資本主義 - みる会図書館


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1. 日本大百科全書 18

にほんしほんしゅぎろんそ ( 6 日本資本主義論争 しも 0 とも、大量の国債増発は財政危機を招た時代の一九二〇 ~ 三〇年代の日本社会の現状が執筆に参加した。「講座』は、大きく分けて、 き、一九八〇年代に入ると、欧米で登場したサ分析と、明治維新に対する歴史分析とを結合さ第一部明治維新史、第二部資本主義発達史、第う日本資本主義の特質をめぐって、一九二〇 ッチャー主義やレーガノミックスの新自由主義せた点にあり、明治維新のプルジョア革命とし三部帝国主義日本の現状、第四部日本資本主義年代末から三〇年代前半にかけて行われたマル こ政策に連動して財政再建のための行政改革路線ての不徹底さが、日本帝国主義による国内抑圧発達史資料解説の四部からなっていた。執筆陣クス主義者の間の論争。論争の中心的問題点 が追求されたが、それは日本経済の外需依存をと中国侵略とを必然化させたのだと説いた。野は、基本的にいって、コミンテルンの二七年テが、農村の地主・小作関係を封建的あるいは半 ーゼ、三二年テーゼを支持しており、日本の革封建的関係とみなすかどうか、さらに日本資本 極端に高め、輸出の急増、貿易・経常黒字の累呂は、社会発展の原動力をその社会に内在する 積による対外経済摩擦を一段と激化させた。一矛盾の生成・発展・衰滅・新たなる矛盾の生成命はます天皇制絶対主義を打倒するプルジョア主義全体について封建的諸要素を本質的な要素 九七一年に旧体制が崩壊したあと、七一一一という観点からとらえる唯物弁証法を本書の随民主主義革命を遂行し、そののちプロレタリアとみるか、それとも単なる遺制とみるかにあっ たので、封建論争とよぶこともある。 年春以降国際通貨体制は変動相場制に移行して所で駆使しており、そのダイナミックな手法が革命に転化するという一一段階革命を主張してい いたが、そのもとでの貿易・経常黒字の累積多くの読者を魅了した。「工業における資本主た。これに対して雑誌『労農』を舞台に論陣を〔論争の発端と展開〕この論争は、一九二二年 ひとしいのまたつなお ししったん結成された日本共産党 は、絶えず為替レートの円高圧力を生み出す一義の急速にして高度の発達と農業におけるそれ張っていた山川均、猪俣津南雄らは、天皇制権 ( 大正一一 ) こ、 が翌年早くも解体したあと、一一六年に再建され 方、それにもかかわらず貿易構造の垂直分業的の局限的にして低度の発達ーーこの不均衡の加力を。フルジョア的帝国主義権力と規定し、ただ ここに、日本資本主義の根本的ちに社会主義革命を遂行すべきだとする一段階る過程で、日本のマルクス主義者の間に共産党 性格のゆえに円高が貿易収支を調整する機能が速度的激化 働きにくいために、この日本の対外不均衡は世にして致命的な矛盾がある」という有名な文章革命を主張した。両派の戦略論争はやがて日本系と非共産党系の分岐が生じたことに端を発し かくらん にみられるように、野呂は、日本資本主義と半資本主義論争、明治維新論争にまで発展し、戦ている。共産党の結成に当初関与しながら再建 界経済の大きな攪乱要因となって現在に至って ひとし、かいとしひ、」 前の社会科学界にも絶大な影響を与えた。通共産党には参加しなかった山川均、堺利彦、 いる。また、内需不振のもとでの経常黒字を基封建的地主制との矛盾対立的な結合の仕方その いのまたつなお あらはたかんそん 、麦者は「労農派」とよ荒畑寒村、猪俣津南雄などは、二七年 ( 昭和 礎に、対外証券投資が急増して日本は世界最大もののなかに、日本におけるあらゆる政治的反称、前者は「講座派」彳 ばれた。このように『講座』は学問と実践の統一 l) 末に雑誌『労農』を創刊して、共産党とは の債権国となるとともに、円高と貿易摩擦に触動化の基礎をみいだしたのである。この見地か 異なる路線を追求することを明らかにした。以 発されて対外直接投資も急伸し、日本企業の多ら野呂は、専制的天皇制・地主的土地所有の廃一という高度に政治性の高い課題を背負ってい 止などを要求するプルジョア民主主義革命の遂たために、第四回配本は発禁処分を受け、第五後、彼らおよびその政治的理論的同調者たちは 国籍企業化と国内の産業空洞化が進んでいる。 回配本以降も検閲当局による削除・改訂を余儀労農派とよばれた。共産党系と労農派との対立 「経済大国」「金融大国」となった日本資本主義行を日本革命の第一義の課題とした。本書は、 日本人民解放のために捧げられた革命的実践のなくされた。しかし一九八二年 ( 昭和五七 ) 五点は、社会主義運動のすべての側面に及ぶが、 の国際的適応性が問われているといってよい とくに重要な対立点の一つは、革命戦略および 〈柴垣和夫〉書としても不朽の声価を得ている。岩波文庫、月、『講座』刊行五〇周年を記念して、全巻初 ↓日本「経済〕↓資本主義 回楫西光速他著『双書・日本における資本主義『野呂栄太郎全集上』 ( 新日本出版社 ) 所収。版を底本とする復刻がなった。↓講座派・労農その前提となる日本の政治・経済構造の認識に 〈中村政則〉派↓二七年テーゼ↓三二年テーゼ〈中村政則〉おける対立であった。共産党系の理論家たち ↓野呂栄太郎 の発達』全一三巻 ( 一九五五 ~ 七 0 ・東京大学出版 回塩沢富美子著『野呂栄太郎の想い出』 ( 一九回大石嘉一郎著『復刻版・日本資本主義発達史が、日本の国家機構や地主・小作関係の半封建 会 ) ▽大内カ著『日本経済論』上下 ( 一九六一一、 講座別冊 1 解説・資料』 ( 一久一一・岩波書店 ) 的性格を強調し、そこからプルジョア民主主義 七六・新日本出版社 ) ▽守屋典郎著『日本資 六三・東京大学出版会 ) ▽中村隆英著『日本 にほんしほんしゅぎぶんせ革命からプロレタリア革命へという二段階革命 本主義分析の巨匠たち』 ( 一九 0 ・白石書店 ) 経済ーーその成長と構造』第二版 ( 一九含・東 日本資本主義分析 にほ′んー ) ほ , んー ) き日本資本主義についての講座派理論を代表戦略を主張したのに対し、労農派は、日本の国 京大学出版会 ) ▽宮崎義一著『日本経済の日本資本主義発達史講座 もりたろう 構造と行動』上下 ( 一九会・筑摩書房 ) ▽同ゅぎはったっしこうざ第二次世界大戦前の日本資する山田盛太郎の著作。一九三四年 ( 昭和九 ) 家権力はすでに金融プルジョアジーの手中にあ り、さまざまの封建的遺制が残っているにして 編集委員会編『講座今日の日本資本主義』本主義をマルクス主義の立場から初めて包括的刊。『日本資本主義発達史講座』 ( 一九三一一 ~ も、より重要な要素は急速に発達した独占資本 全一〇巻 ( 一九ハ一 ~ 全・大月書店 ) ▽安藤良に解明した画期的な講座。全七巻。一九三二年山田が発表した三つの論文を集めたもので、極 ( 昭和七 ) 五月から三三年八月にかけて岩波書度に圧縮された特異な文体で、日本における産主義であり、資本主義を倒すことなしには封建 雄編『近代日本経済史要覧』第二版 ( 一九全・ 店から刊行された。『講座』の刊行された一九業資本確立過程と、そこにおける軍事機構Ⅱキ遺制も清算できないと論じた。労農派のなかで 東京大学出版会 ) イ産業および半封建的農業諸関係の役割を分析このような主張をもっとも精力的かっ詳細に展 三〇年代初頭は、世界大恐慌が猛威を極めてい 日本資本主義発達史にほんしほんしゅぎは のろ、スいたろう し、日本資本主義を軍事的半農奴制的資本主義開したのは猪俣であった。その猪俣に対する批 ったっし野呂栄太郎の代表作。一九三〇年たときであり、日本軍部はすでに満州侵略を開 のろえいたろう さきさかいつろう として特徴づけた。これに対しては向坂逸郎な判者として共産党側から野呂栄太郎が登場 ( 一九 ( 昭和五 ) に鉄塔書院から出版。日本における始していた。また第一回配本が開始された月に 科学的歴史学の先駆をなす作品であり、日本のは五・一五事件が勃発し、日本は戦争とファシど労農派系の学者が次々と批判を行い、講座派 = 九 ) するに及んで、日本資本主義の構造的特質 の論客がそれに反論するなど、この著作は日本をめぐる論争が本格的に始まる。野呂は、猪俣 『資本論』ともよばれた。一九二四 ~ 二五年ズムの道へ進みつつあった。このような情勢の の説を、特有の歴史的諸条件に規定されつつ発 ( 大正一三 ~ 一四 ) 野呂は日本労働学校その他なかで執筆された『講座』は、明治維新以来の資本主義論争の焦点となった。明治維新以降の 日本資本主義発達の諸条件、その本質的諸特日本社会の構造的特質を体系的に分析したもの展した日本資本主義の特殊な構造とそこから生 で『資本論』を教えたが、労働者は、『資本論』 を武器に日本歴史を分析するとどういうことに徴、その基本的諸矛盾を全面的に分析し、戦争として画期的な意味をもっ著作であり、当時のずる特殊な矛盾とを資本主義一般に解消させて しまうものであると批判して、農村における半 なるのかとしばしば質問した。この労働者の要とファシズムを阻止し、社会変革の道を指し示知識人に広く強烈な影響を及ばした。今日もな 求にこたえるべく執筆したのが本書であり、主すことに最大の意義をみいだしていた。編集委お、この著作に対する批判と再評価の試みが繰封建的生産関係の存続が日本資本主義の形成・ よしたろう のろえいたろう 〈山崎春成〉発展にとって決定的な意義をもっことを歴史的 として明治維新以後の日本資本主義の発展過員は大塚金之助、野呂栄太郎、平野義太郎、山り返されている。 ごろう もりたろう に論証することに努めた。野呂はまた篤実なマ 田盛太郎の四名であり、そのほかに仁五郎、回山田盛太郎著『日本資本主義分析』 ( 岩波文 程、その構造的矛盾の分析に重点が置かれてい くしだたみぞう はっとりしそ・つ かざはややそじ ルクス経済学者櫛田民蔵にも厳しい批判の矢を 服部之総、小林良正、風早八十一一ら少壮の学者 る。本書の特徴は、なによりも野呂が生きてい 要つばっ さ一

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にほんし ( 増島宏編『日本の統一戦線上』所収・一九 向けた。櫛田がその論文「わが国小作料の特質「コム・アカデミー事件」で講座派が、三七年至ったものの、『日本百科事典』編集という田 天・大月書店 ) ▽岡本宏著『日本社会主義 〈彌吉光長〉 について」 ( 一九三一 ) で、日本の高率現物小作料一二月および三八年二月の「人民戦線事件」でロの大事業は末完に終わった。 政党論史序説』 ( 一九穴・法律文化社 ) ▽犬丸 労農派が、その主要メンバーを検挙されたこと日本社会事業大学にほんしやかいじぎようだ は共産党系理論家の主張するような封建地代で し、刀ノ、 義一著『日本共産党の創立』 ( 一九ハ一一・青木書 私立。一九四六年 ( 昭和二一 ) 財団法 によって強制的に終結させられた。しかし最終 はなく、零細な小作人の競争の結果として生ず 店 ) ▽大河内一男・松尾洋著「日本労働組 人中央社会事業協会が設置した日本社会事業学 る前資本主義地代であることを丹念に論証し的には、日本資本主義の生成と発展の全過程に 合物語大正』 ( 一九六五・筑摩書房 ) ついて、歴史学、経済学、政治学、法学などの校を前身として、翌四七年日本社会事業専門学 て、猪俣説を補強したからである。櫛田も反論 にほんしやかいとう一九四五年 にたち、こうして論争は総論から各論に発展し 社会科学諸分野の専門家をも引き込んで展開さ校となる。五〇年日本社会事業短期大学を設日本社会党 ( 昭和二〇 ) 一一月二日に、共産党を除く戦前 始めた。 れるようになったこの論争が、日本の社会科学置、これを母体として五八年大学となった。八 の無産政党関係者で結成した、わが国の代表的 〔最盛期の論争〕一九三二年から三三年にかけの発展に及ばした影響はきわめて大きいものが七年現在、社会事業学科、児童福祉学科の二学 まこごろう もりたろう よしたろう はっとり な社会民主主義政党。社会党の歴史は四つの時 科からなる社会福祉学部をもつ。少人数授業に て、山田盛太郎、平野義太郎、仁五郎、服部あった。この論争は、共産党系対非共産党系と しそう より社会福祉教育に専念する。所在地は東京都期にくぎることができる。 いう党派的対立を根底にもっていたため、批判 之総、小林良正などを主要執筆者とする全七巻 〈喜多村和之〉 〔第一期〕第一期は結党以来一九五一年の左右 の『日本資本主義発達史講座』 ( その企画・編のための批判の応酬に終わることもあったが、渋谷区神宮前一ー四ー一九。 両社会党への分裂までである。反共右派主導で 集の中心は野呂であったが、彼は病気と地下活欧米諸国とは異なる歴史的諸条件のもとに行わ日本社会主我同盟にほんしやかいしゅぎどう 動入りのため予定した論文をついに執筆できなれた日本の近代社会の発展過程に含まれる多様めい大正時代の社会主義者の大同団結組織。発足した社会党は、その新憲法構想も「国家主 第一次世界大戦後、社会主義運動が復活するな権論」で天皇制の修正存続を考えていたし、一 かった ) が刊行され、三四年には『講座』所収な問題への知的関心は、この論争によって強く の山田、平野の論文がそれそれ『日本資本主義刺激された。日本の社会科学は、この論争を通かで、社会主義諸団体の大同団結気運が高ま九四六年初頭の民主人民戦線運動にも反共主義 り、一九二〇年 ( 大正九 ) 八月五日に日本社会の立場から参加しなかった。四七年の二・一ス 分析』『日本資本主義社会の機構』として刊行じて初めて日本の現実に本格的に取り組んだと トをビークとする労働連動の高揚を背景として いえる。↓講座派・労農派 〈山崎春成〉主義同盟準備会が結成された。発起人は一一月 された。『講座』の諸論文は日本資本主義の半 ひとし 寺」かえ さかいとしひ - 、 には三〇名となり、堺利彦、山川均、大杉栄行われた四月総選挙では一四三人の当選者を得 封建的特質を重視する見地を共通の基調として回大塚金之助他編『日本資本主義発達史講座』 いわお かつまろ 全七巻 ( 一九三一一 ~ 三三 / 復刻版・一九〈 = ・岩波書ら社会主義者、赤松克麿 ( 新人会 ) 、和田巌て第一党となり、片山哲を首班とする社会・民 おり、以後この見地にたつ人々は講座派とよば あそうひさし 店 ) ▽小山弘健編『日本資本主義論争史』 ( 建設者同盟 ) など学生団体の指導者、麻生久主・国民協同の三党連立内閣を組織した。片山 れる。『講座』の日本資本主義論は、その刊行 ふるかわけい が始まってまもなく発表されたコミンテルンの 全二冊 ( 青木文庫 ) ▽小林良正著『日本資 ( 大日本労働総同盟友愛会 ) 、布留川桂 ( 正進内閣は新憲法に基づく国家公務員法、新警察法 おおばかこう 本主義論争の回顧』 ( 一九七六・白石書店 ) 会 ) など労働組合代表、大庭柯公 ( 著作家組の制定、民法改正などを実現したが、その政策 「日本における情勢と日本共産党の任務に関す みめい しまなか にほんしやかいじい日本で最 合 ) 、嶋中雄三 ( 文化学会 ) 、小川末明など幅広的表看板であった炭鉱国家管理法は骨抜きにさ るテーゼ」 ( いわゆる三二年テーゼ ) の日本認 日本社会事彙 い団体と個人を網羅していた。これは、明治末れたばかりか、経済再建のため労働賃金を抑制 初の西欧的百科事典。全二巻。一八九〇 ~ 九一 識ともほば合致するものであった。「講座』は ・つきち 以来小グループに分散していた社会主義者が一するなどの政策をとらざるをえなかったため、 日本資本主義の歴史と現状に関する最初の体系年 ( 明治二三 ~ 二四 ) 発行。編者の田口卯吉は も、ぶろう つの組織に結集した点で、また労働運動と社会鈴木茂三郎ら党内左派の「造反」にあい、四八 一八七八年 ( 明治一一 ) 大蔵省官吏を辞退、翌 的な社会科学的分析として、知識人の間に大き あしだひとし さきさかいつろう たか な反響をよんだが、他方で向坂逸郎、土屋喬年、渋沢栄一の後援で『東洋経済雑誌』を発行主義者が結合した点で画期的なできごとであっ年二月総辞職した。続く芦田均 ( 民主党 ) 首班 すえひろ そうじ 、一うどう お して自由貿易主義を主唱した。彼はまた『泰西た。準備会結成の翌月、堺の『新社会評論』を内閣にも西尾末広ら八名が入閣したが、同内閣 雄、岡田宗司、伊藤好道、さらに猪俣、櫛田な も政令二〇一号で国家公務員の団体交渉権・争 『社会主義』と改題して機関誌とし、また各地 ど、労農派系の学者、評論家からの批判を呼び政事類典』『日本人名辞書』『国史大系』などを はくだっ 起こした。労農派の批判は山田『分析』、平野出版、『群書類従』を再刻するなど大出版を継で宣伝活動を進めつつ創立大会を迎えた。大会議権を剥奪して労働者の不満を買い、昭電疑獄 で四八年一〇月総辞職した。その後四九年一月 『機構』、とくに前者に集中した。山田は沈黙を続したが、その目的は、本格的大事典の『日本は一二月一〇日の予定だったが、当局の解散命 続けたが、平野ほかの講座派の論客が労農派の百科事典』を編集して、当時イギリスから発行令を予知し、一一〇〇名が集まった前日の懇談会の総選挙で社会党は四八議席にまで転落し、同 批判に応戦し、論争は三四 ~ 三六年のころ最盛されていた国際的百科事典である『プリタニカを大会に切り換え、一〇日は報告集会となっ年四月の再建大会では党の路線と性格とをめぐ 期を迎えた。論争の題目は、幕末の経済発展段百科事典』に対抗するにあった。これら一連のた。同盟加入者は創立当時三〇〇〇名、後の中って、改良的漸進と国民大衆の党を唱える右派 りたいしよう と、社会主義革命と階級政党を主張する左派と 階 ( 「厳密な意味でのマニュファクチュア時出版のために、豊富な文献がすでに用意されて国共産党指導者李大釗など中国人、朝人も の間にいわゆる森戸 ( 辰男 ) ・稲村 ( 順三 ) 論 いたので、この『日本社会事彙』はこれらの文加入していた。支部は大阪、神戸など五か所に 代」に達していたとする服部之総に対する土屋 喬雄の批判から始まったマニュファクチュア論献を十分に活用することができた。内容は、日置かれた。同盟は二一年五月九日第二回大会を争が行われた。左右の対立は五〇年一月の第五 開いたが、弾圧が厳しく同月二八日解散を命ぜ回大会では人事と青年部問題をめぐって紛糾し 争 ) 、幕末の新地主層の社会的性格、明治維新本の政治、社会、経済など広い領域にわたり、 一時党分裂を招いたが、五一年一月の第七回大 日本文化を取り入れ、集約し、評論したものでられ、機関誌も九月号で停刊した。しかしこの の歴史的性格など、幕末・維新史の諸問題にも 日 、外的条件 ( 弾圧 ) とともに、創立当時はま会では講和と平和問題をめぐってふたたび激化 八一年の予約募集は予約者七〇人 広がったが、中、いはやはり、地主・小作関係はあった。一 にすぎなかったが、一九〇一年 ( 明治三四 ) に だ末分化状態だった社会主義諸潮流の分化は急し、左派優位のうちに全面講和・中立・基地反 本質的に封建的な生産関係であるかどうかとい う農業問題論、小作料論と、日本資本主義に対行った第二次募集では三〇〇〇人の予約を得て速で、同盟はアナ・ポル対立のなかですでに半対・再軍備反対の平和四原則が採択され、空席 自信を深めた。この上下二巻、索引一巻の事典身不随になっていた。解散を契機に各潮流はその委員長に左派の鈴木が選出された。しかし講 する軍事的半封建的という規定が適切かどうか 和会議直後の一〇月、臨時大会で、左派の講 という構造論、およびそれに関連する方法論上は、正確な知識と適正な意見によって、わが国れぞれの立場から運動の再結集を図っていっ 〈荒川章一一〉 和・安保両条約反対論と右派の講和賛成論が激 初めての文化史としてようやく評価され、そのた。↓アナ・ポル論争 の問題であった。 リ藤井正著『日本社会主義同盟の歴史的意義』突し、左右両社会党に分裂した。 〔論争の意義〕この論争は、一九三六年七月の死 ( 一九 0 五 ) 後第三回予約を一九〇八年に行うに たつお

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兵制、私法、公法などの社会的・国家的諸制度的にその危機を緩和したが、戦後一九二〇年代促進したのは、東西冷戦を背景に一九五〇年れていった。 一九六〇年代に入って、ドル危機を背景とし には、公共投資がマクロの成長を下支えしたも ( 昭和二五 ) に勃発した朝鮮戦争による米軍特 を欧米先進諸国から移植する形で進められた。 たアメリカの圧力のもとで貿易、為替、資本取 需であった。 資本の原始的蓄積も、民間の資本蓄積の未熟をのの、民間部門では慢性不況が再現した。 一九五一年九月、アメリカはサンフランシス引の自由化が進められ、また若年労働力の不足 この過程で、一方では三井、三菱、住友など 反映して政府主導で進められ、政府とそれに寄 みつびし による賃金高騰から六五年不況が発生して、日 コで対日講和会議を開き、日本政府はアメリカ 生する三井、三菱など特権政商との独特の癒着の旧政商が同族持株会社を設立して財閥コンツ 関係が形成された。 エルンに成長するとともに、綿工業でも強固な陣営との片面平和条約に調印、それは五二年四本経済の先行きに不安がもたれたが、それは六 月に発効した。これによって日本は旧植民地の五年に始まるアメリカのベトナム戦争介入の本 これらの結果、日本資本主義は、商品経済とカルテルが形成され、金融資本による独占体制 ほか千島を放棄し、形式的に独立を回復した格化に関連した輸出の急伸で解消され、設備投 資本の自律的発展が長期間をかけて制度の近代が確立した。大正デモクラシーによる政党政治 化を促すという先進国 ( イギリス ) 型ではな が成立し、労働者・農民の運動、社会主義運動が、同時に日米安全保障条約が締結されて米軍資も再燃して、七〇年代初めまで輸出・設備投 く、「上からの資本主義」といわれる後発国が本格化したのもこの時期のことであるが、後の日本駐留が維持され、日本の再軍備が促され資主導型の大型景気が訪れた。この過程で各重 ( ドイツ ) 型の特質をもって成立した。一 者は治安警察法、治安維持法による厳しい弾圧た。これに、その後の、ガットへの加盟化学工業は量産体制を確立して世界市場に進出 し、貿易・経常収支は赤字基調から黒字累積に を加えて、日本は戦後確立したバックス・アメ 九年に発布された明治憲法による権威主義的国にさらされた。 リカーナの「核とドルの傘」の下に編入され、転じ、資本輸出も本格化した。六八年に日本の 一九二九年 ( 昭和四 ) に始まる世界恐慌は、 家体制がそれを象徴している。 (..5za„は西ドイツを抜き、アメリカに次ぐ西側 ところで、日本における資本主義的工業化の国際金本位制の崩壊による世界経済のプロックその対外的枠組みを確定したのである。 内実は、右の政府主導によるものではなく、一化と、資本主義諸国の国家独占資本主義への移〔高度経済成長期〕単一保守党としての自由民世界第一一の「経済大国」に成長した。 しかし、この過程は内外両面でさまざまな矛 八〇年代末から九〇年代を通じての、主とし行を促したが、日本では、三一年の金本位制停主党の発足、講和問題で分裂していた社会党の かわせ て関西地方の地主・商人の手による近代的綿糸止による為替下落↓輸出急増と、満州事変に始統一、共産党の極左方針の清算によって、政界盾を激生した。すなわち、対外面では、輸出の 伸張がアメリカや西ヨーロッパ諸国との貿易摩 紡績業の移植とその確立によってもたらされまる中国侵略戦争下の軍需インフレによって、 の「五五年体制」が成立した一九五五年に始ま た。それは、原料綿花を主としてインドに依存 いち早く不況からの脱出に成功し、重化学工業る経済の高度成長は、戦後改革と片面講和によ擦、発展途上国の反発を招き、ドル危機のいっ って形成された国内的・対外的枠組みに、重化そうの深化を促進して、一九七一年八月のニク し、製品である綿糸布を中国をはじめとするア化も進んだ。 ソン新経済政策による旧体制崩壊の一因 ジア各地に輸出し、アジアにおける日本の先進 しかし、輸出の急増と中国侵略は、欧米列強学工業という内容を盛り込む過程であった。 とくにアメリカ、イギリス両国との帝国主義的 産業構造の重化学工業化は、鉄鋼・造船・重となった。国内では、クリーピング・インフレ 工業国としての確立を担った。 しかし、鉄鋼、機械など重化学工業の確立は 対立を激化した。それに対して、政権を手にし電といった古典的重工業、戦間期のアメリカでの加速、公害、農業の荒廃と過密・過疎などの 社会問題を深刻化させ、それは政治過程にも反 困難で、その製品は紡績機械を含めて欧米諸国た軍部ファシストは、ドイツ、イタリアのファ確立した自動車・家電など耐久消費財工業、さ からの輸入に依存せざるをえず、他方、在来の シスト政権と枢軸を結んで戦争の拡大で対抗、らには合繊・石油化学・電子・原子力などの新映して自由民主党支持率の低下、都市部におけ 中小・零細企業で生産される生糸の対米輸出が第二次大戦に突入した。緒戦の優勢にもかかわ産業がほとんど同時並行的に形成される形で進る革新自治体の簇生を招いた。 公害規制と福祉優先の政策を推進した革新自 成長することによって、対欧米諸国との関係でらず、彼我の経済力の差によって、戦争の長期み、その裏面で綿と生糸に代表される戦前の中 心産業は斜陽化した。安価な中東原油の流入に治体に触発されて、政府もその後を追ったが、 は半製品輸出・工業製品輸入という後進国的連 化とともに枢軸側は敗勢に転じ、一九四五年ド 関が形成された。 ィッ、日本の連合国への無条件降伏によって日 よってエネルギー革命が進み、石炭鉱業も斜陽「五万円年金」とその物価スライド制が実現し 化した。こうして産業構造は戦前のそれから激「福祉元年」がうたわれたまさにそのとき、一 こうした対外連関の二面性に加えて、国内で本帝国主義は崩壊した。 も移植産業である機械制大工業と在来産業であ〔戦後期〕〔戦後改革と経済復興〕敗戦と同時変したが、これを可能にしたのが、為替管理に九七三年秋に勃発した石油危機によって、二〇 年近く続いた高度成長時代は終わりを告げた。 に日本は連合国 ( 実質的にはアメリカ ) の占領 よる国内市場の保護を前提としての、アメリ る中小・零細企業、さらには地主制を伴った小 〔石油危機以降〕石油危機は先進諸国を激しい 農経営という、産業・企業の重層構造が形成さ下に置かれ、そのイニシアテイプのもとで一連カ・プロックからの技術と資源輸入、国内の豊 れ、それが確立期日本資本主義の構造的特質との戦後改革が実施された。それは、経済面にお富で良質の労働力、家計の高貯蓄率による間接スタグフレーションに陥れ、日本も一九七三年 よっこ。 秋から七四年にかけて、二桁インフレと戦後初 ける財閥解体、農地改革、労働改革、財政・金金融と資本蓄積優先の柤税・財政構造であっ 〔早熟的帝国主義の挫折〕一九世紀末からアジ融制度改革・のほか、国民主権、基本的人権およ た。この過程で、戦後解体された財閥も独禁法のマイナス成長を記録した。 厳しい総需要抑制によるインフレ沈静のあ アを舞台に本格化した帝国主義列強間の角逐び戦争放棄を三大原則とする新憲法の制定に象体制のもとで企業集団という形で再編され、機 は、年若き日本資本主義をも巻き込んだ。印徴されるように国家・社会のあらゆる面での変械工業を中心に中小企業の近代化とその親企業と、大量の国債発行による財政スペンディング しん と、企業で進められた省資源、省力、金融コス 清・日露戦争に勝利した日本は、台湾、朝鮮、革を含むもので、これによって日本資本主義との新しい系列化も進んだ。 からふと は、戦前の権威主義的な、また戦中のファッシ こうした経済力の向上を背景に、日ソ国交回ト削減の減量経営、それに一九七八年ごろ開花 南樺太を植民地化し、幕末の不平等条約を解消 ふっしよく して自らの帝国主義化を目ざし、軍備拡張を図ョ的色彩を払拭し、戦間期ドイツのワイマー 復 ( 一九五六 ) や、より双務化された内容への日米したマイクロエレクトロニクス技術による技術 った。しかし、そのために不可欠な重化学工業ル体制やアメリカのニューディールに源流をも安保条約の改定 ( 一九六 0 ) が実現した。この安保革新が重なって、日本経済は先進国のなかでは やはた 相対的に好ましいパフォーマンスを実現し、七 化は民間では担えなかったため、官営八幡製鉄っ福祉国家の枠組みをもっこととなった。 改定をめぐっては大衆運動を背景とした厳しい ・一うしよう し この間、敗戦直後の悪性インフレと農工生産政治的緊張が生じ、同時に闘われた三井三池炭九 ~ 八〇年に再発した第二次石油危機も比較的 所や軍工廠など政府の負担で進めざるをえず、 ん日露戦費負担も加わ 0 て、日本資本主義は一九の激減により飢餓線上に陥 0 た日本経済は、傾鉱の大争議と連動したが、その敗北後、政治主軽微な影響で克服した。その際、企業別組合に 〇七年 ( 明治四〇 ) 恐慌以降、慢性不況と外貨斜生産による生産復興、ドッジ・ラインによる義的労働運動は退潮し、「所得倍増計画」を打基礎を置く日本的労使関係が大きな役割を果た し、それが国際的な注目を集めた。 危機に陥った。第一次大戦によるプームが一時インフレ終息を図ったが、その復興を決定的にち出した政府・財界の高度成長路線に飲み込ま ざせつ ばつばっ

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たちばなこうぎぶろう 〈北川建次〉 8 、フ片麻痺、意識障害をきたす。進行すると、大孔や開腹手術を行うことがある。↓尿毒症↓人本主義が現れた。権藤成卿、橘孝三郎によっ四四。↓能美島 えたじま 〈土田正義〉て唱えられた農本自治主義である。権藤が一九囮二万五千分の一地形図「江田島」 月がエ透析 まへルニアを合併する。大孔ヘルニアでは、ソ凶、ゝ 大孔に嵌入して延髄を圧迫し、意識障害、呼吸嚢胞性肺疾患のうほうせいはいし。かん異三二年の血盟団事件に連座し、橘が同年の五・能美島のうみじま広島県西部、広島湾内に ひとのせ 一五事件に七名の「農民決死隊」を率いて参ある島。東部は飛渡瀬の地峡によって江田島と 麻痺、血圧の上昇、徐脈 ( クッシング現象 ) を常に拡張した嚢胞が肺に証明される状態をい はやせのせと ′、、り 11. し しゅよう の、つよう 、肺膿瘍、肺結核、肺腫瘍などによって二次加、無期懲役の刑に処せられたことから農本自連なり、南東部は早瀬瀬戸を挟んで倉橋島に対 おこし、合併する髄液や血液の循環障害はこれ 治主義は一躍注目を浴びた。現代史のうえで農するが、早瀬大橋によって連絡している。面積 らを増悪させて死を招く。他の大脳鎌ヘルニア的におこった肺組織の破壊による空洞は除外さ 本主義とは、この農本自治主義をさすことが多四八・七平方キ。で、広島湾内では倉橋島に次 や蝶形骨縁ヘルニアは脳実質が広範に脱出するれる。次のように分類するのが一般的である。 ぐ。北西から南東方向に細長い島で、中央がく 農本自治主義は、権藤成卿の『自治民範』 ことはなく、これだけで重篤な症状を呈するこ ①肺胞性嚢胞肺胞の拡張したもので、しばし 北部を西能美島、南部を東能美島 とがほとんどない。 ば肺胞壁が破れて多くの肺胞が融合し、大きな『農村自救論』、橘孝三郎の『日本愛国革新本びれており、 と ) い , っ 治療は、早期に脳ヘルニアの徴候をキャッチ嚢胞となる。プレプ bleb とプラ bulla に分義』『皇道国家農本建国論』などの著書のなか やよい 島内からは弥生時代、古墳時代の土器が発掘 けられる。・フレプは表在性で胸膜直下の嚢胞をで展開されている。権藤のそれは、彼の「制度 して進行を予防することが第一となる。また、 しよう されており、平安後期には能美庄であった。行 、プラは深部にあるものをいうが、プレプ学」と結び付いた特異なもので、大化改新によ 原因となる疾患の治療に加えて、頭蓋内圧を下 さえき おおがき って実現したとする「公民自制自治」を理想と政的には佐伯郡沖見、能美、大柿の三町からな 降させるための過換気療法、頭蓋内圧下降剤は小さいものをさし、。フラはそれより大きいも くれ はいせん ( マニトールやグリセオールなど ) による治療、のを意味することもある。肺尖のプレプから進し、資本主義の中央集権を排し、政治組織は農り、広島、呉両市への通勤・通学者が多い。丘 陵地の多い島内は階段状に耕作され、ミカン栽 ステロイド療法、バルビッレート療法、低体温行性に増大して一側肺の半分あるいはそれ以上村を中心とする自治制にすることを主張してい ひるい を占めるものを、消えゆく肺 vanishing lung る。国家主義を論難し、「我日本を賊する匪類、培のほか、花卉・野菜栽培、近海漁業、カキ・ 療法のほか、髄液ドレナージ、内・外減圧術、 きゅうてき 同胞庶民の仇敵」とまでいっている。橘のそノリ養殖が行われる。人口二万三九四三。↓沖 側頭葉切除、テント切痕切開などの外科療法をとよぶ。 〈北川建次〉 〈加川瑞夫・篠原豊明〉 気管支性嚢胞多くは先天性であり、孤立性れは、農村自治を主張する点では同じである見 ( 町 ) ↓能美 ( 町 ) ↓大柿 ( 町 ) 打 , つ。 おお にのしま ちよりゅう 囮二万五千分の一地形図「似島」「江田島」「大 の , っ - は , っ が、権藤ほど復古的、反資本主義的ではなく、 一般に、病的に形成されたで比較的大きく、液が貯留している場合が多い 嚢胞 君」 液体などを入れたふくろ状の構造を総称する ③嚢胞性気管支拡張気管支が嚢状に拡張するまた、ある程度機械工業や経済を統制する国家 しゅよう ものである。 権力の存在を認めている。昭和初期の農村の危曲辰民運動のうみんうんどう peasants move- が、腫瘍性格が否定される点で嚢腫とは区別さ じんぞう ment 広義に定義すれば、農村更生連動、農 れる。肝臓・腎臓などに先天的に認められる場 ④感染後遺嚢胞ブドウ球菌などの感染が原因機、農民の極度の貧窮化の状況のもとで、農村 村の婦人や青年運動、あるいは農民のレクリエ 〈山口智道〉 自治主義が一定の影響を与えたことは否めな 合もあるが、臨床的にはほとんど意味のないもで後天的に生じた嚢胞をいう。 ーション運動などを含むであろうが、普通は、 い。ただ、これを日本ファシズム運動の支柱と のが多い。腺の排泄管がなにかの原因で閉塞さ 農本主義のうほんしゅぎ農業こそが社会、 かんくうちよりゅう れると、排泄物が管腔に貯留してふくろ状にあるいは国の本であるという思想、およびこのまで評価する説もあるが、国家改造運動の主流労働運動と同様、階級としての農民が自らの労 しゅうめい 農本思想に基づく政治上の主義、主張。元来をなした北一輝、大川周明その他の思想には働条件や経営条件の維持・改善・拡張を、ある 大きくなり、嚢胞を形成することが少なくない。 いは社会的・政治的生活条件の維持・向上を図 は、封建社会の矛盾を反映して出現したもの農本自治主義がまったくみられないことや、右 このような嚢胞は貯留嚢胞あるいは停滞嚢胞と ききん だえきせん かれんちゅうきゅう り、団結して行う組織的闘争のこと。したがっ よばれる。ロ腔底に好発する唾液腺由来のガマで、領主の苛斂誅求や、天災地変による飢饉翼運動の実態を事実に即してみれば、そのよう ろほう 卿↓日本改造て広義に解した場合、しばしば農民組合運動と な評価は認めがたい。↓権藤成 腫、子宮筑管腺のナポット濾胞、卵巣の卵胞嚢の惨状などの見聞を動機として考え出されたも しようえき 〈大野達三〉本 目互互換的によばれることが多いが、狭義に解 のが多い。江戸時代の思想家安藤昌益、佐藤法案大綱 胞、黄体嚢胞などがこの例である。〈渡辺裕〉 のぶひろ のうはうせいじんしつかん した場合、農民の階級闘争ということができ 信淵、二宮尊徳などの思想や主張は、農民の窮回山本彦助「国家主義団体の理論と政策」 ( 『思 嚢胞腎のうほうじん 0 嚢胞性腎疾患 想研究資料特輯』第八四号所収・一九四一・司法る。↓階級闘争↓労働運動 のうほうせいじんしつかん嚢乏をどう救済するかという発想から発展したも 嚢胞性腎疾患 〔資本主義体制下の農民運動〕〔先進資本主義 省刑事局 ) ▽木下半治著『日本右翼の研究』 胞腎と腎嚢胞の二つがあり、病理学的にも臨床のである。 諸国の農民運動の前史〕農民運動の典型的形態 ( 一九七七・現代評論社 ) 明治維新以後、天皇制政府は、農業と農村を 的にも異なる。嚢胞腎は先天的に大小多数の嚢 しようど しょ ) つず 小豆郡は資本主義社会における小生産者としての農民 胞が形成された腎をいう。通常、両側性で、重視するかのような農本主義的思想をしばしば 苗羽のうま香川県小豆島南東部、 肺、肝臓、脾臟、膵臟などにも嚢胞を合併する振りまいたが、寄生地主制など農村の封建的要内海町の一地区。旧苗羽村。島しようゆの主産の運動である。資本主義的生産の発展は農業を も自らの運動法則のもとにとらえていく。その ことがある。病状が高度に進展すると腎機能障素を取り除かす、これを天皇制の一つの経済的地として知られた。↓内海 ( 町 ) ずいまくえん 結果、旧来の小生産者としての農民を分解させ 害を伴うため尿毒症の症状を示すようになる。基礎として資本主義を発展させた。この半封建脳膜炎のうまくえん 0 髄膜炎 治療は保存的に治療するが、悪化すれば人工透的土地所有制下の農村は、低賃金労働者と兵士能美 ( 町 ) のうみ ( ちょう ) 広島県西部、佐伯ていく ( 農民層分解 ) 。農民層の分解は農業の 析や腎移植を必要とする。腎嚢胞は腎に孤立性の豊かな供給源となり、農民は収奪に苦しみ窮郡の町。広島湾内の能美島の中央部を占める。資本主義経営者と農業労働者を生み出した。農 かのかわ たかたなか に嚢胞が形成されたものをいう。まれに多発之を続けた。とくに一九二七年 ( 昭和一 l) から一九五五年 ( 昭和三〇 ) 鹿川町と高田、中の一一民層の分解と農業の資本主義化がもっとも典型 性、多房性、両側性のことがある。多くは無症繰り返された大恐慌は、農村に壊滅的打撃を与村が合併して成立。中央部には低地が広がる的に形成されたのはイギリスである。そこでは しゆりゅう 状であるが、増大すれば側腹部痛や腹部腫瘤え、なかでも東北、北海道などの寒冷地帯でが、東部と西部は山地となっている。北部の中農業は小生産者の徹底的分解によって、基本的 には農業資本家、農業労働者、地主の三つの階 が現れ、ともに血尿を示すことがある。しかし は、飢え死に、凍死、自殺、一家心中などの地町港と広島市宇品との間に高速船やフェリー 通じている。温暖な気候を利用して切り花の栽級に編成替えされていった。したがってイギリ 獄絵が現出した。 一般に全身状態や腎機能に障害をきたすことは 培が盛んで、ミカン栽培やカキの養殖も行われスにおいては、小生産者としての農民の存在は こうした状況も反映して、昭和初期には、し ない。治療は、嚢胞が小さければ必要ないが、 せんし とうつう 少ないので、農業面における勤労大衆の農民運 大きくなって疼痛などの訴えがあれば経皮穿刺わゆる昭和維新、国家改造運動と結び付いた農る。広島市への通勤・通学者も多い。人口七二 せんはいせつ うちのみ きたいっき ごんどうせいけい さ - えき ぎみ

5. 日本大百科全書 18

〔電信・鉱山騒擾〕電信敷設が電柱材の徴発、生産物のすべてを収奪しえないようになると、 のうみんぶんがく農民の生活現実 2 農民文学 ん他方政府は、先進資本主義諸国の圧力に促され み・て資本主義的生産様式を採用すべく、殖産興業電柱建設用地の強制的収用などの方法で行われ農民は小商品生産者として相互に商品交換関係を農民の主体的な立場から表現しようとする自 4 政策のもとに鉄道・電信・電話の敷設、鉱山のたことに対し、」 量反対、電柱破壊、通信妨害を取り結ぶようになり、一定の広がりをもった覚が、「文学」一般からとくに「農民文学」と いう批評精神ないし目的意識を伴った用語を導 の官収などを進めた。これらの諸事業に対してなど、電信騒擾が展開された。また地租改正反農民的商品経済が成立する。こうした商品経済 も、それに反対する電信・鉱山騒擾が激烈な形対一揆などにおいても、しばしば電信局・電柱のなかに農民層が巻き込まれると、それそれのき出してくるわけだが、もとよりその概念の胎 態で爆発した。 などが破壊の対象となった。鉱山の官収は、旧農民の生産する商品の個別的価値と市場価値と動、成立、展開には歴史的な背景がある。 このような政府の諸政策に反対する一揆・騒慣の改革とともに、囚人労働と監獄部屋の採用の間の格差 ( 農民各自の条件の差 ) に基づい 〔日本〕そういう意味で、日本の近代文学作品 擾の高揚は、この時期の政府対全人民という基といった過酷な労役形態を生み出した。それにて、富裕化する農民と貧困化する農民とへの分のなかに農民や農村が描かれるようになるのは さど どっぱ 本的対抗の発現であったが、他方での士族反乱反対して、野・佐渡・高島などの鉱山・炭鉱解が生じる。この分解は、封建社会をある程度ほば一九〇〇年 ( 明治三三 ) 前後、国本田独歩、 かたい とうそん の続発と相まって、政府を大きく動揺させると において、激烈な鉱山騒擾が展開された。これまで解体せしめるが、封建的諸関係がなお存続田山花袋、島崎藤村ら後の自然主義系作家から たかし ともに、自由民権運動の全国的展開の前提を形 らの騒擾は、上からの資本主義の採用に伴う収して農民的商品経済が制約されている場合にである。ついで伊藤左千夫、長塚節ら写生文系 成した。さらに明治一〇年代後半に入ると、 奪に抵抗する、本源的蓄積期に典型的な騒擾では、なお本格的に進行することができず、富農の作家も農民の生活や農村の風物を取り上げる まやませいか わゆる松方デフレ下の深刻な不況は、農民の急あった。 の地主化と貧農の小作化に帰結する場合があるようになる。日露戦争後の真山青果『南小泉 わいきよく 速な没落をもたらすことになり、負債返弁騒擾〔負債返弁騒擾〕松方財政下での紙幣整理によ ( 農民層分解の歪曲、地主的分解と名づける説村』、中村星湖『少年行』などは当時の代表的 が各地で展開された。この騒擾は自由民権運動るデフレの急速な進行と地方税増徴によって、 もある ) 。しかし、生産諸力のいっそうの発展な作品で、とりわけ長塚節の「土』は日本農民 の激化の基盤をなしたが、短期間に終自 5 したの きわめて深刻な不況が、一八八 一年から八五年 によって農民的商品経済が封建的諸関係の制約の典型を描いて農民文学の一つの頂点を示し にかけて進行した。これにより多くの農民が、 ち、地主制の成立とともに小作争議へ転換して を破ってさらに発展するようになると、農民層た。その批評文のなかにはすでに「農民小説」 いった。↓自由民権運動 多額の負債を抱え急速な没落を余儀なくされての分解は本格的に進行し、一方の極には資本家などの語も見当たるが、一方、片山正雄の『郷 〔学制反対・徴兵令反対一揆〕学制と徴兵令 いった。この状況のなかで、負債の据え置き・ 的経営を営む農村。フルジョアジーが、他方の極土芸術論』などドイツの「郷土芸術」の紹介 おおっき は、農民に過重な負担を強いるものであった。長期年賦償還、公租公課の軽減などを要求し には賃労働者化する農村プロレタリアートが、 も、千葉亀雄や大槻憲二らに受け継がれて次代 学校費の負担は過重であったし、児童の強制的て、高利貸その他を襲撃したりする負債返弁騒それそれ成長する。この分解をとくに農民層の への伏線となった。大正期に入ると、有島武郎 登校は労働徴発的な意味をもった。また、三か 擾が、八三年から八五年に集中して、とくに蚕両極分解 ( またはプルジョア的分解 ) と名づけや宮沢賢治による優れた農民文学も現れてい 年間の兵役義務も労働賦役的性格の負担となっ 糸業の発展していた地域を中心に各地で頻発し る場合が多い。この分解は、封建社会を最終的る。 た。こうした負担に反対して、学制反対一揆 た。地域によっては、困民党・借金党といった に解体せしめて、農業においても工業において 三 ) のこ 一九二三、二四年 ( 大正一二、 は、学校費の引下げ、小学校廃止などを要求組織の集団的・組織的活動として展開された。 も資本主義的生産様式を形成せしめる起動力たろ、農民文学は農民の立場の主体的な表現を求 し、徴兵令反対一揆 ( 血税一揆 ) などとも重な この騒擾は、しばしば自由民権運動の展開と重るものである。 める文学としていっそう自覚的、意図的にな ちちぶ うちこわし り合いつつ、小学校の打毀などとなって展開なり合い、秩父事件などのいわゆる激化諸事件 しかしながら、歴史上、農民層が完全に両極り、農民文学運動として展開する。一九一三年 おうみ たかまつやまのうち上しお した。徴兵令反対一揆は他の諸要求とも結び付の基盤となった。しかしそれは、松方デフレの に分解してしまうことはむしろまれであって、暮れ、小牧近江、吉江喬松、山内義雄、中村 いて、徹底的な打毀、焼打ちといった激烈な形終息とともに姿を消し、明治二〇年代以降、成資本主義社会が成立したのちにも小生産者とし星湖らによって企てられたフランスの作家シャ 態をとった。この二つの一揆は、過重な負担に 立した地主制のもとでの小作争議へ転換してい ての農民層が大量に存続する場合が多い。こう ルル・ルイ・フィリップ一三回忌記念講演会が った。↓小作争議 〈近藤哲生〉 対する反対という点で、地租改正反対一揆と共 した農民層は、その後、資本主義の作用によっ きっかけとなって同好の志の糾合が呼びかけら しげる 通する性格をもち、地柤改正反対一揆に受け継回土屋喬雄・小野道雄編『明治初年農民騒擾てさらに分解されることになる。だが、イギリ れ、これがやがて吉江、中村および犬田卯らの たけおしろとりせいご がれていった。↓血税一揆 録』 ( 一九五三・勁草書房 ) ▽青木虹一一著『明治 ス以外の相対的後進資本主義国においては、資ほか加藤武雄、白鳥省吾、石川三四郎、和田 っとう ぎしゅう まあしとなじゃりた 〔地柤改正反対一揆〕旧貢租と変わらぬ高額の 農民騒擾の年次的研究』 ( 一九六七・新生社 ) ▽本主義はかならすしも農民層の分解を完成せし 伝、中山義秀、帆足図南次、鑓田研一、黒島 としろう 予定地柤を上から強力的に押し付ける形で進め 同編『百姓一揆総合年表』 ( 一九七一 ・三一書房 ) めるものではなく、低廉な労働力の源泉として伝治、佐左木俊郎らを会員とする農民文芸会に られた地柤改正は、一八七六年をビークにして ▽佐々木潤之介編『日本民衆の歴史 5 世直の過小農の大群を残存せしめたり、劣悪な小作発展、同会編になる『農民文芸十六講」も刊 全国的に農民の強力な抵抗を引き起こした。こ し』 ( 一九七四・三省堂 ) ▽江村栄一・中村政則 制度を存続せしめたりする場合が多い。とくに 行され、二七年 ( 昭和一 D には機関誌『農民』 の一揆は、増租に対する反対 ( 地租軽減 ) の要 編『日本民衆の歴史 6 民権と国権の相剋』独占資本主義の段階に入ると、農民層の分解は も創刊された。同じころ黒島は別に『地方』 求を基本として、地主を含む広範な農民を結集 ( 一九七四・三省堂 ) さまざまな歪曲を受け、今日の多様な農業問題 ( 『地方行政』の改題誌 ) に深くかかわってこ differenti- のうみんそうぶんかい して闘われた。そのなかで、七六年における一 がもたらされている。 〈遅塚忠躬〉こをも農民文学連動の一つの拠点としており、 農民層分解 わせだ 揆の激発は、地柤率の引下げの成果をもたらし ation of peasantry 農民層の分解について回レーニン著『ロシアにおける資本主義の発また二六、二七年のころには『早稲田文学』 た。地租改正反対一揆は、農民一揆の分散性をは、封建社会において領主・農民関係を再生産 展』 ( 山本敏訳・岩波文庫 / 副島種典監訳・ 『文芸戦線』『文芸』『文章倶楽部』などが競っ 止揚する方向を内包していたが、結局は農民一していくような分解 ( 封建的分解 ) の存在を主 大月書店・国民文庫 ) ▽高橋幸八郎著『近て農民文学特集号を編み、加藤武雄、木村毅、 揆の枠内にとどまったところにその限界が存在張する説もあるが、それは通説となっていない 代社会成立史論』 ( 一九四七・日本評論社 ) ▽石藤森成吉編の『農民小説集』も出されるなど、 した。とはいえ、この一揆の体験は農民の政治 ので、ここでは、封建社会の解体期における分 渡貞雄著『農民分解論』 ( 一九五五・有斐閣 ) ▽大正末・昭和初年の農民文学運動は文壇のかな 的成長を促し、自由民権運動の発展を準備する解と資本主義成立後の分解とについて述べる。 土地制度史学会編『再生産構造と農民層分り深部にまで浸透した。 しかん ものとなった。↓地柤改正反対一揆 封建的支配が弛緩して封建地代が農民の剰余 解』 ( 一九六一・御茶の水書房 ) 運動始発後の農民文学は大地主義、郷土芸

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としよう。その際、工業であれば、生産されるの ) を要求し、農産物価格は費用価格プラス地本の農民の大部分は自作農に転化し、優良地を補正型 ) と市場介入型 ( 市場価格誘導型 ) に二 すべての商品の価値水準は均等となり、個別的代 ( ) の水準に形成され、より優良地では経営する農民は地代相当の超過所得を得ること分される。前者には不足払い方式 ( 交付金制度 ー大豆、菜種、加工原料乳など ) と安値補填方 となった。しかし、全農家一戸当り平均農業所 価値と社会的価値の水準は一致し、各資本家「費用価格」を超える全超過分が地代として地 得は、労働者五〇〇人以上の大規模製造工業の式 ( 安定基金制度ー野菜、肉用子牛など ) が、 は、不変資本 (u) + 可変資本 ( / ) + 平均利主に支払われることとなる。 さらに、小農民経営はしばしば資本主義のも労働者の時間当り賃金を一〇〇とすると、一九後者には需要調整方式 ( 最低価格保証制度ー麦 潤Ⅱ生産価格、を均等に実現しうる。 ところが、工業と違って農業では、土地が重とでの過剰人口滞留の重要な場となっており、六〇年代末まではその六五 % くらいの水準へと類、砂糖類など ) 、供給調整方式 ( 抑制価格制 要な生産手段とされ、経営に用いられる個々のそのことと結合して過小経営を多く含む。ま上昇して農工間の格差を縮小するが、七〇年代度ー飼料など ) 、需給調整方式 ( 安定帯価格制 以降、日本の独占資本の力が強大になり、外国度ー食肉、繭・生糸、乳製品など ) が含まれ た、資本主義の展開のもとで独占資本が農民に 土地は豊度や市場への位置が異なる。したがっ 〈藤谷築次〉 て、農業資本家の資本条件がかりに均等であっ生産手段を供給し、農民の農産物を購買するこ農産物の輸入が増大し、農産物の過剰傾向が強る。 のうさんぶつきかく農産物にお ても、豊度が異なり、産出される農産物の量に とも多い。このような場合、農産物価格形成に まるもとで、ふたたび格差を拡大して四〇 ~ 五農産物規格 〈暉峻衆三〉 いて、流通の円滑化、取引の簡素化・公正化を 差があると、個々の農産物の個別的価値の水準おける自家労賃部分 ( / ) は、しばしば資本主〇 % の水準に低落した。 は異なってこざるをえない。 こうして、農産物義のもとでの重層的賃金構造の最底辺部の回常盤政治著『農産物価格政策』 ( 一九大・家の図るため定められる品位、形量および包装など の規準をいう。代表的なものに日本農林規格 光協会 ) ▽吉田忠著『農産物の流通』 ( 一九 の場合は個別的価値と社会的価値との間に乖離「レ」相当のものでしかない。そこでは、農民 天・家の光協会 ) ▽暉峻衆三・中野一新編があるが、この規格は農産物加工品 が生じ、社会的需要を満たすのに必要な最劣等は貧困を余儀なくされ、しかも貧困であるため に対するものが主であり、大部分の農産物には 『講座今日の日本資本主義 8 日本資本主 地での農産物の個別的価値が、その農産物全体 に農業労働の生産性を高めるための投資をする 義と農業・農民』 ( 一九全・大月書店 ) ▽花田定められていない。現在、農産物規格には、国 ことができず、農産物の価値、したがって価格 の社会的価値を規定することとなる。 仁伍著『日本農業の農産物価格問題』 ( 一九や国に準ずる機関によって定められる標準規格 このようにして、農産物価格が社会的価値に 水準は高く押し上げられたままその低下が阻止 っ 天・農山漁村文化協会 ) ▽御園喜博著『農と、府県や生産者団体などが自主的に設定する より規定されることによって最劣等地の農業資される。また、農民は貧困であるために、、 自主規格とがあり、同じ呼称で格づけされてい 産物価格形成論』 ( 一九七七・東京大学出版会 ) 本家は生産価格を実現するが、より優良地を経そう農業労働を多投して農産物を増産し、それ のうさんぶつかかくしてもその規準はまちまちで一元化されていな によって農業所得を増大させようとするため、 営する資本家には生産価格を超える超過利潤部 農産物価格支持制度 。これは、農産物の種類や特性によって規格 じせいど農産物の価格問題は価格変動問題と 分が発生することとなる。この優良地が借地経かえって農産物価格の一段の低落と農民の過労 価格水準問題に大別されるが、両者ともに生産が設定されてきた背景および方法が地域や産地 営である場合には、平均利潤を超えるこの超過を招くことが多い。また、農業所得を補うべく 利潤部分は差額地代として地主の手に渡る。さ きわめて低賃金で農業外に出稼ぎすることも多者の立場と消費者の立場で問題認識の基準が異ごとで異なっているからであり、とくに野菜や なる。価格変動問題の焦点は、生産者視点では果実などでは、品種・系統が多様で個体差が大 らに、最劣等地も借地経営である場合は、その 。さらに、零細農民経営が借地で行われると きいこと、産地間競争が激しく製品差別化傾向 地主は土地所有の独占に基づいて、この最劣等きは、農民の最低限の肉体的再生産しか可能と生産者価格の暴落という問題であり、消費者視 、、ことなどから、各産地ごとで独自の自主 点では消費者価格の暴騰という問題である。両カ弓し 地についてもなにがしかの地代 ( 絶対地代 ) をしない自家労賃部分を超える全剰余が地代とし 要求し、農産物価格は生産価格水準を超えてあて地主の手に収取される。ここでは小作農民の者は表裏の関係にあり、価格変動系列としては規格が設けられることが多い 一方、標準規格は、それが定められる背景と る程度高まらざるをえない。 低所得・貧困と地主の高地代とが並存すること一体のものである。ただし、消費者価格の変動 なる法律や普及主体が農産物によって異なり、 率よりも生産者価格の変動率のほうがはるかに ところで、日本をはじめ多くの資本主義国でとなる。 たとえば、野菜は野菜生産出荷安定法により野 は、農業生産の中心的担い手は資本家ではなく 小農民経営はもちろんのこと、資本家的農業大きいから ( 固定的な流通マージンが大きなウ ェイトを占めるため ) 、生産者価格の変動問題菜供給安定基金が、果実は農林水産省の委託に て家族労働力を主体とした小農民経営である。経営も、非農業部門に比して一般にその経営 こういった農業がより深刻になる場合が多い。生産者価格が変より日本園芸農業協同組合連合会が、牛肉や豚 この場合、小農民が自作農であるとすると、彼 ( 資本 ) 規模は格段に小さい すうせい は小地主、小資本家、賃金労働者という三つの経営がひとたび恐慌に巻き込まれ、農産物価格動時であっても、変動を貫く価格の趨勢値が生肉は「畜産物の価格安定等に関する法律」によ り日本食肉格付協会が、それそれ規格の設定や 性格を兼備している。しかし、自作小農民が農の激落にみまわれると、彼らは破滅にさらさ産者の立場からみて適正な水準にあるならば価 業生産を継続する最低限度の条件は、一般に、れ、社会体制としても危機に陥る。こう、つこ しオ格水準問題は生じないが、現実には多くの農産普及を行っている。標準規格設定の目的は、初 不変資本 (u ) に相当する「本来的費用」を差事態を避けるために農産物価格支持政策が本格物について価格水準問題が発生している。問題めは、政府が価格支持等で市場に介入する際の 目安を定めることにあったが、現在では規格取 し弓いたのちに、自分自身に支払う労賃部分 化される。一九二九年恐慌以降の事態がそれで認識の基準は生産費水準との比較である。 引の普及および一元化を図ることに重点が置か 農産物価格支持制度は、狭義には後者の価格 ( ) が得られることであり、小資本家としてある。 の平均利潤や小地主としての地代をかならずし〔日本における農産物価格形成〕いま、日本の水準問題に対処するための制度であるが、広義れている。一般に農産物規格には、野菜や果実 には農産物価格安定制度と同義と考えることものように、形状色沢、病虫害の有無などの品位 も必要としない。 このようにして、自作小農民農産物全体を一括してその価格形成をみると、 のもとでは、農産物価格は一般に最劣等地での地主制度が優勢であった第二次世界大戦前 ( 農できる。「価格安定」は政策用語としては価格規準と、重さ、大きさなどの大小規準との二 平均的経営の「費用価格」 (u + レ ) の水準に 地改革前 ) には、小作農民が農産物価格から受変動の抑制と価格水準の適正化の両者を意味すつの規準によって、それそれ「秀・優・良」 け取る農業所得〔農業粗収益マイナス農業経営る。農産物価格安定制度は市場統制型と市場活「»-2 ・・ TJ 」などの呼称で格づけされるもの 形成され、より優良地の自作小農民の手元に と、牛肉や豚肉などのように、外観、肉質、重 ん 用型に大別される。前者は政府 ( または政府機 は、地代に相当する、費用価格を超える超過所費 ( 肥料、農機具、飼料などの物財費に支払小 関 ) が需給と価格を直接管理する方式で管理価量などが総合的に加味されて「上・中・並」と 六、得が得られることになる。また、小農民経営が 作料を加えたもの ) 〕は、せいぜい労賃水準と いった呼称で格づけされるものとがある。近 7 、フ借地のもとで行われる場合には、最劣等地につしては最低の部類に属する農業日雇賃金相当の格制度 ( 米、葉たばこ ) とよばれる。後者の市 のいても地主はなにがしかの地代 ( 絶対地代相当自家労賃にすぎなかった。農地改革を契機に日場活用型はさらに市場不介入型 ( 市場価格事後年、農産物の生産・流通の大量化・大型化に伴 3

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にほんし 〔図 M 〕家制 ( 立憲君主 ) 国家の理念 すいこてんじ 叫ばれ、いわゆる「興亜論」が台頭した。とこ期 ( 古代 ) の初め、推古・天智のころの過渡期 的思考を排斥しえた。徳川幕府の名宰相 ( 老この延長にくるものといってよい さだのぶ 中 ) 松平定信は「ことわりなきが、ことわりの こうした運動の進行する間に、この運動によろが「文明開化」の運動によって日本の近代化を経て、日本の風土における水稲農業生活に根 おおごしょ まことなり」と言い放っている。大御所時代って国家の政治的・経済的独立を達成しても、 ( 資本主義化 ) が進むと、日本はアジアの一員ざした旧来の氏族共同体 ( 閉められた原始封建 りつりよう ( 文化文政時代 ) になると、関数主義の論理は国家と民族の個性を喪失し、国民は分裂して国たる地位を脱して欧米の班に入って、欧米がア社会 ) のうえに、「北」中国伝来の律令政治の ジアに対するごとく、近隣アジア諸国に対処す体制 ( 開かれた中央集権的官僚機構 ) が積み重 その機能を存分に発揮したのである。 民的団結を失うおそれがあるという考えがおこ てんむ ってきた。おりしも自主愛国のヨーロッパの近べしという「脱亜論」が福沢諭吉によって提唱ねられ、天武天皇の改革によって上下二層は縫 明治以降の思想 代倫理と孝親忠君の日本の封建道徳の対決が文された。日本国家の二重構造は「脱亜」「興亜」合し、時とともに相互浸潤の度を進めて平安時 せつかん ありのり 〔家制国家主義の形成〕幕末に欧米の軍事的圧部大臣森有礼の暗殺を引き起こした。ここに至の論を上下に積み重ねた二重構造の対外政策と代に入り、藤原摂関時代には完全に癒着して「公 力によって国を開いた日本は、維新後ただちに って日本と西洋の短所を捨て長所をとって結合その議論をつくりだしたのである。いわゆる家 ( 宮廷貴族 ) 文明」をつくるに至った。また中 ゆきち 文明開化の運動をおこした。福沢諭吉はこの運し、世界に冠たる「新日本」の文明を建設しょ「大東亜戦争」は、現実にはアジア諸国に侵入期より後期へ移り行く過渡期のいわゆる前期武 おうにん まうげんへいじ 動の推進者であった。 うという楽天的な「国粋保存」の思想と運動が しながら、理念的にはアジアを保全するーーア家時代 ( 保一兀・平治の乱より応仁の乱、将軍義 文明開化運動は、挿入の図 *-a に示されている生まれてきた。明治三〇年代に入ると、封建遺ジアをヨーロッパの植民地たる地位から解放す政の死に至る間 ) においては、武士の思想と公 ように、国を開いて西洋の道徳を受け入れる、つ制の良風民俗であるイエを近代国家の基礎に据るーー「聖戦」である、と宣伝されたのである。家の思想との間に同様のプロセスが展開した。 まり一は個人の独立をすすめて国会を開き、一 え直し、そのうえに民主主義の政治機構と資本氏族 ( 原始封建 ) 国家の形成期に征服氏族が被もっとも、この時代の初めごろ ( 源氏将軍時代 ) においては、律令制度下の地方農村から進出し は物質的欲望を解放して資本主義産業をおこ主義の経済機構を上乗せした二重構造の国家が征服氏族をその力を弱めて温存しつつ自分の境 ) 、しらかわよりとも ほ、つ、小っ てきた武士の封建的支配関係は、後白河Ⅱ頼朝 し、これによって社会の元気を振起し、精神を構築された。明治四〇年代に入ると、この上下域を拡大していった姿を髣髴させるのである。 の協力体制によって「古代」的権力機構のなか 活発にして、国家的精神を強め、国家の独立を両層、「忠君」「愛国」の両倫理の結合 ( 縫合 ) じようきゅう かんにゆう むすび に嵌入されていた。承久の乱以後、北条執権 達成し、西洋列強と対等の地位にたって、交わは癒着にまでもたらされて、「日本の近代」国 だいじよ・つい るべくば交わり、絶っぺくば絶っ大攘夷を行家と「忠君愛国」の国民道徳が完成した ( 図 ) 。 私はこの文章の始めに、日本人の思想史はロ時代には両者が並立し、室町時代に入ると武士 う。要は国家の独立が目的で、開国は手段であ〔反体制的思想の展開〕この間に、二重構造をゴスとしての思想よりも、生活としての思想、 の支配機構が逆に公家の支配機構を包摂した が、南北朝時代で両者が縫合し、室町将車時代 るという愛国の運動であった。自由民権運動も上下に貫く家制国家主義的人間と、上部構造か イデオロギーの諸形態に融け込んだ思想を取り よしみつ ら反体制的な個人主義的人間と社会主義的人間 扱うべきであるといったが、いま改めて日本思 ( 義満・義政の北山・東山時代 ) に癒着して しんとう 期武家時代では、 が生まれてきた。 , 彼らは明治二〇年代には、国想の展開を回顧すると、神道思想の特色をなす「公方文明」をつくった。彳 , ちぎよう ろうまん 民主義、浪曼主義、平民主義を唱え、明治三〇経験的生活中心主義、共同体主義、関数主義ふたたび地方農村から台頭して一円知行の大名 年代には国家主義、個人主義、社会主義、明治が、日本思想の展開を特色づけていたことを知領国を形成した新興武士の閉められた封建的な 政治経済機構のうえに、「古代」国家の体制を 四〇年代には家制国家主義、自然主義、無政府ることができる。 つつみこみとかしこみ 主義を主張した ( 図 0)0 なおその間に、新旧思想の二重構造と、そこ 包摂・融解させた公方体制によって成長した 大正時代には第一次世界大戦によって欧米の にみいだされるイデオロギー連合と役割分担も「開かれた」全国的流通機構が積み重ねられた。 圧力が弱まり、国家の上部構造は繁栄して、家また、日本思想と日本思想史の特色であること政治体制においては、一円知行の大大名が他の 制国家主義は大正デモクラシー ( 民本主義 ) 、を知るのである。すなわち 一円知行の諸大名を統率する徳川幕藩体制が成 自然主義は大正リべラリズム、無政府主義はマ 〔日本人の思想のニ重構造〕水稲農業時代の中立したが、全国的流通機構と幕藩体制の二重構 ルキシズムとなって、世界 義 と国民大衆に向かって開か 主 マルキ 欧米外圧の弛緩 無政府主義秘 家 シズム れた政治と思想がおこって 弋次 国 の代 きた ( 図 Z ) 。 義時」 家 4 → 主 やがて昭和に入ってふた の 治争 家昭ー 下 たび外圧が強まり、戦争の 国満 続く時代になると、明治国 体 家 義弋容資本主義 家の体制とその理念が復活 主受 国君 の民権 ! 愛忠 し、天皇への忠誠、国家へ 想民欧民主主義 の奉公が熱狂的に鼓吹され思 衆 るようになった ( 図 C)O の 大 の 代 〔興亜と脱亜のニ重構造〕 大正リペラリズム 主 幕末日本が欧米の軍艦に脅皿 かされて、ことに中国のア大 国 ヘン戦争に刺激されて、日 家 本の独立とアジアの保全が 〔図 L 〕文明開化運動の精神 大攘夷 国家精神 イ↓個人主義的人間 人 資本主義的経済機構 村義 ( 自主愛国 ) 人孝親忠君 ) , 主愛 民主主義的政治機構 家 家 ー↓社会主義的人間 財産篇↑ - ・ーー↓身分篇「明治民法」 社会 民資 主本 王主 個義義物 人 欲 個人的物欲 開国 ・ 0 0 ↓マルキシズム 攘夷精神の鎮静 君 権 封建遺制の 積極保存 家制国家主義 〔図 ( ) 〕近代思想の展開 明治 30 年代 ( 日清戦争→日露戦争 ) 個人主義 社会主義 自然主義 まキ」 家制国家主義の成立 大正時代 ( 第一次大戦→「満州事変」 ) 大正リペラ リズム 自由主義 マルキ シズム

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のうそん 農村住居 間取りの変遷 rural problems に優先し、地主と小作、本家と分家という身分積の三〇 ~ 四〇 % 、多いものは六〇 % を占めるの接客空間を要求し、南側のもっともよい位置農村問題のうそんもんだい 広い土間が住居にとられていた。また、養蚕農に床をもった続き間の「座敷」が優先してとら農村社会にみられる社会問題をいう。農業問 階層が生活を規制し、村落共同体的性格の強い 集落生活が家族生活に優先した。また、大家族家、タバコ農家では、土間ばかりでなく、蚕れていた。第四に家族生活軽視の住居であるこ題、農民問題と区別されずに用いられることが と。家族の日常生活の場である勝手、納戸 ( 寝多い。あえて区別すれば、農業問題は農業に関 主義で二夫婦三世代の複合家族が多く、封建的室、乾燥場として床上部分まで使用するなど、 な家父長家族制度のもとに個人生活は「家」に生産空間が生活空間に優先していた。第二に格室 ) は裏の生活として北側にとられ、また、個する産業的、経済的諸問題を意味し、農業問題 埋没していた。 式的な住居であること。分家は、本家より大き人の生活の場としての個室さえもとられていなを基礎に生み出される地主・資本家・労働者な 。また、台所、収納設備なども不備で、浴どの諸社会階層に対する農民の立場、その生活 農村住居はこのような生活を背景として、 な住居を建てられないとか、地主と小作では屋 くつかの特徴を有する。第一に農作業中心の住 根の構造が違うなど、住居が家の身分・地位な室、便所は住居内になく、家族の日常生活にとを問題にするのが農民問題、同じく農業問題を 基礎に生み出される農村の社会・政治・文化問 って不合理な住居であった。 居であること。稲作農家では稲の収納、脱穀調どの権力の表現となり格式をもっていた。第三 わら 〔現代の農村住居〕第二次世界大戦後の農業技題が農村問題である。農民問題と農業問題はと 整、収穫物の収納、藁作業から家畜の飼育ま には接客中心の住居であること。封建的な集落 で、農作業の多くが住居の中で行われ、住居面生活は、住居に冠婚葬祭や集落の人寄せのため術の進歩と社会の発展による農村生活の変革りわけ区別しにくい。最広義には人間史全体を は、生活の容器である住居を大通して農村問題は考えられる。しかし、工業と きく変えてきている 農業の分離が進むのは封建社会末期以降であ り、それ以前の社会では、農村にかかわる特別 現代の農村住居は、①生産と 生活の場の分離、②接客の場よの社会経済問題が一般の社会経済問題から区別 り家族生活の場の重視、③個人された問題としては存在しえなかった。その意 生活の場の確保、④家事労働の味で普通に農業・農民・農村問題といえば、資 能率性・合理性の重視、⑤設備本主義化、産業化が進んで、工業、非農業、都 の近代化、などの考え方のもと市の人口が増加した資本主義社会あるいは近代 に、①生活空間としての土間の社会における問題である。 しかし、今日、農村問題は発展途上国を含め 縮小、②南面に快適な居間の確 保、③夫婦室、子供室、老人室て世界的規模で対自的な問題として現れるに至 っている。先進国の経済活動は国際性を強め、 など個室の確保、④台所の諸設 備の充実、⑤浴室、便所の住居世界的規模で活動しており、農業を主産業とす 内の設置、⑥便所の水洗化、⑦る発展途上国は先進国の工業や都市との関係で 室内の冷暖房、などが行われ、自らの農村問題を自覚しなければならなくなっ 近代化されてきている。都市住ている。その意味で発展途上国の農村問題は民 居と比較して宅地・住宅規模が族問題でもある。また、資本主義の発展、産業 化とともに農村の都市化 ( 非農業人口の増加、 大きく、居住水準の高い住居も 少なくない。構造は木造のみで都市領域の拡大、生活様式の都市化など ) が進 れ南園 ら「 , 家 行し、都市問題と農村問題が混在する形で現れ なく鉄筋コンクリート造、鉄骨 てし民 建と本 造もみられるようになり、まてくるのが今日の世界の共通現象である。 、 ) に形日 ろだ た、屋根や壁などに新建材が用〔資本主義社会の農村問題〕資本主義社会では いられ、形態も多様化してきた鉱工業の分野で資本主義的大経営が成立してく ; 、最近、緑の自然が多く美しる。しかし、農業では小農民経営が広範に存続 、世で文 棟重 い農村景観を破壊する住居が多する。その原因として、太陽エネルギーの恩恵 . 町し いことが問題となっている。 を受けるための広い土地の必要性、人為的にコ す 波続 【社「一「紫連 ントロールしにくい有機体の生産であること、 欧米の農村住居の古いもの を ' 観 は、日本と同様に農作業空間が 作物の成長に不可欠の短縮不可能な生育期間な 「、波を 外 紫屋 る どの自然的制約を一因としてあげることができ 住居の中に含まれているものが 南た救多いが、空間的に明確に分離さる。社会的原因として、土地の私的独占、資本 の出・ 特 市て れており、また、個室が確保さ主義生産における一般法則としての消費手段生 る れている点が異なる。近世以後産部門 ( 農業を含む ) の生産手段生産部門に対 。 " " 盛がよ よ は中農、小農が減少し、機械化する発展テンボの立ち後れ、小経営につきまと 宅ら 住か」 による大規模農業の富農層が増うさまざまな前近代的慣習などを考えることが 家屋や屋 加し、住居の規模も大きく、近できよう。 しかし、農業は広範に資本主義経済に巻き込 3 旧た部代化されている。〈青木志郎〉 標準的な例 1 室の竪穴住居から平地住居に 移ってにわ ( 土間 ) と板敷きの旧北村家住宅丹沢山の東麓 , 2 室構成となる。次に床上部分神奈川県秦野市に 1687 年 ( 貞享 がなんど ( 寝室 ) , おうえ ( 板の 4 ) に建てられた。三問取り広 さらにおうえの北側に , かって間型の典型的な平面で四方に よせしわ ( 台所 ) ができて四つ間型が成立下屋を葺き下ろした寄棟造の外 観は , 南関東地方の標準的な民 する 家の形である。重文神奈川県 川崎市日本民家園 曲屋の例 や へ だ・いどころ ( 土問 ) ざしき でい だいどころ 、さしき なんど て つじようい ちゃのましもざしき うまや

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ひろすけ あづち にほんじっしんぶんるいはう 長は浜田広介。六二年社団法人となる。「児童引 じ造は戦国時代までは重畳し、安土桃山時代ごろ関係がある ) 、次の時代に適応して新時代の生日本十進分類法 としよぶんるいはう よしむね いえなり きよ、つほうてん 文芸の健全な創造発展と社会文化の向上に寄与 んに縫合して、吉宗・家斉将軍時代 ( 享保・天活と思想の構造体にその肢節として組み入れら 0 図書分類法 にほんしてっし、併せて児童文芸家の社会的地位の向上、生 ま保の間 ) にようやく癒着して「大江戸文明」をれやすくなっていた。 日本私鉄労働組合総連合会 ろうどうくみあいそうれんごうかい略称私鉄総連。活権の擁護をはかること」を目的に掲げる。機 すでに早くは仏教が伝来したとき、古来の神 ヂ」生んだのである。 なお、いわゆる「明治一〇〇年」は、水稲農道は生を、新しく伝来した仏教が死を分担し組合員数約一九万五五〇〇人 ( 一久六 ) 。日本労関誌『児童文芸』を発行のほか、新人育成のた 業時代より機械工業時代に移る過渡期の前半期た。また天武天皇のころに、旧来の氏族時代伝働組合総評議会 ( 総評 ) 加盟。一九四七年 ( 昭めの児童文芸講座などを開く。日本児童文芸家 で、巨視的には水稲農業時代に属すと考えられ来の神道思想による神孫為君の大王観のうえ和二一 l) 一月一〇日、民営の鉄道・バス関係の協会賞および新人賞を設け、あわせて児童文化 功労者の表彰も毎年行う。会員数は約三八〇 るが、方解石が細分されても同じ結晶を示すよ 、新しく中国から伝来してきた儒教思想によ労働組合の連合体として発足した。一一・一スト うに、この期間もまた同様の一一重構造の様相をる有徳為君の天子観と仏教思想による十善為君後、私鉄総連は全国労働組合連絡協議会 ( 全労名、ほかに研究会員約一五〇名。〈西本鶏介〉 にほんしほんしゅぎ日本につ 示している。すなわち、徳川時代に武士の封建の王者観が積み重ねられた ( 図 0)0 さらに江連 ) に加盟、四七年七月には全日本交通運輸労日本資本主義 いて資本主義の初期段階である重商主義の起源 的支配機構と商人の全国的流通機構の相互浸戸時代になって、儒教が幕藩体制維持のイデオ働組合協議会 ( 全交運 ) の結成に積極的な役割 ロギーとして採用されても、旧体制支持のイデを果たした。四九年に全労連を脱退、新たに労を求めると、一六世紀末の織豊統一政権による 潤・癒着を通じて形成された ( 水稲農業生活に 基礎をもっ ) 血縁および地縁共同体 ( イ工とムオロギーであった神道・仏教や天道思想が温存働戦線の統一を提唱した。五〇年に入ると、総海外植民時代にまでさかのばることができる。 しかし、江戸幕府成立後一六三九年 ( 寛永一 ラ ) のうえに、西洋伝来の民主主義の政治機構せられ、「イデオロギー連合」をつくり役割分評への加盟とあわせて、国際自由労連 と国際連輸労連に加盟した六 ) に実施された鎖国によってその芽は摘み取 と資本主義の経済組織が積み重ねられ、両者は 担をして新体制を支持することになった。つい 文明開化期には重畳、明治二〇年代に縫合、三で明治時代になると、神・儒・仏ともに温存せが、両労連が日米安全保障条約と日本再軍備をられ、そのスタートは幕末一八五四年 ( 安政 られて、ヨーロッパ流の民主主義・資本主義の支持したことから、五三年に脱退した。総評加一 ) の開港、本格的には一八六八年 ( 明治一 ) 〇、四〇年代に癒着した。 やよい このように、広義の弥生時代 ( 水稲農業時思想とともに、新しい家制国家を支持する「イ盟後、総評民間単産会議の有力組合の一つとしの明治維新まで待たねばならなかった。以来一 て諸闘争に重要な役割を果たし、五二年以後の〇〇年余、日本資本主義は欧米諸国と比べて最 代 ) においては、水稲農業生活からこの時代固デオロギー連合」が構成されたのである。 有の原理 ( 生活中心主義・共同体主義・関数主 日本思想史の発展においては、既往ないし外賃金闘争ではマーケット・バスケット方式の要後発国、後進国として位置してきたが、第二次 義 ) をもっ文化意志が絶えず押し上がってき来の思想は、新しい時代に遺存ないしは移入さ求を掲げてストを組織した。以後、他の単産と世界大戦後の高度経済成長を通じて欧米諸国へ 共闘して賃金ストップ打破の先頭にたち、「春のキャッチアップを達成し、一九八〇年代央に て、水稲農業生活に根ざす「閉められた」生活れて、新しい時代の思想と単に混淆 (:k) した ふろしきづつみ 闘」が始まると闘争の先導組合としての役割をは、絶対額ではなお及ばないとはいえ、一人当 と思想を下部構造とし、外来の、またそれに由り ( 風呂敷包説 ) 、単に幾重にも累積したり 来する「開かれた」生活と思想を上部構造とす ( 多層説 ) するのではなく、前述の重層的 ( 二果たしてきた。公益事業のため争議が中央労働りでアメリカと肩を並べる「経済大国」 あっせん に成長した。一九世紀央のバックス・プリタニ る重層的な生活と思想の構造体を次々に形成階建ての ) 思想の構造体の諸肢節として手順よ委員会の斡旋、調停にかかることが多いが、七 く組み入れられ、秩序づけられていったように七年春闘では団交重視、回答後スト権確立とのカ、二〇世紀央のパックス・アメリカーナにか し、下層が上層を浸潤して上下二層の対立・縫 方針のもと、労使の自主交渉で解決、賃金問題わって、二一世紀にはパックス・ジャポニカの 合・癒着のリズムを繰り返し、日本人の生活と 思われる。 以上のような水稲農業時代を通じて日本の歴では日本民営鉄道協会加盟各社と私鉄総連との時代が到来することさえ予想されている。 思想を展開させてきたように思われる。 この一世紀余に及ぶ日本資本主義の全過程に 相中央集団交渉が行われた。このころから私鉄総 〔イデオロギー連合と役割分担〕さらに広義の史に繰り返してみられる思想発展の二つの様 は、広い意味では水稲農業時代の思想の発展法連は転機を迎え、労働戦線統一には積極的に対通じる特質としては、①絶えず欧米先進諸国を 弥生時代 ( 水稲農業時代 ) の日本人の生活と思想 〈大野喜実〉 モデルとし、そこから生産力や先進的諸制度を 則といいうるし、また思想の特徴であるといっ応している。 の発展には、なおいま一つの特徴が認められる。 にほんじどうぶんがく てもよかろ , っと思 , っ 導入移植し、もってそこへのキャッチアップを 〈石田一良〉 私は先に、「神道は時代の変わるごとに古い 日本児童文学者協会 いしよう 「民主主義的な児童文学を創造図ろうと努めたこと、②したがって、経済発展 思想の衣裳を脱ぎ捨てて、新しい思想の衣裳に回丸山真男著『日本の思想』 ( 岩波新書 ) ▽石しやきようかい 着かえてきたが、このことは神道の反ロゴス性 田一良著『日本の思想』 ( 一九七九・通信事業教育し、普及する」目的で、関英雄、小林純一、平のスピードが速く、③また、政府と民間経済主 振興会 ) ▽古川哲史・石田一良編『日本思塚武二ら当時の若手作家が中心になって一九四体とくに資本との緊密な協同がみられたこと、 とロゴスへの意志が神道史に思想的多様性と思 みめい が指摘できる。もっともその体質と構造は、第 想史講座』全一〇巻 ( 一九七五 ~ 天・雄山閣出版 ) 六年 ( 昭和一一一 ) に創立。発起人は小川未明、 想史的非連続性を生ずる原因であった。しか じよ、つじ ひろすけ 一一次大戦における敗北を画期に、戦前と戦後で ▽相良亨・尾藤正英・秋山虔編『講座日本思浜田広介、坪田譲治らを加え一八名で、当初の も、この『着せかえ人形』的現象は神道史だけ ではなく、広く日本の思想史全体にみられる特 想』全五巻 ( 一三 ~ 会・東京大学出版会 ) 会員数三九名。同年九月、機関誌『日本児童文は大きく変化した。その点を考慮して、以下、 ▽竹岡勝也著『日本思想史』 ( 一九四三・理想社 ) 学』を創刊。途中何度か休刊したが、今日まで戦前期と戦後期に大別して叙述しよう。 色であった」と述べた。 八六八年、 〔戦前期〕〔日本資本主義の成立〕一 ▽村岡典嗣著『日本思想史概説』 ( 一九六一・創続く。六三年社団法人となり、児童文学の普 しかし、日本人は新しい衣裳に着かえても、 じよ・つい 及、出版物の刊行、講演、講座などの活動のほ「尊皇攘夷」の復古的スローガンを掲げて成立 文社 ) ▽古川哲史著『日本思想史』 ( 一九五七・ 脱ぎ捨てた古い衣裳を ( 普段、洋服を着るよう した明治政府は、欧米列強の圧力のもとで一転 角川書店 ) ▽津田左右吉著『文学に現はれか、日本児童文学者協会賞および新人賞を設 になっても和服を部屋着ないし晴れ着として持 たる国民思想の研究』全四巻 ( 一九四五 ~ 七五・岩け、毎年顕彰を行っている。現在の会員数は約して「文明開化、殖産興業、富国強兵」のスロ ち続けているように ) つねに保存してきたので 〈西本鶏介〉 ーガンに転じ、封建制度を撤廃して資本主義的 波書店 / 岩波文庫 ) ▽今井淳・小澤富夫編六四〇名。 ある。一方、私が古い衣裳にたとえた旧来の生 にほんじどうぶんげい 近代化・工業化の政策を進めた。それは、直接 『日本思想論争史』 ( 一九七九・べりかん社 ) ▽ 活と思想は、前代における上下両構造の相互浸 日本児童文芸家協会 、カキ、よ、つ、刀し 石田一良編『日本思想史概説』 ( 一九六三・吉川 潤・癒着のプロセスですでに「関数主義」的性 「児童文芸を職能とする者の集ま的な生産力のはか、企業制度、財政・金融制 弘文館 ) 質を与えられて ( いわゆる空洞化現象もこれに り」で、一九五五年 ( 昭和三〇 ) 創立。初代会度、運輸・通信など経済面のみならす、教育、

10. 日本大百科全書 18

にゆるん が、彼らが目ざしたものは、「思想運動」 move- 裁判で、裁判所条例およれた音楽だが、一方では「ザックスのモノロー び判決によって認められグ」 ( 第二幕 ) のように微妙な心理描写にも成 ment 0f ideas を通じて左翼の活性化を図り、 社会主義へのイギリスの道を設定することであ た国際法の諸原則。一九功した作品で、その表現の密度の高さは、ワー る。「真に大衆的で知的な社会主義運動の神経 四六年一二月一一日、国グナーの全作品のなかでも群を抜いた存在とい 連総会はこれらの諸原則えよう。なお、この作品はドイツ芸術を賛美す中枢」の必要は、独自の組織建設ではなく、労 八六八年のミュンヘン初働運動の既存組織と対応し、これら既存組織に を定式化するよう、総会る内容をもっため、一 の下部機関たる国際法委演以来、ドイツ統一を求めるナショナリズムの思想的影響を与えていこうとするものであっ 象徴として用いられ、一時はナチスの国威・戦た。アメリカのニュー ・レフトは、「学生非暴 員会に指示した。これに 意発揚の道具に利用されたこともあった。日本カ統合委員会」「民主社会をめざす学生組織」 応じて委員会は五一年に 「北部学生運動」「南部学生組織委員会」など学 初演 ( 抄演 ) は一九六〇年 ( 昭和三五 ) 。全曲 「人類の平和と安全に対 〈三宅幸夫〉生を主力とした組織として現れた。彼らの主た する罪についての法典初演は八一年二期会による。 案」を作成し、各国の反ニュー・レフト New Left 一九五〇年る活動は平和運動と市民権運動 C へトナム戦争 応をみたうえで、五四年代後半から六〇年代後半にかけて、多くの先進の停止と黒人の市民権を目ざす ) であったが、 にその改定案を総会に提資本主義国において、高度経済成長下の体制的この運動を通じて「伝統的左翼」との対話も認 出した。この案では、侵安定によって生み出された「大衆社会」的状況められる。 なお、近年の西欧のニュー・レフトについて 略戦争や直接間接に侵略あるいは「管理社会」的状況に対して、学生を て式面地布に帝ん クし様正当発世選なる に関連する行為、集団殺中心とした青年層の「反乱」が相次いだが、彼注目されることは、急速に展開されている反核 , を 4 7 ちあ ル面ク カ らの「反乱」は支配体制にだけではなく、「伝運動を契機として、広範な人々の統一した運動 害、一般人民に対する非 べにツ会は書ルうに ン場シ教に勅一誓事け の一翼を担ってきていることである。↓ラディ ル広ゴ母計印力を故掛人道的行為、戦争法規の統的左翼」に対しても向けられたものであっ ュ央っ聖時金た誠の仕 〈村上義和〉 違反を国際犯罪とし、責た。彼らによれば、現代資本主義は技術の高度カリズム↓学生運動 ニ中建ののでし忠侯だ へんばう ます . い neuro- 任ある個人は処罰されるな発展によって変貌し、労働者階級を含めての ニューロレプト麻酔 べきことを定めている。その後、総会の審議人々の多数は日常生活を享受し、欲望を充足し leptanesthesia いわゆる「眠りなき全身麻 〔歴史〕一一世紀前半、神聖ローマ皇帝コンラ しんちよく は、そのものとしては進捗していないが、人うるとともに、形式的に政治参加もできるので酔」に笑気麻酔を併用する麻酔法。強力な鎮痛 ート二世が王宮を開いたのが発展の始まりで、 帝国貨幣鋳造所の設置と市場開設権の賦与 ( 一 0 道に対する罪については一九四九年にジェノサある。このような「体制内化」した労働者階級薬 analgesics ( フェノベリジン、フェンタニ ールなど ) と強力な鎮静薬 neuroleptics ( ハ イド条約が総会で採択され、侵略戦争が国際のは現行秩序の「絶対的否定者」ではありえす、 六一 l) 、関税徴収所の設置 ( 二 lll) など、着々と 社会変革のエトスを有するものは体制外にはみロペリドール、ドロペリドールなど ) を併用し 都市の機能を整えていった。一一一一九年皇帝フ平和に対する罪を構成することは、国連総会が リードリヒ二世の特許状により、帝国都市とし採択した七〇年の友好関係宣一一 = ロ、七四年の侵略出た部分である。したがって、彼らが着目するて静脈注射すると、患者はばんやりとした状態 〈石本泰雄〉のは、キューバ革命、ラテンアメリカのゲリラで周囲に対してまったく無関心となる。このよ て貨幣鋳造、関税の徴収などの大幅な特権が確の定義にも明記されている。 闘争、アルジェリア解放運動、ベトナム解放闘うな状態では反射も弱まり、すこしぐらいの手 認された。カール四世の「金印勅書」 ( 一三五六 ) ニュルンベルクのマイスタージンガ これをニューロレプト Die Meistersinger von Nürnberg ワ争などに示された先進資本主義諸国の枠外の術操作には反応しない。 により、新たに選出される歴代の神聖ローマ皇 ーグナーの楽劇。三幕。一八六七年完成。一五荒々しいエネルギーであり、また資本主義国内アナルゲジア neuroleptanalgesia ( 略称 Z 帝は最初の帝国会議をニュルンベルクで開催す においては、「生理的に抑圧されている」民族 <) 、つまり「眠りなき全身麻酔」とよぶ。こ べきことが規定され、政治的にも重要な都市と世紀から一六世紀にかけてドイツで栄えた市民 による歌唱芸術 ( その資格をもっ歌い手がマイ的少数者、失業者など、および人間的な真の自のような患者に笑気の吸入麻酔を併用すると、 なった。中世末・近世初頭の南ドイツの経済的 スタージンガー ) を題材として作詞・作曲した律性への要求をもっ学生、青年、知識人などで意識はなくなり、一般の手術が可能となる。こ 繁栄期、いわゆるフッガー家の時代 ( 一五、一 ・レフトの登場は、高度資本主義れがニューロレプト麻酔ー笑気併用麻 六世紀 ) には、アウクス。フルクと並んで重要な もので、ワーグナーの主要作品のなかでは唯一ある。ニュー の体制的安定という仮象下に広がる「根深い構酔 ) である。 役割を演じ、ザックスやデューラーらもこの時の喜劇的要素をもつものである。実在のマイス 麻酔の目的は、無痛、意識消失、自律神経反 ~ 四 0 以降、タージンガーの一人、靴屋の親方ハンス・ザッ 造上の諸問題から生じる症状」の一つであると 賍に活躍した。三十年戦争 ( 一六天 しかん はいえ、またそれだけに、彼らのイデオロギ射の減弱、筋弛緩などをおこすことである。昔 経済的には下り坂になるが、一九世紀以降、エクスが、若い騎士ワルター・フォン・シュトル 、組織形態、戦術は、現代資本主義下での矛は、これを一つの麻酔薬で行わなければならな 業都市として再生する。ナチス時代、この地でツイングを助けて歌合戦に勝たせ、恋人工ーフ 毎年党大会が開かれ、その関係で第二次世界大アを獲得させるという筋書き。若い二人の情熱盾のあり方、各国の支配体制の構造や「伝統的かったために、深い麻酔が必要とされた。とこ ろが、このニューロレプト麻酔よ、、 。しくつかの 戦後の戦争犯罪人に対する国際軍事裁判がここをはじめとして、伝統的な規則に固執する書記左翼」の存在形態などの諸状況に規定されて、 でなされた。↓国際軍事裁判 〈平城照介〉親方べックメッサーの失敗、ワルターの歌に新過渡的で流動的であり、多元的にとらえられな薬を組み合わせて、それそれの薬の特性を生か ければならない して麻酔の目的を達しようとするものである。 さいばん 0 国しい芸術の可能性を認めるザックスの寛容さと ニュルンベルク裁判 ていわん さいぐんじさいばん イギリスでは、スエズ事件、スターリン批この麻酔法の基になった Z は、患者をスト エーフアに対する諦念、そして民衆芸術の賛美 際車事裁判 しょげんそく など、そこには新旧芸術の確執やさまざまな人判、ハンガリー事件などを契機として、一九五レスから守るという考えから出発したものであ ニュルンベルク諸原則 間模様が織り込まれている。有名な「前奏曲」九年に司 ~ ミトきミ 'i ミ』誌 ( ニュー ・レフる。一九五〇年フランスの外科医ラボリ H. Nürnberg Principles 第二次世界大戦後、 に代表されるように祝祭的な雰囲気に満ちあふトという用語はここに由来する ) が発刊される M. L. Laborit は、この目的を果たすために 西ドイツのニュルンベルクで行われた国際軍事 、よ第一 - , 当を 142