バントウー語族、オーストロネシア語族、シ地域的な諸特徴を共有する一群の一 = 〔語を一一一一〕語連一九八六年 ( 昭和六一 ) 現在、原皮の輸入量は 化圏 ( エジプト、ギリシア、西欧、東欧、近 一三万七三〇〇トンで、ピーク時一九八一年の一一 合 Sprachbund または言語圏と称する。言語 東、インド、東亜 ) の造形芸術を相互に比較ナ・チベット語族などである。ラテン語はギリ でんば 変化の地理的な伝播に基づくこのような収束的五万三〇〇〇トンをやや下回っている。輸入皮の シア語やサンスクリット語などとともに印欧語 し、それらに固有な様式性格の解明を試みた。 この九五 % は牛皮で、アメリカが八〇 % 、オースト 発達に対しても比較方法は適用できない。 その際フライは、造形芸術が身体的表現もし族に属するが、スペイン語、フランス語、イタリ ラリアが一〇 % 程度を占めている。「皮革・同 ような現象を取り扱うのは言語地理学や地域言 ア語などのロマンス諸語はこのラテン語を祖語 くは空間的表現であるという考えに基づいて、 語学の役目である。また、系統的関係を顧慮す製品」の出荷総額は、一九八五年現在一兆〇三 比較のための四つの基本カテゴリーを設定すとし、そこから分岐した別個の下位語族を形づ る。すなわち、身体的表現に応ずるものとしてくる。同系語のもっとも大きな群を語族、それのることなしに諸言語を比較考察し、それらの類六七億円 ( 速報値 ) に達している。一九八四年 型化や人類一一一一口語の普遍性を究明する分野としての工業統計表によれば、出荷総額は九八九五億 の直立モチーフと運動モチーフ、空間的表現に下位群を語派とよぶことがあるが、同系関係に 言語類型学、特定一 = ロ語の個別的特徴の研究に重円で、県別では、事業所数、従業者数、出荷額 基づく一 = ロ語群にはさまざまな段階がありうる。 応ずるものとしての目標モチーフと進路モチー のいすれにおいても、東京、兵庫、大阪、埼 点を置く対照言語学などがある。〈松本克己〉 フである。これらのモチーフを比較の基準とし ロマンス語に対するラテン語のように、祖五ロ て彼は、民族的・文化的に制約された特殊な空が判明している場合はむしろまれで、多くは失回高津春繁著『比較一一一一〔語学』 ( 一九五 0 ・岩波書店 ) 玉、千葉の順で、この地域に生産が集中してい ▽・・ロックウッド著、永野芳郎訳『比る。八四年の製革工業の出荷額は一八四八億 われて伝わらす、したがって諸一言語の同系関係 ・時間体験の様相を明らかにしようとした。 円、事業所数七五四、従業者九〇六八人である 較一一一一口語学入門』 ( 一九大・大修館書店 ) そもそもフライによれば、比較芸術学とは比較は理論上の推定にとどまることが多い。しか 精神史にほかならず、比較精神史とは、因果的し、一一一一口語の変化はけっしてでたらめではなく、 皮革工業ひかくこうぎよう皮革工業は広義が、うち七一三企業が従業者三〇人以下の小零 には原皮生産業、製革工業、皮革製品製造業の細企業で、出荷額の六七・一 % を占めており、 高度の規則性に支配されており、同一の言語か に演繹することも説明することもできず、唯一 三部門によって構成されているが、原皮生産は従業員三〇〇人以上の大企業は一社にすぎな 的・一回的な創造であるところの歴史的文化のら分岐した同系諸言語の間には、音韻、形態、 。皮革製品製造業 ( 出荷総額八〇四七億円 ) 地の各面において規則的な類似現象が認めら製造業というよりむしろ畜産業の関連産業であ 創造を、実存的な全体性としてとらえる試みな り ( とくにわが国では戦前から輸入依存率が高の分野では、工業用革製品 ( 八八億円 ) 、革製 のである。このような比較研究は第二次世界大れる。このような現象を対応とよび、とりわけ 音韻の対応関係には著しい規則性が現れ、これく、製靴用甲皮を中心とする牛革の比重が高履き物・同材料・同付属品 ( 五〇〇〇億円 ) 、 戦後ますます活発になり、フライをはじめ、 い ) 、繊維布に合成樹脂を塗った合成皮革や超鞄類 ( 一二六四億円 ) 、袋物 ( 一七六五億円 ) を音韻対応の法則、または単に音法則と称す << ・マルロー、・ローランド、・サリ ン、・リュッエラーらが行うとともに、日本る。歴史一一一〕語学のもっとも基本的な手段とされ極細繊維からっくる人工皮革 ( 高級品用新素で、履き物類がこの分野の六二 % の出荷額を占 めている。同年の革靴の生産量は五五七一万足 る比較方法とは、このような同系一一一一口語間に観察材 ) などは化学工業部門に属する。このため、 においてもまとまった研究成果が出されてい る。なお、美術と文学、文学と音楽のように芸 される対応の規則性をよりどころとして、失わ一般に皮革工業とよぶのは、製革工業 ( かわなである。 皮革製品製造業の生産構造は業種によって異 術ジャンル相互を比較する研究は、普通、比較れた祖語を再建し、この推定上の祖語と関連づめしの諸工程と塗装および装飾を施す工程 ) と なり、従業員三〇〇人以上の事業所が六社存在 けることによって、問題の諸一一一一口語間の関係を歴皮革製品製造業 ( 革靴を中心とする革製履き 美学とよばれて、比較芸術学から区別される。 かばん ↓比較美学↓比較文学 〈川上明孝〉史的つまり通時的に明らかにする説明方式であ物、鞄・袋物、手袋、革バンド、工業用革製品するだけで、鞄・袋物業界はすべて三〇〇人以 下の中小規模のものである ( 一九七〇年には革 回ポリンガー著、草薙正夫訳『抽象と感情移り、この方式による同系諸一一一一〔語の記述を比較文〈ベルト、パッキン、紡織機用エプロンバンド、 製履き物で一二社、鞄・袋物各一社 ) 。大規模 入』 ( 岩波文庫 ) ▽フライ著、吉岡健二郎訳法という。近代の一一 = ロ語学は一九世紀の初頭に誕織機用ピッカーなど〉 ) の二部門である。 しろなめし 工場が減少しているのは、各業界とも機械類の 〔歴史〕江戸時代、姫路革 ( 白靼革 ) を中心 生した「印欧語比較文法」によって始まり、こ 『比較芸術学』 ( 一九六一・創文社 ) ▽マルロー 高性能化・工程合理化が進展しているはか、量 の分野で研究上の方法や諸原則が確立され、整に武具、馬具、箱類、袋物など工芸品の製造に 著、小松清訳『東西美術論』 ( 一九五七・新潮社 ) とどまっていたわが国の皮革工業は、幕末・明産体制から高級化、多品種・少量生産に移り、 ▽ローランド著、八代修次他訳『東西の美備された。以来、比較方法は他の多くの語族に ニーズの多様化に対応した「協力工場」の積極 治初頭の洋式車隊組織の創設による軍靴の製造 術』 ( 一九六三・筑摩書房 ) ▽サリヴァン著、中も適用され、それなりの成果をあげている。た によって近代皮革工業への発展の契機が与えら的活用を図っているためである。皮革各業界は こし、この方法は、あくまでも同系関係が前提 川晃訳『東西美術の交流』 ( 一九七六・洋販出版 ) だ 従来にも増してファッション性を強めているほ れ、オランダ人レマルシャン、ドイツ人ハイト ▽山本正男監修「比較芸術学研究』全六巻とされる諸一一一一口語に適用されて初めて有効に働く か、車社会に対応した機能性の高い製品が要求 のであって、この関係が不明の場合や、またかケンベル、アメリカ人へニンゲルなどの技術指 ( 一九七四 ~ 全・美術出版社 ) されている。また、ミクロテクスなど新素材の りに同系であっても、その関係が非常に遠いた導によって製靴技術 ( 手縫い靴 ) が普及し、日 比較一一壷宀子ひかくげんごがく comparative しん linguistics 共通の起源を有する諸言語を比めに対応の規則性が発見できないような場合に清・日露戦争を挟む明治中期から大正期の三〇研究開発も国際競争力強化のために重視されて いる。↓かわ↓靴↓合成皮革 ^ 殿村晋一〉 較することによって、それらの相似・異同の関は、その適用はほとんど無効である。比較方法年間に製靴の機械化 ( 釘打ち式のマッケー製靴 係を歴史的・発生的に考察する言語学の一部は、一一一一〕語の系統関係そのものを究明するための機や複式縫い式のグッドイヤー製靴機の導入 ) 皮革工芸ひかくこうげいすべての皮革類を も進んだ。その後、関東大震災後のモボ・モガ素材にした工芸、工芸品をいう。 門。歴史比較一言語学ともいう。起源を同じくすものではなく、それを対象とする研究は別に言 〔歴史〕現在、もっとも古い革製品として残っ 時代の民需靴の急増、満州出兵・日中戦争期の 語系統論とよばれる。 る諸一一一一口語を同系語、その源となった一 = ロ語を祖語 また、人類一一一一口語の多様性と類似性を生み出し軍需中心の時代を経て、第二次世界大戦後の経ているものに、古代エジプトの王家の墓から発 または共通基語、そしてこのような同一の祖語 から分岐した ( と想定される ) 諸一一一一〕語の総体をた諸要因は、かならずしも同一起源からの分岐済復興と欧米風生活様式の定着とともに、民需掘されたサンダルがある。その当時、革製品は 語族とよぶ。従来の言語の分類は、多くの場的な発達だけによるものではない。系統を異に中心の発展と徹底した工程の合理化と婦人靴部神や王に捧げる高価なものであった。動物の皮 は、はいだままにしておくと腐敗し、そのまま 門における技術革新が本格化した。 2 、合、このような語族に基づいて行われている。する諸一一一一口語が同一の地域で長期にわたって相互 カたとえば、インド・ヨーロッパ ( 印欧 ) 語族、接触を続けた場合、それらの諸一一一一〔語の間に著し〔現状〕わが国の原皮の海外依存度は、自給可乾燥させれば、曲げることもできないほど硬く なってしまう。したがって、革がサンダルなど 能な豚皮を除き、戦前・戦後とも非常に高く、 い共通特徴が発達することがある。このような ひウラル語族、アルタイ語族、ハム・セム語族、 えんえき
さらに第二次世界大戦後はスイスに渡り、チュ閣を発足させ、もつばら大統領の緊急立法権にを意味したが、のち「インド人」を意味するに ー語がベルシア系の文字で書かれるのに対し、 きようべん ーリヒ大学で教鞭をとった ( 一九丑 ~ ) 。晩年依拠する権威主義的・脱議会的大統領内閣への至った。これが英語などにも取り入れられて、 ヒンディー語はナーガリー文字で書き表され ヒンドウーの宗教・文化をさすのにヒンドウィ る。 〈奈良毅〉は指揮者として世界各地を訪れ、日本にも一九方向を強めた。三二年、共和派に推されてヒト ズムという語がつくられた。ヒンドウー教はこ ラーを破り、大統領に再選されたが、三三年一 五六年 ( 昭和三一 ) ウィーン・フィルハーモニ 回土井久彌編『ヒンディー語小辞典』 ( 一九七五・ ーとともに訪れている。フランクフルト・ア月ヒトラーを首相に任命し、第三帝国への道をの語の邦訳である。 大学書林 ) ▽同著『ヒンディー語入門』 ( 一九 〔特質〕広義のヒンドウー教はバラモン教をも ム・マインで没。彼の作曲活動は第一次大戦後開いた。彼は「生涯に三度の人生を経験した」 七九・泰流社 ) ▽ S. K. Chatterji: 守 do ・ といわれ、国民的人気は高かったものの、指導内に含んでいるが、ヒンドウー教という語はバ から本格的に始まり、その作品は各ジャンルに ミ d ミ ( 196P Firma K. L. Mukho- ラモン教と区別して使用されることがある。こ わたって膨大な数に上るが、西洋音楽の転換期力を発揮したことは少なかった。〈木村靖二〉 padhyay. Calcutta) ▽ A. R. Kelkar ・ベネット著、木原健男の場合には、バラモン教は、仏教興起以前にバ にあって、理論に裏づけされた調性組織の合理・・ウィーラー Studies ぎミ U ( 196 望 Deccan COI- 訳『ヒンデンプルクからヒトラーへーーナチラモン階級を中心にペーダ聖典に基づいて発達 的再考と新古典主義的作風によって新しい方向 lege, Poona) した宗教をさす。他方、ヒンドウー教は、紀元 ス第三帝国への道』 ( 一九七 0 ・東邦出版社 ) ー一九を提示した。中世の画家マティス・グリューネ ビンディング Karl Binding ( 天四一 前六 ~ 四世紀にべーダ文化の枠組みが崩壊し、 ワルトのイーゼンハイム祭壇画によるオペラピント Fernä0 Mendes Pint0 ( 一五 0 九 ? 一一 0 ) ドイツの刑法学者。フランクフルト・ア ハラモン教が土着の民間信仰などを吸収して大 ー〈三 ) ポルトガルの旅行家、著述家。アフリ 『画家マティス』 ( 一九三四 ~ 三五 ) と、同題の交響曲 ム・マインに生まれる。ゲッティンゲン大学に へんばう 〈寺田由美子〉力や東洋で一三回捕虜となり、一七回売られるきく変貌した形のものをさしている。しかし両 学び、一八六四年ハイデルベルク大学の私講師 ( 一九三四 ) がよく知られている。 はらん という波瀾に富んだ生涯を送った。『遍歴記』者はまったく別のものというわけではない。ヒ となり、以後バーゼル、フライプルク、ストラヒンデンフルク Paul von Benecken ・ ンドウー教は多神教であり、特定の開祖をもた ( 一六一四 ) はインド、アラビア、中国、日本での スプールの諸大学教授を歴任してのち、七三年 do み und von Hindenburg ( 天四七ー一九三四 ) ライブツイヒ大学教授となり、生涯をここで過ドイツの軍人、政治家。ュンカー ( プロイセン彼の数々の冒険や珍しい観察を書きつづったもず、その起源も明確ではなく、自然に形成され の伝統的支配階級 ) 出身の軍人の子。職業軍人ので、多少の誇張はあるが近年は物語の本質のたもので、宗教的な観念や儀礼と融合した社会 ごした。当時有力であった自然科学的思想やこ 真実性が認められてきた。大航海時代の裏面に習慣的性格を多分にもつ。一般に民族宗教とい れを基礎とした刑法理論、とくにリストのそれの道を進み、プロイセン・オーストリア、プロ でんば イセン・フランス両戦争に従軍。第二帝政下おける東洋での、同胞の行為に対する著者の隠われるが、インドを越えて伝播したこともあ に対抗し、伝統的な客観主義刑法理論・応報刑 論を擁護したことで有名である。数多くの著書で、幕僚、軍司令官を歴任し、一九一一年予備しきれない批判が推測される。〈浜口乃二雄〉り、またインドそのものがヨーロッパに匹敵す そのなかで特筆すべきは、四巻役に退いた。第一次世界大戦勃発 ( 一九一じ後、ピント Frei Heitor Pint0 ( 一垂穴 ? ー会 ? ) る一つの世界であるなどの理由で、それを否定 を発表したが、 五冊からなる大著『規範とその違反』であって、東部第八軍司令官に復帰。参謀長ルーデンドルポルトガルの神学者、文学者。サン・ジェロ一一する学者もいる。ヒンドウー教は、途方もない モ派の僧で、一五七六年コインプラ大学で聖書ほどの包摂力をもち、極度に発達した哲学体系 フの補佐を得て、タンネンベルクの戦いでロシ 犯罪により犯人が違反するところの規範の構造 じゅじゅっ から、もっとも原始的な信仰や呪術をもその が、これによって明らかにされた。〈西原春夫〉ア軍を破り、その後も東部で連勝、国民的英雄学の講座を担当した。八〇年スペインの支配に よかに取り込んでいる。そのうえに、カースト 反抗したかどでスペインに追放。その著『キリ となり、元帥に叙せられた。一六年八月、ルー ビンディング Rud01f Georg Binding スト教的生活のイメージ』 ( 一五六三 ~ 七一 l) は二部制度やアーシュラマ ( 生活期 ) 制度をはじめ、 ( 天六七ー一九三 0 ドイツの作家。スイスのバーゼデンドルフとともに中央に招かれ、第三次最高 ル生まれ。刑法学者 Karl を父にもち法律や医軍司令部を形成、総力戦体制を確立したが、実に分かれ、プラトン風の対話形式をとり、一一人間生活の全般を規定する制度、法制、習俗な の対話集からなる。一五〇〇年代の神秘主義散どを内包している。ヒンドウー教はおよそ「宗 学を学んだが、四〇歳ころまでは騎手、調教師際の作戦指導はルーデンドルフが担っていた。 〈浜口乃二雄〉教」という概念を逸脱している。 として著名。数か月の精神錯乱を経て作家とし敗戦後も、一九年夏までその地位にとどまり、文の記念碑的作品である。 ヒンドウー Hindu インドの五大英字紙〔沿革〕インダス文明が現在のパキスタンの領 て生誕するという数奇な運命をたどる。第一次共和国への軍部中枢の継続性の保持に努めた。 の一つ。マドラスの地方財閥カスツリ Kasturi 内にあるモヘンジョ・ダーロとハラッパーを二 ドイツの敗北は銃後の裏切りによるとする彼の 世界大戦従軍記『戦争の中から』 ( 一九一一五 ) は冷 大拠点として紀元前一一三〇〇 ~ 前一八〇〇年を 静な観察と高邁な文体による優れた散文であ発一言は左翼批判を促し、反ワイマール勢力を台親子会社の所有。ファミリーの一員である・ カスツリが一九六五年編集長になり、同紙を近中心に栄えていた。しかし前一五〇〇年ころア る。詩集『誇りと悲哀』 ( 一九一一 = ) や評論のため頭させた。二五年、大統領エーベルトの死後、 リア人が西北インドに進入、パンジャープ ナチス賛同者とみられたが、自伝『体験された保守派に推されて共和国第二代大統領に当選。代化、インドでもっとも影響力のある新聞の一 つに成長させた。ロンドン、ワシントン、東 ( 五河 ) 地方に定着し、前一二〇〇年を中心に 人生』 ( 一九一一 0 や多くの短編小説で再評価され当初は憲法に忠実であったが、元来の帝政的心 へんさん 〈飛鷹節〉情と独自の政治判断力の欠如から、国防軍、側京、シンガポールに特派員を常駐させ、広範囲聖典『リグ・・ヘーダ』を編纂した。その後、前 てきている。 、リ・ヘラルな紙面づくりを行五〇〇年ころまでに主要な・ヘーダが編纂され、 ヒンデミット Paul Hindemith ( 天九五近の影響を受け、三〇年プリューニング少数内なニュースを扱い ハラモン教の全盛時代を迎えた。しかし前五〇 っている。海外版も発行している。発行部数四 ーナウに生まれ ー一九六三 ) ドイツの作曲家。 〈鈴木ケイ〉〇年ころ、社会的大変動の結果ペーダ文化の枠 〇万二〇〇〇部 ( 一九会 ) 。 る。フランクフルトのホーホ音楽院でバイオリ きよう Hinduism イ組みが崩壊して反バラモン教的自由思想家たち ヒンドウー教 ンと作曲を学ぶ ( 一九 0 九 ~ 一七 ) 。フランクフルト が輩出し、仏教やジャイナ教が成立した。仏教 ンドで信奉されている宗教の一つ。インド教と 歌劇場管弦楽団のコンサートマスター ( 一九一五 ~ こんぜん いわれる場合もある。本来、宗教・文化の渾然が宗教・思想界の主流をなしていた前二 ~ 後三 lllll) 、アマール・ヒンデミット四重奏団のビオ とした複合体に対する便宜的な呼称であり、正世紀ころ、バラモン教が土着の非アーリア的民 ~ 一一九 ) など、演奏家として活躍す 、フラ奏者 ( 一九二 間信仰・習俗などの諸要素を吸収し、大きく変 確な定義を与えることは不可能。「ヒンドウー XJ る一方、ベルリン高等音楽学校の作曲科教授に Hindu とは、インダス川の名称に起源をもっ貌を遂げてヒンドウー教が成立した。ヒンドウ ん就任 ( 一〈 = と。しかしナチスに追われてアメリ ー教はバラモン教を基盤としてはいるが、①固 8 ベルシア語であり、「インダス川の流域の人々」 ひ力に移住し ( 一九岩 ) 、エール大学 ( 一九岩 ~ 当 ) 、 ばつばっ ヒンデンフルク
のおか Monte 一八二五年以後は『スタンス』 ( 一全七 ) などに ハラティーノの丘 えんせい み・め、中央に木製の臼を据えたと思われる作業台 をか つを一八個並べた作業場、またおそらくは労働者 Palatino イタリアの首都ローマにある七つのみられるようにしだいに厭世的になるが、その 面極 、ら用の住居と思われる、規格化された小住宅を一一丘の一つ。古代ローマの政治・経済の中心地フ深い思想と繊細な味わいに満ちた詩はプーシキ 接にる オロ・ロマーノの南にあり、紀元前八世紀ごろンに高く評価され、後期の傑作『ゲーテの死 列に配した建物などがある。 の状れ に』 ( 天三一 I) はゴーリキーに賞賛された。ほか ハ蓋点流 の住居跡が残ることからローマ最古の地とされ 一方、城塞外南方には二つの墓地が発見さ 「ロ。か に叙事詩『供宴』 ( 一全 0 ) ・『エダ』 ( 天一一四 ) ・『農 れ、そのうちと名づけられた墓地からは、文る。初代皇帝アウグストウスが邸宅を設けたの と蓋流 舌ロ電 明最盛期よりのちの文化様相を示す墓地文化を機に皇帝・貴族の宮殿が建てられるようにな奴移住』『舞踏会』 ( ともに一全 0 ・『ジプシー の工と 際人る った。アウグストウスのリウィア Livia の家、女』 ( 一会 l) 、中編小説『指輪』など。〈草鹿外吉〉 の跡が明らかとなった。同文化の分布はインド ののれ 音め 国境こ近、 ーワルプル地方にも跡づけらアポロン神殿、競技場などの遺跡がみられ、眺 ハ一フード James Graham Ballard ( 一九三 0 発たか ) イギリスの作家。一九六〇年代に る舌 れ、文明末期およびその後に関する諸問題を提望もよいことからローマ観光の対象となってい フす 〈藤澤房俊〉おきたニュー・ウェープ運動の中心となり、前 示しているが、その詳細はまだ不明である。↓る。↓フォロ・ロマーノ ラ録れ ク記ま ーーしかしゅう Antho ・衛的な作品を書いての世界に新しい展望を インダス文明 〈小西正捷〉 ハラティン詞華集 ト , 込 ラ察め logia Palatina 紀元前七世紀から後一〇世紀開いた。したがって彼はタイム・トラベルとか ばら積貨物船ばらづみかもっせん bulk ハ観埋 エーリアンといったの既成のテーマは取り carrier 包装しないで輸送するばら積貨物専までのエピグラム四〇〇〇編余りを収めるギリ シア詩の一大集成。西洋文学では最大のアンソ上げず、その関心はもつばら近末来の地球に発る。後者は一四世紀にフランスで多く作曲さ 用の貨物船。穀類、石炭、鉱石などは多くばら ( 一三 00 ころ ー七七 ) が多声の優れたバ 積みである。第二次世界大戦後、穀類の海上輸ロジーで、『ギリシア詞華集』ミぎ、。を Grae- 生する災厄とデカダンスに集中している。『沈れ、マショー 〈石多正男〉 一フードを残した。 ミとも称される。成立は、前一世紀の詩人メんだ世界』 ( 一九六一 D は両極の氷が融けて水没し 送量が大幅に増加したので、そのばら積輸送に かんばっ レアグロスの編んだ詩選集「花冠』 S ミき s ていく都市を、『燃える世界』 ( 一九六四 ) は大干魃 最適な船型として開発された。油類もほとんど バラトグラフ palatograph 発音中に舌 、 : つがい に襲われる地球を、そして『結晶世界』 ( 一九六六 ) がロ蓋に接触することに着目して、その接触パ にさかのばる。一〇世紀初頭コンスタンティノ がばら積みされるので、油タンカーも統計上ば ス・ケファラースは、メレアグロスの『花冠』では物質が宝石のように結晶化していく地球のターンを観察、記録する装置。プラスチックの ら積貨物船に分類されることもあるが、油タン とそれ以後に編まれた二種の詩選集に新作を加終末を描き、外宇宙の変化に対応する登場人物人工ロ蓋と、接触パターンの検出や記録のため カーの名で別に扱われることが多い へんさん の装置とを総称する。これによって、発音中は 船型は、船尾に船橋および機関室を配置したえて一五巻の詞華集を編纂した。この詞華集たちの内宇宙 ( 意識世界 ) がとらえられてい ーミリオ外部から観察しにくい舌の複雑な動きの性質を は、その古写本が一六〇六年ハイデルベルクのる。ほかに短編集『時間都市』『バ 一層甲板船で、船底の二重底タンクの両側に斜 ン・サンズ』など。↓結晶世界〈厚木淳〉ある程度知ることができる。 めの斜面がつけてあり、グラブなどによる粒プファルツ侯の書庫 Bibli0theca Palatina で 写真のように被検者の歯型にあった人工ロ蓋 状・粉状貨物の荷役がしやすいためである。ま発見されたことから『パラティン詞華集』とよ回峰岸久訳『沈んだ世界』 ( 創元推理文庫 ) た鉱石など比重の大きい貨物を積むと重心が下ばれるが、それまでは完全に忘れられていた。 ハ一フード ballade 文芸用語。ラテンをつくり、この表面に六四個の電極を埋め込ん たん がりすぎるので、重心を上げることもできるよっまり一四世紀にマクシモス・プラヌーデスが 語の ballare ( 踊る ) に由来し、物語詩、譚で、これを電線で外部の器械に接続する。電極 うにトップサイドタンクがある。このタンクの手を加えて編んだテキスト、むしろ改悪ともい 詩、民謡、歌謡と訳され、教会、宮廷中心の詩に舌が触れると、ここに電流が流れる。この電 に対し、民衆のなかから生まれた詩で、内容的流の変化を検出するのがパラトグラフの原理で 断面が三角形なのは、船体の横揺れによるばら うべきものが、ルネサンス期を通じて一七世紀 には英雄、悲恋を主題とするロマンチックな口あり、これによって接触パターンを図形表示し 積貨物の移動を防ぐためである。初期のばら積ころまで唯一の底本として珍重されていたから 貨物船は一種類の貨物を運ぶ専用船が多かったである。のちに『バラティン詞華集』全一五巻承伝説詩である。一二世紀フランスの吟遊詩人たり、コンピュータによって解析することがで きる。 ^ 廣瀬肇〉 に発し、一五、六世紀にヨーロッパ各地に広ま に含まれない三〇〇編余りをプラヌーデスの詞 が、その後、海運市況や荷動きに応じて広い範 囲の貨物を運べるように設計される例が増えて華集から取り入れて第一六巻とし、ここに初めった。八行のスタンザ三つにエンポイ envoy バラドックス paradox ある命題とその いる。鉱石と原油、あるいは鉱石と原油とそのて『ギリシア詞華集』とよばれる一六巻本のアという呼びかけの四行がつく形で、ビョンの否定命題が、ともに論理的に同等と思われる論 ンソロジーが成立した。全巻に洗練された「遊『首吊りのバラード』に代表される。各スタン拠をもって主張されているとする。これらの二 他のばら積貨物を積む兼用船、さらには鋼材・ 製材などの長尺貨物、プルドーザーなどの機械び」の精神があふれ、ことに恋愛詩、風刺詩、ザの終わりにリフレーンがつくのは本来の舞踏つの命題が成り立っと結論する推論のなかに誤 〈伊藤照夫〉歌の性格を示す。イギリスではバラッド bal- りが含まれていることを明確に指摘することが 類などを積む船も現れて、多目的船とよばれた碑銘詩に秀作が多い。 lad とよび、多くは四行詩の長連の形をとり、 できないとき、これら二つの命題を、パラドッ りするようになった。図貨物船〈森田知治〉回呉茂一訳『ギリシア抒情詩選』 ( 岩波文庫 ) はらづるおんせん福岡県朝倉郡杷 ▽『呉茂一訳詩集花冠』 ( 一九七三・紀伊國屋書イングランドとスコットランドの国境地帯で盛クス、逆理または逆説という。以下にその有名 原鶴温泉 〈船一尸英夫〉な例をあげる。 木町にある温泉。泉質は単純泉。筑後川中流 店 ) ▽沓掛良彦訳『牧神の葦笛ーーギリシんに歌われた。 エピメニデス Epimenides のパラドックス ア詞華集抄』 ( 一九天・牧神社 ) 西洋音楽でバラードという場合、わが国では 岸に位置し、景観に恵まれた県内一の温泉郷 やばひたひこさん ドイツのバラーデ BaIIade とフランスのバラ ( 前六世紀ごろ ) は、表現はいろいろあるが、 で、耶馬日田英彦山国定公園に含まれ旅館設備 ハラティンスキー EBI ・ eミ三 A6paMOBHt1 ードをともにバ一フードとよぶッ ) とが多 - いハ一フ たとえば「クレタ人はうそっきであるとあるク は充実している。温泉名の起源は、ツルが傷を bapaTb1HCKHü/Evgeniy Abramovich Ba ・ いやしているところを里人が発見したという故 ratinskiy ( 天 00 ー四四 ) ロシアの詩人。タム ーデは譚詩曲と訳され、一八、九世紀のドイツ レタ人はいった」という命題をい , つ。「クレタ きゅうだい 事に由来する。久大本線筑後吉井駅よりバスポフ県の貴族の家に生まれる。その多くの叙情で愛好されたピアノ伴奏歌曲。中世の歴史上あ人はうそっきである」という小命題が正しけれ 〈石黒正紀〉 五分。 詩は自己の深い苦悩と思索に貫かれ、代表作るいは架空のロマン的な物語を扱ったもので、 ばそのクレタ人はうそをいったことになり、小 『幻滅』 (l<lll) はグリンカにより作曲された。代表的な作曲家はレーベ ( 一七九六 ー一会九 ) であ命題がうそであればそのクレタ人はうそをいっ 囮二万五千分の一地形図「吉井」 っ 1 12
ひらたあ 六〇ほどの赤褐色ローム質土層に包まれ、そ窟遺物包含層は国の史跡に指定されている。七村が合併して成立。国道四九号、三四九号が通 平瀬与一郎ひらせよいちろう ( 一会九ー一九 = 五 ) あぶくま ゅうけいせんとう 日本の貝類学の先達。号を介堂と称した。兵庫の内容は、ナイフ形石器、台形石器、有茎尖頭月二〇 ~ 一三日、平田天満宮祭に、町内の店先じる。阿武隈高地の南部にあり、蓬田岳 ( 九五 = いっしき はくへん きそうき ) や芝岳穴一九 ) などがそびえる。村域の に飾られる「一式飾り」は独得のものである。 県淡路島良に生まれる。一八八七年 ( 明治一一器、掻器、削器、そして多くの剥片、石核があ へいたん しゆきん 旧や葉タバ 〈小松聰〉大部分は山地で耕地は少ないが、 7 窄 〇 ) 京都に出て種禽商を営んでいたが、アメリる。平坦な打面をつくり、その片側縁から剥片人口三万一三一五。↓鰐淵寺 コの栽培、和牛飼養が行われる。人口八七三 力の宣教師・ゲインズおよびイギリスの宣教を打ち取る石核は、「平沢良型石核」とよぶ特回『平田市誌』 ( 一九六九・平田市 ) えともあいか 〈渡辺四郎〉 〈戸沢充則〉二万五千分の一地形図「恵曇」「秋鹿」「坂 師・ギュリックに陸産貝類の採集を依頼され徴的なものである。 たもかみ たいしゃ いまいち ひのみさき 囮二万五千分の一地形図「田母神」「上蓬田」 浦」「平田」「出雲今市」「日御碕」「大社」 てから貝類に興味を抱いた。当時のアメリカの回杉原荘介・戸沢充則「佐賀県伊万里市平沢良 あくみ 「竹貫」 貝類学者・・ピルス。フリーに文通指導を受 の石器文化」 ( 『駿台史学』一二所収・一九六 = ・平田 ( 町 ) ひらた ( まち ) 山形県北西部、飽海 郡にある町。一九六四年 ( 昭和三九 ) 町制施ヒラタアシナガコッブガャ 0 、斗 ? 明治大学駿台史学会 ) け、自邸を平瀬介館と名づけ、また『日本千貝 - 一うちょう しん 行。羽越本線、国道三四五号が通じる。東部はをを s ミ、を腔腸動物門ヒドロ虫綱ヒド 目録』 ( 一九一 0 ) を著し、『介類雑誌』 ( 一九 0 七 ~ 0 九 ) 平田 ( 市 ) ひらた島根県東部にある市。宍 も を発刊した。著書に『貝千種』 ( 一九一四 ~ 一一一 I) な 道湖の北岸と西岸に臨み、島根半島の中央部を出羽山地が占める農山村で豪雪地帯。西部は最ロイド目ウミサカズキガャ科に属する海産動 しようない どがあり、貝類の研究と知識普及に貢献した。 占め、東部は松江市に接する。一九五五年 ( 昭お川の右岸、庄内平野西縁にあたり水田地帯物。海岸の岩石や海藻の上に付着して群体をつ かんじよう さらに一九一三年 ( 大正一 l) 京都市岡崎に平瀬 和三〇 ) 平田町と北浜、佐香の二村が合併してをなしている。八世紀に勧請されたといわれくっている。ヒドロ根からはヒドロ茎が直立 きよう さ 1 」し あすか し、その上端にヒドロ花を包むヒドロ莢があ 貝類館を開設したが、これは数年で行き詰ま市制施行。六〇年伊野村を編入。国道四三一る飛鳥神社のある中心地の飛鳥や砂越の一帯は いずみこうや いちばた り、閉鎖された。彼の採集にかかる新種は七〇号、一畑電鉄が湖岸沿いを走る。中心の平田地近世は平田郷とよばれた。北西部には泉興野、る。ヒドロ茎は高さ四 ~ 六い、全長にわたって 斜めの環節がみられる。ヒドロ莢はコップ状で 〇を超す。その標本は帝室博物館 ( 現国立科学区は、かっては木綿取引の市場町として栄え、桜林興野など興野 ( 屋 ) の字のつく集落が多い が、これらは戦国末期から近世初頭にかけて開口縁は平滑、側壁は互いに直角の方向で厚さが 博物館 ) やワシントンのアメリカ国立自然史博湖上交通によって松江と密接に結ばれていた。 生殖体はヒド 物館に分割寄贈された。日本に残された完全な町中にみられる白壁の妻入り土蔵造の家々が当かれた集落である。人口八〇二〇。〈中川重〉異なり、一方は薄く一方は厚い。 へんべい ロ根上に生じ、生殖莢は扁平で卵形である。 標本セットは第二次世界大戦で戦災にあった時の繁栄のあとを残している。明治中期以降の回『平田町史』 ( 一九七一・平田町 ) 木綿産業の衰退と、大正初期に敷設された山陰囮二万五千分の一地形図「中野俣」「清川」「羽海道から本州北部の浅海に普通にみられる。オ が、各地になおコレクションの一部が断片的に あまるめ ごかんのんじ ーストラリアからも知られている。〈山田真弓〉 〈奥谷喬司〉 後観音寺」「余目」 線が宍道湖南岸を通ったことから、地域発展の 存在する。 」いまち ヒラソウダ 0 ソウダガッオ 基盤を失った。現在は在町的機能が強い。宍道平田 ( 町 ) ひらた ( ちょう ) 岐阜県南西部、海平田篤胤ひらたあったね。 ( 一耄六ー一翁 (l) 江 だい ~ ′、 いずも ひらそうらいせき佐賀県伊万里湖西岸に注ぐ斐伊川北岸は出雲平野の一部で水津郡にある町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 今尾町戸後期の国学者。通称は大壑。秋田藩士大和田 平沢良遺跡 びっちゅう さちたわ はえなわ 田地帯、また北部の日本海沿岸では延縄、底引 の大部分と海西村が合併し、平田町と改称。町祚胤の子。二〇歳で脱藩して江戸に出、備中 市二里町川東にある先土器時代の遺跡。一九六 あつやす ほうれき 松山藩士平田篤穏の養嗣子となり、独学によっ 網漁業のほか、ワカメ、アワビなどの養殖漁業名は、宝暦 ( 一七五一 ~ 六四 ) の治水工事に尽くした 〇年 ( 昭和三五 ) 明治大学考古学研究室が九州 ますげのや さつま ぶきょっ こさつがくえん における初めての発掘として調査し、ナイフ形が行われる。天台宗の古刹鰐淵寺、眼病治癒の薩摩藩家老・総奉行平田靱負の功労をしのんでて国学者として自立し、初め真菅乃屋、のちに もとおりのりなが いぶきのや あげしま いのめどう 石器を伴う石器群を確認している。遺物は厚さ 信仰の厚い一畑薬師があり、上島古墳、猪目洞命名された。中心集落今尾は揖斐川に沿ってお気吹乃屋と称した。また本居宣長の生前に入門 おわり り、江戸時代には尾張藩支藩の今したと自称、宣長の学問を古道学と規定し、そ 造尾藩庁の所在地で、商店街が発達の後継者をもって自任した。しかし、その文献 たかすわじゅう 塗 している。町域は高須輪中の北部学的方法は継承せず、わが国にのみ正しく伝わ の 3 食 にあたり、米の産地であるが、ト った古道を明らかにするという目的のみを共通 い漆 白 マト、イチゴ、花木なども特産。としたが、宣長が古道を古代の事実とみたのに すわき ちよばいな 対して、篤胤は現実的規範と見立てるなど、思 須脇には商売繁盛の神お千代保稲 まっ れ筋 荷が祀られ、中京方面などからも 想、学問の性格には差異が大きい。その違いは 町 しんとう 本 初期の『古道大意』『俗神道大意』などにすで 参拝者が多く、門前町ができてい 地るる。近年、今尾橋が揖斐川に架設 えわされ、養老町や大垣市方面への交 寺」ぎ 栄が 通が便利になった。今尾の左義 ちょう 長は伝統の年中行事の一つであ 取を 綿栄る。人口八六六九。〈上島正徳〉 木繁 はの回森義一著『平田町史』全二巻 区時 ( 一九六四・平田町 ) 地当 平囮二万五千分の一地形図「竹鼻」 ・一まの の多 「津島」「駒野」 中屋平田 ( 村 ) ひらた ( むら ) 福島県 市の南東部、石川郡にある村。一九五 よもぎだ 田 1 入 平萋五年 ( 昭和三〇 ) 蓬田、小平の一一 3 ひらせまんかいアラセッの日の夕方 , 2 つの大岩から歌をかけ合い手を 振り合ってを招き寄せる。鹿児島県大島郡蘢鄕町萩名 ( 奄美大島 ) さっき 響 ・〃いき一し ゆきえ なかのまた おだいら たかめき 平田篤胤画像東京平田神社 799
ひょんや どのエネルギー資源と大同江の豊である。高句麗滅亡まで二四〇年間、三国時代エフアテ島南岸にあるフランス風の港町で、ポ 富な工業用水、陸・海の運輸網がのもっとも発達した都市として、高度な文化を ート・ビラ Port Vila ともいう。人口一万四 7 発達したからである。工業分野で誇り、政治、経済、文化の中心地であった。そ〇〇〇 ( 一九〈 0) 。南西に開いたメレ湾奥の良港 いヤャ 比重の高いのは機械工業で、平壌の遺跡古墳が大同江下流地域に多く残っておで、フィラ、イリリキの二島が美しい。コプ 電気、精密機械、電球、建設機械り、当時の華麗な古代文化のおもかげを伝えてラ、コーヒー、カカオの積出し港。市街地から ・ ) うらい りちょう などの大規模の施設と朝鮮・キュ いる。一〇 ~ 二〇世紀に至る高麗、李朝の約一五キ。のバウアーフィールド空港はポート・ビラ レ , ーバ親善平壌紡績機械工場・金〇〇〇年間の時期は西京または柳京といわれ、国際空港として知られ、ナウル、ナンディ ( フ しようたい 鍾泰電気機関車工場がある。 つねに朝鮮第二の都市として経済、文化的に繁イジー ) 、ヌーメア ( ニュー・カレドニア ) な ずれも全国的規模の中央企業体で栄した。 どの太平洋各都市と結ばれている。〈大島襄二〉 ある。軽工業分野でも共和国第一 一九四五年解放後、朝鮮民主主義人民共和国ヒラアジ硬骨魚綱スズキ目アジ科カイワ 《い 0 第 0 , 馬の生産をしている。そのおもなもの首都として政府直轄市になった。朝鮮戦争の リ属の海水魚の俗称。このアジ類は、体形が平 際、空車により市内だけで五五万余発の爆弾が たくてタイ型に近いのでヒラアジとよばれる。 竿のは、紡績工業では平壌紡績、 はいきょ はなれ る 紡織、製糸工場があり、建材工業投下され廃墟と化したが、戦後千里馬の勢いでまた、背びれや臀びれの後方に小離びれがない 走 りようりん てでは勝湖里セメント工場、大聖窯復旧再建され、緑の多い優雅な現代都市となっ ことや、稜鱗 ( ぜんご ) が側線後方の直走部 沿業、平壌合成樹脂、、、 ヒニル管、木た。 〈魚塘〉 にだけあることにより、ムロアジ属、オニアジ 江材総合工場などがある。 ヒラ Chinese herring/811isha ミミや属、マアジ属などと大きく異なる。カイワリ属 には、カイワリ、シマアジ、ギンガメアジ、イ 硬骨魚綱ニシン目ニシン科に属する海水 ぎ市街地は、大同江右岸地域が旧 る 市街であるが、朝鮮戦争ですべて魚。南日本、フィリピ トヒキアジ、マルヒラアジ、オキアジなど、美 あ かいじん での建造物が灰燼に帰し、戦後、近ン、インド洋にわたっ 味な高級魚が含まれる。 〈鈴木清〉 いっかんばり 支代的な都市に再建された。市の中て分布し、日本では九 飛来一閑ひらいいっかん 0 一閑張 せいろく ばたん 心は牡丹峰 ( モランポン ) 西麓の 州西岸に多い。体は著 平井和正ひらいかずまさ ( 一九三ハ そくへん ~ 大万寿台上の朝鮮革命博物館であしく側扁し、体高が大 作家。神奈川県生まれ。中央大学卒業後、一九 い・し書っ る。博物館の西方に向かって万寿きい。体の腹縁に稜 六二年 ( 昭和三七 ) 短編『レオーラ』でデビュ ン せん おおかみ エンプレム ャ台議事堂、万寿台芸術劇場、平壌線が発達し、鋭く側扁 ー。狼人間に取材した『狼の紋章』に始まる ョ 学生少年宮殿、人民大学習堂などする。小形の腹びれが ウルフ・ガイ・シリ ーズ、地球侵略テーマの ゾンビ の高層建物や優雅な朝鮮式の建物背びれより前方に位置 『死霊狩り』三部作など、的な設定で一匹 しり ん ~ い、わい が並び、また政府機関もこの界隈にある。もっすること、臀びれの基 ピョンヤン〔平壌〕朝弉民主主義人民共 狼の生き方をするヒーローをハードボイルド調 和国の首都。政府直轄市。面積約一一〇〇〇平方とも繁華な通りは大同江の流れに沿って東西に 底が著しく長いことが に描く冒険で人気を博す。雄大なスケール 。人口一七〇万 ( 一九八 0 推定 ) 。 走る大同門街、勝利街、大学習堂街である。こ特徴。全長五〇に達 のスペース・オペラ・シリー ズ『幻魔大戦』 きんにっせい 朝鮮半島北西部、大同江下流部にある。地形の通りには金日成広場を中心に博物館や劇場な し、砂泥性浅海の中層 『真幻魔大戦』はライフワーク。少年漫画『エ ラ は、市の中央部を貫流する大同江とその支流普どの文化施設がひしめいている。市北部に展開 に生自 5 し、小魚、エビ 〈厚木淳〉 イトマン』の原作者でもある。 がっしよう たいせき ヒ 通江と合掌江によって堆積された沖積地と、 している普通江畔の人民文化宮殿、氷上館、清類を捕食する。六、七 回『幻魔大戦』 ( 角川文庫 ) そうこうえん 地質時代の侵食と削剥によって形成された準平流館、蒼光苑は東平壌の平壌産院とともに最近月に大きい川の下流、河口域で産卵する。中国避雷器ひらいき lightning arrester 雷を ツアオ・ハュウィ レンユウィ 原である。市の北部は慈母山地の残丘である大建てられたものである。とくに金日成主席七〇では曹白魚または黝魚と称し、塩漬けや干物と はじめとする異常電圧から電力系統を保護する がび がいせん チュチェ 聖山 ( 一一九四 ) 、峨嵋山 ( 一五五 ) があり、北東歳生誕を迎えて七星街の凱旋門、東平壌の主体して珍重する。 〈浅見忠彦〉装置。避雷器は電力系統の絶縁協調のかなめと 部は平安系の石炭層である。大同江は東方で合 思想塔が建設された。市の南西部の万景台区域比良ひら滋賀県中西部、滋賀郡志賀町のもいうべきもので、その特性および設置位置の りようら 掌江をあわせて曲流して清流壁を過ぎ、綾羅島 には金日成主席の生家が保存され、万景台革命 一地区。現在、北比良、南比良の二集落があ選定によって、変圧器、母線、碍子の個数な ていかく びわ を挟みながら市中央部を南に貫流し、羊角島を学園、亭閣などがあり、国の内外から多くのる。西に比良山地、東に琵琶湖が開け、西日本ど、基本的な回路設計にも影響を及ばすことと 残して北部から流れる普通江を入れて河口に向人々が訪れる革命聖地で観光コースの一つとな旅客鉄道湖西線の比良駅がある。比良山の登山なる。電力系統の異常電圧としては、直撃雷や かっている。市の気候は大陸性気候で、年平均っている。名勝古跡地として有名な牡丹峰高台 ロとして数多くの登山客が訪れる。古代には比誘導雷などの雷サージ ( 外雷 ) 、遮断器などの しよう 気温一〇・五度 0 、ハ月二四・四度 0 である。 には牡丹峰地下劇場、解放塔、千里馬銅像があ良牧、中世には比良荘が置かれ、湖岸は港とし開閉器の開閉時に発生する開閉サージ ( 内雷 ) うへきろう うたまくら ビョンヤンは政治、文化の中心だけではなく、 るが、乙密台や七星門、浮碧楼は戦禍にあい消て利用されてきた。歌枕としても親しまれ、などがあり、避雷器は、このような異常電圧が えうせた。 共和国屈指の工業都市として共和国工業生産の 『万葉集』の「わが船は比良のみなとに : : 」発生し、それがある値 ( 定格電圧より高く、他 たけちのくろひと 四分の一を占めている ~ 解放後新しく創設した ピョンヤンは朝弉でもっとも古い歴史と伝統 ( 高市黒人 ) などが著名。 〈高橋誠一〉の変圧器・母線などの機器の絶縁破壊電圧より だんくん 機械製作工業から消費物資まで大小二〇〇余の のある都市である。王険城ともいわれ、檀君や囮二万五千分の一地形図「北小松」「比良山」 低い ) を超えると放電を開始し、常規の送電を きし 企業体がある。これは立地条件として、平壌炭箕子が都としたという伝承もある。初めて国のビラ Vila 太平洋南西部、メラネシア、継続する役目をする。避雷器の構造は、一般に 田や平壌火力発電所 ( 出力四〇万キ。ワット ) な首都となったのは高句麗の長寿王一五年 ( 四一一七 ) ハヌアッ ( ニュー ・ヘブリデス諸島 ) の首都。は放電電流と端子電圧 ( 制限電圧 ) の特性を決 ロ 3 チョンリ マ きん 1- ー・′ンター
さんろく せん ちゅう あるが上にもふやすが忠義、百姓ばらに金を持村と命名、町制を経て一九七〇年 ( 昭和四五 ) 賤とされながらも作庭の技芸において優れ、そとした。晩年に京都の東山の山麓に造営した東 ひがしやまどの せんずいかわらもの えよう せば栄耀にふけり、農業の妨げ、金銀をたくは市制施行のとき東をつけ改称した。北端の止陵れによって高い評価を得た山水河原者など、さ山山荘 ( 東山殿 ) は末完成のままに終わった むさしの なんろく へさせぬがお上ミへの忠義」という収奪派家老南麓を除く大部分が武蔵野台地で、中央部を空まざまな人々が関与していた。そのうえ、商工が、彼の理想を建築、庭園その他万般にわたっ どそう の発一一一一〔、「三ヶ国はわが領内、金銀米銭はいう堀川が流れ台地を刻んでいる。北東端に西武鉄業の発達につれて台頭してきた酒屋・土倉などて集中的に表現したものとみられている。 ちょうしゅう まいじま たまこ 東山文化の特徴となると多岐にわたるが、そ に及ばず、民百姓はもとよりむしけらに至る道多摩湖線、南端を西武鉄道拑島線が通る。平の高利貸業者をはじめとする町衆の経済力が までこの 迄、此政知が心の侭」という藩主の発一一 = ロ、「天安時代末期には武蔵七党の一つ村山党の支配下大きく働いた。したがって東山文化は、平安朝の特質については、一つには禅宗思想の影響が あら にあり、止陵南麓には自然発生の古い集落があ以来の伝統的な公家文化、鎌倉時代以来の武家広く見受けられる点、一一つには生活文化として 下は一人の天下に非ず、天下の人の天下也 : じよう った。中央の台地面は江戸時代中期、玉川上文化や禅宗文化、そしてこの時代に顕著に現れの要素が強くうかがわれる点が重視されてお 百姓は天下の宝、其領主の我意につのり、から ちょ・つ寺一ん のびどめ り、これらは水墨画、書院造、庭園、能、茶 き政事にうみつかれ、他国へ逃散なす時は国水、野火止用水の開削 ( 一六五五 ) 後に古村から新てきた庶民文化が互いに交流しあい、さらには りつか からもの おうめ にちみん ( 茶の湯 ) 、立花 ( いけ花 ) などの諸分野におい に耕す民なければ百万石も草原同然」という善田の開発が進められた。青梅街道沿いは狭山茶日明貿易で輸入された唐物とよばれる美術工芸 て確かめられる。また、東山文化は、幅広い階 品の数々が珍重されることで成り立っていた。 の特産地。多摩湖 ( 村山貯水池 ) は都立狭山自 政派家老の発言などは、幕末期の民衆の社会・ 政治意識の成長のほどをよく示している。刊本然公園に属し観光地としてにぎわっている。人義政は、きわめて個性的な感覚・美意識によっ層の人々を文化的・経済的基盤としていたこと わせだ が大きく働いて、しだいに守護大名、戦国大名 〈沢田清〉て、いろいろな階級・身分の人々の好みのなか はなく、台帳が国立国会図書館、早稲田大学演ロ六万九八八一。 たちかわ から優れた要素を選び抜き、それを統合しょ , つを通じて全国各地に広まり、やがては地域社会 劇博物館などに所蔵。↓佐倉義民伝〈林基〉囮二万五千分の一地形図「所沢」「立川」 ひがしやまぶんか 東山千栄子ひがしやまちえこ ( 天九 0 ー一九含 ) 東山文化 あしかがよしみつ 第 : フの にてよ , 山能義現手のる そ磁めと 女優。本名河野せん。旧姓渡辺。千葉県生ま室町幕府三代将軍足利義満の時 命っと殿東の , 技あ」鏡お青わ筒 きたやま 遺と閣い空 か画に亠周文 。き内文 れ。学習院女学部卒業 ( 一九 0 七 ) 後、貿易商河野代の文化が、義満の北山山荘 のを銀心り ' も 1 ( るの部」翁重りるは大重 ろくおんじきんかく とおくろう な宝月と図あそ上宀月。あれれ銘 ( 鹿苑寺金閣 ) を中心にして栄 通久郎に嫁し、モスクワに滞在 ( 一九 0 九 ~ 一七 ) 、 れ義い法閣層ら国芸と爆でに幅るとらこ 利の楼下か。真引観品置画るあ物え えたので北山文化とよぶのに対 初めて見たモスクワ芸術座の舞台『桜の園』に つき 矼足政ののとる 遺布。あて名考がしあ み弥真 は義中風 , れ のたるで文山とる美で 感動した。一九二五年 ( 大正一四 ) 三四歳で築して、室町時代の中期、八代将 じ よしま、こ 荘、園宅〔閣ら一弥た一しき僧詩東品あもの美 地小劇場の研究生となり、同年三月の『皇帝ジ軍足利義政 ( 在位一四四三 ~ 七三 ) の 山れ。住」音知げ阿え唯とで詩のに世で色も 山らた潮て←相仕の然がな当ニ書伝れ - 粧の ヨーンズ』の貴婦人役が初舞台であった。劇団時代に義政が営んだ東山山荘 東めれで ( しのて弥整と的 ~ 景箱のまて持 じしようじぎんかく 改さ造層と子し阿路こ表 らはり所京 築地小劇場、劇団新東京を経て、四四年 ( 昭和 ( 慈照寺銀閣 ) を中心にして生 閣に名形上作 、と芸理る代〔横入か品作氏東 銀寺命宝の表図り 3 衆る、知の , 花代遺薄内 一九 ) 俳優座創立同人。生涯の当り役といわれみ出された文化を、このように も 化寺神と層風代れ暴新朋う法を時し宦筒時のな大 と 文照て寺重殿の一障 ( 同り筆さ当 ~ 景磁同入巧 た『桜の園』のラネーフスカヤ夫人は、築地小 呼び習わしている。 山慈 ? 照れ仏化ご弥の知い秀はば坡青く花積り 3 東山文化の時代は下剋上の 劇場での初役 ( 一九一一七 ) 以来、六三年 ( 昭和三 東①よじ慈はと文②阿政在堅優の蘭 3 ら筒てあ② 八 ) の俳優座公演まで三〇〇回に及んだ。西洋時代にあたっており、新興勢力 の近代古典劇のほか、日本の老婦人役でも資質がもたらす新しい風潮と、旧来 こんぜん を発揮。映画にも早くから出演し、とくに本下の伝統的な文化とが渾然と融合 かんろく おづやすじろう して独特の文化を生み出すとと 恵介、小津安一一郎監督作品に気品と貫禄のある もに、現代の日本人の生活様式 演技をみせた。六六年、女優として最初の文化 にまでも深い刻印を残した。東 功労者に選ばれる。自伝『新劇女優』 ( 一九五 0 がある。 〈祖父江昭二〉山文化の創造の中心をなしたの 東山天皇ひがしやまてんのう ( 一六七五ー一七 0 九 ) は義政という個性的な武家貴族 皇室系譜に第一一三代とされる天皇 ( 在位一穴七ではあったが、彼の周辺に集ま ナいエつも・れい・ん ごぎん ~ 一七 0 九 ) 。霊元天皇の皇子、母は法門院松木っていた五山派の禅僧や、公 あさひと 宗子 ( 内大臣宗条の娘 ) 。名は朝仁。一六八七家、武家 ( 守護大名とその家臣 どうばうしゅうあみ 年 ( 貞享四 ) 元服とともに受禅、即位して大たち ) ・同朋衆 ( 阿弥号をも じよう よしむね 嘗祭を挙行。この大嘗祭は将軍徳川吉宗によち、多くは出身地や家柄などが って一三〇年ぶりに復活されたもので、整備さ不明でありながらも、特定の技 人第雀桑をお れた朝幕関係の姿を示している。一七〇九年芸に際だった才能を認められて ばってき やすひとなかみかど ( 宝永六 ) 皇太子慶仁 ( 中御門天皇 ) に位を譲抜擢され、義政のそば近くに奉 った。陵墓は京都市東山区今熊野泉山町の月輪仕していた人たち ) の活躍が目 ぜあみ 〈奈倉哲三〉 だった。さらには世阿弥によっ お【な第 し東大和 ( 市 ) ひがしやまと東京都中北部、狭て大成された能 ( 猿楽能 ) をい っそう発展させた能芸者たち カ山丘陵の南側の市。一九一九年 ( 大正八 ) 六か ひ村が合併した際、大きく和すという意味で大和や、当時の社会で身分的には卑② つきのわ もた だい ① 4 1 4 411
転換を行っていたのと相まって、フランスにお由」団が、ともにパリで結成された。イタリア後、フランスではドゴール政府の 副首相として共産党のトレーズが 白水 O 、ふいて進行していた社会党、共産党、急進社会党国内では、ファシズム支配下の全時期を通じ < 複る んに知識人グループを加えた広範な統一行動をさて、五六〇〇人余が前記の特別裁判所に起訴さ入閣し、イタリアでは同じく共産 らに促進し、一九三六年六月、社会党のレオれ ( 死刑判決三三人 ) 、約一万人が流刑、約一党のトリアッティが副首相となっ た。東欧諸国では、ユーゴスラビ ン・プルムを首相とし、共産党の閣外協力に支六万人が「警察監視」の対象となった。 まを それに対して、秘密警察と強制収容所の体系アでチトーがパルチザンによる抵 えられた「人民戦線」政府を生み出した。さら に、これより先の同年二月、スペインでも、左がはるかに完備していたナチス・ドイツでの反抗運動の実績のうえに独自の共産 ファシズム運動の犠牲者の数は膨大であった。主義路線を打ち立てた。また、上 翼共和党のアサーニヤを首相とし、社会党と共 産党が閣外から協力する「人民戦線」政府が誕ヒトラー内閣成立直後の一九三三年の「強制的述のようなさまざまの反ファシズ , ル、カ 類 生した。この時点で、反ファシズム運動は、こ同質化」過程で強制収容所に入れられた政治的ム運動の経験と実績は、ドイツを のち 種 レ」 はじめとしたその他の国々でも、 の二つの「人民戦線」政府を頂点とする国際的拘留者は約二万七〇〇〇人、三四 ~ 四四年に 以の なレベルでの運動へと発展したといえる。そし「民族裁判所」によって死刑判決を受けた政治第二次大戦の惨禍のうえに生まれ己号 U の た新しい民主主義体制にとっての復儺 犯の数は五二〇〇余人であった。こうした体制 て、その直後にフランコ指揮下の軍部の反乱に 反冗 貴重な精神的支柱となった。 よって引き起こされたスペイン内戦は、「フア下での反ファシズム運動は困難を極めた。とく に戻る ) 、ダル・セーニョ D. S. ( に戻る ) な にドイツでは、社会民主党と共産党の二大左翼〔日本の場合〕日本では、反ファシズム運動の シズム対反ファシズム」の国際的な決戦場とな り、反ファシズム陣営の側は、コミンテルンを政党と労働組合がヒトラー内閣成立直後の諸事大規模な展開はみられなかった。欧米諸国で運どの記号を用いる方法がある。↓演奏記号 〈柴田典子〉 中心として、国際義勇軍をスペインに送り込ん件 ( とくに「国会放火事件」 ) を契機とした弾動の中心的基盤となった労働運動の成熟がなかダ・カーポ だ。しかし、この運動は、やがてスペイン支援圧によってその基幹組織を致命的に破壊されて ったうえ、共産党はコミンテルンが第七回大会反復強迫はんぶくきようはく repetition compulsion 聶 WiederhoIungszwang をめぐる国際政治のなかでの反ファシズム陣営しまったので、この系列の反ファシズム運動で「人民戦線」戦術への転換を行う前にすでに フラ T ・フロイ の足並みの乱れ ( とくにスペイン援助問題をめは、国外にそれぞれ新しい指導部を再建したも壊滅的打撃を受けていた。また一般に天皇制支 compulsion de répétition トによる精神分析用語。被分析者が精神分析の ぐるフランス国内の混乱 ) とスペイン人民戦線のの、国内においては残存する断片的組織の孤配の強化と区別された明確な「ファシズム」認 内部での混乱 ( とくにスターリンの粛清政治の立無援の闘争となった。ドイツの反ファシズム識も未成熟であった。その結果、「反ファシズ過程で、幼児期のある対象関係を想起するかわ 持ち込み ) によって壁にぶつかり、さらには、運動の特徴は、左翼運動の遺産を継承し社会主ム」という概念と緊密につながった存在としてりに、行為・行動でそれを分析者に向ける衝動 みのペ かわい は、わずかに美濃部達吉、河合栄治郎、雑誌現象のことをいう。たとえば、分析者に対し反 結果的に孤立することとなったソビエトが自己義運動としての発展を展望したこれらの「革命 の生き残りのために一九三九年八月、独ソ不可運動」型の運動のほか、権力機構内部からの反『世界文化』同人などの少数の自由主義的知識抗的で攻撃的な態度をとり続ける人は、気づか かっとう ないうちに幼児期の内的な体験 ( 両親との葛藤 侵条約を締結するに至って、各国共産党が混乱逆を代表し保守主義を基調とし軍人や高級官僚人が名をとどめているのみである。 ただ、欧米における反ファシズム運動の高揚体験 ) を再現していることになる。このよう を基盤とした「クーデター志向」型、知識人や するなかでいったんは衰退・分裂した。 に、幼児期に理解されないまま体験されたもの 教会関係者や無名の市民を基盤として、事の成は、アメリカの占領下に制定された日本国憲法 〔抵抗と弾圧〕しかし、そこに至るまでの間 における民主主義思想の格調高い強調という形は、成長したのちにも強迫的に反復されるので に、ファシズムの支配が確立したイタリアとド否を問うよりはドイツにおける良心の存在を証 あかし ある。 ィッの内外でも、弾圧に抗する必死の反ファシ明しようとした「良心の証」型を含めて三つのを通じて、そしてまた戦後初期の日本国民の間 での民主主義運動の高揚を通じて、戦後日本の 反復機制は、過去の対象関係が抑圧されたも タイプを生み出したことにある。「クーデター ズム抵抗運動がさまざまの形で展開されてい これまでのあり方に影響を与え続けてきたとい のであり、自らが不愉央な状況にたたされるに 志向」型の動きの代表例は、シュタウフェンべ た。イタリアでは、一九二五 ~ 二六年に、ファ える。↓人民戦線↓レジスタンス↓ファシズもかかわらず、無意識のうちに繰り返される シスト党以外の政党が解散させられたうえ、国ルク大佐ら陸軍参謀将校の一団による一連のヒ ム↓ナチス 〈山口定〉が、自らはその原因が現実的な状況のなかにあ トラー暗殺未遂事件 ( とくに一九四四年七月一一 家防衛特別裁判所の設置と政治犯に対する死刑 回山口定著『現代ヨーロツ。ハ政治史』上下 ( 一九ると思い込み、解決がみいだされるまで反復さ の導入がなされた。こうした状況のもとで、反〇日事件 ) であるし、「良心の証」型としては、 会・福村出版 ) ▽中井晶夫著『ヒト一フれるという特徴をもっている。この機制が不愉 ファシズム連動は、国内では非合法の地下活動・ポンヘッファー、・ニーメラトらの教会 ー時代の抵抗運動』 ( 一九全・毎日新聞社 ) ▽快な体験 ( 人間関係がいつも同じ不快な結果に を続けるほかはなくなった。知識人の間では、関係者やミュンヘン大学のショル兄妹による 森田鉄郎・重岡保郎著『イタリア現代史』なる ) を伴いながらも、なぜ、ある個人により クローチェのように自由主義の立場からの反フ「白バラ」運動などが知られている。 ( 一九七七・山川出版社 ) ▽アンリ・ミシェル反復されるのかについては十分に解明されてい 〔レジスタンス〕「人民戦線」運動として高揚 アシズムの一一一一口論をなお展開できる者も例外的に ない。なお、本人がなぜこのような行為・行動 著、霧生和夫訳『地下抵抗連動』 ( 白水社・ は存在したが、明確に反ファシズムの立場をとをみせた反ファシズム運動は、前述のような行 文庫クセジュ ) をとるのか、その意味を理解させるため、分析 き詰まりののち、第二次大戦末期になって、フ る者の多くは亡命を余儀なくされた。一九一一六 〈成田猛〉 者は解釈を行うことになる。 年末にグラムシを逮捕されたあとの共産党の指 ランス、イタリアならびにその他のナチスによ反復記 0 万はんぶくきごう repeat mark Repetitionszeichen ハイ五線記譜法に用いら回小此木啓吾・岩崎徹也・橋本雅雄・皆川邦直 って占領された国々で、占領軍に対する抵抗 導権は国外にいたトリアッティに引き継がれ、 編『精神分析セミナーⅢフロイトの治療技 二七年には、かっての「アベンティーノ反対派 ( レジスタンス ) 運動としてよみがえり、広範れる演奏記号の一種。曲の一部あるいは全体を 法論』 ( 一九盒・岩崎学術出版社 ) ▽西園昌久 反復演奏するように指示する記号。繰り返す部 な諸勢力を結集した。とくにフランス、イタリ 連合」の関係者によって「反ファシスト連合」 著『精神分析の理論と実際神経症編』 ( 一九 が、二九年には、 O ・ロッセリを中心とした急ア両国では、この運動を通じての共産党の発展分をとで囲む方法 ( 曲の初めから繰り返す 七五・金剛出版 ) ▽牧田清志・黒丸正四郎監 が目覚ましく、ナチス・ドイツからの解放直場合はを省略 ) や、ダ・カーポ D. C. ( 初め 進的自由主義の知識人たちにより「正義と自 / 寅奏順序 ABCABC ABCBC AABCBC ABCABD ABCDAB Fine 350
限らない。つまり、 4 はカの必要条件である し、両者で直立した指の端節下部をほば完全に た。そのため恋愛などにはまったく見向きもし た円以外の最初の曲線「円積曲線」の発見者と が、第であるための十分条件とは限らないので 包む。爪底の後部には指球の変化したクッショ されている。数学、天文学、文法、詩、音楽、なかった。テセウスの妻で彼の継母にあたるパ ていきゅう ン状の蹄球があり、爪壁の先端と爪底が着地ある。たとえば、「ある整数が 4 の倍数ならば イドラは、彼に不倫の恋をしかけるが拒絶さ 歴史などに通暁するとともにさまざまな手芸に ばくだい もたけ、ギリシア各地を旅して名声と莫大な富れ、テセウスに偽りの告げ口をして自殺する。する際、指骨に加わる衝撃を和らげる。ひづめその数は偶数である」は真であるが、その逆、 「偶数は 4 の倍数である」はかならずしも真で を得たとされるが、その姿は、プラトンの著作それを信じたテセウスは、ポセイドンに息子のは多くの哺乳類にみられる鉤づめが変化したも ホセイドンは、トロイゼンの海岸ので、典型的なものはイノシシ、シカ、ウシ、 『大ヒッピアス』と「小ヒッビアス』に活写さ死を願った。。、 いま、 4 がカの必要条件であると同時に、逆 れている。 〈鈴木幹也〉で戦車を駆っていたヒッポリトスに海の怪物をカモシカなどの偶蹄類、ウマなどの奇蹄類にみ かみ 比布 ( 町 ) び。ぶ ( ちょう ) 北海道中央部、上けしかけたため、彼は驚く馬に振り落とされてられる。ラクダ、サイ、バクなどでは蹄球が大に力もクの必要条件である場合を考える。する かわ ゾウでは、円錐 と力とは互いに他の十分条件にもなってい きく、ひづめの部分が小さい 川支庁管内の町。一九六二年 ( 昭和三七 ) 町制死ぬ。一説には、アルテミスが医神アスクレピ そうや る。このとき、 4 はカの、または第はの必要 施行。宗谷本線、国道三九号、四〇号が通じオスに命じて彼を生き返らせたともいう。また状に開いた五本の指骨の間に大きな蹄球があっ アテナイ ( アテネ ) やトロイゼンでは、彼は神て足底の大部分を占め、ひづめは小さくかっ足かっ十分条件、縮めて必要十分条件という。ま る。地名は比布川をさすアイヌ語に発し、その まっ 底の外縁にあるため、一見平づめのようにみえたカと 4 は同値であるともいう。 語義はピピペッ ( 石多き川 ) などと解されてい として祀られ、とくにトロイゼンでは、結婚前 るが、指骨端節の前面と下面を覆い爪壁の下縁 たとえば、一つの四辺形において「平行四辺 る。上川盆地の北部に位置し、石狩川本流が南の青年男女が神前に頭髪を奉納する祭祀があっ さんれい と爪底を地につけて歩くため、明らかにひづめ形である」ことと、「対角線が互いに他を二等 東縁を流れ、北縁の塩狩峠付近に発する山嶺支たと伝えられる。ローマの伝説では、馬車から あさひかわ 転落したヒッポリトスをアルテミス ( ディアである。ひづめは大形草食哺乳類に特有のもの分する」こととは、互いに必要かっ十分な条件 脈が旭川市北部との境界をなしている。この とっしようざん 〈古藤怜〉 山嶺の南端部突哨山は石灰岩が採掘され、まナ ) がローマ近郊のネミに運び、ウイルビウスで、重い体を支えて硬い地面を歩いたり走ったである。 Virbius と名をかえさせて、神として祀らせた た民営の自然公園がある。一八九一年 ( 明治一一 りするのに適し、指先が磨滅し、あるいは外傷必要条件ひつようじようけん necessary 〈今泉吉典〉 condition 二つの命題第ととを「ならば」 を受けるのを防ぐ。 四 ) 以降の植民区画後開拓が進み、水田中心のともいう。 農村として発展した。古くからイチゴ生産が知 ヒッポリトスの物語は、エウリピデスの『ヒ日詰ひづめ岩手県中西部、紫波郡紫波町で結合して「カならば 4 である」という合成命 られ、野菜、メロンなどの生産が増加してい ッポリトス』セネ力の『パイドラ』、ラシーヌ の中心地区。旧日詰町。古代は奥州藤原氏の一題をつくることができる。いま、この合成命題 ひづめとしひら る。北嶺山北西麓に町営のスキー場がある。人の『フェードル』に劇化された。〈伊藤照夫〉族樋爪俊衡の、中世は斯波氏の所領。江戸時代「カならば 4 である」が真、つまり、カが真で こおりやま ロ五四五七。 〈岡本次郎〉 ヒッポリトス Hippolytos 古代ギリシアは盛岡藩領で、郡山とよばれ奥州街道の宿駅、あるすべての場合について、いつもクが真であ るとする。このことは換言すれば「 4 が真でな 回『比布町史』一一巻 ( 一九六四、 会・比布町 ) 北上川舟連の河港として栄えた。↓紫波 ( 町 ) の悲劇作家エウリピデスの悲劇。紀元前四二八 ければけっしてカでない」こと、すなわち、 囮二万五千分の一地形図「協和」「愛別」「蘭年春、アテネの大ディオニシア祭に上演され、ヒ。ツメカニ〔蹄蟹〕 E ~ ミミ s じっきやく 留」「比布」 一等賞を得た。 節足動物門甲殻綱十脚目オウギガニ科に属す「カであるためには、 4 であることが必要であ アテネ王テセウスの妻バイドラは、義理の息るカニ。東京湾以南の西太平洋、インド洋に広る」ことを示している。したがって、「カなら 匹夫の勇ひつぶのゆう小人のただ血気には やるだけの勇気。小勇。匹夫は身分が低く、道子ヒッポリトスに初めて会ったときから激しい く分布し、岩礁の岩の割れ目や石の下、サンゴばクである」という命題において、 4 のことを 理のわからない者の意。『孟子』「梁恵王下篇」恋心を抱く。初めそれは不倫の恋として秘匿さ礁などにすむ。甲は扇形で、大形個体は甲幅五カであるための必要条件という。たとえば、 を超える。甲面は滑らかで、ごく浅く幅広い 「ある整数が 6 の倍数であれば、それは 3 の倍 に、「王請う、小勇を好むなかれ、それ剣を撫れていたが、強いエロスの力に負けて露見、し し、疾視して日、彼悪んぞ敢えて我に当たらんかもその求愛はヒッポリトスの厳しい拒絶にあ溝で甲域に分けられている。甲の前側縁には五数である」は真である。実際、一つの整数が 3 やと、これ匹夫の勇、一人に敵する者なり、王う。不倫の恋が夫に知られることを恐れたパイ歯あり、先端が鈍くとがる。はさみ脚は強大の倍数でなければ、それはけっして 6 の倍数と ぎんげん したがって、「 3 の倍数である」 請う、これを大にせよ」とある。〈田所義行〉 ドラは、ヒッポリトスを讒一一一一口する虚偽の遺書をで、両指の先端が馬蹄形に深くくばんでいるのはならない が和名の由来である。一様に暗褐色の個体が多ということは「 6 の倍数である」ための一つの ヒッポナクス Hipponax 生没年不詳。残して自殺し、ヒッポリトスもこの遺書をみた 〈古藤怜〉 いが、黒褐色の小点が一面にあるものもみられ必要条件である。↓十分条件 紀元前六世紀後半のギリシアの詩人。工ペソス 父テセウスの怒りに触れて破滅させられる。 りゅうきゅう せんしゅ に生まれたが、時の僭主たちによって追放され この作品は、愛の表現が露骨すぎて不評を買る。琉球諸島からは小形でじみな色彩のヒメ必要労働・剰余労働ひつようろうどう・じ ようよろうどう notwendige Arbeit, Mehrar ・ た。その後、クラゾメナイで極貧の生活を送っ った同名の先行作品 ( 断片 ) の改作とされるヒヅメガニ E. ミきや、大形で赤色のオオ たようである。コリアンポス ( 跛行ィアンポが、いずれにせよ『メディア』などとともに、 アカヒヅメガニ s d ミなど多くの近 beit 直接的生産者が自分と家族に必要な ひば・つ ス ) の韻律を用いて、敵に対する中傷誹謗をほ 悲劇の原因を人間の内面に求めようとするこの縁種が知られている。 〈武田正倫〉生活資料を生産するための労働を必要労働とい 、これを超えて行われる労働を剰余労働とい しいままにした。残っている詩はわずかな断片詩人の代表作の一つといえよう。〈丹下和彦〉必要十分条件ひつようじゅうぶんじようけん ハイドラー のみで、全体的イメージはとらえがたい。彫刻回松平千秋訳『ヒッポリュトス necessary and sufflCient condition 「カ : ( な う。生産力の発展とともに剰余労働が形成され るようになるが、階級社会が成立すると、剰余 家プパロスを攻撃して死に至らしめた話は有 の恋』 ( 岩波文庫 ) ▽田中美知太郎・藤沢令らば 4 である」という命題が真であるとする。 名。ヘレニズム期の詩人とくにヘロンダスの詩 夫他訳『エウリピデス篇Ⅱ』 ( 『ギリシア悲劇つまり、カが真であるすべての場合について、労働の生産物は生産手段の所有者のものとな 〈橋本隆夫〉 に大きい影響を与えた。 いつもが真であるとする。このとき、のこ る。たとえば、封建時代の賦役制度のもとで 全集 4 』所収・一九六 0 ・人文書院 ) は、農奴は分与地で自分たちの必要なものを生 、フヒッポリトス Hippolytos ギリシア神話ひづめ〔蹄〕先端を地につけて走るのに適とをカであるための必要条件、また、カのこと は」にゆ、つ よの英雄テセウスの子。青春のさなかにありなが した哺乳類のつめの一種。ひづめの基本構造はをであるための十分条件という。ところで、産するとともに、直営地で領主のために剰余労 そうへき っ ら、深くアルテミスを信仰していたヒッポリト鉤づめに等しいが、爪壁 ( 爪枝 ) が筒状に変化 「カならば 4 である」が真であっても、かなら働を行わなければならなかった。 せき ひスは狩猟を好み、山野を駆け巡 0 て暮らしてい して爪底 ( 爪蹠、爪床 ) がその筒の底を成形ずしもその逆、「 4 ならば力である」が真とは 商品生産が高度に発展した資本主義社会にお 5 かぎ きたかみ えんすい
しゅげんどう 伝来の民陶的色彩を伝え、日常食器類から芸術た。コロンプスは新大陸発見のとき、これをイテン ( バンタム ) 港に商館を開き、香料貿易に 、修験道の霊山。後山から駒の尾山の山麓にかけ 進出を企てた。しかし、その翌年同地に商館を 4 品まで産出する。荷神社境内のシイの木に寄ンドの一部と誤認し、「西インド」の名称でよ ては、一九三八年 ( 昭和一三 ) から開拓された し みのわせ 開いたオランダにより徐々に圧倒され、ことに 野開墾と称する畑地があり、美濃早生ダイコン生する顕花植物ャッコソウ発生地は国指定天然んだが、真相が知られてからも、便宜上従来の いおう 〈由比浜省吾〉 記念物。国道三号沿いに単純硫黄泉の湯之元温東洋貿易の目的地を「東インド」とよぶ習慣がオランダのジャカルタ獲得 ( 一六一九 ) や、アンポ : しごうち ひを特産する。人口一四六四。 イナ事件に端を発したイギリスのモルッカ諸島 囮二万五千分の一地形図「叫河内」「千草」「坂泉があり、行楽地としてもにぎわう。人口一万できた。この東インドの産物のうちでもとくに こしょっちょうじ ふるまち 〈白石太良〉 ヨーロッパ市場で喜ばれたのは、胡椒、丁子、からの撤退 ( 一六一一三 ) などにより、オランダはっ 根」「古町」 肉豆蒄などの香辛料 ( 香料 ) であった。このた いに東インド貿易の最終勝利者となった。しか 東伊豆 ( 町 ) ひがしいす ( ちょう ) 静岡県東部、回『東市来郷土誌』 ( 一九天・東市来町 ) いじゅう こおりやま 賀茂郡にある町。伊豆半島の東海岸に位置す囮二万五千分の一地形図「薩摩郡山」「伊集め、香料の原産地であるモルッカ諸島 ( 香料諸し、その排他的な貿易方針は、これまでアジア きとう くしきの なが寺 1 と いなとり 島 ) の争奪が繰り返され、やがて一六世紀末に各地商人が営んでいた地域的貿易をも衰退さ 院」「串木野」「長里」 る。一九五九年 ( 昭和三四 ) 稲取町と城東村が 合併して改称。北部に天城連峰の主峰万三郎 東祖谷山 ( 村 ) ひがしいややま ( そん ) 徳島県なると、新教国であるイギリスとオランダの両せ、かえって自分の首を締める結果となった。 つるぎ みよし また一七世紀中ごろからジャワ土着君主の王位 岳、万二郎岳がそびえ、山地が急斜面をなして南西部、三好郡の村。剣山地の東部を占め、西国もこの競争に加わるようになった。 ポルトガル、スペインの場合、海外貿易は王継承戦争にしばしば介入して領土を拡張し、香 海岸に迫り、平地は狭小。海岸線に沿って伊豆祖谷山村とともに、長く秘境祖谷と称された山 間村である。剣山に発する祖谷川沿いに集落が室の独占事業で、本国の身分制度を反映した階料貿易から商業用作物栽培に転身を図った。早 急行線、国道一三五号が通じる。温暖多雨の気 かんきっ くからオランダ東インド会社の直轄領となって 候を利用して柑橘栽培が盛ん。ナッミカンの生点在し、右岸を国道四三九号が走る。中心地区級制が保たれていた。一方イギリス、オランダ きようじよう おちゅうど いた西部ジャワのプリアンガン地方では、綿 産量は県下一を誇る。稲取港は東海岸の中心的の京上には平家の落人の子孫といわれる阿佐の場合は、中世末期に地中海沿岸で発達した経 な漁業基地。伊豆急行の開通で急速に発展し、家があり、赤旗など平家ゆかりの品を保存して営形態を受け継いで、商人仲間が共同出資で貿糸、藍、胡椒などの栽培を奨励し、各地区の首 あたがわ ほっかわ あとで利益を分配する初期資本主義長からこれらの作物を会社が定めた値段で買い いる。米、ジャガイモ、サツマイモなどを栽培易を行い、 熱川、稲取、大日 , 北川などの温泉は東伊豆温 泉郷をなす。バナナ・ワニ園、ゴルフ場など観し、クリ、ミツマタ、コウゾなどの林産物もあ的な性格を備えていた。しかし東インド貿易が取る制度が、一七世紀末ごろから成立した。こ よせむね 光施設が整備され、観光客は年間一四〇万人をる。木村家住宅は江戸中期の寄棟造、茅葺きの盛んになると、次々に小会社が設立され、同国れを義務供出制とよび、やがて一八世紀初めに コーヒーのジャワ移植が成功すると、その栽培 〈川崎文昭〉主屋のほか隠居屋があり、国の重要文化財に指人の間での過当競争の結果、利潤は減少した。 数える。人口一万七〇三三。 にも義務供出制が適用され、その供出量は一七 囮二万五千分の一地形図「天城山」「稲取」「湯定されている。過疎化が進み、挙家離村の廃屋たとえば、一五九五年から一六〇二年までの間 〈高木秀樹〉 二五年には四〇〇万ポンドを突破したといわれ に東インドに渡航したオランダ船隊は一四、船 も多い。人口三二五〇。↓祖谷 ヶ島」「湯ケ野」 る。これは当然ヨーロッパ市場におけるコーヒ 数は六五隻と伝えられる。 東出雲 ( 町 ) ひがしいすも ( ちょう ) 島根県東回『東祖谷山村誌』 ( 一九天・東祖谷山村 ) やす なかうみ イギリスの場合も、すでに一六世紀中ごろか ー価格の暴落を招き、会社は現地首長からのコ 部、八束郡の町。中海南岸に位置し、松江・安囮二万五千分の一地形図「剣山」「北川」「阿波 くまめるい おおばけ ーヒーの買値を切り下げた。このように会社の 中津」「京上」「久保沼井」「大歩危」「東土らいくつかの会社が存在していた。一六〇〇年 来両市に挟まれる。一九五四年 ( 昭和二九 ) 揖 あだかや エリザベス一世は東インド会社 British East 方針がしばしば変わったために、現地では絶え 居」 屋町と出雲郷、意東の二村が合併して成立。山 陰本線、国道九号が通じる。意宇川流域一帯は東岩瀬ひがしいわせ富山市北部の一地区。 lndian Company に特許状を与えて、東インず紛争が起こり、利潤は思うようにあがらなか じんづう ド貿易を一手に行わせることにした。特許状に 古代出雲国の中心で条里遺構が残る。一九一四旧東岩瀬町。神通川河口右岸にあり、富山湾に かわひがし みつびし は貿易のみならず、海外での法律作成、同国人 オランダ東インド会社の貿易不振の原因の一 年 ( 大正三 ) 創業の佐藤造機 ( 現三菱農機 ) は面す。河東七浦の一つで、富山藩政時代から きたまえ えっちゅう つは、会社職員の不正貿易にあった。つまり、 北前船による越中米の積み出しで栄えた。東の密貿易処罰、条約締結、戦争遂行、貨幣鋳造 町内に約三〇余の関連下請けをもつ。かまばこ 会社勘定以外に個人の貿易品を運搬したり、売 生産も盛ん。中海の魚貝類を売り歩くことに始岩瀬港は大正末期から富山市の外港として富山などについての決定権が定められ、会社という 買して私腹を肥やしたのである。会社は最初厳 まる「揖屋の行商」で知られる。人口一万一五工業地域を背景に栄え、対満州・朝鮮貿易の重よりは一独立国家に等しい権力を備えていた。 〈江村幹雄〉要港でもあった。一九四三年 ( 昭和一八 ) 富山二年後に成立したオランダ東インド会社 Vere- 罰主義で臨んだが、のちにはその禁止を断念し 〇七。 港となり、現在は富山新港の補助港的役割を果 enighde Oost lndisch Compagnie も、ほばて、個人貿易の限度額を定めたりした。しか 回『東出雲町誌』 ( 一九天・東出雲町 ) いうまでもなく効果はあがらなかった。 たしている。↓富山 ( 市 ) 〈深井三郎〉同様の特権をオランダ連邦議会から与えられし、 囮二万五千分の一地形図「揖屋」「広瀬」「松 たまっくり 一七四一年のファン・インホフの改革案、一 た。イギリスの会社に比べて資本額は一〇倍で 回『東岩瀬史料』 ( 一九三三・東岩瀬町 ) 江」「玉造」 あり、また航海ごとに会社を設立、解散せずに七九二年のファン・ホーヘンドルプの改革案な 東市来 ( 町 ) ひがしいちき ( ちょう ) 鹿児島県囮二万五千分の一地形図「富山港」 ひおき がいしやイキリ どは、いずれもオランダ東インド会社の時代遅 恒常的な組織を保つ世界最初の株式会社と称さ 西部、日置郡にある町。一九三七年 ( 昭和一 東インド会社ひがしー 一 l) 町制施行。町名は古代、市来院の東半を占ス、オランダ、フランスなどで、東洋貿易実施れる。しかし、この会社の前身である六つの会れの貿易独占政策をやめさせ、自由貿易を振興 めることによる。町域の大部分はシラス台地上のため一七世紀初めに設立された独占的特許会社は、統合後も陰に陽に対立を続け、アムステしようとするものであったが、頑迷な会社幹部 ふきあげはま は耳を傾けなかった。フランス革命に続くヨー ルダム支部が優位を保った。また重役会は会社 社。設立の年はイギリスが一六〇〇年、オラン にあるが、西部には吹上浜砂丘と江口蓬莱とよ し ロッパの戦乱により、一七九三年からフランス ぶ海食崖が連なる。鹿児島本線と国道三号、一一ダが〇二年、フランスが〇四年であるが、フ一フの経理を公開せず、配当を恣意的に行うなど、 七〇号が通じる。中世まで市来氏が鶴丸城に拠ンスの場合は、六四年に再組織されるまで活動非民主的な点が多く、たびたびの改革要求にも軍のオランダ進攻が始まった。オランダ総督一 のまき かかわらす、一八世紀末の解体に至るまでほと家はイギリスに亡命して、九五年オランダはバ り、近世は島津氏の直轄領で野牧が置かれた。せす、三国のうちでもっとも不振であった。 ばくだい タビア共和国となった。それに伴って莫大な負 主産物はタバコ、スイカ、茶などで、江口漁港〔成立の事情〕一五世紀末以来の相次ぐ大航海んど変わらなかった。 けいちょう みやま なえしろがわ の煮干しも有名。美山 ( 旧苗代川 ) は慶長年により、ポルトガル、スペインの両国はそれぞ〔オランダ東インド会社の盛衰〕一六〇二年に債を抱えたオランダ東インド会社は九八年に消 さつま イギリスはインドネシアのジャワ島西部のバン滅した。 ~ 一六一五 ) 以来の薩摩焼の本場で、朝鮭れ東回り、西回りの航路で東洋貿易に進出し 間 ( 一五九六 や あまぎ さんろく いん かやぶ つ 0
ひろしま 至 ~ 新至ーへ鳥づ取県至しよう イ白耆ヘイツ , ー。ペ " ・い・道帝第国定公園伯 ー・、、△「 268 猿政、み・心 ~ 木 あ 1 4 ・、・・△ 9 三国亠簽 野神・杯・線 比婆君 / .- 、朝暮貯ノ 光山 . △ 844 至大を ー 32 。 134 広島県 1 ( ー ) 女 至工一至ご、つ 峠 ) 別所 「・ 94 ラ ・ひっ . らゆ、つ 砂。冠亠田 大伴 889 △ 日卞三医労、 . キ・比婆道後。、ゝ 岡山県 / ・ウ国 ~ ム庫、い 間 8 △ 総頁志風亠 、備中 600 川」野峡 ) 艷士舎・・、・甲奴 △引 3 、 / 笠亠 / 島根県 木郡 イこ断層帯 一主ま亠 9 だ 冰明寺 、伏亠 △ 79 ー 屋峠高宮・ . ・ . 逆 - 200 至・益第 引・・、 . 天狗石山・ ! ↑、 亀谷峠 ツ、△ⅱ 92 つ ~ ・、、躡・ " ・・に佐大 , 大磐門 ・、中国い地国・枩 田 世「水椎谷 国も 0 本 26 本 23 ィ↑・」イを 3 ・イ・木 大箒滝山峡 醗電所 , 加計安、 さ郷に / 。すい一岩タ , 、賀ー 小船場 西中国山叫定 . ) 引 湯来しノ山汚泉 士和・ 冠亠用・一東郷亠 津温来汜 頭 35 △ 星居 下志和 下坂・、 705 △ 亠、家工 地千代 喜田郡 城跡 高林坊 可大土亠三和 / 土師ー立 800 △メ又 向、平林。。。 / ・下 鷹ノ 白木山季ツ、 広 % 200 △ ? 05 639 △・ △ 62 郡岳 ~ ~ 郡 1 ノ千代・ は明神タム「 860 : 南 . 発電所南原峡 エーし・ ( 、、 . っーし曵一、ヤ〒 を塾 、 0 和本べ冬井・ 大草・、 ( 卍並滝寺玉広ー舅 郷温ま午 仏通寺 白 0 ( 竹林等用喩山 ノ大崎 松承 ^ 仏通寺御調八幡宮 ( 新幹ぶ線 , 」い月一跡 . 〃、 冫田万 本郷 ・沼隈 ⅱ水寺 仁賀 0 竹、 . 新 ' . 給 " 、 = - 、・さ向島百島・一・内毒可伏兎岬 、一、五日市 200 廿、日市 所久野島亶良 . / - 厳島神社 宇治島、 ・ア瀬甲・ 畭佐 後攤 、亠宮 本竹 ' 。 0 を第芻 ) 0 ' 第戸 豊田、 ムヒ 佐郡 島一 3 島。 小瀬 三角島 阿多卩 大黒神島に 。 , 黒島・・をゝ屋 - 比 能美 ド .. 、島「度来群游海面 予諸島 倉橋・ 広島・、、湾 3 ・、黒島鹿島 今治 ・广、 . 賀市 922 ・福富 △ 699 贏 0 △ 565 ・、 ー 004 △、 - ) 々宇亠 △ 682 、 . 次郎に元 . / ム 0 △ 660 水丸亠 ハ三亠 茂郡 - 、 ー 040 △ 佐イ Ⅱ 09 △ 908 羅 : 横亠郷友田 ・府中 一原 し - 」田安、 佐伯 野 至山 △ 702 △ 608 をを亠ムエにしき、な・よ、 ート 0 刈 至にゆうか : わ くやま 業で栄えた。中国山地では藩経営によるたたら 製鉄が行われ、また、イグサ栽培と備後表の製 かすり 造、備後絣、安芸本綿、太田川流域のアサ栽培 などが奨励された。↓広島藩↓福山藩 〔近・現代〕一八七一年 ( 明治四 ) 廃藩置県に ふかっ より広島県と福山県が誕生し、福山県は深津 県、小田県、岡山県を経て七六年広島県へ編入 された。八九年の市町村制施行で広島市のほか 四六四町村が誕生した。その後瀬戸内海沿岸に 人口が増加し、明治から大正にかけて尾道市 ( 天九 0 、呉市 ( 一九 0 一 D 、福山市 ( 一九一六 ) が次々 と生まれた。 一八七二年広島城内に広島鎮台が置かれ、の につしん ち第五師団となった。九四年の日清戦争の際は 広島市が臨時首都となり大本営、帝国議会も開 かれ、宇品港は軍事輸送に重要な役割を果たし た。以後、広島市は軍都として発展の歩みを進 めた。一方、呉には八九年鎮守府が置かれ、海 - 一うしよう 軍工廠も設けられて、軍港として重要な役割 を担うこととなった。文教面では明治三〇年代 までに県下に多くの中等学校、女学校が設立さ れ、一九〇二年 ( 明治三五 ) には高等教育機関 として広島市に広島高等師範学校が置かれた。 昭和に入り、日中戦争、太平洋戦争と戦時色 が濃くなり、一九四五年 ( 昭和二〇 ) 四月には 第二総軍司令部が広島市に置かれた。四五年八 月六日には広島に原爆が投下され、二〇万人近 い死者を出す惨状となった。なお米軍の空襲に より、呉市は市民だけで約二〇〇〇人の犠牲者 を出し、福山市も約三五〇人の死者を出す被害 を被った。 昭和三〇年代に入って生産県構想が出され、 重化学工業を中心に工業が発達し、広島、呉、 大竹、三原、福山各市を中心に多くの工業が立 地した。一九六三年には福山市を中心とした備 後地区が工業整備特別地域となった。 一九七三年の石油ショック以降、高度成長型 の工業にもかげりがみえる。広島中央テクノボ リスの指定を受けたこともあり、エレクトロニ クスやバイオテクノロジーなどの先端工業の発 展が期待されている。 至叩井ゃない 857