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検索対象: 日本大百科全書 19
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1. 日本大百科全書 19

はんがく まんド」レ画う たなペ がっ れいじよ しゅう 算術、習字、習礼⑤一八六九年 ( 明治一 D 思 ①母里藩②松平 ( 越前家 ) 氏 - 一う ①宮津藩②松平 ( 本庄 ) 氏学校 ①田辺藩②安藤氏③文政礼譲館 うかん 修道館 どうかん ノ〈 ~ 三 0 ) ④漢学、和学〔維新後〕和③一八一八年 ( 文政一 ) ④漢学、習字、算術③明和年間 ( 一実四 ~ 七一 l) ④漢学、算術、習字斉館と改称。 年間 ( 一、一 わきさか たつの ①龍野藩②脇坂氏③一、 くかん 学、漢学、洋学、算術、習字⑤教授熊代繁里〔維新後〕漢学、洋学、医学、算術、習字、習〔維新後〕漢学、皇学、算術、習字⑤各家塾敬楽館 さわべほくめい 三四年 ( 天保五 ) ④漢学、習字〔維新後〕漢 に分散し統一校舎などなし。 ⑤教授沢辺北冥 ( 折 ) 。一八六九年 ( 明治 ( 国学 ) 。初め講堂・学館と称し、安政年間 ( 一〈 またのたつけん かんが ①広瀬藩②松平 ( 越前家 ) 学、習字、習礼、医学⑤教授股野達軒 ( 朱 ) 。 くしょ 一 l) 洋学・医学を加えて文武館と改称。 漢学所 五四 ~ 六 0 ) 修道館と改称、一八七〇年 ( 明治三 ) きよう′一く 学校と改称。 敬業堂叮①峰山藩②京極氏③文政氏③一八〇一年 ( 享和一 ) ④漢学、算術、初め文武稽古所と称し、のち学館と改称、さら しんぐう に敬楽館と改称。 くしょ ①新宮藩②水野氏③他年間 ( 一〈一〈 ~ = 0 ) ④漢学、習字〔維新後〕漢医学〔維新後〕和漢学、洋学、習字、医学、 漢学所 みかづき うんのしらん ぶんか ・ : っギ一よ ①三日月藩②森氏③一七 うかん 算術⑤教授海野紫爛 ( 朱 ) 。一八七一年 ( 明広業館 年間 ( 天 0 四 ~ 一 0 ④漢学、習字〔維新後〕国学、習字、算術、洋学⑤文化年間 ( 天 0 四 ~ 八六八年治四 ) それまで分散していた家塾を統合して修九七年 ( 寛政九 ) ④漢学、和学、習礼⑤教 学、漢学、習字⑤教授宇井塁庵。塁庵の家塾一 0 以前に読書手跡稽古所を置く、一 ふなびきぶんよう 授深沢君山 ( 国学 ) 、船曳文陽 ( 徂 ) 。一八六九 を起源とす。一八六九年 ( 明治一 l) 育英堂、翌 ( 明治一 ) 敬業館と改称。ほかに小学校、欧学文館と称す。 年 ( 明治一 l) 総教所と改称。 校を設置。 年学校と改称。 ①赤穂藩②森氏③一七七 博文館 んかん 〔石見国〕 長善館ん①浜田藩②松平 ( 越前家 ) 七年 ( 安永六 ) ④漢学〔維新後〕漢学、洋 〔但馬国〕 〔丹波国〕 : っゾ」 がっ ①石藩②仙石氏③一七氏③一七九一年 ( 寛政三 ) ④漢学⑤教授学、習字、算術、和学、雅楽⑤一八六八年 ①亀山藩②松平 ( 形原 ) 氏③ 弘道館 うかん 学校 かえい おギ一さとうかい むったなくら 小篠東海 ( 徂 ) 。陸奥国棚倉へ転封後の嘉永年 ( 明治一 ) 開成義塾 ( 洋学 ) 、翌年進修塾 ( 漢 元禄年間 ( 一六公 ~ 一七 0 四 ) ④漢学、数学、習字、七五年 ( 安永四 ) ④漢学、習字⑤教授桜井 ィ一一やま たんば 日 ( 天哭 ~ 五四 ) に有政堂 ( 漢学 ) 設置、さらに学、習字 ) を置く。 習礼⑤教授両角王渓 ( 朱 ) 。丹波国篠山在封東亭 ( 仁 ) 。初め学問所と称し一七八二年 ( 天 かわ ) 一え ー ) も - つけ まいくん 明一 I) 弘道館設置、一八七〇年 ( 明治三 ) 女学下野国宇都宮を経て武蔵国川越へ転封した一八 時に創設、亀山移封後校内に邁訓堂 ( 文学、習 六七年 ( 慶応三 ) に長善館 ( 和学、漢学、習〔美作国〕 礼 ) 、広徳館 ( 句読、数学 ) 、鉄門館 ( 習字 ) な校を設置。 きよう′一く とよおか しゅう ①津山藩②松平 ( 越前家 ) ①豊岡藩②京極氏③一 八字、算術〔維新後〕和学、漢学、習字、洋学 ) 修道館 どうかん どを置く。 稽古堂 ' らんがく 氏③一七六五年 ( 明和一 l) ④漢学〔維新 ①篠山藩②青山氏③一七三三年 ( 天保四 ) ④漢学、習礼、蘭学〔維新を置く。 振徳堂純 つわの ようろ ①津和野藩②亀井氏③一後〕皇学、洋学、習字、算術、漢学⑤教授大 後〕漢学、習礼、蘭学、習字、算術、国学⑤ 六六年 ( 明和三 ) ④漢学、算術、習字、習礼 養老館 うかん いけおみ 〔維新後〕皇学、漢学、洋学、習字、習礼⑤教授田中立卿 ( 朱 ) 、宮本池臣 ( 国学 ) 、岡田松七八六年 ( 天明六 ) ④漢学、国学、医学、算村蘭林 ( 闇 ) 。初め学問所と称し一八七〇年 1 一うさい なんびん ふっそ ( 明治三 ) 改称。 教授関南瀕 ( 仁 ) 、渡辺弗措 ( 折 ) 。一七八六年亭 ( 蘭学 ) 。一八七〇年 ( 明治三 ) 女学校を置術⑤教授山口剛斎 ( 闇 ) 、大国隆正 ( 国学 ) 。 ①勝山藩②三浦氏③一七 明善館 んかん く、また一八三四年江戸藩邸内にも稽古堂 ( 漢 ( 天明六 ) 養正斎 ( 文学 ) 、成始斎 ( 習字 ) を加 六四年 ( 明和一 ) ④漢学〔維新後〕漢学、習 学、習字 ) 設置。 設。 〔播磨国〕 かいばら 字、算術⑤教授石井晦逸 ( 朱 ) 。初め学問所 ①小野藩②一柳氏③一、 ①村岡藩②山名氏③一八 ①柏原藩②織田氏③一六 帰正館い んかん 日新館 崇広館第こ 、一じましようさい と称し一八六九年 ( 明治一 l) 仮学校、翌年明善 九五年 ( 元禄八 ) ④漢学⑤教授小島省斎六九年 ( 明治一 I) ④和学、漢学、算術、習字四一年 ( 天保一 (l) ④漢学、国学、算術、習 館と改称。 ( 朱 ) 、田村眉山 ( 朱 ) 。一八五〇年 ( 嘉永三 ) ⑤一八三二年 ( 天保三 ) 明倫館 ( 漢学、習字 ) 字⑤教授大国隆正 ( 国学 ) 。 たづた あかし えちぜん ゅうしん どうが けいぎ ①鶴田藩②松平 ( 越智 ) 氏 くかん ①明石藩②松平 ( 越前家 ) 道学館 を設置するもまもなく衰退、一八四九年 ( 嘉永敬義館 かん 又新館を設置、一八五七年 ( 安政四 ) 崇広館と 氏③一八六九年 ( 明治一 D ④漢学⑤一七③一八六七年 ( 慶応三 ) ④漢学、習字⑤教 一一 ) 講習所を置く。 称す。 かわばたせいさい ゃなだぜいがん ぶんか そのペ 一九年 ( 享保四 ) 以降梁田蛻巌の家塾景徳館を授河鰭省斎 ( 朱 ) 。 ①園部藩②小出氏③文化年間 講堂 ますぎ 藩校とす。 ( 天 0 四 ~ 一 0 以前④漢学、習字⑤教授馬杉〔因幡国〕 トやっ - 、 じよてい しよう ①三草藩②丹羽氏③一、 〔備前国〕 うかん とくかん ①鳥取藩②池田氏③一七顕道館 暘谷 ( 古 ) 、脇屋恕亭 ( 古 ) 。一八七〇年 ( 明治向徳館 ①岡山藩②池田氏 五七年 ( 宝暦七 ) ④漢学、和学、算術、習字六七年 ( 慶応三 ) ④漢学、習字、算術〔維新花畠教場 * 3 新 三 ) 教先館と改称。 やまが ちどう 後〕漢学、習字⑤顕道館設置以前は江戸藩邸③一六四一年 ( 寛永一八 ) ④漢学、習礼⑤ ①山家藩②谷氏③不明 〔維新後〕和学、漢学、医学、算術、習字、習 致道館 かん みのうらせいぎん 一六六六年 ( 寛文六 ) に仮学館 ( 漢学、習字、 ⑤教授箕浦靖山 ( 朱 ) 。一八六九年 ( 明治内に仮学校を置く。 ④漢学、習字、習礼⑤初め学問所と称す。 あやべ けいぎよ しんと ①林田藩②建部氏③寛政習礼 ) 、一六六九年に学校 ( 漢学、習字、習礼 ①綾部藩②九鬼氏③一七 (l) 医学寮設置、また一八四三年 ( 天保一四 ) 敬業館 うかん 進徳館 くかん 年間 ( 一大九 ~ 0 一 ) ④漢学、和学、洋学、医学、〔維新後〕皇学、漢学、英学 ) を設置す。 江戸藩邸内に学問所 ( 漢学、習字 ) 設置。 一五年 ( 正徳五 ) ④漢学、習字、習礼⑤一 算術、習字、習礼⑤教授生田維直 ( 朱 ) 。 八六五年 ( 慶応一 ) 篤信館と改称。 あんじ おがさわら ふくちゃま めいり とんめ ①安志藩②小笠原氏③一 〔備中国〕 ①福知山藩②朽木氏③一 〔出雲国〕 明倫堂 んどう 惇明館 いかん ・めーしもり えちぜん ぶんめ ⑤ 八四四年 ( 弘化一 ) ④漢学、習字、習礼 追琢舎 い蟻①足守藩②木下氏③一七 ①松江藩②松平 ( 越前家 ) いかん 八〇九年 ( 文化六 ) ④漢学、習字、習礼、算文明館 九二年 ( 寛政四 ) ④漢学、習字、算術、医学、 一七一八年 ( 享保三 ) 学問所 ( 漢学 ) を置く 術〔維新後〕漢学、習字、習礼、算術、洋学、氏③一七五八年 ( 宝暦八 ) ④漢学、算術、 ぶんせい いわやこうだい 故実⑤文政年間 ( 天天 ~ 三 0 ) に一時途絶、そ 医学 ( 漢・蘭 ) 〔維新後〕皇漢学、洋学、算も、のち衰退。 英語⑤教授巌谷嵩台 ( 仁 ) 、近藤義制 ( 朱 ) 。 、 0 も↓・く・つく けんけ の間読書場 ( 漢学 ) を設置。 ①福本藩②池田氏③一、 術、医学 ( 漢・蘭 ) ⑤教授桃鹿 ( 朱 ) 、桃西乾々館 んかん ①庭瀬藩②板倉氏③一八 河 ( 朱 ) 。一七八四年 ( 天明四 ) 明教館と改称、五五年 ( 安政一 l) ④漢学、習字〔維新後〕漢誠意館 かん 〔丹後国〕 てんめい たな・ヘ めいり ①田辺藩②牧野氏③天明一 八六三年 ( 文久三 ) 大亨館 ( 武術 ) と明教館学、習字、算術⑤一八六九年 ( 明治一 l) 時習二三年 ( 文政六 ) ④漢学、習字〔維新後〕漢 明倫斎 んさい 字、習字、算術⑤教授森田葆庵 ( 折 ) 。一六 とを文武館と総称、一八六五年 ( 慶応一 ) 文武館と改称。 年間 ( 一天一 ~ 瓮 ) ④漢学、算術、習字、習礼 てんまう ぶんきゅう てきほ カくも ①山崎藩②本多氏③天保九九年 ( 元禄一一 D 藩邸内に学館を置く。 学所 ー尸、んじよ ⑤教授野田笛浦 ( 朱 ) 。文久年間 ( 一会一 ~ 六四 ) 館を修道館と改称、また一八〇六年 ( 文化三 ) 学 存済館 ( 医学 ) を設置。 年間 ( 天三 0 ~ 四四 ) ④漢学「維新後〕和漢学、 思誠館 」①親見藩②関氏③一七五 藩明倫館と改称。 びさん ささやま くつき かたはら ぶんせい せんごく ぶんせい みくさ ひとつやなぎ ほんだ たかま・ ~ えちぜん かんせい くんざん ないいっ ほうあん えちぜん 255

2. 日本大百科全書 19

はんがく よど てんめい ①淀藩②稲葉氏③一八六 ⑤一八三四年 ( 天保五 ) 稽古所 ( 武術 ) を設置。 んかん 時の天明年間 ( 一天一 ~ 瓮 ) 江戸藩邸内に就将館土井贅牙 ( 折 ) 。一八六九年 ( 明治一 l) 整暇堂明親館 こおりやま きようほう ぞうし ①郡山藩②柳沢氏③享保 かん ( 兵学 ) 、育成館 ( 医学 ) 、洋学館 ( 洋学 ) 、修文〇年 ( 万延一 ) ④漢学、習字、算術〔維新造士館 ( 漢学 ) を設置。 後〕漢学、習字、算術、国学、洋学⑤教授南年間 ( 一七一六 ~ 三六 ) ④漢学、習礼〔維新後〕和 館 ( 文学 ) を置く。 わたなぺいかりまる 崇広堂 〔尾張国〕 ①津藩②藤堂氏③一八一一摩羽 ( 朱 ) 、渡辺重石丸 ( 国学 ) 。一八五八年学、漢学、洋学、算術 ( 和・洋 ) 、習字 , ⑤教 おぎゅうきんこく ( 安政五 ) には江戸藩邸内に学校を設置。 授荻生金谷 ( 徂 ) 、藤川冬斎 ( 徂 ) 。初め稽古所 ①名古屋藩 ( 尾張藩 ) ②徳一年 ( 文政四 ) ④漢学、習字、習礼、算術 明倫堂 * 刊 かんえい と称するも一八六九年 ( 明治一 l) 敬明館、翌年 川氏③寛永年間 ( 一六一一四 ~ 四四 ) ④漢学、和学、〔維新後〕漢学、国学、洋学、習字、習礼、算 げんろく うえの へいしゅう ~ 一七 0 四 ) に 造士館と改称、また元禄年間 ( 一六会 〔摂津国〕 算術、習字、習礼⑤教授細井平洲 ( 折 ) 。創術⑤伊賀国上野に設置。 あまがさき けいあん せいぎよ ひ著、い ①尼崎藩②松平 ( 桜井 ) 氏は江戸藩邸内に文武教場 ( 漢学、教授荻生徂 ①久居藩②藤堂氏③一 正業館 うかん 設時は学問所 ( 漢学 ) と称するも慶安年間 ( 一六 久居学校 がっ一ごっ げんたん は・はー ) た 八六九年 ( 明治一 l) ④漢学〔維新後〕国学、③一八七〇年 ( 明治三 ) ④漢学、洋学、算術、徠、谷口元淡 ) を置く。 ~ 五 (l) に廃絶、一七四八年 ( 寛延一 ) 巾下学 たわらもと めいり ①田原本藩②平野氏③一 んかん 問所 ( 漢学 ) として再興、一七八三年 ( 天明漢学、習字、医学⑤一八六六年 ( 慶応一 I) 開習字⑤教授中谷雲漢 ( 徂 ) 。一八一五年 ( 文明倫館 八六八年 ( 明治一 ) ④和学、漢学、習字⑤ 化一一一 ) 止善館 ( 漢学 ) を設置。 三 ) に明倫堂と改称、一八七一年 ( 明治四 ) 中設の句読所 ( 文学 ) を起源とす。一八六九年に たかっき ー」ゅレとっ こうどう 菁莪堂が①高槻藩②永井氏③寛政のち択善館と改称、一八四一年 ( 天保一一 l) に 学校・小学校に編成、また江戸藩邸内には弘道習書寮、翌年種痘館も置く。 年間 ( 一大九 ~ 天 0 一 ) ④漢学、習字、習礼⑤稽古所 ( 漢学 ) を設置。 館 ( 漢学、英学 ) を設置、維新後は名古屋洋学 めいり ①柳本藩②織田氏③一、 んかん 教授三崎主礼、並木晴宇 ( 折 ) 。 明倫館 〔志摩国〕 校 ( 仏学、算 ) も置く。 しよう けいど S うか①麻田藩②青木氏③寛政六八年 ( 明治一 ) ④漢学、習字、算術。 ①鳥藩②稲垣氏③一、 直方堂たどう ①犬山藩②成瀬氏③一、 しかん 向志館 敬道館 うかん はんりつ①櫛羅藩②永井氏③一 一一四年 ( 文政七 ) ④漢学〔維新後〕漢学、読年間 ( 一天九 ~ 天 0 一 ) ④漢学、習字、習礼、算藩立学校がっこう 四〇年 ( 天保一一 ) ④漢学、和学、算術、習 いくえもん 八六四年 ( 元治一 ) ④皇学、漢学、習字。 書、算術、習字⑤教授小浜斎 ( 折 ) 、鷹羽術⑤教授吉川幾右衛門、山口太四郎 ( 朱 ) 。 字、習礼⑤教授戸田勉室 ( 古 ) 。 うんそう めいり ①高取藩②植村氏③一、 明倫館 んかん 一八六九年 ( 明治一 l) 文武局と改称。 雲淙 ( 朱 ) 。 きてい くき さんだ ぞうし さんけい 七〇年 ( 明治三 ) ④漢学⑤教授上田淇亭 ①三田藩②九鬼氏③一、 ①鳥羽藩②稲垣氏③一、 かん 造士館 三計塾 じゅく 〔伊勢国〕 ①長島藩②増山氏③一七七一年 ( 明治四 ) ④皇学、漢学、洋学⑤近一八年 ( 文政一 ) ④漢学、習字、習礼、洋学 ( 折 ) 。 文礼堂硺 しらす せんきょ ①芝村藩②織田氏③一六 ⑤教授近藤顧一郎 ( 朱 ) 、白洲退蔵 ( 朱、洋遷喬館 うかん 一三年 ( 享保七 ) ④漢学⑤教授天木時中藤真琴 ( 洋学、洋算 ) 。 レ」レ」キ一・はい ~ い 学 ) 。一六九四年 ( 元禄七 ) 白洲良幹 ( 朱 ) 邸九六年 ( 元禄九 ) ④漢学、習字、算術〔維新 ( 闇 ) 、十時梅厓 ( 仁 ) 。 りつきょ 後〕皇学、漢学、算術、習字、習礼⑤教授北 に隣接して国光館 ( 漢学 ) を設置。 ①桑名藩②松平 ( 久松 ) 氏 〔近江国〕 立教館 うかん し J ′、 . しト - ひこわ 村篤所 ( 仁 ) 。一八七〇年 ( 明治三 ) 明喬館を ①彦根藩②井伊氏③一七 ③寛永年間 ( 一六一一四 ~ 四四 ) ④漢学、習字、算術、弘道館 みやけたんあん 設置。 洋学⑤教授三宅澹庵 ( 朱 ) 。初め桑名朝日丸九九年 ( 寛政一一 ) ④漢学、和学、習字、習〔河内国〕 たんなん ①丹南藩②高木氏③一 礼、算術、医学、洋学、天文地理⑤教授三浦丹南学校 がっ一う に設置、のち陸奥国白河へ転封、伊勢国桑名再 つぐよし 八六八年 ( 明治一 ) ④漢学、習字⑤教授森〔紀伊国〕 元苗 ( 国学 ) 、田中世誠 ( 徂 ) 。創設時稽古館と 入封に際しても転封先にて継続。 ほんだ かんべ がくしゅ きよう ①和歌山藩 ( 紀伊藩 ) ②徳 学習館 、つかん 六余山 ( 徂 ) 。 ①神戸藩②本多氏③一八一称し一八三〇年 ( 天保一 ) 改称、さらに一八、 教倫堂 りんどう かえい 川氏③一七一三年 ( 正徳三 ) ④漢学、国学、 九年 ( 明治一 l) 文武館と改称。 簡修館 かゅ①狭山藩②北条氏③嘉永 一一年 ( 文化九 ) ④漢学、国学、習字、習礼 かさはら らんがく やまがみ ぶんぶ ノ〈 ~ 五四 ) ④和学、漢学⑤教授笠原蘭学、洋学、算術、習礼〔維新後〕国学、漢 年間 ( 一、四 ①山上藩②稲垣氏③一、 〔維新後〕漢学、国学、習字、算術⑤教授長文武館 かん ぎおんなんかい げ , れキ一 / 、 ほうざん 学、洋学⑤教授陰山東門 ( 仁 ) 、祇園南海 六九年 ( 明治一 l) ④和学、漢学、算術、習字玄策、森鉄之助。 野豊山 ( 朱 ) 、川村竹軒 ( 朱 ) 。寛政年間 ( 一大九 とうり もとおりとよ ( 朱 ) 、荒川天散 ( 仁 ) 、山本東籬 ( 折 ) 、本居豊 ~ 天 0 一 ) に学校 ( 漢学 ) 、文化年間 ( 天 0 四 ~ 一 0 ⑤教授渡辺春政 ( 朱 ) 。江戸藩邸内には文武講 かのうもろひら 穎 ( 国学 ) 、蝦敬父 ( 医学 ) 、加納諸平 ( 国学 ) 。 究所 ( 漢学 ) を置く。 〔和泉国〕 に進徳堂 ( 漢学 ) を設置。 きしわだ にんしようじ こもの 第一うしゅ しゅう ①岸和田藩②岡部氏③一 初め講釈所 ( 漢学 ) と称し、のち講堂と改称、 講習館 うかん ①菰野藩②土方氏③一八 日新館 雋れ①仁正寺藩②市橋氏③一 修文館 ぶんかん 一七九一年 ( 寛政三 ) 学習館に改編、ほかに一 八五二年 ( 嘉永五 ) ④漢学〔維新後〕洋学 一六年 ( 文化一三 ) ④漢学、習字、習礼〔維七九六年 ( 寛政八 ) ④漢学〔維新後〕漢学、 挈、うまきゅうほう りゅうせきしゅう ⑤教授相馬九方 ( 徂 ) 。一八六七年 ( 慶応三 ) 七九二年医学館 ( 医学 ) 、一八五六年 ( 安政三 ) 習字、算術⑤教授劉石秋 ( 折 ) 。 新後〕漢学、国学、洋学、算術、習字、習礼 あんせい みなくち うさみじよすい ①水口藩②加藤氏③一、 修武館 ( 武術 ) 増設、一八七〇年 ( 明治三 ) 分国学所 ( 国学 ) 、安政年間 ( 一会四 ~ 六 0 ) 岡山文 ⑤教授南川定軒 ( 仁 ) 、宇佐美如水 ( 折 ) 。初め翼輪堂勤 れいたく 武場 ( 武術、蘭学 ) 設置、学習館は一八六九年 八一一一五五年 ( 安政一 l) ④漢学〔維新後〕和学、漢校として文学館 ( 習字、数学 ) を設置。 南山蒋山 ( 仁 ) が麗沢館として創設、一 りつえん ( 明治一 l) 武芸場を分離して学校と改称。 ①伯太藩②渡辺氏 伯太仮学校 ( 」かり 六年 ( 天保七 ) 修文館設置、一八六九年 ( 明治学、算術、習字⑤教授中村栗園 ( 朱 ) 。一、 めいきょ ①和歌山藩 ( 紀伊藩 ) ②徳 ③一八六八年 ( 明治一 ) ④漢字、習字⑤教明教館 うかん 七一年 ( 明治四 ) 尚志館と改称。 一一 ) 学制を改革して顕道館と改称。 てんぼう おおみそ しゅう 川氏③一七九二年 ( 寛政四 ) ④漢学、国学、 ①大溝藩②分部氏③一七授熊谷厳毅 ( 朱 ) 。天保年間 ( 天三 0 ~ 四四 ) に講 ①亀山藩②石川氏③一七 修身堂 しんどう 明倫舎 2 羇 蘭学、洋学、算術、習礼⑤江戸藩邸内に設 八五年 ( 天明五 ) ④漢字、習字、算術、習礼義開始、当時は陣屋の書院を使用。 九〇年 ( 寛政一 D ④漢学、算術、習字〔維新 けいおう 」わ - っ - つ らんけい 置、慶応年間 ( 一会五 ~ 六 0 文武場と改称、一、 後〕皇朝学、洋学、漢学、習字、算術⑤教授⑤教授中村鸞渓 ( 仁 ) 、川田甕江 ( 朱 ) 。 はんだ びさん 五六年 ( 安政三 ) 国学所 ( 国学 ) 、安政年間 ①膳所藩②本多氏③文化 〔大和国〕 山本眉山 ( 朱 ) 、小崎利準 ( 朱 ) 。一八六九年遵義堂れ やゅう ( 一会四 ~ 六 0 ) 蘭学所 ( 洋学 ) を設置。 年間 ( 一八 0 四 ~ 一 0 ④漢学、習字、習礼、算術修文館 ぶん①柳生藩②柳生氏③一 ( 明治一 l) 明倫館と改称。 レ」、つ / つ らんがく カくも ①和歌山藩 ( 紀伊藩 ) ②徳川 七〇年 ( 明治三 ) ④漢学、皇学、洋学⑤教学所 日ーんじよ 「維新後〕国学、蘭学⑤教授皆川淇園 ( 折 ) 、 ①津藩②藤堂氏③一八二 有造館 きくろ はせがわ 氏③一八〇四年 ( 文化一 ) ④漢学、国学 授長谷川雲外。 黒田麹廬 ( 折 ) 。 〇年 ( 文政三 ) ④漢学、習字、算術、天文学、 せ しゅう ⑤伊勢国松坂に設置、一八六六年 ( 慶応一 l) 学 ①小泉藩②片桐氏③一八 修道館 どうかん 習礼、医学〔維新後〕漢学、習字、算術、国 せつどう 六八年 ( 明治一 ) ④皇学、漢学、習字、算術習館と改称。 〔山城国〕 学、洋学、習礼、医学⑤教授斎藤拙堂 ( 朱 ) 、 か・れ・入い しようざん ぶんか なるせ ひじかた かんせい あまぎじちゅう ぜいが わけべ きえん せいか たかのは ぶんか 寺一やま かたぎり かんせい くしら 254

3. 日本大百科全書 19

うじゃくすい しよぶつるいざん かりんへんろ げいもんるいじゅう とゆう ってん の杜佑 ( 七五三ー全一 l) は『通典』二〇〇巻を編文殿御覧』『華林遍路』『芸文類聚』などをあ生若水は『庶物類纂』を編し、三六二巻まで (l) に複製された。 よしむね 清書して没した。将軍吉宗はこれを惜しんで母〔近代〕明治の百科事典編集は、文部省で開始 7 し、古代から天宝まで ( 七五五 ) の食貨 ( 経済 ) 、げている。 わしようはく へんしゅう みつくりりんしよう された。編輯寮頭箕作麟祥はチェンバーズの や選挙、職官、礼楽、兵制、州郡、辺防などに類〔古代 ~ 中世〕最初の類書は、滋野貞主らによ波正伯に続集を命じ、一七四七年 ( 延享四 ) 『国民知識事典』守こミミ、 the PeoPle 別し、その史料の精粋をつかむこと正史に勝る八三一年勅撰の『秘府略』一〇〇〇巻で最に正編一〇〇〇巻、補編五一四巻で完成した。 ふ ひ 大最高であった。いまわずかに「百穀」と「布和漢の物産を本草書から地誌、紀行まで広く探第五版二巻 ( 無刊記 ) の全訳を一八七三年 ( 明 ると評価されている。南宋の馬端臨 ( 一一一 0 五ー ぐんせきよう おおえのおとんど 七四 ? ) はこの後を継いで、一一三四年までの政」の一部が現存する。大江音人の『群籍要って比類のない類書とした。そのほか日本歴史治六 ) に開始し、『百科全書』と命名。七四 ~ ともま寺、 ぶぎよう かいぶんるいじゅう すがわらのこれよし 八四年九三編でほとんど全訳、八三 ~ 八五年に 治、経済、文教などの文化史の文献を分類編集覧』四〇巻、菅原是善編『会分類聚』七〇巻有職の類書の大作がある。書物奉行浅井奉政 して『文献通考』三八五巻に収めた。同じく南などは滅び去った。日本的類書の芽は、源 ( 一六九七ー一当四 ) 編『事纂』一二一巻 ( 一七 = 四成 ) 、丸善はこれに索引をつけて三巻として発行し くぎよう ていしよう した′一う わみようるいじゅしよう 公卿高橋宗直 ( 一七 0 一ー 会 ) 『宝石類書』一三〇た。次に西村茂樹は、神宮司庁の援助で『古事 宋の鄭樵 ( 二 0 四ー六一 D も杜佑に倣い、『史記 順の『倭名類聚鈔』一〇巻である。名詞を だいてんけんじよう こうちょうじえん るいえん から『隋書』までの文化史を検討して『通志』分類別に並べて、和訓を万葉仮名で付し、出典巻 ( 一毒一序 ) 、大典顕常編『皇朝事苑』四巻類苑』を編集、九六年帝王部を出版、一九一四 くろだともあり ( 一七全刊 ) 、畔田伴存『古名録』八三巻 ( 天四三年 ( 大正三 ) 索引を刊行し洋装五〇巻を完成し 二〇〇巻とした。断代の正史を古今通じた諸文をあげたものであり、これにはさらに、分類一一 まさよし もずめたか 化史でとらえた特色がある。清の乾隆帝 ( 高四門を三二門に増補した二〇巻本もある。その成、一八九 0 刊 ) がある。尾崎雅嘉 ( 一七五五ー一全七 ) た。日本類書の集大成であった。また、物集高 み ためのり くちずさみ 門人源為憲は『ロ遊』一巻 ( 九七 0 ) をつくっての『事物博採』は漢土五四巻、皇朝三〇巻、各見は独力で日本的類書『広文庫』二〇巻と『群 宗 ) はこの「三通」を継いで『欽定続文献通考』 しげのぶ 書索引』三巻を一五 ~ 一六年に出版した。 いる。藤原誠信の教育のため、天地人一九門の別に広くとって各一九門に分類している。 二五二巻 ( 一七四七 ) 、『欽定続通典』一四四巻 ( 一七 うきち 江戸中期になると、日本の事物を和文で解説 ヨーロッパ式百科事典は田口卯吉によって開 六七 ) 、『欽定続通志』六四〇巻 ( 一七六七 ) を編せし最小の類書であり、歌謡の形式で親しみやす く、記憶に便利な特色がある。児童百科事典のし、古書珍籍から抽出分類した日本式類書が出始された。彼はまずポーン Henry Born 編 めた。また、清朝の文化史を「欽定皇朝文献通 るいじゅうめいぶつこう まつあけ 考』一一六一巻 ( 一七四七 ) 、『欽定皇朝通典』一〇〇起源である。鎌倉末期 ( 一三世紀末 ) の『塵現した。山岡浚明の『類聚名物考』三四二巻『 P 。ミぎ、 Cyc 一ミを『泰西政事類典』四 八二 ~ 八四年に発行、また『大 巻 ( 一七六七 ) 、『欽定皇朝通志』一一一六巻 ( 一七六七 ) 袋』 ( 著者不詳 ) 一一巻は事物起源についてのである。日本の事物に関する古典珍籍の抜き書巻に訳し、一、 きをつくり、三二部に配列し、各事項ごとに総日本人名辞典』四巻を八四 ~ 八六年に出版し に編せしめた。さらに南宋の宋白の『続通典』 問答体の形式をとっているが、この影響で僧 ぎようよ あいのうしよう おうき 説、引用文、異説、考証、結論を行った ( 一九た。次に、「日本社会事彙』三巻を一 ( 逸書 ) と明の王圻の『続文献通考』二四四巻行誉は『墸嚢鈔』一五巻 ( 一四四五 ) をつくった。 力がくしゅ・つ 一九〇一年に刊行、再版、三版で好評を得た。 があるが、乾隆帝はその不備を改めた。清末にその前年には『下学集』二巻ができている。〇五年七冊発行 ) 。その孫弟子にあたる当時の ゅうそくこじっ やしろひろかた りゅうきんそう 劉錦藻は一九〇五年『皇朝文献通考』三二〇これは、通俗用語に有職故実まで加えて和訓を大学者屋代弘賢は、国学の隆盛に伴い、国書の彼はさらに「エンサイコロペチャ・ジャポニ ンごっ→っ′、はの、つ 巻を編し、清朝末までに四〇〇巻 (一九 (l) に増あげたもので、著者は東麓破衲というから禅僧類書の必要を感じて進言し、幕命で一大類書をカ』を目標としていたが、実現をみすに没し しゅう 、」 - 一んようらんこう とういんきんかた た。「現代の大家が専門の学術を分担執筆する」 補した。正続各三通に皇朝三通を加えて「九であろう。洞院公賢は有職故実を中心に『拾編集することになった。『古今要覧稿』である。 じつつう 力いしよう 芥抄』三巻を編した。この両書は江戸時代に中途で弘賢が死亡し、後任者を得ないので、浄という彼の目標は、一九〇八年 ( 明治四一 ) に 通」と称し、劉錦藻編を加えて「十通」ともい さんせいどう ちゅういち ぶんめい 書本五一八巻を献呈して中止されたが、これは第一巻が発行された三省堂亀井忠一の『日本 われる。 増補して使われた。文明年間 ( 一五世紀末 ) に せつようしゅう 〔現代〕西洋の方式を取り入れた最初の百科事『節用集』が成立し、江戸時代には辞典から家「類聚名物考』によりながら、各藩の学者にそ百科大辞典』一〇巻に受け継がれた。しかし、 の藩の事物の実査をしてもらうなど、実証主義大家の原稿の取りまとめと、挿画・写真の完全 典は陸爾発ら編の「辞源』上中続三冊で、一九庭の実用書としても利用された。 〔江戸時代〕江戸時代には中国的類書が先行し的であった ( 国書刊行会一九〇八年版は、稿本化は投資力を超え、一二年 ( 大正一 ) 、第六巻 一三年に上中編、二九年に続編が出た。また四 せいすけ てきさい きんもうず 三年に新版が発行されている。ほかにも春明出た。中村惕斎は『訓蒙図彙』一一〇巻で中国の事を加えて約七〇〇巻を『古今要覧稿』六冊とし発行後破産し、斎藤精輔が同辞典完成会をつく り一九年に索引を入れた一〇巻目が完成した。 版社版『新名詞辞典』 ( 一九四九 ) と同社編新華書物を図説した。一六六六年 ( 寛文六 ) 初版序、て刊行 ) 。類書の形式を庶民生活全体に広げ、 どうぶんかん しようのすけ また、同文舘主森山章之丞は、ドイツ式に全学 店発行の『世界知識辞典』 ( 一九五九 ) の小形百科増訂版九五年 ( 元禄八 ) である。九四年には宮その起源、発展、現代までを考証した類書で、 ゃなぎたくにお ひらずみかねみち みちさと 問の専門事典発行の計画をたてたが、大事業で 川道達編『訓蒙故事要言』一〇巻、平住周道作その独創的実証に柳田国男が賞賛しているの 事典がある。なお、中国では一九七八年、八〇 いんてい きゅうしようらん ・一きようまく はっとりなんかく ー一八五六 ) の『嬉遊笑覧』負担に耐えず破産し、同刊行会によって完成さ 冊一〇万項目の企画が定まり、八〇年胡喬木『唐土訓蒙図彙』一四巻 ( 一七一九序 ) 、服部南郭は、喜多村庭 ( 一天三 ? かどづけ ) が主任となって『中国大百科全書』『大東世語』五巻 ( 一七 0 四序 ) と続いている。伊一二巻である。江戸の食住習慣から遊芸、門付れた。すなわち、次のとおりである。『商業大 そうしょ めいぶつりくちょう 辞書』六巻 ( 一九 0 五 ~ 00 、『医学大辞書』八巻 が発行され始め、カラー写真、分類式で、外国藤東涯『名物六帖』三一巻は白楽天の『白氏まで二七門に収めている ( 日本芸林叢書刊 ) 。 幕末にはオランダ系百科事典の翻訳が行われ ( 一九 0 六 ~ 一 0 ) 、『法律大辞書』五巻 ( 一九 0 九 ~ 二 ) 、 文学二冊、戯曲、曲芸、天文学、法学、環境科六帖』の書名によったが、中国の制度・事物を らんやく 解説した類書で、高弟奥田士亨の校訂で一七一一た。幕府が購入した蘭訳ショメル『日用百科事『教育大辞書』六巻 ( 一九 0 七 ~ 00 、『哲学大辞書』 学、紡織が刊行されている ( 一九 ) 。 かいばらえぎけん 台北の中国文化大学、中華学術院編『中華百六年 ( 享保一一 ) に刊行された。貝原益軒の典』ミ s ミミミ 00 、 de こ。を、天文方六巻 ( 一九 0 九 ~ 一 l) 、『エ業大辞書』八巻 ( 一九 0 九 ~ かげやす おおっきげんたく 科全書』二〇巻が張其昀監修で一九八一年完『和漢名数』二巻 ( 一六七 0 、同続一一巻 ( 一六九五 ) は高橋景保を通じて、馬場佐十郎、大槻玄沢らが llll) 、『経済大辞書』九巻 ( 一九一 0 ~ 一六 ) 。 ふざんばう はがやいち 冨山房の坂本嘉治馬は芳賀矢一と下田次郎編 要領のよい類書である。中国型類書の傑作に医翻訳を命ぜられたものである。しかし、馬場は 成。 はこだて りようあん わかんさんさいずえ 『日本家庭百科事彙』二巻 ( 一九 0 六 ) をはじめ大 二年後箱館に去り、高橋は一八二九年 ( 文政一 〔その他〕韓国には『東亜原色世界大百科事師寺島良安の『和漢三才図会』一〇五巻 ( 一七 (l) シーポルト事件に連座して死んだため、翻出版を次々に行っていたが、一九三四年 ( 昭和 会 ) がある。 一五 ) がある。明の王圻の『三才図会』の形式に 典』三〇巻 ( 一九全 ~ より全体を九六類に分類した図説で現代百科事訳は医学本草に限って進行を許され、終期は明九 ) から『国民百科大辞典』一五巻を発行、三 ようあん 日本 らかでないが宇田川榕菴の死で中絶した。正式七年に完成した。これは、プロックハウス方式 典の先駆である。医師の科学的研究法によっ しもなかやさぶろう いて、伝説を信ぜず、合理的、実証的で、異説も名は『厚生新編』七〇巻で、静岡県立中央図書で成功した。平凡社の下中弥三郎は、世界国家 日本では、唐から輸入の類書がもつばら用 あおい ほんぞう 館葵文庫で存在が確認され一九三七年 ( 昭和一と教養を主義として出版を続けていた。『大百 られた。「日本国見在書目録』にも『物始』『修注記しており、現代にも通用する。本草学者稲 挈 - ・つは / 、 ぶくろ レ彎つルい しげののさだめし ちり まるぜん

4. 日本大百科全書 19

はんがく 五年 ( 宝暦五 ) ④漢学、習字、習礼⑤教授算術、国学、音楽〔維新後」漢学、音楽、医国学、医学、洋学 ( 英・仏・独 ) 、算術⑤教医学寮設置。 らん ー ) トつい , れ 授新井水竹 ( 朱 ) 。初め学問所と称し一八六九 丸川松隠 ( 朱 ) 。 学 ( 漢・蘭 ) 、天文、地理、算術、習字、習礼 おぐらしゅうさい やまがたしゅうなん ゅうしゅ ①松山藩②板倉氏③一七⑤教授小倉尚斎 ( 朱 ) 、山県周南 ( 徂 ) 、山県年 ( 明治一 I) 学問所に医学校・洋学校を併合し 〔土佐国〕 有終館 うかん きよう ①土佐藩②山内氏③一七 四六年 ( 延享三 ) ④漢学、和学、医学⑤教大華 ( 朱・徂 ) 、津田東陽 ( 徂 ) 。一八六〇年て長久館と改称、一八七一年には北小学校 ( 読教授館 じゅかん すおう ろくさん 六〇年 ( 宝暦一〇 ) ④和学、漢学〔維新後〕 授石川鹿山 ( 朱 ) 。創設時学問所と称し寛政年 ( 万延一 ) 周防国山口の講習堂 ( 漢学、習字、書、手習、算術、地理 ) を設置、なお一八五六 こ、つじよう かえい 算術 ) を支校として鴻城明倫館と称す、また年 ( 安政三 ) 江戸藩邸内に長久館 ( 漢学、洋和学、漢学、算術、習字、洋学⑤教授宮地為 間 ( 一大九 ~ 天 0 一 ) 改称、また嘉永年間 ( 天哭 六二年 ( 文久一 D 致道館と改称。 五四 ) 以前江戸藩邸内に学問所 ( 漢学、和学。有一八四一年 ( 天保一 (l) 江戸藩邸内に有備館学、習字、算術 ) を置くも一八六四年 ( 元治斎 ( 闇 ) 。一八、 一 ) 閉校。 ①土佐藩②山内氏③一、 ( 漢学 ) を設置。 医学館 終館とも称す ) を設置。 かん なんえん ①萩藩 ( 長州藩 ) ② 四三年 ( 天保一四 ) ④医学 ( 漢・洋 ) ⑤教授 敬学館 くかん ①岡田藩②伊東氏③一七南苑医学所 しがくじよ 田中寿 ( 漢医学 ) 、山本信卿 ( 洋医学 ) 。一八四 九五年 ( 寛政七 ) ④漢学、習字、習礼⑤教毛利氏③一八四〇年 ( 天保一一 ) ④医学〔伊予国〕 の しゅうひっ きんがく よ、っせ ①小松藩②一柳氏③一、 ( 漢・蘭 ) 、洋学⑤教授青木周弼 ( 洋学 ) 、能 五年 ( 弘化一 l) 沢流館と改称、一八六六年 ( 慶 授佐野琴壑 ( 朱 ) 。 養正館 いかん なりわ めいわ みどうあん きんが 〇二年 ( 享和一 l) ④漢学、習字⑤教授近藤応一 l) 開成館開設に伴い合併さる。 ①成羽藩②山崎氏③明和美洞庵 ( 蘭医学 ) 。のち済生堂と改称し、一、 勤学所 ばいたっ しようあん 年間 ( 一七六四 ~ 七一 I) ④漢学⑤教授波多野松庵五〇年 ( 嘉永三 ) 好生館と再改称、一八五六年篤山 ( 朱 ) 。創設時培達校と称し、一八〇三年 ( 朱 ) 。維新後学校と改称。 ( 安政三 ) 好生館から博習堂を分離して明倫館 ( 享和三 ) 改称。 〔豊前国〕 寺いド ) トっ おがさわら しえい 内へ移して好生堂と改める。 ①小倉藩②小笠原氏③一 択善堂 ①西条藩②松平氏③一、 思永斎 じ上うせん 博習堂袈れゆ①萩藩 ( 長州藩 ) ②毛利氏〇五年 ( 文化一 l) ④漢学⑤教授日野醸泉七五八年 ( 宝暦八 ) ④漢学、習礼、医学〔維 〔備後国〕 たわら やまのいはくすけ - ) うど ①福山藩②阿部氏③一七③一八五六年 ( 安政三 ) ④洋学⑤教授田原 ( 朱 ) 、山井璞輔 ( 朱 ) 。文久年間 ( 天六一 ~ 六四 ) 新後〕和学、漢学、洋学、医学、算術、習字 弘道館 うかん りんしゅう げんしゅう のみりゅうあん ⑤教授石川麟洲 ( 朱 ) 。麟洲の家塾を起源と 八六年 ( 天明六 ) ④漢学⑤教授伊藤竹坡玄周 ( 洋学、兵書 ) 、能美隆庵 ( 洋学、医書、以降は文武館とも称す。 しま - な」り - 一くめ ①今治藩②松平 ( 久松 ) 氏す、一七八九年 ( 寛政一 ) 思永館と改称、一、 ( 仁 ) 、北条な薯 ( 朱 ) 。一八五四年 ( 安政一 ) 文法書 ) 。好生館から分離して設置、一八六五克明館 いかん らんがく みたじり ③一八〇五年 ( 文化一 l) ④漢学〔維新後〕漢六九年 ( 明治一 D 育徳館と改称、また一七九一 誠之館 ( 漢学、国学、蘭学、算術、習字、習年 ( 慶応一 ) 三田尻海軍学校へ併合す。 とよら ぶんせい けいぎよ 礼 ) を設置、また文政年間 ( 一 ①長門府中藩 ( 豊浦藩 ) ②学、国学、洋学、医学、習字⑤教授長野囂斎年江戸藩邸内に思永館出張所 ( 漢学 ) を置く。 八天 ~ 三 0 ) 江戸藩敬業館 うかん せいちゅう なからい 1 ) あん しんしゅ ①中津藩②奥平氏③一七 邸内に学問所 ( 漢学 ) 設置、学問所も一八五四毛利氏③一七九一年 ( 寛政三 ) ④漢学、算 ( 闇 ) 、萩原西疇 ( 折 ) 、半井梧庵 ( 国学 ) 。創進修館 うかん おださいせん 年誠之館と改称。 術、習字、習礼、音楽⑤教授小田済川 ( 徂 ) 、 設時講書場と称し、一八〇七年改称。 九六年 ( 寛政八 ) ④国学、漢学、洋学、医学 なんがい ・、・つ . はりりト曾っしし画 うすき めいきょ ①松山藩②松平 ( 久松 ) 氏 ( 漢・洋 ) 、算術、習字⑤教授倉成竜渚 臼杵横波 ( 朱 ) 、小田南駭 ( 朱 ) 。 明教館 、つかん きょすえ てんほう 〔安芸国〕 ①清末藩②毛利氏③一七③一八二八年 ( 文政一一 ) ④漢学、習字〔維 ( 仁 ) 、渡辺重名 ( 国学 ) 。天保年間 ( 天三 0 ~ 四四 ) 育英館 * くえ いかん 八七年 ( 天明七 ) ④漢学、習礼、算術⑤教新後〕漢学、習字、皇学、算術⑤教授高橋復江戸藩邸上・下屋敷内にも藩校 ( 名称なし ) を 修道館れ鷲ん①広島藩②浅野氏③一、 はうべん 六六年 ( 慶応一 l) ④皇学、漢学、洋学、医学授片山鳳翩 ( 徂 ) 。 斎 ( 朱 ) 。一八〇五年 ( 文化一一 ) 考徳館 ( 漢学 ) 置く さかたにろうろ えん 設置、一八〇九年江戸藩邸内に三省館 ( 漢学、 ⑤教授阪谷朗廬 ( 朱 ) 、村田良穂 ( 国学 ) 。延 習字 ) を置く。 享年間 ( 一七四四 ~ 四 0 稽古屋敷を設置、一七八 〔豊後国〕 〔讃岐国〕 むいっ ①立石藩②木下氏③一八 ①高松藩②松平氏③一七求道軒 どうん①新谷藩②加藤氏③一七無逸館 かん 二年 ( 天明一 D 学問所 ( 漢学、医学 ) を設置、講道館 八〇年 ( 安永九 ) ④漢学、習字、習礼、音楽、 八三年 ( 天明三 ) ④漢学、習字、習礼⑤教三七年 ( 天保八 ) ④漢学、習字。 また江戸藩邸内には講学所 ( 漢学 ) を置く。 しぎん ともやすみふゅ きざん きっき がくしゅ 洋学、和学⑤教授後藤芝山 ( 朱 ) 、友安三冬授児玉暉山 ( 朱 ) 。一八六九年 ( 明治一 l) 求道 ①杵築藩②松平 ( 能見 ) 氏 学習館 うかん らんがく ( 国学 ) 。一八六五年 ( 慶応一 ) 洋学校 ( 蘭学、館と改称。 ③一七八八年 ( 天明八 ) ④漢学、習字、算術 〔周防国〕 おおず きっかわ ようろ ①岩国藩②吉川氏③一、 英学、仏学 ) 、皇学寮設置、なお一七〇二年止善書院明倫堂竑んん①大洲藩②加〔維新後〕和学、漢学、洋学、算術、習字⑤ 養老館 うかん たまのきゅうか きようほう しようえん 四七年 ( 弘化四 ) ④漢学⑤教授玉乃九華 ( 元禄一五 ) 講堂 ( 漢学 ) を置くも享保年間 藤氏③一七四七年 ( 延享四 ) ④漢学⑤教教授矢野蕉園 ( 折 ) 、元田竹渓 ( 折 ) 、物集高 ゅうきん ( 徂・朱 ) 。一七五四年 ( 宝暦四 ) 講堂 ( 漢学 ) ( 一七一六 ~ 一七三六 ) 中絶。 授川田雄琴 ( 陽 ) 、松岡清渓 ( 朱 ) 。一八〇〇年世 ( 国学 ) 。 きよう一く たどっ じめい ちどう ①多度津藩②京極氏③一 ( 寛政一一 l) 再建に際し明倫堂と改称、一 ①日出藩②木下氏③一八五 を設置、一八五四年 ( 安政一 ) 医学館 ( 医学 ) 自明館 かん 八一致道館カん を設置、医学館は一八六一年 ( 文久一 ) 愛知 八六八年 ( 明治一 ) ④漢学、皇学、習字⑤〇年 ( 文化七 ) 江戸藩邸内に知習堂 ( 漢学 ) を 八年 ( 安政五 ) ④漢学、洋学、和学、習字、 めらとうきよう 置く 館、一八六九年 ( 明治一一 ) 医学校と改称。 一八七一年文武館と改称。 習礼、医学、算術⑤教授米良東矯 ( 折 ) 。ほ も : つ新・ まるがめ ぶんか はあしばんり 、一うじよ じかん ①吉田藩②伊達氏③一七かに文化年間 ( 天 0 四 ~ 一 0 帆足万里 ( 折 ) の邸 ①徳山藩②毛利氏③一七正明館 いかん ①丸亀藩②京極氏③一七時観堂 どう 興譲館 うかん けい・一 / につ 八五年 ( 天明五 ) ④漢学、国学、医学 ( 漢・ 九四年 ( 寛政六 ) ④漢学、習字、皇学⑤教九四年 ( 寛政六 ) ④漢学、国学、習字⑤教内に藩費で稽古堂 ( 漢学、洋学、医学 ) を設置。 い・ゅ、つ * ~ い ゅうせい ほ・んしトつー ) , れ おゅう ゅうえ 洋 ) 、算術、習字、習礼⑤教授本城紫巌授渡辺柳斎 ( 闍 ) 。のち明倫館と改称、一 ①府内藩②松平 ( 大給 ) 氏 八一一授森退堂 ( 折 ) 、本間游清 ( 国学 ) 。一八六九年遊焉館 んかん けんぎん ( 徂 ) 、小川乾山 ( 朱 ) 、福間青海 ( 朱 ) 、桜井魁五年 ( 文政八 ) 敬止堂 ( 皇学、漢学 ) を設置、 ( 明治一 l) 文武館と改称す。 ③一七七一年 ( 明和八 ) ④漢学、算術、習字、 うわじま えん めいほう せいそん ないと ①宇和島藩②伊達氏③一習礼⑤教授広瀬青邨 ( 折 ) 。初め学問所 ( 漢 園 ( 国学 ) 。初め鳴凰館と称し一八五二年 ( 嘉また一八二七年江戸藩邸内に集義館 ( 皇学、漢内徳館 くかん さいきん 学 ) を設置。 永五 ) 改編改称。 七四八年 ( 寛延一 ) ④漢学〔維新後〕和学、学 ) と称し一八四八年 ( 嘉永一 ) 采芹堂と改 漢学、洋学、習字、医学⑤教授安藤陽洲称、五七年 ( 安政四 ) 遊焉館と改称す、また五 じよう・ : っしんよ ) っ じよあん 〔阿波国〕 ( 仁 ) 、上甲振洋 ( 朱 ) 、谷口泰 ( 医学 ) 。一 〔長門国〕 四年堀恕庵 ( 医学 ) の邸内に共和斉治館を設 、当、つり はちすか ちょうき ①徳島藩②蜂須賀氏③一 明倫館 * り ①萩藩 ( 長州藩 ) ②毛利氏長久館 ゅうかん 七九四年 ( 寛政六 ) 敷教館と改称、一八一九年置、五四年共和斉治館を移築して稽全館 ( 医 七九一年 ( 寛政三 ) ④漢学「維新後〕漢学、 ③一七一九年 ( 享保四 ) ④漢学、習字、習礼、 ( 文政一 l) 明倫館と改称、一八七一年 ( 明治四 ) 学 ) と改称す。 きよう はぎ かんせい ながと ぶんきゅう ひとつやなぎ だて もずめたか 256

5. 日本大百科全書 19

そんしよく べて澄色のない格調高い芸術として完成させ方法が画家たちに好まれ、創作版画のもう一つ って反歌を付す形が定着したと認められる。中ともある。 国文学を媒介にして新しく生み出された様式で 〔孔版法〕刷り出す画像の部分を除いて目をふたのは、デューラーであった。一六世紀前半はの方法となったが、エッチングも衰えす、コロ ミレー、マネ、ドガ、ピサロ、ホイッスラ さいだ布、画像を切り抜いた油紙や渋紙を通しデューラーを中、いに、エングレービングがもっ あり、記載の次元で成立したとみるのが正し とも隆盛を迎えた時代である。ドイツではクラ ーらの画家たちによって個性のある優れた作品 人麻呂は反歌を定着するとともに、長歌をて制作する版画。シルクスクリーン ( セリグラ かつば 反復・要約するようなありようから、独立的なフィ ) 、ステンシル、合羽版などがこれに属すナハ ( 父 ) 、アルトドルファーら、オランダのがつくられた。アメリカ出身で印象派のグルー 内容を盛り込むものへと、その質をも大きく転る。↓銅版画↓木版画↓リトグラフ↓シル ルーカス・ファン・ライデン、イタリアのマルプに加わった女流画家のメアリー・カサット 換した。複数の反歌を付す形も人麻呂によってクスクリーン↓フロッタージュ↓リノリウカントニオ・ライモンディらが、この時期の代は、日本の浮世絵の効果をェッチングと多色ア 始められ、長歌と短歌との組合せによる構成体ム・カット 表的銅版画家である。ライモンディは画家のラ クアチントで模倣することに成功している。ド 〈神野志隆光〉 ィッの画家マックス・クリンガーも感銘深いエ という方向へ展開された。 〔版画の歴史〕版画の誕生と紙の普及は深い関ファェッロと提携してその下絵による版画を制 Druck- estampe 冖肪 ッチングの連作を多数生んだ。 係にある。紙の製法がヨーロッパに伝えられた 作したが、こうした傾向は一六世紀後半のマニ 版画はんが print graphik ハイ卩リ 届という間接的方法で表現すのは一二世紀なかばとされるが、一四世紀なかエリスムの時代には一般的になる。エングレー 一八世紀末のリトグラフの発明は版画史上の る絵画の形式。本来は同一画像を複数得るためばまでには紙はかなり大量に生産されるように ビングの技術も高度な発達を遂げた反面、芸術革命であったといえる。ゴヤとドラクロワは、 にくふうされたものだが、それそれの技法の生なっていたようである。ヨーロッパにおける版的独創性を失って絵画の複製のための技巧に堕この方法によって芸術性の高い作品を生んだ最 み出す質感や効果のために制作されることも多画は、まず一四世紀の末ごろに木版画が出現した。 初の画家であった。ドーミエは風刺画を中心に く、また一点しか作品のできないモノタイプ版し、ついで一五世紀前半に銅版画が生まれた。 一方、エッチングは一六世紀前半にすでにデ四〇〇〇点ものリトグラフを残している。マ ューラーやアルトドルファーらによって試みらネ、ドガ、ルノアールらの印象派の画家たちを 画 monotype ( 油絵の具やインキでガラス板、初期の木版画は民衆芸術的な色彩が強く、聖地 金属板、石の板に図柄を描き、それに紙を伏せ巡礼の記念品としての聖書の題材や聖像を表しれていたが、銅版の腐食に適切な酸の調合がま はじめ、プレダン、ホイッスラー、ルドンも優 て刷り取ったもの ) もある。近年は従来の版画たもの、護符、ゲーム・カード、書物の挿絵な だみいだされていなかった。しかし、一七世紀れたリトグラフの版画家であった。一九世紀末 の概念を超えた作品も多く生み出されており、 ごろには多色刷りリトグラフが開発され、ポナ どに用いられた。一五世紀後半になると技術的に入るまでにこの問題も解決され、とくに独創 レ、ビュイヤール、ロートレックらがこれを その極端な例としては、鋳型を用いたものや、向上がみられ、同期から一六世紀初めにかけて的な実験を重ねたヘルクレス・セーヘルスの後 足跡、指紋、キス・マークによるものなどがあドイツ・ルネサンスの巨匠デューラーが木版画を継いだオランダのレンプラントは、エッチン十分に活用した。 一九世紀末、ゴーギャンとムンクによって木 る。版画は一般に木版画、銅版画、石版画のよをきわめて高い芸術の次元に引き上げた。ク一フグの表現技術上の可能性を余すところなく活用 うに版材によって記述されるが、あらゆるものナハ ( 父 ) 、アルトドルファーらがこれを受け し、数多くの名作を残した。ェッチングはエン版画の創造的生命が復活され、ドイツ表現主義 の画家たち、とりわけキルヒナー、ヘッケルら が版材になりうるので、印刷形式によって凸継いだが、一六世紀の末ごろには衰退してしま グレービングに比べて線も自由に描けるうえに 版、凹版、平版、孔版の四種に分類するのが便った。 製版が著しく速く、即興的な制作さえ可能なの の「プリュッケ」 ( 橋派 ) のグループに受け継 利である。 凹版法による銅版画は、金工の領域からややで多くの画家たちが試み、一七世紀から二〇世がれた。 〔版画の種類〕〔凸版法〕もっとも古い版画の偶然に発明されたが、アルプスの北側と南側の紀初めにかけての創作的版画の中心的技法とな 二〇世紀にはほとんどすべての画家が版画を もっと 方法で、刷り出したい線や面を残して版面を彫どちらが先かはまだ確認されていない った。代表的なエッチャーとしては、一七世紀試み、それぞれ特色のある作品を生み出してい り下げ、凸部にインキを塗って紙に刷る方法。も早い年記のある銅版画は一四四六年のものではレンプラントのほかにオスターデ、ジャッるが、最大の版画家はピカソであろう。彼はほ ある。金工師の技術領域からは、一五世紀の初 ク・カロ、クロード・ロラン、一八世紀ではピ ばあらゆる版画の技法を駆使して二〇〇〇点余 木版、メタルカット、木ロ木版、リノリウム・ すず たがわ カットなどがある。西洋では平圧印刷機で刷りめに錫などの軟質の金属板にさまざまの鏨で図ラネージ、ティエボロ父子、カナレット、ゴヤの作品を残したが、独創的なリノリウム・カッ ばれん らがあげられる。ゴヤは、開発されてまもない トの開発は特筆に値する。また、エルンストらの 出し、日本では馬連などで刷る。木の葉、布、像や装飾模様を打ち表し、凸版法で刷るメタル はせがわきよし ようぞう カットが生まれたが、銅版画の登場とともに廃アクアチントの技法を利して、『ロス・カプリフロッタージュの試み、長谷川潔、浜口陽三 木目のある板などにインキを塗って刷るフロッ タージュも凸版法とみることができる。 れた。当時、木版画師は大工のギルドに属し、 ーチョス』『格言』などの連作で劇的な明暗表ら日本人によるメゾチントの復活、そして第二 〔凹版法〕銅板およびそれに準ずる金属板銅版画師はそれよりも地位の高い金工師のギル現を生んだ。 次世界大戦後におけるシルクスクリーンの流行 しろうと ( 鉄、鋼鉄、亜鉛 ) 、セルロイド板などの表面をドに属した。 一方、一八世紀末にイギリスの詩人で素人画は、版画技術史上注目すべきできごとであった。 磨いてインキを拭き取りやすくした版材に、ビ 銅版画はごく初期から工芸的な美しさをもっ家のウィリアム・プレイクが独創的な方法で 日本では奈良時代 ( 八世紀 ) に木版画が中国 ュラン、針などで直接画像を刻むか、あるいは ものが多く、とりわけ上流階級を対象に制作さ数々の優れた版画を生んだが、その一つにディ から伝来し、仏教信仰と関連して経文や図像な その表面に施した防食層を針で掻き削るようにれた。初期の銅版画は、金工の道具の一つであ ープ・エッチングの銅板を凸版刷りにした『ウどが彫られた。この技法は平安時代後期 ( 一二 して画像を描き、これを酸で腐食する。この版るビュランで直接画像を彫るエングレービング リゼンの書』がある。一七世紀の末ごろに乾式世紀 ) ごろから仏画や物語絵の下絵や料紙の装 にインキを塗って拭き取り、凹部 ( 線、点の集であったが、ドイツの・ G0 の版画家の作品銅版画の新しい方法としてメゾチントが開発さ飾などに転用され、重要な美術的手段となっ まり ) に残ったインキを紙に転写させる。 た。そして、江戸時代の一七世紀後期以降、浮 や、フィレンツェの「精密技法」に、工芸的銅れた。これは一八世紀のイギリスで流行した けんさん 〔平版法〕木版画や銅版画のように板面の凹凸版画の粋をみることができる。一五世紀後半に が、一九世紀前半のターナーによる『研鑽の世絵版画の流行に伴い急速な発達を遂げた。銅 を介して画像を刷り出すのではなく、平面上では、イタリアのボライウォーロやマンテー一一書』の連作を除けば、おおむね絵画を複製する版画は一六世紀後半にキリスト教伝来とともに カ水と油の反発しあう性質を利用した方法。石版ヤ、北方ではションガウアーらの画家たちがエために用いられた。 渡来したが、これを試みた最初の画家は司馬江 ングレービングに手を染めるようになった。そ ん画 ( リトグラフ ) がこの方法によるが、今日で 一九世紀に入ると、チョークやインキの素描漢であった。↓浮世絵図膨〈八重樫春樹〉 7 よは石板のかわりにアルミ板や亜鉛板を用いるこ して、銅版画の分野でも、これを絵画などに比の効果をはばそのまま再現できるリトグラフの・アデマール、坂本満編・解説『バリ国立 2

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ー」・んレ」・つ 二八年 ( 文政一一 ) ④漢学。 養賢堂 * 彎①仙台藩②伊達氏③一七学、神道 ) 、漢学、算術、習字、天文、音楽、 藩学 / 藩学一覧 三六年 ( 元文一 ) ④漢学、歌学、筆道、兵学、医学 ( 漢・洋 ) 、習礼⑤一六六四年 ( 寛文四 ) 〔下野国〕 ①藩学名を冒頭に掲げ、ついで①藩名、②算術、習礼⑤創設時は学問所と称し一七七一一岡田如黙の家塾を稽古堂 ( 漢学 ) と改称して藩 おおぜき くろばね ィ一くし ①黒羽藩②大関氏③一八 んかん 藩主、③創設年、④教科、⑤備考とした。年 ( 安永一 ) 養賢堂と改称、のち西洋学問所校の基礎を築く、一六七四年 ( 延宝一 D 講所作新館 五七年 ( 安政四 ) ④皇漢学、習字、算術⑤ ( 漢学 ) 設置、のち日新館へ発展。 教科は、維新後に変更がある場合のみ〔維 ( 魯学、蘭学 ) 増設、一八一五年 ( 文化一一 l) 教授三田地山 ( 朱 ) 。一八二〇年 ( 文政三 ) 何 新後〕として区別した。備考には、代表的医学館 ( 漢・蘭医学 ) を別置、また同じころ江 ろう 陋館 ( 和漢学 ) を設置するもまもなく廃絶。 戸藩邸内にも順造館 ( 漢学 ) を置く。 〔出羽国〕 教授名や学校名の変化その他を記し、 ( ) おおたわら そうま じしゅ ①大田原藩②大田原氏③ ・つかん ①相馬藩 ( 中村藩 ) ②相馬氏明徳館 * 震①秋田 ( 久保田 ) 藩②佐竹時習館 内に教授の属する学統学派を注記した。朱育英館 いかん かねえだ しゅし あんさい 一八五〇年 ( 嘉永三 ) ④皇漢学⑤教授金枝 氏③一七八九年 ( 寛政一 ) ④和学、漢学、 Ⅱ朱子学、陽Ⅱ陽明学、闇Ⅱ闇斎学、徂Ⅱ ③一八二二年 ( 文政五 ) ④漢学、本朝歴史 りゅうそん あやせ ・かいレつ / つ 1 い 〕し′れ内一い 柳村 ( 朱 ) 。 徂徠学、仁Ⅱ仁斎学、折Ⅱ折衷学、古Ⅱ古⑤教授海東駒斎 ( 折 ) 、亀田綾瀬 ( 折 ) 。弘化年算術、習礼、医学 ( 漢方 ) ⑤創設時明道館と きつれがわ - 一うう ①喜連川藩②喜連川氏③ 日 ( 天四四 ~ 四 0 医学校新設。 称し一八一一年 ( 文化八 ) 改称、一七九五年広運館 んかん 学、古注Ⅱ古注学の略である。 みはる てんめい 一八四六年 ( 弘化三 ) ④漢学⑤創設時は翰 ①三春藩②秋田氏③天明年間 ( 寛政七 ) 養寿局 ( 医学館とも称す、漢方医学 ) 転封などにより領地に変更のあった藩は講所 を別置、一 八一一六年 ( 文政九 ) これらと新設の林館と称す。 原則として藩学創置時の領地に掲出した。 ~ 瓮 ) ④漢学、習字、習礼、本邦歴史 和学局などを明徳館と総称、また江戸藩邸内に ③同一藩名で藩主の異なる場合、また大藩⑤講堂・明徳堂とも称す。 修道館 ど鷲ん①宇都宮藩②戸田氏③文 化年間 ( 天 0 四 ~ 一 0 ④漢学、数学 ( 和算 ) ⑤ ①平藩②安藤氏③一七五は印知館 ( 創設年不明、漢学 ) 設置。 などで複数の藩学を有する場合は、それぞ施政堂し かめだ いわき れ独立項目を立てた。 六年 ( 宝暦六 ) 以降④漢学、習字⑤教授伊長善館虧ん①亀田藩②岩城氏③一七教授加藤静斎。 からすやま ゅうけん ①烏山藩②大久保氏③一 八六年 ( 天明六 ) ④漢学、習字、医学「維新学所 戸ー a--. んじよ ④ * 印は、別に本項目のあることを一小す。 藤修助 ( 徂 ) 。一八六九年 ( 明治一 l) 佑賢堂と 改称、また同年中学校 ( 経書、史学、詩学、文後〕漢学、習字、医学、和学、洋学、算術⑤七一一六年 ( 享保一一 ) ④漢学「維新後〔一読書 ( 和・漢・洋 ) 、習字、算術⑤まもなく中絶、 医学館は上池館とも称し、維新後に独立。 学 ) を新設。 〔蝦夷地〕 てんめい ほ・れド ) レっ きゅう しゅう きてん ①本庄藩②六郷氏③天明一八六九年 ( 明治一 D に再興。 ①松前藩②松前氏③一 しんかん しんかん 徽典館 かん 汲深館 ①泉藩②本多氏③一八五修身館 ふきあげ がくしゅ ①吹上藩②有馬氏③一八 年間 ( 一大一 一三年 ( 文政五 ) ④漢学、習字⑤のち威遠二年 ( 嘉永五 ) ④漢学、算術、習字、習礼 ~ 瓮 ) ④漢学⑤教授笹原鶴汀。学聚館 うかん らんがく さいしゅう きぬがさてんがい 一八六九年 ( 明治一一 ) 学制を改革し総教館 ( 皇六九年 ( 明治一 D ④皇漢学。 館 ( 蘭学、洋式砲術 ) と済衆館 ( 医学 ) を増⑤教授衣笠天外 ( 朱 ) 。 ゅながや がくしゅ ①壬生藩②鳥居氏③一七 学、漢学、算術、習字、兵学 ) と改称。 学習館 ①湯長谷藩②内藤氏③一 うかん かん ノ六ノ年 ( 明治一 ) 三館を合併し文武館致道館 あんせい ①矢島藩②生駒氏③安政一三年 ( 正徳三 ) ①漢学「維新後〕漢学、習 と称す、また一八四〇年 ( 天保一一 ) 江戸藩邸 八四三年 ( 天保一四 ) ④漢学〔維新後〕和学日新堂 んどう ゅうぎん 内に明倫館を置く。 ⑤教授三好五郎 ( 朱 ) 。一八六九年 ( 明治二 ) 年間 ( 一会四 ~ 六 0 ) ④漢学、習字⑤教授今井字⑤教授太田熊山 ( 折 ) 。 ・めーレ - かが きゅう ①足利藩②戸田氏③一八 学制を改革。 どうかん 文山。一八七〇年 ( 明治三 ) 矢島藩学校 ( 漢求道館 六九年 ( 明治一 l) ④皇漢学、習字、洋学、医 学、習字、算術、医学 ) 新設。 ①二本松藩②丹波氏③宝 〔陸奥国〕 敬学館 くかん ひろさき ちよく ①岩崎藩②佐竹氏③一、 学⑤教授今井晦堂 ( 朱 ) 。足利学校とも称す。 ①弘前藩②津軽氏③一七年間 ( 一瑩一 ~ 高 ) ④漢学、習字、医学、兵勅典館 てんかん 稽古館 かん らんがく かん一一 ①佐野藩②堀田氏③一、 九六年 ( 寛政八 ) ④和学、漢学、蘭学、算術、学⑤一八一七年 ( 文化一四 ) に各師範家の家六八年 ( 明治一 ) ④和漢学、算術、習字⑤ 観光館 うかん 六四年 ( 元治一 ) ④漢学「維新後〕漢学、洋 習字、医学〔維新後〕英語、西洋砲術⑤教塾統制のため敬学館などを設置、江戸藩邸内に教授渡東嵎 ( 折 ) 。 らんしゅう いっか ①松山藩②酒井氏③一、 学、算術、習字、習礼⑤館内に択善堂 ( 文 授山崎蘭洲 ( 徂 ) 。一八五九年 ( 安政六 ) 稽古は宝暦年間に文学校 ( 漢学 ) 、武学校 ( 剣術 ) 一貫堂 んどう を開設。 六九年 ( 明治二 ) ④漢学⑤のち里仁館と改学 ) 、演武場 ( 武技 ) を設置。 館内に修武館、蘭学堂設置。 ぶんせい ーしカくきょ ①福島藩②板倉氏③文政称。 経学教授所 ロ′うじゅしょ ①黒石藩②津軽氏講学所 ー ) ・れドよ・つ めいり ①新庄藩②戸沢氏③天明 ③一八三二年 ( 天保三 ) ④漢学⑤教授長崎年間 ( 天 んどう 〔上野国〕 ~ 三 0 ) ④和学、漢学⑤江戸藩邸明倫堂 ーしげは、り くすのきげん めまた 梅軒 ( 朱 ) 。 年間 ( 一大一 ~ 瓮 ) ④漢学⑤教授楠玄怡、 ①沼田藩②土岐氏③一 内にも同様に開設、三河国重原転封後の一八六 沼田学舎 がくしゃ がっ 三浦貞寛。創設時講堂と称し一八五八年 ( 安政七四二年 ( 寛保一 l) ④漢学、習字、習礼、故 ①八戸藩②南部氏③一八二九九年 ( 明治一一 ) 養生館 ( 和学、漢学 ) を設置。 学校 ろさい ようろ 実⑤教授川崎魯斎 ( 朱 ) 。一時中絶するも天 ①守山藩②松平氏③宝暦五 ) 改称。 うかん 年 ( 文政一 (l) ④和学、漢学、洋学、兵学、養老館 だいしゆく ちどう ①庄内藩②酒井氏③一、 保年間 ( 天三 0 ~ 四四 ) 再興、また一八四四年 ( 弘 習礼⑤教授菊池大叔 ( 古 ) 。一八六五年 ( 慶年間 ( 一七五一 ~ 六四 ) ④和学、漢学⑤教授戸崎致道館 かん たんえん 応一 ) ごろ英語科増設。 淡淵 ( 徂 ) 。江戸藩邸内に設置。 〇五年 ( 文化一 l) ④漢学、習字⑤教授白井化一 ) 江戸藩邸内に敬修堂 ( 漢学 ) を設置。 おおこうち しもてど しゅ、つ ぶんぶ ①高崎藩②松平 ( 大河内 ) ①盛岡藩②南部氏③一六 ①下手渡藩②立花氏③一東月 ( 徂 ) 。 文武館 かん 作人館 んかん 修道館 どうかん ①上山藩②松平 ( 藤井 ) 氏氏③一八六七年 ( 慶応三 ) ④和漢学、医学 三六年 ( 寛永一三 ) ④和学、漢学、医学 八五七年 ( 安政四 ) ④漢学⑤分領筑後国三 明新館 んかん うつみちょうけい はうれき えばた ③一八〇九年 ( 文化六 ) ④漢学⑤天輔館と⑤教授内海釣経。宝暦年間 ( 一七五一 ~ 六四 ) 遊芸館 ( 漢・洋 ) 、洋学、算術⑤教授江緒五郎〔那珂池に設置、本領陸奥国下手渡の陣屋内には学問 みちたか ( 漢学 ) を設置するも一七七四年 ( 安永三 ) 焼 通高〕 ( 折 ) 。稽古所・明義堂とも称す、一八六 所を置く。 も称す。 しらかわ よわぎわ しゅう * こ・つじよ ①白河藩②阿部氏③一、 ①米沢藩②上杉氏③一失。 二年 ( 文久一 l) 館中に修文所、昭武所、医学所修道館 どうかん 興讓館 たなくら を置く。 二五年 ( 文政八 ) ①和漢学⑤陸奥国棚倉転 ①伊勢崎藩②酒井氏③一 六九七年 ( 元禄一〇 ) ①漢学〔維新後〕皇学学習堂 いちのせき きよう ①一関藩②田村氏③一七封後の一八六九年 ( 明治一 l) にも同名藩校 ( 和 ( 漢学を含む ) 、洋学、医学、筆道、数学⑤創七七五年 ( 安永四 ) ④漢学⑤教授小松原醇 教成館 せいかん 八三年 ( 天明三 ) ④漢学、国学、算術、兵学漢学、算術 ) を設置。 設時学校 ( 漢学 ) と称し一七七六年 ( 安永五 ) 斎 ( 闇 ) 。 , : っせい * につし どうが ①館林藩②松平 ( 越智 ) 氏 ①会津藩②松平 ( 保科 ) 氏改称、また興譲館中に好生堂 ( 医学館 ) 設置。 道学館 くかん 八六二年 ( 文久一 l) 文武日新館 んかん 学⑤教授関養軒 ( 朱 ) 。一 てんどう かんせい よ、っせ ③寛政年間 ( 一天九 ~ 一〈 0 一 ) ④漢学〔維新後〕 ①天童藩②織田氏③一、 ③一七九九年 ( 寛政一一 ) ④和学 ( 歌学、皇養正館 いかん は藩館増設、一八六九年 ( 明治一 l) 教成寮と改称。 はちのヘ ろ ほんだ み かみのやま てんゅう たてばやし せさき ありま ぶん 251

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ひょうじ 160 。 E 120 。 120 。 標準時 / 世界の標準時刻帯 160 。 W あ十 31 グリ一一ジ子午線 十 十 3 を 十 10h 3h30 0 + lO ー 5h30g 0 の 0 つ 1 1 h30 十 10h 0 十 9h C) 0 0 6h300 十 0 0 0 特別な、法をもつ地域 その地土。の標準時より 1 時問未満のずれをもつ地域 120 。 0 0 ゴ 1 2h45 世界時との差が奇数時の地域 世界時との差が偶数時の地域 1 2h 十 1 1 h 十 1 ()h 十 9h 十 h 十 7h + 6h 十 5h + 4h 十 3h 、 160 。 W 40 。 0 の事業所が複数種類の財貨・サービスの生産活もって本初子午線とする」というアメリカ案が 動を行っている場合には、過去一年間における全会一致で可決された。この本初子午線、つま り経度零度の子午線に関する平均太陽時が世界 収入額または販売額がもっとも大なる事業によ 時であり、グリニジ時ともいわれる。 って、その事業所の帰属産業が決められる。 本初子午線および経度一五度すつの二四区分 産業区分の基準としては、①生産される財貨 または提供されるサービスの種類、②財貨生産とした標準時案の採用決定により、日本では本 あかし 初子午線と経度で一三五度を隔てる兵庫県明石 またはサービス提供の方法 ( 設備、技術など ) 、 ③原材料の種類および性質、サービスの対象おを通る子午線に基づく地方平均太陽時をもって 八八八年 ( 明治二一 ) 一月一 日本標準時とし、一 よび取り扱われるもの ( 商品など ) 、が注目さ 日から標準時を施行した。九六年には東経一二 れるほか、事業所の数、従業員の数、生産額ま たは販売額などの諸点も考慮される。事業主体〇度の子午線に基づく西部標準時が施行され、 一三五度の日本標準時は日本中央標準時と改称 については、官営、民営の区別を問わず、その 事業所が同一種類の経済活動を行うものであるされることになったが、一九三七年 ( 昭和一 一 l) 一〇月一日には西部標準時が廃止され、中 限り、同じ産業として分類される。 分類の構成は、もっとも大まかな大分類か央標準時が日本標準時となった。日本標準時は ら、順次に分化した中分類、小分類、細分類の世界時に先だっこと九時間である。〈渡辺敏夫〉 normal ひょうじゅんじようたい 四段階分類となっており、大分類にはから z 標準状態 state 一般に、圧力一気圧 ( 一〇三四パスカ までのアルファベットがそれそれの産業名に付 ル ) 、温度〇度 0 ( 二七三・一五 ) における されている。中分類項目には二桁の数字が用い られ、以下、小分類、細分類の各項目について気体の状態をいう。 z (normal tempera ・ は、それそれ末尾に一桁すっ追加する形で分類 ture and pressure) と略称されることもある。 番号が付されている。このため、これらの分類この圧力、温度をそれそれ標準圧力、 一 0 区分は、二桁分類、三桁分類などとよばれるこ標準温度 (Z+) という。 〈高島忠〉 気体の状態方程式、「Ⅱ RI ・において、ト日 ともある。 ひょうじゅんじ一つの標準となる子 latm ( 気圧 ) , T Ⅱ 273.15K Ⅱ 0 。 0 Ⅱ lm 三 標準時 ( モル ) ととったとき、が二二・四になる 午線による地方時を選んで、国または地域が共 という気体の基本的性質から生まれた概念であ 通に使用する地方時をいう。地方平均太陽時は 各地の子午線に準拠するものであり、経度一五る。ここでは気体定数である。 熱力学関数の場合には、定義が異なる。この 度について一時間の割合で違うが、各地点ごと 場合、温度二五度 0 、圧力一気圧を標準状態と にそれそれの地方時を使用したのでは、交通・ 通信などの発達した現代社会では不都合であする。たとえば、化合物の標準エンタルピー〃 り、不便も生じる。標準時の制定は、一八八四は、絶対温度二九八を右下につけ、右上には 年アメリカのワシントンで開催された「本初子その成分元素のエンタルビーの仮定値 ( 一般に ならびこ 午線并。計時法万国公会」で決議された。そのはゼロ ) をつけて表す。すなわち」呈であ 結果、日本においては八六年 ( 明治一九 ) 七月る。 溶液の場合には、標準状態の定義が、測定温 一一一日勅令第五一号をもって「本初子午線経度 度のほか、対象としている圧力や温度のとり方 計算方及標準時」が公布された。 によって異なる。たとえば、溶液内の化学平衡 標準時案を初めて提出したのはサンフォー ド・フレミングで、彼の案は、世界を経度一五をいうとき、活動度 ( 補正された濃度の有効 度ずつの二四区に分け、その区分内は一つの標値 ) が入るが、このときの標準状態は、活動度 〈下沢隆〉 八三年一月一を求めた温度をとる。 準時を用いるというもので、一 ひょうじゅんしようひんぶんるい 八日からカナダ、アメリカで全土を経度一五度標準商品分類 の幅で五区に分けて五つの標準時を設定し実行 standard commodity classification 商品の されたことに始まる。この標準時設定に際して生産、出荷、輸出入などの経済諸活動に関する は、当時存在した数多くの本初子午線を廃し、統計について、その正確性、客観性を保持し、 相互比較可能性を確保するために、統計調査機 万国一定の本初子午線を選定する必要があり、 「グリニジ天文台子午儀の中点を通る子午線を関や各国の間で共通に採用されることを目的と 7 120 。

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はんがく ちよさん ほった みまさかたづた いわみ せいとく ①佐倉藩②堀田氏③一術、習字⑤教授児玉南珂 ( 朱 ) 。もと南珂の算術⑤教授松本古堂 ( 折 ) 。初め樗散堂、学 しよいん 漢学、習字⑤石見国浜田、さらに美作国鶴田成徳書院 問所と称し、一八七〇年文学所、武芸所、医学 七九二年 ( 寛政四 ) ④漢学、習字、習礼、数家塾を藩校とす。 に転封後も転封先で継続。 えちぜん かわごえ ひしかわ たてばやし はくゆ きゅう・ ①川越藩②松平 ( 越前家 ) 所を設置、翌年自強館と改称。 博喩堂 どう 学、医学、音楽、洋学 ( 蘭・英 ) ⑤教授菱川 ①館林藩②秋元氏③一、 求道館 どうかん よいた おんこ たいぜん しよう ①与板藩②井伊氏③一、 とくかん 秦嶺 ( 朱 ) 、佐藤泰然 ( 蘭医学 ) 。創立時温故堂氏③一八二七年 ( 文政一〇 ) ④漢学、和学正徳館 四七年 ( 弘化四 ) ④漢学、算術、医学、習礼、 〔維新後〕漢学、和学、洋学、習字、算術⑤六〇年 ( 万延一 ) ④漢学、和学。 習字〔維新後〕和学、洋学⑤一八五七年と称し一八三六年 ( 天保七 ) 拡充して改称。 すうと がくしゅ ①長岡藩②牧野氏③一、 八六六年 ( 慶応一 l) 上野国前橋へ転封後も転 崇徳館 くかん ①高岡藩②井上氏③一、 ( 安政四 ) 造士書院設置、造士書院は一八六九学習館 うかん 六二年 ( 文久一 D ④和漢学、算術、習字⑤封先にて設置、一八六八年 ( 明治一 ) 学制改革。〇八年 ( 文化五 ) ④漢学〔維新後〕和漢学、 年 ( 明治一 l) 文武藩学校と改称。 なのかいち しんしゅ せいき 医学、洋学⑤教授秋山景山 ( 徂 ) 、伊藤東岸 ①忍藩②松平 ( 奥平 ) 氏 進修館 うかん 江戸藩邸内に設置。 ①七日市藩②前田氏③一 成器館 かん せんぜんかく カくも ①多古藩②松平 ( 久松 ) 氏③一八二三年 ( 文政六 ) ④漢学、算術、習字 ( 仁 ) 。崇徳館内に成章堂、遷善閣を置く、一、 学所 日ー . - んじよ 八四二年 ( 天保一三 ) ①漢学。 あんなか ぞうし ③一八三〇年 ( 天保一 ) ④漢学、習字、算術〔維新後〕漢学、算術、習字、国学、洋学⑤六九年 ( 明治一 l) 国漢学校と改称。 ①安中藩②板倉氏③一、 造士館 かん イ予キ一り ぶんか はすれ ゅ・つ々一い 教授芳川波山 ( 折 ) 。入封前の文化年間 ( 一含四 修道館 ど鷲ん①高田藩②橋原氏③一 〇八年 ( 文化五 ) ④漢学⑤教授太田融斎⑤江戸藩邸内に設置。 ~ 一 0 伊勢国桑名にて学舎を設置、また入封後六六年 ( 慶応一 I) ④漢学、習字〔維新後〕漢 ( 朱 ) 。一八六九年 ( 明治一 l) 文学校と武学校に きんだい けいおう 八六八年学、和学、習字、算術、洋学⑤教授東条琴台 の慶応年間 ( 一会五 ~ 六 0 培根堂、一 〔上総国〕 分かつ。 さんけい おおこうち おばた ( 折 ) 、小山杉渓 ( 洋学 ) 。 ①小幡藩②松平 ( 奥平 ) 明善堂 ①大多喜藩②松平 ( 大河内 ) ( 明治一 ) 洋学館、一八七〇年国学館を置く。 小幡学校 がっ一う きよさき いといがわ むつら めい ①清崎藩 ( 旧称糸魚川藩 ) ② ①六浦藩②米倉氏③一、 明道館 うかん 明允館 んかん 氏③一七九一年 ( 寛政三 ) ④漢学、筆道、氏③一八七〇年 ( 明治三 ) ④漢学、洋学、 えちぜん 松平 ( 越前家 ) 氏③一八六九年 ( 明治一 l) 六八年 ( 明治一 ) ④漢学、算術、習字。 算術、習字、皇学。 習ネ ひぐちせきりよう てんばう しゅう ④漢学、和学、洋学⑤樋口赤陵 ( 古 ) 。 ①鶴牧藩②水野氏③天保 ①前橋藩②酒井氏③一六 せいかん 修成館 好古堂に 九一年 ( 元禄四 ) ④漢学、和学、医学、習字、年間 ( 天三 0 ~ 四四 ) ④漢学⑤江戸藩邸内にも〔相模国〕 おだわら はりま らんキ一い しゅ・つ ①小田原藩②大久保氏③ 〔越中国〕 集成館 せいかん 習礼⑤教授伊藤蘭斎 ( 朱 ) 。播磨国姫路へ転同様に設置。 - 」うと せんしゅ ①富山藩②前田氏③一七 八二二年 ( 文政五 ) ④漢学、医学 ( 漢方 ) 、広徳館 くかん ①佐貫藩②阿部氏③一七 封後も転封先にて継続、一八四四年 ( 弘化一 ) うかん 撰秀館 九六年 ( 寛政八 ) ④漢学、習字⑤同時に誠算術、習字〔維新後〕漢学、国学、医学、算七三年 ( 安永一 l) ④漢学⑤教授三浦瓶山 文武学校に拡大。 術、習字、英語⑤古所とも称す、一八六九 ( 徂 ) 。のち藩学校と改称、また一八六九年 ( 明 道館 ( 漢学、習字 ) も設置。 レ」くド ) ゅ くるり 治一 l) 変則英学校 ( 英学 ) 、徳聚堂 ( 皇漢学、 三近塾綾①久留里藩②黒田氏③一年 ( 明治一一 ) 学制を改革し文武館と改称。 〔常陸国〕 おぎのやまなか 」うじよ 洋学、数学 ) を設置、さらに西洋医学校も置く。 ①荻野山中藩②大久保氏 、つかん 八四二年 ( 天保一三 ) ④漢学「維新後〕国興讓館 弘道館 * こ①水戸藩②徳川氏③一 四一年 ( 天保一一 l) ④漢学、歌学、医学、数学、漢学、洋学、算術、習字⑤教授柳井亀山③一八六八年 ( 明治一 ) ④漢学、算術⑤同 館と武館を総称して文武館とする。 〔加賀国〕 学、音楽、天文学、習礼⑤教授青山拙斎 ( 朱 ) 。一八六九年 ( 明治一 I) 三近堂と改称。 だいしようじ あんせい いちのみや かのう あいイ一わせいしさい カくも すうぶ ①大聖寺藩②前田氏③一 学所 ーんじよ ①一宮藩②加納氏③安政 んかん ( 折 ) 、会沢正志斎 ( 水戸学 ) 。 崇文館 あそう しんじよう せいぎ 八三三年 ( 天保四 ) ④漢学、習字〔維新後〕 〔越後国〕 年間 ( 一会四 ~ 六 0 ) ④漢学〔維新後〕漢学、和 ①麻生藩②新庄氏③一、 精義館 かん かんせい 、くじゅ ①村上藩②内藤氏③寛政和学、漢学、洋学、医学、算術、習字⑤教授 うかん 六九年 ( 明治一 l) ④漢学⑤弘化年間 ( 一〈噐学、数学⑤教授片岡安蔵。創立時学問所と称克従館 し一八六九年 ( 明治一 D 改称、初め常設校舎は年間 ( 一大九 ~ 天 (1) ④漢学〔維新後〕漢学、竹内福水 ( 折 ) 。一八五四年 ( 安政一 ) 時習館 ~ 四 0 江戸藩邸内に学問所設置。 とうせい あんせい か、こま - じしゅ 算術⑤創立時名称なし、安政年間 ( 一会四 ~ と改称、維新後時習館内に董正館 ( 洋学 ) 、達 ①笠間藩②牧野氏③一、 時習館 うかん おんち 材舎 ( 漢学 ) 、温智舎 ( 漢学 ) 、有備館 ( 武術 ) 、 六 0 ) 命名。 ①小久保藩②田沼氏③一 一七年 ( 文化一四 ) ④漢学、習礼、国学、医盈進館 んかん そどく みつかいち ①三日市藩②柳沢氏③一啓蒙舎 ( 素読、習字 ) を設置して藩学校と総称。 秉彝館 かん 八六九年 ( 明治一 l) ④漢学、洋学。 学〔維新後〕漢学、国学、算術、習字、医学 の かんせい めいり ①金沢藩②前田氏③一七 七二三年 ( 享保八 ) 以降④皇漢学、習字、算明倫堂 んどう ①飯野藩②保科氏③一、 ⑤寛政年間 ( 一天九 ~ 天 0 一 ) 忠誠館を設けるも一 明新館 んかん 術〔維新後〕読書 ( 和・漢・洋 ) 、習字、算術九二年 ( 寛政四 ) ④和学、漢学、医学 ( 漢 八六一一年 ( 文久一 l) 廃絶、なお医学館を采館六〇 ~ 七〇年代 ( 明治初年 ) ④漢学。 ほんそう たきわき じしゅ 方 ) 、算術、習字、習礼、天文暦学、本草学、 ①桜井藩②松平 ( 滝脇 ) 氏⑤維新後は文武局と称す。 うかん と称す、一八七〇年 ( 明治三 ) 藩学寮、小学校時習館 みぞぐち どうが ①新発田藩②溝口氏③一歴史〔維新後〕漢学、皇学⑤教授新井白蛾 くどう ③一八六九年 ( 明治一 l) ④漢学、習字。 道学堂 を設置。 っちうら いくぶ ( 闇 ) 。同時に経武館 ( 武術 ) も設置、一八七〇 七七二年 ( 安永一 ) ④漢学、医学 ( 漢方 ) ①土浦藩②土屋氏③一七 んかん 郁文館 「維新後〕漢学、国学、算術、習字⑤教授浅年 ( 明治三 ) 中学西校に改編。 九九年 ( 寛政一一 ) ④漢学、医学、和学⑤ 〔安房国〕 たんさい たてやま こうあん そうゆ 1 ロい一 ①金沢藩②前田氏③一八 見淡斎 ( 闇 ) 、佐藤復斎 ( 闇 ) 。講堂とも称す、壮猶館 うかん ①館山藩②稲葉氏③一、 教授藤田畏斎 ( 闇 ) 、藤森弘庵 ( 朱 ) 。 敬義館 かん やたべ , ) うど 一七七七年医学館、一八六三年 ( 文久三 ) 兵学五四年 ( 安政一 ) ④砲術 ( 洋法 ) 、洋学 ( 蘭・ 六九年 ( 明治一 l) ④漢学⑤教授佐野義郎 ①谷田部藩②細川氏③一 弘道館 うかん 淇量学〔維新後〕洋 英 ) 、医学 ( 蘭 ) 、航海、」 所設置、一八六九年 ( 明治一 l) 大学寮 ( 漢学、 七九四年 ( 寛政六 ) ④漢学⑤一八六九年 ( 朱 ) 。立教局とも称す。 かちゃま もてぎ いくえ 学、算術⑤教授大橋作之進 ( 西洋砲術 ) 、鹿 ①加知山藩②酒井氏③一習字、算術 ) と小学寮 ( 漢学、国学 ) を分置。 いかん ( 明治一 l) 下野国茂木に陣屋を移し、翌年学制育英館 てん だ みわやま のろどうあん にゆ・つ ①三根山藩②牧野氏③天田文平 ( 蘭学 ) 、安藤幸之助 ( 英語 ) 。 八六九年 ( 明治一 l) ④漢学⑤教授野呂洞庵入徳館 とくかん 改革。 保年間 ( 天三 0 ~ 四四 ) ? ④漢学〔維新後〕皇年 ( 明治一 ) 経武館に併合。 ど、つさ ①金沢藩②前田氏③一、 漢学、算術、習字⑤教授新保西水 ( 朱 ) 。初道済館 いかん 〔下総国〕 きよう 六八年 ( 明治一 ) ④洋学 ( 仏・英 ) 、漢学、数 め学問所と称し維新後改称。 ①関宿藩②久世氏③一、 〔武蔵国〕 りんかん 教倫館 いわっき じきょ せんきょ 学、習字⑤教授吉木順吉 ( 仏学 ) 、菊池七郎 ①村松藩②堀氏③一八六 うかん ①岩槻藩②大岡氏③文政自強館 うかん 二三年 ( 文政六 ) ④漢学〔維新後〕漢学、和遷喬館 ゅう おうこく あやせ ( 仏学 ) 。一八六九年英学、漢学を分離して 八年 ( 明治一 ) ④漢学、医学、国学、習字、 年間 ( 天天 ~ 三 0 ) ④漢学〔維新後〕漢学、算 学⑤教授亀田綾瀬 ( 折 ) 、亀田鶯谷 ( 折 ) 。 ー」亂 ) っ 1 せきやど せっさい しんれい おおたき つるまき さぬき ゃないきぎん ぶんせい - 一うずけ なんか へいざん 252

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亡、のちに義賊的パンデイド ( 山賊 ) として下 しょ『新約聖書』のなかのパ 近代ビリャードは、器具の発明・改良に伴っ ピリピ書 びと っ会 ( ギリシア正教 ) の大司教座の所在地で、一 層民衆の人気を集めた。一九一〇年のマデロのて発達した。すなわち、チョーク ( キューの先 六世紀ゴシック様式の聖アンナ教会、一七世紀ウロ書簡の一つ。「ピリピ人への手紙」ともい バロック様式の聖。へテロ・バウロ教会ほか、多う。ピリ。ヒ Ph 三名 0 一は当時マケドニア東部指導するメキシコ革命に参加、軍事面で活躍し端につける滑り止め ) とタップ ( キュー・チッ たが、革命勝利後失脚しアメリカへ亡命した。プⅡキューの先端に取り付ける皮 ) の発明、技 で繁栄していた都市で、バウロが第二回目の伝 数の教会がある。 しとぎようでん び ~ 一六世道旅行に際して立ち寄った所 ( 「使徒行伝」第一三年の反革命後、帰国して貧農を主体とする術面での進歩により、事実、ビリャードが一九 市街はネリス川の谷に発達し、一三 最強の革命軍を自力でつくりあげ、第二次革命世紀の初めごろから急速に世界各国に広がり発 ~ 一二節 ) 。この手紙は、おそらく 紀に扇形に形成された旧市街は不規則な道路網一六章一一 獄中から親しいピリピの教会へ書き送られた一一を勝利に導いた。しかし第二次革命の指導者カ展していった。アメリカへは一八二〇年代にポ をもつ。一六世紀初頭に石の城壁が築かれた が、一九世紀に新市街がその外側に拡張されつないし三つの短い手紙を結び付けたもの。古ランサ ( 大地主 ) と対立し、一四年夏にサバタケット・テープルが持ち込まれたが、一八六〇 と同盟してカランサと戦い、一時ほば全土を支年には、それまでポケットゲーム一辺倒だった いキリスト賛歌 ( 第二章六 ~ 一一節 ) ゃ。ハウロ た。第二次世界大戦後、住宅地区と工業地区が アメリカで、キャロムゲームが行われるように 〈山本茂〉 の自伝的記述 ( 第三章五 ~ 六節 ) など重要な要配したが、一五年以後劣勢になり北部チワワ州 北側につくられた。 じようさい なった。このころから器具や技術の改良・向上 でゲリラ戦を続けた。二〇年にカランサ政権が 〔歴史〕五世紀ごろに集落ができ、のち城塞素を含む。執筆の場所については伝統的にロー が急速に進み、球台の台盤 ( スレート ) 、外枠 マ説が唱えられてきたが、最近ではエ。へソ ( 工倒れたので、新政権と和平し農場経営にあたっ が築かれた。一三二三年リトアニア大公ゲディ に取り付けるゴムのクッション、台面を覆うテ ミナスが居城を移してから、リトアニアの首都フェソス ) 説が有力になっている。工ペソ説をたが、二三年政敵に暗殺された。〈野田隆〉 らしゃ ープル・クロス ( 羅紗 ) 、ポールの材質と径寸 ビリヤ・シスネロス Villa Cisneros となった。リトアニアとポーランドの王朝連合採用すれば、執筆の時期は五〇年代の中ごろに 〈土屋博〉 アフリカ北西端、西サハラの大西洋岸にある港といったものの改良とともに、クッションに沿 なるであろう。 後、一三八七年に司教座が置かれ、都市法が制 ってポールを散らさずに突き進んでいくアメリ 定された。一六世紀には商業、手工業、文化がピリミジン pyrimidine 1 ・ 3 ージアジン町。旧スペイン領サハラ時代の中心都市の一 著しく発展し、一五七九年にアカデミーが設立のこと。水に溶けやすい塩基性化合物で、分子つ。現在はダクラ ( ダフラ ) Dakhla と改称カン・セリーの研究・完成による技術の進歩 された ( 一八〇三年に大学に改組 ) 。ポーラン量は八〇・一。生物にとって重要なのはその誘し、ダクラ州の州都である。沖合いにカナリアは、それまでの単純な競技種目を、さらに高度 導体であり、ピリミジンおよび海流による好漁場があり、漁港として知られ製な技術を要する新種目の設置へと拡大させてい ド分割後はロシア領となったが、チャルトルイ ン その誘導体を総称してピリミジ塩場もある。カサ・フランカと結ぶ国際空港があった。すなわち、ポークライン競技をはじめ、 スキ公の努力によって、ビリニュス大学は一八 ジ 〈藤井宏志〉 スリークッション競技、アメリカ式ポケット競 ン塩基とよぶことがある。これる。 〇三 ~ 三二年ポーランドの学術・文化の中心と 技がそれであり、これはさらに、今日行われて なった。一 八三一年と六三年には、ポーランド . & 「らは生体内で核酸およびヌクレヒリャード N 一 0h0 一 Hillia 「 d ( ー 。ヒ Z いるフリー競技、ワンクッション競技、あるい 一六一九 ) イギリスの細密画家、金工家。ェクセ オチドの構成成分となってい の独立蜂起と連動して反ロシア蜂起が起こっ は制限をより厳しくしたポークライン競技やア ターの金細工師の息子に生まれ、初め・プラ た。第一次世界大戦後、ポーランドとリトア一一る。とくに含まれる量も多くて重要なピリミジ ーティスティック競技などへと続いている。 ン塩基は、シトシン、ウラシル、チミンの三種ンドンの下で宝石職人として修業を積んだ。一 アが独立すると、市は両国の係争地となり、一 九二〇年ポーランド軍が占領、一三年正式にボである。チミンはおもに ( デオキシリポ五七〇年ころ宮廷細密画家、金細工師に任ぜら〔日本のビリャード〕日本への渡来は、江戸中 ばつばっ ーランド領となったが、第二次大戦勃発と同時核酸 ) に含まれ、ウラシルは ( リポ核れ、七二年以降幾度かエリザベス女王の肖像を期に幕府に献上されたといわれているが、一般 カえい には一八五〇年代 ( 嘉永・安政年間 ) にオラン に、シトシンはと rz<< の両方に含描いた八六年には国璽を制作し、八〇年から にソ連軍によって占領された。一九四〇年七月酸 ) らせん ダ人によって長崎の出島に持ち込まれたのが最 まれている。の二重螺旋構造のなかで、約二〇年間、イギリスの代表的な細密画家とし からリトアニア共和国の発足に伴いその首都と なった ( 同年八月、リトアニアはソ連邦の構成チミン、シトシンのピリミジン塩基は、それぞて名声をほしいままにした。その典雅でみずみ初とされている。その後、横浜を経て、東京に 共和国となる ) 。一九四一 ~ 四四年にはドイツれに相補的なプリン塩基と水素結合によって塩ずしい細密画には、明らかにホルバイン ( 子 ) は一八七一年 ( 明治四 ) に最初のビリャード場 軍の占領下にあり、戦争によって大部分が破壊基対を形成している。チミンはアデニンと、シやクルーエの影響が認められる。著書に『細密ができた。当時は華族や陸・海車の将官、外務 画論』がある。ロンドンに没。 〈谷田博幸〉省の高官などの貴顕紳士だけの社交的な競技で 〈安部一郎〉 トシンはグアニンと塩基対を形成する。また、 された。 どうきゅう あった。 ビリー . ヾッド BilIy Budd アメリカウラシルは QZ< には含まれていないが、アデビリャード billiards 撞球と訳される。 大衆のビリャードとして流行しだしたのは、 の作家メルビルの遺作となった中編小説。作者ニンと塩基対をつくることができる。ピリミジ球台 ( ビリャード・テープル ) の上で、球をキ 一九一三、一四年 ( 大正二、一一 l) ごろからで、 ュー ( キュー・スティック ) で突いて、競技点 死後の一九二四年刊。一八世紀末のイギリス海ン塩基とプリン塩基の間のこのような塩基対を 山田浩二をはじめ有名選手が輩出した。技術的 軍を舞台に、純朴無垢な青年水兵ビリーが、彼つくる性質は、核酸が複製されたり転写された数を競う室内競技。「玉突き」ともいう。 ようらん ) 一ちょう しっと にも揺籃期の四つ球、三つ球競技からポークラ 〔起源と歴史〕歴史的には古く、紀元前四〇〇 の純朴さに嫉妬する先任衛兵伍長に、身に覚えりするために非常に重要である。これら三種の イン競技へと移り、選手らの渡米による国際交 年ごろ、ギリシアで戸外スポーツとして、ビリ のない暴動の陰謀を告発され、怒って興奮のあはかに、核酸には 5 ーメチルシトシン、 5 ーヒド まり伍長を殴り殺してしまう。上官殺しの罪でロキシメチルシトシンなどのピリミジン塩基もャードの原型が行われていたといわれている。流も盛んになり、二五年春に有名選手を中心と 〈笠井献一〉 した日本撞球協会が設立された。昭和に入って ビリャードの起源についてはイギリス起源説、 処刑されるとき、「艦長に神の祝福あれ ! 」と微量存在する。 フランス起源説などいろいろあるが、一四世紀 からは外国選手の来日などによってますます盛 いうビリーの叫びに、この悲劇にまつわる哀感ビリヤ Francisco (Panch0) Villa ( 一〈七七 一 lll) の ー一九一一三 ) 貧農出身のメキシコ革命軍指導者。から一五世紀にかけて考案されたものといわんになり、三七、三八年 ( 昭和一二、 が無限の余韻を響かせる。根源的無垢と悪、暴 れ、最初はクリケットに似た戸外スポーツであ最盛期には全国のビリャード場軒数二万軒、台 力と体制、人間の実存と法秩序といった永遠のビリヤとは逃亡中の仮名で、本名はドロテオ・ 〈杉浦銀策〉アランゴ Doroteo Arang00 一般には愛称名ったものが室内競技に改良され、ヨーロッパ各数六万台に上った。三七年に松山金嶺がアメリ 主題を追究した傑作。 ハンチョ・ビリヤとして有名。北部ドウランゴ地で発達したというのが一致した定説となってカから帰国、スリークッションの技術を公開 ト他』 ( 『メルヴィル 回坂下昇訳『ビリー し、三八年に第一回全日本スリークッション選 州に生まれたが、少年時代に殺人を犯して逃 全集 2 』所収・一九全・国書刊行会 ) あんせい きんれい

10. 日本大百科全書 19

②只九七人一一ー 00 三一一③大正一五年④甲冑・武平次が寄贈した基金で建設。九州中部以北に現 下精一収集の中南米一一か国の出土品、織物、下関市立美術館①下関市長府黒門東町一ー びぜん 一② 0 公三ー四五ー四一三一③昭和五八年一一月④具の優品の宝庫で、とくに甲冑類は国宝・重文存する装飾古墳保存のために精巧なレプリカや および備前焼⑤月曜 ( 祝日の場合は翌日 ) ゅめじ 模刻、模写に一部実物を加えて装飾古墳室を設 市制施行九〇周年記念として開設。下関出身の 指定八〇点に上る⑤年中無休 夢ニ郷土美術館本館①岡山市浜二ー一ー はなつい かのうほうがい けている⑤月曜 〔高知県〕 三二②只六一一ー七一ー一 000 ③昭和五九年三月④狩野芳崖らの絵画と高島北海にまつわるアー たけひさ 〔大分県〕 竹久夢一一の作品を展示。ほかに邑久郡邑久町本ル・ヌーポーのガラス器具⑤月曜 高知県立郷土文化会館①高知市丸ノ内一 、リ、つり ー一ー二〇② 0 会 0 一一一一ー 0 一一三一③昭和四四年一大分県立芸術会館①大分市牧緑町一ー六 庄の生家には小品を中心に展示。夢二が設計し毛利博物館①防府市多々良一ー一五ー一 たアトリエを復原した少年山荘、資料館のリョ② 0 八三五ー一三ー 000 一③昭和四二年一月④毛利家一月④郷土資料館と美術館を兼ねる。高知県一② 0 九七五ー五一一ー 00 七七③昭和五二年九月④美 ービガーデンがある⑤各館とも月曜 ( 祝日の所蔵の平安以後中世・近世の古文書、美術工芸関係の美術家の作品展示。分館に青山文庫 ( 高術館と文化ホールをあわせもっ総合施設。特別 展・企画展のほか、郷土作家の近世から現代ま 場合は翌日 ) 品、武具刀剣類を公開展示。収蔵品には国宝の岡郡佐川町。 0 公九一一ー一一ー 0 三四 0 がある⑤月曜 せっしゅう 〔福岡県〕 での作品収集に力を入れる⑤月曜 ( 祝日の場 〔広島県〕 雪舟筆『山水長巻』ほか⑤年末年始のみ いっ′、ーしま・ 山口県立美術館①山口市亀山町三ー一② 石橋美術館①久留米市野中町一〇一五②合は翌日 ) 厳島神社宝物館①佐伯郡宮島町一ー一 ②只一一九ー四四ー一一 9 一 0 ③明治二八年④平家関係の 0 会九ー一一五ー七七公③昭和五四年一〇月④山口県 0 九四一一ー三九ー一一三一③昭和三一年四月④プリヂス別府市美術館①別府市上人ケ浜町一ー一 美術工芸品を中心に、奉納品を収蔵展一小⑤年文化センターの一環として建設。高島北海、香トンタイヤが創立二五周年を記念して久留米市② 0 九七七・・六セー 0 天九③昭和二五年④福田平八 りゅうぎぶろう づきやすお 中無休 月泰男らの作品を収集⑤月曜 に寄贈した文化センターの中心施設。久留米出郎、梅原龍三郎ら日本を代表する作家の日本 しげる はんじろう こがはるえ 〔徳島県〕 身の青木繁・坂本繁二郎・古賀春江らの作品を画・洋画のほか漫画展示室がある⑤月曜、祝 尾道市立美術館①尾道市西土堂町一七ー一 日 九②只哭ー = 〒 一一天一③昭和五四年④尾道に 徳島県博物館①徳島市新町橋一一ー二〇②多数展一小⑤月曜 ゆかりの美術作品を中心に歴史民俗資料も展一小 0 公六ー一一一一ー九 0 一一③昭和三四年一一一月④重文流 北九州市立美術館①北九州市戸畑区西鞘〔宮崎県〕 どうたく ⑤月曜 水文銅鐸その他の古美術品と伊原宇三郎ほかの ヶ谷町二一 ー一② 0 九三人全ー七七七七③昭和四九都城市立美術館①都城市姫城町七ー一、 年一一月④ドガ、ピカソ、マイヨールなど時② 0 九会ー一一五ー一四四七③昭和五六年④山内多門 呉市立美術館①呉市幸町四ー九入船山公園現代美術品⑤月曜、第三木曜、祝日 山田新一、吉井淳一一ら郷土出身作家の作品⑤ 内② 0 全三ー一一五ー一一 00 七③昭和五七年八月④地〔香川県〕 代・地域を超えて収集⑤月曜、祝日 ことひらぐう ー一月曜 ( 祝日の場合は翌日 ) 、祝日、毎月一日 元出身の作家の作品と、国内外の近現代美術の金刀比羅宮博物館①仲多度郡琴平町八九多賀谷美術館①遠賀郡芦屋町山鹿一一一 秀作⑤月曜 ( 祝日の場合は翌日 ) 一一②只七七ー七五ー一一一一一一③明治三八年④十一面二② 0 九三ー一一一一三ー 0 四七三③昭和四九年二月④西宮崎県総合博物館①宮崎市神宮二ー四ー 、 : つ ~ んじ 四② 0 久五ー一一四ー一一 0 七一③昭和四六年三月④宮 耕三寺博物館①豊田郡瀬戸田町五五三ー一一観音立像など金刀比羅宮に伝わる宝物。一一号館洋の古版画ならびに多賀谷伊徳の絵画、哉明の がんぐ 崎県の歴史および郷土の美術を基本テーマに常 ②只四五一一ー七ー只 00 ③昭和二七年④仏教美術文 には古絵馬、玩具、香川県考古資料、高橋由一陶磁器作品⑤日曜のみ開館 設展示。本館から一一十数キ。離れた特別史跡西都 化財を中心に、近代の有名作家の絵画・彫刻・ 作品など⑤年末大掃除の一日を除き無休 福岡市美術館①福岡市中央区大濠公園一ー 工芸、鉱石標本、水石コレクションなど。特別坂出市民美術館①坂出市寿町一ー三ー三五六② 0 九一一ー七一四ー六 0 五一③昭和五四年一一月④原古墳群中に西都原資料館がある⑤月曜、祝 館に新宝物館などがある⑤年中無休 ②只七七ー四五ー七一一 0 ③昭和六〇年一一一月④地一兀旧福岡藩主黒田家、松永記念館、東光院より寄日の翌日 東広島市立美術館①東広島市八本松町原作家育成のためのギャラリー開放と企画展⑤贈の古美術・仏教美術が主。国宝「金印」、名〔鹿児島県〕 そう 九四〇〇② 0 全四ー一一〈ー五七一三③昭和五四年六月 月曜 ( 祝日の場合は翌日 ) 槍「日本号」など⑤月曜 ( 祝日の場合は翌岩崎美術館①指宿市十二町三七五五② 0 九 九三一一ー 一一ー四 0 五六③昭和五八年四月④フランス近 日 ) ④県ゆかりの作家の企画展など⑤月曜午後、高松市立美術館①高松市栗林町一ー二〇ー 現代絵画と黒田清輝を中心とする白馬会の画家 一七② 0 八大ー三一 ー三一一一六③昭和二四年一一月 〔佐賀県〕 火曜 りつりん たちの作品。西郷南州や大久保甲東などの書跡 広島県立美術館①広島市中区上幟町一一ー一一④栗林公園内にあり、地域住民に密着した展覧有田陶磁美術館①西松浦郡有田町一三五六 ひぜん ② 0 九五五四ー一一 一一② 0 全ー一一一一一ー六一一四六③昭和四三年九月④児会を開催⑤年末年始のみ ー三三七一一③昭和一一九年④肥前古陶磁⑤年中無休 いくおあいみつ 玉希望、平山郁夫、靉光ら広島県にゆかりの多中津万象園・丸亀美術館①丸亀市中津町の系譜別展示と現代陶芸家の作品。建物は江戸鹿児島市立美術館①鹿児島市城山町四ー 三六② 0 九九一一ー一一四ー三四 00 ③昭和二九年九月④ い作品が中心⑤水曜 一一五ー一②只七七ー一一三ー六三一一六③昭和五七年八月中期の石造倉を改造⑤月曜、祝日 ひろしま美術館①広島市中区基町三ー二中④一九世紀バルビゾン派の画家の名画とベルシ佐賀県立美術館①佐賀市城内一ー一五ー一一黒田清輝、藤島武二らの洋画のほか日本画・版 三② 0 九五 = ー一一四ー三九四七③昭和五八年一〇月④画・陶磁器など⑤月曜 ( 祝日の場合は翌日 ) 央公園内② 0 全ー一一一一三ー一一五三 0 ③昭和五三年一一 アの古陶器⑤年中無休 月④広島銀行が創業百年記念として設立。フ 〔愛媛県〕 県政百年を記念して開設。古賀忠雄、百武兼松下美術館①姶良郡福山町福山七七一② 0 究五ー五五ー一一一一一一一③昭和五八年三月④黒田清 行、岡田三郎助など県にゆかりの深い作家の作 ランス印象派から二〇世紀なかばまでのヨーロ愛媛県立美術館①松山市堀之内②只究ー 四三ー四一一夭③昭和四五年九月④古今東西にわ品を系統的に展一小⑤月曜、祝日の翌日 輝、藤島武二らの作品と西洋近現代の巨匠の作 ツバ美術が中心⑤月曜 ( 祝日の場合は翌日 ) 、 たる美術作品の収集と展示。分館の郷土美術館〔長崎県〕 品。古代オリエント資料⑤年中無休 年末 ( 年始は開館 ) 〔沖縄県〕 〔山口県〕 ( 同市一番町三ー三ー七。只九九ー一一一ー三七一 D があ長崎県立美術博物館①長崎市立山町二 ② 0 九夭ー一一一ー六七 00 ③昭和四〇年一一月④江戸 沖縄県立博物館①那覇市首里大中町一ー一 宇部市野外彫刻美術館①宇部市常盤公園る⑤月曜 ぶぎようしょ びようぶ 内②只三六ー三一ー四一一一③昭和三六年④隔年に ー一一②時代の長崎奉行所立山役所跡で、南蛮屏風や② 0 九会人四ー一三四三③昭和三〇年④前身は東恩 愛媛文華館①今治市黄金町一一ー六 りゅうきゅう ひぜん 開催される日本野外彫刻展の受賞作品を公園内只九 0 三 = ー一 0 六三③昭和三〇年三月④今治市在肥前陶磁器、スペイン美術のコレクションが特納博物館と首里博物館が合併した琉球政府立 っ 博物館で、四七年五月祖国復帰とともに現在名 に配置⑤年末年始のみ 住の二宮兼一が収集した日本、中国、朝蝉の古色⑤月曜 ( 祝日の場合は翌日 ) くまや ゅ 〔熊本県〕 に改称。重文『尚家本おもろさうし』ほか沖縄 熊谷美術館①萩市今魚店町四七②只穴一一ー陶磁器と各種美術工芸品⑤祝日を除く月曜、 熊本県立美術館①熊本市二の丸二番②の考古・自然・民俗資料および美術工芸品約一 術、ー吾一 = 、③昭和四〇年四月④江戸の美術工芸祝日の翌日、八月一四 ~ 一六日 0 九六ー三五一一ー一一一一一③昭和五一年三月④故松本嘉万七〇〇〇点⑤月曜、祝日 ひ美を中心とする熊谷家代々の収蔵品⑤年中無休大山祇神社国宝館①越智郡大三島町宮浦 せいざん かっちゅう ばる 525