する。この日は町並みに灯 イ ~ さ カオもち おん 313
が、この地方では晩秋のころから温かく煮たそ 4 は、通常では一五〇 ~ 二〇〇であるが、授乳 にゆうばう一般に「ちぶさ」とも読 乳房 要婚姻では、夫が妻の家に入り妻の氏を称した。 うめんをつくる。これが「にゆうめん」で、入 これは、いわゆる「家」の制度のもとで、妻のむ女性の外性器の一つであるが、構造上は外皮期には四〇〇 ~ 五〇〇に達する。 にゆ一つ 一般に哺乳動物では、乳房の原基 ( 乳腺が発麺、煮麺の字があてられる。シイタケ、ナス、 と密接な関係がある。すなわち、女性では乳 家が絶えることを回避するために設けられた制 えきか 一はにゆっ せん こ度の一つである。入夫婚姻に類似するものとし腺として乳汁を分泌し、乳幼児に対する哺乳器生する基 ) は複数個であり、乳線 ( 腋窩から恥干しえび、湯葉、青菜などを薄味に煮ておき、 て婿養子の婚姻がある。後者は、妻が法定推定としての役割を果たしている。乳房の形状や大骨上縁に引いた線 ) 上に左右対称に存在するゆでたそうめんにのせて、つゆを張りさっと煮 が、ヒトの場合には、その第四対目のものが発立ててつくる。大和地方では、煮た材料とっゅ きさには年齢差、個人差、人種差があるほか、 家督相続人であるために家を去ることができな 乳腺の分泌期や休止期によっても異なる。乳房達して乳房となる。しかし、まれにそれ以外のを冷やしておき、冷たいそうめんにかける食べ い場合に夫が妻の家に入る婚姻であるのに対し こんせき て、入夫婚姻は、妻が女戸主であるために家をは乳児、子供、男性では痕跡的であるが、女子原基が発育して複数対の乳房をつくる場合があ方が古くからあり、にゆうめんはこれをそっく なんかん り温かくしたものである。熊本県の南関そうめ 去ることができない場合に夫が妻の家に入る婚では一〇歳ころから膨らみ始め、柔らかくなる。これを副乳、あるいは多乳房症とよび、 姻である。入夫婚姻が行われた場合に、婚姻のる。これは、腺組織、とくに導管の増大、脂肪「先祖返り現象」の一種とされている。乳汁分ん、徳島県の半田そうめんなども、冬にはにゆ 〈堤方子〉 うめんにして食べることが多い ときに反対の意思が表示されないときには、入沈着が進むためである。成熟処女の乳房は前胸泌期になると、これらの副乳から乳汁が分泌さ にゆうようとっきえん急性中耳 乳様突起炎 夫が戸主となるものとされていた ( 民法旧規定壁の大胸筋の上に半球状に隆起し、底面の直径れることもまれではない。乳房には、とくにリ 炎の一つで、乳様突起とは耳介後方の皮膚の下 ンバ管の分布が密で、リンバ管網をつくるが、 七三六条 ) 。第二次世界大戦後における民法のは一〇 ~ 一二である。形状は半球状のほか、 はち えんすい に触れる側頭骨の突起をさし、炎症がその蜂の これから出るリンパ管はおもに腋窩に集まる。 大改正により、いわゆる「家」の制度は廃止さ円板状、円錐状などがある。乳房の広がりは、 のうじゅう がん ろっこっ 巣のような構造 ( 巣 ) の中まで進み、膿汁 したがって、乳癌などでは、転移がすぐ腋窩リ ほば第二肋骨から第六肋骨の範囲に位置してい れ、このような制度も姿を消した。現在でも、 が貯留した状態を乳様突起炎という。中耳炎が ンパ節にくることとなる。女性乳房は、老人に 夫が妻の氏を称することは可能であるが、そのる。左右の乳房の間のへこんだ部分を乳洞ある いしゆく ようちゅう なると腺体の萎縮とともに縮小し、皮膚のしわ発症して一週間以後におこることが多い。耳の 、よ庸中とよぶ。乳房の中央部よりやや下に ことは夫が妻の家に入ることを意味するわけでし。 ひだ にゆうとう ちくび 痛み、発熱、難聴など中耳炎の症状が増悪し、 ( 襞 ) が多くなる。 〈高橋康之〉ある円柱状の突起を乳頭 ( 乳首 ) とよぶが、 とうつう とくに耳介の後方 ( 乳様突起領域 ) の疼痛や圧 〔乳房の形状分類〕乳房の形状については、乳 乳頭の形状、大きさには個人差がある。 しゅちょう 房の軸と底面直径の関連で分類されるが、ドイ痛が強く、腫脹してくる。ときには耳介が大 乳頭には一五 ~ 二〇個の乳管開口部がある。 きく目だつようになり、激しい痛みがある。耳 ツの人類学者マルティン R. Martin ( 一会四ー 乳房のうち乳頭を除いた部分を乳房体とよび、 内部には脂肪組織に包まれた乳腺葉が充満して一九一一五 ) は、次の四つの分類型を示した。①皿状後部のリンパ節が腫脹して、圧痛のあることも いる。乳腺葉は乳管の数だけ存在する ( 男性の乳房乳房の高さが比較的低くて、基底が大き少なくない。外耳道深部の後上壁は乳様突起 い乳房、②半球状乳房高さが基底の半径に近 ( 乳突洞 ) と隣接しているので、外耳道の後上 乳房の内部はほとんど結合組織である ) 。乳頭 にゆうりんにゆううん い乳房で、ヨーロッパ人に多くみられる、③円壁が浮腫性となり下垂する。鼓室および乳様突 の周囲を取り巻く褐色輪状帯は乳輪 ( 乳暈 ) 錐状乳房高さが基底の半径よりも大きい乳起蜂巣内に膿汁が貯留し、鼓膜が膨隆して、つ とよび、この部分には多量の平滑筋線維のほか せんこう やぎ しには鼓膜穿孔をおこし、膿性の耳漏 ( 耳だれ ) 汗腺、大汗腺の一種とみられる乳輪腺 ( モント房、④山羊乳状乳房乳頭が著しく下方に向い ゴメリー腺 ) がある。乳輪は妊娠時にはメラ一一ているのを特徴とする乳房。このほか、乳房が流出する。薄い蜂巣内の骨性の隔壁は溶解し ン色素の沈着が著しくなり、黒褐色となる。出は、発育の時期によって、胸乳型、蕾乳房、成て融合する。ときには乳様突起の外側の骨壁が のうよう 熟乳房などに分けることもある。また、乳房は破壊され、骨膜下膿瘍をつくり、それが胸鎖乳 産後も色素沈着は消退しないため、これによっ て経産婦・未経産婦の区別ができる。この乳輪女性の月経周期によっても変化する。なお、ホ突筋に沿って頸部にまで流下することもある。 まひとうがい 顔面神経麻痺や頭蓋内合併症をおこす危険も ッテントット族の女性の乳房は甚だしく長く、 の直径や色調には個人差がある。乳房の重さ 肩に担ぐことができるほどである。〈嶋井和世〉あり、絶対安静、鎮痛剤や鎮静剤の投与、局所 ちぶさぐも あんぼう の冷罨法とともに広範囲の病原菌に有効な抗生 にゆうばううん 0 孚房雲 乳房雲 にゆうばだいぎようろん仏教書。物質の全身的な投与を行う。しかし、多くの場 入菩提行論 シャーンテイデー Säntideva ( 八世紀 ) の 合は根治的な乳様突起開放手術が必要である。 ↓中耳炎 ^ 河村正三〉 著で、悟りへの道を格調高い韻文で表現してい はっしん る。最初に吾りに向けて発心することの重要さ入浴にゆうよく身体の清潔、病気の治療 ばさっ を述べ、それ以下は、悟りを求める菩薩が行 , つを目的として大気以外のものに身体を浸すこ もくよく はらみつ と。日本では沐浴 ( 洗髪と洗身 ) 、湯あみが古 べき実践項目 ( 六波羅蜜 ) を一つずつ具体的に ちゅうがん 論じるという構成をとる。著者は中観派に属代からの用語で、近世に入湯、行水が加わり、 し記述は論理的であるが、その悟りへの強いあ二〇世紀後半に入浴を英語 bath の訳語に採 こがれと意志の表現は自己の現実を踏まえつつ用して現在の意味で用いるようになった。入浴 説得力をもち、情熱に満ちている。〈江島恵教〉は、身体を浸す自然物がある場所に人間が移動 やまと にゆうめん奈良県の郷土料理。大和地方するタイプと、身体を浸すものを人間が設定す ( 奈良県 ) は手延べそうめんの発祥地といわれるタイプに大別される。 る。そうめんは冷やしそうめんが一般的である 前者に多いのは、海、川、池などでの水浴で 乳房 乳房の構造 各部名称 肋問筋 大胸筋 脂肪組織 乳頭 乳輪 乳洞 乳房体 乳管 肋骨 乳頭 乳輪 乳管洞 乳管開口部 乳腺葉
えんきよう よ三巻あるいは上・下二巻にまとめられている。 続いて延享年間 ( 噐 ~ 哭 ) に入ると、播磨少掾が死去、し、経営は双方とも苦しく、まず一八九三年に彦六座がつぶ えちぜんのしようじよう 一方、人形については傀儡子の芸からあまり進歩がなく、 越前少掾を受領した豊竹座の祖、若太夫も引退して、竹れ、一九〇九年 ( 明治四一 l) には文楽座も植村家の手から松 めいらく ん片手遣いの小さなもので、舞台も簡単に幕を張った陰から人豊両座とも新しい活躍期を迎えた。とくに竹本座では、座本竹に譲渡された。彦六系の芸人たちはその後も稲荷座、明楽 たて そうすけせんりゅう 形を上に差し出して演じていたが、やがて場面に応じて道具の二世竹田出雲が豊竹座から立作者の並木宗輔 ( 千柳 ) を座、堀江座と続いて文楽座に対抗していたが、一四年 ( 大正 みよししようらく なつまつりなにわかがみすがわらでんじゅてならい みなみづめ ほんみず を飾るようになり、張り抜きの山やからくりを利用して本水迎え三好松洛らとの合作で『夏祭浪花鑑』『菅原伝授手習三 ) 佐野屋橋南詰の近松座の休座を機に文楽座に併合され、 かがみよしつねせんばんざくら かなでほんちゅうしんぐら ひだのじようてづま を用いる舞台なども現れた。人形も山本飛騨掾が手妻人形鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』など浄瑠璃の代表的ここに人形浄瑠璃の専門劇場としては文楽座が唯一の存在と を考案して、背中から手を入れて引き栓でからくりを扱 , っ名作を次々に上演して操り史上の最盛期を現出した。しかし なり、「文楽」の名称が人形浄瑠璃の代名詞となった。 「差し込み式」をつくり、後世の人形の仕掛けの源流を創始人形の発達によって自由な動きが可能になるにしたがって浄 大正期も、太夫に三世越路太夫、三世津太夫、六世竹本土 すそ やましろのしようじよ、つ したが、 辰松八郎兵衛などは裾から手を入れて遣う「突っ込瑠璃の内容も見た目本位の作品が多くなり、かっ、操りに圧佐太夫、二世豊竹古靱太夫 ( 山城少掾 ) ら、三味線に三 せいろく ひろすけ きちべえ どう み式」で、いずれにしても一人遣いから脱しきれなかった。 倒された歌舞伎がいち早く浄瑠璃の当り狂言を取り入れて上世鶴沢清六、六世豊沢広助、七世野沢吉兵衛、初世鶴沢道 はち ともじろう ちく ) のじようふじ えいぎ 竹本義太夫は一七〇一年 ( 元禄一四 ) 受領して筑後掾藤演することによって衰運挽回の機運をつかんだことなどが重 、六世鶴沢友次郎ら、人形に初世吉田栄三、吉田文五郎ら わらのひろのり 原博教と名のり、名声、技芸とも高まっていったが、二年なり合って、人形浄瑠璃の人気はしだいに下降線をたどるこ が数多くの名舞台を展開した。しかし、一九二六年 ( 大正一 うねめ 後の〇三年に門弟の筆頭で美声の誉れ高かった竹本采女が独 ととなった。すなわち、竹本座では近松半二を作者の中心と五 ) に御霊文楽座が火災にあい、まもなく四つ橋に移転新築 とよたけ おうしゅうあだちがはら ほんちょうにじゅうし一う されたが、 立して豊竹若太夫と名のり、竹本座と同じ道頓堀に豊竹座をして『奥州安達原』『本朝廿四孝』などの名作を上演し 世相は昭和初期の不況から第二次世界大戦へ突 たいやていりゅう 創立した。作者には狂歌師鯛屋貞柳の弟で学者・俳諧師と たが興行的には苦しく、豊竹座も一七六四年 ( 明和一 ) に座入、四つ橋文楽座も戦災を受けた。 きのかいおん して著名であった紀海音を招いて近松に対抗させ、『冥途の本であり創始者であった越前少掾が八四歳の高齢で没すると 終戦後、文楽座は松竹の手でまもなく四つ橋に再建された ひきやく けいせいさんどがさ よいごうしん 飛脚』に対する『傾城三度笠』、『心中宵庚申』に対する『心 たちまち座運が傾いて、両座は相次いで退転、ここに竹豊時が、当時急速に高まった労働組合運動の影響を受けて、一九 このきちきたほり 中二つ腹帯』など同じ題材の作品をはじめ数多くの名作を上代は幕を閉じた。このあと豊竹座は六七年に豊竹此吉が北堀四八年 ( 昭和一一三 ) 五月ついに組合派と非組合派に分裂、組 えいちかわ いもせやまおん ろだゅう 演して成功、ここに竹本、豊竹両座が競い合ってますます人江市の側に再興、竹本座も道頓堀で再興を図り、『妹背山婦合派は一一世桐竹紋十郎を中心に三世豊竹呂太夫 ( 一〇世豊竹 なていきん みつわ 形浄瑠璃の人気を盛り上げ、技芸面でも急速な充実を示し女庭訓』 ( 一七七一 ) で一時的な大当りをとったこともあったが、 若大夫 ) 、二世野沢喜左衛門らが集まって三和会を結成して た。これより一七六五年 ( 明和一 l) に豊竹座、その翌々年の長続きはしなかった。↓竹本座↓豊竹座 松竹を離れ自主公演を行い、非組合派は豊竹山城少掾、四世 なにわのじよう ちなみ 六七年に竹本座が相次いで退転するまでの約六〇年間は操浄〔文楽座創立から国立文楽劇場開場まで〕竹豊両座の退転後鶴沢清六、吉田文五郎 ( 難波掾 ) らを中心に因会派と称し、 瑠璃の黄金時代で、「歌舞伎はあって無きがごとし」とまでは演技者には数多くの名手が出たが、作者には優秀な人材な従来どおり四つ橋文楽座を本拠とし松竹資本のもとに興行を いわれ、一般に「竹豊時代」とよんでいる。竹本座では義太 く、新作の行われることはあっても傑作は生まれず、むしろ続けていった。この二派分裂によって演技陣が甚だしく手薄 まさたゆう 夫没 ( 一七一四 ) 後、その遺言により門弟の政太夫を後継者とす過去の名作の再演が多くなり、浄瑠璃も人形も先人の遺産のとなり、両派とも興行成績は思わしくなく、松竹は挽回を期 ることに不満を抱く者たちが相次いで豊竹座に移る。この苦 うえにさらに磨きをかけてゆく洗練の時代に入っていった。 して五六年、文楽座を四つ橋から発生の地道頓堀に移転新築 てんめい ちょう こくせんやかっせん つばき 境に、近松は『国性爺合戦』を書き、一七か月続演という空浄瑠璃の流行は全国に広がって、天明期 ( 一天一 ~ ) には江し、また『お蝶夫人』『ハムレット』『椿姫』など過去にはな めいばくせんだいはぎ かがみやまこきようのにしきえ 前の大入りを収めた。さらに、近松没 ( 一七一一四 ) 後も、初世竹戸で新作が行われ『伽羅先代萩』『加賀見山旧錦絵』な かったジャンルの新作を試みたりした。この間、五五年二月 いずもぶんこうどう はせがわせんし よせ すみたゆう つなたゆう 田出雲、文耕堂、長谷川千四らの合作を次々に発表、政太夫どは今日に残っている。大坂では社寺の境内や寄席など小さ には六世竹本住大夫、豊竹山城少掾、八世竹本綱大夫、四世 かずさのしょっ は一七三四年 ( 享保一九 ) 二世義太夫を襲名、翌年上総少な操芝居の数が増えていったが、寛政年間 ( 一大九 ~ 一合一 ) に鶴沢清六の四人が第一次重要無形文化財保持者 ( 人間国宝 ) じよう はりまのしようじよう 掾を受領し、さらに三七年 ( 元文一 l) には播磨少掾を再受淡路出身の植村文楽軒が浄瑠璃の小屋の経営に手を染めた。 に認定され、同年五月には文楽両派がそろって「人形浄瑠璃 ぶんざぶ 、はくろ・つ 領するなど、語り口に新境地を開いた。また、初世吉田文三 八一一年 ( 文化八 ) 二世文楽軒のとき大坂博労町稲荷の境文楽」として重要無形文化財の総合指定を受け、伝承者の養 ろう 郎らが人形の改良に力を尽くし、手妻の技術を取り入れて、内に操芝居を開き、さらに四代目の文楽翁は七二年 ( 明治成や公開に関する経費の国庫負担への道が開かれた。しか かしら 人形の首の目やロ、眉あるいは手足などの動くくふうを行五 ) に松島に移転、文楽座と名づけた。これに対し八四年に し、六二年に松竹は文楽 ( 因会派 ) の経営放棄を決断した。 一りよう あしやどうまんおおうちかがみ やかんべい しに一七三四年の『芦屋道満大内鑑』の野干平の役 稲荷境内に彦六座ができたので、文楽座も平野町の御霊神社その結果、国、大阪府、大阪市、放送文化基金 ( 当初は z で三人遣いを考案し、ここに現在の人形浄瑠璃の形式がいち境内に移転した。文楽・彦六両座の対抗はかっての竹豊時代の四者が補助金を出して設立した財団法人文楽協会が六 せつつのだい おうできあがったわけである。義太夫節も、両座に優れた太の再現を思わせ、しかも太夫には二世竹本越路太夫 ( 摂津大三年一月に発足、同時に因会と三和会の両派合同が実現し、 じよう おおすみ 夫が輩出し、それそれ元祖の語り風を守って座風が明確にな 掾 ) 、二世竹本津太夫、三世竹本大隅太夫ら、三味線に二世同年四月、道頓堀文楽座で第一回公演が行われた。しかし、 ひろすけ り、特色を発揮した。両座の位置から、じみで堅実な竹本座豊沢団平、五世と六世の豊沢広助ら、人形に初世吉田玉造、文楽座の建物は従前どおり松竹の所有であり、まもなく朝日 きりたけもんじゅうろう の語りを「西風」、華麗でつややかな豊竹座のものを「東風」吉田玉助、初世桐竹紋十郎らの名手が輩出して技芸を競い 座と改称したため、文楽は専用の劇場を失って宿無しの状態 とよんでいる。 となってしまった。 合い、明治期の人形浄瑠璃は黄金時代を築き上げた。しか にしふう まゆ せん ・はんかい かんせい こうつば
ちょうぞうよう ん偶者に対する遺族年金があることはすでに触れではこれが採用されている。 制加入となる形で、一九八五年 ( 昭和六〇 ) の調・雑徭等の税目があ 0 たが、平安中期、律外 たとおりである。以上をみたときに、今日の年 日本の厚生年金、国民年金にあっては、全国法改正を通じて基礎年金の導入が決定され、 令制が解体する過程で、田率賦課の官物、臨時 2 ぞうやく 金制度は、老後の生活保障を目的としたもので消費者物価指数 ( 総務庁統計局発表 ) の上昇率六年四月一日から実現された。これによって老雑役の二系統の税目が登場し、一一世紀中期以 しようえん あることが明らかである。 の年度間比較で五 % 以上の上昇がみられた場合後生活の基礎的な部分の保障の設定がみられ降、荘園体制が確立するなかで前者の系統か 〔積立式と賦課式〕年金保険制度は長期保険と にそれをスライド率として年金額を引き上げるた。↓基礎年金 ら年貢という税が成立したと考えられる。文書 もいうように、長期にわたって保険料を積み立措置を行うこととなっている。すなわち、スラ 〔私的年金〕国の社会保障制度の一環として老上の年貢の語の初見は一一世紀末期で、一二世 て、長期にわたって年金を支給するものであるイドは何を基準として行うかというときに、賃後生活の保障に焦点をあてた年金保険制度Ⅱ公 紀には「ねんく」という平仮名書きがみえ、 1 一せいばいしきもく ゆいじよううらがき から、その財源の確保はきわめて慎重を要する金、物価、生計費などが考えられるが、日本で的年金に対し、私的年金制度がある。第一に、 「御成敗式目」の最古の注釈書「唯浄裏書」に よ ものである。通常この財源の調達には二つの方は消費者物価を基準として、この上昇に応じて企業が従業員の退職後の生活保障として退職一 は「トシ / 、、ニタテマツル」の訓みがある。中 式が存在する。年金保険制度で伝統的に行われ自動的に年金額が国の責任により改定されると時金の年金化によって行う企業 ( 退職 ) 年金が世では公事と並ぶ税で、公事が用途指定的、臨 てきた方式は、加入期間中の平準保険料 ( 保険 いう仕組みになっている。この完全自動的改定ある。これは、①その制度の管理・運営を企業時的税であるのに対して、毎年の「たてまつり 料を全加入期間にわたって平均的に分割して負方式によって、インフレの打撃から受給者を守内に置く自社年金、②国税庁の認可を得て第一一一もの」と理解されていた。また、公事はもとも 担させる ) を必要な年金の原資として複利で積ることができるのではあるが、他方において、者 ( 生命保険会社、信託銀行 ) 委託にした税制 と国家的・准国家的行事、造営の用途を荘園に しゅうえん み立てていき、年金の支払い開始から終焉ま この引上げ分については受給者が加入期間中に適格年金、③私的な企業年金と公的な厚生年金賦課したものであるのに対して、年貢は官物な での財源を確保する積立式である。ところが、積み立ててはいないので、年金財政に大きな負を調整して厚生省の認可のもとに第三者委託に どの公的な税の系譜を引くが、荘園領主が徴収 これに対して医療保険が短期保険といわれるの 担を生じることになる。それをまかなうため、 した調整年金で、具体的には厚生年金基金、のするもので、荘園や領主によって徴収のあり方 と同じように、単年度で必要な年金の財源を調スライド分の負担を現在の加入者の保険料でま三つに分かれる。このうち、②と③は、それら は異なっていた。荘園領主は検注によって荘園 じようでん げでん 達し年金の支払いにあてる単年度決済の方法が かなうという後代負担の方法がとられているの に要する掛金などが税法上の損金として扱われの定田数とその田の等級 ( 上田・中田・下田 とだい あり、これを賦課式という。すなわち、この方が現実である。↓厚生年金保険↓国民年金 る特典があるが、国の指導・監督が私的年金に など ) を確定し、この田数と等級による斗代 法だと受給者に必要な財源を現在の加入者の負〔国民皆年金〕日本では、国民皆年金といわれ及んでいることになる。第二に、被用者でない ( 段当り年貢収納高 ) に基づいて年貢を賦課し 担にすることであるが、保険料負担はつねに不るように、すべての被用者は被用者年金 ( 厚生同業の人々による同業者年金制度や労働組合がていた。したがって、米が年貢の主品目である 安定であるし、高額になるおそれが生じる。積年金保険、共済組合 ) に加入し、被用者以外の独自に組織する労組年金制度があるが、例数は ことは間違いないが、地域によってその品目は まちじようぎめみの 立式のほうが保険料が平準化されているし、積人々は国民年金に加入することになっている。 少ない。第三に、生命保険会社、信託銀行が老さまざまであった。たとえば、癶丈絹 ( 美濃 しなの たじま くれすおう 立金の利子がつくので比較的安い負担となる。 ただし、皆年金発足時にすでに高齢であった者後生活の安定のために不特定対象の個人に商品国 ) 、白布 ( 信濃国 ) 、紙 ( 但馬国 ) 、榑 ( 周防 ところが、従来から積立式が望ましいとされなどについては、国民年金に無拠出制の福祉年としての年金制度を販売している個人年金があ国 ) 、金 ( 陸奥国 ) 、塩 ( 瀬戸内海地域 ) 、鉄、 ながらも、これに対して大きな課題が生じてき金を設けて経過的、補完的な措置を講じたが、 るが、これは個人の選択と負担によるものであ牛、馬、水産物などがある。このことは、年貢 たのはインフレーションに伴う年金の目減り これは本人または扶養義務者の所得状況その他る。 が、田の生産物Ⅱ米の徴収を目的にしたものと ( 減価 ) である。インフレーションによって、 によって年金支給が決定される。また、皆年金 このように、私的年金といってもいくつもの いうより、田を基準としてさまざまな産物を徴 過去に積み立てた保険料の積立金は貨幣の実質発足時に一定年齢以上であった者には、拠出制 制度があるが、公的年金制度を基盤として、そ収した制度であることを端的に示している。 的な下落を招くので、受給者は当然に名目価値の国民年金では加入期間の短縮を図り、国民年の上にこれらを上積みしていくことに存在意義 ところで、年貢は確定された田数によって みようでん しんみけちげ はそのままでも下落した実質価値を取得するこ金 ( 老齢年金 ) に結び付くように経過的措置をがあり、いわゆる高齢化社会での老後生活に備名田に賦課され、一年ごとに進末結解 ( 決算 ) とになる。これを年金の目減りというわけだ講じた。皆年金である以上は、各種の公的年金えての企業や個人の年金制度への補完的・自助が行われた。末進分はその年貢を請け負った地 と・つみようしゅ が、老齢年金を生活の糧とする老人にとっての制度のそれそれに加入期間をもつ者が生じてく 的な制度なのである。なお、国が管理している頭・名主・百姓等の負債となったため、これ はんちゅう 経済的打撃は大きい。そこで、この実質価値をることになるが、それらを通算して通算老齢年ことでは公的年金の範疇に入るが、機能としをめぐって彼らはしばしば荘園領主と対立し 回復することが必要となり、それで年金生活者金として一括支給される措置も講じられてきては個人年金である郵便年金があることも忘れた。ことに鎌倉後期は年貢未進をめぐる地頭と への保護がみられることになる。たとえインフた。日本の公的年金制度は、医療保険と同じてはなるまい。↓社会保険↓社会保障↓保険荘園領主の相論が激化し、南北朝期以降はこれ レーションによらなくても、生活水準の一般的 、各種制度が分立しているために制度間に負 ↓郵便年金 〈佐ロ卓〉 に加えて名主・百姓の年貢減免闘争が表面化す 上昇に伴っても、この保護は必要となる。こう 担と給付の不均衡がみられ、これの是正が大き回村上清・山崎泰彦著『新年金制度 C & 』ることになった。 した実質価値の下落を一定の条件のもとで修正な課題となってきたことはいうまでもない。と ( 一九会・日本生産性本部 ) ▽日本経済新聞社 〔室町・戦国期の年貢〕南北朝期以降、年貢は していく措置が、年金のスライド方式というも くに、高齢化社会に向かって高齢者の増加で年 編・刊「年金大改革』 ( 一九会 ) ▽松本浩太郎守護請の進行によって守護大名に横領されるよ きない そう のである。この方式には、①必要に応じて年金金の受給者が増大してくるし、その人々の受給 著『年金の話』 ( 日経文庫 ) ▽村上清著『企 うになる。一方、畿内近国では、惣とよばれる 額を改定する政策的改定方式、②あらかじめ定期間も寿命の伸びとともに長くなるので、年金 業年金の知識』 ( 日経文庫 ) 自治的組織が主体となって年貢を請け負い、 へんけいきんるい じきむ 園領主が直務支配を行うケースもあった。戦国 めた条件のもとに必要な年金額の改定を行う半財政の安定した維持が必要となる。そのための粘菌類ねんきんるい 0 変形菌類 自動的改定方式、③一定の条件に該当したとき措置が国民的合意のもとにどのように行われて年貢ねんぐ中世から近世にかけて行われ期には、戦国大名の領国形成の過程で、守護権 じ かんもっしよとう ど〕 ) う に自動的に年金額を改定する完全自動的改定方 いくかが大きな課題であったが、公的年金各制 た税。乃貢、官物、所当、物成も同義語としては大名権力のなかに吸収され、惣は、土豪・地 ギ、むらい 式、という三つの方式がある。通常、スライド 度に横断的な共通の部分をつくり、しかもすべ使用されることがある。 侍の被官化によって、大名権力によって組織 りつりよう される方向に進んだ。しかし、戦国大名がその 制と考えられているのは③の方式であり、日本ての被用者と配偶者や自営業者などが等しく強〔荘園制下の年貢〕律令制下では租・庸・ ものなり
しゅうおうし りぞく やかず 鶏頭の十四五本もありぬべし されることはなかったが、蕪村の離俗論に代表 象徴するかのごとく句数を競う矢数俳諧が流 子規した。水原秋桜子は、瑣末な自然現象の追求ロ おおすが 〔新傾向俳句〕一九〇八年 ( 明治四一 ) 大須賀 に腐心する虚子一門を批判、想像力と叙情的な 5 される脱俗への志向、古典的・浪漫的な風韻、 行、井原西鶴が一昼夜に二万三五〇〇句を吟じ おつじ たんび まて世人を驚かせた。一方惟中は、中国古代の哲耽美趣味、清新な叙情に彩られた俳風を共通の乙字が『アカネ』誌上に『俳句界の新傾向』を「調べ」を重んじ、連作による感情の流露を試 そうし ぐうげん 掲げ、子規の客観的写生に対して象徴的暗示をみた。取材の手を都会に伸ばした山口誓子は、 学者荘子の寓言論を借りて談林の正統性を主特徴とした。 びわ 蕪村主張したのがきっかけとなり、いわゆる新傾向無機質な人工的素材をモンタージュの方法によ 行く春や重たき琵琶の抱き心 張、貞門との間に激しい論戦を展開した。京都 かんせい たしろしようい すがのやたかまさ に菅野谷高政、江戸に田代松意らがおり、発〔近世後期の俳諧〕一九世紀に入るころ ( 寛政運動が展開された。運動の中心となった碧梧桐って俳句に取り込み、虚無的な内面世界を表現 そう キー・ワード きようわ は、心理的、感覚的な描写による実感の表出に してみせた。これらの有季論者に対し、日野草 句の鍵語を抜いて仕立てる「抜け」 ( または末 ~ 享和期 ) には中興俳人はことごとく没し、 しろう ぜんじどう げつきょ 「謎」 ) など、奇抜異体の俳風をもてあそび、 蕪村門の江森月居、暁台門の井上士朗・藤森素努め、また当時文壇を支配した自然主義の影響城、吉岡禅寺洞らは、俳句は一七音節の現代 おおえまる 下に「接社会」と称して、現実生活、社会生活詩であるという自覚から無季俳句を容認、この 変風への一因をなしたことは注目に値する。↓ 、蓼太門の安井大江丸、白雄門の鈴木道彦・ あま そうちょう 談林俳諧 建部巣兆、「俳諧独行の旅人」と自称する夏目への接近を心がけた。一九一〇年、「中心点を派もまた『天の川』『京大俳句』『旗艦』などの よ もみじ とうがらし 宗因成美らがわずかに風雅を振るうのみで、俳壇の捨てて想化を無視する」ことにより、「人為方俳誌に拠って、新興俳句運動を推し進めた。こ すりこ木も紅葉しにけり唐辛子 則を忘れて、自然の現象そのままのものに接近の運動はさらに多様化し、社会主義イデオロギ 〔蕉風俳諧〕芭蕉らの蕉風俳諧は、談林の異体大勢は俗化の波に流されていた。そうしたなか ふるやひし かやお ろうまん ーの影響を受けた古家榧子 ( 榧夫 ) 、宮田戊子、 志向がはからずも生み出した異国趣味、浪漫主にあって、あくの強い個性と、生活感情を生のする」という「無中心論」を唱えたため、季題 ひがしきようぞう ふじお の存在意義と定型の必然性に翳りが生じた。こ東京三 ( 秋元不死男 ) らによってリアリズム 義のうえに開花する。一六八四年 ( 貞享一 ) のまま表白する句境とによって独創性を一小したの ばつばっ が主張されたが、一九三七年日中戦争の勃発に 山本荷兮編『冬の日』がそれであるが、これをは小林一茶であるが、放浪癖などのため一家をの運動は、もともと写生によって失われた人間 あら 回復の志向を底流にしていたから、一時全国をよって中断され、以後は戦時下における俳句の 皮切りに、『春の日』 ( 荷兮編、一六会 ) 、『阿羅なすには至らなかった。 、か・つパし いっぺきろうおぎわらせいせんすい の ちんせき 一茶風靡して、中塚一碧楼、荻原井泉水らの独自なあり方が問われるに至るのである。 春雨や喰はれ残りの鴨が鳴く 野』 ( 同、一穴九 ) 、『ひさご』 ( 珍碩編、一六九 0 ) 、 きつつき きよらい てんばう さるみの すみだわらやば ばんちょう 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 秋桜子 『猿蓑』 ( 去来・凡兆編、一六九一 ) 、『炭俵』 ( 野坡 一八三〇年代 ( 天保期 ) に入ると、俳諧の作世界を生み育てたが、やがて定型と季題を無用 ひた せんぼ 誓子 とする自由律俳句へと発展したのである。 夏の河赤き鉄鎖のはし浸る ら編、一六九四 ) 、『続猿蓑』 ( 沾圃ら編、一六九 0 な者層はますます下降し、俳風は救いがたいほど そうきゅう 」、つ→つ、つ 老妻若やぐと見るゆふべの金婚式に話頭りつ クリスマス地に来ちちはは舟を漕ぐ不死男 どが編まれ、のちに『俳諧七部集』としてまと低調に陥った。成田蒼乢、田川鳳朗、桜井梅 あが えのもと 碧梧桐〔第ニ次大戦下の俳句〕俳人の戦争との向かい められた。これらの書は、芭蕉の指導と、榎本室を天保の三大家とよぶが、ただ芭蕉を崇め、 さいとうさんき かきお はっとりらんせつ じようそう 其角、服部嵐雪、向井去来、内藤丈草ら門人『俳諧七部集』を聖典視するのみで、新な魅〔虚子の客観描写〕子規の生前から碧梧桐とは合い方は一様ではなく、西東三鬼、富沢赤黄男 ー ) 第、、つ * 」いはな けんさん ほづみえいき らは否定的に、長谷川素逝らは肯定的に詠ん の研鑽の跡をとどめ、和歌の「あはれ」を通俗力はない。その後、志倉西馬、穂積永機、三森異なる傾向をみせていた高浜虚子は、一時夏目 くさたお みきお 性によって止揚し、「さび」の美を生み育てて幹雄など著名な宗匠が現れたが、低俗な季題趣漱石の刺激を受けて小説を執筆していたが、新だ。人間探求派とよばれた中村草田男、加藤 しゅうそん はきよう いく過程や、日常性のなかに想像力の解放を企味と小理屈に終始し、明治近代に至って正岡子傾向俳句の現状に疑問を抱き、一九一二年 ( 大楸邨、石田波郷らは、俳句によって戦時下の おおむ てる「かるみ」への展開の模様を伝えている。 規から「天保以後の句は概ね卑俗陳腐にして見正一 ) 『ホトトギス』誌上で俳句の本質論を展生き方を問おうとし、人生を対象化した。しか きよりく るに堪へず。称して月並調といふ」 ( 『俳諧大開、季題趣味・定型・平明調を唱えてこれを批し、新興俳句運動に対するたび重なる弾圧 ( 一九 森川許六は、芭蕉の説として、異質のイメー いっしゅう 判、「守旧派」の旗印を掲げて俳壇に復帰した。 四 0 、四一 ) や「日本俳句作家協会」 ( 一九四 0 ) 、「日 ジをもっ二素材を配合して発句を詠む「取合要』天九五 ) と一蹴された。 こうした主張を実践した有力俳人に、村上鬼本文学報国会」 ( 一九四一 l) の結成など、言論の統 せ」論を鼓吹したが、これは近代の俳句にも通 じよう せきてい だこっ 近代の俳句 制が強まり、花鳥諷詠に避難しなければならぬ 城、飯田蛇笏、前田普羅、原石鼎らがいる。 じる俳理論であった。 ところが、虚子の説は、一九一七年ごろを軸と暗黒の時代が訪れたのである。 一六九四年 ( 元禄七 ) 芭蕉が没すると、支柱〔子規の俳句革新〕一八八〇年代、『新体詩抄』 して主観写生から客観写生へと大きく転回す〔戦後の俳句〕第二次世界大戦後、戦時下の翼 を失った蕉門は四分五裂し、其角の「洒落風」 (l<<ll) や『小説神髄』 ( 一犬五 ~ 会 ) などにみら みずませんとく かがみしこう を継ぐ水間沾徳らの江戸座、各務支考の流れをれた、ヨーロッパの文学概念による近代化の試る。俳句の制作を通じて、「吾り」の境地に至賛体制に馴らされた俳人の感性は、ただ放心状 りようと みの おっ みそさぎい ろげんばうり一う くむ盧元坊里紅らの美濃派、岩田凉菟・中川乙みは、俳壇にまで波及し、前田林外 ( 鷦鷯子 ) 、る、つまり人間形成を目ざすというのである態に陥るしかなかったが、一九四六年 ( 昭和一一 くわばらたけお ゅう せ さんけい 由系の伊勢派などが栄え、理の勝った軽薄卑俗森三渓らによって俳諧が文学であるかどうかのが、自然現象の精細な写生の追求は、やがて無一 ) 桑原武夫の「第一一芸術論」が俳句の現代的 たいせき まさおかしき 意義に疑問を投げかけたのを契機とし、日本文 な俳風が流行した。こうした時流を嘆き、杉山議論が展開された。正岡子規の俳句革新はこう感動な客観句の堆積を生んだ。一九二七、二八 さんぶう そうずい ごしきずみ 杉風門の中川宗瑞らが著した『五色墨』 ( 一七三一 ) した状況のなかで行われたのである。子規は、年 ( 昭和二、三 ) 、虚子は、文学を階級闘争の化のあり方が問い直されることになる。翌四七 てんろう は、少数ながら花鳥閑雅を喜ぶ人々の共感を得月並宗匠によって偶像化されていた芭蕉を批判手段とするプロレタリア文学への反発から、俳年、現代俳句協会が結成され、『天狼』が創刊 かっとうてんめん された。そのなかで、誓子・三鬼らは「根源俳 し、さらに俳諧の連句を非文学として否定、発句は「天下の閑事業」であり、人事の葛藤纒綿 て、中興期の蕉風復興運動にバトンを渡した。 ふうえい ↓蕉風↓芭蕉 句のもっ月並的体質を退け、俳句に自律する詩とは無縁の「花鳥諷詠」の文学であると説き、句」の語によって現代俳句の根拠を追求し、草 すじゅう とうた むりお あんえい てんめい 田男、楸邨、金子兜太、鈴木六林男らは「社会 〔中興俳諧〕一七七〇 ~ 八〇年代 ( 安永・天明的世界を志向した。一八九四年 ( 明治二七 ) 洋その代表的な作者として高野素十を推したが、 ていじよ あわのせいほ せいそん ひょうばう 期 ) を中心に行われた中興俳諧を代表する俳人画家中村不折から「写生」を学び、その方法を阿波野青畝、山口青邨、星野立子、中村汀女、性」を標榜して前衛俳句に進んだ。現在結社 きとう とみやすふうせい よさぶそんたんたいぎ 富安風生らをこれに加えることができる。 は二〇〇を超え、個人誌の創刊も相次ぎ、女流 は、京都の与謝蕪村・炭太祇・高井几董、江戸根拠に与謝蕪村を称揚した ( 『俳人蕪村』天 かやしらお りようた じりゅう 桐一葉日当りながら落ちにけり 虚子の進出にも目覚ましいものがあって、女性俳句 の加舎白雄・大島蓼太、大坂の勝見二柳、名古九七 ) 。印象明な蕪村の写生は「日本派」一党 よ ちよら めい きようたい の俳句の指標となり、これに拠って、内藤鳴〔新興俳句運動〕この花鳥諷詠論に対し、一九懇話会が結成されてもいる。今日ほど俳句が多 屋の加藤暁台、伊勢 ( 三重県 ) の三浦樗良、 ぎよし らんこう はりま せつかわひがしへきごとう ばくすい 加賀 ( 石川県 ) の堀麦水・高桑闌更、播磨 ( 兵雪、河東碧梧桐、高浜虚子、松瀬青々ら多彩三一年 ( 昭和六 ) ごろから取材の自由と人間性様化し、また大衆化した時代はないといえよ 、つ な俳人が活躍した。 の回復を目ざすいわゆる新興俳句運動が表面化 庫県 ) の松岡青蘿など全国に及び、一派に統一 なぞ しゃれ いっさ ふせつ そうせき じよう 0 さまっ
まつばめ 「松羽目物」等々、あまたの種類に分けられる。 大正、昭和と、歌舞伎界の舞踊では、古格な あった。一八一四年 ( 文化一一 ) には富本節か る。↓能↓民俗芸能 きよもと 興行形態の面からいう「儀式舞踊」「顔見世舞 ら清元節がおこり、江戸の粋な味が歓迎された芸風の七世坂東三津五郎と、新風を加味した六 おおぎり ん〔近世〕江戸時代に入ると、貴族や武家に保護 ことも特色にあげられる。この時代を代表する世尾上菊五郎の存在が大きく、新作における一一踊」「大切所作事」、用いられている音楽による まされたこれまでの舞楽や能にかわって、庶民の うたえもん ばんどうみつごろう 「長唄物」「浄瑠璃物」の別 ( また長唄と浄瑠璃 こなかに生まれ育っ歌舞伎舞踊の時代が始まってのは三世坂東三津五郎、三世中村歌右衛門で、世市川猿之助の活躍が目だった。↓新舞踊 による掛合いのものもある ) など、分け方はさ いく。それは、仮面をつけずに、三味線音楽をとくに庶民の風俗描写が盛んであった。今日全〔第ニ次世界大戦後〕戦後の復興期には、バレ ろっかせん 工、モダン・バレエ、アメリカのジャズなどのまざまである。したがって一つの作品がいくっ 主体とするもので、「踊」に、これまでの「舞」曲の組立てを残しているのは『六歌仙』 ( 天三 l) ともやっこ ふじむすめえちごじし じようるり かの分類に重複して含まれる例が多い 一つであるが、『藤娘』『越後獅子』『供奴』な影響が大きい作品が目だった。また、二世西川 や人形浄瑠璃の技法を取り入れ、物真似をリズ ・一い寺一ぶろう ふり 歌舞伎舞踊の構成は、次のような形式が原則 魚二郎による文芸作品の舞踊化が一時期をつく ム化した「振」を濃厚に配しているのが特色でど、この期の変化物の一つが独立した一曲とし いずも りあげた。大正末からの歴史をもっ花街舞踊になっている。 て愛好されているものは枚挙にいとまがない ある。その源とされる出雲の国の念仏踊は、 あずま さんぜそう オキ ( 置唄、置浄瑠璃 ) Ⅱ人物は登場し 「かぶきたる姿」で一六〇三年 ( 慶長八 ) 京都幕末には、しゃれのめした趣向の大作『三世相「東をどり」も一時隆盛であった。流派を超え にしきぶんしよう わかしゅ 序ていない演奏だけの部分。 たグループ結成、公演も顕著で、上方舞の東上 で人気を集めた。「女歌舞伎」「若衆歌舞伎」の錦繍文章』、にぎやかな風俗舞踊『乗合船』な 出 ( 出端 ) Ⅱ人物の登場。花道における も盛んになった。創作活動では花柳徳兵衛が傑 ど、祭礼物や滑稽趣味の作品が目だった。 禁止を経て「野郎歌舞伎」の時代になると演劇 どう - 」く げんろく 道行のこともある。 ~ 一七 0 四 ) に 以上のように江戸の劇場で発展した歌舞伎舞出し、戦後の代表的な秀作『慟哭』 ( 一九五三 ) が 的に内容が複雑化し、元禄期 ( 一六公 ゅ・つき クドキ、または語り ( 物語り ) Ⅱクドキ は舞踊は「所作事」として歌舞伎の一部門をな踊に対して、京坂で文化文政期ころに形成さある。同じ一九五〇年代には吉村雄輝の『こう かみがたまい は女の役が男への恋慕や心に深く感じ の鳥』 ( 一九五九 ) も注目を浴びた。一九八〇年代 した。元禄期には、生霊・死霊となって恨みをれ、幕末以降に発達した「上方舞」がある。前 じゅらく てんじようびと ることを訴えて踊る、いちばんの見ど 記した能の舞や、宮中、殿上人の間に伝えらへと息長く作品をつくり続けている花柳寿楽・ 述べるという形が目だち、その演出には早替り いずみとくえもん としなみしげかてるな かるわぎ 破ころ。男の役の場合は、語りで軍物語 や軽業的な「けれん」が行われていた。この時れた御殿舞を源とし、人形浄瑠璃の人形、ま寿南海・茂香・照奈ら、また泉徳右衛門、花 くるわ せんぞう すえゆきたかはまりゅうみったえ みずきたつのすけ わかおやま を踊る。廓話の場合は二人で踊り分け 代を代表する若女方初世水木辰之助の「猫の所た、歌舞伎舞踊の振なども摂取して仕上げられ柳寿恵幸、高浜流光妙、一〇世西川扇蔵、藤 ることもある。 た。流派によって、劇場の舞台における歌舞伎蔭静枝らの近作にも個性的な佳作がある。吾妻 作』『槍おどり』や変化物の祖『七化』などが あかし、一 踊り地Ⅱにぎやかな鳴物が入り、手踊り 徳穂の『赤猪子』 ( 一九六七 ) 、『藤一尸の浦』 ( 一九六九 ) 、 名高い 畑の演目も種々あるが、地歌 ( 唄 ) による多く おはら′ ) こう きようほう ほうれき ( 持ち物なし ) 、総踊りなど。太鼓地と 享保から宝暦期 ( 一七一六 ~ 六四 ) の歌舞伎舞踊の曲目が共通し、座敷舞を主体とする。このた武原はんの『大原御幸』 ( 一九七六 ) なども特筆さ かみがた ながうた ・も ) い , っ は女方独占の長唄舞踊であった。上方出身の名め「地歌 ( 唄 ) 舞」ともいわれ、京都で育ったれる。 せがわきくのじよう けいせいどうじよ - つじ 急ーチラシ ( 段切れ ) Ⅱ終局。結びは、舞台 一九六六年 ( 昭和四一 ) には初の国立劇場が 女方初世瀬川菊之丞の『傾城道成寺』 ( 一七一一一 l) 、ものを「京舞」とよぶ。↓歌舞伎↓人形浄瑠 きま ぶんらく きようがのこ あいおいじし とみじゅうろう における見得や極りの形、また花道引 東京に、八四年には国立文楽劇場が大阪に誕生 『相生獅子』 ( 一七三四 ) 、中村富十郎の『京鹿子璃↓長唄↓常磐津節↓富本節↓清元節 むすめ 込みの場合もある。 ↓上方舞 し、種々の日本舞踊の自主公演を行っており、 娘道成寺』 ( 一七五三 ) など、先行芸術の能に素材 ただし、オキがないものなど、変則の作品も を仰ぎながら歌舞伎舞踊としての魅力を盛る作〔明治期以降〕明治に入ると、開放的になった観客の理解を助けるための「舞踊鑑賞教室」 すそそで 「日本舞踊の流れ」なども回を重ねている。こ種々ある。 品を生んだ。裾も袖も帯も長々とした衣装に男「能」に取材した作品が相次ぎ、高尚化志向が おのえ 日本舞踊の主体をなす歌舞伎舞踊は、町人階 性の肉体を閉じ込めることによって、女性不在みられた。九世市川団十郎、五世尾上菊五郎がの面での個人的な活動としては花柳寿南海の っちぐも れんじし ふなべんけい 代表的な存在で、『連獅子』『船弁慶』『土蜘』「寿南海とおどりを研究する会」が長い歩みを級に支持され、そのなかで育成されてきたので の一大特色が確立されていった。 すおうおとしつりおんな てんめい ~ 天 0 一 ) になると、歌や、狂言からの『素襖落』『釣女』などがあ続けている。花柳千代は『日本舞踊の基礎』の卑俗な味をもっている。貴族や武家階級の保護 天明から寛政期 ( 一大一 により発達した能とは対照的な性格といえる。 舞伎の中心は京坂から江戸へ移り、女方独占のる。しかし、明治期には歌舞伎舞踊は新しい発本を著し、基本練習の講習会を催している。 なお、一九八七年一月現在までに、故七世坂また、三味線音楽によっており、その歌詞に基 歌舞伎舞踊に立役の進出が目だってくる。音楽展を望めぬ状態にあり、当時の激しい社会の変 ときわず とみもと ぶんごぶし 東三津五郎、故花柳寿応、六世 ( 名義としては七づく物真似的要素が濃厚である。女方による色 面にも豊後節から常磐津節、富本節が現れ、劇動は舞踊の世界にも新風を求めていた しょ - つよ - っ 一九〇四年 ( 明治三七 ) に坪内逍遙が『新世 ) 藤間勘十郎、四世井上八千代、故山村たか、気や、遊里気分も特色の一つである。今日、歌 的な要素の濃い劇舞踊が盛んになった。その なかぞう せき 大成者は初世中村仲蔵で、『関の扉』 ( 一大四 ) 、楽劇論』を発表したが、大正期になって彼の志藤間藤子、吉村雄輝が重要無形文化財各個指定舞伎舞踊は歌舞伎俳優と舞踊家によって踊ら もどりか」 『戻駕』 ( 一大 0 をはじめとする浄瑠璃所作事を継いだ新舞踊運動がおこった。ここに専門家 ( 人間国宝 ) に認定された。このうち故人では七れ、伝承されている。 〔流派〕日本舞踊には、家元制を基盤とする多 として独立した、舞台活動を行う舞踊家の道が世三津五郎と寿応が、現在は勘十郎、八千代と の名作を生んだ。これらは江一尸の顔見世狂言に ふじましずえ くの流派がある。このうち、歌舞伎の劇場に専 含まれるものであり、浄瑠璃物の舞踊場面をつ開けていった。一七年 ( 大正六 ) に藤間静枝武原はん、吾妻徳穂が芸術院会員である。 せいじゅ けるという構成上の約束が劇舞踊の発展を促 ( 藤静枝、後の静樹 ) が「藤蔭会」を結成し〔歌舞伎舞踊の種類と構成〕歌舞伎舞踊は歌舞属した振付師、および俳優から振付師に転じた しがやま 1 じようたまみ うめもと はなやぎ たのをはじめ、花柳徳次 ( 五條珠実 ) 、楳茂都伎の一部として発達し、江戸時代には一日の狂流祖に始まるものに、志賀山、藤間、西川、市 し、同時に専門の振付師が活躍することとなっ 陸平、一一世市川猿之助 ( 猿翁 ) 、五世中村福助、言中にかならず舞踊場面を入れる慣習が長く続山流などがある。「志賀山流」は元禄期 ( 一穴 じゅ ぶんかぶんせい ~ 一七 0 四 ) からの最古の流派であるが、現在は振 いたので、発展が促されてきた。その作品の多 七世尾上栄三郎らが続き、二世花柳寿輔 ( 寿 文化文政期 ( 天 0 四 ~ 三 0 ) の歌舞伎舞踊には、 おう くは、テーマをもっ演劇性の濃いもの ( 劇舞るわない。「藤間流」は流祖勘兵衛の名跡は七 劇舞踊が衰退して、いくつかの小曲を次々と踊応 ) の「花柳舞踊研究会」も二四年に発足。三 り分けていく組曲形式の「変化物」が全盛とな〇年 ( 昭和五 ) にはさらに花柳寿美、藤間春江踊 ) と、テーマのないもの ( 純舞踊 ) とに大別世で絶え、宗家藤間流 ( 現在六世宗家藤間勘十 みちのり かんそが あづまとくほ 郎・七世宗家藤間康詞 ) と藤間流 ( 現在一一世藤 。糸カく、題材やまた様式によ った。変化舞踊の形式は前記の水木辰之助に始 ( のち春枝、吾妻徳穂 ) 、西崎緑、藤間勘素娥される。さらこ田ゝ さんばそう あ亠こま しやっきよう おんりよう 間勘斎 ) 系統に大別される。「西川流」は宗家 り、「三番叟物」「浅間物」「道成寺物」「石橋 まるが、化政期の作品は初期の「怨霊事」の ( 観素娥 ) らが加わった。新作舞踊は歌舞伎俳 みちゅき やまんば 物」「道行物」「狂乱物」「山姥物」「変化物」西川流 ( 現在一〇世宗家扇蔵 ) と、名古屋西川 性格を離れて音楽的にも役柄的にも多種多彩で優ではなく舞踊家が主流になっていった。 やり かんせい かおみせ りくへ じゅすけ
はか ① は、ヨーロッパの旧石器時代中期にみられる。葬品や内部装飾から、強力な王権や高度な技術 近世の中ごろから庶民も石碑を建てることが 帯では、埋め墓を村境の外に設けたり、離れ島 フランスのムスティエ洞窟では、伸展葬や屈葬文明の存在をうかがわせるものである。またこ や山かげにつくる所があり、また両墓を隣接し 流行し、石碑を刻む技術も発達した。石工のう が行われ、副葬品も添えられていた。同じくフれらの王墓が遺体や墓そのものの長期の保存を て設ける例もある。両墓制は土葬を基本としてちの彫刻工の仕事で、しだいに堅い石材を使う 目的として造営されたことも新たな特徴の一つ ランスのラ・フェラシー遺跡では、成人男女と いるので、近年火葬の普及とともに減少の傾向ようになって堅物細工とよばれている。石碑の 小児計四体の人骨が発見され、その周囲に石器である。 をたどっている。 形は供養塔から発展したので、初期には層塔、 まうきよういん らんとう 今日の墓の形態やその習俗は、文明社会から 宝塔、宝篋印塔、五輪塔などが多く、卵塔形、や動物骨などの副葬品も置かれており、人為的 各地の墓地をみると、いまは集団墓地が多く そとば に埋葬された跡が明らかである。この時期の人伝統社会あるいは末開社会とよばれる地域に至 なったが、もとは家ごとに墓地をもち、あるい 仏像形、卒塔婆形からしだいに角石形に統一さ は分家が本家のそばに墓を設けて同族墓を形成れてきた。世間には墓相のよしあしなどをいう類がある程度の漠然とした墓の観念や他界観をるまで多種多様である。一般に、遺体を地中に 埋めて土を盛った塚や、埋葬した場所に墓標を しているものが多かった。各戸がかってにあち者もあるが、これにはなんの根拠もない。石碑もっていたことが、そこからうかがわれる。 設ける形式は、仏教、キリスト教、イスラム教 旧石器時代後期に入ると、埋葬法も副葬品も こちに墓地を設け、すべてを免租地に指定するを建てる時期は、三年・七年・一三年目などの ことは共同の利益に反するので、明治時代以後年忌のおりが多いが、家々の事情によって一定複雑化していく。赤土を含んだ土地に遺体を埋などの大宗教に特徴的である。だが伝統社会や しばしば墓地の共同化が進められた。自家の宅しない。また、個人墓、夫婦墓、先祖代々の墓葬したり、遺体に赤土が塗られたり、また遺体末開社会では、墓の形態はきわめて多様であ とうがいこっ などがある。 から頭蓋骨を切り離し別に埋葬するなど一種のる。台や木の上に死体を置く台上葬や樹葬とよ 地内に墓を設ける屋敷墓もあった。大都市では 大都市に人口が集中し土地利用が高度化する頭蓋骨崇拝も存在したようである。さらに遺体ばれる葬法は、北アジアや中央アジアをはじ 条例で土葬は禁止されており、もちろん衛生上 の手足に石をのせたり、遺体を石で保護するなめ、インドネシア東部、メラネシア、オースト と、都市計画の一環としての墓地規制が必要に も住宅に近接して土葬することは好ましくな あまみ ・は・、とっ 沖縄や奄美の島々には曝葬 ( 棺を地上に放なり、経営には知事の許可を必要とするなど法ど墓に石が使用され始めた。これは、新石器時ラリア、アメリカなど各地にみられるが、これ どうくっ 置する ) や洞窟葬が行われ、また葬後十数年の的にも規制が定められている。景観のうえから代のヨーロッパにおいて巨石文化として独自のも墓の一種とみなせるかもしれない。また、遺 せんこっ 形態をとるようになる。いわゆるドルメン、ス体を家屋の内部に葬る形態は、アフリカ、イン のち洗骨する風習も点在する。沖縄本島で亀甲は公園墓地、土地の高度利用のうえからは墓地 もんちゅう トーン・サークルなどの巨石を用いた墓がそのドネシア、南米のアマゾン地域に点在し、さら 墓とよばれる巨大な門中 ( 同族 ) 墓は洞窟葬団地や納骨堂など立体化が図られ、石碑につい あいがん にその発展形態ともいわれる墓の上に小屋を建 と中国式の墓との結合したものであろう。生前 ても個性的なものが多くなった。別に愛玩動物例である。 しかし墓の変遷をみるうえで大きな転換点とてる習俗も、同地域をはじめ、オーストラリ に自分の墓をつくることは、聖徳太子が自ら墓の墓 ( 納骨堂 ) もある。↓古墳↓両墓制↓ 〈井之ロ章次〉 なるのは、農耕社会への移行に伴う定住化の段ア、北アジア、アメリカ、東南アジアなどに広 所を築いたことなどが知られており、仏教では墓地、埋葬等に関する法律 へきがん ぎやくしゅ めおと く分布している。洞窟葬の一種である壁龕墓の 逆修とよんで一部に流行した。逆修でも夫婦〔世界の墓〕墓は、それそれの社会の葬制や他階であろう。新石器時代のエジプトではすでに ほうみよう 共同墓地が造営されていた。定住化によって人形態は、アフリカ、オーストラリアの各地に分 墓でも、生きている者の法名には朱を入れて界観と深くかかわっている。しかしそれ以外に 布している。 おく。行き倒れや、祀りをしてくれる子孫のな も、その社会の自然環境や生業形態から、埋葬類は現在みられるような恒久的な墓を獲得した しかしながら、死体処理に際してなんらかの い人の墓は無縁墓とよび、寄せ墓をして整理し される人間の死亡時の年齢や性別、社会的地位と思われる。さらに王朝の発達によって、支配 たり、一括して三界万霊塔を建てておく。小児や身分まで、墓やその習俗に影響する要因は多者層の巨大墳墓が出現するようになるのもこの儀礼が行われることが人類一般に普遍的ともい の墓は、生まれ変わることを期待して一般に正様である。そのため、墓にかかわる形態や習俗段階である。エジプトのピラミッド、中国の王えるのに対して、墓はかならずしも死体処理と には、世界各地で顕著な多様性がみられる。 墓、日本の天皇陵などがその例である。これら直結しているわけではない。チベット仏教やイ 式な墓を設けず、埋めた上に石地蔵をのせたり ンドのパールシー教徒の間で行われている鳥葬 墓という観念を伴った死体処理の最古のもの豪壮な王墓は、その巨大さ、精巧さ、華麗な副 や、メラネシア、ポリネシアで行われている舟 るのつ 葬は、厳密な意味での墓をもたない。火葬のの 来盛れ家な ち遺骨を神聖な月。 ~ ーこ流すヒンドウー教徒の場合 以をさ国と 地 子土成 も同様である。以上は死体放棄ともいえるもの 形ズく墓 。やがエなの であるが、いわゆる伝統社会や末開社会におい 墓地フは礼 地 の墓で儀 ては、一般にわれわれが想起する墓地や墓標を 墓 者にコ地的 の カ辺ッ墓家 もたない地域も多く、死者が葬られるある区域 族有周ロの国 が漠然とした墓の観念につながっている場合も る モ団る 子 しある墓。集祭 のあのる族を州ある。 林獣に者れ親官ア 墓がどこにつくられるかは、その社会の他界 孔石数聖らや高ニ の・無 ( け族府ジ観や世界観と密接に関係してくる。一般に樹葬 第一車人が廟向家政一 」曲石墓聖にや や台上葬は、天上や太陽といった上方他界観と 省 , のカ地々 関連し、死者の魂があの世に行きやすいように 東で民墓ッ墓人力 山地庶のメンたリ という意味をもっといわれる。中国や韓国にみ 墓の圏はトしメ 墓のけム面ン死ア られる「風水」信仰は、墓地と家屋の方向によ の々だラ顔リ戦 国代たスの一にる って幸・不幸が左右されるとする信仰である。 中族げイ者アめい よい方角に墓をつくれば、死者は感謝し、その 5 墓①一上②死③たて きっこう