回 - みる会図書館


検索対象: 日本大百科全書 19
893件見つかりました。

1. 日本大百科全書 19

り・娠時に著しく増加する。血中へモグロビン、魚を困難にしている。戦争中や社会動乱下では、 けいれん、失立、失歩など、はでな身体症状が とうつう 一に類の血合肉、白子に多く含まれる。〈宮崎基嘉〉 hysteria イギ 現れるが、今日のような平和時では疼痛などが すヒステリー H ( 。ュ。、 語源は子宮を意味するギリシア語で、ヒボクラ多い。前者を古典的ヒステリーとよんでいる。 ひ テスの時代に端を発し、当時は子宮の病という ヒステリーは婦人だけの病気というのは誤解 意味をもっていた。近代医学的領域の一つの概であり、戦争中、軍隊で多くのヒステリーが発 念として初めて提唱したのは、フランスの神経生した。また、ヒステリー性格者のみがヒステ 病学者プリッケ Paul Briquet ( 一七九六ー リーにかかるというのも正しくない。ヒステリ で、プリッケ病ともよばれた。・ フリッケの記載 ー性格の特徴は、①演技的で人の関心を買う行 . レ した特徴は、①婦人に多くみられること、②発動、②自己中心性、③情緒不安定性、④誘惑・ 病は多くは二〇歳、ほとんどが三〇歳以前であ魅惑的、⑤一一一一口語の誇張、⑥依存性、などがあげ ス ること、③経過が一定で予測もできること、④られる。つまり、自己顕示性が強い性格であ る。 〈西園昌久〉 いろいろな痛み、不安、胃腸症状を訴えるこ オロ会ス と、⑤しばしば入院し、また手術をたびたび受ヒステリシス hysteresis 物理学におい 技回 , 大ビ レ けること、などであった。その後、フランスのて履歴現象一般をいうが、多くの場合、磁気ヒ 競四クス ル第ツル一技 神経病学者シャルコーは、このプリッケの記載ステリシスを単にヒステリシスという ( ほかに 年ビゼリ競 。ヒ ス的 ス ンンフル に注目し、催眠法を使ってヒステリー研究を行誘電ヒステリシス、弾性ヒステリシスがある ) 。 ラ 丿サの ヒステリー患者のみが催眠にかかり、それ ヒステリシスはギリシア語で「後からくるも ぜいじゃく に収まらなければならない規定がある。射距離 は脳にある種の脆弱性があるからであると主の」を意味し、明治期日本に招かれた ( 天耄 ~ きようぎビストル ( ピストル競技 張した。つまり、ヒステリーの素質論である。 <lll) イギリスの物理学者・ < ・ユーイング銃 ) を使う標的射撃のことで、近代五種競技は二五で、七五間隔に立っている人像標的 ヒ 今日ではそれほど受け入れられてはいない。 が、強磁性体の磁気的特質の研究の結果発見の一種目にもなっている。ライフル射撃、クレ五個を八秒間に五発撃ち、四回繰り返す。続い ステリーの理解に決定的な進歩をもたらしたのし、命名した ( 一会一 ) 。現象そのものはドイツ ー射撃とともにオリンピック大会をはじめ国て六秒間に五発を四回、四杪間に五発を四回、 合計六〇発射撃する。 は、オーストリアの生理学者で神経科医の。フロ の・・ワールプルクも同じ年に独立に発見際・国内大会でも行われている。海外ではもっ イエル Josef Breuer ( 天四 = ー一九一一五 ) の催眠誘していた。 とも一般的なスポーツ射撃となっている。日本〔センターファイア・ピストル競技〕口径八、ー . 導下でのカタルシス療法 ( 感情の発散を伴った 磁気ヒステリシスは、物質の磁化はそれに作では法律により警察官・自衛官など公用拳銃所 ( 三二口径 ) 以上一一・五ミリ ( 四五口径 ) 以内 の自動ピストルまたはリポルバーを使用する。 談話療法 ) や、それに続くフロイトの精神分析用するそのときの磁場の値だけによっては定ま持者以外はピストルの所持が禁止されており、 の確立であった。すなわち、ヒステリーは精神らず、その物質の過去の磁気的履歴にも依存すとくに競技選手として認められた者だけが民間 射距離は二五で、フリー・ピストル標的を使 かっとう 的葛藤が処理できず、無意識領域に抑圧され、 ることをいう。すなわち、強磁性体の磁場と磁人として所持が許可されているので、わが国に 六分以内に五発ずつ撃つ「おそうち」を六 その際の精神的エネルギーが形を変えて身体症化の関係にみられ、磁場の変化に対して磁化のおける選手層は薄いが、一九八四年オリンピッ回、ラピッドファイア・ピストル標的を使い一 かまち 状や解離症状 ( 心理機能の一部が他と連絡を絶変化の追随が遅れる現象である。↓磁気ヒステク・ロサンゼルス大会で、蒲池猛夫選手がラピ回三秒で七秒間隔に五回現れる標的に一発ずつ リシス 〈宮原将平〉 たれて独自の活動を営む現象 ) となって現れた ッドファイア・ピストル競技に出場、五九四点撃ち、これを六回繰り返して、合計六〇発射撃 する。 ものであると解釈されるに至った。そして、フピストイア Pist0ia イタリア中部、トスで優勝、わが国初の金メダルを獲得した。 ロイトによると、ヒステリーの病因は幼少時のカナ州ピストイア県の県都。人口九万二二七四 〔競技の種類〕代表的なものとして、フリー 〔スタンダード・ピストル競技〕口径五・六 両親と子供の三角関係、つまりエデイプス・コ ( 一 I)O 古称ピストリア Pistoria 。トスカピストル競技、ラピッドファイア・ピストル競 = リ、射距離二五。一五〇秒・二〇秒・一〇秒 ふもと ンプレックスに由来すると解釈された。もっとナーエミリア・アベニン山脈の麓にあり、フィ技、センターファイア・ピストル競技、スタン門 日現れる標的に、それぞれ五発すっ四回、合計 も、最近の精神分析の研究によると、エデイプレンツェープラート経済圏の一環をなす商工業ダード・ピストル競技、エア・ピストル競技お六〇発射撃する。 ス・コンプレックスの生するよりずっと以前の都市。鉄道車両や家具の製造が盛んである。紀 よび女子のみのスポーツ・ピストル競技があ〔スポーツ・ピストル競技〕口径五・六ミリ、セ 人生早期の母子関係に原因があるという主張が 元前三 ~ 前二世紀にローマ人によって建設さる。 ンターファイア・ピストル競技と同じ規則で女 現れている。 れ、中世には繁栄した。一二 ~ 一三世紀に建て 〔フリー・ピストル競技〕口径五・六ミリ以下の子のみが行う。一九八四年オリンピック・ロサ しかし、精神分析以外の立場の人もいて、ヒスられたビサ・ロマネスク様式の大聖堂がある。 ピストルを使用。射距離は五〇、標的の直径 ンゼルス大会から実施されている。 一五世紀初めに武器製造がこの地におこり、地 テリーの概念が統一されているわけではない。 は五〇で、中心にある一〇点圏は五〇ミリであ〔ェア・ピストル競技〕わが国では銃刀法令の ヒステリーという用語が神経症ばかりではな名がピストルの語源となった。 〈堺憲一〉る。精巧なピストルと高度の技術が要求され関係で、スモール・エアライフルと称してい く、ヒステリー性格やヒステリー精神病などとビストウン 0 べヒスタン る。発射弾数は六〇発、射撃時間は三時間 る。口径四・五ミリの空気式ピストルを使用す いう使い方がこれまでされていて、それの概念ヒストグラム histogram 数理統計にお〔ラピッドファイア・ピストル競技〕人像標的る。射距離は一〇 このほかロ、。、ゝ の明確化が困難であるからである。また、ヒスける度数分布表を視覚的に見やすくした柱状図 ( シルエット ) を使うのでシルエット競技とも 彳ノリカら一一・五ミリまでの。ヒス テリーの発生頻度や病像が文化や社会的条件の表。↓数理統計 いう。ピストルは口径五・六ミリ、重量一・二六 トルを使用する二三メートルセンターファイ けんじゅう 0 拳銃 キ。以内で、縦三〇、横一五、深さ五の箱ア・ビストル競技、実用拳銃のナショナル・マ 変化の影響を受けることも、ヒステリーの理解ピストル ノノ 0 一 2 しゅ・つ 競技用ピストル フリー・ヒ。ストル 160cm 一一ラヒ。ッドファイア・ヒ。ストル ん 50cm 工ア・ビストル 50m フリー・ヒ。ストル 550

2. 日本大百科全書 19

はむごぞ / 、ム はちみつ くもむ。二つ割りにしたタケを交互に組み合わ に長く蒸したのち、大きい角切りにし、蜂蜜と成分が似ている。マーガリン、ショートニン 塩と砂糖を均等にもみ込み、熟成させて乾燥す ゥーリャンツー る。中国の山東省武梁祠から出土した画像石せてつくった床の上に置き、もも肉を五層以下酒で煮たものである。透き通っているので、薄グ、せつけん原料などに用いられる。表面活性 フォトイニャン ちゅうばう 〈福住一雄〉 一 ~ 二世紀ごろの厨房が刻まれており、積んで、重石を最上層にのせておく。室温を一一一切りにして重ね盛りをすると美しい。火腿醸剤原料である。 トンコワ かんきようなんどう 豚のもも肉 ( 火腿 ) が鳥や魚などと並べられて度 0 くらいに保ち、一週間おいて、二回目の塩冬瓜は、薄切りにしたトウガンと火腿を一枚す ハムギョンナムド 0 咸鏡南道 チンホワ シュワンウェイ かんきようまくどう いる。浙江省の金華、雲南省の宣威などが中もみを行う。その際の調味料の用量も一回目とっ交互に挟んで蒸し上げたもので、色、香、味 ハムギョンプクド 0 咸鏡北道 0 ハモグリムシ 国でもっとも有名な火腿の産地である。 同じにし、一七日間ねかせる。残った調味料は が調和した有名な火腿料理である。また、トウ ハムグリムシ 〔製法〕豚のもも肉、食塩、砂糖、硝石を使三回目の塩もみに使う。二回、三回の塩もみのガンのわたをくりぬき、賽の目に切った火腿 ーーごそく古代エジプト語 ( お ハム語族 う。もも肉は長さと大きさが適当な中形で、重際はいすれも切り返して置く。最初の塩もみかや、シイタケなどを入れ、澄ましスープを加えよびその最終段階であるコプト語 ) 、北アフリ さ一〇 ~ 一二キロ、皮が薄く、赤身の多いほうが ら三五日間くらい経過したのち、二時間水浸して、蒸す調理がある。これはトウガンがそのま力のベルベル語 ( あるいはリビア・ベル・ヘル フォトイトンコワチョン よい。塩は肉の重さの九 % 、砂糖は一 % 、硝石てよく洗い、形を修整し、二 ~ 三日間天日にさ ま器になる名菜火腿冬瓜盥である。〈鄭耀星〉語 ) 、エチオピアを中心としその周辺に分布す は〇・〇五 % 以下を使う。 かくゆ palm ・ kernel 0 一一るクシ諸語を総称してハム語族 Hamitic とよ らし、肉が硬くなったら、温度一〇度 0 、相対 ーム核油 まず、もも肉を整形する。皮の表面に残留す湿度七〇 % くらいの風通しのよいところで自然シュロ科のオイルバームの実の核油である。圧ぶ。なお、近年では、これにハウサ語を代表とす る細毛および付着した脂肪を除去し、血管の中乾燥させる。約六か月間で発酵熟成するので、搾法で採油する。融点は二五 ~ 三〇度 0 。日本るチャド諸語を加えるのが普通である。ハムと いう名称は『旧約聖書』「創世記」に由来するも に残っている血はよく絞り取る。周りの脂肪を火腿を覆っているカビをふたたび水で洗浄、修では夏期を除き脂肪である。ョウ素価一五程 取り去って、水できれいに洗い、二四時間〇 ~ 整し、乾かして仕上げる。 度。主要成分脂肪酸はラウリン酸で五〇 ~ 五五ので、セム語族との親縁関係をもとにこのよう によばれるようになった ( ハムとセムはともに 二度 0 で予冷する。三段階に分けて塩もみを行 〔利用〕火腿は長く保存でき、食べ方もいろい % 。ミリスチン酸一五 % 程度、パルミチン酸八 ミーフォトイ ノアの子で、兄弟である ) 。しかし、先にあげ う。一回目は肉の重さの四 % の塩および砂糖なろある。蜜火腿は、皮付きの火腿を大きいまま ~ 一〇 % 、オレイン酸五 ~ 一五 % を含む。 どを混ぜた調味料をもも肉にまぶして、手でよ酒で煮て柔らかくし、同時に塩出しをし、さらム核油はバーム油とは成分を異にし、やし油と たグループが、全体として明確に一つのハム語 エムの 位ではでグ保 部械肉内ンと スムアきリ の器た庫シる どなし蔵一す ン一タ骨イ う透冷ケる煙 リイは第る , れ薫 もよ浸間 ②ペ部マてす ものが期はわ ム④中ル地産 針液定肉行熱て しる ナ . ・カ十ん ス射漬一 →ムハムの、 % の 0 注塩 っ形です却れ ダハスハ方 。しわ整ス増冷わ ルスクき地 ) の にるを終 , ウがで行 ら肉す蓋が量ハ沢一が 類シロラ骨リ / ばるた入て成計ク光ワ理 種①③⑤⑥ミ , ャ管 , すし注れ熟 , 一 肩形形を入 。れモ味シ質 整整どにめさス風は品 な器詰 肉骨成液容グ亠充煙り成装 豚除熟味のるン量薫ま完包 調前せシ定・高 形け一や手さ一に熱が管後 ①に②食写熟③ ( 存そ せつこう 製法 ( ロースハム )

3. 日本大百科全書 19

半の二方には柿葺の庇が回り、土間庇のたたき諸国を含み、経済的困難から先進国への依存度裄や身丈がやや長めで、脇を縫い付けてある。 がかえって増大し、中立性の維持が危うくなるその地質は、冬に五位以上の者が綾や平絹、夏 には赤と黒の小石を散らしている。入口のん ら うすもの かわ に生綾、生平絹のほか羅、穀、紗などの薄物を ロ、それと矩折りの壁面にも二枚障子のロをあ国が生じるというような問題、イラン・イラク ⅵ C 一いわい ふすま け、茶道ロも二枚襖のロとして席中は明るく開戦争のような非同盟内部の深刻な対立の問題な用いた。綾や穀などの文様は繁菱、遠菱、幸 びし N O 石 放的に構成されている。天井は三段に構成されどに当面するようになり、つねに一枚岩の団結菱など。その色は禁色以外の好みのものや、 かさねいろめ ひとえがさね と - 一ほら / : 一 わ ン 名式 を示すことにはなってはいない。しかし、先進襲色目によるものとしている。なお、単襲と ており、床は洞床という佗びた構えで、全体に ラ英成 いって、女子が盛夏に、単仕立ての衣を数領か 貴族好みの遊びのある雰囲気をつくりだしてい 大国に対して、新秩序の樹立を要求していくに ウ . 組分系 銅名学成晶度重沢痕開 る。 〈中村昌生〉 さねて着装する服装も行われた。〈高田倭男〉 は、これら諸国の団結が必要であるとの共通認 くげしようぞく 副結硬比色光条劈 学化 非同盟主義ひどうめいしゅぎ nonalign- 識に基づく結束が存在することは確かであり、単衣ひとえ単とも書く。ただし公家装束 の単は、単衣とは書かない。単衣は一重に仕立 砒銅ウラン石ひどう。ー・せきウランの一一 ment policy いかなる種類の軍事同盟や軍事非同盟主義は過去にも現在でも国際政治に大き 次鉱物の一つ。花崗岩ペグマタイトや含ウラン 。フロックにも参加せず、外国軍隊の駐留や外国なインバクトを与え続けてきた。〈石本泰雄〉 熱水鉱脈鉱床の酸化帯中に産し、しばしば正方の軍事基地の設置も認めず、紛争の拡大を防止回日本国際問題研究所編・刊『中立主義の研 板状の自形結晶を形成する。低含水量のメタ砒し、平和と安全の強化に努力する外交上の主義 究』上下 ( 一九六 l) ▽岡倉古志郎編『非同 銅ウラン石には容易に変化する。わが国では、 をいう。これに基づく外交路線は非同盟政策で 盟・中立』 ( 一九七七・新日本出版社 ) ▽土生長 前者の産状の例として福島県水晶山、後者の例あり、この政策を基本的に採用する諸国は非同 穂著『戦後世界政治と非同盟』 ( 一九含・大月 みよし として岡山県三吉鉱山がある。リン銅ウラン石盟諸国である。非同盟諸国によって形成される 書店 ) とは産状や外観などが類似し、区別できないこ政治勢力を第三勢力、このような勢力によって非同盟諸国会議ひどうめいしょこくかいぎ とが多い。英名はドイツの物理学者でフライベ占められている地域を第三地域とよぶこともあ Nonaligned Summit Conference 非同盟【裄 ルク鉱山学校長であったツオイネル G. A. Ze- る。非同盟主義はもともと中立主義と共通する諸国首脳会議ともいう。中立国首脳会議といわ uner にちなむ。 〈加藤昭〉 ところが多いが、一般に中立主義が紛争や戦争れることもある。非同盟諸国の元首や政府首脳 に対する消極的不介入の要素が強いのに対し、 またはその代理による会議で、一九六一年以 尾藤ニ州びとうじしゅう ( 一七四七ー天 たかもとあざなしいん 非同盟主義は東西軍事。フロックからの自由な地来、原則として三年に一回開催されてきた。第 戸後期の儒学者。名は孝肇、字は志尹、通称は かいせん 良佐。伊予国川之江の廻船業者の家に生まれ位を保ち、積極的に平和の維持を図ることを強一回は一九六一年九月にユーゴスラビアの・ヘオ おぎゅうそらい た。幼時に足を傷め、学問に励んで荻生徂徠の調するとともに、反帝国主義、反植民地主義をグラードで二五国、第二回は六四年一〇月にエ ジプトのカイロで四七国、第三回は七〇年九月 古文辞学などを学んだ。一一四歳のとき大坂に出追求することを実体的に内包する。むしろ最近 ほっかい らいしゅんすい かいとくどう にザンビアのルサカで五四国、第四回は七三年 て片山北海に師事、同門の頼春水、懐徳堂のでは後者の要素が強く、人民自決権、植民地・ ちくぎんりけん 中井竹山・履軒らと交わった。詩文をよくする人種差別体制の終結、新国際経済秩序の樹立、九月にアルジェリアのアルジェで七五国、第五 一方、思想面では朱子学に転じて、頼春水・春が結束の機軸をなしている感がある。 回は七六年八月にスリランカのコロンボで八六 せいり 風、古賀精里らの同志と、これを「正学」とし 非同盟主義はインドのネルー首相の外交理念国、第六回は七九年九月にキューバのハバナで かんせい て考究・唱導した。寛政異学の禁に際して、一 に起源を発する。彼は早くもインド独立以前の九四国、第七回は八三年三月にインドのニュ しようへい ・デリーで一〇二国、第八回は八六年九月に 七九一年 ( 寛政三 ) 幕府に召し出され、昌平一九四六年に「互いに対立する同盟グループの - 一う かん ジンバブエのハラーレで九九国がそれぞれ正式 黌の儒官を二〇年勤めて江戸に没した。岡田寒権力政治から離れて」「独立した人々の自由の せん しばのりつぎん かんせい 泉 ( または古賀精里 ) 、柴野栗山とともに寛政原則を固守し」「搾取のない国際協力に努力す に参加し、ほかにオ。フサーバ ーの国や諸組織が はかせ せいがくししよ、つ の三博士と称せられた。著述に『正学指掌』る」ことを外交方針として掲げた。この考え方加わっている。非同盟運動の機能する舞台は、 そさん 『素餐録』など、また集として『静寄軒集』が は五五年のバンドン会議 ( アジア・アフリカ会国連とくにその総会、各種の専門機関などさま ある。 〈黒住真〉議 ) にも大きな影響を与えた。六一年には最初 ざまであるが、非同盟諸国の団結を示し、その 回頼惟勤著『尾藤一一洲について』 ( 『日本思想大の非同盟諸国首脳会議がベオグラードで開催さ理念と要求を討議・宣一言する場としては、この 系徂徠学派』所収・一九七一一・岩波書店 ) れ、非同盟主義は一大勢力となったことを誇一小首脳会議がもっとも重要である。 ^ 石本泰雄〉 ひとえ公家衣服の一種。単の略。平安 ▽白木豊著『尾藤二洲伝』 ( 一九七九・川之江市 ) したが、初期の立役者はネルーのはか、エジプ単 時代以降、素肌または肌着の上に着用した単仕 ▽頼祺一著『近世後期朱子学派の研究』 ( 一九トのナセル、ユーゴスラビアのチトー、インド たりくびひろそで ネシアのスカルノ、、、 カーナのエンクルマなどの立て・垂領、広袖形式の衣。男女の別があり、 会・渓水社 ) どうちょうひどうちょう あこめ ひどうちょう 0 同調・非同調 指導者たちであった。 男子の単は袙とほば同型で、身丈が短く、脇を 非同調 そくたい おむろにんなじ 初期には二五国を数えるにすぎなかった非同縫い付けない衣。その地質は、束帯や衣冠の場 飛濤一甼ひとうてい京都・御室、仁和寺の宸 とおびしあや くれない しげびし 殿庭園北東の高台に建つ茶亭で、光格天皇の好盟諸国も、一九八七年現在では一〇〇国に達す合、五位以上の者に紅の繁菱または遠菱の綾、 着 , んまれたものと伝えられる。 k 母屋造茅葺屋根に るに至っている。それとともに、内部に中立 六位以下の者に平絹を用いるとした。直衣や狩 長 ぎめ きんじき と覆われ、四畳半の茶室、水屋、勝手が並び、茶派、親米派、親ソ派、あるいは急進派、穏健衣の場合、禁色以外の好みの色の綾や平絹が用衣物 単男 いられた。女子の単は袿や袙と同型であるが、 ひ事が可能な施設としてくふうされている。四畳派、保守派、さらに産油国、極貧国など多様な 正 3 . 40 緑 ~ 黄緑 ガラス 淡緑 一方向に完全 しん こけらひ、し わき ゆき き 後ろ身頃 幅衿肩明き丈 言田 丈 袖 袖 女物単長着 袖山肩山 後繰り越し 一袖 前衽下がり 肩当て 袖 袖 衽先 袖衿先 共衿衿 月リ丸み 頃振八つロ 身八つロ 合褄幅 日笏 形衿 人共衿 ・一くしゃ 広袖 背脇 後ろ幅 下 衿衽 下 亠 前身頃 一 0 田 工亠 言田 そ居 603

4. 日本大百科全書 19

へと至る。アフリカ統一機構の結成は、全アフ フリカ系人の間に広く連帯の意識が芽生える。 説明することができる。免圧圏の大きさは一次は、山はね、ガス突出など盤圧に基づく災害が リカ的規模での汎アフリカ主義の実現ではある 盤圧、支保工などの影響を受けるが、とくに岩発生している。山はねは、炭鉱坑内に残された第一次世界大戦を契機に国際的視野を拡大した 盤の物性と密接な関係がある。軟弱な岩盤ほど炭柱、あるいは掘進中の炭層や岩盤が突然破壊アメリカ黒人運動を背景にして、一九一九年、が、しかし結成前からあった、アフリカ穏健派 ーグハート・デュポ諸国Ⅱ旧仏領アフリカ諸国 ( プラザビル・グル 大きな弛み域が生ずる。また膨潤性の岩盤でしはね出してくる現象である。ガス突出は、破アメリカ出身の・・ ープ ) およびモンロビア・グループとガーナな は、時間の経過とともに次々と弛み域が拡大壊し粉化した石炭が多量のガスといっしょに突イスを指導者として汎アフリカ会議が開催され し、岩盤が空間内に張り出してきて支保を破壊然噴出してくる現象である。いずれも、発生すた ( 普通には、これを第一回汎アフリカ会議とど ( カサプランカ・グループ ) の急進派諸国の 対立は解消されず、アフリカ統一機構の結成に る前にポンポンという帯切れのような音が頻繁よぶ ) 。この会議では、アフリカの「段階的自 したり、鉱車や人の通行が不可能になるまで坑 に聞こえる。炭鉱ではこれを山鳴りといって、治」などの漸進的要求が主張されたにとどまっ際しては、各国主権を前提にした緩やかな「統 道を縮小させてしまう場合もある。坑道の天井 一および連帯」 ( アフリカ統一機構憲章第二条 ) や側壁に比べ床面のみが著しく張り出してくる山はね、ガス突出の前兆の一つとして重視してたが、黒人としての要求というよりも、アフリ にとどまった。この点からみれば、 O の結 いる。山鳴りは、盤圧によって坑道奥部の炭層力への強い関心を示しており、アフリカ・ナシ 現象を盤ぶくれという。軟弱で膨潤性の岩盤に ョナリズムとしての性格をうかがうことができ成は汎アフリカ主義の精神が消滅する始まりと 共通してみられる現象である。これは、坑道のや岩盤が破壊する音であって、大きなものは坑 床面には支保が施されていないため、破壊に伴外に設置した地震計によって感知される。深部る。これ以後、汎アフリカ会議は一九二一年、もいえる。一九七四年の汎アフリカ会議以後、 二三年、二七年と開催されたが、思想的、理論汎アフリカ主義は第三世界の運動として進めら う岩盤の流動が無抵抗の床面に集中するためで開発を行っている炭鉱や鉱山では、このような ^ 田北亮介〉 あろう。このほか炭鉱では炭層採掘の影響を受盤圧に基づくいろいろの障害を防止することは的進展には乏しく、運動もしだいに下降線をたれることが求められている。 けてさまざまな盤圧現象が発生し、災害に発展きわめて重要な問題であって、関係各方面におどる。結局一九二九年に予定された会議は開催回小田英郎著『増補現代アフリカの政治とイ デオロギー』 ( 一九七五・慶応通信 ) ▽浦野起央 することもある。いずれにしても盤圧現象は、 いて鋭意研究が進められている。〈木下重教〉できず、第二次大戦末期まで、汎アフリカ主義 編著『アフリカ国際関係資料集』 ( 一九七五・有 さい古代ギリシ運動は前進しなかった。 坑道開削の結果一次盤圧の平衡が破られ、新た ハンアテナイア祭 信堂高文社 ) 〔アフリカ・ナショナリズムの発展〕しかし、 な盤圧平衡に移行するまでの過程としておこるアのアテネ ( アテナイ ) の新年祭。パンアテナ この時期には汎アフリカ主義に大きな変化が始 ものである。一次盤圧が変化し空洞の周りに新ィア Panathenaia とは「アテネ女神の大祭 バン・アフリカニズム〔 0 アフリカ主 典」の意味で、アテネ最大の祭典であった。四まっていた。デュポイスとは異なった立場か義 たに生起された盤圧を二次盤圧という。 一次盤圧、二次盤圧に対し坑道に施した支保年目ごとの大パンアテナイア祭と、毎年行われら、ジャマイカ出身のマーカス・ガーベーは一汎アメリカ会議はんーーかいぎ Pan-Ameri- に作用する圧力を現場用語で荷とよび、しばしる小パンアテナイア祭とがあり、いずれもアテ九二〇年代のアメリカで黒人運動を始めた。彼 can Conference 一九世紀末以来、アメリカ は黒人種の優越性、アフリカの文化的優越性を合衆国を中心に西半球における協力や交流を促 ば盤圧と同じ意味に用いられている。たとえ ネの第一月へカトンバイオン月 ( 現在の七、 月にあたる ) の、アテネ女神生誕の日とされて主張し、黒人発展の場としてのアフリカを再建進したり、この地域の問題の解決を図るために ば、支保が損傷するような大きな圧力が支保に 開かれた米州諸国の会議。米州諸国会議 ( また いる第二八日を中心に前後四日以上続いた。アするために「アフリカ帰還運動」を提唱して、 作用している場合に、荷が強いとか、盤圧が大 アフリカ・ナショナリズムを前面に登場させは単に米州会議 ) ともいう。一八八九年アメリ ルコンをはじめとするアテネの高官や、市民、 きいなどというのはその典型的な例である。し た。他方、汎アフリカ主義の主潮流のなかでカの・プレーン国務長官が、中南米諸国との かし荷と先に述べた盤圧とは区別すべきもので若者、少女たちが参加したこの祭りの中心は、 くぎ ある。荷はむしろ、盤圧の作用で形成された免豪華な行列と、羊・牛などの供犠、そして各種も、アフリカ出身の知識人がアフリカ・ナショ通商拡大や紛争の平和的処理法の協議のために ワシントンで最初の会議を開催。米州諸国の協 圧圏内の岩盤の重量や岩盤の変形あるいは流動の競技である。第二七日夜の前夜祭後の夜明けナリズムに目覚めて、合流し始めた。イタリア ゅうわ によって、坑道に押し出してくる圧力を支え、 とともに郊外のアカデモスの森から聖火がもたのエチオピア侵略と英仏の対イタリア宥和政策力、交流の促進を図るため、米州共和国国際事 が、アフリカ人の反欧感情とナショナリズムを務局 ( のちに汎アメリカ連合 Pan ・ American 抑制するために支保に働く荷重と解釈すべきでらされ、パルテノン神殿の浮彫りに描かれたよ Union) が設立され、汎アメリカ主義の活動が かきたてた。その結果ニエレレ、エンクルマ、 うな市民、長老、騎馬隊、奏楽隊などの祭列が ある。したがって、盤圧が大きくても、岩盤が 堅固のときは、支保にかかる荷は小さく坑道維アクロポリスに向けて出発した。そして多数のケニャッタなど後の新興アフリカ各国の傑出し始まった。その後第二回メキシコ市 ( 一九 0 一 ) 、 さ亠こ 持は容易である。これに対して、盤圧が小さく 犠牲獣が神々に捧げられ、その肉はアゴラで市た指導者が生まれる。一九四四年汎アフリカ連第三回リオ・デ・ジャネイロ ( 一九 0 六 ) 、第四回 盟結成、四五年汎アフリカ会議、四七年同会議・フェノス・アイレス ( 一九一 0) 、第五回サンティ ても、岩盤が軟弱なときは、大きな圧力が支保民に分配された。また戦車競走の優勝者には、 の開催を通じて、汎アフリカ主義はアフリカ人アゴ ( 一九一一三 ) 、第六回ハバナ ( 一九一一 0 、第七回モ に作用して坑道維持は難航する。トンネルや坑神聖なオリープ樹から採取された油を詰めた、 つば ンテビデオ ( 一九三三 ) 、第八回リマ ( 一九三 0 、第九 の運動となった。また知識人の運動としてだけ 道の断面を円形あるいはアーチ形にするのは、 アテネ女神の描かれた壺が与えられた。 3 ア テネ ( ポリス ) 〈前沢伸行〉でなく、アフリカの統一と解放を目ざす大衆的回ボゴタ ( 一九四 0 と回を重ね、ボゴタ会議にお 周囲の岩盤の圧力の増大をできるだけ少なく いて米州機構 (O<T) に継承された。この な政治運動として進められる。 し、支保にかかる荷を軽減するためである。ま汎アフリカ主義はんーーしゅぎ Pan-Afri- 、種々の実務的取決めや学術文化交流などの 〔アフリカ統一機構の結成〕第二次大戦後、ア た支柱の枠間を矢木で緊定したり、コンクリー canism アフリカを民族的故国とし、アフリ フリカ各植民地が個別に独立した事情もあっ協定が成立し、西半球における紛争解決や平和 トなどで覆工するのは、弛み域の拡大を防止しカ大陸をアフリカ人の手で統合し独立させよう 岩盤の早期安定を達成するうえにも効果があるという考えや運動。一九世紀末、アメリカ、西て、アフリカ統一という理念はかならずしも実維持についても努力がなされた。とくにモンテ といわれている。最近は坑道の周辺にロックポインド諸島、ヨーロッパにおけるアフリカ系一一現の道を歩み続けたわけではないが、一九五七ビデオ会議ではアメリカが内政干渉権の廃棄を 年ガーナの独立とともに、汎アフリカ主義は大認め、リマ会議では西半球の共同防衛が宣言さ めルトを打設し岩盤の自立構造を高める工法が発グロの運動に始まる。 〔汎アフリカ会議〕一九〇〇年、トリニダード 規模に広まる。五八年独立アフリカ諸国会議、れた。さらに一九三六年と四五年にも、プエノ あ達してきたが、これなどは盤圧現象を理解した ス・アイレスとメキシコのチャプルテ。ヘックで 3 出身のヘンリー・シルベスター・ウィリアムズとくに同年全アフリカ人民会議へと結実し、さ ん合理的な工法といえる。 地下深部を貫くトンネルや深い鉱山の坑内での指導によって汎アフリカ会議が開催され、アらに六三年アフリカ統一機構 (O<D) の結成米州諸国の特別会議が開催された。 しゅ

5. 日本大百科全書 19

はんどぼ 七人制のルール制定は一九三四年で、冬の長 中世後期まで続く。この袋は、中世にはオモ一一ど、くふうを凝らしたものも多い。〈平野裕子〉れ、得点を競う。走る・投げる・跳ぶの三要素 し北ヨーロッパ諸国がこぞって採用、第二次世 がふんだんに取り入れられ、体育教科としての エール、エスカルセルとよばれ、財布や鍵や施 ハンドプレーキ hand brake 手でレバ ーを引いて制動する自動車のプレーキ。足でペ評価が高い一方、競技スポーツとしても、スビ界大戦後、が国際ハンドボール連盟 し物、ナイフ、櫛などを入れていた。今日流行 ード豊かでダイナミックな技術の発達により、に改組され、ドイツ主導から北ヨー のポシェットのルーツともいわれる。また一六 ダルを踏むフット。フレーキとは別に、もう一系 競技者、愛好者の数を増やしている。屋内、屋ロッパ主導となり、さらに東ヨーロッパ諸国が 世紀初期には、婦人たちに香水を入れて持ち歩統のハンドブレーキが備えられている。レバ 一一人制を見限ったことで、世界の流れは七人 くことが流行した。このころからスカートの大を引くと通常ワイヤで後輪に作動する。おもに外どちらでも楽しめるのも大きな特色である。 ゴムボールを平手で壁に打ち当てて得点を争制、それも室内競技全盛と変わった。 駐車用に使いバーキング。フレーキともよぶが、 型化が進み、膨らませたスカートの内部に、バ 一九八七年現在、正式加盟国は九七か ッグの代用を果たすポケットを隠し付けにする坂道発進にも使用するし、ラリーなどでは高度う個人競技もハンドボールとよばれるが、日本 なドライビングテクニックの一環として用いらではほとんど行われていない。アメリカなどで国、その大半が一一人制の歴史をもたぬ「新 方法が行われた。 ハンドボ興」で、七〇年代以降は、ヨーロッパのスポー 〈高島鎮雄〉はこの「ウォール ( アイリッシュ ) 現代の手提げ式のハンドバッグは、一九世紀れることもある。 ツから全世界的なスポーツへと成長、アフリ ール」のほうが盛んで、団体球技のハンドボー のスリムなエンバイア・スタイルから生まれた ハンドへルドコンピュータ handheld 力、アジア、アメリカ各大陸でも、盛んに行わ ・ハンドボール」「オリンピック・ ルは「チーム computer マイクロコンピュータシステムよ レティキュールが原型といえる。エン。ハイア・ れるようになっている。 ハンドボール」などと名づけられている。 スタイルは、ウエストラインが高く、スカート りは小さく、電卓よりは大きいコンピュータの かばん 〔日本のハンドボール〕一九二二年 ( 大正一 〔歴史〕起源は、古代ギリシアで行われていた も細かったので、前記のような「スカート内部こと。鞄などに入れて容易に持ち運べる程度の のポケット」は不可能であったので、ふたたび大きさで、機能的にもこの両者の中間となって「ハルバストム」 harpasturm といわれる。羽一 ) 八月、日本体育学会夏季講習会で、東京高 けんろう 根を詰めた皮袋を大ぜいの人が決められた場所等師範学校教授の大谷武一が紹介したのが、日 バッグへの関心が高まった。堅牢なデザインの いる。電卓に近いものはポケットコンピュータ へ投げ込む競技で、中世にフランスで盛んとな本での最初の種まきといわれる。大谷はヨーロ 機能的なバッグが完成したのは一九世紀の末 ( 略してポケコン ) とよばれることもある。 ハ留学中にハンドボールを知り、体育的効果 った「スール」も同様な競技である。 <<T—O 言語で書かれたプログラムをキーポー 期。二〇世紀に入ると、女性の職場進出に伴っ の大きさに注目して導入した。二六年と三六年 近代ハンドボールの発祥については、ドイツ てバッグの需要が増し、いわゆるハンドバッグ ドから入力できるようになっており、入力の確 ( 昭和一一 ) の学校体操教授要目に中等学校や が一九一五年ごろ女子用の球技「トーアバル」 認や計算結果の表示は一行から数行程度の液晶 の大流行が始まった。第二次世界大戦後は肩に 高等小学校の教材として採用され、普及してい Torball を基に考案したといわれてきたが、デ かけるショルダーバッグが支配的傾向をもつよ表示装置に出る。また、マイクロカセットテー ったが、競技スポーツとして関心が高まったの ハリ・コレクションに ンマークが一八九八年からすでに「ハンドボル うになる。一九七五年、 プなどの外部記憶装置に格納されたプログラ ト」 handbold の名で行い、 一九〇六年刊行のは三〇年代の後半である。四〇年東京に予定さ ポシェットが登場、同じころから小型のポストム・ライ。フラリーを利用できたり、プリンター ルール・。フックも現存、同国を「母国」とするれた第一二回オリンピックの実施競技に加わっ ンバッグがタウン用にも台頭してきた。カジュやプロッターなどを接続して簡単な図表やグラ アルなものは男女両用のバッグがあり、近年はフが描けるなど、いろいろの付属機械を利用で考えが最近では強くなっている。しかし一般的たことで急速な伸びをみせ、三七年最初の競技 には依然ドイツをハンドボールの祖国としてお会として東京で第一回関東選手権が開かれ、三 男子のショルダーバッ グが伸びている。ツーウきることが電卓とは異なった特徴となってい 八年二月二日、日本送球協会 ( 現在の財団法人 〈大野義夫〉り、これは、一九一九年カール・シュレンツ ェイバッグ、親子バッグ、折り畳みバッグなる。↓コンピュータ 、、。、レ hand- Karl Schlenz ( ドイツ人 ) が、各国で行われ日本ハンドボール協会の前身 ) が設立された。 ハントホー オリンピック東京大会の返上で、その後の発展 ball 球技の一種。日本でていた類似球技を一つにまとめて「ハンドボー は第二次世界大戦後までは ル競技規則」を制定、二〇年にベルリン体操連は細々としたものになったが、四六年 ( 昭和一一 レ 一 ) 国民体育大会競技に含まれたことから全国 思プ「送球」とよばれた。七人制盟の名で刊行した業績によるものである。 一九二一年、この規則による最初の競技会との活動が盛んとなり、五〇年代後半から国際交 と一一人制があるが、一九 六〇年代に入って、サッカして、ハノーバ ーで第一回ドイツ選手権が開か流も積極化した。七人制の初公開は五三年で、 ポ璢 ーに似た一一人制は衰微、れ、ヨーロッパ各国へ普及、二八年の第九回オ国際的な流れの影響を受け、それまでの一一人 がめ の館たた リンピック・アムステルダム大会時、国際陸上制はしだいに衰退していった。 世界選手権も一一人制は六 る術たれ 七人制世界選手権への参加は、男子が一九六 い美ま六年以来休止され、国内外競技連盟の手によって国際アマチュア・ハンド てテ垳生 一年の第四回、女子が六二年の第二回大会から ポール連盟 (—<Zß) が結成された。 とも現在では、ハンドボー れンデが さコカル である。オリンピックには、男子はミュンヘン ルといえば七人制をさす。 一九三六年の第一一回オリンピック・ベルリ る イ ュ っス タ ( 一九七一 l) 、モントリオール ( 一九七六 ) と連続アジア 日本が一一人制をいっさ ン大会では正式競技として男子の一一人制ハン ・一フ . イ 地域代表となり、モントリオールでは九位、女 い廃止したのは一九六三年ドボールが採用されたが、その後のオリンピッ ( 昭和三八 ) からで、女子クでは実施されず、七二年の第二〇回ミュンへ子はモントリオールに初出場し、五位入賞を遂 のル。、こ げている。八六年現在、日本ハンドボール協会 ン大会で三六年ぶりに復活し、男子の七人制ハ は五七年からすでに七人制 右工工な への登録チーム数は男女あわせて約三二〇〇。 に一本化されていた。 ンドボールが行われ、七六年の第二一回モント 世モ期型 七人制ハンドボールは、 リオール大会からは女子の七人制も加わり、定その七〇 % が高等学校チームである。 グ 2 オ初原 ツリる紀の 〔競技法と施設・用具 ( 七人制 ) 〕一チームの コート内で一つのポールを着した。 ンれ世グ ドアわッ 競技規則に従って奪い合 世界選手権は男女とも四年に一度行われ、ヨ編成は一二人。七人の選手 ( フォワード三人、 ン 、左い右 . / ーフバック一人、フルバック二人、ゴールキ い、相手側ゴールに投げ入 ーロッパ勢が上位を独占し続けている。 を「〔い「 , ) をリ煢第 カぎ 337

6. 日本大百科全書 19

かくしゆっ り返したのち、粘っこい透明な痰を喀出して した場合に警察官の出動を早急に要請するためる。これを俗にお百度を踏むという。回数を間 銘政権の成立、イギリスの援蒋ルートであるビ 一回の発作が終わる。普通二 ~ 三分間である ルマ・ルートと香港境界の封鎖、蒋介石政権の に使用される警察通報用電話番号。一九四八年違えないように数取りがある。素朴なもので 対日妥協と中共、解放区への攻撃、日本軍の解 ( 昭和二三 ) 一〇月一日から東京、大阪の二都市は、小石や小枝を百ほど用意して拝む度に一つが、発作中は顔が赤くなり、舌を出して咳を 放区に対する締め付け強化など、国内外の厳しで初めて運用が開始された。大部分の地域におずつ置いてくる。また神前に竹べらが用意されし、涙や鼻汁も出る。夜中に発作がおこると、 おうと いては、一一〇番にダイヤルすると自動的に警ていたり、お百度石の壁面にそろばんの形のも上半身を起こして前かがみになり苦しむ。嘔吐 い情勢があった。さらに、日本軍が西安に侵攻 のが備えてあったりする。願いを神仏に聞き届したり、ときには唇が紫色になる ( チアノー し、延安と西南地区が分断されるのではと判断察本部の通信指令室にある一一〇番受付台につ したことも、あえてこのような大作戦に出た要ながるようになっている。また、銀行等には、 けてもらうために何日間もお参りするという行ゼ ) ほか、乳児では内に引くことがなく、呼吸 因の一つであった。作戦は確かに日本軍に大き 強盗事件などが発生した場合に備えて、ボタン為が、神前とお百度石の往復に集約されたわけ停止やけいれんをおこして重篤となることもあ な打撃を与え、中国の抗戦意識を大いに鼓舞しを押すと自動的に一一〇番受付台に通報されるである。しかし、人々の切実な願いが背景にある。しかし、前述のように発作と発作の間は、 普段の健康時と変わらない。 た。しかし他方で、八路軍側の戦死傷者数が一一非常通報装置が設置されている。一一〇番へのるために、人の目に触れては願いが成就しない などという伝えが広まっていった。〈佐々木勝〉 この発作は、精神的な興奮や食物摂取などを 万二〇〇〇人と日本軍側のそれを上回ったこと通報は、一般の加入電話からは自由にできる。 きっかけとしておこりやすく、一日に一〇回か に示されるように、情勢判断、作戦指導などのしかし、赤電話、ピンク電話では、電話の管理百日咳ひやくにちぜき pertussis, whooping 面で少なからぬ問題を残した。日本軍は、この者に告げて切替鍵を回してもらってからダイヤ cough 百日咳菌による気道 ( 気管・気管支 ) ら数十回に及ぶ。ことに就眠後一 ~ 二時間に頻 戦闘を契機に、中共・八路軍対策に本格的に取ルするのでなければ、通報できない。 この切替の急性伝染病で、届出伝染病の一つ。患者の咳発するので、睡眠不足や食欲減退を招き、体力 ひまっ を消耗するはか、はればったい顔つき ( 百日咳 り組むようになる。一九四一年に始まる傀儡華鍵を使わないと、料金を入れてダイヤルしても、 を浴びることによって感染 ( 飛沫感染 ) する。 ル , れば・つ 伝染力が強く、免疫がなければほとんど一〇〇顔貌 ) となる。なお、咳の発作の激しいのは痙 北政務委員会の「治安強化運動」や北支那方面警察官の声は聞こえるが、通報者の声は警察官 軍の「晋察冀辺区粛正作戦」などは、その具体 に通じない。また、青電話、黄電話で前面に緊 % 発症する。患者の過半数は三歳末満の乳幼児咳期の初めの二 ~ 三週間で、あとは激しさも回 的な現れである。 〈安井三吉〉急通報用ボタン ( 赤ボタン ) があるものでは、ボで、死亡例は一歳未満に集中する。百日咳の特数もしだいに減少してくる。 ③回復期痙咳期に続く二 ~ 三週間で、ときに タンを押してからダイヤルし、青電話で緊急通徴は、痙咳とよばれる爆発的で断続するけいれ びやくだん油びやくだんゅ「白檀油〕 sandalwood 0 = ビヤクダン科ビヤクダンの報装置 ( 緊急用ダイヤル ) がついているものでん性の咳 ( スタッカート staccato) と、その軽い発作がみられることもあるが、しだいに普 幹や根の水蒸気蒸留によって収油率五 ~ 六 % では、当該装置の「一一〇」を回し、その他の公 終了時にみられる激しい吸気性笛声 ( フープ通の咳に戻り、回復してくる。 なお、各期の移行期は明確でなく、症状も患 得られる特有の甘味のある芳香を有する精油。衆電話では、一〇円硬貨を入れてダイヤルすれ whoop) およびこれらの反復 ( レプリーゼ re ・ 〈佐藤栄治〉 ビヤクダンは古くから知られた香木で、東インば、通報することができる。 priese) からなる発作と、この発作時以外は一兀者の年齢や免疫の有無などによって異なる。 〔治療〕カタル期の初期にエリスロマイシンな ド産ビヤクダンはインド南西部カルナータカ州百度参りひやくどまいり神仏に祈願するた気で健康時と変わらないことである。 さんけい ド ) ゅパは、つ が主産地である。インドでは国有であって年間 なお、百日咳菌と類縁のバラ百日咳菌によるどの抗生物質を用いて排菌を抑制するが、痙咳 めの呪法の一種。ある特定の社寺に百度参詣し ハラ百日咳は、百日咳よりも軽症で経過が短く 期の症状寛解には効果を期待できない。 約二〇〇〇トンを産出し、その一〇 % は材としてて祈願すること。祈願の形式はその心情が痛切 し、痙咳期における肺炎など二次感染による合 用いられるが、大部分はびやくだん油製造原料なほど複雑化する。一度の参拝では満足できず発症頻度も少ないが、臨床的には区別しがたく 併症の予防や、感冒様症状を呈した接触感染者 にあてられている。その成分はおよび日ーサ に、百度、千度と参詣するようになる。こうし一括して百日咳症候群とよぶこともある。 ンタレン ( 一〇 % ) 、および日ーサンタロール た形式を簡便にしたのがお百度石である。これ〔症状〕潜伏期は通常一 ~ 二週間で、病期は普の発症予防には役だっ。また、痙咳期重症乳児 ふくじん の救命処置として副腎皮質ホルモンが用いら ( 九〇 % ) である。せつけん香料、化粧品香料、は社寺の境内の、拝殿から一定の距離にある石通、カタル期、痙咳期、回復期に大別される。 れ、毒素中和による症状軽減を目的として免疫 薫香、医薬に用いられる。 〈佐藤菊正〉で、一度拝んでからこの石の所に戻ってふたた ①カタル期病初の一 ~ 二週間で、痰の出ない 一一〇番ひやくとおばん事件や事故が発生び拝みに行く。この行為を百回繰り返すのであ咳、鼻汁、かれ声などを主症状とする普通感冒グロプリン製剤も使われる。 に似た型で始まるが、鎮咳剤を与 一方、一般療法は軽視されがちであるが、看 1 ー《 1 画 1 よ 1 ー 11 ーワ 0 、 .0 ワ」 -0 -0- 1 人 00 「 / ワ】ワ「ー -0 0 ワ -0- 0- ワ」 -0 -0 -0 11 -0- 11 -0- 1 人 1 画 1 人 11 11 1 人 1 人《 0 -0 ワ -0- 1 人 1 人 -0 ・ -0- -0 -0 1 人 -0 一 -0 0- 1 人 1 人 -0 11 -0- -0- 11 1 人ワ 0 -0 11 -0 ・ 1 人 1 人・ 0 -0- 0 11 -0 -0 1 人 11 11 1 人 11 11 、ー - 11 1 人 在号 えても咳が軽くならない。普通感護上きわめて重要である。すなわち、水分やバ 現番 冒なら回復に向かうころになってランスのとれた食事を無理なく少量ずつ頻回に 通 も咳が強く間欠的な偏りをみせ、与え、咳を誘発させるような刺激、たとえば冷 ロ とくに夜間の就眠中に多くなる傾気、たばこの煙、乾燥食品で枌末になりやすい イス 、不レ 向がみられる。 もの、咳に対する不安感などを除去する。 号 レ ン ムム ヤノーテ 番 クス一 ルダル ジアゴシ 痙咳期いわゆる発作期で、カ 〔免疫〕一度かかれば終生免疫となる。母体か ルオ セルホンドプキワト一 デタ ア 報 タル期に続く二 ~ 六週間をさす。ら免疫を受けないので新生児にも感染する。 リトン ョゼ ッテクリ一ン一 ンヤスハンワべ一 ルクデスイコ 一カコ マネュスツルリ 一ネロシシベンボクンニル 通の名一ゴントンド 〔予防〕患児からの伝染力は発病初期に強く、 前述の百日咳に特有な咳の発作が 一テリムト 市ュカサンロン べ ドイユスルルダベススャドウ京ュャンオエンキ 都ニシロモトロ ロアプアス西マウジオへワプコリモキシソ北ニジバ プサメ現れる。すなわち、息を吸う間も発病後八週間くらいは感染させる可能性がある 関都 なく小さな激しい咳が十数回も続ので、患児は家庭内で通常隔離し、とくに乳幼 機な ア ン ン ヂ ) 察も ア ア 発し、そのあとヒューツと特異な児を近づけないようにする。なお、学校保健法 警 シ デ チ 一ンド一クル お による第一一類学校伝染病であり、特有の咳が消 、不 コ笛声を出して息を吸う。俗に「内 ススアア一ダ一ツント 一ガト ルン ン ダ トス シギンエイイススウンラガマ ドドジゼシ へ弓く」というのがこれである。失するまで出席停止の扱いを受ける。 や睹界名刈 ナギラタリルラウドベ一イルイ一ンンル連一国国ンンイラルリキ カイフィギベオス西スオスノフポハデポソオ韓中イイタブアチメ このような咳を数回から十数回繰〔予防接種〕一九八一年 ( 昭和五六 ) 以来「沈川 ひⅱ世国ア めい しよう かぎ たん

7. 日本大百科全書 19

はんみよ 一般 7.26kg 以上 むッチハンミョウやマメハンミョ ハンムラビ法典 ほうてみ レ ウの類をさすものと考えられる。 法典 年 ウ ア ) 小説家。 ハンミョウ科 CicindeIidae は世半村良はんむらりよう ( 一九三三ー ソ きょの ジ コ求・「 / っ 0 ワ」「ー迩 - 11 11 っ / 界各地に広く分布し、およそ二五東京生まれ。本名清野平太郎。一九五二年 ( 昭 会ア 大 ーテンダーな 〇〇種が知られ、熱帯・亜熱帯域和二七 ) 両国高校卒業。工員、 ー ! ↓ / ・ア来 ど多彩な職業を遍歴し、六三年『収穫』で第二 すに多いが北地にもおり、日本でも アク 示 を二三種前後が知られている。一般回『マガジン』コンテスト入選。長編『石 むすびのやま ガ山 ) 加 置 (X) ノ事 / に中形の甲虫で、オサムシ科に近の血脈』 ( 一九七 l) で注目され、七三年『産霊山 位 ンク幻連連 界 きようか のげ メフ . メ . レ . 世 秘録』 ( 一九七一 I) で第一回泉鏡花賞を受賞。独自 ・ソ図縁で、ときにはその亜科とされる 年遂 ア と一 ( / ソぼ一チドクフ 手兀し が、鋭くて大きい大あご、突出し な手法で新たな伝奇時代小説の世界を開く。七 選成手名ンマノ一キル晒ノフは とうじゅん 幗アレポリッダムチピイ字 数た目、幅広い頭楯、細く長い脚五年市井の人情を描いた「雨やどり』 ( 一九七四 ) ノボン一イトデ 重し覇な名イエ 伏勝連も手ラチクコジボリサリセ などが特徴的である。多くの種類で第七二回直木賞を受賞。ほかに『黄金伝説』 ようせい 室優 5 お選①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩注 は金属色を帯び、ハンミョウ属や ( 一九七三 ) 、『不可触領域』 ( 一九七四 ) 、『妖星伝』 ( 一九 七三 ~ 近縁の属では背面が鈍い青銅様の ) 、『どぶどろ』 ( 一九七七 ) など著書多数が 〈山田俊治〉 光沢を示すものが多い。体下面なある。 めーれ、 0 ) っ どに白い鱗毛をもつものも多い 回『石の血脈』「産霊山秘録』 ( 角川文庫 ) ▽ 大部分は地表性で河原、海浜、山 『妖星伝』 ( 講談社文庫 ) ▽『どぶどろ』 ( 新 道などによくみられ、よく飛ぶも 潮文庫 ) のが多いが、南方には後ろばねが ハンメル図去ーーずほうドイツの地理学 退化して飛べないハネナシハンミ者ハンメル E. Hammer が考案した四種の地 ョウのような類もあり、クビナガ図投影の総称。通常は一八九二年にエイトフ図 ハンミョウのように葉上にみら法の紹介記事で、その応用例としたものをさ れ、幼虫が樹枝に穴をつくる類もす。横軸正積方位図法をェイトフ変換で変形し たもので、ハンメルーエイトフ図法ともいう。 ある。成虫・幼虫とも肉食でほか ル又設 の虫を捕食し、幼虫は穴に隠れてこの変換は横軸半球図の横方向だけを二倍引き の 獲物を待つ。日本産にはニワハン伸ばして全球図に直す方法である。ヒンクス マ 場 ミョウ、カワラハンミョウ、ヒメ A. R. Hinks がその著『地図投影』ミ、き・ 競 ノンミョウ、コハンミョウなどが jections ( 一九一 = 初版 ) で、エイトフ図法と書いた あり、本州中部地方以北産のマガタマハンミョ ことから、英語圏ではそのようによばれてき ・二一五となっている。 ハンミョウ〔斑螫・斑猫〕 C ミこぶ 〈中根猛彦〉オ こ。はかの三種は、①一八八七年発表のほば正 非常に危険なためサークルの周りには金網の、をぎ昆虫綱甲虫目ハンミョウ科に属するウは後ろばねが退化して飛べない えんすい っしまやく 囲いをすることが義務づけられる。計測は、ハ 昆虫。本州、四国、九州、対馬、屋久島に分布万民法ばんみんはう ius gentium 冖テ古積の外射図法と②正積円錐図法の特例、③一九 し、よく似たシナハンミョウは中国、朝鮮半島代ローマの、ローマ市民と外国人、あるいは外一〇年発表の任意の点から一定点への方向と距 ンマーの頭部の落下によってできた印跡のサー りゅうきゅう に、オキナワハンミョウは琉球諸島に分布す国人同士の間に適用された法律。ュス・ゲンテ離が正しくなる正距逆方位図法である。↓ェイ クルにもっとも近い地占 ~ から、サークルの中心 トフ図法 〈金澤敬〉 イウムともいわれる。ローマ市民法は、古代の をつなぐ線上で、サークルの円周の内側までをる。体長二〇ミリほどの甲虫で、日本産ハンミョ ウ類ではもっとも美しく、頭は金緑色、前胸は属人主義の原則に従ってローマ人にしか適用さ 計る。無効試技と判定されるのは、①投げたハ ハンメルフェスト Hammerfest ノル ンマーが地上に落下する前に競技者がサークル金赤色で、前後が金緑色に光り、上ばねは黒紫れなかったが、外国人との商業その他の関係がウェー北端に近いクバレイ Kvaløy 島の西岸 にある町。北緯七〇度四〇分に位置し、ヨーロ から出た場合、あるいは落下後でもサークルの色で赤銅色の横帯と白色の横紋がある。成虫は盛んになり、外国人とローマ市民間、または外 ノ最」の町。人口七四四八 ( 一久一 ) 。三〇〇 半円より前から外へ出た場合、②ハンマーがサ春から秋までみられ、日当りのよい砂地や道路国人間の関係を律する規範が必要となり、それ ークルの円心から前方の左右四〇度の角度の延に多く、大きく鋭い大あごでハエなどの虫を捕がしだいにローマの法廷で使われるようになっ年の歴史をもっ貿易の中心地であるが、第二次 長ラインの外側に落ちた場合である。ターンは食し、人が歩くと先へ先へと飛んでは止まるのて、万民法とよばれるようになったものと考え世界大戦中ドイツ軍に占領され、撤退の際完全 通常三回転ないし四回転ターン。八人以上の競でミチシルべ、ミチオシ工ともよばれる。幼虫られる。紀元前二四二年ごろ、右の関係間に争に破壊された。いまは近代的な教会や住宅が整 技者が参加した場合は、各三回の投擲が許されは地面に縦穴を掘って隠れ、平たくて大きな頭われる裁判を担当するプラエトル ( 法務官 ) が然と建ち並び、周囲の地形と調和した美しい景 たのち、ベスト八 ( 第八位と同記録の者を含む ) で穴をふさぎ、通りかかるほかの虫に食いっき、新たに選挙されるようになったことは、同じ発観をみせている。漁業基地として、魚や肝油の にさらに三回が許され、計六回のうちのベスト穴に引き込んで食べる。幼虫の巣穴にニラの葉展の表れである。ュス・ゲンテイウムはほか取引が行われる。クバレイ島には毎夏七家族の に、普遍的規範という意味で「自然法」と同義ラッブ人が四〇〇〇頭のトナカイを連れてテン 記録で順位を決める。同記録の場合は次の記録を差し込むと、幼虫が葉に食いついてくるので に用いられ、また国際法の意味を表すこともあトを張る。五月一七日から七月二八日まで「真 を比べ合う。男子のみの種目で、高校生用は重ニラムシの名もある。なお「ハンミョウには毒 〈弓削達〉夜中の太陽」 ( 白夜 ) がみられる。〈竹内清文〉 さ五・四四三キ。以上となっている。〈加藤博夫〉がある」という言い伝えは、カンタリジンを含る。 重 1 . 1 75 ~ 1 . 2 1 5 m 40 度 560 有効区域 サークル 2 . 135 世界記録の伸び ( 単位 : m) 9 8 7 6 ⑤ ④ 一三ロ 一三ロ 1913 1952 1956 1965 1968 1969 1975 1978 1983 1986 6 ② あし ほうてん 0 ハムラビ

8. 日本大百科全書 19

はるすて パルス通信 / 変調方式の種類 略称英語名 名称 バルス振幅変調 PAM pulse amplitude modulation バルス幅変調 アナログ PWM pulse width modulation バルス変調バルス位置変調 PPM pulse position modulation バルス周波数変調 PFM pulse frequency modulation バルス数変調 テ、イジタ丿レ PNM pulse number modulation バルス変調バルス符号変調 PCM pulse code modulation どがある。 ミッタ回路 ( 振幅制限器 ) 、上下限を限定する スライサ回路、下限を限定するクリッパ回路な バルスは、コンデンサーと抵抗との組合せに よる微分回路、あるいはインダクタンスと抵抗どがある。また、パルス信号のレベルを整える との組合せによる積分回路で変換できる。前者クランバ回路、振幅の大きさを弁別したり比較 はステップ電圧を鋭いインパルスに、後者はなする回路、ある時間幅のみ。ハルス信号を取り扱 だらかな波形に変える。これらの場合、能動素えるようにする時間選択回路などがある。アナ ログ信号をディジタル信号に変換する / コ 子によるスイッチを利用して信号増幅を兼ねる ことが多い。発生したバルスを時間的に遅らせンバーターを、。ハルス回路に含める場合もあ 路 回 る。 〈岩田倫典〉 るにはパルス遅延回路が用いられるが、これに タ はある種の低域フィルターを用いたものと、同 バルスジェットエンジン pulsejet en ・ gine ダクトエンジン duct engine の一種形 軸ケープルを用いた分布定数型回路がある。 作 いで、一本の導管 ( ダクト ) とその前端の空気取 パルスを形成する回路を波形操作回路と サ 形 入れロ、その後側に自動的に開閉する逆止弁路 う。これには、信号の電圧の上限を限定するリ 皮ド ( シャッター弁 ) よりなる簡単な構造のエンジ回デ ン ロ ンである。空気はまず取入れ口からエンジンに に。、イ ドノタ 入り、シャッター弁を開いて燃焼室に導かれ、回 ノ / / 路 路 ここで燃料と混ぜ合わされて爆発的に燃焼しダス 回 回 波 分 分 カ イ俺カ クトを通って排出され、その反動が推力とな 積 タ LLJ る。燃焼室内の圧力はガスの排出によって下が つうしん pulse communi ・ り、新しい空気がシャッター弁を開いて燃焼室応じて繰り返される。第二次世界大戦中ドイツ バルス通信 cation 方形パルス列を搬送波として用いる通 内に取り込まれ、燃料と混ぜ合わされ爆発す軍が有翼爆弾に使用して有名となった。マ ハ〇・五程度の速度までしか使用できす、騒信方式。パルスによって情報を伝達する方法 る、といったプロセスがダクトの固有振動数に は、パルスのバラメーター ( パルスの振幅、時 音が大きいのと燃料消費量が 多いという欠点があり、構造 間的位置、繰返し周波数など ) を入力信号に従 。パルス通信で が簡単で値段が安いという特って変化させることにより行う は原信号である連続的信号 ( アナログ入力信 長はあるものの、今後実用に なることはまずない、と考え号 ) を一定周期で瞬時の振幅値を取り出し ( 標 られている。 〈落合一夫〉本化 ) 、得られたとびとびの振幅値 ( 標本値 ) バールスタイン Philip をパルスに変調して伝送する方法がとられてお ) アり、これをパルス変調といっている。 Pearlstein ( 一九一一四ー メリカの画家。ピッンバーグ パルス変調には大別するとアナログパルス変 に生まれ、ニューヨーク大学調とディジタルバルス変調がある。アナログ。ハ などで学んだ。裸婦を人工光ルス変調は標本値に従ってパルス波形のパラメ ーターを連続的に ( アナログ的に ) 変化させる 線の下で描くのを得意とし、 一九七〇年前後に台頭した変調方式である。ディジタルバルス変調は標本 ーアーズム」 ( 別 値をパルスの数や二進パルス符号として表現す 〈坪井了〉 名フォト・リアリズム ) の代る変調方式である。 表的画家とされる。しかし、 ハルス一アッド William Stwea 「 ( Halsted ー一九二 ) アメリカの外科医。ヘルニア、 この傾向に属する他の画家と ( 一会一一 にゆうがんこうじようせん は異なって、写真の影響は少乳癌、甲状腺など多方面にわたる新しい手術 法を開発した。ニューヨークに生まれる。ニュ ト進ない。女性の裸像を独得のト ーヨーク医学校を卒業して、のちヨーロッパに リミング ( 切り取り ) の効果 o 然 むしろホッパーらの流れをくの指導を受ける。帰国して、ニューヨークの むアメリカン・リアリズムの 二、三の病院の外科を担当、この間コカインの 系譜に属する画家と考えられ注射の麻酔作用を発見、自家実験を行って、一 よ、つ 〈石崎浩一郎〉時中毒症になったこともある。九〇年、新設さ 概要 バルスの振幅を変化させる バルスの幅 ( 振幅は一定 ) を変化させる バルスの時間的位置を変化させる バルスの繰返し周波数を変化させる 信号の大小をバルス数に変換する 信号の大小を符号に変換する 各種のパルス変調方式 アナログ 入力信号 9.7 ( 変調波 ) 14.3 12.0 4.2 時間 古田 41 0 ) 12.0 14.3 PAM 3.0 アナログ バルス変調 波長ト 9. 戸 14.3 爿物 2.0 爿ト当 PPM トー 9. 戸ト 14.3 当トーー 12. い f—+ バルス数 : 9 テ、イジタ丿レ バルス変調 抵抗 1 1 1 0 01 1 0 1 1 00 0100 0011 抵抗 負荷 カ 入 カ 出 カ 出 カ 入 「スー 出力波形 入力波形 抵抗 負荷 1 入力波形出力波形 コンテ、 ンサー 抵抗 カ 出 出力入力 スライサ回路 抵抗 抵抗 カ 出 ロ」 一ヒ 165

9. 日本大百科全書 19

一八五一年には銀行、ディスコント・ゲゼルシ 帆船はんせん sailing ship 風力を利用 6 ほまえせんほ かぶねはんそうせん っ法』 ( 一 0 〈 = ) はその方法を詳論したものである。 〈末川清〉 して帆で走る船。帆前船、帆掛け船、帆走船と ヤフトを創設した。↓三月革命 たとえば「蒙莫紅反」において、「莫」の 7 もい , っ 「マ」と「紅」の「ウ」とを取り出して結合さ バンセラ Charles Panzéra ( 天九六ー 〔法律による定義〕帆船の法律上の定義は、法 七六 ) フランスのバリトン歌手。ジュネープ生 ませるが、その際、子音を表す「マ」を、下字の 律の目的に応じて規定されており、それそれに ハリ音楽院に学び、一九一九年にデビュ 音「コウ」の捨てたほうの仮名「コ」と五十音まれ。 内容には微妙な差違がある。すなわち船舶法施 当初『ウエルテル』『ペレアスとメリザン 図で同韻となるマ行の「モ」に変換して、帰字 もっ 行細則第一条においては「主トシテ帆ヲ以テ運 ド』などフランス・オ。ヘラで成功したが、のち 「蒙」の音「モウ」を求める方法である。反切 航スル装置ヲ有スル船舶ハ機関ヲ有スルモノト にフォーレをはじめとするフランス歌曲解釈の 上字から単音 ( この例では m ・ ) を導き出すた いえどこれ みな 雖モ之ヲ帆船ト看做ス」と規定されている。 めに、五十音図が巧妙に利用されたものであ第一人者とされるようになり、甘く柔らかな声 つや る。なお、日本で利用された反切の三大典拠は質、艶と張りのある美声による表現は多くの人が、ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般また海上衝突予防法 ( 一九八三年四月五日改 こやおうせんぎよくへんりよう 顧野王撰『玉篇』 ( 梁大同九年〈五四三〉ごろ ) 、を魅了した。晩年は母校の教授として多くの声理論』 ( 一九三六 ) の影響を受けて、アメリカにお正 ) 第三条においては「この法律において『帆 りくま・つ 1 ん ずい げんのう 〈美山良夫〉けるケインズ学派の中心的役割を果たした。第船』とは、帆のみを用いて推進する船舶及び機 陸法言等撰『切韻』 ( 隋仁寿元年〈六 0 一〉 ) 、玄応楽家を育成した。 二次世界大戦前は、先進資本主義国における不関のほか帆を用いて推進する船舶であって帆の 撰『一切経音義』 ( 唐貞観九年〈六三五〉 ~ 龍朔三 ハンセン Peter Andreas Hansen ( 一七九五 〈沼本克明〉 ー天七四 ) デンマークの天文学者。月運行表の況を長期停滞論として説明づけ、民間部門と公みを用いて推進しているものをいう」と規定さ 年〈六六三〉の間 ) と考えられる。 共部門からなるいわゆる二重経済の必要性を強れている。 回明覚著『反音作法』 ( 『国語学大系第四巻』作成者。少年のころは時計修理工であったが、 〔歴史〕〔帆の発生〕人間が船を帆によって推 八二一年コペンハーゲンのアルトン天文台で調し、ニューディール政策の理論的基礎を与え 所収・一九三六・厚生閣 ) ▽小西甚一著『文鏡一 秘府論考研究篇上』 ( 一九哭・大八洲出版 ) 計算助手をつとめ、天体力学を修めた。一般摂た。戦後は、ケインズ政策の有効性が広く受け進するようになったのはいつごろからであるか ということは確実にはいえない。しかし船が風 ▽馬渕和夫著『日本韻学史の研究』全三巻動論において独自の解析を行い、それを月や惑入れられるようになったことから、教育施設な どへの公共投資による福祉国家への道が課題で下に流されるという事実の認識から、最初は幅 星の運動に適用した。二五年新設のゼーベルク ~ 六五・日本学術振興会 ) がせん 半切はんせつ唐紙や画牋紙などの中国産天文台長に迎えられ、五七年には彼のために新あると考えた。ケインズ理論の普及に努めるとの広い植物の葉などを広げ、これに風を受けて の紙 ( 全紙 ) を縦に半分に切ったもの。またそれ天文台が建設された。月の運動理論に関する著ともに、サミュエルソンやトービンなど後のノ風下に船を進めるという着想は、当然船が世に ー・ヘル経済学賞受賞者をも育てた。『財政政策現れてまもなくあったものと思われる。少なく に書かれた書画のこともいう。半切を軸物に仕書も著し、五七年には月運行表を作成した。こ いかだ じようふく とも船の前に使われた筏も帆をつけて走ったこ と景気循環』 Fiscal Po = 0 ) ミ d き s CY- の表はただちにイギリス航海暦に採用され、以 立てたものは条幅という。↓条幅〈町田誠之〉 しん 〈中村達也〉とは証明されている。中国では、紀元前二〇〇 のらん中国、清代、雲後一九二三年にプラウンの表が公刊されるまで cles ( 一九四 D などの著作がある。 ハンゼーの乱 〇年ごろには帆を使っていたとされている。古 南省におけるイスラム教徒 ( 回族 ) の反乱 ( 天通用した。ハンセンの研究は測地学、光学、確回都留重人訳『財政政策と景気循環』 ( 一九五 0 ・ 日本評論社 ) ▽小原敬士訳『経済政策と完代甲骨文字の一つに「凡」の字があるが、これ 五六 ~ 七三 ) 。 ハンゼー Panthay とはビルマ人が率論など広範囲で、ドイツ、フランスの科学ア 全雇用』 ( 一九四九・好学社 ) ▽大石泰彦訳『ケは形から帆を表し、船首尾線に対して直角方向 雲南回族をよんだ名称で、イギリス人がこれをカデミー、イギリスの王立天文協会より賞を授 そゅう 〈島村福太郎〉 インズ経済学入門』 ( 一九六一・創元社 ) ▽小原に立てた二本のマストの間に面をつくる形の帆 採用した結果、一般化した。一八五四年、楚雄与されている。 敬士・伊東政吉訳『アメリカの経済』 ( 一九が原形であるという。この形の帆はパプア・ニ 府下の銀鉱で漢人と回族との間に争闘事件が起 ハンセン Gerhard Henrik Armauer Han- ューギニアなどで現在も使用されている。材質 五九・東洋経済新報社 ) ー一九一 (l) ノルウェーの細菌学者。 き、事件の波及を恐れた清朝官憲が、五六年、 sen ( 天四一 むしろ こんめい は、記録では前漢 ( 前一一 0 一一 ~ 後八 ) 時代に莚が ベルゲン生まれ。クリスティアニア大学で医学 省都昆明城内で回族を大量に虐殺した結果、日 ハンセン Martin Jens Hansen ( 一九 0 九ー 使われていたとある。これが布に発達して航行 ごろから反漢・反官感情をもっ各地の回族が一を修め、ベルゲンのらい病院長。一八七一年新五五 ) デンマークの作家。シェラン島の農家に は」・つキ ) ばとくしんばせん 用とされるのは紀元後四世紀ごろからで、「帆」 斉に蜂起した。反乱軍は馬徳新、馬先が指導す鮮な摘出らい結節の細胞内に限って微細な桿状生まれ農耕に従う。のち進学し教師になるが、 とぶんしゅう ト説『いまや彼は断念する』 ( 一九三五 ) で、一九の字で表されるようになった。その読みはいず る東部と、杜文秀が率いる西部の二勢力に統体の存在をみつけて桿菌と判断、のちに染色法 合された。前者は中途で清朝に帰順したが、後を用いて桿菌を確認し、七四年発表したが、ウ三〇年代の農業危機を扱って注目を浴びる。童れにしても fan であったことから帆船という だいり ことばが生まれた。莚帆から布帆に至る段階に 者は大理を拠点に、諸少数民族をも包含して清サギの感染試験には成功しなかったと報告して話風の『ナタンの旅』 ( 一九四一 ) 、『幸福なクリス 、まら あじろば トファー』 ( 一九四五 ) で地歩を確立。短編集ュ美おいて、網代帆が使われた。これは薄く削った いる。のちの研究者はハンセンの研究を承認 朝打倒を叫んだ。しかし七二年大理が陥落し杜 ゃぶ しゃ - 一 文秀は自殺して、翌年には鎮圧された。↓回民し、彼をらい菌発見者とした。ハンセン病は彼の藪』『鷓鴣』のあとは評論活動や文化史研究竹を斜めに編んで帆としたものである。場合に よってはそれを二枚あわせて、その間にササの ↓ハンセン病〈藤野恒三郎〉 〈片岡一忠〉 の名にちなむ。 し没頭し、『煙突の中での思考』 ( 一九四 0 、『レビ 起義 アタン』で思想的・民俗学的な深化を示し、グ葉や莚を挟み込み、扇のように折り畳んで帆柱 ハンセン Alvin Harvey Hansen ( 一会七 ハンゼマン David Hansemann ( 一七九 0 ー ルンドビー、キルケゴールに共鳴して、進化 から帆を下ろすことができるようにしたものも ー一九七五 ) アメリカのケインズ派経済学者。一 天六四 ) ドイツの実業家、政治家。一八二〇、 三〇年代に火災保険会社の創設や鉄道敷設を通九一五年ウイスコンシン大学を卒業、プラウン論、マルクス主義に対決する立場をとる。五〇あった。七世紀以後の遣唐使船などは、長期に わたってこの網代帆を使用していたことが知ら じてライン地方の商工業を振興させ、三八年ア大学講師、ミネソタ大学教授を経て、三七年以年ラジオ小説『嘘つきたち』で成功を収める。 へびおうし ード大学リッタワー行政学院教授。そ最後の大作『蛇と牡牛』 ( 一九五一 l) は北欧文化賛れている。 ーヘン商業会議所会頭に就任。政治的には穏健降ハ おうはんじゅうはん 〔帆の形態〕帆の形は、大別して横帆と縦帆 自由主義を主張し内政改革を立案、三月革命期のかたわら、政府の経済顧問としても業績を残歌で、二〇世紀北欧の代表作の一つに数えられ とに分けられる。マスト ( 帆柱 ) を船首尾線上 し、さらに三八年にはアメリカ経済学会会長をる。『アイスランドへの旅』 ( 一九五四 ) など旅行記 にプロイセン蔵相 ( 一八四八年三 ~ 九月 ) とし もある。 〈山室静〉 に立て、同線と直角になるように張る帆が横帆 て立憲制の導入と封建的特権の廃止に努めた。務めた。当初、景気理論に関心をもっていた ( 一九六一一 かん A. H. ハンセン

10. 日本大百科全書 19

はれむ ッチ net touch ( プレー中に選手の体や衣服 ツ。ハ諸国が世界一を競い合ってきたが、七〇年 2 さが違うが ( 表し ) 、六人制と異なりセンタベて五セット・マッチで、三セット先取したほ 代に入って、男子では南米のプラジル・アルゼ 2 ・ライン、アタック・ライン、サービス・ゾ うが勝ちである。日本では、高校生などの一部のどんな部分でもネットに触れること ) 、ドリ ンチン、中北米ではキューヾ ノ・アメリカ・ベル ーン・ラインは引かれない の試合では三セット・マッチ ( 二セット先取勝プル dribble ( プロッカーと相手コートからの 第一球目のポールを、同一動作内で二度触れた アジアでは中国・韓国、ヨーロッパではイ 〔ネットの高さ〕六人制の場合、一般男子・大ち ) も行われている。 タリア・フランスと、多くの国々が世界のト 学男子は一一四一毳ン、一般女子・大学女子は二 普通、バレーポールの試合中のいろいろなプ場合を除いて、一人の選手が二度続けてポール ・タイムズ over プクラスをねらう実力をつけてきており、世界 に触れること ) 、オー レーは次の順番で行われる。サープ↓サープ・ 岩二四拜一と国際ルールどおり行われているが、 times ( チームは三回以内のバスまたはスパイのバレーポールのリーダーであった日本も苦し 高校・中学については、表のように、日本独特レシープ ( 相手 ) ↓トス ( 相手 ) ↓スパイク い立場にたたされている。〈松平康隆・豊田博〉 の基準を設けている。ネットはどの部分の高さ ( 相手 ) ↓プロッキング↓レシープ↓二段トスクで相手コートにポールを返球しなければなら ないが、それ以上の回数ポールに触れること。回前田豊・松平康隆・豊田博著『図説・バレー も同じになるように水平に張り、そして両方の ↓スパイクで相手側に返球、さらにこれに続い ポール事典』 ( 一九六七・講談社 ) ▽松平康隆・ ただし、プロッカーの最初の接触は含まない ) 、 サイド・ラインの真上の部分に地面 ( 床 ) に垂て相手側のレシープ↓トス↓スパイクの応酬と ホールディング holding ( ポールをつかんだ 豊田博他著『スポーツの科学的指導①バレ いうラリーが展開されるわけである。この門 直に幅五の白い布とアンテナをつける。アン ーポール』 ( 一九六九・不昧堂 ) ▽豊田博著『も に、いろいろなルールがあって、得点やサイ り、抱き込んだりすること ) 、オー テナは、ルールに定めてあるように、ポールを ト over net ( 。フロッキング以外のあらゆる場 っとも新しいバレーポール』 ( 一九七 0 ・日本文 ド・アウト ( サープを打っ権利が相手チームに 相手コートに返す場合、その内側を通して返さ 化出版 ) ▽松平康隆・豊田博他編著『バレ なければならない。九人制のネットの高さは表移ること ) になる。六人制の競技上のいちばん合、ネットの上から手を突き出して相手方コー 、パッシング ーポールのコーチング』 ( 一九七四・大修館書店 ) トにあるポールに触れること ) のとおりである ( 囚川 ) 。 の特徴は、直接得点になる場合と、得点になら やかた ・一フィン passing the center ずサービス権だけを得る場合とがあることであザ・センター 〔障害物の規定〕六人制においては、国際ルー ハレム harem イスラム世界で民家、館、 ルで、コートのサイド・ラインおよびエンド・ る。得点になる場合というのは、サープを打っ line ( プレー中にセンター・ラインを踏み越す宮殿などの家屋において、婦人たちの起居する ーム harim のトルコ語 たチームが相手のコート内にポールを打ち込んこと ) 、ベネトレーション・フォールト pene ・場所。アラビア語ハリ ラインの外側一一以内には審判台以外のいかな tration fault ( サーブのとき、選手がローテー 化されたことばで、本来は「禁ぜられた」「神 る障害物があってもいけない。また、コート面だり、相手選手に失敗 ( 反則 ) をさせたりした ションに従って定められた位置にいなかった聖なる」を意味することばである。「コーラン」 から天井までの高さは最低七、できれば一一一ときだけで、サープを受けたほうのチームが、 無事サープをレシープし、逆に相手コートに打り、ラリー中にバックの選手がアタック・ライの聖句 ( 第二四章 ) のなかに、「貞淑を守れ、 以上が望ましいとされている。 ンよりもネット寄りで、しかもネット上端より外に現れるもののほかは美や飾りを目だたせて 〔ポールの大きさと重さ〕六人制の場合には一ち込んだり、相手選手に失敗させた場合には、 しゅうと 高い位置からポールを相手コートに返球したり はならない。自分の夫、親、舅、息子、幼児 般男女・高校男女とも、いわゆる五号ポールと直接得点にはならず、相手チームからサービス すること ) 。 以外のものに恥部を見せてはならない」と述べ いわれるポールを使用する。ポールの周囲が六権を奪って、得点に結び付くサービング・チー られている。これらの戒めが女性隔離の習慣と ムになる権利を得る。これをサイド・アウトと〔戦型〕六人制バレーポールのチーム編成は、 六 ( プラスマイナス一 ) 、重さは二七〇 、同時に、サービス権を得たチームは、前攻めやすく、また守りを固めるためにス。ハイカなった。宮廷における女性の幽居制の始まり ( プラスマイナス一〇等 ) 、中の気圧が一平方 ーとセッターを上手に組合せるのが普通である。 は、ウマイヤ朝の初代カリフ、ムアーウィャ 当り四〇〇 ~ 四五〇である。九人制では、一列三人、後列三人並んでいるポジションが時計 ハレーポールの戦法は、チームのもっている ( 在位六六一 ~ 六八 0 ) のころといわれている。アッ 般男子と高校男子では六人制同様五号ポールをの針の方向に一こまずつ移動する ( ローテーシ ース朝のカリフや高官のハレムのようすは 使うが、女子と中学男子では、いわゆる四号、ヨン ) 。サープは、そのとき、前列右から後列人材・気質などを考えて決めるべきものであ わぎ り、一九六〇年代までは、カのソ連、技のチェ『千夜一夜物語』に描かれていて名高い 右端の位置にきた選手がかならす打たなければ ト学生は軽量四号ポールという一回り小さい、 コスロパキア、高さと安全第一の東ドイツ、テ ならない。サー。フは一回きりであり、失敗した オスマン帝国の宮廷においてもハレムはつね 軽いポールを使用している。 に存在していた。とくに知られているのは、メ 〔服装〕チームごとに統一された清潔な服装でら相手チームにサービス権が移る。九人制でンボとリズムのプラジルやルーマニア、速さと コンビネーションの日本という、五つの主流がフメト二世がコンスタンティノープル征服 ( 一四 は、サープ権に関係なく得点が与えられ、サー 出場しなければいけない。選手は肌シャツ、パ あった。そしておのおの独特のスタイルを有し五三 ) 後、バヤジト地区に造営した宮殿で、ハレ ンツおよび軽い靴 ( かかとなしのゴムまたは皮プは二回打っことができる。 ムの規則も制定された。帝はその宮殿から一四 試合の管理・運営は、通常二人の審判 ( 主審て、優れた成績をあげてきたが、最近ではおの 革製の軽いもの ) を着用しなければいけない。 と副審 ) と四人のラインズ・マン ( 線審 ) によおのの流れに加えて、総合力と新しい技術を開六五年に新たに建造したトプカプ宮殿に移ると また、試合中に負傷の原因となるおそれのある かんがん き、ハレムの女性三〇〇人と七〇人の宦官をそ かぶりものや、宝石・ピン・腕時計などの金属ってなされる。トラブルが生じた場合には、主発したチームが、国際大会で上位を占めるよう になってきた。タイミングの異なった二種類のこに残した。ハレムを監督するのは宦官たち 製品を身につけてはいけない。さらに選手は、審の判定を最終判定とする。また、試合中に一 背番号、胸番号および主将マークを次のようなつのチームが一セットにつき二回、作戦を立てスパイクをネットに対し前後に組み合わせた縦で、初期にはスラ・フ系の白人宦官長もいたが、 の時間差攻撃、空中を斜めに流れながら打っ移一六世紀後半から廃止に至るまで黒人宦官長が 大きさでつけなければいけない。背番号は字幅直すためのタイムを要求することができる ( 一 回三〇秒以内 ) 。さらにメンバー ・チェンジは動攻撃、ジャンプしてスパイクするように打っ務めた。トプカプ宮殿にハレムが移されたのは 一一垰一以上、高さ一五弩以上。胸番号は字幅一一拜一 ジャンピング・サープや、速攻に対する後衛一五七八年ムラト三世が宮殿の奥に寝室を造営 一セットにつき六回できるが、先発メンバーの 以上、高さ一〇以上。主将マークは横の長さ 選手は一度べンチに退いたあと、ふたたび出場 ( バック ) の前進布陣など、カと速さのバレー させた後といわれている。そこは以後、一八五 、セン、幅二垰一の横棒マーク。 。ゝ一段と要求される時代になってきている。 三年にドルマパフチェ宮殿に移転するまで四〇 〔競技方法とルール〕六人制は、その名のとおするときは、前のポジションに入らなければい 一九六〇年代までは、世界のバレーポール界〇年の間、歴代のスルタンによって次々と増築 り六人ずつの選手がネットを挟んで相対し、ポけない。 なお、ラリー中にしばしばおこるおもな反則 は、男女ともに日本とソ連、そしてチェコスロ されたため、狭い通路、中庭、大小数百の部屋 ールを打ち合って早く一五点先取したチームが ハキア、ポーランド、東ドイツなどの東ヨーロ セットを得ることになる。国際ルールでは、すプレーには次のようなものがある。ネット・タ が雑然と並ぶ迷宮の様相を呈し、その原形はよ