リシュリューの下で、そして一七世紀後半から部から一掃されて第二帝政様式といわれる建物 と並んで市民代表にも支援を求め、最初の三部 起源をもつ。だがメロビング朝末期からカロリ ング朝時代には政治の中心から外され、カール会をパリに開いた。これは市民の財力の強さをのルイ一四世治下にも、区画整理や再開発は続が新築され、ユゴーの「レ・ミゼラブル』で有 行し、貴族など上流階層の住む西寄りの街区が名な下水道の整備も本格化する。一時コミュー 大帝はアーヘン ( 現、西ドイツ ) を首都とし意味するが、またこれ以後パリは国王の重税に ほ - っキ一 とくに整備されていった。ルイ一四世自身は反ン蜂起で中断されるが、第三共和政下にも改造 た。そして九世紀後半にノルマン人、いわゆる苦しむことにもなる。中世末の百年戦争に伴う は続行され、基本的に現代の姿をとった。ハリ バイキングがセーヌ河口からさかのばって襲来周辺農村の荒廃、食料不足と物価高騰、重税と抗的なバリを好まず、一六七七年には・ヘルサイ は、一九世紀末にはエッフェル塔や地下鉄など し、ガリア・ローマ時代からの都市周辺部は壊 いった経済的困難に、。 へスト流行による大量死ュに移り、八二年にそこを政府本拠としたが、 バリは商業はもとより、宗教や文化・文芸の都鉄と電気に示される工業文明によって、その変 の恐怖が加わった。 滅的な打撃を被る。 政治の改革を求めたパリは市長の・マルセとして全ヨーロッパに名が響く。約五〇万の人化を加速する。一九〇五年からは乗合自動車 〔中世都市として〕最終的にノルマン人の攻撃 ( バス ) も登場した。この産業化開始の時期に 口を抱える都市への物資受け入れロであるセー を退けることができたパリは、その声望を高めルの指揮下に一三五八年、大規模な反乱を起こ は、革命的サンディカリスムとして高揚した労 ヌ河港は、大いににぎわった。 こ。八八八年。ハリ伯ュードがフランク国王となすが、賢明なる王と称されたシャルル五世がこ 啓蒙主義のサロンに哲学者や文人たちが集ま働運動の中心地ともなった。↓バリ改造 り、その子孫ューグ・カペーが九八七年にカべれを鎮圧し、いったん平穏が戻る。彼は右岸の 二〇世紀に入って首都圏として発展し始めた った一八世紀に、町はさらに西に広がり、現在 ー朝を始めるころには、王国の中心としての位市壁を広げて商工業の発展への対応を用意し、 パリは、二度の大戦や人民戦線、一九六八年 シテ島の王宮には秩序と革新の象徴ともいえるのコンコルド広場やシャンゼリゼ大通りの原型 置は揺るぎないものになりつつあった。 ひのき もこの時代につくられた。膨張した都市の機能「五月革命」などのできごとで政治の檜舞台で 一二世紀前半、カペー朝のルイ六世のころか時計塔をつくらせた。 しかしシャルル五世死後また混迷が訪れ、一をよくするための区画整理、街頭照明、保健衛あり続けたばかりではなく、シュルレアリスム ら、周辺の農業生産の発展を背景に経済的にも 飛躍を示す。右岸にある現在の市庁舎前広場に 四世紀初めに二〇万といわれた人口は、同世紀生などへの配慮が強まり、警察機構もヨーロツで有名なように世界各地から前衛的芸術家を集 め、文学者をひきつける芸術の都でもあった。 ハ諸国のモデルにされた。 発展しだした市場は、のちに「パリの胃袋」と末には半減していた。しかもアルマニャック派 しかしこうした都市整備の試みも、流入する世界各地への多極化の動きは明確であるが、い よばれることになるレ・アル ( 中央市場 ) の場と。フルゴーニュ派に分裂して全国で争っていた 人口の多さや問題の山積に追い付かず、公衆衛までもパリはファッションの中心であり、また 所に移され、フィリップ二世のもとで一三世紀貴族のうち、一五世紀初めに一時バリはイギリ 初めには本格的に取引の中心になった。イングス軍と通じるプルゴーニュ派に支配されて荒廃生や貧民問題は解決されないまま、旧体制 ( ア学問研究や現代思想の新しい動きの震源地であ 〈福井憲彦〉 ンシャン・レジーム ) の全般的危機はフランスり続けている。 ランド王と争ってフランス王国の領土を拡張、と混迷を極め、市内にすらオオカミが出没する じゃっき / 林善彦・山路昭訳「バリ 革命を惹起した。 E)> ・ラヴァル著、ト 封建諸侯を抑えて国王の権勢を強め、尊厳なるほどだったといわれている。 の歴史』 ( 白水社・文庫クセジュ ) ▽・ド 王 ( オーギュスト ) とよばれたフィリップ二世〔アンシャン・レジーム期〕王権強化に腐心し〔大革命から現代へ〕一七八九年バスチーユ襲 ほせき ウ・ベルヴァル著、矢島翠編訳「パリ一九三 リの周囲を市壁で固め、街路に舗石を敷たフランソア一世は、一五二八年パリに本拠を撃に始まり、パリ市民とサン・キュロットが活 〇年代』 ( 岩波新書 ) ▽・・アッカーク き、セーヌ川には橋を架けさせた。中世の橋は定めた。市内にはルネサンス様式の建物が新築躍した大革命下に、。ハリはふたたび首都になっ 一七九 ネヒト著、館野之男訳「パリ病院 、ゝヾ丿こも及ぶ。・ビュ た。革命直前に約六五万から七〇万と推定され され、人文主義の風がノーし 木造で、橋上には家屋がしつらえられており、 四 ~ 一八四八』 ( 一九大・思索社 ) ▽堀井敏夫 デを指導者として一五三〇年、王立教授団が設る人口は、やがて一八四六年に約一〇五万、周 ときには火災で焼失もしたが、シテ島を中央に 著「パリ史の裏通り』 ( 一九会・白水社 ) ▽喜 辺町村合併後の六一年に約一七〇万、一九〇一 左右両岸が連結して発展の途につく。彼はまた置され、いまに続くコレージュ・ド・フランス 安朗著『バリの聖月曜日ーー一九世紀都市騒 シテ島の王宮と並んで右岸にループル宮を建の前身となり、商業も繁栄して人口はまた増加年には二七〇万余と急増する。その増加は大部 乱の舞台裏』 ( 一九 0 ・平凡社 ) ▽・サール した。しかし同時に下層民も多く流入し、狭い 分が労働階層であったが、都市整備は人口急増 て、商人ギルドに特権を付与して経済の活性化 マン著、小沢明訳「。ハリ大改造ーーオースマ し、し付かす、西の裕福な。フルジョア地区と、 を図った。左岸では、サント・ジュヌビエープ路地が入り組む街区には、フランソア・ビョン ンの業績』 ( 一九〈三・井上書院・ The Cities 日 北や東に多い下層労働者地区の落差は大きかっ の丘にかけてバリ大学の基礎が築かれ、やがてが詩に歌ったような怪しげな別世界が首都の下 たいせき New lllustrated Series) ▽玉村豊男著 中世末にはスコラ学の総本山として諸国から学層に張り付く。これ以後バリにとって、堆積すた。とくに一九世紀前半に労働階層は「危険な 『。ハリ旅の雑学ノート』 ( 新潮文庫 ) 階層」として支配階層に恐れられ、実際一八三 者をひきつけることになる。知的・文化的中心る下層民の問題は深刻なものであり続ける。 ー・にゆ - っ ・・ーけん pariah dog 唖乳綱食 としてのいわゆるカルチェ・ラタンの成立であ 一六世紀末の約三〇年間、宗教戦争はまたし〇年代からは労働運動や社会主義運動の中心に ハリア大 もなり始めた。一九世紀のパリは、三〇年の七肉目イヌ科の動物。東南アジア、インド、中近 る。すでに一二世紀なかばから、バリ司教座教ても首都を混乱に陥れ、カトリック勢力の支配 会としてノートル・ダム大聖堂の建築が始まっ下に、一五七二年にはサン・バルテルミーの虐月革命、四八年の二月革命と六月事件、七一年東、北アフリカなどの路上を半野生の状態で徘 ぎんし ノリ・コミューンをはじめ、フランス全体の徊しているいわゆる野良大で、腐肉や残滓の掃 ており、ゴシック建築の偉容が宗教的中心の地 殺が起こった。この宗教対立を収拾したアンリ しんかん 四世統治下から、近代都市への整備と脱皮が政治やヨーロッパ全体をも震撼させる社会運動除屋として暮らしている。ある目的をもって選 位を象徴することになる。 と・つた 択淘汰されているわけではないので、毛色は変 に揺れる激動の首都となる。 こうして中世都市としての姿を整えていった徐々に進みだす。現在も美しい姿をみせるポー 化に富み、耳も垂れ耳のものがいる。しかし、 パリが現在のもとになる姿をとるのは、第二 パリには、一三世紀の聖王ルイ九世のもとで高ジュ広場 ( 当時はロアイヤル広場 ) やドフィー ヌ広場は、その産物である。彼は工事中のポ帝政下に開始された「オスマン化」とよばれる中近東、北アフリカの。ハリア大は、中近東や南 等法院と会計院が置かれ、さらに商業の発展と 相まって人口も一〇万を超えたといわれる。カン・ヌフ ( 新橋 ) を完成させ、歩道を設け、道都市改造からである。周辺町村を合併して現在アジアのオオカミから派生したとみなされてい じんかい を蓄えた商人たちは都市としての自治権を王か路管理や塵芥処理、さらに都市生活の命綱であの面積になり、全体を二〇の行政区に、各区をて、典型的なものは立ち耳、垂れ尾、細い四肢、 こうふん 細長くとがったロ吻をもち、中形の体格で、淡 あら認められ、プレポとよばれる代表を市長としる上水道のための政策にも力を入れた。一六四四カルチェ ( 区 ) に分ける制度も一八六〇年か 八年のフロンドの乱でまたしてもパリは王権と らである。帝政の強権下に幅の広い大通りが旧黄褐色から赤褐色の毛色をし、ディンゴに似る 3 り・て選任するようになる。一三〇二年、教皇と対 そうりよ 。よ とされている。被毛は短毛である。 ^ 増井光子〉 立していた国王フィリップ四世は、僧侶・貴族衝突するが、その前のルイ一三世時代には宰相 街区を貫き、入り組んだ路地や古い建物が中心
はのば りゅうへん 〔歴史〕・ヘトナム古代王国の都や竜編など漢 ( レ ) 朝ともにこれを引き継いだが、陳朝では歯の衛生週間はのえいせいしゅうかん毎年築、天一七 ~ 四 = 再建 ) などが、戦後、補修・再建 さんだっ 〈齋藤光格〉 された。公園や緑地も多い 代以降の中国属領期の交趾や交州の治所はすべ中京、陳朝を簒奪してタインホアの西都に遷都六月四日 ( 虫歯予防デー ) より一週間にわたっ しん した胡 ( ホ ) 朝では東都とも称し、胡氏を滅ばて行われる歯科保健普及活動の一つ。一九四九〔歴史〕一一一三五年に成立した・フラウンシュワ てハノイ市の近郊にあったが、三世紀末、晋が みん してベトナムを侵略した明は昇竜城を東関城と年 ( 昭和二四 ) より週間行事として実施されるイク・リューネプルク公国を起源とする。同公 竜編城を市の西部、トーリック川沿いに移し たいら て、新城を大羅城とよび、隋がここを交州の治改称した。黎朝では東都と東関城の名のほか中ようになったもので、期間中は厚生省、日本歯国はウエルフ家のニーダー ( 下 ) ザクセンの領 所宋平としたのが政治都市ハノイの起源で、唐都、奉天城とよばれたが、トンキンの呼称の起科医師会、都道府県歯科医師会などの主催によ地から形成されたものだが、その後たびたび離 とごふ 合集散を繰り返し、一部はプラウンシュワイク り、各地で歯に関する展示会、講習会、映画 源である東京 ( ドンキン ) が正式の名となっ も大羅城に都護府を置いた。一一世紀に李 ( リ 公国として分離した。残余の旧領再統合はウェ イ ) 朝が大羅城を外城とする昇竜城を築いて昇た。同時に職種によって住み分けられるギルド会、ロ腔衛生相談、歯科保健指導、予防処置な ケ・チョー どが行われるほか、標語や作文の募集も行われルフ家支流リューネプルク家に属するカレンペ 竜 ( タンロン ) を都に定め、陳 ( チャン ) 、黎の町として発展した城下は普通名詞「みやこ」 ルク侯国 ( 首都ハノー ー ) のエルンスト・ア でよばれたが、昇竜は中世後期から近世にかける。歯の衛生週間は、今日では広く国民の間に ウグスト一世 Ernst August I ( 在位一六七九 ~ て政治・文化の中心であるとともに北河 ( 北 定着しており、全国的な規模で行うキャンペー しん 部 ) 最大の交易都市として栄えた。黎朝末に清ンは世界に誇れるものといえる。〈市丸展子〉九 0 が実現した。彼はさらに一六九二年選帝侯 ン ( 旧公国名 国軍による侵略を被ったが、これを撃退した西 バー Hannover 西ドイツ北東部、の地位を獲得し、以後のハノー ワ は正式名称として残るが一般にはこうよばれ ニーダーザクセン州の州都。中世に公国とな ス山 ( タイソン ) 政権でも北部の軍事・行政を管 た ) の発展の基礎を築いた。 り、一八六六年まで独立王国を形成していた。 ンン轄する最重要都市としてその北平王の居城とし ジ 次代のゲォルク一世 Georg I ( 在位一六九〈 た。一九世紀初頭に成立し、フェ ( ュエ ) に遷英語綴りは Hanover 。人口五一万〇八〇〇 げん チう ・わ都した阮 ( グエン ) 朝は昇竜を昇隆の文字にか ( 一九会 ) 。中位山地と北ドイツ平原の境界に位置一七 = 七 ) は、母がイギリス王ジェームズ一世の孫 えるとともに、北城総鎮を置く特別都市とし し、石灰岩、カリ塩、石油などの天然資源に恵であったことから一七一四年イギリス王ジョー るで ー朝 ) 。以後、この た。阮朝の明命 ( ミンマン ) 期に地方行政を省まれる。ライネ Leine 川とミッテルラント運ジ一世となった ( ハノーバ き人 で商 に区分したとき、紅河とその支流に囲まれた地河が市内を通り、ルール地方とベルリンを結ぶイギリスとの同君連合関係は一八三七年まで続 が店 くが、その 間、ハノーバー選帝侯はイギリス王 列方が河内 ( ハノイ ) 省となり、昇隆はその省会東西方向と、ハンプルクとフランクフルトを結 行る ハノイとなった。 ぶ南北方向の交通幹線の交差点にもあたる交通としてロンドンに常居し、軍政を除くハノー の売 蛇を ハノイは一九世紀後半に始まるフランスの侵の要地。第二次世界大戦後、西 長ど ベルリンと連絡するための空港 略の過程で一八七三年と八二年にフランス軍に 者ナ 学ナ 占領され、そのたびに締結された条約でベトナも建設された。機械、自動車、 イ見 ノ ムの植民地化が進み、八四年に北部は保護領トゴム、事務用品、食品などのエ 、左上 ンキンとなってハノイはその首都に定められ、業が盛んである。商業では卸売 ついでフランス領インドシナが成立するとそのり、銀行、保険などの業務が行 総督府の所在地となり、さらにフランス領直轄われる。また、一九四七年以 都市となった。一九四五年に独立したベトナム来、毎年工業見本市が開かれ 民主共和国はハノイを首都に定め、フランスのる。州都として州と連邦の諸機 再侵略でこれを一時放棄したが、五四年に奪回関があるほか、経済や宗教団体 し、ジュネー・フ協定による南北分裂期も全土の の本部や事務所、研究所やケス 首都を称した。七六年南北の統一かなったベト トナー博物館、工科大学などの ナム社会主義共和国成立後、改めてベトナムの文化施設も多い 〈川本邦衛〉 首都となる。 旧市街はライネ川の渡河点に 羽ノ浦 ( 町 ) はのうら ( ちょう ) 徳島県中東部、発生した集落が中世に発達した 那賀郡の町。一九一八年 ( 大正七 ) 町制施行。ものであるが、第二次大戦によ 四国旅客鉄道牟岐線、国道五五号がほば南北に り被害を受けた。戦後、大胆な 走る。那賀川北岸に位置し、町域の大部分は那交通計画によって旧市街が改造 賀川の沖積地であり、県の穀倉地帯をなす。 され、中心部には広い街路が走 あなん 松島、阿南両市の中間にある近郊農業地帯であり、周囲を環状道路が取り囲ん り、キュウリ、イチゴなどの施設園芸も盛ん。 でいる。大戦で歴史的建造物も 那賀川流域の木材資源を背景とした家具、木工損傷を受けたが、マルクト教会 品の製造も行われる。住宅団地の造成で人口増 ( 一三四九 ~ 五九 ) 、旧市庁舎 ( 一四三五 ~ 加が著しい。人口一万一四九〇。〈高木秀樹〉 〈 0 ) 、かってのハノーハー公の あわとみおか たっえ 」【二万五千分の一地形図「阿波富岡」「立江」 居館ライネ宮殿 ( 一六三六 ~ 四 0 建 1 れい むぎ ライネ川の渡河点に発達した旧市街中心部。マルクト教会 ( 右 ) , ライネ宮殿 ( 左の川沿い ) などが残っている
、力しツ」 フランスの国立劇場オ。ヘラ座専属のバレエ団。 バリ外国宣教会 ん Société des くせんきようかい 一六六一年にルイ一四世によって設立された国 お 立舞踊アカデミーから発展した世界最古のバレ Missions Etrangéres de Pa- ris 外国への宣教に専心し 、ま工団で、一六七一年のオペラ座開場当初は・ た最初の、在俗司祭によるカト ポーシャン、・リュリが芸術監督を務め、一 リック修道会。一六五三年フラ 八七一年に現在の名称となった。世界のバレエ ンソワ・バリュ、ピエール・ラ の中心として、カマルゴ、サレ、エルスラー ン・ヘール・ド・ラ・モットらを タリオーニ、グリジといった歴史的な舞姫がこ 中心にフランスで創設された。 の舞台を踏み、・ベストリス、・ノ・ヘー ル、ガルデル兄弟といった名振付者が作品を発とくに極東、東南アジアを布教 ちょうらく 表した。一九世紀末に凋落し、二〇世紀初頭地とし、フランスのこの地域へ の文化的進出にも貢献した。日 にヨーロッパに登場したディアギレフのロシ ア・バレエ団にその人気を奪われた。一九二九本も同会の重要な布教地で、す 丿力でに一八四四年 ( 弘化一 ) には 年から五八年までロシア人の ()n ・リファーレ ; りゅうきゅう 芸術監督になり、再興に努力した。八三年以降琉球 ( 沖縄 ) に渡来、五八年 ・ヌレーエフが芸術監督になっている。六一一一 ( 安政五 ) 修好条約締結と同時 ^ 市川雅〉 に日本本土にも上陸した。長崎一」 年 ( 昭和三八 ) 以来数回来日。 じゅ・つりゅうし 県大浦に天主堂を建て当地にい バリオン 0 重粒子 ハリ立日楽院ーーおんがくいん Conservat0ire わゆる隠れキリシタンの村落を national supérieur de musique, Paris フ発見したプチジャン、初代東京 ランスの国立音楽専門学校。フランス革命前か大司教ォズーフなど、明治初年←一 ら存在した歌唱学校を母体に、。 コセックらの努のカトリックの布教、司牧はほ 力により一七九五年設立。翌年一〇月、一〇〇とんどこの会が担当している。 人余の教員と三五一人の学生で発足。ヨーロッ リ外国宣教会による文化 パで最古の、水準の高い音楽教育の場として広的、社会的貢献も大きく、プチ ジャンらの出版事業、テストビド、ベルトラン 「旧。ハリの中心部と左岸の三つの地区は、シテ く知られ、フランスの高名な作曲家、演奏家で きゅうらい パリ音楽院に学ばなかった者はほとんどいな らの救癩事業、フロジャックの結核療養事業、島のように貧民窟をなしているか、あるいはグ へんさん ロ・カイユーやサン・マルセル街区、サン・ル ルマレシャル、ラゲらの辞書編纂、ラゲによる 。フォーレなど高名な音楽家が院長を務め、 イ島のように衰え、ますます困った状態になり 教授陣の著した教則本、練習曲集などは国内外『新約聖書』翻訳、そのほか各種の学校経営な で用いられている。一定の枠を設けて外国人留ど、日本のカトリック教会の基礎を築くと同時つつある」と記録されている。衛生学者たちも③ に、西欧文化の紹介、移入にも大きな役割を果早くから、中心部の改造を緊急課題としていた 学生も受け入れ、各科ごとに卒業試験が公開で 八三二年のコレラの大流行が、その緊急り、南へサン・ミシェル大通りがつくられてい 行われる。その結果、一等賞、一一等賞が授けら たした。その後、日本では第一線での活動から 東西にはエトアール広場からバスチーユ広 れた者だけが卒業資格を得る。一九世紀には専は退いたが、第二次世界大戦後も一九五八年性をいっそう増大させた。したがってオスマンく。 用ホールをもち、べ ートーベンの作品の紹介な ( 昭和三三 ) からふたたび新たに活動を始めて化の基本には、物と人の流れをよくし、経済を場へ通じる交通路が開かれ、小公園や広場が随 〈鶴岡賀雄〉活性化することと並んで、水や空気の流れをよ所に配置され、大きな広場からは道路が放射状 どが・ < ・アプネックらにより行われた。ま かいそうフランスの首都。ハ くするという配慮が示されていた。直線的な大 に延ばされた。これに対応して中心部一帯が区 た教授を中心にした演奏協会が組織され、管弦 ハリ改造 楽団 ( バリ音楽院管弦楽団 ) による演奏会も行は、中世以来何回となく国王たちによって改造通りと環状大通りを軸に交通路を秩序だて、区画整理され、古い建物は壊されて下層住民たち は排除された。このような改造は、啓蒙時代以 われたが、一九六七年パリ管弦楽団へと発展的が加えられたが、とくに第二帝政期にセーヌ県画を整理し直すこと、たとえば経済地区と居住 〈美山良夫〉知事オスマンの指揮下になされたものをさし、 地区との機能を分化させつつ結合する、道路整来の社会衛生論と密接に結び付いているが、同 に解消した。↓バリ管弦楽団 ほうき かいきよう Selat Bali イン フランスでは彼の名をとってオスマン化 haus- 備と並行した上水道の体系的導入を図り下水道時に、民衆蜂起のバリケード戦を容易にしてい ハリ海峡 網を確立させることなどが、帝政という強力な た狭く入り組んだ路地を下層住民ごと排除し、 ドネシア中南部、ジャワ島とバリ島との間の海 smannisation とよばれる。 峡。インド洋とジャワ海を結ぶ。長さ約二〇 一九世紀に入ってバリの人口は急増し始めた権威体制を背景に推進されたのである。 軍隊の移動と大砲の使用を容易にするという治 キ。、幅一・六 ~ 五キロ、水深四〇 ~ 六〇。南部が、それに対応すべき施設や制度はまったく不 改造は一八五〇年代、六〇年代前半およびそ安上の目的とも絡んでいた。一八四八年の革命 は湾状で比較的広いが、北部は狭小である。海十分なものにとどまっていた。とりわけ狭い街の後半と三期に大別できる。第一期には、中心 時の市街戦の記憶は、第二帝政にとってきわめ て鮮明だったからである。 峡に臨む最大の港はジャワ島のバニュワンギ。路と古い建物が中世的な様相を呈していた中心部で交差する大通りの建設が進められた。南北 の軸として五八年にセバストボル大通りが開通 こことバリ島のギリマヌク間に定期船が就航し部には、労働者など下層住民が集まっていた。 バリは一八六〇年から周辺の一八町村を合併 〈上野福男〉 ている。 一八四四年に刊行された『建築総合誌』には、 し、さらに北へ四〇幅のストラスプール大通して拡大されたが、第二期にはエトアール広場 第ⅱれ、 ぶに - い / 、澪を第な パリ改造 ①工トアール広場の改造工事の模様。凱旋門前にある古い門が解体されている ( 1860 年 ) 当時の絵入り週刊新聞の挿絵 ②オペラ座通り貫通のための取壊し作業 ( 1867 年 ) 。正面はオペラ座 ③バリ市街の改造を指揮したセーメ県知事オスマンの肖像 を当、こ ② 136
びじゅっ 美術館 ヤコフ兄弟がコレクションと建物を市に寄贈し六③王室コレクションを核に発足。デンマー BeIIas Artes de San Fernand0 ①マドリー 第一級の美術館。フェリペ二世のティッィアー ド②一七五二③マドリード最古の美術館。ノのコレクション、エル・グレコ、ペラスケて発足。革命後国有となる。所蔵品はロシアおクの近世と近代の絵画と彫刻、初期のドイツ、 ネーデルラント、一七世紀以降のオランダ、フ ス、ゴヤ、ピカソの『ゲルニカ』など、スペイ よびソ連の中世より現代に至る絵画が中心で、 ゴヤの『フェルナンド七世騎馬像』をはじめス ランドル、フランス、スペインの絵画など。 ルバラン、ムリーリョらスペイン美術アカデミ とくにイコンの収集が重要。 ン絵画を中心とするヨーロッパ絵画。 ー会員の作品を所蔵。 〔ドイツ民主共和国〕 ミロ財団美術館 Fundaci6 Joan Mir6 ①プーシキン美術館 * Staatliches Puschkin ・ Museum für Bildende Künste ①モスクワ バルセロナ②一九七五③ミロ自身の設計に ドレスデン絵画館 * Gemäldegalerie と te スペイン現代美術館 Museo Espafiol de Meister ①ドレスデン②一八五五③ザク Arte Contemporaneo ①マドリード②一九なる建物に彼の彫刻、絵画などを展示。図書②一九一二③モスクワ大学付属美術研究所が セン選帝侯のコレクションを核に発足。ッビン 前身。一九三七年に現在名に改称。古代彫刻、 七四③ピカソ、ミロ、ダリなどスペインの一一館、野外彫刻展示場もある。 イコン、フランス印象派など一三世紀から現代ガー宮殿のゼンバー館にある世界屈指の美術 〇世紀美術を中心に展示。 ラサロ・ガルディアーノ美術館 Museo に至るヨーロッパ絵画。 館。第二次大戦で罹災したが、ソ連から絵画が "Lazaro Galdiano" ①マドリード②一九五 スペイン国立陶磁博物館 Museo Nacional de Ceråmica ①バレンシア③バレンシア地一③美術収集家ガルディアーノが収集品と邸ロシア美術館 Staatliches Russisches Mu ・返還され、宮殿の再建を待って一九六〇年に再 しつぼうぞうげ 方の陶器やタイルの紋章、先史時代から二〇世宅を国家に寄贈して発足。七宝、象牙細工、金 seum ①レニングラード②一八九三③美開した。 紀に至る内外の陶磁器を網羅した世界有数の陶工品などの華麗な工芸品のほか、ヨーロッパ絵術アカデミーとエルミタージュから移されたロ ベルカモン美術館 * Pergamonmuseum シアの美術作品を核に発足。中世のイコン、一①東ベルリン②一八三〇③正式名はベルリ 磁美術館。 画の重要作品を所蔵。 ン国立博物館。プロイセン国立美術館創立一〇 ~ 二〇世紀の国内作家の代表作を所蔵。 ロマン派美術館 Museo Romåntico ①マ セビーリヤ県立美術館 Museo Provincial 〇年を機に開館。中近東美術館、古代ギリシ ドリード②一九二四③・ヘガ・インクラン公 de Bellas Artes ①セビーリヤ③一七世紀 〔チェコスロパキア〕 ア・ローマ美術館、イスラム美術館、東アジア 初頭建立の旧ラ・メルセド修道院を一八三九年爵により創立。一八〇八 ~ 六〇年のロマン主義プラハ国立美術館 Nårodni Galeri v Praze ①プラハ②一七九六③ルドルフ二世のコレ美術館、民族博物館が入った建物の通称。小ア に改装した建物。ムリリョの五四点の作品群の の画家の作品を当時の調度品とともに陳列。 ジアのベルガモンの大祭壇を復原する。 クションを中核とし、シュテルン・ヘルク宮その ほかスルバランらセビーリヤ派の絵画。 〔ソ連〕 エルミタージュ美術館 * Staatliche Ermi- 他の複数の建物に、ヨーロッパ美術とポヘミアポーデ美術館 B0demuseum ①東ベルリン ルセロナ近代美術館 Museo de Arte Moderno ①バルセロナ③フェリペ五世の tage ①レニングラード②一九二〇③一七地方のゴシック美術、ロマン派からキュビスム②一九〇四③先史・原始美術館、エジプト美 に至るフランス美術と、近・現代のチェコスロ術館、初期キリスト教・ビザンティン美術館、 王宮、パラシオ・レアルに開設。一九世紀後半六四年工カチェリーナ二世のコレクション展示 絵画館、彫刻館が入った建物の通称。カイザ までのスペイン絵画、ピカソ、ミロ、ダリらの に始まる世界最大級の美術館。一八〇五年帝室 ハキア美術作品を展示。 ・フリードリヒ美術館が前身で、旧蔵品の大 作品を所蔵。 美術館となり、一九一七年の革命後、国有化さ 〔デンマーク〕 ピカソ美術館 Museo Picasso ①バルセロれた。国外美術一一六〇万点を所蔵。 コペンハーゲン工芸美術館 Det Danske 半は現在西・ヘルリンのダーレム美術館が所蔵。 Kunstindustrimuseum ①コペンハーゲン マイセン国立陶磁器美術館 VEB Staatli ・ ナ②一九六三③中世の回船問屋の建物に、 東方美術館 State Museum 0f Oriental Art 少年時代のいわゆる「ピカソ以前のピカソ」を①モスクワ②一九一八③ソ連唯一の東方美③中世以降のデンマークの家具調度品、銀器、 che Porzellan-Manufaktur Meißen ①マイセ 中心としたピカソの作品を所蔵。 術館。中近東、日本の版画を含むアジアの美陶磁器、また一五 ~ 一九世紀のヨーロッパの木ン②一九一五③一七一〇年に創設された国 立マイセン陶磁器製作所に付属する美術館。創 彫品と装飾美術品。 プラド美術館 * Museo del Prado ①マド術・工芸品。 リード②一八一九③スペイン王家の収集品 トレチャコフ美一何館 * Staatliche Tretiakov ・ コペンハーゲン国立美術館 Statens Muse ・設期から現在までのマイセンの陶磁器のほか、 かきえもん を核にフェルナンド七世により開設された世界 Galerie ①モスクワ②一八九二③トレチ um for Kunst ①コペンハーゲン②一八九日本の柿右衛門、中国磁器などを展示。 プラド美術館 ( スペインマドリー 5 引
己館首都圏全体は同国経済活動人口の二五 % を擁す存在である。アンバリッド すの上れイ第 ( 廃兵院 ) は一七世 , さテ世術 る最大かっ多様な工業地域を形成している。こ 紀古典様式の完成例で、ルイ一四世の命により 世朝園備ル 4 せ公整プ たレれも自然立地のほか、人口、資本の集中、行政建築された。ノートル・ダム大聖堂に近いセー ン成場ど橋描ナ 機能など、中央集権国家の首都としての特恵的ヌ右岸に建つ市庁舎は、一九世紀ルネサンス様 ア完劇なムをル カ諸条件によるところが大きい。 式を模した宮殿建築。ネオ・バロック様式のオ をに区ダい わグ フ下街 バリエ業地帯発展の原動力としては、一八世ペラ座も同時期のものである。これらに対し のヌ治むルぎン 史年・の住た 紀以来の研究と資本とを生かした化学工業、一 て、大革命一〇〇年記念の万国博で建てられた 歴ン世のつ一のツ ポ層あノ頭工に 九世紀中葉以後のパリを起点とする鉄道建設、 ェッフェル塔 ( 一公九 ) や、モンマルトルの丘の 〕にイ階っ〕埠のも ぼ工末と でル流っ 鉄骨建築の発展などに伴う鉄工業などがあり、頂上に白く輝くサクレ・クール大聖堂 ( 一 ( ~ さらに一一〇世紀初頭以来の電気、自動車、航空 一九一九 ) などは、近代パリを象徴する建築物とな 機など、時代の先端を行く諸工業がこれに加わっている。↓パリ大学 〈日高達太郎〉 っている。 歴史 リ市内では小工場がしだいに住宅あるいは 34 , 第を 事務所に転換され、「非工業化」が緩慢に行わ〔古代から中世へ〕パリ盆地には旧石器時代か れている一方、現在も東と北側の遠郊工業地帯らの生活の跡が認められているが、都市として えんげん の建設が進んでいる。これらの工業地帯は、石の直接の淵源は、紀元前三世紀ころケルト系の 塀と煙突に工員住宅という伝統的なものとは異 ハリシイ人 Parisii が後のシテ島を中、いに住み なり、芝生と広い駐車場に囲まれた機能的で明着いたことにある。 リの名もそれに由来す るい工場が並んでおり、従業員は多少とも離れる。初め漁労生活を営んでいた彼らは、じきに た静かな環境のうちに住んでいる。これら工業セーヌ川を使って商業活動にも入った。この地 地帯の立地も景観も、技術、運輸手段、通信網はローマ人によってルテチア Lutetia とよば の発展、生活水準の向上など、社会条件の変革れ、前五〇年代のカエサルによるガリア征服と の反映である。 ともにローマ帝国支配下に置かれる。紀元後三 第三次産業部門においても 、パリは全国最大世紀にかけて、おもにセーヌ川左岸を中心に発 の産業都市である。政府と公共機関は、首都圏展したローマ都市ルテチアには、すでに水上商 活動人口の二〇 % を吸収している。また、ユネ人組合がつくられていた。現在でも、円形闘技 スコ本部をはじめ四〇〇を超える国際機関の存場跡や、クリュニー修道院内の浴場跡に、当時 市内に通う郊外居住者のためには、高速道路る。北と東の高速道路はベルギー、西ドイツか在は国際都市の名にふさわしい。通信・報道、 のおもかげが残されている。聖ドニが初代司教 による連絡に続いて、郊外電車と地下鉄を結びら輸入される工業製品のルートである。空路で出版、演劇、芸術、観光などの諸部門が発展し として布教し、殉教の逸話を残したのも三世紀 付けた ( 首都圏急行網 ) も発展、週日に は、市街中心から北東二五キ。にロアッシー ( シているし、さらには銀行、保険会社の本社、大なかばであった。 は一日当り九五万人、一日当り平均一一キロに及ャルル・ドゴール ) 、北東約一五キ。にル・プル企業の本部と研究部門の存在などが第三次産業 四世紀になるとゲルマン人、とりわけフラン ぶ移動を受けもっている。中央集権の強化にも ジェ、南約一五キ。にオルリーの三国際空港があを支えている。 ク族の侵入が激しくなり、その対応のためにロ 役だったパリ中心の全国鉄道網とは、方角によ り、発着機数は年三四万機、旅客二九六〇万〔文化施設〕フランスの知的活動と文化財も。ハ ーマから派遣されたユリアヌスはこの地に居を り六つのターミナル駅で結ばれ、列車本数は一人、貨物六三万トンを扱う (IR<II)O ほかに自家 リに集中している。バリ第一 ~ 第一三大学まで定め、三六〇年に皇帝に推挙された。シテ島を エコール・ボリテクニクエコール・ 日平均六二八、年間乗客数は計八八二〇万人に用機、試験飛行用の小空港も首都圏内にいくっ のバリ大学と四大学校 ( 理工科大学、高等中心に集住化が進み、五世紀初めには最初の市 ルマル・シュペリュールエコール・ナショナル・ダドミニストランオン 達する。これら六つの共用駅のほか三つの専用かある。 師範学校、国立行政学校、工業専壁がつくられたが、ローマの支配は実質上終わ 駅をもち 、パリを中心に五〇キ。圏内を結ぶ郊外〔産業〕中世以来の伝統的「パリ製品」として 門学校 ) には計約三〇万に及ぶ学生が通い、そりを告げてゆく。五世紀なかばにはアッテイラ 線 ( 二八路線、延長九二七キ。 ) が通じている。宝石細工、貴金属細工、楽器、高級家具、香の三分の一以上が地方あるいは外国出身であの率いるフン族の襲来を受け、パリはふたたび その列車本数は日に五一〇〇、年間利用者数は 水、高級衣装などがあるはか、精密器具、出版る。主要な調査研究機関の大部分がバリ市内と脅威にさらされるが、その攻撃を退けた聖女ジ 四億四四〇〇万余人である ( 以上一九公 I) 。 物、レコード、映画などが広く知られている。 その近郊にあり、市内には主要図書館一七〇、 ュヌビエー。フは、その後バリの守護聖人として あが これらの産業は、パ 国内諸地方はもとよりヨーロッパ諸国とは、 リの商業、文芸活動、観光博物館・美術館八〇、劇場七〇がある。 崇められることになる。↓サント・ジュヌビエ 二〇本の幹線国道と東西南北に向かう四本の高など、いわばバリ的人間活動に密接に結び付い 多くの観光客が訪れるパリには歴史的建造物 速道路によって結ばれる。南の高速道路はコー ているだけに、古くから市内あるいはその外縁が豊富である。その主要なものをあげれば以下 六世紀初めからクロービスによってメロビン ト・ダジュールへ観光客を導くのみならず、首近くに集中していた。現在なおマレ地区、タン のとおりである。ゴシック様式のノートル・ダグ朝の首都とされ、商業を中心に左岸のみでな 都の胃袋が必要とする南フランスの生鮮食料のプル地区の貴金属細工、サンタントワーヌ地区ム大聖堂 ( 一二 ~ 一三世紀 ) は、パリ発祥の地 く右岸にも町が広がり、修道院の建立などもみ 大部分を輸送している。バリ向け食料品全体の の調度品、左岸ラテン区 ( カルチェ・ラタン ) シテ島に建ち、ループル宮殿 ( 現、ルー。フル美て宗教的にも重要になっていった。有名なサ 六〇 % は、各地方のトラック輸送によってい の出版など、典型的な例も残っている。一方、術館、一六 ~ 一九世紀 ) とともに。ハリの象徴的ン・ジェルマン・デ・プレ修道院もこの時代に
ひ現在の字体に至 0 た。小文字は、大文字のヒアキントス Hyakinthos ギリシア神〔中期〕彼の中期の研究は、乳児 上の部分を省いたもので、ラテン文字の草書体話でアポロンに愛された美少年。ス。ハルタに近期の知能の起源の探究ならびに幼 児・児童の基本的概念の形成の分 いアミクライで生まれた。ある日、アポロンと に由来している。化学ではホウ素の元素記号で あり、音楽ではロ音 ( ドレミ唱法のシ ) を表す。二人で円盤投げに興じていると、アポロンの投析に向けられている。乳児の知能 また四種に分類された血液型の一つを示し、ま しん た鉛筆の芯の黒色濃度を表すは black の略ぬ。一説には、ヒアキントスに片思いの西風のれるが、生後二歳ごろまでに、こ 5 、第 げた円盤」一キ」 = 0 額」当た 0 = 彼」死」、感覚運動的活動」 0 示さ・・洋を しっと である。中世ローマ数字では三〇〇を示す。神ゼフイロスが、嫉妬のあまり彼を目がけて風の感覚運動的知能に論理構造が付 電池とは無線電信で、真空管のプレート回路にで円盤を吹き付けたという。彼が死ぬと、流れ与されていくし、物体の永続性の 用いる高圧電池を示す。学業評価法では、が出た血からはヒヤシンスの花 ( 正しくはアヤメ考えも身についてくる。そして、 科の花であろう ) が咲き、その花弁には AI AI 感覚運動的知能の内面化が進行し 優を示し、は良を示す。級 x x といえば、 〈斎藤公一〉 ( 「ああ、悲しいかな」の意 ) とか Y ( 名前のていくことにより、イメージが出 評価が二流のものを意味する。 くち ビー英語アルファベットの第一六字。口頭文字 ) の文字が記されていたという。ヒアキ現し、表象的思考の段階に入って いく。この過程を、自分の三人の を表すエジプトの象形文字を起源とし、セム文ントスの名は、ギリシア先住民族系のもので、 〈瀧澤武久〉 彼はおそらく死んで蘇生する穀物の神であり、愛児たちの行動について、実験的に設定した場響を及ばした。 字の pe からギリシア文字のバイ ( を、エト ルリア文字を経て、ラテン文字に入ったが、現のちにアポロンによってその祭祀が奪われたも面のなかで組織的に観察することによって確証回ポーデン著、波多野完治訳『ピアジェ』 ( 一九 含・岩波書店 ) ▽芳賀純訳『発生的認識論 在の字体はラテン文字以前の字体とはほとんどのと想像される。アミクライ地方では古くから 科学的知識の発達心理学』 ( 一九七 0 ・評論 また、幼児における数、量、時間、空間、速 類似性がない。化学ではリンの元素記号であ「ヒアキンティア」という祭礼があったが、当 社 ) さ、偶然性などの基本的概念は、未分化で芽 り、音楽では「弱く」「柔らかく」を意味する時すでにアポロンのための祭儀となっていたの 〈伊藤照夫〉的なものにすぎない。これらが論理的に操作さヒアシンス 0 ヒヤシンス イタリア語 piano の略であり、物理では運動は、このような事情による。 とう pulau Biak インドネれるに至る発達の筋道を解明することも、このビアス Ambrose Bierce ( 天四一一ー 量 momentum を表す記号である。アメリカビアク島 シア東端、西ィリアン ( ニューギニア島西半時期の彼の関心事であり、この研究を通して表アメリカのジャーナリスト、小説家。辛辣無比 の陸車用語では追撃機 pursuit を意味する ( ーなど ) 。中世ローマ数字では四〇〇を示部 ) 北岸沖のイリアン湾湾口にある島。長さ七象的思考期から操作的思考期への発達過程が分の風刺家、短編の名手として知られる。オハイ す。とを混同しやすいことから、 mind 二キ。、幅三七キ。、面積二四二七平方キ。。スクウ析された。操作的思考は六、七歳ごろ出現すオ州の貧しい農民の子に生まれ、早くから、宗 one's p's and q's は「言行を慎む」「行儀よくテン諸島の主島である。地形は北西部が丘陵性る。しかし、一一、二歳ごろまでは具体物につ教的に厳格な両親や、因襲的な環境に反発し、 いて論理的に推論することしかできないので、偏狭な性格をもつに至った。印刷工見習いなど する」「注意深い」などを意味する。〈斎藤公一〉をなし、最高峰のコリダ山 ( 一 0 三四 ) がそびえ ばつばっ 八六一年、南北戦争勃発とともに志 る。南東部は平地が展開する。オランダ領時代これを具体的操作とよび、命題だけで推論できを経て、一 ピア Pierre アメリカ合衆国、サウス・ ダコタ州中部の都市で、同州の州都。ミズー には軍事基地があったが、一九四二年に日本軍る形式的操作と区別している。彼は思考の発達願兵として北軍に加わり、戦場で勇敢な兵士と によって占領され、四四年にはアメリカ軍によを均衡化の過程としてとらえているが、この形して勲功をあげたが、戦争の悲惨さと死の恐怖 川東岸に位置する。人口一万一九七三 ( 一九〈 0 ) 。 農業、とくに小麦を中心とした穀物と、ウシな って攻略された。住民はパプア系種族で農耕と式的操作はもっとも安定した均衡状態の思考とを冷徹に見つめる目ももっていた。戦後、サン どの牧畜が同市の経済を支えており、農産物の漁業に従事する。中心地は南岸のモクメルで空みなされる。そして、操作的思考構造を論理数フランシスコに移り、六八年、同地の週刊紙 「ニューズ・レター』の編集長としてジャーナ 〈上野福男〉学のモデルを用いて説明することによって、思 集散地となっている。州や市の公共機関に職を港がある。 ー一九含 ) ス考の発達のメカニズムを理論化しようと試み リズムの世界に入る。七二年ロンドンに渡り、 もっ市民も多い。一八八〇年、シカゴ・ノースピアジェ Jean Piaget ( 天九六 イスの心理学者。ジュネーブ大学教授。ヌーシた。 皮肉のきいた風刺文を新聞、雑誌などに発表。 ウエスタン鉄道の西の終着地として町が建設さ 四年後ふたたびサンフランシスコに戻り、以後 れ、農産物の交易・集散地として発展し、サウャテルに生まれる。ヌーシャテル大学で動物学〔後期〕後期の彼の研究は、主として発生的認 二〇年余り、「ニガョモギと酸をインキがわり ス・ダコタが州となった八九年から州都に。近を専攻したが、その後、子供の認知発達の分野識論の構築へと向かっていく。発生的認識論と は、科学的認識が発生し形成されていく過程 に用いた」といわれる辛辣な筆を縦横に振るつ 年では、一九六三年完成のオアヒー・ダムが市に関心を向け、一九二一年以来ジュネープのル ソー研究所でこの分野の研究に没頭した。そのを、個体発生および系統発生の両面から実証的た。彼一流のアフォリズムを集めた『冷笑家用 の急速な発展に大いに貢献した。周囲にはイン ディアン保留地が多い 〈作野和世〉研究歴は次の三つの時期に分けられる。 に研究する科学である。この研究の集大成が、 集』 ( 一九 0 六刊、一九一一『悪魔の辞典』と改題 ) ・一くさいけっさいぎん・一う 〔前期〕子供の一一一一口語、判断と推理、世界観、因全三巻にわたる大著『発生的認識論序説』 ( 一九は、風刺家としての一面を代表する。二〇世紀 ビーアイエス 0 国際決済銀行 に入ってからは筆力も衰えをみせ、妻子の死な ピアウィ Piaui プラジル北東部の州。西果関係、道徳判断などにおける子供の思考特有五 0 ) であった。しかし現代科学の認識の問題に はマラニョン、東はセアラ、ベルナンブコ、バ の自己中心性の研究にあてられた。幼児は社会取り組むためには、科学者たちとの学際的な共ど家庭生活の不幸も重なって、人間嫌いとな ィアの各州に囲まれ、北は大西洋に面する。 性を欠くため、自分の考えを相手に伝達する意同作業を必要とすることを悟り、一九五六年ジる。最後は文明社会アメリカにも絶望して、一 ルナイーバ川が西境を北流する。面積二五万〇図のない自己中心語が多い。また、他人の観点 ュネープ大学内に国際発生的認識論センターを九一三年の秋、革命に揺れるメキシコに旅立っ にたっことができないため、思考も自己中心的創設し、各国から招いた科学者たちとチームワたまま消息を絶った。短編集として、南北戦争 九三四平方キロ、人口二四三万 ( 一九会 ) 。州都は かんばく になりやすい。アニミズムなどの幼児独得の世 テレジナ。内陸部はカティンガとよばれる灌木 ークを組んで、後半生の全精力をこの新分野のを舞台に不条理な死を鋭利な技巧で描いた作品 あくた 林の茂る高原が広がる。綿花、タバコ、牧牛な界観は、この自己中心性に基づいていると主張開拓に注いだ。これらの研究は、現代の心理学を含む『いのちの半ばに』 ( 天九 I) がある。芥 がわりゅうのすけ 〈山本正三〉 して、注目を浴びた。 どの農牧業が営まれる。 や教育学ばかりでなく、思想界全体に大きな影 川龍之介が『点心』で称賛して以来、わが国 しんらっ 366
はむ 方程式をハミルトンの正準方程式、それから出できるが、それはニュートンの運動方程式によ一続きの工業集積地域を形成している。発展の九世紀のイギリスを代表する政治家であるジョ 発する力学の形式をハミルトン形式とよぶ。そるものと同等である。後者は微分形式で時々原動力は、産業革命期に石炭と鉄鉱石に恵まれン・プライトやジョゼフ・チェンバレンも、 ーミンガムを基盤として政治活動を行った。チ の内容はニュートンの運動方程式と同等である刻々の運動をその直前の状態から因果的に決定たミッドランズ地方 ( とくにプラック・カント エンバレンは一八七三 ~ 七六年に市長となり、 ー ) がイギリス有数の製鉄・金属工業地帯と が、この形式では座標と運動量がともに独立変するのに対し、この原理は運動全体にわたる積 して成長したためである。ジェームズ・ワットスラムを一掃するなど近代的都市への改造に貢 数で、両者を含む適当な座標変換に対して正準分量に対して条件づけるので、あたかも運動が がマシュー・ポールトンの協力により最初の蒸献した。二〇世紀に入ってからも、都市計画や 方程式の形が変わらないようにできる。そのよ合目的的におこっているような表現になってい 一方通行道路の導入など、他の都市に先駆けて うな変換を正準変換という。 るのが特徴である。 気機関の製作に成功したのは、一七六二年バ ミンガムにおいてであった。 実験的試みが行われた。第二次大戦で空襲によ 正準方程式は量子力学のハイゼンベルク方程 力がポテンシャルから導かれる場合、運動の 式に対応するもので、古典力学から量子力学へ始まりと終わりの時刻の間の経路に沿ってラグ 急速な工業化、都市化に伴ってスラム街が増りかなりの被害を被ったものの、戦後は順調な 〈木畑洋一〉 加し環境悪化が進行したが、事態が劇的に改善復興を遂げた。 の移行に重要な役割を演じた。自由度 / の力学ランジュ関数の値が定まりその時間積分が得ら 系のハミルトン関数を〃、一般化座標とそれにれる。経路を仮想的に微少変化させるとこの積されたのは第二次世界大戦後である。すなわ 、、ニノグ humming Brummstimmen 鼻音唱法。口を軽く閉じて「 E 」「」 共役な運動量を (qi,Pi) 71 , 2 : ・、とす分値も変わる。ハミルトンの原理は、これらのち、大戦中、兵器産業があったためドイツ軍の 「」などの音でもって歌詞なしの旋律だけを ると、正準方程式はラグランジュ方程式を変形積分値が実現される運動に対して極値をとると爆撃で破壊されたが、戦後、被害地区を次々に することによって、次のような個の連立一階 いうことを述べた変分原理である。変分の際、再開発し、古く汚い市街地の大半が一掃され歌う。鼻歌は歌詞を伴うことがあるので、同義 語とは限らない。いすれにせよ、人が気分のよ 偏微分方程式として得られる。 独立な変分量のとり方によってラグランジュやた。今日、大企業の事務所が集まるビジネス いときに発声器官の筋肉を緩めて自然に歌うの ハミルトンの方程式を導くことができ、またカ街、ミッドランズ地方全体を商圏・サービス圏 dqt DH dPi 学以外の物理法則もこの形に書かれるものがあとする中心商店街や卸売市場、劇場、美術館、で、音量は小さく、他人に聴かせるのが目的で ↓解析力学 〈永田忍〉 り、包括的な定式化と考えられる。〈永田忍〉図書館、大学などが諸官庁とともに都心部を形はない。管楽器以外の旋律楽器を演奏するとき に、無意識にハミングで歌う人もときおりみか ーミンカム Birmingham イギリス、成する。都心からやや離れた地区に工場地帯が ハ、、、ルトンの原理ーーのげんり Hamil- ける。発声練習の一方法として行われるほか、 ton's principle イギリスの数学者・物理学イングランド中部、ウエスト・ミッドランズ県広がり、鉄鋼業は衰えたが、自動車、オートバ 者の・・ハミルトンが一八三四年に与えたの工業都市。人口九二万〇三八九 ( 一九〈一 ) 。首イ、自転車、電気機械、ガラス、金属、食品なその特殊な響きを利用して、オペラではベルデ ちょうちょう イの『リゴレット』やブッチーニの『蝶々夫 どの諸工場が立地する。市の工業発展の跡をた 力学の原理。力学系の実現される運動は、運都ロンドンに次ぐイギリス第二の大都市。ミッ ドランズ地方 The Midlands の中心都市でも どる資料に富む科学・工業博物館、優れた絵画人』の合唱に使われているのをはじめ、ジャ 動の経過全体に関するある量が極値になってい るという条件によって特徴づけられていることあり、北西の工業都市ウルバー ハンプトンとのを収めるセントラル博物・美術館、一八世紀建ズ・ポーカル、楽曲終止など、意識的にハミン ^ 山口修〉 を示した原理。この原理に基づいて運動を決定 間にプラック・カントリー ( 黒郷 ) とよばれる造の聖フィリップ教会などがある。〈久保田武〉グを導入している例も多い 0 ハチドリ 〔歴史〕バ ーミンガムは、市場を有した都市と ハ = 、ングバード めが カ して早くから形を整えていたが、中世から近代 たいス画ルス殿れ ー、、、ングハム Bi 「 mingham アメリカ 一カ神さた た多・一 初頭にかけては拡大が停滞していた。ところが合衆国、アラバマ州北部の工業都市。人口二八 けが一 いホ「ス築し ム受ルュ古 のク建館 一八世紀後半以降、製鉄・金属・機械工業を主万四四一三 ( 一 0 ) 。大都市圏人口八四万七四 ガをビニはるンマツに開 ン災なのにいウ一ルルに 軸に、イギリス産業革命の中心地の一つとして 八七 ( 一九ハ 0 ) 。アパラチア山脈の南端、ジョン ミ戦的部トてタロボデ年 一〕代心一つ〕代とモ ズ河谷に位置し、同州最大の都市であるととも 飛躍的な発展を遂げていった。一七世紀末に一 近中リ残〔古ルを に、合衆国南部の鉄鋼業の中心地でもある。製 豊ュ - 一万五〇〇〇であ 0 た人口が、一八世紀末には七 万に、二〇世紀初頭には五二万ヘと急増したこ鉄業に必要な鉄鉱石、石灰岩、石炭が近くで産 出され、製鉄業と金属加工業が発達した。この とに、その拡大ぶりがよく示されている。一 世紀からの工業化を推進したのは、グループほかにも輸送用機器、建設用資材、化学製品な どが生産される。商業、金融、保険、研究機関 「月の会」 Lunar Society をつくっていたジェ ームズ・ワット、マシュー・ポールトン、ジョ の活動も活発で、アラバマ州北部の経済中心地 ゼフ・プリーストリーなどをはじめとする非国である。一八七一年に製鉄の町として建設さ 教徒を中心とした知識人たちであった。工業生れ、製鉄、および鉄道網の発達とともに成長し 産に必要な原料や製品の大量輸送は、一七七一一てきた。現在、地元での鉄鉱石の採掘は減少 し、ほとんどの鉄鉱石は南アメリカから輸入さ 年に開通したバー ミンガム運河によって可能と れ、メキシコ湾からの運河で輸送される。アラ なり、さらに一九世紀に入ると鉄道もいち早く ハマ大学医学部やサンフォード大学、交響楽 敷設されて生産力の増大に大きく寄与した。 1 〔」一ゼ都市としての急速な拡大の陰で、政治的権利団、博物館、オペラ、日本庭園のある植物園な 〈菅野峰明〉 どをもち、文化都市でもある。 の伸長は遅れ、下院への議員選出権獲得は一八 三二年の第一次選挙法改正を待たなければなら ム Hamm 西ドイツ中西部、ノルトラ なかったが、政治的意識の高い市民は多く、一イン・ウエストファーレン州の鉱工業都市。人 6
しゅうもんにんべっちょう 宗門人別帳に書き上げられ、土地と人の村帰災害の多発と、農村への貨幣経済の流入によ 一〇 ~ 一一世紀の王朝国家のもとで、百姓はその意味で、今日の百姓Ⅱ農民という意味は、 ひやくせいらの 属が決定し、入会地などの区分が行われ、村のり、これら自給的な本百姓の経営は大きく変動 独自で、あるいは郡司とともに「郡司百姓等江戸時代に確立した。 みよう かせい 領域が決められた。村では、百姓は五人組や村し、有力農民と貧農への両極分解が展開する。 南北朝期以後、旧来の名体制の分解から生ま 解」などという訴状を提出し、国司の苛政を糾 弾し罷免を政府に要求するなどの動きを示しれた中小名主や作人層は、その後室町から戦国組などにより生活の共同と統制・監視を受けすなわち本来的に生活の豊かな一部有力農民 は、事実上の土地売買を通じて地主化し、なか た。また百姓は、中世と同じく村寄合を開き、 た。九八八年 ( 永延一 l) の尾張国郡司百姓等解時代にかけて、ん・地侍層を中心に、農村に そう 1 」う 文は有名である。 惣や郷などの組織をつくり、農村内で農作業を村の運営を協議し、村法を制定して、村での生には高利貸を営み、在郷商人化するものも出 いりあい しようえん 活規制を行ったが、兵農分離体制下では、中世た。一方、年貢の重圧に苦しみ、商品・貨幣経 ~ 一二世紀の荘園・公領制の成立とと共同で行い、用水・入会の利用を共同で行い、 よりあい もに、百姓は荘園・公領で年貢・公事を負担す祭礼などを共同で行うとともに、つねに寄合に よりも統制が強化され、年貢生産者としての百済の圧迫を受けた下層農民は、質地などで土地 る身分となった。ただし百姓は農民のみでな より農村を運営し、惣や郷の掟を決め、違反者姓の生産・生活の管理と村落による規制が強化を手放し、地主の下で小作人に転落するほか、 ひょうとり 農業を離れて、各種の雑業で日雇取化するは 、漁民やその他農業以外の産業に従事するの処罰を行い、また農村の代表者を公選で選ぶされた。 か、生活苦から農村を捨てて都市へ流出する者 人々も、年貢・公事を納める限り百姓であっ など、生活上の強い共同体をつくりだした。郷 しかも領主は、こうした村落の規制に加え、 た。手工業者など百姓の一部は、この年貢・公村制の成立であり、この組織が後の江戸時代のさまざまの法令を制定し、その統制を強化し が増加し、一部奉公人化する者もいるが、多く けいあんのおふれがき 事を免除され、技術でもって朝廷や貴族・寺社百姓の生活共同体の母体となった。しかも農民た。慶安御触書 ( 一六四九 ) で衣食住や生活の細部が都市浮浪人化していった。 しきにん に奉仕する職人として組織された。鎌倉幕府法は、村内の生活の共同のみならず、荘園領主やを統制し、また土地に対し田畑永代売買の禁 その結果、本百姓の自立経営を基盤とした農 四二条では、百姓は年貢・公事を納めている限守護大名との年貢・諸役の交渉や請負を行い、 令、分地制限令を出し、その移動を禁じ、勝手村は大きく変質するとともに、百姓間の対立も きよりゅう 作り禁令で作物の規制を行ったが、こうした法激化し、村内で中期以後に多くの村方騒動が引 り「去留」の自由を確保しているものとして交渉が不調のときには集団で土一揆を起こし、 うちこわし デにん き起こされるとともに、百姓一揆、打毀の激 規定され、売買・譲渡の客体となる下人と明確これに徳政令の要求や、宗教組織が結び付い 令は、そのほかにも多数出された。 きない に区別されている。百姓はまた村落共同体の成て、畿内を中心に多様な農民の一揆が展開し ではそうした規制下の農村での百姓の実態は発を招くなど、村落体制の変動が続いた。↓村 員として、その権利と義務をもっ住人という身た どうか。一般に江戸時代の百姓の中核は本百姓方騒動↓百姓一揆↓打毀 おうにん 分をもち、定住の期間が浅く、権利・義務があ 応仁の乱 ( 一四六七 ~ 七七 ) に始まる戦国の動乱をといい、領主の政策でもそれを基盤としたが、 さらにこうした本百姓経営の変動は、旧来そ まり認められていない間人や一時的居留や浮浪通じ、各地に生まれた戦国大名は、独自の分国実際には、そのほかに水呑百姓や名、下んなの経営よりの年貢収奪で成り立 0 ている領主経 して歩く浪人と区別されていた。 をつくり対抗するとともに、これら農村の動向ど、各地域別に各種の下層農民がいた。また本済を大きく変動させた。この時期以後に領主層 どみん・ヘっしよう 百姓は、貴族や武士などから土民と蔑称さ に対応し、一方で郷村制を認め農村の運営を彼百姓の資格は、一般に本田畑をもち年貢を納入が年貢以外の各種の収入増加策をとるととも に、都市流出民の帰郷、各種の施米・施金や経 れていたが、一四 ~ 一五世紀には、荘園領主のらに任せ、他方で検地・刀狩を行い、土一揆をする者というが、これにもその経営規模などで しようけ いっき 年貢・公事に反対する荘家の一揆、債務の破棄禁止した。また武士の城下町移住、国人・地侍 さまざまなものが存在した。ことに初期の各地営の助成、荒れ地の再開発と労働力の確保とい すなわち徳政を求める徳政一揆などを起こし、層の武士化、商工業者の城下町集住を図った。農村で村役人を勤めた階層には、中世の土豪的った本百姓経営の再建策をとったり、また村役 これらは在地の土民の一揆ということで土一揆 いわゆる兵農分離政策の開始である。そしてそ領主層が、兵農分離後でも農村に百姓身分とし人を中心とする村の機能の再編・強化を図った と称された。百姓のこのような運動の高まりの政策は、やがて織豊政権により全国に徹底て土着した者が多く、彼らは本百姓といってものはそのためであるが、これらの政策は、農村 おん たい - 一う む、らギり むら の変動の解決には役だたなかった。 は、一方で自らを「御百姓」と称し、結集するして行われ、太閤検地、刀狩、村切の実施と村多くの名子・下人を保有し、中世的大経営を行 やがて明治維新の改革で、旧来の村落支配体 動きを生み出していった。百姓の上層の土豪層請制の確立、武士・商工業者の都市への完全移うものが多く、村のなかでも村役人を勤めるほ みようしゅ じギ、むらい にんべっ は、名主とか地侍とよばれ、武士の家臣にな 制が崩壊し町村制に再編成され、地租改正など 住が進められ、身分法令の実施、全国的人別 か、用水・入会などに特権をもつ者が多かっ あらため で旧来の土地・租税制度が改革されると、農村 り、その軍事力の一端を担って百姓から離脱す改の実施により、農村での住民が農民に限定た。これらを初期本百姓ともいう。そのほか一 る者もあり、その傾向は戦国時代に入ると大名され、百姓身分として定着化された。 般の本百姓の実態も、地域と時期により実に多の体制も農民の経営にも、江戸時代とはかなり 変化がみられた。ただ百姓Ⅱ農民体制はその後 の軍事力拡大政策のなかで助長されていった。 さらにその後、江戸幕府がその体制をより完様であった。 も続き、江戸木期から生まれた地主・自作農・ 家臣が主君をないがしろにしたり、場合によっ成させ、全国的な兵農分離体制を確立し、士農 一般的に標準的な経営は、中世の名主経営か 小作農を中心とする農村が、その後の多くの変 ては打倒すること、あるいは、百姓が領主に抵工商の身分制で、全身分の権限、居住地、職業ら自立してきた小農民で、一町歩 ( 約九九 ) 抗すること、さらにこの百姓から武士に上昇しの地域的引き分けが完成し、農村には農民のみほどの土地をもち ( 分地制限令では一〇石を基動を伴いながらも今日まで続いてきている。そ ていくことなど含めて、当時下位にある者が上が百姓身分として固定化され、全国的に百姓Ⅱ 準とする ) 、田畑と屋敷を保有し、夫婦と子供して江戸時代の百姓の生活共同体であった村 げ一一くじよう は、近代以後も行政村の中の村落として残り続 に成り代わっていく社会状況は「下剋上」と農民の体制の確立をみたのである。 数人の単婚家族で、自立的小経営を維持してい よばれた。 〈峰岸純夫〉 そして江戸時代には、幕藩体制の基盤とし た。だからその経営は、多肥労働集約型小経営け、今日に至るも各地農村で、労働や生活の共 ところで本来百姓ということばは、農民のみて、領主が、この百姓の居住地Ⅱ農村を支配的が多く、稲とともに各種の畑作物をあわせた複同組織として機能し続けている。したがって江 をさすことばではなく、古代では広く庶民一般に編成し、そこでの百姓の生活を統制すること合経営を行ったと考えられる。前述の領主の支戸時代に確立した百姓Ⅱ農民の体制は、その背 をさし、中世でも、農村に武士や商人・職人が に努めた。そのため全国に約八万の農村が置か 配策では、そうした経営の維持を目標とし、諸景となった村落とともに今日も形を変えつつも 〈上杉允彦〉 し居住したので、百姓を農村に住む人と解してれ、すべて百姓はこのどこかに集住させられ、政策が行われたし、その後もその経営を維持す存続しているといえよう。 2 、も、その内容は多種多様であった。だが江戸時百姓から選ばれた村役人に、生産や生活を監視るため、その経営を百姓株として固定し、その回児玉幸多著『近世農民生活史』 ( 一九毫・吉川 され、年貢を徴収された。百姓はその持ち地を分割を制限することも行われた。 弘文館 ) ▽中村吉治編『 - 村落構造の史的分 9 や代では、百姓はすべて農民であり、農村に居住 ききん 析』 ( 一空 ~ ( ・日本評論社 ) ▽原田敏丸著『近 2 江戸時代中期以後、年貢の過重、飢饉などの ひする人々はすべて百姓という体制が実現した。すべて検地帳に書き上げられ、人は家族ごとに しよくほう おきて ほん
アール・ヌーポーのガラス器、陶器、家具などホルドー美術館 Musée des Beaux ・ ArtS' 国立陶磁器美術館 Musée National de Céra ・ 〔フィンランド〕 Bordeaux ①ポルドー ②一八〇一③国内 mique ①セープル②一八〇五③王立磁器を展示。 アテネウミン美術館 Ateneumin Taide- 工場として開設され、現在も製造を続けているナント美術館 Musée des Beaux-Arts de 屈指の地方美術館。この地方出身のルドン、マ museo ①ヘルシンキ②一八八七③フィン ランド最大の美術館。彫刻家バイネ・アールト国立陶器製造所に付属する。セーブル磁器を中 Nantes ①ナント③第二次大戦後の一九五ルケらの絵画、デッサンをはじめ、オランダ絵 一九世紀のフランス絵画など。 画、一八 一年再開館。イタリア、フランドル、フランス ネン、画家マグヌス・エンケルなど一八世紀以 、いに、各時代のヨーロッパ、イスラム、中国の の一二世紀以降の絵画のうち、印象派以降の現ポンピドー・センター * Centre national 降のフィンランド作家の作品、および一六世紀陶芸品を所蔵。 代美術、ナントの銅版画のコレクションが重 d'art et de culture Georges Pompidou ① 以降のヨーロッパ絵画、版画を所蔵。 ゴプラン美術館 Musée des Goblins ①バ ②一九七六③旧中央市場の跡地に建造 丿②一六六二③ルイ一四世治下の王立タベ要。 フィンランド国立美術館 Suomen kansal- された近代建築で文化庁直属。四、五階には一 lismuseo ①ヘルシンキ③フィンランドの古ストリ ーエ場として発足。現在もなお製造を続 バ一フンシェンヌ美術館 Musée des Beaux ・ Arts, Valenciennes ①バランシェンヌ②一九四七年開設のバリ国立近代美術館 Musée 代から現代までの民俗資料、装飾美術品、家具けるゴプラン工場内に置かれている。 NationaI d'Art M0derne が移転し、フォープ 調度品など。 シェレ美術館 Musée des Beaux-Arts Jules 九〇九③北方絵画、一八世紀のフランス絵画 以降の一一〇世紀の代表的作品を展示。ほかにエ と、カルポーの彫刻一一〇〇点を所蔵。 Chéret ①ニース②一九二八③一九世紀 〔フランス〕 業デザインセンター、図書館などがある。 末から二〇世紀初頭にかけて活躍したポスター ハリ国 ~ 皿図聿日館 Bibli0théque Nationale アングル美術館 Musée lngres ①モント ①。ハリ③宮廷所蔵品を核に一六六六年設置。 マチス美術館 Musée Matisse ①ニース ハン③建物は一六六四年建立の古城。当地画家ジュール・シェレの作品や印象派の作品、 一三万六〇〇〇点に上る手写本は中世、オリエ③一七世紀に建てられたアレーヌ荘の二階に、 出身のアングルの油彩とデッサンのほか、ルネ浮世絵などを所蔵。 ント、ギリシア、ラテンに及び、質量ともに世この地に没した画家マチスが市に寄贈した作品 サンスから一九世紀までの絵画の流れを系統的シャガール聖書美術館 Musée National Message Biblique Marc Chagall ①ニース 界最大。ほかにメダル、地図、浮世絵版画の大を展一小。 に展示。 マルセイユ美術館 Musée des Beaux ・ Arts, アンジェ美術館 Musée des Beaux-Arts, ②一九七三③画家シャガールが寄贈した『聖コレクションを所蔵。 Marseille ①マルセイユ③一八七〇年に建 Angers ①アンジェ③一五世紀建造のダダ書のメッセージ』連作一七点を含むこの作家の ハリ市立近代美術館 Musée d'Art Moderne やかた ①パリ②一九六一③建物は一九三七年の万造されたバレ・ロンシャン内に開設。当地出身 ムの館の中にあり、当地出身のダビット・ダン四五〇点の作品を展一小する国立美術館。 のドーミエの作品をはじめ、ルネサンス以降の ジェの作品、フランス一八世紀の作品を中、いに シャルトル美術館 Musée des Beaux ・ Arts, 国博の電気館で、当時デュフィが描いた大壁画 ヨーロッパ絵画を時代別に展示。 Chartres ①シャルトル②一八三三③一 が残っている。バリを中心とするフォープから 絵画、彫刻、レリーフ、メダルなどを所蔵。 やかた マルモッタン美術館 Musée Marmottan オーガスタン美術館 Musée des Augustins 世紀の司教の館に開設。一六世紀から一八世紀現在に至る作家の作品を展示。 ぞうげ ①トウールーズ②一七九五③旧オーガスタの工芸品、タベストリー 、中世の象牙浮彫りをピカソ美術館 Musée Picasso ①バリ②①バリ②一九三二③建物、コレクションと もに美術史家・マルモッタンが遺贈。フラン 一九八五③一七世紀建造のサレ館に、ビカソ ン修道院に開設された充実した地方美術館。初 はじめ、この地方の考古、民俗学資料。 ス学士院に所属。第一帝政時代の美術品、中世 の作品と、彼の収集した美術品を所蔵。 期キリスト教の石棺、浮彫り、柱頭彫刻、イタストラスプール美術館 Musée des Beaux- の写本、モネ『印象ーーー日の出』を含む印象派 リア・ルネサンス、フランドル、フランス一九 Arts, Strasbourg ①ストラスプール③一七ファープル美術館 Musée Fabre ①モン 世紀の絵画など。 四二年建立のローアン城内にあり、一四 ~ 一九ペリエ②一八二八③国内屈指の地方美術の作品を所蔵。 世紀のフランス、イタリア、スペイン絵画を陳館。画家ファープルがアルバニー公夫妻から受リョン・ギメ美術館 Musée Guimet, Lyon ォルセー美術館 Musée d'Orsay ①パ け継いだコレクションをもとに発足。フランス①リョン②一八七九③・ギメが世界一周 ②一九八六③旧ォルセー駅を増改築した建列。城内には考古美術館と装飾美術館もある。 一八世紀の巨匠の素描と水彩画、ルネサンス以の学術調査で得た極東、オセアニア、アフリ 物。一八四八年から一九一四年までの絵画、彫装飾美術館 Musée des Arts Décoratifs 力、アメリカの美術品、民俗品を陳列。 降の絵画など。 刻、装飾美術、写真など、一九世紀美術を収集①。ハリ②一八七七③一九〇五年開館。ルー リョン市立美術館 Musée Municipal des ・フル宮のマルサン館にあり、中世から現代に至プサンソン美術館 Musée des Beaux ・ Arts 展示するバリの代表的美術館。 et d'Archéologie ①。フザンソン②一六九四 Beaux-Arts, Lyon ①リョン③一七世紀後 る東洋、西洋の工芸品を所蔵。 ォルレアン美術館 Musée des Beaux-Arts ③フランス最古の美術館で、一九七二年に全面半に建てられた古典様式の旧ベネディクト派修 d'Orléans ①ォルレアン③旧市庁舎から一チェルヌスキ美術館 Musée Cernuschi 改築。絵画と考古学部門からなり、ロマネスク道院に開設。ギリシア、ローマ、中世、ルネサ 九八四年に新築された現在の建物に移る。一七①バリ②一九〇五③・チェルヌスキ ( 天 からゴシックの祭壇画、ルネサンス以降の絵ンス、一七 ~ 一九世紀のフランス彫刻、ヨーロ 一一一ー九六 ) のコレクションをもとに、彼の私邸に ~ 一九世紀の肖像画のコレクションのほか、バ ッパの中世とルネサンス以降の絵画を所蔵。 開設。古代中国の銅器、中国と日本の陶磁器、画、エジプト、ギリシアおよび。フルゴーニュ地 ステル画の収集でも有名。 ②書画などアジアの美術品。 方の考古遺品など。 ル・アープル美術館 Musée des Beaux-Arts, ギメ美術館 * Musée Guimet ①バ Le Havre ①ル・アープル②一九四五③ ③リョンの実業家エミール・ギメの ディジョン美術館 Musée des Beaux ・ Arts, プチ・バレ美術館 Musée du Petit Palais Dijon ①ディジョン②一七八三③フラン①パリ②一九〇二③バリ市の購入品とデュ近代的な現在の美術館を一九六一年に新築開 コレクションを核に発足。一九四五年国立とな ス最古の美術館の一つ。プルゴーニュ大公の宮 テュイ兄弟からの寄贈品で開設。一八 ~ 一九世館。印象派の作品と、この地方の海景を描いた り、フランス政府所有のアジア関係の美術品を 殿内に開設。彫刻部門は一四世紀から一九世紀 紀の美術工芸品を中心に、エトルリアの青銅製プーダン、デュフィの作品を所蔵。 すべてここに統合した。 まで、絵画部門は・フルゴーニュをはじめフラン 品、一四世紀のミニアチュールなど。 ルーアン美術館 Musée des Beaux-Arts クリュニー美術館 Musée de Cluny ①パ et de la Céramique ①ルーアン③当地出 ス各地の中世から近代までの作品を所蔵。 丿②一八八四③一四世紀に建てられたシャ ポナ美術館 Musée Bonnat ①バイヨンヌ っ ( 城館 ) 建築に、一九世紀の収集家ソム一フナンシー派美術館 Musée de l'école de ③当地に生まれた画家レオン・ポナを記念する身のジェリコーの作品をはじめ、一八〇〇点に ゅ Nancy ①ナンシー②一九六三③建物はナ美術館。ポナ収集のレンプラント、ゴヤなどの上るヨーロッパ絵画を所蔵。併設の陶磁美術館 ールの収集品を核とする中世美術を、当時の雰 にはルーアン陶器を含むヨーロッパ陶磁器を所 ンシー派のバトロンであった・コルバンの絵画四〇〇点、デッサン二〇〇〇点、古代ギリ 術囲気のなかに展示。「一角獣を伴う貴婦人』の やかた 蔵。 館。当地出身のエミール・ガレを中心とする シア、中世の彫刻、ポナの作品を所蔵。 ひ美タベストリー ( 一六世紀 ) はとくに有名。 533
ばりとう ヒンドウー教寺院が散在しており、それと宗教ケヘン寺院のあるバングリ Bangli 、同島最古 方、バリ天文台では少人数で地球の自転の問題岩の風化が著しく、地味の良好な南部の平野に に根ざした同島特有の多彩な踊りは、世界各国でしかも総本山のべサキ寺院で知られるべサキ 〈磯部琇三〉 は水田が開け、インドネシアでも有数の人口 を中心に研究をしている。 もくよく ちゅうみつ Besaki 、大統領の夏の宮殿と美しい沐浴場で ・・ーとう Bali インドネシア中南稠密な地域となっている。これに対して北岸から多くの観光客をよぶ強力な観光資源となっ ハリ島 ている。その観光の中心的存在は島都デンバサ有名なタンパクシリン Tampaksiring などの は、地味は劣り人口希薄で無人地帯さえある。 部、小スンダ列島の西端にある島。西は狭小な ルである。デンバサルは肥沃な沖積平野に位置名所がある。これらはすべてデンパサルの北お バリ海峡を隔ててジャワ島に対し、東は深い口集落は南岸の平野に集中している。北岸沿いに よび北東方向に散在している。また、島の北東 し、同島の政治、経済、文化の中心地である。 もほば一定間隔に集落が立地しており、それら ンボク海峡を挟んでロンボク島に隣接する。ま また、南バリの土侯国の居城があった所で、そ部にそびえる・ハトウール火山 ( 一七一七 ) の斜面 た南岸はインド洋、北岸はバリ海にそれそれ臨を結ぶ島一周の道路が開設されている。また、 には高原避暑地のキンタマ一一ー Kintamani が む。南北八〇キ。、東西一五〇キ。、面積五六二一一一内陸部にも三本の横断道路に沿って集落が立地の宮殿やヒンドウー教寺院が多数残存してい る。街路沿いには木彫り細工、金・銀・銅細ある。眼下には青い水をたたえる神秘的なバト している。 平方キ。、人口二四六万九九三〇 ( 一九含 ) 。 ゥール湖があり、眺望はすばらしい 工、織物などの民芸品を売る店が軒を並べ、こ 〔自然〕構造的にはアルプス造山帯に属し、全〔歴史〕バリ島の住民は第二次マレー系のバ かきよう 一方、住民のおもな生業をなす農業は稲作が 族で、早くからインド文化の影響を受けた。とれらの多くが華僑によって営まれている。また 体的に山がちな地形をなす。島の北部を東西に 中心であり、全島の二六 % が水田である。その 一五二七年東ジャワを中心に栄えたヒン国際観光ホテルも多数建設され、南郊約一二キ 走る山地は新期火山脈からなり、最高峰のアグくに、 か ~ , れ ~ い にはバリ国際空港があり日本から直行便が寄港耕作法、灌漑、貯蔵に関しては、インドネシア ン火山 ( 三一四一一 ) をはじめ数個の火山が並立すドウー教系のマジャパヒト王国がイスラム勢力 こ。ま ~ 天ーしい のほかの民族と比較して高度な技術をもっこと している。デンパサルの南東郊六キ。し。 に滅ばされると、多数のヒンドウー教徒がバリ る。それらの火山の間には、バトウール湖のほ で知られている。とくに灌漑は、農民が治水農 かいくつかの湖水や高原がある。山地の南斜面島に逃れ、強力な土侯国を形成した。さらにオサヌール・ビーチ Sanur Beach がある。バリ ランダの侵略に対しても抵抗し、そのため全島島でもっとも人気のある保養地で、海岸沿いに区組合 ( スパック ) をつくり、水路の設置や管 には多数の河川が流下しており、これらの河川 ひょく は高級ホテルが多数建ち並ぶ。そのほか、おも理を行う。水田景観もバリ島の風物で、とくに はデンバサル付近に肥沃な沖積平野を形成してがオランダに征服されたのは一九〇八年のこと な観光地を掲げるならば、バリ木彫りの細工で傾斜地の階段状水田はみごとである。稲作のほ いる。海岸線は概して単調であるが、北東部のであった。こうした歴史的背景のもとで、 だんがい 、バリ絵画の中心をかにタバコ、コーヒー、コプラなどの栽培や牧 海岸は山地が海に迫っているため断崖の所もあ島は、イスラム化されたインドネシアのなかで世界的に著名なマス Mas なすウブド Ubud 、優れた金・銀細工で知ら畜が行われている。これらの農産物は重要な る。気候は乾燥度の大きいサバンナ気候で、年古いヒンドウー文化の伝統をいまなお残してい れるチェルク Celuk などの工芸品を産する村移・輸出品である。また、前記の木彫り、金属 降水量は北岸では一二〇〇い、南岸では二〇〇る。 細工、織物などの伝統産業も外貨獲得の一役を 〇ミリである。このような南・北海岸の雨量の差〔産業〕島の経済は農業と観光で支えられておや初期バリ王朝の中心地で巨大なゴア・ガジャ どうくっ 〈上野福男〉 、。ヾリ島は ( 象の洞窟 ) があるペドウル Bedulu 、ケチ担っている。 り、とくに観光収入の比率は大きしノ 異は、土地の肥沃度に大きく影響し、また人口 リ島最大の 〔住民〕人種的には他のインドネシア人と同じ ヤ・ダンスで有名なポナ Bana 、 分布の差異をもたらしている。すなわち、火山「神々の島」といわれるように四六〇〇余りの くモンゴロイド中のインドネシア・マレー人種 に属しているが、他の地域のイスラム化された インドネシアの文化とは、バリ文化はかなり異 ロンボク島 中水かるド同 ン有 のの静あン 養湖一紺引腹島山っ市市 保ノによ中リ本も都朝 日ののバ総を心の 高トの鏡山。の史中町 火院院歴のの のバ々 島部る山えるン寺寺の島こ 東あのたがグキ教古ー 北に級た広アサ一最バル ①心 E をに②ペウ島③サ パリ島 ジャワ巨刈 日 6 主 キンタマニ べサキアク、火亠 0 △ 3 属 2 タイヾクゾ丿ン . ・ . べリ•V 与院 ウ 7 ド O . イ戸カ・ : ・ デ : / べ告よリ・メール化・一を .30km 1 : 3 , 000 , 000 147